【開発】 航空機メーカを語るスレ 【生産】

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1再建者
1 名前: [ ] 投稿日:03/06/21 13:07 ID:???
ヒコーキスレ増やすなって言われたけど立てた。
メーカによる開発や生産の観点からマターリと行きませう。

元アド
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1056168422/
2再建者:03/07/10 19:34 ID:???
2 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:09 ID:???
2げと

3 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:11 ID:???
スバルのレガシィは良いと思うよ。

4 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:11 ID:???
3

5 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/21 13:13 ID:???
時代の設定がないな
ソッピースとかでもいいのか?

6 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:15 ID:???
日本で言うと
中島、三菱が二巨頭?
他、川崎、川西、愛知、立川など・・・

ほかなんだ、ドイツは
メッサーシュミット、フォッケウルフ、ハインケル、アラド、ヘンシェル・・・

抜けまくりだが後を頼む。

7 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:15 ID:???
ボーイングってF/A-18E/Fの生産が終了した後、大丈夫?

8 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:22 ID:???
多分倒産する
昨年度の売上は軍需の割合が60%越してるそうだし
3再建者:03/07/10 19:34 ID:???
9 名前:名無し三等兵[ ] 投稿日:03/06/21 13:25 ID:???
フランス
ドボアチン、モラン・ソルニエ、ポテーズファルマンこんだけ?

イタリア
フィアット、マッキ、カント、レジアーネ・・・

アメリカ
グラマン、ボーイング、カーチス、ダグラスあたりが大きい?
ノースアメリカン、ロッキード、チャンスボード、マーチン、ベル、ブリュースター数多すぎ。

10 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:30 ID:???
ブリュースターと書くのは年寄りの証拠
最近はブルースター表記が主流


11 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/21 13:31 ID:???
ドイツはメッサー・ユンカース・ハインケルが三強では?
ドルニエとかもあるが。

12 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 13:46 ID:???
>>8
旅客機の受注合戦はエアバス社に負けているらしい…

13 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 14:13 ID:???
どっちにしろ、ボーイングは苦しいな。
F/A-22もF-35も少しは参加するとはいえロッキードだし。
旅客機もエアバスに負けてるんじゃ・・・。A380が出たらますます・・・。

ロッキードに吸収されて、ロッキード・ボーイングだな。
4再建者:03/07/10 19:35 ID:???
14 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 14:17 ID:???
>13
まもなくF/A-22がキャンセルされてロッキードが先に倒産する方に賭ける


15 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 14:50 ID:6i9GVhRn
ロッキード・ボーイング・ライトか
なんならイギリスみたいに全社統合ってのもいいかも

16 名前: [] 投稿日:03/06/21 14:54 ID:xYp1rwQw
米のメーカーは、合併、吸収しまくりで、もうどこがどこやら…

ノースアメリカン
マクダネル
コンベヤ
ロッキード
リパブリック
 
ゼネラルダイミクス

センチュリーシリーズのこれらのメーカーは今、どことどうなってるのでしょう・・・

5再建者:03/07/10 19:35 ID:???
17 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 14:55 ID:6i9GVhRn
イギリスが出てなかったので
ホーカー、デハビランド、スーパーマリン、アブロ、アームストロング、
ショート、マイルズ、マーチンベイカー、ブリストル、ビッカース、
ウェストランド、ハンドレイページ、ブラックバーン、グロスター、
フェアリー、エアスピード、ボールトンポール、ジェネラル

18 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 15:25 ID:???
ノースアメリカン、マクダネルがボーイングに
ゼネラルダイナミクスがロッキードマーチンに
リパブリックはフェアチャイルドに

で、フェアチャイルドは倒産したんだっけ?

19 名前:名無し三等兵[ ] 投稿日:03/06/21 15:32 ID:???
>>18
サンクス。

で、その中に入ってない、「具ラマン」「ノースろぷ」が生き残ってるってのも、
また興味深いですね。

20 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 15:33 ID:m6b4rVLp
中島、愛知、九州などは
今どのメーカーに引き継がれてるんだろ?

21 名前:名無し三等兵[55] 投稿日:03/06/21 15:36 ID:???
九州飛行機はトラックの車体とか作ってたかな

22 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 15:38 ID:AJNEtOog
川西こと新明和は消防車を製造している
6再建者:03/07/10 19:36 ID:???
23 名前:名無し三等兵[55] 投稿日:03/06/21 15:41 ID:???
九州→渡辺鉄工所
バスの車体製造など
海自に魚雷発射管を納めた記録もあり

24 名前:名無し三等兵[55] 投稿日:03/06/21 15:49 ID:???
愛知飛行機は元の愛知時計に合流したようです

25 名前:20[sage] 投稿日:03/06/21 16:01 ID:???
まあ、川西→新明和は、まだ許せるとして、

震電の九州が、バスの車体製造?
流星の愛知が、時計屋??

敗戦国ってつらいなあ・・ヽ(;´ω`)ノ.

中島は消滅かね?


26 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 16:08 ID:???
愛知は元々が愛知時計って会社なの
中島は富士重工とプリンス

27 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 16:13 ID:???
ヴォートって今なにやってるんだろう。
ロッキードの下請けでバイキングのパーツ作ってる位しか知らんのだが…
コルセアUのアフターとか?

28 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 16:19 ID:???
ヴォートは91年にLTVになって、92年にノースノップなどに買収されたそうな。
7再建者:03/07/10 19:36 ID:???
29 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 16:24 ID:???
>>28
アリガトン
ということはノースロップ・グラマンA-7コルセアUって呼ぶべきなのか。

30 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 16:28 ID:???
トヨタとか日産って、旧航空機メーカーとは
何の関係もないんでしょうか?

あと、空技廠って、もしかして第三のメーカー?

31 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 16:47 ID:???
>>29
A-7Eで検索すると、ヴォートかLTVって書いてある場所がほぼ全部。
8再建者:03/07/10 19:37 ID:???
32 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/21 17:01 ID:???
>20 >30
愛知航空機は戦後、愛知起業に変更して、その後、愛知機械工業になって、
最初はオート三輪のヂャイアント号を作り、徐々に三輪車メーカーとして重きを為し、
次いで、軽三輪車に参入。
これには失敗し、軽四輪のコニーグッピーというクルマを作る。
これはある程度成功したが、退勢は如何ともしがたく、日本興業銀行繋がりで日産と
業務提携。
で、当時は川又天皇の時代で、大衆車に理解が無く、投資も行われず、生産設備と
不動産だけが、彼の目的で、遂には出資を仰ぎ、その子会社として再出発すること
に…。
今は、エルグランデとかそう言った、ミニバンとか商用車を主に生産している。

川西からの分かれとしては、もう一つ、明和自動車工業というのがあった。
これはオートバイのポインターが好調で、それを足がかりにオート三輪に進出。
アキツ号という商品名で、最初は順調だったものの、大手が進出してくると、もう息切れがして、
1955年に工場閉鎖。
三井銀行の斡旋で、ダイハツ工業に身売りし、ミゼットの生産工場となったそうな。


33 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/21 17:15 ID:???
あ、空技廠の技術者は、戦後の温存政策で、国鉄に大量に引き抜かれ、
鉄道研究所で働いていたはず。
新幹線を作ったのはそう言った人々じゃなかったかな。
後は、工廠の跡地を使った東急車輌にも何人かの技術者が就職している。

34 名前:1[age] 投稿日:03/06/21 17:26 ID:???
起業した 中島 に出資した川西社長だけどケンカ別れして
再度作り直した会社が川西ですよね。

各社の特徴とかも語っていきましょうか・・・
9再建者:03/07/10 19:37 ID:???
35 名前: [ ] 投稿日:03/06/21 17:50 ID:???
>>20は富士重工へ逝ってカレンダー
「ワールド・フェイマス・エアプレンズ」を
入手すべし。

・・・ちっともフェイマスではないが。

36 名前:名無し三等兵[あげるの] 投稿日:03/06/21 18:47 ID:???
エンジンメーカはまた別だからな

37 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 19:24 ID:???
>>19
>で、その中に入ってない、「具ラマン」「ノースろぷ」が生き残ってるってのも、
>また興味深いですね。

数年前ロッキードに買収されかかった。

38 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/21 19:38 ID:???
グラマンもすでに吸収済み。
ロッキード、ボーイングの二大体制ですな。後残っているのは何処だっけ?

アメリカ航空業界の変遷史は複雑なり。
第二次大戦の頃に企業規模が大きかったのは何処でしょうか?
10再建者:03/07/10 19:37 ID:???
39 名前:確かにヒコーキスレ、もうずっと大杉かも[ ] 投稿日:03/06/21 20:01 ID:???
3式戦闘機「飛燕」を語るスレhttp://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1055430003/
陸軍二式単戦ファンクラブ!http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1054919262/
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なぜ、陸軍の一式戦闘機は、海軍の零戦に劣るのか?http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1056092249/
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●ロマンに浸って●99式艦上爆撃機は美しい・・・http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1053773375/
傑作戦闘機 F6Fヘルキャットを認めるhttp://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1054118863/


偵察機関連のスレが一つぐらいあっても良いだろ?http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1056007866/
♪♪♪「水上機」「飛行艇」を語るスレ♪♪♪http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1054212414/
【海軍】飛行部隊について【陸軍】http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1055773778/
◆艦載機を語る◆   ★索敵●攻撃◎制空lIIIIhttp://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1053606006/
11再建者:03/07/10 19:38 ID:???
40 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 20:11 ID:???
飛行機好きは自然とそういったスレに目が行くだけ
気にしなければどうということは無い

41 名前: [] 投稿日:03/06/21 20:15 ID:vYNcfhnp
三菱へぼい
中島の方が零戦の量産に成功してるじゃねーか

42 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 20:15 ID:???

軍事と軍用機は切っても切れない関係なのだが

43 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 20:16 ID:???
>>41
そのかわり中島零戦は粗悪品で有名だった

44 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 20:31 ID:???
スレ違い承知だが、スバル360は戦時中飛行機を設計していた技術者が
知恵を絞って作った傑作。
モノコック構造をいち早く採用出来たのも、航空機を作った経験から。
こういうケースって結構あると思うけど、どうよ?
YS−11の設計に零戦で有名な堀越技師が関わってた、みたいな。

45 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 20:46 ID:???
>>44
ああ、それでか。
あの無駄に頑丈なYSの機体は、柔だひよわだと叩かれた零戦の復讐だったんだな。
12再建者:03/07/10 19:38 ID:???
46 名前: [ ] 投稿日:03/06/21 20:49 ID:???
79 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/21 10:04 ID:???
誰か航空機メーカスレ建ててください。

【開発】 航空機メーカを語るスレ 【生産】

とか、愛知は九六艦爆、九九艦爆、零式三座水偵とか
瑞雲とか流星とか面白いですね。

47 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/21 20:50 ID:???
川西の特色は水上機+大型OK?

48 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 21:22 ID:???
川西は元々旅客機の色が強いメーカー
同時に航空会社も経営していた

49 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 21:27 ID:AJNEtOog
>>44

YS11の基本計画のころの掘越さんは、ただのワカランチンの聞き分けのないジジィですた。主任設計技師の東条輝機さんがさんざん苦労しますた。
土井武夫技師がいろいろ面倒を見てあげたようでつ。

50 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 21:36 ID:???
>>43
逆じゃないの。「中島の零戦はイイ!」と元整備員
から聞いたことあるけど。
13再建者:03/07/10 19:39 ID:???
51 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 21:59 ID:xiiKMxgA
それにしてもどこも無くならずに生き残ってるのは凄い。日本的と言えば日本的だ。
油圧の技術を応用して、特装トラック部門を持ってるところが多いね。

新明和 http://www.shinmaywa.co.jp/
カヤバ http://www.kyb.co.jp/menu.html
愛知機械 http://www.aichikikai.co.jp/japanese/index_nn.html
富士重工 http://www.fhi.co.jp/index.html
日本飛行機 http://www.nippi.co.jp/1-3.html
渡邊鉄工(九州) http://www.watanabe1886.com/

52 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 22:15 ID:???
フェアチャイルドは名前だけ残ってる
設計や生産からは一切手を引いて今は航空機整備かなんかを受け持ってる下請け
みたいな感じになってたはず

ちなみに縮小原因は銃好きの社長が趣味が高じてアーマーライト社を設立したはいいが
ちっとも売れずに莫大な赤字を出して、親会社もろとも倒産しそうになったせいだとか……

53 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 22:15 ID:???
昭和飛行機や日本国際航空なんかですら、多少形を変えて生き残っている。
立川飛行機は土地建物の賃貸で食いつないでいるようだ。

54 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 22:18 ID:m6b4rVLp
新幹線0系と銀河と桜花は
形そっくり。
設計が同じ人だよね。
あれも、メーカー(空技廠だが)の生き残りの一種かなあ・・・

55 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 22:22 ID:???
0系はモスキートの影響を強く受けてるようだが
14再建者:03/07/10 19:39 ID:???
56 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 22:32 ID:AJNEtOog
零戦のフラッター問題を解決したシトと
新幹線における車輪ーレールの複合振動の問題を解決したシトは同じ。

57 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/21 22:36 ID:???
つうか、
国鉄時代のボンネットタイプ特急電車は、
戦前の重爆と形が全部似てるんだが・・・
やっぱ偶然じゃないんだね。
何せ、空技廠から5000人再就職したんだもんね。
国鉄に。

58 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/21 23:11 ID:dI1ldBor
でも今の三菱や富士重工の宣伝って
殆ど外人が乗ってたりするよね、
昔からそうなんだね。

59 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 00:05 ID:???
新明和のUS−1Aは二式大艇の正統進化という感じ

60 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/22 00:09 ID:???
>38
企業規模が大きかったのは、矢張り、Boeing、Douglassが二大巨頭。
次いで、Consolidated-Vultyくらいかな。

61 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 03:33 ID:???
>フェアチャイルドは名前だけ残ってる

捜してるのにないじゃない♪
15再建者:03/07/10 19:39 ID:???
62 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/22 05:07 ID:???
開発生産規模で言うと
三菱と中島の2強が突出してるよね
つづいて、川崎、愛知、川西、空技廠の4中
その他が弱小って感じ?

生産機数とかどうなってんだろうか

63 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/22 09:49 ID:???
戦前の資本金とか従業員数とかで比較できるかな
一部門の会社もあるし目安は生産機数?

64 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 11:04 ID:???
こんなにいっぱいメーカーあったんだもんなあ。

正式採用された機体を全部1機ずつ展示する
ミュージアムでもあればなあ・・・


65 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 11:45 ID:???
>>50
その整備員氏がよほどの変人か
寄る年波でアタマがボケてたのか
あなたが勘違いしてるのか、のいずれか
16再建者:03/07/10 19:40 ID:???
66 名前: [ ] 投稿日:03/06/22 11:57 ID:???
ttp://www.sam.hi-ho.ne.jp/ki-44/1/sou-kaisya.htm
↑の資料の昭和元年〜20年までの生産機数からの割合を計算してみる↓
(空技廠や広廠が入っていない?)

中島 24,100 29.4%
三菱 17,531 21.4%
川崎 11,348 13.8%
立川  9,690 11.8%
愛知  5,068  6.2%
九州  3,797  4.6%
日国  3,088  3.8%
川西  2,851  3.5%
日立  1,727  2.1%
日本  1,322  1.6%
富士  869  1.1%
昭和  618  0.8%
合計82,009 100%
17再建者:03/07/10 19:40 ID:???
67 名前: [ ] 投稿日:03/06/22 11:57 ID:???
同じページのもう一つの資料
           機体     発動機
中島飛行機  24,100 31.7% 44,160 31.9%
三菱重工業  17,522 23.1% 54,135 39.1%
川崎航空機  11,348 14.9% 13,880 10.0%
立川飛行機   5,396  7.1%
愛知航空機   5,068  6.7%
九州飛行機   3,797  5.0%
日本飛行機   3,088  4.1% 11,969  8.6%
川西航空機   2,851  3.8%
日本国際航空機 1,322  1.7%
昭和飛行機   618  0.8%
富士飛行機   869  1.1%
石川島航空機         2,286  1.7%
日立航空機          11,969  8.6%
松下航空機
広工廠(第11空廠)
日本小型飛行機
佐世保工廠(第21空)
横須賀工廠(空技廠)
美津濃
合計     75,979機   138,399基


今一網羅されていないような・・・
18再建者:03/07/10 19:41 ID:???
68 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 14:36 ID:???
大概の場合、新しい産業の黎明期ってのは、
1、最初の一時は、その発案者(企業)による独占。
2、でもすぐに技術の拡散、一般化によって、中小メーカが乱立状態となる。
3、メーカ乱立により競争激化。より高度な技術や市場ニーズに追従できないものは脱落。
4、生き残った企業は巨大化し、大企業ならではの高度技術や、大量生産による価格低下によって更に優位に。
5、中小企業の新たな参入は不可能になる。
ってなパターンが多くて、戦間期の航空産業、特にヨーロッパは2〜3の状態じゃないかな。
最近の日本では、電卓(コンピュータ)産業が同じ様なステップを踏んでいた。

69 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 14:47 ID:???
で、中でもフランスはごった煮状態。
自分は船メインだが、そんな自分でもこれくらい知っているので、実際はもっと凄いのだろう。
Amiot, Bleriot-Spad, Bloch, Breguet, Caudron, Dewoitine, Farman, Hanriot, Latecoere, Liore-et-Olivier,
Loire-Nieuport, Mureaux, Morane-Saulnier, Nieuport-Delage, Pierre-Levasseur, Potez
これを本当に全部使ってたの?と思ったが、どうやら本当に全部使っていたらしい。
ttp://france1940.free.fr/adla/ada_may.htm

70 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 14:52 ID:???
おまけ
イタリアーノ
Ambrosini, Breda, CANT, Caproni, Fiat, I.M.A.M., Macchi, Piaggio, Reggiane, Savoia-Marchetti
メーカとはちょっと違うが、ソビエツカヤ−ロシーヤ
Antonov, Beriev, Ilyushin, Lavochkin, Mikoyen-Gurevich, Petlyakov, Polikarpov, Sukhoi, Tupolev, Yakovlev
19再建者:03/07/10 19:41 ID:???
71 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 16:08 ID:???
ノースロップ・グラマンは航空機をあきらめ、船に生きる道を選んだのかな?

72 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/22 20:22 ID:1+cDxrjs
>67

萱場の「カ号」観測機は航空機ぢゃないんですか?
満州航空機は、日本の航空機会社ぢゃないか、、。

73 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/22 20:31 ID:QIXjaOji
萱場は、まあそうだが、広い意味では飛行機でいいのでは?
満州飛行機は、確かに陸軍の練習機とか作ったり、疾風の
改造型を作ったりした。
川西、愛知は海軍系で立川とか陸軍系だね。川崎も海軍機は
何気にあんまりないね。てゆうかあるかな?

74 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/22 21:39 ID:???
川西は規模的には小さかったんだな

75 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/22 21:43 ID:QIXjaOji
まあ飛行艇とあメインだからね。
紫電・紫電改を引いたらもっと少ないね。
二式も97式もそれぞれ200機も作ってないし。

76 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/22 21:44 ID:1+cDxrjs
零戦とその派生品を製造していたのは

三菱、中島、九州、ぐらい?昭和、日立、日本あたりは練習戦闘機を作っていない?

77 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/22 21:44 ID:???
零式三座水偵が稼ぎ頭?
20再建者:03/07/10 19:41 ID:???
78 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/22 21:48 ID:1+cDxrjs
川西製零式3座水偵のフロートは張り線を廃止して
脚柱4本で支持した。

79 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 22:43 ID:???
>66他
日本飛行機は日飛って略してくれっす(公式の略称だよ)。
日本って略されると国家の方と混乱する。

80 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/22 23:09 ID:???
利益率とか飛行艇が高そうだが。
21再建者:03/07/10 19:42 ID:???
81 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/22 23:57 ID:???
昭和13年のエコノミストより

社名        公称資本金(千円) 払込資本金(千円)  事業内容
三菱重工業       120,000         75,000      機体、発動機、プロペラ部分品、付属品
住友金属工業      100,000         62,500      プロペラ
川崎航空機        50,000         35,000      発動機部品、機体、プロペラ、部分品、付属品、発動機、同部分品。
中島飛行機        20,000         20,000      機体、プロペラ、部分品、付属品、発動機、同部分品。
東京石川島造船所   16,000         12,000      発動機、部分品
愛知時計電機      15,000          5,320       機体、発動機、プロペラ、部分品、付属品
立川飛行機        13,000          6,250       機体、発動機、部分品、付属品
東京瓦斯電工      12,000         12,000       機体、発動機、部分品
渡邊鐡工所         6,000          3,750       機体、部分品
川西飛行機         5,000          1,250       機体、発動機、プロペラ、部分品、付属品
日本飛行機         5,000          2,750       機体、部分品
日本楽器製造       4,000          4,000       プロペラ
東京航空          2,650           662       機体、部分品、付属品
東京飛行機         500 500       機体、部分品
伊藤飛行機          500           500       軽飛行機、木製プロペラ
22再建者:03/07/10 19:42 ID:???
82 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/23 00:07 ID:???
ずれた(鬱。

それ以外の航空機製造会社(部品業者)

社名          資本金(千円)      主要製作品
東亜企業         300            航空機材
東京製作所       100            風洞、航空機部品、プロペラ
各和製作所       600            航空機部品
田中鐡工所        80            航空機部品
萱場製作所       800            飛行機脚緩衝装置、発着用器
大金工業所       200            航空機部品
堤方製作所       400            軍用航空機器
松尾螺子製作所    500            航空機部品
松尾工場         300            機体部品、発動機部品
近藤製作所       550            航空機材精密機械器具
帝国精密工業     3,000             航空機及び同部分品
朝比奈鐡工所     不明            機体部品、発動機部品
昭泰製作所       不明            航空機用内燃機関
昭和飛行機工業   30,000            各種飛行機並びに部分品
正田航空機       4,000            航空用発動機
伊藤飛行機製作所   100            航空機及び同部分品
日本小型飛行機研究所 30            小型飛行機、航空機用計器
23再建者:03/07/10 19:43 ID:???
83 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/23 10:48 ID:???
>>61
探し方が悪いだけだろ……
http://www.fairchild.com/

84 名前: [age] 投稿日:03/06/23 11:00 ID:???
愛知の飛行機は特色があるよね

85 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/23 11:01 ID:???
>>61
俺は分かったぞ、YOUの言いたいこと
スレどころか板違いにつきsage

86 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/23 11:16 ID:???
満飛が戦闘機を作り出したのは何でだろ?

87 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/23 11:36 ID:???
>86
現地日本陸軍首脳の方針

88 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/23 13:45 ID:VZbzoYys
理化学研究所の子会社、理研工業がピストンリングを製造していたよ。

89 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/23 14:54 ID:???
良いプロペラメーカーがあったらな・・・

90 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/23 18:16 ID:???
>>85
すまないが>>61が言いたいことって何なのかがわからん
良かったら教えてくれ……
24再建者:03/07/10 19:43 ID:???
91 名前:85[sage] 投稿日:03/06/23 18:25 ID:???
昔あったのよ、そういうバンドが。61のはそのバンドの(比較的)有名な歌の歌詞
(ちなみにボーカルが現在バラエティなどで活躍中のYOU)

92 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/23 20:23 ID:VZbzoYys
佐貫亦男がいたぢゃないか>89

93 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/23 20:27 ID:???
愛知のボンボン時計持ってるよ。社名は愛知時計電機のままだけどもう時計は作っていないらしい
近所に旧愛知飛行機のテスト飛行場跡地(その後海軍に接収されて特攻隊が飛び立ったらしい)がある

94 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 00:50 ID:???
>>85軍事関連が入ったバンド名及び曲名を語るスレというのは、
軍事板ではとうの昔に既出ですか?

95 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 01:16 ID:???
>>94
無いと思う
あると面白いけどなIronMadenなんか軍事系の曲多いし

96 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/24 07:05 ID:AK+AM/Vr
川崎の特徴は?
なんで海軍機作らないの?

97 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/24 07:25 ID:B6tBDCga
えっちぃりんく
http://www.k-514.com/html/erolink.html
25再建者:03/07/10 19:43 ID:???
98 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 08:03 ID:???
>>89 >>92
>佐貫亦男がいたぢゃないか

あのセンセイは日本楽器の社員でしょ,"メーカー"じゃない.
戦後,優れたエッセイを沢山書いていてヲレも好きな人だけど,プロペラの
設計者といっても"プロペラブレード"の設計者だし.可変ピッチ機構につい
てはドイツにVDMとユンカースの導入研修に行ったところで時間切れ.
(カメラのエッセイに見るように,メカニズムには鋭いひとと思うが)

確かに作品として,航研機(根元幅が500mmあって静止推力が大きい),97戦
(固定ピッチなのに根元部まで独特の断面で広速度域に対応),戦後の気象
庁の風向風速計の羽(今でも使われてる)と有名どころが多いが,センセイ
自身が,設計云々以前に,大戦中の日本の加工技術と精度ではでは,マトモな
精密機械は不可能だった,と繰返し嘆いている.優れた設計者と優れたメー
カーは別のハナシだと思うぞ.

99 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/24 10:55 ID:???
川崎の飛行機で海軍で採用したケースはなかったっけ?
確か試作には参加していたと思ったけど。

100 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 11:05 ID:???
100!

101 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 11:07 ID:???
九七戦のペラって2段切り替えじゃなかったっけ?

102 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/24 11:45 ID:???
紫電も他社生産してた?

103 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 11:49 ID:???
してない
26再建者:03/07/10 19:44 ID:???
104 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/24 12:00 ID:???
戦争中に川西の生産ラインは主に何を作っていたんだろ?



105 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 12:03 ID:???
だから紫電

106 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 12:06 ID:???
>>101
97戦は,地上で調節できる固定ピッチ.羽カフスの根元にワリがはいっていて
ボルト緩めて角度変更ができた.これは2段切り替えとも言わない.

満飛に移行したあとの二式高等練習機の勘違いではないかな.コイツは確かに
油圧の2段可変ピッチ.2ブレードと3ブレードがあった模様.エンジン積替え
ていて機首が長いので,気をつけてみれば,写真でも判定はできるぞ.


107 名前: [あげ] 投稿日:03/06/24 18:22 ID:???
立川飛行機は愛知を抜いて7%のシェアとは驚き。
一応エンジンも作っていたのはしっているが、代表機って・・・

108 名前:-竹寺白宮業[] 投稿日:03/06/24 18:34 ID:burQu15m
>>104

愛知の開発した零式3座水偵を生産していますた。
フロートに張り線のないやつ

109 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/24 18:35 ID:burQu15m
ロッキード輸送機>107
27再建者:03/07/10 19:44 ID:???
110 名前: [age] 投稿日:03/06/24 21:06 ID:???
川西は紫電が出るまで屈辱的だな

111 名前:なでるくん[] 投稿日:03/06/24 21:09 ID:XtfXO71T
他に
立川95式初歩練習機
立川95式中間練習機
立川98式直協偵察機
立川99式高等練習機
立川一式双発高等練習機
など

一式双発高練はかっこいい

112 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 21:44 ID:???
>>111
資料みたら結構作ってるね。95中練2400機とか。
練習機って意外と需要が大きいんだね。立川じゃないけど赤トンボなんか約5600機も作ってるし
手元の資料がロクなもんじゃないんで、全部の機数はかんべん。


113 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/24 22:08 ID:???
>>71
northopは造船(軍艦メインだが)、航空機用電子機器、
宇宙開発事業に活路を見出したようです
28再建者:03/07/10 19:44 ID:???
114 名前:なでるくん[] 投稿日:03/06/24 22:22 ID:XtfXO71T
ロ式輸送機・・・45機
95初練・・・・・・660機
98直協・・・・・・861機
99高練・・・・・・1075機
1式双高練・・・・1342機

数はこんなもんだがロ式輸送機と98直協、99高練は川崎でも生産されている
川崎ほどの会社に生産回してやる立川って実は凄く偉いのかも

115 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/24 22:35 ID:RhNmmNWj
>>110
九四式水偵

ビジネスジェットのガルフストリームはグラマン系


116 名前:通常のスカッドの三倍[sage] 投稿日:03/06/24 22:48 ID:???
メーカひよこ

117 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/25 01:36 ID:???
川西は飛行艇/水上機メーカーだから。
紫電に名前を汚して、紫電改で必要以上に褒められたが、
あんまり紫電改は有名でもそのメーカーが川西って
認識が薄くないか?
三菱零戦、中島隼、疾風とかと違って。

118 名前: [age] 投稿日:03/06/25 11:36 ID:???
水上機メーカって言っても結構他社に食われてるのでは?
29再建者:03/07/10 19:45 ID:???
119 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/25 11:40 ID:???
>>115
ガルフストリーム社はグラマンとは無関係だよ
名称使用権を買っただけ

120 名前: [age] 投稿日:03/06/25 15:43 ID:???
チャンス・ヴォードも分かりにくいですね。
前がシコルスキー?

121 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/25 18:07 ID:???
B-2を作ってるのはノースロップだよね?
昔から全翼機スキーなメーカーだったし。

122 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/25 18:55 ID:???
戦前・中の米国航空産業界には航空コングロマリットのユナイテッドが力を持っていて
傘下の企業の再編成が度々あったようだ。
ボ−トは戦前の一時期シコルスキ−と同一会社で、ボ−ト・シコルスキ−社だった。
戦記物でF4Uをシコルスキ−と書くのがあるのはこのせい。
その後は、チャンス・ボ−ト→テムコ・ボ−ト→LTVと変わって最終的に名前が消えた。

123 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/25 19:01 ID:yTXVE4AR
>>120
いろいろ変わってるみたい。
チャンス・ヴォートが戦中にシコルスキーと合併してヴォート・シコルスキーになって、
また解消してチャンス・ヴォートに戻ったり。

124 名前:名無し三等兵[あげ] 投稿日:03/06/25 19:43 ID:???
日本メーカはあまり離合集散していない?

125 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/25 22:52 ID:???
イリューシン・ツポレフ・アントノフが何故でてこない
30再建者:03/07/10 19:45 ID:???
126 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/25 22:59 ID:???
>>124
戦前・戦中の話なら文句なくイエス。戦後でもイエスだな。
それだけ日本の航空機業界が、「官」の影響抜きでは考えられないってこと
・・・でいいのかな?戦後はあまり詳しくないので

127 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 10:23 ID:???
かなり適当だが各社のキャッチ

水上機の川西
楕円翼の愛知
練習機の立川

三菱と中島は大手すぎて思いつかない、技術力と生産力?

128 名前: [ ] 投稿日:03/06/26 10:38 ID:???
ナチに振られるハインケル
31再建者:03/07/10 19:46 ID:???
129 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/26 11:03 ID:???
他国の日本のメーカーへの影響力という点から鑑みると、

三菱の小型機は、英国系でソッピース、ブラックバーンの系譜を引いている。
大型機は独系でユンカースかなぁ。

中島の小型機は、海軍機は英国系で、グロスターとかブリストルの系譜。
陸軍機はフランス系でニューポール系だろうか。
後に、ヴォート、ダグラスの技術を導入して、米国系にシフト。
大型機はモロに、ダグラス系。

愛知は、ハインケルの系譜。
川崎は、ドルニエの影響が強い。
川西は…何だろ。ブローム・ウント・フォス?いずれにしても独系かな。

立川は、ハンドレページとかデハビランド、それから、ロッキードか。

130 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 11:05 ID:???
>>126
戦後はGHQによる財閥解体や航空機開発禁止の影響で
会社自体バラバラになったり、終戦後食い繋ぐ為の副業だったのが本業になったり…
特に油圧関係、エンジン製造やって多くの板金職人抱えていたから輸送機器関連が多い

中島飛行機なんて荻窪が立川飛行機とくっ付いてプリンス自工(後に日産と合併)
横須賀が今はトヨタ系列の関東自動車。
本体の群馬と宇都宮、大宮など旧中島同士がくっ付いて富士重工。
その他、建設機械製造をやっている会社もある。

131 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 11:24 ID:???
戦闘機のグラマン
32再建者:03/07/10 19:46 ID:???
132 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 11:25 ID:???
>131
違う。飛行艇のグラマンが正解

133 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 11:36 ID:???
急降下のカーチス

134 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 11:36 ID:???
輸送機のダグラス
大型爆撃機のボーイング

135 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 11:44 ID:???
フィアットとかマッキとかレジアーネの解説希望 

136 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 11:46 ID:???
あと、ピッコロ社も(w

137 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 11:53 ID:???
フィアット 事実上イタリア唯一の自動車メーカーにして倒産寸前
マッキ   イタリアが誇る中軽量級バイクメーカーにして既に倒産
レジアーネ イタリアが誇る機関車(SL)メーカーにしてとうの昔に消滅


138 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 11:55 ID:???
全翼機のノースロップ

不採用のノースロップ

139 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 11:56 ID:???
造船所の作る飛行機に萌えーり
33再建者:03/07/10 19:47 ID:???
140 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 11:58 ID:???
三角翼で有名なメーカはどこだっけ?

141 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 11:59 ID:???
ピッコロ社 モー娘。バブル崩壊とそれによる倒産におびえるアップフロントグループが
       死に体のキングと組んで立ち上げたレーベルで童謡やフォークカバーや
        謹慎から復帰した元メンバーの新譜を次々発売するも全部ダメでまもなく
         解散するであろうと予測されている


142 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 12:00 ID:???
コンベア?

143 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 12:01 ID:???
レジアーネはまだあるかも


144 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 12:11 ID:???
ベルトのコンベア

145 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 12:13 ID:???
>>144
修行が足りぬ

146 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 12:17 ID:???
>>145
ダッテオモイツカナッカッタンラモン
34再建者:03/07/10 19:47 ID:???
147 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 12:22 ID:???
せめてコンベアで大量産くらい言え。

   面白くないけどな。

148 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 13:46 ID:???
サスペンションとかの「カヤバ」ってオートジャイロ作ってたねむかし

149 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 14:33 ID:???
>>139
やっぱ木工船会社のデ・ハビラントでしょう
飛行機ですら木で作ってしまうコケシ職人のような会社

150 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 14:48 ID:???
>>129
川崎は,ドルニエの設計技師だったフォークト博士を呼んでますからね.
フォークト博士が帰独後にハンブルガー/ブロムウントフォスでユニークな
機体を連発したほうが有名ですが.

川西は,初期の水上機が"ドイツ・北海式"と書かれたもの(確か丸メカ
の佐貫亦男氏の文章)があったし,ハンザ・ブランデンブルク型の双フロー
ト機がいくつかあったような.


151 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/26 14:56 ID:???
サーブは自動車も戦闘機も作ってるな。

152 名前:名無しAPG ◆yvNqrnvsYY [sage] 投稿日:03/06/26 15:20 ID:???
>>140
ダッソー?
35再建者:03/07/10 19:48 ID:???
153 名前:なでるくん[] 投稿日:03/06/26 19:58 ID:67ufY0zY
フィアット(現アエリタリア)はトーネードの機体とエンジン両方に参加してるので
しばらくは安泰かと

ついでにこんなサイト発見
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~l-city/data/death/itari0.html

154 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/26 20:01 ID:qzfoIwcW
川西と関係が深いのはは英ショート社


155 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/26 21:03 ID:qzfoIwcW
>>148
ていうか散々だった脚柱メーカーが今では・・・・

156 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/26 22:02 ID:P9WDCHHj
松下電気の子会社が木製練習爆撃機「明星」を生産していたのは笑えた。

157 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/26 22:14 ID:???
>>150
そのハンザ・ブランデンブルグ水上偵察機は、愛知と中島で三菱製発動機
(イスパノ・スイザ)を取り付けて生産された訳で。

ハンザ式の機体は民間用のK-5〜K-8の系譜ですね。
K-6はゲッティンゲン大学航空研究所の資料を基に製作。

飛行艇は確かにショートの系譜と広工廠のワグナー式の独系を汲んでいるん
だけど、小型水上機は、何処の影響か判らないなぁ。
36再建者:03/07/10 19:48 ID:???
158 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/26 23:52 ID:???
米国の航空機会社は、
ボ−イング
ロッキ−ド・マ−チン
ノ−スロップ・グラマン
の三社に集約されてしまったわけだが、この中ではマ−チンっての
が目立たないがしぶとかったんだなと思う。
主力となるような有人機のメインコンストラクタ−からは五十年代
に撤退したようだが、ロケットやミサイルで稼いでいたらしい。

159 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 01:01 ID:???
>>157
精緻な指摘,ありがとうございます.ハンザ・ブランデンブルク水偵に
ついてはイスパノつながりでしたね.勘違いしておりました.
川西の飛行艇は,確かにショートのカルカッタ系なんかもあるけど,広廠
の15式(?)あたりの外形見ると,厚翼単葉のイメージはモロにワグナー
ビームの匂いですが,小型機は創始者が手がけていた時期は,ゲッチンゲン
系の影響を受けながらも,少々日本機離れしたオリジナリティという気も.
初期の川西式競速機なんか,冷却機配置なんかメチャ大胆ですし.
94式(?)特偵あたりの,タワー型ラジエーターにその名残があるようにも
感じますね.


160 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 01:08 ID:???
ノースロップグラマンももう死に体だろ

161 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/27 08:52 ID:???
メッサーシュミット社は営々細々・・・

162 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/27 09:29 ID:wYtWOhOh
●●●マスコミの盗聴、盗撮は許されるのか?●●●
http://natto.2ch.net/mass/kako/974/974478132.html
37再建者:03/07/10 19:49 ID:???
489 名前: 文責:名無しさん 投稿日: 2001/04/11(水) 17:25
一般人なのに盗聴される、じゃなくて、「一般人だから盗聴される」んじゃないのかな?
基本的にネタ集めのためにやってんなら、有名人のネタを盗むと、有名人は告発できるし、
そんなことされても当たり前だと思われるので告発しても信じてもらえる。
そうでない人は、ここの途中の書き込みにもあったように「電波」扱いされるだけ。

ただで、ネタを仕入れるんなら、一般人に限るでしょう。
マスコミは自分らの無能さを恥じてほしいです。

ちなみに私が盗聴されはじめたのは、芸能人にストーカーされ始めてからでした。
そこからマスコミに広がって行った。
だから余計「妄想」とか思われそう。
友人に話したら完全に病気扱いされた。ストーカーって言葉がない時代だったしね。   
書いておいておいた小説のネタが、他人の原作でドラマ化されたときにはきれまくっ
たなあ。(一度や二度のことじゃないけど) 

163 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 11:39 ID:???
>161
イギリス以外の欧州メーカーは事実上1社に統合された(と言い切っていいものか…
あっちの会社関係の法律は日本やアメリカとは全然違うらしい)

164 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/27 13:41 ID:???
ドイツのメーカー攻防史を解説してくれー
ユンカースはエンジンもやっていたが戦後はよく聞かないな。

165 名前:名無し三等兵[ ] 投稿日:03/06/27 13:50 ID:???
そういえばイタリアで世界で2番目にジェット機飛ばしたメーカーはどんなバックグランドか知らねーな。
38再建者:03/07/10 19:49 ID:???
166 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 13:54 ID:???
European Aeronautic Defence and Space Company(EADS)について
 European Aeronautic Defence and Space Company(EADS N.V.)はヨーロッパ最大であり、
かつ世界第3位の宇宙航空防衛企業です。EADSは、設立パートナーである
Aerospatiale Matra S.A.(フランス)、
Construcciones Aeronauticas S.A.(スペイン)、
DaimlerChrysler Aerospace AG(ドイツ)
と事業を展開しています。EADSは、商業用航空機(Airbus)、
商業および軍事用ヘリコプター(Eurocopter)、商業用宇宙発射
装置(Ariane)およびミサイルのトップ・メーカーであり、軍事用
航空機、衛星、防衛エレクトロニクスの分野においてもリーディング・
サプライヤです。87,000人の従業員を有し、フランス、ドイツ、スペ
インに90以上の拠点を配しています。
http://www.tecnomatix.co.jp/news/news010125.html



167 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 13:56 ID:???
>164
と、いうことで
EADS→DaimlerChrysler Aerospace AG→MBBと遡ることはできる
それ以前はよぅわからん

168 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 14:24 ID:???
MBBはメッサーシュミット・ベルコウ・ブロームだから、
メッサーシュミットとブローム・ウント・フォスまではたどれる。ベルコウはなんだ?

169 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 14:43 ID:???
>168
ヘリや地対空ミサイルを造っていた会社らしい
ベルのドイツ子会社かな?
39再建者:03/07/10 19:49 ID:???
170 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 15:04 ID:???
欧州は凄い統合ぶりだな。
BAeもボーイングとくっつくみたいだし。
日本が統合するとしたらどうなるんだろう。

171 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 18:33 ID:???
>>156
松下幸之助が当時の軍からの要請で率先して立ち上げたと社史に書いているぞ。

172 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 18:42 ID:???
大西中将から直々に頼まれたから断れずに・・

173 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 19:12 ID:???
ユーロコプターがなにもかもを飲み込んでる・・・

174 名前: [age] 投稿日:03/06/27 20:46 ID:???
じゃまぁ、発動機メーカーに話題を移してみませうか。
こちらは結構な生き残り具合です。

175 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/27 21:19 ID:???
ネピア、ブリストル、ノームローン、ライト、P&W、アリソン、
ロールスロイス、熱田、イスパノスイザ、三菱
どこも健全な状態では生き残ってませんな

176 名前:168[] 投稿日:03/06/27 21:52 ID:NoBbiO6m
BMW、ダイムラーベンツ、他は…

177 名前:176[] 投稿日:03/06/27 21:55 ID:NoBbiO6m
↑168さんではありません。スマソ

178 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/27 21:56 ID:???
フィァット、アルファロメオ、クリモフ、ミクリン、ユンカース
40再建者:03/07/10 19:50 ID:???
179 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/28 08:47 ID:???
日立(瓦斯電)

180 名前: [age] 投稿日:03/06/28 09:37 ID:???
天風

181 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/28 09:54 ID:???
そう言えば、神戸製鋼所が阪大と組んで、テ号観測機を試作したけど、
あれ、実際に採用されたら何処で生産する予定だったんだろう。

確かに、神戸製鋼所はアルグス発動機のライセンス生産してたけど、そこで
生産するつもりだったのかなぁ。

182 名前: [age] 投稿日:03/06/28 10:11 ID:???
陸海軍に跨って生産された機種もわずかだがあるね。
神風号とか4式重爆とか。

183 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/06/28 10:21 ID:ImCGhqc/
ユングマン

184 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/28 10:39 ID:???
4式重爆って海軍で使われたか?
海軍の部隊の指揮下に陸軍の部隊が一時的に入っただけじゃなかったっけ?

185 名前: [age] 投稿日:03/06/28 10:50 ID:???
日本: 中島、 三菱、 川崎、 愛知
ドイツ: DB、 ユンカース、 BMW
イタリア: フィアット、 アルファ・ロメオ、 ピアジオ
アメリカ:  P&W、 ライト、 アリソン
イギリス:  ロールス・ロイス、 ブリストル、 ネピア
フランス:  ノーム・ローン、 イスパノ・スイザ
41再建者:03/07/10 19:50 ID:???
186 名前:排気タービン付G[] 投稿日:03/06/28 10:52 ID:4J7h7Gp5
メッサーシュミット社かフィアット社、
戦後すごい三輪車出してたな。
前が二輪のやつで、プロペラが先っちょに付いてるやつ。


187 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/28 12:57 ID:???
>>186
プロペラは付いてないが、これの事か?
ttp://plaza.across.or.jp/~corofi/mes5.html

188 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/28 13:16 ID:???
うぐぅ。
>164の問いに答えようと、三時間掛けて、ドイツのメーカー興亡史書いてたら、
かちゅが飛んだ。

もうダメポ。
42再建者:03/07/10 19:50 ID:???
189 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/28 13:18 ID:???
良かった。ログは残ってた(^_^;。

>164
Adlerは、自動車メーカーで、1934年に軽飛行機を作っていたFrankfurter Flugzeugbau Max Generの
会社を譲り受け、第二次大戦中は、BFW社の下請けとして、Bf-109等を生産。

Arado Flugzeugwerkeは第一次大戦中の軍用機メーカーFriedrichshafenの子会社として
1918年に設立。
戦後、1925年にArado-Handelsgesellscaft(アラド商事会社)に社名変更。
1933年に社名変更。

Messerschmitt A.G.は、言わずと知れた、第二次大戦ドイツ航空機メーカーの一方の雄。
1926年に、元々第一次大戦中の軍用機メーカーだった、Bayerische Rumpler Werkeを
基に戦後軽飛行機を製作する会社に転身したUdet Flugzeugbauを買収。
それをBayerische Flugzeugwerkeとして、1923年にMesserschmittが作った自社工場を、1927年9月
に買収。
その後、Messerschmittはその試作部門として存続。
また、この間、Bayerische Moteren-Werkeも吸収している。
1938年に、社名変更。

Blohm & Vossは、ドイツ最大級の造船メーカーの航空機部門として、1933年にかのVogt技師を
招いて設立。
最初の社名は、Hamburger Flugzeugbauで、大戦直前に本社に統合。

Bucher Flugzeugbauは1933年10月創立。
社長のBuckerは海軍のパイロットで、戦後はSwedenのSvenska Aero A.B.の社長。
43再建者:03/07/10 19:51 ID:???
190 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/28 13:19 ID:???
Fieseler Flugzeugbauは、曲芸飛行士だったG.Fieselerによって1930年に設立。

Focke-Wolf Flugzeugbauは、1924年1月にH.FockeとG.Wolfによって設立。
1931年9月に倒産に瀕した第一次大戦中の軍用機メーカーAlbatross-Flugzeugwerke
を合併。
1931年末にSpainのCiervaからAutogiroに関する特許を購入し、Fw-61を製作後、ヘリ
専門メーカーとして、Focke-Achgelisを設立。

Gotha Wagonfabrikは、元々鉄道車両工場。
第一次大戦中には大型軍用機に参入したが、1918年、敗戦により一時撤退。
1930年代に再参入。

Ernst Heinkel Flugzeugwerkeは、1922年設立。
統合とか、社名変更は特になし。

Henschel Flugzeugwerkeは、1933年に機関車製造メーカーのHenschel & Sohnの
航空機製造部門として設立。
本来は輸送用航空機に特化したメーカーとなる予定だった。

Junkers Flugzeug und Motorenwerkeは、1910年にProf.Junkersが全金属製全翼機
の特許を取得したことから始まる。
1913年、小型船舶用Diesel engine製造工場を設立し、Junkers Mokerenbauとなる。
翌年、航空機用エンジンに進出。
1915年に、全金属製航空機の製造を開始し、Junkers Flugzeugを設立。
戦後も、航空機製造を続けたが、Hitler政権になると、その主導で1936年に発動機と
航空機を合併し、半官半民のメーカーとなる。

Leichtflugzeugbau Klemmは、1919年、Klemm-Daimler軽飛行機をDaimler-Werkeで
開発した、H.Klemmがその飛行機会社を引き継いで、1927年に設立。

Siebel Flugzeugwerkeは、Flugzeugwerke Halleを社名変更したもの。
44再建者:03/07/10 19:51 ID:???
191 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/28 13:19 ID:???
航空エンジンメーカーは…。

Argus Motorenは、1902年に自動車製造メーカーとして設立。
1906年にドイツ最初の4気筒航空機用エンジンを製作し、第一次大戦中は最大のエンジンメーカー
の一つとなる。
第一次大戦後は一旦航空機用エンジンから撤退したが、1928年に再参入。

BMW Flugmotorenbauは、1916年にBeyerische Motoren Werkeとして、航空機用エンジンメーカー
として6気筒水冷エンジンが主に製造された。
戦後は、航空機用エンジンの開発が叶わなかったので、戦後の一時期、Gathaer Waggon Fabrikの
為に、鉄道車両用圧搾空気ブレーキを製造。
その後、Bayerische Flugzeug Werkeによって買収され、エンジン製造部門となり、1935年にBMW Flugmotorenbau
に社名変更。
1939年に、第一次大戦中の軍用機メーカー、Siemens Schkeltを継承した、Siemens Apparate und Maschinenの
航空機用エンジン製造部門で、1936年に分社化したBrandenburgische Motorenwerkeと合併。
この会社が、BMW Flugmotoren-werkeを継承した。
なお、Brandenburgische MotorenwerkeはBMWのBramo部門となり、再び分社化され、B.M.W. Flugmotoren-Werke
Brandenburgとなる。

Daimler-Benz Aktiengesellschaftは、1926年にDaimler Motoren Gesellschaftと、Benz & Cieとの合併で作られた
もの。
両方とも世界で最も古い自動車メーカー。

Hirth-Motorenは、1924年、戦前からの著名なPilotだったH.Hirthによって、1924年に設立された、
Versuchsbau Hellmuth Hirthが母体。
工場が拡張され、1931年にHirth-Motorenとなるが、1938年に彼の死により会社は宙に浮く。
しかし、Heinkelの注目するところとなり、1941年に漸く買収。
以後は、Heinkelのエンジン部門として、Ernst Heinkel Aktiengesellschaft Werk Hirth-Motorenとなる。
45再建者:03/07/10 19:52 ID:???
192 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/28 13:21 ID:???
第二次大戦後残ったのは…。

Dornierがまずスペインで再起し、後に西ドイツに移転して軽輸送機、大型輸送機、
VTOL機の開発を行い、Deutche Aerospace(DASA)となる。
なお、Dornierのスイス支社は、1948年にFFAとなり、軽飛行機を主に製造してきたが、
後にドイツに設立された、Flugzeug und Faserverbund Technologie(FFT)に開発が
引き継がれている。
余談ながら、Dornier博士の長男が、Dornier Compositeと言う新会社として立ち上げて
飛行艇を開発していたりする。

Focke-Wolfは、クルト・タンクが国外に去った後は、イタリアの軽飛行機、
Piaggio P.149を製作し、糊口を凌いだ後、VAKと社名変更。
後に、VFWとなって、VFW-Fockerとなったのかな。

Klemmは残り、相変わらず軽飛行機を製造するが、後にBoelkow-Entwicklungenに吸収される。

Blohm & Vossは、Hamburugerとして再び発足し、戦後、西ドイツでフランス製のNord Noratlas輸送機の
国産化を行い、再び、Blohm & Vossに社名変更。

Heinkelは、一時期自動車製造を行った後、Fouga CM-170 Magister練習機の国産化に着手、その
発展型CM191を開発。
Messerschmittも同じく、自動車製造に参入し、Fouga CM-170 Magister練習機の国産化を行い、F-104G
のライセンス生産を実施。

Siebelも軽飛行機メーカーSIATとして存続。
Buckerは1967年に、Bucker Aero Technikとして復活。

Blumeと言う会社は、何が母体になったか不明。
その後Rhein-Flugzeugbau(RFB)になった様な…。
46再建者:03/07/10 19:52 ID:???
193 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/28 13:21 ID:???
Messerschmittと、Heinkel、そして、BoelkowはEntwicklungsring-Sudを形成し、それが中心となって、
それを母体にBlohm & Vossも吸収してMesserschmitt-Bolkow-Blohmに収斂。
また、戦後設立したLFU、戦前からあったSiebelもこれに吸収される。
これが今のEADSになったんですっけ。

なお、Junkersは、東ドイツに工場があった関係で生産設備が殆ど接収されたが、VEBと言う国営航空機
工場がそれを母体に設立され、Il-14の生産の他、Jumo112を基にした国産ジェットエンジンを用いたジェット
旅客機を試作している。

194 名前: [age] 投稿日:03/06/28 14:18 ID:???
眠い人さん
 どうもありがとうございます。勉強になります。

195 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/28 18:20 ID:???
眠い人氏、激しく乙でし!!
こりゃ保存版だわ。

196 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/28 19:27 ID:???
>>189-193
お疲れ様です.保存版ですね.

197 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/28 23:15 ID:???
良スレだな

198 名前:ツェッペリン伯爵[sage] 投稿日:03/06/29 00:49 ID:???
どうせ僕は空の異端者・・・byツェッペリン硬式飛行船製造会社
47再建者:03/07/10 19:53 ID:???
199 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/29 02:42 ID:???
>198
おりょ?
分割した際に、落っこちてしまった(苦笑。

Dornier Metallbautenは、主任設計者のDornierが、Zeppelinの支援を受けて全金属製
飛行艇を製作することに始まる。
その後、Zeppelin Werk Lindauの後継会社として、1922年に設立。
1930年代にDornier-Werkeに商号変更。
ちなみに、スイスには、A.G. Fur Dornier-Flugzeugeと言う、Dornierのダミー会社があり、
1926年からずっと営業を続けています。

本家の方、Luftschiffbau Zeppelinは、1900年に設立。
1918年の第一次大戦終了後のVersailles体制で、一時製造を中止し、Dornierに移管。
1924年に活動を再開し、飛行船の製造を再開。

JunkersはSwedenに、1933年まで支社を設けていました。
陸軍の九三式重爆、双軽爆の基になったK.37、Ju-87の基になった、K.47はこの会社の
製造です。

後、落ち穂拾いで、Weserと言うのがありました。
Weser Flugzeugbauは、1934年4月に設立された、Deutsche Schiff & Maschinenbauを起源とし、
第一次大戦中の飛行艇メーカー、Rohrbach Matall-Flugzeugbauを引き継いでいます。
第二次大戦では、Ju-87の部品製造などを行っています。

あと、Agoと言うメーカーがBf-109の生産を行っていましたが、このメーカーの詳細は漏れは
判らなかったです。

気が向いたら、イタリア逝っとく?
48再建者:03/07/10 19:53 ID:???
200 名前:名無し三等兵[age] 投稿日:03/06/29 06:39 ID:???
是非お聞かせ願いたい

201 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/29 11:27 ID:???
>>184
四式重爆は、海軍でも「靖国」の名で採用されていた。
と言ってもかなりの少数だけどね。
推測だけど、『陸軍雷撃隊』の教導機に使うとか、海軍の搭乗員の訓練用とか、
そういった目的だったんじゃないかな。
49再建者:03/07/10 19:53 ID:???
202 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/29 23:05 ID:???
では、軽くイタリアの飛行機会社について。

Societa Italiana Ernesto Bredaは、1917年、ミラノの資本家たちによって設立されました。
1919年から航空機の製作を始め、1922年からは全金属製の期待を開発しています。

Cantieri Riuniti Dell'Adriatico(CANT)は、イタリア最大級の造船会社、Cantiere Monfalcone
の飛行機部門として、1923年に設立されました。
会社の性格上、水上機、飛行艇を得意としていました。

Societa Italiana Caproniは、G.Caproni伯爵が経営しているイタリア最大の企業体です。
まず、Cantieri Aeronautici Bergamaschi

Aeronautica D'Italia S.A.は、Fiatのこと。
1916年1月に、Societa Anonima per Construzione Ing. O. Pomilio & Co.と言う長ったらしい
名前の会社として誕生し、1920年4月24日に、Aeronautica Ansaldo S.A.となりました。
1925年、Fiatの航空機部門となり、1926年3月30日に、Fiat傘下の企業として、現名に変更
されました。

Aeronautica Macchiは、1912年に設立された古参メーカーです。
1913年に最初の航空機を製造し、以後、小型機(戦闘機)メーカーとして地歩を築きました。

S.A.Industrie Meccaniche E Aeronautiche Meridionaliは、1923年にItaliana Aeronautica Industrie
の傘下で、Officine Ferroviarie Merdionaliを設立し、1925年にFokkerの航空機をLicense生産
することから始まりました。
1934年から、Societa Anonima Industrie Aeronautiche Romeoが触手を伸ばし、1936年に完全に
吸収され、Romeo社は社名を現在のものに変更しています。
50再建者:03/07/10 19:54 ID:???
203 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/29 23:58 ID:???
>202は間違いだらけなので、無視して下しい。

では、改めてイタリアの飛行機会社について。

Societa Italiana Ernesto Bredaは、1917年、ミラノの資本家たちによって設立されました。
1919年から航空機の製作を始め、1922年からは全金属製の機体を開発しています。

S.A.Industrie Meccaniche E Aeronautiche Meridionaliは、1923年にOfficine Ferroviarie Merdionaliとして
設立され、1925年までの2年間、Fokkerの航空機をLicense生産することから始まりました。
1934年から、Societa Anonima Industrie Aeronautiche Romeoが触手を伸ばし、1936年に完全に
吸収され、Romeo社は社名を現在のものに変更しています。
なお、1936年に、Bredaの傘下に入っています。

Construzioni Maccaniche Aeronautiche(C.M.A.S.A)は、1922年にDornier飛行艇を製造する
会社として設立されました。
1923年、Odero-Marescalchiと言うSyndicateの傘下に入り、1929年にFiatの傘下に入ってい
ます。
Fiat C.R.20の製造の他、水上機、飛行艇、軽飛行機などを幅広く製造していました。

Cantieri Riuniti Dell'Adriatico(CANT)は、イタリア最大級の造船会社、Cantiere Monfalcone
の飛行機部門として、1923年に設立されました。
会社の性格上、水上機、飛行艇を得意としていました。
51再建者:03/07/10 19:54 ID:???
204 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/29 23:59 ID:???

Societa Italiana Caproniは、G.Caproni伯爵が経営しているイタリア最大の企業体です。
本体の他、その傘下には多数の会社がありました。
Cantieri Aeronautici Bergamaschiは、元々飛行学校を経営しており、1927年に航空機
業界に参入します。
この時開発した、2機の訓練用航空機が賞を取ったので、Caproniに注目され、Bredaから
引き抜いたChiefEngineerを主任設計者にして、航空機開発を行っていました。
Compagnia Nazionale Aeronautica(C.N.A)も、1920年にローマに開講した飛行機学校で、
この実習工場で、試験的に飛行機、エンジンを製作していました。

Officine Meccaniche "Reggiane" S.A.はCaproni傘下の航空機工場で、第一次大戦中はその機体
を生産していました。
しかし、大戦終了後、航空分野への参入を航空省に閉ざされ、暫く雌伏します。
1937年、Caproniの爆撃機、Ca405の開発で再参入を果たし、その後自前の設計陣により、単座戦
闘機の開発を行っています。

Societa Anonima Industrie Meccaniche Aeronautiche NAVALI(SAIMAN)は、S.A.Navigazione Aerea
を1934年に社名変更したもので、この会社は、軽飛行機の開発の他、他メーカーの下請け、エンジンの
製造、Motorboatの製造なんかも行っています。

Aeronautica D'Italia S.A.は、Fiatのこと。
1916年1月に、Societa Anonima per Construzione Ing. O. Pomilio & Co.と言う長ったらしい
名前の会社として誕生し、1920年4月24日に、Aeronautica Ansaldo S.A.となりました。
1925年、Fiatの航空機部門となり、1926年3月30日に、Fiat傘下の企業として、現名に変更
されました。

Aeronautica Macchiは、1912年に設立された古参メーカーです。
1913年に最初の航空機を製造し、以後、水上機、飛行艇メーカーとして名を馳せ、後に小型機(戦闘機)
メーカーとして地歩を築きました。
52再建者:03/07/10 19:54 ID:???
205 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/30 00:10 ID:???
Societa Anonima Piaggioは、1916年に造船機械メーカーの技師たちが航空機分野に参入したこ
とが最初で、第一次大戦中はCaproniの機体をライセンス生産していました。
戦後、一時期は不況で航空機分野から撤退しますが、1923年8月8日にローマの投資家、
Pegma & Bonmartiniの支援を受け、航空機業界に再参入します。
まず、Pontedra製作所で、Bristol、Gnome-Rhoneエンジンのライセンス生産を始め、航空機用エ
ンジンの開発を行います。
もう一つのFinalmarina製作所では、機体の開発を行い、主に木金混製の水上機、飛行艇など
大型機を開発しています。

Societa Italiana Aeroplani Idrovolantini "Savoia-Marchetti"も、1915年に設立された古参メーカー
で、大型機を得意としています。

エンジンメーカーとしては、Piaagioはさておいて…。

Societa Anonima Alfa-Romeoは有名な自動車メーカーですが、1917年にから航空機エンジンにも
参入しており、1925年から英国製Jupitor、Lynxエンジンのライセンス生産を行っています。
1931年から、Mercury、Pegasusの生産も開始していました。

Societa Anonima F.I.A.TはFiat本体で、1898年設立の輸送機械メーカーです。
その後、自動車に進出し、その技術を以て1908年より航空機用エンジンの開発を行い、
イタリア最大の航空機用エンジン供給メーカーとして君臨していました。

Fabbrica Automobili Isotta-Franschiniも、1898年設立の自動車メーカーです。
航空機用エンジンにも早くから取り組み、そのLicense生産によって、Fiatで自社エンジン
が多数生産されました。
なお、Caproniともこの会社は関係を持っています。
53再建者:03/07/10 19:55 ID:???
206 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/30 00:57 ID:???
もう一つ、Societa Aeronautica Itariana(S.A.I.)という会社がありました。
1935年に設立された新興会社でしたが、軽飛行機を開発、製造し、第二次大戦中は、
戦闘機の開発を行っていました。
後のAmbrosiniです。

戦後、Breda、C.A.N.T.は航空機産業から撤退し、Meridionali、C.M.A.S.A、Caproniは
転業、あるいは消滅しました。

残ったのは、Ambrosiniを母体とするAerfer、第二次大戦中の航空機部品メーカーから
発展した、Construzioni Aeronautiche Giovanni Agustaと、Societa per Azioni Fiat、
Aeronautica Macchi、それにPiaggio & C. Societa' per Azioniだけとなりました。

Aerferは戦後、木製の超音速研究機(大戦中の練習機S.A.I..7にジェットエンジンと後退翼
を付けた機体)Sagitario1を製作し、それを基に、Italy最初の超音速突破戦闘機となった、
Sagitario2を製作しました。
しかし、採用はされず、経営難からMacchi傘下に入り、消滅しました。

Agustaは、Cant社の主任設計者Zappa技師を迎えて、輸送機に進出しますが、その後、
Bellとのライセンス生産から、ヘリコプターメーカーに転向しました。
なお、90年代に入って、SIAI-Marchetti社を買収し、固定翼機に再参入しています。
また、CaproniGroupでの唯一航空機産業生き残り、Caproni-Vizzoraも傘下に組み込んで
います。

Fiatは、G.55の発達型で糊口を凌ぎ、T-33、Vampireのライセンス生産から、国産初の
ジェット機G.80を製作。
戦闘機・輸送機など幅広く製作し、1970年代半ばにAeritariaに社名を変更、更にArenia
になっています。

Macchiも、M.C.205Vなどの輸出で糊口を凌ぎ、練習機メーカーとして地歩を築いています。
現在はAermacchiに変わっています。
Piaggioは軽飛行機、水陸両用機で成功し、その陸上機型とビズジェットなども手がけています。
54再建者:03/07/10 19:56 ID:???
207 名前: ◆82ontG9gSc [] 投稿日:03/06/30 01:28 ID:jyNTz6Gp
神降臨
これは永久保存物です

208 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/06/30 13:30 ID:???
アグスタってイタリアのメーカーだったんか
ドイツのだとばっか思っておったよ
55再建者:03/07/10 19:56 ID:???
209 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/06/30 23:55 ID:???
>206
あ、Zappaじゃ、musicianだよ。
Zappataだった。

F.Zappataは、C.A.N.T.を辞めた後、1942年にBredaに籍を置き、巨人機B.Z.308を設計します。
この機体は、1946年、製作中に連合国監督委員会の干渉で一時中止となり、1947年1月まで
店ざらしとなり、エンジンに英国製セントーラスを用いたものの、これも到着が遅れ、1948年に
漸く初飛行が行われ、Argentina空軍が3機発注し、同国のGruppo Aeronautico Itarianoで、
生産が行われる予定でしたが、出現が遅すぎて、DC-6、L-1049、B-377の対抗たり得ず、
Bredaは破綻に追い込まれています。

その後、彼はAgustaに移り、1958年に短距離用STOL貨客輸送機A.Z.8を手がけますが、
これも時代に合わず、少数生産に終わり、イタリア空軍に採用されただけでした。

Agustaが、ヘリに本格参入するのは、AB.47Gのほか、1961年のA.101からです。
Bellのライセンス生産は、AB.47G、AB.205、AB212、AB412と進んでおり、また、SH-3Gも
独自の発展型として、ASH-3Gを生産しています(Iranに輸出されたのもこの型だったかな)。
独自モデルとしては、A.101の他、単座対潜攻撃ヘリ(DASHの有人版)A.106、ベストセラー、
A.109、攻撃ヘリA.129などがありますね。

あと、Marccetti社は、一度会社を消滅させましたが、規模を小さくして再出発しており、
軽飛行機を中心に、S.F.260練習/COIN機(これは、戦後のメーカーAviamilano社の
F.250より発展したもの。)、S.M.1019観測機、1968年にはヘリ部門を設けて、SV-20と言う
機体を計画し、General Avia社を吸収して、軽飛行機分野を強化。
更に最新の機体として、S.211を開発していました。

Caproni-Vizzoraは飛行学校から発展したもので、戦後はGliderを製作した後、それに動力を
付けたMotorGliderを作っていました。
特にジェットエンジン付MotorGliderのA-21Jから発展したC22Jが本格的な練習機として生産
されていました。
56再建者:03/07/10 19:59 ID:???
210 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/07/01 00:26 ID:???
つ〜こって、次回はいよいよ、英国編に突入するのねん。
ちなみに、仏蘭西は余りに複雑怪奇なので、餅付くまで待つのねん。
57再建者:03/07/10 19:59 ID:???
211 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/07/01 22:49 ID:???
英国編…。

Airspeed Ltd.は、1934年8月に、著名な造船会社Swan, Hunter & Wigham Richardson Ltd.の
関連会社Airspeed(1934) Ltd.として設立されました。
1935年1月に、Fockerと提携し、Douglass航空機の英国と連邦諸国内における販売を担当し
ています(Fockerは欧州のDouglass代理店)。
1940年に、Swan, Hunter & Wigham Richardson Ltd.からde Havilland Aircraft Ltd.に会社の
支配権が渡り、その傘下に入りますが、吸収はされていません。
1944年1月25日に社名をAirspeed Ltd.に変更しています。
この会社は中〜軽輸送機の製造を得意とし、戦後も生き残っていますが、1947年に最後の
航空機、A.S.57が初飛行した後、1955年までに消滅しています。

Sir W.G.Armstrong Whitworth Aircraft Ltd.は、1921年に設立されたものですが、この会社は
全金属製航空機のPioneerでした。
1935年に、Hawker-Siddley Aircraft Co.Ltd.が、Hawker AircraftとArmstrong-Siddley Development Co.ltd.
と合併して形成されますが、後者を形成していたのは、Sir W.G.Armstrong Whitworth Co.ltd.と
Armstorong Siddley MotorsとA.V.Roe & Co.ltdでした。
この会社は創立直後の一時を除き、戦前から、大型航空機に強く、戦後は、複座型MeteorのLicense生産と
発展型の開発や、Hawker-Siddleyの下請け生産を行いつつ、大型輸送機を開発していました。
その後の航空産業再編で、Hawker-Siddleyの一部門に組み込まれています。

A.V.Roe & Co.Ltd.は、1909年に設立された、英国最古に近い航空機製作会社、部品製造会社です。
1913年1月に有限責任会社に改組し、1935年にHawker-SiddleyのSiddley Development Co.ltd.の形成
会社として、Hawker-Siddley Aircraft Co.Ltd.傘下の子会社として航空機生産を行います。
第一次大戦中は練習機を、第二次大戦中から戦後に掛けては大型爆撃機、哨戒機の生産を行ってい
ました。
ここも、その後の航空産業再編で、Hawker-Siddleyの一部門に組み込まれています。

とりあえず、今日はここまで。
58再建者:03/07/10 20:00 ID:???
212 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/07/02 20:38 ID:I6/BnZmD
愛知時計に談合の捜査はいったね。
この愛知時計って流星改の愛知でしょ。

213 名前:なでるくん ◆9fcB7hi0gQ [] 投稿日:03/07/02 21:59 ID:VWkAF6gT
付け加えるとホーカーの前身はあのソッピース
59再建者:03/07/10 20:01 ID:???
214 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/07/02 23:57 ID:???
さて、昨晩に続いて…。

The British Aircraft Manufacturing Co.Ltd.は、1933年に設立されたBritish Klemm Aeroplane Co.Ltd.
を買収したものです。
British Klemmは、ドイツのLeichtflugzeugbau Klemmの飛行機を製造するために設立されたもので、
低出力エンジンを積んだ軽飛行機を生産しています。
これは大戦中に消滅しています。

The Blackburn Aircraft,Ltdは、R.Blackburnによって、1910年に設立されました。
子会社に、航空輸送会社のNorth-Sea Aerial & General Transport Ltd.と、エンジンメーカーのCirrus-Hermes
Engineering Co.Ltd.を傘下に従えています。
この会社は主に、艦載航空機、飛行艇、水上機のメーカーです。
1936年、この会社は、Scotlandの大きな造船会社、William Denny & Bros.Ltd.と提携し、その経営陣を迎入れます。
戦後、General Aircraft(後述)と合併し、Blackburn & General Aircraft,Ltdとなり、Blackburn系は艦載機を、General系は
大型輸送機(Beverly)を生産しますが、これも、その後の航空産業再編により、Hawker-Siddleyに組み込まれます。

Boulton Paul Aircraft Ltd.は、1916年に、The Aircraft Department of Boulton Paul Ltd.として設立され、不況に抗し
きれずに、1931年に、A.T.S.Ltdと言う、全金属製機の特許を有する持ち株会社に吸収され、その子会社の一つになって
います。
この会社には、Boulton Paulの他、Gloster Aircraft Co.Ltd.、Sir W.G.Armstrong Whitworth Aircraft Ltd.、
The Steel Wing Co.Ltd.も傘下に抱えていました。
1934年、この会社の傘下から、Boulton Paul Aircraft Ltdは独立します。
戦前は双発の軽爆撃機を、大戦中は戦闘機を生産しますが、一方で銃座の製造メーカーとしても
活躍し、戦後は1948年に練習機を製造しただけで、1950年代半ばには航空機の生産活動を終えています。
60再建者:03/07/10 20:01 ID:???
215 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/07/02 23:59 ID:???
続き。

The Bristol Aeroplane Co.Ltd.は、1910年に初期の路面電車の先駆者である、Sir George White,Bart.によって
設立された会社で、最初は、The British & Colonial Aeroplane Co.Ltd.と言う名称でした。
この会社が現在の名称に変わったのは、生産工場をBristolの郊外に置いたからだそうです。
この会社は、多数の航空機、それにエンジンを製造し、戦後は、民間航空機、航空機用タービンエンジンの生産
も行っています。
航空産業再編では、British Aerospace Co.Ltdの一部門になっています。
なお、戦後は、BMWをベースとした自動車製造にも進出しており、今でも、76年に生産開始したモデルを作って
います。

216 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/03 18:57 ID:???
>>213
ソースは?

