大河ドラマ・司馬歴史小説等、さまざまに流布している戦国時代合戦のイメージは、不正確極まりないものとされています。
真実はどうなんでしょうか?
軍事的な知識を多くお持ちの皆さんで論じ合いましょう。
・日本だけではなく、同時代の他国の状況との対比
・前史としての 律令制→室町中期 との比較
・後史としての 江戸時代と黒船来航以降の幕末戦争 との対比
などにも積極的に話題を提供してください。
2 :
2:04/07/18 13:23 ID:dONdLZW8
2
阻止
自営業阻止
どうして「首取り」するのか?
足軽って?
7 :
名無し三等兵:04/07/18 13:56 ID:uuWNEfS+
板違いではないのか?
戦国時代の兵ってのはだいたい百姓だったんだろ?
ろくな訓練もなしに統率が取れたんだろうか?
それとも始まっちゃえば関係なしとか・・・・・
兵士を出す農家 と 兵士を出さない農家 に分かれていたみたいです。
当然出す農家のほうが年貢軽い。
なお「百姓」も「すべての人民」または「あらゆる職業や階層の人」の意味で使われていたようです。
>>10 なるほど、それで「百姓」なんだ
ありがd
当時の職業割合を考えるとだいたい農家だから
農家=百姓になったわけなんだな
現代で考えると
サラリーマン=百姓だな
12 :
Pz:04/07/18 15:10 ID:smM2V42v
かなり板違いな気がするので、
他の日本史板などでは語られる事が少ない話題や疑問だけならいいんじゃない
例えば、関が原で秀忠の軍勢を東山道に派遣したことと、補給現地徴発による味方領国の疲弊や
東海道の豊臣系諸大名が城と城の兵糧を提供しただけじゃ不足だったのかとか
あるいは、鉄砲や鎧などの兵器の性能や効果とか、軍版らしい話題ならいいんじゃないの
>>1 >大河ドラマ・司馬歴史小説等、さまざまに流布している戦国時代合戦のイメージは、不正確極まりないものとされています。
槍だの刀だので近接戦闘することも少なかったでしょうね。
徴兵制以前の雇われ兵士が命掛けで戦うはずもないですね。
>>13 鉄砲で撃ち合っても、テレビ的な「絵」にはならんしなあ
鉄砲撃ち合いなら相当良い方
弓矢でもかなりマシな方
ほとんどは投石合戦だ
16 :
Pz:04/07/18 15:36 ID:smM2V42v
>>13 鈴木眞哉って人が幾つかの本で、散々そういうこと書いてますね
南北朝あたりからでも、出来るだけ飛び道具で攻撃しようという流れだったって
世界的にも、投射兵器に移行していくって、命かけての白兵戦好むなんて
国家に奉仕する徴兵制以降だって
領主や傭兵隊長も戦果より金かけて集めた兵隊や徴集した家臣や領民の損害の方を気にしてたとか
17 :
Pz:04/07/18 15:46 ID:smM2V42v
>>15 武田勢では小山田隊の投石で戦闘が始まるってなんかで読んだが
当時の鎧って、投石でもそんなに殺傷されたのかな
面ぽうがなく胴丸のみの足軽の顔に当たればとは思うけど
>17
鎧着てたって拳大の石が当たれば死むほど痛いでしょう
この時代の鉄砲保有数は、日本が世界一。
ある意味日本の大国の始まりはこの頃からじゃないかな
20 :
Pz:04/07/18 16:04 ID:smM2V42v
>>18 確かにあたり方によってはそうだけど、その後に石以外で攻撃されなきゃ殺傷されないよね
投石は印字射ちとも言うが、
印字射ちって、後には八方手裏剣みたいな武器の名にもなってる(記憶が不正確だが)
ってことは、本気で殺傷狙うにはただの石じゃなくて、成型や加工したもの用意したのでは?
間接武器の方が殺傷力があったみたいな意見が聞かれて。
僕もそう思うんだけども。
世界史板でバルタン氏がそれに異論を唱えてたな。
>>19 この時代の鉄砲はそこまで決定的な武器じゃない。
弓に劣る部分も多々あったし。
23 :
名無し三等兵:04/07/18 16:11 ID:pCUm4X2j
そんなコストかかるもの大量に投射できないし訓練無しではむりぽ
25 :
Pz:04/07/18 16:19 ID:smM2V42v
>>22 弓は曲射もできるしね、それに連射能力では鉄砲の比ではない
>>23 平たい形で手ごろの石を、選りすぐって集めるくらいはしたと思う
それでも鎧を貫くのは難しくない?
やっぱり、ひるんだり痛がってるうちに突撃したんだろうな
クレヨンしんちゃん>>>超えられない壁>>>大河
>>25 鎧着てても石で骨折や打撲ぐらいするし
殺傷する必要もないんだって
相手の士気を低下させれば勝ち
28 :
なまこそ:04/07/18 16:53 ID:vOAKVV72
私の理解は正しいのでしょうか。
基本的に戦国時代の大名の直属軍は、大名の領地の中の直轄領の「農民兵」を官僚で
有る侍(いわゆる旗本)が指揮するものと、領地内の「豪族の領地の農民兵」の混合(というか
並列)部隊と考えて良いのでしょうか。
徳川家に当てはめて見れば、本多忠勝・鳥居元忠なんかが前者で、水野家が酒井家などが
後者だと思い込んでます。
織田家、徳川家など急速に拡張した大名は前者の占める割合が多く、旧態依然な大名は
後者の占める割合が多い。
戦国期の戦争では豪族は自分もちで出兵しており、戦国前期などでは織田家とその他の
大名と直属軍とでは同程度の装備をたもてたが、戦国後期になるに従い鉄砲など金のかかる
部分での差異が現れたのではないのか。(ただしそれが現代の戦争のような、決定的な物か
どうかはわからないが。)
29 :
なまこそ:04/07/18 17:19 ID:???
えーなんかごちゃごちゃ書きましたが、つまり戦国初期の戦争では主力軍=
豪族連合なもんで、損害がダイレクトに大名(=盟主)の者になるわけで無いので
戦争自体がぬるい物になっていたのは仕方がないのではないかと考えます。
敵対する大名自体も縁戚関係が多い日本の戦国時代では配下(指揮下)の
豪族同士も縁戚関係が有るでしょうしね。
ここで私が疑問に思っていることですが、大名(=盟主)は配下の豪族から
みかじめ料かなんかもらってたのでしょうか?
貰うのは配下であって大名ではない
土着の豪族であってもその土地は大名に安堵してもらった土地であり
いわば頂き物である
31 :
なまこそ:04/07/18 20:17 ID:???
>>30 レスどうも。「一所懸命」ってやつだね。
それはわかるってるつもこりなんだが、その場合大名側のメリットって何だろう。
徴税権のない行政権ってやつの利点ってやつだ。
いやいやながらでも戦争につれて行ける権利のような気もするが、侵略戦争する気が
なければメリットにならないなって考えたわけで・・。
大名の土地および配下の豪族の土地を防衛する場合大名も持ち出しで戦争するわけ
ですから・・。
>>31 大名側のメリットとしては、
戦争せずとも勢力圏が広がることだと思います。
秀吉や家康もそうやって天下統一してますし。
33 :
Pz:04/07/18 22:01 ID:smM2V42v
>>31 >侵略戦争する気がなければ…
当時は天候不良などによる不作や飢饉が頻発していた
好むと好まざるにかかわらず、抗争の種がいっぱいあった時代
他国に軍勢を進めるだけで徴発により食うことが出来、領国の口減らしにもなる
謙信の関東出兵もそういう側面からみた説もアル
34 :
名無し三等兵:04/07/18 22:24 ID:qshvF/Rw
> いやいやながらでも戦争につれて行ける権利のような気もするが、侵略戦争する気が
>なければメリットにならないなって考えたわけで・・。
基本的に「何時でもあらゆるモノが人数分には足りない」って当然の理屈が分かってな
い。世の中は金持ちと貧乏人に分かれる事になってるし、その分かれ目を暴力で変えては
いけないって自然な道理もない。
法律と裁判所と警察力の三位一体で無理やり秩序を維持してるだけ。当時の足利幕府に
そんな機能があるかね?
間接武器のほうが殺傷力低いという根拠を
最初から石を使うと想定していたなら、盾や投石器といったものが
発展しても良かったと思うんだが
>間接武器のほうが殺傷力低いという根拠を
そんなことを言った記憶はないがな
40 :
Pz:04/07/18 23:19 ID:smM2V42v
>>37 盾はもともとあるぞ、絵巻なんかでも良く出てくる
といっても、立てかけて並べる木製のだけど
あと、鉄砲対策の竹束も
投石というから、手で投げるような事を想像している奴が多いが、
「おっぱさみ」などのような、投石用の道具を使っていた。
西欧で言う所の「スリンガー」だ。
>>13 >>16 鈴木眞哉を鵜呑みにし過ぎて、勘違いしている奴も多いんじゃないか?
近接戦闘は少ないとは言っても、野戦の場合最終的に勝敗を決めるのは、
白兵戦だろ。
そりゃ、いきなり最初から突撃はせんだろ。
まずは遠距離からの、鉄砲、弓、投石合戦。
それで敵に隙ができたら、突撃敢行。
むろん、突撃を受けた側も、不利なら逃げ出す事になるなら、白兵戦
での死傷者は少ないかもしれん。
終始遠距離戦闘だったら、勝負がつかないだろ。
>>42 負けそうになった側が士気崩壊起こし、その時点で勝負がつきますが。
>>19 鉄砲の数こそ多かったのだが、実は火薬の備蓄がかなり少なかった
んで、実際の火力が世界一優れていた訳ではなかった。
あと、大砲の保有もかなり少なかった。
もっとも、火縄銃をそのままスケールアップした、大鉄砲(抱え大筒)
とかもあったんで、一概に比較はできないけど。
>>43 だから、互いに死傷を恐れて、遠戦やっている段階では、士気崩壊は
起きないよ。
まあ、唯一の例外は大阪冬の陣。
徳川方の大砲が、たまたま大阪城本丸に命中して、淀君の女中のひとりが
死んで、戦意喪失。徳川方に和平をもちかけた。
>>16 鈴木眞哉の説には、いささか疑問があるぞ。
戦国初期の山城の作りは、攻めて来る敵を、槍で突いて撃退するのに、
最適な作りになっている。
弓矢で迎撃するような作りには、なっていないのだ。
南北朝時代の楠木正成の篭城戦術も、敵が突撃してくるのが、前提。
日本の城が遠戦・・鉄砲での迎撃を前提とした設計になるのは、
戦国時代末期から。
47 :
Pz:04/07/19 01:01 ID:+c9vyQ8n
>>42 鵜呑みにはしてないよ
ただ今まで語られなかった視点から一定の真実はついてると思う
確かに、勝負がつくまでずっと投射戦だけやってたら
いつか矢玉が尽きて戦にならなくなるなんてことも起こりえるはずだもんな
中世前期を中心にやっている者ですが、どうも「楯突戦」と言って楯を挟んで
向かい合った状態で矢を射掛け合い、崩れたところを突いて白兵戦になった
ようです。鈴木先生の白兵戦云々は軍忠状に記された傷がほとんど矢傷や鉄
砲傷であったという事実によるもの。
刀などによる傷はそのまま討死に繋がっていたのかもしれませんが、それに
しても大振りな刃物の役割は敗走や牽制用の面が大きかったのではないかと。
時代が遡るほど矢戦中心の描写は多いですが、白兵戦用の武器や様式が発達
してからも廃れた訳では無かったでしょう。戦国期の史料からも、戦場で受
けた傷の56%を矢傷が占めていた事が窺えます。
もっとも地面に押し倒したら小刀で首を刎ねましたし、馬上から刀を振るっ
て相手の頭部を殴りつけて落とした場合には従者に首をかき切らせたようで
すが(但し室町時代からは主に下馬戦闘。『三河物語』によれば騎乗しての移
動は追撃時に限られた)。
印地打ちについてですが、下賎の者の行動とされた様です。木曽義仲が後白
河院を幽閉する直前、院の側が非人を動員して石を投げさせたらしい。
もっともこうした「賎しい振る舞い」が悪党の勃興した南北朝時代以降劇的に
広まる訳ですから、戦国期にはもっと普及していたのかもしれませんが。
>>47 そういう戦も、じっさいにあったんじゃないかな?
川中島の合戦なんか、まともに戦をせずに双方引き返した事が何度か
あったらしいが、そういうケースじゃないのかな?
「矢が尽きたから戦が出来なくなった」という記述は、史書『日本三代実録』
や説話集『今昔物語集』に出て来ます。
>>49 どっちかというと川中島の4回目が例外なんでそ?
つーか天候不良による事故
当時の火縄銃の弾丸は、コーティング無しの鉛玉だから、いわゆる
ダムダム弾と同じ。
大型のものは20ミリくらいあったから、現代の銃と比べるとかなり
の大口径。
腕を撃たれたら、腕がまるごと吹っ飛ぶくらいの威力があったらしい。
むろん、鎧で防御していた訳だし、命中率は低かったのだろうが。
53 :
なまこそ:04/07/19 01:11 ID:???
>>33、34
レスどうも。
口減らしのですか。そう言えば謙信さんの話は聞いたことがあります。
戦争が手段なのか目的なのかの違いですね。
「何時でもあらゆるモノが人数分には足りない」てのは理解してたつもり
ですが、源平の世から戦国前期まで続いたある程度秩序だった世界が
それまでも何回も有った「飢饉や抗争の種」ってやつで大きく変わるっての
は、理屈はわかるがどうも納得できない。時代の雰囲気、ノリってやつでし
ょうか?。
なんつーか、私が知りたいのは豪族の盟主だった大名が絶対権力者に
変わって行く過程というかプロセスを知りたいわけです。
私は歴史を高校の日本史に以上に勉強したことがないわけですが、
イメージとして「信長=生まれつき絶対権力者」、「謙信=配下の豪族で
苦労した」つうのがあるわけです。(当然、小説からのイメージで事実とは
異なるかもしれない。)
直轄領が増る=豪族ににらみが聞く→絶対権力者の道つう単純な物
なのでしょうか。
すんません、寝ます。
副業で足軽やってる百姓が突撃なんかするかねぇ
遺族恩給・傷痍恩給があったって嫌なのに
>「信長=生まれつき絶対権力者」
尾張時代には800人程度の人数を率いて駆けずり回っていますよ。
>なんつーか、私が知りたいのは豪族の盟主だった大名が絶対権力者に
>変わって行く過程というかプロセスを知りたいわけです。
2ちゃんねるで知ろうというのは難しいのではないかと。
信長の周囲の人間については『信長の親衛隊』などがあります。
>>53 >豪族の盟主だった大名が絶対権力者に変わって行く過程というかプロセス
そんな単純なもんじゃないんだけどな。
絶対権力者になった大名ってのは、織田信長と羽柴秀吉くらいなもんだが。
武田家の場合は、絶対権力者になったのは、あくまで武田信玄個人で
あって、しかも絶対権力は軍事面のみで、政治面のは及ばなかった。
武田勝頼には絶対権力者としての座は継承されず、それが武田家の
滅亡の原因になった。
毛利家の場合は、形式上は、国人領主の対等な同盟関係で終わった。
北条家の場合、土地と領主を切り離し、家臣があちこちの城主として
派遣されたり、昇格、降格があったりという、かなり近代的組織を
作り上げた。
ただし、北条家の独裁体制にせず、家臣による合議制を作った。
57 :
Pz:04/07/19 01:27 ID:+c9vyQ8n
>>53 >それまでも何回もあった「飢饉や抗争の種」…
14〜16世紀は世界的にも一時的な低温期で、15世紀後半にピークになった後
急速に温暖化したらしいよ
当然、それまでより天候不順が頻発したでしょう
世界史的にはわからないが、確かに南北朝から戦国までの混乱期に合致してる
義満からしばらくの安定期でもいろいろな抗争があって平和ではない
日本史板の人が来てるから、これ以上言うと知ったかになるから止めるけど
>>53 それと戦争の理由についてですが、中世というのは自力救済の時代です。
別に大名同士でなくとも、もっと小さな集団や個人が各々の権利を守護・
拡張していた事もお忘れなく。
臭い言い方をすれば「戦わなければ生き残れない」時代でした。
空き地があれば勝手に占拠・利用するし、止める者がいなければ大路に
家を張り出させて敷地を拡大する。それが可能だった時代です。
規制する権力があればまだマシですが、戦国期以前の時代でも小さな衝
突は絶えませんでしたからね。江戸時代は奇跡みたいなものですよ。
それでも初期には「村同士の境界・水争いに刀・槍・鉄砲などを持ち出
さないように」という法令が出されていましたが(刀狩は一時のもの)。
一般的な専制君主然としたお殿様というイメージは江戸期に成立したものだからね
戦国大名とはいっても地域の軍事同盟の盟主であったというのは皆が言ってる通り。
江戸幕府の支配下で御家騒動を起こしてしまうと幕府に取り潰されてしまう。
すると家臣一同路頭に迷うことになってしまう。
それを防ぐために家臣一同一致団結する必要があったから
武士道や御家大事なんてものが生まれたのさ。
60 :
Pz:04/07/19 01:44 ID:+c9vyQ8n
ところで、日本の火縄銃ってアルクビュースでしょ
あれって、反動がうまく吸収できんのかね、いかにも狙いにくそうだが
(三野正洋が何かの本で散々けなしてたし)
日本にはムスケット系って伝わってこなかったのかな
>>57 気候の変化についてですが、12世紀は最も温暖な時期に当っておりそれが
行き過ぎた12世紀末には高温による飢饉が多発。『方丈記』に見られるよう
な悲劇はこの時繰り広げられていたものです。
とりわけ西南日本の被害が大きく、平家滅亡の一因となったという。いずれ
にせよ時間の問題であったでしょうが。
その後は仰る通り低温による飢饉が多発しており、13世紀の人口は奈良時
代レベルにまで(600万人前後)落ち込んでいたという説もあります。
15・16世紀にはパリア海退という最寒冷期で、16世紀末にまた温暖に
成り出したようです(勿論気候だけで判断出来る問題ではありません)。
ただ食うや食わず(だけ)が原因で戦闘したというのはどうかと。
62 :
Pz:04/07/19 02:01 ID:+c9vyQ8n
>>61 12世紀の干害と平家窮乏の関係は聞いた事があります
日本の場合、高温では西日本が旱魃で不作に、もともと寒冷な東日本では逆に豊作になる傾向があるのも
旱魃はため池などの治水の進歩で時代とともに改善されるでしょうが
冷夏の方は昭和初期まで打つ手がなかったので(今だって品種改良だけで本質的には対抗策はない)
より深刻では?(江戸時代の大飢饉も冷害だし)
気候の変化と、騒乱期や江戸時代の安定期が一致してるのは偶然とも思えない
もちろん、気候や不作にばかり原因を求めるのも単純すぎますが
中近世の戦闘における死傷の原因から遠戦指向だったとし、
更にその原因を当時の軍制に求める鈴木氏の主張はいささか強引すぎる
例えば、第2次大戦の陸戦における死傷原因のトップは砲撃によるものだが、
これをもって第2次大戦は砲撃戦に終始したと言えるだろうか?
死傷の原因のみでは戦闘の実相を規定することはできない
そもそも軍制と兵の戦意や戦術の指向には因果関係は低い
64 :
某研究者:04/07/19 07:27 ID:0QCkI63f
まあ射撃戦の際は弓兵と鉄砲足軽以外は
後方に居り
弓兵と鉄砲足軽は竹束の背後から
弾が切れる迄射撃をしていたのかも知れぬが
全ての弓兵や鉄砲足軽が
竹束で守られていたのかだが
銃や弓を持つ騎兵は
下馬して竹束の背後から射撃していたのか
或いは敵の騎兵を迎撃する為に
歩兵とは別の場所で敵騎兵と戦っていたのかだが
65 :
がんじー:04/07/19 07:29 ID:E1dy/7NA
66 :
名無し三等兵:04/07/19 07:30 ID:z0H5KZcX
>ただ食うや食わず(だけ)が原因で戦闘したというのはどうかと。
だから、武士(武装農民)って階級が発生した原因でしょうが。その集団同士
の抗争を調停する機関が無力化した時には同じような状態になるの。動物は放っ
て置けば縄張り争いをするし、人間はその競争に勝つために組織を強化するよう
に出来てる。
あらゆる国家ってのはそういうモノだし、そんな事を聞かれたって困るよ。秩
序は維持する機関が無くなれば崩壊するのが当然で、幕府のような「自警団連合
」でも司法機関、警察機関として機能すれば秩序は維持できるの。
逆に言えば戦国期ってのはソレ(自警団連合)が草の根から再生していく過程
なのよ。
67 :
がんじー:04/07/19 07:30 ID:E1dy/7NA
サテャーグラハ(真理の宣示)は決して報復を支持しません。破壊が良いことではなく、改心が良いことだと信じるからです。
サテャーグラヒ(心理の信奉者)の武器は愛です。そして揺らぐことのない確かさがその愛から生まれるのです。
68 :
名無し三等兵:04/07/19 07:32 ID:z0H5KZcX
勿論、ココでいう「自警団」ってのは無償奉仕のボランティアじゃなくて
、「兼強盗団」の事だよ。
69 :
がんじー:04/07/19 07:34 ID:E1dy/7NA
江戸時代の農民は武士という重荷を背負い不幸であった
現代のサラリーマンは自衛隊という重荷を背負っている
1000年後の人は言うだろう
江戸時代も平成時代も平民は
なんてかわいそうな人たちなんだと
地域の生産力の向上が古代律令制の軍事統帥権の希薄化を促し、
更に両者が相互に相手を刺激しながら進行することによって
武士という地方軍事勢力が誕生し、やがて封建制が成立した
西欧のそれとの明らかな相違点は、日本では武士の発生当初には、
フェーデという概念が西欧に比べて非常に希薄だったことで、
これが最終的にはかろうじて朝廷を存続させることになる
この結果、日本ではラント・フリーデのような運動は起こらず、
その代替機能として幕府による封建制が成立する
おーい、政治まで論じるなら、三戦板か、日本史板に行けよ。
ここでは軍事限定。
軍事限定のネタすら振れない夏厨は黙ってな。
山野野衾氏(・∀・)イイ!!
もっと教えを乞いたい。
確か、東郷隆とか言う人が、上田信を絵描に迎えて
戦国時代の合戦などについて一筆書いていたと思うんだが。
74 :
名無し三等兵:04/07/19 12:29 ID:Awg4tp4I
>>60 >ところで、日本の火縄銃ってアルクビュースでしょ
>あれって、反動がうまく吸収できんのかね、いかにも狙いにくそうだが
>(三野正洋が何かの本で散々けなしてたし)
>日本にはムスケット系って伝わってこなかったのかな
ショルダー・ショット と チーク・ショットの違いですね。
これは、「胸甲」というか、「胴丸」を装着するかどうか によると思われます。
戦国時代は、足軽や中間・小者まで、一応「笠」と「胴丸」を装着していたようです。
よって、肩付の射撃姿勢(ショルダー・ショット)が取れなかったのが、実情でしょう。
75 :
名無し三等兵:04/07/19 12:49 ID:Awg4tp4I
軍事シミュレーションゲーム雑誌「コマンド・マガジン日本版」のvol54
付録ゲームの「決戦! 関ヶ原」をデザインしたリチャード・バーグ氏のデザイナーズ・ノート「日本の戦術」
「日本の合戦は、集団による大乱戦に終始する。
合戦に先立つ陣形については精巧な取り決めがなされていたが、戦いが始まってしまえば、それはほとんど関係がなかった。
例えばファランクスと騎兵の間で構築されていったような、勝利を追及した陣形の応用がほとんど見られなかったようなのだ。
いわば、誰もが自分のためだけに戦っている、そういう戦闘だった。」
76 :
名無し三等兵:04/07/19 13:03 ID:Awg4tp4I
>>75 同じ本に載っている反論
福田誠「安土桃山合戦模様」
「戦機が熟すと騎馬隊が馬を進めた。」
「足軽が鉄砲・弓・長柄の順に行軍している様子が描かれている。
これはこの時代、日本においても軍勢が各兵科に分かれて運用されていたことを示す」
「騎馬は一段となって疾駆しており、その騎馬突撃の際には随伴の若党が追いつけず、後方に取り残されている」
>75
一番槍、一番首て抜け駆けの功名でもなけれれば、難しいと思うが。
乱戦に終始するのは日本だけに限った話ではない
古代ギリシアのファランクスやローマのレギオンも、戦闘加入したら
堅確な陣形などどうでもよくなる
スペインのテルシオでも、ひとたび近接戦闘に巻き込まれてしまえば、
隊列の幾何学的な特徴は失われてしまう
>>62 ええ、最後の一行が申し上げたかった事です。ただ因果関係を突き止めるの
には慎重な作業が必要だという点も確かな訳で、マクロな視点とミクロな視
点を併用して行く必要があると考えます。失礼、軍事向きじゃありませんね。
>>66 武士=「武装農民」というのは四半世紀前の説ですよ。現在では中・下層貴族
の家職として発達したのが武士であり、一種の芸能に堪能と見做されたもの
から生じたとされています。
「東国武士が本家本元」とするのは近世以降明治になって喧伝された事で、こ
の観念の支えの一つであった斎藤実盛の台詞自体、彼が富士川の合戦に参加
していた可能性の低い事から疑問視されています。
「放って置けば縄張り争い」という御意見には同意出来ますが、ただ餓えのみ
で捉えようとする傾向にはブレーキをかけた方が良いと考えただけの事です。
荘園などの面から、その時代の政治・経済などの傾向を見て行きませんと。
ただ軍事板向きではありませんので、この話はこの辺にさせて頂きます。
>>73 買ってはいませんが、かなり詳細でしたね。小説も面白い先生ですよ。
>>76 >「戦機が熟すと騎馬隊が馬を進めた。」
「騎馬隊」というのは何を指したものなのでしょうか。近世以前は乗馬も美々
しい鎧も特定の身分の「侍」に限定されたもので、それに歩兵が従うという形
式であった為、騎馬だけで構成された隊の登場は近代からであった筈。
幕末に幕府の役人がフランス人に「騎馬隊の編成」の指導を受けた際には「騎乗
出来る身分だけで編成されたもの」と勘違いしてしまい、五百石取り以上の旗
本だけを集めて来させていました。つまり「騎馬隊」という概念が無かった。
五百石というのはかなりの大禄で、例えば長谷川平蔵でも四百石でした。
西欧でも重い甲冑(+騎士の体重)を支えさせる為に俊敏な馬よりもとにかく馬
体のよい馬が選ばれ、乗馬しての突撃が敢行される様になったのは18世紀以
降だそうです。それまでは日欧ともにやや速い程度。
日本の甲冑を着た人間が馬に乗った場合、一時的に時速9kmを出せる位で、
それも長時間もつようなものではありませんでした。
>西欧でも重い甲冑(+騎士の体重)を支えさせる為に俊敏な馬よりもとにかく馬
>体のよい馬が選ばれ、乗馬しての突撃が敢行される様になったのは18世紀以
>降だそうです。
これは流石に違うだろ
『日本騎兵史』という古い本で読んだもので、今手元にありませんが・・・。
「違う」と仰られるからには、根拠がおありなのでしょうから、お聞かせ願
いたいのですが(煽り抜きです)。
関係ないが、関が原に行った時、
近くの高速を走る車の音が反響して、鬨の声の様に聞こえた。
目をつぶると、タイムスリップしたかの様に感じた。
なお馬上射撃でない白兵突撃の事です。
>>76 戦国時代〜江戸時代最初期にかけて、兵科があったという断言はおかしいと思います。
福田誠が言うように、日本の戦国時代に「騎兵隊」が存在するとしても、それは「戦場で(合戦場で)」「臨時に」皆で合わせて「戦う」ものでしかない。
ナポレオン1世が言うような「会戦前、会戦中、会戦後に役立つ」騎兵隊ではない。
会戦前には、騎兵スクリーンと、スカーミッション(街道の重要拠点を先に占拠して相手の集結を妨害すること)、偵察
会戦中には、側面防備と突撃
会戦後には、追撃と、相手に先回りしての集結点占領
このうち、福田が言っているのはせいぜい偵察と突撃?
つまり兵科としての騎兵は存在しないということ
伊達鉄砲騎馬隊の実態は、鎌倉武士が弓のかわりに鉄砲撃つようなものでしょうか?
白兵突撃が何を指しているのかは知らんが、
騎兵突撃なら中世以降でもビザンティンのカタフラクトやクリヴァノフォロス、
フランクのカバラリウス、フランスやドイツの重装槍騎兵等々、
枚挙に暇がないが・・・・
87 :
Pz:04/07/19 15:03 ID:+c9vyQ8n
>>81 僕も少し変に思った
中世騎士のトーナメントやビザンツの重装騎兵とか十字軍とかあるし
もともと、日本の馬より大柄だっただろうし(フロイスかザビエルもそんな記述残してる)
ギャロップ程度の速さだろうけど突撃したんじゃないの?
百年戦争時のブルゴーニュのジャン無怖公てのも
対オスマン十字軍でのアドリアノープル戦で、押し寄せるオスマン軍に突撃してついたあだ名だし
>>84 偵察と突撃ができれば十分だと思うが、
封建軍制では編制は存在していたとしても、
実情はどの兵科でも戦闘編成である場合が多い
「兵科でない」と断言するのは興味深い
詳細を希望したい
>>81 山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM さん
>>80ではないのですが、
「18世紀以降(1701年〜)」はやや異なるのではという気がします。
スウェーデン王グスタフ2世(位1611〜32)の軍制改革のときに、サーベルを主武器とする突撃用騎兵隊が作られています。
サーベルは、片刃の武器です。馬上で刃のついていない一方の刀身を肩に載せて(つまり、密集して、ある程度の振動が乗馬者を揺らすほど速く、移動しているときに、隣の人を傷つけないように)移動しながら使用する武器で、これは「突撃」を意味します。
また仏王ルイ14世(位1643〜1715)時代の軍制改革のときも、騎兵が重視されてます。
「17世紀」ならまだ話がとおりそうな気がしますが・・・
>一時的に時速9kmを出せる位で、
>それも長時間もつようなものではありませんでした。
中世西欧の槍騎兵の突撃の際の速度もせいぜい時速10キロ程度
時速9キロという数字は騎兵の価値を否定する数値とはなりえない
また、当時の騎兵突撃の躍進距離はせいぜい百数十メートル
別に長時間走らせる必要性も意義もない
91 :
Pz:04/07/19 15:20 ID:+c9vyQ8n
>>90 時速10キロでも、装甲した人と馬の重量のかかった鑓で突かれたら
充分殺傷されるよね(鐙で踏ん張るだろうし)
相手も突撃してれば、相対速度2倍だし
山野野衾氏のイメエジする騎兵突撃がいかなるものなのかは
本人の説明がないので判りかねるが、西欧でも時代によって
騎兵突撃の様相は変容している
18世紀という時代は重騎兵がむしろ軽装化が更に進行した時期にあたる
この時期には騎兵突撃の価値を疑問視する向きも少なくなく、
特にプロイセンのフリードリヒ2世は七年戦争の経験から重騎兵の価値を
ほとんど認めていなかった
おお、しばらく見ない間にこんなにレスが!ありがとうございます。
とりあえず教えて頂くばかりなのですが・・・
>90,91
乗馬したままの突撃というのはあまり歓迎されていなかった節があります。
『三河物語』には乗馬して行くのは追撃時にせよと書かれており、ルイス・
フロイスの『日欧文化比較』や柳成竜の『懲ヒ録』には、
「欧州の騎士は馬に乗って戦う。日本では戦う時には馬を下りる。」
「賊(日本軍)は全て歩兵で云々」
と書かれています。もっとも『信長公記』は長篠の合戦条で、
「関東衆、馬上の巧者にて、是れ又、馬入るべき行(てだて)にて、推し
太鼓を打ちて、懸かり来たる。」
とありますので、少数の例外はあったかも。
>>88 多分こういうことを、言いたいんじゃないかな。
編成[一般的な用語]
集めて、まとめること。「編成する」という言い方をしても可。
編制[本来は軍事専門用語]
制度上[法的なと言い換えられる]の軍隊区分とその構成のこと。旧軍では「編制する」とは言わなかった。
もっともこの用語は一般化しており、現在では「学校のクラス編制」「編制する」などという言い方をする。
以上を踏まえて、
封建的軍隊で、足軽の『編制』は、具体的には江戸時代の城下町の長屋の名に残るように、「長柄組、鉄砲組、弓組」などとなっていたのだと思います。
しかし、実際の合戦場では、これは組み合わせ『編成』されて、さらに指揮官および突撃戦用の乗馬武士とその従者が、合わさって「備え」という戦闘グループが構成されることがあたりまえになっていました。
という意味ですか?
