日本と世界の歴史的な戦争を語りましょう

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1名無し三等兵
 現在の戦争を理解するためには中世以前の古代の戦争を理解することも必要です。
 例えば桶狭間で圧勝すると思われた今川義元は、何故、新興勢力の織田信長に敗れたのか?
 古代中国で、武勇と知略の全てに長じた項羽が、全てに劣った劉邦に何故破れたか?
 名将ハンニバルは、何故、ローマに破れたか?
 これらの問題を考えてみましょう
阻止
3名無し三等兵:03/05/26 17:14 ID:???
>>2
私は自営業ではない
4名無し三等兵:03/05/26 17:24 ID:???
桶狭間は古代戦なんか?おい?
5名無し三等兵:03/05/26 17:29 ID:???
>>4
中世以前と書いているでしょう。
中世の戦争も含まれています。
6名無し三等兵:03/05/26 17:33 ID:???
「中世以前の古代の戦争」と書いてるぞ
7名無し三等兵:03/05/26 17:33 ID:???
桶狭間の戦いでは、今川軍は信長軍をなめてかかっていたのだな。
信長の砦を二つ一度に落とそうと、軍を本隊を含めて三つに分け
しかも不利な窪地の桶狭間に本隊の陣を張った。
戦争では高いとこに陣がある方が圧倒的に優位と、孫子の時代からの定説だろう
そのため総力では圧倒的に優位でありながら、本隊はあっさりと信長軍に破れた。

天下統一と戦乱の終焉のせっかくの機会が失われたのは残念なことだが、
信長の勝利は今川の慢心の結果としか言いようがない
8今川義元:03/05/26 17:38 ID:???
>7よ。一応は1000名位の前衛隊は居ったのじゃ。
ただこやつらがヘタレじゃったばっかりに・・・・
9名無し三等兵:03/05/26 17:47 ID:cK1mWTa6
>>7
桶狭間「山」ね
信長公記を読みましょう
大体、敵地でわざわざ奇襲を受けやすい窪地に陣を張りますか?
10今川義元:03/05/26 17:48 ID:???
>9
そのとうりじゃ
11名無し三等兵:03/05/26 17:53 ID:???
三戦板でやれよ。
12名無し三等兵:03/05/26 21:03 ID:???
日本史板とか世界史板でやった方が・・・
13名無し三等兵:03/05/26 22:10 ID:???
>>12
戦争や軍事に限るので、軍事の板の方が適切かと思いますが。。
14名無し三等兵:03/05/26 22:13 ID:???
いや、ぶっちゃけこっちの板ではその手の時代に詳しい人は少ないと思うよ?
板またぎの住人もいるからなんとも言えんだろうけど。
15名無し三等兵:03/05/26 22:21 ID:???
某研がカキコすれば大丈夫。
16名無し三等兵:03/05/27 10:13 ID:nL5BVL8L
某研究者召還コマンド発動!
17名無し三等兵:03/05/27 10:26 ID:???
上、上、下、下、右、左、右、左、A、B 弾無限
18名無し三等兵:03/05/27 12:28 ID:???
小波コマンドかよっ
19名無し三等兵:03/05/27 12:29 ID:???
>>14
古戦を詳しく無い人間が軍事を語るのは難しいと思いますけど?
どこの士官学校でも、ハンニバルの時代の戦争だって教えます。
それだけ古代よりの兵法は、現在の兵法にも関連があるものですから
20名無し三等兵:03/05/27 14:46 ID:???
>>19

>>古戦を詳しく無い人間が軍事を語るのは難しいと思いますけど?

詳しく理由を教えてくれ。
21名無し三等兵:03/05/27 21:17 ID:???
ハンニバル戦争については、2つの視点から学ぶべき点があるだろう。

恐らくね、あの時代における2つのRMAの戦いだったんだ。あの戦争は。

一つ目のRMAは、カンナエの戦いに代表される、ハンニバルによる機動戦力としての騎兵の存分な活用。
騎兵…というか機動兵力の集団的運用によって、二重包囲〜包囲殲滅を実行したというのは、当時としては画期的な戦術的革新に違いない。

二つ目のRMAは、事実上の国民国家的なローマの将兵の育成・動員システム。
経験豊富な政治指導者が即、軍事指導者に転用でき、かつ、有産市民のかなりの割合を経験豊富な兵として動員できるという、限定的ではあるにせよ、国民国家的システムを持つことによって、ローマはハンニバル戦争を戦いぬけた。

ハンニバルの将才によってもたらされた新しい戦術システム。
それに対して共和制ローマが歴史の流れの中で培った優秀な戦略システム。
その相克であったというふうに見なすことができる。
そして、そのどちらもが、その時代、他の国にはなかったものだ。
いや、優秀な将、優秀な兵、優秀な騎兵はいても、軍事システムとしては成立していなかった。

……とこう書いてみて思うのは…
>古戦を詳しく無い人間が軍事を語るのは難しい
ではなくて、古戦にも詳しければ、いろんな豊かな語り口を持ちうるということだな…。
22山崎渉:03/05/28 15:54 ID:???
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
23名無し三等兵:03/05/28 17:56 ID:???
>>20
古戦も現在の戦争とは切っても切れないものです。
孫子の兵法は現在でも通じる兵法であり。
ハンニバルの戦法も、敵の意表を突く戦法の真価がそこにある。
24名無し三等兵:03/05/28 17:58 ID:???
日本の戦争の革命の一つは元寇だな。
従来の一騎打ちによる騎馬戦から、大陸では当たり前の集団戦へ移行した。
さらに戦国時代には信長という型破りの人物が、鉄砲を使った新しい戦法を編み出した
一説には欧州の戦争を宣教士から学んだと言われるが、
これらの兵法の革命はなかなか興味深いものです
25名無し三等兵:03/05/28 21:15 ID:???
>>24
まあ、その前に、公地公民制度の骨抜きということがあるわけだが…。

開墾地の私有が認められたことによって、
開墾地を守るために武装する自作農民がまず生まれた。

相続の関係で土地をもてなくなった連中…
借金等で開墾地を失った連中が、荘園を武装して守る小作農になった。

これらの武装する自作農、小作農の組織化と序列化が進んだ…。
組織化された集団は、貴族の一部や臣籍降下した皇族を向かい入れて、
棟梁とした。

日本で始めて大規模な恒常的に武装する者からなる社会階級が誕生した。

武士だ。

そして、この武士が貴族から権力の実質を奪い取り、武士のための土地所有制度を作るために幕府を作った。
鎌倉幕府の成立は、ある意味で革命だった。
そして、平安期の蝦夷征伐の終了以降、初めて常備軍が誕生した軍事革命でもあった。
26じんべえ:03/05/28 22:18 ID:vPH3lfFz
>>20
ペルシャは騎兵を集団運用していたわけですし。
カンネーはRMAとは言えない気がする。
むしろ相手の意表を付いたという点で評価がされているのでしょうか?

ローマのシステムが優れていたのは言うまでもないが、スパルタでも有産市民の男子は兵士であったわけですし。

>>古戦を詳しく無い人間が軍事を語るのは難しい
>ではなくて、古戦にも詳しければ、いろんな豊かな語り口を持ちうるということだな…。

賛同。古代の有名な兵法などは普遍的なものを持っているかも知れないが。
高度に情報化が進みつつある現代戦にどこまで通用するのかと言えば。
言われているほどではないと思います。
27名無し三等兵:03/05/28 22:35 ID:???
>>24

確かに元寇が集団戦闘へと移行する完全なキッカケとなったのかも知れないが、ひよどりごえを始めたあたりから日本でもかつての戦闘の慣習を打ち破る基礎は出来上がっていたと思う。

>>戦国時代には信長という型破りの人物が、鉄砲を使った新しい戦法を編み出した

信長の鉄砲装備率は他の大名に比べても低いわけだし。
一人に一丁鉄砲を持たせようとした島津、長宗我部の方が鉄砲を有効に活用したのではないか?
むしろ信長が長けていたのは戦闘ではなく多少無理な方法でも人材を上手く使う事であったと思う。
28名無し三等兵:03/05/28 22:44 ID:???
>>24
よく考えたら日本は元寇の時、一騎討ちで集団戦法に負けたのに第二次世界大戦で同じ負け方をしてるのね。
偶然?
29名無し三等兵:03/05/28 22:53 ID:???
>>28

>>第二次世界大戦で同じ負け方をしてるのね。

???
30名無し三等兵:03/05/28 23:00 ID:???
>>29
空戦のことを言ってるとオモワレ
31名無し三等兵:03/05/28 23:08 ID:???
日本は航空機による集団運用を行わなかったの?
32名無し三等兵:03/05/28 23:11 ID:???
勿論行ってますが何か?
33名無し三等兵:03/05/28 23:20 ID:???
>>32

とすると>>28はどういう事?
34名無し三等兵:03/05/28 23:23 ID:???
航空機による一騎打ち、一次大戦レベルだな。
35名無し三等兵:03/05/29 03:11 ID:???
>>27
しかし武田の騎馬隊を鉄砲隊でうち破ったのは見事でしたよ。
以前から三段構えの方策と言われるが、アレは鉄砲隊を三人並べて順次撃つのでは
なく、平地に騎馬の突入を防ぐ砦を作り。鉄砲隊で叩く。
そんなものだったとの説を聞いたことがありますが、信長の勝利は騎馬隊による密集
戦法を時代遅れにしてしまったでしょう。
36名無し三等兵:03/05/29 03:16 ID:8agIYfOf
チョンのバカがサイパンにある日本軍の最終拠点となった史跡に
こともあろうことか落書きをした模様。
これでは英霊も浮かばれない。

ソース
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Guitar/5433/
37名無し三等兵:03/05/29 03:25 ID:???
>賛同。古代の有名な兵法などは普遍的なものを持っているかも知れないが。
>高度に情報化が進みつつある現代戦にどこまで通用するのかと言えば。
>言われているほどではないと思います。

もちろん古代の戦法が、現在でもそのまま通じることはあり得ないが、それでもその古代の戦法が
何故、その当時、通用したのか、それを理解しないと戦法の本質を解すことなど出来ません。

何より、軍事思想も兵法も現実には古代の兵法書に全て出し尽くされています。
第二次大戦に行われた戦略爆撃も、策源地の機能喪失として古典の時代からある。
近年になって行われたRMA構想も、高度に発達した通信機器やITなど、その時代の技術水準に
応じて小道具は変わって来ていますが、それらの重要性や戦法への指摘は古典の時代にすでにある。
だからこそ歴史上の戦法も兵法も現在でも光のです。
38名無し三等兵:03/05/29 03:29 ID:???
>>34
石原完爾が世界最終戦論で良いことを言っていたね。
戦争の最小指揮単位は逐次小さくなり、やがて個人になる。
彼は現在の戦争のあり方を予見していたのだろうか?
39_:03/05/29 03:37 ID:???
40名無し三等兵:03/05/29 16:16 ID:???
>>25
豪族も元もとは武装を行っていましたよ。
古代は小国が乱立する時代だった。その小国の連合体が大和朝廷だったわけです。
やがて豪族は貴族となり。王朝時代へ移り
さらに封建時代に移った。

北東アジアでは封建時代があるのは、日本だけなのだよね。
この辺がどうしてか興味深いですよ。
41名無し三等兵:03/05/29 16:25 ID:???
>>35

>>しかし武田の騎馬隊を鉄砲隊でうち破ったのは見事でしたよ。

80年代で思考が停止している予感!!
42名無し三等兵:03/05/29 16:30 ID:???
>>37

別に煽りとかではなく。
古代の戦争を知らないと現代戦がうまく語れないという具体例が欲しいのだが。
43名無し三等兵:03/05/29 16:33 ID:???
桶狭間の戦いは今川義元上洛の為の戦いでなく
尾張の覇権確立の為の戦いであった、というのは

キシュツ?
44じんべえ:03/05/29 16:49 ID:S/wwTSy0
>>43

そうらしいね。
今川が上洛をしようとしたという記述は見当たらないんだったっけ?