217 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/07/03 18:58 ID:y0BIB+KH
>>212
>>32あたりを見れ。
61再建者:03/07/10 20:02 ID:???
218 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:02 ID:3gZbiUDN
219 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:02 ID:3gZbiUDN
220 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:02 ID:3gZbiUDN
221 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:02 ID:3gZbiUDN
222 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:03 ID:3gZbiUDN
223 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:03 ID:3gZbiUDN
224 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:03 ID:3gZbiUDN
225 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:03 ID:3gZbiUDN
226 名前:46[] 投稿日:03/07/03 19:03 ID:3gZbiUDN
227 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:03 ID:3gZbiUDN
228 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:03 ID:3gZbiUDN
229 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
230 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
231 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
232 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
233 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
234 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
235 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
236 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
237 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
238 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
239 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:04 ID:3gZbiUDN
240 名前:4634t34t43[] 投稿日:03/07/03 19:06 ID:3gZbiUDN
62再建者:03/07/10 20:02 ID:???
241 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/03 19:17 ID:???
コイツ、まだアクセス禁止になってないのか。

ヲイ、六等兵か大佐か毛沢豚か知らんがほどほどにしとけよ。

242 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/03 19:22 ID:???
良スレなので荒らし厳禁
というか、別の人が書くと更に連続で書き込まれるので・・・
63再建者:03/07/10 20:03 ID:???
243 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/07/04 00:06 ID:???
さて、マターリ。

The De Havilland Aircraft Co.Ltd.は、1920年に設立されました。
前身はAirco社で、D.H.10まではこの会社で製作されています。
第二次大戦前は、全木製構造の練習機と民間輸送機のメーカーでしたが、第二次大戦中に
軍用機メーカーの地位を確立し、戦後も、ジェット戦闘機、輸送機など幅広い分野の航空機を
手がけています。
また、1927年以来エンジン分野にも進出し、低出力倒立エンジンを手がけた後、ジェットエンジン
の生産も行い、このほか、HTP装置を中心としたロケットエンジンなども手がけています。
この会社は、戦後、De Havilland Holdingsに移行し、1960年代にはHawker-Siddley Aviation Ltd.
参加の一部門になっています。
また、Australia、Canada、India、New Zealand、Rhodesia、South Africaに、子会社を有しています。
64再建者:03/07/10 20:04 ID:???
The Fairly Aviation Ltd.は1916年に設立したメーカーで、海軍機を中心に生産してきました。
空軍機としては、単発の軽爆撃機を得意としていました。
但し、その生産能力は余り高くなく、Blackburn、Boulton PaulにSwordFishなどの生産を委託することが
多かったようです。
戦後は、対潜機、ヘリコプターに進出しますが、1960年代の航空産業再編には、同じヘリコプター
を扱っていた関係で、Westlandと合併し、その一部門として生き残ります。
なお、Belgiumにはその子会社、Societe Anonyme Belge Avians Fairlyがありました。
このほか、FairlyはReed社の金属製可変プロペラの特許と、Curtiss D-12エンジンのLicenseを購入し、
ライセンス生産を行います。
プロペラは兎も角、エンジンは、1924年以来様々なものが試作されましたが、結局モノになりませんでした。

Folland Aircraft Ltd.は、1936年2月に、British Marine Aircraft Ltd.として設立されました。
しかし、1937年5月、Gloster Aircraftの主任設計者だったH.P.Folland氏を迎え入れ、社名も新たにFolland
Aircraftに変更されました。
戦時中は、各航空会社の下請け生産を行っており、戦後様々な計画機を作りますが、余り受け入れられず、
切羽詰まって自主製作したFo.139〜144が漸く、英空軍の高等練習機となり、更にインド空軍に採用されました。
ただ、その資本力の小ささは否めず、Hawker-Siddleyに吸収されています。
65再建者:03/07/10 20:04 ID:???
244 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日:03/07/04 00:38 ID:???
続き。

The English Electric Co.は、20世紀初頭から存在する電気機関車、Motorなどを作っている
メーカーです。
第二次大戦中は、Handley Page社の下請けとして、爆撃機の生産を行っていましたが、戦後、
その経験を生かして、経営多角化を進め、本格的に航空機産業に打って出ます。
それが、Canberra爆撃機であり、その成功で一気に脚光を浴び、また英国唯一の純製超音速
戦闘機Lightningです。
しかし、戦後は航空再編の波に飲み込まれ、British Aircraft Corporation Ltd.の
一部門となります。

General Aircraft Ltd.は第二次大戦中に成立したメーカーのようですが、資料不足で
よく分らないです。
戦後は研究機などを作っていますが、後にBlackburnに吸収されます。

The Gloster Aircraft Co.Ltd.は、1915年に設立されます。
第一次大戦後、主に戦闘機を製作し、それから発展した競争機を製造します。
1927年、この会社は、the Steel Wing Companyに吸収合併され、1934年に更に
Hawker Aircraft Ltd.に譲渡され、その子会社となります。
第二次大戦中は、各種の戦闘機の他、ジェット機の開発にも携わり、戦後は
Meteor戦闘機を実用化するまでになっていました。
戦後は、Javelin戦闘機などを実用化しますが、これもHawker-Siddleyに吸収
されています。

>216
明日辺り、Hawkerに辿り着きますが、the Hawker-Siddley Trustの取締役の名前
に、T.O.M.Sopwithが名を連ねています。、Hawker-Siddleyに吸収されています。
66再建者:03/07/10 20:07 ID:???
私の持っている分のログは以上で終わりです。
後をお願いいたします。
67名無し三等兵:03/07/10 21:18 ID:???
おつかれー
68名無し三等兵:03/07/10 21:29 ID:38IdMjTo
第二次世界大戦の米海軍機メーカー名
ブリュースター
ボーイング
カーチス
ダグラス
グラマン
グレートレークス
ノースアメリカン
ジェネラル・モータース
ロッキード
チャンスボード
コンソリデーテッド
69ログ補足:03/07/10 21:46 ID:???
222 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 03/07/04 13:09 ID:???
このスレおかしくない?

223 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 03/07/04 13:09 ID:???
直った
70ログ補足:03/07/10 21:46 ID:???
224 名前: 眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日: 03/07/05 00:18 ID:???
さて、気分も新たに…。

Handley Page Ltd.は、1915年に設立されました。
そして、この会社は英国最初の株式会社形態を取った飛行機会社でもありました。
この会社は主に大型機を製作し、重爆撃機、大型民間機の分野では常に先進的な
ものを保っていました。
また、スロット式前縁フラップの特許も保持しており、これは世界中で使用されています。
第二次大戦後もこの会社は生残り、引き続き大型爆撃機と輸送機のメーカーとなって
いましたが、新たに事業を展開しようとした軽輸送機Heraldの開発で時流を読み違え、
失速し、そして、その痛手から復帰できず、1969年8月に倒産してしまいます。
開発中の機体の一部は、Scotish Jetstream社に引き継がれました。

さて、Hawker Aircraftは、1933年に設立されました。
この会社は、第一次大戦前からあった、Sopwithに関係し、その任意清算に関わった
人々が1920年に設立した、H.G.Hawker Engineering Co.Ltd.を母体としています。
Sopwithの頃から、単座戦闘機、軽爆撃機の生産を主に行い、それで得た利益を元に、
1934年にはGloster Aircraft Co.Ltd.を子会社にしています。
第二次大戦中から第二次大戦後に掛けても、戦闘機を主に開発しています。
60年代の企業大合同で、Hawker-Siddleyの中核会社として、英国航空機業界の一方の
柱となり、BAeに繋がっていきます。
71ログ補足:03/07/10 21:47 ID:???
225 名前: 眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日: 03/07/05 00:31 ID:???
で、Hawker-Siddley Aircraft Co.Ltd.と言う会社は、1935年に設立された別会社です。
これは、Armstrong Siddley Development Co.Ltd.とHawker Aircraft Ltd.が半分ずつ出資した
持ち株会社で、Sir W.G.Armstrong Whitworth Aircraft Ltd.(航空機製造)、
Armstrong Siddley Motors Co.Ltd.(自動車・航空機エンジン)、A.V.Roe & Co.Ltd.(航空機製造)と、Air Service Training Ltd.
(飛行機学校)が最初に傘下に置かれ、後にGloster Aircraft Co.Ltd.も加わります。
この会社自体は何も製造していません。
しかし、1960年代の企業合同に於いては、この会社を中心に、Avro-Whitworth部門、De Havilland部門、Hawker-Blackburn
部門に再構成され、更にBAeに繋がっていきます。

Heston Aircraft Co.Ltd.は、軽飛行機メーカーで、1929年に設立されたComper Aircraft Co.Ltd.を、1934年に買収した
ものです。
戦後は生き残ることなく消えていきました。

Martin-Baker Aircraft Co.Ltd.は、鋼管溶接構造を考案したJ.Martinによって、1934年に設立されました。
第二次大戦前から後に掛けて、種々の機体を考案して、実際に試作し、最後のM.B.5は、レシプロ戦闘機の最高峰と
言われましたが、結局は試作に終わり、Martin-Bakerは、航空機部品メーカーに転業します。
そこで、目を付けたのが射出座席で、この会社は、西側最大の射出座席メーカーとして隆盛を極めています。
72ログ補足:03/07/10 21:49 ID:???
226 名前: 眠い人 ◆gQikaJHtf2 [sage] 投稿日: 03/07/06 01:14 ID:???
今日もマターリ。

The Mayo Composite Aircraft Co.Ltd.と言う会社があったりします。
この会社は、1935年に設立されたのですが、Maj.R.H.Mayoが考案し、特許を
取得していた親子飛行機を製作するために立ち上げた会社です。
この親子飛行機は航空省、Imperial Airways、Short Bros.の興味を引き、
Short Bros.によって実現されます。
しかし、数度の飛行だけで、大戦が勃発し、戦後は空中給油技術が進展したり、
大西洋横断の可能な飛行機の実用化があったため、一発屋に終わりました。

Miles Aircraft Ltd.は、1935年3月にPhillips Powis Aircraft Ltd.を株式会社化した
ものです。
この会社の主任設計者だった、F.G.Milesが1934年にフラップの特許を取り、
それが軽飛行機に多数採用され、会社は儲かって、株式会社としたものです。
後に、社名を主任設計者の名前を取ってMiles Aircraft Ltd.と変更しています。
第二次大戦前から、主に練習機、軽飛行機のメーカーとして君臨しており、
第二次大戦中は、練習機の生産の他、研究試作機の製造も行っていました。
戦後、F.G.Miles Limitedに社名を変更し、種々の機体を試作しますが、少量
多品種の施策を行ったため、会社としては存続が出来なくなり、50年代末に
倒産しました。
なお、この会社の最後の機体は、Short Bro.に引き継がれ、SkyVanとしてBest
Sellerになっています。
73ログ補足:03/07/10 21:49 ID:???
7/4のカキコでGeneral Aircraftの成立過程が間違っていました。(消滅は同じですが)
General Aircraft Ltd.は戦前のメーカーで、1934年、それまでに軽輸送機のメーカー
として運営してきた、Monospar Co.Ltd.の資産一切を引き継いで、成立しています。
Monospar Co.Ltd.は独特の単桁の翼構造で各社から注目され、英国航空省、イタリアの
Caproni社、Saunders-Roe Ltd.なども相次いで採用しています。
また、London Air Parkと言う小型機用飛行場を有しており、飛行学校、修理工場なども
所有しています。
第二次大戦前は、その翼構造を採用した軽飛行機を製作し、大戦中は主にGliderを、
更に戦争末期以降は、研究機の製作が主な仕事となり、後にBlackburnに吸収されています。
74ログ補足:03/07/10 21:50 ID:???
227 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 03/07/06 10:57 ID:???
・・・・・ 余人がクチ挟めない緊迫感が漂ってきたなぁ
(精緻な情報,感謝です)

228 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 03/07/06 12:30 ID:???
MB.5最強説には賛同できんけどな
英国機好きとしては.2か.3当たりの鉄管フレーム羽布張りの萌えるべきだ
75ログ補足:03/07/10 21:53 ID:???
俺が持ってるログはここまでです。

*注意
荒らしあぼ〜んが(7月4日午前中?)行なわれたため、
ログのレス番号が再建者氏のものと異なっております。ご了承ください。

再建者氏、スレ立て&貼り付け乙彼様でした。
76名無し三等兵:03/07/10 22:08 ID:???
またまた乙カレー
77名無し三等兵:03/07/10 23:27 ID:???
待ってました
78名無し三等兵:03/07/11 07:13 ID:???
スレタイは前と同じか
79名無し三等兵:03/07/11 08:00 ID:???
多種多様なタミヤに一票
80名無し三等兵:03/07/11 14:08 ID:???
愛知時計の時計ってそのへんで売ってるの?
81名無し三等兵:03/07/11 20:42 ID:P3MeTEgA
>>80
今は時計作りからは撤退。主な製品は水道メーターのはず。
82名無し三等兵:03/07/11 21:45 ID:tVCmAQnC
市販されていたら買うのに・・・
83名無し三等兵:03/07/12 08:46 ID:???
第二次世界大戦フランス空軍史
ttp://www.sky.sannet.ne.jp/mfumio/newmenu.htm

ここなど吉
84山崎 渉:03/07/12 16:30 ID:???

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
85名無し三等兵:03/07/12 21:05 ID:gtBp6WAk
昔我が家には、愛知時計製の掛け時計があったが、壊れて親父が捨てちまった。
86名無し三等兵:03/07/13 09:04 ID:z+OPuWZ5
私待つわ
87名無し三等兵:03/07/13 16:40 ID:???
英国初のジェット機を作ったのがグロスターと言うのに
疑問を感じていたが
万一失敗しても親会社の名前が傷つかないようにとの配慮から
だったのだろうか
88名無し三等兵:03/07/13 21:22 ID:???
イタリアのジェット機メーカもな
89眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/13 21:37 ID:???
再建サンクスコです。
と言う訳で、漏れも、自分で書いたログ再カキコ。

Parnall Aircraft Ltd.は、George Parnall & Co.と言う航空機メーカーが取得した
特許、特許権、設計、それに、Nash & Thompson Ltd.との軍用機器に関する既存、
未決の契約と、Hendy Aircraft Co.が有していた、Henderson翼と、引込脚の特許
を引き継ぐ形で、1935年に発足しました。
主に、軽飛行機の製造を行っていますが、後に動力操作砲塔の開発に成功し、
その生産をNash & Thompsonと行っていますし、レーダーなどの生産も行って
います。
戦後は、航空機の生産を行うことが無かったようです。

Percival Aircraft Ltd.は、1932年に、Percival Aircraft Companyとして発足し、
1937年に倒産し、工場を移転して、Percival Aircraft Ltd.として再建されています。
第二次大戦前は、軽飛行機"Gull"シリーズを生産し、幾つかの記録を打ち立て
ていますが、戦時中はそれを発展させた連絡機を製造しています。
戦後は、Hunting Percival Aircraft Ltd.となり、Provost練習機とそれから発展した
Jet Provost練習機、Penbroke輸送機の開発で存在感を示し、60年代の航空業界
再編では、British Aircraft Co.Ltd.のHunting部門になっています。

Pobjoy Airmotors and Aircraft Ltd.は、1930年にPobjoy Airmotors Ltd.として航空
エンジンメーカーとして設立されました。
1935年に株式を公開し、株式会社に移行した際、その株式の大半を購入したのが、
Short Bro.Ltd.で、Shortは、自社で製造していたPobjoyエンジンを搭載していた軽
輸送機をPobjoyに製造させるようにし、社名をPobjoy Airmotors and Aircraft Ltd.と
しました。
1938年3月、Shortの子会社となり、第二次大戦中は、部品、補機類の製造を行い
ました。
なお、この会社は世界最初のAPUと補助ギアボックスの設計を行い、ロートル社
がこれを製造しています。
1947年、社長のD.R.Pobjoyが飛行機事故で墜死し、会社は解散しています
90眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/13 23:16 ID:???
とりあえず、明日生きていれば、Saroから再開しま〜す。
91名無し三等兵:03/07/14 11:24 ID:???
ロケット戦闘機萌え
92名無し三等兵:03/07/15 00:12 ID:HdugwqQG
ロッキード一人勝ち、軍用機市場においてはこれで終わってしまうのでは。
93名無し三等兵:03/07/15 00:28 ID:???
毎度ながら眠い人乙ー
94眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/15 00:34 ID:???
某スレで某コテに燃料を投下していたので、明日から再開しま〜す。
スマソ、逝ってくる。(AA略)
95山崎 渉:03/07/15 11:58 ID:???

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
96名無し三等兵:03/07/15 12:31 ID:???
保守あげ 
97眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/15 23:41 ID:???
さて、再開。

Sanders-Roe Ltd.は、陸海空全ての分野に渡って色々なものを製造しているメーカーです。
それには、トレーラー、トロッコ、ビーチング・ギア、弾薬補給艦、燃料補給艦、爆弾架、水上機母艦、高速艇母艦などを含んでいます。
航空機メーカーとしては、飛行艇を主に製作しています。
このほか、主にShort Bro.Ltd.の機体の主尾翼の製造、設計も行っていました。
戦後は、飛行艇をShort Bro.Ltd.と協同で開発し、ジェット水上戦闘飛行艇も試作します。
1951年、Saroは飛行艇に見切りを付け、Autogyroのメーカーである、The Cierva Autogyro Co.Ltd.を吸収して、ヘリコプターに進出します。
そうして、軽ヘリコプターを開発し、かなりの成功作となります。
このほか、混合動力迎撃機の試作なども行っていましたが、採用ではEE社に敗れ、西ドイツのFXにも敗れた上、英国の軍縮があり、会社
は、Westlandと合併します。
なお、Saroが開発したヘリコプターは、後にWestlandでWasp/Scoutと呼ばれています。
98眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/15 23:42 ID:???
Short Bros(Rochester & Bedford) Ltd.は、E.ShortとO.Shortの二人の兄弟によって1898年に設立された、英国で最も古い航空機設計・製造
会社です。
尤も、その頃は気球を製作する会社でした。
1907年、兄弟は王立航空協会の公式航空技術者に指名されました。
翌年、末弟のH.L.Shortが加わり、気球に加えて航空機の製造も開始します。
1910年、工場をSheppey島から、王立航空協会の滑走路の近くEastchurchに移し、1913年に社業の拡大に伴い、Rochesterに工場を移すと
共に、今までのShort兄弟に換わって、H.O.Shortが社業を継ぎます。
同時に、水上機の製造を始めた訳です。
第一次大戦後は、全金属製飛行艇の開発に力を入れ、各種飛行艇を製造します。
また、1936年6月には、Belfastの造船会社である、Hartland & Wolff Ltd.と提携し、Belfastで航空機の製造を始めるため、
Short Bros. & Hartland Ltd.を設立します。
実はこれが後に重大な意味を持ってきます。
第二次大戦以降は重爆撃機、飛行艇を主に生産し、飛行艇が廃れた後は、大型輸送機の開発で存在感を示します。
第二次大戦後、Short Bros.(Rochester & Bedford) Ltd.は社業を縮小し、ついにはShort Bros. & Hartland Ltd.に吸収されるのです。
しかも、北アイルランドにおける唯一の航空機メーカーとなり、その雇用維持のために、他のメーカーが合併していく中で、他の一社
と共に、孤高を保ちました。
その時、Shortを支えたのが、Milesから製作権を譲り受けたHDM106改めSC7 Skyvanで、Short 330/360と発展していった訳です。
なお、この会社も時代には抗えず、1996年にCanadaのBombardier傘下に吸収され、航空機の製造は終わりを告げます。

British Marine Aircraftは、1935年、英国に於いてBritish Aircraft Manufacturing. Co.Ltd.から、Sikorsky S.42飛行艇のLicense生産
権を譲り受けて、発足します。
英国航空にこの機体を売り込みましたが、採用されずに終わりました。
99眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/15 23:43 ID:???
Supermarineと言う会社は1912年に、Supermarine Companyと言う水上機メーカーとして発足しました。
第一次大戦前後に掛けて、高速水上機を製作するのに長けており、Schneider Trophyの獲得で名を馳せました。
1928年11月、この会社は航空機メーカーであるVickers(Aviation)Ltd.が事業を引き取り、The Supermarine Aviation Works.Ltd.
としました。
1938年10月には、会社の支配権がVickers(Aviation)Ltd.から、大手兵器メーカーであるVickers-Armstrong Ltd.に移り、その
一部門となっています。
第二次大戦前は競争用水上機、飛行艇のメーカーでしたが、Spitfireの製造から海空軍用戦闘機メーカーとしての地歩を
築きました。
が、戦後はHawker-Siddleyに比べると余り良い機体が出ず、B.A.C.のVickers部門にひっそりと吸収されています。
100名無し三等兵:03/07/16 12:32 ID:???
本日4コ目の100GET!
101名無し三等兵:03/07/16 19:44 ID:???
エアアフィクスの
スピットファイアMk.Xの箱に
ヴィッカーススピットファイアと書いてあったのも
あながち間違いではなかったんですね。
102名無し三等兵:03/07/16 20:42 ID:???
>>97-99
乙ー
イギリスの会社も千変万化ですね。
103なでるくん ◆9fcB7hi0gQ :03/07/16 21:10 ID:???
イギリスの殆どのメーカーはシドレーグループかビッカースグループに属す
104眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/17 00:05 ID:???
今日は何か疲れたので、これだけ。

Taylorcraft Aeroplanes(England) Ltd.は、米国のTaylorcraft Aircraft Corp.からの
License契約に基づき、その会社の軽飛行機を製造する会社として設立されました。
しかし、機体構造こそTaylorcraft社の製品を基にしていますが、エンジン、装備品は
英国独自のものに換わりました。
此処で生産されたのが観測機のAusterシリーズです。
戦後、Austerでブランドを確立し、社名をAuster Aircraft Ltd.に変更しています。
後にそのAuster Aircraft Ltd.を中心として、Milesの残党と、BenzeneのGyrocopterを
改良して独自のAutogyroを作った、Wallisなどが合体して、Beagle Aircraft Ltd.に発展
します。
この会社は、その後軽飛行機中心のメーカーとして、B.121 Pup、B.125 Bulldog、B.206
Bassetなどを開発し、英国のCessnaを目指しましたが、B.206の開発に失敗して倒産。
これらの機体の製造権は、後述のScotish Aviation Ltd.に移されました。

さて、Scotish Aviation Ltd.は1935年のScotlandの民族資本の会社で、最初は
軽飛行機用飛行場と飛行学校経営、そして、航空機修理を行っていました。
1945年に航空省から出された仕様に応じたときに、航空機製作に進出しました。
流石に、先行会社に食い込む余地はなく、ニッチメーカーとして、英国では誰も手を出し
ていないSTOL機分野に進出し、Pioneerという機体を作って英国空軍に売り込みますが、
これは失敗。
民間型のPionner2が有る程度の成功を収め、次いで双発型のTwin Pioneerを製作します。
次に開発する機体が無かったのですが、その頃、偶々Handley Page Ltd.が倒産し、その
機体のうち、最後の開発機であるJetstreamを引き継いで生産します。
また、Beagle Aircraft Ltd.倒産で、宙に浮いたBulldogを引き継いで生産しています。
1990年代の英国航空再編で最終的にはBAeのScotish部門となりました。
105名無し三等兵:03/07/17 13:21 ID:???
スコティシュってティッシュペーパー会社とは無関係だったのか
なぜかがっかり
106眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/18 00:32 ID:???
さて、英国編も残り少なくなってきました。

Vickers-Armstrongs Ltd.は、1928年7月に総合重工業メーカーのVickers Ltd.の航空機部門を
分離独立させた会社で、当初、Vickers(Aviation) Ltd.としていました。
また、前述の通り、1928年11月にThe Supermarine Aviation Works,Ltd.を傘下に置いています。
しかし、戦雲が欧州を覆い始めた1938年10月に、Vickers(Aviation)Ltd.と、The Supermarine
Aviation Works,Ltd.は再び、Vickers-Armstrongs,Ltdに吸収されてしまいます。
戦前〜戦後に掛けて、重爆撃機、大型旅客機の他、大圏式構造という独特の構造で構築した
爆撃機の生産を行い、更に、Supermarine部門の戦闘機を生産しています。
戦後はジェット戦略爆撃機、ターボプロップ/ジェット輸送機のメーカーとして英国に君臨しますが、
BACの中核、Vickers-Hunting Divisionとなっていきます。

Westland Aircraft Ltd.は、1915年に設立されたWestland Aircraft Worksを起源にしています。
この会社は、Petters Ltd.の航空機部門でありましたが、1935年7月にWestland Aircraft Ltd.を設立します。
それまで、この会社は実験機などの特殊な機体を主に開発していました。
1938年7月、有名な造船会社であるJohn Brown Co.Ltd.がPetter社長のWestland Aircraft Ltd.の持ち株の大部分を買収し、
残余の部分は、Associated Electrical Industries,Ltd.に買収されています。
Westland Aircraft Ltd.となる直前に、汎用機を開発し、その後多用途観測機の試作を行います。
戦時中は重戦闘機を製作しており、他にも研究機なども製作しています。
戦後、艦上機に少し手を染めた他は、1947年にSikorskyからHelicopterの製造権を購入し、Helicopter製造に進出します。
主にSikorsky社の製品の一部改造型を製作していましたが、1958年にSanders-RoeのHelicopter部門を、1960年3月に、
Bristol AircraftのHelicopter開発部門を吸収します。
またFairly Aviationと合併し、艦上機はFairly Divisionが、HelicopterはWestland Divisionで製造するようになります。
1967年には、フランスのAerospatialeと提携を結び、それが、Lynx、Pumaなどに繋がっています。
107眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/18 00:33 ID:???
英国編、後1社と、エンジンメーカーの後は英連邦のメーカーについて軽く
触れていこうかと。
108眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/19 02:18 ID:???
とりあえず、小さな会社はありますが、今回は後二社で紹介は打ち止めにします。

Britten-Norman Ltd.を挙げておきましょう。
この会社は戦後派で、1947年にJ.BrittenとD.NormanがDe Havilland Aeronautical Technical Schoolで
出逢うところからスタートします。
1951年3月に、ウルトラ・ライト・プレーンBN-1を自作し、1955年に、Britten-Norman Ltd.を設立します。
その次に開発する機体として、離島用ローカル輸送機に目を付け、BN-2を製作します。
これがヒット作となり、その後、BN-2を基にした機体を次々に開発し、そのうちの一つが、軍用型のDefender
であり、Maritime Defenderとして製造されています。
また、海外進出にも積極的で、1968年にRomaniaへライセンス生産権を付与し、Belgiumには工場を建設し、
Philippinesではノックダウン生産を行っていました。
しかし、こうした無理な投資とBN-2に続く機体の開発に失敗したため、そして英国経済の疲弊により、1971年
10月に一度破産し、Britten-Norman (Bembridge) Ltd.に改組したのも束の間、1972年8月には、Fairly Company
(Fairly社の経営母体だったもの)に売却され、順調な経営を行うかに見えますが、創業者との確執と退社があり、
1977年8月に再び破産します。
1978年7月にスイスのバール財閥の系列企業のPilatus Aircraftに売却され、Pilatus Britten Norman Limitedと
なりますが、1998年7月に、Biofarm Inc.に再び売却され、Britten-Norman Ltd.に社名を変更。
更に、2000年4月にB-N Group Ltd.となり、Britten-Norman Ltd.は清算されます。
ところが、2002年9月には航空機製造部門が再びBritten-Norman Ltd.として復活しています。

Vickers-Slingsbyは、1981年にSlingsby Sailplanes Ltd.として設立された会社で、ドイツのMotorGlider、Scheibe Falkeを
英国空軍用にライセンス生産会社でした。
その後、曲技練習機の製作に進出し、フランスのフルニエ社が生産していたRF6曲技機を改良した初等練習機が英国の
初等練習機に採用されています。
109名無し三等兵:03/07/19 18:01 ID:???
何で開発時に載せていた中島のエンジンは改良型で
三菱製に換えられちゃうケースが多いんでしょうかね。
110名無し三等兵:03/07/19 22:53 ID:???
中島 九七艦攻 光→栄
三菱 零式艦戦 瑞星→栄
空技 彗星艦爆 熱田→金星
中島 天山艦攻 護→火星
三菱 烈風艦戦 誉→ハ四三

五分か?
111眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/19 23:59 ID:???
さて、その英国のエンジンメーカーですが、これも多くありまして…。

A.B.C. Motors,Ltd.は、1911年に設立されたエンジンメーカーで、最初は水冷V型エンジンを製作し、第一次大戦中に空冷星形エン
ジンを製作します。
此の型は最初がMosquito、次いでWasp、更にDragonflyへと発展し、日本の誉の様に新戦闘機、爆撃機用エンジンとして大量産を
行いますが、冷却が不十分で、1〜2時間の運転で補機が焼き付き、震動は甚だしいという大失敗に終わっています。
これが致命傷となり、空冷星形エンジンからは撤退しますが、もう一系統の軽飛行機用水平対向エンジンは順調に発展を遂げ、大
戦間の軽量機の標準動力となりました。
第二次大戦では、その技術を生かしてAPU用エンジンのメーカーとなり、戦後も存続、今でもA.B.E.C.(All British Engine Company、Ltd.)
として生き残っています。

Alvis Ltd.は現在では、軍用車輌のメーカーとして有名ですが、第一次大戦前からの高級自動車メーカーのAlvis Car & Engineering Ltd.
が基礎になっています。
1921年にBristolからGnome-RhoneのLicense生産権を獲得し、その生産を通じて航空機エンジンの開発ノウハウを蓄積し、その改良型を
開発します。
また、1935年末にはK.14のライセンス生産権を50万ポンドでSociete des Moteurs Gnome-et-Rhoneから購入しますが、これはは原型ほど
には売れませんでした。
1936年、社名をAlvis Ltd.に変更しますが、戦後に漸く独自開発のLeonidasが、Percivalの戦後型航空機とWestlandのHelicopterに搭載され、
1966年、乗用車生産から撤退するのと同じくして、最後のエンジンが引き渡されています。
これは、英国に於ける最後の高出力航空機用ピストンエンジンになりました。
112眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/19 23:59 ID:???
Armstrong-Siddley Motors Ltd.は、先日も書きましたが、Hawker-Siddley Aircraft Ltd.の傘下に有る会社です。
此の会社も高級自動車メーカーから出発しています。
第一次大戦中、Royal Aircraft Factoryが研究機関となった事に伴い、1917年2月にその設備、製造License一式、技術者を引き継ぎ、
航空機用エンジンに進出します。
最初は此の会社が独自に製作を進めていたPumaを開発し、次いで、R.A.F.8の発展型Jaguarが開発され、その縮小型Lynxを生産し、
Cheetahに発展します。
Cheetahは、Whittley爆撃機に採用されますが、クランクケースの変形が頻発し、余り信頼性は高くありませんでした。
ピストンエンジンでは最終的に三重星形エンジンの開発を行いますが、これはものに成らず、1940年にジェットエンジンの開発に転換
します。
最初は軸流式ジェットを開発し、それを基にターボプロップを開発しました。
これがPython A.S.P.で、Westland Wyvernに採用され、次いで発達型、Mambaを開発します。
MambaはDartに敗れ、それを二基結合したDouble Mambaを開発し、これはFairly Gannetに採用され、可成りの数が生産されています。
Mambaから生まれたもう一つの派生型が、そのギアボックスを取り外した短寿命の軸流式ジェットエンジンAdderを開発し、これは、更に
無人標的機用短寿命エンジンであるViperに繋がりました。
この小型エンジンは使い勝手が好く、すぐに長寿命化されて現在でも生産されています。
一方で、液体式Rocket Engineにも手を染め、Avro720/730用として開発が進められていました。
1947年、Metropolitan Vickersが航空事業から撤退するとき、それをそっくりそのまま受け継ぎ、開発中のエンジンF.9は、戦闘機用エンジン
Sapphireとなり、Gloster Javelinに搭載され、米国でもWrightがJ65として生産し、F-84F、A4D、FJなど初期の米国空軍機、海軍機のエンジ
ンとして搭載されています。
その最後は1959年、航空機メーカー集約の動きがエンジン業界に波及し、Bristol Aero Engineと合併してBristol-Siddleyとなり、1966年に
6,360万ポンドでRolls-Royceに売却されました。
113眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/21 11:15 ID:???
William Beardmore & Co.,Ltd.は、1914年3月にAustro-Daimlerの120馬力エンジンを生産するため、Beardmore Engineering Co.の
一部門として設立され、1915年にBeardmore Aero Engineが分離独立しました。
そのエンジンを第一次大戦中の1917年まで生産し、FE2b用のエンジンに用いられ、その後、新エンジンが開発されB.H.P.と呼称され
るようになり、D.H.4/9系列の主力エンジンになります。
第一次大戦戦後、直列6気筒のCycloneが開発されますが、これは売れず、1924年に英国政府が計画したR-101飛行船用4サイクル
直列8気筒ディーゼルのTornadoが開発されましたが、飛行船そのものが墜落して所期の性能を得られず、これが痛手となってこの
会社は消滅します。

Bentleyは、これも現在では高級乗用車のブランド名として有名ですが、W.O.Bentley海軍中尉が、Pierre Clergetに派遣されて1914年に
設計したAdmirality Rotary 1(A.R.1)が最初で、1915年にはそれを改良したB.R.1が製造されます。
これは、Sopwith Camelなど多くの機体の動力として使われ、次いで1917年には、Sopwith Snipeに搭載されたB.R.2が設計され、可成りの
成功を収めました。
戦後、Bentleyは元職の自動車技師に戻り、Sports carの分野で活躍しますが、航空機エンジンがRotary式で無くなったために、二度と
その分野に進出することなく、1932年には会社がRolls-Royceに吸収され、消滅しました。
114眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/21 21:19 ID:???
閑話休題。

>109
中島のエンジンは、Bristol Jupiterから出発していますが、三菱のエンジンは、
Hispano-Suizaから出発しています。
ですから、空冷エンジンへの転換が、三菱は少し遅れました。
川崎が、BMW VIに固執したのと同じですね。

その空冷エンジンについて、中島はBristol Jupiter、後にWright Cycloneの影響を
受けて単列星形を追求したのに対し、三菱は複列星形でアプローチしています。
ただ、複列星形の新エンジンは、軍部の承認を取らずに独自開発を行ったため、
軍部、特に陸軍はこれに冷淡で、中島製エンジンの方を優先的に採用しています。
それに、その頃はまだ単列星形で十分な性能だった訳ですし。

しかし、中島は、全体を見渡すプロジェクト管理者を採用せず、プロジェクト管理者
が独自に規格を作って、個々のエンジンを開発しました。

三菱はbore径はHispano-Suizaの140mmか150mm、strokeは130mm、150mm、170mm
ときちんと寸法を決めていたので、発達型を開発するのは容易で、しかも、同じ径のものを
足していくだけだったので、信頼性の向上に繋がっていましたが、中島は個々のエンジン開発
にあたって、プロジェクト管理者がbore径一つとっても、110、130、140、146、155、160mmと
5種類もあり、性能重視で、信頼性確保は二の次と言った風潮があったようです。
115眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/21 21:20 ID:???
Jupiterを基にした寿は、原型が良いだけに特に問題はなく、軍部の信頼が高かったようです。

ところが、光は、単列星形で大馬力を発揮しようとして、bore径160mmと言うとてつもない巨大な
ものを用いましたが、逆に燃焼効率が悪くなり、少数生産に終わっています。
逆に、ハ2、ハ5は寿のbore/strokeを同じにして、複列星形エンジンを開発しました。
これは、初期にトラブルが発生しましたが、元々の寿が優秀だったために、かなり生産されて
います。
栄は、130mmというコンパクトなbore径で、エンジン回転数を大きくして圧縮比を上げることで、
Balanceの取れたエンジンになっています。

光の反省でbore/strokeを若干小さく、bore径を155mmにしたのが、護です。
これ自体、無理のないエンジンで、発達の余裕があったのですが、誉に開発の中心が移り、
放棄されています。

誉は、栄の18気筒化として製作されましたが、全体が小さく、また100オクタンガソリンが入手
出来なくなったこと、エンジンオイルの質が低下したこと、更に、機構が複雑に過ぎ、その調整
は競争用エンジンの様な繊細さが求められた、まぁいわば、中島の面目躍如というべきですが、
性能に走りすぎて、信頼性をなおざりにしたツケが出た訳です。
116わんにゃん@名無しさん:03/07/22 13:07 ID:???
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
117眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/23 00:21 ID:???
The Bristol Aeroplane Co.Ltd.は以前に紹介したのですが、エンジンに関しては少し補足を。
元々、The Bristol Aeroplane Co,Ltd.は機体のみでエンジンは扱っていませんでした。
1918年、Cosmos Industries Co,Ltd.と言う巨大企業が、エンジン部門をBrazil Strakerと言う会社
を買収したことが始まりです。
1917年にこの工場が開発した最初のエンジンは、Mercuryと呼ばれ、海軍から一時発注されました。
これが、発注取り消しとなり、経営が苦しくなった工場は、Cosmos Industries Co,Ltd.に買収されます。
これにより、小康状態を保ち、1918年に開発したのが、Jupiterです。
Jupiterの簡易型がLucifer、この排気システムは後に自動車メーカーのJaguar社を興した、W.Lionsに
よって組み立てられました。
また、1920年にJupiterの18気筒版が開発され、1000馬力を達成したものが、Herculesです。
ところが、この年、Cosmos Industries Co,Ltd.の主力製品であるロシア向け家財道具を積んだ船が
Bolshevikに拿捕されて、経済的損失を被り、Cosmos Industries Co,Ltd.は倒産していまいます。

しかし、航空省はその技術を惜しみ、Bristolの役員に圧力を掛け、15000ポンドで技術者と製造エンジンの
権利、図面、木工具、治具を購入させ、Bristolにエンジン部門が出来た訳です。
当然、これらはBristolにとっては荷物だった訳で、さっさと追い出したかったのですが、起死回生の一発と
して開発したJupiterIIが、1921年のParis Air Showで好評を得、一挙にエンジン部門を檜舞台に載せた訳です。
その後、Jupiterの発達型を生産した後、Mercury、Titan、Neptune、Pegasus、Perseus、Hercules、Taurus、Centaurus
などの各種エンジンを開発し、Jupiter、Mercury、Titan、Pegasusは、フランス、日本、ポーランドなど各国で生産
されています。
118眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/23 00:21 ID:???
1940年末、Bristolはガスタービンの研究に着手します。
最初のものはターボプロップTheseusで、軸流式と遠心式とを組み合わせたものでした。
しかし、これは機構が複雑で重量が嵩んでモノに成らず、Proteusが大型機用に開発されます。
ところが、これも凝ったレイアウトをしたために、不具合が出、それが為にそのエンジンを搭載した
Britanniaの販売が難しくなり、Bristolの経営危機に繋がっていきます。
ただ、初期故障を克服した後は、極めて順調で、発電用、艦艇用に採用されています。

一方、ジェットエンジンは、大型機用に軸流式のOlympusが製作され、これはVulkan、Concordeの
動力として使われた上、現在でも艦艇用として使われています。
もう一つは、巡航ミサイル用に開発された短寿命エンジンです。
これを発展させて、Saturnを作り、そこから更にOrpheusに発展します。
1959年、英国航空省の「指導」により、Bristol Siddleyとなり、Bristol本体のエンジン開発は幕を閉じます。
119眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/24 00:01 ID:???
1956年、The Bristol Aeroplane Co.Ltd.からエンジン部門が分離し、Bristol Aero Engines Ltd.が設立されます。
そして、1958年、有名なT.S.R.2(Fairlyの機体ではない)の仕様が提示されましたが、その仕様には世界最高クラスのEngineが
必要とされており、とても一社では賄いきれないと考えられ、Bristol Aero Engines Ltd.は、Armstrong-Siddley Motors Ltd.と合併
し、Bristol-Siddley Engines Ltd.となりました。

1961年に親会社がHawker-Siddleyに集約されたのに伴い、更にDe Havilland Enginesと、Blackburn Enginesを吸収し、更に巨大
化しました。
T.S.R.2用に製作していたのは、Bristolが開発していたOlympusで、それは順調に開発されましたが、1965年4月6日の英国国防政
策変更でキャンセルされ、代わってConcorde用の動力として開発が続けられます。

また、合併前のBristolで試作された、BE.53も引き継いで開発されています。
これは、初期の頃は資金不足で既存部品利用であり、Gasgenerator部はOrpheusを流用し、低圧CompressorはOlympusのそれを
流用していました。
これが、Harrierの動力となったPegasusです。

このほか、Armstrong-SiddleyからViper、De-HavillandからGnome、Gyron Junior等を、BlackburnからNimbusをそれぞれ引き継いで
います。
最終的に、1966年10月、Bristol-Siddleyは、Rolls-Royceに買収され、短い生涯を終えます。
120眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/24 23:49 ID:???
航空機製造会社がエンジン製作を兼ねていた会社も多々ありますが、Blackburn Aircraft Ltd.も、
Cirrus Engine Sectionと言うエンジン製作部門を持っていました。

この部門は元々、1931年に改名したCirrus-Hermes Engineering Co.Ltd.と言う会社で、更に遡れば、
1925年にF.B.Halfordが設立したCirrus Aero-Engines,Ltd.になります。
HalfordはDe HavillandのPartnerで、De Havillandが機体を、Halfordがエンジンを開発しています。

最初に開発したのは、第一次大戦中のV型8気筒の余剰エンジンからシリンダーとピストンを取り出し、
Renaultを元にした、空冷直列4気筒のCirrusIを開発します。
これは、D.H.60に搭載され、更にCirrusII/IIIに引き継がれていきます。

1931年、Halfordは他人に売却し、Cirrus-Hermes Engineering Co.Ltd.となります。
なお自身は、De Havillandの経営に参画しています。
1934年、この会社は更にBlackburn Aircraft Ltd.に買収され、その一部門として、倒立型のCirrus Minor、
Cirrus MinorII、Cirrus Majorを製作し、主に軽飛行機に装備されました。
戦後、最後のピストンエンジンであるBombardierが開発され、Helicopter用、軽飛行機用に生産されています。

1953年、タービンエンジン開発に出遅れたBlackburn & General Aircraft Ltd.はフランスのTurbomecaより、
Palas/Palouste/Turmoの各タービンエンジンのLicenseを購入します。
1958年、Turbomeca Artousteエンジンを基本にしたターボジェットを開発し、また、Turmo600を基にNimbusを
開発し、後者は、1959年にこのエンジン部門がBristol-Siddleyになっても生産されています。
121眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/26 00:32 ID:???
The De Havilland Engine Co.Ltd.は、1927年にThe De Havilland Aircraft Co.Ltd.のEngine部門として誕生しました。
そのEngine製造には、Cirrus Aero-Engines,Ltd.のF.B.Halfordが参画し、従来のCirrus Engine(Renault Engineの
派生型)に代わる新しいEngineを製造します(Halford自身は1938年までfreelancerの立場でした)。
まず、空冷直列4気筒のGipsyが生まれ、それから、軽飛行機、小型輸送機用EngineとしてGipsyII/III/Majorが作られ
ました。
次いで、200馬力を発揮するために、空冷直列6気筒のGipsy-Sixが生まれ、これの特殊型RがD.H.88に装備されます。
また、低馬力型のGipsy-Minorも少数生産され、その工作機械が豪州に運ばれています。
更に倒立V型12気筒のGipsy-King(Twelve)が生まれましたが、これは重量オーバーの失敗作で、1938年以降は直列
4気筒に戻り、Gipsy-Queenシリーズが製造されました。
QueenはDoveやHeronといった戦後の軽輸送機に採用されています。

1941年1月、Halfordはタービンエンジンの研究を開始し、遠心式エンジンを計画、1942年4月にPrototypeが試作され、
Halford H.1と名付けられ、後にGoblinとなりました。
これは、Vampireの動力となったほか、J36として米国のAllis-CarmersにてXP-80/XF15C/XTB3F-1の動力として
製造される予定でしたが、生産遅延でキャンセルされています。
1944年2月、エンジン部門はF.B.Halfordを会長として、The De Havilland Engine Co.Ltd.となって独立し、彼は直ちに
次期エンジン製造計画を練ります。
最初は、H.1Goblin、次いでそれを大型化したH.2Ghost、更にH.3ターボプロップ、軸流式のH.4Gyron、H.2を発展させた
H.5、H.6 Gyron Juniorなどが相次いで計画されています。
1945年に誕生したGhostは、Svenska Flygmotor A.B.でRM2BとしてLicense生産され、幾つかの改良を加えられています。
Gyronは、1953年に初運転にこぎ着け、P.1121用の動力として計画されますが、これは放棄され、その45%縮小型のGylon Junior
が、1955年に製造され、Blackburn N.A.39 Buccaneerに採用されています。
122眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/26 00:50 ID:???
もう一つ、離陸促進補助液体Rocketの製造も行っており、最初がD.H.106 Comet用のSprite、次いでValiant用のSuper Spriteが製造
され、最終形はSpectorとなって、VictorのRATOとS.R.53/177の動力用に製造されています。

この会社の最後の製品は、1958年に米国からLicenseを購入したT58を基に、改良型のGnomeターボシャフトです。
このほか、General ElectricのT64のLicenseも持っていましたがこれは生産には至りませんでした。
この会社も他の会社と同じく、1961年にBristol-Siddleyに吸収されています。

G.Greenは、初期のエンジン設計者で、1905年に水冷直列4気筒エンジンを開発し、Aster Engineering Ltd.で生産が
行われています。
その後、Type30-35/Type50-60が製造され、100馬力のV型8気筒エンジンを開発し、1911年には直列6気筒エンジン
を開発します。
これらは、信頼性があったものの、重量が些か嵩張り、第一次大戦中はMTB用のエンジンとして製造されました。
戦後は後が続かなかったものの、初期エンジンの特許料によって生活が賄え、彼自身は、1964年に99才で生涯を終え
ています。

また、これも個人ですが、再三出てくるF.B.Halfordは、第一次大戦中、彼は飛行教官から検査官となり、Clergetのエンジン
改良に辣腕を振るい、1916年にはB.H.P.エンジン開発に携わります。
戦後、Air Discoの責任者となって、余剰エンジンからCirrusを開発する一方、Pumaエンジンを設計しています。
また、変わったところではイタリアのFiat A.12の再設計も行っています。
以降の活躍は、既述ですので、省きます。
123眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/26 22:27 ID:???
Sir H.Maximと言えば機関銃などの兵器開発者として有名ですが、1894年には、
自分が設計・製作した飛行機用に蒸気エンジンを設計しています。

これは、高圧Boilerでナフサを燃やし、高圧シリンダーと低圧シリンダーを持った
2基の複合エンジンに蒸気を供給するもので、重量は僅かに140.6kgで180馬力を
出すというものでした。
確かにエンジン本体の重量は軽いものでしたが、そのほかにBoilerとその付属品で
816.5kg、蒸気用の水272.2kgを搭載しなければならないことが盲点で(ぉぃ、計画
倒れに終わりました。
124眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/27 00:13 ID:???
D.Napier & SON, Ltdは、1808年にスコットランド人D.Napierによって設立された、印刷機工場に端を発します。
1845年には水圧式クレーンに進出し、各種機械工業を興します。
1900年に自動車業界に進出し、Sports carなどを開発・製造していました。
第一次大戦には、自動車製造よりも寧ろエンジン製造に力を入れ、RAF3a、Sunbeam ArabなどをLicense生産しますが、
当時のM.Napierと自動車設計主任のA.J.Rowledgeによって、独自のエンジンを開発します。
これにより開発されたのが、水冷式W型12気筒のLionで、これはPrototypeで450馬力、その後570馬力に向上し、Racer用は、
1400馬力にまで出力を向上することが出来ました。

しかし、これが余りに優秀なため、以後の開発は行われず、1919年から再び自動車製造に戻りますが、1924年に自動車製造
から撤退し、自動車エンジンのみ細々と作り、1931年にはRolls-Royceに125,175ポンドで売却されています。
また、Lionは海軍の飛行機救難艇用のエンジンとしても用いられ、Sea-Lionとして、1943年まで製造されました。

Lionに翳りが見え、以後の開発が失敗したので、Napierは1928年、Halfordの参画を仰ぎ、空冷H型16気筒340馬力のRapierを
開発します。
これはそこそこの成功を収め、最終的に1000馬力にまで向上しますが、整備性に劣り姿を消します。
またH型24気筒のDaggerが小馬力エンジンとして市場に投入されました。
1935年、2000馬力級の水平対向H型24気筒液冷エンジンを製造する計画を立て、航空省の支援の下に、1937年に試作機が完成
し、これはSabreと名付けられ、紆余曲折を経ながら、Hawker Typhoon、Tempestに搭載されました。

このほか、JunkersからJumo204Diesel EngineのLicenseを取得し、Culverinとして生産していました。
125眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/27 00:33 ID:???
第二次大戦後、タービンエンジンに進出しますが、例によって凝った作りで、二重反転プロペラの片方をタービンエンジンで駆動し、
もう片方をピストンエンジンで駆動させてみたり、Diesel engineとタービンエンジンとで同じプロペラシャフトを駆動してみたりしていま
したが、結局上手くいかず、Helicopter用のターボシャフトとして、大馬力のEland、中型用のGazelle、ロータージェットヘリ用のOryxが
製造されただけに留まります。

この会社のエンジン部門は、自動車部門と同じく、1960年にNapier Aero-Engine,Ltd.として分社化され、Rolls-Royceの子会社となった
後、1962年にひっそりと消えていきました。

Metropolitan-Vickers Electrical Co,Ltd.は、1899年にBritish Westinghouseとして米国Westinghouseの子会社として設立され、1916年に
英国側の出資を受けるようになり、1919年にthe Metropolitan Carriage, Wagon and Finance Co.Ltd.と、Vickers Limitedによって最終的に
買収され、Metropolitan Vickers Electrical Co,Ltd.となりました。
この会社は電機部品、電車、発電機用タービンなどを製造していたため、1937年に実験用GasTurbineをRAEから受注しました。
1940年にD.M.Smithにより、軸流式のD.11が作られ、これを更に発展させて、1941年にはドイツに次いで初めて実用化した軸流式エンジンである
F.2を製造し、これは、Berylと命名され、Meteorに搭載されました。
その後、推力増強ダグデッドファンを追加したF.3で推力2tを達成し、1945年にはUDF付のF.5が試運転されています。

最後の航空機エンジンは、F.9で1946年に開発が開始され、1948年に試作が行われましたが、1947年に軍需省の圧力で航空業界からこの会社
は撤退し、設備と開発陣一切は、Armstrong-Siddleyに引き継がれてしまいました。

その後は元の電機メーカーに戻り、Marconiの一部になっています。
126名無し三等兵:03/07/27 10:38 ID:???
ネピアはよくわからんな、手を出したり引っ込めたり。
127名無し三等兵:03/07/27 18:19 ID:???
よく話題に上るセイバーエンジンってこんな会社が作ってたんですね。
128眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/27 23:52 ID:???
さて、ジェットエンジンの開発と言えば、軸流式のHeinkelと、遠心式のWhittleがその端緒を付けています。

Power Jet(Research & Development),Ltd.と言うのは、F.Whittleのエンジンを実現するための会社でした。
この会社は、F.Whittleの理論を実践する場として、Power Jets,Coとして設立され、その資本は、米国GEの子会社である、
British Thomson-Houston Co.から出ており、Power Jets,Co.で設計したものを、この会社が製造する形態をとっています。
1937年、最初の試作エンジンが出来、4月に試運転を開始し、1938年10月に2号機が製造され、1940年12月に最終試作機の
W.1Xが試運転されました。

これに先立ち、1939年に航空省と実証飛行用のW.1についての契約を交わし、このエンジンは1941年4月に製作されて、Gloster E.28/39
に搭載され、初飛行し、これが、英国初のジェットエンジンによる初飛行となります。

1940年、Glosterは、F.9/40戦闘機の試作契約を獲得し、そのエンジンとして、Power Jets,Co.のW.2を使用することになりました。
W.2は、British Thomson-Houston Co.に変わって、最終組立は自動車メーカーのRoverによって行われ、W.2Mk.4を経てW.2Bと
なりましたが、Whittleの設計を勝手にRoverで改設計し、W.2B/26と称して、Whittleと対立し、その製造は大幅に遅延してしまいます。
結局、紆余曲折を経て、このエンジンはRolls-Royceで製造されることとなりました。
また、Whittleが製造したエンジンは米国General-Electricにも渡り、GEでは改良を加えて、I-16として生産、P-59、FR-1などの動力
になり、J33に繋がっていきます。
129眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/28 00:02 ID:???
その後、PowerJets, Co.はW.2の発展型として、W.2B/500、W.2/700の設計・試作を行い、アフターバーナー、スラスト・スポイラー、
リバーサー、後部に付けたダグデットファンなど、今日のジェットエンジンが装備しているものの世界最初のテストをおこなっています。

また、ターボプロップの設計を行い、実際に試作も行われていましたが、これは放棄させられています。
後にP&W CanadaのPT6が設計の際に苦労した部分が既にこのエンジンで全て解決されたと言う程優秀なものでした。
このエンジンの権利は後に自動車エンジンのメーカーでGasTurbineの研究成果を求めていた、Coventry Climax,Ltd.に渡され、
C.P.35となっていましたが、この会社は全然改良も行わず、倉庫の片隅に放り込まれていたそうです。
(ちなみに、Coventry Climax,Ltd.はJaguarに吸収されたけど、1960年代のF1エンジンの供給メーカーでもある。)

1944年4月、航空製造担当省は、PowerJets,Co.を国有化し、その資産はNational Gas-Turbine Establishmentとなってしまい、
PowerJets,Co.自体はものを製造することを禁じられ、単にその特許を管理する会社として、PowerJets(Research & Development)、Ltd.
と言う会社のみが残り、結果としてその成果が発展することはありませんでした。
130眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/29 01:28 ID:???
さて、余りにも有名すぎるRolls-Royce,Ltd.について書いてみましょう。

1906年にH.RoyceとH.C.S.Rollsの二人によって設立された会社で、高級車メーカーとしての出発でした。
その後、E.CreamontとC.Johnsonが営業の主力として加入し、彼らはその主力製品の一つに、自動車の他、
航空機エンジンに活路を見いだします。
しかし、1910年、Rollsの操縦するWrightが墜落し、彼は死亡してしまい、Royceは精神的な打撃を受け、更に
病気のため第一線を外れていきます(ただ、技術的Adviserとして君臨した)。

第一次大戦勃発後、当時主力だったSunbeamの他に新たなエンジンが計画され、航空機エンジン部門の
主任設計者、W.BrigsがW.O.Bentleyと共同で、1914年型のMercedesのレーシングカーエンジンを基に、
新エンジンの開発を行いました。
ただ、如何なるMercedesの特許にも触れないよう、細心の注意を払いながら。

1915年、最初の水冷V型12気筒エンジンが完成し、それを基に更に発展、軽量化が行われ、最終的に二種類
の水冷直列6気筒エンジンと、水冷V型12気筒のエンジンを製作します。
これがそれぞれ、Eagle、Hawk、Falconとなるわけです。
この初期の徹底的な開発が、この会社を大メーカーに押し上げる要因となります。

第一次大戦後、Eagleを拡大したCondorが大型機用に製作され、Napierから引き抜いた技術者の手でX型16気筒の
EagleXVIが試作されます。
しかし、Eagleの発展型だけでは限界があり、ファーンボロの研究者が招聘され、1927年、新たにV型12気筒エンジン
Fエンジンを開発します。
1930年、これはKestrelと名付けられました。
131眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/29 01:28 ID:???
一時期、Diesel engineの研究がされましたが、これはものにならず、Fエンジンを基にそれを大型化したCondorの後継
大型機用エンジンとして、Hエンジン、後のBazzardが作られます。
これは、Rエンジンとなり、Schneider Cup用の競争機にも用いられ、他のエンジンの基になっています。

その後、水冷に変わって液冷技術が米国から導入され、Kestrelから発展した小型エンジンPerigrineが開発されました。
そのPerigrineのシリンダーブロックを利用してX型24気筒にしたのが、悪名高い、Vultureです。

1932年、新しいエンジン開発の為の資金援助が政府によって拒否され、自ら投資を行って自社開発を行い、1935年に
Hawkerの資金援助を得て開発されたのが、V型12気筒のPrivate Venture(P.V.)12です。
翌年、試作機が作られましたが、完成にはほど遠く、1935年に至って漸く完成の域に達しました。
これが有名なMarlinです。
その生産は、第二次大戦を通じて行われ、英国Fordの工場も含めて、4カ所で製造されました。
1941年、米国でも生産が計画され、最初はFordで行われる予定でしたが、これは失敗に終わり、Packardで新たに生産
が開始されます。
これが、V-1650となる訳です。

さて、先述のX型エンジンですが、最初は空冷X型24気筒エンジンが試作され、Barracudaへの搭載が計画されました。
結局は液冷でないために、製作を中止させられていますが、1943年に至るまで、このエンジンを装備したBattleが連絡機
として用いられました。
その液冷版としてVultureが計画されましたが、こちらはものになりませんでした。

Griffonは1939年、Armstrong-Siddleyに居た技術者によって開発されました。
元々は、雷撃機用低高度エンジンとして、Marlinをスケールアップした液冷V型12気筒のものでしたが、シリンダーはBazzardの
ものを用いています。
最終的に、戦闘機にも多数が用いられ、2000馬力級エンジンの主力となりました。

Rolls-Royceの最後のピストンエンジンは、H型24気筒のEagleで3000馬力を出し、雷撃機用に製作されましたが、タービンエンジン
の実用化に伴い、少数生産に終わりました。
132眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/29 02:04 ID:???
さて、Rolls-Royceのジェットエンジンは、1938年から独自に細々と研究を続けてきましたが、1940年にPowerJets,Coの試作エンジンの
部品製造、そして下請け生産を行うことで、実用化に一歩踏み出します。
1941年、PowerJets,CoのW.R.1を製造しますが、Roverでの生産進捗が思うようにいかないこと、そしてWhittleとR.R.の人々が友好的で
有ったことが、1942年のR.R.社の社長E.W.Hivesと主任技術者S.G.Hooker、そして、Roverの会長であるS.B.Wilksとの三者会談に繋がり
ます。
この席上、Hivesは自社の戦車エンジン工場と交換にそのジェットエンジンの仕事を得るというバーター案を示し、Wilksがそれに乗った
ため、Rolls-Royceは、W.2Bを得ることになりました。
1943年、このエンジンは改良を加えられて、Meteor用のWellandと名付けられ、それを基に翌年、出力向上型のDerwentが製造されます。
更に1944年、米国の大出力エンジンに対抗して、Neneと名付けた大出力エンジンを計画し、それは6週間で組み立てられ、10月にテストを
開始します。
この時、エンジンが点火せず、イグナイターを取り外して、所定の回転になった時にアセチレン溶接用バーナーで、点火しました。
ちなみに、これがトーチ・イグナイターの最初の実用例です。
このエンジンは後に、労働党政権によってソ連に渡され、朝鮮戦争で英国を苦しめることになります。
また、Hispano-Suiza、Pratt & Whittney、RRCanada、Commonwealth、そして中国政府(Shenyang)によっても生産されています。
一方、その最初の運転試験の後の宴会で誕生したのが、Neneの85%縮小型のDerwentVだったりします。
これもソ連に引き渡され、小型機用として製造されました。
最終的な遠心式の最後の製品は、Tayで、Pratt & WhittneyとHispano-Suizaのみにしか売れませんでした。
但し、このエンジンは、F9Fに採用されています。
133眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/29 02:05 ID:???
また、ターボプロップの製造も提案され、最初は1944年にTrent、そして翌年Clideが作られました。
これらは遠心式と軸流式の組み合わせで、遠心式の部分はMetroVicのF.2の、2段目はMarlin46の過給器を
組み合わせた物で、信頼性の高いエンジンでしたが、社長のHivesはAvonに主力を傾注するべきだとの判断
からこれの生産を拒み、結局、これは消えていきました。
ただ、ターボプロップの市場は存在している訳で、1947年には新たにGriffonとEagleの過給器から着想を得た
Dartが誕生し、1955年、発展型のTyneに繋がっていきます。

明晩は軸流式のエンジンについて書いてみましょう。
134名無し三等兵:03/07/29 22:30 ID:???
シリーズ物のネーミングは発展していく系統などを感じさせてくれるもの
が多いが、バルチャーにバザードなんてネーミングに
疑問を感じなかったのだろうか…

う〜んスレ違い…
135眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/29 22:41 ID:???
Tayの製造後、航空機用エンジンの開発はDerby工場に一元化され、遠心式は放棄の方向に持って行きます。
これは遠心式の構造が複雑で、尚かつ、材料工学の進歩により、高い先端速度のブレードも製造出来る様になったためです。

軸流式のエンジンはHivesの指示で1945年に開発に着手し、1946年に完成します。
しかし、その開発責任者の見積の甘さもあり、予定重量を50%も超過していました。
また、Prototypeの試運転では加速できず、ブレードの破損などもありました。
開発主任のHookerは元々このエンジン開発には反対の立場で、このTroubleの多発が、HivesとHookerとの軋轢となり、1948年、
Hookerは会社を去ることになります。
1950年、漸く生産型が完成し、これはAvonと名付けられました。
これは、Rolls-Royceの他、Bristol、Napier、Standard Motors、豪州のCACでも生産され、初期型はHunter、豪州製F-86、Canberra
爆撃機などにも搭載されており、正にMarlinエンジンの再来と呼べるものでした。
1956年には、Commet、Caravelle用に民間Versionが作られ、更に超音速戦闘機用の改良型は、Lightning用に生産されたほか、
SwedenのJ35用にSvenska Flygmotor A.B.でRM6として改良型が生産されています。

1953年から、1960年代にはVTOL用のリフト用エンジンが数千基必要であろうとの需要予測から各種のターボジェットエンジンが
設計開発されています。
この中で、曲がりなりにも実用化したのは、1962年のRB.162で、Trident3用の長寿命離陸用ブースターエンジンとして生産された
だけでした。

1952年政府援助の下、大型機用Bypass Jetとして、Conwayが開発されました。
但し、バイパス比の選択を誤ったために、騒音低下に至らず、Turbofan Engineには成り得ませんでした。
これは、Victor爆撃機の他、B.707/DC-8、VC-10の大型民間旅客機にも用いられています。
136眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/29 22:42 ID:???
1957年、改めて推力6tクラスのTurbofan Engineが計画されました。
これはMedwayと名付けられ、D.H.121用のEngineとなるはずでしたが、機体が一回り小さくなったので、
開発は中止され、推力4.5tクラスのものにスケールダウンされます。
これがSpayとなり、未だに各種の機体の動力となり、また艦船の動力源にもなっています。
なお、Medwayはこのまま開発が進んでいれば、J35の動力源とも成る予定でした。
SpayはAlisonによって、米国でTF41の名でライセンス生産され、A-7に搭載されたほか、西ドイツの
MANTurbo(MTU)と共同でV/STOL戦闘機用Engineとして派生型が開発されました。
また、更にその縮小型のSpay Juniorが生産されて、F.28などの小型機に使用されました。
時代は飛びますが、そのSpayに改良を加えたのが1983年に出現したTayで、中近距離旅客機用のEngine
換装市場を開拓しています。

1966年、Bristol-Siddleyを買収し、英国唯一の航空機エンジンメーカーとして君臨します。
こうした中、Rolls-Royceにとって、運命のEngineが開発されました。
高バイパス比Turbofan EngineのRB.211です。
元々、1967年9月にAirbus A.300用の動力としてRB.207が選定されていましたが、1968年にそれを小型化した
RB.211がL-1011用Engineに選ばれることが確定しました。
その間、AirbusはA.300Bとして縮小され、RB.207選定は白紙となり、Rolls-Royceはそれの開発を中止し、
RB.211に開発を一本化しますが、これが裏目に出ます。
特に、グラスファイバー製ブレードはまだ信頼性が足りず、保証性能も出なかった上、下請けをかなり切って、
内製しようとしたのがこれまた裏目に出て、Bristol-Siddleyの製造技術などを生かすことが出来ませんでした。
137眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/29 22:56 ID:???
この失敗が重なって毎週数百万ポンドの損失を出し続け、遂には1971年2月に破産を宣言します。
19日後、英国政府は国営のRolls-Royce(1971),Ltd.を設立し、一時引退していたS.G.Hookerを設計主任に呼び戻します。
これにより、RB.211は漸く正常に稼働し、その再設計型は1973年にB.747-300/400/B.757/B.767などに搭載され、ベストセラーとなりました。

最後に、Turboshaft Engine開発部門は、1966年に各社の遺産を継いだもので、英国型のT58である、
旧De HavillandのGnomeの他、Bristol-Siddleyが開発していた、B.S.360の発展型、Gemを生産しています。

各国共同開発では、1966年のフランスのTurbomecaとAdour、RTM.322/722などの生産を行う、RRTIに参加している他、1969年にTornado用
Engineを製造するために、Fiat、MTU、Rolls-Royceによって設立された、Turbo-Union、Ltd.、それから発展してEF2000のEJ200を製造する
ために、Fiat、MTU、Rolls-Royce、SENERの四社協同で設立したEurojet(Rolls-Royceは1986年に基本型のXG40を試作)。
民間用のV2500エンジンを製造するために、P&W、Rolls-Royce、MTU、Fiat、JAEC(IHI、三菱、川崎に依って設立された協会)が参加した、
International Aero Engines。
Eurocopterの機体に搭載するTurboshaftEngine、MTR390開発のために設立された、MTU、Turbomeca、Rolls-Royce出資によるMTRにも
出資しています。
138名無し三等兵:03/07/30 13:33 ID:???
緊急あげ
139名無し三等兵:03/07/30 17:45 ID:???
LMTって何で最近勢いスゴイの?ボーイングとか輸送機に成り下がったし。
140眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/30 23:28 ID:???
一体何があったのだろうか。

英国編もそろそろ終わりに差し掛かりました。

補足ですが、英国の軽飛行機Engineは、Gypsyシリーズ、Sirrusシリーズといった
倒立Engineが主でしたが、1960年代に入ると流石に旧式化し、1961年から1981年
までの20年間、英国の軽飛行機を支えたのは、Rolls-Royceがライセンス生産した
Continentalの水平対向エンジンでした。

第一次大戦で有名だったのは、Royal Aircraft Factoryです。
この工廠の前身は、民間のHM Balloon,Ltd.と言う会社で、1912年に国有化され、
その年のうちに水冷直列6気筒エンジンを完成しました。
翌年、RenaultV型8気筒エンジンを基にRAF1を完成し、BE用に自動車メーカーで
大量生産されました。
幾つかのエンジンを試作した後、1914年にV型12気筒のRAF.4を製造しますが、
これは7,000基作られています。
1916年にギア駆動式過給器を開発したほか、ターボチャージャーの研究を始めて
います。
1916年8月、RAF.4D/Eのシリンダーを用いた空冷星形14気筒のRAF.8を製作します
が、1917年以降、研究機関のRoyal Aircraft Establishmentに組織変更され、既存の
エンジンは、RAF.8がArmstrong-SiddleyのJaguarとなり、エンジン生産は停止しました。
141眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/07/31 00:01 ID:???
British Salmson Aero Engines,Ltd.は、文字通り、フランスのSalmsonエンジンを製作するために作られた会社で、
第一次大戦中は、Dudbridge Iron Works,Ltd.で製造されました。
1930年、British Salmson Aero Engines,Ltd.が製造を引き継ぎ、主に小馬力の空冷エンジンを製造します。
1940年を待たずして、この会社は売るべきエンジンが無くなり、消えています。

Sunbeam Motor Co,.Ltd.は、1910年に設立された自動車メーカーですが、1913年、フランス人の自動車技師が、
水冷V型8気筒150馬力飛行機用エンジンと、水冷V型12気筒200馬力飛行船用エンジンを開発して、航空エンジン
業界に進出します。
第一次大戦勃発時、そのエンジンは、「実際に生産されていた唯一の英国製エンジン」で、後に直列6気筒エンジン
100馬力もlineupに加わりますが、非常に多種多様なエンジンを開発したので、一つの機体に搭載される場合でも、
17以上の違いがあると言う状況でした。

1915年にはV型8気筒150馬力のNubian、直列6気筒190馬力のSalasen、1916年にはAfridity、Diac、Arab、Cossac、
Maori、Matabereなど、直列6気筒からV型12気筒まで、100馬力から400馬力まで、各種エンジンを製作します。
第一次大戦後は自動車業界に復帰し、1937年にTalbotと合併して、Sunbeam-Talbotとなり、1960年にはRootsGroupの
一員となり、1978年にはPeugeotの傘下に入り、現在に至っています。

1895年に、これも自動車メーカーとして出発したWolseley Motors,Ltd.は、1909年に水冷V型8気筒の航空機エンジンを
製作します。
第一次大戦時は、RenaultとRAFの空冷エンジンを製造する傍ら、Hispano-Suizaを基に水冷エンジンViperを製造し、
これも多数が生産されました。
第一次大戦後、一時製造が止まりますが、1931年に空冷星形7気筒のAquarius、空冷星形9気筒のAriesなどが製造され、
Wolseley Aero Engines,Ltd.が1935年に設立されましたが、ブランクは大きく、結局数年で消滅しました。
本体自体は、1933年にthe Nuffield Organisation傘下に入り、BMCを構成しています。
142名無し三等兵:03/07/31 21:33 ID:???
イギリスにどうしてこんなに小さな自動車メーカーが
あるのか不思議だったが
こうすると全体像が見えてきますね。
143眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/01 00:51 ID:???
とりあえず、昨日にて英国本国編は終わりますた。

次回からは英連邦のメーカーを落穂拾っていきまする。
ただ、明日からダイアルアップ環境にいっちまいますので、カキコは日曜まで
ごきげんようでつ。
144名無し三等兵:03/08/01 01:16 ID:???
>>143
眠い人たん乙ー
期待してます。
145名無し三等兵:03/08/01 17:47 ID:WrM1FDWN
どうも眠い人さん乙。圧倒される思いだ。

ところで、日本の2大メーカーといえば中島と三菱だが、機体の生産数では中島が多いのに、
エンジン生産数では三菱のほうが上なんだね。三菱ではエンジンに関しては、生産工程の
効率化・近代化という点で優れていたようだ。ついでに言うと、日本で最初のトランスファー
マシンをつくったのも三菱。結局爆撃でダメになってしまったが。
146名無し三等兵:03/08/01 18:11 ID:???
そろそろ低レベルネタで展開してもいいのでしょうか・・・

機体や発動機のネーミングで外国はメーカーが主導で付けて居るんでしょうか?
日本の機体の命名基準は有名だとして、発動の海軍系は三菱は「○星」で瑞星、金星、火星・・・
中島は一文字で寿、光、栄、護、誉・・・、愛知は神社の熱田のみ?日立は「○」風で天風・・・

ロールス発動機はマーリンとかグリフォンとかペガサスとか・・・動物・幻獣系?