96 :
某研究者:04/07/19 15:40 ID:rKosM58Z
絵を見ると騎馬武者は騎乗して戦闘しているが
此れは追撃時なのだろうか
(行軍時も無論乗馬はしているだろうが
行軍用と戦闘用の馬は西欧の様に
分かれているのだろうか
足軽より重い甲冑を装備する徒歩武者が
西欧の重装歩兵の様に乗馬して移動した可能性は
無いのかだが)
97 :
某研究者:04/07/19 15:42 ID:rKosM58Z
足軽は甲冑は着て居ない者も居るとの
意見も有るだろうが
徒歩武者・騎馬武者は流石に全て甲冑を
着ているだろうか
また湧いたか・・・
騎兵による突撃は、陣前突撃が主だろう
並足で戦場間を機動し、駆け足もしくは早足で突撃。
いつでもどこでも騎兵が襲歩していると思うのは、競馬の見過ぎ。
100 :
某研究者:04/07/19 15:53 ID:rKosM58Z
時速10kmしか出ない騎兵で歩兵が追撃出来るのかだが
甲冑を着ている歩兵は兎も角
着ていない者は無理かも知れないが
(敗走した時に鎧を着ていない彼等のみが
生き延びたと言う可能性も有るのかも知れないが
同じ鎧を着ていない足軽に追撃された可能性も
有ると言う事なのだろうか)
>いつでもどこでも騎兵が襲歩していると思うのは、競馬の見過ぎ。
そんなこと誰も言ってませんが?
102 :
某研究者:04/07/19 15:59 ID:rKosM58Z
ローマ等の様に敵の騎兵を排除した後に
敵歩兵の背後に突撃すると言うのが
主流では無いと言う事なのだろうか
(まあ長篠の様な全周に土塁の有る陣地なら
騎兵の背後からの突入は無理だろうが)
馬についてですが、『雑兵物語』に馬取の話として
「兎角お侍は伯楽だの生喰の乗り手だのの真似をしたがって頑馬を好む
もんだが、「駆走が自由で遠路に疲れない馬」が一番だ」
と書かれていました。「ただほんにお侍衆の足」であるのに、わざわざ頑
馬にするのが好まれているというのが下っ端の愚痴。
頑馬=敢馬でしょうが、格好つけが多かったのでしょう。
また「歩行立の合戦」の時には主を見つけて馬に乗せて追撃をかけるのが
大変だとも書いてありますが、「歩行立の合戦」というからには騎乗した
まま戦う事もあったものでしょうか。
「悍馬」の間違い。馬鹿馬鹿しい真似を重ねてしまった。
105 :
某研究者:04/07/19 16:06 ID:rKosM58Z
騎馬武者は追撃時だけでは無く敗走時も
乗馬して戦闘していたと言う可能性は
有るだろうが
軍馬がきわめて高価で、騎乗身分の侍は自費で馬を用立てることを考えると
損害の少ない追撃戦以外では下馬していたのもうなずけますね。
お家の存亡がかかった決戦的意味合いのある戦闘では乗馬戦闘していたかもしれませんが。
107 :
某研究者:04/07/19 16:11 ID:rKosM58Z
敗走する騎兵も鎧を着ていない足軽や
敵騎兵に追い付かれてやられていた可能性は
有るだろうか
『源平盛衰記』に、「近頃の合戦ではすぐに馬を射て組打に持ち込んでいる」
という老武者の歎き(武士の本分は「弓馬の道」という通り騎射)が記され
ていますが、『雑兵物語』にも鉄砲足軽小頭の「まず馬を射てから乗り手を狙う
事。或いは、状況によっては乗り手を落として馬を暴れさせて敵を混乱させ
るのも良い」というコメントが記されています。
南北朝時代以降は馬鎧も発達していますが、侍の中には自分の館に使いを出
して「大至急、下人を馬に乗せて来させて欲しい。馬が足りなければ歩かせ
てもいい。」という手紙を送ったものもいましたから、戦場で不足する事も
多かったのでしょう。騎乗は一種の特権でしたが、この場合は特別か。
>絵を見ると騎馬武者は騎乗して戦闘しているが
騎乗で弓の射程圏まで敵陣に接近して、騎走のまま弓を射たんじゃないでしょうか?
ところで、西欧で騎兵突撃が行われたのは18世紀以降って話は?
111 :
某研究者:04/07/19 16:18 ID:rKosM58Z
まあ鎧を着ていない足軽も
敵の足軽では無く
騎馬武者を追撃した方が手柄と成ると見做すかも知れぬし
敵の騎馬武者のみを追うと言う事も有っただろうが
(まあ騎馬武者も同様に騎馬武者のみを追ったと言う事は
無いのかだが)
鎧を着た足軽は騎馬武者や鎧の無い足軽は追えないだろうし
鎧を着た足軽を主に追撃していたと言う
事かも知れないが
敵が鎧を脱ぎ捨てて逃げると言う様な描写も有っただろうから
敵を簡単に追撃出来るのかだが
足軽は兎も角騎馬武者迄鎧を脱ぎ捨てていたのかだろうし
脱ぎ捨てていたなら此れは同様に鎧の無い騎馬武者以外は
追撃出来なかっただろうか
ピストル騎兵が発達して従来の槍騎兵が駆逐されたって話では?
ピストル騎兵の発展は18世紀よりも前の話だよ。
>>113 西欧全部にすぐさまピストル騎兵が発達したわけでもないでしょ。
115 :
某研究者:04/07/19 16:25 ID:rKosM58Z
>騎乗で弓の射程圏まで敵陣に接近して、騎走のまま弓を射たんじゃないでしょうか?
まあ戦国時代の場合弓や銃を持たない騎兵の方が
多いだろうし
敵歩兵の射撃も有るだろうから
果たして敵の騎兵以外に射撃をしていたのかだが
(まあ敵歩兵の追撃時は歩兵に対しても
放たれていた可能性も有るだろうし
敵騎兵を撃破して敵歩兵の背後から突入する事が
有ったのならこの際にも射撃をしていた可能性は
有るだろうが
敵が矢や銃弾を残していれば反撃は受けただろうが)
鎌倉時代の騎馬武者も騎兵に対してのみ矢を放ち
歩兵には放たなかったと言う事は無いのかだが
(戦国時代同様に追撃時や背後からの突入時以外は
歩兵には射撃はしなかった可能性も有るだろうが)
>>114 すまんが何が言いたいのかよくわからないのだが。
ピストル騎兵と18世紀の騎兵突撃にどんな関係があるの?
>まあ戦国時代の場合弓や銃を持たない騎兵の方が
>多いだろうし
それは騎兵ではなく指揮官ではないのでしょうか?
118 :
某研究者:04/07/19 16:29 ID:rKosM58Z
>ピストル騎兵が発達して従来の槍騎兵が駆逐されたって話では?
騎銃兵やピストル騎兵も銃を撃ち合った後は
恐らく騎兵や歩兵に突撃していただろうし
サーベル騎兵や復活した槍騎兵と言うのは
彼等より近接戦の能力が高いと言う事に
過ぎないだろうが
119 :
某研究者:04/07/19 16:31 ID:rKosM58Z
>それは騎兵ではなく指揮官ではないのでしょうか?
まあ絵を見ると槍や長刀を構えている騎兵が非常に多いし
弓や銃を持つ騎兵は少数だった可能性が
高いかも知れないが
実際はどうだったのだろうか
(恐らく騎馬鉄砲隊成る物は少数だった以上は
槍を持つ騎兵が仮に少なく共弓を持つ騎兵が
大半だったと言う事なのだろうか)
>>114 ホイールロックピストルが発明されたのは16世紀初頭。
2世紀近く後の18世紀までピストル騎兵が普及しなかったとする根拠は?
>>118 ちょっと資料が手元に無いんだが、ピストルは今考えているような火器というより、
槍より間合いの遠い武器みたいな使い方だった希ガス。と、だけ書いて逃げる。
誰か、「長篠の合戦と〜」を引用汁。
漏れはウロオボエだからダメだけど。
123 :
某研究者:04/07/19 16:36 ID:rKosM58Z
ピストルも馬を狙ったのでは無く
騎兵を狙ったのであるなら
胸甲で弾かれていた可能性も有るだろうが
騎兵銃なら貫かれていただろうか
(まあ馬を狙わないなら近距離で無いと馬上からでは
当たらなかった可能性も有るだろうが)
124 :
某研究者:04/07/19 16:37 ID:rKosM58Z
近距離ならピストルでも胸甲は貫通する様な気もするが
果たして近距離でピストルと言うのは
撃たれていたのかだが
125 :
某研究者:04/07/19 16:40 ID:rKosM58Z
17世紀には西欧では胸甲は廃れていたと言う意見も有るだろうが
(18世紀には復活すると言う事だろうが)
一応17世紀の甲冑と言うのは多数残っているが
此れは少数の指揮官のみが着用していたと言う可能性も
有るのだろうか
(グスタフアドルフのサーベル騎兵も
胸甲は装備していないと言う事なのだろうか)
126 :
Pz:04/07/19 16:48 ID:+c9vyQ8n
>>118 >騎銃兵やピストル騎兵も銃を撃ち合った後は
恐らく騎兵や歩兵に突撃していただろうし
レイター騎兵のカラコール戦法って、
2丁短銃を発射後は入れ替わって半回転して後方につく
突撃しないんじゃないの?
ブライテンフェルトじゃその戦法をスエーデン軍の抜刀騎兵突撃に破られている
某研究者 さんは知識あるのだから、怖がらずに、きちんと自分の見解を書いてみたらいいと思います。
質問調の変な書きかたは、良くないのではありませんか。
ぜひ、知識のない我等を啓蒙していただきたいものです。
128 :
某研究者:04/07/19 17:03 ID:rKosM58Z
129 :
某研究者:04/07/19 17:07 ID:rKosM58Z
>ブライテンフェルトじゃその戦法をスエーデン軍の抜刀騎兵突撃に破られている
まあピストル騎兵も剣は持っているだろうが
錬度はサーベル騎兵には全く及ばなかったと言う
事なのだろうか
(騎兵の銃と言うのは馬上からの射撃である事も有り
余り当たらないのだろうか)
130 :
某研究者:04/07/19 17:15 ID:rKosM58Z
>間接武器の方が殺傷力があったみたいな意見が聞かれて。
>僕もそう思うんだけども。
長篠の際も信長軍の損害は銃や弓・石でやられた物が
大半だったと言う事なのだろうか
(武田軍の方が鉄砲を持つ兵の比率は
確か多かっただろうから
信長軍の銃での損害も馬鹿には
成らなかったと言う事かも知れないが
武田軍は泥沼を行軍した為に疲労でやられたと言うが
疲労で銃や弓を高速で連射出来なく成ったが為に
敗れたと言う事なのだろうか)
131 :
某研究者:04/07/19 17:18 ID:rKosM58Z
>レイター騎兵のカラコール戦法って、
>2丁短銃を発射後は入れ替わって半回転して後方につく
>突撃しないんじゃないの?
まあ只銃弾を撃ち尽くした後はどうしていたのかだろうし
騎兵や歩兵に対して剣で戦ったと言う事は
無いのかだが
132 :
某研究者:04/07/19 17:26 ID:rKosM58Z
>長篠の際も信長軍の損害は銃や弓・石でやられた物が
>大半だったと言う事なのだろうか
まあ土塁の銃眼から銃を放つ敵に対して
銃を放っても効果は有るのかだろうし
土塁に上る際此れを迎撃する為に土塁の上に上がった
槍を持つ歩兵に対して
武田軍も銃撃や投石をしていたと言う事かも知れぬし
この際に信長軍は銃や石で多数やられた可能性も有るだろうが
(まあ土塁を上った後に土塁の上から陣地内部の兵に対して
銃撃や投石が加えられたかも知れぬし
銃眼を利用して陣地内部を射撃していた兵も居るかも知れないが
土塁の構造上外側から果たして内部が射撃出来たのかだが)
おお、何時の間にやらこのスレに猊下が降臨されておる。
134 :
某研究者:04/07/19 17:34 ID:rKosM58Z
無論銃眼からの信長軍の銃撃でやられた者も
多数居るだろうが
車竹束等を利用すれば
損害は余り出なかったかも知れぬが
壕の部分には車竹束等は持ち込めたのかだろうし
至近距離からの銃眼からの銃撃でやられた可能性は有るだろうが
銃眼を上手く塞ぐ事等は
出来なかったのかだが
車竹束にも銃眼が有る物は有る様であるし
この銃眼を用いて土塁を上る兵を迎撃する為に
土塁の上に出て来た兵を銃撃すれば
一方的に打撃が与えられた可能性も有るだろうが
土塁を上る兵が土塁の銃眼からの射撃で
相当程度やられていたのも事実だろうが
135 :
某研究者:04/07/19 17:40 ID:rKosM58Z
竹束の盾成る物も武田軍には有った様であるし
大阪夏の陣で使われた様な鉄の盾も
有ったかも知れぬし
此れで車竹束から出て壕を超え土塁を上る兵を守りつつ
銃眼を塞ぐと言う方向も有っただろうが
竹束の盾には石や土は詰められていたのかだろうし
無ければ防弾効果は半減するだろうし
土塁の銃眼から撃たれる銃弾と言うのは
大筒の様にかなり強力な物も有ったかも知れぬし
車竹束でさえ防げない物も有っただろうが
数はそう多くは無いのなら矢張り車竹束や竹束の盾を使用した方が
損害は出ないと言う事かも知れないが
武田側の大筒では土塁を打ち抜いて背後の兵に
打撃を与える事は矢張り無理だったのだろうか
136 :
某研究者:04/07/19 17:46 ID:rKosM58Z
大筒を使える銃眼と言うのはそう多くは無いだろうし
武田軍の兵力が一点に集中したとしても
信長軍の大筒が集中する事は
無かったと言う事なのだろうか
(まあ土塁の上から大筒での射撃を試みる者も
恐らく居たかも知れぬが
此れは車竹束の銃眼等からの銃撃で
撃つ前にやられた場合も有るのかも知れないが)
戦国時代は無かったというのが今の定説。
お前らが教えられてきたことは三国志演義のようなもの。
138 :
某研究者:04/07/19 18:00 ID:rKosM58Z
車竹束が土塁周辺に到達しても
至近距離からの大筒の攻撃は止められるのかだろうし
竹束の後ろの兵もかなり損害を受ける可能性も有るだろうが
何も無ければ通常の銃でやられるだろうし
無いよりはましであると言う事かも知れないが
(まあ後は竹束や土塁の背後への
手投げ弾の攻撃等も有る訳だろうし
大筒が使える銃眼の背後に手投げ弾を集中して
此れを止めると言う方向も有るだろうし
(まあ竹束の背後や土塁を上る兵に対しても
此れは使われ得るだろうが)
近距離であれば大筒の銃眼に対しても
銃撃は加えられる可能性も有るだろうが)
>>138 防御側が数的劣勢で攻勢側の車竹束と足軽が土塁に近づけば、
防御側は壊走するか後退するのではないでしょうか?
槍の届く距離になれば逃げるが難しくなりますし。
141 :
某研究者:04/07/19 18:22 ID:rKosM58Z
数は信長軍の方が倍以上は有るだろうが
武田軍の質を考えれば或いはだろうし
泥沼を通って疲労しなければ或いはかも
知れなかっただろうか
(まあ野戦築城自体が雨が降らねば無理との意見も有るだろうし
信長軍が確実に勝てたかは
疑問も有ると言う事かも知れないが)
まあ武田信玄に信長が負けていた場合は
信長は殺されていたかも知れないが
秀吉や家康は生かされた可能性も有るだろうし
武田信玄死亡後に彼等が実権を握っていた可能性も
有る訳だろうか
142 :
某研究者:04/07/19 18:27 ID:rKosM58Z
今川義元が生き信長が死んだ場合
今川義元は武田信玄に果たして
勝てたのかだが
143 :
某研究者:04/07/19 18:28 ID:rKosM58Z
家康や秀吉が義元の側に付いたとしても
武田には果たして勝てたのかだが
天運無い人間に勝利なし。クラウゼヴィッツじゃないが運が一番
レスが伸びてると思って覗いたら「今川と武田はどっちが強いか?」か。
何か急にレベルダウンしてないか?
厨な質問で申し訳ありませんが、日本で弩弓(いしゆみ)が使われなかったのには、
何か訳があるのでしょうか?
中国より渡ってきた文献等によりその存在は知っていたと思うのですが・・・。
西三河在住だけど、近所の神社の神域はまるごと中世の砦跡だと言われてる。
松林の中に土壁みたいな痕跡があるけど何の保護もしてない。調査の有無も不明。
伝承ではここで戦いがあり、江戸時代初めに死んだ侍を祭るために勧請された
のが今の神社らしい。知る限り、ここでの合戦は文章記録には残ってない。
地元の人間にも存在さえ忘れられてしまう死人の戦死って、何なのだろう。
神社の謂れを調べるまでは自分も知らなかった。
149 :
某研究者:04/07/19 18:55 ID:rKosM58Z
>今川義元はほぼ負け知らずの武将ですよ、最後を除いて。
此れに秀吉・家康が加われば
武田も勝てたのかだが
兵の質自体は武田軍の方が
恐らく上だろうか
まあ竹束の盾で銃眼を塞いでから上れば
土塁上の兵は車竹束の銃眼から銃撃可能なら
余り損害は出ないかも知れぬが
大筒や手投げ弾の攻撃は防げないかも知れぬし
大筒は土塁背後への手投げ弾の攻撃や銃眼への至近近距離からの銃撃
(まあ銃眼に槍等を突き込むと言う方向も有るだろうが)
手投げ弾は土塁内部に早期に侵入して止める以外は
無いと言う事かも知れないが
まあ銃の銃眼に対しても10m程度の距離なら
狙撃出来無いのかだが
相手も同様に車竹束の銃眼に対して
直接狙って来る可能性は有るだろうが
(まあ其れで土塁上の兵を銃撃出来なく成る事を恐れ
車竹束は余り土塁近くには接近しない可能性も有るだろうし
大筒は接近した別の兵に
始末させると言う方向も有るだろうが)
>>147 弩を必要とするほどの大規模な攻城戦の需要が無かったため、
弩を製造できるだけの工業力が育成されなかった
151 :
某研究者:04/07/19 19:15 ID:rKosM58Z
城の場合は門から攻めれば
銃眼からの大筒や側面からの銃撃で
竹束の盾や鉄の盾を用いてもやられるだろうし
側面からの銃撃を受けない場所から
竹束の盾等を構えて上ると言う方向も有るだろうが
側面からの銃撃を受けないのは櫓の部分だろうし
この部分の内部に侵入しても待ち構えている敵に
やられる危険は有るだろうが
其れは門でも同じだろうか
某研の攻勢止まず
>>147 弩はかなりの技術が必要とされる武器だけど
北方騎馬民族に対抗するために、中央政府が技術を保護してきた中国ならともかく
日本では需要が少なかった。
155 :
某研究者:04/07/19 19:21 ID:rKosM58Z
門の側面の銃眼を塞ぎつつ
前進すると言う様な方向も有るだろうが
これは正面や背後からの銃撃でやられ得るだろうし
門は避けて櫓から上ると言うのが
正解なのだろうか
(まあ壕が有る場合壕に浮かべた筏から梯子でも
掛けると言う手も有るだろうが
万一手筏に手投げ弾でも落とされたらアウトかも知れぬだろうか)
157 :
某研究者:04/07/19 19:26 ID:rKosM58Z
櫓の部分も良く見ると側面或いは斜め側面から
銃撃される様な気もするし
死角と言うのは中々
無いと言う事かも知れないが
158 :
某研究者:04/07/19 19:27 ID:rKosM58Z
まあ只櫓の部分の窓は銃眼では無いだろうし
この部分を銃撃する事で
敵の銃撃は阻止出来るかも知れないが
159 :
147:04/07/19 19:31 ID:???
>150、154
なるほど、技術とそれを行使すべき敵の存在ですか。
有難う御座います。
>>150 いや平安期までは大量に使用されている。
刀伊の入寇がその例。
単に欧州でも同じように速射性の有効性から、
弩よりも長弓に移行したのだと考える。
欧州では長弓に移行してはいないぞ
長弓を大量に使用したのはイングランドだけ
当時のイングランドも経済的には後進国だった
そして、そのイングランドでさえ、弩兵の調達に努力を払っている
薔薇戦争当時の給料は弩兵>長弓兵
>>162 フランスとの戦訓からそれはおかしいのでは?
166 :
某研究者:04/07/19 19:39 ID:rKosM58Z
櫓の部分の壁を貫くには
かなり大型の大筒で無いと無理なのかも知れないが
窓からでも打ち込めば内部に密集している兵に対して
打撃は与えられないのかだが
味方が櫓に侵入した後は敵も同様の事を
考え得るだろうか
(櫓の窓から手投げ弾を投げ込むと言うのは
窓は格子状なので無理だろうか)
168 :
名無し三等兵:04/07/19 19:43 ID:sD+WfF9/
戦国の騎馬戦術ですが、北条五代記によると、
最初騎乗で駆け、弓矢で攻撃。敵に近接したところで下馬。追ってきた轡取りに馬を
預け、その轡取りが持ってきた槍やら長刀やらと交換。馬は戦闘現場からやや離して待機。
ひとしきり白兵戦を演じた後頃合を見計らって馬を呼び乗馬、弓で攻撃。これを何度か繰り返す。
というのが当時の関東における戦い方だったようです。朝倉犬也はこの戦術の名人?だったようで
結城秀康に絶賛される場面がこの書物に乗っています。
某研さん、今川より武田の方が強いですよ。ていうか貪欲過ぎて恐ろしいほどです。
連中の生国甲斐信濃ではしょっちゅう冷害がおきて食う為には戦しかありませんでしたから
足軽の士気が違います。それに比べて駿河は温暖で作物がよく実りますから別に戦しなくても
やっていける。大阪八連隊ですな。
弩兵の産地はイタリア
100年戦争では良質の弩兵をジェノバから雇っている。
>>163 英軍が長弓兵を多数動員できたのは、平時から養成に血道を上げていたため
他国ではそれほどの動員はできない。
>>168 武田は長篠の戦一回で1万人を殺されています。
桶狭間で今川は5000人を殺害されています。
織田信長は異常に強い事だけは否定できません。
>>169 そりゃそうだろうが、クレーシーの戦いを見ると。
172 :
某研究者:04/07/19 19:50 ID:rKosM58Z
クロスボウ兵等訓練は弓兵より不要だろうし
雑兵では無いのかだが
>ひとしきり白兵戦を演じた後頃合を見計らって馬を呼び乗馬、弓で攻撃。これを何度か繰り返す。
弓を放ちつつ敵に接近した後
下馬して槍を用いて白兵戦を行い
敵が敗走した後で
弓を用いて追撃を行うと言う
事なのだろうか
(まあ敵も馬で逃げる者は居るだろうし
彼等も同様に矢を放って来る可能性は無いのかだが)
TV等に出て来る馬上で槍を振るう騎兵と言うのは
誤りと言う事なのだろうか
>>167 百年戦争におけるイングランド長弓戦術の戦訓
1 長弓戦術は野戦でしかも防勢の場合にのみ威力を発揮する
2 ただし、そのためには火力集中が前提であり、圧倒的な大量に投入する必要がある
3 敵が野砲を持っていた場合、長弓戦術の優位性は喪われる(フォルミニー戦)
4 砲がない場合でも、騎兵の徒歩突撃はある程度効果を見込める
このため薔薇戦争では両軍はしばしば騎兵を下馬戦闘させている
百年戦争後、イングランドに倣って長弓兵を大量に整備した国はどこにもない
>百年戦争後、イングランドに倣って長弓兵を大量に整備した国はどこにもない
そりゃそうだ、一人前の長弓兵になるためには子供の頃から手の骨が変形するほど訓練する必要がある
そんな熟練兵を数そろえるならば、弩兵を雇うなり大砲揃えた方がまし。
イングランドが長弓兵を大量に整備できたのは、産業的に後進国であったため
大量の余剰労働力を長弓兵に転用可能だったから
羊毛産業の発展とともに、イングランドの長弓兵は衰退することになる
>>174 わかっているではないか
長弓兵の育成コストは高い
故に長弓は弩にかわって主流になることができなかった
>>173 となると、日本は早い時期に野砲は入ってきていなかったのが、
大きな要因かな?
火砲に関しては少なくとも元寇以後だから。
>>176 どちらもコストは似たようなものだと思うが。
イングランドの対スコットランド戦と百年戦争で、長弓兵はその戦術的威力を
示したが、同時にその克服しがたい限界も露呈した
これが百年戦争で得られた教訓だ
>>178 幼少期から骨格に変形をきたすほどに訓練を必要とする長弓兵と、
矢の装填動作と撃発動作の修得のみで要請可能な弩兵とでは
育成コストで天と地ほども違う
>>177 元寇のてつはうは大砲とは言い難い
また、日本でイングランドの長弓戦術に似たような戦術が行われていたことを示唆する
史料は存在しない
弩が普及しなかった理由は上述の通り
>>182 何度も言うが、矢の装填動作と撃発動作の修得は必要
>>181 だから、火砲でさえ元寇以後だからということ。
日本の場合、似たような戦術が行われにくいのは野戦では騎射戦が主だからでしょう。
>>179 打撃力はあるけど、舞台を整えなければ威力を発揮できないし
接近されると脆いので、護衛や障害物で防護しなけりゃいけないし
通常の散兵として使うにはもったいないし、集中しなければ効果が無い。
ツボにはまると強いけど、使い方が難しい兵科だよね。
>>184 日本で火器の使用は16世紀中期以降
ただし、応仁の乱で細川勢が大陸から輸入した火器を
使用していたという説もあることを付記しておこう
イングランドの長弓戦術は戦史上でも極めて特異な戦術であることを認識すべき
>>185 弩兵も長弓兵も訓練は必要だが、長弓兵は比べものにならないほどに訓練期間が必要
訓練期間=コストになるわけだが、理解できるか?
>>185 少なくとも思春期から骨格が変形するほど訓練する必要はない
>>187 本論に戻すが、日本が弩兵を採用しなくなった要因は。
・野砲が入ってこなかった。
・騎射では弩は扱いにくい。
という要因が挙げられるということかな?
>>189 弩は道具が必要なほど力が必要で訓練も必要。
>>190 違うな
弩が日本に導入された律令兵制期には大砲はまだ存在していない
また、西欧には騎乗弩兵も存在する
弩が普及しなかった要因は、弩を必要とするほど大規模な攻城戦の需要がなかったから
>>190 精巧な弩が作れなくなっていたってのもあるのでは?
中国では国家が弩の生産をしていて、厳格に民間への流出を防いでいたらしいし。
豪族レベルの戦争では、弩を作れないし集中利用しなければ威力も薄い。
それに野戦での小競り合いなどでは使えないだろ>弩
>>191 弩は滑車や梃子を使って弦を引くことができる
単純に筋力のみに頼る長弓とは違う
弩は、発射速度を除けば威力、精度、射程、兵の育成コスト等で弓より勝っている
このため、ヨーロッパでは火器が主流となる16世紀まで投射兵器の主流であり続けた
>>192 西洋の騎乗弩兵って、たまにいたらしいけど
彼らはいわゆる「騎射」を行ったのかな?
再装填に激しく困難が伴いそうだけど……
>>196 >再装填に激しく困難が伴いそうだけど……
それは後のピストル騎兵や竜騎兵にも当てはまる
199 :
某研究者:04/07/19 20:22 ID:rKosM58Z
>また、西欧には騎乗弩兵も存在する
まあ此れは騎乗して射撃をする兵ではなく
行軍時に下馬して射撃を行う兵なのだろうか
弓等半身に構えれば曲面で滑って
殆ど貫通しないかも知れぬが
銃では流石に貫かれるのだろうか
200 :
某研究者:04/07/19 20:26 ID:rKosM58Z
>西洋の騎乗弩兵って、たまにいたらしいけど
まあ彼等は騎士の様な甲冑と言うのは
矢張り装備していないのだろうか
(まあ通常のクロスボウ兵よりは
ましな鎧は着ているだろうが)
201 :
某研究者:04/07/19 20:31 ID:rKosM58Z
>弩は、発射速度を除けば威力、精度、射程、兵の育成コスト等で弓より勝っている
同じ時間で同じ数の矢を撃つ為のコストは
クロスボウ兵・ロングボウ兵何れが安価なのかだが
クロスボウは密集して放てないと言う意見も有る様だが
広範囲から一点に向けて放てば
問題は無いのかも知れないが
202 :
某研究者:04/07/19 20:33 ID:rKosM58Z
1分間にロングボウは6発
クロスボウは2発程度の射撃が可能だっただろうが
同じ時間内に同じ数の矢を放てる
ロングボウ兵と其の3倍のクロスボウ兵では
後者の方が安価と言う可能性も有るのだろうか
>>192 確か、律令制前にもほそぼそながら弩は使用していたらしい。
本格的に使用されるのは律令制定後だと思うが。
>>193 精巧な弩は大量に作られている。
>>160参照。
当初は大陸の兵制の性格が色濃く残っていたからな
その後衰退したのは歴史が示すとおりで
平安中期以降にはほとんど使用されていない
刀伊の入寇は平安中期と考えてよいのか?
ひょっとしたら武家社会による戦争技術の独占といった問題が絡んでいるのでしょうか?
208 :
206:04/07/19 20:59 ID:???
>207
定義までは考えておりませんでしたが、この場合戦闘技術を持つプロ集団とでも
考えております。
国民軍的な組織のしやすい武器を締め出すことにより、軍事技術を一般に広めることなく
自分達で独占、政治的影響力を強めていったのかと愚考いたしました。
陰謀論っぽいな。
何故単純に必要性がなかったからと考えられないの?
210 :
某研究者:04/07/19 21:07 ID:rKosM58Z
櫓や門・天守閣の部分には銃眼が無いが
窓の後ろに銃眼を装備した竹束でも
置かれていた可能性は無いのかだが
此れを用いれば真下に銃は放てないと言う事だろうか
211 :
206:04/07/19 21:07 ID:???
>何故単純に必要性がなかったからと考えられないの?
