以下は、朝鮮戦争における北朝鮮軍の攻撃により、第24師団が大きな損害を受けて後退するに至った戦闘の一例を、その経過を時系列に沿って記述したものである。
7月9日から12日にかけての車嶺山脈中での第24師団の遅滞戦闘。
7月8日午前、天安の失陥後、第24師団長は、以下の通りの決心を行い、新たな筆記命令を下達した。
「師団は、本道と公州道の沿線で遅滞行動を実施し、錦江南岸の主戦闘陣地に後退する」
「錦江の線は、いかなる犠牲を払っても保持する。抵抗繰り返せば繰り返すほど、敵を最大限に遅滞させることができるのである」
「第34連隊(第3大隊欠)は、公州道に沿って前進する敵を遅滞せよ」
「第21連隊(第2大隊欠)は、鳥致院正面において、敵の前進を阻止せよ。長致院は、清州北側で作戦中の韓国軍の左翼を援護するために、また補給用列車を清州に到着させるために、どうしても確保しておかねばならない。あと4日は増援はない」
「第3工兵大隊主力は、公州道の途絶と、錦江の全橋梁の破壊を準備せよ」
第24師団長の企図は、車嶺山脈によってできる限り多くの時間を稼ぎ、その間に第19連隊を招致して、錦江の線で敵を阻止しようという意図であった。
予定では、第27連隊戦闘団の到着が7月9日頃であり、11から12日頃に第19連隊をこの方面に招致できるという予定であったためである。
7月9日の朝の時点で、第21連隊第1大隊の一部(A、D中隊等の500名)は、全義の東側200メートルの稜線に前進陣地を構築し、第3大隊は、車嶺山脈の主稜部に陣地を構築中であった。
第1大隊残余は、大隊長とともに大田で再編成中であり、10日頃再編成完了の予定であった。
連隊指揮所は鳥致院に設けられていたが、連隊長は、大隊長不在の第1大隊とともにあり、これの指揮を代行していた。
7月9日午後、北朝鮮軍の戦車11輌と、歩兵200〜300名からなる縦隊が、第1大隊の目下の全義の町に進入し、その後方に第4師団主力が後続していた。
米軍は、師団砲兵主力をもってこれを攻撃、また要請により飛来した米空軍機は、全義、平沢間の道路上に停止していた車輌200輌のうち、約100輌を破壊、もしくは炎上せしめた。
この攻撃により、北朝鮮軍第4師団はその前進を阻止された。
7月10日0700頃より、朝霧の中、北朝鮮軍の攻撃が開始された。
北朝鮮軍第4師団の主攻は、本道南側の孤立していた、第1大隊A中隊の1個小隊に向けられ、北朝鮮歩兵は隠密接近して近接突撃をしかけてきたが、第1大隊の重迫小隊の阻止射撃による弾幕によって撃退された。
しかし、大隊の右翼を迂回して本道に進出した北朝鮮軍は、本道上を突破した戦車と協同して重迫小隊の陣地を攻撃し、これを蹂躙した。
0800頃、霧が晴れると、北朝鮮軍の主力による攻撃が行われた。
第21連隊第1大隊の正面から攻撃してきた北朝鮮軍は、砲兵支援の元、歩兵が陣地によって敢闘し、これを撃退するも、左翼正面の阻止弾幕射撃を担当していた重迫小隊が蹂躙されたため、本道南側に孤立していたA中隊所属の1個小隊は重囲に陥った。
1130に空軍機2機の支援を受けるも、1135には危急を報告ご連絡途絶し、1140に全滅した。
これにより、第21連隊第1大隊左翼が解放され、北朝鮮軍は大隊の左側側背に接近してきた。
この北朝鮮軍の突進により、砲列と前進観測将校との間の有線が戦車により切断され、無線も途絶したため、砲兵は歩兵陣地が北朝鮮軍によって占領されたものと誤認し、1132頃より友軍陣地への砲撃を開始した。
第21連隊第1大隊最右翼の小隊は、1125頃より正面と右側と後方の三方より北朝鮮軍の射撃を受け始め、小隊兵士はパニックに陥り逐次陣地を放棄し後退に移り始めた。
1205頃、第21連隊長は、両翼包囲を受けつつある第1大隊の状況から、退却を決心した。
この後退の合図で各兵士は陣地後方の水田のあぜ道を移動し後退を開始した。
この戦闘で、A中隊は兵員181名中57名の損害を受け、D中隊は6名、重迫小隊は14名の死傷者を出し、装備の大半を喪失した。
第21連隊長は、第3大隊の指揮所に後退し、第3大隊長に対し逆襲を命令した。
逆襲の目的は、まだ後退してこない第1大隊残余の兵員の救出と死傷者の収容、装備品の回収であり、攻撃目標は第1大隊陣地であった。