>>41

横槍だけど。
武田は騎馬軍など使っておらんよ。
騎馬を使うときも日本の場合は密集突撃なんか出来ない。
馬の数が少ないからだ。

むしろ鉄砲を上手く使ったのは雑賀であって、信長は痛い思いをしている。
45名無し三等兵:03/05/29 16:56 ID:???
>>38

むしろ現代はいかに大人数を効率よく動かすか?
にかかっていると思うが・・・
46名無し三等兵:03/05/29 20:39 ID:IpouA5nK
信長は戦争があまり上手くなく、その上、尾張兵は相当なへたれだった。
この欠点を克服するために信長がとった戦法は徹底した「物量戦」
この「物量戦」を行うためためには当然、相当な経済力が必要だったが
当時、信長が支配していた領国、とりわけ尾張、美濃、南近江の石高は
相当なものだっため、「物量戦」が可能だった。
さらに、信長の持つ過激な性格からか、織田軍は日本史上、稀にみる徹底した
「殲滅戦」を行った。一向宗や延暦寺に対してとった措置をみれば明らかだろう
織田軍が強かったのは「物量戦」と「殲滅戦」を行ったからである。

…って大学の先生が言ってました。つーか、軍版で話す内容じゃないか…
47名無し三等兵:03/05/29 20:55 ID:???
一向宗のたぐいは最後の最後まで徹底抗戦するし、言葉で話してもわかるような連中ではない。
よってそのような作戦を取るしかないのだ。

48らいむいろ:03/05/29 20:58 ID:???
>>46
かなり古い通説ですにょ。

武田の騎馬の割合が実は北条より低かったのと同様
つっこみ所だれけですにょ。
49さくら:03/05/29 21:07 ID:???
>>48

詳しく教えて欲しいぴょ。
50名無し三等兵:03/05/29 21:15 ID:???
>>49
もっと詳しい人がいくらでもいるが

・尾張兵は別に弱兵ではない
・物量戦は他の大名でも可能
・経済力も他に優れた大名はいる
・殲滅戦は織田軍だけではない(ただしあまり例はない)
51名無し三等兵:03/05/29 21:29 ID:???
信長が強かったのは、ただ単に京に近くて
将軍やら朝廷の権威を利用しまくったからかもしれませんね。
要するに、政治家として一流だったと
52名無し三等兵:03/05/30 01:46 ID:???
尾張の信長と言えば、破天荒な人物で有名だよね
乱世は、漢の劉邦と言い。かならず型破りの人物が台頭でき
それだけに面白い時代だ
53名無し三等兵:03/05/30 02:25 ID:???
>>40
板違い気味でしが、律令制から承久の変ぐらいまでを探るのも一興かと。

中国との比較で言えば、かの国では科挙試験で官僚層を積極的に育成し、
貴族層(=封建制の核となりやすい)を意図的に排除・衰退させたのが大きかったような。
同じ中央集権・律令制度とはいえ、>>25さんがすでにご指摘の通り、日本のそれは経済的基盤を持てない親王(3世、4世以降の王たち)が地方に下り、
やがては武力/経済力、そして権威で中央を脅かすという制度的欠陥も秘めてましたし。
対して中国にはかなりの親王領があり、皇子らに捨て扶持与えて地方勢力や不満分子が貴種を担ぐ事態を抑止。皇帝と科挙官僚の権力は安定。
自分はこういう観点(1つの仮説でしが)から、平将門や尼将軍北条政子などに注目してます。
54名無し三等兵:03/05/30 12:12 ID:???
>>53
三国志の曹操の起こした魏では、皇族に権限を持たせれば皇族同士の争乱を招くと
皇帝以外の皇族には出来るだけ権力を持たせないようにしたそうだ。
しかしその結果、家臣の中に力を付けたものが出ると、皇帝を守れる皇族がいない
であっさりと滅ぼされた。
魏の後を継いだ司馬氏は、それを反面教師に皇族に強力な権限を持たせ
皇帝を守れる体制を取ろうとしたが、今度は曹操の懸念の通り皇族同士が覇権争い
を初めて収集がつかなくなった。。
要するに唐王朝の律令はそうした課程を経験して確立されたものであり。
簡単に日本がマネできるものではないでしょう。

天智天皇あたりは、それを強引にやろうとして地方豪族の恨みを買いまくり。
結局、その息子の代で壬申の乱が起こり。弟・大海人皇子を担いだ中小の地方豪族達
に倒されたし
55名無し三等兵:03/05/31 00:13 ID:???
>>47
宗教や民族が絡めば、戦争というのは必ず陰湿なものになる。
それは歴史が証明しているよ。。
十字軍の遠征なんて見てみなさいな。アラブ圏では十字軍は虐殺と略奪の象徴では
ないかね
56名無し三等兵:03/05/31 10:44 ID:???
偉大なるカルタゴの名将・ハンニバル
無謀とも思えるアルプス越えを行い。ローマ帝国を震撼させた。。

しかしカルタゴの運命は哀れとしか言いようがないな。
最後には、ローマに対抗する力を完全に失い。農業国として存続していたのに
ローマによって徹底的な攻撃を受け。破壊された。。

現在のローマ帝国アメリカの姿と重ねてカルタゴの姿が哀れに思える。
そのローマもアジアの遊牧民達に逐われたゲルマン民族によって滅ぼされた
57名無し三等兵:03/05/31 12:08 ID:???
日本の歴史は、戦争の歴史だからね。
徳川時代の安定期を除き。常に大小の戦乱があった。
小規模だが記録に残らないものも多いが、詳しく調べてみると対馬への半島からの
侵入や九州への大陸の海賊の襲来。
その他諸々。。
一部の政党や平和主義者が唱えるような、日本は自分から戦争仕掛けない限り。
戦争が起こることが無いなんてあり得ない。
それを平然と機関誌に書いている連中とそれを真に受ける連中がおおすぎやしない
かね?
58名無し三等兵:03/05/31 12:34 ID:???
刀伊とか元寇以上の襲撃だしなぁ。 歴史の授業じゃ、1行か2行程度。

ところで、MS-IMEで倭寇は一発変換されるのに元寇は一発変換できないのは
なぜなんだろう。
59名無し三等兵:03/05/31 12:56 ID:???
刀伊の襲撃なんて、日本人でも知らないのが多いのが現状だ
60名無し三等兵:03/05/31 12:57 ID:???
ATOKでは、元寇も一発で変換出来るよ。
IMEは馬鹿だから駄目なのでしょ。
実際にIMEからATOKに移った人はいても、その逆はまずないし
61名無し三等兵:03/05/31 13:10 ID:???
MS-IMEは使えないのはわかってるんだが、
日本じゃ馴染みの無い檀君は一発で変換できるし
金大中(きむでじゅん)盧泰愚(のてう)とかも一発変換できるのが
なーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんか気になるんだな。
62名無し三等兵:03/05/31 13:12 ID:???
日本史(の授業)のなかで、
刀伊の襲来の扱いが少ないのは、
某方面に対する配慮からですか?

考えすぎ?
63名無し三等兵:03/05/31 20:59 ID:???
>>63
単に一過性の局地戦だからと違うか?
元寇みたいに全国的な動員がかかったわけじゃないし。
64名無し三等兵:03/05/31 21:56 ID:???
>>62
歴史の授業っていうと、明治時代を教わり始める頃に学年が終わってしまうものだ。

第二次大戦後の第三国人の横暴や土地泥棒をもっと教えるべきだ!
65名無し三等兵:03/06/01 02:51 ID:???
>>62
単なる海賊の襲来だからね。教科書に記述するまでも無いと判断した可能性は否定しないが。。
しかしそのワリには、日本の倭寇に関しては、必ず記述があるな。
日本の海賊行為には詳しく記しながら、こっちの被害には記すことはないってのもおかしな話だ
66名無し三等兵:03/06/01 19:10 ID:???
単純に倭寇の方が大規模だったからじゃない?
後期倭寇が朝鮮人だったこともあるし。
67名無し三等兵:03/06/01 19:39 ID:???
しかし面白いのは倭寇は朝鮮でも中国でも日本からって見方が多いってことだ。
韓国の教科書には、王の倭寇の征伐が記されているが、詳細を読んでみると倭寇の
長はどう見ても日本人ではなく中国人の名前だが、日本の倭寇を撃退したかのよう
な感じで記している。
だいたい海賊なんてものは、ほとんどが武装商船だ。
交易のついでに他の地域で一暴れするか、交易の交渉が拗れたら実力行使に出たり
あるいは逆に襲われるのを防いだりするために武装するのが普通。

有名なバイキングも、彼らの船旅で得る利益の大半は交易で得たものであり。
海賊行為で得たものの方が少なかったくらいだよ。
当然、その海賊行為には朝鮮や中国に東南アジア系の交易船も含まれていただろう。
そのことを論じないのもおかしなものだよ
68名無し三等兵:03/06/02 00:00 ID:???
村上水軍などの海賊は、地方領主って位置づけだ。
交易船から通行税を勝手に取って、それに応じなければ武力で奪い取る。
69名無し三等兵:03/06/02 09:40 ID:???
村上水軍の戦術は詳しくは知らないが、バイキングの戦術は単純極まる
平地での戦いは丘のような高い場所に盾を持って一列に並び。敵を迎え撃つ。
敵が遠距離の場合は、弓で至近距離に近づいたら斧や槍を使う。
海の場合も似たようなもので、意外に防御を重視した戦法だったらしい
70長文すまんね:03/06/02 12:40 ID:???
>42
戦術、作戦に関しては技術の進歩によってさまざまに変化してきたが
戦略やリーダーシップなどに関しては過去の例が参考になるからだよ。
たとえば、イラク戦に関してもアメリカ軍が行ったのは
よく訓練されて高度な指揮、通信能力を持ち、さらに機動力のある
部隊を多方面から首都に向かって進撃している。
また、湾岸戦争以降イラクの経済封鎖、武器の破壊、外交的な孤立を図って
実に10年の歳月をかけて万全の準備をして戦争を行っている。
そしてこれらはアメリカ軍が考案したのではなく、太古の昔から
軍、そして国家が戦争を行うにあたり可能な限り希求していたもの。
モンゴル軍やナポレオン、信長やハンニバルなど過去の戦争指導者達が
どのように考え、行動しそしてなぜ勝利し、または敗れ去ったのか?
これら過去のについて学ばなければ、イラク戦においてアメリカがなぜ
フランス、ドイツ、トルコに手厳しくなったのか?
パウエルとラムズフェルドがなぜ対立しているのか?
アメリカ軍はイラクに対してどうしてあの作戦で侵攻したのか?などなど
まったく理解できません。
逆に過去の歴史を正しく理解し、一定の情報と判断力、推測力を持てば
ある程度の理解はできるようになるでしょう。

71名無し三等兵:03/06/02 14:31 ID:???
>>70
>>42の指摘は具体的な例を述べろと言うものであり。あなたの意見とは違うと思い
ますけど。。
具体的な例を述べれば、孫子の兵法書を読み。ドイツ皇帝が感銘を受けたとか
抽象的な例は幾らもありますけど、近代にぴったり古代の戦法がそのまま当てはま
る例はなかなか見あたりません。
それはあなた。時代によって思想も戦略も技術も違うのですから、大雑把なものは
当てはまっても細部まで全てそのまま当てはめることは出来ません。
だからこそ歴史上の例をよく学び。そうした知識の中から推測や判断出来る能力が
必要とあなたは指摘したいのでしょうが。
72名無し三等兵:03/06/02 15:44 ID:???
>>71
ちょっとまてよ、いくらなんでも読みにくすぎるぞ(いろんな所が
第一、「具体的な例を述べれば・・・」述べてないだろ
わざとか?
73名無し三等兵:03/06/02 17:49 ID:???
>71
例として今回のイラク戦争を挙げたつもりだったけど分かりにくかったか・・・。
まあ、我ながらまとまっている文とはいえないわな。

では簡潔に
90年〜91年の湾岸戦争によってアメリカ軍は第7および第18軍をもって
後方への機動による包囲殲滅戦を狙ったと推測される。
なぜ、推測できるかというと古代のハンニバル、シュリーフェンが行ったまたは行おうとした
側面運動に類似しているからである。

うーん、今度は簡潔すぎていろいろ突っ込まれそうだw

74名無し三等兵:03/06/02 18:23 ID:???
>>73

別に知らなくても推測されるだろ。
75名無し三等兵:03/06/02 18:32 ID:???
>74


まあ、これはあくまで一番分かりやすい例を挙げたので
そういわれるとミもふたもないが、
それでも、知らなくても本当に推測できるかどうかもう一度考えてみては?