単純なことです。
なぜだろう? という疑問(好奇心?)からです。
212 :
某研究者:04/07/19 21:09 ID:rKosM58Z
矢を放つ銃眼は上下に長い物が多いが
四角い物も有るが
銃を撃つ銃眼からは矢は
放てなかったと言う事なのだろうか
>>211 ではまず「戦闘技術を持つプロ集団による軍事技術の独占」を示す
根拠なり史料なりを提示してください。
>資料
ありません。あったら疑問そのものが存在しません。
>根拠
これもインスピレーションからくるもので(軍板では嘲笑の対象でしょうが。)
前述された平安後期まで存在したという弩弓の衰退、同時期(やや後か?)の
武家の台頭にひょっとしたら関係があるのか?というきっかけ程度のものです。
疑問提起が駄目だというのならばRomに徹しますが。
ほんまかどうかは知らん。
源頼朝が奥州平泉に赴く途中の西行法師引き留めて
騎射の話を聞いていちいち記録したという話があるぞな。
それも40年も前に武士を辞めた人間捕まえてだよ。
弩が中国では国家に管理されていたように
刀伊の入寇あたりまでは、弩が律令国家によって管理されていたってことだろう。
その後の源平争乱あたりでは、弩のような集団技術を必要とする武器よりも
小規模な鍛冶屋でも整備できる弓矢や太刀が発達したのでは。
217 :
名無し三等兵:04/07/19 21:53 ID:NxN1B5+n
召集された農民足軽は、互いに死んだふりをして、合戦が終わるのを待っていたとか、いないとか。
良く訓練された弓騎兵には弩兵では敵わなかったからでしょ
いきなりイングランドの話題を振られてもなあ。
ところで
>>164の言う戦訓って結局一体何だったんだ?
>>219 弓騎兵と弩兵では有効射程に差がありすぎ
弩兵にアウトレンジされるぞ。
もちろん、良く整備された弩と訓練された弩兵の場合だがね。
障害物で防備された弩兵の集団に対して、源平スタイルの弓騎兵では相手にならない。
まず単純に弓騎兵>弩兵という前提に問題がある
騎射の有効射程はせいぜい30メートル前後
射撃戦では弩兵にはまず勝てない
日本で弩が消滅した理由を弓騎兵に求めるのは無理があると
言わざるを得ない
>>193 有名な『三善清行意見封事』の中に、
「弩師に任じられた者には近年無能が多く、蝦夷や新羅に備えようにもそも
そも扱い方を知らずにいる。ただ希望者に役目を売り渡しているだけで、甚
だ心もとない。」
といった事が書かれています。『続日本紀』には弩師が置かれた事が記されて
いますが、専門技術が必要とされたものらしい。
騎射についてですが、元々中央の行事に登場したもの。中央で生じた武士の
本分とされましたが、治承・寿永の内乱期には西国の打物・東国の組打とい
った技に取って代わられています。どうも技術の鍛錬の不確かな田舎者が大
量に登場する中でかすんでいったらしい。
なお清行に言わせると日本の「弩」は神功皇后の発明品であり、唐土のそれ
もよりも一段と威力のあるものであったといいます。
弩といえば、映画「英雄」で出てきた足で弦を引っ張って発射するものが思い浮かぶわけだが。
もう一つのイメージは、弓より大きめで、紐を手車か何かで回して、それによって弦を引っ張り発射に至るもの。
弩が日本で普及しなかったのは、山がちで複雑な地形が関係あるのかね?
近代におきかえて見れば、弓=小銃 弩=重・軽機関銃のようなもので、
軽快な機動に向かず、また丘や山などを移動するのには不向きであったため、
淘汰されていった・・・みたいな。
機関銃と違って、発射速度にも問題ありそうだし。
強弓が誇られる傾向があった様ですし、機械的な武器は馴染めなかったのでは。
生産と扱いにも問題があった様ですし、普通に弓を張っていた方が良かったと。
源為朝は一時期鎮西で暴れていましたが、彼は五人張りの大弓を引いたといい
ます。もっとも弓が大き過ぎて肝心の騎射の際には不便であった様ですが。
九州の武士は、騎射と打物戦(太刀で相手を殴りつけて落馬させる)が得意で
あったといいます。
武士が都で生じたものだという事は度々申し上げましたが、彼らの騎射は元々
都の年中行事の場で活かされていたもの。辺境で蛮族相手に使用されていた弩
は、本来扱うべきでない異質な存在であったのでしょう。
231 :
某研究者:04/07/20 01:26 ID:7It7XROx
長弓を高台から放てばクロスボウの射程の優位は消えるだろうが
攻城戦は兎も角
平地での戦闘でクロスボウが使われなかったのは
何故なのかだが
クロスボウの射程が多少優位でも長弓の射程に踏み込めば長弓の方が
同じ人数であれば有利と言う事かも知れぬが
232 :
某研究者:04/07/20 01:30 ID:7It7XROx
クロスボウは直ぐに故障して
使えなく成ったと言う様な
記述も見る訳だが
実際はどうだったのだろうか
朝廷による征夷と、武士とでは、武器の調達過程が違う=日本で石弓が廃れた理由では?とか書いてみる。
参考書籍
歴史図解 戦国合戦マニュアル 東郷隆著 上田信絵
戦国合戦事典 小和田哲男
目からウロコの戦国時代 谷口克広
弓矢と刀剣 近藤好和
鉄砲と日本人 鈴木真哉
鉄砲と戦国合戦 宇田川武久
人類にとって戦いとは4 攻撃と防衛の軌跡
番外篇
戦国の村を行く 藤木久志
雑兵たちの戦場 藤木久志
>>225 それは、時と場合によって一概に言えないのでは?
攻撃側と防戦側とでは全く状況も違うし。
地形にも左右されるのでは?
>>233 『陸奥話記』には両軍が城攻めの際に使用した(内側からも外側からも使用した)
と書かれていますが、300人程度を率いて地方で小競り合いをする分には持
ち出す必要は無く、技術も無かったでしょうね。実用的・一般的では無かった。
>実用的・一般的では無かった。
というより、馴染みにくかったという事で。
・元来辺境で蝦夷や新羅に対して用いられたもので、地方では長弓が発達していた。
・それまで長弓を使い、作る事によって地位を得てきた人々に受容されなかった。
・武士の本分である騎射(強弓含む)の腕が活かされにくかった。
『陸奥話記』には源八幡太郎義家らの武勇を称えた箇所がいくつかありますが、騎射
(うまゆみ)の上手であったというのが最初に来ています。
弩については、単に攻城戦用の機械的な武器という描写しかされていない。
個人の武勇が賞賛された時代には価値が認められにくかったのでしょう。もう少し時
代が下って南北朝時代に改めて出て来ていれば違ったかもしれませんが。
>>237 個人の武勇以前に、武士成立の頃の、武士の構成員を考えれば、
日本の武士が、弩の訓練を受けているとは思いづらいのですが…
弥生から産出する鏃の多さを考えれば、過去には弓をかなりつかっていた。
この弓を代替するほどの需要が無ければ、弩が地方レベルに敷衍しないような気がします。
朝鮮征伐では日本側の火縄銃と明側の弩の撃ち合いといった様相だったのだろうか?
240 :
某研究者:04/07/20 16:12 ID:belo1KAz
クロスボウは盾で止まるのに対し
銃弾を止めるには竹束が必要かも知れぬし
日本側が盾を十分用意しておれば
明側はどうなっていたのかだが
明の大砲で盾が崩された可能性は有るだろうが
大砲を操作している人間に対して
銃撃を加えればどうだっただろうか
>>238 >日本の武士が、弩の訓練を受けているとは思いづらいのですが…
ええ、そのつもりで
>それまで長弓を使い、作る事によって地位を得てきた人々に受容されなかった。
と書いたのですが、失礼しました。分かり難いわな。
>234殿
『戦国合戦マニュアル』(東郷隆 著)と、『雑兵達の戦場』『飢餓と戦争の戦国を行く』(藤木久志 著)は
持ってるな。あと、このスレに関連するもので、オレが持ってて皆に勧めるのは、笹間善彦先生の
『図説 日本戦陣作法辞典』と、『武士の誕生』(関幸彦 著)。
とくに、『武士の誕生』は、東国武士の発生過程を中心にしているんだけど、弩がどうして廃れたのか、
というような考察もされている。
ちなみに、東郷先生は、自分で鎖兜(タタミ鎧と同じように、板金を鎖で綴じて造る兜)や“えびら”、“うつぼ”
(ともに矢を入れて携帯する為の道具)を造ってしまう(または市販品を改造・改良)ような方です。
ファンキーで良い人ですよ〜。
>>237 >もう少し時代が下って南北朝時代に改めて出て来ていれば違ったかもしれませんが。
その頃すでに日本は火砲が入りつつあったので、
意味の無い考察では?
火砲が採用された可能性があるのは、応仁・文明の乱あたりでは。
>>235 >それは、時と場合によって一概に言えないのでは?
>攻撃側と防戦側とでは全く状況も違うし。
>地形にも左右されるのでは?
確かにその通り
では考察してみよう
弓騎兵が攻撃側の場合:障害物に陰掩蔽された弩兵が弓騎兵をアウトレンジ
弓騎兵が防御側の場合:そもそも弓騎兵は防勢的に運用する兵科ではない
やはり弩兵の優位は動かしがたい
結論:弓騎兵は弩兵には勝てない
まず、弩という兵器は戦史上でも非常に特殊な兵器であると認識すべき
弩を大量に製造し運用したのはヨーロッパと中国だけで、
これは、両者の軍事戦略的な環境が最大の要因
故に日本が弩を装備化しなかったことは不思議でも何でもない
>>246 日本には弩を運用する必要性が無かったってこと?
>>247 換言すれば、弩のようなハイテク兵器の生産基盤を構築するだけの
需要を誰も認めなかった
当時の日本って短弓が作れたのかな?
動物の腱から作るんだよね、短弓作れないようじゃ弩作れないんじゃ・・・。
>>248 それくらいの生産基盤はその頃ある。
単に必要が無かった。
つまり弩がいくらあろうが無用のものだった。
>>250 「やればできる」ことと、実際に生産施設を建設して大量に製造することとは全然違う
弩に関して
前述の『武士の誕生』には、大和朝廷が九州から中国地方、新潟までの沿岸部と、
関東と東北地方の境に、防衛部隊として弩師を置いていたとあります。
この弩師というのは、弩を運用する部隊の隊長のようなものらしいです。
で、このように対エミシ、対新羅を念頭に置いて配備された弩と弩師は、ちゃんと刀伊の入寇に
おいて活躍しているようなんですよね。ということは効果がないわけでは無かった、と。
それなのになぜ廃れたか。既にこのスレでも述べている人がいますが、数十キロの負荷を支えて、
トリガーの動きで解放する、装置が必要だから(高い技術力が要る)、というのが理由にあるようです。
弩の製造には、負荷に耐える強さを持つ金属部品を核にして、発射装置を造る必要があります。
集権的な律令国家だからこそ、技術と材料を集結させて弩を造り、配備・実用化できていたのが、
その解体とともに出来なくなったのでしょう。
>>245 では、弩兵をベンゼンが指揮をし、
弓騎兵を某研究者が指揮をしたらどうなるか?
>>252 できないことはない。何故なら、
新たな集結地で生産をするだけだから。
必要性が重要。
>253
緒戦では便有利。しかし戦が長引くにつれ便陣営で指揮官に対する不満が鬱血。
組織の内部崩壊を招く。
某研側、緒戦で多数の犠牲を出すも、それを上回る志願兵が続々と参戦する。
某研を中心とした永遠とも思われる軍儀のすえ、一部の過激な支持者が未完の対便理論を
実践、勝利を得る。
>>252 中世フランスやイングランドでは、弩を製造できるだけの工業基盤がなく
イタリアやドイツに弩兵の供給を頼った
王権の強弱のみが要因だったとは言い難い
では、弓騎兵を某研究者が指揮をし、
長弓兵をミリ哲が指揮をした場合どうなるか?
長弓兵を指揮するミリ哲は近隣の村落を襲撃、若い婦女子を略奪のうえ、
酒池肉林の大酒宴を催す。
そこを某研指揮下の弓騎兵が奇襲を敢行し、某研陣営の勝利となる。
実はミリと某研の中の人は同じだから全てが茶番(陰謀説)。
日本で弩が発達しなかったのは城の構造だと思ったが、違ったのか・・・
日本の城は少数の例外を除くと大きな家(中で補給が効かない)であるのに対し、
大陸や欧州の城は町を囲っているのが一般的なイメージ(中である程度の補給が効く)
日本の城は構造上長期間篭城できないので弩のような攻城戦で威力を発揮する武器は発達しなかったし、必要もなかったと考えていました。
根本的にガチンコの戦争が少なかったからの様な気がするが
>>252 実際には鎧の配備などに関する記述を見てもかなり穴だらけであったようで
すが、大規模な外来のものを体面だけでも現実のものに出来た組織は地方
レベルでは手に余ったでしょうね。
>>256 イタリアなどの工業技術は常に優れており
プレートメイルなどの生産もイングランドではできず、最良の物はドイツだったらしい。
青銅砲も同じ。
イングランドが鉄製大砲生産で名を馳せるのは、かなり後になってから。
王権の存在が工業基盤に影響するのは、中国のように中央が技術を独占する場合
ヨーロッパにおいては権力が分散していたので、当てはまらないと思われ。
>>261 弩自体は城塞攻略で活躍する兵器だが、決定的な兵器では無い。
ローマ軍もバリスタなどを使って城壁の敵を攻撃していたが
決定的なのは土木作業や攻城塔などの大規模攻撃もしくは
包囲による兵糧攻めだった。
ヨーロッパで弩が普及するのは11世紀以降で、1139年には教会が禁令を出すほどに普及した
この時期は要塞の石造化が進行する時期と概ね軌を一にしており、
地方の聖俗有力者が石造要塞を中心とした領域支配圏を確立させていった
一方、日本では平安期から鎌倉期にかけては奥州で植杭による城柵が構築された以外では
防塞化された館程度で、南北朝期にようやく山城が築かれるようになるが、
これも戦時限定の応急陣地的な性格のもので、後の戦国期のような山城に比べて
要塞としての強度は低かった
このような状況では弩を必要とするような大規模な攻城戦は生起しなかった
>>264 14世紀から15世紀にかけて、フランスは封建危機を克服して絶対主義へと向かう
この時期にフランスは大規模な攻城放列の組織化と常備軍への端緒を開いたが、
権力は集中していく過程にあり、分散していたとは言い難い
>265
弩は防御(篭城)側が使うことはないのかな?
攻め手は包囲による兵糧攻め(日本ではこのパターンが多い)や土木作業で攻めれるけど、
篭城側の対抗手段は原則として飛び道具ぐらいしかないのでは?
>>265 土木工事に従事する兵や攻城兵器を守備隊から防護するために弩は重要な役割を演じた
また、守備隊も城壁から包囲軍を射撃するために弩を使用していた
獅子心王が殺されたのも城壁からの弩による狙撃だった
中世ヨーロッパの都市では、防衛用の兵器として弩は必須のものだった
このような状況では、弩の先天的欠点である低い発射速度はそれほど大きな問題にはならない
>>267 ルイ14世の幼い頃は、大貴族が王権を危うくしていたし
フランスの場合、絶対王権って結構ふらついていたとおもったけど?
それにヨーロッパ全域で見れば、フランスの絶対主義と言っても
せいぜいフランスとイタリア北部の話
それ以外に権力が及んだわけでもないし、中国のように弩の生産技術を国家で集中
できたわけでもない。
>>268 >>269 弩が城塞守備側にとって重要な武器であることは言わずもがな
春秋戦国時代から重要な武器だ。
>>272 「重要」だが「決定的」ではないか
よくわからんな
>>273 弩は攻城戦、籠城戦において重要な武器だけど
それが無くてはどうしようもないレベルの武器ではない。
普通の弓でも役に立つ。 矢の威力とか命中率は低いけどね。
>>274 弩の生産技術は国家で集中しなければできないようなものではない
ドイツやイタリアの工業都市は国家権力を集中して弩を生産していたわけではない
>>275 >普通の弓でも役に立つ。矢の威力とか命中率は低いけどね。
弓では役に立たないから弩が普及したのだが
特に、純粋に筋力に頼らざるを得ない弓では射程の問題は克服しがたい
攻城戦のような固定的な戦闘では兵器の射程がものを言う
このような状況では、弩はまさしく必須の装備と言える
>>276 中国の場合、国家で集中しなければ生産ができないわけではなく
国家以外の生産を排除しただけ。
ようするに反乱などで使用されることを恐れたわけ。
フランスの王権が、ドイツやイタリアの工房で生産される弩を
どんな理由で排除できるんだい?
彼らの作る兵器はヨーロッパ全土で需要があるのに。
その点が東アジアと大きく違うんだが。
>>277 弩でアウトレンジできました!! でも威力が足りません じゃあ意味がない。
ある程度接近しなければ防備された守備隊にダメージを与えられないのだよ。
それに守備兵は城壁や高台から撃ち下ろして威力を加算できるのだが。
>>279 論点は「フランスが何故自国内で弩を製造できなかったか」ではなかったのかな?
>>280 だからヨーロッパの弩は大型化する傾向にあった
あと、射程の意味を誤解しているようだな
>>281 できなかったっけ?
都市民兵とかクロスボウで武装してたような…
>>283 主にイタリアから弩兵が高い報酬で雇用されていた
>>282 有効射程と最大射程? この場合は有効射程の話でしょう。
>>285 そら正規軍の場合でしょ。
都市民兵が正規の野戦に駆り出されることはあまり無いはず。
>有効射程と最大射程? この場合は有効射程の話でしょう。
では、
>でも威力が足りません じゃあ意味がない。
というレスは無意味だな
>>288 だから、防御側は撃ち下ろしで威力が加算され
攻撃側は撃ち上げで減算されるんだが。
>>289 都市守備隊がイタリアから高い報酬払って弩兵雇う?
よほど金が余っている都市だな。
なんのために都市民兵が居るのやら。
>>290 >だから、防御側は撃ち下ろしで威力が加算され
>攻撃側は撃ち上げで減算されるんだが。
と、
>普通の弓でも役に立つ。
との因果関係がよくわからんな
11世紀以降のヨーロッパでは攻城戦において攻防双方で弩が多用されているのだが
>>291 都市の守備にあたる民兵は弩兵のみではない
民兵制については地域ごと都市ごとに大きく差異があるので
ひと括りに論ずるのはいささか乱暴だな
>>292 だ・か・ら、弩があれば攻城・籠城戦で役に立つけど
無くても他の武器で代用が効くって話なんだが。
この点については同意? 非同意?
>>293 そんなの当たり前だろ、弩兵だけのわけねーだろうが
話ずらすの止めてくれ、もうたくさんだ、寝る
なんつーか
知識はあるんだろうが
話をずらしまくるので、相手にするのが嫌になるな。
いままでいくつ話がずれたんだろう。
>>294 同意
後に銃が弩にとってかわることになる
>>295 なら
>よほど金が余っている都市だな。
>なんのために都市民兵が居るのやら。
のような言葉尻をつかまえた揚げ足取りはやめたほうがいいな
日本の山がちで遮蔽物の多い地形を考えれば,弩の長射程は生かせないのでは.
射程距離よりも発射速度の方が重要視されたと.
狩猟文化との関係は
巻狩は勿論の事、犬追物や笠懸・流鏑馬にも不向きでしょうね。馬上での連射
も難しそうです。
302 :
某研究者:04/07/21 03:19 ID:RNgBCvTb
>このような状況では、弩の先天的欠点である低い発射速度はそれほど大きな問題にはならない
相手が走って踏み込んで来れば
長弓との50m程度の射程の差は意味は無くなるかも知れぬし
梯子を上る兵を射撃する場合は発射速度の方が重要だったかも知れないが
西欧の城には銃眼は銃が出て来る迄恐らく無いなら
下からの射撃でやられていた兵も多いと言う事だろうか
(まあ壁越しに矢を放って来る兵を狙撃するには
クロスボウの精度の方が意味は有ったかも知れないが
梯子を上る兵を狙撃するのに精度は其れ程
必要だったのかだが)
>では、弩兵をベンゼンが指揮をし、
>弓騎兵を某研究者が指揮をしたらどうなるか?
コサック兵の様に馬を盾にして
下馬して矢を放てば
或いはだろうか
(まあ歩兵側の盾も有るかも知れぬし
馬を盾にしたから勝ったと言うのでは無く
矢の精度の高さで勝負すると言う方向に
成る可能性も有るだろうが)
303 :
某研究者:04/07/21 03:31 ID:RNgBCvTb
梯子を上る兵以外は盾で守られており
余り射撃の効果は期待出来ず
故にクロスボウの射程は生きない可能性も
有るだろうか
日本でも、古代の城砦は、
中国のように版築で作った城壁で囲まれていた。
結論
某研究者率いる弓騎兵が最強
少しずれてきたのでちょっと別の話をしたいのですが・・・
少し前にも出ていたように日本の城は大阪城(旧本願寺)等の例外を除いて基本的には城の中に街がないつくりになっていますよね?
逆に中国、欧州では町を囲う形の城壁があります。
この点から日本の城攻めはあまり発達しなかったというのは本当でしょうか?
(囲めば城内のほうが圧倒的に早く物資が尽きるため)
このことが明治維新後の日本軍でも要塞などの攻略が苦手だった原因という説を見たことがあるので・・・
備蓄物資による要塞の継戦能力の強弱はそれこそ要塞各個に千差万別で、
一概に日本のほうが物資が早く尽きるとは断言できないのではないか
>このことが明治維新後の日本軍でも要塞などの攻略が苦手だった原因という説を見たことがあるので・・・
要塞攻略の得手不得手には諸論があって「苦手」とは決めつけられないし、
そもそも時間的隔差が大きすぎて直接の因果関係があるとは考えにくい
308 :
Pz:04/07/22 01:59 ID:It3yA5Hp
>>306 城にもいろいろあるぞ、それなりの領主の本城は囲んでもそう簡単に物資は尽きないよ
大坂城や石山本願寺だけじゃないぞ
別所の三木城、荒木村重の有岡城、尼子の月山城なんてすげー長期戦じゃん
(もっとも海上補給もあったろうが)
小田原は言うに及ばず、大友の臼杵城とか篭城しても物資は尽きてはいないだろ
邑城型の城塞は大量の非戦闘員を抱えているはずだから、
却って早く物資が欠乏する気がするけど。
>>306 >中国、欧州では町を囲う形の城壁
中国では意外とそういう形の町は少ない。
また、日本にもそのような城砦はあった。
多賀城など東北の蝦夷をにらんだものが例。
日本の城も、非戦闘員を格納するスペースがあった。
また、村によっては砦を築き、自衛する向きをもとった。
その際重要になってくるのが、侵攻軍との契約である。
つまり、「あなたの軍の兵士が乱妨狼藉をしたときにやっちゃっても文句いわないでね」というものである。
この際、気をつけなければならないのは、「手を出すな」ではなく、
「手を出したら反撃するよ」の許可を求めていたことだろう。
大名たちは、戦場における雑兵たちの奴隷狩り・略奪等を容認する向きをとっていたため、
「手を出すな」という約束は出来なかったのである。
反撃する権利を与えられた民衆は、各々砦に閉じこもったり、武装したりして、
襲いくる敵を撃退することによって、自らの生存を確保していた。
つまり、農民は我々が考えるよりもずっと自衛的且つ自発的存在だったと言える。
山野さんが来ないと議論が進展しねーな
313 :
名無し三等兵:04/07/22 19:10 ID:mb37PAsA
山野氏期待age
314 :
Pz:04/07/22 19:13 ID:???
山野さんお呼びですよー、速く日本史板から戻ってきてーって
みんな待ってるみたいだよ
しかし、山野氏一人いなくなっただけで、
議論の進みが悪くなるっつーのも、軍板のこの分野における限界をあらわしているっつーかなんというか。
皆近代戦のほうが好きだモンねぇ。
論客ってたら、某研_| ̄|◯
316 :
名無し三等兵:04/07/22 19:30 ID:MOybsUpp
確かに大宰府のあたりも、住民を守るように邑をとりかこんで城壁ができていたようです。
異民族による奴隷化の危険の少ない、日本中央部には街を囲う必要がなかったのではありませんか。
317 :
名無し三等兵:04/07/22 19:31 ID:MOybsUpp
それより、何で首取りするのか教えてくだされ。
あと、足軽って何?
>>316 ヨーロッパも日本も中国も同様だが、本城の外郭をなす支城が配置されて
地域を防衛していた
ヨーロッパで市街を城壁で囲むことが多いのは、それだけ攻城戦の重要性と
頻度が高かったから
>>319 というよりも城壁をつくると面で防御することになり、
人員、物資補給などの点で非効率な要素が出てくる。
>というよりも城壁をつくると面で防御することになり、
何を指して面というのかよくわからんが、
中世のヨーロッパも日本も線より面の防御が一般的
線の防御を行ってたのは帝政初期のローマくらいか
面の防御で徹底していたのが中国で、ステップ周辺の国境地帯を
一種の焦土地帯とし、慣用的に焦土戦術を行っていた
おかげで攻めるほうも守るほうも酷い目に遭うことになった
ローマですらこの必殺技は一度しか使っていない
>>321 戦術レベルでの面の防御。
>>322 中国でそれが徹底できていたのは、前漢時代。
それ以後は、烽火などの伝達手段が不完全で、
長城などは無用の長物となってしまった。
>>323 戦術レベルでの「面の防御」とはいかなるものなのか具体的な説明を希望します
長城のような城壁を考えなさい。
まず兵員はどのように配置しますか?
>中国でそれが徹底できていたのは、前漢時代。
>それ以後は、烽火などの伝達手段が不完全で、
>長城などは無用の長物となってしまった。
後漢時代にも屯田兵の配置等が行われている
長城は後の王朝によって何度も増改築が行われており、
前漢以降は無用の長物になってしまったとは思えないが
>>325 長城には監視哨が間隔を取って配置されているが、
質問の意図がよくわからないな
つーか、そんなことより戦術レベルの「面の防御」の説明をよろしく
>>326 しかし、烽火などの伝達手段が不完全なため、
単なる時間稼ぎ以上のものでしかなかったそうです。
城壁を維持コストを考えると無用の長物でしょう。
明時代の女真族との戦いをみるとさほど役に立ったといえません。
>>327 そんなに兵員が十分あれば良いのですがね。
機動防御汁
>>328 基本的には烽火で情報伝達。
また兵士は各櫓で居るのが常。
>単なる時間稼ぎ以上のものでしかなかったそうです。
長城は前進陣地的な性格が強く、本来の戦術的意義は
敵情の早期収集と時間の余裕の獲得
長城は基本的に主防衛ラインではない
時間稼ぎが出来れば十分
主防御地域は国境周辺の城市が行う
「行う」ではなく「担う」だったな
あと頼むから早く戦術レベルの「面の防御」の具体的な説明をorz
>>333 いや、伝達手段が不完全ならばあまり意味が無い。
この辺のことは
「万里の長城」講談社新書
にあったはず。
>>336 長城による防衛システムが歴代中国王朝全てで完全に機能していたとは言わんが、
前漢以降で無用の長物となったとは思えない
その本では「無用の長物」と書かれているのかな?
それでは後の時代になっても増改築が繰り返されたことの理由が説明できないと思うのだが
>>333 >敵情の早期収集と時間の余裕の獲得
それが主な目的になったのは、後の時代になってから。
>>325は質問に質問で返してるだけだ
そもそも長城の防御配置と面の防御と関連性があるとは思えない
長城の防御要領はいわば「線の防御」だ
縦深のある「面の防御」ではない
>>338 厳密に言うと長城は必ずしも必要ではないという感じかな?
増改築が繰り返されたことはやはりもとあるのを利用しただけでは?
本格的に利用するなら、前漢時代のように伝達手段をまずは整備するはず。
>>340 ではお前のいう「面の防御」はどのような定義だ?
>>342 戦略レベルの面の防御については上のほうで述べた
戦術レベルでの面の防御を言い出したのは君だ
説明責任は君にある
質問に質問で返す癖はなおしたほうがいい
>>341 >厳密に言うと長城は必ずしも必要ではないという感じかな?
遊牧系騎兵に対抗するためには必要と中国の歴代為政者は認識していたと思う
その証拠に長城は延長され補修され改修されている
(´-`)。o0(日本の戦国時代なんだけどなぁ…)
前漢時代の長城防御は、警報装置としての小規模な烽火砦で敵の警戒部隊や
斥候を早期に排除し、大規模な部隊相手には烽火を上げ籠城して援軍を待つ。
その後方に中規模な基地を置き、さらに長城で食い止め、その後方に大規模な城邑を置き
野戦軍を駐屯させる。
いわば縦深防御であり、長城はその中の1システムにすぎない。
これを面の防御と呼ぶならば間違いではない。
347 :
名無し三等兵:04/07/22 21:05 ID:MOybsUpp
>>344 歴代為政者は認識していたというだけでは、
実際に必要だったかは別なのでは?
>>346 そのような感じでしょうね。
>>348 実際には必要でなければ誰が増改築を繰り返すだろうか
>>344 長城が無いと、遊牧民は各地から多点突破&浸透してきて
中央政府が中央野戦軍招集で対応する頃には大損害を受けているだろう。
長城が遊牧民の侵攻路を限定して、地方の野戦軍に拘束させる役にも立つし
撃退するのも容易になる。
>>349 実際には役に立たずよく侵攻されているのだが。
>>350 情報の伝達システムに不備があると役に立たないのだが。
事実、長城を破壊して突破するするのはそんなにかからない。
>>351 上でも述べたが長城はいわば前進陣地
主防御陣地ではない
しばしば突破を許したからといって役立たずと断定はできない
それは長城の本来の任務ではない
明代の長城防御は、長城自体に本格的な防御能力を持たせ
小規模な敵ならば単独で排除、大規模な敵を相手にしてもある程度の時間持久させ
中央の野戦軍が到着する時間を稼ぐといった戦略をとっていた。
北京が首都であり、遊牧民族の侵攻に対して比較的早期に野戦軍を編成することができた
明は、縦深が少ないけど強力な防御を持った北辺守備を構築していた。
しかし、土木の変などの見られるように野戦軍の敗北が即座に亡国に繋がりかねない
余裕のない国防だったとも評価できる。
>>354 そのようなものは情報の伝達システムが前提として必要。
しかし、逆にそれがあれば長城でなくとも良い。
また、君のいう「本来の目的」とは少なくとも後漢以降のもの。
長城の役目は
1 小規模な敵の侵攻に対しては独力で対応>浸透を防ぐ
2 時間稼ぎ
3 侵攻路の限定
要するに、現代戦における前哨陣地とほぼ同様の役目である
明代の場合、強化しているが本質的に変わらない。
侵攻されて陥落するのは当然、前哨陣地は主防御陣地では無い。
>>355 >>336の本では、長城自体には大規模な改修をし
本格的な防御能力を備えさせたが、
肝心の情報伝達システムがうまく整備されていなかったとある。
>>358 具体的にはどのように整備されなかったと?
>>357 それが長城の秦の時代からの役目ならね。
361 :
347:04/07/22 21:23 ID:MOybsUpp
>>359 まずは読んで見たら?読まずに言うのはいかがなものかと。議論の場では特に。
>>362 ネットの議論なんだから、異議申し立てた方が引用するのが当然だろう。
それぐらいできないの?
>>363 読むことのほうが当然だろう。議論ならば。
>>365 ヲイヲイ、今即座にその本を購入できるわけ無いだろ。
もう一度指摘するが。
「ネットの議論なんだから、異議申し立てた方が引用するのが当然だろう。 」
内容を示さず、曖昧に反論するなら小学生でもできる
具体的に「○○のような情報伝達の不具合があるので、肝心の情報伝達システムがうまく整備されていなかったとある。
○×ページより引用」とやってくれ。
少なくとも「あった」というほうが、
挙証責任があるのだが。
完備された伝達システムがあったというのなら、
そのソースを出すべきでは?
>>366 だったら、後日読んでからすれば?