147ぼるじょあ ◆ySd1dMH5Gk :03/08/02 04:07 ID:???
     ∧_∧  ∧_∧
ピュ.ー (  ・3・) (  ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
  = ◎――――――◎                      山崎渉&ぼるじょあ
148名無し三等兵:03/08/02 11:36 ID:???
お化けの名前を付けるメーカとかどうかと思う・・・
149名無し三等兵:03/08/02 11:48 ID:???
もうそのメーカー自体がおばけになっちゃった
150名無し三等兵:03/08/04 10:27 ID:???
ドイツは記号好き?
151眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/04 14:47 ID:???
帰ってきますた。

今日から、英連邦のメーカーに逝きます。
英連邦は、基本的に英国製航空機の重要な市場でありましたが、第二次大戦が
勃発すると、英国本土からの供給が絶たれ、各国はその使用軍用機を別の所から
供給してもらったり、英国から技術者を受け入れて自製することを考えました。
その中でもDominionであるAustralia、Canada、New ZealandとEmpire Of Indiaに
航空機産業が勃興しています。
152眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/04 15:21 ID:???
Australiaには、まず1927年にThe De Havilland Aircraft Proprietary,Ltd.が誕生したことで、航空機産業の産声が上がります。

この会社は、文字通り、英国のthe De Havilland Aircraftの豪州支社として設立されたもので、De Havillandの機体をライ
センス生産する目的があり、其処から豪州の国情にあった機体を開発するつもりでした。

1929年に工場用地を選択し、1933年から機体の修理、改修業務を開始します。
しかし、1938年からの軍備拡張政策に基づき、Tiger Mothの製造を開始し、39年までにRAAFへの納入を完了します。
1941年からは、大英帝国海外航空の乗員訓練用Moth Minorと、英連邦軍訓練用のTiger Mothと言った練習機を生産
し、Tiger MothはSuid Africa、South Rhodesiaにも供給されています。
また、1942年10月から43年6月までに、Dragon複葉旅客機兼航法練習機を生産しています。
1942年からは、Beaufortの後継機用にMosquitoF.B.40(A52-1)を製造し、それは1948年まで製造されました。
このほか、メルボルンにあったGeneral-Motors Holdensと共にGipsyエンジンを製作し、プロペラも同じく製造しています。

戦後は、Vampire、Venomと言った、親会社の製品のライセンス生産を行う一方、1948年にはDoveの部品を使用して、豪州の
国情に合わせた三発機、DHA-2/3 "Drover"を生産し、20機製造されました。
以降は専らライセンス生産専門となり、親会社が、Hawker Siddleyに合併すると、この会社はHawker de Havillandと社名を
変更します。
近年では、M.B.326練習機の他、後継のPC-9練習機、S-70Helicopterを生産しています。
153眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/04 23:24 ID:???
1933年、L.J.Wackett中佐が設計した6人乗り双発単葉機の製造のために、the Cockatoo Dockyard Companyと共同で、
Tugan Aircraft,Ltd.を設立し、その双発単葉機Codockと、改良型のGannetをこの会社で製作しようとしますが、立ち上げ
に時間が掛かるため、一時的にthe Cockatoo Dockyard Companyは、the Cockatoo Dockyard & Engineering Co.,Ltd.と
して、この航空機を製造します。
1936年、後に述べる、Commonwealthが新たに設立され、L.J.Wackettはそちらに移籍し、
the Cockatoo Dockyard & Engineering Co,.Ltd.は本業に回帰します。
なお、このthe Cockatoo DockyardはVickersの豪州支社で、1857年に設立され、巡洋艦などを建造している会社で
した。
後に、Vickers Cockatoo Dockyard Pty Ltd.となり、1984年にThe Cockatoo Dockyard Pty Ltd.となっています。

そのTugan Aircraft Ltd.は、1934年、General Aircraft Co.Ltd.の資産一切を引き継いで設立された会社で、その会社
が破綻した際、W.R.Carpenter & Co.Ltd.が資本を差押えたものです。
後に、the Cockatoo Dockyardがその会社を引き受け、その会社が以前作っていたMiles Hawkそっくりの軽飛行機と
Codock、改良型Gannetを製造します。
この会社はCommonwealth設立の際の母体の一つとなっています。
154眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/05 23:43 ID:???
1936年には豪州政府の国策会社として、Commonwealth Aircraft Co.Pty.,Ltd.が設立されます。
これは、外部からの航空機供給が絶たれた場合の保険として、航空機産業を自前で育成しておこうという
主旨で設立されたものです。

資本金は100万ポンドで、豪州最大の鉄鋼会社Broken Hill Pty.Co,.、製錬会社のBroken Hill Associated Smelters Pty.、
とその関係会社、大英帝国最大の鉛と亜鉛の供給会社の現地法人、the Electlytic Zinc Co. of Australia、帝国最大の
化学薬品メーカーの現地法人であるImperial Chemical Industries of Australia & New Zealand、そのほか、
Orient Steam Navigation、最後に米国GMの現地法人であるGeneral Motors-Holdensが出資しています。

1936年、その新会社が何を製造すればいいのか、米国、英国などを巡って帰国した航空審議会技術委員会の勧告で、
米国North American Aviation,Inc.のNA-16多用途機のライセンス生産を始め、1937年に第1号機が来着し、これは、RAAF
でのテストの結果、Wirrawayとして採用され、1939年からCommonwealthで量産が始められます。
この機体は非力ながら日本陸軍のDarwin空襲に際して戦闘機としても用いられました。
また、L.J.Wackett中佐の設計した機体をTugan Aircraftから引き継ぎ、Wackettとして生産しています。

そして、太平洋戦争によって英国、米国から航空機の輸入が途絶した結果、Wirrawayの部品を使用して戦闘機を製作した
のが、1942年のBoomerangであり、これは250機作られて、地上攻撃に活躍します。
更にBeaufort爆撃機の後継機として、Woomeraが製造されますが、これはA-20などの潤沢な供給で量産は中止され、
また、ライセンス生産で、1944年からMustangMk.20/21の製造を始めたため、Grifin搭載の野心的な国産戦闘機CA-15は
試作を中止しました。

戦後は、F-86 SabreにAvonを搭載したCA-27を生産したほか、初等練習機のCA-25などを設計、生産しています。
155名無し三等兵:03/08/06 04:07 ID:???
ノースロップの全翼機シリーズ
コンベアのデルタ翼シリーズ
156眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/06 23:58 ID:???
今日は、GAFに行って豪州編終わろうと思いましたが、疲れたのと、仕事の関係上、
明後日くらいまでお休みします。

それまでスレが落ちないことを祈っていて下され。
157名無し三等兵:03/08/07 21:08 ID:???
ではあげときます。

グラマンの 〜キャット シリーズはそんなに数無い?
158名無し三等兵:03/08/07 21:17 ID:DVIk7+EE
159名無し三等兵:03/08/08 11:28 ID:???
わいるど、へる、べあ、とむ
じゃがぁ、くぅがぁ、たいがぁ(すぅぱぁたいがぁ)
XF12Fは何かついてたっけ?

160名無し三等兵:03/08/08 14:32 ID:???
そんなもんだけ?
161名無し三等兵:03/08/08 20:27 ID:???
タイガーキャット忘れとるでぇ。
162名無し三等兵:03/08/08 20:37 ID:???
誰か、眠い人のレスを軍板全スレからDLする方法を教えてください・・・
163名無し三等兵:03/08/08 21:05 ID:???
タイガーシャーク?
164名無し三等兵:03/08/08 23:17 ID:???
パンサーもあるぞ
165眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/09 01:30 ID:???
閑話休題。

Grummanの猫シリーズ。
最初は、F4F Wildcatから始めて、F5Fは猫から外れ、Skyrocketとなり、F6Fで
再び猫シリーズに戻って、Hellcat、F7FはTigercat、F8FはBearcatとなる。
F9Fは猫から脱皮した猫科の猛獣シリーズとなって、Panther、Cougar、F10Fで
Jaguar、F11FはTiger、XF12Fはキャンセルされたから愛称無し。
F-111Bはどうなったんだろ。
F-14がTomcat。

ちなみに、英国に引き渡された、これらGrummanの海軍機は、余りにも下品な
ネーミングだったため、英国名称はもっと優雅に?変えられた。
F4FはMartletとなり、TBFはTarpon、F6FはGannetとなったが、結局大勢を決する
に至らず、F4FもF4F-2からWildcatとなり、TBFはAvenger、F6FもHellcatとなった。
166眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/09 22:08 ID:???
豪州編の最後は、Boeing Australia Ltd.です。

そもそもは、Bristol Beaufortを生産するために、1939年に設立された航空機生産省の一外局である、
Beaufort Division of the Department of Aircraft Production(DAP)に遡ります。
これは400以上の国内契約工場で生産されたBeaufortの部品を、集約し、
New South Wales Goverment Railwaysの工場で前部胴体、後部構造、ナセル、降着装置を、
Victrian Railwaysの工場で、後部胴体、尾部、方向舵、操縦装置を、
そして、South Australian Goverment Railwayの工場で、中央部と主尾翼を製造して、
その部分品をMelbourneとSydneyで最終組立をするための調整組織と最終組立工場運営の
ために作られた組織です。

1941年にBeaufortの初号機を送り出し、1943年までに700機が製造されました。
この機体には、Commonwealthで製造されたP&W Twin-Waspが搭載されています。
その後、この組織では1944年から1945年末までに364機のBeaufighter Mk.21を製造しています。
1945年から戦後に掛けて、対日戦用にAvro Lancaster Mk.IIIの生産をするつもりでしたが、実際には
発達型のAvro Lincoln Mk.30を製造しました。
167眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/09 22:08 ID:???
戦後は最終組立工場のみ残り、Goverment Aircraft Factory(GAF)に組織変更され、Lincolnの後継機、
1951年からE.E.Canberra B.20を生産し、その生産ラインと並行して、現在でも製造されているJindivik無人
標的機、Ikara対潜ミサイルなどの無人機を製造しました。

Jindivikは、元々、1948年に英国で開発が開始されたものですが、豪州に開発一切が渡され、GAFが
開発を行い、1951年に初号機が初飛行しますが、墜落し、1952年に漸く最初の型が量産開始されました。
以来、1986年までに500機生産され、豪州は元より、米国、英国、スウェーデンでも使用されているベスト
セラーとなっています。
なお、このJindivik無人標的機にコクピットを設けたのが、1950年に開発されたGAF Pikaで、これはJindivik
の空力特性を調べるための実験機だったのですが、豪州初の国産開発ジェット機となっています。

1964年、初の超音速戦闘機としてMirageIIIOの国産化を行い、1965年には豪州の国情に合わせたSTOL輸送機
を開発し、1971年にN2 Normadとして初飛行します。
これが発達型N22/24 Normad(軍用名 Mission Master)として製造されています。

1986年12月、政府の財政再建のため、GAFは解体され、Aerospace Technologies of Australia (ASTA)となり
ましたが、この時点で100%政府保有の会社でした。
1995年6月、完全民営化のため、ASTAは売りに出され、それを購入したのが1973年にCollins Radio Company
を買収して豪州に進出した米国のRockwellで、この会社を4000万ドルで買収します。
しかし、1996年12月にはRockwellも、Boeingに買収され、ASTAはBoeing Australia Limitedと改称します。

現在は、Boeingの機体部品製造の他、Nomadを継続生産し、Jindivikの後継機であるKalkaraを開発生産して
います。
また、F-18、F-111C、S-70、P-3など豪州軍の軍用機のサポート業務、改造なども行っています。
168眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/09 23:23 ID:???
ついで、Canadaに逝く前にNew ZealandとIndiaに寄り道しましょう。

New Zealandにも、航空機メーカーはあります。

戦前はホームビルド機のメーカーしか有りませんが。
第二次大戦中には、お馴染み、The de Havilland Aircraft Co. of New Zealand,Ltd.が1939年末に
設立され、1940年3月には、例によってTiger Mothを100機生産しています。
但し、プロペラとエンジンは豪州からの輸入に頼っていました。
戦後は、DHC-2の販売を行っていましたが、1950年代に消滅したようです。

第二次大戦後のメーカーとしては、1950年代に設立されたPacific Aerospace Co,Ltd.があります。
この会社は、New Zealandの各中小航空機メーカーを集約したもので、1995年に、1976年に設立された航空機メン
テナンスメーカーのAeromotive Ltd.の傘下に入っています。
この会社の主力製品は初等練習機のCT/4、FU-25農業機です。
CT/4は、豪州のVicta Aircraftで1960年代に開発・生産されたものですが、1970年頃に、Aero Engine Services Ltd.
にその生産・開発権が移されました。
この機体は豪州、New Zealand、Thailandの各空軍、警察の他、民間機としても150機以上が製造されており、今は
CT/4Eが製造されています。
もう一つ、FU-25農業機ですが、これは米国のFletcher Aviation Co.で1952年に開発された、FD-25軽攻撃機から
発達した機体で、New ZealandのAir Partsが製造権を購入し、農業機に改造したものです。
更に、これをターボプロップ化し、1160/Cresco 600/750となり、更にCessna 208クラスの軽輸送機となった、PAC750XL
を開発しています。

なお、Fletcher FD-25は1952年に藤沢市に設立された東洋航空工業が、Fletcherとの技術提携により国産化しています。
FD-25は全金属製低翼単葉機で、FD-25は単座軽攻撃機、FD-25Aは複座型の練習機、FD-25Bは複座型の軽攻撃練習
機でした。
日本在籍機はサンプル機として、民間仕様の非武装型FD-25が1機、FD-25Aが1機、FD-25Bが2機であり、国産のTT-10
と共に、陸上自衛隊の近接支援・観測機としての採用も目論んでいましたが、尾輪式であり、自衛隊には採用されず、
Cambodia空軍にFD-25Bが4機輸出された後、この会社は倒産してしまいました。
余談ながら、TT-10は東京都立航空高等専門学校にあるそうです。
169眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/10 00:18 ID:???
Indiaの航空機メーカーは、Hindustan Aircraft Ltd.ただ一社があります。

この会社は1940年12月にBangaloreに設立され、インド帝国政府の支援を得ていました。
但し、その資本は極東最大の米国航空機輸出商社である、Intercontinent Corpn.の出資を仰ぎ、
米国人、英国人が、インド人、中国人を指導する形で会社を運営しました。
その会社の最初の機体は、1941年8月に製造された米国製の練習機Harlow PC-5ですが、
これは4機が製造されたのみで、他に中国とインド空軍向けにCurtiss Hawk75戦闘機の製造も
行います。
第1号機は、1942年7月に初飛行しますが、既に時代遅れとなっており、4機のみが完成しただけ
でした。
このほかに、中国空軍向けにVultee V-12D攻撃機の生産も計画されていましたが、余りに非能率
なために、この会社は1942年4月にインド帝国政府に引き渡され、その資本は、帝国政府の他、
Mysor藩王国が拠出していました。

1943年9月、工場は米国陸軍航空隊第10空軍に接収され、1945年12月まで米軍機の整備工場に
使用されています。
独立後は、航空機の整備を行っていましたが、まず、DHC-1によく似たHT-2初等練習機を1951年に
初飛行させます。
その後、Austerの機体によく似たKrishak観測/軽飛行機が1959年に製造されました。
170眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/10 00:18 ID:???
1956年、Argentinaの政変で居場所が無くなりつつあった、K.Tank技師を招聘して、超音速戦闘機開発
計画を開始し、1961年にB.S. Orpheusを搭載したHF-24 Marutが完成します。
この機体はアジア諸国で曲がりなりにも初の超音速国産機となりました。
余談ですが、この機体のエンジンは結局Orpheusで終始しましたが、ソ連製のKlimov VK-7を導入する
検討が1965年に為され、その後、アラブ連合(今のEgypt)で開発していたDr.H.BrantnerのE-300の導入
が進められましたが、エンジンが実用化されませんでした。
ちなみに、このエンジンを使用すれば、M=2.2を出す予定でした。

そのHF-24の陰に隠れて進んでいたのが、Gnat戦闘機の国産化計画とHJT-16ジェット練習機の開発
計画です。
前者は、1964年から国産化を開始し、1974年には発達型の製造も為されています。
後者は、V.M.Gardijiの設計で製造された純国産練習機で、HJE-2500エンジンを搭載する予定でしたが、
HF-24の開発が難航し、HJE-2500は放棄され、英国製エンジンを搭載しています。

70年代に入ってHPT-32/HTT-34練習機を、1992年にはMBBの技術協力で製造された初めての国産
Helicopter、ALHなどを製造し、1990年から再び国産戦闘機LCAを開発しています。
このほか、MiG-21/23/Su-7と言ったソ連製戦闘機、Mirage2000、MistareIVなどのフランス製戦闘機、
Jaguar、SA315、SA319なども国産化しています。

なお、LCA用の動力は、GasTurbine Research Establishmentによって、開発されているそうです。
171眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/10 23:02 ID:???
英国編、殿はCanadaです。

今でこそ、此処はBombardier1社に統合されていますが、英国の自治領でもあり、尚かつ、米国の隣国でもあることから、
様々なメーカーがこの地に進出していました。

1929年5月にSeattleからほど近いVancouverに、Canada最大のヨットの建造所であるthe Hoffer-Beeching Shipyardsと、
Boeing Airplane Companyの共同出資で、Boeing Aircraft of Canada,Ltd.が設立されました。
1929〜30年にかけて工場を整備し、6人乗り飛行艇を製造したのが最初で、次いで4人乗り飛行艇を製造しています。

1937年に、Canada空軍用に初めての軍用機として、英国製Blackburn Shark偵察機をライセンス生産し、1941年から
Consolidated PBY-5をライセンス生産し、1942年から翌年に掛けて、Cansoの名称でCanada空軍に55機引渡した他、
米海軍にPB2B-1/2として採用され、米国を通じて英国に武器供与の形で引き渡しています。

また、1944年からは所有する3つの工場のうち第一工場でB-29の部品生産を行い、第二工場でMosquitoの尾部を、
第三工場ではB-29の爆弾倉を製造しており、これらの部品は、船で対岸のSeattleに運ばれています。

第二次大戦後は引き続きBoeing機の部品生産を行っていましたが、1954年2月にVertol Aircraft Ltd.へ売却され、
Canadian Vertol Aircraft Ltd.となり、Canada空軍のためのH-21Bを生産しています。
1960年3月31日、本国のVertol Aircraft Ltd.は全株式をBoeingに売却したため、再び、Boeing CanadaのVertol Div.
となりますが、1986年1月31日に、The de Havilland Aircraft of Canada,Ltd.に買収され、消滅。
最終的に、1992年にBombardierに買収されています。
172名無し三等兵:03/08/11 20:25 ID:???
ものすごい遅レスだが

ターポンってあの巨大イワシ?
173名無し三等兵:03/08/11 21:15 ID:???
眠いのになぜ頑張りますか。
174眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/11 23:00 ID:???
>172
あい〜、体長2.5mに達する香具師。

>173
眠ると死んでしまうからでつ(藁。
175眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/11 23:38 ID:???
MontrealにあったCanadian Car & Foundry Co.,Ltd.は、1909年にCanada最大の鉄道車輌メーカーとして誕生しました。
その後、電車、トロリーバス、戦車、トラクターなどありとあらゆる運送機械に手を広げ、行き着いたのが、航空機です。
手始めとして1938年に、New YorkのGrumman Aircraft Engineering Corp.の複座戦闘機、FF-1(G-23)のライセンス生産から
入り、12機をCanada空軍がGoblinの名称で使用し、40機を内戦下のSpain人民戦線に輸出しています。

次いで、352機に上るAvro Ansonの組立契約を結びます。
それと共に、英国輸送空軍の様々な機体のオーバーホールと改造を行っています。
また、1939年からHawker Hurricaneの生産準備を開始し、1940年1月から1,451機が生産されました。
初期の機体はMk,I相当で、1941年中期以降はPackard Marlin28を装備しており、各部に改造を加えた
Mk.X、Canada空軍用のMk.XI、Marlin29装備のMk.XIIの各型があり、また海軍向けにSea Hurricaneも
少数生産されています。

1943年から1945年に掛けて、米海軍向けとして、Curtiss SB2C Helldiverの生産を開始し、これは1,000
機生産されました。
Canadian Car & Foundry社製SB2Cは、SBWとされ、1/1B/3/4/4E/5の各型が生産されています。

第二次大戦後、この会社の航空機部門は、集約して効率化させるために、Avro Canadaに吸収され、
その短い生涯を終えています。
また、1961年までに、この会社の他の部門は解体され、今では消滅してしまっています。
176眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/12 23:24 ID:???
1986年にBombardier傘下に入った、Canadair,Ltd.は、1910年に設立されたCanadian Vickers,Ltd.をその前身にしています。

そのCanadian Vickers,Ltd.は、Vickers-Armstrongの現地法人として設立され、最初は造船が主でしたが、多角化を模索して、
1923年、Canadaの民間企業で初めて、航空機製造に進出しました。
元が造船会社であるために、その製造する機体も、飛行艇が多く、単発複葉のVedette、双発複葉のVancouverが製造されて
います。
その後、1937〜42年にはSupermarine Stranraer複葉飛行艇を40機、初の陸上機としてNorthrop Deltaを1936〜39年に20機
製作し、1941〜45年まで、369機のPBYを製造し、米海軍、カナダ海軍向けに生産されたほか、うち230機は米陸軍向けの
OA-10として製造されました。

ところが、Canadian Vickers,Ltd.はもうけの少ない航空機事業から撤退し、造船業に専心することを決めます。
そして、航空機部門の受け皿としてその航空機事業部長だったB.W.FlanklinによってVentureとして設立したのが、
Canadair,Ltd.です。
この会社は、その航空機部門一切の資産を引き継ぎ、オプション契約としてCanada政府が建設したCartierville工場の
管理も行います。
但し、Cartierville工場管理の条件として、1945年5月までに250万ドルの資本を調達することを要求しましたが、これは
達成できず、PBY製造契約も打ち切られ、オプションは破棄されました。
そして、この工場獲得のために苦難の日々が続きます。
177眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/12 23:25 ID:???
しかし、幸運なことに当時、PBY製造の他、Canada政府との契約として、大西洋を横断可能な長距離輸送機の試作・
製造もあり、この基となる機体としてDouglass DC-4のLicense契約を進め、Douglassとの関係が出来ていました。
大戦が終わり、Douglassの工場の幾つかが閉鎖され、Douglass自体もDC-6等の戦後派旅客機に専念することを
聞き及んだ、工場長のL.Stoppsは、B.W.Flanklinにその設備と部品を手に入れることを献策し、C-54の胴体60機分と
トラック600台分のC-47の部品を入手します。

前者を使って、1946年にDC-4にMarlinを搭載したCanadair DC-4M(C-4)が誕生し、民間向けの他、Canada空軍でも
使用されました。
この機体は、B.O.A.C.にもAvro Tudorの失敗のため、採用されています。
更に後期型は、DC-6に近くなり、客室は与圧されています。
なお、この機体はCanada空軍で18年にわたって、1機の喪失もなく、3億1000万kmの飛行を行っています。

また、後者の部品は、主に英国から入手したDakota/C-47軍用輸送機の民間機転換を手がけ、1945〜49年にかけて
250機以上の機体を転換し、その修理部品のストックは膨大で、英国空軍からも調達が行われました。

こうして、一応危機は乗り越えましたが、Cartierville工場入手のためには200万ドルが必要でした。
航空省は、出来る限りカナダ人によって運営されるべきだと主張しましたが、既に他の投資家は、老舗のAvro、
De Havillandに出資しており、大戦後でもあり余力はありません。
其処で、Flanklinは米国に出資者を求め、Electric Boatの傘下に入ることになりました。
しかし、航空省は猛反対し、それが政治的問題に転化するに及んで、Flanklinは会社を去り、Hopkinsに後を
譲ります。
178眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/12 23:25 ID:???
1949〜58年に掛けて、CanadairはF-86のライセンス生産を1,815機行いました。
但し、豪州でAvonを採用したのと同様に、国産のOrendaが製造した、Orenda10シリーズのエンジンを搭載して
いました。
また、1952年にはNene搭載のT-33を656機生産します。

この頃がCanadairの黄金時代で、BristolからBritanniaの製造権を購入し、旅客機としてではなく、重量物輸送
用貨物機としてCL-44を完成させ、その軍用版CC-106、そしてエンジンをターボプロップからR-3350に換装し、
各種対潜装備を搭載したCL-28を生産します。
このほか、Dakota輸送機の代替のために、CV-440をターボプロップ化したCL-66 Cosmopolitanを開発しますが、
政治的な理由でNapier Elandが採用され、このエンジンの調子が悪く、他でも売れませんでしたし、南米での生産は
頓挫しました。

今まで、他社が生産していた機体の改造ばかりをしていたCanadairが生産した最初の国産機が、CL-41 Tutorです。
これは単発のジェット練習機で、1959年に開発開始、そして、1962年に初飛行します。
また、1965年にはCF-104のFCS訓練用にCL-41Rが開発され、エンジンをJ85に換装したCL-41GがMalaysiaに輸出
されます。

この後、Canada統合航空軍の発足に伴い、NATOに貢献する核攻撃用航空機として、Grumman F11F-1Fと、
Lockeed F-104Gの競争の結果、後者が採用され、CF-111となりました。
これが後のCF-104で、200機のCanada空軍用の他、NATO、台湾向けのF-104G140機、更に、Lockeedへの
部品供給として、主尾翼、後部胴体を600機生産しました。

次期攻撃機としては、Northrop N-156、LTV A-7、Fiat G-91の争いになりました。
軍部はA-7を推しましたが、政府はN-156を採用し、CF-5としてこの会社で生産されています。
またオランダ向けのNF-5も此処で生産されています。
179眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/12 23:26 ID:???
国産機としては、CL-41以後、VTOL機に関心が移り、ティルト・ローターのCL-84が試作されています。
1965年に試作された機体は失われましたが、すぐさま増加試作機が製造され、米国海軍も関心を示し
ました。
米国ではGuam、Guadalcanalと言ったヘリ空母から何十回も飛行を行い、有用とされましたが、それ以上
に関心は無く、Viet Nam戦争後の不景気で、1974年にプロジェクトは中止されています。

一方、成功を収めたのはCanadaの森林地帯に発生する火災を消火するためのWaterBomberです。
最初はCL-204と言う双フロートの水上機でしたが、荒い波の上に着水することが要求としてあげられ、
飛行艇形式の機体となって、名称もCL-215と変更されました。
この機体は、125機生産され、ラインは一旦閉じますが、Bombardierによって発展型が開発され、現在も
少数ながら生産が続いています。

1970年代初期の不景気と、米国Electric Boatが発展して作られていたGeneral Dynamicsの混迷により、
1976年、CanadairはCanada政府に買収され、国有企業となります。
其処で、CL-600/601ビジネスジェット機が開発され、1978年にそれは初飛行しますが、開発段階の遅れと
国有企業特有の非能率とで、1982年には11億4000万ドルの借金を抱え、倒産寸前となります。
このため、政府からCanadian Development Investment Co.の手に委ね、1986年にはその債務を政府が
肩代わりすることとなり、その状況で身軽となった後に、Bombardierに売却されます。

Bombardier傘下では、CL-215のターボプロップ型CL-215Tが生産を開始し、後により近代化されたCL-415に
発展します。
またCL-601はCL-603/604に発展し、更にRegional Jetとして、RJ-100/200、その発展型で日本も開発に
携わっているCRJ-700が生産され、小型旅客機業界に名を残しています。
180眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/13 22:51 ID:???
殆ど知らない超マイナーメーカーで、知っている人は知っているのが、Cockshutt Moulded Aircraft,Ltd.です。
この会社は1942年11月に、Cockshutt Plow Co,Ltd.の航空機製造部門を前身に設立されました。

Cockshutt Plow Co.,Ltd.は、1877年に設立された農機具メーカーで、最初は鋤を製造していました。
その製造と販売から、英連邦で最大の農機具メーカーとなります。
第一次大戦中には、英国向けの貨車と砲架の生産で多大な利益を上げ、1928年からAllis Chalmersのトラクターを
製作し、1930年から独自開発を始めます。

第二次大戦中、その生産力は、兵器工場に転換され、Federal Aircraftの従契約者として、Avro Anson Mk.Vの木製
胴体と、部品を製造し、航空機の生産のために新工場を建設します。
また、その後は、De Havilland Canadaが製造するMosquito B.Mk.25の部品生産を行います。

このほか、砲牽引車、救急車のボディ、100,000発に上る手榴弾を生産しています。
本業では、亜麻繊維を処理する麻打ち機を手がけ、Parachuteなどにこれらは使用されました。

戦後、本業に再び回帰し、現在の乗用形式のトラクターコンバインなどの農業機械を手がける傍ら、
Orendaエンジンの部品製造工場ともなり、Canadair Saver、Silver Starなどの機体にエンジンを供給
しています。

しかし、好事魔多し。
絶頂の会社でも忍び寄る影があり、米国のメーカーに比べて割高な製品は余り売れなくなり、また、
ジェットエンジンの生産も頭打ちとなったため、会社は左前となって、1959年に遂に売りに出されること
となり、紆余曲折を経て、米国のトラックメーカー、White Motor Corporationに買収され、Cockshutt Farm
Equipment of Canada Inc.となって、販売網だけが残る状態となり、完全に消滅しました。
181眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/14 23:30 ID:???
明日、力を入れるので今日は閑話休題。

初心者質問スレででた質問の補足を少し。

>第二次大戦以前に国産航空機つくれた国を教えてください。

米英独仏伊日蘇蘭の他に、
Argentina、Austria、Belgium、Australia、New Zealand、
Canada、Bulgaria、中華民国、Czechoslovakia、Denmark、Finland、Hungary、
Greece、Lithuania、Norway、Poland、Portugal、Romania、Spain、Sweden、
Swiss、Yugoslaviaを挙げています。

Australia、New Zealand、 Canadaは今正に触れているので割愛しますが、
大抵が国営企業か、陸軍、海軍の工廠によって製造されています。

Argentinaは、CordobaのMiritary Aircraft Factoryが、軽輸送機、練習機を製造しています。
これは、今のFMAですね。
Austriaは、Hirtenbergと言う会社が練習機、飛行艇、軽輸送機、多用途機を製造していました。
Belgiumには、Fairlyの子会社が軽爆撃機をBelgium空軍向けに製造し、Renardと言う会社が直協機を製作しています。
また、SABCAは後に戦闘機の製造下請けをしていますし、Stampeは、70年代まで練習機として使われていました。
BulgariaにはDARと言う国営航空機工場があり、輸送機、練習機、爆撃機を製作しています。
中華民国は、小型巡洋艦搭載用に、海軍航空工廠が、水上練習機と偵察機を製造しています。
Czechoslovakiaは、Aero、Avia、Letov、Praga、Zlinが主なメーカーで、このうちの幾つかは今でも残っています。
182眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/14 23:31 ID:???
Denmarkは、陸軍航空機工場で、多用途機を製造し、海軍造船所で、戦闘機、爆撃機を生産しました。
Finlandも、国営航空機工場で、練習機を国産化しています。
Greeceは、国営航空機工場で、航空機のライセンス生産をする傍ら、RAABと言う企業が軽飛行機を作ったりしています。
Hungaryは、Weissが練習機を製造していますし、世界最初のTurboPropも製造しています。
Lithuaniaには、陸軍航空機工場があり、練習機と連絡機を、Norwayでも、国営航空機工場で、水上偵察機と戦闘機を
製造しています。
Polandは航空大国を目指していたので、P.W.S.、L.W.S.、P.Z.L.、R.W.D.の各社が覇を競っておりました。
Portugalは、政府工場にて、英国デザインの水上機を生産しています。
Romaniaは、I.A.R.が、戦闘機から連絡機まで各種の機体を製造し、他にICAR、S.E.T.と言う会社がありました。
Spainには、今もあるCASAの他、本家Hispano-Suizaもありました。
Swedenは、SAABの前身のSvenska、Sparmanと言う会社の他、ユンカースの様なドイツ資本の子会社が
多く設立されています。
Swissにも、国営航空機工場の他、Dornierの子会社が設立されています。
最後のYugoslaviaには、戦闘機を製造したIkarusの他、水上機メーカーのRogojarskyもありました。
183山崎 渉:03/08/15 21:09 ID:???
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
184名無し三等兵:03/08/16 14:48 ID:???
R.W.D-13って模型化されてないのかな…
185眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/16 23:51 ID:???
よんどころない事情で、またダイアルアップ環境を彷徨わないといけなくなりますた。
んでもって、2〜3日留守にします。

それまでスレが落ちないことを祈っていて下され。
今夜はDe Havilland Canadaに関して書こうかと思っていたのですが…。

>184
Polandのメーカーから、模型化されていましたよ。
漏れは、R.13の方を持っていましたけど。
186名無し三等兵:03/08/17 08:39 ID:???
では復帰まで、生産機数の話しでもいたしませうか?
187名無し三等兵:03/08/17 10:43 ID:???
メーカー別生産機数なんて資料あるかな?
昔、航空各社別社史がどっかから出てたけどアレぐらいしか思いつかん
188名無し三等兵:03/08/17 11:24 ID:???
16 名前:再建者[sage] 投稿日:03/07/10 19:40 ID:???
66 名前: [ ] 投稿日:03/06/22 11:57 ID:???
ttp://www.sam.hi-ho.ne.jp/ki-44/1/sou-kaisya.htm
↑の資料の昭和元年〜20年までの生産機数からの割合を計算してみる↓
(空技廠や広廠が入っていない?)

中島 24,100 29.4%
三菱 17,531 21.4%
川崎 11,348 13.8%
立川  9,690 11.8%
愛知  5,068  6.2%
九州  3,797  4.6%
日国  3,088  3.8%
川西  2,851  3.5%
日立  1,727  2.1%
日本  1,322  1.6%
富士  869  1.1%
昭和  618  0.8%
合計82,009 100%
189名無し三等兵:03/08/17 11:25 ID:???
17 名前:再建者[sage] 投稿日:03/07/10 19:40 ID:???
67 名前: [ ] 投稿日:03/06/22 11:57 ID:???
同じページのもう一つの資料
           機体     発動機
中島飛行機  24,100 31.7% 44,160 31.9%
三菱重工業  17,522 23.1% 54,135 39.1%
川崎航空機  11,348 14.9% 13,880 10.0%
立川飛行機   5,396  7.1%
愛知航空機   5,068  6.7%
九州飛行機   3,797  5.0%
日本飛行機   3,088  4.1% 11,969  8.6%
川西航空機   2,851  3.8%
日本国際航空機 1,322  1.7%
昭和飛行機   618  0.8%
富士飛行機   869  1.1%
石川島航空機         2,286  1.7%
日立航空機          11,969  8.6%
松下航空機
広工廠(第11空廠)
日本小型飛行機
佐世保工廠(第21空)
横須賀工廠(空技廠)
美津濃
合計     75,979機   138,399基


今一網羅されていないような・・・
190名無し三等兵:03/08/19 09:20 ID:???
零戦が一万機で最大?
191あぼーん:あぼーん
あぼーん
192名無し三等兵:03/08/19 10:29 ID:???
>190
そう、2位が隼で約5000機
3位は僅差で役立たずだった疾風
193名無し三等兵:03/08/19 10:37 ID:???
意外にも彗星の生産機数が多いんだよなー
194あぼーん:あぼーん
あぼーん
195あぼーん:あぼーん
あぼーん
196あぼーん:あぼーん
あぼーん
197あぼーん:あぼーん
あぼーん
198あぼーん:あぼーん
あぼーん
199名無し三等兵:03/08/19 10:50 ID:???
199
200名無し三等兵:03/08/19 10:51 ID:???
200ゲッツ
201眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/19 23:48 ID:???
The De Havilland Aircraft Of Canada,Ltd.は、1928年に本国の子会社として、Canadaでの航空機生産と部品供給基地
を目的に設立されました。
その資本は50万カナダドルで、うち、30万カナダドルは、Canadaの投資家4〜5人の出資で賄われています。

最初の頃は、Dragon Rapide旅客機、Hornet-Moth軽飛行機などの本国生産機に、Canadaの冬の運用に適するように、
スキー降着装置を取り付けたり、湖沼からの運用が可能なように、フロートを取り付けた水上機に改造することでした。

1937年から、Canada空軍の大増強と英連邦軍の統合訓練計画に基づき、D.H.82C Tiger Moth練習機の生産を開始し
ます。
これは、1942年まで1,520機を生産しますが、Canadaの厳しい気候で運用するため、密閉式風防、座席暖房装置、
車輪ブレーキと尾輪を装備しており、降着装置はスキー、フロートに交換可能というものでした。
また、英国からのエンジン供給が途切れたため、米国製のメナスコを装備したものもありました。

1942年より、これもまた本国の製品であるMosquitoの生産を開始します。
まず、B.Mk.4準拠のB.Mk.7が少数生産され、次いで、B.Mk.5から発展したB.Mk.20が作られ、これが
爆撃型の主生産型となりました。
戦闘爆撃機型は、F.B.Mk.6に相当するF.B.Mk.21が少数生産され、米国製装備を取り付けたF.B.Mk.26
が主生産型となりました。
このほか、練習機型のT.Mk.22(F.B.21の練習機型)、T.Mk.27があり、他にB.Mk.20の高々度爆撃機型
のB.Mk.23、F.B.Mk.21の高々度型のF.B.24なども計画・試作されています。
両形式併せて、1945年までに1,032機が生産され、戦後にはB.Mk.25とT.27が102機製造されていました。
202眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/19 23:49 ID:???
戦後、この会社は独自開発路線に転じ、旧式化したCanada空軍のTiger Moth練習機の後継機として、
DHC-1 Chipmunkを製造します。
これは同じく、Tiger Moth練習機を運用していた英国空軍にも採用され、本国のDe Havillandでは、開発
国以上に生産されていました。
また、Canada北部の気候風土に根ざした機体として、短距離離着陸が可能で、水陸両用の降着装置が
取付けられ、頑丈で整備性が良く、耐候性があるように設計された、DHC-2 Beaverが製造されました。
この短距離離着陸性能と頑丈さが、馬車馬として特に重宝され、特に米国陸軍にはU-6Aとして968機が
採用され、世界20カ国の空軍にも輸出され、総計で1,657機も生産されました。

ただ、Beaverは、些か小さすぎ、乗員、乗客が7名程度しか運べませんでした。
ユーザーが求めていたのは、更に大きな、「空飛ぶ1tトラック」でした。
そこで、これを拡大し、ストレッチ化したDHC-3 Otterが生産されました。
これは450機が製造され、米陸軍とCanada空軍が生産数の3分の2を使用し、
残りは36カ国に輸出されました。

1956年、DHC-3のユーザである、米陸軍とCanada空軍の担当者が共同して、
短距離離着陸が可能で、車輌を含む大型貨物が搭載可能な大型輸送機の
基本設計を行います。
その基本設計に基づいて、製造されたのが、YAC-1で、会社名称は、DHC-4
Caribouと名付けられました(ちなみに、原型機作成段階では、この機体の
愛称はTwin Otterだったりする)。
この機体は、米国でAC-1、次いでCV-2Aとなり、159機が米陸軍に採用され、
固定翼機の空軍移管に際しては、C-7と名称が変更されました。
Viet Nam戦争で、これらの機体は物資輸送に活躍しますが、大型ヘリコプタ
の登場に伴い、徐々に退役していきます。
203眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/19 23:50 ID:???
そのDHC-4には、STOL性能が良好な反面、陸軍が使用する兵器の大部分が
搭載できないという欠点がありました。
一方で、大型輸送HelicopterであるCH-47が良好な成績を挙げているため、
それに勝る性能が、固定翼STOL輸送機に求められました。
その結果、タービンエンジンを採用して大型化した機体であるDHC-5 Buffaloが
YAC-2、後にYAV-7Aとなったのですが、1967年に空軍に陸軍の固定翼機が
全て移管されたため、それは全面採用に至らず、4機しか製造されませんでした。
なお、このYC-8Aの1機は、1975年にエアークッション着陸装置の試験機となって
います。
このストレッチ型が、Canada統合航空軍に採用され、輸出も細々と行われており、
DHC-4の再来には至りませんでした。

DHC-4/5と並行して、元々の軸となっていたDHC-3が老朽化しつつあったため、
まず、手始めにその頃、Pratt & Whitney Canadaで徐々に形を為しつつあった
PT6ターボプロップエンジンを取り付けた、DHC-2 Mk.III Turbo Beaverが1963年に
製作されました。
これで、エンジンの性能を確認した後、Otterの導体をストレッチし、PT6A双発に
変更した上、胴体内にJ85エンジンを取り付けて、飛行中に推力変向を行って、
着陸距離を減らすと言う実験機、STOL Otterが1963年に作られます。
そして、1965年、その機体を基に、実験用の特殊装備を除いた機体が、
DHC-6 Twin Otterとなり、米陸軍、空軍を始めとして、軍用にも可成りの数が製造
されています。
この機体は、100シリーズ、200シリーズ、300シリーズと発展を続け、最終的に、
1988年12月まで844機が生産されました。
(しょうもない話ですが、日本でもこの機体が北海道、沖縄などで使われていますが、
日本ではこの機体の愛称は「オター」と表記しています。
本来は、「オッター」が原発音に近いのですが、「オッター」=「落った」に繋がるとして、
DHC-3販売時から、日本の販売代理店が「オター」と表記することになったのでした。)
204眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/19 23:50 ID:???
1967年、QSTOL機としての需要を開拓すべく、DHC-7の開発が立てられます。
しかし、この機体を生産する前に、DHC-5の米国での失注があり、資金難で開発が遅延
し、1972年末に開発を開始しました。
1975年に初飛行しましたが、静音を実現するための凝った構造と、4発のエンジンの整備
性、コストなどの問題があり、またオイルショックによる不景気などもあって、ドイツとCanada
で軍用として使用されただけで、生産は111機で終了してしまいました。

その失敗を考慮し、米国のCommuter航空の規制緩和を受けて開発したのが、DHC-8 Dash8
です。
この機体は、DHC-7の治具、部品を或程度共用して使用し、QSTOL性能は妥協して、コスト
削減を狙ったもので、1979年から開発を開始し、1983年に初飛行を行い、Canada国防軍が
採用しています。
また、民間機としては500機以上の受注を集め、ヒットとなりました。

こうしたことを受けて、the De Havilland Aircraft Of Canada,Ltd.は、Commuter部門の強化
を図るBoeingの子会社となります。
しかし、Canada政府は米国資本による完全子会社化を望まず、1989年、この会社はCanada
最大の重工業メーカーであるBombardierにその持ち株を売却し、Boeingもそれに同意して、
その経営から撤退します。
現在、De Havilland Canadaは、Bombardier Regional Aircraft Divisionとなり、Dash8 Q Series
を生産しています。
205なDERUくん ◆9fcB7hi0gQ :03/08/20 23:05 ID:???
ポリカルポフに航空機設計を教えたのはフォッカーだった
206眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/22 00:52 ID:???
Fairchild Aircraft,Ltd.は米国の会社にも同じ社名のものがありますが、向こうはThe Fairchild Aircraft Corp.であり、
全然別の会社です。
これは、St.Maurice渓谷保護協会の航空活動の副産物として設立されたもので、1919年にCanada最初の営利目的の
航空事業展開のために活動を開始し、1922年に、Fairchild Aerial Surveys of Canada,Ltd.として独立しました。
最初はその名の通り、航空測量事業を柱にしていましたが、1929年に航空機製作とその付帯事業を行う会社となり、
Fairchild Aircraft.Ltd.と改称されました。

1930年に、Montreal近郊に工場を構え、本格的に機体の製作を開始します。
工場には付帯して、滑走路があり、また、水上機の発着場も設けられました。
1934年から、全金属製軽輸送機の製造を開始し、単発の水上機、陸上機を主に手がけていました。

第二次大戦勃発後の1939年から1942年にかけて、此処も英国の戦時体制に組み込まれ、1938年に、英国空軍向けの機体を生産する合弁会社として、
Canada国内の主なメーカー6社によって設立されたCanadian Associated Aircraftに参画し、Handley Page Hampden爆撃機の主組み立て工場となり、
160機を製造しました。(部品は出資メーカー6社によって組み立てられ、この会社に集約された)
207眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/22 00:52 ID:???
次いで、Canada空軍のために、BristolがBlenheim Mk.I爆撃機を改造して製作した、Bolingbrokeを700機生産します。
この機体は、Blenheim Mk.IVの原型となった機体で、機首を延ばして爆撃手席を設け、主脚を延長し、スキーやフロートを取付られる
ようにしています。
また、規格は米国規格に改められ、一部には米国製のWright Cyclone、P&W Twin-Waspを取り付けたものもありました。
1943年には旧式化したFairly BattleにWright Cycloneを試験装備する実験(標的曳航機としての)も行いました。

Bolingbrokeの後は、米海軍とCurtiss SB2Cの生産契約を結び、これをSBF-1/3/4Eの各型として、生産しています。
最初のSBFは、1943年8月28日に初飛行し、最後の機体は1945年4月にラインアウトしました。
これらは、300機以上が生産されています。
このほか、Chance Vought F4Uの従契約者として、各種の部品生産を行っています。

戦後は、Husky Aircraft Ltd.と共同で、1946年に原野飛行用のFairchild Husky F11を製造し、
1948年にHusky Aircraft Ltd.にその事業は売却されます。
この会社は1970年にIndustrial Wings Ltd.となり、現在に至っていますが、今は航空機の生産はしていない
ようです。
208眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/23 01:00 ID:???
英連邦の操縦士養成計画に基づき、Avro Anson双発練習機が連邦全体で1,500機必要とされ、英国でその生産が
行われ、また、英連邦でも英国からの部品供給で、その組立が行われる予定でした。
ところが、第二次世界大戦が勃発し、英国の戦いが開始されるに伴い、英本国では戦闘機の生産が中心となり、
練習機にまで手が回らなくなり、操縦士養成計画は危機に瀕します。

そこで、1940年7月、Canada政府の国有企業として、Federal Aircraft,Ltd.が設立され、Ansonの生産を統括することに
なりました。
Ansonの生産自体は、Canada国内の11の航空機生産企業で行われていましたが、その生産計画は各々の会社の
生産計画から独立させることにしたものです。

その初号機は、1941年8月に行われ、Anson Mk.I相当の機体が、Mk.IIと呼ばれていました。
但し、英国製のものとは、75%が交換可能で、エンジンは米国製JacobsL-6に換装され、引込脚は油圧式で、フラップを
取り付けていました。
また、機首はプラスチック合板で製造されています。
この機体は、1945年初期まで、1,832機製造されました。

次いで、1942年からは、胴体全体がプラスチック合板で製造され、P&W R-985を搭載した航法練習機型のMk.V、射撃・
爆撃練習機型のMk.VIが製造されています。
これらは、1,050機製造されています。

このほか、英国から胴体など主要コンポーネントが送られ、これに、Mk.II相当の装備を設けたMk.III、同じくMk.V相当の装備
を取り付けたMk.IVが改造されました。

なお、Mk.IIに関しては、米陸軍でも、AT-20として50機用いられています。

戦後、この会社は役目を終え、解散しています。
209名無し三等兵:03/08/23 07:23 ID:???
保守
210 :03/08/23 07:31 ID:???
エラー?
211眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/24 23:48 ID:???
Fleet Aircraft,Ltd.は、米国Consolidated Aircraft,Corp.のCanadaに於ける現地法人として、1930年にOntario州に設立
されています。
但し、経営者は現地化されており、或程度の独立性を有していました。

1936年に工場を拡張し、主にCanada空軍向けの初等練習機Trainerを製造していました。
1939年からは、そのTrainerを改良したFinchが製造され、606機のそれを製造し、英連邦諸国に供給しています。
また、英連邦諸国向けの高等練習機として、Fortが製造され、その製造が行われていますが、これはHarvardが米国から
供給されることが決まったため、101機で打ち切られ、その代わりに米国Fairchild社製のCornell初等練習機を製造する
ことになります。

1942年9月から1944年5月にかけて、Cornell Mk.I(PT-26A)が1,307機と、改良型のMk.II(PT-26B)が250機製造され、
Canada空軍に供給されていたStairman練習機を代替し、このほか、この機体はIndia、Southern Rhodesiaにも供給されて
います。
なお、このCanada製Cornellは、座席覆い、暖房、夜間・計器飛行設備が取り付けられており、エンジンはChrysler Canada
で製造された、Rangerが用いられ、450カ所の改良が施されていました。

その練習機供給Programが終了した後、Victory Aircraft,Ltd.が製造するLancaster爆撃機の主翼、尾翼を製造する従契約者
となり、1944年半ばから引渡を行いますが、その生産が一段落した1946年、会社は、Fleet Mfg. & Aircraft Ltd.となって、
Fleet Canukと言う軽飛行機を製造した後、その製造・販売は第二次大戦後の不況、余剰機の大量放出による新造機の販売
不振などが相まって、1948年からはFleet Mfg. Ltdとなって飛行機製造から手を引きます。
212名無し三等兵:03/08/27 09:00 ID:???
とりあえず保守。
213 :03/08/28 23:23 ID:???
つ づ い て
214眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/28 23:38 ID:???
8月も後少し、Canadaも後4社となりました。

さて、今回はMacDonald Bros. Aircraft,Ltd.の話をしてみませう。
この会社は、1930年に設立されたもので、飛行機の整備会社としてスタートしました。
その後、米国Edo社の水上機用フロートをライセンス生産するようになり、また各種航空機のための機体修理、
部品供給を行うようになります。

第二次世界大戦勃発後、この会社も例によって、英連邦の共同飛行士養成計画に基づくAnsonの製造工場に
選定され、Manitoba州に新工場を建設し、その部品生産と組立を行います。
Ansonの部品生産は、Mk.I、IIの組立、Mk.IIの主翼製造を経て、その修理とオーバーホール業務も行い、更に
1944年以降のAnson Vにおいては、他社からの部品を組み込んで、その製造を行っています。
最終的に、Federal Aircraft,Ltd.と共に、Anson製造の主契約者に成り仰せています。

このほか、従来の工場においても、Ansonの金属製部品の他、Oxford、Hurricaneの部品供給工場となりました。
1944年からは、Curtiss SB2C、PB2B Catarinaの部品を生産し、またNoorduyn Aviation,Ltd.が米陸軍向けに
生産していたC-64A Norsemanのフロートを製造しています。

また、The DeHavilland Aircraft of Canada,Ltd.の製造するMosquito爆撃機の部品生産をも開始しています。

戦後、Anson製造を撤退した後は、元の部品メーカーとなり、命脈を保っています。
215眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/31 01:53 ID:???
夏休み中にCanada編完結の予定だったけど、少し怪しくなりますたな。

今回は、前回取り上げました、MacDonald Bros. Aircraft,Ltd.でも少し触れました、Noorduyn Aviation,Ltd.を取り上げて
見ましょう。
この会社は、Sopwith、Armstrong Whitworth、Fockerの各航空機会社で働き、Bellanca、Pitcairnと言った米国製航空機
をCanada国内で売っていた、R.B.C.Noorduynが、自分で設計した機体を製造、販売するため、Canadaの資本家を口説い
て1935年に設立した会社で、当初は、Noorduyn Aircraft,Ltd.と言う名称で、1938年に改称しました。
その生産工場は、1929年にCurtiss-Reid Aircraft,Ltd.が建設したものを買収しています。

其処で生産したのは、R.B.C.Noorduyn設計の軽輸送機、Norsemanで、これはCanada空軍で連絡機、または無線航法士
訓練機として使用されました。
太平洋戦争勃発後、米陸軍航空隊にもC-64として採用され、759機が使用されています。
Jazz Playerとして一世を風靡した、Glen Mirrorが1944年にParisからの生中継の移動のためにLondonから搭乗し、行方
不明に成った際に搭乗していた機体としても有名です。
この機体は、戦後も1960年まで製造され、918機が製造されました。

このほか、1938年から英連邦訓練計画に基づき、Harvard Mk.IIBが生産され、これはAT-16と言う名称で制式化され、
米陸軍航空隊によって使用され、また、英国空軍にも引き渡されています。

また、そのHarvard、Norsemanの修理と、航空機用スキーの開発、装着作業も行っています。

1946年、Norsemanの生産権をCanadian Car & Foundry Companyに売却しましたが、1953年には、
その消滅に伴い、Noorduyn Norseman Aircraft Ltd.と言う社名に変更し、生産権を取り戻します。
そして、1960年、最後の機体を生産して静かに消滅しました。
216眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/08/31 23:23 ID:???
まずは、>214の補足から。
戦後、1955年にBristol Aeroplane Co.に買収され、Bristol Aircraft (Western) Ltd.となり、
翌年、Bristol Aero Industries Ltd. Winnipeg Divになりました。
1965年、Bristol Aerospace Ltd.となって命脈を保っています。

で、同じ様なMakerで、Ottawa Car and Aircraft,Ltd.が有ります。
この会社は1924年に設立されたもので、主力製品は路面電車製造でした。
しかし、W.G.Armstrong Whitworth Aircraft,Ltd.、A.V.Roe & Co.,Ltd.とArmstrong Siddley Motors,Ltd.
の各社のCanadaに於ける販売代理店として航空機工業に参入しています。

第二次世界大戦中は、Ottawaの工場で、Ansonの部品、各種航空機エンジンを作り、1944年からは
Avro Lancasterの主要部品とCurtiss SB2Cの部品を製造しています。
1947年に航空機製造からは手を引き、元の車輌製造に戻っています。
217眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/02 00:27 ID:???
今宵は、Victry Aircraftに逝くつもりだったが…パッタリ。
218名無し三等兵:03/09/02 21:29 ID:???
応援してます
219眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/03 23:42 ID:???
さて、Victory Aircraft、Ltd.ですが、この会社は、後のA.V.Roe Canada Ltd.となっています。
世界最大級の戦闘機の一つ、CF-105を開発した会社ですね。

この会社の成り立ちは、1912年に遡ります。
Canadaで鉄鋼生産と客車と貨車生産を行うべく設立された、National Steel Car Corp. Ltd.
と言う会社がありました。
National Steel Car Corp. Ltd.は、現在もNational Steel Car,Ltd.として存続しており、今は
貨車を製造しているメーカーとなっています。

当然、この生産設備は他の機械生産に転用出来るため、1938年にOntarioの工場を航空機
生産用に転用し、Westland Lysander Mk.IIを生産するようになりました。
この会社の工場で、1938年から翌年に掛けて、75機のLysanderを製造し、その後Lysander
Mk.IIIを115機生産しています。

また、Canadian Associated Aircraft Ltd.の傘下工場として、PBF Catharina飛行艇、
Hampden爆撃機の最終組立、Curtiss SB2C(SBF)の生産も並行して行っていました。

1942年11月4日、National Steel Car Corp. Ltd.の航空機部門の工場は、Canada政府
によって国有化され、Victry Aircraft,Ltd.となります。
此処ではA.V.Roe & Co.,Ltd.のLancaster B.Mk.III相当のB.Mk.X生産工場に指定され、
その第一号機は、1943年9月に初飛行し、この機体はCanada空軍の主力爆撃機として、
英国空軍向けも含め、440機が製作されています。
この中には、郵政当局の大西洋横断航空便運航用で、Trans-Canada Airlinesによって
運航された、4機のLancaster郵便輸送機も含まれます。
1944年には、その生産ラインからAvro York輸送機が1機だけ生産されています。
1945年に、生産ラインはAvro Lincoln B.Mk.15に切り替わり6機生産されますが、終戦で
キャンセルとなり、貨物輸送機に改造されています。

1945年7月、Victry Aircraft,Ltd.はCanada政府によって、Hawker Siddeley Aircraft Co. Ltd.
に売却され、12月1日にA.V.Roe Canada Ltd.と社名が変更されました。
220  :03/09/04 21:54 ID:???
読んでいまする。
221眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/05 00:37 ID:???
さて、第二次大戦後、A.V.Roe Canada Ltd.は、1946年にエンジン部門を分離させ、航空機生産に専念します。
(ちなみに、そのエンジン部門は後にOrendaとなります。)

この体制で最初に着手した航空機は、C-102と言うTrans-Canada航空の要求に応じて製作した、50人乗り輸送機です。
しかし、特筆されるのは、C-102は1949年8月10日に初飛行した、世界で二番目のジェット輸送機だったことです。
(ちなみに、Cometはその13日前に初飛行)
その名も、"JetLiner"。

この機体は、総重量30t級の中距離輸送機で、Derwentを4基搭載していましたが、レシプロ輸送機のデザインをそのまま
踏襲したため、性能は余りレシプロ機と変わらず、結局1機も売れずに、1951年に4機で試作は打ち切りとなり、1952年夏に
Hughes Aircraftに電子機器のテストベッドとして貸し出されたほか、CF-100戦闘機のチェーサーとしても用いられています。
最終的に、1956年12月に最後の機体がスクラップになっています。

続いて、この会社ではCanada空軍がその長い国境線を警備する事の出来る、長距離全天候戦闘機を試作します。
CF-100 Canuckと呼ばれた機体は、1950年に初飛行に成功し、量産が行われます。
試作機は、Avonを搭載しましたが、Mk.IIから国産のOrenda11を使用しました。
また、初期の型は、12.7mm機銃を装備していましたが、後の型ではMighty Mouseを装備しています。
また、輸出も行われ、Belgium空軍のMeteor、Hunterの後継機としても採用されています。

このCF-100の最終型はMk.5まででしたが、Bristol製のアフターバーナーを取り付けたOrenda11Rを
装備したMk.6、25°の後退翼を取り付けたCF-103の二機種が計画されていました。

そして、運命の機体の開発に入ります。
222眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/05 22:04 ID:???
1952年、CF-100の後継機として開発が始まった国産戦闘機は、複座、デルタ翼で単発エンジンのC.104Mk.1と、双発の
C.104Mk.2の2案が検討されていました。
そして、1953年6月、C.104Mk.2案を小型・軽量化したC.105を空軍に提示し、この開発が認められ、此処に一大プロジェクトが
スタートしました。

1954年、社名がAvro Aircraft Ltd.となると共に、この機体はCF-105と言う正式名称を与えられ、最大速度M=2.0、行動半径260nm、
戦闘高度18,300mを目指して開発が進み、その性能を発揮するために全長23.7mで総重量30t以上の巨大戦闘機となりました。
この巨大な機体に、米国RCA社の開発したAstraIFCSと、RaytheonのSparrow2AAMを格納し、国産のOrenda PS13で引っ張る
予定でした。

この機体は、CF-100の後継として5〜600機の量産が予定され、初期量産型として、P&WJ75を搭載したMk.Iが5機、次いでOrenda
Iroquois(旧称PS13)を搭載したMk.2が32機発注され、順次兵装をUpdateしていくようになっていました。

しかし、FCSとAAMの開発費が高騰し、開発プロジェクトの総予算は3億300万ドル(当時の日本の貨幣価値換算で1,090.8億円、
これは日本でF11F-1Fを量産する総予算とほぼ同じ)に達し、1機当たりの単価は34億円(1959年当時の貨幣価値換算です。
その頃のサラリーマン月収が約1万円ですから…)に達しました。
このため、Avro Aircraft Ltd.はCanadian Car & Factryの傘下に入って、開発資金を調達しています。

1958年3月に試作1号機が初飛行し、Mk.1は全機が完成し、Mk.2の完成も目前で、武装以外は順調に開発が進んでいました。

丁度この頃、ソ連がIRBMの実用化に成功し、爆撃機不要論が台頭しました。
そして、爆撃機が不要なら、迎撃機も不要でAAMの方が安上がりという考えが、英国国防相から打ち出されました。
英国ではこの影響で、E.E.P.1以外の全試作機が消滅し、T.S.R.2も葬られました。
223眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/05 22:06 ID:???
同じ頃、Canadaでも、国防費を減らして、農民の生活を豊かにすることを党是とする進歩保守党が、政権の座に就き、首相に就任
したJ.G.Diefenbakerは、1959年2月20日、突如としてその開発契約をCancelし、生産工場を閉鎖、従業員を解雇、そして、
Avro Aircraft Ltd.の社長による必死の懇願にも関わらず、試作機全機をスクラップとし、今まで蓄積していたノウハウを全て抹殺
するよう命じます。
(ちなみに、CF-105 Mk.1はP&Wのエンジンテストベッドとして売却されることで、技術を温存しようとしていました。
 1959年2月20日は、Black Fridayと言われています。)

