946 :
名無し三等兵:04/08/08 14:42 ID:dbcf8i5y
去年亡くなったうちの親父。
戦時中は玉川学園(現玉川大学)在学中で、
当時の町田は現在とは比べ物にならないくらいド田舎で、
空襲なんかはなかったらしいけど、それでも機銃掃射などは受けてたらしいです。
空襲警報のラジオのものまねをよくしてくれましたが、それによると
警報発令後まもなく厚木の飛行機が編隊を組んでにどこかへ「避難」してたとか。
立川の工場が爆撃されたときは地響きがすごかったとか。
B29が撃墜されてゆっくりと東京湾に落ちていく様も見ていたそうです。
東京大空襲の日は現在大学の敷地内の山に避難してたそうですが、親父のすぐ傍に
トイレットペーパーのような銀紙のかたまりが落ちてきたとも言ってました。
終戦間近は川崎の(現在は大手家電メーカー、名前失念)に動員され、
潜水艦に搭載する?レーダーの試作品らしきものを作らされたと言ってましたが
軍事的に本当なんでしょうか?少々オーバーに言う人だったので…
947 :
名無し三等兵:04/08/08 14:47 ID:MlOHUX5O
うちのおばあちゃんは父親の勤めの関係で全国各地を転々としていた。
昭和20年8月当時、父親は広島の工場勤務で本人は高等女学校の女学生。
勤労動員で軍需工場で働いていた。
8月6日、一度鳴った空襲警報が解除され、工場内で作業をしていた。
その時、窓の全体がフラッシュを焚いたようにピカッと光った。
次の瞬間、まるでスローモーションでみるように、窓のガラスが粉々に砕けて空中を飛んでゆく。
音はしなかった。無音だった。
良く「ピカドン」という人が居るが、あれは爆心から離れた人の話だという。
すぐに帰宅命令が出された。
自宅に帰る途中、いくつも黒い丸太が転がっていたという。
考えれば死体であったが、当時は帰りたい一心。
何も考えずに夢中でまたいで帰った。
気丈な友人が大やけどの友人を運んできた。
その友人は元気で帰っていった。
大やけどの友人はすぐに死んでしまった。
元気に見えた友人は、その翌日洗面器一杯の血を吐いて死んだ。
ということは後から聞いたそうだ。
その後は怖くて何日も家から出ることはできなかった。
父親は工場の責任者であったため、何日も家に帰らなかった。
その父親は、その時の経験を語ることは決してなかった。
本当に悲惨な現場に立ち会った者は一様に口が堅いという。
良くテレビにでてくる原爆の語り部。
あんな話しが出来るのは、本当に悲惨なところを見てなかったからだ。
とは口癖であったそうだ。
948 :
名無し三等兵:04/08/08 15:26 ID:JiBQ4F5A
ウチのオヤジ、あの悪名高い731部隊員だった。一般に言われてる事より
もっとひどい事が行われていた。書ききれないほどたくさんの人体実験の
話を聞いた。自分の父親ながら、平気でそんな話ができる父親の人格を疑ったが
中国残留孤児の番組を見ると、涙を流していた。人間の多面性と不思議さを見た。
>>946 > 東京大空襲の日は現在大学の敷地内の山に避難してたそうですが、親父のすぐ傍に
> トイレットペーパーのような銀紙のかたまりが落ちてきたとも言ってました。
チャフ…?
>>948 安心しなさい。
731部隊の人体実験話は捏造だから、それはきみのお父さんの作り話だ。
君を売国サヨに育てようとしたんだよ。
慰問袋に入ってくるウイスキーとかりんとうが楽しみだったらしい。
>立川の工場が爆撃されたときは地響きがすごかったとか
そういや何年か前に家の近く(立飛工業付近)で不発弾見つかって、
立川駐屯地の陸自隊員の人が「ひなんしろ」っていってまわってたな。
漏れの爺さんの兄弟は全員身長が160糎以下で全員丙種だった。(兵隊不合格)だが、米屋をやっていた為力だけは凄くて、一人であの重たい3年式重機関銃を担いで走り回ったところ丙種だったのが甲種になった。
また、別の兄弟の方は96式軽機関銃を装備と一緒に抱えて走り回ったそうだ。結果、全員戦地に行くことに。
長男戦後病死
次男ガダルカナルにて戦死
三男同上
四男ペリリュー?にて戦死
五男サイパンにて戦死
六男硫黄島布陣中、艦船沈没により戦死
七男の爺さんは三菱名古屋工場にて生産管理事務職の為、生き残った。キ46を作っていたそうで、口癖は「急旋回すると翼に皺がよるから空戦禁止!だった。」
爺さん、安らかに。。。
>>955 1/7か。
プライベート・ライアンどころの騒ぎじゃねえな。
もうすぐお盆か。
合掌。
948=952
( ゚д゚)ノ○ チンセイザイ ドゾー
俺の友人の勤め先に85歳になる爺さんがよく客としてくる。
まだまだ元気で、『戦争中はインドまでいった』というようなことを言っていたので、友人が話を詳しく聞いているらしい。
やはりインパールからの帰還者で、爺さんの戦友の書いた一冊の自費出版?の小冊子を見せて貰ったところ、所々に赤線が引いてある。
どうやら『赤線引いてある所がワシと関係のある部分』らしい。
その中にこんな一文を発見。
『千五百人いた大隊の生き残りは四人になった。』(意訳)
その爺さんこそ祭兵団吉岡大隊の極限の戦い、ライト何とか高地戦の僅か四名の生き残りの一人だそう。
著者の戦友はそれ以前に負傷で後送されて助かったとのこと。
>>955 御冥福をお祈り致します。(-人-)
墓参り行けよ!