第3大隊は急ぎ逆襲に転じ、本道北側の陣地を回復して兵士10名を救出したものの、本道南側の陣地の奪回には失敗した。
この逆襲にM24軽戦車8両が参加したものの、T34を1輌破壊するも2輌を喪失し、後退した。
この一連の戦闘の間に、第1大隊残余は大隊長の指揮の元に再編成を終了し、後退してきたA、D中隊と鳥致院に集結し、11日朝には鳥致院北側の陣地を占領した。
7月11日0100頃、第3大隊が元の陣地に戻ってくると、北朝鮮軍とゲリラの一部が大隊の陣地に進入していた。
第3大隊k中隊は、0200頃までにこれを撃退し、旧陣地を回復した。
11日未明、北朝鮮軍第4師団と交代した第3師団は、朝霧の中を第3大隊に対して以下の通りに攻撃を開始した。
予め、歩兵陣地と指揮所・砲兵陣地間の有線を切断し、退路遮断部隊を浸透させ、0630頃より霧まぎれて戦車を突入させ、同時に大隊本部と砲兵指揮所を迫撃砲で制圧して通信車と弾薬車輌を破壊し、約1000名の歩兵が第3大隊の両側背より攻撃を行ったのである。
米軍の前進観測将校は、連絡手段の途絶により砲撃を指揮することが出来ず、第3大隊の歩兵は独力で各々の陣地を固守しようとしたが、後方との連絡を遮断されてしまったために弾薬の補給も受けられず、後退することもできず、北朝鮮軍によって蹂躙されることとなった。
11日中に第3大隊は、大隊長以下大隊本部は壊滅し、後方の鳥致院に後退できたのは装備を一切失った約150名のみであった。
この戦闘により、第3大隊は兵員667名中517名を喪失したが、7月15日までに山中に四散していた兵士が逐次合流したため、生存者の合計は322名にまで回復している。
なお、この北朝鮮軍の第4師団が第3師団と交代して全義から公州道に向かったことにより、第34連隊は大きな被害を受けずに後退することに成功している。
第21連隊は、この7月10日と11日の戦闘により、第1、第3の2個大隊がその火器と資材のほとんどを喪失したため、実践力は半個大隊にまで低下した。
第24師団長は、7月11日夜、第3大隊の壊滅の報告を詳知し、第3工兵大隊に対し公州道途絶のための障害の設置と橋梁破壊の準備を急ぐように督促した。
そして、大邸と延日の警備についていた第19連隊戦闘団を錦江河畔招致した。
大隊全力を掌握した第21連隊第1大隊長は、鳥致院北側の陣地を占領していた。
7月12日の払暁、北朝鮮軍は第1大隊陣地に対し山中踏破して隠密接敵し、これを両翼包囲することに成功した。
0930頃、約1個大隊の北朝鮮軍が砲兵射撃に膚接して、第1大隊左翼に対して攻撃を始め、続いて2個連隊約2000名が第1大隊を包囲するように攻撃を開始し始めた。
第1大隊はその陣地で敢闘したものの、1200前後には戦線に破綻の徴候が現れてきた。
この状況に対し、第21連隊長は、以下の通りの報告を師団司令部に対し打電した。
「連隊は包囲されようとしている。第1大隊の左翼は崩れかかっており、右翼方面も危険な状況である。鳥致院と錦江の間には遅滞陣地として利用し得る地形がない。自分は連隊に一挙に錦江の線に後退するように命令した」
連隊の後退は、砲兵の支援を受けて秩序よく行われた。
7月12日1530頃、第1大隊残余は錦江の南岸を占領したが、その兵力は261名であった。
公州道方面では、第34連隊第1大隊が、移転してきた北朝鮮軍第4師団の前進を遅滞していた。
北朝鮮軍第4師団は、6月25日の開戦以来、すでに2週間以上も先駆を務めてきたため、疲労と損害が限界に達し、その衝力が非常に低下していた。
第34連隊第1大隊は、M24軽戦車4輌と、師団工兵大隊D中隊の支援を受け、車嶺峠や公州北側の地形を利用し数次に渡って北朝鮮軍第4師団の尖兵を待ち伏せ、包囲されそうになると後退して遅滞防御を継続していた。
しかし、7月11日午後、公州北側の水村里付近で第4師団に捕捉され、M24軽戦車3輌を喪失し、7月12日午後、錦江南岸に移動し、大田で再編成した第3大隊と合流し、錦江線の守備についた。
なお、車嶺山脈中での遅滞行動に参加したM24軽戦車は全部で8輌であったが、T34を1輌撃破したのみで7輌を喪失している。