かくして、Avro Aircraft Ltd.が心血を注いで製作していたCF-105は、Canadaの航空産業界に、技術衰退という深い爪痕を残し、
消滅しました。

これで開発資金を枯渇させたため、Avro Aircraft Ltd.にとって最後の機体となったのは、1955年に米国防総省が発注した
Weapon System606A、米陸軍・空軍共同名称VZ-9 Avro Carです。
中央に三基のJ69で駆動されるMulti Blade Fanを持つ、Air Cushion Vehicleの趨りとも言うべきもので、その機体は円形。
正に、空飛ぶ円盤でした。

この機体はCF-105開発頓挫の1959年に完成し、12月25日に高速飛行試験開始、NASAで1961年5月17日に初の自由飛行
試験が行われましたが、4ft上昇すると、機体の浮力が失われると言う欠点があり、不採用となりました。

1962年、ひょっとすると世界最先端の機体を開発していたかも知れない、この会社はDe Havilland Aircraft Of Canada,Ltd.
に売却され、更にDHC-5の失注で窮地に陥ったDe Havilland Aircraft Of Canada,Ltd.は、この会社が持っていた工場を
Douglassに売却しました。
最終的に、BoeingのMcDonnell Douglass旅客機の部品生産工場として存続しています。
224眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/05 22:08 ID:???
最後に、CF-105を葬った進歩保守党内閣は、英国と同じく対空ミサイルで、「最初の無人戦闘機」というカタログデータを
鵜呑みにして、Boeingが開発したIM-99 Bomarcを採用し、装備します。
しかし、そのミサイルの発達は日進月歩。
すぐに旧式化し、しかも性能はカタログスペックに遠く及びませんでした。

このため、北部防衛網に穴が空く事態となり、結局Canada政府は、以前、機種比較で不採用にしたF-101を採用せざるを
えず、これが政権の致命傷の一つとなって、1963年、進歩保守党は与党の座を追われ、つい最近まで政権の座に戻ること
はありませんでした。
225眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/07 16:09 ID:???
進歩保守党内閣の愚行により、Canadaの航空機産業は壊滅しました。

唯二つ生き残った、De Havilland Canadaと、Canadairも1980年代の不況の影響を受け、
倒産の危機に瀕します。

このままでは外資系企業に買収される危険性があったため、Canada政府はその負債を
一時的に国有企業に転換することで肩代わりし、Canada国内の機械メーカーへ、その
売却を打診します。

最終的に候補に残ったのは、1936年に創立された機械メーカーのBombardier,Inc.でした。
この会社は、鉄道車輌と共に、Snowmobileなどを製造するメーカーとして知られています。
さて、Bombardier,Inc.は、1988年にまず、Canadairを、翌年にThe De Havilland Aircraft Of Canada,Ltd.を
買収しました。

そして、Bombardier,Inc.の航空機部門として、Bombardier Aerospaceとなった訳です。
このほか1989年に、Short Bros.を傘下に加え、これを欧州向けの部品工場とし、更に1990年、Learjetを傘下
に加えて、小型旅客機業界に地位を確立しました。

本国では、CanadairのChallengerシリーズ、CRJシリーズ、CL415飛行艇の他、De Havilland Canadaの
Dash8シリーズの生産と発展型開発、米国Kansasでは、Learjetシリーズの生産を行っています。
このほか、CL-352、CL-327などの無人機の開発、Canada軍で運用しているCF-188のメンテナンス、米軍
が保有しているC-23のメンテナンスもこの会社が請け負っています。
226眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/07 22:41 ID:???
Canadaの機体メーカーについては、弱小メーカー以外ほぼ網羅し終わりましたので、今度はエンジンメーカーを見てみましょう。
第二次大戦前では、僅かにArmstrong Siddley Motors,Ltd.のCanada支店が進出して、同社のエンジンのオーバーホール、組立
を行っていましたが、最終的にはOttawa Car and Aircraft,Ltdに事業を譲渡して撤退しています。

第二次大戦中には、主要な軍用機のエンジンは米国からの供給を仰ぎ、国内では僅かに、Ottawa Car and Aircraft,Ltd.と、
Chrysler Corporation of Canada,Ltd.が、軍用車輌生産の傍ら、練習機用の低馬力エンジンの生産をしていたに過ぎません。

1945年、Hawker Siddeley Aircraft Co. Ltd. によって、Victry Aircraft,Ltd.が買収されたとき、発動機部門が誕生しました。
1946年、この発動機部門はCanada政府のGas Turbine研究所に近い、Turbo Researchに引き継がれました。

此処では、ジェットエンジンの研究が行われ、先ず、V.Boydによって設計された軸流式のT.R.4 Chinookが1948年3月17日に
試運転されました。
これは2600lbの推力を持ち、後に3000lbにまで推力が引き上げられます。

もう一つのProjectが、T.R.5 Orenda。
これはChinookの拡大発展型で、Chinookの9段Compressorを10段に増やしたものです。
1949年2月にOrenda1が製造され、それは次第に改良を重ね、Orenda9に発展します。
Orenda9に至ってやっと量産が行われ、それらはCanadair Saverに搭載されると共に、
Avro Canada CF-100に搭載されました。
この時の推力は6500lbとなり、Canadaの気象環境を考慮して、先端に除氷用アルコールの
噴射装置を設けていました。

次いで、同系列ながら1段Turbineを2段に増やして、重量を軽減し、推力を7500lbまで増強した
Orenda11、14が量産され、これもSaverとCanakに搭載されています。
227眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/07 22:43 ID:???
1953年、CF-105用にPS.13 Iroquoisの開発が始まりました。
軸流2軸式で、超音速機用のエンジンとして、大部分がTitanium製で、補機類は加圧した箱に
密封されていると言う、些か時代を先取りしたエンジンになっていました。
Titanium製の為、乾燥重量は僅かに1870kgで、推力は19,250lb、アフターバーナー使用時は、
27,000lbという素晴らしい性能でした。

このエンジンは1954年に試運転が開始され、1956年から米空軍のB-47に搭載されて機上テストが
開始されました。

この年、1956年にはHawker-Siddleyが60%、米国のUnited Aircraft(P&Wの親会社)が40%を出資し、
Turbo Researchを引き継いで、Orenda Engine,Ltd.を設立。
しかし、順調に試験を消化したのも束の間、CF-105 Mk.2に搭載する寸前でProject全体のキャンセルが
決まり、しかも、このエンジンを大メーカーのGE、P&Wが開発を継承しようと画策しましたが、政府はこの
画期的なエンジンを設計書、実物その他資料を全て地上から抹殺してしまいました。

これでOrendaにおけるエンジン開発は頓挫し、Orenda Engines Division of Hawker Siddeley Canada Ltd.
と社名を変更した後は、1959年からCF-104やNATO向F-104G用にGeneral Electric J79をLicense生産し、
1962年からCT-114、1967年からはCF-116用にGeneral ElectricのJ85、近年ではCF-188用のF404を
License生産し、かつGE社製各種エンジンの部品生産を行う会社になりました。

現在では、the Magellan Aerospace Company,傘下の一企業となり、Orenda Aerospace Corp.として、
GE社製エンジンのOEMは基より、GE社、RR社、P&W社製エンジンの部品生産、産業用GasTurbineエンジン
の供給を行っています。
228眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/09 22:57 ID:???
1928年、Prat & Whitley Canada,Ltd.が設立されました。
当初は、米国本社のP&W社製エンジンの販売とオーバーホール、そして大戦中は部品の製造を細々と行なっていました。
1951年、Prat & Whitney本社が製造していた全てのピストンエンジンの製造と、部品取扱、オーバーホールのために、Montrealに
新工場が建設され、まず、R-1340エンジンの製造が開始されます。

しかし、大きくて重い空冷星形ピストンエンジンの需要は確実に減りつつあり、親会社との話し合いにより、この会社が生き残るた
めにGasTurbineエンジン開発に乗り出すことになり、1957年に6名の開発チームが組まれ、ジェットエンジンの開発が開始されま
した。

最初に設計されたのはCanada国産のジェット練習機候補の一つに装備する小型ジェットエンジンで、この機体にはJ83もしくは、
J85が予定されており、それと同じクラスのTurboJetエンジンを設計しました。
これが、9段Compressor、3000lbクラスのJT12(J60)です。
ところが、このエンジン開発同時、この会社の営業力、生産力はまだ十分ではなく、これらの設計、試作、製造、販売、開発は、
親会社に移されてしまいました。

その後、CL-44用のRolls-Royce Tyneのギアボックスなどを製造して経験を積み、いよいよ、ベストセラーのターボプロップ
エンジンPT6の開発に乗り出します。
229眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/11 23:23 ID:???
1958〜59年に掛けて、遠心式Compressorの前に3段の軸流Compressorを組み合わせ、全体的なレイアウトを逆流式に
したGas Generatorが研究され、それの実証機PT6が1960年2月に運転されました。
最初は、Twin Otterの研究機に搭載され、西側諸国に於ける小型機から大型機のエンジンに採用され、大量生産が
行なわれました。

これから徐々に発展していき、3〜4段の軸流式、1段の遠心式Compressorを組み合わせ、出力は475〜1327shpの各種
の29以上のモデルが生産され、それらの総数は32,000基以上に達し、2億時間以上の飛行時間を持っています。
このほか、Helicopter用に、T74/PT6シリーズと、それを双発化したT400/PT6TTurboshaftエンジンも生産されています。

1966年、JT9DをスケールダウンしたJT15Dが設計されます。
最初の型は1t級でしたが、JT15D-5は1.3tの推力を出しています。
これらはビジネスジェット機に、多く用いられていました。

1970年代後期からは、新設計のターボプロップエンジン、PW100が設計されました。
1800shpからスタートし、今は2750shpに出力が向上してPT6の市場を食うようになっています。

また、この発展型として、PW300ターボファンエンジンが製造され、小型ジェット機に多く採用
されました。
更に、PW500の開発を進め、現在、Prat & Whittney Canada,Ltd.は順調に発展を続けています。
230眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/11 23:26 ID:???
と言うことで、英国編完結でし。

次はどこにしようかな、と言ってみるテスト。
231名無し三等兵:03/09/12 08:45 ID:???
>>230
お疲れ様です。
これからもよろしくです。
232眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/13 20:02 ID:???
さて、次は何処に逝こうかと考えていたが、>205の説が本当かどうか知るために、ソ連の設計局について騙っていこうと思う。

N.N.Polikarpovは、大型機のTuporev設計局と共に、ソ連の設計局の中で世界中で最も知られた設計局です。
1941年まで、ソ連の練習機、戦闘機、偵察機の99%を彼の設計局の機体が占めていました。

N.N.Polikarpovは、1882年にSaratov東方のGeorgyeskで生まれ、1916年にSt. Petersburg工科学校を卒業して、航空機と機械の技術者
となりました。
そして、就職したのが、Russiaの鉄道車輌メーカーRusso-Baltic Wagon Works(RBVZ)で、此処で1918年まで航空機技師として色々な
機体を生産しています。
そして革命後、唯一残った航空機工場である旧Duksプラントの後身であるGAZ-1工場の主任技師に就任します。

この工場では、帝政Russiaの主力機であった、Spad S.VII戦闘機と、Airco D.H.4をまず生産し、次いで、1920年から捕獲したAirco D.H.4
にFiat A-12エンジンを搭載した型を生産し、次いで、同じく捕獲したAirco D.H.9aの無認可改造型であるR-1偵察機(エンジンは、これも
捕獲したMercedes D.IVaを使用)として、これを100機、次いでA.S.Pumaエンジンを搭載したR-2を130機生産し、更に、最終形として、米国
のLiberty12エンジンをCopyしたM-5を搭載したR-1が生産され、全部で2800機が生産されました。

1922年に、Liberty12エンジンを搭載した戦闘機が求められ、彼はGAZ-1の研究部門長であるI.M.Kostkinと、製造部門長であるA.A.Popovと
共同で低翼単葉戦闘機Il-400、後のI-1を設計し、1924年に初飛行して、33機が作られました。
233眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/13 20:03 ID:???

次いで幾つかの機体を設計した後、Avro 504Kを国産化したU-1に代わる機体をVVFは1926年に提示します。
Polikarpovはこの頃から独自の設計局を構えて仕事を開始し、1927年には有名なU-2の原型となるTPKを設計します。
しかし、この機体は性能が要求値に達せず、再設計の上、漸くAP、AOとして生産が開始され、U-2と改称されて、更に1944年、彼の死後Po-2
と改称されました。
これらは、1928年から1941年7月22日までGAZ-25工場で13,500機が生産され、独ソ戦後は工場を移転して1944年まで国内で生産されました。
後に、1948年にPolandに生産設備を移転して1953年まで生産され、更にソ連からの部品を用いたノックダウン生産で1959年まで生産されて、
総生産数は、諸説有りますが29,000〜41,000機となっています。

並行して、1925年よりR-1の代替と、民間機としても使用できる、単発複葉の軽爆撃/偵察機が検討され、1928年に試作機が初飛行し、1930年
からGAZ-1工場での生産が始まり、地上襲撃型のR-Zなど各型合わせて6,000機以上が生産されています。

一連のPolikarpov戦闘機の最初の型であるI-5戦闘機は、第一次五カ年計画に於いてI-6と競争試作されたものですが、Polikarpovと彼のスタッ
フは、1929年11月に反革命の容疑で逮捕され、TupolevやGligorovich設計局の面々と共に、GAZ-39工場の第7ハンガーにて、通称「VT(獄中)」
設計局を構成していました。
新戦闘機は兎に角速く設計することが求められ、まずPolikarpovがラフな基本設計を書き、Gligorovichがそれを具現化して詳細図面を引くと言う
塩梅で、1日20時間労働の末、1930年1月に原案が出来、最終的に設計完了したのが1930年3月28日で、此処まで2ヶ月、そして、試作機完成が
1930年4月29日という離れ業で、初飛行に漕ぎ着けました。
この機体は、まだ監獄外にいた設計局のI-6との競合だったのですが、GAZ-21で生産されたのは、この「犯罪者たちが作った」機体で、1935年まで
に、800機が生産されました。
234眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/13 20:04 ID:???
1933年、彼とその設計局の面々は漸く釈放され、今度はGAZ-36工場で、陸上機設計部門の長となり、GAZ-21工場が生産していたI-5に代わる新しい
戦闘機を設計します。
TsKB-3が463機製造された後、これらはI-15に改称され、大量産が始まりますが、その上翼のガル型翼は操縦士に評判が良くありませんでした。
そのため、設計局では、この上翼を普通の直線に改め、I-15bis、I-152として生産を行ないます。
これらは、GAZ-21の他、GAZ-156でも2,408機生産されています。
I-15系の最終形はI-153で、この型はSpain戦争の戦訓により、Bf-109の速度と、C.R.32の格闘性能を併せ持つ機体として、Stalinから指示を受け、
A.Ya.Shchyerbakovが設計を行ないました。
この機体は、GAZ-156工場で主に生産され(ちなみに、この時の工場の指導技師は、A.I.Mikoyan)、すぐにGAZ-1も生産に加わります。
1940年までに、3,437機が生産されました。

一方で、1932年の獄中に有る頃から、戦闘機は複葉と単葉のミックスであるべきだとの考えを持ち、出所後、それをすぐに具現化してTsKB-12を
設計します。
これが後のI-16で、GAZ-1とGAZ-21で1940年までに単座型が7,005機、複座型は少なくとも1,639機が生産されました。

これ以降、Polikarpovの機体は精彩を欠き、墜落したり破壊されたり、性能が要求値に達しなかったりと良い機体が出てこず、他の設計局のお零れ
仕事で食いつなぐようになります。
その設計局最後の機体は、夜間爆撃機のNBで、これは1944年に初飛行しますが、B-29が最終的に採用され、Antonovが設計したA-7Gliderの
輸送機化、BI-1ロケット戦闘機と同クラスのロケット戦闘機Malyutkaが最後の仕事でした。
そして、1944年7月30日、仕事場で過労死し、翌月、その設計局は解散してしまいました。

てな訳で、Fokkerはどこにも姿を現していません。
235眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/14 22:58 ID:???
てな訳で、役に立たない無駄知識(ソ連編)の前に。
あ、今回は漏れが冷戦期の資料しか持ってないので、最近の動きは複雑すぎて軽く触れるだけにします。

現在、Russiaの航空機産業はいずれも軍産複合体形式で、存在しています。
それらは元々、産業・科学技術省傘下にあった航空宇宙庁管轄で、この管轄下にあった企業が独立・民営化して
新しい企業集団を形作っています。

最も大きいのがSukhoi Holdingsで、この中核にはSukhoi設計局があります。
ここが設計した機体の製造会社として以下の四社が含まれています。

まず、コムソモーリスカヤ・ナ・アムーレ航空機企業合同があり、此処では中国向け
Su-30MKKの製造を行い、イルクーツク航空機企業合同ではインド向けSu-30MKIの
製造と多目的輸送機MTAの開発を担当、ノヴォシビルスク航空機企業合同では、Su-24
の修理の他、Su-34の製造を行なっています。
もう一社、これは少し毛色が変わっていますが、タガンログ航空機科学技術コンプレックス
がこれに加わっています。
最後の会社は、元Believ設計局とその製造工場で、Be-42/Be-200飛行艇の製造工場です。
このほか10社の関連企業が含まれています。
236眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/14 22:59 ID:???
次いで、SukhoiのライバルだったMIGは結構複雑になっており、12の企業が統合して、Russia
航空機製造会社MIGとして発足するべく、準備を進めています。
ただ、MIG設計局と、その製造会社MAPO-Tは、以前にも輸出権を巡って、他の会社と争った
事があるので、どうなるかは予断を許さない状況です。

Ilyushinも現在は複雑になっています。
Ilyushin設計局を中核とした持ち株会社化が進んできていますが、この会社が複雑なのは、
Russiaだけではなく、Uzbekistanも絡んでいる点です。
これは製造工場がUzbekistanにもあるからで、Uzbekistanの会社、チカロフ記念タシケント
航空機製造合同という会社が、国家間航空機製造会社Ilyushinの一部になっています。
そして、設計から生産までを一貫して行なうべく、Ilyushin記念航空機コンプレックスと、
ヴォロネジ航空機製造会社、更に国家間航空機製造会社Ilyushinが合併して、Ilyshin Holdings
を構成し、民営化に備えようとしています。

Ilyshinのライバル企業であるTuporevも同じく持ち株会社への道を歩み始めています。
設計局を中心とするTupolev記念航空機科学技術コンプレックス、国家航空機企業、タガンログ
航空機企業合同、ウリヤノフスク・ユニット工場が合体して、Tupolev航空機製造株式会社が
誕生しました。
更にアヴィアスタル、カザン航空機企業合同(Mil設計局とHelicopterの製造)との合併により、
Tupolev Holdingsを構成する予定で動いています。

Antonovは、工場と設計局がUkraineにあった関係上、この動きからは外れています。
KamovはMIGと同じMAPOに所属していましたが、1999年に脱退し、今は独立しています。
MyasishchevとYakovlevは、どちらかが新興コングロマリットの北方造船所グループに
属しているようですが、詳しいことはよく分りません。
237眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/15 23:40 ID:???
旧ソ連の航空機メーカーを語る時、それは設計局が主になって、製作工場というのは余り出て来なかったと言えましょう。
なので、最近の動きは複雑になる訳で、これについて軽く触れてみましょう。

ソ連のこういった製作工場は通し番号で、呼ばれており、GAZ-1〜500が確認されています。
このほかに数カ所の番号不明なプラントがあります。

GAZ-1は、最も古い航空機工場で、MoscowのKhodinkaにあり、後に1941年、Kuibyshyevに移転しています。
これは、ドイツ人Y.A.Mellerによって1893年創設された、遊戯施設と自転車工場が最初です。
後にRussia陸軍向けの折畳み自転車、蒸気自動車、気球、飛行船などを生産する工場にも手を広げ、1909年
よりFarmanIV、Bleriot、Niewportを生産し始めます。
1912年に初めてRussia陸軍から40機の注文を得て、主力軍用機工場となり、主にFranceの各種軍用機を生産
しています。(ちなみに、1914年のRussia軍用機は263機、ドイツは232機、フランスが165機、英国に至っては
僅か30機。)

このほか、病院ベッド、ストレッチャー、運搬車、市電、オートバイにMotorboatも製造しています。
紆余曲折がありますが、現在、この会社は、MIGを有するMIG-MAPOの一部となっています。

GAZ-2もMoscowにあります。
これは、1912年に設立されたGnome-Rhoneエンジン工場が前身です。

GAZ-3はSt. PetersburgにあったKrasnyi letchik Works、GAZ-4はMoscowに1911年に作られたエンジン工場です。
GAZ-5はSt. Petersburgにある工場です。
GAZ-6はKievにあり、これはAntnovの基幹工場となっています。
GAZ-9はZaporozhyeのエンジン工場、GAZ-10はKazanにあり、RD-10などのジェットエンジンを製造しています。
GAZ-15はSimferopolにある工場で、第一次大戦に活躍したAnatraと言うメーカーの工場でした。
238眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/16 23:14 ID:???
昨日の続き。

GAZ-16はUfaにあるエンジン製造プラント。
GAZ-18はVoronezhの近郊、Voroshirovにある、Ilyshinの製造工場でしたが、1941年の独ソ戦に伴い、Kuibyshevに移転しています。
後に、Tu-144の製造に参画していたようです。

GAZ-19はKuibyshevにあるエンジン製造プラント。
GAZ-21はGorkiiにある工場で、1935年からPolikarpovOKBが置かれ、1941年10月からはLavochkinOKBが設置されました。

GAZ-22は当初Moscow近郊のFiliに設置され、後にKazanのPovolozhyeに移転しました。
此処では主としてPetlyakov Pe-2が製造されています。
なお、移転後はGAZ-22Aと呼ばれていました。
GAZ-23もMoscow近郊のFiliに設置していました。
こちらは移転することなく、1950年までMyasishcheyevOKBが置かれ、この設計局の主力
工場になっています。

GAZ-24はMoscowにあるMiklinの製造プラントで、AM-38エンジンなどを製造しています。
GAZ-25は1925年、OSSを前身として作られ、1941年にOmsk近郊のIrtyshに移転しました。
GAZ-26はRybinskに設置されたエンジン製造プラントで、KlimovVK-100/103エンジンが製造されています。
GAZ-29はMoscowに設置された、悪名高いVT(TsKB-29)設計局、即ち収容所設計局です。

GAZ-30もMoscow近郊のKhodinkaに設置された製造プラントで、航空研究所(TsAGI)の試作工場と、Ilyushinの
新製造工場として稼働しています。
ちなみに、GAZ-30で製造された航空機は、Vnukovo空港に運ばれて、部隊に空輸されました。
239眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/17 08:01 ID:???
てな訳で、またまたダイアルアップ環境にと。
本当に今年は、良く…(ry。
240眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/18 00:14 ID:???
と思ったけど、ダイアルアップ環境になるのは明日だった。

GAZ-31は、奇形機を輩出していたMoskalyev設計局と共にVoronezhにありましたが、1941年にTbilisiに移転し、
LaGG戦闘機の生産を行ないました。
そして、1946年からはTaganrogに移転し、此処にBeriev設計局が移転しています。
GAZ-34はIlyushin Il-14の生産工場でした。
GAZ-36はMoscowにあり、1935年までPolikarpovOKBが置かれていました。
GAZ-38はOrdzhonikidze工場と呼ばれ、Moscow近郊のKhodinkaに設置されていました。
この工場では、Ilyushin Il-2が製造されています。

GAZ-39は、10月革命10周年工場と名付けられたMoscow近郊の工場です。
此処もまた、V.P.Menzhinskii OGPU長官によって建設され、1929年12月に開設したもの
です。
即ち、此処も監獄設計局で、Ilyushin設計局が置かれ、TB-3の生産も行なわれました。

GAZ-43はOKOの工場として、Kievに設置されました。
GAZ-45はソ連最大のエンジン製造工場でした。
241眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/20 00:54 ID:???
さて、一昨日の続き。

GAZ-51は、Voronezhに設置されたもので、1931年からKalininOKBが置かれていました。
後に、Yermolayev Yer-2遠距離爆撃機の製造工場になっています。
GAZ-56は、Moscow中央飛行場にあり、AIR-6を含む各種の軽飛行機を製造していました。
GAZ-64は、GAZ-18から分離して、Voronezhに設置されたもので、Tupolev Tu-154の製造を行なっています。
GAZ-81は、MoscowのTushinoにあり、Osoaviakhim、Gribovskii、Bartini Stal-7の製造などに携わっていました。
GAZ-84は、Moscow近郊のKhimkiにあり、LisunovOKBが置かれ、此処ではLi-2製造を行なっていました。
GAZ-89は、Gorkiiにあり、GVFの修理工場、ZIGとLavilleKBが設置されていました。
242眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/20 23:09 ID:???
GAZ-115は、Moscowにあり、通称Leningradskii Prospektと言い、Yakovlev OKBとその製造工場が置かれました。
GAZ-117は、St. Petersburgにあるエンジン工場で、最初はKlimovが、今はIsotovがそのエンジン製造プラントを使用しています。
GAZ-124は、Moscowにあり、1942年以来、Yakovlevの製造工場となっています。
GAZ-125は、Kazanに設置され、Petlyakov Pe-8、Pe-2の製造工場となっていました。
なお、このGAZ-125はGAZ-22の姉妹工場となっています。

GAZ-153は、Novosibirskに設置されたもので、シベリア地域最初にして最大の航空機工場となりました。
最初は、LAGG-3を製造し、1942年からはYakovlev戦闘機の製造を行ない、Polikarpov、Sukhoiの機体の
製造も行なっています。
また、初期のAntonov OKBも此処に置かれました。

GAZ-155は、Moscowにある、MIG OKBの専属工場です。
GAZ-156は、Polikarpov I-153製造工場となっていますが、1936年までは、Tuporev OKBの人々を拘禁し、
TsKB-29(I-16)製造の為の収容所工場となっていました。
1941年に、これらはGAZ-166に避難させています。
GAZ-166は、先述の通り、Tuporev OKBの収容所分室の移転場所となりましたが、それ以前からBeliev
OKBが此処に設置されていたようです。
ちなみに、このGAZ-166はOmskにありました。
243眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/21 22:16 ID:???
本題に入るまでもう少し。

GAZ-243は、Tashkentに設置され、Lisnov Li-2を製造した後、Ilyshin Il-62の製造を行い、現在では、Ilyushinの主要工場
の一つになっています。
GAZ-266は、IrtyshのKulumzinoに設置された工場です。
GAZ-286は、ウラル地方のKamensk-Uralskに設置され、Yakovlev戦闘機を製造しています。
GAZ-292は、Saratovにあり、最初はYakovlev戦闘機を、後にYak-24Helicopter、Yak-40小型旅客機を製造しており、今でも
Yakovlev民生部門の機体製作の主力工場となっています。

GAZ-301は、Moscow郊外にあり、Dubrovin KBが設置されたほか、1938年にLaGG OKBが設置されていました。
この工場では、Yakovlev BB-22双発戦闘爆撃機の胴体を製造していました。

GAZ-400は、MoscowのVnukovoにあり、Tupolevの機体製造工場として、Tu-104、Tu-114、Tu-154などの大型民間機を製造
していました。
また、同じ敷地内で、GAZ-400とは違う番号で呼ばれた(番号自体は不明)工場では、Kuznetsov設計局が製作したAI-20ター
ボプロップエンジンを製造しています。
GAZ-401は、Novosibirskにあり、Mil OKBが設置され、工場ではMi-6系の大型Helicopterが製造されています。
GAZ-402は、MoscowのBykovoにあり、Ilyushinの機体製造工場として、Il-18系の大型民間機を製造しています。
また、同じ敷地内には、これも同じく番号は不明ですが、SolovievのD-30エンジン製作工場があります。
GAZ-412は、Don河上流のRostovにあり、Antonov An-12系列の機体を製造していました。
GAZ-466は、St. Petersburgにあり、1947年にBMW技術者の指導の下、BMW003を国産化したRD-20を製造しています。
この工場は、赤い十月(Kransnyi Oktober)工場と呼ばれていました。
GAZ-500は、Moscow近郊のTushinoにあり、各種のエンジンを製造しています。
244眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/21 22:17 ID:???
このほか、番号不明な工場として、以下の工場があります。
Moscow近郊のZhukovskiiには、TupolevOKBの試作工場があり、Tu-144の部品などを製造しています。
Vladivostok近郊のArsenyevには、Progressの工場があり、各種エンジンの他、Yakovlev製軽飛行機、
Antonov An-14/An-28を製造していました(An-28のプラントは後にPZLに移管されています)。
Jaroslavlには、1943年以降Lavochkinの戦闘機工場がありました。
Kharkovには、TupolevのTu-104、Tu-134と言った、中型旅客機の製造工場がありました。
Ulan-Udeには、Kamov設計局があり、Antonovの製造工場もありました。

以上を踏まえて、各設計局の消長を書いていきたいと思います。
245眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/23 21:53 ID:???
さて、ソ連編最初の設計局は、AlekseyevOKBです。

この設計局は、Semyon Mikhailovich Alekseyevが主務者になっています。
彼は、1942年以来Lavochkin OKBの主任技師となっており、La-5、La-7戦闘機の詳細設計を
行なっていました。
ちなみに、ソ連のハイドロフォイルの権威、R.Y.Alekseyevとは親戚関係にありません。
1946年、彼はLavochkinOKBから独立し、自身のOKBを持ちます。
そして、高性能軍用機一本の設計局として活動を始めます。

最初の作品は、1947年に初飛行したI-211で、この機体はMeteorに極めて似通った機体でした。
次いで、カナダのCF-100に酷似した複座型の全天候戦闘機I-212を初飛行させます。
ところが、これらの機体にエンジンを供給したLyul'ka設計局のエンジンの性能が極めて不安定で、
尚かつ、性能が悪く、そのエンジンに足を引っ張られたため、起死回生の策として、輸入したR.R.Derwentを
I-211に装備したI-215を製作します。
しかし、それに装備すべきレーダーの開発が間に合わず、没になりました。

最後の機体は、設計局がまともな仕事を取れないことに焦ったのか、これも既に時代遅れのIl-2の再来を
目指した機体で、I-218と言います。
これは双胴式の機体で、エンジンはDobryninが開発した液冷のVD-251を推進式に装備し、ブーム側面には
Me-410の様な23mm銃塔が設けられており、前部に23mm砲4門、37mm砲2門、57mm砲2門を装備しています。
当然、この様な機体はジェット時代には時代遅れで、すぐに開発が中止され、OKBも1948年には閉鎖されました。

その後、この人は出てきてないことから、粛清された可能性があります。
246眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/23 22:28 ID:???
1930年代、ソ連には広大な海岸線、河川、湖水が存在しました。

ところが、ソ連にはBelievの小型水上機MBR-2の他、そう言った水上機、飛行艇の類を持ちませんでした。
そこで、その種の機体を整備するため、SikorskyからS-43飛行艇をDouglasからDF飛行艇(日本にも輸入されましたが)を
購入し、調査を行ないました。
しかし、1936年に、新規開発よりも外国の優れた機体を購入して、それを製造する方が効率的と言うことになり、Consolidated 28
に、白羽の矢が立ちます。
この機体は後にPBYとして米海軍に採用されました。

1938年、見本機が最初にソ連に空輸され、この機体はAmtorgと言う組織によってライセンス生産が行なわれます。
見本機は3機でエンジンは付いていましたが、武装と無線機は未装備でした。
かくして、この機体の製造が開始されましたが、この機体の設計にソ連の技術者は感銘を受けた反面、非常に
その製造は非常に難しく、試行錯誤の連続でした。
なお、このライセンス生産機は、エンジンをM62に換装し、艤装をソ連製に改めています。

最初の目的は民間用輸送機でしたが、すぐにそれは海軍航空隊に採用され、GST(Gidro Samolyet Transportnyi)
と名付けられ、哨戒、偵察、爆撃用の飛行艇として用いられました。
1939年以降、GSTは凡そ600機が製造され、一部はAeroflotに採用されました。
また、少なくとも数機は、Believの工場に引き渡され、徹底的に分解されています。

Amtorgは少なくとも1946年、多分1948年まで活動を続け、其処では1000機以上の機体が製造されました。
このほか、Lend-Leaseで、同型機のPBN-1を138機、PBY-6Aを48機受け取っています。
247眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/24 22:41 ID:???
やっとMajorな設計者が…。

AntonovOKBは、今はUkraineの企業になっていますが、Oleg Konstantinovich Antonovは、
Moscowの出身です。

彼が航空業界に身を置いたのは、1921年、15歳の時で、Moscowグライダーグループの
Saratov支部の立ち上げに手を貸したのが最初です。
その二年後、彼は、K.K.Artseulovによって開催された軽飛行機競技会に設計作品を提出し、
1924年には初の機体、Golubグライダーを製作し、その年に行なわれたKoktebelでの競技会
でソ連国内で2位の成績を収めました。

これにより、彼はLeningrad工科大学の学生となり、また他方、自身が設計したグライダーの
設計を続け、OKA-2と言う機体がSaratovで若干製造されています。
1930年、彼は大学を卒業し、グライダー設計者として既に名を馳せていた彼は、新たに設立
されたMoscowグライダー工場に主務設計者として就職します。
此処で、多数のグライダーを設計し、また、最初の動力飛行機であるOKA-33(LEM-2)を製作
します。

しかし、1938年、彼のJukovsky Academyへの入学願いは拒絶されました。
そして、Yakovlevと組んで、彼の軽飛行機設計の助手として働いていました。
1939年、彼はMoscowを離れ、再びSaratovに戻り、ドイツのFi-156と同じ様な短距離離着陸機
また同じ頃、彼の設計チームは兵員輸送用グライダーの設計を始め、これは第二次大戦中、
A-7として製造されました。
248眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/24 22:42 ID:???
1943年、仕事量の多くなってきたYakovlevOKBに復帰し、その第一代理設計者の役割を果たし、
戦争終了まで、NovosibirskのYak戦闘機工場に詰めていました。
戦後すぐに、彼は人材を募り、彼自身のOKBを、Novosibirskで1946年3月31日に立ち上げます。
AntonovOKBは、その後Kievに移転し、其処で大きく発展していきます。

特に、農業機として開発されたAn-2が成功し、次いで高翼軍用輸送機の分野では、ソ連を代表する
設計局になっていきました。
現在の製造工場は、手狭になったKievの他、シベリア東部のUlan-Ude、更に遠いArsenyevにも設置
しています。
また、彼が最初に設計業務を行なったSaratovには、そのグライダー設計局が1965年まで存在してい
ました。
これは、AntonovからA.Ya.Belolipetskyが代理設計者となり、36種のグライダーを設計し、ソ連の最先端
グライダー工場でしたが、彼の死後、跡を継ぐものが無く閉鎖されたようです。
249眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/26 00:08 ID:???
明日再開〜。
250  :03/09/26 21:50 ID:???
お疲れ様です。
251眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/27 01:25 ID:???
今日は一発屋、Arkhangelskiiの話をしましょう。

A.A.Arkhangelskiiは、1911年、ZhukovskiiのMoscow高等技術学校で学び、第一次大戦では、
Falmanの航空機工場で、低馬力のエンジンと格闘していました。
革命後、TsAGI創設時にその創立メンバーとなり、その後Tupolevと共に彼の片腕として、設計作業を
重ねました。
ANT-3、ANT-4の殆どの設計を担当し、ANT-9チームではその製作を指揮しています。
1932年、Tupolevが米国視察を行なった時も常に寄り添う様に同行し、帰ってからは、ANT-40、後のSB-2
軽爆撃機の設計に設計主務として参加しました。
SB-2は、Tupolevの設計とされていますが、実はArkhangelskiiの設計によるものです。
同時に、ANT-20の垂直尾翼部分の設計も行なっています。

Tupolevが逮捕された時、Arkhangelskiiは容疑を逃れ得ました。
このため、Tupolev収監中は、彼が実質TupolevOKBの主務設計者となります。
彼は、SBの発展型開発に力を注ぎ、便宜上ArkhangelskiiOKBの一部門として、Tupolev
部門が有る様な形になりました。
1941年に新しい設計案を提出し、それはSB-RK、そしてAr-2と自分の名が冠された機体を
開発します。

しかし、独ソ戦勃発によって設計局は移転し、彼のOKBは1942年末には元のTupolevOKBに
吸収されてしまいます。
その後はTupolevの第一主務設計代理となり、彼の管理下で、Tu-2Sの最終開発が行なわれ、
Tu-4国産化チームの主導者として活動しました。
その後、Tupolevの初期ジェット爆撃機、Tu-95、それらから派生した民間旅客機の主務設計者
として活躍しました。

1945年、ArkhangelskiiはMoscow Sovietの代議員に選ばれ、引退後はその余生を研究と著述
に使っていました。
ちなみに、この人の父親は、Kazan総合大学の教授でもありました。
252眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/27 23:21 ID:???
今回はちと変わった設計局のご紹介。
ソ連の設計局にはロシア人だけではなく、色んな国の人がいたと言うお話。

Bartiniという姓からも判る様に、この人は生粋のロシア人ではありません。
彼、R.L.Bartiniはイタリア人で、1921年に結成されたイタリア共産党の党員として、ミラノの労働者の細胞として
オルグ活動をしていました。
しかし、2年後にMussoliniが政権を取り、共産党の弾圧が始まると、技師としてソ連に亡命し、1924〜28年の間、
赤軍の航空技師として採用されました。

その後、新しく設立されたOSS(Stal)OKBに加わり、1930年12月には才能を発揮して、自身の設計チームをOKB
内に立ち上げます。
最初はStal-6と言うイタリア人好みの競争機を設計します。
これは1933年に初飛行に漕ぎ着けた機体で、Curtiss Conquerorエンジンを搭載し、鉄と合板製の機体でした。
(世界の駄っ作機3に、同じ様な鋼製機の話が掲載されていますね)
胴体には余計な出っ張りが無く、キャノピーも面一でした。
更に蒸気表面冷却を採用し、脚部重量を減らすために、単脚で、両翼に橇を付けていました。
当然、冷却系に問題が出て420km/h止まりでしたが、発展型Stal-8では、M-100を搭載した戦闘機とする予定で、
この機体は、1934年に620km/hを狙っていたそうです。
前作に問題があったため、90%完成で放棄されましたが。

次いで、彼は飛行艇に注目し、DAR(Dalnii Arkticheskii Ratvyedchik)と言う機体を、1936年に製作
します。
これは極地用偵察飛行艇として開発されたのものですが、エンジンだけは違いますが、まんま1920
年代末にドイツで開発された、Dornier Wal飛行艇そのもののCopyでした。
ただ、胴体はStalOKB好みのステンレス製でしたが。
今更、14年遅れの機体を採用するよりも、米国製の優秀な機体の導入を図った方が得策と、これも
試作に終わっています。
253眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/27 23:24 ID:???
Bartiniが最後に開発した実機が、Stal-7です。

これはAeroflot用の12人乗り旅客機で、1934年から開発に着手し、1937年に初飛行します。
当時としては最高速度が450km/hに達するなど、相当高性能な機体でしたが、最大重量でテストした時に
墜落してしまいました。
この結果、1938年1月、彼は海外の出自と言うこともあり、破壊活動(Stal-7の墜落責任)などの罪で粛清の
対象となり、シベリアで木を数えています。
この間、死刑執行の可能性もありましたが、何とか免れ得ています。

Stal-7自体は、決して欠陥機ではなく、その後Yermolaevの指導下で開発が進められ、1939年8月28日に、
Moscow、Sverdlovsk、Sebastopol、Moscowの5,068kmを12時間30分56秒で結ぶ記録飛行を行なっています。
大戦勃発後、旅客機として開発された機体は、その長距離性能に着目した軍部から、Yermolaevに対して、
DB-240超長距離爆撃機の原型となりました。

1942年、彼は漸く仮釈放され、シベリアにて「特別設計局」を立ち上げ、更に珍機体を開発しています。
最初が、Rと呼ばれるジェットエンジン双発の戦闘機で、これはGo-229の様な全翼戦闘機でした。
これもキャノピーはなく、パイロットは外部に潜望鏡を出して周囲を確認すると言う恐ろしいもの。
当然、これは設計で終わりますが、次いで1943年、拠点防空用のロケット戦闘機R-114を設計します。
これも同じく全翼式戦闘機で、こちらは組立まで行きました。

1944年からは、民間輸送機に転換します。
最初は、中翼二階式の双発輸送機T-107でしたが、これはIl-12に敗れ、次いで、長距離輸送機のディーゼル
エンジン搭載のT-108、これは設計のみに終わり、幹線用の大型輸送機T-117に取りかかります。
これには貨物型と、旅客型があり、貨物型は箱形の機体にリアローディングランプを有し、旅客型は二階建ての
機体で、旅客部分は与圧されていました。
しかも、上部と下部に幅1.45m×長さ2.9m×高さ5mの瘤があり大型の嵩む貨物を此処に収容する様になってい
ました。
この機体は実際に80%まで製作されましたが、Tu-4のエンジン生産の煽りを食ってエンジンが無くなり、中断され
ました。
254眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/27 23:25 ID:???
最後は殆ど妄想の域に達していますが、1947年に計画されたT-200大型軍用輸送機です。
これは2800馬力のエンジン4発とRD-45ジェットエンジン双発の機体で、主貨物室は5mの幅と3mの高さを持ってい
ました。
翌年、このシベリアの設計局は閉鎖されますが、彼は設計を続け、総重量30t〜320tに至る機体を妄想し続けて
います。
こんな彼ですが、1967年、遂に名誉を回復され、多年に渡る航空機設計活動に対して、70歳の誕生日にLenin勲章
を授けられています。
255眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/28 21:25 ID:???
今宵もまた世界の駄っ作機ワールドへようこそ(苦笑。

今回取り上げるのは、Belyayevです。
この人が最初に作り上げたのは、1920年に製作したグライダーでした。
しかし、今では当たり前になっていますが、このグライダーには車輪が取り付けられていました。
その後、彼はTsAGIに所属することになりました。

ここで非常に多くの仕事を成し遂げ、1933年には無尾翼グライダーのBP-2/BP-3を完成させ、飛行を成功させています。
その後、科学技術研究機関(Aviavnito)、Aeroflot、洋上実験用航空機製造部門(OMOS)、水上航空機試験機関(AGOS)、実験航空機製造部門(KOSOS)、
Tupolev OKBに属し、多才との世評を確立し、かつ彼の技術論文は好意的に受け止められました。

1934年に彼は、双胴の胴体にそれぞれ10名を収容できる画期的な機体を設計します。
これが後に、彼の一大怪作の一つであるDB-LKに発展します。
DB-LK双発爆撃機は、双胴の爆撃機です。
但し、空冷エンジンを先端に取り付けた機体は、後端に銃手席を設けており、尾翼は、真ん中に取って付けた様にある
細いブームに垂直尾翼共々取り付けられています。

翼内前縁に固定された二丁の機関銃は、操縦手が操作し、銃手席には胴体後半部を全て硝子張りにした中に連装の
リモコン機関銃座が置かれていました。
爆弾は2t搭載できます。

1939年、Belyayevは自身のOKBを持つことになり、DB-LKはこのOKBで開発されることになります。
機体は同年11月に完成し、1940年に初飛行します。
この妙な形状の機体でも全部の要求項目を満たす性能でしたが、その前に立ちはだかったのが
Ilyushin設計局のIl-4で、この機体は不採用に終わっています。
256眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/28 21:26 ID:???
その次にこの設計局が計画したのがElと言う戦闘機計画で、1940年に試作が開始されました。
これも双胴双発の機体でしたが、エンジンは推進式にプロペラを回転させるものでした。
そのために、Klimovが新型エンジンM-106を開発する予定でしたが、Stalinの逆鱗に触れない様に、
試作はM-105を利用することになりました。
しかし、試作機が完成直後に独ソ戦が開始され、試作機は資料共々破壊されてしまいました。

最後は、1940年にV.I.Yukharinと共に、可変翼の研究機を製造したところで記録はなくなっています。

明日は、少しMajorな設計局を取り上げる予定。
257名無し三等兵:03/09/28 23:47 ID:???
面白い日刊連載どもです
258眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/29 23:58 ID:???
今回は、Bereznyak-Isaevです。
彼らの設計した機体は、ソ連で初めてのロケット戦闘機になりました。

A.Y.Bereznyakは、1939年、Dushkinが製作していたロケットエンジンの最終実験と、そのエンジンを積んで
1940年初頭に飛行したKorolyevが製作したRP-318ロケット実験機を見学していました。
彼は、Dushkinグループの主任技師であるA.M.Isayevに、そのエンジンを搭載した戦闘機の研究を進言し
ます。
IsayevはRP-318の設計をしましたが、Dushkinの次世代エンジンD-1Aにも絡んでいました。

Bereznyakはロケット熱に取憑かれて、機知に富んだ教授、V.F.Bolkhovitinovと共に、航空省に行き、更に
Stalinに会い、革新的な動力の戦闘機の開発承認を取り付けます。
そして、その全面的な支持の下、BereznyakとIsayevは共同でOKBを立ち上げ、施設、製図工などを配置
されました。

そしてその機体、後のBI-1の基本設計は、OKB成立後程なくした1941年春に完成しました。
この時、政府内部ではロケット戦闘機について5種類の機体を競作させていました。
その要求は1941年6月9日に各設計局に送られます。
このため、OKBでは、夜に日を継いで24時間態勢で試作機を設計、製造し、35日でエンジン
無しの機体を完成させました。
9月10日に無動力飛行を成功させ、独ソ戦勃発後すぐにSverdlovsk近郊に工場を移転させました。

1942年1月に最初の動力飛行を実施しますが、2月20日にエンジンが爆発して破壊してしまい、
テストパイロットと3人の技術者は負傷します。
このため、このProjectは空軍とTsAGIの直轄管理となり、1942年3月15日に完全な形での飛行に成功
し、3機の試作機が完成します。
その後改良を加えながら、幾度もテストを続けますが、1943年3月までには完成に近づきます。

テスト完了後50機の機体が製造されますが、ロケットエンジンの製造が困難だったのと、航続距離の
短さで、改良型BI-2/3/7が相次いで作られます。
しかし、この頃にはドイツの先進的な技術が導入されていたため、すぐにテストは中止となり、保管
されてしまいました。
259眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/09/30 23:07 ID:???
光人社NF文庫の新刊にソヴィエト航空戦というのが出てました。
大分被るのが少し鬱ですが…。

今日は鬱の儘ふて寝(ぉぃ。
明日はBelievから再開します。
260  :03/10/01 19:18 ID:???
がんがってくらはい
261眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/01 23:14 ID:???
さて、本日はBerievを取り上げます。

G.M.Berievは、ソ連の航空機設計者の中でも逮捕などされず、比較的穏当に人生を過ごした設計者です。
彼はStalinと同じグルジア人で、1919年の混乱の最中、Leningrad工科大学に入学します。

卒業後、Aviatrustと言う航空省の中央機関に出仕し、1928年にフランス出身のP.A.Richardが海軍用機の
設計チームを作った際に、彼によって指名された20名の設計者の一人に選ばれました。
1929年、彼はMoscowにあるTsKB(中央設計指導局)内に作られた、海軍機設計部門に配置転換され、
Taganrogにて、イタリアから導入され、ソ連国内でライセンス生産されていた、Savoia-Marchetti S.62bis
飛行艇の改良作業に従事し、これはMBR-4となります。
ただ、工業水準の低さから原型機よりも200kg重量オーバーとなり、余り成功作とは言えませんでした。
それでも、それまでのソ連の飛行艇にはろくなものがありませんでしたが、軽偵察・雑用任務に使用するには
この旧式飛行艇で十分でした。

そして、1932年にはBerievOKBが発足します。
これに先立つ1931年、TsKBで彼は短距離偵察飛行艇を設計しており、1932年にそれはMoscowの工場で原型機
を組立て、Sevastopolで1932年、初飛行に成功します。
これが後のMBR-2で、改良を加えながら1942年まで製造されました。
なお、この生産はTaganrogの工場で行なわれています。

さて、Stalinの最初のソ連海軍整備五カ年計画で導入された英国製カタパルトに搭載する水上機として、ドイツの
Heinkel HD-55をKR-1としてライセンス生産しますが、性能はまずまずで、改良の余地が無く、Believ OKBに白羽の
矢が立ち、彼はそれに応えて、1936年にKOR-1(後のBe-2)を製作します。
最初は、エンジンがOverheatする欠陥がありましたが、それでも300機が製造され、彼はその対策に追われました。
結局、1939年までに事態は改善しますが、それ以外の性能は優秀だったため、陸上機Versionも製造されました。
262眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/01 23:15 ID:???
その後、幾つかの失敗作を経て、1941年にKOR-1の代替としてKOR-2(Be-4)を試作します。
これは飛行艇型の機体で、全金属製、密閉式コクピットを採用するなど、近代化された型でしたが、Taganrogが独ソ戦の
舞台となって、試作機は破壊され、1943年にシベリアのKrasnoyarskで試作機を再制作しました。
1945年に漸く100機程度が製造されましたが、少数が艦上運用に就いています。

1943年、GST(PBY)に代わる新型飛行艇の設計を彼の設計局が担当します。
LL-143と名付けられたそれは、移転先のKrasnoyarskで試作に着手し、1945年9月に漸く完成します。
そしてKrasnoyarskで初飛行に成功した後、再び設計局はTaganrogに戻り、そことSevastopolで試作を
続けていきます。
この機体が、戦後のBeriev飛行艇の基礎となったのです。

てな訳で、戦後編は明日以降。
263眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/02 23:46 ID:???
戦後、LL-143を基に数種の飛行艇が作られました。
一番オーソドックスな機体は、1949年にTaganrogで試作されたBe-6です。
この機体は、LL-143のレイアウトを基に、エンジンを強化型に換装し、全般的に近代化したもので、若干の問題を解決した後、
1950年から量産が開始され、200機程度が、海軍航空隊とAeroflotの為に製造されました。
1954年には搭載機器を近代化し、MAD、機首砲塔に代わって大型のレーダーを2基搭載して、対艦ミサイル誘導任務にも使用
され、若干機が輸送飛行艇に転用されました。

1946年、BerievはLL-143を基にもう一つの飛行艇を設計します。
これは、RD-45を搭載したジェット飛行艇で、R-1(Reaktivnii-1)と名付けられました。
全体のレイアウトはLL-143ですが、若干小さく、あくまでもジェット飛行艇の可能性を検証するために作られたので、高速化に
余り注意を払っていませんでした。
ファウラーフラップを取り付けた翼は、B-29の技術を転用したものです。
1952年5月30日にR-1は初飛行し、設計段階のRD-45はVK-1に変更されていました。
この機体は各種の技術的資料を提供し、次の本格的なジェット飛行艇Be-10に繋がっていきます。

初期のジェット爆撃機の難点は、航続距離の不足と大容量の燃料を搭載することに依る離着陸距離の
増大にありました。
その二点を解決すべく製作されたのが、ジェット飛行艇Be-10です。
水上なら、艦船から燃料を補給できますし、離着水距離も水上は無限なので、陸上機の様な制約は無い
だろうと考えられた訳です。
任務は当初、対潜哨戒は言うに及ばず、対艦攻撃と機雷敷設も念頭に置いており、この機体の設計には、
BelievOKBの他、海軍当局の要員も多数参加していました。
機体は基本的にR-1のスケールアップですが、翼は後退角が付き、エンジン搭載方法はTu-16と同じとし、
Lyul'kaエンジンを搭載していました。
1958年にエンジン選定が為された時には、核攻撃、対艦攻撃は潜水艦が担うことになり、Be-10は偵察任務
が付与されます。
1961年に初飛行が行なわれ、4機の試作機が作られて各種記録を打ち立てますが、この機体は戦略構想の
転換から、前量産型の生産までで終わってしまいました。
264眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/02 23:47 ID:???
1957年、BelievOKBは海軍当局よりBe-6の後継機の多用途飛行艇の開発指示を受けます。
これは水陸両用機で、ガル翼の機体にターボプロップを搭載した、オーソドックスな機体でした。
それだけに試作は順調に進み、1960年には試作機が初飛行します。
そして、1961年に公開され、1964年から200機以上の機体が生産されました。
また、記録機としても数々の記録を打ち立てています。

最後にBeliev自身が手がけた航空機が、An-2を代替する支線用航空機のBe-30でした。
これは、An-24をスケールダウンした様な形をしており、1967年、まず、ピストンエンジン双発
として初飛行します。
しかし、この時代に幾ら何でもピストンエンジンというのは、と言うことで、フランスのTurbomeca
からAstazou XIIを輸入し、それを基にしたGlushenkovのエンジンを搭載しています。
ちなみに、この機体のもう一つの特徴は、片発が停止しても、もう片方のエンジンの動力をもう
一方のプロペラに伝えるという、フランスのSTOL機Breguet Br941と同じシステムを持っていたこと
です。
Be-30は一応の完成を見ますが、開発に手こずったため、チェコからL-410を導入し、Antonovが同じく
支線用のAn-28を開発したため、8機の生産に終わりました。

1979年にBerievは死去しますが、彼の名を継いだOKBは残り、その後、Be-30を発展させたBe-32、
ジェット飛行艇Be-42を製作しています。
今は、先に触れた通り、Taganrog航空機科学技術コンプレックスとなり、Sukhoi Holdingsの一員となって
います。
265名無し三等兵:03/10/03 00:03 ID:???
固有名詞を全部ロシア語の西欧語化で書くのなら、
MoscowはMoskvaにしておいてほしいな。
266眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/03 00:12 ID:???
>265
英語文献の翻訳なので、細かいところは気にしないで下しい。
267名無し三等兵:03/10/03 01:26 ID:???
嫌だ、気にする(w
268眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/04 23:35 ID:???
さて、再びマイナー設計局が続きます。

M.R.Biesnovatと言う人は、1930年代にある設計局に属していましたが、1938年に独立して自分のOKBを
持ちます。
彼が開発したのは特に飛行に際して高速を発揮できる試験機で、これにより、新しい翼断面と翼平面、
新しい操縦系統、新しい機体構造を試験しました。
この機体が製造された後、戦闘機に派生しています。

最初に製作されたのはSK-1で、高速に対応する主翼構造を持ち、可能な限り小さな機体に戦闘機用の
V-12エンジンを搭載して、ロシアの草地や仮設滑走路から離陸できるぎりぎりの大きさの主翼を備え、
全金属製、但し舵面は羽布張りの機体です。
しかも、高速機にも拘わらず、全操作を手動で行なっています。
更に高速機として、胴体にはキャノピーの突起は存在せず、離着陸時は座席が油圧によって迫り上がり、
キャノピーを押し上げて司会を確保する様になっていました。

この機体は1939年に完成しますが、試験の期間は1940年1月末までしか与えられませんでした。
それでも、最高速度は677km/hを記録し、これを戦闘機に改造しても、100km/hの速度低下で済むと考えた
Biesnovatは、その戦闘機バージョンを考えます。

これがSK-2で、高速機としての特殊装備は全て外し、キャノピーは突出型のオーソドックスなものに変更し、
エンジン支持架の重心位置を320mm高めてそこに機関銃を装備します。
油圧昇降式の座席は固定されました。
試作機は1940年10月に初飛行しますが、多くの修正すべき欠点が挙げられ、戦闘機として大成することは
ありませんでした。

最後の設計は双発複座戦闘機SK-3でしたが、1940年12月に中止となり、設計局は閉鎖されました。
269眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/05 23:35 ID:???
今日はBolkhovtinovを取り上げてみましょう。

V.F.Bolkhovtinovは、空軍に入隊後に頭角を現し、多数の技術コースを修めて1932年にはZhukovskiiアカデミーに招聘され、
1933年にはTB-3を代替する機体を製作すべく、約20名の講師と技術者から成る設計チームを率います。
彼が製作したのは、DB-Aと呼ばれ、舵面以外全ジュラルミン製セミ・モノコック構造の引込脚の四発機で、MoscowのKhodinka工場
で製作され、1936年3月に初飛行しました。
この機体は後のPe-8の様に冷却器系統は全て内側に集中しており、其処に主脚が収納されていましたが、その部分は巨大なズボン
状のものでした。
続いて、エンジンを1000hpのM-34RNVに換装したDB-2Aが製造されました。
これらは、5tのペイロードを積んで、Moscow-Melitopol-Moscowの2003kmの三角飛行で7時間2分と言う記録を打ち立て、1937年には
DB-Aが民間機塗装で、北極横断飛行に挑戦し、Arkhangelskから極点を越えてAlaskaに向かいますが、Fairbanks付近で第四エンジ
ンが停止したものの、更に飛行するという連絡がありましたが、爾来、行方不明になりました。
こうした事故があったにも関わらず、この機体は1937年末までに更にANT-42として16機が製造され、最終的に5機が重爆撃連隊に、
7機が予備もしくは試験用に使用されています。

DB-Aの後、1935年には彼はZhukovskiiアカデミーの航空機設計部門の教授に就任し、これは1946年まで勤めます。
270眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/05 23:36 ID:???
そして、彼が手を付けたのは串形双発の戦闘爆撃機です。
最初が“S”と言う機体で、M-103を機首にタンデムに装備し、二重反転プロペラを回すものでした。
翼形は後のIl-28に酷似したもので、双垂直尾翼、引込脚は電動で操作され、その引込方式はP-40に酷似していました。
1938年にエンジンの目処が立ち、1938年7月には試作機が完成して、1939年9月に初飛行が行なわれました。
性能は非凡なものがありましたが、エンジン装備位置に起因する、故障や事故が絶えず、また機首上げの傾向もありました。
この解消のために、爆弾倉を撤去したりして、1940〜41年に遂に再設計になりました。
それでも技術的な問題は解消せず、結局後部エンジンを取り外しましたが、そうなると最早、軍の要求性能に達せず、戦時中
のことで、宛にならない試作機より、Pe-2の製造が最優先となったため、開発は1941年で打ち切られました。

しかし、彼は屈せず、“I”と呼ばれるM-107の串形双発試験戦闘/急降下爆撃機を設計します。
この機体は三輪式で、カタパルトによる発進を可能とし、インテグラルタンクにはエレクトロン鋳物を採用したものでしたが、1941年
夏の独ソ戦開始に伴い、不要不急機種として整理されました。
また、“D”と呼ばれる、M-105を串形に搭載したあたかも双発に見える四発爆撃機を設計していますが、これも同じ時期に中止され
ています。

その後は、BIロケット戦闘機の開発に従事しますが、1946年、Zhukovskiiアカデミーの航空機設計部門が閉鎖されると彼の名は消え
てしまいます。
それでも、1970年までは生きていたようです。
271眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/06 22:49 ID:???
今日はお休み。
272眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/09 23:05 ID:???
1935年、A.A.BorovkovとI.F.FlorovはTsKBの気鋭の技術者でした。
彼らは、共同して小さくパワフルなエンジンを搭載した、今までの戦闘機よりも小さな複葉新型戦闘機の
提案を行ないます。

1935年末、空軍のY.I.Alksnisはその提案を承認し、1936年初頭、航空工業省配下でOKB-7として、彼らの
設計局がスタートします。

1937年、その研究の成果として、戦闘機7211号が初飛行します。
この機体は、Gee Bee Racerの様な小さな機体に大馬力のエンジンと強武装を誇るもので、その構造は、
木金混製でI-16に極めて似通っていました。
但し、小さな機体に大馬力のエンジンというコンセプトは、それ自体が不安定なものであり、初飛行でエンジン
トラブルに見舞われ、離陸直後に墜落、パイロットは死亡しています。

それにもめげず、戦闘機7211号の増加試作機として、I-207が製造されました。
この機体は、胴体内引込脚が設けられ、NACAカウリングが取り付けられました。
後にエンジンはM-85からM-63に変更されています。
これらの機体は4機が、1941年春までに製造され、最後の2機にはMerkulov DM-2/4
ラムジェットエンジンがブースト用に取り付けられています。
この3,4号機は独ソ戦初期に戦闘出撃しています。

最後に彼らが手がけたのは、M-71エンジンを前部に、後部にMerkulovのラムジェット
エンジンを搭載した高翼単葉混合動力機の”D”で、1941年1月から設計が開始されま
すが、独ソ戦の煽りで、OKB-7がソ連西部に移ってしまい、その混乱で設計作業は中断
してしまいます。
273眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/09 23:07 ID:???
そして、Borovkovは1945年に航空機事故で死亡し、この設計局はFlorovが引き継ぎます。
これより前、彼はBorovkovと共に、西部に移動した後、BI-1の対抗ロケット戦闘機である戦
闘機4302号を製作します。
この機体はドイツの技術導入前だったので、直線翼であり、余り垢抜けたスタイルではあり
ませんでした。
離陸にはドリーが用いられ、着陸は橇で、保護用の尾輪と脚柱はLa-5のものを流用してい
ました。

機体の製作は1944年から始まり、1946年に地上テスト、そして1947年には初飛行を行ない
ますが、既にジェット時代に入っており、高速テストはCancelされています。
このエンジンを流用して、戦闘機4303号が設計されますが、これも研究のみに終わりました。
274眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/12 00:41 ID:???
I.P.Bratukhinは、ソ連におけるHelicopterの先駆者の一人で、学生時代からHelicopterの研究を行なっていました。
1933年初頭、彼はTsAGIに於いて、その一部門OOKの更にセクションBを率いて以降、最初の5-EAから
現在までのHelicopter研究に重要な役割を果たしました。

彼は1930年代末期の粛清、逮捕を免れ、1940年1月にはYuryevの下で設立されたMoscow航空研究所(MAI)
の中にOKB-3を作り、主席設計者代理を勤め、3ヶ月後にはYuryevに代わって彼がそのOKBを率いることに
なりました。

そして、1941年1月27日、Omega 2MGと言う双ローターヘリの製作を開始します。
これは、Fw-61に似通ったデザインで、航空機型の胴体、尾翼に、トラス構造の翼部を取付、その端にエンジン
ナセルを設け、上部のローターを回すと言うものでした。
1941年8月に最終準備が整い、ホバリングテストを行ないますが、エンジンの馬力不足と自然冷却による離翔時
のオーバーヒートが生じ、その問題に取り組んでいるうちに、独ソ戦が始まって、設計局は移転します。
移転後の1942年から徐々に問題は解決しますが、1943年、エンジンが破壊するほどの故障を生じ、この機体は
破棄されてしまいました。

次いで、OmegaIIが製作され、こちらは冷却機能を改善し、各部を改良したもので、1944年9月に初飛行します。
しかし、この機体も1945年1月にギアボックスが破壊します。
修理後は、1945年7月からHelicopterの試験運用と操縦士の育成に使用されました。
また、1946年8月にはTushinoで、高度3000mまでの上昇を記録しています。

このOmegaIIの発展型として、空軍が砲兵観測用ヘリの試作機として要求したのがG-3(AK)です。
この機体は今までのRenaultエンジンの様な非力なものではなく、米国からLend-Leaseで供給された機体に付いていた
P&W R-985を搭載しています。
2機の試作機が1944年に発注され、1945年に飛行しました。
更に評価用に10機が発注されますが、色々な混乱のために5機しか製造されず、いずれも訓練用として用いられてい
ます。
275眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/12 00:43 ID:???
G-3(AK)は、米国製エンジンの採用が政治的に失敗の原因であったため、Ivchyencoが設計した純国産エンジン、AI-26
エンジンを採用したソ連最初の純国産Helicopterで、原型機2機が発注され、1947年10月に初飛行しています。
1号機は、自転飛行による着陸試験に失敗して失われますが、2号機はソ連で初めて主要部品の耐久性が100時間以上
保ち、実用化レベルに認定されます。
1947年から48年にかけて、少数(少なくとも10機)が生産され、空軍で各種評価に使用されました。

今までのHelicopterは、設計局の他のメンバーが設計を行ない、Bratukhinはそのコーディネーションを行なっていただけ
でしたが、B-5に至り、初めて彼自身が設計に加わります。
これはG-4をスケールアップし、馬力強化型のAI-26を使って、セミモノコック構造の胴体に8名分の座席を設けた輸送
Helicopterでした。
1947年に1機が製造され、各種テストに使用されますが、性能不十分で試作が中止されます。
また、救急・患者輸送型のB-9も作られますが、これも同じ理由で試作のみで中止となりました。
276眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/12 00:45 ID:???
初心に返って、弾着観測用Helicopterとして試作されたのが、B-10で、失敗作のB-9の部品を流用し、トラス構造の部分は
短い翼に整形され、前部上方と後端部上方に観測用ドームが設けられました。
大型化した機体内部には3名の乗員と、2床の担架、200kgまでの貨物、様々な無線、撮影設備一式のいずれかが搭載でき、
後にはShKAS機関銃が2〜3丁装備されました。
1947〜48年に掛けてこれも少数が生産されています。この設計局で最後に製作された機体が、B-11で、3座全天候連絡用
Helicopterとして空軍が要求したものです。
これもB-5の発達型で、1948年に試作機が製作されますが、全般的な性能は満足していたものの、ローターから来る震動を
主問題として、様々な問題が出ています。
特にローターの回転により、全力運転を行なった時に前向きの力が大きく発生し、小翼に亀裂が入る問題が致命的でした。
また、油圧漏れの問題も修正が付かず、1948年12月の飛行以来、この機体が飛行することはありませんでした。

最後の設計は、シングルローターに変更した、訓練用ヘリのB-12でしたが、設計段階で終わり、1951年に設計局は閉鎖され、
彼自身は一時期G-4を基にしたラムジェットのチップジェットヘリの研究などを行なっていましたが、Moscow航空研究所、後に
St. PetersburgのMozhaisky研究所にて研究生活を送っています。
また、彼のスタッフたちは、Kamovに引き継がれ、そのOKBを構成しています。
277眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/13 22:38 ID:???
I.V.Chyetverikovは、1922年にLeningrad航空交通技術大学(LIIPS)に入学し、1927年に卒業しました。

彼は、その後MoscowのTsKBに加わり、1931年1月には、早くも経験を積んで、MenzhinskiiにあるTsKBの水上航空機部門のチーフに抜擢されます。
此処で彼は、主に飛行艇を考案しましたが、その設計は、より経験を積んだチームによって具現化されました。
その最初の機体は、今までソ連になかった海軍向け新型長距離飛行艇です。
開発機関を短縮するため、艇体は新規設計で、翼関係をTB-5重爆撃機と同じものにしたMDR-3として、1932年に初飛行します。
しかし、全般的な性能が悪すぎ、この機体の開発はTsAGIに移されて、ANT-24またはMDR-4に発展します。

結局、責任を取って1932年に彼は科学テストセンター(NII GVF)に異動し、そこの一部門(OSGA)で、N.M.Andreyevの下、性能的に満足しなかった飛行艇の
設計をやり直します。
この機体は、1931年に設計が開始された、大型潜水艦搭載用の小型偵察飛行艇で、SPL(Samolyet dlya Podvodnikh Lodok)という機体で、2年間で破格の
10万ルーブルの開発費を掛けたもので、後にOSGA-101と改称します。
まず、2機の試作機が作られ、1935年初頭に初飛行しました。
しかし、試験の結果、耐航性に難があり、海軍当局はこの機体に対する興味を失いました。
結局、この機体は化学工業省の外郭団体に払い下げられてしまいます。