76名無し三等兵:03/06/02 18:35 ID:???
>>75

俺は湾岸の時はハンニバルもシュリーフェンも知らなかったが。
包囲くらいはわかったぞ。
77名無し三等兵:03/06/02 18:37 ID:???
まあ包囲戦術という言葉があるのはハンニバルのおかげかもしれないが。
ハンニバルを知らなくても包囲という言葉自体は一般人も知っているわけで。
78名無し三等兵:03/06/02 18:45 ID:???
ぶっちゃけ現代戦は変わりすぎてたんだよ。
過去の戦訓が生かせる時代なんてもう終わるかもしれない。

特に陸軍系の戦術は航空優勢の前では無意味ですからな。

まあ毛沢東、チェ・ゲバラは今でも役に立つかもしれないが。
正規戦における兵法は役に立たたない気がする。

さらに相手の動きをどう読むか?というのが古代から近代の戦争では重要であったわけだが。
現代戦では下手をすれば相手の動きなど筒抜け状態ですからな。
79名無し三等兵:03/06/02 19:02 ID:???
>>78
根っこの部分は古代も現代戦も大して変化はありませんよ
補給の重要性などは孫子の時代から唱えられていることですし
まあ。技術変化に伴って戦術の変化はあり得ることですが、あくまで戦術レベルの
変化であり。それは弓が兵器の主力だった時代から銃が主力となった時代
モールス信号など電波の発見で通信が重要になった時代などの変化もありましたけ
ど、戦争論や孫子など古い兵法書が今でも読まれているように思想自体には変化は
ありません。
そもそも装備の変化によって戦術が変化して行ったことを理解しなければ、新しい
兵器の登場がどのように戦術を変化させるものかを理解することは難しい。

毛沢東やチェ・ゲバラの戦術は確かゲリラ戦を指摘したものでしょう
それでもゲリラ戦を理解しなければゲリラ戦に対抗することは出来ませんよ

>さらに相手の動きをどう読むか?というのが古代から近代の戦争では重要であったわけだが。
>現代戦では下手をすれば相手の動きなど筒抜け状態ですからな。

アメリカは南北戦争の勝利で「策源地の破壊」と「後方重視」が基本戦略となりました。
狩猟を重視したアングルサクソンの伝統が、通信諜報活動重視になりました。
要するに現在の戦術も民族や国家の古代よりの教訓があって初めて成り立つものであり。
それを抜きにして敵と味方の戦術や戦略を理解することは出来ません
80名無し三等兵:03/06/02 19:09 ID:???
>>79

補給の重要性などは別に古代戦を研究するまでもなく常識だ。
わざわざ何かの書を読まずとも良い。
ようするに戦術の基本となる部分などは。
軍ヲタやってれば普通に知っているものであって。
別に古代〜近代戦を研究しなければならない理由にはならない。
81名無し三等兵:03/06/02 19:25 ID:???
>>80
歴史は繰り返すと言いますけど、これは正しくない
しかし同じようなパターンをたどることはよくありますよ。
そもそも歴史を知らずしていまを語ることなど出来ない。。
82名無し三等兵:03/06/02 19:31 ID:???
○古代戦の戦略思想などは現代戦にも通じる物がある
×古代戦の戦略思想を理解しなければ現代戦も理解できない

だと思うがどうよ?
83名無し三等兵:03/06/02 19:54 ID:???
というか2次大戦をそれなりに研究すれば古代の戦闘など研究せずとも良いだろう。
84またまた長文:03/06/02 19:55 ID:???
>76
ハンニバルもシュリーフェンも
その他の過去の戦い会戦もなんにもしらずに
包囲がわかったのか。
それはすごい。君はきっと軍事に関して天性の素質があるのだろう。
そして、包囲作戦だけでなくさまざまな作戦もその
天性の素質で理解できるのでしょう。

私は一番初めはアメリカ軍は包囲殲滅ではなく
陽動部隊を敵後方に侵攻させ後方連絡線を遮断又は
それを図ることによってイラク軍を退却させるのかと
思ってました。なぜならあの時点ではアメリカ軍の目的は
クウェートの解放でしたし、犠牲が多く生じる可能性があり
また、兵站的にもかなり辛い本格的な機動軍を砂漠の
真ん中を踏破するにはかなりの指揮統制能力と
兵站システムが必要とされるからです。
実際シュリーフェンプランも兵站上に問題があって
そのプランどうりには発動されなかったし。
まあ、実際はアメリカ軍の指揮統制能力と
兵站能力が想像を遥かに超えて素晴らしかったわけですが

ま、素質の無い私は過去の戦争を学び戦いを学び組織学や
人間の行動、軍制や兵站、指揮統合について勉強します。
しかし、案の定いろいろ突っ込まれたな。

85名無し三等兵:03/06/02 20:04 ID:???
>>84

何わけのわかんねぇことかいてるんだコイツは?
湾岸での米軍の動向など過去の戦闘なんか学んでもわかるわけねぇだろ。
素質もクソもない。

>実際シュリーフェンプランも兵站上に問題があって
>そのプランどうりには発動されなかったし。

あの当時と現代をごっちゃにしてるんじゃないか?
はっきりいって機械化のレベルが違うだろ。
湾岸の例でシュリーフェンを出すなんて正直信じられぬ。

86名無し三等兵:03/06/02 20:05 ID:oymSaBiP
>>84

てか湾岸なら普通は2次大戦以降の戦闘の例を出すだろ。
古代の戦闘とどのように絡めるのだ。
87名無し三等兵:03/06/02 20:07 ID:QD+lCk7W
「源平合戦」をドウ思う、君たち?
88名無し三等兵:03/06/02 20:08 ID:???
>>1
正直漏れは。
歴史的な戦闘なんかよりも。
現代の戦闘を学んだ方が良いと思います。
89名無し三等兵:03/06/02 20:10 ID:Pvdbrcfr
ここのせいでオナニーしすぎだよまったく・・・
         ↓

 http://www.dvd-yuis.com/
90名無し三等兵:03/06/02 20:11 ID:QD+lCk7W
>>88
確かに近代兵器の用法とかはね。
でも現代戦も勝敗を決するのは人間だしね
古代戦や近代戦の戦訓からも学ぶものは多いよ。
91名無し三等兵:03/06/02 20:13 ID:???
>>87

どうせ、それは全く源平合戦を理解してないとか言って鬼の首を取りたいんでしょ?
自分の意見を先に言おう。
92名無し三等兵:03/06/02 20:14 ID:mZNvEBxU
半島には喧嘩のとき雪合戦のごとく「ウンコを投げつけあう」習慣がある
93名無し三等兵:03/06/02 20:16 ID:QD+lCk7W
>>91
だってこれも古代戦だろ?
おれは教科書に載ってるくらいしか知らないからね
みんなで語ってくれって意味。そんなに深く読まなくてもいいよ。
94名無し三等兵:03/06/02 20:16 ID:???
>>90

おっ初めて俺と同じ意見の人が出た。

>>現代戦も勝敗を決するのは人間だしね

そう。人が勝敗を決める限り。
戦争とは不確定極まるもの。
だからこそ古代の戦闘から学べるものがあると俺は思う。
だから兵法書がビジネスに使えるというのもそこにあると思ふ。
95名無し三等兵:03/06/02 20:17 ID:???
>>93

じゃあ俺は>>91のメール欄に書いてあるように思うのだが。どうよ?
96名無し三等兵:03/06/02 20:19 ID:QD+lCk7W
>>95
合戦そのものについて語ってね
俺の知識は>>91程度だから。
97名無し三等兵:03/06/02 20:19 ID:???
>78

言わんとしていることは理解できる。
けど、それでは制空権を取っただけで本当に
戦争に勝てるのか?やっぱり勝てなかったなんて言い訳は
少なくとも税金を払っている人や戦死者の家族にはいえないでしょう。
現在戦にはいるかどうかは人によるけど
朝鮮戦争、ベトナム戦争とアメリカ軍は制空権を取りながら
戦争に勝つことはできなかった。
局地的な勝利を掴むだけなら古代の戦争を学ばなくても良いかも
知れないが、戦争、戦役を勝利に導くためには
古代の戦いも参考になると思う。

そしてなにより、軍事が好きな人だったら古代戦も面白い
98名無し三等兵:03/06/02 20:27 ID:???
>>96

別にその戦争の意義自体を語っても良いのでは?

>>97

朝鮮戦争は詳しく調べてないからわからんが。
航空機の与える損害が中国軍の戦力回復力に劣っていたと言う事でしょう。
しかし現代のアメリカやロシアが保有する爆弾の殺傷力なら中国の回復力すら上回るのだと思う。

ベトナムはゲリラ戦だからな>>78が毛沢東を上げたのはそういう意味があるのではなかろうか。

>>そしてなにより、軍事が好きな人だったら古代戦も面白い

賛同。
現代との関連など考えずに古代戦について話すのは楽しい。
だから俺は世界史板によく行く。
99名無し三等兵:03/06/02 20:34 ID:???
>>99

>>そしてなにより、軍事が好きな人だったら古代戦も面白い

これが結論な気がするな。
軍事板に今は古代戦のスレないし。
>>1さんはどうよ?あんましごたく並べてもしゃあないし。
いろんな考えがあると思うし。
100名無し三等兵:03/06/02 20:36 ID:???
>>96
一言だけだな…
軍事的天才は、非常に重要な役割を果たす。
101名無し三等兵:03/06/02 20:38 ID:QD+lCk7W
>>99
まあね、古代戦は近代戦とは違った醍醐味があるしね。なにより面白い。
みんな、世界史板では出てこないような、軍事板ならではの話を頼むよ。
102名無し三等兵:03/06/02 20:39 ID:???
>>100

天才というか当時で言えば掟破りに近かったのでは?

まあそういう意味ではナポレオンもそうだが・・・
103名無し三等兵:03/06/02 20:42 ID:QD+lCk7W
>>102
常識を覆す発想で敵を襲撃する
一歩間違えたらただの基地外だが...
それで勝利に導くのが天才なのだな?
104名無し三等兵:03/06/02 20:43 ID:???
>>102
騎兵の集団運用が実際にどうかはともかくとしてね。
確かに起きて破りには、違いないんだよね。

常識を超えた部隊展開。
非戦闘員を巻き込んだ戦闘の実行。
類まれな、戦機を読む勘。

ナポレオンと違うのは、政治的な革新と結びつかないこと。
それが政治的リーダーシップおよび政治的天才の頼朝と袂を分かつ原因であり、
袂を別った後の末路に繋がってる。
105名無し三等兵:03/06/02 20:56 ID:???
>>103

常識というか。
あの当時では触れてはいけないものに触れたという感じではないかな?
あの時代に奇襲はしてはなりません。
とか文章に書かれて条約になっていたのかは全く知らないが。
今細菌兵器を使うに等しい行為だったのではないか。

106名無し三等兵:03/06/02 20:57 ID:???
>>104
>>政治的な革新
完全なる武士政権を作ったという点ではどうか?
107名無し三等兵:03/06/02 21:05 ID:???
>>106
それは、軍板の扱う事項から外れてしまうのでは?
また、「合戦」の「戦闘」を語るという注文とも違う。

しかし、頼朝〜北条氏のラインが狙った完全なる武士政権をというビジョンの完成に繋がったということでは、日本史上稀に見る軍事革命だと思いますが…。
108107:03/06/02 21:19 ID:???
>>107
上補足…
軍事革命=軍事を生業にする人たちによる革命ね。
RMAではない(苦笑)
109名無し三等兵:03/06/02 21:24 ID:???
>>83
それはどうですか?
プロイセンが巨大な陸軍力を発達させたのは、当時の最新技術のモールス信号を利用した。
効率的なピラミット型軍隊を作り上げたからです。
しかし現在ではそれが次第に否定され初めています。
迅速さが求められる現代の戦闘では、中央の指示を待っていたら対応出来ないと。
一兵士でも司令官の決断を求めるようになって来ている。
これは考え方によれば、中世の騎士制度の復活と見なすことが出来るでしょう。
やはり古代から現代まで一貫した軍事の知識の蓄積が、新しい戦法を生み出す知恵を与えるのではないでしょうか?
110名無し三等兵:03/06/02 22:18 ID:xR8PkV9g
歴史的といえばカエサルのガリア遠征。
内と外から敵に攻められても勝ったアレシアの戦い?だっけ。
兵法関係無しといった感じ。