今日明日にこのスレが無くなるわけでもなし。
長城の建設と平行して秦は国境地域に郡県を置き、
漢は郡県に土城を建設し都市の要塞化を進めた
遊牧民が侵攻すると、長城の駐屯部隊が通報と遅滞を行い、
国境の住民は動産を抱えて近傍の都市に避難して国境地帯を焦土化した
更に状況により中央から野戦軍を繰り出して侵略軍を撃退した
この焦土戦略は貧乏な遊牧民が有力な攻城兵器を保有していないことが
前提となっており、この前提が崩れた晋はそのせいで滅亡している
>>367 今度は悪魔の証明か……
「ネットの議論なんだから、異議申し立てた方が引用するのが当然だろう。 」
烽火システムに不具合があったと主張する方が、その証拠を出してくれ。
無いことの証明はできない。
>>369 というか、晋の時代になると長城よりも内側に遊牧民は住んでいたわけだが。
>>368 君がその部分を引用すれば、その時点で終了なんだが?
他人に経済的出費を強要しないでくれ。
それとも、妄想なのでできないのか?
>370
お前が悪魔の証明を要求している。
完備されたシステムあるというのならばそのソースを。
それがないのならばそれがないということになる。
>>372 図書館がある。君が読んでくればそれで終了。粘着すぎる。
>>371 それは遊牧民は都市の城壁を崩す攻城兵器を調達し組織することができた一因
何度も言うが、長城は前進陣地で、要塞化された都市が主戦闘陣地
>>375 何度もいうが、それは後の役割。
秦前漢あたりでは前進陣地ではない。
>>374 だからー ページを示して数行引用すればいいじゃん
なんでその程度の手間もかけられないの?
>>377 前進陣地だぞ? 少なくても主防御陣地ではない。
長城で大規模な会戦が行われた例があるなら前進陣地じゃないと認めてもいいけど、あった?
>>376 だから何度もいうが、それは前漢まで。
後はそれを完備できず退化した。本を読むことはおろかスレも読めないのか?
359が読んでくるのを待ちだな。
>>379 無かったから、主防御陣地としてうまくいった。
まずは読んでからにしては?
新書とはいえ、読まないと話がすすまんだろ。
>>377 長城と平行して後方の防衛施設の整備が進められている
長城を主陣地とするならば、土城の建設のような工事こそ
上で誰かが言ってるように「必要ない」ことになる
このスレはキモい香具師がいますね。
普通、本を紹介されたら自分で読むまで反論はしないのに。
それを執拗に読まずに反論している光景をはじめてみました。
件の本って前漢以降の長城は「無用の長物」って言ってるんでしょ?
まあちょっと読んでみるか。
>>380 烽火>候官>騎都尉、天田のようなシステムは前漢に完備されて
その後は退化したと主張したいの?
そのシステムと、烽火を中心とする警報システムについては
全く別の話なんだが、警報システムを否定するならば
それなりのサイトなり、引用なりを示して欲しいのだが。
北辺の警報システムがシステム的に不具合になったとの根拠は未だ示されていないな。
>>383 無かったから、前進陣地としてうまくいった。
とも言えるのでは?
後漢では屯田兵制も整備されている
何故烽火だけが退化したんだろう?
漢代の長城は版築なので、城壁と言うよりも塀のようなものが多いが。
だから後方に防衛施設があり、各所に詰め所も一定間隔である。
>漢代の長城は版築なので、城壁と言うよりも塀のようなものが多いが。
やっぱり前進陣地っぽいね。
>>389 内戦もあるのでは?長城で防御するより屯田兵で防御するほうに重点をおいたり。
>>382 主防御陣地で決戦しないでどこでするんだよ?
アホか
>無かったから、主防御陣地としてうまくいった。
主防御陣地で決戦していないなら、それは防御側の大失態だぞ
敵に迂回されたか突破されたってことだ。
_哲に罵倒されてこい。
>>391 苦し紛れの言い訳。むしろ主陣地だろ。
後方防御施設とも一体となってシステムが構築されているのだから。
後漢以後も北辺の警報システムがシステム的に完備されていた根拠は未だ示されていないな。
>>385 ネットで議論して、本を引用するんだから
名前だけでは無く、内容も引用しろと指摘しているだけなんだが。
あんたは論文で引用部分を、論文の名前だけですませるつもりか?
>>394 長城の建設と平行して後方の都市の要塞化等も行われている
何故、主陣地と主張するのかその根拠を伺いたい
>>393 前漢時代、そもそも突破された大きな侵入はない。アフォ。
>>395 それは悪魔の証明なんだが。
文句付けるなら、欠陥の証拠を示してくれ。
検察側が、相手の不備が無かった証拠を要求するようなものだぞ。
普通は欠陥の証拠を検察が示してなんぼだろうが。
>>396 そういう論文は多いぞ。論文を読んだこと無いのかもしれんが。
>>399 北辺の警報システムがシステム的に不具合になったという証明が悪魔の証明。
あるというほうが証拠を要求する。
>>399 普通は完備されたシステムがあったという証拠が必要じゃないのか?
前漢時代に大規模な侵略が無かったということは、長城を含めて防衛システムが
うまく機能したからであって、長城が主防衛陣地だったからとは言えない。
つか、暴論ってやつ?
>>403 大体、漢代の長城の完成をみるのが、武帝期なのだが。
それ以後か?
>>405 長城が突破されたが、中央は知らなかったと言う例が連続してあれば
警報システムが不具合だったと証明できる。
さあ、証明してくれ。
(どうせ、相手に証明を求めるんだろなあ‥‥)
>>407 なるほど暴論ですな。
長城を含めて防衛システムがうまく機能したから=長城が主防衛陣地だったからとはいえない
とはまさに。
もっとも長城のシステムとは烽火システムなどまで含むものだがな。
武帝って前漢の人じゃないの?
>>409 中央まで伝達がうまくいっていれば、
警報システムが完備だったと証明できる。
さあ、証明してくれ。
(どうせ、相手に証明を求めるんだろなあ‥‥)
本を読まずにここまで不毛な議論ができるものだ。
>>414 大体、漢代の長城の完成をみるのが、武帝期なのだが。
それ以後か?
>>320 >というよりも城壁をつくると面で防御することになり、
>人員、物資補給などの点で非効率な要素が出てくる。
なんで城壁を作ると面の防御になるの?
>>412 あのー 答えられないからって火病るのは止めて下さい。
>>415 だからその部分を引用してくれよ。
なんでできないの?
>>420 だからその本を読んで来いよ。
なんでできないの?
>前漢時代、そもそも突破された大きな侵入はない。アフォ。
と言って今度は
>大体、漢代の長城の完成をみるのが、武帝期なのだが。
と言い訳する。
なんだかな〜。
>>416 完成がなにを意味しているのか不明だが
長城自体は秦代からあるぞ
完成も何も漢の後の時代になっても長城ってどんどん延長されてるんだよね
>>421 夜は本屋がやっていないからですが何か?
偉そうに本の名前だけで説明したつもりにならず、『その部分を引用してくれ!!』
引用すれば一瞬で論破できるのに、なんでしないの???
>前漢から烽火システムは完成されている
と言って今度は
>長城を含めて防衛システムがうまく機能したからであって、長城が主防衛陣地だったからとは言えない
と言い訳する。
なんだかな〜。
>>423=424
「漢代の」と416は述べている。よく読め。
>>428 だから、「完成」とはなにを定義しての話?
>>429 もしかして、自分も本が無いのに騙ってみたわけですか。
武帝の後も建設は続いてるぞ
>>434 君、質問に質問で返すのは駄目だよって上のほうでも言われてなかった?
>>431 もしかして、自分は読むのが面倒だからですか?
反論できなくなると質問返し
これは敗北宣言ととってよろしいか?
>>439 >引用すれば一瞬で論破できるのに、なんでしないの???
不毛な議論が続いていく。別に何日もかかってやっても良いのに。
所詮軍事板だし。
>>442 読んでくれば一瞬で決着するのに、なんでしないの???
コテハン相手なら、ペルソナの連続性があるので何日かかってもいいけど
名無し相手に時間かけられるか(w
特定できないだろうが。
まあ読むには読んだがよく理解できないから説明できないってのが本当のところでしょう。
説明できないから読めの一点張り。
結局その本が最後の拠り所なわけだ
引用したら、自分の読解力が明白になるからな。
だから読め読めの一点張り、悲しいねえ。
情報伝達システムの退化というが伝達手段は烽火だけじゃない
烽火は天候次第では使えないから、早馬による伝令等も準備されていた
また、機能不全というが、長城から首都まで情報伝達が行われていなかったとすれば
それは国家機能が麻痺してることを意味しており、そのような状況では
長城があろうがなかろうが結果は同じで、こうなると万里の長城の
軍事的価値を論ずることなど全く意味をなさなくなっている
でも、長城ってずっと建設が続いてるんだよな
謎だ
>>451 漢代あたりの烽火システムの速度が実は早く
宋代や明代などでは遅くなったらしいが
それを針小棒大に、辺の警報システムがシステム的に不具合とか過大表現してるんでないの?
日本語の不自由な方だったとの落ち。
あと、長城が前漢までは主陣地だったという根拠も教えてもらえなかったな
主陣地だったと連呼一辺倒で
主防御陣地の意味すら理解していたかどうか
長城はピラミッド同様、単なる公共事業なのでありますよ。
長城が異民族の家畜避けだったって説は?
おまいらいい加減にしる。
長城スレでも立てるか、他スレ他板で続きをやってくれ。
ここはあくまで日本の戦国時代の合戦等について語るスレ。
例えで出された長城でスレ占領されたらたまらんわ。
ホントに・・・
山野氏・・・早く戻ってきてくれ・・・
じゃあ、話題振り。
皆さんは、戦国時代の戦闘員の武装、と聞いて何を思い浮かべます?
オレは南北朝〜戦国前期までの、武士や侍でない身分の者たちの武装や戦術
に一番興味があるんですけど、そういった人間達の姿っていうのは、なかなか明らかに
されてなくてねえ。
記述としての有名所だと、『峰相記』の悪党について述べた部分くらいしか今思い付かないし。
(ちなみに、混同されがちですが、鎌倉〜戦国時代頃の身分体系だと、武士≠侍です)
雑兵物語、だっけよまはった?
引用、引用といってた厨がいなくなったな。
そもそも主防御陣地の意味すら理解していたかどうかあやしい。
また、情報伝達システムの退化という意味も。
この厨はちゃんと本を読んでくるのかな?
まあ読むのが怖いのだろうがw
>>311ってどうなの?
なんかイメージと違うけど
藤木氏の奴を、誤抄訳した感じ。
×日本の城
○日本の城にも、大名に拠らない、民衆による城があった。それら民衆の城には、避難所としての機能をもつものがあり
>>465 ( ・∀・)つヘェー
ところで・・・藤木氏って誰ですか?
素人でスマソ(´д⊂
コテハン?
>>466 上のレスのどっかに、参考文献があったと思う。その著者
藤木久志氏
468 :
軍ヲタ死ね!:04/07/23 16:52 ID:ABzJoajL
ふふふ、生涯体育の成績が1の君達ではヨロイを着て500Mも走れば
ヘロヘロだよw
戦国の世に生まれなくてよかったね、脆弱なウサギさんたちww
>>468 当時の鎧を着て500Mも走れりゃ脅威だな
なんでこういう煽りって自己紹介にしかならんのかね。
それはそうと、西洋の古代史ネタになってしまうのだが、
各時代の、戦場で歩兵に突撃をさせるタイミングと兵士たちの
武装重量を比較してみると面白いかもしれない。
>469殿
そうそう、それに、鎧と言っても、大鎧から当世具足、腹当て、タタミ鎧と、
何種類も有るしねえ。
腹当てと小具足(篭手と脛当て)ぐらいの装備だったら、オレでも500Mくらい
走れるけど、大鎧じゃ、よほど屈強な人間でも、なかなかまともに走れないし。
ところで、そんな事を言うからには、468殿は鎧を着て動いた事があるのかな?
どうでした?動きにくかったでしょう?
オレは当世具足を初めて着用して動いたとき(軽くバトルしました)、素肌での剣術と、甲冑着た状態での
剣術(介者剣術という)では全く違う動きしないと戦えないんだな、と実感しましたよ。
まず、腕があまり上に上がらないし、兜もあるので、上段に構えられない。個人的には、八相か
脇構えが甲冑を着た状態では構えやすかったな。
さらに、体重が増加するので、不整地で動く場合、足腰をどっしり構えて落ち着かせないと、こけそうになる、
っていうこととか(昔の人は、腰を屈めて重心を低くして足腰を構えた上で、踵を上げていたそうな。やってみたけど、
きつかった。確かに足の反応は早くなるけどね、踵を地面につけない分)。
まあ、ここらへんは本で知識としては得られるものなのですが、体験する・実感する、ということは探求においては、
重要なことだと思ってます。皆さんも機会があったらぜひ。
あ、そうそう。戦国時代の槍足軽の刀の差し方が、帯に上から落すように差すのはどうしてか、というのもやってみて
わかったな(普通に差すと、槍が刀に当たる)。
あとは、武士や侍は手槍をメインウエポンにしてたけど、2本差しを左の腰に作法通り差すと、これまた槍の動きに干渉
するので、どうやってたんだろう?という疑問が生まれたり。(手槍をメインウエポンにしているときは、他には脇差しと鎧通し
くらいで、打ち刀は中間や下人などの従者に持たせた?それとも、前線では今伝わっている作法とは違う方法で差して携帯
していた?いや、そもそも当時の打ち刀は今一般的に日本刀と言われているものより、短めで直刀に近かったらしいぞ?とか、
仲間内で話たことがあります)
まあ、武士は2本差しで生まれる左側の死角に対応するため、援護の侍を自分の左OR左後方に配置するのが基本だったようなので、
戦術で不具合を解消しようとした、というのが正解なのかな?
でも、従者や家来を持たないような奴はどうしたんだろう…?
473 :
軍オタ:04/07/23 19:18 ID:???
>>468 訓練しだいでその脆弱なウサギさんたちが屈強な兵士に変わります。
兵士として何の訓練もうけていない普通の人間に装備持たせて軍隊行軍させ
たらヘタルのは当たり前です。
常識で物事は考えなさいな。
引用厨は本を読んできたのかな?
引用厨自身
>>451で長城の無意味さを説いているのが笑える。
粘着な厨房が住み着いちゃったなあ。
万里の長城 攻防三千年史162pより引用
通信といえば、漢代の頃で詳述した烽すい制度が第一に思い当たる。
烽すいに寄る通信は漢代以降も基本的には続けられていた。
後漢時代に置かれた塢候、北斉時代に置かれた戌などはいずれも烽すいの
施設を備えた要塞であった。そして唐王朝も烽すい制度を採用し、およそ30里ごとに烽すいを設けて
通信網を張った。
どこもかしこも厨房だらけだ…
>>476 都合よく引用してきたね。引用厨房ちゃんw
書名以外に何も引用もできない癖に何言ってるんだかw
読解できる知能が無いから仕方がない
引用なんてしたら赤っ恥かくし、煽るだけでオウム返し以外何もできない厨房だから。
>>479-480 自作自演までして恥をさらすのかい?引用厨。
「基本的には続けられていた」と
「システム的に完備されていた」とは天と地も言ってることが違う。
日本語が不自由なんだね、引用厨。
>>481 で、君はそれを具体的に説明できないんでしょ?
ひたすら書名のみを挙げ質問されると質問返し
論破されてレッテル貼り
挙句に朝早くから粘着に煽りとがご苦労なことだ
>>481 「システム的に完備されていた」じゃなくて、「システムに不具合がある」
じゃねーの? 粘着君の主張は。
で、それを説明できないと……
書名だけで根拠になるわけないし、この脳内変換具合を見るとかなり怪しい。
>>481 で、君はそれにソースもある反論できないのでしょ?ひたすら書名のみを挙げ質問されると質問返し
論破されてレッテル貼り
挙句に朝早くから粘着に煽りとがご苦労なことだ。
485 :
名無し三等兵:04/07/24 18:21 ID:WTPSF/xk
首取りするのは、戦国時代に組織的戦闘がなかったためです。
首とってないヤローが、サボっていたことになります。
粘着引用厨は日本語が理解できないらしい。
粘着引用厨自身のレスである
>>476は「基本的には続けられていた」と引用することで、
「システム的に完備されていた」と強引な脳内変換。
ひどいな。
487 :
名無し三等兵:04/07/24 19:44 ID:wVRIbtbe
あの〜、ちょっと質問なんですが・・・。
「長城は主防御陣地だった」という方に質問なんですが
警戒線や主力部隊収容施設はどこにあったんですか?
主防御線として機能させるのであれば長城以北に警戒施設が必要で
そこからの警報によって主力部隊集結、予想敵侵攻軸付近の長城に布陣し
会戦か攻防戦が発生するのではないでしょうか?
>>488 長城にある。以北に必ずしも必要なし。
主防御陣地の意味分かります?
国境線を主防御陣地にできるわけねーべ
中国の帝国では、中央野戦軍は反乱を避けるために首都及びその付近に置いてあるんだから
長城に敵が接近した時点で迎え撃つなんて、物理的に不可能。
491 :
488:04/07/24 20:16 ID:???
>>489 ありがとうございます。
長城は警戒/収容施設を兼ねた、たった一線の主防御線で、
中国人はそれを何世紀もかけて整備したのですね。
ご教授ありがとうございます。
ps彼らが警戒線を作った方が良いと気がついたのはいつごろなんですかね?
>>491 後漢時代に天田で足跡を示し、烽すいで烽火による警戒網を貼り
候官がそれらを束ね、都尉で地方野戦軍を管轄するというシステムは整備されていたが?
長城の前方に天田や烽すいがあるんだけど。
>>490 時代によって違う。
あくまでも前漢時代は烽すい制度が整備されていたから。
さほど問題なし。
>>491 もっとも何世紀もというのも修築の範疇だが。
少なくとも、清は長城を必要としなかった。
>>492 前方にある場合もあるが、基本的に長城にある各砦間の連携が
まずは要とされる。
天田は自軍兵士が逃亡したかどうか見る目的もあるから、内側にもある。
長城スレ建てたら?
ハスケ殿が鎧を着たのって、
長野だかで行われている川中島合戦模擬のときですか?
あれ参加してみたいんですよね・・・
497 :
494:04/07/24 20:45 ID:???
>>495 そうか。
長城だけ問題にするんなら、『中国の防衛』とかスレ立てして
そっちでしてもらいたいと思ったもんで。
比較対照として出てくるんならまだしも、
ここまで議論が長引くとね・・・
>>497 いやだから、余計なスレを立てるなって。
別に長引くといってもほとんど終わりかけているのだから。
>>472 従者や家来を持たない人はそもそも、
その従者や家来くらいなのではないでしょうか。
しかし、鎧といえば大鎧くらいしか出てこないなぁ。
甲冑の本がPHPあたりで出てると思うんだが、あれは参考になるのかな?
>>491 情報伝達システムの重要性は理解していたが
できなかったということじゃないのか?
烽火があったところで召集して準備して出動して到着するまで
縦深のない長城が持ちこたえられるわけがない
物理的に不可能
だからこそ長城建設と並行して国境地帯の都市の囲壁化が行われた
502 :
名無し三等兵:04/07/24 21:12 ID:2yO3mfdM
前近代に全軍突撃って概念がなかったとしたら武士団でありながら、それをやった
会津藩はバカだけど上出来じゃん。一流の武器を持たせてアラブ馬買って
立見、河合、土方、大鳥、榎本を各武士団から引き抜いて、奈翁の戦術学べば
アヘン戦争の清国軍とちがって国民軍と対等に喧嘩できるかも
(鈴木直哉のいってることが正しければ)
志茂田の仮想戦記みたいだな
>>501 それが都尉であり、騎兵野戦軍を管理する騎都尉であり
糧食を管理する農都尉だった。
これらが機能すると、敵を早期に迎撃できた。
漢代の長城は実質的には軽易な補強工事を施された土塁壁で、
発掘調査からは全高はせいぜい1.5メートルと推定されている
その後方で都市の要塞化が進展していたことを考慮すれば、
この程度の防御構築物では主抵抗線だったとは考えにくい
哨戒線と平時の警備線を兼ね備えた施設であったと考えてまず間違いない
主陣地よりも前進陣地と考えたほうが妥当だろう
中国の要塞は、端的に言えば山城式から城郭と外周に城壁を備えた
内城外郭式、ついで内城を持たない外郭式へと移行している
漢代には概ね第三段階への移行を完了しているが、こうした傾向は
時間的隔差を除けば概ね日本のそれと軌を一にしている
江戸幕府が要塞の破壊と建増築を制限しなければ、やかて日本の都市も
城壁で市街を囲むスタイルが一般的になっていただろう
事実、織豊期にはその萌芽が認められている
両者の差は時間的隔差が大きすぎることで、これには様々な要因が考えられる
一つには、中国王朝が最も脅威とみなしていたステップ系騎兵が都市の要塞化を促したことで、
圧倒的な機動力を有しながら、満足な攻城戦装備を持たないステップ系騎兵に対抗するには
堅固な築城構造物で対抗するのが最も安上がりだった
また、中国は戦争資源の集中を可能にする行政機構と経済基盤をいち早く整備することが出来た
日本では奥州の城柵の他には白村江役後に水城や朝鮮式山城、神籠石式山城を建造したが、
まだ都市を城壁で囲むまでには至らなかった
ヨーロッパでは、ローマのディオクレティアヌス帝の兵制改革と戦略方針の転換を契機に
4世紀以降、都市の要塞化が進展した
ただしこのムーブメントは6世紀に入ると一応終息し、封建制の整備と並行して
木造要塞が主流になる
再び要塞が石造化し、都市が城壁で囲まれるようになるのは10世紀以降
>>508 >まだ都市を城壁で囲むまでには至らなかった
大宰府や多賀城は?
また日本は城壁より堀を構築したほうが、
コスト的に良かっただけでは?
>>505 それならば、長城は主陣地だな。
そうでなければ長城にする必要性はあまりない。
地震国の日本でどの程度までの石造の建築物が可能でかというのも
軍事的観点から言えば、都市が城壁で囲まれることの利点は言を待たないが、
一方で、城壁は都市の拡大を阻害する物理的障害ともなった
例えば、パリは三度も市壁を拡大しなければならなかった
また、日本と大陸の都市の城壁の有無の違いの要因を、異民族の脅威のみならず、
(板違いながら)経済構造に求める説もある
>>512 あと、日本は気候が湿潤だから、
木造建築が主流になったと建築板にあったような。
とりあえず
長 城 の 話 は ス レ 違 い
なんでこれ以上は荒らしと同じでよろしく。
ところで日本のレーションの歴史ってどんな感じなんだろうか?
特に戦国以前のものはどんなのだったか非常に気になる。
やっぱり糒?
引用厨が粘着だったからねえ。
>>515 基本的に玄米と味噌が基本では?
日本では、平安時代から南北朝時代までは、本格的な軍事要塞の建設は停滞し、
せいぜい防塞化された館や関所程度のものだった
この時期の戦争はまた、大軍勢を結集して戦われるような大規模なものよりも、
集落単位の小競り合いが主流で、武士は朝廷や幕府に召集されて従軍するよりも、
水争いや土地を巡る小競り合いに従事するほうがはるかに多かった
このような争いでは、敵も味方も少数の場合が多く、戦闘の様相も
正面切っての野戦よりも襲撃や伏撃、略奪や焼討が一般的で、
このような戦闘では騎射の技術がものを言った
大軍勢同士の野戦の機会が増大した源平合戦以降、騎射の技術が衰退したのは
ある意味で当然の成り行きだったと言える
誰も騎射をしなくなったと嘆く老武士のエピソードは有名だが、
これは戦闘のみならず戦争の様相が変化したことを示唆している
>>515 永山久夫「たべもの戦国史」によれば、
戦国時代以前、古代兵食は、
肉醤(ししびしお)と云われる、魚肉や獣肉を細かく刻んで、山椒や塩などをすりこみ、
酒でつけて発酵させた、塩辛のようなものや、
他にも、穀醤(こくびしお)、[豆支](し)といわれる麹菌で寝かせた納豆があったらしい。
いずれも、保存性が高く、蛋白質が豊富だったようで、兵食として重宝したようだ。
中期になると、笹の葉で握り飯を包んだ屯食なども出てくるね
ししびしお
っていうと、人間の肉の塩漬を思い出してしまう。
かの孔子も好んで食したという・・・
>515
近代以前はあまり食料を持ち運ぶという思想がなかったのでは?
基本的に現地調達(略奪)だと思うのだが・・・・
日本の場合は違うのだろうか??
持ち運ぶ場合は>516の言うように
玄米+塩か味噌というのが基本だと思う。
肉食をしない日本人の保存食なんて限られているし。
>>520 食料を保持するための袋もあったようだ(糒袋)
また、食事をはやく終わらせるためにその袋に(干飯を)入れたままお湯につけて食べる
ということもしたようだ。
なので、恐らく数日分の食料は携行していたものと思われる。
足りなくなったら略奪するのかな?
だから、敵が来たら焼いたりするんだろうか
>>515 野戦でも陣で待機している間は、
近くの農民などが食料などものを売りにくるのが結構あったらしいが。
兵糧を買い集めるのは、本来は禁止だったんだけど、結局それに頼っていたらしいし。
>>506 漢代の都市の城壁の全高は一般的に10メートル程度
内部に地積を備え築城構造物としては長城よりも堅固
>>510 大宰府を囲っていたのも水城
多賀城は内城を有するものの基本的に城柵
城壁と堀のコストは地形次第で一概には決め付けられない
>>511 その意見は戦術的妥当性に欠ける
迂回浸透を防ぐのも前進陣地の役割の一つ
>>518 >肉醤(ししびしお)と云われる、魚肉や獣肉を細かく刻んで、山椒や塩などをすりこみ、
>酒でつけて発酵させた、塩辛のようなものや、
・・・この肉醤(ししびしお)、ビールのつまみに最高だよ、きっと!
焼酎にも合いそう。ああ〜唾液が止まらん〜ビール飲みてぇー!
>496殿
そういうお祭りに出たこと有るし(石和川中島合戦絵巻)、今年も
参加したけど(寄居北条祭り)、そういうときは着物とかタタミ鎧しか
着た事ないです。
甲冑着て動いた事があるのは、知人が個人的にやってる遊び
で、知人の当世具足借りたり、あとは海外向け甲冑写真集のモデルで、
鎌倉期の腹巻き(鎧の一種。胴丸)を着たときくらいです。
武者行列やるところは多いですが、戦国時代の合戦系の祭りは少ないですよね。
そういったお祭りに関してはここが参考になると思います
ttp://yoroiou.hp.infoseek.co.jp/index.htm >499殿
身分的にはまっとうな武士でも、家来や従者がいないような場合もありますし、“悪党”と言われた
ような在地の武装集団(山賊、海賊、傭兵など)は、集団内でそういった主従関係があまり強くない
場合もあったと思われます。
そういった人間は、どうしてたのかな?ということです。
もっと言ってしまうと、戦場での2本差しが確立され、それが武士・侍身分の証しになるのは、戦国時代
後期からなので、その前はどうだったんだろう?という疑問もあるのですけどね。
あと、日本の甲冑について知りたかったら、中世日本の武具研究の第一人者である、笹間良彦先生の本がお勧めです。
アマゾンで“笹間良彦”で検索すると、けっこうでてきますよ。どれも高いですけど(数千円〜一万超え)
>515殿
戦国時代の携帯糧食として有名なのは、『雑兵物語』に描かれた、
芋茎でしょうね。味噌を芋茎に塗りこんで、乾燥させたものを荷物をまとめる
縄に使い、食べる時はそれを刻んで鍋に入れたそうです。
あと、代表的なものとしては、干飯ですね。水分を少なめにして炊いた米を、天日で
乾かしたもので、そのままでも食べられるし、余裕がある場合は煮て普通の米のようにして
食べました。(知人が試しに造ってみたものを、食ったことがありますが、確かにそのままで
食えるけど、美味しいものではありませんでした。水で戻すと違うのかもしれませんが)
あとは、既に述べられていますが、屯食(とんじき)と呼ばれた、いわゆる御握りがあります。
これも保存が効くように、水分を少なめにして炊いた米に、味噌を塗って焼いたりしたそうです。
(味噌ダレの焼きお握りかぁ、美味そうだなあ)
529の追記
529で述べた携帯糧食の話は、『雑兵物語』が出典ですので(屯食の部分は
違ったかも)戦国時代初期〜中期はまた違った可能性があります。
『雑兵物語』は、戦がほぼ無くなってから(江戸時代になってから)、「戦とはこういうものだ」
ということを伝える為に、元足軽だった人間が書いたものですので、そこに描かれている合戦様式
というのは、戦国時代後期のものなのです。
昔は技術・文化の進歩が今よりも遅かったから、火縄銃などの記述を除いて、初期も中期もあまり
変わらなかったかも知れませんが、成立したのがかなり近世であるということは、考慮する必要が
有るのでは、と思います。(あと、地域差というのもありますしね。雑兵物語の作者がいた地域では
Aという方法でやっていたことが、他の土地ではBだったかもしれません)
ぐぐってみると梅干しも戦国時代には重要なレーションの一つだったらしいね。
使われ方はむしろ薬みたいな感じのようだけど。
関が原の死者を検死したら、投石による打撲による死者が一番多かったってのはホント?
そもそも、どこの家中が最多の戦死者を出したのだろうか?
大谷家? 石田家?
そんなん、人数か人数比かで相当ちがってくるじゃん・・。
人数比だったら島津か?
関ヶ原は参戦兵力からして諸説あるからなあ。
関が原が出てきたところで一言。
大谷吉治と大谷頼継はヘタレ!
>ハスケ殿
そういえば、大河などを見ていても、
介者剣術をやってるのはほとんどないですね。皆鎧の上からばっさばっさと笑
まあ、あれはあれで見ていて気持ちいいので、割り切りますが。
高橋英樹主演の織田信長とか面白かったw
538 :
533:04/07/26 00:19 ID:???
>>534 >人数か人数比かで相当ちがってくる
『最多の戦死者』と書いてある時点で、『人数』に
決まってるじゃん。『最大の損害』と書いてあるわけじゃ
ないんだから。読解力がねーなぁ。
539 :
某研究者:04/07/26 01:30 ID:DDvKHT5g
>もっと言ってしまうと、戦場での2本差しが確立され、それが武士・侍身分の証しになるのは、戦国時代
>後期からなので、
高位の侍は脇差+打刀に加え
太刀迄持っていた様だが
太刀と打刀を構えて二刀流の様な事は
しなかったと言う事なのだろうか
(或いは太刀は飾りで打刀を主に
用いていたのだろうか)
540 :
某研究者:04/07/26 01:32 ID:DDvKHT5g
徒歩武者は太刀は持って居なかったのかも知れぬが
騎馬武者は全て太刀を持っていたと言う事は
無いのかだろうし
高位の徒歩武者にも太刀を持つ者は
居なかったのだろうか
そのかわりこれ以降このスレでは一切禁止だぞ
約束だ
おまえら農民をなめすぎ
ファミコンの一揆なんて青竹製の重い竹槍をりゅうりゅうとしごく速さ見ろよ
しかも神出鬼没に現れて攻撃してくる忍者を仕留めるし
鉄砲隊の前に躍り出ても弾道見切ってまったくの無傷
腰元までもメロメロさ
546 :
名無し三等兵:04/07/27 18:59 ID:bKmQGBlA
きたいあげ
何やるにもタイミング悪いやつって
クラスに一人くらいいたよね。
>>540 徒歩武者とか騎馬武者というのが、軍人としての身分や兵科の違いを指して
いる様に思われるのですが
中世から近世における日本の内戦期特有の「身分が兵科に現れうる軍編成」
というのは、あくまで「馬に乗る事がある士官」「馬に乗る事は無い兵卒」と
いう位の区分であって、徒歩武者隊だとか騎馬武者隊という兵科区分があった
のか疑問です。
騎馬武者も徒歩武者の違いは、「武者」である以上は、「武士」という身分でしょう
から、軍団司令部にあたる部署から「馬に乗れ」とか「乗るな」とか「こういう武器
を使え」などと決められていたとは考えにくく、
単に「そのとき馬に乗っていたか、何かの理由で馬に乗っていなかったか」だけの
違いなんではないでしょうか?