翌年、彼は北部航路管理局長に対し、新型機の提案を行ない、1934年末に早速Sevastopolに於いて彼自身のOKBを立ち上げました。
今度は、ARK-3と言う機体で、タンデムエンジンの高速、長距離飛行が可能な木製飛行艇を開発します。
1936年1月に機体は完成し、9月までテストが行なわれた結果、若干の改造を行なった上で、5機が生産されました。
しかし、1937年7月14日、ARK-3の1号機が着水時に衝撃を与えた結果、後上方砲塔取付のために、尾部が脆弱化し崩壊、その衝撃で
胴体上のタンデムエンジンの支持架が崩壊し、プロペラで乗員を殺傷すると言う事故を起こした上、2号機も同様にして失われたため、
この機体も中止されました。
278眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/13 22:39 ID:???
それでも懲りずに、彼は1936年、新型長距離軍用飛行艇を設計します。
MDR-6と呼ばれた機体は、金属板で構成されており、艇体下部は2mm、それ以外は0.8mmのものが使われていました。
1937年7月に試作機が初飛行し、増加試作機がTaganrogで1939〜40年までに50機生産され、1941年に就役しました。
この時、MDR-6は、Chye-2と改称されています。
独ソ戦開始当時、バルト艦隊と黒海艦隊に配備されていました。
この機体はそこそこ活躍しましたが、胴体の第10フレームが脆弱であること、プロペラからの非道い震動、翼に設けた燃料
タンクの完成度の低さから来る油漏れに悩まされ、設計者と工場はその修正に頭を悩ましました。
この後、1939年のMDR-6B-1から、1946年のMDR-6B-5まで各種の改良型がそれぞれ少数ずつ製造されました。

結局、第二次大戦にも余り寄与することなく、1946年からは水陸両用飛行艇の開発を始め、TA、TA-1、TAFと言う機体を
試作します。
TAは水陸両用輸送飛行艇で、1947年6月に完成しますが、11月に主脚を折って転覆し、発達型TA-1は1948年3月に試作
されますが、製造されず、TAFは写真偵察型でしたが、最初のTAの失敗が原因で、1948年に機体は完成したものの製造
は行なわれませんでした。

結局、1948年末を以てこのOKBは閉鎖され、ChyetverikovはLeningradに帰って、Mozhaiskii研究所の講師として余生を
送っています。
279眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/14 23:23 ID:???
今日は簡単に、若き日のIlyushinの話なんぞ。

1919年、白軍のAvro 504Kが赤軍に撃墜され、無傷で捕獲されました。
これはMoscowに運ばれ、若き日のS.V.Ilyushinによって、赤軍航空隊の将来の標準練習機として使用されるべく、
若干の改良を加えられます。
1923年、漸く改造作業が完成し、U-1として完成した機体は、その後GAZ-1、GAZ-3で生産が開始されます。
しかしながら、実態としてこの機体は、搭載していたLe Rhoneエンジン(これはM-2と改名されていました)、機体共に
無許可ライセンス生産品でした。
この機体は664機が1931年まで製造され、それから発展した双フロート型が73機製造されています。

1927年、この機体の強度試験と構造再計算が革命以来制作された機体として初めて行なわれ、これを基に発展型
MU-1が試作されました。
しかし、構造が強化されたものの、重量増となり、競争試作されたU-2に太刀打ちできませんでした。
この開発は、水上機バージョン、陸上機バージョンとも1934年まで行なわれ、1931年には陸上機バージョンが補助
火薬ロケットを取り付けて、飛行に成功しています。
これがソ連は元より、恐らく世界最初のロケットによる飛行と言われており、テストパイロットによると、ロケット発火後
1.5秒で離陸できたそうです。
280眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/15 22:56 ID:???
でもって、今日はIlyushinになり損ねた男の話。

D.D.Fedrovは、1875年生まれです。
1897年、彼は破壊活動分子の著作を配布した廉で検挙され、国外追放処分となり、
ドイツで航空機技術者として働いていました。
1917年の革命後、彼は母国に舞い戻り、彼がドイツで設計した複座偵察複葉機を
持って帰ります。
彼は、OdessaのAnatra工場でこの仕事を続け、その工場が接収されて赤軍第四師団の
航空機修理工場であるSimferopolの第15工場になってからも、開発を行なっています。
その機体が完成する前、彼は過労が祟って病気となり、1922年12月22日に死去してしま
いました。

その機体、DF-1はAnatra工場で生産していた、NieuportやFalmanの部品を用いていましたが、
殆どは独自の設計でした。
この機体は1922年5月に初飛行し、満足な性能を示したため、ソ連初の偵察機として生産される
予定でしたが、2号機完成直前に第15航空機工場が内戦の煽りで閉鎖されたため、量産が不可能
となりました。
281眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/16 23:41 ID:???
今日もマイナー。

A.P.Golubkovは、1939年から40年に掛けて、自身の設計チームを持っていました。
主な目的は、高速双発偵察爆撃機SRBの設計とモックアップの製作で、此の計画が、Tupolev設計局
に引き取られて、ANT-54〜57、即ちTu-2の源流に結びついていきます。
1940年終わりに、Golubkovはこの計画から手を引かされ、C-47、A-20、B-25と言った、米国からの
供与機の改造作業に携わります。

戦後は、Tupolev設計局に復帰し、ソ連最初のジェット旅客機Tu-104の試作製造に携わっていました。
282眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/18 00:05 ID:???
V.P.Gorbunovは、NKAPの技術管理職でしたが、LavochkinがYakovlevと分かれた後、
そのI-22戦闘機開発、後のLaGG-1/3の開発に加わりました。

ただ、LaGG-1/3系の仕事の後では独立して仕事をしており、独立後、一番最初に開発
していたのは、戦闘機ではなく、AM-37エンジンを搭載した、複座装甲攻撃機(Bsh)でした。
つまり、Ilyushin設計局の製作したIl-2の直接のライバルという訳です。
しかし、試作機が出来る以前に、Il-2の性能が良いことが分かり、1942年までにこの開発
は放棄されました。

次いで、彼が携わったのは、LaGG-3から直接発展させた機体で、1941年から開発を始めた
ものです。
同じLaGG-3からの発展型でも、LavochkinのLa-5は液冷エンジンを空冷エンジンに変更した
ものでしたが、この機体はより高出力の液冷エンジンを搭載する可能性がない状態で、機体の
性能を上げようと言うものでした。
このため、重量は極限まで切りつめられ、胴体後部は削り取られて水滴風防となって後方視界
が向上しました。

1942年秋、試作機105号(非公式にI-105、LaGG-3 Oblegchennyi(軽量型の意)と呼ばれていた)が
完成します。
この機体は極度に洗練され、実戦での不具合も可成り改善されていました。
しかし、嘗て自分が開発に携わったLaGG-3から直接発展したもう一つの機体であるLa-5のキャパシティ
の余裕が軍にとっては魅力であり、この機体の採用は見送られました。
これ以後、Gorbunovの設計したものはありませんでした。
283眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/21 23:19 ID:???
ちょっと一休み。
284眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/22 22:54 ID:???
何か疲れた。
285名無し三等兵:03/10/22 22:56 ID:???
眠い人氏乙です。
浅学な自分には大変勉強になります。
286名無し三等兵:03/10/23 22:43 ID:???
同じく乙。

ほとぼりが冷めたら馬鹿っぽいネタをふりましょー
287眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/25 22:45 ID:???
久々に手を付ける。

今日は練習機専門設計局の話。
V.K.Grigovskiiは、子供の頃に読んだロシア初のグライダーパイロットが書いた書物を見て、空への憧れを持ちました。
1919年にSt. Petersburgに出て、最初は操縦士を目指して航空機学校に入校しようとしますが、結局、St. Petersburgの
第二砲兵学校に入校します。
しかし、最終的には初志貫徹し、1921年1月にMoscowに赴き、航空理論を修めます。
翌年、Sevastopolで飛行術を学び、1923年にMoscowに戻って、主にNiewportによって戦闘機の操縦訓練を受けます。

彼はKievに設置された最初のソ連空軍飛行学校の第一期生となり、次にKoktebelでグライダーの試験を行ないます。
この時、彼は自分でグライダーの設計を始めます。
1930年まで、彼は空軍に在籍して航空武器学校の教官を勤める傍ら、軽航空機の環境整備に努め、1933年に空軍を辞め、
MoscowのOsoaviakhim Moscow KBを率いて14種類の航空機と17種類のグライダーを製作しました。

この中には、訓練用グライダーG-9があり、これは、1932年から多数が作られ、1933年には航空記念日にTB-1爆撃機1機に、
11機がV型編隊で曳航されたとか、1機は176回の宙返りと10回のスピンをしたとか、1934年には35時間11分の曳航飛行を
記録するなど優秀な機体でした。
また、G-12は、水上発進のグライダーという珍機で、後にG-16滑空飛行艇に発達しています。

エンジン付き軽飛行機はG-5モーターグライダーから始まり、1931年にG-8軽飛行機が製造されました。
主にこれらの機体は、スポーツ機、練習機として製造され、G-20で低翼単発密閉風防装備の二人乗りの低出力エンジンを
持つ機体として完成されました。
これを単座化したG-22は1936年に初飛行し、1938年6月3日に軽飛行機の女性速度記録を更新しました。
288眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/25 22:46 ID:???
一方、こういった軽飛行機の世界記録を打ち立てる機体を設計する一方で、1930年代末に設計されたG-27は、SB、DB-3と
言った双発高速爆撃機の搭乗員訓練に使用する双発単葉練習機として開発されました。
Gribovskiiはこの機体に入れ込み、双発固定脚の木金混製の機体に、星形エンジンを装備し、固定脚はズボン式スパッツで
覆われ、期待に小型爆弾倉を持ち、機首に航法士兼爆撃手、操縦士、無線士の3名を同時に訓練できると言うものでした。
しかし、操縦士訓練に於いては、後部搭乗員を教官とすることにしていましたが、そこからの前方視界は劣悪でした。
この機体は、性能自体はBeach18、Anson、Oxford並の機体だったのですが、後に開発されたG-29が国家にとって重要だった
ため、結局量産されなかったようです。

一方、戦闘機の性能も上がってきたため、英国のMaster練習機の様な戦闘機の性能に似た機動性を持つ機体が必要となり、
低翼単葉固定脚武装付き戦闘練習機としてG-28が開発されました。
これはソ連空軍にTI-28として正式採用され、1941年3月22日に初飛行に成功しました。
この機体は、倒立6気筒エンジンのMV-6が馬力不足で、性能向上型を求めている間に独ソ戦が勃発し、G-29の開発が最優先
となったため、放棄されました。

Gribovskiiの機体で最も重要なのが、G-29(G-11)です。
これは輸送用のグライダーで、Gribovskiiの機体では最大のものでした。
1941年にテストされ、少なくとも100機が製造され、実戦に投入されました。
この実用化のためにGribovskiiたちは他の機体の開発を中止したほどです。
また、1942年には主翼上に櫓を組んでエンジンを搭載したG-30(G-11M)が製造されています。

この成功作に気をよくしたのか、Gribovskiiたちは、戦後の1948年になっても、訓練用の
複座グライダーG-31を設計、試作していますが、流石にこの時期にはグライダーパイロットの
需要はなく、立ち消えになっています。

この人の最後の作品は、1950年に設計したDosavです。
これは複座の軽飛行機でしたが、競作で敗れ、以後、この設計局の名前は消えています。
289眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/27 23:04 ID:???
今日もマターリ。
290眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/29 22:44 ID:???
今回は、ソ連航空史の劈頭に出てくるGrigorovichの話なぞ。

彼は1910年にKiev工科大学を卒業し、St. Petersburgで航空雑誌の記者として働いていました。
しかし、1913年に、M.A.Shcherbakov、S.S.Shchetininと共に、ロシアで二番目の航空機工場を設立します。
この工場が、最初の量産したのはフランス製のNieuportIVとFarmanF.16で、彼は構造計算と強度試験を担当しています。

その後、D.N.Aleksandrovの持つフランス製の飛行艇が事故を起こしたのを切っ掛けに、Russo-Baltic Wagon Works(後にSikorskyの
IMシリーズを生産する会社となった)からその修理に6500ルーブル、工場の立ち上げに6000ルーブルを出資して貰い、修理をしました。
ちなみに、彼の手間賃は400ルーブルだったそうです。

この飛行艇を基に、広範囲な改修を経て、1913年、D.P.Grigorovich最初の機体になり、M-1と名付けられました。
このMシリーズの飛行艇はロシア帝国海軍にも採用され、次々に改良型が生み出され、1926年まで24種類が製作、量産化されました。
革命後もOMOS(海軍試作飛行機工場)の初代所長、後にMAI(Moscow航空機研究所)で講義を行ない、その傍ら、水上機MK-1、GASN、
ソ連最初の戦闘機I-1、I-2、ウクライナ向け幹線輸送機のSUVP、新型の飛行艇、MR、MUR、MUシリーズ、Dornier Walに範を取った大型の
ROM-1、2などを開発、生産しました。

しかし、粛清の波は彼にも押し寄せ、1930〜33年まで収容所工場GAZ-39のHanger-7に拘束され、図面を引かされました。
彼はここで、、大型爆撃機のTB-5、複座戦闘機DI-3、Po-2の襲撃機型LSh、R-5の改良型TSh-1とその装甲強化型(Il-2の先駆)TSh-2、無反
動砲を搭載した迎撃戦闘機I-Zとその発達型IPシリーズを設計、製作しています。
291眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/10/29 22:45 ID:???
出獄後、彼は体調を崩し、病気がちになります。
最後の製作は、KometaとDyevushkovaya Mashinaと名付けられた双発高速機E-2(DG-55)で、これは、MAIの8名のデザインチームの8名の
女性のために1935年に製作された高速機です。
Kometa(彗星)という名前からも連想されるように、英国でCometと名付けられた競争機、D.H.88をそのままコピーした習作で、
エンジンも同じものを使っていました。
この機体はテストを行なった後、連絡機として使用されました。

そして、体調が悪化しつつも、双発重戦闘機LK-3、急降下爆撃機PB-1を設計しますが、1938年、彼は息を引き取り、これらの
計画は中止されました。
ちなみに、彼の率いた設計チームの多くは、その後LavochkinOKBに引き継がれています。

次は、異能の設計者の話など。
292眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/01 12:29 ID:???
さて、異能の設計者について。

P.I.Grokhovskiiは、操縦士であり、パラシューターであり、発明者でした。
彼は1931年に自分の設計グループをLeningradにて立ち上げ、1933年には空軍試験部隊に実験機製造局を設けさせました。
1934年にこの部門は、航空産業省配下に移り、彼の活動の中心は輸送機、特に貨物輸送、強襲輸送、空挺輸送の分野に
移っていきます。
彼は空挺降下の先駆者であることから、大容量の装備を運ぶ貨物室の開発と、降下時のショックの少ない降下システムの開発
を行い、1934年、最初にTB-1を用いて実験を実施した後、TB-3を改造した空挺輸送機G-2の開発を行ないました。

その後、彼らのチームは独自の機体を開発し、1934年にNoduvatsyaと言う軽量機を開発します。
この機体の素材はゴムで、空気を抜けば、折り畳んで箱に仕舞えると言うものです。
この機体は実際に製造され、1935年からTushinoで試験を行なっています。
ちなみに、1950年代に英国Milesと米国Goodyearが同じ様な機体を作った時にソ連当局は、特許侵害
と言うことで抗議を行なっています。

次に開発したのが、Kukurachaと言う無尾翼可変後退翼実験機です。
これは1934〜35年にかけてLeningradで開発したもので、35度まで可変出来る機構を有し、水平尾翼の
無い推進式エンジンの機体でした。
流石に、構造に無理があり、離陸に失敗して放棄されました。
293眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/01 12:30 ID:???
G-26はHispano-Suizaを搭載した高速研究機、G-31は空挺輸送モーターグライダーでしたが、未成に
終わり、次に開発したのはUniversalnoye Letayushchyeye Krylo、即ちUniversal Flying Wingと呼ばれた、
G-37です。
これは、空挺強襲輸送時の様々な装備品を輸送できる機体として構想が進められ、そこから民間用の
貨物や旅客輸送も考えられていました。
その貨物搭載方法は、後年のドイツのFi-333、英国のM.68、米国のXC-120の様に、装備品を予め搭載
したコンテナーを機体に取り付けると言うもので、開発に掛かる時間とコストを削減するために、主翼は
ANT-9のものを流用し、エンジンもPS-9と同じですが、装備位置を変更し、双胴形式となっています。
彼のチームの役割は設計だけで、実際の機体開発は、Krylov配下のV.F.Rentalが担当しました。
1934年に機体は完成し、性能も結構良かったのですが、流用したANT-9の主翼が旧式に過ぎ、結局は
先駆者の悲哀を味わうことになりました。

彼の最後の機体となったのが、G-38(LK-2)です。
これはフランスで多座戦闘機構想に影響を得て設計された木製の双胴機で、前方に4丁の機銃と2門の
機関砲を集中させ、ナセル後端にも後方射撃用の機関銃を持つ上、ナセル内に爆弾倉を持っていました。
1934年9月にProjectが始まり、開発が進められました。
しかし、1936年12月、この設計チームも粛清の波を免れ得ず、突如として設計室は閉鎖され、G-38も完成
直前で放棄されています。

厳密な意味で航空機ではないですが、閉鎖された後にも使用された彼の遺産は、G-61と言うもので、これは、
R-5の下翼下に取り付けられる、人員輸送用のポッドです。
これはそれぞれが流線型の木製の4.3立方メートルの物で、中は4つに分割出来、それぞれに2人を乗せました。
2人の乗せ方は、1人はうつぶせで、もう1人は仰向けです。
これをR-5に取り付けると、16名の人員(降下兵、患者、負傷者)か1600kgの貨物を輸送することが出来ました。
後に、同じものが製造され、実際に氷に閉ざされて身動きが取れなくなった輸送船の乗員救出に活躍しています。
294名無し三等兵:03/11/01 12:34 ID:Sr9jbhOP
質問です。
名門カーチスの名前が消滅したのはどういう経緯だったんですか
295名無し三等兵:03/11/01 12:52 ID:???
フツーに倒産しただけ…
296名無し三等兵:03/11/01 13:03 ID:???
倒産して、設備や人材はどこへ行ったの?
297名無し三等兵:03/11/01 13:31 ID:???
LTVになったのかな
298眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/01 14:58 ID:???
>294
Curtissと一概に言っても、色々ありまして。

Curtiss-Wright Corp.が統括会社で、これが4つの部門に分かれています。
即ち、Curtiss-Wright Corp. Airplane Division(機体)とWright Aeronautical Corp.(エンジン)、
the Curtiss-Wright Propeller Division(プロペラ)、そして、Curtiss-Wright Development Division
(研究機関)です。

初期には飛行艇、JN-4練習機などを製造(設計自体は英国人の手による部分も多いですが)、
第一次大戦後もHawk複葉戦闘機、Falcon観測機など、革新的な機体を多く作って来ました。
1928年に民間機の製造のため、Curtiss-Rovertson Aircraft Corp.を設立し、これは1930年に
分離独立しました。
そして、1929年には最大のライバルだったWrightを吸収合併して、Curtiss-Wrightとなっています。
このほか、自社で開発したエンジンを用いた自動車製造、哨戒艇製造など多角化を行なっていました。

このため、本業の航空機部門への投資が疎かになり、P-36の採用以後はその資産を食いつぶす形での
機体製造しか行なわれていません。
また、戦後の軍需から民需への転向が遅れ、CW-20E(C-46の本来型)はC-47(並びにDC-3)の前に
霞み、大型輸送機の開発も行なわず、更にジェット機への転換も遅れました。

こうなると、P-36/40、SB2Cなどの製造で上げた利益を吐出さざるを得ず、起死回生の手段として開発を
行なった、A-43とその戦闘機型F-87は大型に過ぎるとの理由でCancelされて、開発費を回収できず、
資金不足に陥って倒産しました。

倒産後、その資産は売却され、最終的にNorth Americanが買い叩いたみたいです。
299眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/01 15:27 ID:???
で、Curtissのエンジン部門の方はP-36以前からパッとせず、第一次大戦中にV型12気筒の
K-12エンジンを設計、試作するも、製造面で大きな鋳造一体型クランクケースの製造の困難さ、
減速ギアの開発の失敗があり、それを再設計したのがConquerorエンジンです。

これが、1920年代に於ける米国の水冷エンジンの標準機となりましたが、1932年に陸軍予算の
3分の2を食っていたにも拘わらず、液冷式に改良したエンジンをテストすると、エンジンブロックと
ヘッドの間から高温高圧のグリコール液が漏れ出すという状況で、陸軍の予算配分が無くなりました。
この状況で、Wrightと合併したのですが、液冷エンジンは結局ものに成らず、空冷専業で行くことになっています。

以後、各種のピストンエンジンを開発、生産していきます。
しかし、ジェットエンジンへの転換が遅れました。

ジェットエンジンの開発自体は、1944年にXT35ターボプロップエンジンの実用化に漕ぎ着けていたのですが、親会社
の倒産後、社長が交代してしまいます。
これにより、主任設計技師の意見が強くなり、未練がましくR-3350の開発を1957年まで行ない、ジェットエンジンの
開発能力そのものは、他社に大きく劣るものとなりました。
(主任設計技師が頑迷で、ピストンエンジンは「不滅」であると言う認識を持っていたと言う)

一応、1950年にA.S.SapphireとBristol Olympusのライセンス生産権を購入していましたが、実際にSapphireエンジンを
生産する段になって、妙なプライドから、原設計を弄り、このために搭載機であるF-84Fが100機以上(馬鹿馬鹿しくなっ
てそれ以上数えることはしなくなったらしい)、エンジン無しで駐機させられてしまっています。
また、エンジンスターターの不具合が、エンジン爆発の原因となり、B-57のエンジンも同様に黒煙を吐くような代物でした。

Sapphire(J67)を元に、Wrightは発展型エンジンを開発しますが、市場を見つけられず、1958年に起死回生を図って、
NSU-ヴァンケルRCエンジン(要するにMazdaのロータリーエンジン)のライセンスを購入しますが、これにも失敗して商品開発
能力を失い、細々と自社エンジンのメンテナンスを行なうしかなくなり、最終的に1985年に農機具王であったJ.ディールに買い
取られ、その歴史に終止符を打っています。
300眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/03 21:44 ID:???
今日は、Grushinを取り上げてみましょう。

P.D.Grushinは、Moscow航空研究所に於いて、Grigorovichの下のStal-MAI合同設計局で仕事をしていました。
これは1931〜34年まで続きますが、Grushinはその時に軽飛行機を製作しています。
その後、彼は構造が簡便な計器飛行を可能とする初歩練習機の製作を行ない、同時に実験用高圧蒸気エンジンによる
推進研究として、U-2の改造を行ない、テストをしました。

1937年、彼はSh-tandemと言う縦列複座の襲撃機を開発します。
この機体は、空冷単発複座串形翼を持つ引込脚機で、胴体後端に機銃4丁を持つ動力式銃座を搭載し、銃手の射界を妨げない
ように、方向舵は後部翼の下部に取り付けられており、上部はクリーンになっていました。
この機体は1939年までテストが行なわれますが、垂直尾翼面積が少なく、当然の事ながら方向安定性が不足し、試作は放棄され、
次のBB-MAIに変更されました。

そのBB-MAIは、液冷エンジン装備の短距離爆撃機で、25mmの厚さを持つ桁構造の三角翼で、後部の翼はより小さくなっていました。
この機体は、前作に輪を掛けてRadicalな設計でしたが、1941年の独ソ戦時に完成しました。
しかし、独ソ戦で試験飛行は省略され、東部に輸送して、初飛行だけ行なっています。

1941年末、Grushinの設計局は、MiG-5(DIS)の設計のため、MiG-OKBに吸収されました。

次回は、もう一人少しメジャーな設計者を取り上げて、有名な設計者について話をしましょう。
301眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/05 22:43 ID:???
ちょっと体勢整え。
>>298
なんかカーチスって、開発力がメタメタに弱くなっていたみたいですね。
最小限の、既存の機体を使った使い回しに慣れてしまったせいか、
斬新な発想を失っていたようです。

陸軍航空隊じゃ、カーチス製戦闘機がブイブイいわせていたのが
ウソみたいだ・・・。ノースアメリカンに吸収とは、歴史の皮肉だねぇ。
303眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/08 00:33 ID:???
>302
まぁ、本業を疎かにして多角化に走り、商品開発能力が無くなったから消えた数多の企業の
一つではないかと…そう言えば、MacDonaldもそんな道をひた走っているような。

と言う話はさておいて、今日はM.I.Godkovの話をしましょう。
この人は、有名なLaGG-3の設計者の片割れで、最初はGAZの工場長をやっていました。

1938年9月にLavochkinやGorbunovと組んで、OKBを立ち上げ、LaGG-3を製作し、それは
成功しました。
彼の手による最初の開発機は、LaGG-3K-37と言う機体で、LaGG-3の襲撃型として開発
したものです。
機体構造はLaGG-3の全木製を全金属製に改め、モーターカノンに37mm機関砲を装備
するというものでした。
この砲を搭載する為、後部を35cm延長して重心を合わせています。
この機体は1941年8月に初飛行し、少なくとも3機が製造されました。

1941年10月、独ソ戦勃発でGorkiiにOKBが避難する際、彼はOKBを離れてMoscowに
一人残り、彼自身の手によって、LaGG-3の発達型を開発しようとします。
これは、Lavochkinの同意を取っていませんでした。

ちなみに、LaGG-3の開発者、Lavochikin、Gorbunov、Gudkovがそれぞれ、LaGG-3の
空冷エンジン搭載版を作り始めています。
Gudkovの機体は、Gu-82と呼ばれ、LaGG-3にAsh-85エンジンを搭載してTbilisiの
GAZ-31で、大急ぎで機体は作られました。
1941年にPrototypeは完成しますが、大急ぎで試作した機体の為、機体の熟成度が
足りず、独ソ戦の煽りで開発リソースが無く、熟成する暇もなく試作機は1機に
終わって、空冷エンジン装備型のデータはLa-5に吸収されました。
304眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/08 00:34 ID:???
本当の意味で、彼が開発した機体は、Gu-1が最初になります。
この機体は、P-39と同様に液冷エンジンを胴体中央部に置いて、延長軸で
二重反転プロペラを回すもので、空いた空間に37mm砲を搭載していました。
構造は全木製、鋼管骨組みの機体で、機体自体は開発したものの、1943年の
夏になるまで、延長軸と駆動系統の問題に悩まされます。
1943年7月、漸く問題の解決も見通しが付き、7月12日に初飛行に漕ぎ着けますが、
離陸後、200m上空で横滑りして墜落、操縦士は死亡しました。

大抵の技術者の意見では、翼面積の過小が原因との判断が下され、即日、Gudkov
OKBは閉鎖されています。

と言うことで、次は気が重いけど、メジャーな設計者の話など。
305眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/10 23:21 ID:???
今日はメジャーどころ、Ilyushinの話など。

S.V.Ilyushinは、ソ連でも最も成功した航空機設計者の一人で、Stalinや政治局の面々からも一目置かれていました。
彼は航空産業大臣に任命され、政治局でも高い地位にまで登り詰めています。
しかし、彼は賢明にも設計に専念する為に、独裁者を怒らせないような巧妙な駆け引きによって辞職することに成功しました。

Ilyshinは、1916年、Komandantskii空港の整備士となり、航空機と関わりました。
そこで爆撃機に乗り組み、1917年には陸軍で操縦士の資格を取ります。
革命を経て、彼は赤軍に入隊し、捕獲されたAvro504を標準練習機に選定する手助けをした後、その国産化をDux工場(GAZ-1)
に於いて指導しました。
こうして、1922年に彼はZhukovskiiアカデミーに入学し、すぐに、滑空機の製作活動のLeaderとして活動を行ない、滑空機の6つの
全国組織の融和に努めました。
1926年に卒業後、空軍科学技術委員会に指名され、その委員長になりました。

…とりあえず、今日はここまで。
306眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/11 23:20 ID:???
今日は貧乏暇なし(嘆。
307眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/13 23:12 ID:???
今日も貧乏暇なし(鬱。
308眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/16 23:46 ID:???
1932年、空軍を退役した彼は、TsAGIに移り、試作機開発部門に於いてTupolevの代理人となっています。
また、粛清の嵐が吹き荒れた後のTsKBの組織を整備する仕事を併せて行ない、彼はTsKBに於いて、長距離爆撃機部門を
任されます。

彼がTsKBで担当した最初の機体は、M-34エンジンを搭載した双発の全翼式爆撃機、TsKB-16で、Nikitinが開発していたもの
でした。
彼はこれを引き継ぎ、すぐに全翼式を破棄し、M-85エンジン双発の低翼単葉形式に設計変更します。
これが、TsKB-26となり、TsKB-30に発展、そして、DB-3へと繋がる長距離爆撃機となっていきます。

また、彼は戦闘機も同時並行で開発しており、TsKB-32(I-21)と呼ばれています。
この戦闘機は、液冷エンジンM-34RNFを搭載した低翼単葉単発機で、一種の試験機でした。

この機体は戦闘機と言いながら、速度記録機としての側面も持っており、エンジンには特殊な回転ギアが付いており、
クランクシャフトでのエンジン回転数が1900回転であったのを、2400回転に増加させると言う機構になっていました。
胴体は全体に突起のないスピットファイアに似たデザインで、全金属製の機体には沈頭鋲が用いられており、冷却機構は主翼内に
収められており、主尾輪とも引込式です。

1936年に2機製作された機体の1号機が初飛行し、速度記録に挑戦しますが、冷却系統の問題が解決できず、20機生産予定の機体
は全てキャンセルとなり、以後、Ilyushinが戦闘機に手を染めることはありませんでした。
ちなみに、この機体は別名、Il-1と呼ぶものもあります。
309名無し三等兵:03/11/19 01:12 ID:???
当方無知に近いためあいの手さえ入れられませんが毎日拝見してます、がんがってください、楽しみにしてます。
つ〜か、書評スレッドでは毎度御世話になっております(笑)
310眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/20 23:14 ID:???
>309
なかなか進まず、スマソ。
311  :03/11/20 23:18 ID:???
お疲れ様です。
312眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/23 23:08 ID:???
さて、Ilyshinは1937年末に航空産業大臣に就任します。

しかし、自分の設計局での仕事と可能な限り粛清から距離を置きたかったため、1938年2月にはその職を辞し、
元のTsKBから1938年4月に独立した設計局を率いることになります。
ただ、完全にTsKBと切れた訳ではなく、TsKBとVoronezhにあった彼の設計局のあるGAZ-18との間を往復して
いました。
この往復には、専用機Yakovlev AIR-11が用いられたそうです。

この時期、IlyshinはI-21と共に、DB-3長距離爆撃機の開発を行なっていました。
この機体は、先述の通り、TsKB-26、30と発展してきた機体で、TupolevとSukhoiの共同設計であるDB-2との
競争試作でした。
先行したのはDB-2でしたが、1936年末に墜落し、1937年にDB-3が選定されました。
DB-3は、冬戦争などで活躍しましたが、1940年まで生産が行なわれ、1528機が生産されました。

その後、License生産が決まったDC-3の機構に影響を受け、DB-3を全面的に改設計したDB-3Fが生まれ、
更にそれをRefineしたIl-4に発展しました。
この成功で、Ilyshinは戦闘機よりも爆撃機、攻撃機、民間輸送機を生産することとなっていきます。

ちなみに、DB-3Fからは超長距離爆撃機として、翼関係を流用してエンジンを強化型に変更したDB-4が開発
されていますが、エンジン供給が他の重要生産機種と重なった上、Il-2、Il-4の開発でスタッフが手薄となった
ため、中止されています。

また、Il-4からは、Yer-2の後継として、Diesel engine搭載の高空長距離爆撃機Il-6が開発されました。
これは1944年に4機が製造されますが、高空飛行用に全幅を長くした延長主翼の構造上の問題、エンジンの
出力が保証されていないことを理由に開発を中止しています。
313眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/27 00:31 ID:???
とりあえず、今日は保守だけ。
某所にのめり込んでいるので、なかなかこちらに書けなかったり。
314眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/11/28 00:20 ID:???
下がりすぎにつきもう少し保守。
315名無し三等兵:03/11/29 16:10 ID:???
落ちすぎ
316眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/02 01:03 ID:???
Il-2について書くつもりだったのに、もう師走か。
明日書ければいいなと思う今日この頃。
317  :03/12/02 21:42 ID:???
保守
318眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/02 23:27 ID:???
1938年、Ilyushin設計局で、単発装甲攻撃機の設計が始められました。
彼の設計方針としては、少なくとも複葉機、双発爆撃機といったものは避け、新型の装甲攻撃専用機を求めており、
1938年1月27日にStalinに計画を送付しました。
しかし、丁度この頃、彼は航空産業大臣の職を辞職しようとしており、これがStalinを激怒させ(彼はその図面を引き裂いたという)、Ilyushinは
不安定な地位を保ったまま、彼のOKBに戻ります。

2ヶ月の後、漸くこの機体の開発にGoサインが点り、BSh(Bronirovannii Shuturmovik)-2として開発が開始されますが、初飛行は1938年11月に
することを承知させられます。
ところが、このProject開始直後に彼は専用機に使用していたYakovlev AIR-11の事故で重傷を負い、入院します。
事態を憂慮した彼は、病院に設計局を移転し、直に指示を行ない、更に退院を早めてGAZ-39に篭もり、何とか期限内に機体を完成させます。

初期の試作機は、Conventionalな「複座」低翼単葉機で、このため、DBShと改名されます。
発動機はMikulin AM-35を選択しましたが、このエンジンは初期には頗る馬力不足で、大きく重く、BShの要求仕様には遠く及びませんでした。
この機体の肝は装甲にあり、SukhoiとMikoyan-Guryevichの機体も同じ仕様に依るものでしたが、機体にPayloadを搭載した時に引き起こされる
構造上の問題にぶち当たりました。
結局、機体全体を装甲化することは諦め、カウリングと胴体下面を装甲化するだけに留めて軽量化に成功し、更に胴体後部を
木製化した上、操縦系統は布で覆うようにして軽量化を行ないました。
これにより、Ilyushinの機体は漸く採用の運びになります。
319眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/02 23:28 ID:???
こうして、1939年12月30日に2号機は初飛行します。
しかし、これだけ軽量化しても、性能は要求値ギリギリ一杯で、1940年4月までテストは続けられますが、遂に最後の手段として
後席の乗員を止めて単座とすることで、空軍と合意し、1940年10月に単座型TsKB-57が初飛行します。
この後席撤去単座化で漸く性能は要求値を上回るようになりますが、防御能力についての不安は解消された訳ではありません。
一応、空軍は戦闘機を護衛に付けることで対処しようとしますが、彼はその論を信じず、更に性能向上を行なって、複座化を
成功させようとしていました。

兎にも角にも、この機体は、1940年末からTsKB-55としてGAZ-18での製造が開始され、またLeningradでも製造が行なわれます。
そして、1941年4月からIl-2と改称され、生産が続いていきます。
320眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/07 22:29 ID:???
今日も休日が暮れゆく(鬱氏。
321名無し三等兵:03/12/07 22:32 ID:???
    ∧_∧
   ( ・∀・) <また〜り
   ( つ旦)
   と__)__)
   ⊂===⊃
322眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/09 00:09 ID:???
ちょとぼみょうなので保守。
323眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/13 22:34 ID:???
Il-2は、最初GAZ-18で生産が開始され、次いで2つの工場が追加され、GAZ-22/30/38/39で順次生産が行なわれています。
GAZ-18での生産量は2つの工場からの部品供給を受けた状況で、1941年3月に2機、4月に24機、5月に74機、6月に159機と上がっていき、8月には
300機以上が生産され、部隊にR-Zの後継機として配備されています。

しかし、独ソ戦が勃発すると案の定、弱点である後上方からの攻撃で多大な損害を出すようになり、その対応策として、エンジンをAM-38Fに換装する
作業が行なわれました。
1942年8月に作業は行なわれ、その性能向上分を利用して後部銃手席が復活し、各部改良型がIl-2Mとして生産が開始され、更にTiger戦車への対抗
策として戦闘力を向上し、各部の空力的改修を実施したM3が生産されました。

これらIl-2の派生型として試作されたのが、Il-21IBで、後にIl-1(II)と改称されました。
「1」という奇数番号から連想されるように、Il-2のコンポーネントの67%を用いた戦闘機として開発されたものです。
機体は短縮されたもののIl-2に酷似し、装甲はより分厚く、キャノピーはFw-190のそれに似ており、プロペラはSukhoi Su-7(I)と同じものを用いて
いました。
1944年3月19日に初飛行したものの、流石に鈍重で不採用となりました。
324眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/13 22:36 ID:???
Il-2の後継機としては、Il-8、Il-10、Il-16の三種が試作されました。
Il-8はその中でも一番改造点が少なく、Il-1のプロペラと冷却機構の改造、武装の改修だけのお手軽な設計でした。
1944年4月に初飛行しましたが、Il-10の方が性能が良く、こちらは不採用となりました。
もう一つの競作機、Il-16は、エンジンを2200馬力級のAM-43に換装し、各部を強化、Il-10に似た胴体に、主翼はそれ
より小さく、それが構造的な弱点になりました。
Il-16は、3機が試作され、1945年8月に試験が始まりますが、これもIl-10より優秀ではなく、エンジンの震動が問題と
なって、AM-42に換装されてしまいました。
結局この機体は、53機が生産されただけで終わっています。

Il-10は、Il-1の機体構造を複座化したもので、Il-8で試験した装甲を採用し、AM-42を装備したものです。
脚構造はIl-2/8系から進化し、捻って引込む方式に変わり、武装も強化されています。
1944年4月にこの機体は初飛行し、直ちに生産が開始され、後には各国にも供給され、AviaではLicense生産が
行なわれました。
1951年にIl-10Mと言う最終発展型が少数生産されました。
これは主翼断面形を変更したもので、より空力的に進化したものでしたが、これは更に発展し、Il-20に至ってい
ます。
また、Il-10には少なくとも1機、Glushko加速装置(ロケット)を取り付けた機体がありました。
325眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/15 23:10 ID:???
次回はIlyushinの輸送機について若干。
326名無し三等兵:03/12/21 09:29 ID:???
hosyu
327  :03/12/21 17:13 ID:???
 
328眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/21 22:48 ID:???
1943年、ソ連に不足しているもので、Li-2に換えて輸送任務をこなすことが出来るソ連純国産の輸送機の開発が、Kremlinから各設計局に指示されました。
Ilyushin設計局にとって、Il-2とその後継機の試作で、輸送機の優先度は必ずしも高くなかったのですが、相当数の人数が新型輸送機の開発に投入されました。
競争試作で行なわれたそれには、Bartini T-117、Yermolayev Yer-2-ONが参加していました。

最初の基本計画では、IlyushinもYermolayevと同じく、Il-6で試したDiesel engine装備で行く予定でしたが、途中で方針を変更し、空冷星形エンジンAsh-82FNを
搭載した双発機となりました。
しかし、その胴体構造はほぼLi-2と同じで、それを三車輪式にした形でしたし、このほかの部分も米国の技術を模倣した部分が多かったようです。
また、エンジンこそ国産、エンジンの取付方式はTu-2を元にしたものでしたが、4枚BladeのプロペラのAV-9E-91は、Hamiltonのコピーだったりします。

Il-12と名付けられた機体は、1946年1月9日に初飛行し、1947年8月にはAeroflotにて使用が開始されますが、使用して間もなく、西側の同級機(CV-240)に比べ、
乗客収容数で30名も劣っていることが判明し、1949年までの1500機で生産は中止されました。
これには、砲塔装備、グライダー曳航設備付きの軍用機Versionもありました。
329眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/21 22:49 ID:???
このIl-12は不経済ではありましたが、また大いなる可能性も秘めていました。
そこで、胴体と降着装置を、Il-12のそれを基にして、空力的に洗練し、根本的に改造したのが、Il-14です。
エンジンは軍用機VersionそのままのASh-82FNから、輸送機専用にチューニングされたASh-82Tに換装され、
プロペラもAV-50に変更され、翼形も変更されました。
防氷装置、エンジン排気部分は、Convair CV-240のものをそのままコピーしたりしています。

18名の乗客を搭載可能なIl-14Pは1950年9月20日に初飛行し、後のIl-14Mでは1m胴体を延長し、配置を見直
した結果、乗客を32名搭載可能としました。
この機体はソ連の航空機の中で多くが輸出に回された最初の機体で、1955年にはCzechのAviaとDDRのVEB
で生産準備が進められ、Aviaで200機、VEBで80機が製造されました。
また軍用機としても用いられ、その中には1976年に至ってからも、東ドイツ内のソ連空軍で、ECM/ELINT任務
に改造されたものもあります。

Li-2に次いでIlushinが開発したのが、西側のB.377に対する成層圏飛行用大型輸送機の分野でした。
最初、SPD後に、Il-18と名付けられた機体は、Tupolev Tu-70と同じくAsh-73を用いて、過給器、与圧部もTu-70
と極めて似通っており、尾部はIl-12のスケールアップで、機首はBoeing B.377を強烈に意識したものでした。
実際、Tu-70自体が、Tu-4の民間機Versionだったので、B.377とは又従兄弟くらいの関係にあります。

1947年7月30日に初号機は初飛行し、優秀な性能を見せますが、当局が選択したのは、Tupolevの設計である
より大きなTu-70/75であり、Il-18(初代)は不採用となりました。
しかし、この機体は近年まで地上整備士養成用の機材として使用されていたようです。
なお、後のターボプロップ4発輸送機のIl-18とは違う機体です。

次回は戦後派シュトルモビクとジェット爆撃機について触れてみましょう。
330眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/25 00:46 ID:???
Douglass ADと同級の機体で、Il-10Mのスケールアップとして試作されたのが、
Il-20です。
液冷のV12エンジンで最大級の馬力を持つM-47F単発の機体は、コクピットの
位置をエンジンの真上に置き、6〜9mmの装甲板で覆われていました。

このため、窓は極力小さくなっており、後方視界はイマイチでしたが、上方視界
はそれなりに広かったようです。
Il-10等より大きな三座機で、後方には電動23mm連装砲塔二基を操作する無線士
兼銃手、胴体内には後方の銃手兼爆撃手が配置され、爆弾倉には100kg爆弾4発
が収納できました。

この機体は1948年に1機だけ製作され、その形態からGorbun(せむし)と言う渾名が
付きました。
しかし、未開発のエンジンを積んだ飛行試験の結果は散々で、Il-10を上回る所はなく、
開発は中止されてしまいました。
331眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/26 22:42 ID:???
Il-22は、既成の空力概念で作られた機体構造に、ジェットエンジンを搭載した軽爆撃機です。
このエンジンTR-1は、Lyul'ka-KBで設計されたもので、Il-22はこれを4基搭載していました。

設計は1945年夏から開始され、機体構成と機構の細部は、ドイツの技術、特にArado Ar-234Cと、Heinkel He-343を参考に
していました。
肩翼式の直線翼は長めの薄板圧延鋼板で作られ、後にそれにはインテグラルタンクが取り付けられました。
しかし、燃料は試作機で11,250l、大型の通信装置を搭載すると8,560lに減ってしまいました。
エンジンは、主翼から半ば独立した形でポッド式に搭載されましたが、排気流の調整が不十分で、屡々フラップにダメージを
与えていました。

円形の胴体には5名の乗員が乗組み、大戦の結果もたらされた与圧によって、高々度での活動が可能になっていました。
また、後上方と尾部には機関砲塔が搭載されていましたが、尾部砲塔は、Ilyushinが開発したものとされていましたが、Tu-4
と同じ、即ちB-29と同じ形式でした。
そして三車輪式の主脚は、Aradoと同じく胴体に収容されています。

この機体の初飛行は1947.7.24で、8.3には、もう新鋭機としてTushino航空ショーに登場していました。
しかし、この機体は最初からPropagandaとしての機体であり、9.22には離陸滑走距離が長いこと、速度が要求値に満たないこと、
航続距離が短いことを理由として不採用となりました。

なお、この機体の発展型として、1948年までRD-500を2基を一つのポッドにまとめ、主脚をポッド内に引込むように改造した、
Il-24が設計されています。

次回は、Il-28について軽く。
332眠い人 ◆gQikaJHtf2 :03/12/29 01:07 ID:???
とりあえず一週間は保守モードしか出来ません。
ゴメンナサイ。
333名無し三等兵:03/12/29 17:29 ID:???
いえいえ、次回を楽しみにしてますです
334  :03/12/30 22:03 ID:???
では保守がてら来年まで下々の軽い話題などで保守していきましょう。
335  :03/12/31 21:49 ID:???
熱田の生産は愛知じゃなかった方がよかったと思うんだが?
336眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/03 14:39 ID:???
>335
どうなんでしょうねぇ。
確かに愛知時計電機という会社だけに精密機器製造は
可能だったのでしょうが…。
337眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/07 00:37 ID:???
そろそろ保守が必要な悪寒。
338名無し三等兵:04/01/07 16:21 ID:???
同じ水冷エンジンでも川崎の方が会社の規模が大きいからね。
愛知の上というと日立もあるし。
339名無し三等兵:04/01/07 20:09 ID:???
川崎といったら大型水冷エンジンのバイクだろ。




暴走族みたいなヤシらがつかってるバイク作ってるってだけで
嫌悪感があああああああああああああああああああ逝ってヨシ!!!
340  :04/01/07 20:11 ID:???
石川島あたりをエンジン専用メーカとして育てておけば・・・絶対量が足りないんだからさぁ。
341名無し三等兵:04/01/11 11:33 ID:???
これを言ったらおしまいだが、結局は当時の日本の「総合的な国力」の無さが全部悪い、としか
言いようが無い気がする。
342眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/17 20:25 ID:???
さて、やっと落ち着いた所で。

Il-28は、Tupolev、Sukhoiのジェット爆撃機との競争試作でした。
しかし、Il-22で失敗した分、今回のものは堅実に作られており、翼型はIl-22のものを踏襲し、構造は強化されています。
また、防御武装として、Il-22から発達させた尾部銃座を搭載し、強力なRD-45エンジンを採用しました。
乗員区画は与圧され、6〜32mmの装甲で覆われています。
なお、爆撃照準器はB-29のそれを模倣したNordenを用いています。
初飛行は1948.7.8に行なわれ、Tu-73には遅れましたが、Tu-78よりは先に初飛行しました。

そして、種々のテストが行なわれた結果、Stalinは1950年のMay Dayまでに25機の機体を用意する命令を発し、現場を混乱
させます。
何とかこの要求をこなし、9月から部隊配備に付き、以後、基本的に変わることなく3000機が生産され、このうち1500機以上が
WTO加盟国に輸出、中共へは500機以上が輸出されました。
このほか、CzechoslovakiaではB-228の名で少数が、中国では轟炸5の名称で1500機以上が生産されています。
343眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/17 20:50 ID:???
で、話は脇道に逸れて、愛知の話に…。

この会社のエンジン製造はそれなりの歴史を有していて、1931年からエンジンの製造を
行なっています。
最初は、海軍が製造権を購入したLorraineの400馬力水冷V12気筒、450馬力水冷W12気筒
エンジンを全部で400基製造している訳で…。

で、8試として、750馬力水冷V12気筒エンジンを開発しています。
残念ながらこれは開発打ち切りになりましたが。
次いで、九〇式2型空冷星形9気筒300馬力(天風と競争試作)を製造、各国の空冷星形エンジンを
手本にした空冷星形を暫く開発しますが、1935年にArgus As10c空冷倒立エンジンを輸入し、
それに影響された空冷倒立V12エンジンを種々試作します。
更に、1938年からは液冷に手を広げ、DB600G導入前には、自社で液冷W型18気筒のエンジンを
試作しています。

と言う訳で、大手が空冷星形に行ったので、その間隙を縫うべく、液冷エンジンに着目したのでは
ないかと思います。

ちなみに、石川島は研究用として空冷倒立V12エンジン、空冷直列6気筒エンジンを試作し、最後
には空冷H型24気筒という際物を開発していました。
344  :04/01/17 21:42 ID:???
水冷の導入はフランス系からが多いような
345  :04/01/18 13:26 ID:???
中島のヒコーキは使えないのが多い
346名無し三等兵:04/01/22 19:35 ID:???
たしかに主要機は三菱製が多いような。
コンペの勝率もかな?
347名無し三等兵:04/01/22 19:38 ID:???
最強の飛行機メーカーはロッキードマーチンだよ
世界最強と言われるF22ラプター戦闘機を作ってるのはここだよ
348眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/24 23:13 ID:???
さて、Il-28を成功させたIlyushin設計局は、その発展型を次々と開発します。

一つは、民間型のIl-20で、これは前のIl-20とは異なるものです。
この機体は、Il-28をAeroflotの貨物輸送型としたもので、武装を除いただけでした。
1955年から少数機が採用され、SverdlovskやNovosibirskと言った重要都市への郵便輸送や、Pravda、Izvestiyaと言った新聞の
印刷原版輸送に使用されました。

もう一つは、これを4発に拡大した56人乗りジェット旅客機のIl-16でしたが、こちらはTu-104に負けてしまっています。

1950年、その成功したIl-28を拡大して、1000km/hを出す遷音速爆撃機の開発が指示されます。
これは、従来のNeneエンジンに変わる、大出力のLyu'lka AL-5が開発された為で、そのエンジンを搭載した大型の双発
爆撃機となっていました。
胴体はIl-28を拡大したものでしたが、主尾翼は後退翼となり、脚は自転車式となり、燃料系統はB-29を模倣したものを
使用していました。
しかし、自転車式の脚配置に慣れていなかった為、不整地使用で問題が発生し、不採用となりました。

Ilyushinの大型ジェット戦略爆撃機は、このIl-30の系統の他に、単純にIl-28を拡大しただけのIl-46の系統がありました。
これはIl-30よりは小さく、Il-28をそのままスケールアップしてIl-30と同じエンジンを搭載しただけの機体です。
1952年にこの機体は初飛行し、各種のテストを行ないますが、流石に習作の域を出ず、Tupolev設計局Tu-88(後のTu-16)
と比べても秀でたところが無い為、結局1機の試作のみで終わります。
349眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/24 23:14 ID:???
Ilyshin Il-30の最終発展型として製作されたのが、Il-54です。

これは超音速爆撃機として開発されたもので、コンセプト自体はYakovlevOKBのYak-28の競作機とされていましたが、その
前世代の機体で、直接の競作関係にあったのは、TupolevOKBのTu-98であったようです。
超音速を発揮する為、Il-30で30度だった主翼の後退角が、55度に拡大され、Lyu'lkaのAL-7が搭載されました。
前回、問題のあった自転車式は今回も引き継がれましたが、YakovlevOKBの機体の成果を取り入れて、アウトリガー式に
変更し、また、中央部に巨大な爆弾倉を設けた為、爆弾を搭載すると、胴体が撓むという構造上の問題も計算をし直して
解消されました。

1955年に試作機が完成し、初飛行しますが、結局、コンセプト自体が時期尚早と言うことで、Tu-88共々、爆撃機ギャップを
演出するための小道具として使われたに過ぎませんでした。

次回はジェット・シュトルモビクについて…。
350眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/25 00:29 ID:???
>344
最初に水冷式の国産化が企図されたのは、大正5年のこと。
帝国飛行協会がドイツから第一次大戦前に輸入したルンプラー・タウベに搭載されていた
ベンツ直列6気筒100馬力エンジンがの調査から始まりました。

そして、これを基に陸軍砲兵工廠で国産化が行なわれます。
このエンジンは翌年春から東京の砲兵工廠で生産され、陸軍のモ式6型飛行機に搭載されました。
その後、陸軍砲兵工廠から熱田陸軍機器製作所にラインが移動し、生産が継続されますが、
故障続発で信頼性は余り良くなかったようです。

その信頼性の無さは、大正6年11月の近江平野で行なわれた陸軍特別大演習で、所沢から
参加した新造の14機中、空輸途中及び演習中に合計12機が発動機故障その他で不時着、
または墜落したことで人口に膾炙し、モ式6型を民間航空界では「陸軍の馬鹿がらす」と呼んで
いた体たらくでした。

また、海軍は、ベンツF-D水冷直列6気筒130馬力発動機を瓦斯電に製造させています。

次いで、大正7年、川崎造船所の松方幸次郎が飛行機の製造を企図して、サルムソン偵察機に
目を付け、機体と共にサルムソン9Z水冷式星形9気筒230馬力エンジンの製造権を購入しています。
これとは別に、陸軍も発動機の製造権を購入し、陸軍航空部補給部所沢工場で製造を開始しますが、
後に名古屋造兵廠千種製造所に発動機の製造は移管されています。
ちなみに、乙式一型と名付けられた機体は、本来、川崎造船所にしかLicenseeは認められていません
でしたが、陸軍は修理名目で機体の無許可製造を行ない、サルムソン社から特許侵害の抗議が為され
たりしています。
351眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/25 00:35 ID:???
大正8年、三菱内燃機製造は、フランスのイスパノスイザと提携し、海軍と陸軍向けに水冷V型8気筒の200〜300馬力エンジン製造を開始
します。
このエンジンを選択したのは、当時の最新技術が盛り込まれていること、それに馬力当たりの重量が1kgと最も軽かったことが挙げられて
います。
以降、300馬力、400馬力、450馬力、650馬力の各種エンジンをLicense生産しますが、高性能化に伴う構造上の無理が祟って不具合が
続出しています。
これとユンカースのディーゼルを基に、B1エンジンが製造され、これが九三式水冷V型12気筒700馬力エンジンとなりますが、結局は空冷
に移っていった訳です。

中島は大正13年にフランスのロレーヌと提携し、ロレーヌ450馬力水冷V型12気筒エンジンのLicenseを購入して製造を行なおうとしますが、
その前年に海軍がロレーヌ400馬力V型水冷12気筒エンジンのLicenseを購入して、中島に国産化を命じています。
しかし、後にW型12気筒の450馬力エンジンのLicenseを海軍が購入し、400馬力は破棄されました。
この450馬力の生産は、中島、愛知、広工廠に命じています。
中島は、大正15年に水冷W型18気筒の1000馬力エンジンであるNWAを試作しますが、長物鍛造素材は日本で出来ず、英国から購入され、
マグネトーはスイスから調達したもので、ピストンはジュピターからの借り物でした。
その後、海軍の試作要求で、ロールスロイスのケストレルに範を取ったNWB、同じくバザードに範を取ったNWDなども製造していますが、
いずれも量産に至っていません。
なお、広工廠はその後、ロレーヌエンジンを独自に発達させた水冷W型12気筒の九○式、九一式、水冷W型18気筒の九四式の各種発動機
を開発していますが、九一式が何とかモノになった以外は、いずれもトラブルが続発し、それらを装備した機体は結構な期間を試作に取ら
れています。
352眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/01/25 00:41 ID:???
同じく大正13年、川崎航空機はサルムソンに代わってドイツのBMWと提携します。
この時に製造権を得たのが、BMW-6水冷V型12気筒450〜600馬力エンジンで、川崎では昭和2年から製造を開始し、八七式重爆、八八式
偵察、軽爆の各航空機に搭載されます。
その後、九二式戦闘機の試作中に戦闘機用のBMW-7が完成しますが、これは、本国のBMW-7では無く、川崎オリジナルの発展型です。
更に、昭和6年には過給器付きの新型BMW-9がドイツから導入され、九三式単軽爆に搭載されますが、これは稼働率、特に過給機関系の
故障が多く、九三式もエンジン試作用に2機を追加しています。
で、そのBMW水冷発動機の最終形として、BMW-9を基に川崎が開発したのがハ-9ですが、元のエンジンの設計性能以上に無理をしていた
ため、トラブルが絶えず、かくして水冷は廃れた訳です。

ちなみに、太平洋戦争後、中島飛行機から富士精密に移った技術者曰く、
「見本となるエンジンと異なる設計をしたところが、必ずと言っていいほどトラブルの原因になるから、なるべく原型に忠実に作れ」
という指導をしてたりします。
要は戦争とか経済競争で、背伸びをしようとすると必ず痛い目に遭うから、一歩一歩確実に進むのが生残りの要諦だと言うこと
でしょうか…。
まぁ、おおらかな時代言えばおおらかな時代ですが。
353名無し三等兵:04/01/28 19:32 ID:tX3xZ0h4
DB601以前のライセンスの買い方にも問題がありそうだ。
あぁ無駄遣い?
354眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/01 23:55 ID:???
あひゃ、こっちを忘れてた。
355名無し三等兵:04/02/04 20:17 ID:???
ほしゅ
356眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/07 20:52 ID:???
ジェットシュトルモビクに行く前に。

1947年、空挺部隊からの要求で、軽車両と火砲を搭載出来る大型輸送用グライダーを開発します。
これは、Il-32と呼ばれ、同じ仕様で、Yak-14が開発されました。
Il-32は高翼で箱形の胴体を持つグライダーで、全金属製でした。
搭載物は、機首をヒンジで開けて出し入れします。
しかし、消耗品のグライダーに貴重な資源たる金属を使用するので、コストが嵩み、開発は少数生産で中止されます。
また、これを軽輸送機にする試みも為され、Ash-21エンジンを搭載した双発機Il-34が試作されています。

さて、1953年、奇妙な機体が初飛行します。
主要部は装甲され、タンデム複座で、強力な前方機関砲と、防御用の後方機関砲、更に爆弾は爆弾倉に収納する形式。
主翼関係の設計は、Il-30のそれを縮小したもので、尾部銃座はIl-28のそれを流用したものでした。
エンジンはMiG-19と同じMikulinの小直径エンジン、AM-5Fを並列に装備し、空気取入れ口は機首に開口して、そこから長いダクトで
エンジンまで導いています。
前方搭載機関砲はNS-37でこれを4門、爆弾は1500kgを爆弾倉に装備していました。
この機体は今までの装甲地上攻撃機に比べ素晴らしい性能を示しますが、朝鮮戦争などの戦訓を分析した結果、敵の戦闘機に対しては
勝るところはなく、護衛無しでは行動出来ないことが明らかとなるにつれて、空軍の関心は無くなります。

次回はIlyshinの大型輸送機群について。
357眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/11 14:19 ID:???
1953年、Aeroflotの要求により、75名乗りの輸送機をIlyushinOKBは手がけることになります。
この時、ピストンエンジンは既に選択肢に入らず、エンジンはKuznetsovとKlimovの競作となり、KuznetsovのNK-4とKlimovのVK-2の
両ターボプロップが検討され、最終的に、二代目Il-18のエンジンにはKuznetsovのNK-4が選択されました。

この機体はかなり堅実な設計となり、西側のフェイル・セーフの原則も取り入れられ、150以上の二重機構が設けられ、その重量は
270kgに及びました。
また与圧も採用され、高空での飛行に支障を来さないようにしており、先端部には気象レーダーEmblemaが装備されています。

Moskva(Moscow)と名付けられたPrototypeのL-5811は、NK-4エンジンを搭載し、1957.7.4に初飛行を行ないました。
その後、NK-4をIvchyenkoが改造したAI-20Kに換装し、各部を改造したIl-18Bが1959.4.20から生産され、1961年に出現したIl-18Vでは
客室部のレイアウトが見直されて、75名が80〜100名乗りになりました。
1964年にはAI-20Mエンジンに換装し、胴体を延長して122名乗りにしたIl-181が出現し、翌年には航続距離を延長するための燃料タンク
を増設した改良型のIl-18Dとなりました。

量産はGAZ-30で進められ、1970年頃までに凡そ800機が生産され、うち130機が輸出に回されましたが、うち4分の1は軍用に使用
されており、その中にはAeroflotで使用された中古の初期型が含まれています。
輸出は130機ですが、西側の基準では安全とは言えない機体である為、しばしば重大事故を起こしています。
けれども、Aeroflotでは25百万人を運び、14百万時間以上の飛行をしています。

1974年からはGAZ-402に於いて、相当数がVanguardの様な貨物輸送機に改造され、1978年には旧Aeroflot、軍用輸送機から改造
された電子偵察機型が出現しています。
これは、SLARを搭載した10.25mのカヌー型レドームを胴体下部に、胴体両側面の4.4mのフェアリングにIRLSを搭載したもので、更に
胴体上下の4つの大きなブレードアンテナに各種センサーを搭載し、衛星、艦艇などとデータリンクを構築し、情報を中継していると
言われています。
358眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/11 14:41 ID:???
Il-18から派生した対潜哨戒機がIl-38で、この機体は1967年に開発されたと言われています。
この機体は主尾翼、尾部、エンジン、降着装置をIl-18から流用し、胴体の直径は同じ、レドームも同じでものを用いています。

但し、胴体前部は輸送機型より短く、後部はMADブームを搭載した関係で、輸送機型よりも8m長くなっています。
この胴体延長により、重心が変わってしまう為、これ以上の内部容積拡張の要求に沿えなくなっています。
またデリケートな電子機器搭載のお陰で、与圧が行なわれたため、ウェポンベイは翼桁前方の狭い場所に押し込められました。
その前方には、Ka-25対潜ヘリと同型のレドームが設けられました(但し、レーダーはそれとは違うものです。)。
主翼後方にも同じように狭いウェポンベイがあり、ソノブイ格納用になっています。

機体に余裕がなかった所為か、現在ではこの機体の運用は、Tu-95に引き継がれており、Il-38は100機以下しか作られません
でした。
また、インドには6機が輸出され、海軍の第315スコードロンで使用されていました。
359名無し三等兵:04/02/12 20:30 ID:???
ASU-57とか持ってるんだから
自分が知らないだけでハミルカーみたいな輸送グライダーも
持ってるんだとばっかり思ってたのにどれも少量しか生産されてなかたのね。
360眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/15 22:59 ID:???
さて、Ilyushinを抜けるまであと少し。

ソ連最初の大陸間横断大型旅客機のIl-62は、1963年1月に、試作機No.06156が初飛行しました。
この時のエンジンは、Su-7などに搭載されていた、Lyul'ka AL-7が搭載されていました。
後に、初期型の別の機体には、Mikulin AM-3Mも用いられています。
2機の試作機と、3機の前量産型には、AL-7を搭載し、幾つかの改造を経た後、最終的には、KuznetsovのNK-8-4ターボファンを
搭載することに落ち着き、1967年3月10日から就航しました。
これらの機体は、Kazanにて製造され、東側各国へも輸出され、要人輸送機となったものもありました。
また発達型として、乗客数増加型のIl-62M、近代化型のIl-62MKなどが製造されました。

Il-76は、1960年代半ばから、空軍とAeroflotのAn-12の後継機として設計が始まりました。
この機体から、Ilyushin自身の関与はなくなり、設計局独自に作業が始まります。
基本要求性能は、40tの貨物の搭載量があり、その状態で5000kmを6時間で飛行し、不整地滑走路から
の離着陸が可能な機体と言うことでした。
このため、高翼ターボファン四発というレイアウトが採用されています。
また、前部には航法士席が、後部には砲塔が取り付けられました。

試作機No.86712は、1971年3月25日に初飛行し、5機の前量産型が製造されました。
このうち、1機の民間型にも砲塔が取り付けられていました。
1974年からソ連空軍で使用が開始され、75年にはGAZ-30で改造型Il-76Tが生産を
開始しています。
また、各国に輸出され、Il-78空中給油機、A-50早期警戒管制機のベースともなって
います。

これ以後、Il-86、Il-96、Il-102、Il-106、Il-114などの機体を製造、試作していますが、
割愛します。
次回は、あやしいHelicopterについて。
361眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/19 00:39 ID:???
ソ連には各国からの亡命技術者がいたのですが、Vittorio Isaccoもその一人。
彼は、1932〜36年に掛けて、ソ連でHelicopterの研究をしていました。
しかし、粛清の波は彼にも及び、1936年、彼は逮捕され、GAZ-39内にあった特別設計局に
配属され、間もなく彼の消息は途絶えてしまいました。

彼が世に残した唯一の機体は、I-4あるいはIsacco-4またはGyelikogyrと呼ばれていたもので、
胴体は鋼管羽布張りで、舵面と尾部は軽合金で出来ていました。
中央部のキャビンには5名の乗客とパイロットが乗組み、胴体前方に推進用エンジンを搭載し、
上向きに4枚羽根の小直径ローターを持つGipsyIIIエンジンを4基取付け、離昇に必要な揚力を
得るという複雑怪奇な機構のものでした。

この機体は1932年から組立てが始まり、TsAGIの試作部門のB.N.Yuryev教授との共同研究で
1935年までに完成しました。
しかし、地上テストをしてみると、ブレードの端からの排気が原因で、フラッタが発生し、結局浮上
すら出来ず、開発は中止。
このため、彼はSabotageの罪に問われて逮捕と言う結果になり、消えていったのです。

次回はソ連のJunkersについてちょこっと。
362  :04/02/19 06:50 ID:???
応援上げ
363名無し三等兵:04/02/19 09:05 ID:ahIUHH0k
今日の日経の一面は
本田・米テレダイン(TCM)とプロペラエンジンを合弁生産
生産するエンジンは水平対向の4気筒 排気量は4〜9千ccを想定いる
小型ジェットエンジンもGEと共同で事業化予定
ホンダもいよいよ航空業界に参入してきたね☆

364名無し三等兵:04/02/19 10:53 ID:ij10pPdE
ホンダ製の飛行機欲しい!
365名無し三等兵:04/02/19 10:56 ID:???
 … 強度が心配だぞ>ホンダ製飛行機
366名無し三等兵:04/02/19 10:59 ID:???
>>364
どうぞホンダジェットお買い求めください。エンジンまで全ホンダ製
h ttp://www.honda.co.jp/HDTV/tech/pr-HondaJet/
367眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/21 22:14 ID:???
ソ連とドイツは、一時期蜜月だったことがあって…。
1923〜27年にかけて、ソ連のFiliにスウェーデンのJunkersのダミー会社、AB Flygindustriの
設計部門がありました。

試作工場は後にソ連に引き渡されましたが、一部の機体はソ連で製造されています。

最初はA20のMercedesの代わりにBMWを搭載した、同型機Ju-20を開発します。
Filiでは全て軍用として、海軍の黒海とバルチック艦隊向けに双フロート型が20機製作され、
1930年まで使われた後、白海艦隊に引き渡されました。
また、20機が陸上型として製造され、赤軍で北極飛行に使用されました。

次いで製作したのが、H21と同型のJu-21で1922年以来、偵察爆撃機として使用されています。
1925年まで、100機が製造され、ソビエト成立初期のTurkestanでの叛乱鎮圧に使用されました。
このJu-21を単座化した戦闘機が、Ju-22(H22)で、より重量は軽くなっています。
但し、この機体は、3機の製造のみに終わりました。

このほか、W.13はJu-13として少数機が、W.33はPS-4としてJunkers L-5エンジン搭載型が70機
製造され、後者は1941年までシベリアや極地で用いられました。

最後にソ連のJunkersが設計したのが、Junkersの呼称がK30C、赤軍呼称R-42と呼ばれた、三発
機G.24の軍用爆撃機Versionで、30機〜80機がスウェーデンとソ連で製造されています。
これに加えて、少数の双フロート付のものが作られ、これらはR-42MとR-42Tという型があり、前者は
偵察・哨戒型、後者は雷撃機型でした。
これらの機体は、国産機が出そろうまで、良くその重責を果たし、また、極北探検、シベリアの河川
航路開拓などに活躍しました。
368眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/25 23:44 ID:???
てな訳で、次回は、巨人機大好きKalininについて書いてみたり。
そん次は、二重反転ローターヘリの大家、と。
369眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/02/29 23:12 ID:???
Konstantin Alekseyevich Kalininは、第一次大戦中、陸軍に入り、パイロットの訓練を受けました。
彼は、1916年から対独戦線で戦闘を行なっています。
革命後、赤軍に入隊し、そのまま内戦を戦い抜き、パイロットと工場技師の立場にありました。
1923年、彼はKievのRemvosdukhozavod 6(第6航空機修理工場)の工場長に就任し、ここで、豊富で航空機に適した森林資源と、
Voisin複葉機用の大規模な鋼管工場を運営します。
1925年から、彼は航空機の設計を始め、Kharkovに設置されたGROSS(民間機試験工房)で最初に知られたソ連の設計技師の
一人となり、その功績で、Kharkov航空機研究所の卒業生を抜擢して、設計局を設立しました。
その中には、後に自分の名を冠した航空機を製造した、I.G.Nyeman、Z.I.Itskovich、A.Ya.Shchyerbakov、V.Ya.Krylovが含まれていました。

彼の設計した航空機は、楕円形で構成された高翼の鋼管羽布張り木製主翼の民間用輸送機で、その後2種類の巨人爆撃機を製作しましたが、
3番目のものは完成しませんでした。
最後の機体は、Ilyushin DB-3の対抗馬として開発されていたK-13で、1938年春、彼は政府転覆の陰謀を凝らした容疑ととスパイ罪によって
逮捕され、処刑されてしまいました。
この時に多くの航空機設計者が拘禁されましたが、OKBの主任設計者で死刑を執行されたのは彼だけでした。
370眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/03/02 23:58 ID:???
う〜ん、時間が欲しい。
371  :04/03/03 21:14 ID:???
欲しいですねー
372眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/03/08 22:35 ID:???
さて、Kalininの機体は、前述のように、胴体側面形、翼上面形が共に楕円形で構成されています。
最初の機体は、1920年代半ばに開発されました、
この時に用いられたのが、帝政時代、Voisin複葉機で用いられていたSalmsonエンジンでした。
尤も、後にエンジンはBMW-IVに換装されていますが。

その機体、K-1はソ連で最も経済的な機体であり、ソ連最初の鋼管構造の胴体を採用した機体でもありました。
この機体の成功によって、彼はKharkovに自身のOKBを設立することが出来ました。

次いで開発したのが、K-1を全金属製化し、BMWエンジンを搭載した発展型のK-2で、この機体はUkraine政府の支援で
開発され、Ukraine航空で生産されました。
しかし、試作機の性能は良かったのですが、Ukraineで製造された機体は、工場の従業員が不慣れで、金属の加工が
上手くいかず、結果的に重量過大となってしまいました。
これを教訓に彼は先端技術を追うのを止め、簡便で安価な構造の機体を開発するようになります。

K-2から発展したのが、K-3で、こちらは患者輸送機として製造された型です。
この機体を要求したのは、「ソ連の航空救急の父」と呼ばれているチェコ生まれのロシア人、A.F.Linhart博士です。
機内を改造して、専用に開発されたストレッチャーを2基または座れる患者を4名と医者を1名乗せることが出来ました。

1928年、Kalininは、Ukraine航空向けにDornierが設計した基本設計を元に、一つの機体で輸送機、病院機、写真測量機
に転換出来る多用途機を開発します。
この機体は22機が生産され、測量機としてはUkraine政府、Ukraine航空が採用し、そのほかの機体も全て売却されました。
また、1928年8月には「Ukraineの心」という愛称の機体が記録を作っています。

そのK-5を発展させたK-6以降は次回。
373  :04/03/14 10:38 ID:???
保守
374名無し三等兵:04/03/14 10:39 ID:BA95TaAH
大阪民国(テハンミングク)Republic of Osaka【国名】    <略称: 東朝鮮>

 日本列島にある朝鮮民族国家。人口883万人。面積1893.54ku。国土の大半は
平野で占められている。政治体制は大統領制。前ノック大統領が女子学生に対する
猥褻行為で辞職後、大田房江が大統領に就任(現在二選目)。
朝鮮由来の独特の文化様式をもち、祝い事があると下水の流れ込むドブ川に飛び込み、死者を出すこともある。
交通事情も日本と大きく異なっており、信号の青は「進め」黄色は「進め」赤は「進め」である。
更に、4車線道路で3重駐車するなどマナー、順法精神が皆無である。
治安の悪さもアジアでワースト1位2位を韓国(本国)と争うほど悪く、
朝鮮系ヤクザの総本部があり、一年中殺人やヤクザの抗争が絶えない。

 大阪民国人は一般に阪国人(ハンゴク人)または阪人(ハン人)と呼称する。
アクの強い阪国語(ハン国語、例「〜やで」「ちゃいまんがな」等)を話し、第二言語としてハングル語を使う。
民族の仇敵である日本国と、日本の首都東京に強烈なコンプレックスと敵意を
抱いており、一方で同胞の朝鮮総連、韓国民団には強烈なほど好意的。
大阪民国の経済は近年悪化しており、失業率は日本で最悪の沖縄県に次ぐ7.7%と高水準。
また大企業が本社機能を日本国内(主に東京)に移す傾向がある。
阪国人の経済観念は「金に汚い」の一言で表すことが出来る。
決して人には奢ったりせず、「ワリカンやで」「奢ってくれ」「安ぅならんか?」などが口癖。
注意したいのは、阪国人は節約家なのではなく、ただ単に意地汚いだけという事である。
朝鮮企業のプロ野球球団「ロッテ」を応援せずに、阪神タイガーズを狂信する事が
東朝鮮今世紀最大の謎である。
375眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/03/14 13:42 ID:???
K-5から発展したのがK-6です。
これは軽貨物とか荷物、例えば、郵便、MoscowのPravda原版などを運搬する専用機で、機体・エンジンはK-5を元にしていますが、
主翼は、高翼単葉の中央翼を小さくし、胴体は二人の乗員と貨物室が入るギリギリの幅のもので、高速を狙っていました。

さて、今まで小型輸送機のみ製作していたKalininが新しく取り組んだのが、所謂「巨人機」です。
これは1939年以前では、真の「空の要塞」と言っても過言ではありません。
可能限り全翼式に近い、巨大な楕円翼を持ち、その翼の中に120名が乗れるキャビンを設け、お陰で中央燃料タンクの装備箇所が無く
なってしまいました。
Kalininの機体は、Junkers G.38よりも大きく(ちなみにG.38は翼内に34名乗りの6つのキャビンを有していました)、世界一であることを
確信していました。
エンジンは水冷エンジンを牽引式に6発、推進式に1発装備し、主翼からは大きな二本のテイル・ブームを出して、垂直、水平尾翼を
支えています。
先にも書いたように、旅客機としては120名の乗客、貨物機としては7tの貨物を運べることになっていました。

この巨大な機体は鋼管で骨組みが組まれました。
これにジュラルミンで覆った訳です。

胴体下部には巨大な全金属製のゴンドラを設け、ここに降着装置、軍用にした場合の機関銃塔、爆弾倉、入口を
収納しています。
降着装置はそれぞれのゴンドラにタンデムで配置され、空気圧によるブレーキが設けられていました。
ゴンドラには前後部に階段があり、そこから翼内を通って各エンジンに行くことが出来、其処から飛行中にエンジン
の整備点検をすることが出来ました。
燃料タンクは9,000リットル程度の容量の金属製タンクを外翼に装備しています。

最小の乗組員数は11名、操縦士が2名、航法士兼爆撃手が1名、無線手兼機首部の20mm砲担当が1名、機関士
1名、機首部に設けられた二カ所の銃座に設置された7.62mm連装機関銃手が2名ずつ、胴体下部に設けられた
ゴンドラに20mm機関砲の銃手が1名ずつ、更に、双胴テイル・ブームの後端に20mm機関砲の銃手がそれぞれ1名
配置され、これらはインターカムで結ばれていました。
爆撃機としては、爆弾を標準14.6トン、最大で19トン搭載可能で、ゴンドラ中央部の爆弾倉にそれぞれ格納されて
いました。
376眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/03/14 13:43 ID:???

