316 :
名無し三等兵:
確かに大宰府のあたりも、住民を守るように邑をとりかこんで城壁ができていたようです。
異民族による奴隷化の危険の少ない、日本中央部には街を囲う必要がなかったのではありませんか。
317 :
名無し三等兵:04/07/22 19:31 ID:MOybsUpp
それより、何で首取りするのか教えてくだされ。
あと、足軽って何?
>>316 ヨーロッパも日本も中国も同様だが、本城の外郭をなす支城が配置されて
地域を防衛していた
ヨーロッパで市街を城壁で囲むことが多いのは、それだけ攻城戦の重要性と
頻度が高かったから
>>319 というよりも城壁をつくると面で防御することになり、
人員、物資補給などの点で非効率な要素が出てくる。
>というよりも城壁をつくると面で防御することになり、
何を指して面というのかよくわからんが、
中世のヨーロッパも日本も線より面の防御が一般的
線の防御を行ってたのは帝政初期のローマくらいか
面の防御で徹底していたのが中国で、ステップ周辺の国境地帯を
一種の焦土地帯とし、慣用的に焦土戦術を行っていた
おかげで攻めるほうも守るほうも酷い目に遭うことになった
ローマですらこの必殺技は一度しか使っていない
>>321 戦術レベルでの面の防御。
>>322 中国でそれが徹底できていたのは、前漢時代。
それ以後は、烽火などの伝達手段が不完全で、
長城などは無用の長物となってしまった。
>>323 戦術レベルでの「面の防御」とはいかなるものなのか具体的な説明を希望します
長城のような城壁を考えなさい。
まず兵員はどのように配置しますか?
>中国でそれが徹底できていたのは、前漢時代。
>それ以後は、烽火などの伝達手段が不完全で、
>長城などは無用の長物となってしまった。
後漢時代にも屯田兵の配置等が行われている
長城は後の王朝によって何度も増改築が行われており、
前漢以降は無用の長物になってしまったとは思えないが
>>325 長城には監視哨が間隔を取って配置されているが、
質問の意図がよくわからないな
つーか、そんなことより戦術レベルの「面の防御」の説明をよろしく
>>326 しかし、烽火などの伝達手段が不完全なため、
単なる時間稼ぎ以上のものでしかなかったそうです。
城壁を維持コストを考えると無用の長物でしょう。
明時代の女真族との戦いをみるとさほど役に立ったといえません。
>>327 そんなに兵員が十分あれば良いのですがね。
機動防御汁
>>328 基本的には烽火で情報伝達。
また兵士は各櫓で居るのが常。
>単なる時間稼ぎ以上のものでしかなかったそうです。
長城は前進陣地的な性格が強く、本来の戦術的意義は
敵情の早期収集と時間の余裕の獲得
長城は基本的に主防衛ラインではない
時間稼ぎが出来れば十分
主防御地域は国境周辺の城市が行う
「行う」ではなく「担う」だったな
あと頼むから早く戦術レベルの「面の防御」の具体的な説明をorz
>>333 いや、伝達手段が不完全ならばあまり意味が無い。
この辺のことは
「万里の長城」講談社新書
にあったはず。
>>336 長城による防衛システムが歴代中国王朝全てで完全に機能していたとは言わんが、
前漢以降で無用の長物となったとは思えない
その本では「無用の長物」と書かれているのかな?
それでは後の時代になっても増改築が繰り返されたことの理由が説明できないと思うのだが
>>333 >敵情の早期収集と時間の余裕の獲得
それが主な目的になったのは、後の時代になってから。
>>325は質問に質問で返してるだけだ
そもそも長城の防御配置と面の防御と関連性があるとは思えない
長城の防御要領はいわば「線の防御」だ
縦深のある「面の防御」ではない
>>338 厳密に言うと長城は必ずしも必要ではないという感じかな?
増改築が繰り返されたことはやはりもとあるのを利用しただけでは?
本格的に利用するなら、前漢時代のように伝達手段をまずは整備するはず。
>>340 ではお前のいう「面の防御」はどのような定義だ?
>>342 戦略レベルの面の防御については上のほうで述べた
戦術レベルでの面の防御を言い出したのは君だ
説明責任は君にある
質問に質問で返す癖はなおしたほうがいい
>>341 >厳密に言うと長城は必ずしも必要ではないという感じかな?
遊牧系騎兵に対抗するためには必要と中国の歴代為政者は認識していたと思う
その証拠に長城は延長され補修され改修されている
(´-`)。o0(日本の戦国時代なんだけどなぁ…)
前漢時代の長城防御は、警報装置としての小規模な烽火砦で敵の警戒部隊や
斥候を早期に排除し、大規模な部隊相手には烽火を上げ籠城して援軍を待つ。
その後方に中規模な基地を置き、さらに長城で食い止め、その後方に大規模な城邑を置き
野戦軍を駐屯させる。
いわば縦深防御であり、長城はその中の1システムにすぎない。
これを面の防御と呼ぶならば間違いではない。
347 :
名無し三等兵:04/07/22 21:05 ID:MOybsUpp
>>344 歴代為政者は認識していたというだけでは、
実際に必要だったかは別なのでは?
>>346 そのような感じでしょうね。
>>348 実際には必要でなければ誰が増改築を繰り返すだろうか
>>344 長城が無いと、遊牧民は各地から多点突破&浸透してきて
中央政府が中央野戦軍招集で対応する頃には大損害を受けているだろう。
長城が遊牧民の侵攻路を限定して、地方の野戦軍に拘束させる役にも立つし
撃退するのも容易になる。
>>349 実際には役に立たずよく侵攻されているのだが。
>>350 情報の伝達システムに不備があると役に立たないのだが。
事実、長城を破壊して突破するするのはそんなにかからない。
>>351 上でも述べたが長城はいわば前進陣地
主防御陣地ではない
しばしば突破を許したからといって役立たずと断定はできない
それは長城の本来の任務ではない
明代の長城防御は、長城自体に本格的な防御能力を持たせ
小規模な敵ならば単独で排除、大規模な敵を相手にしてもある程度の時間持久させ
中央の野戦軍が到着する時間を稼ぐといった戦略をとっていた。
北京が首都であり、遊牧民族の侵攻に対して比較的早期に野戦軍を編成することができた
明は、縦深が少ないけど強力な防御を持った北辺守備を構築していた。
しかし、土木の変などの見られるように野戦軍の敗北が即座に亡国に繋がりかねない
余裕のない国防だったとも評価できる。
>>354 そのようなものは情報の伝達システムが前提として必要。
しかし、逆にそれがあれば長城でなくとも良い。
また、君のいう「本来の目的」とは少なくとも後漢以降のもの。
長城の役目は
1 小規模な敵の侵攻に対しては独力で対応>浸透を防ぐ
2 時間稼ぎ
3 侵攻路の限定
要するに、現代戦における前哨陣地とほぼ同様の役目である
明代の場合、強化しているが本質的に変わらない。
侵攻されて陥落するのは当然、前哨陣地は主防御陣地では無い。
>>355 >>336の本では、長城自体には大規模な改修をし
本格的な防御能力を備えさせたが、
肝心の情報伝達システムがうまく整備されていなかったとある。
>>358 具体的にはどのように整備されなかったと?
>>357 それが長城の秦の時代からの役目ならね。
361 :
347:04/07/22 21:23 ID:MOybsUpp
>>359 まずは読んで見たら?読まずに言うのはいかがなものかと。議論の場では特に。
>>362 ネットの議論なんだから、異議申し立てた方が引用するのが当然だろう。
それぐらいできないの?
>>363 読むことのほうが当然だろう。議論ならば。
>>365 ヲイヲイ、今即座にその本を購入できるわけ無いだろ。
もう一度指摘するが。
「ネットの議論なんだから、異議申し立てた方が引用するのが当然だろう。 」
内容を示さず、曖昧に反論するなら小学生でもできる
具体的に「○○のような情報伝達の不具合があるので、肝心の情報伝達システムがうまく整備されていなかったとある。
○×ページより引用」とやってくれ。
少なくとも「あった」というほうが、
挙証責任があるのだが。
完備された伝達システムがあったというのなら、
そのソースを出すべきでは?
>>366 だったら、後日読んでからすれば?
今日明日にこのスレが無くなるわけでもなし。
長城の建設と平行して秦は国境地域に郡県を置き、
漢は郡県に土城を建設し都市の要塞化を進めた
遊牧民が侵攻すると、長城の駐屯部隊が通報と遅滞を行い、
国境の住民は動産を抱えて近傍の都市に避難して国境地帯を焦土化した
更に状況により中央から野戦軍を繰り出して侵略軍を撃退した
この焦土戦略は貧乏な遊牧民が有力な攻城兵器を保有していないことが
前提となっており、この前提が崩れた晋はそのせいで滅亡している
>>367 今度は悪魔の証明か……
「ネットの議論なんだから、異議申し立てた方が引用するのが当然だろう。 」
烽火システムに不具合があったと主張する方が、その証拠を出してくれ。
無いことの証明はできない。
>>369 というか、晋の時代になると長城よりも内側に遊牧民は住んでいたわけだが。
>>368 君がその部分を引用すれば、その時点で終了なんだが?
他人に経済的出費を強要しないでくれ。
それとも、妄想なのでできないのか?
>370
お前が悪魔の証明を要求している。
完備されたシステムあるというのならばそのソースを。
それがないのならばそれがないということになる。
>>372 図書館がある。君が読んでくればそれで終了。粘着すぎる。
>>371 それは遊牧民は都市の城壁を崩す攻城兵器を調達し組織することができた一因
何度も言うが、長城は前進陣地で、要塞化された都市が主戦闘陣地
>>375 何度もいうが、それは後の役割。
秦前漢あたりでは前進陣地ではない。
>>374 だからー ページを示して数行引用すればいいじゃん
なんでその程度の手間もかけられないの?
>>377 前進陣地だぞ? 少なくても主防御陣地ではない。
長城で大規模な会戦が行われた例があるなら前進陣地じゃないと認めてもいいけど、あった?
>>376 だから何度もいうが、それは前漢まで。
後はそれを完備できず退化した。本を読むことはおろかスレも読めないのか?
359が読んでくるのを待ちだな。
>>379 無かったから、主防御陣地としてうまくいった。
まずは読んでからにしては?
新書とはいえ、読まないと話がすすまんだろ。
>>377 長城と平行して後方の防衛施設の整備が進められている
長城を主陣地とするならば、土城の建設のような工事こそ
上で誰かが言ってるように「必要ない」ことになる
このスレはキモい香具師がいますね。
普通、本を紹介されたら自分で読むまで反論はしないのに。
それを執拗に読まずに反論している光景をはじめてみました。
件の本って前漢以降の長城は「無用の長物」って言ってるんでしょ?
まあちょっと読んでみるか。
>>380 烽火>候官>騎都尉、天田のようなシステムは前漢に完備されて
その後は退化したと主張したいの?
そのシステムと、烽火を中心とする警報システムについては
全く別の話なんだが、警報システムを否定するならば
それなりのサイトなり、引用なりを示して欲しいのだが。
北辺の警報システムがシステム的に不具合になったとの根拠は未だ示されていないな。
>>383 無かったから、前進陣地としてうまくいった。
とも言えるのでは?
後漢では屯田兵制も整備されている
何故烽火だけが退化したんだろう?
漢代の長城は版築なので、城壁と言うよりも塀のようなものが多いが。
だから後方に防衛施設があり、各所に詰め所も一定間隔である。
>漢代の長城は版築なので、城壁と言うよりも塀のようなものが多いが。
やっぱり前進陣地っぽいね。
>>389 内戦もあるのでは?長城で防御するより屯田兵で防御するほうに重点をおいたり。
>>382 主防御陣地で決戦しないでどこでするんだよ?
アホか
>無かったから、主防御陣地としてうまくいった。
主防御陣地で決戦していないなら、それは防御側の大失態だぞ
敵に迂回されたか突破されたってことだ。
_哲に罵倒されてこい。
>>391 苦し紛れの言い訳。むしろ主陣地だろ。
後方防御施設とも一体となってシステムが構築されているのだから。
後漢以後も北辺の警報システムがシステム的に完備されていた根拠は未だ示されていないな。
>>385 ネットで議論して、本を引用するんだから
名前だけでは無く、内容も引用しろと指摘しているだけなんだが。
あんたは論文で引用部分を、論文の名前だけですませるつもりか?
>>394 長城の建設と平行して後方の都市の要塞化等も行われている
何故、主陣地と主張するのかその根拠を伺いたい
>>393 前漢時代、そもそも突破された大きな侵入はない。アフォ。
>>395 それは悪魔の証明なんだが。
文句付けるなら、欠陥の証拠を示してくれ。
検察側が、相手の不備が無かった証拠を要求するようなものだぞ。
普通は欠陥の証拠を検察が示してなんぼだろうが。
>>396 そういう論文は多いぞ。論文を読んだこと無いのかもしれんが。
>>399 北辺の警報システムがシステム的に不具合になったという証明が悪魔の証明。
あるというほうが証拠を要求する。
>>399 普通は完備されたシステムがあったという証拠が必要じゃないのか?
前漢時代に大規模な侵略が無かったということは、長城を含めて防衛システムが
うまく機能したからであって、長城が主防衛陣地だったからとは言えない。
つか、暴論ってやつ?
>>403 大体、漢代の長城の完成をみるのが、武帝期なのだが。
それ以後か?
>>405 長城が突破されたが、中央は知らなかったと言う例が連続してあれば
警報システムが不具合だったと証明できる。
さあ、証明してくれ。
(どうせ、相手に証明を求めるんだろなあ‥‥)
>>407 なるほど暴論ですな。
長城を含めて防衛システムがうまく機能したから=長城が主防衛陣地だったからとはいえない
とはまさに。
もっとも長城のシステムとは烽火システムなどまで含むものだがな。
武帝って前漢の人じゃないの?
>>409 中央まで伝達がうまくいっていれば、
警報システムが完備だったと証明できる。
さあ、証明してくれ。
(どうせ、相手に証明を求めるんだろなあ‥‥)
本を読まずにここまで不毛な議論ができるものだ。
>>414 大体、漢代の長城の完成をみるのが、武帝期なのだが。
それ以後か?
>>320 >というよりも城壁をつくると面で防御することになり、
>人員、物資補給などの点で非効率な要素が出てくる。
なんで城壁を作ると面の防御になるの?
>>412 あのー 答えられないからって火病るのは止めて下さい。
>>415 だからその部分を引用してくれよ。
なんでできないの?
>>420 だからその本を読んで来いよ。
なんでできないの?
>前漢時代、そもそも突破された大きな侵入はない。アフォ。
と言って今度は
>大体、漢代の長城の完成をみるのが、武帝期なのだが。
と言い訳する。
なんだかな〜。
>>416 完成がなにを意味しているのか不明だが
長城自体は秦代からあるぞ
完成も何も漢の後の時代になっても長城ってどんどん延長されてるんだよね
>>421 夜は本屋がやっていないからですが何か?
偉そうに本の名前だけで説明したつもりにならず、『その部分を引用してくれ!!』
引用すれば一瞬で論破できるのに、なんでしないの???
>前漢から烽火システムは完成されている
と言って今度は
>長城を含めて防衛システムがうまく機能したからであって、長城が主防衛陣地だったからとは言えない
と言い訳する。
なんだかな〜。
>>423=424
「漢代の」と416は述べている。よく読め。
>>428 だから、「完成」とはなにを定義しての話?
>>429 もしかして、自分も本が無いのに騙ってみたわけですか。
武帝の後も建設は続いてるぞ
>>434 君、質問に質問で返すのは駄目だよって上のほうでも言われてなかった?
>>431 もしかして、自分は読むのが面倒だからですか?
反論できなくなると質問返し
これは敗北宣言ととってよろしいか?
>>439 >引用すれば一瞬で論破できるのに、なんでしないの???
不毛な議論が続いていく。別に何日もかかってやっても良いのに。
所詮軍事板だし。
>>442 読んでくれば一瞬で決着するのに、なんでしないの???
コテハン相手なら、ペルソナの連続性があるので何日かかってもいいけど
名無し相手に時間かけられるか(w
特定できないだろうが。
まあ読むには読んだがよく理解できないから説明できないってのが本当のところでしょう。
説明できないから読めの一点張り。
結局その本が最後の拠り所なわけだ
引用したら、自分の読解力が明白になるからな。
だから読め読めの一点張り、悲しいねえ。
情報伝達システムの退化というが伝達手段は烽火だけじゃない
烽火は天候次第では使えないから、早馬による伝令等も準備されていた
また、機能不全というが、長城から首都まで情報伝達が行われていなかったとすれば
それは国家機能が麻痺してることを意味しており、そのような状況では
長城があろうがなかろうが結果は同じで、こうなると万里の長城の
軍事的価値を論ずることなど全く意味をなさなくなっている
でも、長城ってずっと建設が続いてるんだよな
謎だ
>>451 漢代あたりの烽火システムの速度が実は早く
宋代や明代などでは遅くなったらしいが
それを針小棒大に、辺の警報システムがシステム的に不具合とか過大表現してるんでないの?
日本語の不自由な方だったとの落ち。
あと、長城が前漢までは主陣地だったという根拠も教えてもらえなかったな
主陣地だったと連呼一辺倒で
主防御陣地の意味すら理解していたかどうか
長城はピラミッド同様、単なる公共事業なのでありますよ。
長城が異民族の家畜避けだったって説は?
おまいらいい加減にしる。
長城スレでも立てるか、他スレ他板で続きをやってくれ。
ここはあくまで日本の戦国時代の合戦等について語るスレ。
例えで出された長城でスレ占領されたらたまらんわ。
ホントに・・・
山野氏・・・早く戻ってきてくれ・・・
じゃあ、話題振り。
皆さんは、戦国時代の戦闘員の武装、と聞いて何を思い浮かべます?
オレは南北朝〜戦国前期までの、武士や侍でない身分の者たちの武装や戦術
に一番興味があるんですけど、そういった人間達の姿っていうのは、なかなか明らかに
されてなくてねえ。
記述としての有名所だと、『峰相記』の悪党について述べた部分くらいしか今思い付かないし。
(ちなみに、混同されがちですが、鎌倉〜戦国時代頃の身分体系だと、武士≠侍です)
雑兵物語、だっけよまはった?
引用、引用といってた厨がいなくなったな。
そもそも主防御陣地の意味すら理解していたかどうかあやしい。
また、情報伝達システムの退化という意味も。
この厨はちゃんと本を読んでくるのかな?
まあ読むのが怖いのだろうがw
>>311ってどうなの?
なんかイメージと違うけど
藤木氏の奴を、誤抄訳した感じ。
×日本の城
○日本の城にも、大名に拠らない、民衆による城があった。それら民衆の城には、避難所としての機能をもつものがあり
>>465 ( ・∀・)つヘェー
ところで・・・藤木氏って誰ですか?
素人でスマソ(´д⊂
コテハン?
>>466 上のレスのどっかに、参考文献があったと思う。その著者
藤木久志氏
468 :
軍ヲタ死ね!:04/07/23 16:52 ID:ABzJoajL
ふふふ、生涯体育の成績が1の君達ではヨロイを着て500Mも走れば
ヘロヘロだよw
戦国の世に生まれなくてよかったね、脆弱なウサギさんたちww
>>468 当時の鎧を着て500Mも走れりゃ脅威だな
なんでこういう煽りって自己紹介にしかならんのかね。
それはそうと、西洋の古代史ネタになってしまうのだが、
各時代の、戦場で歩兵に突撃をさせるタイミングと兵士たちの
武装重量を比較してみると面白いかもしれない。
>469殿
そうそう、それに、鎧と言っても、大鎧から当世具足、腹当て、タタミ鎧と、
何種類も有るしねえ。
腹当てと小具足(篭手と脛当て)ぐらいの装備だったら、オレでも500Mくらい
走れるけど、大鎧じゃ、よほど屈強な人間でも、なかなかまともに走れないし。
ところで、そんな事を言うからには、468殿は鎧を着て動いた事があるのかな?
どうでした?動きにくかったでしょう?
オレは当世具足を初めて着用して動いたとき(軽くバトルしました)、素肌での剣術と、甲冑着た状態での
剣術(介者剣術という)では全く違う動きしないと戦えないんだな、と実感しましたよ。
まず、腕があまり上に上がらないし、兜もあるので、上段に構えられない。個人的には、八相か
脇構えが甲冑を着た状態では構えやすかったな。
さらに、体重が増加するので、不整地で動く場合、足腰をどっしり構えて落ち着かせないと、こけそうになる、
っていうこととか(昔の人は、腰を屈めて重心を低くして足腰を構えた上で、踵を上げていたそうな。やってみたけど、
きつかった。確かに足の反応は早くなるけどね、踵を地面につけない分)。
まあ、ここらへんは本で知識としては得られるものなのですが、体験する・実感する、ということは探求においては、
重要なことだと思ってます。皆さんも機会があったらぜひ。
あ、そうそう。戦国時代の槍足軽の刀の差し方が、帯に上から落すように差すのはどうしてか、というのもやってみて
わかったな(普通に差すと、槍が刀に当たる)。
あとは、武士や侍は手槍をメインウエポンにしてたけど、2本差しを左の腰に作法通り差すと、これまた槍の動きに干渉
するので、どうやってたんだろう?という疑問が生まれたり。(手槍をメインウエポンにしているときは、他には脇差しと鎧通し
くらいで、打ち刀は中間や下人などの従者に持たせた?それとも、前線では今伝わっている作法とは違う方法で差して携帯
していた?いや、そもそも当時の打ち刀は今一般的に日本刀と言われているものより、短めで直刀に近かったらしいぞ?とか、
仲間内で話たことがあります)
まあ、武士は2本差しで生まれる左側の死角に対応するため、援護の侍を自分の左OR左後方に配置するのが基本だったようなので、
戦術で不具合を解消しようとした、というのが正解なのかな?