何が言いたいかといいますと、今のように「○○式戦車隊」「爆撃機隊」と
いった様に、最初から兵科編成がなされていたわけではなく、
「武田の騎馬武者隊」であるとか「どこどこの鉄砲騎馬武者隊」というのは、
単に追撃命令を司令部から受けた各小隊が、戦況から、「こういう武器を携行
して乗馬して追撃に入るべきだ」と各自で判断した結果、軍団全体の乗馬率や
特定の武器使用率が一時的に上がったために、攻撃を受ける側や、それを傍観
する側やがそれをみて「どこどこの○○騎馬隊」などとして土産話などに語っ
たというレベルにすぎないのではないかと思います
>548
身分とか格式。
騎馬武者は馬を降りることがあるが、これとは別に馬には乗ることを認められてないが
足軽ではない武者がいるわけだ。そういう点で兵科ではないが身分ごとに指示や規定はあったろう。
また、時代が進んで騎馬武者数十騎を含んだ備単位で運用されることになれば
その指揮官の指示で馬から乗り降りしたはずだ。
>>549 550
ああ、そうでしたか。俺は戦国期の身分制度についてもそれほど勉強してる
わけでもなかったので、平家物語よろしく「武者」=「さむらい」と思って
いました。
ですので、「馬に乗っちゃだめなさむらいなどいるわけないではないか」と
思って書きこんだんですが、「馬に乗ってはいけないけど兵卒としての足軽でも
ない」という人達がいたんですね。知りませんでした。
ところでその「備」に関してなんですが、
今の時代なら、同じ「備」に属するものは兵舎も同じで寝食も共にしますから、
連帯感なども生まれますよね。
当時は寄親・寄子制が原則でしょうから、常に、同じ面子を「備」として
連帯意識を持たせて戦いに起用するのは、ちょっと無理があった様な気もする
んですが、どんなもんなんでしょうか。
それとも、「旗本のなにがしの家では、主人、家人から従者にいたるまですべて
同じ様な色の、同じ様な武器をもって戦いに行く」という感じに割り当てられて
いたんでしょうか?
>連帯意識を持たせて戦いに起用するのは、ちょっと無理があった様な気もする
>んですが、どんなもんなんでしょうか。
それは統率のスタイルの違いにしか過ぎない
同じ釜の飯を喰ってないから一緒に戦うのは無理というのは些か乱暴
現代の軍隊でも配属欠除支援等々さっきまで顔も知らなかった連中と
一緒に戦うことは全然珍しくない
むしろ足軽長屋で隣近所が家族ぐるみで付き合ってるような連中のほうが
連帯感が強いかもしれんぞ
553 :
名無し三等兵:04/08/01 16:01 ID:e2Q+Hk5d
農民 + 石投げ 最強
宮本武蔵 原城で動けなくなる
最低の殷売
戦国最強島津マンセー!半島で十倍以上の敵軍返り討ち!
鬼石曼子の名は伊達じゃない!
と荒れそうなことを言ってみる
>鬼石曼子の名は伊達じゃない!
鬼石 曼子・・・?
鬼 石曼子なのか
勉強になりました。
>石曼子の名は伊達じゃない
そりゃ薩摩は伊達じゃないなあ
557 :
葉武者:04/08/02 23:07 ID:???
ていうかこのスレはいったいいつ頃の「戦国」の話をしているんだ。
応仁の乱の直後か小牧長久手のあたりか大阪の陣のあたりか。
>>554 すいません。
そのネタはどのスレでも否定されて完全に「納得のいく数字」になってます。
まさか書かれるとは思わなかった。
>>554 すいません戦国板にはいかない素人なんですが、よく島津の武勇伝として関が原と並んで例に挙げられますが
具体的にどのくらいの敵を討ち取ったんでしょうか?
562 :
名無し三等兵:04/08/06 23:04 ID:Y1uRKjbP
良スレあげ
>>561 36000から37000(実数にいたか不明)を5000から7000で迎撃し勝利。
敵の死傷者は10000内は超えなかった模様。(後に星州で再集結し再度出撃している)
大昔の逸話では20万を1万で迎撃し38000の首を取り、
それ以外に戦死80000人の損害を与えたとある。
最近では5000で20万を破ったという説も出たが
36000前後説が広まったのでどちらも小説以外では見ない。(小説では多い・・・)
敵の半数は兵士ですらなく、北京の博徒や乞食などを
強制的に駆り立てたものでもある。
これが砲兵を担当したので、他の戦線で一度も起きた事がない
大規模な自爆かつ誘爆を引き起こした。
このあたりは大正時代の日本の書物でも触れたものがあるが
昭和になってから完璧に無視されている。
勝利の要因は↑「敵兵の低質と自爆」と「城が完璧なまでに整備されていた」点だな。
へーありがとうございます。つまり素人で突っ込んで精強な島津軍に返り討ちという事ですか。
そりゃぁ虐殺に近いものがありますね
>>564 負けて当然で完備された倭城に強攻すればこうなる。
しかも自爆というオプション付きではな。
この自爆を最大の理由にする人がいるが、実際は強攻を選んだ時点で壊滅してる。
ちなみに泗川城は2つあり、片方に500人程度の島津の一隊がいた。
数日前に彼らが攻撃された時は、なすすべもなく半数以上討ち取られ
義弘の元に逃げ込んでいる。
(樺山か誰かが救援したいと言ったが、義弘はもう一つの城は未完成なので
勝ち目はないという理由で却下している)
自分が疑問に思っていることを書いてみます。
戦国期の部隊編成について
「同心の下に何人かの寄子が集まり、一つの部隊として任務を遂行していた」
といった記述を読んだことがある。(小説だが)
実際の所、最小単位の部隊の構成はどのような形で行なわれていたのだろうか?
他にも侍大将ってどの程度の部隊を率いていたのか?とか
輜重隊の運用はどうなっていたのか?
他にも論功行賞の流れも良く分からない。
知っている人がいたら教えて欲しい。
そういえば騎兵隊と騎馬隊の違いとはなんぞや?
>566殿
最小戦闘単位は、武士を中心に、数人の侍と中間・下人といったものになるようです。
武士一人(大抵は自分の馬を持つ。貧乏だと馬無し)に侍が1〜2人、中間・下人が2〜3人という構成
になります。
侍は武士に雇われた(主従関係を結んだ)兵士なので、力のある武士なら、当然侍の数が多くなります。
中間(“ちゅうげん”と読む。武家身分と一般人の中間身分という意味らしい)や下人は、馬の世話や荷物運びをする、
武家そのものや侍に雇われている人間です(武家奉公人)。
ですので、貧乏な武士は侍一人だけしか従者がいなかったりしますが、大体騎馬武者一騎に侍・中間などの従者が5人
ほどいたようです。このうち、武士と侍が武家の構成員(武家身分)で、正規の兵士となります。中間や下人は、身分的に
戦闘員とはみなされず、後方支援が主な任務ですが、当然戦闘に参加することもあります。(武器は自衛用の打刀1本のみ
だったりしますが)。
ちなみに、平安〜南北朝期の頃の身分体系だと、侍も補助兵士であり、あくまで武士のみが正規兵になります。
戦国時代中期以降は逆に、中間も積極的に戦闘員として扱われるようになります。(でも身分的には非正規兵…)
中世日本にとって、軍隊とは武士のことを指しているが
律令には組み込まれていない。
(後付の法律で規定されているが、基本の法は変えられていない)
現代日本にとって、軍隊とは自衛隊のことであるが
憲法では規定されていない。
この辺り比較しても面白いのではないでしょうか?
570 :
名無し三等兵:04/08/09 17:59 ID:HSOuAFlO
571 :
566:04/08/09 18:23 ID:???
おお、詳しい解説ありがとうございます。
でもそうなってくると、戦国物に良く出てくる「弓隊」「鉄砲隊」等の
単一兵科での部隊運用は難しくなりますね。
職業軍人の発生は近代になるまで無かったのでしょうか?
うろ覚えですが、武田信玄や織田信長辺りが実施していたような気がしたのですが。
>571
武田の騎馬隊も実際は騎乗の武士+侍・中間のパターン
騎馬だけの部隊(近代の騎兵のイメージ)とは異なる。
信長は詳しくないが、鉄砲足軽だけで部隊を編成できたかは疑問。
ただ、武田信玄と違って信長は経済力があったので編成しようと思えばできたのかも。
篭城以外では明治時代以前は騎馬武者+侍・中間のパターンが基本
強行軍などをやって結果的に騎馬武者だけになる(徒歩がついてこれなくなる)ことはあるらしいが・・・
信長軍の場合、主力となる武将の家臣団に直轄の与力武将を与えて軍隊編成するから
各武将の鉄砲隊なら鉄砲隊を抽出して、大規模な単一兵科部隊を編成できたとは思う
しかし統制が取れないだろうから、やらないだろうけどね
574 :
名無し三等兵:04/08/09 23:05 ID:FmAykloL
今、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ戦国大合戦」見てるんだけど、
合戦描写とか、攻城戦とか(・∀・)イイ!!ね
>573
長篠では諸将に鉄砲隊を供出させたらしい。
ただ、単一兵科の部隊といえるような運用をしたかどうかは良く判らない。
>571
実はそこらへんのことは、オレもまだよく分かってないのですが、
戦国時代中期以降は、足軽(中間を足軽として運用したり、支配地域から徴兵・募兵したもの)を
使っての兵科毎の編成が存在はするようです。
この場合、足軽頭や組頭と言われる、侍クラスの人間が、10人くらいを一組にして指揮します。
武士が戦う場合、侍や中間を支援兵士として、その場に応じた武器(もしくは好きな武器)で戦ったようなので、単一の武装で
の「部隊」としては運用されなかったでしょう。(※)
しかし、侍や足軽をある程度の数でまとめて、「部隊」として運用することは、戦国時代中期以降はあったようです。
それでも、多くて数十人単位だと思われます。戦国後期の鋒矢の陣(“ほうし”:矢の刃先の意)では、前面に鉄砲隊、
側面・後方に槍隊・弓隊を置き、その中心に大将や旗本勢を配置したようですが、この場合の鉄砲隊・弓隊・槍隊というのが、
足軽や侍で構成された単一兵科部隊にあたります。
(※ 騎馬武者一人、侍一人<メインウエポン:槍>、槍持ちの中間二人<打刀>、鉄砲持ちの中間一人<打刀>、子荷駄の下人一人<打刀>
といった編成で参戦した武士が居るとします。侍は武士の側で常に戦い、主人を援護し、中間や下人達は主人の替えの武装を持って待機・追従
して、主人が武器や装備品を求めたときに渡す役割を担います。とっさの場合には運んでいる武器で主人を助けることも当然あったでしょうが、
中間が持っている武装は自衛用の打刀や腰刀を除いて主人のものなので、彼等が勝手に使用する事は出来ません。ちなみに、この例では弓が
ありませんが、弓持ちが居る場合もあります。)
あと、武士・侍は職業軍人ですよ。特に、武士は領主クラス(小領主から大名まで幅広いですが)の軍人なので、どこかの組織に属さなくても
生きていける、自立した存在です。逆に侍は仕官する武家がないと生活できない人々ですが、彼等も別に自ら農業や商いをする必要はない
のです。主人から給金が貰えるんですから(中には副業しないと生きていけない地域・人もいたでしょうが)。
>574殿
『クレヨンしんちゃん あっぱれ!嵐を呼ぶ戦国大合戦』は、
個人的に、戦国時代後期の戦争形態を映像化した物のなかで、過去最高の出来だと思っています。
もっと前の、南北朝動乱期の戦争形態を映像化した物のなかで、良く出来ているのも、これまたアニメ
の『もののけ姫』なのですが、この二つの合戦描写・武装を比較すると、面白いですよ。
鎧のディティールが両方とも結構省略されちゃっているのが残念なんですけどね(形や構造はちゃんと描かれてる)。
まあ、鎧の細かいディティールまで描いて、それを動かすとなると、アニメーターが死にかねないので、しょうがないですが。
すいませんがもののけのどこがリアルかよくわらないんですけど?
>577
戦国しんちゃんは、合戦の間に食べてるオニギリが真っ白だったのが
ちょっと気になったぐらいでしたな。
>>577 「火蓋を切る」シーンなんて、実写でも滅多に出てこないのに、
アニメであの描写は凄いと思いました。
>578殿
小具足無しで腹巻きや腹当てのみを直に着こんだ雑兵や、当世具足を着込んだ、まっとうな武士達が混在して、
村、またはは小領主同士の境界争い、もしくは掠奪目当てと思われる小競り合いの合戦をしていて、
まだ弓と長巻きや薙刀、野太刀がメインウエポンという、応仁の乱前後の戦争様式を見事に表しています。
あと、タタラ場の人間が使っている、棒の先に前装填式の射出器を備えた銃がありますが、中国経由で
火縄銃伝来以前の15世紀中頃(ちょうど応仁の乱の頃)には日本に伝わって実用化されていたらしい(主に西国の
水軍によって)、と最近の研究では言われています。
あと、箙(“えびら”、矢を入れて形態するための道具)から矢を抜く時、ちゃんと腰の下から矢を抜いてます。
※和弓では、右腰に箙や空穂(“うつぼ”、箙にカバーを付けたような構造のもの)を着けて、矢を下から引き抜いて
弓につがえる。肩の上から抜くようなことはしない。
まあ、基本的にはファンタジーですが、そういった細かい描写の部分のリアリティが結構あるんですよ。
(職人や商人の格好等も、当時の絵巻物に残っているものをちゃんと研究して描いているのが良くわかります。
つうか、かなりそのまんまだったりするし)
>579殿 582殿
凄いですよね。鉄砲隊と投げ焙烙の足軽、全員右手に予備火縄をちゃんと巻いてるしね。
言葉もかなり当時のものに近づけてるし。(組頭の号令とか)
あとは、又兵衛の侍であるじいさんが、又兵衛の事を「殿」って呼んでて、城主の事は「〜様」(名前忘れた…)
って呼んでるのに気がついた時、感心しちゃったよ。
武士はより力のある武士(武将や大名)に仕えるから、武士にとっては城主などが“殿”になるけど、武士自体に
仕える侍は、その武士が“殿”であって、城主や武将は単に主人である武士より偉い人、でしかないんだけど、
そこらへんの違いをきちんと表現しきれてない時代劇のほうが多いからね。
でも、個人的に一番気に行ったシーンは、縄で編んだスリング使って、投石してるところ。
中世に成立した軍記ものや当時の記録とかでは、飛礫による負傷などが出てくるから、投石で攻撃していた
のは確実なんだけど、そういったものには飛礫と書いてあるだけで、手で投げたのか、スリングを使ったのか、
はっきり書いてない場合の方が多いのよ。
でも、戦国時代以前(平安時代に成立した絵巻物だったような)にスリングを使って石を投げ合う人間達を描いたものが
あるし、戦前まで縄で編んだスリングを使って石を飛ばす遊び・祭りが伝承してたらしいんだよね。
そこから考察すると、スリングを使って威力を上げた飛礫を、武器として活用していないはずはない、って事になるんだけど、
それをちゃんと描写した時代劇っていうのは、これが初めてなんじゃないかな。
それに、個人的に当時のスリングを造って試したことがあるんだけど(平安の頃から戦前まで、材質等や構造は特に変化
していないようだ)、上手く飛ばなかったこともあって、これは大変参考になったよ。上回しで投擲するんじゃなくて、下回しで下から放るように
投擲するものみたいね、これ見る限りは。オレは上回しでやってた…。
>>585 それは、体の使い方が違うから、とか言ってみる。
そういや南米に投石器で石を投げ合うお祭りをテレビで見たことがあるが
そのときはサイドスローとアンダースローの中間くらいで投げていたな。
合戦がそんなにぬるいわけないだろうよ。
川中島4thで7000人、関が原で10000人、耳川で20000人死んでるんだぞ。
童貞のまま、地獄の苦しみを味わって死んでいった足軽たちはかわいそうだなぁ。
一方で女は男に抱かれてものすごい快感を味わって天寿を全うする。
不公平極まりないな。
>>585 スリングって威力を増すためのものというより、飛距離を延ばすためのものだと思う
だから下回しで斜め上に投擲するのでは?
590 :
某研究者:04/08/10 15:21 ID:aMFEbvug
>585
>589
漏れの考えだけど・・・・
スリングを使わないとまともなダメージを与えられなかったと言うことはないのかな?
平地での投石の場合(城などからの投げ下ろしを除く)体格がよく、球技に慣れた現代の人間でも
安定してダメージを与えられるのはよくて50M強ってところだろう。
戦国時代の人間だと素手の投石ではよくて20Mかそこらだったとも考えられる。
そうすると騎馬の突進が届く距離だし、投石より先に蹂躙されてしまう。
そのため飛距離をあげる必要に駆られてスリングを使ったと想定するのだが・・・
593 :
名無し三等兵:04/08/11 01:25 ID:Kz2GWmaM
良スレあげ
球技に慣れるという要素は投石に慣れれば良いだけで関係なかろう。
体格はまだ影響あろうが、これも現代>戦国時代>江戸時代ともいわれるので
生活における運動量までかんがえて影響は少ないかもしれんと思う
一応結論が出ましたかね?
スリングと言わずに印地打ち(いんじうち)と言いましょう。
武田軍ではかなり組織化されていて瀝も算盤の弾の様にするどく尖らせていた。
597 :
名無し三等兵:04/08/18 19:03 ID:d1+aWrwK
白川の石工たちのアルバイトでも印地うちはありました。
598 :
名無し三等兵:04/08/18 23:17 ID:e0CL/LqW
三方ヶ原の戦いで、
織田徳川連合軍一万一千を、武田軍三万が迎え撃ち、騎馬軍団の展開に適した広大な草原を有効に活用、
織田徳川連合軍を打ち破り、浜松城まで追撃して、ほとんど無傷で敵兵の首一千余をあげる記録的な勝利を得た。
武田信玄と武田軍最強
織田徳川弱すぎ。
>
>>598 織田(伊庭)軍+上杉謙信軍相手に、記録的勝利ですか?
もう一度資料を読み直して下さい。
600get♪
識者の方、教えてくだされ。
荷駄隊(補給部隊)が人力だけで、木製の台車を引いて一日に80〜100Km行軍したってホント?
無理だ
>>601 荷駄隊にも駄馬、輓馬はあったはずだがどの道無理。
>>601 通常の行軍は1時間/4km、強行軍で6kmほど
不眠不休で行軍して24h*4km=96kmだが、部隊の9割は脱落するだろう
>604
それって、あの牟田口閣下のインパール入り時の皮算用ぢゃないのか。
>>605 一時間4kmってのは平地の話だからねえ
ジャングルとか山岳地帯なら0.5かけて計算するべし
ジャングルで山岳地帯なら0.25だな
行軍&兵站で少し分らないことがあるのですが。
・戦場まで移動する日数
・合戦
・帰還する日数
これらを全て合わせると最低でも1週間はかかりますよね?
その間の補給は滞りなく行えるものなのでしょうか?
(千差万別なのでしょうが)
合戦時の補給ってどのように行われていたのでしょうかね?
またどのようなものを準備していったんでしょうかね?
(食料のみ輸送ということは無い筈)
610 :
Pz:04/08/26 23:53 ID:Eq6C75jH
現地調達が思ってるより多かったはず、何しろ飼葉を含めて9割近くが農産物なのだから
当時の輸送手段能力や道路事情では、策源地からの継続的な補給は無理だろう
現地で徴発や購入できる物資を苦労してはるばる運ぶはずない
25年前クレベルトの「補給戦」を読んで、目からうろこが落ちる思いだった
学校で習った「山城の国一揆」でも
36人の国人衆の要求が両畠山勢の領内通過の禁止だったことも
軍勢が行き来するだけで徴発による領国の疲弊や、購入した場合でも
食料の高騰を招き領国が疲弊する事に対しての要求と理解できる(流通手段の未発達な当時では購入でも物資は枯渇し高騰したに違いない)
>>607 部隊の規模や合戦の様相によって大きく違います
補給の要領は概ね現地調達、推進補給、随伴補給に大別できますが、
兵站能力が作戦の規模や期間を決定すると言っても過言ではありません
当時の合戦は作戦期間が日帰りや2〜3日程度のケースのほうが多く、
大抵は手弁当程度の兵站準備で事足りていました
小規模な軍勢ならば現地調達も当てに出来ますが、現地調達のみに頼るようなケースは稀です
特に、攻城戦のような長期間の作戦が予想される状況では推進補給態勢の確立が絶対条件でした
例外もありますが、洋の東西を問わず近世以前において独立的の行動できる野戦軍の上限値は
概ね3万程度です
軍需物資の中で占める比率まではわからないけど
遅くとも織豊期までには軍勢に商人が付いてきて
彼らから食料や弾薬を購入する方法もあったらしい。
613 :
607:04/08/27 02:39 ID:???
みなさんありがとうございます。
商人がついて来るような事もあったのですね。
攻め手が十分な兵糧を用意できないのが常態なら、
守り手側は城に籠もれば、かなり有利になるな。
もっとも、青田刈りをされるから損害も大きいだろうけど
>>614 我慢できなくなって出撃してしまうケースもあるしね(w
616 :
Pz:04/08/30 08:46 ID:XIzEioJt
>>612 商人というけど、費用だけじゃなく、結局輸送手段の問題
船が使えなければ、長期に長距離の大量な物資は輸送できまい
本願寺などをめぐる水軍の戦いや、上杉と秀吉の小田原攻めの違いなどにも
表れている
船以外の手段では近場での物資を集めることになり
その地域の物資は不足高騰する
鳥取城攻めなんかは意図的にそれを利用して、城側の兵糧集積を妨害したのでは?
617 :
名無し三等兵:04/08/30 11:43 ID:2D9hk/89
昔、読んだ「長篠合戦の真相」?って本に行軍するときは鎧、兜は着けずにいた
とあったんですが、実際どうなんでしょう。
確かにあんなモン着けて行軍するのは疲労でダウンしそうなんですが。
一方で、上の身分のものは家来に持たせれば良いですが、足軽や低い士分のものは
かえって食料などの荷物に加えて鎧が増えるし。
支援要員が結構多かったのか何か携行法が有ったのか疑問です。
足軽が着用してた防具って重さどれくらいだったの?
619 :
名無し三等兵:04/08/30 17:39 ID:MiJUrUYz
俺は司馬遼太郎の将校としての能力が気になる
戦争物書く時はまず理想的な戦術を地図に書き込んで、その後実際の戦術を
書いていったそうだから。一応大日本帝国の将校だし
ああ、司馬遼を戦国時代に降臨させてみたい
621 :
Pz:04/08/30 19:42 ID:2v6Z88SK
>>619 昔、戦マガで読んだが、司馬は大戦末期に戦車の装甲板をやすりでけずってみて
やすりで削れるほど品質が落ちたってなんかの本で嘆いてたそうだ
表面硬化だけでしのいだ装甲から、変形で吸収する装甲に進歩したのに
品質低下だと思ってるって、嘆いてる元技術者の記事だった
そんな司馬なんか降臨させても理屈倒れになるだけでは
>>621 3式戦車だろ
もろに軟鉄だったとの説もある。
なにせ終戦直前だからな…
>621
三式なら土浦にあるなぁ〜。
藻前、ダイヤモンドやすりでいいから実験してきてくれんかのう。
横には89式もM4もあるし。
学徒動員だが基礎的な戦術については一応教育を受けてるだろ
625 :
Pz:04/08/30 20:37 ID:2v6Z88SK
>>623 M4も戦後の戦車もみんなやすりで削れるってその記事に書いてあった記憶があるぞ
もっとも、第3世代戦車が出始めた、戦マガ創刊のころだが
「司馬先生のヤスリで簡単に削れたというエッセイ内の話と」
「製作にかかわった人から材料不足で軟鉄になったという話」
反論として一般的なのは...
「初期の戦車は、
AFH、表面硬化装甲鋼鈑(表面硬化=炭素を添加して表面を固める)、後期は、
RHA、圧延均質装甲鋼鈑(圧延=元素添加で粘りを出す...)に変わったので、
表面にヤスリがかかっても問題無い...」
なのですが(-_-;)...
ドイツでは、添加する貴重元素が輸入できなくなることを見越して戦車は
AFH、表面硬化装甲鋼鈑で作ることにして
RHA、圧延均質装甲鋼鈑の使用量を減らしました。
(少数生産のタイガー1が10cmの圧延均質装甲鋼鈑で)
(大量生産のパンターが8cmの表面硬化装甲鋼鈑です)
大戦末期に添加材料があるかどうかですが
試作戦車用の材料にも困っていたので...
どうやら軟鉄説で正しいようです...
資源の海上輸送が壊滅して原料不足、おまけに優先的に資源を
回されたのは航空機生産のほうですから...
形だけしかできなかったのもしかたないでしょう(^^)...
2000.1214...
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta024a.htm
そりゃまあM4の車体の溶接装甲も削れることは削れるだろうが
ヤスリを何本潰せばいいのか想像つかんなw
628 :
少佐:04/08/30 21:00 ID:US5VOUKk
戦国時代の「武芸者」は残存する資料を見ると神業を使う達人ばかりである。
ここから考察するに、その神業の達人達と戦ってた百姓兵達もかなり
強かったんじゃないか?
神業の達人には及ばないが、かなりの達人だったのではないか?
629 :
少佐:04/08/30 21:14 ID:US5VOUKk
中国の気功師などは気功を手のひらからジェット噴射して人を吹き飛ばすが、
この技をさらに発展させて足や尻から気功ジェット噴射をして超人的な跳躍
力を体得していた武芸者も戦国時代にはいたらしい。
例の「水蜘蛛の術」もこの気功ジェット噴流の応用だろう。
手から出るなら、足からも出るのだ。
司馬氏についてはノモンハンスレや
乃木将軍と旅順スレで大いに語っていただきたいんですが・・・。
なにぶん人が少なくて・・・。
兜とかは背負ってたんじゃないかなー
被っての移動はつらすぎるっしょ。
それかジャンケンで負けた奴が全部持ってくとか、
電柱ごとに交代とか。
三方原は1時間くらいで勝負がついたらしいよ。
あっというまだね。
1万以上の兵力で挑むわけだから、負けるにしても、せめて2〜3日は持つのが
普通と思うが。
織田徳川の指揮官は武田の騎馬軍団の風説にとらわれすぎて冷静な指揮が
出来なかったんじゃないかな。指揮官の腰が引けてれば当時の農民兵なんて
あっというまに恐慌状態になるだろうから。
あげ
634 :
名無し三等兵:04/09/26 10:02:07 ID:Tgo2GbTd
あげてなかった。
>>617 騎馬の武者なら、兜は馬にひっかけて行軍したんじゃないですか?
足軽の陣笠は鉄製ではないし、日除けにもなるから、かぶって行軍するのが
ベストだと思うんですけど。
>>631 徒歩行軍の主体の足軽は、鉄製の兜なんてほとんどいないでしょう。
和紙に漆を何重にもぬった陣笠とか、よくて燻革の、やはり漆を縫った
陣笠じゃなかったでしたっけ?
>>632 広大な戦域に展開して、火力を応酬しあう現代戦じゃないですよ。
カンネエみたいな規模の戦いでも何時間で決着ついたと思ってんだ。
カンネ
カンヌエ
カンネエ
さてどれが一番原音に近いでしょう
>636
2000年以上前の当時のラテン語の発音って現代にも伝わっとるの?
>>632 多分に家康の遠江死守の宣伝みたいな戦だったから、
いかにして味方の被害を少なくして敵の損害を増やすか、
ということを考えれば、早期撤退はさほど誤りではないかと。
浜松には「小豆餅」「銭取」という変わった地名がある。
三方原の合戦のあと、敗走中の家康が、小豆餅を食い逃げした茶店のあったところと、
茶店の主人に追いつかれ、金を払わされた場所、だそうだ。
このエピソード、どの程度信憑性があるんだろうか?
出来過ぎていて怪しいというのが俺の感想なんだが。
>>640 家康が大敗を喫して多くの死者を出した後も
領民から慕われていた、
少なくとも見放されていなかった、
という証拠ですな。
>>640 「信玄公笠掛けの松」みたいなものだろう。
(本当かどうかは別として)そんないわれが伝わっていてもええやんと思う。
まあ後世の講談から付いた地名が殆どだが
高天原の由来は事実に基づくものだぞ
保存。
646 :
名無し三等兵:04/10/24 11:27:39 ID:9M9TzoZ9
あげ
647 :
少佐:04/10/24 11:53:39 ID:eX6yYyj6
戦国時代における主力武器は投石である。
戦国時代の戦いは石合戦のようなものだったと思えば早い。
コストが安いうえに、連射性に優れ威力もあるので多用されたのだ。
>>647 今更・・・少佐を名乗るなら過去ログぐらい読もうね
650 :
名無し三等兵:04/11/05 17:27:45 ID:DlH4G5ar
YOSHIMOTO
>>637 ラテン語は、詩の研究、当時の語学書などで、
発音の仕方についても相当のことかわかっている。
図書館等に行けばある、ラテン語入門、
ラテン語の辞書等を参考されよ。
我々が言う「ローマ字読み」にかなりちかい。
いやちょっと待て、日本語にしても奈良平安時代なんかの発音は
声注、声点なんかが残っててかなりのことがわかるが、
それでも正確な発音となるとわからないという話だぞ。
「ローマ字読みに近い」なんて初級ラテン語レベルの知識で語られても信じられないんだが。
キリスト教の聖書は宗教改革まではラテン語だけだったし
聖職者はいまでもラテン語は必須でしょ
だから、発音がわからないということは無いと思うが・・・
詳しい人おらんかのう
ラテン語だけ、って元はギリシャ語とヘブライ語なんだが。
ヒエロニムスによるラテン語訳が完成したのが西暦400年頃、
となれば聖書のラテン語なんてせいぜいそのくらいにしか遡れない。
カンネーの戦いとの間には600年以上の開きがあることになる。
だいたい、第二次ポエニ戦争時のローマなんて文化的な整備もされていないし、
聖書で使うような体系付けられたラテン語とはわけが違う。
…と思うんだが、確かにその辺詳しい人の話は聞きたい。
ラテン語音韻史なんてやってる人が日本にいるかどうかは知らないが。
つか、軍板の日本戦国史スレで何つー話してるんだろうな。
長篠合戦は三段撃ちで織田軍は勝ったんですか?それは、作り話だという話を
よく聞くのですが、真相はどうなのでしょうか?
