【中】J10や87式や98式等の眷属について語る【国】
・・・なんというかこりゃまた珍妙な機体だなあ。
エジプトから入手したMig-23に関する記事「兵工科技」2004年12月号より)
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1970年代半ば、中国はエジプトからMig-23MC、Mig-23BN、Mig-23Uをそれぞれ2機ずつ、および10発のAS-5「ケルト」
(ロシア名KSR-2)空対艦/地ミサイルを獲得。 その後、中国はRP-22レーダー(NTAO名ハイ・ラーク)とR-29-300ターボ
ジェットエンジンのリバースエンジニアリングの努力を行うことになる
RP-22レーダーはロシア、ファザストロン設計局が開発した捜索距離は20〜25km、追跡距離は14〜17km
このレーダーを元に中国で開発されたのが204型航空機搭載レーダーであり、殲-8の初期型に搭載されることになる
これはMig-23MCのレーダーを元に中国独自の改良を加えたもので、全天候型レーダーであり捜索距離は85km、追跡距離
は57kmで中国で初めてルックダウン/ルックシュート能力を持つレーダーとなった
ツマンスキーR-29-300ターボジェットエンジンは410工廠によりリバースエンジニアリングされ渦噴/WP-15ターボジェットエンジ
ンと命名。WP-15は推力8300Kg/AB推力12.500Kgのエンジンで当時の中国で最も新しい戦闘機用エンジンであった。
このエンジンが実用化されることはなかったが、技術的な貴重な蓄積となった
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この記事ではRP-22レーダーとSaphir 23 /ハイ・ラークレーダーが混同されている節がある。
RP-22レーダーはMig-23SとMig21の後期型にも搭載されたレーダーであり、Mig-23Mから搭載されたSaphir 23 /ハイ・ラークレーダー
とは別物である。この記事だと中国で国産化された204型レーダーはその性能から見てSaphir 23がモデルになっていることになる
ただし
>>176の記事のMig-23はRP-22レーダーを搭載したS型であり、204型レーダーについてもRP-22レーダーを基にしたルックシュート
能力を持たないレーダーである等矛盾した情報もあるので信憑性に注意する必要がある
続き
なお上では触れていないが23o連装機銃もエジプトからもたされた技術であり、殲-7V、殲-8U、殲轟-7等に広く採用される
ただなぜかアドバンスアトールやAA-8の技術はもたらされず、中国のBVR-AAM開発は撃墜したF-4から入手したスパローを基に行われる
ことになり、最終的にはイタリアからアスピーデを輸入生産することでようやくBVR-AAMを手に入れることができた
中国はこの技術の見返りとして殲-6、後に殲-7、轟-6、江湖型フリゲートなどの兵器やソ連製兵器の部品をエジプトに供給
最近ではK-8カラコルムが、イタリアのS-211AとチェコのL-139との競争入札に勝利してエジプトの次期中等練習機としてライセンス生産が決
定するなどエジプトの中国製兵器輸入は継続している
この「兵工科技」2004年12月号には、強撃6開発の顛末が掲載されているのでおって紹介したい
強撃6開発の顛末について
参考
「兵工科技」2004年12月号 兵戈「強-6戦闘攻撃機研発始末」
ttp://military.china.com/zh_cn/critical3/27/20050416/12246464.html 強撃-6(以下強6)開発のきっかけとなったのは、1970年代の西沙諸島における南ヴェトナムとの交戦であった。この戦いで中国海
軍航空隊は充分な支援が出来ず、海軍は制空権無しでの戦闘を強いられた。航空隊保有の殲-6/7では支援攻撃能力が低く、強
-5では航続距離が足りない、轟-5/6は低速で前線での使用に難があるなど当時の海軍航空隊保有機の限界が明らかになった
海軍航空隊と空軍はこの紛争の戦訓から、対艦ミサイル搭載可能で、自衛用AAMを搭載し一定の空戦能力を有する、強-5の
2.5倍の作戦行動半径(強-5:1500km)と2〜3倍の爆弾搭載(強-5:2000kg)が可能な「一機両型」機(マルチロールファイター)の開
発を要求した
1976年に提出されたこの計画に対し、瀋陽飛機製造廠、南昌飛機製造廠(現江西洪都航空工業集団)、西安飛機製造廠の3者が