でも、従者や家来を持たないような奴はどうしたんだろう…?
473 :
軍オタ:04/07/23 19:18 ID:???
>>468 訓練しだいでその脆弱なウサギさんたちが屈強な兵士に変わります。
兵士として何の訓練もうけていない普通の人間に装備持たせて軍隊行軍させ
たらヘタルのは当たり前です。
常識で物事は考えなさいな。
引用厨は本を読んできたのかな?
引用厨自身
>>451で長城の無意味さを説いているのが笑える。
粘着な厨房が住み着いちゃったなあ。
万里の長城 攻防三千年史162pより引用
通信といえば、漢代の頃で詳述した烽すい制度が第一に思い当たる。
烽すいに寄る通信は漢代以降も基本的には続けられていた。
後漢時代に置かれた塢候、北斉時代に置かれた戌などはいずれも烽すいの
施設を備えた要塞であった。そして唐王朝も烽すい制度を採用し、およそ30里ごとに烽すいを設けて
通信網を張った。
どこもかしこも厨房だらけだ…
>>476 都合よく引用してきたね。引用厨房ちゃんw
書名以外に何も引用もできない癖に何言ってるんだかw
読解できる知能が無いから仕方がない
引用なんてしたら赤っ恥かくし、煽るだけでオウム返し以外何もできない厨房だから。
>>479-480 自作自演までして恥をさらすのかい?引用厨。
「基本的には続けられていた」と
「システム的に完備されていた」とは天と地も言ってることが違う。
日本語が不自由なんだね、引用厨。
>>481 で、君はそれを具体的に説明できないんでしょ?
ひたすら書名のみを挙げ質問されると質問返し
論破されてレッテル貼り
挙句に朝早くから粘着に煽りとがご苦労なことだ
>>481 「システム的に完備されていた」じゃなくて、「システムに不具合がある」
じゃねーの? 粘着君の主張は。
で、それを説明できないと……
書名だけで根拠になるわけないし、この脳内変換具合を見るとかなり怪しい。
>>481 で、君はそれにソースもある反論できないのでしょ?ひたすら書名のみを挙げ質問されると質問返し
論破されてレッテル貼り
挙句に朝早くから粘着に煽りとがご苦労なことだ。
485 :
名無し三等兵:04/07/24 18:21 ID:WTPSF/xk
首取りするのは、戦国時代に組織的戦闘がなかったためです。
首とってないヤローが、サボっていたことになります。
粘着引用厨は日本語が理解できないらしい。
粘着引用厨自身のレスである
>>476は「基本的には続けられていた」と引用することで、
「システム的に完備されていた」と強引な脳内変換。
ひどいな。
487 :
名無し三等兵:04/07/24 19:44 ID:wVRIbtbe
あの〜、ちょっと質問なんですが・・・。
「長城は主防御陣地だった」という方に質問なんですが
警戒線や主力部隊収容施設はどこにあったんですか?
主防御線として機能させるのであれば長城以北に警戒施設が必要で
そこからの警報によって主力部隊集結、予想敵侵攻軸付近の長城に布陣し
会戦か攻防戦が発生するのではないでしょうか?
>>488 長城にある。以北に必ずしも必要なし。
主防御陣地の意味分かります?
国境線を主防御陣地にできるわけねーべ
中国の帝国では、中央野戦軍は反乱を避けるために首都及びその付近に置いてあるんだから
長城に敵が接近した時点で迎え撃つなんて、物理的に不可能。
491 :
488:04/07/24 20:16 ID:???
>>489 ありがとうございます。
長城は警戒/収容施設を兼ねた、たった一線の主防御線で、
中国人はそれを何世紀もかけて整備したのですね。
ご教授ありがとうございます。
ps彼らが警戒線を作った方が良いと気がついたのはいつごろなんですかね?
>>491 後漢時代に天田で足跡を示し、烽すいで烽火による警戒網を貼り
候官がそれらを束ね、都尉で地方野戦軍を管轄するというシステムは整備されていたが?
長城の前方に天田や烽すいがあるんだけど。
>>490 時代によって違う。
あくまでも前漢時代は烽すい制度が整備されていたから。
さほど問題なし。
>>491 もっとも何世紀もというのも修築の範疇だが。
少なくとも、清は長城を必要としなかった。
>>492 前方にある場合もあるが、基本的に長城にある各砦間の連携が
まずは要とされる。
天田は自軍兵士が逃亡したかどうか見る目的もあるから、内側にもある。
長城スレ建てたら?
ハスケ殿が鎧を着たのって、
長野だかで行われている川中島合戦模擬のときですか?
あれ参加してみたいんですよね・・・
497 :
494:04/07/24 20:45 ID:???
>>495 そうか。
長城だけ問題にするんなら、『中国の防衛』とかスレ立てして
そっちでしてもらいたいと思ったもんで。
比較対照として出てくるんならまだしも、
ここまで議論が長引くとね・・・
>>497 いやだから、余計なスレを立てるなって。
別に長引くといってもほとんど終わりかけているのだから。
>>472 従者や家来を持たない人はそもそも、
その従者や家来くらいなのではないでしょうか。
しかし、鎧といえば大鎧くらいしか出てこないなぁ。
甲冑の本がPHPあたりで出てると思うんだが、あれは参考になるのかな?
>>491 情報伝達システムの重要性は理解していたが
できなかったということじゃないのか?
烽火があったところで召集して準備して出動して到着するまで
縦深のない長城が持ちこたえられるわけがない
物理的に不可能
だからこそ長城建設と並行して国境地帯の都市の囲壁化が行われた
502 :
名無し三等兵:04/07/24 21:12 ID:2yO3mfdM
前近代に全軍突撃って概念がなかったとしたら武士団でありながら、それをやった
会津藩はバカだけど上出来じゃん。一流の武器を持たせてアラブ馬買って
立見、河合、土方、大鳥、榎本を各武士団から引き抜いて、奈翁の戦術学べば
アヘン戦争の清国軍とちがって国民軍と対等に喧嘩できるかも
(鈴木直哉のいってることが正しければ)
志茂田の仮想戦記みたいだな
>>501 それが都尉であり、騎兵野戦軍を管理する騎都尉であり
糧食を管理する農都尉だった。
これらが機能すると、敵を早期に迎撃できた。
漢代の長城は実質的には軽易な補強工事を施された土塁壁で、
発掘調査からは全高はせいぜい1.5メートルと推定されている
その後方で都市の要塞化が進展していたことを考慮すれば、
この程度の防御構築物では主抵抗線だったとは考えにくい
哨戒線と平時の警備線を兼ね備えた施設であったと考えてまず間違いない
主陣地よりも前進陣地と考えたほうが妥当だろう
中国の要塞は、端的に言えば山城式から城郭と外周に城壁を備えた
内城外郭式、ついで内城を持たない外郭式へと移行している
漢代には概ね第三段階への移行を完了しているが、こうした傾向は
時間的隔差を除けば概ね日本のそれと軌を一にしている
江戸幕府が要塞の破壊と建増築を制限しなければ、やかて日本の都市も
城壁で市街を囲むスタイルが一般的になっていただろう
事実、織豊期にはその萌芽が認められている
両者の差は時間的隔差が大きすぎることで、これには様々な要因が考えられる
一つには、中国王朝が最も脅威とみなしていたステップ系騎兵が都市の要塞化を促したことで、
圧倒的な機動力を有しながら、満足な攻城戦装備を持たないステップ系騎兵に対抗するには
堅固な築城構造物で対抗するのが最も安上がりだった
また、中国は戦争資源の集中を可能にする行政機構と経済基盤をいち早く整備することが出来た
日本では奥州の城柵の他には白村江役後に水城や朝鮮式山城、神籠石式山城を建造したが、
まだ都市を城壁で囲むまでには至らなかった
ヨーロッパでは、ローマのディオクレティアヌス帝の兵制改革と戦略方針の転換を契機に
4世紀以降、都市の要塞化が進展した
ただしこのムーブメントは6世紀に入ると一応終息し、封建制の整備と並行して
木造要塞が主流になる
再び要塞が石造化し、都市が城壁で囲まれるようになるのは10世紀以降
>>508 >まだ都市を城壁で囲むまでには至らなかった
大宰府や多賀城は?
また日本は城壁より堀を構築したほうが、
コスト的に良かっただけでは?
>>505 それならば、長城は主陣地だな。
そうでなければ長城にする必要性はあまりない。
地震国の日本でどの程度までの石造の建築物が可能でかというのも
軍事的観点から言えば、都市が城壁で囲まれることの利点は言を待たないが、
一方で、城壁は都市の拡大を阻害する物理的障害ともなった
例えば、パリは三度も市壁を拡大しなければならなかった
また、日本と大陸の都市の城壁の有無の違いの要因を、異民族の脅威のみならず、
(板違いながら)経済構造に求める説もある
>>512 あと、日本は気候が湿潤だから、
木造建築が主流になったと建築板にあったような。
とりあえず
長 城 の 話 は ス レ 違 い
なんでこれ以上は荒らしと同じでよろしく。
ところで日本のレーションの歴史ってどんな感じなんだろうか?
特に戦国以前のものはどんなのだったか非常に気になる。
やっぱり糒?
引用厨が粘着だったからねえ。
>>515 基本的に玄米と味噌が基本では?
日本では、平安時代から南北朝時代までは、本格的な軍事要塞の建設は停滞し、
せいぜい防塞化された館や関所程度のものだった
この時期の戦争はまた、大軍勢を結集して戦われるような大規模なものよりも、
集落単位の小競り合いが主流で、武士は朝廷や幕府に召集されて従軍するよりも、
水争いや土地を巡る小競り合いに従事するほうがはるかに多かった
このような争いでは、敵も味方も少数の場合が多く、戦闘の様相も
正面切っての野戦よりも襲撃や伏撃、略奪や焼討が一般的で、
このような戦闘では騎射の技術がものを言った
大軍勢同士の野戦の機会が増大した源平合戦以降、騎射の技術が衰退したのは
ある意味で当然の成り行きだったと言える
誰も騎射をしなくなったと嘆く老武士のエピソードは有名だが、
これは戦闘のみならず戦争の様相が変化したことを示唆している
>>515 永山久夫「たべもの戦国史」によれば、
戦国時代以前、古代兵食は、
肉醤(ししびしお)と云われる、魚肉や獣肉を細かく刻んで、山椒や塩などをすりこみ、
酒でつけて発酵させた、塩辛のようなものや、
他にも、穀醤(こくびしお)、[豆支](し)といわれる麹菌で寝かせた納豆があったらしい。
いずれも、保存性が高く、蛋白質が豊富だったようで、兵食として重宝したようだ。
中期になると、笹の葉で握り飯を包んだ屯食なども出てくるね
ししびしお
っていうと、人間の肉の塩漬を思い出してしまう。
かの孔子も好んで食したという・・・
>515
近代以前はあまり食料を持ち運ぶという思想がなかったのでは?
基本的に現地調達(略奪)だと思うのだが・・・・
日本の場合は違うのだろうか??
持ち運ぶ場合は>516の言うように
玄米+塩か味噌というのが基本だと思う。
肉食をしない日本人の保存食なんて限られているし。
>>520 食料を保持するための袋もあったようだ(糒袋)
また、食事をはやく終わらせるためにその袋に(干飯を)入れたままお湯につけて食べる
ということもしたようだ。
なので、恐らく数日分の食料は携行していたものと思われる。
足りなくなったら略奪するのかな?
だから、敵が来たら焼いたりするんだろうか
>>515 野戦でも陣で待機している間は、
近くの農民などが食料などものを売りにくるのが結構あったらしいが。
兵糧を買い集めるのは、本来は禁止だったんだけど、結局それに頼っていたらしいし。
>>506 漢代の都市の城壁の全高は一般的に10メートル程度
内部に地積を備え築城構造物としては長城よりも堅固
>>510 大宰府を囲っていたのも水城
多賀城は内城を有するものの基本的に城柵
城壁と堀のコストは地形次第で一概には決め付けられない
>>511 その意見は戦術的妥当性に欠ける
迂回浸透を防ぐのも前進陣地の役割の一つ
>>518 >肉醤(ししびしお)と云われる、魚肉や獣肉を細かく刻んで、山椒や塩などをすりこみ、
>酒でつけて発酵させた、塩辛のようなものや、
・・・この肉醤(ししびしお)、ビールのつまみに最高だよ、きっと!
焼酎にも合いそう。ああ〜唾液が止まらん〜ビール飲みてぇー!
>496殿
そういうお祭りに出たこと有るし(石和川中島合戦絵巻)、今年も
参加したけど(寄居北条祭り)、そういうときは着物とかタタミ鎧しか
着た事ないです。
甲冑着て動いた事があるのは、知人が個人的にやってる遊び
で、知人の当世具足借りたり、あとは海外向け甲冑写真集のモデルで、
鎌倉期の腹巻き(鎧の一種。胴丸)を着たときくらいです。
武者行列やるところは多いですが、戦国時代の合戦系の祭りは少ないですよね。
そういったお祭りに関してはここが参考になると思います
ttp://yoroiou.hp.infoseek.co.jp/index.htm >499殿
身分的にはまっとうな武士でも、家来や従者がいないような場合もありますし、“悪党”と言われた
ような在地の武装集団(山賊、海賊、傭兵など)は、集団内でそういった主従関係があまり強くない
場合もあったと思われます。
そういった人間は、どうしてたのかな?ということです。
もっと言ってしまうと、戦場での2本差しが確立され、それが武士・侍身分の証しになるのは、戦国時代
後期からなので、その前はどうだったんだろう?という疑問もあるのですけどね。
あと、日本の甲冑について知りたかったら、中世日本の武具研究の第一人者である、笹間良彦先生の本がお勧めです。
アマゾンで“笹間良彦”で検索すると、けっこうでてきますよ。どれも高いですけど(数千円〜一万超え)
>515殿
戦国時代の携帯糧食として有名なのは、『雑兵物語』に描かれた、
芋茎でしょうね。味噌を芋茎に塗りこんで、乾燥させたものを荷物をまとめる
縄に使い、食べる時はそれを刻んで鍋に入れたそうです。
あと、代表的なものとしては、干飯ですね。水分を少なめにして炊いた米を、天日で
乾かしたもので、そのままでも食べられるし、余裕がある場合は煮て普通の米のようにして
食べました。(知人が試しに造ってみたものを、食ったことがありますが、確かにそのままで
食えるけど、美味しいものではありませんでした。水で戻すと違うのかもしれませんが)
あとは、既に述べられていますが、屯食(とんじき)と呼ばれた、いわゆる御握りがあります。
これも保存が効くように、水分を少なめにして炊いた米に、味噌を塗って焼いたりしたそうです。
(味噌ダレの焼きお握りかぁ、美味そうだなあ)
529の追記
529で述べた携帯糧食の話は、『雑兵物語』が出典ですので(屯食の部分は
違ったかも)戦国時代初期〜中期はまた違った可能性があります。
『雑兵物語』は、戦がほぼ無くなってから(江戸時代になってから)、「戦とはこういうものだ」
ということを伝える為に、元足軽だった人間が書いたものですので、そこに描かれている合戦様式
というのは、戦国時代後期のものなのです。
昔は技術・文化の進歩が今よりも遅かったから、火縄銃などの記述を除いて、初期も中期もあまり
変わらなかったかも知れませんが、成立したのがかなり近世であるということは、考慮する必要が
有るのでは、と思います。(あと、地域差というのもありますしね。雑兵物語の作者がいた地域では
Aという方法でやっていたことが、他の土地ではBだったかもしれません)
ぐぐってみると梅干しも戦国時代には重要なレーションの一つだったらしいね。
使われ方はむしろ薬みたいな感じのようだけど。
関が原の死者を検死したら、投石による打撲による死者が一番多かったってのはホント?
そもそも、どこの家中が最多の戦死者を出したのだろうか?
大谷家? 石田家?
そんなん、人数か人数比かで相当ちがってくるじゃん・・。
人数比だったら島津か?
関ヶ原は参戦兵力からして諸説あるからなあ。
関が原が出てきたところで一言。
大谷吉治と大谷頼継はヘタレ!
>ハスケ殿
そういえば、大河などを見ていても、
介者剣術をやってるのはほとんどないですね。皆鎧の上からばっさばっさと笑
まあ、あれはあれで見ていて気持ちいいので、割り切りますが。
高橋英樹主演の織田信長とか面白かったw
538 :
533:04/07/26 00:19 ID:???
>>534 >人数か人数比かで相当ちがってくる
『最多の戦死者』と書いてある時点で、『人数』に
決まってるじゃん。『最大の損害』と書いてあるわけじゃ
ないんだから。読解力がねーなぁ。
539 :
某研究者:04/07/26 01:30 ID:DDvKHT5g
>もっと言ってしまうと、戦場での2本差しが確立され、それが武士・侍身分の証しになるのは、戦国時代
>後期からなので、
高位の侍は脇差+打刀に加え
太刀迄持っていた様だが
太刀と打刀を構えて二刀流の様な事は
しなかったと言う事なのだろうか
(或いは太刀は飾りで打刀を主に
用いていたのだろうか)
540 :
某研究者:04/07/26 01:32 ID:DDvKHT5g
徒歩武者は太刀は持って居なかったのかも知れぬが
騎馬武者は全て太刀を持っていたと言う事は
無いのかだろうし
高位の徒歩武者にも太刀を持つ者は
居なかったのだろうか
そのかわりこれ以降このスレでは一切禁止だぞ
約束だ
おまえら農民をなめすぎ
ファミコンの一揆なんて青竹製の重い竹槍をりゅうりゅうとしごく速さ見ろよ
しかも神出鬼没に現れて攻撃してくる忍者を仕留めるし
鉄砲隊の前に躍り出ても弾道見切ってまったくの無傷
腰元までもメロメロさ
546 :
名無し三等兵:04/07/27 18:59 ID:bKmQGBlA
きたいあげ
何やるにもタイミング悪いやつって
クラスに一人くらいいたよね。
>>540 徒歩武者とか騎馬武者というのが、軍人としての身分や兵科の違いを指して
いる様に思われるのですが
中世から近世における日本の内戦期特有の「身分が兵科に現れうる軍編成」
というのは、あくまで「馬に乗る事がある士官」「馬に乗る事は無い兵卒」と
いう位の区分であって、徒歩武者隊だとか騎馬武者隊という兵科区分があった
のか疑問です。
騎馬武者も徒歩武者の違いは、「武者」である以上は、「武士」という身分でしょう
から、軍団司令部にあたる部署から「馬に乗れ」とか「乗るな」とか「こういう武器
を使え」などと決められていたとは考えにくく、
単に「そのとき馬に乗っていたか、何かの理由で馬に乗っていなかったか」だけの
違いなんではないでしょうか?
何が言いたいかといいますと、今のように「○○式戦車隊」「爆撃機隊」と
いった様に、最初から兵科編成がなされていたわけではなく、
「武田の騎馬武者隊」であるとか「どこどこの鉄砲騎馬武者隊」というのは、
単に追撃命令を司令部から受けた各小隊が、戦況から、「こういう武器を携行
して乗馬して追撃に入るべきだ」と各自で判断した結果、軍団全体の乗馬率や
特定の武器使用率が一時的に上がったために、攻撃を受ける側や、それを傍観
する側やがそれをみて「どこどこの○○騎馬隊」などとして土産話などに語っ
たというレベルにすぎないのではないかと思います
>548
身分とか格式。
騎馬武者は馬を降りることがあるが、これとは別に馬には乗ることを認められてないが
足軽ではない武者がいるわけだ。そういう点で兵科ではないが身分ごとに指示や規定はあったろう。
また、時代が進んで騎馬武者数十騎を含んだ備単位で運用されることになれば
その指揮官の指示で馬から乗り降りしたはずだ。
>>549 550
ああ、そうでしたか。俺は戦国期の身分制度についてもそれほど勉強してる
わけでもなかったので、平家物語よろしく「武者」=「さむらい」と思って
いました。
ですので、「馬に乗っちゃだめなさむらいなどいるわけないではないか」と
思って書きこんだんですが、「馬に乗ってはいけないけど兵卒としての足軽でも
ない」という人達がいたんですね。知りませんでした。
ところでその「備」に関してなんですが、
今の時代なら、同じ「備」に属するものは兵舎も同じで寝食も共にしますから、
連帯感なども生まれますよね。
当時は寄親・寄子制が原則でしょうから、常に、同じ面子を「備」として
連帯意識を持たせて戦いに起用するのは、ちょっと無理があった様な気もする
んですが、どんなもんなんでしょうか。
それとも、「旗本のなにがしの家では、主人、家人から従者にいたるまですべて
同じ様な色の、同じ様な武器をもって戦いに行く」という感じに割り当てられて
いたんでしょうか?