過去レス嫁
ほりえ帝国で織田家最高のためにがんばりますのでご協力ください。
あまり国名は気にしないでください。本心を隠すために偽名を使ったまでです。
660 :
名無し三等兵:04/12/01 22:30:59 ID:0HpGKSg5
保守age
661 :
名無し三等兵:04/12/10 20:47:20 ID:XEh6Vzs2
昇竜
>658 まさかここにプレイヤーが居られたとは。
頑張ってください。
リア厨のときに社会科の先生から聞いた話。
1.まず、お互い遠くから石を投げたり罵声を浴びせたりする。
2.雑兵が突撃する。彼らは槍を持っている。
3.雑兵は、とにかく敵に向かって雄たけびをあげて走っていくが、実際に
衝突間際までくるとピタリと止まり、槍を構えて大声で威嚇するだけに
なる。
4.そうこうしているうちに、雑兵の群れは横に広がり、複数列の横隊に
なる(規律正しく並んでいるわけではないが)。
5.その状態で、お互いにらみあいになり、時間がすぎる。(長いと30分
とか1時間とかになる)
6.やがて、誰かひとりがしびれを切らして前に出る。その者は敵の槍
で穴だらけにされて死ぬ場合がほとんど。
7.前に出た者がいた方の陣営は、6に一拍遅れる感じで前に出る。
8.前に出られた方は、6に一瞬気を取られているので7に対応しきれず
怪我人が多く出て勢いがそがれてしまい、たいてい負ける。
・6の者を「一番槍」と呼ぶ。それが出た側が勝つことが多く、また戦闘
開始のきっかけを作った勇気のある者とみなされるので褒美が出るが、
本人は既に死んでいるので家族等の縁者に渡される。
これを聞いたときは、「ああなんかリアル。そりゃいざあいまみえると
なったら足が前に出なくなって止まっちゃうよなー。前方は殺気立った
男の顔が並ぶ槍衾だもの。」と思った覚えがある。
にしても、今考えてみると、これはいったいいつの時代のどんな戦なんだ
ろうか。まあもちろん、他の要素、例えば馬上の武者とか弓の射掛けあい
とかが省略されてるから特定できそうにもないけど、なんか村同士の水争い
とかそういう雰囲気。
664 :
名無し三等兵:04/12/18 23:44:54 ID:fODE2Ggp
何を参考にその説を組み立てたかだな。
>656
本当。ただし100年戦争で英国も弓でやってた。
>656
実際のところは良くわかってないというのが真相。
ただ、寄親−寄子関係を切り離し、鉄砲隊を組織して集中運用したのは本当。
>>656 軍板FAQより
http://mltr.e-city.tv/faq11.html#長篠 【質問】
長篠の戦(1575)で,織田信長が武田勝頼相手に,火縄銃部隊を3列にして発射して,発射にかかる時間を短縮して
いたと学校で習いました.
ヨーロッパでも,火縄銃を使っていた時代,このような作戦は採られたのですか?
【回答】
まず,信長の三千挺三段撃ちですが,行われていなかったと言うのが,ここ15年ぐらいの定説に成りつつあります.
まず,最も史料価値の高いと言われる太田牛一の「信長公記」には,この戦術に関する記述が全く無い事が有ります.
この戦術の初出は,小瀬甫庵の「信長記」ですが,この書は長篠の合戦の50年も後に出版されており,多分に江戸
幕府の思想的プロパガンダのバイアスがかかっており,資料的価値が低い事.
当時の織田,徳川軍の鉄砲隊は,各家臣団の諸兵,傭兵等の混成部隊であり,複雑な統制の取れた行動が,訓練
期間の足りなさも相まって困難であった事.
長篠の陣が,山の稜線に沿って複雑に出入りしており,一人(少数)の合図に従って一斉射撃を加えるのが,無線の
無い当時は不可能であった事が予測される事が有ります.
では,何故に小瀬甫庵がその戦術を思い立ったかと言えば,中世の中国では,ボウガンの三段撃ちを行っており,
儒学者である小瀬甫庵が「信長記」にそれを盛り込んだのでは,との説が有力です.
そして,何故この三段撃ちが定説として流布されたかと言えば,旧陸軍参謀本部が,「日本戦史」編さんのおり,ろくに
精査もせずに採用した為でした.
長篠の戦いの真の革新的な所は,野戦築城を日本で始めて大規模に採用した事です.
http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4.html#11によれば,これは,恐らく宣教師からの助言が有ったものと
思われます.
「長篠合戦の72年前の1503年、ヨーロッパで野戦築城された陣地に拠(よ)って鉄砲を使った側が、攻めてきた敵を
さんざんに破るという有名な戦いが行われた。イタリアのチェリニョーラというところで、スペイン軍がフランス軍を打ち
破ったのである。
「好奇心の強い信長は、ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ、長篠で実践したのでは」と鈴木さんは推測する」
新しい作り話の作られ方
「好奇心の強い信長は、ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ、長篠で実践したのでは」と鈴木さんは推測する
↓
「好奇心の強い信長は、ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ、長篠で実践した」
670 :
名無し三等兵:04/12/21 16:02:57 ID:kOt6Qgxx
ある人に聞いた話なのだが
1.合戦の陣形・手順が無いのはそんな物が無かったからである。
2.よって、投射兵器を撃ち合いながら先備が適当(隊列・陣形無しの意)に前進する。
3.功名目当てのが先ず飛び出てつられるように他のも飛び出す。
4.大将はやばくなった所に中備、援軍を向ける。
5.で、どちらかが崩れるまで殴り合い。
と言う、ケルトスタイルじゃないかと言う事らしい。
大将が一番気を配るのが初期配置で、武将の持つ部隊ごとに強さの違う戦国時では最も重要だとの事。
但し、ケルト人と較べ戦国軍隊はせこくてずるい(つまり狡猾)うえ農耕民族故持続力が有り、更に同様
のローマ人やギリシャ人以上に横並び精神の持ち主(よって「みんな一緒に精神」を盛り上げる密集陣を
採る必要無し)、更には良くも悪くも小手先の技と現場の独断専行が得意と言う散兵戦術を採るには
最適の軍隊だったりするらしい。
まあ、欧州的な感性から言えば前時代的な軍隊以外の何者でもないんだけどね。
ん?
雑兵物語には、きっちりと集団で行動する武士の軍団が出てくる
はずだが。
一斉に並んで、長槍で戦う槍足軽の話とか。
君は「欧州人がみた」視点で戦国時代の合戦をみていないかい?
密集隊形をとったりしないと、「矢ぶすま」も作れないじゃないですか。いくらなんでも、そんな雑然とした戦い方だけで、天下をとったり
できるとは思えないんだが?
>>617 あと、また雑兵物語でもうしわけないんだが、夫丸という荷駄隊を、
護衛している足軽はちゃんと甲冑をみにつけ、二本さしで歩いて
いたようですが。
そもそも足軽の甲冑なんて、3、4キログラムしかないんですが。
そこに、布にまいた飯をくくりつけて歩くわけです。
胴は鉄製がほとんどだけど、だいたい草摺は皮革製だし、足軽傘も
同じ。
甲冑なんて身につけるのに時間がかかるものを、わざわざはずして
歩くというのは、ちょっと、どうでしょう。
完全に勢力圏内だったら、別だと思うが。
現在の自衛隊がボディーアーマーつけて、あの荷物背負って歩いたら
どれくらいの重さがあるかは、御存じでしょ?
672 :
670:04/12/21 22:11:25 ID:???
>>671 列と言ってもただ単に雑多な集団から出て来ただけと言う考えもできますし
足軽「馬来たぞ馬」
下級指揮官「おい、長槍持ってる奴前出ろ」
てな光景があちこちで見られるとか。
第一、列作る事が決まってるなら公文書に残ってるはずです、絶対。
着到書や陣立書という動員記録が残ってる位なんですから。
後、密集陣って脱走兵を防ぐのが主な理由ですから。
後、少なくとも徴集兵は長槍は扱えないそうです。
絶対穂先を地面に突き刺して、折るとか。
>>617 ではないのですが、学研の戦国合戦集なんかに足軽鎧様の櫃を担ぐ夫丸がいたと書かれてます。
ははぁ、
だから兵農分離は画期的だったんだね
兵農分離は関係ないだろ。
>>672 どうも、それは信じられない。
ある程度の密集隊形は有効だと思うんだが。
陣立てに関しては、すこし漏れも調べてみるよ。
ちなみに、長槍というか、数槍でしょ?足軽が使うのは。
軍団によっては、ちゃんと訓練うけた槍足軽組があったはずだけど。
それと、足軽鎧のひつを担ぐ夫丸はちょっと聞いたことない。
もしよかったら、学研に載ってると思うが、そこに参考資料が
ないです?
足軽が甲冑をきた上で、上級の武士の鎧のはいった甲冑をかつが
されたりしているのは、雑兵物語りに出ている。
ただ、そういう職種があったとしても戦場というか、陣につくまで
鎧を着ないというのは変だし、領内を行軍するときだけでは?
そもそも、たかだか4キログラム程度の甲冑を、わざわざ人に
かつがせるのって、どうなんだろう。
>>670 ちなみにだが、中国の古代の戦闘方式もそんなもんじゃなかったっけ。
欧州的な感性って、何?
日本人の軍事能力に驚いたという記事はどっかでよんだ記憶はある。
宣教師はだいぶ偏見でみている人もおおいようだけど。
ただ、そんな適当な戦い方で、朝鮮出兵の際にあれだけの野戦能力を
発揮できるとは思えないんだが。
677 :
670:04/12/22 23:07:45 ID:???
>>676 そうですね、中国も欧州と同じ考え方でした。
日本が変なんですよと言ってました。
これは私の間違いです。
鉄砲で散々怯ませた後、突っ込むという考え方だそうです。
当時の鉄砲の射程距離を考えると突撃は十分可能ですし
そうなると辺の部分しか戦闘できない密集陣より、疲れたら
交代して休める散兵の方が有利では
>>677 うーん…、日本の戦国時代(多少、大名連中によって差はある
だろうけど)の合戦は。
たしか、戦闘部隊の30パーセントを火縄銃というか、 マスケット
銃隊が占めているはず。で、残りの30パーセントが弓だったり、
槍だったり。
だから、どちらかというともともと火力戦闘重視ですよね。
だから、軍の隊形の正面には、広く浅く展開した散兵が有利かとも
思いますが。
ただ、当時の銃や矢の能力では、射撃手側もある程度密集しないと
効果をあげるのは難しいですよね。小さな固まった組が、点々と
散会している感じでは。
その背後に、やはりある程度密集した槍組や騎兵集団がいたと
思うんですが。
<突撃は充分可能ですし
これが事実なら、相手の突撃をうけとめる密集隊形も少しは
ないとおかしくないですか?
また、鉄砲でひるませたあとに突っ込むという考え方というのは、
ソースというか、誰か別の方の御考えなのでしょうか?
いずれにせよ突撃戦に移るのなら、白兵戦闘は、やはり散兵では
おかしいですよ。
朝鮮出兵でも、刀の威力についての記述が相手の文献にあったり、
中国も倭刀を導入しているところから、かなりの戦力をもった
白兵戦部隊の存在をうかがえるのですが。
679 :
670:04/12/23 00:01:24 ID:???
>>678 その人の意見は散兵というのは配置よりも指揮系統的な意味合いが強いと思います。
後、密集陣がいたら兎に角鉄砲で撃つでしょう。
680 :
670:04/12/23 11:44:22 ID:???
補足
朝鮮の役を描いた鍋島の朝鮮軍図屏風には丘の裾野に整然と隊列を組んだ明・朝鮮連合軍と
それとは対照的に山上に雑多な陣を敷く日本軍が描かれています。
後その人の言うには明の記録にも「日本軍は陣形を作らないでどうして我々に勝てるのか」と
不思議がる記述があると言ってました。
>>679 あのー、縦深というのを御存じですか?
前面には当然、火力戦闘をおこなう鉄砲足軽組が展開してるでしょう。
でも、相手が突撃してくるとしたら、ある程度の密集した部隊もないと
防げないですよ。
>>680 山間部では、当然、雑然としたほうが有利でしょう。
ベロポネソス戦争でも、結局、重装歩兵の密集陣だけでは
どうしようもなくて、けっきょく雑然と、というより
散開して攻撃というか、襲撃をしかけてくる軽装歩兵が重要になってきたわけですから。
それと、屏風画は、演出の都合も相当はいっているので、史料に
するなら、それなりに当時の日本画の知識が必要になりますよ。
関ヶ原の合戦をえがいた画なのに、武士がみんなカラフルな
大鎧をつけていたり、きちんと胴丸を描いている画でも、なぜか
大袖がついていたりするので。
あと、できればその明側の記録の文書名を教えていただけますか?
手にはいるものなら、探してよんでみます。
もしかしたら漏れが大きな勘違いをしているのかもしれないし。
682 :
670:04/12/23 14:33:21 ID:???
>>675 学研の資料には井伊の木俣という者の手廻り約90人が描かれており、
その中に「足軽具足長持(2人)」と書かれてます。
なお、図は「井伊家の軍師岡本半介の記録」を基に描いたとあります。
>>681 1段だけでなくて後方に何段もあってそれで食い止めます。
密集陣が厚い1枚板とするなら、薄い和紙を何枚も重ねたようなものです。
どの様な記録かは聞き及んでいませんでした。
図屏風の民・朝鮮軍は密集した方陣や逆三角陣を採っており、これ程整然とした
戦列を日本軍が採った事は無いと言える物です。
明・朝鮮軍はある程度指揮系統が一本化されてるのに対し、日本側は兵はそれぞれの
武将の持ち寄りで構成されてるんで、上からの指示の強制性が弱いから、それぞれが
ある意味勝手に布陣したんじゃなかろうか。碧蹄館の戦いの際にも先陣の予定だった
立花勢をさし置いて、毛利と宇喜多が先陣争いをしたらしいし。
684 :
670:04/12/23 20:03:38 ID:???
>>682 ちなみに図屏風の戦いの舞台は蔚山合戦とのことです。
これは蔚山城に包囲された日本軍を救援すると言うもので、私が挙げたのは
援軍が情勢を見極めるためとりあえず山に登り、連合軍と対峙する場面です。
>>682 えーと、すみません、人数構成がよくわからないのですが…。
90人というのは、すべてが夫丸なのでしょうか?
そして、その内に足軽具足の長持が2人なのでしょうか?
他の夫丸の役割は何でしょう?
そして、その人たちが支援する足軽というか、部隊の人数は
わかりますか?
予備の櫃持ちなのか、井伊家中では実際に行軍の際に鎧をぬいでいたのか、ちょっと簡潔すぎて判断できかねますが…。
どうにもこうにも、わずか3、4キロの鎧をわざわざ脱いで活動する
というのが信じられないです。
陣でも、鎧を脱ぐということはほとんどなかったようですから。
行軍の際は鎧をぬぎ、陣についたら、ずっと鎧をきたままで
生活するというのでしょうか??
あと、屏風にかかれている画をもとに考察するのは、ちょっと…。
現代でいうと映画をみて考察するようなもので。
軍形や陣型についても、一次史料が残っているのではないかと
思いますが。
>>683 ま、中央集権の軍団ではないですから、しょうがないですね。
基本はよせあつめ。ただ、それぞれの家中では統制はとれて
いたと思うんですが。
信長がいきていれば、違ったかもしれませんね。
彼にとって武将とは、城とセットの封建領主でなく、ただの
野戦司令官と考えていたフシがありますから。
>>684 その戦闘については、こちらも調べてみますね。
どうも御丁寧にありがとうございます。
687 :
670:04/12/23 23:08:57 ID:???
>>685 後方要員もあわせた全ての数です。
この内足軽の名が付くのは鉄砲と弓の5人、長槍持ち4人
他に騎馬の供廻りもいますがこれは騎馬に乗ってるものが用意するので
勘定に入っていないのでしょう。
その代わり武将の供廻り分(近習4人、供4人)の長持持ちは4人います。
図屏風は確かにそうですが、それを割り引いても日本の陣とは一線を画してます。
なお、今残ってる図屏風は写本ですが原本は実際に戦った鍋島直茂が従軍した
絵師に描かせた物と言う事ですから、絵画表現を除けば十分参考にできるかと思います。
>>687 そうでしょうか?
山岳での戦いにそもそも密集陣をもってくること自体が、
中国側のほうがおかしなことなのですが。むしろ中国側の
実戦経験をうたがいます。
山岳での戦いはそうだったのかもしれませんが、それを野戦にまで
敷衍するのにはすこし抵抗を覚えるのですが。
えぇと、あと内約なのですが。
90人が全体の数で、10人弱が足軽。その足軽の具足持ちが
2人ということですね?
予備の具足持ちではないのでしょうか?
まぁ、ひとり5領の足軽具足をもつとすると、20キロをこえない
でしょうから、別にさして問題はないかとは思いますが。
どうも行軍中にわざわざ鎧をぬいで行動するというのが
信じられないのですが。それとも何か理由があるのでしょうか。
689 :
670:04/12/25 11:21:09 ID:???
>>688 誤解されてるようなので説明いたしますと、
この時、山上に展開した日本救援軍と対峙した連合軍は太和江(凍結)と平地を挟んだ丘陵の裾野に展開しています。
おそらく連合軍側としては蔚山城に立て篭もる日本軍を救援する以上、平地に押し出るであろうからそこを叩く腹積もり
だったのでしょうが予期せぬ救援軍の夜襲を受け、その為退路を断たれる事を恐れ城の包囲を解き後退しました。
因みに隊列を組んでの夜襲は困難であり、その点からも日本軍には隊列戦闘はなかったと考えています。
690 :
670:04/12/25 11:31:16 ID:???
足軽に関してはそれこそ可能な限り軽装になる事で、機動力と体力の向上・保持
に気を配ったのではないでしょうか?
完全武装より脇差と陣笠、後槍を担いだだけの方が断然楽ですし、
最も戦地に近づけば、鎧も着込むでしょうが。
>>689 しかし、隊列戦闘はなかったとの考えの根拠が「屏風」では
あまりに、あまりではないでしょうか?
では、たとえば関ヶ原の合戦のような戦闘などでも、隊列すらなく、
ばらばらに適当に点在した兵力どうしが勝手に戦った、というように
御考えということでしょうか。
692 :
670:04/12/26 11:37:46 ID:???
>>691 隊列戦闘は基本として兵による壁を構築し敵の突破を防ぐと言うものです。
このため戦列が突破された場合、増援がない限り壊乱します。
またその戦闘速度も隊列を維持する以上、ゆっくりでなければなりません。
しかし古書を見ると「何段目まで突き崩された」とか「切り崩され、数丁にわたって後退」
とあり、隊列を組んでいる場合それは直ちに壊乱を意味するでしょう。
なぜなら戦列というのは一度崩されたら再び組むのは先ず不可能と言うものなのです。
また戦闘速度も「駆けつつ」といった言葉を見る限り、併足でなければ列を維持できない
隊列戦闘が行われていたかは疑問です。
693 :
別人:04/12/26 14:29:38 ID:???
>>691 点在、というほど一人一人の感覚は、離れていないが、
全体として、整列したとは言えない状況の可能性もある。
漏れは、学生運動全盛期の、
デモ隊に近いのではないか。、
もっといい装備で士気も高い状態だろうが。
と妄想しております。
(若い人にはわかりにくいか?)
書いている人達の兵法や用兵、戦術の技術に関する知識の真相を論じてくれ。
>>693 騎馬侍を小隊長、その直臣の徒武者を歩卒の分隊長。
手持ちの歩卒を護衛隊。
そこに上から寄せられた徒武者(浪人?)、各種歩卒(槍、弓、鉄砲)
による小隊システムの集合体といった所だろうか?
普段は雑多に固まってるが必要な局面では各兵種が出て戦い、
突撃になると全員で突っ込む。
他に大名の直臣として騎馬隊や鉄砲隊の単一兵科部隊がいた可能性はある。
これらは各武将への増援や予備部隊として用いられていたのではないだろうか?
ちょいまち!
雑兵物語をちゃんと読んだ香具師はいないのか?
槍をそろえて、一斉に叩くべい、という台詞。
あれは、槍組はきっちり隊列くんで、一斉に攻撃していたという
ことではないの?
数槍をもった足軽の槍組は隊列戦闘をおこなっていたのでは?
全体として、すべてが重装歩兵の密集陣みたい
なのをくんでいたとまでは思えないが。密集した隊列と、
分散した隊を併用していたということでは?
日本の戦国大名が、それぞれまったく隊列を考慮せず、ざったな
賊徒のような戦い方をしていたとの根拠が屏風と、人から聞いた話では
はっきりいって根拠薄弱。
それに、現実問題、そんな適当な戦い方で、朝鮮半島であそこまでの
戦闘を展開できるのやら?
>>663 あと、その戦闘方式はすごくヘン。
足軽に、一番槍とかは認められていないはずだが?
足軽というか、歩兵どうしの戦闘がある程度展開してきて、
隙をみて騎馬武者が槍でつっこむ、というものだったはず。
それが一番槍。
戦闘の一番最初に槍をつけることを、一番槍というのでは
ないんだが。
社会科の先生のいうことをウのみにするのはどうかと。
>>695 小さな組は、足軽の鉄砲組10人、槍組10人、弓組10人、
小隊長のような侍がひとり、騎馬の侍が5人、というような
構成じゃなかったっけ。
ちょっと人数的に記憶は曖昧で、鉄砲君と槍組などは、それぞれ
人数がすこし前後するかも。
んで、雑兵物語には、いちおう騎馬戦にむくような平地では、臨機
応変に騎馬部隊を集成して、敵陣に攻撃をしかけた、というような
話もでてくるんだが。
ただ、最初から集中した騎兵集団、歩兵集団というようにわかれて
いたかはわからない。
>>696 >全体として、すべてが重装歩兵の密集陣みたい
>なのをくんでいたとまでは思えないが。密集した隊列と、
>分散した隊を併用していたということでは?
学生のデモ隊も、機動隊とぶつかるときには、
その先頭集団に、長物持たせたりしていたな。
>>696 雑兵物語が足軽への指針という所をミソと考えてみますと
足軽に
「長槍を使用するときは集団から出て槍を並べるべし」
と考えるべきでは。
前線の各集団が同様な事をすれば鑓列になるでしょう。
ただこれを隊列戦闘とは言えないと思いますが。
後、雑多でも自然と前線はできるでしょう。
特に、世界一であろう日本人の横並び精神なら。
>>696 >日本の戦国大名が、それぞれまったく隊列を考慮せず、ざったな
>賊徒のような戦い方をしていたとの根拠が屏風と、人から聞いた話では
>はっきりいって根拠薄弱。
隊列を組んで戦闘したという資料も無い事をお忘れなく。
他の隊列を用いた国がその構成について詳しく残している事も併せて。
>それに、現実問題、そんな適当な戦い方で、朝鮮半島であそこまでの
>戦闘を展開できるのやら?
逆に言えば、柔軟性が高いと言えるのでは、1隊での諸兵科連合として。
>>699 あのー、指針ではなくて、いちおう教本だったはずですが?
しかも、「長槍をしようするときは、集団からでて槍をならべる
べし」というのは、どこをどうよんだら、そういう結論がでて
くるのでしょう?
いくらなんでも雑多な集団を、適当にならべただけで前線は
できません。
>>700 あのですね、でしたら、完全に両方についていまのところ、
しっかりとした説を出せている人はいないということになりますが?
それぞれの家中が戦術にかんした著作を残しているかについては、
漏れも不勉強でよくしらないですし。
とりあえず、隊列を組んで戦ったかどうかについては、
現状ではソースになりうるのは、雑兵物語と、その屏風くらいでは?
こだわっているわけではないですが、演出のはいる屏風よりは
根拠が大きいのではないかと。
あのう、それと前から気になっていたのですが、貴方のお説を要約すると、
「近代的な西洋では密集した隊形による戦術が発達し、それは
非常にすぐれた戦闘隊形である。だが、西洋よりおとった日本では
そういった隊列が発達していたはずがない。それは屏風をみても
よくわかることだ」ということになるのでしょうか?
>>670と同一人物かはわかりませんが。
>>700 それと、そういうことであれば、隊列をくんで相手の突進を
とめることのできる組と、火力を投射できる散兵線、軽装歩兵
のような戦い方をする前衛など、いくつかの能力をもった部隊を
組み合わせた戦い方のほうが、柔軟性は高いのでは?
>>701 >>それに、現実問題、そんな適当な戦い方で、朝鮮半島であそこまでの
>>戦闘を展開できるのやら?
>逆に言えば、柔軟性が高いと言えるのでは、1隊での諸兵科連合として。
以上。
諸兵科小部隊による前線構築という事で。
戦列戦闘は機械の様な行動が必要な為、厳密な操典が必要ですが、
チーム戦闘は逆に臨機応変な行動を必要とするものです。
古書の記述は大抵乱戦を伺わせるものです。
あと、あなたの要約は逆転させると大体私の意見に近くなります。
私はむしろ戦列は見掛け倒しの物としか見られません。
(これはあくまで私の印象なのでアレコレ言わないでね)
日本で隊列は・・・使える場所がどれだけあるか・・・
武士って体臭強いの?
戦国時代の戦闘にはあんまり詳しくないんだけど、所属ごとに機動性のある少数の隊列を幾つも作って運用(って言っても多分おおざっぱな命令程度しか出せないけど)すれば場所もあんまり取らなくてオッケーじゃないの?
上でかかれてる朝鮮の話でも雑多な陣ごとに身軽な小中規模での隊列またはそれに近いものの運用をしていたとすれば辻褄が合うんじゃないかとか妄想してみたんだけど・・・。
670=703と同一人物と判断して。
670は670で書いたこととその後に出てくる「ある人曰く」のその人の根拠となっている
書物なり絵なりそれが何なのか聞いてから書き込んで、お願い。
そしてあなたは670で書いたある人の1から5までの話しを全面的に信用してるの?
今のところ足軽自身に聞いて書いた雑兵物語だけが確かな根拠であるし。
>>682 >図屏風の民・朝鮮軍は密集した方陣や逆三角陣を採っており
>>689 >この時、山上に展開した日本救援軍と対峙した連合軍は太和江(凍結)と平地を挟んだ丘陵の裾野に展開しています。
このように書いているあなたが
>日本で隊列は・・・使える場所がどれだけあるか・・・
こんなこと言うとは。明・朝鮮軍が展開した地形は日本でもいくらでもあるし、
1万対1万程度であれば十分隊列が組めるように思えます。
戦場の航空写真(歴史群像とかなどで)で確認できます。
それと
>>689 >因みに隊列を組んでの夜襲は困難であり
と
>その点からも日本軍には隊列戦闘はなかったと考えています。
の、結びつきが不明。夜襲という奇襲で隊列の有無を論じることはできないと思う。
>>706 実際、日本で平原上で正面切って戦う戦闘はどれほどありましたか?
大久保彦左衛門はその手の戦いは姉川と三方ヶ原位だと言ってました。
後、平原に見えても田んぼといった地形障害もお忘れなく。
日本軍が頻繁に夜襲を行えたのという事は常時、夜襲に適した隊列を組まない
戦闘を行ったと言う事になります。
>>707 後、山中や森の突破も戦列組んだままでは無理です。
障害地形を突破する際には日本に限らず何処の国も戦列なんか組まないと思うけど・・・
>>709 日本は障害地形の無い戦場なんて滅多にありません。
川の中で戦ったり、田んぼの中で戦ったり、山の中で戦ったり、湿地で戦ったり・・・
そんな状況でわざわざ樹木の無い平地でしか使えないような隊列戦闘をするとは・・・
平地の多い地域なら、隊列組んだ重装歩兵と騎兵の組み合わせ。
平地の少ない地域なら、軽歩兵による散兵戦が発達する。
日本の戦争は、後者メインだったのではないかと思う。
盆地と盆地を結ぶ個所、隘路入り口付近などで防御側が隊列で陣を作り
攻めて側が散兵的に攻める場合が多い。攻めて側は隙間狙い。
防御側は隙間が出来ないように配置される。
これは市町村、群、国の入り口となる個所、相手側の兵力より多数を
配置できる個所に布陣していることが多いと判断しています。
670さんが言う戦闘における隊列というのはどういうものなのでしょうか?
相手も隊列、こちらも隊列、場所は平原、密集陣でなければ認めないと
いうことでしょうか?
672で言われているように雑多な列であったと言うことでしょうか。
つまり、
意識的に列を作るのではなく、無意識の列であるということですか。
>下級指揮官「おい、長槍持ってる奴前出ろ」
この掛け声でできた列、そこに訓練なしでの行動が可能のようには
私は思えません。
隊列は相手側を包囲するのに有効であり、雑多な列で可能のようには
思えません。
夜襲に関してですが隊列が組める場所があり、なおかつ近くに森などの
場所がある所では相手が隊列で攻める場所にわざわざ野営しないでしょう。
それに日本での戦闘における山間部の比率が高いので自ずと奇襲は、こういう
個所で行われることが多いと思います。
やはり、この部分に答えてください。
>>682 >図屏風の民・朝鮮軍は密集した方陣や逆三角陣を採っており
>>689 >この時、山上に展開した日本救援軍と対峙した連合軍は太和江(凍結)と平地を挟んだ丘陵の裾野に展開しています。
つまり、明・朝鮮軍が狙った作戦を可能、適当であるとあなたが判断しているならば
私が判断していることも可能、適当であると思います。
日本側で長槍などで20×3などで(片方が相手を追い込む際も、両方のぶつかり合いも)
戦うことが絶対にないならば隊列を使った戦闘はなかったと私もそう判断します。
大久保彦左衛門ですがそれは大久保が参加した(自分が属している組織が行った)戦闘しか
カバーしていないのでは?
田んぼについてはその時代に田んぼかどうかを調べる必要があります。
714 :
名無し三等兵:04/12/28 17:37:44 ID:IHk4/xS+
>隊列は相手側を包囲するのに有効であり、雑多な列で可能のようには
>思えません。
日本の場合、あくまで一時的な抑えにのみ列が任意に組まれていたと考えてます。
そしてそれは組んでる間は殆どその場から動かなかったでしょう。
それならば大した訓練は必要としません。
>夜襲に関してですが隊列が組める場所があり、なおかつ近くに森などの
>場所がある所では相手が隊列で攻める場所にわざわざ野営しないでしょう。
>それに日本での戦闘における山間部の比率が高いので自ずと奇襲は、こういう
>個所で行われることが多いと思います。
ならば全ての戦闘が隊列を組まない方が良い事になりませんか?
>つまり、明・朝鮮軍が狙った作戦を可能、適当であるとあなたが判断しているならば
>私が判断していることも可能、適当であると思います。
明・朝鮮軍は少なくともそう判断したのでしょう。
>日本側で長槍などで20×3などで(片方が相手を追い込む際も、両方のぶつかり合いも)
>戦うことが絶対にないならば隊列を使った戦闘はなかったと私もそう判断します。
まずありませんね。
日本の国土を見る限り、その様な戦闘が可能な土地より不可能な土地の方が断然多いですし、
その様な見栄えのする戦闘をしたという記録は書物にも絵にも一切ありません。
>大久保彦左衛門ですがそれは大久保が参加した(自分が属している組織が行った)戦闘しか
>カバーしていないのでは?
>田んぼについてはその時代に田んぼかどうかを調べる必要があります。
徳川軍が当時、平野の多い方である東海道を中心に戦闘していた事をお忘れなく。
715 :
○V○:04/12/28 17:55:47 ID:???
イタリア半島北部は山岳地帯ですが、イタリア戦争ではフランス軍もスペイン軍も
隊列を組んで戦っていますね
しかもこの戦争の経験がテルシオ編成の一因になっていますね
重槍兵密集陣で勇名を馳せたスイスは確か山岳地帯だったはずです
地域の地形的特性と戦闘隊列の確立には因果関係はないようですね
絶海の小島ならともかく
716 :
○V○:04/12/28 18:01:34 ID:???
無線機もない時代に山や森林の中では組織的戦闘は不可能です
理由は、単純に指揮官が部隊を掌握できないからという一点に尽きます
ですから、野戦は専ら主要な街道沿いの平地で行われました
やむを得ず山の中や森の中で戦う際には、指揮官が余程の小部隊でもなければ
部隊を掌握できるように戦場を道路沿いや林縁に選定しました
兵力が大きければ大きいほどこの傾向は強いと言えるでしょう
717 :
○V○:04/12/28 18:14:29 ID:???
そもそも足軽の長柄槍は隊列を組んで使用することを前提としている兵器です
あんな6メートルもある棒高跳びの棒のような槍を一人一人てんでばらばらに振り回しても
隣や後ろの味方の頭をぶん殴るのが関の山でしょう
>>715 ああ、私日本人ですから山には森があるとばっかし思い込んでました。
そういえばスイスやイタリア北部、そういえばギリシャの山もそれほど
樹木は生えてませんでしたね、すみません。
>>716 戦闘機動として森の突破は頻繁に行なわれてました。
後、山上の陣地から降りて戦闘加入も良く有りましたね。
散兵の場合、指揮官はあまり言うことはありません。
現場で大抵の事を済ましてしまうからです。
>>717 これがFAでないかい?