111名無し三等兵:03/06/02 22:21 ID:???
>>109

>>迅速さが求められる現代の戦闘では、中央の指示を待っていたら対応出来ないと。

世界一の軍事大国のアメリカは基本的にそういうスタイルは以前からとってないが・・・

>>中世の騎士制度の復活と見なすことが出来るでしょう。

すまんが言っている意味がわからない。
112名無し三等兵:03/06/02 22:22 ID:???
>>110

ゲルマン騎兵が強かったからな。
113名無し三等兵:03/06/02 22:26 ID:v9qeGS1Z
ぼくらの七日間戦争!
114名無し三等兵:03/06/02 22:31 ID:???
>>109

というか参謀システム自体、米英は一次大戦以前から疑問視していたが。
ドイツですら(というか失敗したからこそ)二次大戦では現場重視だ。

中世の騎士制度と絡めたのは。
中世の騎士制は王(中央)ではなく諸侯(現場)の支持で戦っていると言う事を言いたいから?
115名無し三等兵:03/06/02 22:36 ID:oymSaBiP
古代の名言で今のところ唯一保たれているものそれは


海 戦 は 陸 に 近 い と こ ろ で お き る

                               byアレキサンダー
116名無し三等兵:03/06/02 22:40 ID:QD+lCk7W
>>115
海戦てのは大抵陸戦に関連して起こるから。
117名無し三等兵:03/06/02 22:41 ID:???
>>114

支持→指示
118名無し三等兵:03/06/02 22:45 ID:???
>>115

今のところはアメリカ相手に大規模な海戦が起きてないから何も言えないが。
相手の位置を把握できる現代ではそれは崩れてもおかしくない。
119名無し三等兵:03/06/02 22:46 ID:/26+FJz2
師のアリストテレスからの学問,教えをよく学んだが
ただ1つ、異民族を家畜のように扱えとの教えには従わなかった
アレキサンダー。
英雄ですな。
120名無し三等兵:03/06/02 22:51 ID:???
RMAの1つでもある”徴兵制”の前と後では
戦争の形態もだいぶ違ってくると思うんだが
121名無し三等兵:03/06/02 22:57 ID:???
だいたい名将というのは独学で学んでいる傾向がある。
アレキサンダーが軍事についてフィリッポス2世から学んだ時期も短かったらしい。

122名無し三等兵:03/06/02 22:58 ID:???
>>120

徴兵制を本格的に行ったフランスはイギリスから何まで相手に強かったね。
123system:03/06/02 23:02 ID:Rz7D7E2k
>>119
アレキサンダーを見ても、ハンニバルを見ても、ローマ帝国を見ても
異民族、あるいは被征服民を真の味方に付けなければ発展はない、
というのは古今不変の真理でしょう。アメリカがそこからなにかを
学んでくれていると良いのですが。つまり征服される事で利益を
得るような征服、統治される事で幸福になるような統治、の必要性
ですね。
124名無し三等兵:03/06/02 23:04 ID:???
>>123

アメリカはうまくやってる(きた)と思うけど。
おそらくイラクもアメリカ万歳になる日は近いと思うけど。

・・・思うという程度でしか言えないが・・・
125名無し三等兵 :03/06/02 23:04 ID:???
実例が身近にあるではないか。

>統治される事で幸福になるような統治
126名無し三等兵:03/06/02 23:07 ID:???
>>125

悔しいけど賛同。
しかも、正直言って悪い気はしない。
127名無し三等兵:03/06/02 23:09 ID:???
アラー
128名無し三等兵:03/06/02 23:16 ID:???
>>121
名将というより天才は、と言った方が良いのでないか?
すばらしい閃きをもった人もたしかにいて、従来の枠に捕らわれない発想か
ら、頭角を現す人も確かにいるけど。
一方でそうとばかりは言えない人も幾らもいる。
だいたいにおいて戦争とは、正攻法を忠実に守った方が勝つものだ。
敵よりもより強力な戦力を用意し、より政略戦略的に優位に立つ。
フランス革命後、ナポレオンが頭角を現したのは、ナポレオンが砲術士官と
して士官学校に通った経験があったから、革命派の中では数少ない軍事の知
識の豊かな人間だったからだよ。
ない
129名無し三等兵:03/06/02 23:17 ID:???
日本海海戦での勝利は、日本海海戦や旅順攻防の起死回生の一撃ばかり問わ
れるが、それが効果を発揮したのも裏側で当時の日本の強かな外交戦略があ
てこそだよ。戦費の不足を補えたのは、ロシア国内で迫害を受けるユダヤ人
達の不満を吸収し米国のユダヤ資本の援助を得られたからであり。
日本海海戦で勝利を得たのは、ロシアバスチック艦隊が日英同盟の日本が二
カ国以上と戦う場合は、自動的にイギリスも参戦する。
その規定を恐れてロシア艦隊の寄港をどこの国も拒否し、艦隊は地球を半周
する大航海を無寄港でする必要に迫られ、艦艇も将兵も疲労していたからだ。
何よりロシアが余力を残しながら講和に応じたのは、結局のところ。米英の
支援を受けたこと、国内の革命派が起こす争乱の鎮圧にロシアは戦争どころで
はなくなったため。

こうした面を無視して、奇跡の勝利という目に見えやすい戦術レベルにばかり
捕らわれることは非常に危ない
130名無し三等兵 :03/06/02 23:19 ID:???
でもあまり勉強熱心じゃなかったらしいよ。ナポレオン。
131名無し三等兵:03/06/02 23:20 ID:/26+FJz2
>>123
ローマは征服した側出身者から最高司令官(執政官)を
選出したくらいだから繁栄が長かったのか。

132名無し三等兵:03/06/02 23:21 ID:???
>>99
>>1ですけど、偉そうなご託を語らず。
ただ。古代の戦争を語るのも面白いからこのスレに参加する。
それでも充分ですよ。結局のとこ、この板自体が軍事ヨタの掲示板ですし。。
133名無し三等兵:03/06/02 23:23 ID:???
>>128

>>一方でそうとばかりは言えない人も幾らもいる。

小沢治三郎とかね

まあナポレオンはそれまでのものをブチ壊した人間であって。
ある程度、過去の事を教えるような士官学校よりも自分で考えた部分が大きいのではないだろうか
134名無し三等兵:03/06/02 23:24 ID:???
>>130

え、そうなの?
本による知識は満たされないが空腹は水さえあれば満たされる
とか言ってなかったっけ?
135名無し三等兵:03/06/02 23:25 ID:???
>>125
民族の誇りやら愛国やらより。市民が一番に欲するのはパン(食料)と
サーカス(娯楽)だよ。それが満たされると現状に不満があろうとも、
一応の我慢はするものです。
日本の朝鮮統治が36年間の間、一時期を除けば非常に上手く行ったのも
結局のところ。それが出来る余裕があったからですよ。
136名無し三等兵:03/06/02 23:27 ID:/26+FJz2
小沢は歴史初の空母機動艦隊 創始者との認識でよいのか?
137名無し三士:03/06/02 23:28 ID:yg5QcohN
すごく勉強してるみたいね。
バルチック艦隊の一件はそういう偶然の産物という見方もあるわけね。
初めて知りました。しかし、それを聞いて日本がなるべくしてなった過程
がわかるような気がします。
 それとはちがくて、”わが闘争”読んだ派?私は読んでないので、読もうと思う派。
138名無し三等兵:03/06/02 23:28 ID:???
>>133
過去の知識を蓄えるだけなら、それはデーターベースにした方がずっとマシ
そうした知識をもとに現状に即した発想が出来る人間が本当の天才でしょう。
139名無し三等兵:03/06/02 23:28 ID:???
小沢は航空機の有効性を説いていたがいまいちスペックヲタ的な判断をする人だと思った。
140名無し三等兵 :03/06/02 23:29 ID:???
>>134

軍事の勉強という意味だよ(w
むしろ他の軍人より読書家ですよ。
141名無し三等兵:03/06/02 23:29 ID:???
>>137

偶然ではなかろう。
142名無し三等兵:03/06/02 23:31 ID:???
ナポレオンは軍事よりも政治面のほうがすごいと思うのは俺だけか?
あの時代の名将はやはりタヴーだろう。

タヴーについて書いてある本を紹介してくれる人は頼もう。
偉そうな事を言ってもイマイチ断片的にしか知らない。
143名無し三等兵 :03/06/02 23:32 ID:???
>名将はやはりタヴー

そりゃそうだ。負けたこと無いもん。
144名無し三等兵:03/06/02 23:33 ID:???
>>137
いや。偶然の産物ではなくて、日本海海戦で勝利を収めることが出来たのは
政略戦略面で当時の日本がロシアと互角以上の立場を得ることに成功してい
たから、そうゆう必然の面もあるって言いたいのです。

もちろん東郷平八郎の丁字戦法という常識破りの奇策があって勝利を収めた。
本人が認めていた通り。奇跡と呼べる面もありますが、その奇跡だの、奇策
だの戦術の勝利ばかりで語っては駄目ってことが言いたいわけです

ちなみに私は「我が闘争」は読んでいません。
どんなことが書いてあるかは興味がありますけど、それよりチャーチルの回顧
録を先に読みたいです
145名無し三等兵:03/06/02 23:33 ID:???
小沢は自由な発想をしろとよく騒いでいたらしいが。
正直現実を超えた妄想はイクナイ!と思う。
146名無し三等兵:03/06/02 23:35 ID:???
我が闘争は本当にオナニーだよ。
まあ読めばわかる。

しかも全部読めたら相当の精神力の持ち主だ!!
147名無し三等兵:03/06/02 23:35 ID:???
>>145
それは小沢より亀人に言ってやるべきだと思う。
148名無し三等兵:03/06/02 23:36 ID:???
>>147

それはあの当時の日本のトップ全員に言えた事だと思う(w
149名無し三等兵 :03/06/02 23:39 ID:???
他の手段が無かったんだよ。小沢・・・
150名無し三等兵:03/06/02 23:40 ID:/26+FJz2
>>145
燃料切れで飛行機が落ちていったアウトレンジ戦法のこと?
151名無し三等兵:03/06/02 23:42 ID:???
マリアナは戦闘機の割合をもうちょっと増やすべきだったのではないか?

アメリカが攻撃機:戦闘機=1:1であるに対して日本は2:1の割合ではないのか?

あとは乗員の錬度をアウトレンジしてしまってはどうしようもない。

>>145の言う事がなんとなくわかる。
>>138の言うように現状にそくしてないとダメなんだよな。
152名無し三等兵:03/06/02 23:48 ID:???
タヴー記念age
153名無し三等兵:03/06/02 23:49 ID:???
ナポレオンは良く勉強してるとおもうけどなー
ガリア戦記とか研究してなかったっけ?