>連帯意識を持たせて戦いに起用するのは、ちょっと無理があった様な気もする
>んですが、どんなもんなんでしょうか。
それは統率のスタイルの違いにしか過ぎない
同じ釜の飯を喰ってないから一緒に戦うのは無理というのは些か乱暴
現代の軍隊でも配属欠除支援等々さっきまで顔も知らなかった連中と
一緒に戦うことは全然珍しくない
むしろ足軽長屋で隣近所が家族ぐるみで付き合ってるような連中のほうが
連帯感が強いかもしれんぞ
553 :
名無し三等兵:04/08/01 16:01 ID:e2Q+Hk5d
農民 + 石投げ 最強
宮本武蔵 原城で動けなくなる
最低の殷売
戦国最強島津マンセー!半島で十倍以上の敵軍返り討ち!
鬼石曼子の名は伊達じゃない!
と荒れそうなことを言ってみる
>鬼石曼子の名は伊達じゃない!
鬼石 曼子・・・?
鬼 石曼子なのか
勉強になりました。
>石曼子の名は伊達じゃない
そりゃ薩摩は伊達じゃないなあ
557 :
葉武者:04/08/02 23:07 ID:???
ていうかこのスレはいったいいつ頃の「戦国」の話をしているんだ。
応仁の乱の直後か小牧長久手のあたりか大阪の陣のあたりか。
>>554 すいません。
そのネタはどのスレでも否定されて完全に「納得のいく数字」になってます。
まさか書かれるとは思わなかった。
>>554 すいません戦国板にはいかない素人なんですが、よく島津の武勇伝として関が原と並んで例に挙げられますが
具体的にどのくらいの敵を討ち取ったんでしょうか?
562 :
名無し三等兵:04/08/06 23:04 ID:Y1uRKjbP
良スレあげ
>>561 36000から37000(実数にいたか不明)を5000から7000で迎撃し勝利。
敵の死傷者は10000内は超えなかった模様。(後に星州で再集結し再度出撃している)
大昔の逸話では20万を1万で迎撃し38000の首を取り、
それ以外に戦死80000人の損害を与えたとある。
最近では5000で20万を破ったという説も出たが
36000前後説が広まったのでどちらも小説以外では見ない。(小説では多い・・・)
敵の半数は兵士ですらなく、北京の博徒や乞食などを
強制的に駆り立てたものでもある。
これが砲兵を担当したので、他の戦線で一度も起きた事がない
大規模な自爆かつ誘爆を引き起こした。
このあたりは大正時代の日本の書物でも触れたものがあるが
昭和になってから完璧に無視されている。
勝利の要因は↑「敵兵の低質と自爆」と「城が完璧なまでに整備されていた」点だな。
へーありがとうございます。つまり素人で突っ込んで精強な島津軍に返り討ちという事ですか。
そりゃぁ虐殺に近いものがありますね
>>564 負けて当然で完備された倭城に強攻すればこうなる。
しかも自爆というオプション付きではな。
この自爆を最大の理由にする人がいるが、実際は強攻を選んだ時点で壊滅してる。
ちなみに泗川城は2つあり、片方に500人程度の島津の一隊がいた。
数日前に彼らが攻撃された時は、なすすべもなく半数以上討ち取られ
義弘の元に逃げ込んでいる。
(樺山か誰かが救援したいと言ったが、義弘はもう一つの城は未完成なので
勝ち目はないという理由で却下している)
自分が疑問に思っていることを書いてみます。
戦国期の部隊編成について
「同心の下に何人かの寄子が集まり、一つの部隊として任務を遂行していた」
といった記述を読んだことがある。(小説だが)
実際の所、最小単位の部隊の構成はどのような形で行なわれていたのだろうか?
他にも侍大将ってどの程度の部隊を率いていたのか?とか
輜重隊の運用はどうなっていたのか?
他にも論功行賞の流れも良く分からない。
知っている人がいたら教えて欲しい。
そういえば騎兵隊と騎馬隊の違いとはなんぞや?
>566殿
最小戦闘単位は、武士を中心に、数人の侍と中間・下人といったものになるようです。
武士一人(大抵は自分の馬を持つ。貧乏だと馬無し)に侍が1〜2人、中間・下人が2〜3人という構成
になります。
侍は武士に雇われた(主従関係を結んだ)兵士なので、力のある武士なら、当然侍の数が多くなります。
中間(“ちゅうげん”と読む。武家身分と一般人の中間身分という意味らしい)や下人は、馬の世話や荷物運びをする、
武家そのものや侍に雇われている人間です(武家奉公人)。
ですので、貧乏な武士は侍一人だけしか従者がいなかったりしますが、大体騎馬武者一騎に侍・中間などの従者が5人
ほどいたようです。このうち、武士と侍が武家の構成員(武家身分)で、正規の兵士となります。中間や下人は、身分的に
戦闘員とはみなされず、後方支援が主な任務ですが、当然戦闘に参加することもあります。(武器は自衛用の打刀1本のみ
だったりしますが)。
ちなみに、平安〜南北朝期の頃の身分体系だと、侍も補助兵士であり、あくまで武士のみが正規兵になります。
戦国時代中期以降は逆に、中間も積極的に戦闘員として扱われるようになります。(でも身分的には非正規兵…)
中世日本にとって、軍隊とは武士のことを指しているが
律令には組み込まれていない。
(後付の法律で規定されているが、基本の法は変えられていない)
現代日本にとって、軍隊とは自衛隊のことであるが
憲法では規定されていない。
この辺り比較しても面白いのではないでしょうか?
570 :
名無し三等兵:04/08/09 17:59 ID:HSOuAFlO
571 :
566:04/08/09 18:23 ID:???
おお、詳しい解説ありがとうございます。
でもそうなってくると、戦国物に良く出てくる「弓隊」「鉄砲隊」等の
単一兵科での部隊運用は難しくなりますね。
職業軍人の発生は近代になるまで無かったのでしょうか?
うろ覚えですが、武田信玄や織田信長辺りが実施していたような気がしたのですが。
>571
武田の騎馬隊も実際は騎乗の武士+侍・中間のパターン
騎馬だけの部隊(近代の騎兵のイメージ)とは異なる。
信長は詳しくないが、鉄砲足軽だけで部隊を編成できたかは疑問。
ただ、武田信玄と違って信長は経済力があったので編成しようと思えばできたのかも。
篭城以外では明治時代以前は騎馬武者+侍・中間のパターンが基本
強行軍などをやって結果的に騎馬武者だけになる(徒歩がついてこれなくなる)ことはあるらしいが・・・
信長軍の場合、主力となる武将の家臣団に直轄の与力武将を与えて軍隊編成するから
各武将の鉄砲隊なら鉄砲隊を抽出して、大規模な単一兵科部隊を編成できたとは思う
しかし統制が取れないだろうから、やらないだろうけどね
574 :
名無し三等兵:04/08/09 23:05 ID:FmAykloL
今、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ戦国大合戦」見てるんだけど、
合戦描写とか、攻城戦とか(・∀・)イイ!!ね
>573
長篠では諸将に鉄砲隊を供出させたらしい。
ただ、単一兵科の部隊といえるような運用をしたかどうかは良く判らない。
>571
実はそこらへんのことは、オレもまだよく分かってないのですが、
戦国時代中期以降は、足軽(中間を足軽として運用したり、支配地域から徴兵・募兵したもの)を
使っての兵科毎の編成が存在はするようです。
この場合、足軽頭や組頭と言われる、侍クラスの人間が、10人くらいを一組にして指揮します。
武士が戦う場合、侍や中間を支援兵士として、その場に応じた武器(もしくは好きな武器)で戦ったようなので、単一の武装で
の「部隊」としては運用されなかったでしょう。(※)
しかし、侍や足軽をある程度の数でまとめて、「部隊」として運用することは、戦国時代中期以降はあったようです。
それでも、多くて数十人単位だと思われます。戦国後期の鋒矢の陣(“ほうし”:矢の刃先の意)では、前面に鉄砲隊、
側面・後方に槍隊・弓隊を置き、その中心に大将や旗本勢を配置したようですが、この場合の鉄砲隊・弓隊・槍隊というのが、
足軽や侍で構成された単一兵科部隊にあたります。
(※ 騎馬武者一人、侍一人<メインウエポン:槍>、槍持ちの中間二人<打刀>、鉄砲持ちの中間一人<打刀>、子荷駄の下人一人<打刀>
といった編成で参戦した武士が居るとします。侍は武士の側で常に戦い、主人を援護し、中間や下人達は主人の替えの武装を持って待機・追従
して、主人が武器や装備品を求めたときに渡す役割を担います。とっさの場合には運んでいる武器で主人を助けることも当然あったでしょうが、
中間が持っている武装は自衛用の打刀や腰刀を除いて主人のものなので、彼等が勝手に使用する事は出来ません。ちなみに、この例では弓が
ありませんが、弓持ちが居る場合もあります。)
あと、武士・侍は職業軍人ですよ。特に、武士は領主クラス(小領主から大名まで幅広いですが)の軍人なので、どこかの組織に属さなくても
生きていける、自立した存在です。逆に侍は仕官する武家がないと生活できない人々ですが、彼等も別に自ら農業や商いをする必要はない
のです。主人から給金が貰えるんですから(中には副業しないと生きていけない地域・人もいたでしょうが)。
>574殿
『クレヨンしんちゃん あっぱれ!嵐を呼ぶ戦国大合戦』は、
個人的に、戦国時代後期の戦争形態を映像化した物のなかで、過去最高の出来だと思っています。
もっと前の、南北朝動乱期の戦争形態を映像化した物のなかで、良く出来ているのも、これまたアニメ
の『もののけ姫』なのですが、この二つの合戦描写・武装を比較すると、面白いですよ。
鎧のディティールが両方とも結構省略されちゃっているのが残念なんですけどね(形や構造はちゃんと描かれてる)。
まあ、鎧の細かいディティールまで描いて、それを動かすとなると、アニメーターが死にかねないので、しょうがないですが。
すいませんがもののけのどこがリアルかよくわらないんですけど?
>577
戦国しんちゃんは、合戦の間に食べてるオニギリが真っ白だったのが
ちょっと気になったぐらいでしたな。
>>577 「火蓋を切る」シーンなんて、実写でも滅多に出てこないのに、
アニメであの描写は凄いと思いました。
>578殿
小具足無しで腹巻きや腹当てのみを直に着こんだ雑兵や、当世具足を着込んだ、まっとうな武士達が混在して、
村、またはは小領主同士の境界争い、もしくは掠奪目当てと思われる小競り合いの合戦をしていて、
まだ弓と長巻きや薙刀、野太刀がメインウエポンという、応仁の乱前後の戦争様式を見事に表しています。
あと、タタラ場の人間が使っている、棒の先に前装填式の射出器を備えた銃がありますが、中国経由で
火縄銃伝来以前の15世紀中頃(ちょうど応仁の乱の頃)には日本に伝わって実用化されていたらしい(主に西国の
水軍によって)、と最近の研究では言われています。
あと、箙(“えびら”、矢を入れて形態するための道具)から矢を抜く時、ちゃんと腰の下から矢を抜いてます。
※和弓では、右腰に箙や空穂(“うつぼ”、箙にカバーを付けたような構造のもの)を着けて、矢を下から引き抜いて
弓につがえる。肩の上から抜くようなことはしない。
まあ、基本的にはファンタジーですが、そういった細かい描写の部分のリアリティが結構あるんですよ。
(職人や商人の格好等も、当時の絵巻物に残っているものをちゃんと研究して描いているのが良くわかります。
つうか、かなりそのまんまだったりするし)
>579殿 582殿
凄いですよね。鉄砲隊と投げ焙烙の足軽、全員右手に予備火縄をちゃんと巻いてるしね。
言葉もかなり当時のものに近づけてるし。(組頭の号令とか)
あとは、又兵衛の侍であるじいさんが、又兵衛の事を「殿」って呼んでて、城主の事は「〜様」(名前忘れた…)
って呼んでるのに気がついた時、感心しちゃったよ。
武士はより力のある武士(武将や大名)に仕えるから、武士にとっては城主などが“殿”になるけど、武士自体に
仕える侍は、その武士が“殿”であって、城主や武将は単に主人である武士より偉い人、でしかないんだけど、
そこらへんの違いをきちんと表現しきれてない時代劇のほうが多いからね。
でも、個人的に一番気に行ったシーンは、縄で編んだスリング使って、投石してるところ。
中世に成立した軍記ものや当時の記録とかでは、飛礫による負傷などが出てくるから、投石で攻撃していた
のは確実なんだけど、そういったものには飛礫と書いてあるだけで、手で投げたのか、スリングを使ったのか、
はっきり書いてない場合の方が多いのよ。
でも、戦国時代以前(平安時代に成立した絵巻物だったような)にスリングを使って石を投げ合う人間達を描いたものが
あるし、戦前まで縄で編んだスリングを使って石を飛ばす遊び・祭りが伝承してたらしいんだよね。
そこから考察すると、スリングを使って威力を上げた飛礫を、武器として活用していないはずはない、って事になるんだけど、
それをちゃんと描写した時代劇っていうのは、これが初めてなんじゃないかな。
それに、個人的に当時のスリングを造って試したことがあるんだけど(平安の頃から戦前まで、材質等や構造は特に変化
していないようだ)、上手く飛ばなかったこともあって、これは大変参考になったよ。上回しで投擲するんじゃなくて、下回しで下から放るように
投擲するものみたいね、これ見る限りは。オレは上回しでやってた…。
>>585 それは、体の使い方が違うから、とか言ってみる。
そういや南米に投石器で石を投げ合うお祭りをテレビで見たことがあるが
そのときはサイドスローとアンダースローの中間くらいで投げていたな。
合戦がそんなにぬるいわけないだろうよ。
川中島4thで7000人、関が原で10000人、耳川で20000人死んでるんだぞ。
童貞のまま、地獄の苦しみを味わって死んでいった足軽たちはかわいそうだなぁ。
一方で女は男に抱かれてものすごい快感を味わって天寿を全うする。
不公平極まりないな。
>>585 スリングって威力を増すためのものというより、飛距離を延ばすためのものだと思う
だから下回しで斜め上に投擲するのでは?
590 :
某研究者:04/08/10 15:21 ID:aMFEbvug
>585
>589
漏れの考えだけど・・・・
スリングを使わないとまともなダメージを与えられなかったと言うことはないのかな?
平地での投石の場合(城などからの投げ下ろしを除く)体格がよく、球技に慣れた現代の人間でも
安定してダメージを与えられるのはよくて50M強ってところだろう。
戦国時代の人間だと素手の投石ではよくて20Mかそこらだったとも考えられる。
そうすると騎馬の突進が届く距離だし、投石より先に蹂躙されてしまう。
そのため飛距離をあげる必要に駆られてスリングを使ったと想定するのだが・・・
593 :
名無し三等兵:04/08/11 01:25 ID:Kz2GWmaM
良スレあげ
球技に慣れるという要素は投石に慣れれば良いだけで関係なかろう。
体格はまだ影響あろうが、これも現代>戦国時代>江戸時代ともいわれるので
生活における運動量までかんがえて影響は少ないかもしれんと思う
一応結論が出ましたかね?
スリングと言わずに印地打ち(いんじうち)と言いましょう。
武田軍ではかなり組織化されていて瀝も算盤の弾の様にするどく尖らせていた。
597 :
名無し三等兵:04/08/18 19:03 ID:d1+aWrwK
白川の石工たちのアルバイトでも印地うちはありました。
598 :
名無し三等兵:04/08/18 23:17 ID:e0CL/LqW
三方ヶ原の戦いで、
織田徳川連合軍一万一千を、武田軍三万が迎え撃ち、騎馬軍団の展開に適した広大な草原を有効に活用、
織田徳川連合軍を打ち破り、浜松城まで追撃して、ほとんど無傷で敵兵の首一千余をあげる記録的な勝利を得た。
武田信玄と武田軍最強
織田徳川弱すぎ。
>
>>598 織田(伊庭)軍+上杉謙信軍相手に、記録的勝利ですか?
もう一度資料を読み直して下さい。
600get♪
識者の方、教えてくだされ。
荷駄隊(補給部隊)が人力だけで、木製の台車を引いて一日に80〜100Km行軍したってホント?
無理だ
>>601 荷駄隊にも駄馬、輓馬はあったはずだがどの道無理。
>>601 通常の行軍は1時間/4km、強行軍で6kmほど
不眠不休で行軍して24h*4km=96kmだが、部隊の9割は脱落するだろう
>604
それって、あの牟田口閣下のインパール入り時の皮算用ぢゃないのか。
>>605 一時間4kmってのは平地の話だからねえ
ジャングルとか山岳地帯なら0.5かけて計算するべし
ジャングルで山岳地帯なら0.25だな
行軍&兵站で少し分らないことがあるのですが。
・戦場まで移動する日数
・合戦
・帰還する日数
これらを全て合わせると最低でも1週間はかかりますよね?
その間の補給は滞りなく行えるものなのでしょうか?
(千差万別なのでしょうが)
合戦時の補給ってどのように行われていたのでしょうかね?
またどのようなものを準備していったんでしょうかね?
(食料のみ輸送ということは無い筈)
610 :
Pz:04/08/26 23:53 ID:Eq6C75jH
現地調達が思ってるより多かったはず、何しろ飼葉を含めて9割近くが農産物なのだから
当時の輸送手段能力や道路事情では、策源地からの継続的な補給は無理だろう
現地で徴発や購入できる物資を苦労してはるばる運ぶはずない
25年前クレベルトの「補給戦」を読んで、目からうろこが落ちる思いだった
学校で習った「山城の国一揆」でも
36人の国人衆の要求が両畠山勢の領内通過の禁止だったことも
軍勢が行き来するだけで徴発による領国の疲弊や、購入した場合でも
食料の高騰を招き領国が疲弊する事に対しての要求と理解できる(流通手段の未発達な当時では購入でも物資は枯渇し高騰したに違いない)
>>607 部隊の規模や合戦の様相によって大きく違います
補給の要領は概ね現地調達、推進補給、随伴補給に大別できますが、
兵站能力が作戦の規模や期間を決定すると言っても過言ではありません
当時の合戦は作戦期間が日帰りや2〜3日程度のケースのほうが多く、
大抵は手弁当程度の兵站準備で事足りていました
小規模な軍勢ならば現地調達も当てに出来ますが、現地調達のみに頼るようなケースは稀です
特に、攻城戦のような長期間の作戦が予想される状況では推進補給態勢の確立が絶対条件でした
例外もありますが、洋の東西を問わず近世以前において独立的の行動できる野戦軍の上限値は
概ね3万程度です
軍需物資の中で占める比率まではわからないけど
遅くとも織豊期までには軍勢に商人が付いてきて
彼らから食料や弾薬を購入する方法もあったらしい。
613 :
607:04/08/27 02:39 ID:???
みなさんありがとうございます。
商人がついて来るような事もあったのですね。
攻め手が十分な兵糧を用意できないのが常態なら、
守り手側は城に籠もれば、かなり有利になるな。
もっとも、青田刈りをされるから損害も大きいだろうけど
>>614 我慢できなくなって出撃してしまうケースもあるしね(w
616 :
Pz:04/08/30 08:46 ID:XIzEioJt
>>612 商人というけど、費用だけじゃなく、結局輸送手段の問題
船が使えなければ、長期に長距離の大量な物資は輸送できまい
本願寺などをめぐる水軍の戦いや、上杉と秀吉の小田原攻めの違いなどにも
表れている
船以外の手段では近場での物資を集めることになり
その地域の物資は不足高騰する
鳥取城攻めなんかは意図的にそれを利用して、城側の兵糧集積を妨害したのでは?
617 :
名無し三等兵:04/08/30 11:43 ID:2D9hk/89
昔、読んだ「長篠合戦の真相」?って本に行軍するときは鎧、兜は着けずにいた
とあったんですが、実際どうなんでしょう。
確かにあんなモン着けて行軍するのは疲労でダウンしそうなんですが。
一方で、上の身分のものは家来に持たせれば良いですが、足軽や低い士分のものは
かえって食料などの荷物に加えて鎧が増えるし。
支援要員が結構多かったのか何か携行法が有ったのか疑問です。
足軽が着用してた防具って重さどれくらいだったの?