隊列(のようなもの)を組まないと使用不可能な兵器を使っている以上、
隊列(のようなもの)を組んだのは、確実だろう。
720 :
○V○:04/12/28 19:23:10 ID:???
721 :
○V○:04/12/28 19:26:34 ID:???
>戦闘機動として森の突破は頻繁に行なわれてました。
少数の兵力ならともかく、備単位でそのようなことをしたようなケースは聞いたことがありませんが
>後、山上の陣地から降りて戦闘加入も良く有りましたね。
小高い丘から押し出したようなケースなら幾らでもありますが、山の上からというケースも利いたことありませんが
722 :
○V○:04/12/28 19:34:49 ID:???
>散兵の場合、指揮官はあまり言うことはありません。
幾らでもありますよ
攻撃目標や攻撃方向、進退のタイミング等々、散兵ならばこそ指揮官の仕事の量は多いでしょうね
しかも錯雑した地形ではそれが徹底しているかどうかの確認だけでも一苦労でしょうね
723 :
○V○:04/12/28 19:43:47 ID:???
ああ、山の上からと言えば妻女山がありましたね
でもあれが戦闘加入と言えるかどうか・・・
どなたか軍の索敵について当時の日本と西洋の違いを教えてください。
忍者やスカウトやレンジャー軍システムにおいて果たす役割とその位置付けなど。
>>711 日本の足軽は、軽装歩兵というには、かなりの重武装ですが。
大和朝廷時代の短甲などの武装も、相当重武装ですよ。
>>719 それが必要とされる時だけ組めばいいんです。
>>720 イタリア・ギリシャは地中海性気候で乾燥が激しく、
スイスは亜寒帯湿潤気候で居住地は殆どが草地です。
観光名所的な写真を挙げられても・・・
>>721 三増峠の戦いや碧蹄館の戦いが挙げられます。
後、賎ケ岳の戦いも入れていいでしょう。
関が原の小早川軍はお忘れですか?
後、山崎合戦の中川清秀隊もそうですね。
>>722 挙げられたうち前2つは事前命令ですし、後一つはたとえ錯雑した地形でも
前線近くにいればよいのでは?
>>714 あのー、ですね。
日本では隊列をくんで戦闘することが不可能な地形がほとんどだと
おっしゃってますよね。
1万人の兵士が隊列をくんだ場合、どれくらいの規模になるか
御存じでいってるんですか?
かりにそのうちの3000人が槍組としたとして、
300列×10列ですが。
300列が密集しているとしたら、たかだか300メートル程度の
隊列になりますけど。
その程度の平地もないほど、日本は奥まったジャングルや
山岳に囲まれているんですか?そうおっしゃっているとしか
思えませんが?
たとえば関ヶ原などに実際いったことはおありでしょうか。
死ぬほど広いですけど。
数万の歩兵が展開しても余裕があります。
たんぼがそもそも障害地形とは思えません。ふつうに歩けます。
その意味では、まず日本が隊列戦闘をおこなわなかった根拠に
なりえません。
それから、夜襲について。
当然日本は夜襲をお家芸としていましたから、当然警戒するでしょう。
夜襲は隊列を組まないでしょう。
が、昼間の戦いでもそうしなければいけない理由は皆無ですが?
>>714 それから、ひとつひとつ細かいことつっこみますけど。
貴方の根拠をもうすこし明確に教えてください。
まず、隊列戦闘はなかったと称する根拠の、「人から聞いた話」
はまず誰なのか。なぜ、屏風だけからそこまで話を広げようとするのか?
同じ屏風でいいなら、隊列をくんでどうどうとした横隊を展開している
屏風も腐るほどありますが?
それから、<統べての戦闘で隊列を組まないほうがよいことに
なりませんか?
意味不明です。山間部であっても、こちらがしっかりとした
小さな隊列でもいいからつくっていれば、攻撃は至難になりますが。
あと、日本の国土については上記を参照してください。
あなたは日本の国土を歩き回ったことがないひとなのか?
どこかの書物に「日本は山岳がおおく、密集した陣にむかない」
というような記述があるのをウのみにしているのでは?
>日本の場合、あくまで一時的な抑えにのみ列が任意に組まれていたと考えてます。
>そしてそれは組んでる間は殆どその場から動かなかったでしょう。
>それならば大した訓練は必要としません。
防御の時や相手を囲んだ場合の任意の隊列の訓練はあったと判断しています。
そうでなければ雑兵物語は書かれないでしょう。
前の書き込みに操典や教範の有無を根拠に上げていましたが、
それは必ずしも決定打にはなりえないと思います。
理由は口伝による隊形などが多いからです。また、戦術も。世界各地で。
そのため私は操典や教範の有無で結論を言うのは根拠に欠けると思います。
欧州の武器教範に隊列が語られていることに武器の発達による
隊列が垣間見られる気がします。
密集自信は14世紀あたりでのギリシア・ローマの陣の再発見ですが。
>ならば全ての戦闘が隊列を組まない方が良い事になりませんか?
この個所はまったくもって意味が分かりません。なぜそう判断するのか。
野営、宿営は歩哨などがいることが前提で書いています。
隊列(陣形)を組んでの野営というのはそうせざるをえない地形に
おいてで、部隊を隠す場所を探すのは当然やっていたでしょう。
>見栄えのする戦闘
そういうことを論議しているわけではありません。
見栄えがするのかしないのかは個人の感想になりますが、戦国武将が
それが見栄えのする戦闘かどうか、どう考えているかは解りませんね。な、
>日本の国土を見る限り、その様な戦闘が可能な土地より不可能な土地の方が断然多い
当然そうですが。
>土地の方が断然多いですし
「ですし」というのでそれが理由であると判断して、
あなたが上げたウルサンでは右脇軍約一万が隊列を組んでいたんですよ。
ウルサン全域ではなくウルサン城付近の個所で十分配置可能なわけですよ。
長槍などで20×3でも四車線道路で十分すぎるでしょう。
>戦闘が可能な土地より不可能な土地の方が断然多い
これは大きな視点で見過ぎで、現在の県庁所在地などでの平野で
一万対一万などは余裕できると思います。
館や平山の攻城での後詰めなどは平野部での戦闘です。
後詰め部隊が包囲している側を蜂矢などで激突しています。
>平野の多い方である東海道を中心に戦闘していた事をお忘れなく。
忘れていません。三河物語ですかね。
大久保彦左衛門が言うところのその手の戦いは万対万の大軍同士の戦闘に
ついて言っていると私は解釈していましたよ。ほとんど内容を覚えていないので
今は無理でもいずれ読みます。
しかしながら、やはりその言っているところは徳川の合戦であり、
徳川が絡んでいない北条、武田、上杉、佐竹などの関東の
諸大名同士の戦闘を含んでないでしょう。
731 :
○V○:04/12/28 22:12:12 ID:???
>観光名所的な写真を挙げられても・・・
やれやれ、わざわざそれぞれの主要都市の郊外の写真を挙げたんですが
特にイタリアの写真はカッサロ峠
トスカナ防衛の一翼を担うカッサロ要塞の近くなんですけど
732 :
○V○:04/12/28 22:32:26 ID:???
>三増峠の戦いや碧蹄館の戦いが挙げられます。
>後、賎ケ岳の戦いも入れていいでしょう。
>関が原の小早川軍はお忘れですか?
>後、山崎合戦の中川清秀隊もそうですね。
三増峠の戦闘は主に道路沿いで行われてます
山県勢の進軍ルートである韮尾根〜志田峠も道路沿いです
それに碧蹄館は森林地帯ではありません
賎ケ岳でも森林地帯を踏破した事例は聞いたことがありませんね
秀吉勢の岐阜〜近江木之本の反転機動も道路上を進軍してますし
関が原の小早川勢の松尾山は平地に接する小高い丘陵でしかありませんし、
小早川勢は松尾山から下りて戦闘展開してます
松尾山からいきなり戦闘加入したわけではありません
山崎合戦の中川勢は天王山に布陣していましたが、別に道なき道を踏破して布陣したわけではありません
>挙げられたうち前2つは事前命令ですし、
事前に細部まで徹底することは無理です
当時は正確な地図すらないのに・・・・
>前線近くにいればよいのでは?
前線にいたって地形が錯雑して状況も把握できず、部隊がどう展開しているかも解らないんですが
田んぼについてはあまり詳しくないので間違いがあると思いますが
思うところを書きます。
田んぼの水田ですが私は歩いて1分で水田があるのですが
水を引き稲を植えます、それから秋の収穫時あたりでは
水はからからで土にはヒビが入っています。
稲を刈った後は平面になっているんですよ。
冬、春ではそこでキャッチボールしたりしています。
また、近所の猫が横断しています。
冬あたりでは野菜を育ててる畑ぐたいですかね、
表面に柔らかい土があります。
春あたりは雑草が生え草原っぽくなっています。
グーグル画像検索、刈り取りで参考画像
ttp://www.himawari.ed.jp/matsugaeminami_e/5-KOMEDUKURI15.htm 収穫期前から3月ぐらいまで田んぼでは余裕で戦闘できると判断しています。
農閑期に兵を集めて合戦をするのは農民の余剰した分と田んぼが
障害にほとんどならないことなど理に適います。
机上数学論は無視して・・・(2万か3万でまともな戦術機動もできなくなる
主戦域2キロの関ヶ原を広いとは・・・)
口伝で戦術・隊形が伝わったという論は理解できません。
更にその事が文章に一切残らなかったのはそれ以上に理解できません。
平地戦の少なさ(川を挟んだ戦いを除けば三方ヶ原ぐらい)、それに仮に
冬の田んぼでもあぜに水路に足を取られる。
仮に隘路を固めても隊列を作らず迂回すればお終い。
地図が無い?村のものを雇い道案内させれば良い。
指揮に問題がある?当時は迂回に成功すれば勝つ。
行軍隊形から戦列を組むまでに敵は待ってはくれない。
戦闘開始後にそんな事する馬鹿はいない。
>戦闘機動として森の突破は頻繁に行なわれてました。
森林では戦略機動も何も無い。
足が埋まる腐葉土や足に絡みつく藪の中そんなに素早く軍を動かせるものでは
有りませんよ。
>机上数学論は無視して・・・
あなたのことですな。
>だから隊列を組まないんですけどね
隊列を組むか組まないかの問題ではない。
足が埋まる所や藪を掻き分けながら進むのを隊列を組まないですすむと、踏み
固められた地面の上、つまり街道沿いを歩くより早いとおっしゃるのですか。
また、山中、森林の古道は地形等の踏破しやすい所を通っているものです。
>>737 歩きやすい所を固められてるからこそ迂回するのですが?
>歩きやすい所を固められてるからこそ迂回するのですが?
歩きにくい所を進むと相手より早く行動できるのですか?
戦略機動が実現できると思いますか?
740 :
○V○:04/12/28 23:32:54 ID:???
>仮に隘路を固めても隊列を作らず迂回すればお終い。
道路も無いところを地図もコンパスも無線機も無く踏破しようとしたら迷子になりますよ
>村のものを雇い道案内させれば良い。
またそういう根拠の無いことを・・・
周囲の地形を熟知した村人がいつもいるわけじゃありません
そもそも当時の村民の行動半径なんてそんなに広くありません
村と自分の田畑を除けば近くの市への道路とか周囲の山菜くらいです
>行軍隊形から戦列を組むまでに敵は待ってはくれない。
だから軍隊は主力の前方に前衛を配するのです
山崎合戦の中川勢がその好例ですね
>>739 相手を前面に拘置し、その間戦列が移動できない狭隘地の左右を迂回すれば包囲可能。
碧蹄館の戦い。
742 :
○V○:04/12/28 23:36:00 ID:???
戦略機動と言うからには、そこには容易かつ迅速に移動できるよう道路があり、橋が架けられ、
補給のための物資集積所があり、情報伝達のための伝令もいなければなりません
さて、道も無い森林や山で戦略機動が可能でしょうか?
>>740 前衛は戦列を組んで山を降りられるとでも?
そして渡河しても戦列は崩れないとでも?
744 :
○V○:04/12/28 23:37:23 ID:???
碧蹄館は迂回挟撃ではありませんよ
むしろあれは伏撃に近いと言えます
746 :
○V○:04/12/28 23:38:22 ID:???
>前衛は戦列を組んで山を降りられるとでも?
>そして渡河しても戦列は崩れないとでも?
誰がそんなことを言いました?
>>744 いいえ、挟撃です。
>>746 前衛云々は?
渡河云々は言ってませんでしたね、すいません。
748 :
○V○:04/12/28 23:42:07 ID:???
中近世のヨーロッパもそうですが、一般に軍隊は移動する際は行進隊形、
戦闘の際は戦闘隊形で行動するのが普通です
スペインのテルシオは行進隊形から戦闘隊形に移行するのに数時間から時には丸一日かかったと
言われています
勿論その時に敵の奇襲を受けないような措置が講じられています
749 :
○V○:04/12/28 23:44:18 ID:???
>前衛云々は?
中川勢は秀吉軍主力の前衛として天王山に布陣していますが?
別に戦列を組んだまま山を下りる必要はどこにもありません
>>749 それで、天王山を降りて戦列を組み終わるまで相手が待つと?
後、戦列組んだまま渡河はできないでしょう。
751 :
○V○:04/12/28 23:51:34 ID:???
>それで、天王山を降りて戦列を組み終わるまで相手が待つと?
何故わざわざ主力が到着する前に天王山を下りる必要があるのですか?
>後、戦列組んだまま渡河はできないでしょう。
何故戦列を組んだまま渡河する必要が?
>口伝で戦術・隊形が伝わったという論は理解できません。
>更にその事が文章に一切残らなかったのはそれ以上に理解できません。
私は知っていますし、理解できます。論ではありません。事実です。
イギリスなどの植民地会得の際のいろいろな文明レベルの部族との戦闘では
伝統的な陣と隊列があったのですよ。
「隊列を組め」という言葉ではなく、動物や山や川の名前を言えばその布陣が
行われました。
概ね、包囲に向かう陣です。陽動的なものもあります。
その部族ではそのイギリスとの戦闘も口伝です。
世界大戦後に文になったのも多いのですよ。
>冬の田んぼでもあぜに水路に足を取られる。
あぜに足を取られるものも出てきますが、棚田でなければ問題ありません。
水路はどのようにあるのですか?迷路のようにあるのですか?
大規模な田んぼでも田んぼを囲むように、外側に大きな水路があるのですよ。
農作業の邪魔にならないように端っこにあるわけですよ。
道と平行するということは兵士は知っているでしょう。
>机上数学論は無視して・・・(2万か3万でまともな戦術機動もできなくなる
>主戦域2キロの関ヶ原を広いとは・・・)
ウルサンでの数字上げましたが?城を囲む兵力は5万七千。
城右側にいたのが約一万で隊列を組んだ絵を資料にあなたが上げている。
その右脇軍は約一万の鍋島の援軍と長宗我部の左脇軍を狙った攻撃部隊で
戦闘開始されました。現実にそういった範囲で展開配置可能です。
>2万か3万でまともな戦術機動
十分です。十分できます。4万、5万でナポレオンはエジプト遠征しました。
戦当時には2、3万を率いた。イギリスとの戦闘でも2、3万です。
オーストリアとの戦闘でも2、3万でのぶつかり合いが多くありました。
2万か3万でまともな戦闘(戦術機動)は幅広く行われています。
753 :
○V○:04/12/28 23:54:31 ID:???
まあ上のほうでも書きましたが、長柄槍を持ってるのに隊列を組まないで戦うほうが
非合理的なんですけどね
>>751 先陣争いのため、そしてそのまま戦闘開始。
ちゃんと経過を知ってるのですか?
渡河してすぐ戦ったり、川の中で戦ったりしてますから。
葦の中を行軍もしてますね。
755 :
○V○:04/12/28 23:58:32 ID:???
>先陣争いのため、そしてそのまま戦闘開始。
>ちゃんと経過を知ってるのですか?
中川勢が下山したのは主力が到着して展開が終わった後ですよ
>渡河してすぐ戦ったり、川の中で戦ったりしてますから。
成る程、敵前渡河のことを言ってたのですか
当然、遠岸に達着したら隊列を組んで戦ったでしょうね
>>752 なるほど日本はそのレベルの文化だと
迷路のようにあります。
あなたが言ってるのは2次大戦後では?
あの〜そこで私が言ったのは関ヶ原。
誰が蔚山の事と言いましたか?
757 :
○V○:04/12/29 00:01:33 ID:???
文化にレベルの高低などありませんよ
>>757 成文化しない文化と言い換えましょうか?
>>755 高山勢に張り合うため無断で降りて戦端が開きました。
そんな暇ありますか?
後、川中の戦闘は?
森林突破による迂回攻撃が不可能な事はお分かりいただけたようですね。
760 :
○V○:04/12/29 00:09:39 ID:???
>高山勢に張り合うため無断で降りて戦端が開きました。
はい、その時は既に秀吉軍の主力は戦場に着到していました
中川清秀は前衛としての任務は十分に果たしていたといえます
761 :
○V○:04/12/29 00:11:47 ID:???
まあいちいちマニュアルを書いたりしないのが日本の伝統ですからね
奉行所の大看板が好例ですね
>>759 >>741参照
狭隘地の左右は山地です。
>>760 それで、降りて直ぐに戦った中川勢は戦列を組む暇があったので。
>>761 そうですねならマニュアルの塊のような密集陣を組むはずがありませんね、日本では。
なにせ縦何人横何人としっかり決めなければならないのですから。
>なるほど日本はそのレベルの文化だと
どういう意味で文化を語っているのですか?
昔に孫子の兵法が入ってきていれば、源平関連の文献に鶴翼の陣の有効性や
運用について書いてあるのですよ。戦国時代は武家うんぬんでいくつかあります。
後北条家の朱印状には兵士の集合地域と隊列を組む作業を取り決めています。
江戸時代初期にまとめられた本では(甲陽軍艦など)敵地における陣立てが
書かれております。
欧州で武器における隊列戦闘を詳しく書いた教範で現存する
最古のものは15、16世紀あたりに書かれ、よく本の表紙になっています。
>迷路のようにあります。
>あなたが言ってるのは2次大戦後では?
まったく違います。あなた憶測でものを言っているでしょう。
解るように作られています。迷路のようにすればその田んぼの持ち主が
困りますからね。なんでわざわざ迷路にするんですか?
>あの〜そこで私が言ったのは関ヶ原。
>誰が蔚山の事と言いましたか?
安心してください。関ヶ原の1.5倍ぐらいでウルサンの戦闘は行われていますから、
暗算で計算できる範囲です。
変換して適用できますよ。
764 :
○V○:04/12/29 00:21:59 ID:???
>それで、降りて直ぐに戦った中川勢は戦列を組む暇があったので。
隊列を組む暇が無かったと考える根拠がありません
>そうですねならマニュアルの塊のような密集陣を組むはずがありませんね、日本では。
その考えは非論理的です
>>762 それと密集陣のマニュアルの名前を教えて下さい。
あのう、誰が誰だかわからなくなるので、
日本戦国時代では、隊列戦闘をくまず、すべての部隊が雑然とした
軽装歩兵の適当な集団だったと論じておられる方は捨てハンでも
何でもいいから、つけてください。
論がますます混乱します。ただでさえ隊列がなかったとの根拠が
意味不明な人から聞いた話と、変な屏風だけなんですから。
川中島の戦いでの車がりの陣はうそっぱちです。
日本は隊列戦闘はしません。
魚燐も鶴翼もありません。
768 :
767:04/12/29 00:34:14 ID:???
孫子などというマニュアルに頼るへたれ中国人とは違います。
769 :
762:04/12/29 00:35:57 ID:???
>>763 行軍列と一緒くたにしない事。
>欧州で武器における隊列戦闘を詳しく書いた教範で現存する
>最古のものは15、16世紀あたりに書かれ、よく本の表紙になっています。
そういったものが日本に無いのが日本の文化と言う事ですか?
少しづつ広げて行った場合、迷路のような構造になってしまいます。
したくないですね。
戦闘状況が全然違いますから。
>>765 あなたが挙げた本の表紙を見たらどうですか?
というより、基本的に日本では江戸時代をはさんでいるわけですから、
集団での戦闘の教本というのは失われてるんじゃないですか?
ほとんどのものは。
屏風とかは残っていますけど、戦国末期などにかかれたものは、
だいたいきちんとした横隊型の陣型をしいている屏風がほとんど
だと思うんですけど。
時代をくだって、江戸期の屏風になると、なぜか大袖のついた
きらびやかな色々威の大鎧をつけた武士たちが一騎うちのような
たたかいかたをする合戦絵巻などが多く描かれるようになりますけど。
762さんは670さんでしょうか?
>行軍列と一緒くたにしない事。
行軍列ではありませんよ。持っている武器ごとに部隊分けした書状が
後北条氏にあるし、運用されたということは事実です。
>そういったものが日本に無いのが日本の文化と言う事ですか?
あなたの解釈方向がおかしいですよ?
その本は絵つきの武器取り扱いからその武器による隊列を書いたもので
日本の文化うんぬんと関連づけした話しではありません。
752、756のやりとりで相手の揚げ足取り程度にしか読まず
まったく意味を別物にもっていくから説明したのです。
合戦の真相について論ずるスレッドなわけで人から聞いた話しを根拠なしで
語られてもまったく意味をなさないからです。
>少しづつ広げて行った場合、迷路のような構造になってしまいます。
なりません。田んぼで作業をしたことがない人ならば迷路のように誤解しますが
農民を徴兵しているし、戦場にもなる個所で経験的にしっていると思われます。
>あなたが挙げた本の表紙を見たらどうですか?
あなたの根拠を聞いているのですよ。
私が上げたのは武器と隊列の関係の本。
あなたの根拠を言わないと誰も解りませんよ。
772 :
675:04/12/29 01:24:25 ID:???
ちょっと論が混乱してきてますね。一度整理してみませんか?
隊列が戦国日本になかったと論じる人が複数いるのか、それとも
お一人でがんばっておられるのかはわかりませんが。
漏れは隊列存在論の側です。
根拠は、戦国末期から江戸初期の屏風にはきっちりと横隊を
しいた陣型がえがかれていること。
雑兵物語をよんでも、明らかに数槍で隊列をしいて、組織的に
戦ったとしか読み取れない記述があること。
それから、やはり隊列というのは有効であると考えるからです。
欧米のような時間のかかる全員がひとつの方形陣になるような
テルシオ型の陣はなかったと思いますがね。
773 :
↑:04/12/29 01:38:46 ID:???
「漏れ」って何ですか?何が漏れたんですか?
隊列という言葉のイメージそのものが食い違ってるような気もするけどね。
おそらく隊列否定派の隊列とは比較的大規模な戦闘単位での統一的な陣形構築を指して
そんなものはなかったといってるんだろうし、隊列肯定派の隊列というのは
小規模な戦闘単位の組織的な人員配置(槍衾)とその総体としての横列構成があったと
いうことなんだろう。
>>774 ただ否定派の人は、なんか隊列自体がなかった派のような
気がするんだけど。
隊列を組まなければ部隊の迅速な移動ができる。
あなた達にはなぜそれが判らないのですか?
>>733 まあ田に足をとられて相手の数倍の軍勢を持ちながら総大将が首を獲られた
戦いも有るんだけどな。
そうだ田んぼのあぜ道最強。
石垣も掘りも要りません。
田んぼのあぜ道と用水路こそが最大の要害。
田んぼを防御に使えば世界最強!
ここで戦国時代の日本では陣形や隊形を組んでの戦術行動が無かったと
主張している人達は、数千人単位で密集して四角形を組まなければ
陣形や隊形とは認めないと言ってるんじゃない?
むしろ、大人数の密集四角隊形が見られなかったこと自体が
陣形や隊形を組んでの戦術行動が頻繁に行われた証拠だと思うのだが・・・。
つーか、隊列否定派ってたった一人で必死で揚げ足取りしてるようにしか見えないんだが。
まあ戦国時代の日本の軍隊は隊列を組んで戦ってたと結論出してもよいかと。
長柄鑓への反論も無いことだし。
槍衾って言葉もあるくらいだし、隊列を組まなかったってのは言いすぎかと。
確かに同時期のテルシオなんかに比べると、重厚さに欠けるイメージもあるけど。
>>776 大人数の移動ってみたことないでしょう?
ばらばらに勝手に移動してたら、とてもじゃないけど
全体を掌握できないし、ばらばらについたりするから、余計時間
かかる。
ベストはちゃんと行進隊形にして、ぞろぞろ歩くこと。
でないと、部隊の機動はできない。
ちなみに、戦闘隊形と、行軍隊形の違いくらいは御存じですよね?
貴方の言い分だと、行軍するときすら隊列を組まない方向に
なってません?
>>781 ただ、テルシオは陣型を組むのにやたらめったら時間かかるし。
重厚さはあっても、行動ものろいですよ。
それよりは、横隊と縦隊をくみあわせて、柔軟に動かしたほうが
よいと思うけど。
それこそ、陣型をくんでいる間の死節点に襲撃されたら、目も
あてられない。
戦国日本は、どうどうとお互い名乗りをあげて陣型をくんで、
おもむろに戦闘するような感じじゃなく、奇襲や襲撃も併用
されてたと思われる。
いちど陣型をくんでしまえば、ばらばらの襲撃は阻止できると
思いますけどね。
ばかやろなかやろ。
たんぼのあぜ道越えようとした奴全員ばたばたと倒れてそこを奇襲されんだ。
たんぼでころんだことのないお前らに口答えする権利はないんだよ。
日本軍も田んぼを盾に米軍と戦うべきだった。
米兵があぜ道でばたばたと倒れたところを銃剣でさせば100戦100勝間違いなし。
786 :
762:04/12/29 19:02:14 ID:???
恒常的に隊列を組んだと言われる雑兵物語の箇所を教えていただきたいのですが。
後、黒田家の夏の陣屏風では集団から駆けでて列を成し、槍戦や鉄砲戦を行う様子が書かれてます。
他の図屏風も駆け込んで槍戦を行っています。
更には記録には「駆けつつ云々」と走りながら戦闘を行ったという記述が多くありますが、そのような事が
列を崩してはいけない、隊列に可能でしょうか?
えっと
隊列太郎と田んぼ太郎の爆誕ですか?
隊列が無い方が実戦では強いことが証明できたようですね。
789 :
名無し三等兵:04/12/29 21:19:17 ID:UkHDVD5b
「隊列を組む訓練はしてただろうがそれを欧州的な規模で使うことはなかった」ぐらいだろ。
>>786 雑兵物語は読んだことないけど、それは雑兵が隊列を組んだ上でその後ろから
遊撃隊的に飛び出したとか、敵の槍衾がやや崩れた時とか、あるいは追撃戦とかの状況ではない?
わかんないけどさ。
791 :
少佐:04/12/29 22:29:01 ID:qp2Sdld4
ここで考えるべきことがある。
昔の人は江戸時代の「飛脚」なんかを考えたら解るように、現代人では考えられない
身体能力を持っていたという点だ。
武器が石ころ、弓矢、槍、棍棒、日本刀、火縄銃程度の今から見たら貧弱な武器でも、
身体能力が現在とは全然違うとしたら我々の想像を超えた戦いであったことは言うまでもない。
792 :
少佐:04/12/29 23:04:23 ID:qp2Sdld4
火縄銃にしてもその貧弱なスペックから言えば、これが有効な武器として機能する
には「ゴルゴ13」並の射撃手が大量にいなければ不可能だ。
そうでなければただバーンと大きい音を出して敵を威嚇するだけの道具になる。
>>791 >「飛脚」なんかを考えたら解るように、現代人では考えられない身体能力を持っていた
それは例外では?飛脚はまさに特殊な職なんだし、
彼らを基準にするという事は室伏を現代人の基準をするようなものではないかと思う。
>>792 弓もそうだが鉄砲も基本は制圧射撃がメインの用法だったので「敵を威嚇」できれば十分有効では?
別に雑兵物語には戦う時は穂先を揃えて叩いたり、馬が来た時は石突きを地面に突けて
対処すべしとは書かれてるが常に隊列を組めなどとは書いていない様に見えるが。
796 :
名無し三等兵:04/12/30 00:07:06 ID:gezEi405
>>795 > 別に雑兵物語には戦う時は穂先を揃えて叩いたり、馬が来た時は石突きを地面に突けて
> 対処すべしとは書かれてるが常に隊列を組めなどとは書いていない様に見えるが。
穂先を揃えて叩くためには隊列(基準ライン)がないとまずいでしょ
それとも文献に隊列≠ト言う言葉が無いとまずいの?
797 :
名無し三等兵:04/12/30 00:27:22 ID:UnDz2qeY
>>795 質問!
隊列(のようなもの)を組まないで、どうやって「穂先を揃える」のですか?
もしかして、隊列を組まないでバラバラの状態で、槍を持つ位置を変えて
穂先が揃うようにするのですか?
隊列を組むよりも、面倒くさいとしか思えないのですが・・・?
>>795 敵が来ると集団から長槍を持つ者達が前進し列を成す。
列を恒常的に形成したという記録がない以上、こういった考えを否定
するのは難しいと思われますが?
細かい話と大きな話が一緒くたになっていると思うのです。
戦場全体を見回して隊列というか陣形を組んだかという話と
個々の部隊が列を作って戦闘したかという話が一緒になっているのでは。
源平の頃から、盾を並べて道を塞いで矢を放ったりしているので
列で戦うというのはあったと思います。
もっと原始的なのは、ヴァイキングのシールドウォールとか
でしょうか。小高いところに横一直線に盾持って並んで敵を迎えるって
奴です。
問題点は指揮系統かと。
つまり兵科ごとに独立した編成なのかそれともいくつかの兵科
を集成して1つの小部隊を構築していたのか?
前者は隊列戦闘、後者は散兵と考えられるかと思います。
一見して後者のほうが柔軟性があるのですがこれには大きな
問題があり、それは指揮統制という事になります。
つまりばらばらで戦っていては状況が掴めずバラバラになって
しまう恐れがあるのです。
これに対処するために編み出されたのが旗指物です。
これにより各級指揮官は旗や馬印で部下や上官の位置、引いて
は自部隊の現在地を確認でき、また雑兵も上官の旗指物や馬印
を覚える事ではぐれる事を防いだと考える事ができます。
ちなみに下級指揮官に奇抜な指物が多いのも、宣伝する為だけで
でなく部下や上官に自隊の位置を明確にさせ戦闘指揮を円滑に行
う為とも取れます。
>>800 戦国時代では家単位、領単位の集団が集まって軍になるのだから「兵科ごとに独立した編成」にはなりようがないのでは?
(後期の織田軍は例外)
>798
>敵が来ると集団から長槍を持つ者達が前進し列を成す。
ちょっと興味深い文献があるので紹介するよ。
兵刃極犀利。裸軆赴鬪。慣舞雙刀。輕?跳躍。以寡勝衆。長于歩戰。?于水陣。
精于刀法鳥銃。而疏于鎗弓。至劫營設伏。華人輒墮其術。
これは、朝鮮戦役に関する朝鮮の史書「再造藩邦志」に記されている
日本軍の戦闘スタイルなんだけど、注目すべきは「精于刀法鳥銃。而疏于鎗弓」
というところ。
剣術と鉄砲で戦うことに長けているが、槍と弓で戦うことは殆ど無いと記録している。
もし、弓と槍が含まれている混成部隊が一線に展開していたとしたら
こういう文句は書かれていない筈だが。
自(朝鮮)軍との武器の比較と私は見ますが・・・。
私としては
輕?跳躍。以寡勝衆。
駆け回り、寡兵で勝つ。
ここに散兵戦術を見る事ができると思います。
朝鮮戦役は戦国末期で、織田タイプの寄親-寄子から兵科ごとに分離集中運用するタイプ編成に切り替わってますからね。
日本軍の典型的な戦い方は、まず飛び道具で仕掛けて、
それによって敵の陣形が崩れたら白兵攻撃と切り替わるので、
鉄砲と刀に長けているという記述は納得いくものです。
長柄というか長槍は陣形を支えるための防衛的な運用というのが基本なので
あまり活躍する場がなかったのでしょう。
弓隊はこの頃は鉄砲隊の補助部隊なので少なくて当然ということで。
(それでも全軍の2パーセントぐらいをしめてたらしい)
805 :
少佐:04/12/30 21:46:15 ID:B7+vAiZC
有名な豊臣秀吉の大阪帰りの話なんかあるだろ?