>121

期間はどうかは知らないけど、フィリポスが行ってきた諸兵科統合
徹底的に活用したことを見ると理解はきちんとしていたんでは?
154ルイ=ニコラ・ダヴー:03/06/02 23:50 ID:???
ttp://kodaman-empire.kir.jp/Napoleon/n-g01.html
転載禁止らしいけど…
155名無し三等兵:03/06/03 02:43 ID:???
>>151
マリアナ海戦当時では、日本側が200機 米国側が350機くらいだったか
しかも日本側の戦闘機は、当時、世代遅れになっていた。
そんで一方的に叩かれたわけだが。。
F1支援戦闘機に乗った空自幹部が、こんなの乗せて実戦に出したら
マリアナ海戦の再来だ。大事な部下をそんな目に合わせるわけにはいかない
そんなことを言っていたのが懐かしく思える。。

F2支援戦闘機でそんな感想が漏れないことを願うだけだ
156名無し三等兵:03/06/03 02:46 ID:???
>>155攻撃機は一流だ(*゚Д゚)ゴルァ!
157名無し三等兵:03/06/03 10:16 ID:???
>>146
ヒトラーの自叙伝のようなものだからね
158名無し三等兵:03/06/03 10:41 ID:???
>>148
当時の日本海軍に限らず。日本の中枢の悪癖として、似たようなタイプの
人間ばかりがトップに立った。
その状況で自由な発想など出来るわけがない
159名無し三等兵:03/06/03 10:48 ID:???
>>156
意味がわからない
160DVD:03/06/03 10:52 ID:W5Z60PRi
あれっ!昨日頼んだのにもう来てる本当に安かったのでびっくりしました


http://ime.nu/ime.nu/ime.nu/www.net-de-dvd.com/
161名無し三等兵:03/06/03 15:36 ID:???
>>154
ネットギャンブルはうざい
162名無し三等兵:03/06/03 17:49 ID:VRohpWoP
>>159
天山や彗星はすばらしかったのだよ。
あとは搭乗員がよければ、ね・・・
163動画直リン:03/06/03 17:53 ID:GY3QD9xM
164名無し三等兵:03/06/03 21:02 ID:???
急降下爆撃機はよかったね
165名無し三等兵:03/06/04 10:23 ID:???
戦争は二次元から飛行機の出現で三次元になる。
誰が言ったのだっけ?
166名無し三等兵:03/06/04 18:15 ID:???
いしわらかんじ

じゃないの
167名無し三等兵 :03/06/04 21:23 ID:???
>>162
その搭乗員たちに育つチャンスを与えられなかったのが問題。
もちろん上層部の責任。
今も同じだ罠。バブルの失敗をした連中が、自分たちは「失敗学」とやらを唱えて安泰。
2ちゃん世代はリストラ失業に怯えるw
168名無し三等兵:03/06/05 02:02 ID:???
>>167

チャンスを与えるも何も。どうしようもなかったと思われ。
169名無し三等兵:03/06/05 11:41 ID:???
>>167
戦局の悪化で充分な訓練期間も与えることが出来ずに出兵させたのも問題でしょう。
170名無し三等兵:03/06/05 13:40 ID:???
>>168
そんな状況にしちまったのは誰だ?って話になる、官僚(軍人)と政治屋の責任だよ。
いわんや今の五十代の連中も…
171名無し三等兵:03/06/05 22:00 ID:???
>>170
ジジイどもが上にふんぞり返り、自分たちの年代は人が多く競争過多…
あの年代の人が多いのは、連中自体のせいではないんだがな。
そんな状況で、焦りがあったんだよ<今の五十代の連中
企業社会の中で先が見えてきてなおさらな。

だから、景気が過熱だろうがなんだろうが、自分の業績を上げること/上げさせることに血道をあげちまった。

しかし、あの連中は、経済全体をミスリードした。
その結果が今の惨憺たる経済状況だ。
その罪は罪。
五十代以上の自殺が増えようが何だろうが、全然同情しないが。
172名無し三等兵:03/06/05 22:46 ID:???
愚痴は他所行ってやってくれ
173名無し三等兵:03/06/05 23:38 ID:???
日本史上の天王山、日本海海戦!
次の沖縄決戦とか色々あるけど、イマイチ萌萌にならないな。
174名無し三等兵:03/06/06 15:51 ID:???
556 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/05/31 09:33


日本は朝鮮出兵の重要な敗因の一つである補給線の失敗を研究しなかった。
太平洋戦争の重要な敗因の一つである補給戦の失敗を研究してなかった。

つまり400年近く日本は同じミスをしていると個人的に思う。
しかも自衛隊は日本本土で戦うものだから余計にそういう研究はしない。


557 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 09:48
まあ中世の軍の補給は現地調達が基本だろうが
補給線の防護と言う概念が出来たのは何時頃なのだろうか
(現地調達が困難な弾薬等が切れた場合は
 其れをどの様に調達していたのかだろうが
 一旦拠点迄後退していたのか
 或いは別の軍に輸送させていたのだろうか)

朝鮮の場合は補給線がやられたと言うより
海上を移動する軍自体がやられたと言う事ではないのか
(兵站線を防護しなかったと言うより
 海軍力自体を敵の海上での襲撃に備えて
 最大限増強しなかったと言うのが正解だろうか)

175名無し三等兵:03/06/06 15:52 ID:???

558 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 09:52
三国志でも物資は軍と共に移動して
物資単独で輸送を行ったと言うのは記憶に無いし
兵糧はある程度は携行されるだろうが其れが切れれば現地調達
・矢が切れたら別の軍に運ばせるか
或いは軍を自軍の拠点に後退させると言う方向だっただろうか

秀吉が小田原を攻略する際には兵糧を海上輸送したが
これは現地調達では足りないと見ての事でだろうか
(敵の襲撃の可能性が有れば
 海上の輸送船に護衛は付けたのだろうか)


559 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 10:00
>太平洋戦争の重要な敗因の一つである補給戦の失敗を研究してなかった。

まあ只米の潜水艦を利用しての通商破壊が始まったのは
(Uボートにやられていたにも拘わらず米の戦略ミスで)かなり後期からだろうし
其の段階では物量の差で護衛艦や哨戒機等配置しても
敵の正面戦力に排除されるので補給線を守る事等無理だっただろうが
通商破壊の防護以外にも補給のミスは目立っただろうか
(其れでも伊−201で米の補給線を突けば
 独のU−21等の投入も有るなら講和に持ち込めた可能性は
 有るとの意見も有るだろうか)
176直リン:03/06/06 15:52 ID:iyBzWN/5
177名無し三等兵:03/06/06 15:53 ID:???


560 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 10:07
まあそもそも補給線への攻撃と言う概念が出来たのは
何時からなのかと言う事だろうが
補給線では無く敵の兵糧を焼き払うと言う事なら
三国志でも行われただろうか
敵の食料庫ではなく補給線への攻撃と言うのは
事実上Uボート等での通商破壊が最初なのか
或いは英国のドレーク等の敵国商船への海賊行為迄
補給線への攻撃に含めるべきなのだろうか


561 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 10:14
まあそもそも補給線と言う概念が出来たのは
何時なのかと言う事だろうし
Uボートや通商破壊艦等が登場したWW1以前には
存在したのかと言う事だが
海上では無く陸上の補給線を最初に叩いたのは
WW2のアフリカ戦線の英軍辺りだったろうか


562 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 10:21
米英も初期にはUボートは防げておらぬし
何れにせよ米英の様に正面戦力が無いと護衛艦や哨戒機を配置しても
撃破されるだけだろうか

178名無し三等兵:03/06/06 15:53 ID:???

563 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 10:35
兎も角中世に日本以外の国には
海賊対策は兎も角補給線の防御と言う概念が有ったと言うのは
恐らく幻想だろうし
秀吉の小田原攻めでの大部隊を長期に前線で維持する為の
海上からの大量の物資の補給は
他国では行われていたのかだろうが
中国にも細い山道を通って補給物資を輸送する為の
一輪車の様な物は有っただろうが
他に補給能力を増す様な工夫は西欧諸国等には
有ったのだろうか



564 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 10:42
まあしかし日本がWW2の初戦から潜水艦を用いて通商破壊をしておれば
米の迎撃体制が整う迄時間は稼げたかも知れぬが
これはどの程度だろうか



179名無し三等兵:03/06/06 15:53 ID:???
565 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 12:02
>朝鮮の場合は補給線がやられたと言うより
>海上を移動する軍自体がやられたと言う事ではないのか

まあこれに対して如何成る対策が出来たのかと言う事だろうし
日本船の大砲装備率を増すか
或いは海上の兵力は出来るだけ纏まって行動させると言う方向なのだろうか
(まあ只日本の船全てを集めてこれを一斉に行動させたとしても
 かなりの損害は出ただろうし
 囮等を使うのでも無ければ纏まって行動した上で大砲装備率を増すしか無かっただろうか
 或いは朝鮮水軍の迎撃も彼等が隠れていそうな場所を迂回する等すれば
 逃れられた可能性は有るのだろうか
 海上での戦いは避けて地上戦に勝利し続ければ勝てたかも知れぬが
 確か朝鮮側が港への攻撃を掛けていたかも知れぬが
 別に港で無く共兵力は陸揚げ出来ただろうし
 港以外の場所から兵力を陸揚げすれば良かっただろうか)

180名無し三等兵:03/06/06 15:54 ID:???

566 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 12:23
まあしかし10万単位の兵を動かすのに
食料が現地調達のみで足りたかと言う事だが
兵力を分散配置するか
一点に集中して略奪して移動を繰り返せば
食料も現地調達のみで済んだ可能性は有るだろうか
(小田原攻めの様に前線に食料を大量に輸送しようと言う計画は
 有ったのだろうかと言う事だろうし
 弾薬は現地調達は不能だろうか)


567 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 12:52
兵力を2手に分けて
片方は食料を略奪し城に持ち込む事を繰り返し
片方は城内の食料を守る為に篭城すると言う事をすれば
弾薬等無く共かなり持久戦は
可能だっただろうか


568 名前:某研究者 ◆NITkxmpUgI 投稿日:03/05/31 13:06
15万を2隊に分けて
片方は城に篭らせ
(まあ城の方の兵力は敵を支えられる程度に少なくても構わないだろうが)
片方は城の外に出て食料を奪わて城に帰還する事を繰り返せば
良いだろうか
(城に5万・外に10万程度の兵なら
 外で兵が襲撃されても恐らく保つだろうか)
                                                                
181名無し三等兵:03/06/06 15:54 ID:???
個人的に結構面白い話だと思ったので張ってみました。
                   
182名無し三等兵:03/06/06 17:56 ID:???
日清日露も比較的に防衛的な要素の強い戦争だった。
それ以前の戦争は秀吉の半島出兵以外は国内に留まるものがほとんどだったし。
どちらも朝鮮半島を巡る戦いと言っても、それぞれ補給路はあったからね。
しかし太平洋戦争は、大東亜戦争と呼ばれる通り。
地球のほぼ半分にまたがる広大な範囲で争われた。
これでは従来の補給の構想で何とかなるわけがないってことだ。
人間ってのは実際に教訓が無いと反省は無いモノで、欧米の場合は植民地時代も長く
ナポレオンの遠征など長距離の遠征の教訓があったからそれが出来たのではないか?
183某研究者:03/06/06 18:33 ID:4AypKMzn
シーレーン防衛と言うより主力艦隊の対潜能力が
無いのが戦争前半では問題だろうし
後期には制空権も無い状態であるなら
シーレーン防衛等護衛艦や哨戒機を配置してさえ不能だろうか
184名無し三等兵:03/06/06 22:25 ID:???
>182
そもそも戦略構想とかの時点で狂っていたけどね。
短期決戦を目指しながら、長期持久の体制を建設するとかいってるし。
しかし、いつも不思議に思うのは陸軍、海軍とあんなに優秀な人材を
集めてどうして、補給の軽視、攻勢限界点の無視といった
基本的なミスを犯すのだろうか?
185名無し三等兵:03/06/06 22:30 ID:???
>>184
官僚機構という歪曲時空が問題だよ。
この特殊な領域においては、偏差値70超&人格円満な人間でも、2ちゃんDQNと同程度の知力と人格しか発揮出来ない。
官僚や軍隊が学歴、順位にこだわるのは、それ故だ。我々凡俗ではあそこに一歩踏み入れた瞬間、能力は白痴レベルに低下する。
186名無し三等兵:03/06/06 23:51 ID:???
官僚の世界に東大卒が優先される学閥がある以上は仕方がない。。
しかし東大卒だからと言っても実務が出来るとは限らないのは、民間企業の中枢にいるのは東大出
ばかりではないことでも明らかだが
187名無し三等兵:03/06/07 04:16 ID:???
>>184

>いつも不思議に思うのは陸軍、海軍とあんなに優秀な人材を
集めてどうして、補給の軽視、攻勢限界点の無視といった
>基本的なミスを犯すのだろうか?