619 :
名無し三等兵:04/08/30 17:39 ID:MiJUrUYz
俺は司馬遼太郎の将校としての能力が気になる
戦争物書く時はまず理想的な戦術を地図に書き込んで、その後実際の戦術を
書いていったそうだから。一応大日本帝国の将校だし
ああ、司馬遼を戦国時代に降臨させてみたい
621 :
Pz:04/08/30 19:42 ID:2v6Z88SK
>>619 昔、戦マガで読んだが、司馬は大戦末期に戦車の装甲板をやすりでけずってみて
やすりで削れるほど品質が落ちたってなんかの本で嘆いてたそうだ
表面硬化だけでしのいだ装甲から、変形で吸収する装甲に進歩したのに
品質低下だと思ってるって、嘆いてる元技術者の記事だった
そんな司馬なんか降臨させても理屈倒れになるだけでは
>>621 3式戦車だろ
もろに軟鉄だったとの説もある。
なにせ終戦直前だからな…
>621
三式なら土浦にあるなぁ〜。
藻前、ダイヤモンドやすりでいいから実験してきてくれんかのう。
横には89式もM4もあるし。
学徒動員だが基礎的な戦術については一応教育を受けてるだろ
625 :
Pz:04/08/30 20:37 ID:2v6Z88SK
>>623 M4も戦後の戦車もみんなやすりで削れるってその記事に書いてあった記憶があるぞ
もっとも、第3世代戦車が出始めた、戦マガ創刊のころだが
「司馬先生のヤスリで簡単に削れたというエッセイ内の話と」
「製作にかかわった人から材料不足で軟鉄になったという話」
反論として一般的なのは...
「初期の戦車は、
AFH、表面硬化装甲鋼鈑(表面硬化=炭素を添加して表面を固める)、後期は、
RHA、圧延均質装甲鋼鈑(圧延=元素添加で粘りを出す...)に変わったので、
表面にヤスリがかかっても問題無い...」
なのですが(-_-;)...
ドイツでは、添加する貴重元素が輸入できなくなることを見越して戦車は
AFH、表面硬化装甲鋼鈑で作ることにして
RHA、圧延均質装甲鋼鈑の使用量を減らしました。
(少数生産のタイガー1が10cmの圧延均質装甲鋼鈑で)
(大量生産のパンターが8cmの表面硬化装甲鋼鈑です)
大戦末期に添加材料があるかどうかですが
試作戦車用の材料にも困っていたので...
どうやら軟鉄説で正しいようです...
資源の海上輸送が壊滅して原料不足、おまけに優先的に資源を
回されたのは航空機生産のほうですから...
形だけしかできなかったのもしかたないでしょう(^^)...
2000.1214...
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta024a.htm
そりゃまあM4の車体の溶接装甲も削れることは削れるだろうが
ヤスリを何本潰せばいいのか想像つかんなw
628 :
少佐:04/08/30 21:00 ID:US5VOUKk
戦国時代の「武芸者」は残存する資料を見ると神業を使う達人ばかりである。
ここから考察するに、その神業の達人達と戦ってた百姓兵達もかなり
強かったんじゃないか?
神業の達人には及ばないが、かなりの達人だったのではないか?
629 :
少佐:04/08/30 21:14 ID:US5VOUKk
中国の気功師などは気功を手のひらからジェット噴射して人を吹き飛ばすが、
この技をさらに発展させて足や尻から気功ジェット噴射をして超人的な跳躍
力を体得していた武芸者も戦国時代にはいたらしい。
例の「水蜘蛛の術」もこの気功ジェット噴流の応用だろう。
手から出るなら、足からも出るのだ。
司馬氏についてはノモンハンスレや
乃木将軍と旅順スレで大いに語っていただきたいんですが・・・。
なにぶん人が少なくて・・・。
兜とかは背負ってたんじゃないかなー
被っての移動はつらすぎるっしょ。
それかジャンケンで負けた奴が全部持ってくとか、
電柱ごとに交代とか。
三方原は1時間くらいで勝負がついたらしいよ。
あっというまだね。
1万以上の兵力で挑むわけだから、負けるにしても、せめて2〜3日は持つのが
普通と思うが。
織田徳川の指揮官は武田の騎馬軍団の風説にとらわれすぎて冷静な指揮が
出来なかったんじゃないかな。指揮官の腰が引けてれば当時の農民兵なんて
あっというまに恐慌状態になるだろうから。
あげ
634 :
名無し三等兵:04/09/26 10:02:07 ID:Tgo2GbTd
あげてなかった。
>>617 騎馬の武者なら、兜は馬にひっかけて行軍したんじゃないですか?
足軽の陣笠は鉄製ではないし、日除けにもなるから、かぶって行軍するのが
ベストだと思うんですけど。
>>631 徒歩行軍の主体の足軽は、鉄製の兜なんてほとんどいないでしょう。
和紙に漆を何重にもぬった陣笠とか、よくて燻革の、やはり漆を縫った
陣笠じゃなかったでしたっけ?
>>632 広大な戦域に展開して、火力を応酬しあう現代戦じゃないですよ。
カンネエみたいな規模の戦いでも何時間で決着ついたと思ってんだ。
カンネ
カンヌエ
カンネエ
さてどれが一番原音に近いでしょう
>636
2000年以上前の当時のラテン語の発音って現代にも伝わっとるの?
>>632 多分に家康の遠江死守の宣伝みたいな戦だったから、
いかにして味方の被害を少なくして敵の損害を増やすか、
ということを考えれば、早期撤退はさほど誤りではないかと。
浜松には「小豆餅」「銭取」という変わった地名がある。
三方原の合戦のあと、敗走中の家康が、小豆餅を食い逃げした茶店のあったところと、
茶店の主人に追いつかれ、金を払わされた場所、だそうだ。
このエピソード、どの程度信憑性があるんだろうか?
出来過ぎていて怪しいというのが俺の感想なんだが。
>>640 家康が大敗を喫して多くの死者を出した後も
領民から慕われていた、
少なくとも見放されていなかった、
という証拠ですな。
>>640 「信玄公笠掛けの松」みたいなものだろう。
(本当かどうかは別として)そんないわれが伝わっていてもええやんと思う。
まあ後世の講談から付いた地名が殆どだが
高天原の由来は事実に基づくものだぞ
保存。
646 :
名無し三等兵:04/10/24 11:27:39 ID:9M9TzoZ9
あげ
647 :
少佐:04/10/24 11:53:39 ID:eX6yYyj6
戦国時代における主力武器は投石である。
戦国時代の戦いは石合戦のようなものだったと思えば早い。
コストが安いうえに、連射性に優れ威力もあるので多用されたのだ。
>>647 今更・・・少佐を名乗るなら過去ログぐらい読もうね
650 :
名無し三等兵:04/11/05 17:27:45 ID:DlH4G5ar
YOSHIMOTO
>>637 ラテン語は、詩の研究、当時の語学書などで、
発音の仕方についても相当のことかわかっている。
図書館等に行けばある、ラテン語入門、
ラテン語の辞書等を参考されよ。
我々が言う「ローマ字読み」にかなりちかい。
いやちょっと待て、日本語にしても奈良平安時代なんかの発音は
声注、声点なんかが残っててかなりのことがわかるが、
それでも正確な発音となるとわからないという話だぞ。
「ローマ字読みに近い」なんて初級ラテン語レベルの知識で語られても信じられないんだが。
キリスト教の聖書は宗教改革まではラテン語だけだったし
聖職者はいまでもラテン語は必須でしょ
だから、発音がわからないということは無いと思うが・・・
詳しい人おらんかのう
ラテン語だけ、って元はギリシャ語とヘブライ語なんだが。
ヒエロニムスによるラテン語訳が完成したのが西暦400年頃、
となれば聖書のラテン語なんてせいぜいそのくらいにしか遡れない。
カンネーの戦いとの間には600年以上の開きがあることになる。
だいたい、第二次ポエニ戦争時のローマなんて文化的な整備もされていないし、
聖書で使うような体系付けられたラテン語とはわけが違う。
…と思うんだが、確かにその辺詳しい人の話は聞きたい。
ラテン語音韻史なんてやってる人が日本にいるかどうかは知らないが。
つか、軍板の日本戦国史スレで何つー話してるんだろうな。
長篠合戦は三段撃ちで織田軍は勝ったんですか?それは、作り話だという話を
よく聞くのですが、真相はどうなのでしょうか?
過去レス嫁
ほりえ帝国で織田家最高のためにがんばりますのでご協力ください。
あまり国名は気にしないでください。本心を隠すために偽名を使ったまでです。
660 :
名無し三等兵:04/12/01 22:30:59 ID:0HpGKSg5
保守age
661 :
名無し三等兵:04/12/10 20:47:20 ID:XEh6Vzs2
昇竜
>658 まさかここにプレイヤーが居られたとは。
頑張ってください。
リア厨のときに社会科の先生から聞いた話。
1.まず、お互い遠くから石を投げたり罵声を浴びせたりする。
2.雑兵が突撃する。彼らは槍を持っている。
3.雑兵は、とにかく敵に向かって雄たけびをあげて走っていくが、実際に
衝突間際までくるとピタリと止まり、槍を構えて大声で威嚇するだけに
なる。
4.そうこうしているうちに、雑兵の群れは横に広がり、複数列の横隊に
なる(規律正しく並んでいるわけではないが)。
5.その状態で、お互いにらみあいになり、時間がすぎる。(長いと30分
とか1時間とかになる)
6.やがて、誰かひとりがしびれを切らして前に出る。その者は敵の槍
で穴だらけにされて死ぬ場合がほとんど。
7.前に出た者がいた方の陣営は、6に一拍遅れる感じで前に出る。
8.前に出られた方は、6に一瞬気を取られているので7に対応しきれず
怪我人が多く出て勢いがそがれてしまい、たいてい負ける。
・6の者を「一番槍」と呼ぶ。それが出た側が勝つことが多く、また戦闘
開始のきっかけを作った勇気のある者とみなされるので褒美が出るが、
本人は既に死んでいるので家族等の縁者に渡される。
これを聞いたときは、「ああなんかリアル。そりゃいざあいまみえると
なったら足が前に出なくなって止まっちゃうよなー。前方は殺気立った
男の顔が並ぶ槍衾だもの。」と思った覚えがある。
にしても、今考えてみると、これはいったいいつの時代のどんな戦なんだ
ろうか。まあもちろん、他の要素、例えば馬上の武者とか弓の射掛けあい
とかが省略されてるから特定できそうにもないけど、なんか村同士の水争い
とかそういう雰囲気。
664 :
名無し三等兵:04/12/18 23:44:54 ID:fODE2Ggp
何を参考にその説を組み立てたかだな。
>656
本当。ただし100年戦争で英国も弓でやってた。
>656
実際のところは良くわかってないというのが真相。
ただ、寄親−寄子関係を切り離し、鉄砲隊を組織して集中運用したのは本当。
>>656 軍板FAQより
http://mltr.e-city.tv/faq11.html#長篠 【質問】
長篠の戦(1575)で,織田信長が武田勝頼相手に,火縄銃部隊を3列にして発射して,発射にかかる時間を短縮して
いたと学校で習いました.
ヨーロッパでも,火縄銃を使っていた時代,このような作戦は採られたのですか?
【回答】
まず,信長の三千挺三段撃ちですが,行われていなかったと言うのが,ここ15年ぐらいの定説に成りつつあります.
まず,最も史料価値の高いと言われる太田牛一の「信長公記」には,この戦術に関する記述が全く無い事が有ります.
この戦術の初出は,小瀬甫庵の「信長記」ですが,この書は長篠の合戦の50年も後に出版されており,多分に江戸
幕府の思想的プロパガンダのバイアスがかかっており,資料的価値が低い事.
当時の織田,徳川軍の鉄砲隊は,各家臣団の諸兵,傭兵等の混成部隊であり,複雑な統制の取れた行動が,訓練
期間の足りなさも相まって困難であった事.
長篠の陣が,山の稜線に沿って複雑に出入りしており,一人(少数)の合図に従って一斉射撃を加えるのが,無線の
無い当時は不可能であった事が予測される事が有ります.
では,何故に小瀬甫庵がその戦術を思い立ったかと言えば,中世の中国では,ボウガンの三段撃ちを行っており,
儒学者である小瀬甫庵が「信長記」にそれを盛り込んだのでは,との説が有力です.
そして,何故この三段撃ちが定説として流布されたかと言えば,旧陸軍参謀本部が,「日本戦史」編さんのおり,ろくに
精査もせずに採用した為でした.
長篠の戦いの真の革新的な所は,野戦築城を日本で始めて大規模に採用した事です.
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4.html#11によれば,これは,恐らく宣教師からの助言が有ったものと
思われます.
「長篠合戦の72年前の1503年、ヨーロッパで野戦築城された陣地に拠(よ)って鉄砲を使った側が、攻めてきた敵を
さんざんに破るという有名な戦いが行われた。イタリアのチェリニョーラというところで、スペイン軍がフランス軍を打ち
破ったのである。
「好奇心の強い信長は、ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ、長篠で実践したのでは」と鈴木さんは推測する」
新しい作り話の作られ方
「好奇心の強い信長は、ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ、長篠で実践したのでは」と鈴木さんは推測する
↓
「好奇心の強い信長は、ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ、長篠で実践した」
670 :
名無し三等兵:04/12/21 16:02:57 ID:kOt6Qgxx
ある人に聞いた話なのだが
1.合戦の陣形・手順が無いのはそんな物が無かったからである。
2.よって、投射兵器を撃ち合いながら先備が適当(隊列・陣形無しの意)に前進する。
3.功名目当てのが先ず飛び出てつられるように他のも飛び出す。
4.大将はやばくなった所に中備、援軍を向ける。
5.で、どちらかが崩れるまで殴り合い。
と言う、ケルトスタイルじゃないかと言う事らしい。
大将が一番気を配るのが初期配置で、武将の持つ部隊ごとに強さの違う戦国時では最も重要だとの事。
但し、ケルト人と較べ戦国軍隊はせこくてずるい(つまり狡猾)うえ農耕民族故持続力が有り、更に同様
のローマ人やギリシャ人以上に横並び精神の持ち主(よって「みんな一緒に精神」を盛り上げる密集陣を
採る必要無し)、更には良くも悪くも小手先の技と現場の独断専行が得意と言う散兵戦術を採るには
最適の軍隊だったりするらしい。
まあ、欧州的な感性から言えば前時代的な軍隊以外の何者でもないんだけどね。
ん?
雑兵物語には、きっちりと集団で行動する武士の軍団が出てくる
はずだが。
一斉に並んで、長槍で戦う槍足軽の話とか。
君は「欧州人がみた」視点で戦国時代の合戦をみていないかい?
密集隊形をとったりしないと、「矢ぶすま」も作れないじゃないですか。いくらなんでも、そんな雑然とした戦い方だけで、天下をとったり
できるとは思えないんだが?
>>617 あと、また雑兵物語でもうしわけないんだが、夫丸という荷駄隊を、
護衛している足軽はちゃんと甲冑をみにつけ、二本さしで歩いて
いたようですが。
そもそも足軽の甲冑なんて、3、4キログラムしかないんですが。
そこに、布にまいた飯をくくりつけて歩くわけです。
胴は鉄製がほとんどだけど、だいたい草摺は皮革製だし、足軽傘も
同じ。
甲冑なんて身につけるのに時間がかかるものを、わざわざはずして
歩くというのは、ちょっと、どうでしょう。
完全に勢力圏内だったら、別だと思うが。
現在の自衛隊がボディーアーマーつけて、あの荷物背負って歩いたら
どれくらいの重さがあるかは、御存じでしょ?
672 :
670:04/12/21 22:11:25 ID:???
>>671 列と言ってもただ単に雑多な集団から出て来ただけと言う考えもできますし
足軽「馬来たぞ馬」
下級指揮官「おい、長槍持ってる奴前出ろ」
てな光景があちこちで見られるとか。
第一、列作る事が決まってるなら公文書に残ってるはずです、絶対。
着到書や陣立書という動員記録が残ってる位なんですから。
後、密集陣って脱走兵を防ぐのが主な理由ですから。
後、少なくとも徴集兵は長槍は扱えないそうです。
絶対穂先を地面に突き刺して、折るとか。
>>617 ではないのですが、学研の戦国合戦集なんかに足軽鎧様の櫃を担ぐ夫丸がいたと書かれてます。
ははぁ、
だから兵農分離は画期的だったんだね
兵農分離は関係ないだろ。
>>672 どうも、それは信じられない。
ある程度の密集隊形は有効だと思うんだが。
陣立てに関しては、すこし漏れも調べてみるよ。
ちなみに、長槍というか、数槍でしょ?足軽が使うのは。
軍団によっては、ちゃんと訓練うけた槍足軽組があったはずだけど。
それと、足軽鎧のひつを担ぐ夫丸はちょっと聞いたことない。
もしよかったら、学研に載ってると思うが、そこに参考資料が
ないです?
足軽が甲冑をきた上で、上級の武士の鎧のはいった甲冑をかつが
されたりしているのは、雑兵物語りに出ている。
ただ、そういう職種があったとしても戦場というか、陣につくまで
鎧を着ないというのは変だし、領内を行軍するときだけでは?
そもそも、たかだか4キログラム程度の甲冑を、わざわざ人に
かつがせるのって、どうなんだろう。
>>670 ちなみにだが、中国の古代の戦闘方式もそんなもんじゃなかったっけ。
欧州的な感性って、何?
日本人の軍事能力に驚いたという記事はどっかでよんだ記憶はある。
宣教師はだいぶ偏見でみている人もおおいようだけど。
ただ、そんな適当な戦い方で、朝鮮出兵の際にあれだけの野戦能力を
発揮できるとは思えないんだが。
677 :
670:04/12/22 23:07:45 ID:???
>>676 そうですね、中国も欧州と同じ考え方でした。
日本が変なんですよと言ってました。
これは私の間違いです。
鉄砲で散々怯ませた後、突っ込むという考え方だそうです。
当時の鉄砲の射程距離を考えると突撃は十分可能ですし
そうなると辺の部分しか戦闘できない密集陣より、疲れたら
交代して休める散兵の方が有利では
>>677 うーん…、日本の戦国時代(多少、大名連中によって差はある
だろうけど)の合戦は。
たしか、戦闘部隊の30パーセントを火縄銃というか、 マスケット
銃隊が占めているはず。で、残りの30パーセントが弓だったり、
槍だったり。
だから、どちらかというともともと火力戦闘重視ですよね。
だから、軍の隊形の正面には、広く浅く展開した散兵が有利かとも
思いますが。
ただ、当時の銃や矢の能力では、射撃手側もある程度密集しないと
効果をあげるのは難しいですよね。小さな固まった組が、点々と
散会している感じでは。
その背後に、やはりある程度密集した槍組や騎兵集団がいたと
思うんですが。
<突撃は充分可能ですし
これが事実なら、相手の突撃をうけとめる密集隊形も少しは
ないとおかしくないですか?
また、鉄砲でひるませたあとに突っ込むという考え方というのは、
ソースというか、誰か別の方の御考えなのでしょうか?
いずれにせよ突撃戦に移るのなら、白兵戦闘は、やはり散兵では
おかしいですよ。
朝鮮出兵でも、刀の威力についての記述が相手の文献にあったり、
中国も倭刀を導入しているところから、かなりの戦力をもった
白兵戦部隊の存在をうかがえるのですが。
679 :
670:04/12/23 00:01:24 ID:???
>>678 その人の意見は散兵というのは配置よりも指揮系統的な意味合いが強いと思います。
後、密集陣がいたら兎に角鉄砲で撃つでしょう。
680 :
670:04/12/23 11:44:22 ID:???
補足
朝鮮の役を描いた鍋島の朝鮮軍図屏風には丘の裾野に整然と隊列を組んだ明・朝鮮連合軍と
それとは対照的に山上に雑多な陣を敷く日本軍が描かれています。
後その人の言うには明の記録にも「日本軍は陣形を作らないでどうして我々に勝てるのか」と
不思議がる記述があると言ってました。
>>679 あのー、縦深というのを御存じですか?
前面には当然、火力戦闘をおこなう鉄砲足軽組が展開してるでしょう。
でも、相手が突撃してくるとしたら、ある程度の密集した部隊もないと
防げないですよ。
>>680 山間部では、当然、雑然としたほうが有利でしょう。
ベロポネソス戦争でも、結局、重装歩兵の密集陣だけでは
どうしようもなくて、けっきょく雑然と、というより
散開して攻撃というか、襲撃をしかけてくる軽装歩兵が重要になってきたわけですから。
それと、屏風画は、演出の都合も相当はいっているので、史料に
するなら、それなりに当時の日本画の知識が必要になりますよ。
関ヶ原の合戦をえがいた画なのに、武士がみんなカラフルな
大鎧をつけていたり、きちんと胴丸を描いている画でも、なぜか
大袖がついていたりするので。
あと、できればその明側の記録の文書名を教えていただけますか?
手にはいるものなら、探してよんでみます。
もしかしたら漏れが大きな勘違いをしているのかもしれないし。
682 :
670:04/12/23 14:33:21 ID:???