K-7は、1933年夏にKharkovで完成し、6月29日に最初のエンジンテストを行ないます。
すぐに、エンジンからの振動問題が発覚し、特にエンジンの回転数を上げると、テイル・ブームの尾部でそれが
顕著に出ました。
これはこの部分の構造の強化で解決し、8月9日にタキシングテスト、11日に軍用装備無しの初飛行を行ない
ました。
しかし、パイロットはエンジンの強化とプロペラの大直径化(この機体のプロペラは2枚でした)を要求します。

なおも工場でテストが繰り広げられますが、9回目の1933年11月21日、高度100mでの速度試験の最中、
突然右のテイル・ブームが震動して破壊し、機体は墜落、炎上して13名の乗員と1名の旅客が死亡しました
幸い5名は生き残りました。

これが、Kalininに暗い影を投げかけます。
1933年末、Yoronezhの新しいGAZから来た、P.I.Baranovの下で、構造、材質を換えた数種のテイル・ブームが
検討され、新たに2機のK-7が製作され始めますが、競争がないにも関わらず、製作は遅々として進まず、
KalininOKBがその機能を停止した1935年まで、最初の機体が60%製作されていただけでした。

次は練習機K-9、K-10について。
377眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/03/21 22:25 ID:???
K-9はK-7開発中の余技として、KalininOKBが設計・製作したもので、タンデム複座、単発、パラソル翼の
簡便な機体で、練習、連絡、スポーツ用途の機体としていました。
この機体は1932年に試作されましたが、搭載した60馬力のエンジンはアンダーパワーで、後にM-11に換装
されました。

結局、K-7の開発に全力を投じる為、この機体の開発は中止されました。

K-9を低翼単葉にして、M-11を搭載した初等練習機コンテストに参加したのが、K-10です。
機体はK-9で検討された後部胴体を折り畳む方式を採用し、主翼や舵面もその局面に応じ、種々付け替え
られるようになっていました。
コクピットは複座ですが、独立式で離れていました。

この様な複雑な機構、Radicalな設計、連絡の悪いコクピットが敬遠されて、結局、練習機としては正式採用
されず(勝者はYakovlev AIR-9)、その延長線上で計画された農業機コンテストに胴体下部に農薬噴霧用タ
ンクを取り付けて参加しましたが、これにも採用されず、結局この二機種は不採用となりました。

次回は、ソ連製の数あるゲテモノ機の一つ、K-11シリーズについて。
378  :04/03/23 21:49 ID:???
ほしゅですよ
379眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/03/28 23:34 ID:???
K-7で全翼機に開眼したKalininは、その構想を進めるべく、一つの機体を試作します。
これが、ゲテモノ機の始まりで、1934年に無尾翼グライダーK-11は、100回以上の飛行を行い、満足すべき結果を残しました。
そして次のステップとして、無尾翼高速爆撃機K-12を開発します。

この機体は究極の爆撃機を目指したもので、当初は完璧な空力的な形状の翼内に乗員その他の装備を入れ、可能ならばロケット
推進で飛行すると言うものでしたが、流石にこの案は大胆すぎ、約半分の大きさに縮めた試作爆撃機を製作することになりました。

そのため、乗員を入れるスペースは翼内に作れず、3名の乗員は短い胴体に収容されることになりました。
その胴体だけが突出し、残りの部分は直線翼とされ、翼端に垂直安定板と操舵翼が付きました。
構造は鋼製で、鋼板が表面に貼られています。
胴体は三分割出来、それぞれ翼とはボルトで止められています。
胴体の前後部にはそれぞれ球形銃座があり、爆弾倉には500kgの爆弾が収容されました。
爆弾搭載量が大きくなった為、燃料タンクのスペースは少なく、700リットルしか収容出来ません。

1936年12月に初飛行をし、その後長く試験、評価が続けられますが、K-11よりも安定性は悪く、
操縦性も悪くなりました。
低速に於ける方向舵の効きに至っては、全く、あるいはちょっとだけしか効かず、高速ではそれが
より悪化し、延長された試験期間でも低調な結果しかもたらしませんでした。
更に悪いことに、高性能を謳っていたにも関わらず、同じエンジンを持つ、保守的な構造の機体よりも
性能が劣っていた訳で、結局、無尾翼爆撃機構想はあぼーんされました。

残った機体は、VS-2(Vystablyat Samolet、即ち、宣伝機2号)となり、赤地に黄色の羽根模様を付けた
塗装で、その名もZhar Ptitsa(不死鳥)と名付けられて、1937年8月のTushinoに出品されて終わりました。
380眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/03/28 23:35 ID:???
彼はその後も夢を追い続け、K-13とK-14と言う二種類の全翼爆撃機を設計します。
K-13は中間的に作られる保守的構造の爆撃機で、鋼管構造となり、尾翼は双尾翼で尾部球形銃座を有し、
ガラス張りの機首と翼上に防御銃座を持ち、急降下爆撃も可能な機体でした。
1936年に作業着手後すぐに、彼が逮捕された為、彼のOKBは消滅しましたので、この機体も消えました。

てな訳で、次回は、我が道を行くKamovに行きませう。
381眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/03 22:58 ID:???
Nikolai Ilyich Kamovは、シベリアで生まれました。
1926年、鉄道技師(蒸気機関車の)として、Tomsk工業大学を卒業しますが、2年後にはOMOS(水上機試作工場)に
加わり、Grigorovichの下で、ROM-1の開発に操縦士の資格で参加します。

1929年、彼は別の技術者、Nikolai Kirillovich Skrzhinskiiと組んで、ソ連初のAutogyro、KaSkr-1 "Krasnii Inzhyener"
(赤い技術者)を製作します。
この機体は、Cierva C.8 Mk.IIIを下敷きに、C.8はAvro 504の胴体を用いていたのと同様に、彼等はソ連の同型機、
U-1の胴体、降着装置、舵面を流用して、但し回転翼関係と小翼は独自の工夫を凝らしています。
KaSkr-1は1929年9月1日に最初の地上テストを行いますが、回転翼関係とその駆動系統に重大な問題が生じ、
操縦翼は大きなものに換えられ、エンジンとプロペラのトルクに関しては、小翼端に8kgの錘を入れることで
解決させました。
しかし、残念ながらこの機体は、主にエンジンの馬力不足で飛行することが出来ませんでした。

それでも彼等はめげずに、新たな機体、KaSkr-2を製作します。
前作が、馬力不足であったことから、前作の機体を基に、エンジンの馬力は倍以上の225馬力となり、胴体
前後部は軽合金製となりました。
また、方向舵はよりよい形に改善されました。
こうした変更の結果、1930年にこの機体は見事に初飛行に成功し、1930年から31年にかけての冬にはスキー
を取り付けて、冬期装備の運用テストをこなし、1931年末までには、90回以上も安定した飛行を行いました。

こうした実績は、ソ連のAutogyro開発の最先端となるもので、その実績が買われて1931年にはTsAGIの一部門、
OOKに加わり、その後、TsAGIでは、彼を中心に回転翼機部門である第三部で、TsAGIのAutogyroである、A-7
開発の指揮を執っています。
1940年には、A-7/A-7bis開発・生産の為、Smolenskに移動し、そこで戦時中を過ごしました。
382  :04/04/04 16:15 ID:???
ほしゆ
383只野空曹:04/04/11 13:25 ID:???
100年前であれば,航空先進国だった
 フランスとUSAはいつになるのですか?
 春秋戦国時代のように烏合離散の激しかったフランスも
 エアバスのおかげで落ち着いてきたのでは?
 エンジン・メーカーは結局Snecmaに収束してしまったし,
 ルノーも民営化されてるし.....
 名前だけあげると,
  サルムソン,ロレーヌ・ディエトリック,ルノー,ブロク,
  イスパノスイザ,アントワネット,アンザーニ,クレルジェ,
  グノーム・エ・ローヌ
  など,
 日本では,アンリ・ファルマンを導入してしばらくはフランス派だったのに
384眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/11 21:35 ID:???
>383
残念ながら、米国は既に簡単な入門書が出ているので、取り上げるつもりは無いのです。
KOEIから、「アメリカ軍用機メーカー」と言う本があって、これが簡単ながらも、米国の軍用機メーカーの
略史をきちんとフォローしているので、此処で取り上げるのは二番煎じになりやす。

で、本来は、英国編終わったら、仏編をやろうと思ってたのですが、「な」の字がデムパを飛ばしていたので、
何となくソ連編をやってしまった訳で…。
仏編逝くまでにこのスレが容量オーバーになる可能性が大でつわ。
待てば海路の日和あり、何時かは仏編もやりますから、気長に待っていて下さい。

さて、戦後、Kamovは、Autogyroに決別し、Helicopter開発に手を染めます。
最初に手を付けたのがKa-8で、これは、Vozdushnii Mototsikl(空飛ぶバイク)と
呼ばれた、軍民両用のワンマン・ヘリでした。
三枚の主ローターは、蝦夷松で作られ、羽布で覆われていました。
操縦系統は金属製のロッドを組み合わせた物で、エアフレームは鋼管の組み合
わせでした。
エンジンはリアに搭載され、燃料タンクは胴体前部に搭載されています。
また、降着装置は、梯子構造の橇でした。

この開発は非公式に行われ、当初、K-17と言う名称で開発されていました。
1947年、機体は初飛行に成功しますが、搭載エンジンのバイク用BMWエンジン
(R75に搭載されていたものと同型)は、後に倍の出力を出す、R-76に換装され
ました。

これらの機体は各種改良(バーハンドルを、操縦スティックに換えるなど)を施され、
3機が製作された後、1948年のTushino航空ショーに出場しました。
385眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/11 21:50 ID:???
この成功した習作、Ka-8を発展させたのが、Ka-10です。
ちなみに、この機体にも既に、Kamov独自の二重反転ローター機構が組み込まれて
いました。

Ka-8の成功により、1948年に彼は、自身のOKBを設立します。
これも、胴体は鋼管構造で、操縦者は剥きだしだったのですが、エンジンはバイク用
ではなく、Ivchyenkoが専用に開発したAI-4Vで、ローターへの動力伝達率が格段に
向上しました。
また、エンジン始動時に電気式プラグを取り付けた為、始動も楽になり、バイクの自然
冷却機構から、ファンによる強制空冷機構も組み込まれました。

1949年に機体は初飛行し、4機が製作され、うち3機が海軍に買い取られました。
海軍では、主に実験に使用され、これを元に、操縦系統の見直しと、双尾翼の取付を
行い、発展型のKa-10Mとなって、8〜12機が製作されました。

生産された機体は、捕鯨船の魚群監視や、砕氷船に搭載されて氷山監視に、更に沿岸
警備にと各方面に利用されましたが、機体の性能的に限界が近付いていた為、後継機
の開発が開始されました。

これが、Ka-15に繋がっていきます。
と言う訳で、双ローター式Kamovの話はまだまだ続く。
386  :04/04/17 05:50 ID:???
387眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/19 22:52 ID:???
気のせいか、またDAT落ちしたような。
とりあえず、21日過ぎまで何も出来ぬ也。
388眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/23 23:41 ID:???
お馬鹿が糞スレを乱立させて楽しんでいるようなので、とりあえず保守パピコ。

さて、機構的にKa-10が成功を収めたので、洋上作業用Helicopterとしての地歩を築いたKamovは、
Ivchenkoが更に強力なエンジンを完成させたのを受けて、複座で密閉式キャビンを持った大型Helicopter
Ka-15を設計します。
BladeとHubに関してはKa-10のスケールアップで良かったものの、翼形など細かい点は、構造強化が為され
ていました。

胴体は鋼管構造でしたが、表面にDuraluminの薄板を貼り、コクピットの側面のスライドドアはプラスチックを
用いています。
この機体は1952年に初飛行に成功し、ゆっくりとした速度で整備が進み、数百機が生産されました。
最初の量産機は海軍に納入され、艦載機として、連絡、練習、雑用機に用いられ、試験的に爆雷を2基装備
して、対潜用に用いられています。
なお、民間用としてKa-15Mが生産され、乗客輸送、郵便貨物輸送、森林/パイプライン警備、救急、農業など
多方面で用いられました。

また、1957年には機体をストレッチして大型化したKa-18が開発されますが、試作機は馬力不足でKa-15にも
搭載量が劣りました。
このため、馬力強化型が開発され、こちらが量産化されました。
これらも、ソ連海空軍、Aeroflotに納入されましたが、機体的には成功せず、200機以下の量産に終わりました。

次回はKamovとしては、異質なVintokrylについて。
389  :04/04/24 07:05 ID:???
ほしゅ

連載の区切りがついたら機体やエンジンの生産機数の話がしたいものです。
390名無し三等兵:04/04/24 07:27 ID:???
なんで上げてるの?しかもすぐ上で保守カキコしてるのに。
オマエはバカか?
391名無し三等兵:04/04/24 07:30 ID:???
荒してくれっていう依頼でしょ。きっちり応えてやらねば。
392名無し三等兵:04/04/24 08:34 ID:???
マクダネルダグラスはボーイングに買収されたんだよ
393眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/24 23:24 ID:???
閑話休題。

質問スレにてLockheedの歴史について教えて下しいっつ〜のがあったけど、米国企業は取り上げてないんだな。
てな訳で、Lockheedについて少々。

The Lockheed Aircraft Co.は、1932年に設立された企業ですが、その前史があります。

1904年、Allen Lougheadと言う青年が、San Joseに居ました。
彼は、同年に操縦を学び、暫く操縦士として活動した後、1913年にModel Gと言う三座水上機を製作、
Christoffersonに、Alco Hydro-Aeroplane Co.を設立して、営業活動を続け、1915年には、この
機を用いてパナマ・太平洋博覧会で乗客輸送(遊覧飛行)を行い、600名を乗せて4,000ドルを稼ぎ
ました。

この資金を基に、Allenと、彼の兄弟のMalcomが1916年3月、Santa Barbaraに於いて
Loughead Aircraft Manufacturing Co. を設立し、John K. Northropを主任技師として、大型の
飛行艇F-1を開発します。
1918年、F-1は初飛行に成功しますが、第一次大戦が終了した為、海軍の採用は見送られ、暫くは
忍従を強いられます。
この間、1920年にはOaklandに工場を持つ、Christofferson Aviation Co.と合併しています。

1926年、Santa Barbaraを引き払い、Burbankの小さな工場に移ります。
また、この年、Lougheadでは発音がわかりにくいと、社名をLockheedに変え、Lockheed Aircraft Co.
となります。
此処でVegaを開発し、それが久々の同社のヒット製品となり、以後単発小型流線型旅客機を次々に
開発します。

しかし、開発費を得る為、1929年7月、Lockheedは投資家組織が設立したDetroit Aircraftの傘下に
なります。
ところが、この会社は投資回収を先行させ、各社が行う新規投資、製品研究を禁じ、為に各社は
大きな損害を被ることになりました。
394眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/24 23:25 ID:???
1932年4月、投資家の逃避と1929年の大恐慌の波に洗われたDetroit Aircraftは没落しますが、
その前に、Loughead達は、トンネル会社としてVega Airplaneを子会社化し、各種研究、投資を行って、
1932年6月21日、改めて、Stearmanを援助したRobert E. Grossによって、Lockheed Corp.として再出発
し、最初は全金属製Orionの開発を提案しますが、却下され、改めて双発旅客機Model10 Electraの
開発を行い、1934年に初飛行に成功し、これは、Executiveの移動用などに大いに重宝されました。

これの開発とその成功で、Model12 Electra、14 Super Electra、18 Load Sterと言った各種の高速旅客機
を開発します。

特に、Model 14は各国に輸出され、英国ではMunich会談に向かうChamberlainの乗機と成ったほか、
日本では陸軍と大日本航空が導入を決定し、立川飛行機では製造権購入と技術提携を行い、1939年から
本格生産を開始しました。
立川製はエンジンがハ26に換装されたほか、客席を再設計していました。
1940年以降は川崎航空機でも生産を開始、川崎では14の欠点だった低速時の安定性不良改善や、搭載量
の増加のため、胴体をストレッチした一式貨物輸送機を製作しています。
ちなみに、奇しくもLockheed 18の改善点も全く同じだったりします。

また、軍用機メーカーとしては、英国が発注したModel14改造のHudson哨戒爆撃機を手始めに、18改造の
Ventura哨戒爆撃機が製造され、これらは、米陸軍でA-28/29、A-34、AT-18としても用いられ、米海軍では
PBO-1、PV-1、PV-2として生産されました。
なお、これらの軍用機Versionについては、1938年に傘下に置いたVega Airplane Co.を1941年に完全子会社
化し、1943年に吸収してVega Divisionで製造されています。

更に、Model22と言う双発の重戦闘機が開発され、これはP-38として採用されました。
これ以降の機体は、K.K.Johnsonによって行われ、彼はその後、P-80、F-90、F-104などの戦闘機開発の他、
Skunk Worksを率いて、U-2、YF-12、SR-71、F-117の原型機などの開発に携わることになります。
395眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/24 23:26 ID:???
また、民間機として、Model 14のOwnerだったHowerd Hughesの依頼を受けて、彼の息の掛かったTWA向けに
高速旅客機Model 49 Constellationを製作し、これは発展を重ねてL-749、L-1049、L-1649と進化していきます。
同時に海空軍向けに、C-69、C-121、EC-121(WV)も製造していました。
ちなみに、C-69の爆撃機型としてB-30と言うのも提案したりしています。

1950年代の民間機のジェット時代に対応する為、Lockheedはターボプロップを選択し、L-188 Electraを製作します
が、最初のCL-303案はAmerican航空の要求に適合せず、CL-310案が採用されました。
ところが、新規就航の直ぐ後に2件の重大事故を起こし、その対応に追われている間にB.727などの新型機が就航し、
多大な損失を被りました。

対潜哨戒機としては、PV-2がトラブル続きで、新たに専用機として、P2Vが製作され、これは米海軍の主力対潜機
に採用されました。
その後継として、L-188を基にしたP3Vが製造され、これは今日に至っています。

一方で、戦術軍用輸送機として、西側代表的な機体となったL-100、軍用名C-130が製作され、これも長らく主力生産
機種となっています。

Lockheedはラムジェットについて幾つかの実験機を開発していますが、宇宙開発、ミサイル開発への進出は遅れ、
地上発射は抑えられていたので、人工衛星、SLBMの開発を始めました。
海軍と共同でSLBMを開発、これをPolarisと名付け、社内組織にMissile System Div.を設け、その生産に
入る頃になる1961年6月より、Lockheed Missiles and Space Co.に社名を変更しています。

その後、C-141、C-5などの輸送機開発などを経て、1977年に再度社名を変更し、Lockheed Corp.とし、
社内組織を、Vegaから発展し、新工場を建設したMariettaを拠点として輸送機開発・製造部門となった
Lockheed-Georgiaと、従来からのLockheedの拠点であるCalifornia各地で、戦闘機などの小型機開発、
研究部門となっていた、Lockheed-Californiaに分けました。
396眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/24 23:27 ID:???
民間機部門では、久々に開発したAirbusであるL-1011 Tristerが大転けに転け、会社経営を危うくしま
すが、丁度、軍需関係の受注で一息つき、1987年には完全分社化を企図した、
Lockheed Aeronautical Systems Group(LASG)に社名を変更しました。
この時、旧Skunk Worksも独立し、Lockheed Advanced Development Co.(LADC)となっています。

1993年3月1日、A-12計画とATF採用で敗れ、苦境に立ったGeneral Dynamicsを買収して、Fort Worth
部門が新たに誕生し、1995年3月15日には、Lockheed Corp. & Martin Mariettaとなりました。
この会社の航空機開発・生産部門はLockheed Martin Aeronautical Sectorで、これは、Mariettaに
本拠を置き、旧Lockheed社製航空機製造を主な事業とする、Lockheed Martin Aeronautical Systemsと、
Palmdealに本拠を置き、先端技術開発を行う、Lockheed Martin Skunk Works、Fort Worthに本拠を置き、
旧GD社製航空機製造や軍用機開発を主とする、Lockheed Martin Tactical Aircraft Systems、更に
物流を担当する、Lockheed Martin Logistics Managementと、ミサイル、ロケット、人工衛星などを開発する、
Lockheed Martin Aero & Naval Systemsに分かれています。

この会社は、1997年、更にB-2以外製造する機体が無くなったNorthlop Grummanを買収して、その傘下に
組み込み、現在に至っています。
397眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/29 21:12 ID:???
KamovOKBは、基本的に二重反転式ローターを持つHelicopterの開発を得意としていますが、初期の機体を除くと、唯一異端なのが、
Ka-22 Vintokryl(Screw-Wing)です。

これは超大型Helicopterを志向して製作した習作で、1961年のTushinoに出展しましたが、この機体は、Kamovが手がけた訳ではなく、
以前紹介した、Bratukhinの手によるモノです。
この機体には、兵士なら100名、旅客なら70名または軽車両を搭載出来るもので、軽車両は、後部のRampから自走して搭載出来ます。
一段高くなった操縦席に2名の操縦士、通信士の他、機首にはソ連航空機お得意のガラス張りの航法士席が有り、高翼の小型固定翼の
両端にTurboshaftエンジンを搭載して、その直上のローターを回します。
また、Fairly Rotodyneの様に、巡航用の牽引式プロペラを有しています。
なお、ローターなどの駆動系はMil Mi-4やYakovrev Yak-24のものを流用して、一部に改造を加えています。

形態はMilのMi-12と似ていますが、実際はそれよりもっと飛行機らしかったのです。

開発着手は1950年代半ば、初飛行は1960年で、テスト中に速度記録、搭載量の記録を作りましたが、
Kamovの中では矢張り異端扱いされ、巡航時と離着陸時のプロペラ/ローター回転切換機構も複雑で、ソ連の
ニーズに合わず、結局は1機の試作で終わってしまいました。

以後、Kamov設計局はKa-18の方針に回帰し、Uran-Udeに本拠を構え、Kamovは全般管理を主に行うようになり、
主任設計者はVladimir Barshyevskiiに代わり、新たな飛躍に備えることになります。
398眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/29 21:37 ID:???
Ka-22の製作と並行して、従来のコンセプトを有するHelicopterの開発が進んでいました。
これは、海軍の艦船搭載用ASWHelicopterで、1957年から設計が始まり、1961年に3機の試作機を製作します。
競争相手は、勿論Mil-OKBでしたが、小型の艦でも運用出来るコンパクトさ、従来からの海軍使用の実績もあり、
競争に勝利しました。

この機体は、胴体部はKa-18を更に大型化し、機体は全金属製となり、なおかつ、Turboshaftエンジン装備となって
います。

試作1号機は、「Ka-20」と称されて、空対艦ミサイルのダミーを外部パイロンに取り付けて、1961年のTushinoで展示
飛行し、ソ連はこの機体に対艦能力があることを喧伝しました。

試験は順調に進みましたが、量産化は遅れ、前量産型は1962年後期にずれこみ、本格量産は1965年まで待たなければ
なりませんでした。
ソ連海軍では、ASW、ミサイル誘導、連絡などに用いられ、Syria、India、Yugoslaviaに輸出されるなど、500機近く量産
されています。

また、1967年のParis航空ショーでは、Ka-25Kと言う民間用貨物吊下げ用の機体が展示されましたが、量産には至り
ませんでした。

また、民間型のレシプロ搭載型としてKa-26が量産され、これはソ連航空機としては民間ベースの輸出仕様としては、
数少ない成功となり、600機以上の量産が為されています。

1973年11月24日、Kamovはその生涯を閉じますが、設計局はS.Mikheyevに引き継がれ、M.A.Kupferの指揮の下、
Ka-29、31と言ったKa-25の後継海軍向け汎用Helicopter、Ka-32、Ka-126/226と言った民間向け汎用Helicopter、
Ka-50/52と言った戦闘Helicopterなどの二重反転ローターから、更にMil-OKBとのコンペで勝ち取ったMi-8後継の
Ka-60、Ka-150と言った在来式Helicopterまで、幅広い活躍を行っています。
399眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/04/29 21:41 ID:???
とりあえず、明後日からここへは保守しか来れない訳だが、その後、Nyemanに進むか、
それとも、Lockheedの片割れとか吸収した各社の歴史を纏めた方が良いか、どっちが
良いと思う?

エビフリャー。
400眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/05/06 22:13 ID:???
とりあえず400ゲトーで、ちと悩む今日この頃。
401名無し三等兵:04/05/06 22:40 ID:???
いつも乙です。カモフは全然詳しくなかったので勉強になります。

ロッキードの片割れ云々の方が気になるので
そちらをお願いします。
402眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/05/11 23:31 ID:???
激重なので落ち着くまで保守させて。
403眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/05/16 22:38 ID:???
んな訳で、Lockheedの片割れであるVega Aircraft Corporationを取り上げることにしましょう。

この会社の前身は、BurbankにあったAiRover Co.Ltd.と言う会社で、その設立は、1931年。
Alhambra Airport & Air Transport Co.と言う飛行機学校と言うか民間輸送機会社から始まります。
暫く、この会社は民間航空会社としてやってきましたが、経営多角化を図るべく、航空機業界に進出し、
1935年、社名をAlcor Aircraft Corp.と変更します。
そして、この会社の略称は、AiRover(Alcor) Co.となりました。
同年、最初の航空機として、高翼単葉双発固定脚のDuo-6軽旅客機を製作、発表します。
これは、そこそこ売れたみたいですが、後が続かず。

1937年8月、個人向け軽飛行機の分野に参画しようとしていたLockheedがこの会社の株式を取得します。
そして、会社名をVega Airplane Co.としました。
1938年に子会社化し、最初はLockheed Altair 8-Gを製作した設計者たちによって、Lockheedの他の飛行機の
パーツを流用した低翼単葉引込脚の実験機を製作します。
1939年には、それを更に洗練させた、低翼単葉引込脚双尾翼式の単発機、Vega Starlinerを製作しますが、
第二次大戦勃発によって生産は中止され、試作機は映画スタジオに売却されました。

最後に独自生産しようとしたのが、North Americanが開発して、途中で製作権を売却した、NA-35基本練習機で、
これをVega Type35として試作、生産を行おうとします。

しかし、これも、重点機種製作のためにその道を絶たれ、以後はB-17の生産とその改造試作である、B-38、B-40
の生産と、Lockheed Hudson、PV-1と言った、輸送機の改造哨戒機の生産を行い、自社製品の開発は行わなく
なりました。
こうして、1941年に完全子会社化され、1943年11月30日にLockheedに完全吸収され、そのFactory "A"となり、会社は
消滅しています。

次回は、MartinかG.D.について少々。
404名無し三等兵:04/05/21 17:13 ID:???
さげすぎ
405眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/05/23 23:26 ID:???
さて、今回はMartinについて。

1905年にGlenn L. Martinが自動車修理業を始めたのが最初です。
しかし、当時の航空熱に浮かされて、1907年に最初のグライダーを製作し、1909年に自身、操縦士免許を取得、
1911年に自動車修理業から撤退し、California州Santa AnaにGlenn L. Martin Companyを設立して飛行機製造に
乗り出します。

翌年、Model T複座機を製作し、陸軍からの注文で、改造型で三座にしたModel TTを製作しています。
この機体は、乗客2名を乗せて7時間4分の飛行に成功しています。
1916年10月、彼の会社はWrightと合併して、Wright-Martin Co.を設立します。
しかし、一国一城の主たらんとする、WrightとMartinは度々衝突し、1917年10月には合併を解消して
再び単独の会社に戻りました。

この時、Ohio州Clevelandに大規模工場を建設し、初期の陸軍航空隊向け爆撃機であるGMB、MB-1、
海軍向け双発爆撃機MBT、SC偵察爆撃機、T3M、T4M雷撃機の生産を行いました。
第一次大戦後も引き続き順調に、仕事が舞い込み、1928年にはより、生産規模を拡大する為に、Maryland州
Baltimoreに工場を建設しています。

以後も大型機を中心に製造していますが、大戦間の高速爆撃機であるType139、陸軍採用呼称B-10はかなり
エポックメーキングな機体でした。
また、PanAmerican向けに海外路線用飛行艇として四発の大型飛行艇であるModel130を製造しています。
艦載機の分野でも、最初の全金属製急降下爆撃機のBMが生産されました。

第二次大戦中は、Model176 Marylandを輸出向けに製造した後、米国陸軍航空隊向けに高速爆撃機Model179
(B-26) Marauderを生産しますが、これは高翼面荷重の問題で、「未亡人製造機」と言う悪評を得てしまい、その
改善の為に、非常に時間を掛けてしまいました。
このほか、Model176の発展型として、Model187 Baltimoreが作られています。
406眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/05/23 23:27 ID:???
更に海軍向けには、中型飛行艇のModel162 PBM Mariner、大型飛行艇のModel170 JRM Marsを製作しており、
前者はPBYに比べると少なかったですが、それでも一定数生産されています。

これらの生産は、従来の工場でも生産されましたが、このほか、軍専用工場として、Nebraska州Omahaに工場を
建設し、ここで、B-26、PBM-3、JRMの生産を行っています。
この工場は、直営ではなく、子会社のGlenn L. Martin Nebraska Co.を設立して運営していました。
また、BoeingB-29の生産も204機行いました。

第二次大戦後、飛行艇に代る民間機の柱として、DC-3に代る双発陸上機で戦後初の民間旅客機である、
Martin 2-0-2を1946年に開発しますが、大戦直後の余剰機大量放出により、新型機の市場そのものが狭まり、
Northwestが25機購入(このうち、1952年に日本航空にチャーターされ、うち1機が戦後初の墜落事故を起こす
「もく星号」)した以外は海外に数機単位でしか売れず、失敗に終わります。
また、これを大型化して1950年に開発したMartin 4-0-4は更に売れませんでした。

軍用機の分野でも、ジェット化の波に付いていけず、試作した爆撃機、B-48、B-51はいずれも要求仕様に満たず、
空軍は軽爆撃機の国産化を諦め、英国から、E.E.CanberraのLicense生産権を購入し、Martinに生産させます。
これがB-57ですが、これにはMartin独自の改良点も多く盛り込まれており、偵察型は全く別機と言って良いものに
なりました。

海軍の方も、哨戒機P4M、攻撃機AMなどを開発しますが、いずれも成功作の保険的な意味合いが強く、少数生産
に終り、唯一、飛行艇P5Mの量産が大量に生産されたものでした。
更に、将来の原子力飛行艇開発の布石として、従来の飛行艇の概念を破った、新しい形態のジェットエンジン搭載
飛行艇である、P6Mが試作されますが、これはその後の用兵思想の変化から破棄され、これにより、Martinは多大な
損失を被ることになりました。
407眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/05/23 23:28 ID:???
相次ぐ開発計画の失敗がありましたが、戦後、もう一つの柱と位置づけられたのが、無人爆撃機の開発でした。
この最初のものは、1945年8月に提案された計画で、1951年に発注されたものです。
当初はBomberを表わす、B記号が付いた、B-61でしたが、後にTM-61に変更されました。
通称Matadorで、主に当時の西ドイツに配備された、巡航ミサイルです。
次いで、このミサイルの発達型として、TM-76、通称Maceが開発され、NATO正面、台湾、沖縄に配備されました。

また、空中発射ミサイルの分野では、空対地ミサイルとして、AGM-12 Bullpupが開発されています。

50年代後半から、Martinの仕事にはロケット開発が加わります。
1958年には、短距離地対地ミサイルとしてPersingが開発され、次いで、ICBMのTitanが開発されました。

こうして、ミサイル開発の方が利幅が大きく、また、航空機開発投資に消極的になったこと、更に、海軍の
飛行艇運用が縮小に成ったことを受けて、P5Mの最終号機が生産されたことを以て、社長が航空機製造から
撤退することを表明し、社名は、The Martin Co..と代りました。

その後、ミサイル関連企業のMariettaと合併して、1965年にMartin Marietta Corp.となり、1994年にはLockheed
と合併を発表し、1995年3月15日に、Lockheed Martinとなりました。
408鉄板住人:04/05/23 23:53 ID:???
いやー、毎回すごいですな。>>眠い人氏
ところで、フランスはいつ頃語っていただけるのでしょうか?気長に待ってます。
409眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/05/27 23:44 ID:???
>408
パラでいきまひょか?
読んでる方は混乱するかも知れへんけど。
410名無し三等兵:04/06/04 22:44 ID:???
保守しましょうなんか不安定だし
411  :04/06/04 23:30 ID:???
不安上げ
412只野空曹:04/06/06 23:14 ID:???
日本の三菱航空機の生産設備に関するおよそ60年ほど前のことですが....
◇航空機エンジン工場の爆撃
1944年12月13日の午後に米軍は,三菱航空機・名古屋発動機製作所・大江工場を空襲した.
 投下された爆弾は250kg,500kgで合計186トンに及ぶ.
 工場は,被弾箇所139カ所,死者264人,負傷者105人,行方不明者160人に達する被害を被った.
 このときの工場設備被害は,被爆機械が247台であったという.
◇量産用トランスファ・マシンの試作と稼働
1944年9月ころ三菱重工業名古屋発動機製作所に
金星エンジン向けシリンダヘッド加工用「むかで」
(トランスファ・マシン)が完成した.設計したのは名発工作技術部の
谷泰夫技師が中心となって開発を進めてきた.
谷技師は,1939年から米国に渡り,1942年に第一次日米交換船で帰国した.
この米国旅行において,航空機部品加工用トランスファ・マシンの技術情報を持ち帰った
(1941年にナッシュ・モータース社に設置されたグリンリー社製シリンダヘッド加工機を基本にしたマシン).
 米国の雑誌記事(アメリカン・マシニスト誌)に載っていた外形写真をもとに,
発動機部品加工用の専用特殊機械を設計した.電気と油圧による混合制御されるマシンとなっていた.
10m近い機台の両側に20数台のミリング,ドリリング,リーミング,タッピングなどのユニット・ヘッドを配置し,
ワークを間隔移動方式で順次移送することによって,外部からの加工を同時完了する専用機械群となっていた.
これは航空機エンジンのシリンダやシリンダ・ヘッドの一連の加工工程を一列に配置した加工機ユニットにより,
加工するワークを自動的に移動しながら,加工するトランスファマシンである.
 50枚近い取付板の位置決め,ノックピン穴をゼネボアのジグボーラで加工して製作したが,
実際にマシンを動かして見ると,個々にわずかの誤差があってうまく決まらない.
数度の修正や手入れ苦心惨憺し,ようやく連続運転ができるようになった.
1回の移動ごとに1個のワーク加工完了品が出来上がるシステムとなっていた.
3か月くらいは試作1号機が稼働していたが,12月13日の空襲で谷技師が被爆して亡くなった.

413眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/06/13 21:23 ID:???
とりあえず、General Dynamicsの社史を探していたりしますが、複雑怪奇で追い切れないっす。
少々お待ち下しい。
414名無し三等兵:04/06/14 19:56 ID:???
は〜い
415  :04/06/17 08:19 ID:???
保守
416眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/06/19 01:08 ID:???
さて、General Dynamicsの話に入ります。

実はこの会社、一度、Canada編で出てきてたりします。

この会社が設立、と言うか社名を変更したのは、1952年4月24日のことで、元々の会社は航空機とは関係有りませんでした。
その前身は、有名な造船会社、Electric Boat.co.ltd.です。
1945年、第二次大戦が終わるとこの会社は、それまで大量生産で建造していた潜水艦の注文が途絶え、それ以外に核となる事業が無かったので、
事業規模を縮小(従業員を13,000〜4,000名まで削減)せざるを得ませんでした。

同じ時期、Canada政府は、彼の政府が保有する航空機会社、Canadairの株を放出し始めます。
これに目を付けたElectric Boatの副社長である、John Jay Hopkinsは1,000万ドルを投資して、1946年、Canada政府からCanadair社を買い取り
ます。
これは結構得な買い物で、Canadairは工場だけの資産価値で、2,200万ドルあったそうです。
その後、世界初の原子力潜水艦「Nautilus」の建造も受注し、その資金で事業の多角化に乗り出します。

彼は、カナダ人H. Oliver WestをCanadair社のトップに据え、その企業改革に乗り出し、それは可成りの
成功を収めます。
また、1948年1月の米国議会報告によって、ソ連の脅威が云々され、それに基づくCanada政府の空軍拡充
でも可成りの利益を上げました。

この資金を元手に、1952年、Canadair、Electric Boatなど3社の管理会社として、Electric Boatを母体に、
General Dynamicsが誕生します。
1954年4月29日、Atlasグループから、Convairを買収します。
これにより、General Dynamicsは、米国の航空機メーカーを手に入れ、これにより米国の民間、軍事関係
の契約権を得ます。
以後、航空機産業はこの会社を核として、F-102/106、B-58と言った一連のデルタ翼機、CV-880/990と
言った民間航空機、AtlasICBM、NASAのロケット群を開発していきます。
417眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/06/19 01:09 ID:???
しかし、1950年代末から60年代初頭に掛けて、Hopkinsの病気による引退から、内部抗争が始まり、
1959年、大株主となったColonel Henry Crownが会社の実権を握り、彼の経営する
Material Service Corporationを合併させます。
1961年に当時の社長が会社を大株主に追われ、それに連動して、トップがその社長について辞めて
いきました。

このため1961年に会社機構を立て直し、東西に事業部を分割して、東はNew Yorkを拠点に、西はSan Diegoを
拠点とし、Convairブランドの使用を停止し、General Dynamicsにブランド名を統一します。
これと同時に、Grummanと組んだTFXの競作に勝利し、F-111の採用が決定します。

1964年12月、F-111は初飛行します。
しかし、重量増と価格高騰がネックとなり、生産規模は縮小されましたが、それでも、3億ドルの利益が上がり
ました。

1965年、General Dynamicsは機構改革を行ない、12の事業部門に分割して、航空機生産はTexasのFort Worthに
集約し、San Diegoでの航空機生産は完了、但し、宇宙部門、ミサイル部門は引き続きSan Diegoで製造されること
になります。
1969年には、Fort Worth、San Diegoの両工場をConvair Aerospaceとしました。
また、1971年には、McDonnell Douglassから引き抜かれたCEOが就任し、彼は本社をNew YorkからSt. Louisに
移転することを要求し、それが認められました。

1972年、米空軍の軽戦闘機計画(LWF)として、YF-16を製造しますが、この開発にはSkunk Worksの協力があり、
それによって、短期間でYF-16を完成させることが出来ました。
Northrop YF-17との競作の結果、空軍に於いてはF-16が勝利し、4,000機近くが生産されています。
1974年、再び東西の工場は分離されます。
418眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/06/19 01:10 ID:???
また、オイルショック後の不景気の中で、この会社はお荷物になりかけていたCanadairを再びCanada政府に3,800万ドルで売却しました。
更に1984年には、組織変更が為され、4つの事業会社に分割されました。
それぞれ、Convair in San Diego、General Dynamics-Fort Worth、General Dynamics-Pomona、and General Dynamics-Electronics
になります。

1985年、Space shuttleの計画に参画する為、the Space Systems Divisionが誕生しましたが、これは、1986年のChallenger事故の
為に液体燃料ロケットの開発が中止されたので果たせず、衛星打ち上げ用に活路を見いだすことになりました。
同じ年、民間航空業界への再参入を企図して、3月にCessnaを買収します。

1987年にMcDonnell Douglasと共同で、48億ドルでA-12開発を行ないます。
しかし、開発納期遅延の為、1991年に契約は解消され、会社は重大な損害を被りました。

この痛手と、40年に渡って会社に君臨してきた大株主のHenry Crownが死去した為、その会社の事業は分割され、
1992年1月にCessnaがTextronに再売却され、3月には4億5,000万ドルで、ミサイル制御装置製造部門が、
General Motors-Hughesに売却、1993年3月にはFort Worth部門がLockheedに30億ドルで売却され、1994年に
Martin Mariettaに売却、更にThe Convair Aircraft Structureは、McDonnell Douglasに売却、こうして、1996年に
General Dynamicsの航空宇宙部門は1996年までに全て閉鎖されました。

これで、General Dynamicsと航空機メーカーとの縁が切れたかというとあに図らんや、1999年には、
Gulfstream Aerospaceを買収して、航空機業界に再び進出しています。

と言う訳で、今度はConvairとその構成企業、並びにCessna、Gulfstream Aerospaceについて少々。
419名無し三等兵:04/06/27 05:48 ID:???
消滅回避あげ
420眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/04 00:44 ID:???
さて、今回はCessna Aircraft Co.,Inc.について。

Cessnaというのは以外に古いメーカーです。
その起源は、1911年、Oklahoma州Enidで農場を営んでいたClyde V. Cessnaが、BleriotXIを購入したことに始まります。
彼は、この機体に"Silver Wings"と言う名称を付けて飛行しますが、操縦が不味かったのか、機体の工作が不味かったのか、
その機体は墜落を繰り返し、その都度、改良を加えられ、これが一番最初のCessna製の機体となりました。

1916年に、彼はKansas州Wichitaに引越し、Jones Automobile Factoryに於いて2機のCessna設計の機体を製作しています。
しかし、本業は農業で、暫く農業も続けていました。
そんな彼をheadhuntしたのが、1924年10月に開業したTravel Air Manufacturingで、1925年に彼はこの会社に入ります。
ちなみに、この会社には後に軽飛行機業界の雄となる、Walter H. Beech、Lloyd Stairmanなども加わっていました。
当然、おらが大将と思っている人々と上手くやっていけるはずもなく、1927年9月8日に同僚で、以前Swallow Airplane Companyの
社長をやっていたVictor Roosと共に、Cessna-Roos Aircraft Companyを旗揚げしますが、彼とも喧嘩し、Victor Roosは会社を
出て行きます。
こうして、1927年12月18日に社名はCessna Aircraft Co.となり、やっと最初の量産機であるModel Aを71機製作し、その後各種の
軽飛行機、グライダーの試作で会社の経営が軌道に乗りかけた矢先、大恐慌の波を被って、1931年に工場の閉鎖を余儀なくされ
ます。

1931年、社名をClyde V. Cessna Aircraftと再度改め、再出発を図りますが、当面、経済情勢の好転が見られないことから、Wichita
工場は、Stairmanに貸して現金収入を得ています。
雌伏の時を経て、Cessnaが活動を再開したのが、1934年1月で、最初に製作したのが高翼単葉片持翼の4座の軽飛行機C-34で、
これは1929年に試作したDC-6(Douglassのとは別物)の発展型で、後に第二次大戦時にはC-77として民間機が徴用されています。
その後、この発展型を若干製作し、1939年3月26日に初飛行した低翼単葉双発のT-50が、米陸海軍、英国、Canadaを始めとする
英連邦空軍で使用され、License生産されたものも含めると5,400機近い数が生産されました。
421眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/04 00:45 ID:???
第二次大戦では、これら双発機群を生産したほか、Wichitaという地勢を生かして、Boeing B-29の部品生産、Douglass A-26の主要部
生産なども行なっています。

戦後は、一転軽飛行機製造に戻り、1944年にはエンジンこそ星形ですが、全金属製で高翼単葉、胴体から延びる脚を持つ、
Cessna190/195系の単発機製造を始めます。
これらは、今までの軽飛行機とは一線を画すもので、戦後、余剰機が大量に出回った割りには売れ、900機近くが7年間に
製造されました。

この機体を基に、全金属製応力外皮構造の胴体、セミ・カンチレバー構造の単支柱付き主翼、クロム・バナジウム鋼板の
バネ緩衝式単脚柱と言ったものを持ち、戦後の軽飛行機の代名詞となったCessna170が誕生し、その発達型172はT-41と
して米空軍でも採用されたほか、約40年に渡って36,000機弱が生産されました。

また、1950年にはこの170を基に軍用化したCessna305が、三軍の観測機として、O-1/L-19/OE-1として生産され、西側
各国の観測機開発に影響を与えています。
更に、ジェット機開発にも手を染め、Continental社がLicense生産した、フランス製Turbomeca MarboreIIを装備した初級
ジェット練習機T-37が、再び空軍に採用され、この機体の安定性が良好な為、Vietnam戦争では、J85に強化したA-37
が生産され、幅広く活躍しました。

勿論、軽飛行機部門の他、双発機部門でもCessna310と言う、革新的な機体を開発し、これは空軍がU-3として汎用機
として採用されています。
その後双発機はTurbopropのCessna401、TurbofanのCessna500とAll Lineupを設けました。
殊に、Cessna500の発達型550はT-47として米空軍に採用されています。
また、野心的な串形双発のCessna337も、米空軍によって、O-2として採用されました。
422眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/04 00:47 ID:???
話が先走りすぎましたが、1960年2月16日、FranceのMax Holstenの株式を49%買収し、傘下に組み込みました。
この会社は1962年、Reims Aviationと社名を変更し、Europeとその影響の及ぶ地域へのCessna製品のLicense
生産と販売を行ないます。
Reims Aviationは、Cessna製品に独自の改良を加え、Cessna337を軍用仕様にして、O-2並の武装を施した、
Reims Cessna F-337などを生産し、これらはFranceの旧植民地を中心に販売されました。

こうして順調に伸びていったCessnaですが、1985年9月、民間航空業界の再参入を図っていた、
General Dynamicsによって買収され、1989年、その方針と米国の大不況によって、軽飛行機が売れなくなり、
単発軽飛行機の生産を打ち切ります。
89年2月には、Reims Aviationとの提携も打ち切られ、株式は売却されました。

しかし、1992年1月、Textronに再度売却され、1997年、Cessnaは再度単発軽飛行機の生産を開始しています。

結構ややこしいけど、次回はConvairについて少々。
Gulfstream Aerospaceはもっとややこしいが。
ん〜、それとも、France編最初に、Reims Aviationを取り上げるか。
423名無し三等兵:04/07/06 22:27 ID:???
傭兵部隊に入隊したライサンダーみたいなブロウサードが好き
Max Holsteってその後どうなったのかと思ってたら
社名変わってたんですね。
今後の展開に期待。
424眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/11 21:00 ID:???
今日は資料が揃わないので、延期です〜。
425名無し三等兵:04/07/17 20:00 ID:???
三連休だヨ!
巡回中!
426眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/17 23:59 ID:???
今回はReims Aviationについて。

さて、Reims Aviationは現在、Cessnaの支配を脱して、Compagnie Francaise Chaufourの傘下にあり、Cessnaの機体を基本に据えな
がら、徐々に軽飛行機の独自開発を始めています。
現在、主力なのは、Cessna208のLicense生産と、Cessna400シリーズの各機体から部品を流用し、胴体はTitan、主翼はConquestIIの
ものを使って独自仕様としたF406 CaravanIIです。
このF406は、France税関で胴体下部に捜索レーダーを取り付けた密輸監視機として、陸軍では対空標的の曳航機として使用しています。

このほか、Dassault Falconシリーズ、ATR42の部品生産なども行なっており、Franceでもそれなりの地位を確立しています。

さて、そんなReims Aviationの前身は、1934年に設立されたAvions Max Holsteです。
主任技師Max Holsteは1911年に生まれ、AmiotやFarmanで修行した後、独立しました。
この会社は、Max Holste技師が自分の機体を製作する為に設立したものですが、この機体の構想では当時のFranceらしく、
複葉と単葉を空中で切り替える可変翼機を目指していました。
他に自動車設計者のBugattiが個人的に企画したBugatti 100Pと言うBugattiエンジンを搭載したRadicalな機体に関わったり
しています。

当然、そんな機体がモノになるものではなく、彼はオーソドックスな機体製作に転向し、1941年7月25日に、初めてモノになった
機体、Holste MH.20を初飛行させました。
当時の時代状況から、初飛行させたものの、量産は出来ずそのままお蔵入りとなっていましたが、1945年の解放後に事業を
再開し、そのMH.20から発展した単発双尾翼主脚のみ引込の首輪式の機体、MH.52とそれを固定脚尾輪式に改造したMH.53を
8月に製作します。

この機体は12機生産され、BrazilにLicense生産権が売られ、Egypt空軍に3機輸出されています。
1947年にやっとまともな株式会社組織に変更され、Avions Max Holsteとなりました。
とは言え、中小企業の悲哀で、細々と生産し、その間に次の機体を製作すると言う自転車操業を
行なっていました。
427眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/18 00:00 ID:???
次に生産されたのは、戦前に彼が構想を練っていたMH.30の具現化で、この機体は1951年に製作
されたMH.152です。
これは、4名乗りの単発固定脚双尾翼の軽飛行機で、観測機としても使用出来る様に、視界の良い
コクピットを用いていました。
しかし、こちらは売れず、試作機は59年にTurbomeca Astazouターボプロップを装備しましたが、結局
採用はされませんでした。
これを大型化して、世界でも通用する、P&W R-985を搭載したものが、有名なMH.1521です。
この機体は、旧フランス植民地を中心に可成り売れ、Avions Max Holsteとしては大分余裕が出来て
きました。

この機体を更に大型化して、双発化し、DC-3の代替を目論んだのが、1959年に初飛行したMH.250です。
ところが、此処でAvions Max Holsteは、Handley-Pageと同じ過ちを犯してしまいます。
即ち、大型化、双発化する着想は良かったのですが、発展途上国への採用を重視しすぎ、エンジンを
ピストンにしてしまったのです。
この頃は、発展途上国向けの機体でもターボプロップを装備するのが当たり前になって来つつあった
為に、この機体は1機も売れず、この機体の利益を元に、発展型の開発を目論んでいたAvions Max Holste
は財政的に窮地に陥りました。

そこで、財政援助をしてくれる会社を探しましたが、当時は欧州に後発で進出してきた米国資本の強引な
買収が横行(例えば、自動車メーカーのChryslerは英国のRoots Groupを買収して、Chrysler UKとしたり、
FranceではSIMCAが乗っ取られています。)し、当時、欧州での軽飛行機拡販を目論んでいた、Cessnaに
株式の49%を抑えられてしまいました。

1960年2月16日、Cessna傘下となり、社名をSociete Nouvelle Max Holsteに変更します。
これで一息ついたMax HolsteはMH.260を完成させますが、筆頭株主は、自社の機体の拡販しか無く、
彼が製作した機体の製造・開発は、1960年11月23日に、Max Holst75%、Nord25%で共同開発となり、
Max HolsteとCessna幹部との確執で、彼が退社した後は、結局Nordに移行されました。
1962年、Societe Nouvelle Max Holsteは、Reims Aviationと社名が変更されます。
428眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/18 00:01 ID:???
なお、Nordは、MH.260を9機製造した後、この機体を発展させ、主尾翼構造はそのままに、汎用機と
しての角形胴体から、より旅客機を志向した与圧装置付の真円形胴体に変更した、N.262を、1962年
に製作します。
この機体は、France海軍、空軍などで軍用輸送機として使用されるなど、約100機製作されるヒットと
なり、日本でも、1968年に日本国内航空が関西方面の幹線用に導入しています。

さて、MH.260を切り離したReimsは、Cessna本体の機体のLicense生産を開始します。
最初は、Cessna172の現地生産型、Reims Cessna F172を1963年に開始し、以後、本国のModelを
若干改造したものを生産しています。
特に、337を徹底的に軍用化したF337、CaravanIの軍用化型などが有名で、旧France植民地を中心に
採用されています。

最後に、衝突して退社したMax Holste技師ですが、その後、Brazilに渡り、空軍航空技術センターの
航空機部門(PAR)の顧問に招聘されます。
そして、彼の指導の下、MH.260を低翼単葉化した様なターボプロップ双発軽輸送機を製造します。
これが、空軍名称C-95、当初名称Dapartment De Aeronaves(IPD) 6504、現在、
Embraer EMB-110 Bandeiranteと呼ばれている機体であり、現在のEmbraer社の盛業の基礎となった
ものだったりします。

では、次は米国に戻って、今度こそConvairをば。
429名無し三等兵:04/07/18 13:58 ID:???
もしかしたら日本で初めて語られた
かも知れないMax Holsteの物語。
乙です
430名無し三等兵:04/07/18 16:56 ID:???
保守上げ
431名無し三等兵:04/07/19 00:46 ID:???
あのー特別講義ねだっても宜しいですか?
オスプレイ45のルーマニア空軍エース読んではじめてIAR80という戦闘機を知ったもんで。
こいつの簡単な解説とIAR社を・・・。
432眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/20 00:08 ID:???
>431
折角の東欧ネタなので、向こうのスレにて行ないまする(な〜んて例によって墓穴を掘るネムネムな人であった…by キートン山田)。

ちなみに、I.A.R.80については↓の辺りをご覧下しい。
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/army/1053514975/368-371

433431:04/07/20 00:50 ID:???
>>432
おお、ゥわーい。お手数かけます。
I.A.R.80って大戦初期基準では、結構よさげですね。
434眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/07/25 20:43 ID:???
ちょいと、IARに傾注する為、今週はお休みでつ〜。
435名無し三等兵:04/08/01 15:44 ID:???
保守していいかな?
436眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/08/01 21:23 ID:???
>435
ありまとでつ〜。
残念ながら、PC破壊につき、資料が散逸したので、来週までお待ち下しい。
437  :04/08/01 21:49 ID:???
上げときましょう。
438眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/08/08 21:15 ID:???
まだ、データ復旧が終わらないので、暫くお待ち下しい。
439名無し三等兵:04/08/09 00:08 ID:???
はい〜、のんびりお待ちしてます〜

昨日の花火は真下で見たけど、今夜の花火は見逃しますた
440眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/08/15 21:53 ID:???
う〜みゅ、本格的に夏休み状態だぞっと。

あと数点、資料が出てきたら再開しまする。
441  :04/08/16 07:53 ID:???
では下がりすぎにつき浮上
442名無し三等兵:04/08/19 22:37 ID:sH5SVvCy
書き込んでいいるの一人だけだね
443名無し三等兵:04/08/20 01:02 ID:???
>442
うん、そうなの。
みんな一生懸命に読んでるだけなの。

私にできるのはせいぜいあいのてを入れるくらいだし


444眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/08/29 21:43 ID:???
一瞬、落ちたかとオモタ。

さて、今回はConvairの片割れ、Consolidatedについて。

この会社もご多分に漏れず各社の集合体で、その1社は1900年まで、設立を遡ることが出来ます。
即ち、世界最初の飛行機を製作した、Wright兄弟の会社です。
Wrightは1900年に本業の自転車会社を設立した後、航空機を実用化し、1909年11月22日にWright & Co.を設立します。
この会社は、1916年8月17日に、先述のMartinと統合していたのですが、MartinとWrightの仲が拗れてWrightは統合を解消し、
1917年4月9日に、Wrightの弟を技術顧問に、General Motorsの資本で、Dayton-Wright Airplane Co.として再発足し、DH-4と
J-1の量産を企画して各所に工場を設立しました。
しかし、程なく終戦となり、結局、1919年にこれらは一旦、Wright Aeronautical Corp.に譲渡された後、1920年に親会社である
General Motorsに引き渡されます。
この段階でも、Bristol F.2戦闘機の改造型のXB-1Aを始めとして各種の試作機を作りましたが、量産に至ったものはなく、結局、
1923年5月29日、R.H.Fleetが経営するConsolidatedに売却され、General Motorsは航空機事業から手を引きました。

Consolidatedの前身は他に3つあります。
一つは純粋な航空機工場で、1908年に設立されたGallaudetです。
この会社は、Connecticutに工場を持ち、Curtiss HS-2L水上機を8機生産しています。
1917年に会社組織となり、Gallaudet Aircraftとなりましたが、元々小資本の町工場に毛の生えた様な
工場であり、それなりの資本を蓄え、航空機製造に進出しようと目論んでいたR.H.Fleetによって、1923年5月29日に買収
されました。
445眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/08/29 21:44 ID:???
二つ目は、第一次大戦中、米国国産戦闘機を初めて製作した、Thomas-Morse Aircraft Corp.
この会社は英国人技師のWilliam Thomasによって設立されました。
彼は、元々、1909年にCurtissに入社し、航空機を設計していましたが、自分自身の資金で独自の
航空機を設計・製造すべく、1912年5月に兄弟で資金を出し合って、Thomas Brothers Aeroplane Co.
を設立しました。
丁度、時代が軍用機を求めていたため、彼の設計した練習機T-2を米国陸海軍が採用し、New Yorkに
初めて航空機製造工場を設置しました。

1917年1月、更に事業を拡張すべく、Thomas-Morse Aircraft Corp.に改組し、S-4戦闘機の生産と、S-4A
高等練習機を100機、S-4C練習機を1,050機、軍から発注を受け、大量産を行います。
また、MB-1/2試作戦闘機の後で、第一次大戦後の米陸軍航空隊の主力戦闘機として、Boeingの対抗馬と
なるM-3戦闘機を開発しますが、Boeingの方が安価で、こちらが採用されてしまいました。
これ以後、時代から取り残され、会社は左前となり、最後の光芒として、1928年に開発したO-19観測機が
180機生産されましたが、1929年にConsolidatedに買収され、活動を終えました。

そのConsolidatedを立ち上げたR.H.Fleetは、事業家であり、その大元は、1918年に設立した郵便航空事業
を行う、R.H.Fleet Airが基になっています。
彼は郵便航空事業をもっと円滑に運営するために、航空機事業を求め、白羽の矢が立ったのが、上記三社
でした。
彼は、買収した会社をConsolidated Aircraft Corp.として改組して、航空機事業の核に据えた訳です。

つ〜ことで、Consolidated編はまだ続く。
446  :04/08/29 22:14 ID:???
あげとこう
447眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/05 15:24 ID:???
さて、前回米国編補足やったので、本日はフランス編第二弾。
先日、夜間爆撃機、夜間戦闘機に関する質問が質問スレにあったので、Mureauxを取り上げようかと思いましたが、
相当複雑怪奇なので(藁、SimpleなMorane-Saulnierを取り上げましょう。

Aeroplanes Morane-Saulnierと言えば、航空機メーカの中でも老舗中の老舗です。
古くは、Morane-Saulnier Nから、第二次大戦前にはM.S.406戦闘機、第二次大戦後はM.S.760 Parisビズジェットまで、
主に小型機の製造を得意としてきました。

その発祥は1909年10月で、Paris北部のTarbesに設立された、Societe des Aeroplanes Saulnier at Courbevoieが最初です。
航空機製造を目指したこの会社は資本過小で、さほど活動をしないうちに、1910年9月に一旦倒産します。
しかし、1911年には、新たに資本参加を経て、 La Societe Anonyme des Aeroplanes Morane-Borel-Saulnierとして再起します。
なお、社名は、1911年10月10日にSociete Anonyme des Aeroplanes Morane-Saulnierと社名を変更し、主に高速競技機を生産していました。