962 :
946:04/08/09 04:22 ID:ESTk1dzN
>>950 どうでしょうね。当時は怖くて触れもしなかったそうです。
あと、現在こどもの国の近くにB29が墜落して、憲兵隊が現場を確保
する前に、いち早く墜落場所に行ってみて、まあ当然部品が色々散乱してるわけですが、
搭乗員の長靴が落ちていたので拾ってみると、まだ中に足が残っていたとか…
羽田に一式陸攻を見に行った事とか(親父は「葉巻」と言ってました)、どういう縁か忘れてしまいましたが
「隼」設計の糸川英夫教授と懇意になって、風洞実験を見せてもらったりとか、まあ戦中世代の体験談には事欠かない人でした。
(戦地へ赴いた訳ではないので、他の皆さん程峻烈な体験は聞けませんでしたが)
残念なのは親父は戦後町田に昭和三十年代に一度行ったきりで、現在の都会化した風景を見せてあげられなかったことです。
生きているうちに一度連れて行ってあげたかった…
軍板的に萌える話でなくすみません…
初盆なのでついつい、親父を思い出し書いてしまいました…
>>950 おそらく「ウィンドウ」または、「ロープ」だと思うよ。
日本では欺瞞紙と読んでました。日本軍のレーダー妨害のため
上空から散布してました。
うちのじいちゃんはギンバイしまくってたら、連れて行かれてボコボコ
にされたと言っていた。牛肉の缶詰がうまかったらしい。俺は、じいちゃんの
部屋から、花林糖をギンバイしまくって庭に連れて行かれ、ボコボコにされた。
965 :
955:04/08/09 22:27 ID:???
>>956,960
有り難う!在所に行ったら、もう少し詳しく墓誌を見てくる。
>>957 そんなこと考えつきもしなかったYO!
ちょっと、ペリリューってのは自信が無いけど、3年式重機を担いだのは四男の方で96式は三男の方と聞いております。
他には、祖母の実家の兄弟の方も相当戦没者が多そう。あっちは8男1女だったかなぁ。
一人は近衛騎兵連隊所属で、中国戦線で戦死したら専用列車で遺骨が運ばれたなんて話があるみたい。
もう一人は最近まで元気だったけど、現在は筋ジストロフィーで闘病中。。。祖母の在所に行ったら墓碑を見てみたいなぁ。
>>965 日本の為に有り難うございます。
身内の話さえ徐々に解からなくなっている現在
貴方が話してくれる事は大変貴重です。
話せる範囲で出来る限りよろしくお願いします。
俺の爺ちゃん、戦艦武蔵と一緒に海に沈んだよ。
その時、唯一の子供で一歳だったのが俺の母さん。
婆ちゃんは、90年間、爺さんのみを愛して1ヶ月前に爺ちゃんの元へ旅立った。
爺ちゃんが俺の母さんを残してくれなければ今の俺は無かった。
爺ちゃんの生きてる姿が見てみたかった。
968 :
名無し三等兵:04/08/10 02:21 ID:ps3CcVt5
>>967 昭和十九年十月二十四日 猪口敏平少将と共に逝った
貴様の爺さんを尊敬する。ご冥福をお祈り致します。
969 :
犬:04/08/10 03:31 ID:pQUFmYcH
母親に聞いたのですが、家のお爺さんは、特高警察につかまって、
鉛筆指にはさむ拷問を受けたそうです。
ま、まさか、じいさん、共産主義者??
970 :
名無し三等兵:04/08/10 08:48 ID:Hk4pVusp
うちのジーちゃんは戦争中、疾風のエンジンカウルあたりを作っていたそうだ。
>>969 特高につかまるなんてよっぽどのことだぞ。
ごく普通の日本人には全く縁のなかった存在だからな。
973 :
名無し三等兵:04/08/10 22:57 ID:YurxzURw
私の祖父は駆逐艦「潮」に乗艦していました。
部屋に絵が飾ってあるのですが、「ほしう」なんて船あるのか?