>>675 学研の資料には井伊の木俣という者の手廻り約90人が描かれており、
その中に「足軽具足長持(2人)」と書かれてます。
なお、図は「井伊家の軍師岡本半介の記録」を基に描いたとあります。
>>681 1段だけでなくて後方に何段もあってそれで食い止めます。
密集陣が厚い1枚板とするなら、薄い和紙を何枚も重ねたようなものです。
どの様な記録かは聞き及んでいませんでした。
図屏風の民・朝鮮軍は密集した方陣や逆三角陣を採っており、これ程整然とした
戦列を日本軍が採った事は無いと言える物です。
明・朝鮮軍はある程度指揮系統が一本化されてるのに対し、日本側は兵はそれぞれの
武将の持ち寄りで構成されてるんで、上からの指示の強制性が弱いから、それぞれが
ある意味勝手に布陣したんじゃなかろうか。碧蹄館の戦いの際にも先陣の予定だった
立花勢をさし置いて、毛利と宇喜多が先陣争いをしたらしいし。
684 :
670:04/12/23 20:03:38 ID:???
>>682 ちなみに図屏風の戦いの舞台は蔚山合戦とのことです。
これは蔚山城に包囲された日本軍を救援すると言うもので、私が挙げたのは
援軍が情勢を見極めるためとりあえず山に登り、連合軍と対峙する場面です。
>>682 えーと、すみません、人数構成がよくわからないのですが…。
90人というのは、すべてが夫丸なのでしょうか?
そして、その内に足軽具足の長持が2人なのでしょうか?
他の夫丸の役割は何でしょう?
そして、その人たちが支援する足軽というか、部隊の人数は
わかりますか?
予備の櫃持ちなのか、井伊家中では実際に行軍の際に鎧をぬいでいたのか、ちょっと簡潔すぎて判断できかねますが…。
どうにもこうにも、わずか3、4キロの鎧をわざわざ脱いで活動する
というのが信じられないです。
陣でも、鎧を脱ぐということはほとんどなかったようですから。
行軍の際は鎧をぬぎ、陣についたら、ずっと鎧をきたままで
生活するというのでしょうか??
あと、屏風にかかれている画をもとに考察するのは、ちょっと…。
現代でいうと映画をみて考察するようなもので。
軍形や陣型についても、一次史料が残っているのではないかと
思いますが。
>>683 ま、中央集権の軍団ではないですから、しょうがないですね。
基本はよせあつめ。ただ、それぞれの家中では統制はとれて
いたと思うんですが。
信長がいきていれば、違ったかもしれませんね。
彼にとって武将とは、城とセットの封建領主でなく、ただの
野戦司令官と考えていたフシがありますから。
>>684 その戦闘については、こちらも調べてみますね。
どうも御丁寧にありがとうございます。
687 :
670:04/12/23 23:08:57 ID:???
>>685 後方要員もあわせた全ての数です。
この内足軽の名が付くのは鉄砲と弓の5人、長槍持ち4人
他に騎馬の供廻りもいますがこれは騎馬に乗ってるものが用意するので
勘定に入っていないのでしょう。
その代わり武将の供廻り分(近習4人、供4人)の長持持ちは4人います。
図屏風は確かにそうですが、それを割り引いても日本の陣とは一線を画してます。
なお、今残ってる図屏風は写本ですが原本は実際に戦った鍋島直茂が従軍した
絵師に描かせた物と言う事ですから、絵画表現を除けば十分参考にできるかと思います。
>>687 そうでしょうか?
山岳での戦いにそもそも密集陣をもってくること自体が、
中国側のほうがおかしなことなのですが。むしろ中国側の
実戦経験をうたがいます。
山岳での戦いはそうだったのかもしれませんが、それを野戦にまで
敷衍するのにはすこし抵抗を覚えるのですが。
えぇと、あと内約なのですが。
90人が全体の数で、10人弱が足軽。その足軽の具足持ちが
2人ということですね?
予備の具足持ちではないのでしょうか?
まぁ、ひとり5領の足軽具足をもつとすると、20キロをこえない
でしょうから、別にさして問題はないかとは思いますが。
どうも行軍中にわざわざ鎧をぬいで行動するというのが
信じられないのですが。それとも何か理由があるのでしょうか。
689 :
670:04/12/25 11:21:09 ID:???
>>688 誤解されてるようなので説明いたしますと、
この時、山上に展開した日本救援軍と対峙した連合軍は太和江(凍結)と平地を挟んだ丘陵の裾野に展開しています。
おそらく連合軍側としては蔚山城に立て篭もる日本軍を救援する以上、平地に押し出るであろうからそこを叩く腹積もり
だったのでしょうが予期せぬ救援軍の夜襲を受け、その為退路を断たれる事を恐れ城の包囲を解き後退しました。
因みに隊列を組んでの夜襲は困難であり、その点からも日本軍には隊列戦闘はなかったと考えています。
690 :
670:04/12/25 11:31:16 ID:???
足軽に関してはそれこそ可能な限り軽装になる事で、機動力と体力の向上・保持
に気を配ったのではないでしょうか?
完全武装より脇差と陣笠、後槍を担いだだけの方が断然楽ですし、
最も戦地に近づけば、鎧も着込むでしょうが。
>>689 しかし、隊列戦闘はなかったとの考えの根拠が「屏風」では
あまりに、あまりではないでしょうか?
では、たとえば関ヶ原の合戦のような戦闘などでも、隊列すらなく、
ばらばらに適当に点在した兵力どうしが勝手に戦った、というように
御考えということでしょうか。
692 :
670:04/12/26 11:37:46 ID:???
>>691 隊列戦闘は基本として兵による壁を構築し敵の突破を防ぐと言うものです。
このため戦列が突破された場合、増援がない限り壊乱します。
またその戦闘速度も隊列を維持する以上、ゆっくりでなければなりません。
しかし古書を見ると「何段目まで突き崩された」とか「切り崩され、数丁にわたって後退」
とあり、隊列を組んでいる場合それは直ちに壊乱を意味するでしょう。
なぜなら戦列というのは一度崩されたら再び組むのは先ず不可能と言うものなのです。
また戦闘速度も「駆けつつ」といった言葉を見る限り、併足でなければ列を維持できない
隊列戦闘が行われていたかは疑問です。
693 :
別人:04/12/26 14:29:38 ID:???
>>691 点在、というほど一人一人の感覚は、離れていないが、
全体として、整列したとは言えない状況の可能性もある。
漏れは、学生運動全盛期の、
デモ隊に近いのではないか。、
もっといい装備で士気も高い状態だろうが。
と妄想しております。
(若い人にはわかりにくいか?)
書いている人達の兵法や用兵、戦術の技術に関する知識の真相を論じてくれ。
>>693 騎馬侍を小隊長、その直臣の徒武者を歩卒の分隊長。
手持ちの歩卒を護衛隊。
そこに上から寄せられた徒武者(浪人?)、各種歩卒(槍、弓、鉄砲)
による小隊システムの集合体といった所だろうか?
普段は雑多に固まってるが必要な局面では各兵種が出て戦い、
突撃になると全員で突っ込む。
他に大名の直臣として騎馬隊や鉄砲隊の単一兵科部隊がいた可能性はある。
これらは各武将への増援や予備部隊として用いられていたのではないだろうか?
ちょいまち!
雑兵物語をちゃんと読んだ香具師はいないのか?
槍をそろえて、一斉に叩くべい、という台詞。
あれは、槍組はきっちり隊列くんで、一斉に攻撃していたという
ことではないの?
数槍をもった足軽の槍組は隊列戦闘をおこなっていたのでは?
全体として、すべてが重装歩兵の密集陣みたい
なのをくんでいたとまでは思えないが。密集した隊列と、
分散した隊を併用していたということでは?
日本の戦国大名が、それぞれまったく隊列を考慮せず、ざったな
賊徒のような戦い方をしていたとの根拠が屏風と、人から聞いた話では
はっきりいって根拠薄弱。
それに、現実問題、そんな適当な戦い方で、朝鮮半島であそこまでの
戦闘を展開できるのやら?
>>663 あと、その戦闘方式はすごくヘン。
足軽に、一番槍とかは認められていないはずだが?
足軽というか、歩兵どうしの戦闘がある程度展開してきて、
隙をみて騎馬武者が槍でつっこむ、というものだったはず。
それが一番槍。
戦闘の一番最初に槍をつけることを、一番槍というのでは
ないんだが。
社会科の先生のいうことをウのみにするのはどうかと。
>>695 小さな組は、足軽の鉄砲組10人、槍組10人、弓組10人、
小隊長のような侍がひとり、騎馬の侍が5人、というような
構成じゃなかったっけ。
ちょっと人数的に記憶は曖昧で、鉄砲君と槍組などは、それぞれ
人数がすこし前後するかも。
んで、雑兵物語には、いちおう騎馬戦にむくような平地では、臨機
応変に騎馬部隊を集成して、敵陣に攻撃をしかけた、というような
話もでてくるんだが。
ただ、最初から集中した騎兵集団、歩兵集団というようにわかれて
いたかはわからない。
>>696 >全体として、すべてが重装歩兵の密集陣みたい
>なのをくんでいたとまでは思えないが。密集した隊列と、
>分散した隊を併用していたということでは?
学生のデモ隊も、機動隊とぶつかるときには、
その先頭集団に、長物持たせたりしていたな。
>>696 雑兵物語が足軽への指針という所をミソと考えてみますと
足軽に
「長槍を使用するときは集団から出て槍を並べるべし」
と考えるべきでは。
前線の各集団が同様な事をすれば鑓列になるでしょう。
ただこれを隊列戦闘とは言えないと思いますが。
後、雑多でも自然と前線はできるでしょう。
特に、世界一であろう日本人の横並び精神なら。
>>696 >日本の戦国大名が、それぞれまったく隊列を考慮せず、ざったな
>賊徒のような戦い方をしていたとの根拠が屏風と、人から聞いた話では
>はっきりいって根拠薄弱。
隊列を組んで戦闘したという資料も無い事をお忘れなく。
他の隊列を用いた国がその構成について詳しく残している事も併せて。
>それに、現実問題、そんな適当な戦い方で、朝鮮半島であそこまでの
>戦闘を展開できるのやら?
逆に言えば、柔軟性が高いと言えるのでは、1隊での諸兵科連合として。
>>699 あのー、指針ではなくて、いちおう教本だったはずですが?
しかも、「長槍をしようするときは、集団からでて槍をならべる
べし」というのは、どこをどうよんだら、そういう結論がでて
くるのでしょう?
いくらなんでも雑多な集団を、適当にならべただけで前線は
できません。
>>700 あのですね、でしたら、完全に両方についていまのところ、
しっかりとした説を出せている人はいないということになりますが?
それぞれの家中が戦術にかんした著作を残しているかについては、
漏れも不勉強でよくしらないですし。
とりあえず、隊列を組んで戦ったかどうかについては、
現状ではソースになりうるのは、雑兵物語と、その屏風くらいでは?
こだわっているわけではないですが、演出のはいる屏風よりは
根拠が大きいのではないかと。
あのう、それと前から気になっていたのですが、貴方のお説を要約すると、
「近代的な西洋では密集した隊形による戦術が発達し、それは
非常にすぐれた戦闘隊形である。だが、西洋よりおとった日本では
そういった隊列が発達していたはずがない。それは屏風をみても
よくわかることだ」ということになるのでしょうか?
>>670と同一人物かはわかりませんが。
>>700 それと、そういうことであれば、隊列をくんで相手の突進を
とめることのできる組と、火力を投射できる散兵線、軽装歩兵
のような戦い方をする前衛など、いくつかの能力をもった部隊を
組み合わせた戦い方のほうが、柔軟性は高いのでは?
>>701 >>それに、現実問題、そんな適当な戦い方で、朝鮮半島であそこまでの
>>戦闘を展開できるのやら?
>逆に言えば、柔軟性が高いと言えるのでは、1隊での諸兵科連合として。
以上。
諸兵科小部隊による前線構築という事で。
戦列戦闘は機械の様な行動が必要な為、厳密な操典が必要ですが、
チーム戦闘は逆に臨機応変な行動を必要とするものです。
古書の記述は大抵乱戦を伺わせるものです。
あと、あなたの要約は逆転させると大体私の意見に近くなります。
私はむしろ戦列は見掛け倒しの物としか見られません。
(これはあくまで私の印象なのでアレコレ言わないでね)
日本で隊列は・・・使える場所がどれだけあるか・・・
武士って体臭強いの?
戦国時代の戦闘にはあんまり詳しくないんだけど、所属ごとに機動性のある少数の隊列を幾つも作って運用(って言っても多分おおざっぱな命令程度しか出せないけど)すれば場所もあんまり取らなくてオッケーじゃないの?
上でかかれてる朝鮮の話でも雑多な陣ごとに身軽な小中規模での隊列またはそれに近いものの運用をしていたとすれば辻褄が合うんじゃないかとか妄想してみたんだけど・・・。
670=703と同一人物と判断して。
670は670で書いたこととその後に出てくる「ある人曰く」のその人の根拠となっている
書物なり絵なりそれが何なのか聞いてから書き込んで、お願い。
そしてあなたは670で書いたある人の1から5までの話しを全面的に信用してるの?
今のところ足軽自身に聞いて書いた雑兵物語だけが確かな根拠であるし。
>>682 >図屏風の民・朝鮮軍は密集した方陣や逆三角陣を採っており
>>689 >この時、山上に展開した日本救援軍と対峙した連合軍は太和江(凍結)と平地を挟んだ丘陵の裾野に展開しています。
このように書いているあなたが
>日本で隊列は・・・使える場所がどれだけあるか・・・
こんなこと言うとは。明・朝鮮軍が展開した地形は日本でもいくらでもあるし、
1万対1万程度であれば十分隊列が組めるように思えます。
戦場の航空写真(歴史群像とかなどで)で確認できます。
それと
>>689 >因みに隊列を組んでの夜襲は困難であり
と
>その点からも日本軍には隊列戦闘はなかったと考えています。
の、結びつきが不明。夜襲という奇襲で隊列の有無を論じることはできないと思う。
>>706 実際、日本で平原上で正面切って戦う戦闘はどれほどありましたか?
大久保彦左衛門はその手の戦いは姉川と三方ヶ原位だと言ってました。
後、平原に見えても田んぼといった地形障害もお忘れなく。
日本軍が頻繁に夜襲を行えたのという事は常時、夜襲に適した隊列を組まない
戦闘を行ったと言う事になります。
>>707 後、山中や森の突破も戦列組んだままでは無理です。
障害地形を突破する際には日本に限らず何処の国も戦列なんか組まないと思うけど・・・
>>709 日本は障害地形の無い戦場なんて滅多にありません。
川の中で戦ったり、田んぼの中で戦ったり、山の中で戦ったり、湿地で戦ったり・・・
そんな状況でわざわざ樹木の無い平地でしか使えないような隊列戦闘をするとは・・・
平地の多い地域なら、隊列組んだ重装歩兵と騎兵の組み合わせ。
平地の少ない地域なら、軽歩兵による散兵戦が発達する。
日本の戦争は、後者メインだったのではないかと思う。
盆地と盆地を結ぶ個所、隘路入り口付近などで防御側が隊列で陣を作り
攻めて側が散兵的に攻める場合が多い。攻めて側は隙間狙い。
防御側は隙間が出来ないように配置される。
これは市町村、群、国の入り口となる個所、相手側の兵力より多数を
配置できる個所に布陣していることが多いと判断しています。
670さんが言う戦闘における隊列というのはどういうものなのでしょうか?
相手も隊列、こちらも隊列、場所は平原、密集陣でなければ認めないと
いうことでしょうか?
672で言われているように雑多な列であったと言うことでしょうか。
つまり、
意識的に列を作るのではなく、無意識の列であるということですか。
>下級指揮官「おい、長槍持ってる奴前出ろ」
この掛け声でできた列、そこに訓練なしでの行動が可能のようには
私は思えません。
隊列は相手側を包囲するのに有効であり、雑多な列で可能のようには
思えません。
夜襲に関してですが隊列が組める場所があり、なおかつ近くに森などの
場所がある所では相手が隊列で攻める場所にわざわざ野営しないでしょう。
それに日本での戦闘における山間部の比率が高いので自ずと奇襲は、こういう
個所で行われることが多いと思います。
やはり、この部分に答えてください。
>>682 >図屏風の民・朝鮮軍は密集した方陣や逆三角陣を採っており
>>689 >この時、山上に展開した日本救援軍と対峙した連合軍は太和江(凍結)と平地を挟んだ丘陵の裾野に展開しています。
つまり、明・朝鮮軍が狙った作戦を可能、適当であるとあなたが判断しているならば
私が判断していることも可能、適当であると思います。
日本側で長槍などで20×3などで(片方が相手を追い込む際も、両方のぶつかり合いも)
戦うことが絶対にないならば隊列を使った戦闘はなかったと私もそう判断します。
大久保彦左衛門ですがそれは大久保が参加した(自分が属している組織が行った)戦闘しか
カバーしていないのでは?
田んぼについてはその時代に田んぼかどうかを調べる必要があります。
714 :
名無し三等兵:04/12/28 17:37:44 ID:IHk4/xS+
>隊列は相手側を包囲するのに有効であり、雑多な列で可能のようには
>思えません。
日本の場合、あくまで一時的な抑えにのみ列が任意に組まれていたと考えてます。
そしてそれは組んでる間は殆どその場から動かなかったでしょう。
それならば大した訓練は必要としません。
>夜襲に関してですが隊列が組める場所があり、なおかつ近くに森などの
>場所がある所では相手が隊列で攻める場所にわざわざ野営しないでしょう。
>それに日本での戦闘における山間部の比率が高いので自ずと奇襲は、こういう
>個所で行われることが多いと思います。
ならば全ての戦闘が隊列を組まない方が良い事になりませんか?
>つまり、明・朝鮮軍が狙った作戦を可能、適当であるとあなたが判断しているならば
>私が判断していることも可能、適当であると思います。
明・朝鮮軍は少なくともそう判断したのでしょう。
>日本側で長槍などで20×3などで(片方が相手を追い込む際も、両方のぶつかり合いも)
>戦うことが絶対にないならば隊列を使った戦闘はなかったと私もそう判断します。
まずありませんね。
日本の国土を見る限り、その様な戦闘が可能な土地より不可能な土地の方が断然多いですし、
その様な見栄えのする戦闘をしたという記録は書物にも絵にも一切ありません。
>大久保彦左衛門ですがそれは大久保が参加した(自分が属している組織が行った)戦闘しか
>カバーしていないのでは?
>田んぼについてはその時代に田んぼかどうかを調べる必要があります。
徳川軍が当時、平野の多い方である東海道を中心に戦闘していた事をお忘れなく。
715 :
○V○:04/12/28 17:55:47 ID:???
イタリア半島北部は山岳地帯ですが、イタリア戦争ではフランス軍もスペイン軍も
隊列を組んで戦っていますね
しかもこの戦争の経験がテルシオ編成の一因になっていますね
重槍兵密集陣で勇名を馳せたスイスは確か山岳地帯だったはずです
地域の地形的特性と戦闘隊列の確立には因果関係はないようですね
絶海の小島ならともかく
716 :
○V○:04/12/28 18:01:34 ID:???
無線機もない時代に山や森林の中では組織的戦闘は不可能です
理由は、単純に指揮官が部隊を掌握できないからという一点に尽きます
ですから、野戦は専ら主要な街道沿いの平地で行われました
やむを得ず山の中や森の中で戦う際には、指揮官が余程の小部隊でもなければ
部隊を掌握できるように戦場を道路沿いや林縁に選定しました
兵力が大きければ大きいほどこの傾向は強いと言えるでしょう
717 :
○V○:04/12/28 18:14:29 ID:???
そもそも足軽の長柄槍は隊列を組んで使用することを前提としている兵器です
あんな6メートルもある棒高跳びの棒のような槍を一人一人てんでばらばらに振り回しても
隣や後ろの味方の頭をぶん殴るのが関の山でしょう
>>715 ああ、私日本人ですから山には森があるとばっかし思い込んでました。
そういえばスイスやイタリア北部、そういえばギリシャの山もそれほど
樹木は生えてませんでしたね、すみません。
>>716 戦闘機動として森の突破は頻繁に行なわれてました。
後、山上の陣地から降りて戦闘加入も良く有りましたね。
散兵の場合、指揮官はあまり言うことはありません。
現場で大抵の事を済ましてしまうからです。
>>717 これがFAでないかい?
隊列(のようなもの)を組まないと使用不可能な兵器を使っている以上、
隊列(のようなもの)を組んだのは、確実だろう。
720 :
○V○:04/12/28 19:23:10 ID:???
721 :
○V○:04/12/28 19:26:34 ID:???
>戦闘機動として森の突破は頻繁に行なわれてました。
少数の兵力ならともかく、備単位でそのようなことをしたようなケースは聞いたことがありませんが
>後、山上の陣地から降りて戦闘加入も良く有りましたね。
小高い丘から押し出したようなケースなら幾らでもありますが、山の上からというケースも利いたことありませんが
722 :
○V○:04/12/28 19:34:49 ID:???