それは結果論ではないかな。
今でこそなんでそんな事が・・・
と思うわけだが。あの当時の日本では本格的な遠征はした事がないわけだし。
188名無し三等兵:03/06/07 04:27 ID:???
>>184
ヤパーリ経験が無さすぎたのかも。
189名無し三等兵:03/06/07 09:36 ID:???
>>184
集団心理ってヤツでね。周囲がそれに騒げばなかなか反対意見なんて言えないものだよ。
石原完爾や山本五十六を初め。名だたる名将の多くが反対していのだから、それに従えば良いものをってのは結果論。
そもそも優秀な人材を集めていても、教育制度がよろしくなかった。
陸士学校などで教えるのは、精神論が中心。戦術も日本海海戦で東郷がやったような奇策を中心に教えていた。
いまの防衛大学校ではその反省から科学など理系を中心に教えているが
これも誕生と同時に清露米英など、自国より遙かに国力のある国と対峙しないといけない宿命にあった帝国海軍の悲劇
と言えるが、正攻法をお座なりにしたのはどう考えても不味かった。
だから真珠湾攻略の時も二次攻撃は断念したし、ソロモン海戦でも不可解な反転を行った。
その裏事情に当時の海軍も海士学校での教育は、奇策のたぐいばかり重視したことがあったようだ
190名無し三等兵:03/06/07 11:55 ID:???
奇策を海軍で教えようとしたのなんて。
小沢の馬鹿くらいだろ。

それ以外はある程度当時としては常識的なことを教えていたのでは?
191名無し三等兵:03/06/07 12:11 ID:???
小沢が馬鹿?
どこが?
192名無し三等兵:03/06/07 15:17 ID:???
戦争になれば補給も考えずにただ前進
南方戦線全体が奇襲みたいなものだったが
193名無し三等兵:03/06/08 02:10 ID:???
ケケ・・・。
194名無し三等兵:03/06/08 10:22 ID:???
軍事板的には塩野七生ってどうよ?
世界史板では叩かれてるけど・・・
195名無し三等兵:03/06/08 10:56 ID:???
しょうがないよ。七生タソだもん。
196名無し三等兵:03/06/08 11:21 ID:???
>>189は軍ヲタ1年生
197名無し三等兵:03/06/08 12:30 ID:???
軍事的にはいまいち。
やはり、有坂純とかのほうが・・・・・
198名無し三等兵:03/06/08 22:42 ID:???
塩野七生?
知らない名前だ
199名無し三等兵:03/06/08 22:57 ID:XBWOgy/f
>>198

厨房、おまえ本読まないだろ。
200名無し三等兵:03/06/08 22:58 ID:???
とりあえず200ゲット
201名無し三等兵 :03/06/08 22:58 ID:???
200get
202名無し三等兵:03/06/09 03:52 ID:???
ナポレオンの天敵のネルソン提督。。
彼の遺髪が東郷平八郎、山本五十六と共にあるって話だが。
203直リン:03/06/09 03:53 ID:wc4FfJRB
204名無し三等兵:03/06/09 09:58 ID:???
ハンニバルは映画のハンニバルではなく
ローマ帝国と戦ったカルタゴのハンニバルだよね
アルプス越えは有名だけど
205名無し三等兵:03/06/09 10:28 ID:???
>>204
いや…まあ、なんつーかな…

確かに、今や、ハンニバルといえば、ハンニバル・レクター博士の方が有名かもしれないがな…。
それと、必ずしも、軍オタであることが、世界史的教養の深まりとは直結しないのかもしれないがな…。

塩婆の著作でいいから、いっぺん、本当のハンニバルの事績には、触れておいた方がいいぞ。

「アルプス越え」だけじゃないから、有名なのは…。

ハンニバルとハンニバルと争ったローマのスキピオを評して、塩婆は、
「古代史上の名将を五人あげろと言えば、二人とも必ず入り、
 現代までの名将を十人あげろと言っても、入る可能性が高い」
と評価している。彼女の著作は色々問題もあるが、この言は正しかろう。

因みに塩婆とは塩野七、読むべき著作は『ハンニバル戦記』(ローマ人の物語というシリーズものの第2巻)
206名無し三等兵:03/06/09 17:47 ID:???
ハンニバル戦記は(・∀・)イイ!!
207名無し三等兵:03/06/09 19:26 ID:???
>>205
ハンニバルが使った象さんは、いまは絶滅しているペルシャ象だったな。
人間の戦争に巻き込まれた挙げ句殺されるなんて可愛そうだ罠
208名無し三等兵:03/06/09 19:54 ID:???
漢人部隊である黒旗軍はすごい!最強の名にふさわしい。
列強がアジアを植民化していた時代、仏軍の司令官二名を敗死させ壊滅させた強力な軍である。
日本が日露戦争で列強の一つ露西亜を負かした以前のことである。
中国は日本より優れていた証である。
日本人は奢らずこの事実を厳粛に受け止めなければならない。
209名無し三等兵:03/06/09 19:56 ID:???
>中国は日本より優れていた証である。
極論 
210名無し三等兵:03/06/09 20:03 ID:???
というか>>208は史実なのか?
ソース希望!
211名無し三等兵:03/06/09 22:24 ID:???
>>205

スキピオは入るのだろうか・・・
212名無し三等兵:03/06/09 23:53 ID:???
>>211
入ると思うぞ。
スキピオの場合、単にハンニバルを破ったってだけじゃない。

武具の改良、そして、軍団の戦列の運用方式を一新して、柔軟な展開が可能な戦術革新をもたらしていると思うが。

ザマの会戦における勝利は、従来からの三戦列方式を基礎にしながらも、何度も戦列歩兵の展開を変化させ、三方向からの半包囲態勢を作り上げて、最後のとどめに騎兵が背後から襲い掛かったというもの。
騎兵戦力の優越が切り札にはなっているが、ハンニバルよりも寡兵をもって、そうした状況に持っていったというのは、そうした戦術革新がベースにあったからと思うが。

さらには、不名誉な失脚に至るまで、ローマの外交方針を元老院の第一人者として長きに渡りリードし、大過なくローマの覇業を確定させたという点から、戦略家としても一級と思うが。
213名無し三等兵:03/06/10 05:08 ID:???
>>208
まあ。中国が欧米を敗退させたケースは確かにあるが
214名無し三等兵:03/06/10 06:04 ID:???
よく戦国時代の軍隊は当時の世界最先端の戦闘集団だったとか聞くけど実際はどう?
他の国には補給専門の将軍とか部隊って本当になかったの?
215名無し三等兵:03/06/10 08:15 ID:???
ハンニバル、アレキサンダー大王、スピキオ
カエサル、ポンペイウス?
うーんローマに偏っているな・・・・・。
216名無し三等兵:03/06/10 08:46 ID:???
ザマの戦いは兵力に関しては確かにハンニバルの
ほうが多かったようだが、寄せ集めもいいとこで
信頼できる部隊はイタリアからつれてきた部隊のみ
それに対してスピキオは自ら訓練して実戦を経験させた
精鋭、さらに騎兵戦力も優越していて・・・・・。

やっぱ名将ですな
217名無し三等兵:03/06/10 09:21 ID:???
ハンニバルが負けたのはローマとカルタゴの海軍力の差。
ポエニ戦争に対する両国の認識の違いが大きかったと思う。


現代までの名将10人と言った場合、漏れもスキピオは入れられないと思う。
スキピオはハンニバルの影響を受けて戦術を変えた面がある。
古代の名将と言えば入れられるが現代まで入れるとスキピオを入れるスペースはなくなると思う。

218名無し三等兵:03/06/10 09:24 ID:???
古代5人・・・そもそも古代っていつまでなんだろう。
219名無し三等兵:03/06/10 09:29 ID:???
>>216
スキピオは、イタリア本土やスペインに配置された精鋭部隊を連れて行くことはできず、
シチリアで自ら募兵する羽目になった。

シチリアでスキピオのまず配下になったのは、カンネの敗兵たちで、シチリアでの戦勝を経験してベテランぞろいの強兵となったものの、数は数千。
後は、スキピオのクリエンテスに連なる者や義勇兵同然で、戦意過大、戦闘経験過少の兵ばかり。
それを、訓練して、ほとんど実戦経験もないまま、カルタゴ本土に渡っている。
騎兵の優越はあったにせよ、戦列歩兵がロクでもない状況だったら、どうにもならない。

強兵を仕立て上げる…なるほど、やっぱり名将だ。
220名無し三等兵:03/06/10 09:32 ID:???
アレキサンダー、ハンニバル、カエサル、ベリサリウス、チンギス汗、サラディン、グスタフ=アドルフ、ルイ14世、フリードリヒ、ナポレオン

これで10人超えちまったよ。
中国の将軍、現代の将軍入れたら何人くらいになるんだ。
221名無し三等兵:03/06/10 09:37 ID:???
 ナポレオンとフレデリックを同列に並べるのはどうかとおもうが・・・。
222名無し三等兵:03/06/10 09:38 ID:???
ザマ戦ではローマ、カルタゴともに同数の兵力だが。

カルタゴは傭兵が多かった。
なんだかんだで正規軍主力のローマの方が強い。


223名無し三等兵:03/06/10 09:43 ID:???
騎兵が補充できなかったハンニバル。
これじゃどうしようもないだろ。

新たな戦闘教義を生み出したハンニバルだが、それをスキピオに真似されるような形ではどうしようもない。
224名無し三等兵:03/06/10 09:46 ID:???
象が暴れちゃってどうしようもなかったらしいな>ザマのハンニバル

策士、策に溺れるとはこのことか?
225名無し三等兵:03/06/10 09:49 ID:???
とりあえずお前らが思う10人を上げてください。

もちろん李舜臣は入るニダよね?
226名無し三等兵:03/06/10 09:59 ID:Mscgw21s
何を基準に名将とするかだ、問題は。

それ以降の戦争を変えてしまうような戦い方を開発した人を選ぶのか
それともその使い方がうまい人を選ぶのか。
227名無し三等兵:03/06/10 11:13 ID:???
ルイ14世、フリードリヒ、はちょっときついかもなあ。
グスタフ=アドルフも個人的には入れたいのだが
他の面子がすごすぎる
228名無し三等兵:03/06/10 11:46 ID:san9m2+Q
>>226
戦術の革命ってのは、日本の場合はやはり元寇だな
他にも戦車から騎兵を中心とした戦闘に移った騎馬民族の侵攻
戦術の革命が始まるのは異民族の侵攻がきっかけの場合もあれば
新しい兵器によるものもある。
名将一人がどうのとは必ずしも言えないと思いますが。。

まあ、山本五十六あたりは航空戦術の優位性を確立した意味で、戦術に革命をもたらせた名将と言えるかもしれないが
それにしても欧州戦線での前例があったからことのことだ
229名無し三等兵:03/06/10 11:50 ID:???
>>228
いや、古代日本にとっては白村江の大敗は、特筆すべき。
一説には、古代日本の歩兵戦術が、大陸の騎馬戦術に大敗したうえ、海戦も大負けして、戦略的力を失ったらしいが。
230名無し三等兵:03/06/10 12:49 ID:???
>>220
>中国の将軍

あげなかったのは、漢字出すのが面倒になったからか?(w
231名無し三等兵:03/06/10 12:55 ID:???
中国の名将っていったらだれだろうね
孫武ははいると思うけど。
232名無し三等兵:03/06/10 13:12 ID:???
孫鬢
233名無し三等兵:03/06/10 13:49 ID:PbhN1t27
>>231
>>232
孫武は有名な孫子の作者であり。孫鬢の先祖だ。
それだけに知名度は高いが、実際に何をやったかとなれば、逸話が一つ二つ残っているだけだよ。
孫鬢の方も孫鬢兵法書を残しているが、近年遺跡から発見されるまで失われており
歴史的にほどんど影響を与えていない。

もっとも中国も戦乱の歴史だから、その時代その時代に記載のある名将がいるが。
234名無し三等兵:03/06/10 13:50 ID:???
衛青と、キョカクヘイ(ごめん、漢字を忘れてしまった)
235名無し三等兵:03/06/10 14:14 ID:???
>>234
霍去病 かくきょへい
236名無し三等兵:03/06/10 14:19 ID:???
 「戦果」という点で、ドンパチだけが「将軍」の能力ではないと考えれば、コンキスタドール達
も忘れるわけにはいかないのでわ。
237名無し三等兵:03/06/10 15:01 ID:???
>>231
楽毅(がっき)

祖国・中山の滅亡に際し、寡兵で超大国に徹底抗戦し王を守りぬき、
斉に痛めつけられた燕に迎えられてからは、燕王に報いるために、斉を滅亡寸前までに侵攻した名将。
諸葛孔明の尊敬する一人。