と厨の頃は思ってました。
駆逐艦といっても、かなり大きな船だったとよく言っています。
実際、今の護衛艦で言ったらかなり大型の部類だもんな。
ただ、外洋航行時の揺れはすさまじかったそうです。
戦闘についての話は聞いたことがありませんが、今度聞いてみたいと思います。
2年前に亡くなったうちの祖父は戦艦大和の建造に
関わっていたみたいだけど、戦争中のことは
思い出したくないのか、あまり話してくれなかった。
でも「呉のドックで見た大和の勇姿は忘れられない」と
ぽつり呟いていたのを覚えてます。
比島で戦死した私の祖父の兄は戦地に赴く前、
自分の部隊は火炎放射器を扱っており、比島に渡ってそれで敵の戦車を蒸し焼きにするのだと祖父に話してくれたのだそうです。
炎が10メーター届くかどうかという代物で些か心もとないとも語っていたそうです。
何かの書籍で帝国陸軍は火炎放射器を対戦車火器と位置づけていたという話を読んだことがありますが、
実際そういう想定の元、将兵の教育をやっていたのですね。
しかしまあ、いくら身内とはいえ部隊の移動先やら何やら色々喋り過ぎでしょうね。
親しい友、親兄弟からスパイの耳へとはよく言ったものです。
内地で予算の分捕り合戦
普通に軍隊に入って普通に訓練して、普通に生活してたら戦争が終わったらしい。
だから、ここに書かれてるような立派なお話はないんだなこれがw
>>977 今の時代しか知らない日本人の事を考えたら
比べられないほど立派だよ!
>>978 それを言うなら我々も、あと五十年でも生きれば自動的に立派になる訳か・・・
ありえない(´・ω・`)
980 :
名無し三等兵:04/08/11 03:24 ID:o5xj5O84
俺のじいちゃんは、251空(台南空)の上整曹だったよ。
開戦時に台南空に配属されてフィリピン〜ラバウルまで転戦し、
251空の解隊後、105基地(ラバウル?)に転属して終戦をむかえたらしい。
とても陽気なじいちゃんだったけど、戦争の話をする時にはとても悲しそうな、
寂しそうな顔をして、目にうっすら涙を浮かべていた。
じいちゃんが死んでから、遺品を整理している時、軍の履歴表を見つけて自分の
知らないじいちゃんに出逢った。
それから、戦争について調べていくうちに、ラバウルでのすさまじい激戦のことを
知り、じいちゃんの悲しそうな、寂しそうな顔の意味がやっと理解できた。
米国の航空機に太刀打ちが出来なくなっていた大戦末期、自分が精魂込めて整備
をすればするほど、戦友を死に近づけることになる。朝出撃を見送った戦友は夜に
顔をあわせることはほとんど無かっただろう...
あの大戦で、じいちゃんは何人の戦友を見送ったんだろう?
生前、詳しい戦争の話はあまり聞けなかったけど、じいちゃんの目に浮かんだ涙が
戦争の悲惨さを物語っていた。
たまたま生きた時代が大変そうに見えるだけ。
いちいち今の時代がどうとか卑下すんなや。
>たまたま生きた時代が大変そうに見えるだけ。
( ( ( ( ( (゚∀゚) ) ) ) ) ) デンパ
キタ─wwヘ√レvv〜(゚∀゚)─wwヘ√レvv〜─ !!