>散兵の場合、指揮官はあまり言うことはありません。
幾らでもありますよ
攻撃目標や攻撃方向、進退のタイミング等々、散兵ならばこそ指揮官の仕事の量は多いでしょうね
しかも錯雑した地形ではそれが徹底しているかどうかの確認だけでも一苦労でしょうね
723 :
○V○:04/12/28 19:43:47 ID:???
ああ、山の上からと言えば妻女山がありましたね
でもあれが戦闘加入と言えるかどうか・・・
どなたか軍の索敵について当時の日本と西洋の違いを教えてください。
忍者やスカウトやレンジャー軍システムにおいて果たす役割とその位置付けなど。
>>711 日本の足軽は、軽装歩兵というには、かなりの重武装ですが。
大和朝廷時代の短甲などの武装も、相当重武装ですよ。
>>719 それが必要とされる時だけ組めばいいんです。
>>720 イタリア・ギリシャは地中海性気候で乾燥が激しく、
スイスは亜寒帯湿潤気候で居住地は殆どが草地です。
観光名所的な写真を挙げられても・・・
>>721 三増峠の戦いや碧蹄館の戦いが挙げられます。
後、賎ケ岳の戦いも入れていいでしょう。
関が原の小早川軍はお忘れですか?
後、山崎合戦の中川清秀隊もそうですね。
>>722 挙げられたうち前2つは事前命令ですし、後一つはたとえ錯雑した地形でも
前線近くにいればよいのでは?
>>714 あのー、ですね。
日本では隊列をくんで戦闘することが不可能な地形がほとんどだと
おっしゃってますよね。
1万人の兵士が隊列をくんだ場合、どれくらいの規模になるか
御存じでいってるんですか?
かりにそのうちの3000人が槍組としたとして、
300列×10列ですが。
300列が密集しているとしたら、たかだか300メートル程度の
隊列になりますけど。
その程度の平地もないほど、日本は奥まったジャングルや
山岳に囲まれているんですか?そうおっしゃっているとしか
思えませんが?
たとえば関ヶ原などに実際いったことはおありでしょうか。
死ぬほど広いですけど。
数万の歩兵が展開しても余裕があります。
たんぼがそもそも障害地形とは思えません。ふつうに歩けます。
その意味では、まず日本が隊列戦闘をおこなわなかった根拠に
なりえません。
それから、夜襲について。
当然日本は夜襲をお家芸としていましたから、当然警戒するでしょう。
夜襲は隊列を組まないでしょう。
が、昼間の戦いでもそうしなければいけない理由は皆無ですが?
>>714 それから、ひとつひとつ細かいことつっこみますけど。
貴方の根拠をもうすこし明確に教えてください。
まず、隊列戦闘はなかったと称する根拠の、「人から聞いた話」
はまず誰なのか。なぜ、屏風だけからそこまで話を広げようとするのか?
同じ屏風でいいなら、隊列をくんでどうどうとした横隊を展開している
屏風も腐るほどありますが?
それから、<統べての戦闘で隊列を組まないほうがよいことに
なりませんか?
意味不明です。山間部であっても、こちらがしっかりとした
小さな隊列でもいいからつくっていれば、攻撃は至難になりますが。
あと、日本の国土については上記を参照してください。
あなたは日本の国土を歩き回ったことがないひとなのか?
どこかの書物に「日本は山岳がおおく、密集した陣にむかない」
というような記述があるのをウのみにしているのでは?
>日本の場合、あくまで一時的な抑えにのみ列が任意に組まれていたと考えてます。
>そしてそれは組んでる間は殆どその場から動かなかったでしょう。
>それならば大した訓練は必要としません。
防御の時や相手を囲んだ場合の任意の隊列の訓練はあったと判断しています。
そうでなければ雑兵物語は書かれないでしょう。
前の書き込みに操典や教範の有無を根拠に上げていましたが、
それは必ずしも決定打にはなりえないと思います。
理由は口伝による隊形などが多いからです。また、戦術も。世界各地で。
そのため私は操典や教範の有無で結論を言うのは根拠に欠けると思います。
欧州の武器教範に隊列が語られていることに武器の発達による
隊列が垣間見られる気がします。
密集自信は14世紀あたりでのギリシア・ローマの陣の再発見ですが。
>ならば全ての戦闘が隊列を組まない方が良い事になりませんか?
この個所はまったくもって意味が分かりません。なぜそう判断するのか。
野営、宿営は歩哨などがいることが前提で書いています。
隊列(陣形)を組んでの野営というのはそうせざるをえない地形に
おいてで、部隊を隠す場所を探すのは当然やっていたでしょう。
>見栄えのする戦闘
そういうことを論議しているわけではありません。
見栄えがするのかしないのかは個人の感想になりますが、戦国武将が
それが見栄えのする戦闘かどうか、どう考えているかは解りませんね。な、
>日本の国土を見る限り、その様な戦闘が可能な土地より不可能な土地の方が断然多い
当然そうですが。
>土地の方が断然多いですし
「ですし」というのでそれが理由であると判断して、
あなたが上げたウルサンでは右脇軍約一万が隊列を組んでいたんですよ。
ウルサン全域ではなくウルサン城付近の個所で十分配置可能なわけですよ。
長槍などで20×3でも四車線道路で十分すぎるでしょう。
>戦闘が可能な土地より不可能な土地の方が断然多い
これは大きな視点で見過ぎで、現在の県庁所在地などでの平野で
一万対一万などは余裕できると思います。
館や平山の攻城での後詰めなどは平野部での戦闘です。
後詰め部隊が包囲している側を蜂矢などで激突しています。
>平野の多い方である東海道を中心に戦闘していた事をお忘れなく。
忘れていません。三河物語ですかね。
大久保彦左衛門が言うところのその手の戦いは万対万の大軍同士の戦闘に
ついて言っていると私は解釈していましたよ。ほとんど内容を覚えていないので
今は無理でもいずれ読みます。
しかしながら、やはりその言っているところは徳川の合戦であり、
徳川が絡んでいない北条、武田、上杉、佐竹などの関東の
諸大名同士の戦闘を含んでないでしょう。
731 :
○V○:04/12/28 22:12:12 ID:???
>観光名所的な写真を挙げられても・・・
やれやれ、わざわざそれぞれの主要都市の郊外の写真を挙げたんですが
特にイタリアの写真はカッサロ峠
トスカナ防衛の一翼を担うカッサロ要塞の近くなんですけど
732 :
○V○:04/12/28 22:32:26 ID:???
>三増峠の戦いや碧蹄館の戦いが挙げられます。
>後、賎ケ岳の戦いも入れていいでしょう。
>関が原の小早川軍はお忘れですか?
>後、山崎合戦の中川清秀隊もそうですね。
三増峠の戦闘は主に道路沿いで行われてます
山県勢の進軍ルートである韮尾根〜志田峠も道路沿いです
それに碧蹄館は森林地帯ではありません
賎ケ岳でも森林地帯を踏破した事例は聞いたことがありませんね
秀吉勢の岐阜〜近江木之本の反転機動も道路上を進軍してますし
関が原の小早川勢の松尾山は平地に接する小高い丘陵でしかありませんし、
小早川勢は松尾山から下りて戦闘展開してます
松尾山からいきなり戦闘加入したわけではありません
山崎合戦の中川勢は天王山に布陣していましたが、別に道なき道を踏破して布陣したわけではありません
>挙げられたうち前2つは事前命令ですし、
事前に細部まで徹底することは無理です
当時は正確な地図すらないのに・・・・
>前線近くにいればよいのでは?
前線にいたって地形が錯雑して状況も把握できず、部隊がどう展開しているかも解らないんですが
田んぼについてはあまり詳しくないので間違いがあると思いますが
思うところを書きます。
田んぼの水田ですが私は歩いて1分で水田があるのですが
水を引き稲を植えます、それから秋の収穫時あたりでは
水はからからで土にはヒビが入っています。
稲を刈った後は平面になっているんですよ。
冬、春ではそこでキャッチボールしたりしています。
また、近所の猫が横断しています。
冬あたりでは野菜を育ててる畑ぐたいですかね、
表面に柔らかい土があります。
春あたりは雑草が生え草原っぽくなっています。
グーグル画像検索、刈り取りで参考画像
ttp://www.himawari.ed.jp/matsugaeminami_e/5-KOMEDUKURI15.htm 収穫期前から3月ぐらいまで田んぼでは余裕で戦闘できると判断しています。
農閑期に兵を集めて合戦をするのは農民の余剰した分と田んぼが
障害にほとんどならないことなど理に適います。
机上数学論は無視して・・・(2万か3万でまともな戦術機動もできなくなる
主戦域2キロの関ヶ原を広いとは・・・)
口伝で戦術・隊形が伝わったという論は理解できません。
更にその事が文章に一切残らなかったのはそれ以上に理解できません。
平地戦の少なさ(川を挟んだ戦いを除けば三方ヶ原ぐらい)、それに仮に
冬の田んぼでもあぜに水路に足を取られる。
仮に隘路を固めても隊列を作らず迂回すればお終い。
地図が無い?村のものを雇い道案内させれば良い。
指揮に問題がある?当時は迂回に成功すれば勝つ。
行軍隊形から戦列を組むまでに敵は待ってはくれない。
戦闘開始後にそんな事する馬鹿はいない。
>戦闘機動として森の突破は頻繁に行なわれてました。
森林では戦略機動も何も無い。
足が埋まる腐葉土や足に絡みつく藪の中そんなに素早く軍を動かせるものでは
有りませんよ。
>机上数学論は無視して・・・
あなたのことですな。
>だから隊列を組まないんですけどね
隊列を組むか組まないかの問題ではない。
足が埋まる所や藪を掻き分けながら進むのを隊列を組まないですすむと、踏み
固められた地面の上、つまり街道沿いを歩くより早いとおっしゃるのですか。
また、山中、森林の古道は地形等の踏破しやすい所を通っているものです。
>>737 歩きやすい所を固められてるからこそ迂回するのですが?
>歩きやすい所を固められてるからこそ迂回するのですが?
歩きにくい所を進むと相手より早く行動できるのですか?
戦略機動が実現できると思いますか?
740 :
○V○:04/12/28 23:32:54 ID:???
>仮に隘路を固めても隊列を作らず迂回すればお終い。
道路も無いところを地図もコンパスも無線機も無く踏破しようとしたら迷子になりますよ
>村のものを雇い道案内させれば良い。
またそういう根拠の無いことを・・・
周囲の地形を熟知した村人がいつもいるわけじゃありません
そもそも当時の村民の行動半径なんてそんなに広くありません
村と自分の田畑を除けば近くの市への道路とか周囲の山菜くらいです
>行軍隊形から戦列を組むまでに敵は待ってはくれない。
だから軍隊は主力の前方に前衛を配するのです
山崎合戦の中川勢がその好例ですね
>>739 相手を前面に拘置し、その間戦列が移動できない狭隘地の左右を迂回すれば包囲可能。
碧蹄館の戦い。
742 :
○V○:04/12/28 23:36:00 ID:???
戦略機動と言うからには、そこには容易かつ迅速に移動できるよう道路があり、橋が架けられ、
補給のための物資集積所があり、情報伝達のための伝令もいなければなりません
さて、道も無い森林や山で戦略機動が可能でしょうか?
>>740 前衛は戦列を組んで山を降りられるとでも?
そして渡河しても戦列は崩れないとでも?
744 :
○V○:04/12/28 23:37:23 ID:???
碧蹄館は迂回挟撃ではありませんよ
むしろあれは伏撃に近いと言えます
746 :
○V○:04/12/28 23:38:22 ID:???
>前衛は戦列を組んで山を降りられるとでも?
>そして渡河しても戦列は崩れないとでも?
誰がそんなことを言いました?
>>744 いいえ、挟撃です。
>>746 前衛云々は?
渡河云々は言ってませんでしたね、すいません。
748 :
○V○:04/12/28 23:42:07 ID:???
中近世のヨーロッパもそうですが、一般に軍隊は移動する際は行進隊形、
戦闘の際は戦闘隊形で行動するのが普通です
スペインのテルシオは行進隊形から戦闘隊形に移行するのに数時間から時には丸一日かかったと
言われています
勿論その時に敵の奇襲を受けないような措置が講じられています
749 :
○V○:04/12/28 23:44:18 ID:???
>前衛云々は?
中川勢は秀吉軍主力の前衛として天王山に布陣していますが?
別に戦列を組んだまま山を下りる必要はどこにもありません
>>749 それで、天王山を降りて戦列を組み終わるまで相手が待つと?
後、戦列組んだまま渡河はできないでしょう。
751 :
○V○:04/12/28 23:51:34 ID:???
>それで、天王山を降りて戦列を組み終わるまで相手が待つと?
何故わざわざ主力が到着する前に天王山を下りる必要があるのですか?
>後、戦列組んだまま渡河はできないでしょう。
何故戦列を組んだまま渡河する必要が?
>口伝で戦術・隊形が伝わったという論は理解できません。
>更にその事が文章に一切残らなかったのはそれ以上に理解できません。
私は知っていますし、理解できます。論ではありません。事実です。
イギリスなどの植民地会得の際のいろいろな文明レベルの部族との戦闘では
伝統的な陣と隊列があったのですよ。
「隊列を組め」という言葉ではなく、動物や山や川の名前を言えばその布陣が
行われました。
概ね、包囲に向かう陣です。陽動的なものもあります。
その部族ではそのイギリスとの戦闘も口伝です。
世界大戦後に文になったのも多いのですよ。
>冬の田んぼでもあぜに水路に足を取られる。
あぜに足を取られるものも出てきますが、棚田でなければ問題ありません。
水路はどのようにあるのですか?迷路のようにあるのですか?
大規模な田んぼでも田んぼを囲むように、外側に大きな水路があるのですよ。
農作業の邪魔にならないように端っこにあるわけですよ。
道と平行するということは兵士は知っているでしょう。
>机上数学論は無視して・・・(2万か3万でまともな戦術機動もできなくなる
>主戦域2キロの関ヶ原を広いとは・・・)
ウルサンでの数字上げましたが?城を囲む兵力は5万七千。
城右側にいたのが約一万で隊列を組んだ絵を資料にあなたが上げている。
その右脇軍は約一万の鍋島の援軍と長宗我部の左脇軍を狙った攻撃部隊で
戦闘開始されました。現実にそういった範囲で展開配置可能です。
>2万か3万でまともな戦術機動
十分です。十分できます。4万、5万でナポレオンはエジプト遠征しました。
戦当時には2、3万を率いた。イギリスとの戦闘でも2、3万です。
オーストリアとの戦闘でも2、3万でのぶつかり合いが多くありました。
2万か3万でまともな戦闘(戦術機動)は幅広く行われています。
753 :
○V○:04/12/28 23:54:31 ID:???
まあ上のほうでも書きましたが、長柄槍を持ってるのに隊列を組まないで戦うほうが
非合理的なんですけどね
>>751 先陣争いのため、そしてそのまま戦闘開始。
ちゃんと経過を知ってるのですか?
渡河してすぐ戦ったり、川の中で戦ったりしてますから。
葦の中を行軍もしてますね。
755 :
○V○:04/12/28 23:58:32 ID:???
>先陣争いのため、そしてそのまま戦闘開始。
>ちゃんと経過を知ってるのですか?
中川勢が下山したのは主力が到着して展開が終わった後ですよ
>渡河してすぐ戦ったり、川の中で戦ったりしてますから。
成る程、敵前渡河のことを言ってたのですか
当然、遠岸に達着したら隊列を組んで戦ったでしょうね
>>752 なるほど日本はそのレベルの文化だと
迷路のようにあります。
あなたが言ってるのは2次大戦後では?
あの〜そこで私が言ったのは関ヶ原。
誰が蔚山の事と言いましたか?
757 :
○V○:04/12/29 00:01:33 ID:???
文化にレベルの高低などありませんよ
>>757 成文化しない文化と言い換えましょうか?
>>755 高山勢に張り合うため無断で降りて戦端が開きました。
そんな暇ありますか?
後、川中の戦闘は?
森林突破による迂回攻撃が不可能な事はお分かりいただけたようですね。
760 :
○V○:04/12/29 00:09:39 ID:???
>高山勢に張り合うため無断で降りて戦端が開きました。
はい、その時は既に秀吉軍の主力は戦場に着到していました
中川清秀は前衛としての任務は十分に果たしていたといえます
761 :
○V○:04/12/29 00:11:47 ID:???
まあいちいちマニュアルを書いたりしないのが日本の伝統ですからね
奉行所の大看板が好例ですね
>>759 >>741参照
狭隘地の左右は山地です。
>>760 それで、降りて直ぐに戦った中川勢は戦列を組む暇があったので。
>>761 そうですねならマニュアルの塊のような密集陣を組むはずがありませんね、日本では。
なにせ縦何人横何人としっかり決めなければならないのですから。
>なるほど日本はそのレベルの文化だと
どういう意味で文化を語っているのですか?
昔に孫子の兵法が入ってきていれば、源平関連の文献に鶴翼の陣の有効性や
運用について書いてあるのですよ。戦国時代は武家うんぬんでいくつかあります。
後北条家の朱印状には兵士の集合地域と隊列を組む作業を取り決めています。
江戸時代初期にまとめられた本では(甲陽軍艦など)敵地における陣立てが
書かれております。
欧州で武器における隊列戦闘を詳しく書いた教範で現存する
最古のものは15、16世紀あたりに書かれ、よく本の表紙になっています。
>迷路のようにあります。
>あなたが言ってるのは2次大戦後では?
まったく違います。あなた憶測でものを言っているでしょう。
解るように作られています。迷路のようにすればその田んぼの持ち主が
困りますからね。なんでわざわざ迷路にするんですか?
>あの〜そこで私が言ったのは関ヶ原。
>誰が蔚山の事と言いましたか?
安心してください。関ヶ原の1.5倍ぐらいでウルサンの戦闘は行われていますから、
暗算で計算できる範囲です。
変換して適用できますよ。
764 :
○V○:04/12/29 00:21:59 ID:???
>それで、降りて直ぐに戦った中川勢は戦列を組む暇があったので。
隊列を組む暇が無かったと考える根拠がありません
>そうですねならマニュアルの塊のような密集陣を組むはずがありませんね、日本では。
その考えは非論理的です
>>762 それと密集陣のマニュアルの名前を教えて下さい。
あのう、誰が誰だかわからなくなるので、
日本戦国時代では、隊列戦闘をくまず、すべての部隊が雑然とした
軽装歩兵の適当な集団だったと論じておられる方は捨てハンでも
何でもいいから、つけてください。
論がますます混乱します。ただでさえ隊列がなかったとの根拠が
意味不明な人から聞いた話と、変な屏風だけなんですから。
川中島の戦いでの車がりの陣はうそっぱちです。
日本は隊列戦闘はしません。
魚燐も鶴翼もありません。
768 :
767:04/12/29 00:34:14 ID:???
孫子などというマニュアルに頼るへたれ中国人とは違います。
769 :
762:04/12/29 00:35:57 ID:???
>>763 行軍列と一緒くたにしない事。
>欧州で武器における隊列戦闘を詳しく書いた教範で現存する
>最古のものは15、16世紀あたりに書かれ、よく本の表紙になっています。
そういったものが日本に無いのが日本の文化と言う事ですか?
少しづつ広げて行った場合、迷路のような構造になってしまいます。
したくないですね。
戦闘状況が全然違いますから。
>>765 あなたが挙げた本の表紙を見たらどうですか?
というより、基本的に日本では江戸時代をはさんでいるわけですから、
集団での戦闘の教本というのは失われてるんじゃないですか?
ほとんどのものは。
屏風とかは残っていますけど、戦国末期などにかかれたものは、
だいたいきちんとした横隊型の陣型をしいている屏風がほとんど
だと思うんですけど。
時代をくだって、江戸期の屏風になると、なぜか大袖のついた
きらびやかな色々威の大鎧をつけた武士たちが一騎うちのような
たたかいかたをする合戦絵巻などが多く描かれるようになりますけど。
762さんは670さんでしょうか?
>行軍列と一緒くたにしない事。
行軍列ではありませんよ。持っている武器ごとに部隊分けした書状が
後北条氏にあるし、運用されたということは事実です。
>そういったものが日本に無いのが日本の文化と言う事ですか?
あなたの解釈方向がおかしいですよ?
その本は絵つきの武器取り扱いからその武器による隊列を書いたもので
日本の文化うんぬんと関連づけした話しではありません。
752、756のやりとりで相手の揚げ足取り程度にしか読まず
まったく意味を別物にもっていくから説明したのです。
合戦の真相について論ずるスレッドなわけで人から聞いた話しを根拠なしで
語られてもまったく意味をなさないからです。
>少しづつ広げて行った場合、迷路のような構造になってしまいます。
なりません。田んぼで作業をしたことがない人ならば迷路のように誤解しますが
農民を徴兵しているし、戦場にもなる個所で経験的にしっていると思われます。
>あなたが挙げた本の表紙を見たらどうですか?