孫ピンは後世の「軍師」に相当する。 孫子の2人とも、自身の手による兵法書をのこしていない。
兵法書として残っているのは、門下の弟子や、後世の曹操などの研究家によるもの。

特に孫ピンの功績として挙げられるのは、2000年以上前に「戦争」「戦闘」論から迷信を排除し、
科学的・軍事的要素のみで理論化・体系化したこと。
さらに、斉の軍政や兵器・戦闘を改革し、対秦連合の核とならしめるほどの基礎を築いた功績は大きい。

また、楽毅の燕軍による大侵攻から巻き返しを図った田単も孫子の門弟の一人。
238名無し三等兵:03/06/10 15:11 ID:???
>>237
>特に孫ピンの功績として挙げられるのは、2000年以上前に「戦争」「戦闘」論から迷信を排除し、
>科学的・軍事的要素のみで理論化・体系化したこと。

その意味では、中世ヨーロッパの方が、遅れているのかもしれないな。
迷信とまではいかないが、少なくとも「表向き」は宗教的倫理から自由にはなれなかった。
明け透けに倫理・道徳抜きで、軍事・政治を論ずるには、マキャベリの著作をまたなきゃならなかった。
239名無し三等兵:03/06/10 19:06 ID:MF7wl5oZ
霍去病は、漢の武帝の時代にキョウド討伐の名将として鳴らせた人物だが。。
実際のところ。武帝は皇妃の血族である霍去病に対して精鋭部隊を与えたので、必然的に功績を立てただけ。
それが本当のとこらしい。
まあ。それでも精強な部隊を与えられながら、まったく功績を立てなかった将軍もいたのだから
それなりの能力がないと功績も得られなかったでしょうが。
霍去病の能力に関しては、割り引いて考えた方が良いな。
240名無し三等兵:03/06/10 20:32 ID:???
衛青と霍去病
どちらも名将だが霍去病がいなくても
対匈奴ではさほど影響が無い気がするが
逆に衛青がいないと下手をすると大敗
してた気がする・・・・。

241:03/06/10 22:27 ID:o5e79X/0
ハンニバルが負けたのは、アルプスを越えてから約十年も戦い続けてから。
最初30代だった兵隊もカルタゴに戻った時には40代。体力とスタミナは
若い者に劣り始めている罠。・・・・と、がっこの先生が言ってました。

所で、ローマからカルタゴに戻るのを拒んだ(反対した)兵士を
結構かなり、処刑したらしいと聞いたんだけどホント?
242名無し三等兵:03/06/11 03:58 ID:???
太平洋戦争でもアメリカは捕虜は取らないと、かなりの日本兵を殺害した。
明かに戦時国際法違反だが、戦勝国の側はそれを処罰し
敗戦国は何も言えない。これが現実
243名無し三等兵:03/06/11 04:58 ID:???
>>241
逆ですな
244キョカクヘイ厨:03/06/11 10:09 ID:???
カクキョヘイか、すまん。回線で首つってくる。
245名無し三等兵:03/06/11 10:16 ID:???
>>241
>>243のいうように、逆でね…

船のキャパとかもあって、4万くらいの兵のうち、
1万5千のベテラン中のベテランだけ、連れ帰ったんだよ。

ガリアやハンニバルに転んだイタリア半島内での徴募兵を中心に、
置き去りにすることにした。
というか、置き去りにせざるを得なかったんだな。

で、ハンニバルとベテランたちが船に乗って出航しようとする。
置き去りにされる方はたまったもんじゃない。
ハンニバルがいるから、ローマ軍とも戦えて来たわけだし、
復讐心にたぎるローマ軍の中に取り残されたら、もうお終いだと思うわな。

で、残されることになった兵隊たちは、海に飛び込み、
船にしがみつき、舷側を這い登ろうとするものさえ続出した。
船のバランスも崩れかねないので、
ハンニバルはそれらの兵隊たちを射殺すように命じた。
246名無し三等兵:03/06/11 10:50 ID:???
>>242
深夜に釣りとは風流ですな。
247名無し三等兵:03/06/11 13:35 ID:???
夜釣りだろ
248名無し三等兵:03/06/11 14:09 ID:???
超遅レスの上にスレ違いだが、>>36、一体どうやったらそれがハングルに見えるのかと小1時間(ry
249名無し三等兵:03/06/12 09:53 ID:???
>>227

確かに。ルイ14世とフリードリッヒはゲームの達人という感じなんだよね。
それに対してグスタフ=アドルフはそれ以降、野戦軍に対して大砲を運用するという考えを普及させたからな。

>>228

>>名将一人がどうのとは必ずしも言えないと思いますが

時に奇抜な考えを持ちそれ以降の戦争を変えてしまう人間は存在すると思う。
異民族の使っている戦法、新兵器の運用法、それらを受け入れ、体系化出来る人間は少ない。

250打通太郎:03/06/12 11:44 ID:???
このスレは世界の歴史的な戦争を語るスレらしいが。
世界的な名作戦として打通作戦は欠かす事が出来ないだろう。
251名無し三等兵:03/06/12 14:08 ID:???
グスタフアドルフね
惜しむらくは戦場で散るのが早すぎた。
生きていれば、もっと多くの会戦で勝利を掴んだだろう
ただ、あのまま生きてても30年戦争に勝ったかどうかは疑問。
そういう意味ではハンニバルに似ているかも・・・・・・


252名無し三等兵:03/06/12 14:39 ID:???
>>251

あの戦争の勝者ってどこよ?
253名無し三等兵:03/06/12 16:02 ID:???
>>252
自国を戦場とせず、国威を伸ばしたという点では、フランス。
あと、独立を獲得したということで、ネーデルランドとスイス。

神聖ローマ帝国は、この戦争で一気に破局への道を進み始める。

ドイツ諸侯は、自治権を大幅に伸ばしたとはいえ、戦争のダメージが大きく、勝者とは断じ切れない。
他の参加国は、痛みわけ…つーとこ?
254名無し三等兵:03/06/13 03:03 ID:???
>>253
フランスは普仏戦争以来、常に負け続けている
それでもおいしい思いをしているのだから。
あの外交センスには負ける
255名無し三等兵:03/06/13 19:30 ID:???
>254
そのくせ、ナポレオンがいたときは
外交が全然だめだったんだよなあ。
やっぱ、何事もほどほどがいいんですかね
256名無し三等兵:03/06/14 14:13 ID:???
フランスが全ヨーロッパを席巻したのは、近代ではナポレオンの時代くらいかね?
他の時代では、ドイツやイギリスに常に小突かれまくっている
257名無し三等兵:03/06/16 12:12 ID:???
日本の歴史上の戦争では、もっとも劇的なのは関ヶ原の戦いでしょうな。
あの戦いは、戦術的に見れば、石田三成の側が圧倒していてもおかしくはない
高地に陣を取り。戦力も拮抗していたのだから。
しかし徳川側の圧勝だった。これは石田側大名の裏切りによるものだ。
もちろん偶然ではなく徳川側が、石田側の大名を密かに切り崩していた裏工作が功を奏したものだ。

戦争の勝敗を決めるのは、戦場だけではないって良い証だな
258名無し三等兵:03/06/16 13:51 ID:iOoVbEPA
.....
259名無し三等兵:03/06/16 17:10 ID:???
>>257
しかし、あの戦い、小早川の内応と、吉川による毛利全体の抑え込みが上手くいってたから良かったというシロモノでもあった。

家康は、秀忠に花を持たせるつもりで、徳川家の譜代の将のほとんどをつけて、中仙道に送り出した。
障害になりそうなのは真田家だけ。豊臣恩顧の大名が転ぶ危険性があった東海道よりも、安全かつ迅速に、
岐阜〜近江の主戦場に展開できる可能性があったからだ。

ところが東海道の豊臣恩顧の大名は上げて、豊臣家の君側の奸を除くという態度をとった。
一方、秀忠は、真田昌幸・幸村親子の篭城にてこずって、戦場に大遅刻。

結局、西軍を叩いた家康の主力は、黒田、福島ら、豊臣恩顧の戦場経験豊富な将の部隊だった。
また、毛利家の万一の攻撃に備えたのは、豊臣家の親類筋で旧五奉行の浅野。
さらには、九州での黒田如水、加藤清正の大活躍…。
そして、彼らがその後、秀頼の後見に回った結果、彼らの発言権を何らかの形で封ずるまで、一気に豊臣の取り潰しに動けなくなってしまった。

そして、家康は、一連の大阪の陣まで、豊臣の排除は遅れに遅れ、ああいうなにふり構わないという手段をとらされる羽目になった。

勝ててよかったが、という戦いでもあったわけだ。
260名無し三等兵:03/06/16 19:00 ID:???
しかし家康方に内通していたのは、吉川広家だけではなかった。
小早川秀秋など家康に寝返ったし。
中枢を担った大名の大部分が、家康と通じていたと言っても過言ではない
これは秀吉の正室、ねねを家康が説き伏せたことも大きい。

実際に西軍で戦った兵士は半分程度、残りは戦況を傍観したり
最初から寝返ったりのどっちかだ。
これは老獪な秀吉に対して、もともと文官肌で軍人肌の他の大名とはそりの合わない光成。
人望の差の面も大きいだろう。
261名無し三等兵:03/06/16 19:12 ID:???
名目上の総大将 毛利
副将 宇喜多
実際の総指揮官 石田三成
とこんなに複雑な指揮系統じゃ
たとえ関が原で勝利しても最終的な勝利は不安。

前田利家、秀長のどちらかが長生きしてくれていれば・・・・・・。
262名無し三等兵:03/06/16 19:14 ID:???
実際には家康は大坂の陣で討死してるんだけどね。
263名無し三等兵:03/06/16 23:35 ID:???
>>262
そういう伝説はあるね。。
まあ。実証のしようがない永遠の伝説だが
264名無し三等兵:03/06/16 23:37 ID:???
>>261
しかもそれに淀君や豊臣秀頼も加わっている。
指揮命令系統を一本化出来なかったことも関ヶ原の戦いの敗因の一つ
そのことは確かに以前から称えられている
265名無し三等兵:03/06/17 06:09 ID:???
>>240
霍去病は、若いだけにかなり傲慢な気性だったようだ。
霍去病は、母親の姓を名乗っていることで分かる通り。奴卑の生まれだが、
彼が成長した頃には、武帝の姉の踊り子だった叔母は後宮に入り
皇后になっていたから、彼は最上級の貴族としての生活を行っていた。
それだけに戦場でも、横暴な態度が目立った。
戦地で兵士を酷使したし、武帝に対してもぞんざいな口を利いた。

皮肉なことだが、それだけに武帝は彼を気骨のある青年と評価したようだ。
266_:03/06/17 06:13 ID:???
267名無し三等兵:03/06/17 16:42 ID:???
>>263
いや伝説じゃなく、研究でも認められてきているよ。
大坂の陣後の家康の変わりようとかから確認されてきている。
268名無し三等兵:03/06/18 00:32 ID:???
しかしそれでは大阪夏の陣以降も、家康が大御所として実権を握っていたことの説明が出来ない。
確かに影武者が成り代わったとの説もあり。
その説に基づく小説もあるけど、私は否定しています
269名無し三等兵:03/06/18 17:12 ID:???
>>268
いや、実権とっても陣後で変わっている。
270名無し三等兵:03/06/18 22:09 ID:???
まあ、あの時点で家康が死んでても生きてても
あまり影響は無いような気がする。
すでに、秀忠がいるしね。
もし、秀忠が死んでたら・・・・
271名無し三等兵:03/06/18 23:15 ID:???
江戸幕府が長く続いたのは、幕府という組織がしっかり出来ていたためです。
それ以前の指導者は、信長にしても秀吉にしても、個人の才覚によるとこが大きかった。
それだから彼らの死後は、簡単に倒れたのです。
272名無し三等兵:03/06/18 23:17 ID:???
江戸幕府が長く続いたのは、幕府という組織がしっかり出来ていたためです。
それ以前の指導者は、信長にしても秀吉にしても、個人の才覚によるとこが大きかった。
それだから彼らの死後は、簡単に倒れたのです。
しかし家康は違っていた。組織の確立に成功したから江戸幕府は260年も続いた。
これだけしっかりと安定した政権があった時代は、日本の歴史上、江戸時代しかなかったからね。
それ以前は、天皇家にしてもお飾りの形になって、実権はコロコロと代わっていたからな。
273名無し三等兵:03/06/19 10:50 ID:???
>>272
あと、信長→秀吉と続いた検地と刀狩りによる兵農分離路線の完成も大きい。
戦国時代中から徐々に進められてきたわけだが、
それまでは、武士の大半=足軽は武装し、土地を与えられる農民だった。
信長の時代から検地が進められ、それに秀吉の太閤検地でそれが全国化し、
これに秀吉の刀狩が重なって、武士階級と農民階級の完璧な峻別が可能になった。