あの話から察するに当時の人はみんな「飛脚」並の脚力があったんじゃないか?
身体能力は現代人とはまるで違うものとして考える必要があるんじゃないか?
まあ矢張り議論が錯綜してるわけですが、とりあえず今のところまでで分かっていることから結論を。
>>804 日本軍の散兵戦術に関する家単位、領単位の奇抜な指揮系統というか陣形を成す、
隊列(のようなもの)を揃えて叩くためには隊列(基準ライン)有効な武器として機能する上で
その後ろから遊撃隊的に戦闘を行ったという記述が多くありますが、ばらばらの襲撃は部隊の機動はできない。
槍衾って言葉もあるくらいだし、日本の軍隊は隊列を組んで大人数の防御に足をとられて
隊列自体が戦国日本になかったとした書状が戦国末期などに現存すると言う事ですか?
川中島の戦いでの部隊が密集陣の非論理的憶測で、降りて直ぐに戦場に着到し不可能な川中の戦闘、
敵前渡河、葦の中を行軍(戦術機動)は幅広く行われています。
4万、5万で戦列を組んだまま天王山を降りて秀吉軍主力の前衛として移動する際は
前衛云々、迂回挟撃しても戦列は容易かつ迅速に相手を前面に拘置し、周囲の地形を掻き分けながら
足が埋まる腐葉土や足に絡みつく藪の中迂回すれば障害にほとんどならないことなど理に適います。
それに郊外の諸大名同士の野営、宿営はなかったと称する理由はお忘れですか?
日本の足軽は、西洋の散兵のような戦闘機動として森の突破は隊列を組んで単純に隊列を組んで
長槍などで20×3などでカバーして相手側を包囲するのに有効であり、
隊列組んだ重装歩兵と戦列組んだ平原上で正面切って戦う戦闘はどれほどありましたか?
大久保彦左衛門は書物なり絵なりそれが何なのか聞いてから隊列またはそれに近いものの運用をして、
相手の突進をとめることのできる組と、密集した隊形による雑多な集団を、適当に展開すれば鑓列になるでしょう。
ただこれを隊列戦闘とは言えないと思いますが。
学生のデモ隊も、応変にある程度展開してきて、小隊システムの戦術の学生運動全盛期の、
デモ隊に近いのではないか。(若い人にはわかりにくいか?)
また戦闘速度も隊列戦闘に関してはそれこそ可能な限りその人たちが支援するというか、
めるためとりあえず山に登り、それぞれがある意味勝手に方陣や逆三角陣を展開しないと
効果をあげるのは難しいですよね。
うーん、若い人にはわかりにくいか?
わかりにくいのは若い人に限らんと思うぞ。
自動翻訳機にかけたような日本語だ。
すいません、ちょっとだけわかりにくかったですね、要するに、
>>807 日本では、平安時代から近代以前はあまり野戦でも堅固な武装集団をまとめる戦が
ほぼ無くなって、元足軽だった人間が重要な参戦兵力、戦場での徒歩武者にも攻撃してくる
軍人としての身分とか格式、指示や規定制度についてもそれほど勉強してるわけでもなかったので、
騎馬武者数十騎を含んだ連中と迎撃し首を取り、精強な部隊と騎馬隊を中心に、数人の侍と中間・下人
等の単一兵科での部隊運用は武田の主力となる武将の家臣団に直轄の単一兵科の編成が
まっとうな武士達と混在して、鉄砲隊と投げ焙烙の足軽、予備火縄による平地での戦国時代の
広大な草原を記録的勝利していったはず。
これらを全て合わせると最低でも1週間はかかる。
当時の輸送手段能力や道路事情では補給戦や領内通過の軍勢が徴発や継続的な補給を苦労して
はるばる領国の農産物を購入した場合でも部隊の規模や合戦の様相によって大きく違う。
軍需物資の中で商人・十分な兵糧を用意できないのが常態なら、我慢できなくなって水軍の戦いや、
鎧、兜は着けずに実際の戦術をしのいだにしても、せめて2〜3日は足軽の被害を少なくして
主力武器は投石三段撃ちで遠くから罵声を浴びせたり敵に向かって槍をお互いに前に構えて
規律正しくピタリと前に出る。その者は勇気のある者とみなされ既に死んでいる家族等の村同士の
縁を切り離し、資料的価値が低い事が予測されるので、結局合戦の陣形・手順が無いと言う事らしい。
809 :
807:04/12/30 22:29:05 ID:???
…釣られた俺が馬鹿だった
うーん、若い人にはわかりにくいか?
>>800 後、兜の立物にも同じ事が言えるでしょう。
こうして見ると華美と言われた安土桃山文化もその底辺には徹底した合理主義を
見る事ができます。
兵科の集中はどの程度行われていたか・・・
私はその点一部の技能者集団としてのみ存在してたのではないかと考えています。
単一兵科部隊は記録を見ると大大名の直属部隊所謂、馬廻衆や旗本衆に所属しています。
これは維持の費用と封建体制(もっとも本来の封建制とはかなり変容してたでしょうが)上の
限界、そして小隊チーム編成の利点があったのではないでしょうか?
おそらくこれら単一兵科部隊は圧倒的な衝撃力を必要とされる状況に応じて合戦前に各部隊
へ派遣していたのではないのでしょうか?
>806>808
人間の読む文章じゃねえよ
>812 大名が従来の家臣団とは別に自分で技能者を抱え込んでいたということですね。
鉄砲の場合は、そういう集団が毛利家にあったと鉄砲関係の本で読んだ気がします。
でも、家臣が守る城に大名から鉄砲衆が来た場合、指揮と飯の世話はどうするん
でしょう。鉄砲衆に大将を付けて送り込むんだろうか。鉄砲衆を防衛態勢にどう
組み込むかも難問では?使わないとそれはそれで問題だけど、鉄砲衆から損害が
出すぎても問題になるでしょうし。鉄砲玉に火薬の手配も家臣のほうでするんだろうか。
>803
>私としては
>輕?跳躍。以寡勝衆。
>駆け回り、寡兵で勝つ。
>ここに散兵戦術を見る事ができると思います。
「輕?跳躍」と「以寡勝衆」は、切り離して考えるべきでしょう。
「輕?跳躍」は、日本兵の凄まじい敏捷さを説明する文句ですし
「以寡勝衆」は、少数の兵力で多数の敵に勝ってしまう日本軍の
強さを説明した文句ですから、散兵の証拠にはならないですね。
面白いのは「至劫營設伏。華人輒墮其術。」という文句です。
簡単に訳すれば、「陣営を威圧することと伏兵の設置には
中国人ですら、その術策に嵌まってしまう」という意味ですね。
事実、文献を調べれば日本軍の釣り野伏せや待ち伏せにかかって
朝鮮と明の部隊が壊滅した例を探すのは難しいことでは無いほど
日本軍は伏兵を多用しています。
>「輕?跳躍」は、日本兵の凄まじい敏捷さを説明する文句ですし
>「以寡勝衆」は、少数の兵力で多数の敵に勝ってしまう日本軍の
>強さを説明した文句ですから、散兵の証拠にはならないですね。
何故日本兵がそれを可能としたかを考えて見ると私は散兵に至る
と思うのですが。
別に日本人の方が体格に優れてるという事もないでしょうwし。
単に軽装(裸軆赴鬪)だから動きが敏捷だと言ってる可能性もあるわけで、
編成上の問題と即断するのはいかがなものかと
そういえば、コミケの一般参加者の行列はわずか一時間で10万人近くがあのビッグサイトの中に
入っていくんだよな。このあたりは隊列論争の参考にはならないかな?
文の書き方が五七五みたいに美文調に書かれている気がするので
その資料の細かい点にはちょっと疑いを持ったりしますがどうなんでしょうか。
>819 校庭に全生徒が朝礼で並ぶときを考えてみると千人が収まる面積は
そんなに広くないですね。でも、野外を歩く競技会などでは先頭が学校に
戻ってきてから最後尾が辿り着くまで5,6時間位は掛かりますね。
まあ矢張り当時の人は皆「飛脚」並の脚力があっただっただろうし
此の場合野外を歩く競技会などでは先頭が学校に
戻ってきてから最後尾が辿り着くまで1時間以内で着くだろうか
>>815 そこら辺はお互い持ち寄りで専門的なのはかなりを自分で持って来るでしょう。
指揮系統に関しては実に日本的なお互いに気を使う方式ではないかと、なにせ現代の
本社・支社とは違ってその気になれば支社は平気で寝返りますから。
後、黒鍬組や小普請組も工兵集団ですし、他にも伊賀者・砲兵隊等、専門兵種は殆どが
旗本衆に集中しています。
こうして見ると散兵諸兵科連合方式の大名級の戦闘部隊(連隊)と特科・専門兵種部隊で
ある旗本衆(司令部直轄部隊)といった高度なシステムが見て取れてくるのですが・・・。
824 :
名無し三等兵:05/01/02 13:21:11 ID:SCmNryLO
>>823 まあ、そうして見ると家康と秀忠の二人によって旗本衆が二分化された
関ヶ原や大阪の陣を見ると戦闘部隊は秀忠、特科・専門兵種部隊は
家康となって関ヶ原や大阪夏の陣の展開も色々類推できるのではないかと。
もちょっと時代とか地方とかを限定してもらえると分かりやすいですが
>>825 単純に戦国前期は散兵諸兵科連合方式のみ(武田なんかは金堀衆といった工兵部隊を有していたようだが)
で、全般的に一勢力の石高が増加した戦国後期、安土桃山になるにつれ
>>823の状況になって行ったかと。
827 :
名無し三等兵:05/01/03 15:41:01 ID:6862CuxT
あのー、陣形論争にすこし戻って申し訳ないのですが。
やはり陣形を使っていたとしかおもえません。ていうか、いちおう根拠
となりうる文献も探してきました。
柏書房から出ている「日本戦陣作法図鑑」に、陣形についてでています。
陣形否定派の方が否定しておられた鶴翼などについても載っています。
もちろんこの書籍は、一次資料をもとにつくられた二次資料ですが、
陣形の出所の一次資料についてもいくつかかいてあります。
ぱっと読んだだけなので、あれなのですが、「甲州軍鑑」をはじめ、
ちょっと書名の記憶があやしいですが、軍侍用なんとか、(今度確認して
きます)などがあげられています。
また、考えてみればそもそも大名行列などもあるわけで。
突然、江戸に出仕することになって「行列」というものを考え出した
とみるほうが不自然ですし。
戦国時代から行列というか、行軍という考え方があったと考える
ほうが自然だと思うのですが。
否定派の方は、どうお思いでしょうか?
828 :
名無し三等兵:05/01/03 15:43:24 ID:6862CuxT
ちなみに、その軍侍用…(たしか四文字の書物なのですが、
ちょっと名前を忘れてしまった…)には図入りで陣形について出ている
ようです。
さすがに一般では手に入りにくいかと思うので、そこまではまだ
読めていませんが。
できる範囲で探してみるつもりです。
829 :
名無し三等兵:05/01/03 15:47:39 ID:6862CuxT
ちなみに、その軍侍用…(たしか四文字の書物なのですが、
ちょっと名前を忘れてしまった…)には図入りで陣形について出ている
ようです。
さすがに一般では手に入りにくいかと思うので、そこまではまだ
読めていませんが。
できる範囲で探してみるつもりです。
831 :
827:05/01/03 18:31:48 ID:6862CuxT
あ、失礼。
もうダメダメですね、私。
ちなみに軍侍用集でした。
これで、陣形論争自体には、ひとまず決着がつくのではないでしょうか?
いちおう根拠のしっかりした資料が現れたということで。ちなみに
日本戦陣作法図鑑には、槍組による槍衾とか、いわゆる対騎兵の
シルトレン戦法と同じものも登場します。
鶴翼の陣とかあれは陣形ではないの?
「陣形ナイデスヨ派」の人たちの論拠には甲陽軍鑑などの兵法書のほとんどが、
江戸初期に軍学者が中国の兵法書を参考にしてまとめたものであるという説を採っているんですね。
つまり、兵法書に乗っている陣形は中国の兵法書に乗っているもので
日本にはそんなものは存在しなかったと。
たしかに「江戸初期に軍学者が中国の兵法書を参考にしてまとめたものである」というのは事実なんですよ。
でも何も中国の兵法書を参考にし始めた最初が江戸初期からというわけではなくて、
兵卒を率いた集団戦を行うようになった戦国期から参考にされ、実戦面で改良されていったわけで
やはりそれなりの陣形なんかがあったわけです。
後の兵法書はそうしてできた陣形を8つの基本にまとめてみました、というのが実際だと。
(当然まとめる際に中国の兵法書を参考にしている)
兵法書に乗っているのは真実ではないが丸っきりの架空でもないといったところだと思われます。
あの戦の時に取った陣形は後から考えるとアレだったなぁ、といった感じで。
そもそも日本人って知識より経験を重んじるから、マニュアル化なんてしないんだよな。
兵法書は戦が無くなって職にあぶれた人たちがそれなりの権威付けに作ったものという面もあるし。
結局一次資料はなしってこと?甲陽軍艦を信用にたる一次資料だとでも言うつもりですか?
つーか、隊列否定派は全長6〜7mの長柄槍を隊列も組まずに
どうやって使ってたと考えてるんだろう?
>>836 小単位の散兵集団が並ぶ事で前線を形成し、鑓が必要になるとそこの集団から
それぞれ鑓兵や鉄砲隊がが飛び出て一時的な列を形成、交戦するといった形を
想定しているのだが。
ちなみに考証元は大阪歴史博物館蔵、関ヶ原合戦図屏風や黒田家大阪夏の陣
図屏風よりの類推(どちらも江戸前期)。
陣形に関してはこの戦闘集団をどんな風に配置するかといった程度しか考えてな
いのではないかと。
838 :
○V○:05/01/03 22:50:32 ID:???
>小単位の散兵集団が並ぶ事で前線を形成し、鑓が必要になるとそこの集団から
>それぞれ鑓兵や鉄砲隊がが飛び出て一時的な列を形成、
混乱した戦場でそう都合よくいくものでしょうか
それなら最初から列を組んでおいたほうがいいのではないかと
それは小単位の散兵集団が連携して一時的な列を構成するってこと?
それとも小単位の散兵集団がばらばらに一時的な列を構成するの?
840 :
○V○:05/01/03 22:53:41 ID:???
ちなみに並んじゃったら散兵じゃないんですけど
>>837 屏風を考証元にするなら甲陽軍鑑を考証元にすることを否定して笑えないぞ
というか、両方ともいいかげん憶測でしかもの言って無いって気付けよ。
鬼の首とったようなこというから読んでみたけど、どこが『根拠となる文献』ですか?
個人的には
>>827の意見には賛同できるけど、ろくな根拠ないならもうちっとお互い意見尊重しろって。
>>838 それを言うな接触まで駆けながら隊列を維持できると考えるほうがよっぽど
都合が良いのではないかと
第一、混乱する状況(所謂乱戦)ならそれこそ散兵のままで突っ込むのでは。
徳川勢や夏の陣の真田勢は鉄砲だけで突撃したとも言いますし。
>>839 前者で「集団の中から鑓兵が」を加えて下さい。
行軍の隊列、どの家中をどの家中のあとに並べるかと、戦闘するときの隊形は
別だと思うので、大名行列があったからといって、戦闘するときに隊形を
とっていたとは限らないかと思います。
戦闘時に隊列を組むのが有利な戦場なら隊列を組むのではないかと。
源平の昔の弓軍は大盾を並べて陣地を作って矢を交わしたそうですし
道を塞ぐときも関所のようなものを盾などで作っているわけですから。
>というか、両方ともいいかげん憶測でしかもの言って無いって気付けよ。
『名前も覚えて無く、製作年代すらわからない屏風絵』と
『著者も判り、現存している文献の甲陽軍鑑』を同列に並べるって
お前、頭おかしいんじゃないの?
>827 >842
ジサクジエンご苦労さん。
>845
よく読め。自作自演じゃないぞ。
847 :
○V○:05/01/04 00:21:25 ID:???
>それを言うな接触まで駆けながら隊列を維持できると考えるほうがよっぽど
別に走る必要は無いでしょうね
駆け足をしなければならないのは突撃の最後の100メートル程度の躍進くらいです
>第一、混乱する状況(所謂乱戦)ならそれこそ散兵のままで突っ込むのでは。
混乱している状況だからこそ指揮官の部隊掌握が容易なように隊列を組むのですが
848 :
○V○:05/01/04 00:24:02 ID:???
ちなみに、関ヶ原合戦図屏風や黒田家大阪夏の陣図屏風のどこをどう見れば
散開した状態から槍足軽や鉄砲足軽が状況に応じて列を組んでいると考証できるのですか?
>>847 それを防ぎ散兵戦術を可能とする為に日本の戦国将兵は指物を指していたと思うのですが。
>>800を参照。
>>848 右隻、三扇、上から鉄砲隊・槍隊が集団から駆け出て交戦しているのが伺えます。
850 :
○V○:05/01/04 00:54:56 ID:???
>それを防ぎ散兵戦術を可能とする為に日本の戦国将兵は指物を指していたと思うのですが。
それはあなたの勝手な思い込みでしょう
武者で指物をしているのは組頭や足軽大将だけではありません
馬廻衆や一人働きの徒歩武者だって指物をしています
>右隻、三扇、上から鉄砲隊・槍隊が集団から駆け出て交戦しているのが伺えます。
申し訳ありませんが、散開状態から状況に応じて隊列を組んでいる様を描写しているとはとても思えないんですが・・・
>>849 なぜ、日本の戦国大名の旗指物があれほどのものになったかを
考えて見るのは重要だと思いますが。
別に馬廻衆や徒歩武者が指物を付けてるのはおかしいですか?
両者にも供や与騎がいた事でしょうし、もちろん宣伝の意もあったでしょうが。
>>850 集団から駆け出しているのは見て取れます。
クックック
もめろもめろ
クックック
853 :
○V○:05/01/04 05:30:31 ID:???
>なぜ、日本の戦国大名の旗指物があれほどのものになったかを
>考えて見るのは重要だと思いますが。
偽装や隠掩蔽が現代ほど重要視されていなかった時代の戦場で
軍装が畸形的に華美になる傾向にあるのは洋の東西を問いません
特に武装が自弁の士分ならば尚更そういった傾向が強くなるのは
当然でしょう
>両者にも供や与騎がいた事でしょうし、もちろん宣伝の意もあったでしょうが。
一人働きの武者とは、文字通り供も与騎もいない士分のことです
彼らには指揮すべき従者も足軽もいません
>集団から駆け出しているのは見て取れます。
確かにそのように見ることもできるでしょうが、それを「散開状態から
状況に応じて隊列を組んでいる」とまで解釈するのは些か強引でしょう
上のほうでも誰かが言っていましたが、そもそも屏風絵は公式文書ではありません
自分を目立たせるための指物類をあれほど許すとは私には思えません。
現に幕府も馬印等に関しては石高に応じた厳密な規定を定めています。
これは現場指揮官と後方指揮官の区別を明確にするためと見ることができます。
図屏風に関しては少なくとも隊列戦闘はなかった一つの証左になるのではないかと
公文書の駆けつつといった表現と照らし合わせると。
後、図屏風は基本的に大名家の監修の元に製作されており
軍学に沿ったものでもない限り、江戸初期のものは準公的な
位置付けをしても吝かではないと考えますが。
>>855 >現に幕府も馬印等に関しては石高に応じた厳密な規定を定めています。
>これは現場指揮官と後方指揮官の区別を明確にするためと見ることができます。
これはむしろ幕府が分を弁えさせ強力に統制するという側面のほうが強い
戦術的というより政治的な必要性
>後、図屏風は基本的に大名家の監修の元に製作されており
大名家監修だからこそ、その家や武将の活躍を讃える意図があるので
江戸初期のものだから云々で信憑性が上がるわけではない
公文書、公文書というが具体的にどのようなものを指すのかな?
858 :
横槍:05/01/04 17:11:16 ID:???
隊列を作っていたとすると、
隊列を作り、整え、維持するための号令があるはずでは?
(「気を付け」「右にならえ」「休め」「集合」等)
西洋戦術導入時に、自分の藩の言葉で置き換えたところはある?
私の知る限り、外国語の号令をそのまま使ったり、
直訳した号令を造語して導入、現代日本語になっていることから、
この種の号令が、江戸末期にはなかったことは、間違いないのではないか?
いくら280年の太平の世といっても、
一種の軍事政権であった江戸時代において、
こういった基本的な「技術」が失われる可能性は少ない気がする。
と言うことは、戦国時代・江戸初期の「軍陣」に隊列は無かったか、
西洋流の号令が必要な隊列とは随分と違ったものだったのか、どちらかでは?
859 :
○V○:05/01/04 19:02:40 ID:???
合戦では懸太鼓や押太鼓、引太鼓等、行動を律するために太鼓が用いられています
また法螺貝や鉦も使用されています
西洋の軍隊も楽隊を連れていますね
楽器で軍隊の進退を統制することは別に日本に限ったものではありません
>>857 旗指は五千石、馬印は三千石以上から持つようにと言った規定を見るより
現場指揮官と後方指揮官の区別を明確にするための側面の方が強いかと
別に派手なものはいけないとは言ってませんし。
図屏風で大名が望むのは自分たちの戦功を喧伝するためであり、戦術を云々
するためのものではありません(それは寧ろ軍学の方でしょう)。
戦術を捏造するよりは現実の戦場を写した方が発注元の大名家の意に沿うかと・・・
861 :
○V○:05/01/04 19:13:43 ID:???
>戦術を捏造するよりは現実の戦場を写した方が発注元の大名家の意に沿うかと・・・
別に捏造しているわけではなく、自分たちの活躍を強調して活写しているだけです
勿論、そこには恣意的な誇張もあったでしょう
少なくとも屏風は現実の戦闘を忠実に再現しているとはとても言えませんし、
その必要もありません
あれは戦闘詳報ではありません
んなことわかってるよ。
屏風なんてあてにはならんが、じゃああんたの見解の根拠はなんなんだ?
屏風があてにならない事は認めるのですね。
865 :
862:05/01/04 21:29:59 ID:???
そりゃそうだよ。
866 :
862:05/01/04 21:32:19 ID:???
俺は屏風にも参考になる点があると思うが、屏風を根拠に人を説得できるとは思えんな。
867 :
858:05/01/04 22:40:23 ID:???
>>859 人間の集団の前進・後退を統制することと、
人間の集団を隊列にし、それを整え、維持することは
別だと思うのですが。
西洋的な隊列を迅速に構成する為には、
部隊・兵に、基本教練か、
それに類したものも
必要なのではないでしょうか?
868 :
858:05/01/04 22:41:16 ID:???
上げてしまいました。すみません。
>868
人間の集団を隊列にせずに人間の集団の前進・後退を統制することは
西洋的な隊列構成による運用以上に部隊・兵に基本教練かそれに類したものを
はるかに必要とするのではないでしょうか?
870 :
868:05/01/04 23:06:47 ID:???
>>869 人間の集団の前進・後退程度でしたら、
必要な場所・範囲において識別可能な音声、旗等の信号と、
その聞き分け・見分け方を教えて、
時々予行練習する程度で足りるように思うのですが。
その人間の集団が、男女老若、職業等の別の無い無作為集団で、
事前の訓練等が全く出来ないのなら別ですが。
>人間の集団の前進・後退程度
ま、運動会の小学生でもこの程度はできるわな、
あれは一応隊列という事になってるが。
大名行列を見れば、西洋スタイルの号令を使っていなかっただけで、
人間の集団を隊列にし、それを整え、維持できていたのは明らかだが。
西洋とやり方が違っていただけで、隊列を組んでいなかったと考えるのは
無理がある。
873 :
868:05/01/05 00:29:52 ID:???
大名行列は、行進経路・目標と個々の前進順序や時間調整、
いざというときの各自の行動・任務を決めた部隊の列で、
西洋の軍隊が、第一次大戦冒頭まで戦場で用いていた、そして
今でも軍隊の基本教練や分列行進としてなされる隊列とは、
違うものだと思うのですが。
そう書くと特殊部隊みたいね。
戦略目的は与えられているけど、チームで動くとしても
チームのメンバー同士での緊密な連絡はしない、
だけれども同一の意志に従って動いている、みたいな。
違わないだろ
どう違うのか具体的に説明してくれ
876 :
○V○:05/01/05 02:27:06 ID:???
要点は戦国時代の日本の軍隊が「隊列を作り、整え、維持していたか」ですね
大名行列を見る限り、ちゃんと出来ていたと考えて差し支えないでしょうね
877 :
名無し三等兵:05/01/05 04:04:42 ID:pxInBCr7
>>873 当然、西洋とまったく同じ形では
隊列を運用していないのは
当然だと思うけど。
>>876 アレは行軍でしょ。
戦闘隊列とは全然違います。
第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
後、隊列が在っても西洋とは違うを逃げ道にしてませんか?
たとえそうだとしてもそれの維持には同様の手法が欠かせない
と868は言ってるのではないでしょうか?
長槍隊の場合はてんでに動くと槍同士がぶつかってどうにもならないので、
隊列組んで組頭の太鼓などの号令で動いてたというのをどっかで読んだな。
……と、ここまで書いたところでスレを頭から読んだらすっかりがいしゅつ
ですた。
あと、当時の軍忠状などを分析すると殺傷率が最も高かった武器は弓矢なん
だとか。
>>878 >第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
>同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
>な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
戦国時代の文献で、よく「足軽組頭」とか「弓組小頭」みたいな役職が
出てくるけど、それって下級指揮官じゃないの?
>>880 あれはあくまで雑兵であって、士分じゃありません。
882 :
○V○:05/01/05 13:20:50 ID:???
>第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
>同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
>な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
各国で規模や職名、職域に些か差異がありますが、
基本的に組頭は、足軽や侍の最小戦闘単位である組の指揮官です
複数の組が束ねられ、長柄大将、弓大将、鉄砲大将と呼ばれる指揮官に指揮されています
国によっては大将と呼ばず奉行と呼ぶこともあります
更に、彼らの指揮官である足軽大将がいました
足軽組の組頭は士分ではありませんでしたが、長柄大将たちは士分ですし、
足軽組頭も指揮権は認められています
下級指揮官が不在だったとはとても言えないでしょう
883 :
○V○:05/01/05 13:25:34 ID:???
>アレは行軍でしょ。
>戦闘隊列とは全然違います。
行進時は隊形を組んでいながら、戦闘時には組んでいなかったという理屈は理解できませんね
そもそも長柄は隊列を組むことが前提となっている兵器です
>たとえそうだとしてもそれの維持には同様の手法が欠かせない
>と868は言ってるのではないでしょうか?
西洋と同様の手法でなくても隊列を組んでいたのは大名行列を見れば明らかです
>>878 二段落目の意味が分からないんだけど
>第一、隊列を組んで戦うなら最低でも下級指揮官(士分)が
>同じ隊列にいなければ士気の維持や指揮系統の疎通に重大
>な問題が生じるはずですがその様な事はありません。
これは下級指揮官が同じ隊列には存在しなかったと言いたいのか
前半と後半で矛盾してないか?
下級指揮官がいないのに指揮に問題が生じなかったから
隊列は無かったのだ、というのはえらく飛躍した論理じゃないかい?
士分でなければ指揮官と認められないというのもよく分からない話だ
そこまで言うなら根拠を示して欲しいな
問題は下級指揮官が士分であったかという点なんですが、
雑兵だけの部隊が列を組んで最前線に身を晒し、士気を
維持できるはずがありません(傭兵除く)。
必ず、支配階級である士分が前線に出て共に敵に身を曝さ
ない限り、どの様な戦闘方法であろうと雑兵は付いて来ません。
886 :
○V○:05/01/05 13:32:54 ID:???
>問題は下級指揮官が士分であったかという点なんですが、
>雑兵だけの部隊が列を組んで最前線に身を晒し、士気を
>維持できるはずがありません(傭兵除く)。
それはあなたの主観でしょう
後ろから殺して来いというだけの指揮官に誰が付いてくると?
888 :
○V○:05/01/05 13:35:47 ID:???
それ以前に、下級指揮官が不在だったと主張している人は、
下級指揮官無しで本当に散開して戦えたと思っているんでしょうか?
矛盾してませんか?
889 :
○V○:05/01/05 13:37:14 ID:???
まあ足軽大将クラスは最前線で指揮することも珍しくなかったんですがね
ちゃんと理解してます?
私はそんな事一片も言ってませんが?
チーム編成なら下級指揮官の士分も含まれてるでしょうが、
槍隊、鉄砲隊の区分で隊列を組む様な形ではその隊列の
中に士分の下級指揮官がいないと言ってるのですが?
>>889 一緒に列の中に入って長鑓で叩き合ったんですか?
891 :
○V○:05/01/05 13:47:23 ID:???
>槍隊、鉄砲隊の区分で隊列を組む様な形ではその隊列の
>中に士分の下級指揮官がいないと言ってるのですが?
足軽組頭は士分ではありませんが指揮官ですし、組を束ねて指揮しているのは士分です
>一緒に列の中に入って長鑓で叩き合ったんですか?
スペインのテルシオの士官だってパイクで叩き合ったりしてません
でもテルシオはちゃんと隊列を組んでいますね
>>891 その役職名は?
まさか長柄奉行なんて言わないで下さいね?
ふーん、で足軽大将はどのような状況で戦ったと?
そしてその戦い方は隊列戦闘を肯定するものだと?
894 :
○V○:05/01/05 14:12:51 ID:???
>>882に追記しますと、
足軽大将は長柄大将や弓大将等の総称として用いられることもあります
こちらのほうが多かったかもしれませんね
戦国時代の合戦の手順は、
1.石つぶて、弓矢など飛び道具の応酬(後に鉄砲がこれに加わる)
↓
2.長槍でのど付き合い
↓
3.どちらかが崩れたら普通の槍など白兵武器を持っての突撃
というプロセスで進むのが普通だが、1と2の段階(雑兵メイン)では
それなりに隊伍を組んで鉦や太鼓の号令に従って進退してたと考えるのが
自然じゃないか?飛び道具も長槍も、各自が勝手な立ち位置・タイミングで
動いてたら味方の攻撃に当たってしまいかねず、危険きわまりない。
>>896 小頭一人が足軽十人とか二十人を率いてる綺麗な組織だと思うが。
>>898 その細かい編成を統括する直属兵種上司がいないとしてでもですか?
これでは隊列の統一指揮などできません。
小頭と同人数の大将がいるじゃんか。
つーか
>>899にはもう何言っても無駄な気がする
意地になって揚足取ったり屁理屈こねまくってるだけじゃん
902 :
○V○:05/01/05 15:52:05 ID:???
>>897はあくまで個人の地位や格式、役職等の内訳を詳細に記した分限帳で、
備の戦闘序列ではありません
備の指揮官である武者大将や侍大将は戦時のみの臨時職ですから、
分限帳に記載されるようなことはありません
分限帳は隊列を組んでいなかったことの根拠にはなりません
903 :
○V○:05/01/05 16:00:07 ID:???
少し訂正します
国によっては侍大将を純粋に士分のみの指揮官とする事例もあります
国によって職名が違うのでどうも難しいですね
>>901 自分勝手な都合の良い解釈は煽りの特権です。生暖かく見守ってあげてください。