あなたの根拠を聞いているのですよ。
私が上げたのは武器と隊列の関係の本。
あなたの根拠を言わないと誰も解りませんよ。
772 :
675:04/12/29 01:24:25 ID:???
ちょっと論が混乱してきてますね。一度整理してみませんか?
隊列が戦国日本になかったと論じる人が複数いるのか、それとも
お一人でがんばっておられるのかはわかりませんが。
漏れは隊列存在論の側です。
根拠は、戦国末期から江戸初期の屏風にはきっちりと横隊を
しいた陣型がえがかれていること。
雑兵物語をよんでも、明らかに数槍で隊列をしいて、組織的に
戦ったとしか読み取れない記述があること。
それから、やはり隊列というのは有効であると考えるからです。
欧米のような時間のかかる全員がひとつの方形陣になるような
テルシオ型の陣はなかったと思いますがね。
773 :
↑:04/12/29 01:38:46 ID:???
「漏れ」って何ですか?何が漏れたんですか?
隊列という言葉のイメージそのものが食い違ってるような気もするけどね。
おそらく隊列否定派の隊列とは比較的大規模な戦闘単位での統一的な陣形構築を指して
そんなものはなかったといってるんだろうし、隊列肯定派の隊列というのは
小規模な戦闘単位の組織的な人員配置(槍衾)とその総体としての横列構成があったと
いうことなんだろう。
>>774 ただ否定派の人は、なんか隊列自体がなかった派のような
気がするんだけど。
隊列を組まなければ部隊の迅速な移動ができる。
あなた達にはなぜそれが判らないのですか?
>>733 まあ田に足をとられて相手の数倍の軍勢を持ちながら総大将が首を獲られた
戦いも有るんだけどな。
そうだ田んぼのあぜ道最強。
石垣も掘りも要りません。
田んぼのあぜ道と用水路こそが最大の要害。
田んぼを防御に使えば世界最強!
ここで戦国時代の日本では陣形や隊形を組んでの戦術行動が無かったと
主張している人達は、数千人単位で密集して四角形を組まなければ
陣形や隊形とは認めないと言ってるんじゃない?
むしろ、大人数の密集四角隊形が見られなかったこと自体が
陣形や隊形を組んでの戦術行動が頻繁に行われた証拠だと思うのだが・・・。
つーか、隊列否定派ってたった一人で必死で揚げ足取りしてるようにしか見えないんだが。
まあ戦国時代の日本の軍隊は隊列を組んで戦ってたと結論出してもよいかと。
長柄鑓への反論も無いことだし。
槍衾って言葉もあるくらいだし、隊列を組まなかったってのは言いすぎかと。
確かに同時期のテルシオなんかに比べると、重厚さに欠けるイメージもあるけど。
>>776 大人数の移動ってみたことないでしょう?
ばらばらに勝手に移動してたら、とてもじゃないけど
全体を掌握できないし、ばらばらについたりするから、余計時間
かかる。
ベストはちゃんと行進隊形にして、ぞろぞろ歩くこと。
でないと、部隊の機動はできない。
ちなみに、戦闘隊形と、行軍隊形の違いくらいは御存じですよね?
貴方の言い分だと、行軍するときすら隊列を組まない方向に
なってません?
>>781 ただ、テルシオは陣型を組むのにやたらめったら時間かかるし。
重厚さはあっても、行動ものろいですよ。
それよりは、横隊と縦隊をくみあわせて、柔軟に動かしたほうが
よいと思うけど。
それこそ、陣型をくんでいる間の死節点に襲撃されたら、目も
あてられない。
戦国日本は、どうどうとお互い名乗りをあげて陣型をくんで、
おもむろに戦闘するような感じじゃなく、奇襲や襲撃も併用
されてたと思われる。
いちど陣型をくんでしまえば、ばらばらの襲撃は阻止できると
思いますけどね。
ばかやろなかやろ。
たんぼのあぜ道越えようとした奴全員ばたばたと倒れてそこを奇襲されんだ。
たんぼでころんだことのないお前らに口答えする権利はないんだよ。
日本軍も田んぼを盾に米軍と戦うべきだった。
米兵があぜ道でばたばたと倒れたところを銃剣でさせば100戦100勝間違いなし。
786 :
762:04/12/29 19:02:14 ID:???
恒常的に隊列を組んだと言われる雑兵物語の箇所を教えていただきたいのですが。
後、黒田家の夏の陣屏風では集団から駆けでて列を成し、槍戦や鉄砲戦を行う様子が書かれてます。
他の図屏風も駆け込んで槍戦を行っています。
更には記録には「駆けつつ云々」と走りながら戦闘を行ったという記述が多くありますが、そのような事が
列を崩してはいけない、隊列に可能でしょうか?
えっと
隊列太郎と田んぼ太郎の爆誕ですか?
隊列が無い方が実戦では強いことが証明できたようですね。
789 :
名無し三等兵:04/12/29 21:19:17 ID:UkHDVD5b
「隊列を組む訓練はしてただろうがそれを欧州的な規模で使うことはなかった」ぐらいだろ。
>>786 雑兵物語は読んだことないけど、それは雑兵が隊列を組んだ上でその後ろから
遊撃隊的に飛び出したとか、敵の槍衾がやや崩れた時とか、あるいは追撃戦とかの状況ではない?
わかんないけどさ。
791 :
少佐:04/12/29 22:29:01 ID:qp2Sdld4
ここで考えるべきことがある。
昔の人は江戸時代の「飛脚」なんかを考えたら解るように、現代人では考えられない
身体能力を持っていたという点だ。
武器が石ころ、弓矢、槍、棍棒、日本刀、火縄銃程度の今から見たら貧弱な武器でも、
身体能力が現在とは全然違うとしたら我々の想像を超えた戦いであったことは言うまでもない。
792 :
少佐:04/12/29 23:04:23 ID:qp2Sdld4
火縄銃にしてもその貧弱なスペックから言えば、これが有効な武器として機能する
には「ゴルゴ13」並の射撃手が大量にいなければ不可能だ。
そうでなければただバーンと大きい音を出して敵を威嚇するだけの道具になる。
>>791 >「飛脚」なんかを考えたら解るように、現代人では考えられない身体能力を持っていた
それは例外では?飛脚はまさに特殊な職なんだし、
彼らを基準にするという事は室伏を現代人の基準をするようなものではないかと思う。
>>792 弓もそうだが鉄砲も基本は制圧射撃がメインの用法だったので「敵を威嚇」できれば十分有効では?
別に雑兵物語には戦う時は穂先を揃えて叩いたり、馬が来た時は石突きを地面に突けて
対処すべしとは書かれてるが常に隊列を組めなどとは書いていない様に見えるが。
796 :
名無し三等兵:04/12/30 00:07:06 ID:gezEi405
>>795 > 別に雑兵物語には戦う時は穂先を揃えて叩いたり、馬が来た時は石突きを地面に突けて
> 対処すべしとは書かれてるが常に隊列を組めなどとは書いていない様に見えるが。
穂先を揃えて叩くためには隊列(基準ライン)がないとまずいでしょ
それとも文献に隊列≠ト言う言葉が無いとまずいの?
797 :
名無し三等兵:04/12/30 00:27:22 ID:UnDz2qeY
>>795 質問!
隊列(のようなもの)を組まないで、どうやって「穂先を揃える」のですか?
もしかして、隊列を組まないでバラバラの状態で、槍を持つ位置を変えて
穂先が揃うようにするのですか?
隊列を組むよりも、面倒くさいとしか思えないのですが・・・?
>>795 敵が来ると集団から長槍を持つ者達が前進し列を成す。
列を恒常的に形成したという記録がない以上、こういった考えを否定
するのは難しいと思われますが?
細かい話と大きな話が一緒くたになっていると思うのです。
戦場全体を見回して隊列というか陣形を組んだかという話と
個々の部隊が列を作って戦闘したかという話が一緒になっているのでは。
源平の頃から、盾を並べて道を塞いで矢を放ったりしているので
列で戦うというのはあったと思います。
もっと原始的なのは、ヴァイキングのシールドウォールとか
でしょうか。小高いところに横一直線に盾持って並んで敵を迎えるって
奴です。
問題点は指揮系統かと。
つまり兵科ごとに独立した編成なのかそれともいくつかの兵科
を集成して1つの小部隊を構築していたのか?
前者は隊列戦闘、後者は散兵と考えられるかと思います。
一見して後者のほうが柔軟性があるのですがこれには大きな
問題があり、それは指揮統制という事になります。
つまりばらばらで戦っていては状況が掴めずバラバラになって
しまう恐れがあるのです。
これに対処するために編み出されたのが旗指物です。
これにより各級指揮官は旗や馬印で部下や上官の位置、引いて
は自部隊の現在地を確認でき、また雑兵も上官の旗指物や馬印
を覚える事ではぐれる事を防いだと考える事ができます。
ちなみに下級指揮官に奇抜な指物が多いのも、宣伝する為だけで
でなく部下や上官に自隊の位置を明確にさせ戦闘指揮を円滑に行
う為とも取れます。
>>800 戦国時代では家単位、領単位の集団が集まって軍になるのだから「兵科ごとに独立した編成」にはなりようがないのでは?
(後期の織田軍は例外)
>798
>敵が来ると集団から長槍を持つ者達が前進し列を成す。
ちょっと興味深い文献があるので紹介するよ。
兵刃極犀利。裸軆赴鬪。慣舞雙刀。輕?跳躍。以寡勝衆。長于歩戰。?于水陣。
精于刀法鳥銃。而疏于鎗弓。至劫營設伏。華人輒墮其術。
これは、朝鮮戦役に関する朝鮮の史書「再造藩邦志」に記されている
日本軍の戦闘スタイルなんだけど、注目すべきは「精于刀法鳥銃。而疏于鎗弓」
というところ。
剣術と鉄砲で戦うことに長けているが、槍と弓で戦うことは殆ど無いと記録している。
もし、弓と槍が含まれている混成部隊が一線に展開していたとしたら
こういう文句は書かれていない筈だが。
自(朝鮮)軍との武器の比較と私は見ますが・・・。
私としては
輕?跳躍。以寡勝衆。
駆け回り、寡兵で勝つ。
ここに散兵戦術を見る事ができると思います。
朝鮮戦役は戦国末期で、織田タイプの寄親-寄子から兵科ごとに分離集中運用するタイプ編成に切り替わってますからね。
日本軍の典型的な戦い方は、まず飛び道具で仕掛けて、
それによって敵の陣形が崩れたら白兵攻撃と切り替わるので、
鉄砲と刀に長けているという記述は納得いくものです。
長柄というか長槍は陣形を支えるための防衛的な運用というのが基本なので
あまり活躍する場がなかったのでしょう。
弓隊はこの頃は鉄砲隊の補助部隊なので少なくて当然ということで。
(それでも全軍の2パーセントぐらいをしめてたらしい)
805 :
少佐:04/12/30 21:46:15 ID:B7+vAiZC
有名な豊臣秀吉の大阪帰りの話なんかあるだろ?
あの話から察するに当時の人はみんな「飛脚」並の脚力があったんじゃないか?
身体能力は現代人とはまるで違うものとして考える必要があるんじゃないか?
まあ矢張り議論が錯綜してるわけですが、とりあえず今のところまでで分かっていることから結論を。
>>804 日本軍の散兵戦術に関する家単位、領単位の奇抜な指揮系統というか陣形を成す、
隊列(のようなもの)を揃えて叩くためには隊列(基準ライン)有効な武器として機能する上で
その後ろから遊撃隊的に戦闘を行ったという記述が多くありますが、ばらばらの襲撃は部隊の機動はできない。
槍衾って言葉もあるくらいだし、日本の軍隊は隊列を組んで大人数の防御に足をとられて
隊列自体が戦国日本になかったとした書状が戦国末期などに現存すると言う事ですか?
川中島の戦いでの部隊が密集陣の非論理的憶測で、降りて直ぐに戦場に着到し不可能な川中の戦闘、
敵前渡河、葦の中を行軍(戦術機動)は幅広く行われています。
4万、5万で戦列を組んだまま天王山を降りて秀吉軍主力の前衛として移動する際は
前衛云々、迂回挟撃しても戦列は容易かつ迅速に相手を前面に拘置し、周囲の地形を掻き分けながら
足が埋まる腐葉土や足に絡みつく藪の中迂回すれば障害にほとんどならないことなど理に適います。
それに郊外の諸大名同士の野営、宿営はなかったと称する理由はお忘れですか?
日本の足軽は、西洋の散兵のような戦闘機動として森の突破は隊列を組んで単純に隊列を組んで
長槍などで20×3などでカバーして相手側を包囲するのに有効であり、
隊列組んだ重装歩兵と戦列組んだ平原上で正面切って戦う戦闘はどれほどありましたか?
大久保彦左衛門は書物なり絵なりそれが何なのか聞いてから隊列またはそれに近いものの運用をして、
相手の突進をとめることのできる組と、密集した隊形による雑多な集団を、適当に展開すれば鑓列になるでしょう。
ただこれを隊列戦闘とは言えないと思いますが。
学生のデモ隊も、応変にある程度展開してきて、小隊システムの戦術の学生運動全盛期の、
デモ隊に近いのではないか。(若い人にはわかりにくいか?)
また戦闘速度も隊列戦闘に関してはそれこそ可能な限りその人たちが支援するというか、
めるためとりあえず山に登り、それぞれがある意味勝手に方陣や逆三角陣を展開しないと
効果をあげるのは難しいですよね。
うーん、若い人にはわかりにくいか?
わかりにくいのは若い人に限らんと思うぞ。
自動翻訳機にかけたような日本語だ。
すいません、ちょっとだけわかりにくかったですね、要するに、
>>807 日本では、平安時代から近代以前はあまり野戦でも堅固な武装集団をまとめる戦が
ほぼ無くなって、元足軽だった人間が重要な参戦兵力、戦場での徒歩武者にも攻撃してくる
軍人としての身分とか格式、指示や規定制度についてもそれほど勉強してるわけでもなかったので、
騎馬武者数十騎を含んだ連中と迎撃し首を取り、精強な部隊と騎馬隊を中心に、数人の侍と中間・下人
等の単一兵科での部隊運用は武田の主力となる武将の家臣団に直轄の単一兵科の編成が
まっとうな武士達と混在して、鉄砲隊と投げ焙烙の足軽、予備火縄による平地での戦国時代の
広大な草原を記録的勝利していったはず。
これらを全て合わせると最低でも1週間はかかる。
当時の輸送手段能力や道路事情では補給戦や領内通過の軍勢が徴発や継続的な補給を苦労して
はるばる領国の農産物を購入した場合でも部隊の規模や合戦の様相によって大きく違う。
軍需物資の中で商人・十分な兵糧を用意できないのが常態なら、我慢できなくなって水軍の戦いや、
鎧、兜は着けずに実際の戦術をしのいだにしても、せめて2〜3日は足軽の被害を少なくして
主力武器は投石三段撃ちで遠くから罵声を浴びせたり敵に向かって槍をお互いに前に構えて
規律正しくピタリと前に出る。その者は勇気のある者とみなされ既に死んでいる家族等の村同士の
縁を切り離し、資料的価値が低い事が予測されるので、結局合戦の陣形・手順が無いと言う事らしい。
809 :
807:04/12/30 22:29:05 ID:???
…釣られた俺が馬鹿だった
うーん、若い人にはわかりにくいか?
>>800 後、兜の立物にも同じ事が言えるでしょう。
こうして見ると華美と言われた安土桃山文化もその底辺には徹底した合理主義を
見る事ができます。
兵科の集中はどの程度行われていたか・・・
私はその点一部の技能者集団としてのみ存在してたのではないかと考えています。
単一兵科部隊は記録を見ると大大名の直属部隊所謂、馬廻衆や旗本衆に所属しています。
これは維持の費用と封建体制(もっとも本来の封建制とはかなり変容してたでしょうが)上の
限界、そして小隊チーム編成の利点があったのではないでしょうか?
おそらくこれら単一兵科部隊は圧倒的な衝撃力を必要とされる状況に応じて合戦前に各部隊
へ派遣していたのではないのでしょうか?
>806>808
人間の読む文章じゃねえよ
>812 大名が従来の家臣団とは別に自分で技能者を抱え込んでいたということですね。
鉄砲の場合は、そういう集団が毛利家にあったと鉄砲関係の本で読んだ気がします。
でも、家臣が守る城に大名から鉄砲衆が来た場合、指揮と飯の世話はどうするん
でしょう。鉄砲衆に大将を付けて送り込むんだろうか。鉄砲衆を防衛態勢にどう
組み込むかも難問では?使わないとそれはそれで問題だけど、鉄砲衆から損害が
出すぎても問題になるでしょうし。鉄砲玉に火薬の手配も家臣のほうでするんだろうか。
>803
>私としては
>輕?跳躍。以寡勝衆。
>駆け回り、寡兵で勝つ。
>ここに散兵戦術を見る事ができると思います。
「輕?跳躍」と「以寡勝衆」は、切り離して考えるべきでしょう。
「輕?跳躍」は、日本兵の凄まじい敏捷さを説明する文句ですし
「以寡勝衆」は、少数の兵力で多数の敵に勝ってしまう日本軍の
強さを説明した文句ですから、散兵の証拠にはならないですね。
面白いのは「至劫營設伏。華人輒墮其術。」という文句です。
簡単に訳すれば、「陣営を威圧することと伏兵の設置には
中国人ですら、その術策に嵌まってしまう」という意味ですね。
事実、文献を調べれば日本軍の釣り野伏せや待ち伏せにかかって
朝鮮と明の部隊が壊滅した例を探すのは難しいことでは無いほど
日本軍は伏兵を多用しています。
>「輕?跳躍」は、日本兵の凄まじい敏捷さを説明する文句ですし
>「以寡勝衆」は、少数の兵力で多数の敵に勝ってしまう日本軍の
>強さを説明した文句ですから、散兵の証拠にはならないですね。
何故日本兵がそれを可能としたかを考えて見ると私は散兵に至る
と思うのですが。
別に日本人の方が体格に優れてるという事もないでしょうwし。
単に軽装(裸軆赴鬪)だから動きが敏捷だと言ってる可能性もあるわけで、
編成上の問題と即断するのはいかがなものかと
そういえば、コミケの一般参加者の行列はわずか一時間で10万人近くがあのビッグサイトの中に
入っていくんだよな。このあたりは隊列論争の参考にはならないかな?
文の書き方が五七五みたいに美文調に書かれている気がするので
その資料の細かい点にはちょっと疑いを持ったりしますがどうなんでしょうか。
>819 校庭に全生徒が朝礼で並ぶときを考えてみると千人が収まる面積は
そんなに広くないですね。でも、野外を歩く競技会などでは先頭が学校に
戻ってきてから最後尾が辿り着くまで5,6時間位は掛かりますね。
まあ矢張り当時の人は皆「飛脚」並の脚力があっただっただろうし
此の場合野外を歩く競技会などでは先頭が学校に
戻ってきてから最後尾が辿り着くまで1時間以内で着くだろうか
>>815 そこら辺はお互い持ち寄りで専門的なのはかなりを自分で持って来るでしょう。
指揮系統に関しては実に日本的なお互いに気を使う方式ではないかと、なにせ現代の
本社・支社とは違ってその気になれば支社は平気で寝返りますから。
後、黒鍬組や小普請組も工兵集団ですし、他にも伊賀者・砲兵隊等、専門兵種は殆どが
旗本衆に集中しています。
こうして見ると散兵諸兵科連合方式の大名級の戦闘部隊(連隊)と特科・専門兵種部隊で
ある旗本衆(司令部直轄部隊)といった高度なシステムが見て取れてくるのですが・・・。
824 :
名無し三等兵:05/01/02 13:21:11 ID:SCmNryLO
>>823 まあ、そうして見ると家康と秀忠の二人によって旗本衆が二分化された
関ヶ原や大阪の陣を見ると戦闘部隊は秀忠、特科・専門兵種部隊は
家康となって関ヶ原や大阪夏の陣の展開も色々類推できるのではないかと。
もちょっと時代とか地方とかを限定してもらえると分かりやすいですが
>>825 単純に戦国前期は散兵諸兵科連合方式のみ(武田なんかは金堀衆といった工兵部隊を有していたようだが)
で、全般的に一勢力の石高が増加した戦国後期、安土桃山になるにつれ
>>823の状況になって行ったかと。
827 :
名無し三等兵:05/01/03 15:41:01 ID:6862CuxT
あのー、陣形論争にすこし戻って申し訳ないのですが。
やはり陣形を使っていたとしかおもえません。ていうか、いちおう根拠
となりうる文献も探してきました。
柏書房から出ている「日本戦陣作法図鑑」に、陣形についてでています。
陣形否定派の方が否定しておられた鶴翼などについても載っています。
もちろんこの書籍は、一次資料をもとにつくられた二次資料ですが、
陣形の出所の一次資料についてもいくつかかいてあります。
ぱっと読んだだけなので、あれなのですが、「甲州軍鑑」をはじめ、
ちょっと書名の記憶があやしいですが、軍侍用なんとか、(今度確認して
きます)などがあげられています。
また、考えてみればそもそも大名行列などもあるわけで。
突然、江戸に出仕することになって「行列」というものを考え出した
とみるほうが不自然ですし。
戦国時代から行列というか、行軍という考え方があったと考える
ほうが自然だと思うのですが。
否定派の方は、どうお思いでしょうか?