応ずることになった。瀋陽は殲-8Uを改造した殲-8轟案、西安は今の殲轟-7「飛豹」となる案、そして南昌が提出した
のが今回取り上げる強6案であった
殲-8轟は殲-8Uに開発リソースをつぎ込む必要性から早々に脱落し、コンベンションは殲轟-7と強6の一騎打ちとなった
強6の開発主任は強-5を開発し「中国強撃機の父」とよばれる陸孝彭であった。彼のプランは可変翼戦闘機の開発であり、その機体は
殲-6と強-5双方の後継機となりうるものであった。開発の技術的基礎となったのはエジプトから入手したMig-23とヴェトナムから入手し
たF-111に関する情報であった。強6の設計案は1979年2月に提出された
強6の外観はMig-23の胴体にF-16の機首とインテークを移植した様な感じの単発可変翼機である。可変翼機構の開発は
手本となるMig-23があるとはいえ、解決までに8年の歳月を要することになる。この可変翼はF-14のような速度に応じ変化
するものではなく、機動性保持のため機首下にインテークをおくことにより大向角での空気流入量を増やすことにした。空
気流入量増加は搭載エンジンとも密接に関係していた。
強6のエンジンは中国独自開発のターボファンエンジン渦扇/WS-6であった。このエンジンは推力71KN/AB:122KN、改良型
のWS-6GではAB推力138KNとアメリカのF100やロシアのAF-31に匹敵する強力なものであった。ただし当時の中国の技術
水準ではWS-6開発は大きな困難が伴い、このエンジンの不調が強6の運命に影を落とすことになる。
強6で(中国で)はじめて取り入れられた先進技術の1つがFBWである。機体の運動性を向上させすこと、なおかつ80年代に開
発される機体としてFBWの開発搭載は必須のものとされた。南昌で開発されたFBWは殲轟-7「飛豹」にも導入され、Su-27購入
まで中国で唯一FBWを実用化した作戦機となった。
制空・攻撃の任務をこなすため、強6には高度な電子装備が搭載された。そのモデルとなったのはMig-23BNであった。「ハイ・
ラーク」を改良した多モードレーダー、レーザ-照準機、?-6照準機、レーダー警戒装置…etc、これらの装置のおかげで、対地ロ
ケットの命中率は強-5の3倍になり、空対地ミサイルの運用も可能になった。ただしこれらの装置はソ連製機器の模倣改良であ
り西側製機器に比べて重量、容積などで遅れをとっていた。これら機器の開発は、中国が従来のソ連技術の模倣改造から次の
ステップに移行するための貴重な経験となった
強6の開発は80年代を通じて継続された。その性能は最大搭載量4500kg、作戦行動半径900km、強力な対地能力以外の空
戦能力においてもMig-23を上回るものだった
しかし強6開発のネックとなったのはWS-6エンジンと可変翼機構であった。可変翼機構はMig-23のそれと比較すると12%重
く搭載力や航続距離に悪影響を与えた。そして可変翼機構やFBWの技術的熟成にはなお時間を要した
そして中ソ国境におけるソ連群の防空能力強化(S-300/9M38などのSAM配備)は対地攻撃機の生存性に大きな危惧を与え
る要素となった。空軍/海軍航空隊はこの状況下では複座双発機であり、機体改良の余地の高い殲轟-7「飛豹」の方が将来
性があると判断し1980年代末に殲轟-7「飛豹」の採用を決定した。これにより強6の開発は中断することになる
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文革による技術的断絶がもたらした環境のなかで開発された機体は強6で最後となり、それ以後の中国の航空機開発は海外
技術の導入に軸足を移すことになる
当時の中国の技術水準から見て、強6は飛躍しすぎた感があるのは否めない(後発は飛躍しなければ追いつけないというのも
事実だが)殲轟-7「飛豹」を選んだ空軍の判断は正しかったといえよう(その開発も紆余曲折があるのだが)
ただ個人的には、強6には孤島で独自の適応・進化を遂げて現在は絶滅してしまった生物のような奇妙な魅力を感じてしまう
F-16+Mig-23という不思議な計算式の答えである強6が空を飛ぶ姿を見てみたかった気はする
丸ごとコピーできたのはMig21MF→殲-7Vが最後だった様ですね
それも殲-7を生産しているという基礎の上になってのことでしょうから
あと中国は、エジプトからBMP-1も入手して86式歩兵戦車として国産化してます
海外からの技術入手では、125o戦車砲とカセトカ自動装填装置も1980年代に入手していますが
こちらを売却した国としてはルーマニアなどの名が挙がっておりますが詳細は不明のようです