これが、第一次大戦勃発で1914年には有名な、Morane-Saulnier Nに繋がっていきます。
有名とは言え、このNの生産量はさほどではなく、全部で48機が生産されただけです。
その後、1917年には第一次大戦後のMorane-Saulnierと言えば、「これ」と言う形態のパラソル翼単葉戦闘機、AIを開発しますが、機体強度が
不足しており、戦場から引き揚げられ、練習機に使用され、この任務では高い評価を得ています(現在も3機が飛行可能状態との由)。
ちなみに、その一部は主翼を短縮して飛行できない様にし、地上滑走練習機として用いられました。
448眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/05 15:25 ID:???
第一次大戦後も、パラソル翼戦闘機であるM.S.275、225などを生産し、その派生型である練習機M.S.230、M.S.315などが各国に採用されています。
しかし、1936年の人民戦線内閣誕生によって航空機産業は国有化され、11月8日にSociete Nationale de Constructions Aeronautiques de l'Ouest(SNCAO)
に編入(他にはBreguet、Loire-Nieuport、Moulineauxなど)される予定でしたが、M.S.406戦闘機採用に伴う、生産現場混乱を避けるため、これへの
編入は取り消され、そのまま第二次大戦を迎えます。
フランス崩壊後、Paris北方の地域はドイツ軍占領区域となり、その工場はドイツ軍の生産現場に組み込まれました。

各社様々な機体を生産した中で、Morane-Saulnierは、Fieseler Fi-156 Storch連絡機の製造を行っています。
フランス解放後もその生産が続けられ、フランス陸軍用に納品されたほか、エンジンをArgusからRenault、Salmsonに
換装した型を、M.S.500/501/502として、更に米国製のJacobsに換装した504を生産しています。
一方、戦前からのパラソル翼系では、20年代末のスタイルと同様のパラソル翼、開放式、エンジン剥きだし、固定脚の
M.S.315/317を1945〜47年に掛けて生産し、一方で、低翼単葉引込脚のM.S.560/563を同時期に生産しています。
また、M.S.406系では、基本設計を流用して全金属製複座化し、高等練習機としたM.S.470が1940年から開発が開始され、
1945年末からフランス空軍、海軍で実戦配備されました。

こうして、戦後のMorane-Saulnierの経営の柱の一方は、軍用練習機、もう一方は民間用軽飛行機に経営資源を集中させ
ていきます。

軽飛行機では、単発機に加え、双発機のM.S.700/703が1949年に試作され、軍用練習機としては、戦後の新技術(とはいえ
未だ尾輪式)のM.S.730が同年製作され、後者は1950年代、フランス海軍に採用されました。
449眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/05 15:26 ID:???
さて、英国のVampire戦闘機の導入などを境に、空軍軍用機についてもジェット化が進み、練習機については、軍内部でも
ジェット練習機によるオールスルージェット教育体系が模索され、1952〜3年頃に、初等ジェット練習機の競争試作が行われ
ました。
これに参加したのが、C.M.170R Magisterを擁したFouga、SIPAが開発したS.200 Minijet、そして、Morane-Saulnier M.S.755 Fluret
でした。
前者は縦列複座、後二者は並列複座でしたが、S.200が最初に脱落し、軍用機の訓練としては縦列複座のC.M.170が選定され
ました。
とは言え、その他の性能的には差が無かったため、Morane-Saulnierでは、M.S.755のキャビンを延長して四座化したM.S.760を
開発します。
これは、フランス海空軍で練習機、連絡機として用いられたほか、アルゼンチン、ブラジルにも輸出され、各国で練習機として
用いられました。
また、更に乗員室をキャノピー形式から完全キャビン化した、M.S.760ParisIIIは、世界初の商用ビジネスジェット機になり、一定
数が売れましたが、開発費を投入した割には、投資が回収出来ず、Morane-Saulnierは苦境に陥っていきます。
ちなみに、この機体の米国におけるLicenseは、Beechcraftが所有していたりします(どこかの会社と同じ方式)。

一方、Algeria内戦に触発された、軍からの指令でターボプロップ単発固定脚の対ゲリラ攻撃機M.S.1500が試作されましたが、
これも空軍での採用は無く、海軍で対潜哨戒機としての採用が計画されましたがこれも潰えました。
450眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/05 15:27 ID:???
軽飛行機の分野では、従来の倒立エンジンから水平対向エンジンにシフトし、新たに開発したM.S.880 Rallyeが製作されました。
これはCessnaなどの機体に比べ、非常に小さな機体で、軽量簡易構造を採用した割には頑丈、しかも、草地滑走路からの離着陸
も非常に短距離で行え、更に安価であることもあって、売れ行きは上々でした。
ちなみに、この機体は、30分で首輪式から尾輪式に変更する事が出来、こういった利点を生かして、これに武装を設けて、発展途上
国向けの対ゲリラ攻撃機バージョンとしたRallye Guerrillaもあります。
なお、この機体は長く生産され、1979年からは、PolandのP.Z.L.でも軽飛行機型がLicense生産されました。
更に余談ながら、この機体の発展型M.S.885 Super Rallyeは日本では最初、新明和工業が購入し、条件が許せば国産化する計画も
あったそうです。

Rallyeの開発で少しは光明を見出したMorane-Saulnierでしたが、航空機業界再編の波に飲み込まれ、1963年1月6日に、この会社は、
Potezの一部門となり、Societe d'Exploitation des Etablissements Morane-Saulnier(SEEMS)に改編されました。
しかし、1966年、軽飛行機部門だけは分社され、Societe de Construction d'Avions de Tourisme et d'Affaires(SOCATA)となりました。
その後、PotezがAerospatialeに統合されたことで、親会社はAerospatialeとなります。

SOCATAでは、Rallyeシリーズの軽飛行機生産を進めたほか、その外翼を用いた大型軽飛行機のST60 Rallye7、引込脚化したDipromate、
Rallyeシリーズを発展、近代化させた、TBシリーズのTB20/21 Trinidad、TB10 Tobago、TB9 Tampicoを生産しています。

他方、Aerospatialeの小型機部門として、CAP10初級練習機とC.M.170ジェット練習機の後継機として、久々の軍用機、ターボプロップ練習機の
TB30/31を開発しましたが、本国空軍では不採用となり、米国の選定からも漏れました。
451眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/05 15:28 ID:???
現在では各国の軽飛行機メーカーとの協業や生産権買収も進めており、従来から軽飛行機製造を通じて関係のあったP.Z.L.とは基本部品
製作とサブアセンブリ契約を締結、1987年にはRepublic Steelを経てLTV傘下となり、更にフランスの投資家グループに買収された米国のMoony
とのジョイントベンチャーでターボプロップ単発ビジネス機TBM700の開発(後に量産一号機をSOCATAが米国の顧客に売却したことで紛糾し、
1989年協業関係は解消)、1970年代にGrumman Gulfstream Americanで開発され、棚晒しとなっていた双発軽飛行機GA-7の製造権を購入し、
TB360 Tangaraとして再生産などを行っています。

なお、現在の経営方針としては、軽飛行機の製造もさることながら、大手エアラインの乗員養成キャリアパス用に自社の機体を使用することを
目標にしているみたいで、TB9/10で初等訓練、20で計器飛行、360で多発機訓練、700でCommercial訓練と言うラインナップを取りそろえています。
452名無し三等兵:04/09/05 20:47 ID:???
>>447-451
眠い人乙!
フランス航空機メーカーといえばWW1後の凋落ぶりしか印象にないなぁ…
あとはフィンランドでのM.S.406の活躍くらいか。
453名無し三等兵:04/09/06 14:04 ID:???
M.S.406はエンジンや20mmカノンが凍りついてほとんどカツヤクできなかった
ガンガったのは改造型のシュペルモラーヌ(なぜこれだけフランス語読み
なのだろう?)
454眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/12 21:40:12 ID:???
今日は昼間ガンガッタので、疲れてお休み。

>453
Finlandではメルケ・モラーヌ(Moerkoe Morane)と呼ばれ、1940年にフランスから購入したもののうち、
MSv-302/310/313/315/316/318/319/321/326/328が、次いでドイツから故買品を購入したものの
うち、MSv-602/604/605/613/615〜617/619/622〜626/629〜633/636/639〜642/646/649〜653/
656で、不思議とM.S.410の改造は無いんですよね。
455眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/20 22:40:54 ID:???
次はソ連編に戻るか…。
456名無し三等兵:04/09/20 23:51:35 ID:???
うぃっす、よろしゅうたのんます
457  :04/09/21 21:06:57 ID:???
あげます

どれぐらいの深度までOKなんすか?
458名無し三等兵:04/09/22 11:55:42 ID:???
>>457
600未満ならほぼOK
650以下だと赤信号
459名無し三等兵:04/09/23 01:17:36 ID:???
現在、Uボートなら圧壊深度に到達。
460名無し三等兵:04/09/24 00:43:20 ID:???
あげ〜
461眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/26 23:52:38 ID:???
今日はちょっと軽めに、KAIなんぞ。

KAIはKazan航空研究所で、1934年に設立当初は重要な研究機関の一つでした。
その中心人物となったのは、S.P.Gudzikで、彼は、1927〜30年にKalinin設計局の設計者として活躍し、それから、
KhAIに異動して、軍用機などの設計を行なっています。
1934〜37年に掛けて、彼はKAIの主任設計技師となりましたが、1937年に資金不足に陥ったのと設計技師の逮捕など
があり、以後、1956年まで航空機の製作は途絶えました。

最初に製作されたのは、爆撃機搭乗員用機上作業練習機のKAI-1で、三座の双発機でした。
1934年11月にこの機体は初飛行しますが、試作2機で終わり、より、機上作業練習機としての機能を向上するために、
次の増加試作、UPB(Uchyebno Perekhodnoi Bombardirovshchik)が製造されました。

UPBはKAI-1の試作2号機を基に、より軍用機に近づけたものとなり、三座は、前方から操縦士、航法/爆撃手、無線/機銃手
として、後方に旋回機関銃座を設け、爆弾倉に160kgの爆弾を有していました。1935年3月11日に初飛行した機体の性能は
良好で、更に25機が製造されました。
しかしながら、機体が小さすぎ、これ以上の発展が望めないことから、これ以上の生産には結びつきませんでした。

次いで、KAI-2と言う全金属製低翼単葉単発単座の戦闘練習機が試作されましたが、採用したMG-21と言うエンジンが失敗作で、
飛行できませんでした。
462眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/09/26 23:53:37 ID:???
そして、KAIが開発した戦前最後の機体は、DKL(Dvukhmotornyi Krayevoi Linyeinyi)という双発単葉全金属製の国内線用旅客機
でした。
10人乗りの小型輸送機でしたが、これには軍用機バージョンもあり、主尾翼と降着装置を流用し、主翼を中翼配置に改めて、爆弾
倉を設け、500kgの爆弾を搭載するというものでした。
DKLは、1937年8月から飛行試験が始まりましたが、不具合の改造資金が調達できず、しかも、同じ時期にRafaelyants RAF-11と
Yakovlev UT-3と言った同級機が出現したために、パイの食い合いとなり、遂には設計局の一時閉鎖に至りました。
ちなみに、Rafaelyants RAF-11とは、機体の使用材料が違うだけで、ほぼ同型機だったりします。

1956年、Stalin体制の崩壊と共に、KAIはM.P.Simonovの下で再出発します。
しかし、軍用機へ進出することが無く、グライダーとかライトプレーンの製作しか行なっていません。
この戦後の機体で特異なのが、VTOLと言う機体で、1967年に公開されました。

VTOLと銘打っている通り、垂直離着陸機で、210馬力のエンジン1基を搭載し、延長軸を用いて、操縦席脇のダグデッド
ファン2基を回して、垂直に浮かび、それを回転させることで揚力と推進力を得、尾部のローターで更に推進力を補完する
と言うもの(ドークXV-5とかベルのXV-15にコンセプトは似ている)でしたが、以後、この機体はテストも何もされなかった
ようです。

てな訳で、次回のソ連編では小さな研究室を取り上げると。
463名無し三等兵:04/09/27 00:10:05 ID:???
乙です。
相変わらずの「ここに来なけりゃ多分一生知らなかっただろうな」話をありがとうございました。
次回も楽しみにしております。
464眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/03 21:50:18 ID:???
今日は筋肉痛なので(ぉぃ)、次回また。
465只野空曹:04/10/05 16:04:08 ID:???
Webでフランスの航空機メーカーを探したが,
 百科事典程度しかみつからない.
でも,ようやく集めたので.
☆サルムソン Salmson AB
エミール・サルムソンが設立した繊維機械会社だったが,
1911年後半に水冷星形エンジンを開発し生産し,第一次大戦中には機体も生産した.
1912年に独自の機構をもつ静止形星形エンジンをパリのビランクール工場で製造した.
なお,サルムソン2A-2(陸軍乙式一型偵察機)は日本の空を舞った飛行機である.
1920年からすべて空冷式エンジンに切り替えた.
1951年に消滅.
サルムソンの自動車部門は,英国のGNを1921年からライセンス生産し,レーシングカーを1953年まで製造した.

☆ルノー renault
ルイ・ルノーが1898年に設立した自動車会社だが,1907年に航空機用エンジン
(空冷V形8気筒50馬力)を開発した.冷却用空気はシリンダ上の覆いで導いた.
前にプロペラのない推進式の場合には,シリンダ・ブロックの後方にファンをつけて,
冷却空気を取り込んだ.水冷V形8気筒/12気筒が開発された.
さらに空冷倒立直列4気筒/6気筒の小型エンジンも製品化した.
第一次大戦時には,軍用機や戦車(ルノーFT-17)などを開発した.
戦後,農業機械や工作機械の製造に転換して企業規模を拡大した.しかし,ドイツ占領下
にルイ・ルノーがドイツ軍に協力したためフランス解放後は,逮捕され1944年に獄中で死亡.
このため第二次大戦後は,ルノー公団として国営化されたが,1996年に自動車部門は民営化された.
なお航空機エンジン部門はSNECMAに吸収された.
現在ルノー株券の44%をフランス政府が所有しており,日本の日産自動車,韓国のサムソン自動車,
ボルボ・トラック社とダシア社と提携している.
また1979年から1987年までルノー自動車公団は,米国のアメリカン・モーターズ社(AMC)を
所有していたが,1987年3月にクライスラーに売却している.
466名無し三等兵:04/10/10 16:18:44 ID:???
まだ健在だ! 良かった!
PotezとかBreguetってもうやりましたっけ?
Breguetって時計メーカーになっちゃったの?
467  :04/10/11 16:34:43 ID:???
深度608アップトリム
468眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/11 22:27:09 ID:???
>466
PotezとかBreguetは未だでやんす。
次回、どちらか取り上げましょうか。
469多摩川弱啓:04/10/13 16:41:15 ID:???
フランスの航空産業は合併の繰り返しで,
親方日の丸の日本企業とはまったく環境が異なるようだ.
航空産業が軍需生産に絡むために,国営企業化したり,民営に戻すなど.
かってのロシアに似た中央集権的な企業展開となっている.
それにECがからみ,ドイツや英国などとのコンソシアムなどによる共同開発.
世界市場を相手に,軍用,民間ともに第一線の企業が活動している.
極東の企業とは,ヘリコプタの共同開発(川崎重工とMBB),
T1用のエンジン供給,たまに消防用ヘリコプタの輸入程度で,
ここでも米国のポチ状態(共同開発という外注先兼購入先).
◇Dassault社
で,まずデルタ翼のミラージュ戦闘機を開発したダッソー社(Dassault Aviation)だが,
マルセル・ブロック(Marcel Bloch)が1930年に航空機メーカーとしてブロック社(Avions Marcel Bloch )
を設立したことに始まる.ところが1937年にこの企業は
SNCASO(Societe Nationale de Constructions Aeronautiques du Sud-Ouest)に統合され,
国営化されたが,マルセル・ブロックは設計者として新型機の開発を続けた.
対ドイツ戦に戦闘機Bloch 152が投入された.第二次大戦下ではドイツに占領され,
彼は1944年に逮捕され強制収容所に収容された.フランスが解放されてから,
レジスタンスで使用していたコード・ネームであるダッソー(Marcel Dassault)に改名して,
1945年にGeneral Aeronautique Marcel Dassault社を設立したが,
1973年にブレゲー(Societe des Ateliers d'Aviation Louis Breguet:1911年に
Louis Charles Breguetが設立した航空機メーカー)と合併し,
Avions Marcel Dassault- Breguet Aviationになり,1990年にDassault Aviationと改名している.
●3次元CAD/CAMシステム
 なお3次元CAD/CAMシステム「CATIA」は,ダッソー社内で開発した設計支援システムだが,
1981年からIBMが汎用コンピュータのアプリケーション・ソフトウエアとして販売権を取得し,
ダッソー・システムズ社を設立して20人の社員で立ち上げた.
470眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/16 23:50:17 ID:???
今回は、Potezについて少々。

Aeroplanes Henry Potezの前身は、1916年に設立された、Societe d'Etudes Aeronautiques(S.E.A.)に遡ります。
この会社は、フランス空軍向けの偵察機を開発、生産し、PotezとBloch、それにBessonneauが関係しており、
1918年にCompagnie Anjou Aeronautique at Angersとなりました。

しかし、第一次大戦後の不況下で、これらの技術者達はそれぞれ違う道を歩み、Henry Potez,、Bloch、Louis Corollerの
三社に分割されました。

分割したPotezは、Aeroplanes Henry Potezとなります。
この会社の最初のヒット作は、汎用機のPotez25で、1925年の初飛行以来、大戦間に3,500機も生産され、フラ
ンスはおろか、日本、中国など20以上の国に輸出されました。

この利益を元手に、この会社は数々の会社を買収します。
まず、LyonsでEtablissements Letordとして1908年に設立され、1916年にAircraft at Lyonと改称し、1924年に、
Ateliers d'Aviation Francois Villiersとなった小企業を1931年に買収します。
次いで、Seine河造船所が新規事業として1920年11月に設立し、水上機、飛行艇専門メーカーとなっていた、
Chantiers Aero-Maritimes de la Seine(C.A.M.S.)を1933年に買収します。

また、同じ年に盟友のMarcel Blochの会社をグループに組込み、更にSociete Aerienne Bordelaiseを傘下に
入れ、これをBlochの共同経営として、1935年にSociete Aeronautique du Sud-Ouest(S.A.S.O.)に改称しました。

この時期がPotezの絶頂期で、Potez本体で軽飛行機、観測機、大型輸送機、大型爆撃機を開発し、Blochで小型
戦闘機、大型爆撃機、大型輸送機、C.A.M.S.で戦闘飛行艇、大型飛行艇をそれぞれ開発し、また、1928年にLEM
を設立してAnzaniから発展した空冷星形エンジンと倒立型エンジンを開発、生産しています。
471眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/16 23:51:22 ID:???
しかし、人民戦線内閣誕生により、1937年1月、会社の大部分は国有化され、Blochとは切り離され、C.A.M.S.、
Les Mureauxの全部、BreguetとAmiotの一部と共に、Societe Nationale de Construction Aeronautique du Nord
(SNCAN)を構成します。
C.A.M.S.からSartrouville工場、Potezからは、Meaulte工場が現物出資され、C.A.M.SのVitrolles、
PotezのBerre工場はSNCASEの管轄となりました。
此処で、Potez63系統の双発戦闘、多用途機が開発、生産されています。

第二次大戦のドイツ占領下では、SNCANでは、Potez-C.A.M.S.161四発飛行艇と、Dornier Do.24飛行艇、
Messerschmitt Bf-108を製造し、SNCASEでは、S.E.200四発飛行艇の他、Liore Olivier LeO.45、Dewoitine D.520
戦闘機、Bloch M.B.161四発輸送機の製造を行なっていました。

フランス解放後の1949年、Potezは再び復活します。
C.A.M.SはそのままSNCANに組み込まれ、戻ってきませんでしたが…。
復活後、最初はエンジンメーカーとして、大戦中に開発していた倒立型エンジンの生産から始め、
エンジンの生産が軌道に乗った後の1953年から、Societe des Avions et Moteurs Henry Potez
と社名を変更し、航空機の開発に乗り出しました。
472眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/16 23:52:02 ID:???
最初は、Potez25の夢よもう一度、と言うことで、Potez75と言う植民地用対ゲリラ軍用機を1953年に
開発します。
この機体は、自社開発のエンジンを搭載した、双胴推進式固定脚という時代離れした機体で、試作
のみに終わりました。
これで傷を負ったPotezは、自社開発を諦め、再び買収で自社技術陣の梃子入れを行ないます。

ターゲットになったのは、1936年にEtablissements Fouga et Cieとして設立されたグライダーメーカー
のAir fougaです。
この会社は、元々グライダーを製作していましたが、1950年にTurbomeca Marboreを搭載したジェット
グライダーで地歩を築き、それから発展したジェット練習機、C.M.170 Magisterの成功で、1956年9月に
大幅な増資を行ないます。
この時、株式を引き受けたのが、Breguet、Dassault、Morane-Saulnier、Sud-Est-Aviasion et Ouest-
Aviationでしたが、1958年5月16日にPotezに買収され、Potez Air Fougaとなりました。
最終的には、1961年9月23日に、この会社はPotez本体に組み込まれてしまいました。

その直前、Potez本体では新たな輸送機を製作します。
この機体は、Magisterを設計したRobert Castelloの手によるもので、Potez840と名付け
られました。
これはViscountより小さな国内支線用旅客機として製作されたもので、DC-3やHeron
の後継として開発されたものですが、双発で十分な所に持ってきて、フランス製エンジンを
選択した四発機だったため、運航費が高く、全く売れませんでした。
その後、PT6Aなどに換装してみましたが、失敗に終わりました。

また、Magister自体も種々の発展型を作り、中には仇敵西ドイツのHeinkelとの共同作業で、
CM191と言うMagisterを並列四座にした機体も作られましたが、これも西ドイツに採用されず、
計画は頓挫してしまいました。

これらの買収と、機体開発の失敗とで窮地に陥ったため、Potezは、1967年、刀折れ、矢尽きて、
Sud Aviationの軍門に下ることになりました。
473名無し三等兵:04/10/19 21:40:06 ID:???
眠い人様乙です〜
474眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/24 21:48:08 ID:???
にゅ〜、今回はお休みでつ〜。
475只野空曹:04/10/25 18:02:52 ID:???
Potez社つながりで,フランスのヘリコプタメーカーであるEUROCOPTERグループを取り上げてみよう.
といっても,エアバス社のような多国籍企業のコンソーシアムとなっているのだが,
日本では,どうしてもベル社やシコルシキー社が中心になりがちだし,
たまに自治体が購入する欧州製は企業名が変わってしまっていて,いまはどこだかわからない状態だし...
ユーロコプタ・グループ(EUROCOPTER)は1992年にフランスの
アエロスパシアル社(Aerospatiale)のヘリコプタ部門(旧シュド・アビアシオン:Sud Aviation社)と,
ドイツのメッサーシュミット社(MBB:Messerschmitt-Bolkow-Blohm:現在はダイムラー・クライスラーの航空機部門:DASA)のヘリコプタ部門を合併することによって
ヘリコプタ専業企業として設立された.ユーロコプタ・グループは現在EADS(European Aeronautic, Defense and Space Company)の
完全子会社として,民間・軍用双方のヘリコプタの製造・保守サポートを行なっている.
回転翼機市場におけるユーロコプター・グループ(EUROCOPTER)は2001年現在,
世界全体では40%,アメリカ合衆国では30%のヘリコプタのシェアを得ている.
ほとんどの米国製ヘリコプタの主ロータは上から見ると反時計回りであるのに対して,
ユーロコプタ社のヘリコプタでは,メインロータは時計回りとなっている.
さらに尾部のテイルロータも,ユーロコプタ社はフェネストロンという埋め込み型テイルロータの先駆者である.
フランス側のアエロスパシアル社はシュド社とノール社とSEREB社が合併して
1970年に誕生した航空機メーカーであり,ここで取り上げるヘリコプタ部門を持つシュド社がPotez社を統合したのが1967年で,
ようやくユーロコプタ社に結びつく.
 ドイツ側のMBB社は,1969年にメッサーシュミット・ベルコウ社とハンブルグの航空機メーカー,ブローム社とが合併した
企業である.第二次大戦後ドイツのヘリコプタ工業が再開されたのは1956年で,戦前のドイツ・ヘリコプタの中心であったフォッケ社を引き継いだ,ベルコウ社が発足した.
しかしベルコウ社は1960年に,Bf109戦闘機などを開発したメッサーシュミット社と合併することになる.
476  :04/10/31 14:12:53 ID:???
保守につき浮上
477眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/31 15:12:25 ID:???
今日は、>445の続きで、Convair編。

Fleetの航空機事業は、Dayton-Wrightの設計したTW-3練習機の製造から始めました。
1925年に、これはタンデム複座に改造されてPT-1となり、改良型で米陸軍向けのPT-3、米海軍向けNY-2、そしてその輸出型を含め、
これらは800機も製造するヒット作となりました。

続いて、これを小型化したHusky Juniorを製作しますが、これは意に反して注文が集まらず、重役会で意見が対立したFleetは、スピン
アウトし、1928年にFleet Aircraftを設立して、Husky Juniorを製造し始めます。
しかし、程なく大恐慌が起きた為に、彼の独立計画は支障を来し、結局は翌年、Fleet Aircraftは、Consolidatedに吸収されることになり
ました。
ちなみに、Fleet Aircraftの会社組織自体は、1936年まで存続し、その後カナダ資本となって存続しました。

さて、1929年、Consolidatedは恐慌で経営が苦しくなったCurtissから、N.Y.州のBuffalo工場を購入し、そこを主力工場とします。
そして、1931年に米陸軍向複座戦闘機のY1P-24、その量産型のP-30、1932年に米海軍向飛行艇のP2Yなど相次いで、軍向けの注文を
獲得し、工場が手狭になった為、1935年にCalifornia州San Diegoに移転、また同じ年、傑作飛行艇として名高いPBYを製作し、ますます
盛業になっていきます。

更に、1940年にはHall Aluminum Aircraft Co.を買収します。
この会社は、1927年に全金属製飛行機の製作を目的に、Charles Ward Hallによって設立された会社で、海軍用の飛行艇PH-1で名を挙げ
ました。
しかし、4発哨戒飛行艇として製作したXP2Hが不採用となり、加えて社長だったC.W.Hallが航空機事故で死亡した為、結果的にConsolidatedの
軍門に下った訳です。
478眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/10/31 15:13:30 ID:???
社業は順調で、1939年に初飛行した重爆撃機はB-24として採用され、第二次大戦中には軍用機専用工場としてTexas州Fort Worthに工場建設
を実施しますが、1941年12月19日、R.H.Fleetは突如としてAvcoの子会社であった、Vulteeに彼が保有していた全株式を売却、それは、発行済株式
の34%に当り、VulteeはAvcoにその株式を譲渡、AvcoはConsolidatedの筆頭株主になり、その傘下の子会社とします。

そして、1943年3月、AvcoはConsolidatedをVulteeに吸収合併させることにし、Consolidated-Vultee Aircraft Co.Ltd.が誕生したのです。

と言う訳で、米国編次回はVulteeについて少々。
479多摩川弱啓:04/10/31 16:06:58 ID:???
ポテ25といえば,
複葉機で木製主材の骨組に合板と整形羽布張り構造をしている1920年代の航空機である.
日本では大正15年に中島飛行機がブレゲー19に続いて1機のPotez25を輸入した.
しかし11月17日に太田飛行場において不時着大破してしまった.
中島飛行機では,陸軍の偵察機の競争試作において,
翼と降着装置をポテ25を設計参考機材とした.
胴体はブレゲー19B2の長所を取り込んで,
N-35試作偵察機(ロレーン450馬力)を開発した.
昭和2年10月には,ロレーン18W水冷式18気筒650馬力エンジンを装備した機体が完成した.
しかし,飛行中にエンジン故障により不時着大破してしまった.
このころポテ,ブレゲーともに日本人の体格に合わないとされ不採用に終わった.
また昭和6年に満州に進駐した日本陸軍が,奉天飛行場に放置されていた
10数機のポテ25A2を手に入れ,偵察爆撃機として使用した.
陸軍では保貞号と呼んだ.
 さらに太平洋戦争の初期に仏印方面に進駐した陸軍がフランス軍が残していったポテ25を押収した.
旧式のポテと金属製のブレゲーをハイブリットにして模倣したのが
当時の大ニッポン帝国航空機産業といえよう.
480眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/11/07 22:17:49 ID:???
とりあえず、Niemenの前身に逝こうと思ったが、力尽きたのでまた来週。
481眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/11/14 21:37:31 ID:???
う〜みゅ、Niemenの前身の資料が揃わないわ、東欧軍隊の話を再開して時間が無いわ。
あかんがなorz。
482名無し三等兵:04/11/21 16:20:49 ID:???
また〜り保守
483名無し三等兵:04/11/25 00:52:39 ID:tnFw0Ose
あげですね
484眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/11/27 23:25:55 ID:???
1930年、Iosif Grigoryevich Niemenの下で、ソ連航空機の設計を統括する研究所として、Kharkovskii Aviatsionni Institut(KhAI)が設立されました。
この研究所は1941年までソ連航空界で指導的役割を果たし、1958年に学生教育機関のSKBに改組され、軽量飛行機とか一人乗りヘリコプターを製作
するようになっています。

この研究所が手がけた最初の機体は、Niemenの設計チームが設計した単発引込脚の支線用旅客機KhAI-1で、Lockheed Orionを模倣し、He-70を除けば、
米国以外で300km/hの巡航速度を超えた最初の機体でした。
この機体は、コンセプト的に全くLockheed Orionと同じで、Orionに遅れること1年後の1932年10月8日に初飛行し、最初はUkraine、CrimeaとMoscowを結ぶ
路線に投入され、平均速度は324km/hに達しました。
これとその改良型が43機生産され、各地で活躍、この設計局の成功作となりました。

また、空軍にも採用され、He-70の様に2機が複座に改造されて演習用爆弾200kgを胴体後部の爆弾倉に搭載し、前部に1丁の固定機銃、後部に1丁の旋回
機銃を持つ爆撃練習機に試用されています。

次作KhAI-2は、複座高翼単葉のモーターグライダーで、グライダー設計者のP.I.Shishovが設計しています。
1936年に機体は完成し、初飛行に成功しましたが、量産には至りませんでした。

次のKhAI-3、KhAI-4はSergei Kirovの作品で、Aleksandr Alekseyevich Lazarevの構想による全翼式グライダー
から発展しています。
形態は完全に全翼式で、内翼部分に乗員・乗客用の二つのキャビンと垂直尾翼、前方中心に単発の小出力エン
ジンを持つフェアリングが付いています。
外翼には16度の後退角が付けられました。
この機体は設計途中で空力的変更が加えられ、キャビンが翼前方まで張り出す形となっています。
485眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/11/27 23:26:40 ID:???
流石に、こんなラディカルな設計に不安を覚えたのか、65%縮小版のKhAI-4を製作します。
この機体は全翼式と言いながら、短い胴体が付き、後部に推進式の発動機を取付けています。
KhAI-3に先んじて、1934年10月に初飛行しますが、種々の問題、特に着陸時の安定性に問題があり、
3度目の飛行で不時着しています。

この教訓を取り入れ、少し大人しくなったKhAI-3ですが、兎も角、1936年9月に完成し、9月27日に初飛
行しました。
しかし、操縦性、特に操向性に問題があり、操縦は異常に難しく、結局試作のみで中止となりました。
ただ、これに懲りず、同じ設計者がKhAI-3にゴンドラと呼ばれる6席のポッドを吊下げ、双発化した機体、
KhAI-8を開発していました。

この全翼機シリーズとは別に、KhAI-1から発展した爆撃練習機から更に発展したのが、空軍向け軽戦術
攻撃・偵察機である、KhAI-5、空軍名称R-10です。
R-10は元の機体の性能が良かった為に難なく試作が進められ、1937年にSukhoiのANT-51、Polikarpovの
DG-58bisと共に試験が行なわれ、R-5の後継機として、R-10として制式採用されました。

1938〜40年の間Kharkovの工場で、この生産が行なわれ、490機が生産されました。
最初の180機はCycloneの国産型のHamiltonの2枚プロペラの国産型を搭載していましたが、残りの機体は、
M-62とVISh-6プロペラを搭載しています。
しかし、1940年には既に旧式化し、生き残っていた少なくとも60機の機体がAeroflotに引渡されて3t弱の荷物か
3名の乗客を搭載する輸送機PS-5として使用されました。

R-10の成功で、発展型が以後、第二次大戦中までのKhAI設計局の作業となりました。
まずは、R-10の木金混製の構造を全金属製とし、フラップをZapp式としてエンジンを強化型に換装したKhAI-6を
製作しますが、生産ラインの混乱を嫌った当局によって不採用となりました。
次いで、R-10をリファインし、翼形を変更して、固定機関銃を6丁に増やしたKhAI-51/52が開発されます。
この機体は、R-10の後継として生産される予定でしたが、軍の方針が変わり、少数生産に終わりました。

これを以て、KhAI設計局は休眠状態となり、真の教育機関の役割を担います。
486眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/11/27 23:27:54 ID:???

設計局が復活したのは、Stalin批判後の1957年からで、O.K.Antonovをアドバイザーに加え、超軽量機KhAI-17を
開発したのが最初です。
その後は学生の卒業研究作品としてKhAI-18、19、20、21が製作され、一人乗りヘリとして、KhAI-24、27
が作られていました。

と言う訳で、次回のソ連編は20年代の懐かしの機体なぞ。
487眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/05 22:54:41 ID:???
とりあえず、フランス編に戻らんといけんのだが。
さて、何を取り上げるべ〜か。

考え中。
488只野空曹:04/12/05 23:28:30 ID:???
 東京瓦斯電気工業は,航空機エンジン・メーカーとしては老舗だが,ガス電という略称で親しまれた.
松方五郎(松方正義首相の五男)の才覚と人脈に支えられた企業で,日米開戦直前に松方五郎氏が亡くなったため、
会社のかなりの部分は日立製作所が受け継ぎ、日立航空機,日立工作機,日立兵器の三社を設立して引き継いだ.
ガス電の発足は1913(大正2)年2月に東京瓦斯電気工業株式会社としてスタート.
1928年には航空機用国産エンジン「神風」を開発している. 自動車部門は、1937年(昭和12年)に(陸軍が,1936年5月に「自動車製造事業法」
を成立させて自動車製造は許可制となったため, 資材の割当を受けるために)、瓦斯電,石川島自動車製作所,ダット自動車製造の3社を合併し,
東京自動車工業株式会社が誕生し、初代社長に松方五郎が就任した.
瓦斯電の航空事業部は1938年に,東大航空研究所が設計した航研機の組立てを担当した.木製軽飛行機の製作経験しかない工員数25人ほどの工場だったが,
工藤富治がフランス・ドヴォワチーヌ社での航空機製作の経験を持ち,工場長として,1937年(昭和12年)3月30日に完成させた.


489只野空曹:04/12/05 23:30:25 ID:???
瓦斯電のつづき.........
こうして航研機は,1938年(昭和13年)5月13日木更津飛行場を飛び立ち,
木更津〜銚子〜太田〜平塚の周回コースを15日まで,62時間以上無着陸で飛び続け, 1万1651kmの世界周回航続距離記録を樹立した.
それまでの周回長距離飛行の記録が1932年のフランス,デュペルドサン機の1万601kmであった. しかし,翌年イタリアのサヴォイア・マルケッティS82PD型
長距離機に1万2935.770kmに塗り替えられてしまう.
1939(昭和14)年5月になると,瓦斯電の航空機部門を分離独立させ,日立航空機(株)を設立し,軍用航空機,航空機エンジンを生産した.
造機部は日立工作機に引き継がれた. 「東京自動車工業(株)」は、1941年(昭和16年)に社名を「ヂィーゼル自動車工業」と改称し、
1942年(昭和17年)瓦斯電出身の人材が主体となり
日野町に日野製造所を設立し、「日野重工業」として分離独立した. 第二次大戦後の1949年になると日立航空機は東京瓦斯電気工業に改称した.
1953年には,東京瓦斯電気工業と富士自動車が合併し,富士自動車となる.1973年には富士自動車は小松ゼノアに改称した.
 日立工作機は同系企業と合併して国産工作機械となるが、戦後は日立精工(川崎→海老名:放電加工機,基板穴あけ機,マシニングセンタ),
日立精機(日本橋→我孫子:旋盤,フライス盤,マシニングセンタ)に分離したが,しかし日立精機は倒産し営業権は森精機製作所に引き継がれている.
490  :04/12/06 22:28:45 ID:???
えー
491名無し三等兵:04/12/07 22:08:31 ID:EmOnGHMB
ほしゅ?
492  :04/12/11 07:48:46 ID:???
あげ
493眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/12 14:29:51 ID:???
東欧スレでCaudronに少し触れたので、今回のフランス編はAvions Caudron-Renaultを取り上げましょう。

Caudronは、フランスの航空機メーカーでも初期のものになります。
その設立は1908年に遡り、1910年には一度、Societe Anonyme Francais d'Aviatio(SAFA)に吸収されますが、
1911年に独立し、第一次大戦前の1912年には偵察機として、Caudron G.3を製造します。
その双発型のCaudron G.4は1913年から製造が開始されました。

大戦初期は、他に適当な機体が無かったのと、運動性の良い双発機として、それなりに活動をしていたのですが、
戦闘機が現れてからは、その好餌でしかなく、出撃毎に大きな損害を出していました。
後に夜間爆撃任務にも転用されますが、生産は1916年まで続けています。
ちなみに、この機体での昼間偵察は、神風特攻みたいなものだったそうです。

この機体は1922年に日本陸軍が丁式一型爆撃機(Farman F-50)を購入した際、双発訓練用として、フランスから10機を購入し、
日本最初の双発双梁短胴型航空機として制式採用され、戌式一型練習機として使用されています。
この時の購入価格は、邦貨にして16,900円だったそうです。

また、爆撃機として、Caudron R.4を開発し、1915年から生産を行なっています。
それから発達したR.11は、前後部に連装機銃2基づつ、前下方に単装機銃1丁を装備するという重武装で、爆撃機編隊に随伴し、
迎撃機を駆逐する護衛戦闘機として勇名を馳せ、大戦最後の4ヶ月間、フランス軍は殆ど全ての爆撃機編隊にこの機体を随行
させました。
付いた渾名が、「空飛ぶ砲艦」で、これはBCR計画の基となっていったものでした。

第一次大戦後は一転して、練習機、軽飛行機分野に進出し、その機体の幾つかは飛行クラブ、飛行学校、個人オーナーに
対して実用的かつ経済的なものとしてシェアを高めていきました。
日本にも、1928年に川崎の松方社長が訪欧中に入手したC.109、立川の日本飛行学校が輸入したC.161がありました。
494眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/12 14:31:06 ID:???
1920年代初頭から30年代に掛けて、競争機の開発を通じてRenaultと協業関係を強めていき、遂には合併に至っています。
1933年からは、小型競争機の設計を手がけてきたM.Riffardを主任設計者に迎え、小型、高速の民間機を多数製造します。
代表的なものとしては、日本にも飛来した、C.620/630 Simounがありました。

また、競争機C.450から発展した軍用練習機C.690を更に発展させ、固定脚軽戦闘機としてC.710を1936年に試作し、それを基に、
引込脚化したC.713を翌年に試作します。
最終的に、この機体の翼型を換えたC.714が、1939年に空軍に採用されました。
C.714の胴体はRenaultで生産され、全体の生産工数は5000マン・アワーと他の戦闘機と比べて極めて低く、相当期待されましたが、上昇力不足
で、100機の発注機中、90機で生産が打ち切られました。
そのうち、50機はフィンランドに送られましたが、実際に着いたのは6機しか無かったそうです。
残りの機体は亡命ポーランド人飛行隊のGCI/145に配備され、Rouenの防衛に当り、1940年6月9日には、無損害で、Bf-109を3機、Do-17を1機
撃墜しています。

更にこの機体の上昇力不足を補う為、イタリアのIssota-FranschiniからDeltaRC40のLicenseを購入し、これを取付けたC.R.760を製作します。
原型機は1940年に製造され、3号機は50日の突貫作業で製造されたRenaultオリジナルのエンジンを搭載しますが、結局、フランス崩壊で破壊
してしまいました。

一方、C.620と同じ流れの双発軽輸送機としてC.440が1934年に製造され、これを発展したC.445 Goelandが1936年に開発されました。
主力生産型はC.445で、これはフランス空軍にも乗員訓練、軽輸送などの多用途任務用に生産されました。
フランス占領後もVichy政府用に生産が継続され、後にドイツ軍が完全占領した際には、多発機訓練用、機上作業練習機、連絡機として
生産を継続させ、Lufthansaでも国内線用に用いられました。
また、Slovakia空軍にも供与されています。
495眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/12 14:31:47 ID:???
C.440を更に大型化し、引込脚化した高速郵便機としたC.640が作られました。
このC.640 Typhonの性能が良かったので、これの軍用化バージョンが計画され、20mm機関砲2門を固定装備し、後部に7.5mm旋回機銃を
搭載し、300kgの爆弾を搭載する爆弾倉を設けた軽爆撃・重戦闘機のC.670が試作されましたが、これは採用されませんでした。

Caudron-Renaultは大戦前の国有化を免れましたが、大戦中はC.445Mをドイツ空軍に提供するなど、親会社のRenault共々、対独協力を
積極的に行なったことから、1945年に遂に国有化され、一旦SNCANに吸収された後に、Ateliers Aeronautiques d'Issy les Moulineaux(AAI)
に再編成されます。
余談ながら、Renaultの航空機エンジンの主任設計者は、共産党のレジスタンスに捕まって、二度と姿を見せなかったそうです。

AAIでは、C.445をC.449と改名して325機を製作し、フランス空軍に納入しました。
これらの機体は長命で、1970年代初頭まで使用されていました。
結局、この生産を以てAAIの幕は閉じ、Caudronの命脈は僅かにSNCANにのみ残ったりします。
496小沢忙都:04/12/14 16:43:57 ID:mH8d02EK
東京瓦斯電工業は,どうも自前で設計して開発した軍用航空エンジンの分野では,
空冷「寿」の中島飛行機(1930年)や,三菱内燃機の空冷「金星」よりも早く,
空冷星形7気筒130馬力「神風」(sinpuu)発動機を1928年に開発している.
つまり1930年代の日本における3大航空エンジン・メーカーだったのである.
というわけで,瓦斯電製発動機を装備した軍用機を思い出してみよう.
(1)海軍の90式1号機上作業練習機は三菱の服部技師が中心となって設計した
高翼単葉の鋼管骨組み構造の機体だが,1930年に完成した試作機は
三菱製イスパノスイザ300HPを装備していたが,1931年から納入された機体には,
当時としてはより軽量で稼働率のよい瓦斯電製空冷星形9気筒300HP
「天風」(tenpuu)が装備された.1938年以降は中島の「寿」420HPに代わってしまったが.
(2)海軍90式1号水上偵察機はドイツ・ハインケル社から輸入したHD-56を改造して
愛知時計電機が国産化した水偵だが,三木鉄夫技師がメインで担当し,試作1号機は1931年に完成した.
これが制式に採用されたときには米国ライト製発動機つきのものだったが,
瓦斯電製「天風」に換えられて1932年までに12機が製作された.
(3)海軍91式水上偵察機(横廠E6Y1)→瓦斯電「神風」空冷星形7気筒130HP
(4)海軍91式中間練習機→瓦斯電「天風」
(5)海軍愛知AB-3単座水上偵察機→瓦斯電「神風」
(6)海軍愛知六試小型夜間偵察飛行艇(AB-4)→瓦斯電「浦風」(?)水冷式倒立直列6気筒300HP
(7)海軍90式水上練習機(横廠K4Y1)→瓦斯電「神風」
(8)海軍93式中間練習機(空廠K5Y1)→瓦斯電「天風」
(9)海軍零式小型水上機(空技廠E14Y1)→瓦斯電「天風」
(10)海軍機上作業練習機「白菊」→日立航空機製「天風」
(11)海軍二式陸上初歩練習機「紅葉」→日立航空機製「初風」
(12)海軍双発陸上哨戒機「東海」→日立航空機製「天風」
とりあえず,海軍機だけ.
陸軍機は次回につづく.......
497小沢忙都:04/12/15 01:08:30 ID:???
大日本帝国の軍隊はお役所仕事の見本みたいだから,
海軍と陸軍では,同じエンジンでも名称が異なるし,同じライセンス国産しても名称が別々だから,
わかるのは担当者だけ.
まるでいまの町村合併の元住民みたいなもの.
で陸軍機で瓦斯電エンジン装備機です.
(イ)95式一型練習機(キ9乙)→瓦斯電製95式(ハ13甲)空冷星形9気筒300HP
(ロ)95式3型練習機(キ17)→瓦斯電95式(ハ12)空冷星形7気筒150HP
石川島飛行機(のちに立川飛行機)が1935年に遠藤良吉技師が中心になって開発した.
(ハ)98式直接協導偵察機→瓦斯電製(日立航空機)ハ-13/98式空冷星形9気筒450HP
   99式高等練習機
(ニ)一式双発高等練習機(キ54)→日立航空機製98式(ハ13甲)空冷星形9気筒470HP
 立川飛行機の品川次郎技師が中心となって1940年6月に試作機が出来上がった.
(ホ)二式高等練習機(キ79)→日立航空機製98式(ハ13甲)空冷星形9気筒480HP
 97式戦闘機から発動機をパワーダウンした機体.
(ヘ)一式輸送機(キ59)→日立航空機98式(ハ13甲)空冷星形9気筒
(ト)四式基本練習機(キ86)→ハ47(統合名称ハ11-11)空冷倒立4気筒105HP
 イリス商会がドイツから1938年4月に輸入したビュッカーBu131b「ユングマン」練習機を
ライセンス国産した. 海軍も「紅葉」として採用した.
 全木製化した試作1号機は1944年10月に完成(キ86II)乙型
(チ)三式指揮連絡機(キ76)→日立航空機ハ42B空冷星形9気筒310HP
 日本国際航空工業の益浦幸三技師が主になって開発し,
試作1号機は1941年5月に平塚製作所で完成した.
 東大航空研究所の河田三治博士による風洞実験により,
厚い矩形翼を採用し短距離離陸が可能な高揚力装置を装備した.
(リ)キ107(東航-12)練習機→日立航空機製ハ47空冷式倒立4気筒110HP(統合名称ハ11)
1943年10月に試作1号機が伏見善一操縦士によって初飛行した.
東京航空・村上工場で月産50機の計画で量産が始まったが,
1945年4月ごろから8月までに実際に完成したのは42機だった.
15号機までは新潟飛行場から茨城県下館まで空輸して納入された.  
498小沢忙都:04/12/15 12:05:05 ID:???
瓦斯電は軍用機だけだはなく,民間輸送機も開発してたんです.
YS11が唯一の国産旅客機というけど,第二次大戦前にも国産旅客機を開発してるんです.
大日本帝国では......
1945年以降は日本国だから別の国になるんですよね?
ここでは,東京瓦斯電工業に限定して.......
まず,1933年に瓦斯電KR-1千鳥旅客機がある.
 もちろんこれには瓦斯電製「神風」空冷星形7気筒150HPの発動機を装備している.
そして1935年の10月に完成した瓦斯電TR-2中型旅客機.
 双発だから「神風」5A空冷星形9気筒240HPを2基装備している.
 11月末に羽田から台湾まで,増加燃料タンクを取り付けて空輸して,
 台湾国防義会に納入されたらしい.
あと,1936年には東京航空輸送向けの
 相羽式ツバメ7型旅客機がある.
 これには瓦斯電製「神風改」空冷星形7気筒150HPが搭載された.

これで瓦斯電のエンジン搭載航空機編は,おわり.
 
499只野空曹:04/12/18 11:34:21 ID:EvkCLp64
明治末期に,東京飛行機製作所ってメーカーがありました.新宿角筈の十二社に工場をもった,
日本最初の航空機メーカーである.沖縄県知事の息子だった奈良原三次(鹿児島出身1877年2月生まれ)が
出資して設立した.奈良原三次は,東京帝国大学(現,東京大学)工学部造兵科を卒業し,
横須賀海軍工廠造兵部に勤務しながら飛行機に興味を持ち,新しく編成された臨時軍用気球研究会の委員になった.
そのため,はじめは,おもに臨時軍用気球研究会向けの航空機関連部品
(直径3m程度の飛行船用プロペラなど)の製作が中心だったらしい.しだいに本格化してついに航空機本体の製作ま
で手を広げて,奈良原式1号機を1910年10月中旬に完成させた(費用は当時で2000円).さっそく奈良原三次が操縦し
て1号機の離陸滑走を戸山が原で行なったが,ジャンプはするが飛行までには到らなかった.原因は,フランスから
グノーム50馬力のエンジンを購入して装備する計画だったのが,アンザニ25馬力になってしまったため,エンジンの
出力が不足していたのだ.
支配人は住吉貞治郎,現場主任が大口豊吉(大工の棟梁だが,エンジンや板金も担当),助手には白戸栄之助
(白戸飛行練習所を設立),伊藤音次郎(伊藤飛行機研究所を設立),後藤銀治郎,田中良などが参加していた.
田中館愛橘博士の設計したプロペラや当時のライト機,ファルマン機,ブレリオ機,
グラーデ機のプロペラなどおよそ100本ほど製作している.当時のプロペラは船便で運ばれてくるため乾燥して変形し
てしまうので.使用するには修正を必要とした.また1910年12月15日に日野大尉のグラーデ機が代々木練兵場で
転覆して,降着装置,主翼,尾翼の一部を破損したが,修理を担当したのは大口豊吉である.徳川大尉のファルマン
機のプロペラが破損した時に予備としてとりつけたのも,東京飛行機製作所のものだった.1911年のはじめに,
フランスからグノーム50馬力エンジンを輸入して,新しく設計した2号機を東京市新宿角筈の東京飛行機製作所で
組立て,5月4日に所沢の陸軍飛行場で奈良原式2号機による初飛行に成功した.
さらに奈良原式3号機を9月下旬に組立て完成したが,東京飛行機製作所は資金繰り(住吉貞治郎の横領など)で
行き詰まり,1911年末に解散し,1912年に東洋飛行機商会(京橋八丁堀)へ業務を引き継いだ.
500名無し三等兵:04/12/18 11:37:47 ID:???
何の容赦もなく500げっと

>>499
上げるなクソガキ
501眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/26 22:29:26 ID:???
>只野空曹氏

乙です。
毎回面白いお話、有難う御座います。

とりあえず、年末進行でお休み(ぉぃ。
502多摩川弱啓:04/12/29 12:39:11 ID:???
第一次大戦後には,五大工作機械メーカーの一角を占めていた東京瓦斯電気工業は,また「幻の総合機械メーカー」として
第二次大戦後になると,その存在感が薄れている.
大東亜戦争が1945年に終了してから59年が過ぎて戦後もそろそろ定年を迎えようとしているのだ.戦死者を祀るための
神社もあるし,自衛隊という軍隊を人道支援という名目で外国に進駐させることもできる国になったのだから.
あとは英霊となる犠牲者がでないことを.
金属を加工する工作機械は,機械を作るためのマザー・マシンといわれている.切削加工機や研削加工機は
輸入した機械を基本に国産でなんとか間に合わせたのだが,鍛造などの塑性加工機や歯車加工機などは手遅れだったようで.
ところで,第一次大戦後の五大工作機械メーカーとは,つぎのとおり.
★池貝鉄工所(1889年創立→池貝鉄工1949年→池貝1991年→会社更生法申請2001年→池貝・再生手続き完了2004年6月)
★大隈鉄工所(1898年創立大隈麺機商会→1918年大隈鉄工所→1991年オークマ)
★唐津鉄工所(1908年創業)
★新潟鐵工所(1895年創立→2001年11月会社更生法の適用を申請:事業部単位で新会社として再スタート)
    新潟トランシス(車輌・交通部門をIHIの子会社に)
★東京瓦斯電気工業(1910年東京瓦斯工業設立→
1913年東京瓦斯電気工業→1922年負債3000万円で経営破綻→強制和議で資本金を600万円から60万円に減資して会社は存続→日立製作所が買収)
 日立工作機(工機部),日立航空機(航空機部:機体,発動機),日立兵器として継承.
 1941年12月に日立工作機,篠原機械,国産精機を合併して工作機械部門を日立精機(資本金3000万円)に集約.
   →2002年8月日立精機は負債総額504億円となり民事再生手続き申請,営業権は森精機が引き継ぐことに.
 1945年1月に日立精機川崎工場を日立製作所に移管

 
503多摩川弱啓:04/12/29 12:58:31 ID:???
◇東京瓦斯電気工業は,第二次大戦後どうなったか?
★東京瓦斯電気工業(1910年東京瓦斯工業設立→1913年東京瓦斯電気工業→
1922年負債3000万円で経営破綻→強制和議で資本金を600万円から60万円に減資して会社は存続→日立製作所が買収)
 日立工作機(工機部),日立航空機(航空機部:機体,発動機),日立兵器として継承.
 1941年12月に日立工作機,篠原機械,国産精機を合併して工作機械部門を日立精機(資本金3000万円)に集約.
   →2002年8月日立精機は負債総額504億円となり民事再生手続き申請,営業権は森精機が引き継ぐことに.
 1945年1月に日立精機川崎工場を日立製作所に移管
 1968年8月17日に日立製作所の工作機部門を分離・独立させ,川崎市鹿島田に日立精工(株)を設立
 1974年10に日立製作所より溶接機部門を日立精工に移管した.
 1981年1月に日立精工は神奈川県海老名市に本社・工場を移転した.
 1999年4月 日立精工は日立ビアメカニクス(株)に社名を変更した.

 瓦斯電(ガスデン)は,戦時日本帝国の総合機械メーカーだったようだ.
 飛行機に自動車,軍用トラック,航空機用発動機,小銃など
 その後継は,自動車部門は日野自動車に,航空発動機部門は小松ゼノアということになる.

21世紀の日本の工作機械メーカーといえば,森精機製作所,ヤマザキMAZAK,オークマ,牧野フライス,西部電機というところだろうか?

504眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/30 22:18:29 ID:???
>478の続きから、今回はVulteeについて。

この会社は、1932年1月に設立されましたが、当初の社名は、Airplane Development Corp.と言うものでした。
ただ、この企業は独立した会社ではなく、Aviation Manufacturing Corporationの子会社であり、この親会社は、
American航空の出資者の一人である、Cordが出資しています。
なお、このAviation Manufacturing Corporationは、Stinson Aircraft Co,Ltd.も傘下にあり、エンジンメーカーとして
有名な、Lycoming Manufacturing Co,.のエンジン部門、プロペラ部門、このほかにも数社の有名なエンジニアリング
会社を傘下に抱えていました。

Stinsonは別途また書くことにして(また増えた、米国編)、Vulteeと言うのは、Airplane Development Corporationの
主任設計技師Gerald L. Vulteeのことです。
彼は、最初Lockheedの主任設計技師でしたが、独立して自分の航空機メーカーを保有しました。
で、CordもStinsonのラインナップが軽飛行機しか無いため、American航空の機材確保の為に独立を支援したものです。

最初は、LockheedのVegaやOrionを元にした様な、8席の単発高速旅客機V-1を製作します。
この機体は低翼単葉引込脚の高速機でありましたが、既に単発旅客機の時代は過ぎ去ろうとしており、American航空が
少数機試用した他は、中小の航空会社に採用されただけでした。
しかし、性能自体は良く、その後転売された機体はスペインと中国に渡り、スペインには15機が引き渡され、輸送機、高速
偵察機として人民戦線軍に主に使われ、その後捕獲された機体がナショナリスト側でも使用されています。
中国でも、3機が空軍に渡り、連絡機として使用されました。
また、ソ連にも1機が渡り、水上機に改造されています。
505眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/30 22:19:35 ID:???
商業的には失敗だったものの、機体の性能は良かったため、Vuteeはこれを輸出用の急降下爆撃機に改造することにし、
1936年、V-1Aを改造して試作機V-11を作って各国に売り込みます。
最初に採用したのは、中華民国空軍で、まず攻撃機型30機を発注し、その後の日中戦争勃発に伴い、発展型の爆撃機
型V-12を100機近く発注し、その大部分は国内のCAMCO工場でライセンス生産される予定でしたが、この工場が爆撃で
破壊されたため、インドはBangaloreのHindustan Aircraftに生産ラインを移すことになりましたが、結局1機も出来ません
でした。

また、V-1の売却で関係のあったソ連も興味を示し、複座を三座化したV-11-GBを見本に1機購入し、これを元に、エンジンを
国産にしたBsh-1、PS-43としてライセンス生産とか無認可発展型製作をしています。

このほかにもV-11-GBは、トルコが40機、ブラジルが水上機8機を含む26機を採用し、米国陸軍航空隊も、Y1A-19として試用
したほか、その後、米国の機体は、エンジンテストベッドとして、R-2800などの開発に重用されました。

こうして、この会社の経営基盤が安定してきたところで、工場を拡張すべく、Los AngelesのDowneyに工場を建設し、同時に業務
拡張の為に、完全にAviation Manufacturing Corporation(Avco)の一部門となり、社名はVultee Aircraft Div. of Avcoとなります。
なお、この措置が取られる前の1938年にVulteeはStinson機の試験で事故死しています。

大戦勃発時には自社開発機としていずれも輸出専用として、戦闘機のVanguard、練習機のValiantの開発を進めており、前者は
スウェーデンの主力戦闘機として144機、後者も中国などから若干の引き合いが来ていました。
しかし、大戦勃発のため、Vanguardは米政府に接収され、スウェーデンは戦闘機がないと言う危機的状況を迎えることになります。
接収された機体は、大部分が英国に貸与されましたが、英国は引取りを拒否し、中国に回しました。
中国でも余りぱっとせずに終わったようです。
506眠い人 ◆gQikaJHtf2 :04/12/30 22:20:22 ID:???
練習機の方は、逆に米国の陸海軍に採用され、BT-13/SNV-1として11000機以上の大量発注を受けます。
このため、Stinsonを買収し、NashvilleのStinson工場でBT-13の生産を進めていました。
また、ドイツの急降下爆撃機の活躍に刺激された英国軍によって、後に「最大の愚行」と言わしめた、Vengeance
が発注され、米国陸軍航空隊でもこれは、A-31/35として採用されました。

こうして、社業が盛業を極めている最中、前述のように、1941年12月19日に34%のConsolidated株式を譲渡され、
これを1943年に吸収して、Consolidated-Vultee Aircraft Co.Ltd.となりました。
なお、VulteeはVultee-Stinson Div.として、単発機分野を担当することになりました。

合併によって、従業員102,000名、13の事業部門を持つ大企業となり、21機種の機体と量産機30,000機を生産し
ましたが、大戦終了に伴い、発注は急減し、13,700機にまで落ち込みました。

このため、リストラを行い、Convair240以降の旅客機部門はSan Diegoに集約し、B-36を始めとする軍用機部門は
Fort Worthに集約することとし、1948年には、Vulteeが吸収していたStinsonは、1948年12月1日にPiperに売却され
ました。
それとは前後しますが、1947年にはCodeのAvcoから今度は、Atlas社に買収されて親会社が変わり、1953年に
朝鮮戦争の特需で潤っていた、General Dynamicsに1954年4月29日に買収され、その一部門となっていきました。

その前後、F-102/106、B-58を生産し、CV-880/890ジェット旅客機の生産に携わっていますが、民間機については、
ターボプロップのCV-580シリーズがそこそこ成功を収めた他は、失敗続きで、軍用機に特化していきました。

てな訳で、米国編、次回はStinsonに。
507小沢忙都:05/01/03 22:34:50 ID:???
日本製鋼所といえば海軍の兵器メーカー(おもに大砲や装甲板)として有名だが,
陸軍向けにも航空機用エンジンを製作していたのだ.
日本製鋼所室蘭製作所[北海道:千歳・室蘭線の母恋(ぼこい)駅下車]には,2003年1月より新社屋の入口にある多目的ホールに,
複葉機「モーリス・ファルマン6号機」の1/7模型(全長2.3mの木製)と航空機用エンジン「室0(ゼロ)号」が展示されているそうだ.
 このエンジンは1918(大正7)年に,陸軍の東京砲兵工廠から航空機用発動機「メルセデス・ダイムラー100馬力」
(「陸軍6型百馬力」または「6年式ダイムラー百馬力」と呼ばれる竪型直列6気筒)10基の正式注文を受けた中の試作機で,
1921(大正10)年まで試作機を含め,合計21基を室蘭工場(現室蘭製作所)で生産して納入した.
まず1917(大正6)年に試作の注文が東京砲兵工廠から日本製鋼所室蘭製作所にあった.
この時支給されたものは,ドイツのダイムラー社製エンジンを陸軍が分解してスケッチした手書きの部品図とエンジンの発電機,
スパークプラグという小さな部品24本のみで,残る部品は組み立てや調整からすべて独力でやらざるを得なかった.
部品も,材質指定(エンジンケースはジュラルミン系アルミニウム合金の鋳造製,ピストンは鋼製,真鍮製の冷却パイプほか,
銅,アルマイト,ベークライトなど)の素材も,当時の室蘭製作所の技術者の創意と工夫で試作したという.
しかも,部品図はm単位なのに,英国式工場の設備はInch単位.わずかの誤差も許されない作業であったが,
まさに“ゼロ”からの試行錯誤だった.メルセデス式航空発動機(エンジン)には,「室0号」(ムロゼロゴウ)の製造番号が
刻まれたプレートが付き,製造年月日は1918(大正7)年12月17日と記載されている.このエンジンは
「わが国初の陸軍制式航空機発動機」と,日本製鋼所社史資料に記載されているという.
このエンジンは1977(昭和52)年に,保管していた旧東京製作所(東京都府中市)から1979(昭和54)年に生まれ
故郷の室蘭製作所に里帰りして復元作業を受け,1980(昭和55)年から室蘭市民俗資料館に展示されていたが,
平成11年に室蘭市の「指定文化財」に指定された.新事務所の完成を機に再度里帰りしたものだと......
508名無し三等兵:05/01/05 00:15:52 ID:???
>>507
室蘭の日鋼記念病院に医師として勤務していまつ。

日本製鋼所の実力は世界有数。
509多摩川弱啓:05/01/10 11:05:43 ID:???
日本製鋼所って,いまじゃあ
 射出成型機のメーカーが表看板で,プラスチック素材を金型に注入して製品にする機械で有名だが,
裏看板では,相変わらず兵器関連素材メーカーとして
 防衛庁御用達メーカーなのは間違いない.
 でもなぜ兵器工業会を防衛機器工業界に改名したのだろうか?
日本製鋼所(資本金1000万円,本社と工場を北海道室蘭市)は1907(明治40)年に
北海道炭礦汽船(株)と英国アームストロング・ウイットウォース社とビッカース社の
3社共同出資により設立された鉄鋼素材メーカーで,兵器向けの素材を軍隊に供給してきた.
1941年12月に太平洋戦争の開戦と共に敵国資産として英国メーカー出資分が凍結された.