828 :
名無し三等兵:05/01/03 15:43:24 ID:6862CuxT
ちなみに、その軍侍用…(たしか四文字の書物なのですが、
ちょっと名前を忘れてしまった…)には図入りで陣形について出ている
ようです。
さすがに一般では手に入りにくいかと思うので、そこまではまだ
読めていませんが。
できる範囲で探してみるつもりです。
829 :
名無し三等兵:05/01/03 15:47:39 ID:6862CuxT
ちなみに、その軍侍用…(たしか四文字の書物なのですが、
ちょっと名前を忘れてしまった…)には図入りで陣形について出ている
ようです。
さすがに一般では手に入りにくいかと思うので、そこまではまだ
読めていませんが。
できる範囲で探してみるつもりです。
831 :
827:05/01/03 18:31:48 ID:6862CuxT
あ、失礼。
もうダメダメですね、私。
ちなみに軍侍用集でした。
これで、陣形論争自体には、ひとまず決着がつくのではないでしょうか?
いちおう根拠のしっかりした資料が現れたということで。ちなみに
日本戦陣作法図鑑には、槍組による槍衾とか、いわゆる対騎兵の
シルトレン戦法と同じものも登場します。
鶴翼の陣とかあれは陣形ではないの?
「陣形ナイデスヨ派」の人たちの論拠には甲陽軍鑑などの兵法書のほとんどが、
江戸初期に軍学者が中国の兵法書を参考にしてまとめたものであるという説を採っているんですね。
つまり、兵法書に乗っている陣形は中国の兵法書に乗っているもので
日本にはそんなものは存在しなかったと。
たしかに「江戸初期に軍学者が中国の兵法書を参考にしてまとめたものである」というのは事実なんですよ。
でも何も中国の兵法書を参考にし始めた最初が江戸初期からというわけではなくて、
兵卒を率いた集団戦を行うようになった戦国期から参考にされ、実戦面で改良されていったわけで
やはりそれなりの陣形なんかがあったわけです。
後の兵法書はそうしてできた陣形を8つの基本にまとめてみました、というのが実際だと。
(当然まとめる際に中国の兵法書を参考にしている)
兵法書に乗っているのは真実ではないが丸っきりの架空でもないといったところだと思われます。
あの戦の時に取った陣形は後から考えるとアレだったなぁ、といった感じで。
そもそも日本人って知識より経験を重んじるから、マニュアル化なんてしないんだよな。
兵法書は戦が無くなって職にあぶれた人たちがそれなりの権威付けに作ったものという面もあるし。
結局一次資料はなしってこと?甲陽軍艦を信用にたる一次資料だとでも言うつもりですか?
つーか、隊列否定派は全長6〜7mの長柄槍を隊列も組まずに
どうやって使ってたと考えてるんだろう?
>>836 小単位の散兵集団が並ぶ事で前線を形成し、鑓が必要になるとそこの集団から
それぞれ鑓兵や鉄砲隊がが飛び出て一時的な列を形成、交戦するといった形を
想定しているのだが。
ちなみに考証元は大阪歴史博物館蔵、関ヶ原合戦図屏風や黒田家大阪夏の陣
図屏風よりの類推(どちらも江戸前期)。
陣形に関してはこの戦闘集団をどんな風に配置するかといった程度しか考えてな
いのではないかと。
838 :
○V○:05/01/03 22:50:32 ID:???
>小単位の散兵集団が並ぶ事で前線を形成し、鑓が必要になるとそこの集団から
>それぞれ鑓兵や鉄砲隊がが飛び出て一時的な列を形成、
混乱した戦場でそう都合よくいくものでしょうか
それなら最初から列を組んでおいたほうがいいのではないかと
それは小単位の散兵集団が連携して一時的な列を構成するってこと?
それとも小単位の散兵集団がばらばらに一時的な列を構成するの?
840 :
○V○:05/01/03 22:53:41 ID:???
ちなみに並んじゃったら散兵じゃないんですけど
>>837 屏風を考証元にするなら甲陽軍鑑を考証元にすることを否定して笑えないぞ
というか、両方ともいいかげん憶測でしかもの言って無いって気付けよ。
鬼の首とったようなこというから読んでみたけど、どこが『根拠となる文献』ですか?
個人的には
>>827の意見には賛同できるけど、ろくな根拠ないならもうちっとお互い意見尊重しろって。
>>838 それを言うな接触まで駆けながら隊列を維持できると考えるほうがよっぽど
都合が良いのではないかと
第一、混乱する状況(所謂乱戦)ならそれこそ散兵のままで突っ込むのでは。
徳川勢や夏の陣の真田勢は鉄砲だけで突撃したとも言いますし。
>>839 前者で「集団の中から鑓兵が」を加えて下さい。
行軍の隊列、どの家中をどの家中のあとに並べるかと、戦闘するときの隊形は
別だと思うので、大名行列があったからといって、戦闘するときに隊形を
とっていたとは限らないかと思います。
戦闘時に隊列を組むのが有利な戦場なら隊列を組むのではないかと。
源平の昔の弓軍は大盾を並べて陣地を作って矢を交わしたそうですし
道を塞ぐときも関所のようなものを盾などで作っているわけですから。
>というか、両方ともいいかげん憶測でしかもの言って無いって気付けよ。
『名前も覚えて無く、製作年代すらわからない屏風絵』と
『著者も判り、現存している文献の甲陽軍鑑』を同列に並べるって
お前、頭おかしいんじゃないの?
>827 >842
ジサクジエンご苦労さん。
>845
よく読め。自作自演じゃないぞ。
847 :
○V○:05/01/04 00:21:25 ID:???
>それを言うな接触まで駆けながら隊列を維持できると考えるほうがよっぽど
別に走る必要は無いでしょうね
駆け足をしなければならないのは突撃の最後の100メートル程度の躍進くらいです
>第一、混乱する状況(所謂乱戦)ならそれこそ散兵のままで突っ込むのでは。
混乱している状況だからこそ指揮官の部隊掌握が容易なように隊列を組むのですが
848 :
○V○:05/01/04 00:24:02 ID:???
ちなみに、関ヶ原合戦図屏風や黒田家大阪夏の陣図屏風のどこをどう見れば
散開した状態から槍足軽や鉄砲足軽が状況に応じて列を組んでいると考証できるのですか?
>>847 それを防ぎ散兵戦術を可能とする為に日本の戦国将兵は指物を指していたと思うのですが。
>>800を参照。
>>848 右隻、三扇、上から鉄砲隊・槍隊が集団から駆け出て交戦しているのが伺えます。
850 :
○V○:05/01/04 00:54:56 ID:???
>それを防ぎ散兵戦術を可能とする為に日本の戦国将兵は指物を指していたと思うのですが。
それはあなたの勝手な思い込みでしょう
武者で指物をしているのは組頭や足軽大将だけではありません
馬廻衆や一人働きの徒歩武者だって指物をしています
>右隻、三扇、上から鉄砲隊・槍隊が集団から駆け出て交戦しているのが伺えます。
申し訳ありませんが、散開状態から状況に応じて隊列を組んでいる様を描写しているとはとても思えないんですが・・・
>>849 なぜ、日本の戦国大名の旗指物があれほどのものになったかを
考えて見るのは重要だと思いますが。
別に馬廻衆や徒歩武者が指物を付けてるのはおかしいですか?
両者にも供や与騎がいた事でしょうし、もちろん宣伝の意もあったでしょうが。
>>850 集団から駆け出しているのは見て取れます。
クックック
もめろもめろ
クックック
853 :
○V○:05/01/04 05:30:31 ID:???
>なぜ、日本の戦国大名の旗指物があれほどのものになったかを
>考えて見るのは重要だと思いますが。
偽装や隠掩蔽が現代ほど重要視されていなかった時代の戦場で
軍装が畸形的に華美になる傾向にあるのは洋の東西を問いません
特に武装が自弁の士分ならば尚更そういった傾向が強くなるのは
当然でしょう
>両者にも供や与騎がいた事でしょうし、もちろん宣伝の意もあったでしょうが。
一人働きの武者とは、文字通り供も与騎もいない士分のことです
彼らには指揮すべき従者も足軽もいません
>集団から駆け出しているのは見て取れます。
確かにそのように見ることもできるでしょうが、それを「散開状態から
状況に応じて隊列を組んでいる」とまで解釈するのは些か強引でしょう
上のほうでも誰かが言っていましたが、そもそも屏風絵は公式文書ではありません
自分を目立たせるための指物類をあれほど許すとは私には思えません。
現に幕府も馬印等に関しては石高に応じた厳密な規定を定めています。
これは現場指揮官と後方指揮官の区別を明確にするためと見ることができます。
図屏風に関しては少なくとも隊列戦闘はなかった一つの証左になるのではないかと
公文書の駆けつつといった表現と照らし合わせると。
後、図屏風は基本的に大名家の監修の元に製作されており
軍学に沿ったものでもない限り、江戸初期のものは準公的な
位置付けをしても吝かではないと考えますが。
>>855 >現に幕府も馬印等に関しては石高に応じた厳密な規定を定めています。
>これは現場指揮官と後方指揮官の区別を明確にするためと見ることができます。
これはむしろ幕府が分を弁えさせ強力に統制するという側面のほうが強い
戦術的というより政治的な必要性
>後、図屏風は基本的に大名家の監修の元に製作されており
大名家監修だからこそ、その家や武将の活躍を讃える意図があるので
江戸初期のものだから云々で信憑性が上がるわけではない
公文書、公文書というが具体的にどのようなものを指すのかな?
858 :
横槍:05/01/04 17:11:16 ID:???
隊列を作っていたとすると、
隊列を作り、整え、維持するための号令があるはずでは?
(「気を付け」「右にならえ」「休め」「集合」等)
西洋戦術導入時に、自分の藩の言葉で置き換えたところはある?
私の知る限り、外国語の号令をそのまま使ったり、
直訳した号令を造語して導入、現代日本語になっていることから、
この種の号令が、江戸末期にはなかったことは、間違いないのではないか?
いくら280年の太平の世といっても、
一種の軍事政権であった江戸時代において、
こういった基本的な「技術」が失われる可能性は少ない気がする。
と言うことは、戦国時代・江戸初期の「軍陣」に隊列は無かったか、
西洋流の号令が必要な隊列とは随分と違ったものだったのか、どちらかでは?
859 :
○V○:05/01/04 19:02:40 ID:???
合戦では懸太鼓や押太鼓、引太鼓等、行動を律するために太鼓が用いられています
また法螺貝や鉦も使用されています
西洋の軍隊も楽隊を連れていますね
楽器で軍隊の進退を統制することは別に日本に限ったものではありません
>>857 旗指は五千石、馬印は三千石以上から持つようにと言った規定を見るより
現場指揮官と後方指揮官の区別を明確にするための側面の方が強いかと
別に派手なものはいけないとは言ってませんし。
図屏風で大名が望むのは自分たちの戦功を喧伝するためであり、戦術を云々
するためのものではありません(それは寧ろ軍学の方でしょう)。
戦術を捏造するよりは現実の戦場を写した方が発注元の大名家の意に沿うかと・・・
861 :
○V○:05/01/04 19:13:43 ID:???
>戦術を捏造するよりは現実の戦場を写した方が発注元の大名家の意に沿うかと・・・
別に捏造しているわけではなく、自分たちの活躍を強調して活写しているだけです
勿論、そこには恣意的な誇張もあったでしょう
少なくとも屏風は現実の戦闘を忠実に再現しているとはとても言えませんし、
その必要もありません
あれは戦闘詳報ではありません
んなことわかってるよ。
屏風なんてあてにはならんが、じゃああんたの見解の根拠はなんなんだ?
屏風があてにならない事は認めるのですね。
865 :
862:05/01/04 21:29:59 ID:???
そりゃそうだよ。
866 :
862:05/01/04 21:32:19 ID:???
俺は屏風にも参考になる点があると思うが、屏風を根拠に人を説得できるとは思えんな。
867 :
858:05/01/04 22:40:23 ID:???
>>859 人間の集団の前進・後退を統制することと、
人間の集団を隊列にし、それを整え、維持することは
別だと思うのですが。
西洋的な隊列を迅速に構成する為には、
部隊・兵に、基本教練か、
それに類したものも
必要なのではないでしょうか?
868 :
858:05/01/04 22:41:16 ID:???
上げてしまいました。すみません。
>868
人間の集団を隊列にせずに人間の集団の前進・後退を統制することは
西洋的な隊列構成による運用以上に部隊・兵に基本教練かそれに類したものを
はるかに必要とするのではないでしょうか?
870 :
868:05/01/04 23:06:47 ID:???
>>869 人間の集団の前進・後退程度でしたら、
必要な場所・範囲において識別可能な音声、旗等の信号と、
その聞き分け・見分け方を教えて、
時々予行練習する程度で足りるように思うのですが。
その人間の集団が、男女老若、職業等の別の無い無作為集団で、
事前の訓練等が全く出来ないのなら別ですが。
>人間の集団の前進・後退程度
ま、運動会の小学生でもこの程度はできるわな、
あれは一応隊列という事になってるが。
大名行列を見れば、西洋スタイルの号令を使っていなかっただけで、
人間の集団を隊列にし、それを整え、維持できていたのは明らかだが。
西洋とやり方が違っていただけで、隊列を組んでいなかったと考えるのは
無理がある。
873 :
868:05/01/05 00:29:52 ID:???
大名行列は、行進経路・目標と個々の前進順序や時間調整、
いざというときの各自の行動・任務を決めた部隊の列で、
西洋の軍隊が、第一次大戦冒頭まで戦場で用いていた、そして
今でも軍隊の基本教練や分列行進としてなされる隊列とは、
違うものだと思うのですが。
そう書くと特殊部隊みたいね。
戦略目的は与えられているけど、チームで動くとしても
チームのメンバー同士での緊密な連絡はしない、
だけれども同一の意志に従って動いている、みたいな。
違わないだろ
どう違うのか具体的に説明してくれ
876 :
○V○:05/01/05 02:27:06 ID:???
要点は戦国時代の日本の軍隊が「隊列を作り、整え、維持していたか」ですね
大名行列を見る限り、ちゃんと出来ていたと考えて差し支えないでしょうね
877 :
名無し三等兵:05/01/05 04:04:42 ID:pxInBCr7
>>873 当然、西洋とまったく同じ形では
隊列を運用していないのは
当然だと思うけど。
>>876 アレは行軍でしょ。
戦闘隊列とは全然違います。
第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
後、隊列が在っても西洋とは違うを逃げ道にしてませんか?
たとえそうだとしてもそれの維持には同様の手法が欠かせない
と868は言ってるのではないでしょうか?
長槍隊の場合はてんでに動くと槍同士がぶつかってどうにもならないので、
隊列組んで組頭の太鼓などの号令で動いてたというのをどっかで読んだな。
……と、ここまで書いたところでスレを頭から読んだらすっかりがいしゅつ
ですた。
あと、当時の軍忠状などを分析すると殺傷率が最も高かった武器は弓矢なん
だとか。
>>878 >第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
>同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
>な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
戦国時代の文献で、よく「足軽組頭」とか「弓組小頭」みたいな役職が
出てくるけど、それって下級指揮官じゃないの?
>>880 あれはあくまで雑兵であって、士分じゃありません。
882 :
○V○:05/01/05 13:20:50 ID:???
>第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
>同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
>な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
各国で規模や職名、職域に些か差異がありますが、
基本的に組頭は、足軽や侍の最小戦闘単位である組の指揮官です
複数の組が束ねられ、長柄大将、弓大将、鉄砲大将と呼ばれる指揮官に指揮されています
国によっては大将と呼ばず奉行と呼ぶこともあります
更に、彼らの指揮官である足軽大将がいました
足軽組の組頭は士分ではありませんでしたが、長柄大将たちは士分ですし、
足軽組頭も指揮権は認められています
下級指揮官が不在だったとはとても言えないでしょう
883 :
○V○:05/01/05 13:25:34 ID:???
>アレは行軍でしょ。
>戦闘隊列とは全然違います。
行進時は隊形を組んでいながら、戦闘時には組んでいなかったという理屈は理解できませんね
そもそも長柄は隊列を組むことが前提となっている兵器です
>たとえそうだとしてもそれの維持には同様の手法が欠かせない
>と868は言ってるのではないでしょうか?
西洋と同様の手法でなくても隊列を組んでいたのは大名行列を見れば明らかです
>>878 二段落目の意味が分からないんだけど
>第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
>同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
>な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
これは下級指揮官が同じ隊列には存在しなかったと言いたいのか
前半と後半で矛盾してないか?
下級指揮官がいないのに指揮に問題が生じなかったから
隊列は無かったのだ、というのはえらく飛躍した論理じゃないかい?
士分でなければ指揮官と認められないというのもよく分からない話だ
そこまで言うなら根拠を示して欲しいな
問題は下級指揮官が士分であったかという点なんですが、
雑兵だけの部隊が列を組んで最前線に身を晒し、士気を
維持できるはずがありません(傭兵除く)。
必ず、支配階級である士分が前線に出て共に敵に身を曝さ
ない限り、どの様な戦闘方法であろうと雑兵は付いて来ません。
886 :
○V○:05/01/05 13:32:54 ID:???
>問題は下級指揮官が士分であったかという点なんですが、
>雑兵だけの部隊が列を組んで最前線に身を晒し、士気を
>維持できるはずがありません(傭兵除く)。
それはあなたの主観でしょう
後ろから殺して来いというだけの指揮官に誰が付いてくると?
888 :
○V○:05/01/05 13:35:47 ID:???
それ以前に、下級指揮官が不在だったと主張している人は、
下級指揮官無しで本当に散開して戦えたと思っているんでしょうか?
矛盾してませんか?
889 :
○V○:05/01/05 13:37:14 ID:???
まあ足軽大将クラスは最前線で指揮することも珍しくなかったんですがね
ちゃんと理解してます?
私はそんな事一片も言ってませんが?
チーム編成なら下級指揮官の士分も含まれてるでしょうが、
槍隊、鉄砲隊の区分で隊列を組む様な形ではその隊列の
中に士分の下級指揮官がいないと言ってるのですが?
>>889 一緒に列の中に入って長鑓で叩き合ったんですか?
891 :
○V○:05/01/05 13:47:23 ID:???
>槍隊、鉄砲隊の区分で隊列を組む様な形ではその隊列の
>中に士分の下級指揮官がいないと言ってるのですが?
足軽組頭は士分ではありませんが指揮官ですし、組を束ねて指揮しているのは士分です
>一緒に列の中に入って長鑓で叩き合ったんですか?
スペインのテルシオの士官だってパイクで叩き合ったりしてません
でもテルシオはちゃんと隊列を組んでいますね
>>891 その役職名は?
まさか長柄奉行なんて言わないで下さいね?
ふーん、で足軽大将はどのような状況で戦ったと?
そしてその戦い方は隊列戦闘を肯定するものだと?
894 :
○V○:05/01/05 14:12:51 ID:???
>>882に追記しますと、
足軽大将は長柄大将や弓大将等の総称として用いられることもあります
こちらのほうが多かったかもしれませんね
戦国時代の合戦の手順は、
1.石つぶて、弓矢など飛び道具の応酬(後に鉄砲がこれに加わる)
↓
2.長槍でのど付き合い
↓
3.どちらかが崩れたら普通の槍など白兵武器を持っての突撃
というプロセスで進むのが普通だが、1と2の段階(雑兵メイン)では
それなりに隊伍を組んで鉦や太鼓の号令に従って進退してたと考えるのが
自然じゃないか?飛び道具も長槍も、各自が勝手な立ち位置・タイミングで
動いてたら味方の攻撃に当たってしまいかねず、危険きわまりない。
>>896 小頭一人が足軽十人とか二十人を率いてる綺麗な組織だと思うが。
>>898 その細かい編成を統括する直属兵種上司がいないとしてでもですか?
これでは隊列の統一指揮などできません。
小頭と同人数の大将がいるじゃんか。
つーか
>>899にはもう何言っても無駄な気がする
意地になって揚足取ったり屁理屈こねまくってるだけじゃん
902 :
○V○:05/01/05 15:52:05 ID:???
>>897はあくまで個人の地位や格式、役職等の内訳を詳細に記した分限帳で、
備の戦闘序列ではありません
備の指揮官である武者大将や侍大将は戦時のみの臨時職ですから、
分限帳に記載されるようなことはありません
分限帳は隊列を組んでいなかったことの根拠にはなりません
903 :
○V○:05/01/05 16:00:07 ID:???
少し訂正します
国によっては侍大将を純粋に士分のみの指揮官とする事例もあります
国によって職名が違うのでどうも難しいですね
>>901 自分勝手な都合の良い解釈は煽りの特権です。生暖かく見守ってあげてください。