個人の苦労と世代の苦労は別だわな
こちらのスレッドには初めて書き込ませて頂きます。それに
しても、興味深い話が沢山ありますね。
自分が小学生の頃、TVで「ビルマの竪琴」が放映されてい
ました。私と父はそれを観てたんですが、突然父が「お前の
爺さん(父の父)も、ビルマに行ってたんだ」と話し始めました。
よくよく聞くと、「インパール作戦」に参加してたとの事で、派
手な戦闘の話は聞けませんでしたが、終戦で捕虜になった時
の話をされました。
何百人もの日本兵が横一列に並ばされ、その前を部下を従
えたイギリス兵が歩き、合図をすると列から日本兵が引きずり
出されて射殺されたとか。どういう基準で射殺対象となったの
かは、全く不明です。
転載です。
526 :おさかなくわえた名無しさん :04/08/09 11:19 ID:99d5eF6P
戦時中の話じゃないけど
じいちゃんは薬剤軍曹だったんだが、特に笑えるエピソードは無いんで割愛
で、問題なのが戦時中中国戦線で従軍看護婦やってたばあちゃん
従軍看護婦ってのは、前線の殺伐とした雰囲気でスレる上
兵隊たちにちやほやされるもんで、大抵古兵や下士官、将校も恐れる鬼看護婦になる場合が多い(じいちゃん談)
親父が小学生の頃の話だが、ただでさえばあちゃんに頭が上がらないじいちゃんなのに
あろうことかコソーリやってた浮気がバレた
・・・ばあちゃんがブチ切れて、床の間に架けてあったじいちゃんの軍刀を抜き払い
「この前線も知らん軟弱軍曹風情がぁ!性根を叩き直してくれる!」とじいちゃんを追い掛け回した
じいちゃんは堪らず家を逃げ出し、親父がばあちゃんを必死でなだめた後探しに行った所
河原の橋の下でひざを抱え、子犬のように震えていたと
ばあちゃん怖い
http://life5.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1083152164/l50
>>985 薬剤は士官だけで、下士官にはいなかったはずですけどね。
(衛生部軍曹、ということでしょう。)
薬剤師の下士官はどうなんだ。
スレ違いかもしれませんが。8日のウルルン滞在記。ラバウルの話でした。
日本軍、良い事しまくつたみたいで。滞在先の爺さん軍歌歌いまくりでした。
「日本軍との別れが一番つらかつた。」のせりふに感動、また童謡を教えた兵
が居たようで、もしもし亀よが物物交換の合図だつたそうです。
断片的にしか聞いてませんが、3年前に没した祖父は
通信兵だったそうです。大陸には行ってないみたいです。
祖母は大連生まれで釜山にも住んだことがあるみたいです。
戦後引き上げじゃなく戦中に瀬戸内海の島に来たそうです。
島の沖合いに大和他、駆逐艦などが迷彩を施してよく浮いていたそうです。
呉のドック爆撃に行く時には大編隊が島の上を通っていたみたいです。
>>988 別れの時の「海ゆかば」
泣けましたね・・・・
991 :
名無し三等兵:04/08/13 01:23 ID:JUTofhn/
17年前に亡くなった父は、学徒出陣で台湾の飛行第十戦隊にいました。
百式司偵に乗り、大和沈没海域にも行ったって言ってました。
P38にはよく追いかけられたらしく米軍パイロットの顔も良く見えたらしいです。
特攻出撃するも、嵐で与那国島に不時着。その時の傷が頭に残ってました。
昔はよく、飛行第十戦隊の会のハガキが来てたけど、当時の戦友の方に父のことを聞いてみたいです。
もう10年も前に死んだ爺さんの話。
小さい頃はよく爺さんと風呂に入っていたんだけど、爺さんのシワシワの
お腹に縦に傷が入っていた。結構大きくて目立つ傷だった。先の戦争で
アメリカ軍に刺された傷だということで、いつも一緒に風呂に入った時は
その話を聞いていた。
ある日、ふと婆さんに爺さんのお腹の傷について聞いた見たところ、
「あれは盲腸の傷だよ。お爺さんは戦争中は工場でレンズを作る技師だった
から戦地には行ってないけどねぇ、お爺さんにからかわれたんだよ。」
そのことを爺さんに話すと、悪びれない様子で笑っていました。そんな
江戸っ子爺さんしか戦争の話を聞ける人はいなかったけど、夏になると
あの風呂での話を思い出す。
爺さんは台湾と中国へ行ってた。
陸軍兵だったらしく、何度も危険な目にあったが
中国の人に助けられたと聞く。
その爺さんの兄はパプアニューギニアで餓死。
その爺さんの義弟はトラック諸島で高射砲を使って
アメリカの軍用機を打ち落とすという仕事をしてたらしい。
「高射砲撃ってもなかなか当たらない、撃っても撃っても米軍機のシッポの方にいってしまう。」
と言ってた。
また、こうも言ってた。
「俺たちは祖国日本の為を思って戦った。本気で戦った。
死ぬ気で戦った。あれだけ日本のことを思って戦ったんだ。
それなのに日本は負けた。何故だ?
さあ、これから駐留アメリカ軍が日本を占領しに来るぞ。
負けた日本はこれからどうなる?
お前ら若い奴らには俺たちがどれだけ日本のことを思って戦ったか、
その苦労を理解できないだろう? 俺たちがあれだけ戦ったのに日本は負けた。
その苦労と悔しさが理解できる若い奴らは今の日本にほとんど居ない。
でもわかってほしい。」
>>992 そんな老人、結構多いよなw
>>993 不謹慎だとは思うが
>それなのに日本は負けた。何故だ?
この一文を見た瞬間に脳裏をよぎる定型文が・・・
まぁ悔しかったんだろうな
ガノタとは罪深いのうw