第二次大戦後に日本製鋼所は,終戦処理として,1950(昭和25)年に商号を(株)旧日本製鋼所と変更したうえで解散して精算している.
そして新たに資本金2億円をもって(株)日本製鋼所を設立して、
旧会社から室蘭・広島・横浜・東京の4製作所と本店やその他の営業所を継承して新しく発足した戦後の新企業となっている。
510名無し三等兵:05/01/12 21:10:21 ID:???
久しぶりに発見記念カキコ
511  :05/01/13 01:02:28 ID:???
-d(
512眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/16 21:24:58 ID:???
今回はちょっと趣きを変えて、ソ連編だけど…。

1880年生まれのVassili Nikolayevich Khioniについて。
彼は、1905年に技術者の資格を得、第一次大戦では、帝政ロシア軍航空隊の小型機部門の中心だった、OdessaのAnatraの主任設計技師に
就任しており、他の数社の設計技師に対する助言を行っていました。
革命後も兎も角祖国に踏み留まり、各種の機体を設計します。
しかし、1930年に若くして死亡しました。この時の死因は不明だったりします。

Anatra製の機体はさておき、革命後も使用された機体としては、1916年6月30日に完成して翌月の9日に
初飛行した、双発双胴の攻撃機であったVkh Anadvaと言う偵察爆撃機が最初の作品となります。

これは、そのものずばり、Dvukhvostka(双尾翼)という名前を付けられました。
構造は木製で、ベニヤ板を胴体部分に貼って仕上げていました。
乗員は5名で、操縦士2名の他、双胴の胴体にそれぞれ航法/爆撃手を兼任する機銃手と、偵察員を兼任する機銃手、それに、中央翼上に
ナセルを設け、その中に3人目の機銃手の合計5人でした。
しかし、この機体はアンダーパワー気味で爆弾搭載量もそんなになく、試作で打ち切られました。
513眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/16 21:26:12 ID:???
次いで、この機体にSalmson発動機を搭載した、Andva-Salmson、又の名を、Vkh Anasalvaと言う改良型を製作します。
この機体は、先の機体の改造型で、発動機が強力となったために軍に即刻採用され、1917年3月5日の初飛行後、SikorskyのIMシリーズと
共に飛行船中隊の飛行船代替用として50機が発注されました。
ところが、引き渡し前に革命が勃発して生産が中止されました。

革命戦争中の1921年、彼は更に改良型のVkh No.4を製作します。
この機体は、OdessaからMoscowへの長距離飛行を成功させますが、1922年初頭にNieuportと接触し、損傷してしまいます。
しかし、修理に成功し、初期の航空研究用に数々の飛行を行い、1923年には赤軍の機銃手/爆撃手養成学校に機材として
引き渡されました。

彼が設計した最後の機体で、唯一量産に至った機体が、Khoini No.5で、"Konyek-Gorbunok"(せむしの木馬)と呼ばれた
練習機で、今度は一転、タンデム複座の単発機となりました。
これは、Anatraから組織変更したOdessaの第7航空機修理工場で1923年に製作され、OdessaとMoscowで試験された後、
本来の練習機としては採用されず、殺虫剤を搭載したタンクを備え、蝗退治用に改造されたものが、1928年に30機製作され
ました。
ちなみに、この機体が世界最初の農業機とされています。

てな訳で、次回はおふらんす。
514774:05/01/23 01:27:22 ID:xiowyN16
質問ですが、以前、一度だけ見た事がある、ボーイング社の製造している
767か、777の製造、耐久試験、フライトテスト等の映像を探しています。

何年も前にテレビでも放送された映像です。ビデオで発売されている
はずですがタイトルや発売元もわからず困っています。どなたか、ご存知
ありませんか?
一通り探してみましたが 分かりませんでした
もしかしてスレ違いかもですが・・・
教えて下さい
515名無し三等兵:05/01/23 02:05:01 ID:???
>>514
子供向けの教養番組でよければ、
http://sc-smn.jst.go.jp/
から777の製造過程が見られる。
516774:05/01/25 02:27:10 ID:65wfsJLJ
>>515
ありがとうございました
参考になりました

ボーイング社や他社からこういった
ビデオ若しくはDVDって発売して無いんですね
もう少し 探してみます
517眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/30 22:17:06 ID:???
今回のフランス編は、Amiotについて少々。

Amiotは戦前、フランスにあったメーカーで、正式名称を、Societe d'Emboutissage et de Constructionsと言います。
その設立は、1916年に遡り、Amiotと言うのは設立者のFelix Amiotのことです。
最初の社名は、Avions Amiotで、Breguetなど大手企業の下請けでした。

下請けで力を付けてきたこの会社ですが、1921年に初めて複葉機Amiot20を製作します。
これは単発の全金属製軽飛行機でしたが、いずれも試作か少数生産で終わっています。
1926年、初めて単発複葉の重爆撃機、Amiot120を試作し、その発展型が1928年にAmiot122として
空軍に初めて採用され、当時としては多めの80機を生産しました。

その資金を以て、1928年、今度は空軍の戦闘機の競争試作に参加します。
しかし、製作したAmiot110は戦闘機として不採用となり、会社は苦境に陥ります。
Amiot110シリーズはその後、水陸両用偵察機として海軍向けに提案しますが、結局受注には
失敗しました。

そこで、別会社の買収で活路を見いだし、Lathamと言う大型輸送機メーカーを買収し、これと
合併して、Societe d'Emboutissage et de Constructionsを構成する、Latham-SECM部門と
なりました。
518眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/30 22:18:16 ID:???
1931年までに、会社はAmiot120シリーズの爆撃機の発展型の他、偵察機Amiot130、双発重戦闘
爆撃偵察機であるAmiot140Mを開発します。

120シリーズの発展と130は試作のみで終わりましたが(120のうち1機は速度記録機としてポーランド
空軍に引き渡されている)、140は試作のみに終わったものの、発展型の受注に成功し、この会社最大の
成功作となったAmiot143につながりました。
更に、これを引込脚にした144Mも含め、150機もの生産が行われました。

しかし、1930年代後半の航空機の性能向上について行けず(143Mは1934年に初飛行)、頭を切り換えて
革新的な航空機を開発したのが、Amiot340シリーズです。
これは高速郵便機として開発され、その性能が優秀であったために、空軍が爆撃機化したものです。
開戦時、285機が発注されていましたが、結局生産遅延で132機しか生産出来ず、戦局に寄与しませんでした。
ちなみに、この発展型の1つ、Amiot370は1938年2月8日と6月8日に、11の速度記録を樹立しています。

休戦後、単垂直尾翼(原型機は双垂直尾翼)、1000馬力エンジンを搭載したAmiot354、英国製Marlin10に換装
した356、先述の速度記録機370の各1機はVichy政府の郵便機として、フランス〜ジブチをエールフランスの手
によって運行していました。
519眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/01/30 22:19:38 ID:???
なお、これより先、1936年8月に施行された軍事産業国有化法に基づき、Amiotの全資産は、国有企業である
SNCAN(Societe nationale de constructions aeronautiques du Nord)に吸収され、その一部門となります。
1937年1月4日のことです。

1940年のフランス降伏で、軍用機の生産は行われなくなりました。
しかし、ドイツ軍占領地に置かれたAmiotの工場では、Ju-52/3m g7eの生産が行われました。
その後のフランス解放後もその生産は行われますが、その組織体はNordから離れ、Ateliers Aeronautiques de Colombes
(A.A.C.)に引き継がれています。
A.A.C.では、Ju-52/3mをA.A.C.1と名称変更の上、そのまま生産し、空軍や海軍に納入していました。
ちなみに、A.A.C.1はインドシナに於いて、爆弾架と銃座を取り付け、先祖返りの爆撃機として使用されていたりします。

A.A.C.は戦後、一瞬だけ存在し、その後、他の企業が復興すると消えていきました。
520眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/02/06 23:03:30 ID:???
次回のStinsonはちょっと資料収集中。
521眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/02/13 21:11:31 ID:???
PCのHDDが消去されて収集した資料が散逸したので、再度書き直し。
522  :05/02/13 21:21:26 ID:???
保守
523名無し三等兵:05/02/16 00:27:07 ID:???
ほす
524名無し三等兵:05/02/16 00:29:33 ID:???
ありゃ、補給線スレはボカチンこいてたのね・・・orz
525名無し三等兵:05/02/16 19:07:35 ID:Hp4bn2TA
書き込めば復帰するの?
526名無し三等兵:05/02/16 19:09:04 ID:???
おお、復帰した

では
527名無し三等兵:05/02/27 23:16:02 ID:???
補給sage
528名無し三等兵:05/03/01 01:09:11 ID:J3U3fhvK
あげるぞ
529名無し三等兵:05/03/01 02:12:02 ID:???
下さい。
530眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/03/05 22:50:38 ID:???
さて、漸くStinsonに辿り着いたわけですが…。

The Stinson Aircraft Corp.は、1922年、米国で最も経験を積んだ操縦士の一人である、E.A.Stinsonが創設しました。
彼は、1911年にWright機で初飛行し、飛行教官として他の誰よりも飛行時間を積み、10年の間に著名なテストパイロットとしても活躍していました。

そして、彼は次に航空機事業への進出を目論み、Detroitで出資者を募って、Stinson Detroiterと言う機体を開発します。
これは米国で最初の、防音構造の密閉式客室、エンジンスターターの取り付け、車輪へのブレーキ装備、客室への暖房装備と、至れり尽くせりのもの
で、これが、当時の金で12,500ドルにて売れました。
この金を元手に、Detroiterの量産化を図るため、1926年2月にStinson Aircraft Syndicateを設立しました。

これは年末には、シンジケートは会社組織に改組され、Stinson Aircraft Corp.となります。
Detroiterの販売は好調で、1927年には拡大型のSM-1を120機、1928年には縮小版のJuniorを含め、380機を生産して、盛業になっていました。
更に工場を建てて量産体制を整えますが、彼の潮目を見る目は確かで、大恐慌の4日前に、Aviation Manufacturing Corporation(AVCo)のCord
社長に会社を売却して傘下に入り、そのStinson Divisionとなって大恐慌を切り抜け、1930年には初の三発旅客機も開発しています。

順調そうに見えた社業でしたが、1932年1月、高翼単発の新型機ModelR25を操縦していたStinsonは、この機体の事故で死亡してしまいます。
このModelRは、その後発展を重ね、第二次大戦中には、援英機として、AT-19高等練習機、Riliant(UC-81)連絡機と言った派生型が500機以上
生産されています。
531眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/03/05 22:51:29 ID:???
更に、ModelRからModel105が派生し、これの軍用型がL-9、YO-54などとして少数機採用されました。
ちなみに、YO-54は爆雷を2発吊り下げて哨戒飛行に試用され、少なくとも1機が、Uボートにそれを投下した実績があるそうです。
そして、L-9からは軽観測機L-5 Sentinelが生み出され、これは3,500機以上が生産され、観測機として各地の戦線で使用されました。

1940年6月30日、AVCO社は、StinsonをVultee Aircraftの管理下に移すことを決定しますが、既述の通り、1943年3月にVulteeは
Consolidatedに売却され、The Stinson-Vultee Division of The Consolidated Vultee Aircraft Corporationとなります。
戦後型として、Model125を開発しますが、これは読みを誤って、500機が売れ残り、結果的に、不採算部門切り捨てと、大型機特化の
方針に基づき、1948年12月1日に、Piperへと売却されてしまいました。

ちなみに、PiperがStinson部門を購入したのは、その事業が欲しかったわけではなく、単にライバルを潰すことが動機だったりします。

つ〜こって、次はソ連編。
532眠い人 ◆gQikaJHtf2 :05/03/13 22:24:35 ID:???
例によって資料収集中につき、次週までお待ち下さい。
533名無し三等兵:05/03/13 22:51:46 ID:???
は〜い
534名無し三等兵:05/03/18 04:42:21 ID:???
保守
535  :05/03/20 21:52:56 ID:???
3:@
536眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/03/29(火) 21:39:39 ID:???
花粉症の馬鹿。
Kochyeriginについて書こうと思ったけど、体調不良で断念。
537名無し三等兵:2005/03/30(水) 00:30:12 ID:???
よかよか
538名無し三等兵:2005/04/02(土) 14:28:26 ID:???
おからだ大事に。軍板の宝ですから
539眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/10(日) 15:18:07 ID:???
さて、やっと体調回復につき、お約束通り、Kochyeriginについて。

Sergei Aleksandrovich Kochyeriginは、1893年に生まれ、1914〜15年の間に帝国ロシア軍航空隊に入隊して操縦を習い、
専ら飛行艇や水上機を扱っていました。
1917年には、Moscow中央飛行場にてテストパイロットに任命されました。
暫くはこの任務に就いていましたが、1926年春にGAZ-25となったOOSの航空機設計副代表となったA.A.Krylovの
引きと、OOSの代表となっていたN.N.Polikarpovの支持を受けて、Polikarpov設計局に入りました。

それから4年、彼はPolikarpovの偵察機設計主任として働き、その後、Polikarpov設計局から独立して、自分の設計
局をMoscow Menzhinskii工場内に立ち上げ、活動を開始します。

彼の独立後、最初の機体は、Legkii Razvyedchikと言う名称ですが、初めてTsKBを冠したTsKB-1です。
これは、1932年1月に試作指示が出たもので、R-5の後継となり、より強力なエンジンを搭載し、戦闘機並の機動性
を持って、300km/h以上の速度が必要とされ、競争相手はTupolevの機体でした。
彼の機体は、R-5に範を取り、多くの部品を流用し、木製翼の翼型を変え、支柱はI形とし、構造も鋼管ジュラルミン
張りとして近代化、脚は油圧緩衝器とソ連最初のディスクブレーキが取り付けられ、偵察員席には銃塔が取り付け
られています。
この機体は、1933年6月に初飛行し、1934年初頭までテストに供されましたが、R-Zを凌駕出来ず、試作のみに終わり
ました。
540眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/10(日) 15:19:16 ID:???
次いで彼が手がけたのが、ソ連最初のTyazhelyi Shturmovik、重装甲攻撃機TSh-3です。
1932年に空軍が要求したもので、これには、M.I.Guryevich(後にMikoyanと共同作業を行う)やS.V.Ilyushinも関わって
来ています。
TSh-3は、その時代としては先進的な、分厚い低翼単葉で、鋼管構造の全金属製でした。
その構造の一部は装甲を構成しており、箱状になって装甲としていました。
装甲の厚さは前面8mm、下面と側面が6mmで、燃料タンクにも5mmの装甲が張られており、配管系統にも6mmの装甲
がありました。
乗員は勿論装甲に守られており、8丁の機銃が翼内に、2丁がスパッツ上面に装備され、翼内に6個の爆弾倉を持ち、
更に翼下に8発のロケット弾か4発の100kg爆弾が装備可能でした。
この画期的な機体は、1934年春にV.K.Kokkinakiの手で初飛行し、各種試験が行われます。
この機体は、地上攻撃用の機体としては理想的なものでした。
が、これだけの装甲を有した機体が重くなるのは否めず、1934年の段階で大馬力を有するエンジンが無く、試作のみ
に終わりました。

次に手がけたLR-2は、LR(TsKB-1)に可変ピッチプロペラとAM-34RNエンジンを装備し、銃塔を撤去して、密閉式風防
を取り付けたものでしたが、未完成に終わりました。
541眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/10(日) 15:20:10 ID:???
彼の作品で最も有名なのが、1934年にVladimir Panfilovich Yatsyenkoと共に手がけた、複座戦闘機TsKB-11で、同時期
に設計されたHawker Hindに匹敵するものとして注目されました。
機体は全金属製、操縦系統は油圧駆動でこれは、ソ連初のものでした。
最初の発動機はWright SR-1820を使用し(輸入品で、これは720hpを出しています。初期の国産品は630hpしか出なかっ
た)、複葉でありながら、引込脚を採用していました。
1935年3月21日から11月に掛けて、この機体の試験が行われ、その結果、200機がDvukhmestnyi Istrebitel(DI)-6として
小改修とエンジンを国産M-25に換装し、生産されました。

この生産中に色々な派生型が誕生します。
特に、TsKB-11Sh/TskB-38はShturmovikバージョンで、乗員の周りに8mmの装甲板を張り巡らしたものが、DI-6Shとして
1938年10月に60機が生産され、1940年には更にDI-6MMShに発展します。
また、旧式化したものは、複操縦装置を取り付け、固定脚化して中間練習機DI-6bisに改造され、1950〜51年まで使用され
ていました。
更に実験機としてもDI-6OS(尾部操縦装置の実験機)、DI-6DU(複操縦装置を取付け、戦闘中、爆撃中などの指揮を執る
ことが出来る司令機としたもの)などが製作されています。

次いで、彼は本職の偵察機を手がけます。
TsKB-27と言う機体は、He-70を意識した中翼単葉の高速偵察機として開発されました。
しかし、開発していく内に、爆撃任務も追加され、最終的に460km/hの速度要求に対し、100km/hも下回る機体となって、
試作のみに終わりました。
542眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/10(日) 15:21:08 ID:???
そこで、丁度Ivanov計画が発表されたために、これを急遽模様替えをしたのが、R-9です。
エンジンに、Timanskiiの開発したM-85を用い、武装を機銃から20mm機関砲に変更し、不整地でも運用可能なように、
低圧タイヤを採用したりしていますが、所詮、付け焼き刃的なもので、不採用に終わりました。
更に、設計者はこの機体に未練があったのか、これをShturmovikに改造しようと足掻き、より強力なエンジンを使い、主要部に
8mmの装甲板を張り巡らしたLBShを開発しますが、当然、こんなものが採用されるはずもなく、彼も諦めざるを得なくなります。

1936年、米国から輸入されたVultee V-11は各設計局に衝撃を以て迎えられます。
Kochyeriginも例外ではなく、これを下敷きにした攻撃機、BSh-1を製作します。
この機体は、V-11に後下方銃座を設け、乗員を1名追加したもので、全部で36機が製作されました。
しかしながら、CycloneエンジンとHamilton可変ピッチプロペラの製作が難しく、苦心して製作した機体は、空軍の領収テストで性能を満たすことが
出来ず、1938年12月に最終的に空軍から領収を拒絶されました。
結局、1939年にAeroflotが全機を引き取り、MoscowとKiev、Tashkent間の郵便輸送機PS-43として使用されましたが、大戦中、幾らかは徴用され、
連絡機として軍に使用され、1947年まで使用されました。
543眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/10(日) 15:23:27 ID:???
DI-6からこの方、成功作の無かったKochyeriginに、最後の鉄槌が下されようとしていました。
Obnomestnyi Pikiruyushchii Bombardirovshchik(OPB)-41と言う単座急降下爆撃機が最後の機体となります。
1938年に強力なエンジン、M-90が製作されたのをきっかけに、製作が決定しました。
急降下爆撃機として、当時有名だったJu-87を下敷きに、主要部をジュラルミンで作成し、後部胴体を木製として
軽い逆ガル翼に油圧後方引込脚を設け、エルロンを90度立ててエアブレーキとして使用するものでした。
また、空冷大直径エンジンの抵抗を少なくするため、TsAGIが開発したダクトスピナーを設け、これに三枚のプロ
ペラを取り付けていました。
1941年に試作機は初飛行に成功し、Ash-82A装備機が583km/h、Ash-71装備機が593km/hを出しますが、エン
ジンがこれ以上発展せず、更に、同時期に試作された双発の急降下爆撃機、Pe-2が素晴らしい性能を発揮した
ことから、開発は打ち切られました。

結局、これが痛手となり、設計局は1941〜42年に掛けて閉鎖されます。
ただ、彼自体は粛清の時代を生き抜き、1953年にその生涯を閉じました。

次はフランスだけど、考え中。
544  :2005/04/10(日) 20:45:41 ID:???
age
545眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/17(日) 21:41:50 ID:???
とりあえず、FalmanかBreguet辺りを収集中。
少々お待ち下さい。
546名無し三等兵:2005/04/17(日) 22:26:58 ID:???
うぃっす
547名無し三等兵:2005/04/18(月) 20:14:49 ID:???
DI-6が複座戦闘機として世界の駄っ作機に取り上げられていたのが
不満だったけどお陰でちょっとすっきりした。
別にデファイアントなんかと比べなくてもいい生い立ちなんですよね!
ありがとう!
548眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/24(日) 15:36:57 ID:???
Avions Henri, Maurice et Dick Farmanについて今回は少々。

Farmanと言えば、日本航空黎明期に日本の空を闊歩したHenri Farman、Maurice Farmanが
有名です。
さて、Henri Falmanは、Parisで英国人を両親に生まれました。
彼は、絵描きになるため、フランスの美術学校に通っていましたが、何故か最初は自転車レー
サーとして、次いでカーレーサーとして名を馳せてしまいました。

1907年、彼は弟Mauriceと共に、Voisinに飛行機の操縦を習います。
その自分の機体をVoisinに発注する際に、尾部形状の修正と翼断面の修正を依頼します。
この機体が種々の競技会で成功したことが、彼の航空機設計者としての第一歩になりました。

1908年1月13日にVoisin機に改良を加えた、独自のHenri Falman機は、Archdeacon競技会で優勝し、賞金50,000フランを手にします。
これによって、彼の名声は益々高まり、自分の航空機工場を構えるに至ります。
そして、1909年には最初の航空機操縦士訓練校を開設し、民間航空にも進出するなどの発展を続けていきました。

一方のMaurice Falmanは4つ違いの弟で、飛行機作りはVoisinの改良から始めています。
1908年にVersailles近郊に工場を建て、1909年から独自の飛行機作りを開始しました。
彼の設計する機体は主に軍用機、練習機が多かった様です。
549眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/24(日) 15:38:05 ID:???
リスク分散もあったのでしょうが、結局、1912年1月に二人の会社は合併して、Avions Hanri, Maurice et Dick Farmanとなりました。
この時、3番目の兄弟、Richard Falmanが入社して、彼らを財務面から支えています。
1913年、HanriはHF-20/21/22/23と言う複葉機を、MauriceはMF7/11と言った複葉機をそれぞれ製作します。
両機とも性能的には互角でしたが、Mauriceの機体は、支柱や張り線が多い分、頑丈さでは一歩勝っていました。

日本でもMaurice機は、「馬鹿烏」と言われつつも量産され、1920年代に至っても使用され続けていましたし、英国、スペイン、イタリアでも
License生産されており、ギリシャ、スウェーデン、デンマーク、ロシアへも輸出されました。
第一次大戦が勃発すると需要は急増し、大戦初期には両方とも偵察、爆撃任務に使用されていますし、日本でも青島戦に投入されたので
有名です。
本国フランスでは、1914年末には流石に旧式化し、両方とも練習任務に格下げされています。

次の機体からは兄弟の共同設計となり、推進式複葉機F.30を原型とした本格的な戦闘用航空機、F.40シリーズが1916年から製作されます。
しかし、既に推進式は限界に達しており、程なく夜間爆撃機に転用されています。
なお、この機体は、フランスの他、ベルギー、ロシア、英国にも輸出されています。
この機体は、爆撃、偵察、観測に用いられましたが、変わった任務として観測気球へのロケット弾攻撃と言うのもありました。

結局、Falmanは小型機の開発から大型機専門メーカーとしてその経営資源を移行し、最初に手がけたのが双発複葉爆撃機F.50でした。
しかし、F.50は生産開始直後に第一次大戦が終了してしまい、これを転用した旅客機、F.60を製造します。
この機体の製造と前後して、Falmanは、民間航空会社SGTAを設立し、これは後にエールフランスの母胎の一つとなりました。
また、大戦後には多角化の一環として、Henriが昔携わっていた自動車産業に進出したりもしています。
550眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/24(日) 15:39:08 ID:???
日本陸軍航空隊では、F.50を導入しようとしましたが、機体の強度不足が露呈して、F.60の爆撃機改造をFalmanに依頼し、その機体を採用。
この機体は、1922年から28年に掛けて、主力爆撃機として16機が生産され、使用されました。
これらは輸入品でしたが、中島が国産化を計画した時期もあり、その国産化案には、F.140と同様の四発化した機体も計画されていました。

さて、Falmanは自動車メーカーへの脱皮を図っていましたが、結局それは果たせず、Goliathの4発化版、F.140 Super Goliathを更に発展させたF.220
四発爆撃機とその発展型のF.222爆撃機、これを改造したF.224旅客機を製作します。
F.222は1930年に製作したF.220を改良したF.221を引込脚化したもので、高翼単葉、四発のエンジンは胴体からスタブを出して、主翼支柱と共に支えら
れており、そのエンジン配置も串形配置というものでした。
こんな旧式な形態のF.222ですが、夜間爆撃機として、第二次大戦では、ドイツ領へのビラ撒きやMunichのBMW工場空爆にも出撃していますが、流石に
旧式化しており、フランス降伏後は北アフリカで輸送機として使用されていました。

F.222を形ばかり近代化したものが、F.223で、無骨な機首は流線型となり、エンジンが空冷から液冷に換装されています。
この機体も、同様にドイツに対するビラ捲き飛行を行っており、ベルリン初空襲もこの機体が行っています。

次いで海軍向けの雷撃・偵察・爆撃機として提案されたF.271があります。
元々は1928年に試作されたF.168をリニューアルしたものですが、1936年に製作されたのにも関わらず、木金混製の複葉双発機で、
フロートと車輪を交換することの出来る水陸両用機となっているのが特徴でした。
流石にこれでは他社の機体に太刀打ちできないことから、試作に終わっています。
551眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/24(日) 15:40:27 ID:???
Falman社最後の軍用機は、自主開発のF.470です。
これは、1930年代のBCR計画で試作されたF.420多用途「戦闘機」を下敷きに、双発練習機として開発したもので、海軍に採用されて
います。
第二次大戦勃発後、海軍の乗員学校に配備されていた機体は、全機偵察機中隊に配備され、沿岸哨戒に用いられました。
占領後、14機がドイツに接収され、輸送任務に充当されています。

1937年1月3日、フランスの航空機産業国有化によって、FalmanはSociete nationale de constructions aeronautiques du Centre(SNCAC)
に吸収され、Falmanとしては活動を終えます。
SNCACでは、ドイツ軍の要請でSiebel Si-205の生産が行われていました。

ところが、Falmanは1941年春に、占領軍の要請で再起します。
但し、純粋にFalmanが再起した訳ではなく、戦前、Austin Sevenをコピー生産していた自動車
工場のRosengart Motor worksの傘下企業、Societe anounyme des usines Falman(SAUF)と
して設立されたもので、元のFalmanとは関係ないものです。
これは、大型機の工場を確保するためで、この工場はHeinkelの下請工場として、He-177、
次いでHe-274の開発、生産を行っていました。

この工場は、フランス解放後に接収され、Ateliers Aeronautiques de Suresnes(A.A.S.)と
改められて、He-274はフランス空軍向けにAAS.01としてそのまま生産され、各種実験母機
として使用されています。
552眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/04/24(日) 15:41:46 ID:???
組織自体は暫定的なものであり、1947年頃には消滅していますが、工場は1964年まで、
SUDの工場などとして残っていました。

ちなみに、Falman兄弟は、兄も弟も戦後、1950年代後半から1960年代前半まで生きて
いたりします。

てことで、次いでソ連編。
553名無し三等兵:2005/04/28(木) 23:05:19 ID:???
眠い人乙
とりあえずあげとくですよ
554眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/05/05(木) 08:51:55 ID:???
ちょっと、GW期間中はどたばたしてるので保守させて貰いますよ。
555名無し三等兵:2005/05/09(月) 00:20:15 ID:x+/ATzw0
あげ
556名無し三等兵:2005/05/09(月) 03:02:32 ID:???
もしもし、Farmanが途中でFalmanになってますよw
557名無し三等兵:2005/05/13(金) 15:06:01 ID:???
保守
558眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/05/15(日) 21:36:01 ID:???
>556
あじゃぱ。
スマソ。
普段でもそうなのだが、ついつい、LとRを間違えてしまうのよね。

つ〜こって、ソ連編に行く前に、Hispano-Suizaについてちょっと書こうかと。
でもって、現在、資料収集中。

漏れにもっと時間と金を…(ぱたり。
559名無し三等兵:2005/05/16(月) 13:04:11 ID:???
ヘンリー・ファーマンがフランスに帰化してアンリ・ファルマンになったのはいつのことだろう。
帰化後はHenri Farmanだが、イギリス国籍の時はイギリス綴りのHenry Farmanだったはずなんだよね。
560眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/05/22(日) 00:18:39 ID:???
>559
20世紀初頭じゃなかったですっけ。

で、>552補足。
後になって資料が出てくる…(ぐはぁ。

SNCACになってから、表向き「本物」のFarman社は出なくなっていましたが、戦後すぐの1946年、実験機として双子エンジンを
装備した高々度実験機SNCAC NC.3021 Belphegorが製作されました。
これは、SNCAC NC.130の系譜ですが(機体の規模は全然違う)、そもそもがFarman F.1000/1001から始まったものでした。
NC.3021試作機は、最初、Hispano-Suiza HS.12Zエンジンを2基搭載し、1つのプロペラを駆動するもので、後に、戦利品のDB610に
換装しています。

また、1952年にはFarmanの名称を冠した最後の機体、SCA-Farman F.500/521 Monitorが開発されました。
この機体は、1939年10月に初等練習機として、BelgiumからLicense購入して、Farmanで生産していた、Stamp S.V.4練習機の後継機(この
機体自体は、Falmanで生産されており、1950年代末まで使用されていた)として開発された機体で、全体として、DHC-1練習機に似た雰囲
気を持つ低翼単葉固定脚機でした。
F.500は、Renaultの140馬力倒立エンジン、後に170馬力に向上したモノを装備し、翌年開発された、F.520はRegnir170馬力エンジンを使い
最終的に、1955年に完成した型では、Salmson-Argusの260馬力エンジンを用いていました。

この機体は、空軍のSV.4後継機のコンペには間に合わず、フランス陸軍軽航空機隊学校用の初等練習機コンペに出され、Nord 3200と競争
試作となりましたが、Nordの方が成績優秀で、落選、その後、Falmanの名を冠した機体は消滅しました。

でもって、次回は、Hispano-Suizaに逝くけど、フランスにするかスペインにするか、それが問題だ。
561眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/05/30(月) 21:34:26 ID:??? BE:189072948-#
さて、Hispano-Suizaですが…。
この会社の本業はそもそも、Sociedad la Hispano-Suiza Fabrica de Automoviles S.A.と言う高級車メーカーから出発しています。
Hispano-Suizaとは、「スペイン・スイス」という意味で、主任技師となった、スイス人、マルク・ビルキヒトに由来します。
彼は、Genevaに生まれ、機械学校で学んだ後、兵役で砲兵となり、その後、国営軍事工場で、機械工学、空力学、冶金工学を当時の一流の学者から学びました。
その経験を生かし、除隊後、BarcelonaのQuadoroと言う自動車メーカーに就職しますが、この会社は資金難で倒産、次いで別の会社でエンジン設計の職にありつき
ますが、これも、破産し、彼は路頭に迷うのですが、彼の技術的センスはスペイン産業界でつとに有名であり、その会社の債権者会議で、中心メンバーが彼に仕事
を与える様、他のメンバーを熱心に説き、これが複数の賛同者を得て、1904年に自動車メーカーとしてのHispano-SuizaをBarcelonaに設立します。

国王AlfonsoXIIIもこの人の設計した車のお得意様で、1910年にはフランスの自動車レースで勝利し、スペイン国民を熱狂させたりしています。
562眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/05/30(月) 21:35:47 ID:??? BE:265882695-#
その余勢を駆って、1911年4月にParis郊外にフランス支社La Societe Francaise Hispano-Suizaを設立し、此処に工場を建設して高級車の製造に
乗り出すのですが、折から、第一次世界大戦が勃発し、フランス支社の方では、軍部の要請を受けて各種のエンジンを開発します。
中でも、1914年11月に開発されたA型と呼ばれるエンジンは、90度に配置されたアルミ一体鋳造製の2個のシリンダーブロックの採用で、薄肉の
深いクランクケースに十分な強度を与え、潤滑油は全てクランクケース内部にあり、強制給油によってエンジン全ての部分を循環すると言うもの
です。
その他の部分でも画期的なエンジンであり、従来の直列6気筒エンジンに比べると全長が短く、コンパクトで、星型のロータリーエンジンより直径が
小さく、航空機の前面面積を減らすことが可能で、パワーウェイトレシオも優れていました。

これは1915年から製造が開始され、これを基本に、改良型が作られていきます。
一般的に、Hispano-Suizaのエンジンの製造品質は非常に良く、十分に注意すれば、20時間のオーバーホール間隔で、信頼性と性能を維持する
ことが出来ました。
このエンジンの問題点は、シリンダの冷却不足、排気バルブの変形、減速ギア付きエンジンでは、不均等に熱処理されたヘリカルピニオン、クラ
ンクシャフトの疲労破壊が挙げられており、1917年夏にはクランクシャフトが4時間でトラブルを発生させるため、SE5aに深刻な問題を発生させ
ました。
この際、直接駆動方式への変更も考えたようですが、減速ギアの改良などを施したエンジンの製造で乗り切りました。
また、1917年にはプロペラ軸内を通して機関砲を発射するMotor Cannonを開発し、最初にSpadXIIに採用されています。

と言うわけで、しばらくHispano-Suizaを取り上げてみる。
563名無し三等兵:2005/05/30(月) 22:12:37 ID:???
>560の最終行は折衷にしたわけですね
564  :2005/05/31(火) 20:33:54 ID:???
あげかな
565名無し三等兵:2005/06/03(金) 17:51:00 ID:???
保守。
566名無し三等兵:2005/06/05(日) 02:34:31 ID:???
眠い人ばかりに頑張ってもらうのもあれなのでネタを投下。
全く興味をもたれない中国ネタだけどw

中華人民共和国の航空産業

・航空産業の黎明期
中国での航空機研究や航空宇宙産業は1950年代に始まった。
1951年4月17日、国家中央軍事委員会と政務院(現在の国務院)は
航空産業設立の決議案を発布し、ここから中華人民共和国の航空産業が
始まった。西安、上海、瀋陽、成都の4地域に航空機メーカーが設立された。

航空産業は設立当初、第三機械工業部と航空工業部が管轄していたが
性能や整備への追求が乏しかった。拡大し複雑化する一方の航空産業を
発展させる事よりも、いわゆるソビエト式は現在の部署の状況のままで
製品を生産するだけだった。航空工業部は数千機の軍用機を製造したが、
ほとんどが時代遅れのものになるか、改良発展を試みる事がないので
時代遅れになりかけていた。

産業の環境も中ソ断交や文化大革命の影響もあって航空産業は混乱が
続いており、国務院は運営を一本化するために航空宇宙工業部に
統合化するなどして対応を試みたが、抜本的な解決にはならず
社会主義市場経済の導入に活路を見出す事になる。
567名無し三等兵:2005/06/05(日) 02:36:11 ID:???
・民営化による産業の改革
1993年、航空宇宙工業部は中国航空工業集団有限公司(CAIC)という
中国航空メーカーなど産業を統括する目的で国務院の直下に置かれた
国有民間企業に転換され、開発・生産・輸出と航空産業全般を手がけた。
111の企業、36の研究所、6つの大学院と大学に56万人の従業員を擁し、
軍用機、民間航空機、ミサイル、航空機用エンジン、航空機用機材の
研究・開発・生産を担当するだけでなく、最新の航空力学の研究、生産計画、
テスト飛行、材料研究、生産技術、物理計算、自動制御システムを手がけた。
また計器類、ガスタービン、自動車、オートバイなどの製造工場を持ち市場を形成する
ことにも成功している。70以上の国と取引をし、10カ国以上の国々に航空機や
エンジン、航空機搭載機器を輸出し、20を越す海外の製造業者向けに
部品やコンポーネントを製造した。
568名無し三等兵:2005/06/05(日) 02:37:34 ID:???
・二つの巨大企業の誕生
この民営化は大きな変革を与えた。従来、中国の軍用機は品質上深刻な問題を
抱えており、その原因は製造業者ごとに製品管理方法がばらばらだったからで、
ほとんどの中国機は1975年に生産工場に回収され、80年代に軍用機に整備上
深刻な問題があると報告された。

しかし、民間用航空機分野にアメリカやヨーロッパの企業が進出し(特にMD80や
MD90の部品製造に関わった上海飛機工業公司)、中国の航空機生産の
標準レベルが明らかに上昇した。西側の基準が厳しいことから、中国の
品質管理が改善された。中国軍機は以前に比べはるかに優れた仕上がりに
なっていると報告されており、民間のノウハウが軍用機生産ラインにもたらされた
事を示している。こうして中国は更なる発展を求めて市場競争原理を本格的に
導入する事になる。

99年7月中国は56万人の従業員を擁する中国航空工業集団有限公司(CAIC)を
中国航空工業第一集団公司(AVIC-I)と中国航空工業第二集団公司(AVIC-II)に
分割し、両社は協力関係であると同時に競争相手になり、競争力を持たせる事に
なった。政府の監督下にある国の持ち株会社として経営され、政府の投資に
よって運営される経済団体である。両社の活動範囲は似ているものの、一般的に
AVIC-Iは大型・中型作戦機、AVIC-IIは作戦支援機やヘリコプターを主に製造する。
569名無し三等兵:2005/06/05(日) 02:38:47 ID:???
・中国航空工業第一集団公司(AVIC-I)
AVIC-Iは軍や民間向けに航空機、エンジン・航空機搭載機器、戦闘システムの
改良、製造、販売、維持メンテナンスを行っている。軍向けに戦闘機、戦闘攻撃機、
爆撃機、輸送機、練習機、偵察機を生産している。産業用ガスタービン、自動車、
オートバイ、冷蔵庫、環境保護製品など非航空分野も製造し、主要8部門、
3000種類以上の製品を製造している。

航空機のリースや保守点検など航空ビジネス全般以外にも地盤工学、建築、
不動産も含まれている。53の大中の工業会社、31の研究・調査機関、
19の専門機器メーカーやエンジン輸出企業、資源開発企業、
科学研究開発企業を傘下に持つ。4万5千人の研究機関関係者を含め
24万人の従業員を雇用し、資産総額349億人民元になる。

AVIC-Iの主な企業として成都飛機工業集団有限公司、西安飛機工業公司、
中国南昌飛機製造公司、瀋陽飛機工業集団有限公司があげられる。
これらの企業はボーイング社など海外メーカー向けの部品を製造している。
570名無し三等兵:2005/06/05(日) 02:40:02 ID:???
・中国航空工業第二集団公司(AVIC-II)
AVIC-IIは54の大中の企業と3つの研究調査機関を傘下にもち、他に22の企業、
研究所、専門機器メーカーが加わる。2003年の報告によると21万人の従業員を
雇用し、資本金126億人民元、資産総額315億人民元になる。ヘリコプター、
輸送機、練習機、攻撃機、UAVなどの軍民の航空機や航空機搭載部品の製造を
行う。また自動車やオートバイ関連のエンジンやパーツ、繊維機器、医薬品、
医療機器、環境保護製品など非航空機分野も製造している。

航空ビジネス全般以外にも工学技術の開発・立案、金融業、不動産取引、
仲介業、貿易業、地下資源開発を行っている。政府所有の土地利用権利などを
含む資産の運用を任されており国内外の株式運用や投資・金融を行っている。

国産エンジンの製造や、国産沿岸防衛対艦ミサイルを開発し、改革解放を受けて
各国との国際協力を独自に持ち始めており、傘下の洪都航空工業公司はパキスタンから
資金を調達して自主開発したK-8練習機を製作してパキスタン、エジプト、スリランカ、
ザンビア、タンザニアへの輸出に成功している。

中国の代表的な航空機メーカーがまとまったらカキコの予定・・・
571眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/05(日) 12:58:46 ID:??? BE:212707049-#
>563
いあ、高級車工場から出発して、航空エンジンの製造に乗り出したのが、1915年。
スペイン本社の航空機製作事業が立ち上がったのが1916年なので、編年体で逝くと、フランスが先に来ちゃったと。

>566
モツカレさまでつ。
中国は余り資料がないので助かります。
572眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/05(日) 16:32:17 ID:??? BE:378144588-#
1916年12月、主力のA型シリーズ、試作に終わった4気筒のB型に加え、新たに大型で300馬力級のH型を投入します。
第一次大戦が終わった時点で、全モデルの出荷数は、49,893基で、内訳は150〜180馬力が12,593基、200〜220馬力が28,977基、300馬力が
8,323基となっていました。
また、英国のWolseleyではW.4APythonとしてA型をコピー生産し、これに改良を加えて高圧縮比を採用して210馬力とし、B型では、減速ギアと
バランスウエイト付クランクシャフトを有していました。
クランクシャフト折損で、SE5aに重大な問題を出したのは、このエンジンです。

一方、米国では、1916年にWrightとMartinの合弁企業、Wright-Martinに於いて、Hispano-Suizaエンジンの改良型が生産され、コンロッドなどを
改良した180馬力Wright-Hispano TypeEが多数生産され、H型エンジンも少数が生産されました。
しかし、1919年にWright-Martinは解散し、その技術的遺産はMacTracksに移りますが、10月にはWright Aeronauticalが設立され、その中核技術
として、Hispanoエンジンは命脈を保ち、最終形はA型の改良型で200馬力のWright E-4Tempestに発展しています。

このほか、フランスではアリエス、バロー、ブラジエ、シェナール&ウォーカー、デロネイ−ベルヴィユ、ドゥ・ディオン−ブートン、ドリオット−フランド
ラン−パラン、ファイブ−リル、ルフラヴィ&シエ、メイエン、プジョー、SCAP&ヴォアザン、イタリアのイターラ、ナグリエッタ&SCAT、スペイン本社、
ロシアの帝政ロシア軍需工廠、日本の三菱に製造Licenseが渡されました。

第一次大戦後も、フランスはParis郊外にあった工場では、継続してエンジンが生産されており、主力工場に行く道路の名称は、カピタン・ギヌメール
と改称されました。
また、Hispano-Suizaでは、これらのエンジンの更なる改良に努め、数多くの飛行記録を打ち立てたエンジンとして名を馳せます。
この中では、60度V型12気筒エンジンが主に用いられ、他に直列6気筒、W型12気筒、W型18気筒も製作されていました。
573眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/05(日) 16:33:13 ID:??? BE:236340858-#
ところで、Hispano-Suizaには空冷エンジンを作る予定がなかったかと言うと、そんなことはなく、1929年にかつての提携先であるWrightから、
WhirlwindのLicenseを購入し、それに基づいた星形エンジンを2500基生産しています。
その中でも、複列14気筒の小型エンジン14ABは650〜800馬力を発揮し、大型の14AAは、1,100〜1,350馬力を発揮していました。
但し、Gnome-Rhoneのシェアが非常に高い状態では経営資源を液冷、空冷に分散投資するのは効率が悪く、航空省の指導で、液冷エンジンに
特化することとなりました。
このエンジンは、Breguet Br.691攻撃機に採用されていましたが、生産中止で最適なエンジンの選定に苦労しています。

1933年、従来のエンジンと一線を画す、戦闘機用12Yエンジンが開発されます。
同時期に開発されたMarlinと比べると、排気量が後のGrifonくらいあったのにも関わらず、軽量でした。
但し、回転数はMarlinの様に3,000回転まで上げずに2,400回転までしか上げなかったため、出力は低いものでした。

M.S.406に採用された過給器付き860馬力の12Y-31に加え、最も大量に生産されたのが、Turbomeca製過給器を装備した12Y-45で、このエンジンの
出力は910馬力で、いずれもMotor-Cannonが装備可能となっていました。

このエンジンも、日本の三菱航空機を初め、各国に売れましたが、License生産権を購入し、本格的に改良したのは、ソ連のKlimovで、GUAP
(航空産業理事会)の方針によって、12YのLicenseを購入します。
1933年後期に契約が締結され、最初のエンジンVK-100は1935年に製作され、単段式過給器を付けて750馬力、翌年には改良を加えて100Aとなり、
2,400回転で860馬力を発揮、1937年のVK-103では二段式過給器を取付け、1939年のVK-103Aでは960馬力となり、これに100オクタン燃料を用い
ることで、1,100馬力になっています。
574眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/05(日) 16:35:11 ID:??? BE:425412498-#
更に回転を上げて、2,700回転としたVK-105は、1,000馬力を越えて最終的に1,260馬力となっており、エア・スカベンジ・バルブを用いたVK-107は
1942年に、93/95オクタン燃料で1,400馬力、1943年には100オクタン燃料で1,650馬力に達しました。
このVK-100から発達したエンジンは、最終的にVK-109で、2,073馬力に達しています。

ソ連のHispano-Suiza派生エンジンの生産台数は、1935〜47年で約129,000基が生産され、このうち、VK-105だけで、101,000基に上っています。

さて、フランスでもソ連と類似の発展を遂げ、1940年の12Y-51で、1,100馬力に達し、89terは1,280馬力となって、V.G.39戦闘機に用いられ、
DB系列の様な直接燃料噴射に変更した12Zでは、2800回転で1,800馬力に達しています。
しかし、時既に遅く、フランスは崩壊しました。

幸い、工場は戦前にフランス南部に移転していたため、占領による協力は避けられましたが、以後は細々とD.520などの動力用に生産や研究が
続けられているだけで、ドイツによる占領後は、連合軍によって工場が破壊され、生産活動は停止しました。

但し、技術が失われたわけではなく、戦時中は12Zの改良に努め、これはD.520Zの動力となり、また、これを2基繋いだ、H型24気筒で4,000馬力
の際物、24Zとして結実しました。
このエンジンは、4個の燃料噴射ポンプ、横断シャフトに2個の2段式過給器を持つもので、1949〜52年の間にテストが繰り返されました。
なお、これは、Arsenal(海軍工廠航空部門)が試作していた、Junkers Jumo213エンジンを2基タンデムに繋いだ2,250馬力の12H、更に12Hを2基
垂直対向に繋いだモンスターエンジン、24Hエンジンに対抗するものでした。
575眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/05(日) 16:36:20 ID:??? BE:106353836-#
閑話休題。
この24Hエンジンには、2本のクランクシャフトを2基ギアで繋いで結合し、プロペラシャフトを駆動、エンジンには左右に2基Superchargerが搭載され、
左側は上側のエンジン用、右側は下側のエンジン用に圧縮空気を供給するもので、プロペラの駆動装置は、後方の24Hエンジンから前方エンジン
のシャフト内部を貫通するようになっており、小型の5枚羽根ロートルプロペラを駆動する様になっていましたが、実際には4,000馬力、究極的には
8,000馬力を出す計算でしたが、実際には半分の動力も伝達できなかった様です。
ついでに書くと、Jumo213を2基繋げた12Hは、更にカップリングで結合して、Arsenal V.B.10試作戦闘機の動力源となりました。
上まぁ、ドイツの更に斜め45度上を逝く状況であろうか、と。
閑話休題終わり。

もう一つ、2,000馬力級の12Bエンジンは、戦争終了後の1945年に開発が完了して試運転を行い、1947年には2,200馬力に達していますが、これも
時機を失し、実用化には至っていません。
試作エンジンでユニークな機構のエンジンとしては、1938年に開発されたものがあります。
これは、ドイツのHZ計画と同じく、胴体内に12Xirsエンジンを搭載して3段のコンプレッサーを駆動し、翼搭載の12Y-32/33エンジンに過給する機構
で、高々度飛行用の試作機Nord N.C.150で実際に使用されています。

Hispano-Suizaは、多角化を進め、機関砲や砲塔の製造なども行っています。
高級車の製造自体は、1936年に終了していますが…。
576眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/05(日) 16:37:33 ID:??? BE:177255465-#
エンジン部門は、武器製造部門と共に、一方の雄として、君臨します。
戦後、いち早くジェット化に対応しようと、1946年にはRolls-RoyceからNeneのLicenseを取得し、SNCASE S.E.535 Mistral
(De Haviland D.H.100 VampireのNene搭載版、俗称Elephant Ear Vampire)やDassault M.D.450 Ouragan、Mystereの初期
試作機の動力源として採用されるなど、初期のフランス空軍機のエンジンとして用いられていました。
NeneのLicense生産は、Mk.101/102/104/105とアフターバーナー付きの102Bが主に作られ、独自に、空気流量を増加し、
空冷式中空タービン静翼を採用したR.300を製作しています。
これは、Rolls-Royce Tay250RのLicense生産のため、1951年に開発破棄されました。

また、これに代わる発展型として、Tayの空気流量を更に多くして、回転数、温度を更に高めたVerdonが製造され、MystereIV
戦闘機に搭載されています。
しかしながら、Hispano-Suizaのエンジンは全て遠心式で、軸流式の戦闘機用エンジンとして、ライバルのSNECMAが、Atarを
開発したため、以後は苦しくなっていきます。
まずは、軸流式エンジンとして、Rolls-Royceからの提案で、Sud CaravelleとDassault Super-Mystere戦闘機の装備に参画し、
その経験を元に、1954年に軽戦闘機用小型軸流ターボジェットエンジンのR.300を設計しますが、設計コンペに敗れて、1956年
年には開発中止となってしまいました。

結局、エンジン部門はこの後立ち直れず、Dassault MirageIIIC/E用補助ロケットのSEPR844の一部製造などを行いますが、
不況には打ち勝つことが出来ず、1968年12月、遂にエンジン部門は切り離されて、SNECMAに買収されてしまいました。

と言うことで、次回は、機体メーカーとしてのHispano-Suizaなんぞ。
577眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/12(日) 17:45:45 ID:??? BE:70902926-#
さて、1916年にSociedad la Hispano-Suiza Fabrica de Automoviles S.A.の航空機部門として、
Sociedad La Hispano-Suiza S.A.がGuadalajaraに設立されます。
当初、この会社は、"La Hispano"と呼ばれていました。

この会社の工場の敷地面積は、当時としては広大な8,500平方メートルに及び、機体とエンジンの一貫生産が可能でした。
此処でもHispano-Suiza 8F系のエンジン製作が開始され、次いで、1919年にGeoffrey De Havillandの兄弟である、Hereward De Havillandがスペインに
来訪し、数機のD.H.4と16機のD.H.9を英国から持ち込みます。
この機体に、Hispano-Suiza8Fbエンジンを搭載したのが、La Hispanoで、これをきっかけにDe HavillandとLicense契約を締結し、それに基づく技術移転を
受けて、1922年からD.H.9を約130機生産します。
これは、スペイン陸軍航空隊に配備され、CASAの製作したBreguet19に代替されるまで、爆撃機として用いられました。

その生産が完了した頃、1928年に、政府は主力戦闘機として、Nieuport-Delage NiD52を採用します。
このLicense生産が、La Hispanoに命じられ、1930年7月から部品状態で引き渡された最初の24機が組み立てられ、引き渡され
ました。
この機体は、フランスの主力戦闘機として、発展型のNiD62シリーズが725機採用されたもので、一葉半で500馬力の
Hispano-Suiza 12Hbエンジンを搭載し、2丁の7.7mm機銃を装備していました。
NiD52は、フランスの原型機では脚に装備されていた冷却機構を改造し、胴体下に冷却器をぶら下げ、機関銃はVickersMk.Iか
Mk.IIに換装しています。
578眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/12(日) 17:46:40 ID:??? BE:159530639-#
閑話休題。
 NiD52は操縦士達には蛇蝎の如く嫌われていました。
 舵は重く、効きが悪く、狭い脚間の為、操縦士が着陸時に判断を誤ると、途端にGround-loopに陥るという欠点の他、メーカーが
 保証していた最高速度260km/hには、どの機体も至らず、いくらかの機体で225km/hが出せたに過ぎなかったからです。
 その上、事故を度々起こし、多くの機体が修理中になっていました。

こんな機体でしたが、政府は更に、パラソル翼単葉に変更した発展型のNiD82買い付けようとしましたが、もたもたしているうちに
内戦が勃発してしまい、この機体の導入はなりませんでした。
ちなみに、NiD52はスペイン内戦ではソ連製戦闘機が導入されるまで、共和国軍の主力戦闘機として使用されていました。

話を少し戻して、1931年、スペイン王制打倒、共和制施行に伴う混乱の中で、"La Hispano"はHispano-Suiza Seccion de Aviacion
として、自動車部門の子会社から分離独立し、独自の道を歩むことになります。
それに先立つ1930年、フランス人技師Andre Bedoiseauxを招聘し、パラソル翼単葉で、Hispanoが製作したWright Whirlwindを装備
した複座観測機、E.30を製作します。
この機体はオーソドックスな作りで、なおかつ頑丈なため、好評を以て軍に迎えられ、1932年から1934年に掛けて、18機が空軍に、
7機が海軍に採用されました。
579眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/12(日) 17:48:19 ID:??? BE:35451432-#
また、1934年にはスペイン戦争省の空軍装備近代化計画の一環として、De Havilland Moth MajorやTiger Mothを範に取った、
複葉複座の初等練習機、E.34を製作します。
これは、試作機が製作された直後に、内戦が勃発したため、工場移転などの絡みもあってなかなか生産が進みませんでしたが、
25機発注されたものの内、最初の5機はAlicanteに疎開した工場から1936年10月に、その後順次生産が軌道に乗り、引き渡され
ていきました。

疲れたので此処まで。
次回は、スペイン戦争期から大戦後までの流れについて。
後、CASAとAISAは取り上げないといけないなぁ。
580名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:00:10 ID:???
ようやく中国航空メーカーの一つ目がまとまったのでアップ。
眠い人の話をぶった切るようになるけどお許しを。

・成都飛機工業集団公司(CAC)
成都飛機工業集団公司は成飛の略称で知られる。1978年以来、黒字経営が続くなど国家を代表する
模範的企業として政府から高い評価を得て数々の賞を受ける、地上にある天国と形容される風光明媚な
成都平原に拠点を構える中国を代表する戦闘機メーカーである。

1956年4月、中国はソ連の援助により全国156ヶ所に工場建設の計画を中ソ両国は合意した。この計画の
第2プロジェクトが翌5月に結ばれ19の航空機製造工場建設計画が第二機械工業部により提案され、
同年12月に工場用地の指定を受けて戦闘機製造工場として四川省成都に132廠の設立が決定した。
1958年7月、第一機械工業部第四総局は工場名を峨嵋機械廠と命名し、10月18日に建設が開始された。

殲5の原型機は112廠(現在の瀋陽飛機)が1954年10月から試作を開始し、1956年7月19日に原型機の
初飛行に成功し1959年5月に生産停止するまでにソ連からのノックダウンキット13機を含め767機が
生産された。1961年に新型の殲5甲型の生産計画が開始され132廠が開発生産の担当になった。
殲5甲は機首にレーダーを搭載した夜間戦闘能力を有するタイプで、統合管理責任者・工作機械管理責任者・
冶金管理責任者・工程管理責任者の4人の責任者による開発管理体制が作られ、生産現場と設計チームは
双方で計算を行ってのチェック体制を敷いて双方が時間をかけて検討を行う方式を取った。
581名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:04:24 ID:???
1962年には経営人事権を党が任命した工廠長が持つように条例が改正された。殲5甲型の生産に備え
拡張に努力し1964年10月には敷地面積507.4ヘクタール、工場面積約30万u、各種工作機械3349基、
総資本額1億8千万人民元、従業員1万人以上に成長した。同年11月、殲5甲型は初飛行に成功した。
1965年に部隊配備が開始され、1968年に生産が終了し、現在は殲5・殲5甲型は全機退役している。
132廠は殲5をベースに独自設計した複座練習機 殲教5(JJ-5)1号機が4月に完成し、2号機が5月に
初飛行に成功し、12月には量産の正式許可が下りた。殲教5は長く生産が続き、1983年まで生産が
続いており、計974機が生産され現在も中国海軍や第三世界で現役にある。また中国空軍の
アクロバットチーム八一飛行表演隊で現在も使用され中国の航空ショーではお馴染みの機体である。

1961年にMiG-21F-13とR-11F-300エンジンのライセンス生産に中ソは合意し、技術資料と機体、
分解した状態のエンジンと中国では入手できない原材料が引き渡された。MiG-21に興味を示した
中国は50年代末にはすでにライセンス生産を打診したが、そのような戦闘機は存在しないの一点張りで
あったという。開発時の名称は62式。しかし、中ソ断交によりソ連技術者が引き上げてしまい、図面と
見本の機体を手本に工作機械から工具まで一から作っての手探りで作業をすることになった。
技術資料は出鱈目が多く参考にならず見本機だけが頼りであった。
582名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:06:43 ID:???
試製東風113高速殲撃機の失敗を経験に1965年6月、第三機械工業部は62式の量産の準備を132廠に
命じ、量産原型機の製作は112廠が担当とした。まずは技術情報をきちんと調べ飛行試験を入念に
行ってから、量産技術を研究して量産するという手順をとることになった。機体の技術情報を得るために
39項目を決め、うち27項目は3300回に及ぶ風洞試験を行って入念に調査をした。こうして1965年11月に
量産原型機1号機が完成し、1966年1月17日に初飛行に成功し殲7と公式に命名され、量産原型機の
試作機12機が112廠により製作された。飛行試験をクリアした1966年12月28日に殲7Iの量産が正式に
認可された。殲7から殲7Iへの変更点は空気取り入れ口の拡張や機関砲の増設、R-11F-300の
独自改良型 渦噴7を搭載などである。殲7やソ連から入手したMiG-21は少数ながらも60年代後半の
アメリカの無人偵察機との交戦で中核戦力を成し量産計画への期待が高まったが、CACは1968年末までに
新工場を設立して総投資額386万人民元をかけて第一次生産ライン構築のおおよそ完了したが、
この時期にCAC最大の危機が訪れた。

1966年から文化大革命は132廠にも飛び火し、党派閥の代理戦争が発生して大混乱となり、1967年3月には
国家中央軍事委員会が介入して軍事統制委員会を設けて132廠を接収して軍の管理下に置いた。
1968年2月に革命委員会が設立されて、対立と派閥抗争が激化し、この間工場は操業が停止状態で
多くの幹部や技術者、工員が逃げ出し、この騒動は中国中に知れ渡り問題児扱いされた。
工廠は毎年赤字が続き、1966〜76年の損失は累計5815万人民元にも達している。
1972年になって132廠に臨時党委員会を設置されて軍の統制から党の統制に移った。1976年に4人組が
権力の座から追われて文化大革命が終結し、1978年には132廠は再び党が任命した工廠長を責任者とする
体制に戻った。こうして部内の整理、6つの分工場と試験飛行場の整備・改修を行って機能を回復した。
583名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:11:37 ID:???
こうした混乱により計画は大幅に遅れ殲7Iの初飛行は1970年3月であったが、量産開始は更に遅れ
1976年6月からであった。しかもすぐに生産が停止され生産数は少数にとどまり、1985年を目処に
殲7を年間200機を生産する規模の工場を目指し工場の近代化がはじまった。1979年に中越紛争に
殲7Iが投入されてがベトナム空軍のMiG-21MFと交戦し劣勢を強いられて、すでに時代遅れで
あることが現実となって現れていた。他の計画を考えると生産開始時にはすでに殲7Iが能力不足と
認識していたようである。

1975年に殲7Iの能力向上計画を第三機械工業部を正式に命じ、1978年12月30日に余明文が操縦する
殲7IIは初飛行に成功し、各種飛行試験を行い量産仕様が翌年に決定、1980年から量産が開始された。
かねてよりの懸案であった脱出装置の改良(HTY-2型脱出座席が最終的に完成したのは84年)、
渦噴7Aの改良型 渦噴7乙の搭載、翼下への増槽搭載能力の付加、電子部品の改良が行われた。
殲7IIは10種類以上の派生型が作られている。殲7IIは発展途上国には魅力的な存在で殲7I以上の
販売実績を示すことになる。殲8もこのII型がベースになっている。

1970年にCACを構成するもう一つの重要なメーカーが設立された。中国国内の空力シミュレーション関係施設や
実験用施設を統合した、錦江川に建設された611所(現在の成都飛機設計研究所(CADI))である。
以来、中国が独自改良・独自開発する超音速戦闘機を生み出す頭脳として今までに1200の研究項目を発表し、
航空機の設計を中心に航空宇宙分野などの最先端の研究開発を行っている。
現在、1200名の従業員を擁し80の分野の研究を行っている。CADIはCACの開発する航空機設計を
一手に引き受けており、殲7の改良やFC-1やJ-10の設計・改良などを手がけている。
584名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:14:38 ID:???
殲7IIが殲7Iの部分改修を行ったものに対し、これと平行して後の殲7IIIになる大規模改修計画が進められた。
部隊運用報告から改良項目をまとめて1975年5月に第三機械工業部は計画を開始し、1976年に132廠と
011廠(現在の貴州航空工業集団公司)に対して技術検証と生産準備を命じた。1977年9月にメーカー側からの
報告と計画案が提出され、1978年6月に611所、132廠、011廠の共同開発が決まり、10月には設計担当は
611所、主要部品と最終組立は132廠、主翼および降着装置は011廠が担当することが決定した。

1976年と1978年には海外視察団を派遣してMiG-21MFを視察し、132廠に実機が届けられた。1979年10月から
1980年5月にかけて実機を調査して図面が製作された。1980年6月3日、国務院と中央軍事委員会は正式に
開発許可を出し、国家重点プロジェクトに指定した。1981年12月31日、611所は生産に必要な精密図面を完成。
総部品数15768、殲7Iとは80%が異なる全く別の機体となった。1983年1月から原型機の部品試作が開始され、
1984年2月6日に原型機1号機が完成、1984年4月26日に初飛行に成功し、1987年12月に量産型の仕様が
確定し生産が開始された。

脱出装置にはHTY-3が採用され、レーダーにはJバンドのJL-7対空捜索レーダー、HK-03D光学式照準機、
930-IIレーダー警戒装置(生産後期型はKJ-8602)など電子兵装に最新のものや従来には無かった装備が
搭載され、エンジンは推力6.6tの渦噴13になった。しかし、殲7IIIは大規模な改修により価格が高騰した上に、
運動性能が低下したことなど非難されたが、最も空軍将兵から問題視されたのは中国空軍では最新でも
世界的には時代遅れであることであった。1979年当時のベトナムの主力戦闘機で21世紀を迎えるというのは
悪夢の再現になるのは確実であった。湾岸戦争で新世代の兵器の別次元の強さは中国に大きな衝撃を与え、
第2世代戦闘機などの兵器がすでに使い物にならない事で認識が固まったようで、殲7IIIは発展型を製作するなど
対応が試みられたが少数生産で終わる事になった。
585名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:20:07 ID:???
とはいえ殲7系列の開発は続いておりF-7Mをベースにした殲7EBの開発が行われ、これは主翼を
全面的に改良して1.17m延長し、二重前縁後退角にして従来に比べ高い運動性能を持つ機体に
したもので、90年に初飛行、93年に完成し同年から配備が開始され八一飛行表演隊も6機を使用している。
2004年にはF-7PGとしてパキスタンに配備が開始されている。またエアインテークを機体下方に移し、
A-7コルセアに似たデザインとなったBVR戦闘能力を有する殲7FSが発表されている。イスラエル製の
EL/M2032レーダーを搭載し、APG-68に換装する事も出来る輸出向けの機体である。殲7FSはCACが
自ら計画して完成させた機体で数千万人民元を投資した。この機体はミラージュ2000の1/5の価格で
販売すると提案している。さらにこれを発展させた渦噴14を搭載しカナード翼を装備し、エアインテーク形状を
F-16と同じような配置にした完全に第3世代戦闘機の能力を持つ殲7MGの計画も発表し、第3世代戦闘機の
低価格路線で市場開拓を狙っている。
586名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:21:13 ID:???
80年代に入るとケ小平政権の改革解放により戦闘機輸出が活性化して殲7Iを改良したF-7Aが主力商品として
成長した。さらに西側技術が取り入れられ殲7IIをベースにGEC-マルコーニ製HUD/WACを搭載するなど
各部を西側電子機器に換装、エンジンに渦噴7BMを搭載し1300項目を改修した輸出名称F-7Mエアガードを製作、
1982年五月に初飛行に成功し、1985年にはパキスタンに輸出が開始され輸出主力機種になった。
F-7CP開発計画(FC-1の原計画)が大幅に遅れたためにAIM-9とマジック運用能力やウェスタン・テクノロジー社と
共同してマーチン・ベーカー製脱出装置やGRIFO-7レーダーを搭載してパキスタン規格を合わせて開発した
F-7MPエアボルト、中国製電子機器を使用するスリランカ空軍向けF-7BSなどが作られた。
80年年代〜90年代の輸出実績は以下のとおりである。F-7シリーズは80年代から90年代にかけて合計で
564機を輸出し、現在も能力向上型の輸出が続けられている。

F-7A系輸出実績
バングラディッシュ16/エジプト80/イラン44/ミャンマー6/北イエメン6/パキスタン75/スリランカ4/アメリカ12
計243機
F-7M系輸出実績
バングラディッシュ21/イラン68/ミャンマー29/パキスタン140(120機はMP)/スリランカ5(MでなくBS)
スーダン6/ジンバブエ52
計321機
587名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:23:20 ID:???
1979年、132廠は成都飛機公司の名義で、海外貿易を行うことになった。また同年12月には民生部門を
設立してオートバイ部品の製造を受注して、海外・民間への販路を拡大し始めた。1980年、第三機械工業部の
許可を得て、工廠自身が経営責任を負う形に転換し、軍の請負工場から自主経営の多角的な生産能力を
有する工場を目指して前進を開始した。

1982年には航空産業の全面整理が行われた。132廠では統一指導とラインごとの管理を原則とし、部門ごとの
純利益と売上責任の明確化を打ち出し、計画・経営管理を強化し4つの分工場を独立採算制にするなどの
改革を行った。1984年には国務院は工廠長の自主経営権を拡大し、132廠はそのモデル企業となった。
同年5月、国防化学工業委員会の指示で新型戦闘機開発・生産の研究命令を出し、132廠と611所は合同で
成都飛機設計研究所(CADI)を設け戦闘機開発の専門集団を設立した。1985年にはパキスタンと共同で
殲7CP計画が開始されCACが担当になり、1987年に海外メーカーと共同して第三世代型戦闘機の開発が
行われる事が正式に発表されCADIが設計、CACが生産を担当する事になった。これは後のFC-1である。

「対外開放・国内経済活性」「軍事技術の民間転用」「軌道を変え、型を変える」の方針で、企業内の体質を変革し、
8つの分工場を14の専門工場に分割し、積極的に外国の機械類を導入して急成長を遂げる事になる。
588名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:26:34 ID:???
ドライ・クリニーング機やオートバイ・エンジン、工作機械などの民間部門も成長し、1987年には
国内オートバイ19メーカーの一つになった。1988年には国際的な航空産業へ参入を開始する。
中国国内向けのMD80の生産に参加して、機首部分の生産をマグダネル・ダグラス社と契約した。
またこの年は国務院と民間用軽自動車の生産契約を結んび、メーカーのハイテク化と
オートメーション化のモデル工場に指定され、中国国内生産民間自動車の空白の歴史を
埋めることになった。1989年7月、132廠と611所は航空宇宙工業部の許可を受けて
中国航空工業集団成都飛機工業公司として創立され、航空機の開発・生産を一本化して行う企業が誕生した。

1992年、軍受注の航空機の開発・生産を体、航空機の部品・コンポーネントの輸出と民生品生産を
両翼とする「両翼を持つ体」を経営戦略に掲げた。4月には民生品部門が独立採算制の適用が
認められ独立企業へと向けて動き始めた。1993年、等級による給与制を改変し、各担当ごとに
給与が異なる体制にし等級は97あったものを68に縮小し、人員削減を実施した。12月には
自動車生産設備建設の第1段階を終了し、工廠が独自に生産から営業、アフターサービスまで
一貫して行う体制の構築を始めた。こうして1994年にはCAICの子会社から独立して、
成都飛機工業公司と名称を変更し労働環境の改革し、雇用形態をメーカーと従業員が直接契約する
労働契約体制になり義務と権利が双方にもたれるようになった。
589名無し三等兵:2005/06/19(日) 04:31:18 ID:???
1995年、国際市場を開拓すべくマクダネル・ダグラス、ボーイング、大韓航空、シンガポール航空の
航空機関連部品の下請け生産を契約し、1997年には3億人民元の部品生産契約をボーイングと締結して
両翼の一つに新たな市場を開拓した。外国の巨大民間企業との取引から多くのことを学び、下請け生産は
人材の育成に大いに役立った。また民生品分野も付加価値のある特殊な機械類の開発や高い技術レベルの
必要な製品を率先して開発するなど新分野への取り組みと同時に、外国メーカーからの受注生産によって
基礎技術を学び、ノウハウを取り入れて、非航空分野の販売利益は1996年には1億人民元を突破した。

1998年、国が株式を保有する独立採算制の成都飛機工業集団成都飛機工業有限公司が創立され、
完全労働契約制に移行し給与は部門の売上によって分配するシステムになり、人事権をメーカー側が
完全に持つようになり、リストラを実施して多くの若手が登用され自主的に経営目標を掲げて組織が刷新された。
またこの年にはエア・バスA320、ボーイング757-200の部品生産を受注し、成都飛機電力設備総公司が
ISO9001を中国で初めて獲得するなど、国際市場での競争力のある品質や市場規模が拡大した。
また国内向け製品も順調で成都汽車は中国南西地区最大の自動車生産メーカーに成長した。

21世紀にはCACは737-300の部品生産も受注。新たにボーイング7E7の部品生産契約を結んでおり、
民間航空機分野における部品・コンポーネント生産の市場を拡大している。戦闘機開発分野でも
FC-1梟龍の開発や殲7E/F系列を独自開発して第3世代戦闘機の開発生産能力を持つようになった。
民生品分野ではリニア鉄道計画でフランスと提携するなど新分野を切り開き、多くの市場で拡大を続けている。

CACはこれでおしまい。
現在は瀋陽飛機工業集団有限公司をまとめているもののCACと違って全く資料がないよ・・・orz
590  :2005/06/19(日) 10:27:21 ID:???
age
591名無し三等兵:2005/06/21(火) 03:14:37 ID:???
>>586
>F-7A系輸出実績
>アメリカ12
結構な数で驚き
592名無し三等兵:2005/06/24(金) 03:06:37 ID:???
>>580
お疲れ様です。
成飛の紆余曲折と現在の発展の過程がよく分かりました。
次は、成飛にその地位を奪われつつある名門「中国殲撃機の揺籃」瀋飛ですか。
楽しみにしております。

成飛の記述中、一部現状と異なる点がございましたので僭越ながら提示させていただきます。
 アクロバットチーム八一飛行表演隊の使用機
  殲教5(1980-1995)→殲7E(1995-2005)→殲7GB(2005-)
 「完全に第3世代戦闘機の能力を持つ殲7MGの計画」
 この戦闘機の名称は殲7MFです。殲7MGは殲7E系の発展型(Gは改の意)の1つです。
今年パキスタンへの輸出が決定したそうです(名称はF-7PG)。
(参照)ttp://jiatelin.jschina.com.cn/pla/j78.htm
    ttp://jiatelin.jschina.com.cn/pla/j7mf.htm

ご存知かもしれませんが参考までに、中国航空機メーカーに関するWebページを紹介いたします

 ttp://www.china-airforce.org/sjkjid.htm
航空企業と航空科研機構で中国の主要航空企業の概説をしております
 ttp://www.avic1.com.cn/
中国航空工業第一集団公司のサイト。所属企業の概況、リンクあり
 ttp://www.avic2.com.cn/
中国航空工業第二集団公司
 ttp://www.sac.com.cn/
瀋陽飛機工業集団有限公司のサイト
 ttp://www.globalsecurity.org/military/world/china/sac.htm
グローバルセキュリティでの瀋飛紹介記事
593眠い人 ◆gQikaJHtf2
>580
乙です。
参考になりますです。

とりあえず、こちとらマターリ展開するので、気にしないで下しい。
来週辺りに復活出来ればいいけど。