社会階層の安定化は、秩序維持に役に立つ。
さらに、本当の意味での農民は武装するチャンスを完全に失った。
一揆は起こるにしても、それはより容易に鎮圧可能なものになった。
農民反乱は、社会を根こそぎ転覆させる可能性を持つ。
少なからず大名の支配領域くらいは引っくり返し得る。

それが極小化した。
深刻な飢饉が起こる中期まで、大きく統治機構をいじる必要がなかったというのは大きい。
274名無し三等兵:03/06/19 11:39 ID:???
>>273
つか、刀狩、検地、そして法度による統治を、近世の始まりと見るらしいぞ。
それまで、地域地域の経済力に応じて、相応の軍事力と政治発言力をもった集団が、討伐したりされたり、合従連衡したり、連盟連合支配されたりしたのが、中世体制の最終末期=戦国だったらしい。
それが、卓越した軍事集団によって、その権威を否定されたと見ていいらしい。
以後、外国と自力通商が再開した幕末まで、地方は独自の能力で、全国体制に歯向かえなかったわけだ。
275名無し三等兵:03/06/19 15:54 ID:???
中国で長期安定政権だった時代、秦漢と隋唐。
二つの政権をくっつけて呼ぶことが多い。
これらの特徴として、前政権が必要なことを全てやってくれていた。
だから次の政権は長期安定政権を作ることが出来た。
秦がやった改革は、何れにしても必要なことだったが、秦は無理に無理を重ねて続けた結果。
民衆の恨みを買い滅亡。その後で続いた漢が、長期安定政権を作った。

隋唐も同じで隋がやるべきことを全てやってくれていたから、唐が長期安定政権を作れた。
豊臣政権と徳川政権にも同様の論理が成り立つ可能性は否定できない罠
276名無し三等兵:03/06/19 15:55 ID:???
>>275
まあそのとおりだろう。
ゆえに(?)徳川は豊臣を滅亡させる必要があったのだろうか
277スマイルα:03/06/19 22:32 ID:???
278ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :03/06/19 23:12 ID:???
>>267
>いや伝説じゃなく、研究でも認められてきているよ。
 研究で認められてきてるんなら、興味あるんで、レポとか、研究書とか読んで
みたいんだけど、タイトルとか、研究者の名前とか教えてくれない?
279名無し三等兵:03/06/19 23:46 ID:???
家康夏の陣死亡説は、その時死んだとされる家康を葬った墓もあるし
かなり以前から称えられていた異説ではある罠。。
しかし決定的な証拠ってのがないので、歴史学者のほとんどは無視していたはず
280名無し三等兵:03/06/20 07:40 ID:???
まっとうな歴史家なら無視するわな。
お話としては面白いけど。
ただ、家康ってあの年であんなに有利な状態でも
戦死する可能性がある場所に陣を張っていたのだから
戦人だよなあ。
281名無し三等兵:03/06/20 09:07 ID:???
>>280
まあ、家康って老獪な政治家ってイメージが先行しちゃうけど、
元々、若い頃は、今川配下で勲功抜群の戦術指揮官だったわけで。
それにプラスするところの三河家中の結束の強さ・士気の高さも手伝って、
小牧・長久手の戦いを見るように、「海道一の弓取り」「戦上手」だったわけで。
その辺、激戦となりそうな戦場で、どうすれば人が動くか、
つぼを心得てるってことでしょうなあ。
282名無し三等兵:03/06/20 10:36 ID:???
家康は幼くして織田や今川の人質となり。そこで冷遇され続けた。
かなりの苦労人だからな。
多分、人の顔色を見て育ったのでしょう。
それだけ用心深かったのだとは思うよ。
283名無し三等兵:03/06/20 10:38 ID:???
三河家中の結束の強さに関しては、どっちかと言うと後世に言われ出したことだ。
一向宗の争乱など、家康の家臣達の内紛はけっこうあったからね。
284名無し三等兵:03/06/20 11:26 ID:???
>>283
言われたのは後世かもしれんが、内紛・粛清(嫡男信秀の粛清など)を経て
>>281の小牧・長久手あたりは、ピークだったと思われるが……

あ、秀吉との和解直後、重臣の石川数正の出奔とかもあったか…(w
285名無し三等兵:03/06/20 18:40 ID:???
人生五十年、下天のうちに比ぶれば、夢幻のごとくなり。。
ちなみに下天ってのは、天上界の中では地上界のすぐ上の一番下の天のことだよ。
そこでも一日は地上の五十年とされている
286名無し三等兵:03/06/20 23:34 ID:???
カルタゴが滅び
ローマが滅んだ。
大蒙古帝国も消え去った。
永遠に続く世界帝国など存在しない。アメリカもいつの日か滅びるだろう。
しかしその時は、世界を支えていた柱が失われ大動乱になる。。
覇権国家なくして世界の安定が図られたことは、歴史上、一度もないのだから。。
果たしてアメリカの衰退の時までに覇権国家なくして世界が安定する時代が来るだろうか?
287名無し三等兵:03/06/21 00:51 ID:???
人々がなんらかの「帝国」=「秩序維持の名誉と利益と、そしてリスクとを負うもの」を欲すると思われ。
そして築くだろうと思われる。
それが近代以来今日までの主権国家・国民国家となるかどうかは不明。
288 :03/06/21 02:12 ID:uRU7Gzlo
>>246

あれ?事実でなかったっけ?
「誰にも書けなかった戦争の真実」をよんでみて。
日本兵の遺体を損傷する米兵があまりに多いため云々という話が出てるよ。

アメリカ兵の残虐行為もけっこうあったみたいです。
勝者はそれを抹殺できるんですがね。
289名無し三等兵:03/06/21 03:31 ID:???
事実です。リンドバーグ従軍記を読めば良い。
アメリカ本土でも、米国兵が犯した戦争犯罪は、ほとんど問題にされないが
実際のところ。日本軍の占領地より強引なことが行われたそうです
290名無し三等兵:03/06/21 03:41 ID:???
勝てば官軍・・・
291ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :03/06/21 06:18 ID:???
>太平洋戦争でもアメリカは捕虜は取らないと、かなりの日本兵を殺害した。
「日本兵捕虜は何を喋ったか」文春新書がお勧め〜
 あと「カラーで見る第二次世界大戦」(ビデオ)もな。
「カラーで〜」の方では、日本軍の水兵服を着て照れるアメリカ兵士。ふんどしを
締めてご満悦なアメリカ兵士と云う映像を見れるよん……
 で、この映像のバックにアメリカ兵が、国の彼女かなんだかに送った手紙が読み
上げられるんだが「ジャップの歯」と云うのが、一個1ドルで売られてたらしいよ。
292名無し三等兵:03/06/21 10:04 ID:???
沖縄戦では、逃げまどう民間人
多くの子供や老人を米国兵が面白半分に狙撃する姿が目撃され
わざわざ日本兵の死体を探して、その口に放尿した兵士もいたとか。

ブッシュ大統領は、国際刑事裁判所発足に合わせて、同裁判所条約の批准に拒否したばかりか。
各国に個別に圧力を掛けて、米国兵が訴追されないようにした。
米国も、見て見ぬ振りをしているが戦争犯罪が、国際法廷で裁かれるようなことになると、一番に被告が多いのはどこの国か?
それをよく知っているってことですよ
293名無し三等兵:03/06/21 11:23 ID:???
アメリカの待遇の良さに感動して日本捕虜が秘密を全部喋ったってのは嘘だったのか。(藁
294名無し三等兵:03/06/21 11:48 ID:???
後方のちゃんとした捕虜収容所に送られた後の扱いは全般に良かったらしいよ。
前線は殺気だってるからね
295名無し三等兵:03/06/21 13:46 ID:???
>>293
嘘ではないが、真実でも無いな。
アメリカだって捕虜を皆殺しにしたなら、捕虜として捕らえられた日本兵が、いまも生き残っているわけはない。
捕虜収容所に送られた幸運な方々は、ジュネーブ条約に則った処置を約束された人もいるでしょう。

アフガンの捕虜の扱いを見ると、それも少数のような気もしますが。
296名無し三等兵:03/06/21 14:09 ID:???
>>293-295
日本兵は将校も含めて軍事情報を敵に教えたらイカンという教育をされてなかったので
知ってることは気軽にしゃべった
297ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :03/06/21 14:43 ID:???
>>296
 捕虜のなった以上、日本には帰れない。
  ↓
 帰れないなら、日本以外……アメリカで生きて行くしかない。
  ↓
 アメリカ人に心象を良くする為、知ってる事は率先して話した。

 ってこともあったみたいね。
298名無し三等兵:03/06/21 19:46 ID:???
日本軍は戦陣訓で、捕虜になることを禁止した。
捕虜になれば、国中から非難されて生きては行けなかったからな。
捕虜になった途端、死ぬか開き直るしか道はなかった
299名無し三等兵:03/06/21 20:05 ID:???
>>298
戦陣訓って投降禁止の強制力あったの?
問題の一節は「名を惜しむな」が題目なんだが・・・
自軍は投降せず、しかし敵の捕虜はとる・・・
というのは矛盾してないかい
300名無し三等兵:03/06/21 20:12 ID:???
>>299
強制力はない。戦陣訓に罰則規定はないからね。
むしろ戦闘哲学の教育物みたいな位置づけ。
つうかそこまでドキュソな組織でもあんめ。
んまあ、間接的には思考をしばったといえると思うけどね。
301名無し三等兵:03/06/22 01:47 ID:???
>>299
国に帰れば捕虜は、その家族まで裏切り者とされたそうだ
302名無し三等兵:03/06/22 02:37 ID:???
当時の民間人の考え方を明文化しただけともいわれているね。
303名無し三等兵 :03/06/22 04:17 ID:???
戦陣訓は「中国での戦局が思わしくないのは前線の将兵にやる気がないのが原因」と思った
陸軍上層部が作成した。実戦経験皆無の人間が造った戦陣訓は戦術的に日本軍を不利にした。
304名無し三等兵:03/06/22 07:21 ID:???
「生きて虜囚の辱めは受けず」ってのはどっちかっていうと民間で強く言われてたと聞く
国民が「敵国語禁止」と金切り声を上げていても、軍に入れば英語は溢れてたし、士官は英語必修

ルパング島の小野田さんは、
戦地に送り出す家族からの「虜に囚われる前に自害せよ」の言葉と
中野学校で習った「どんなに生き恥をさらしても、生きて戦いを継続せよ」って教えで
板挟みになって悩んだらしい
305名無し三等兵:03/06/22 12:31 ID:EpIaHa9T
てかソ連でも捕虜になった奴はイジメラレタらしいな。
306名無し三等兵:03/06/22 13:45 ID:???
日本の歴史的な戦争=日露戦争
307名無し三等兵:03/06/22 13:52 ID:???
日清戦争を忘れるな!
308名無し三等兵:03/06/22 14:19 ID:???
日露戦争当時、軍は捕虜に対して罰則は与えなかったが
兵士の故郷の人たちが、捕虜となった兵士を白目で見て不遇の扱いを与えたそうだ。
捕虜に日本軍が悪いことをしたと左の人たちは言っているけど。
実際のとこ。軍より民間がやったことだな
309名無し三等兵:03/06/22 14:24 ID:???
ああ、社会の問題か・・・
こういう倫理観がないと実際硫黄島みたいに文字通り死ぬまで戦えないかもな。
海外だと捕虜はヒーロー扱いだといわれるけど、実際どうだか。
310名無し三等兵:03/06/22 15:53 ID:???
アメリカは捕虜に与える勲章があるからね。。
311名無し三等兵:03/06/22 17:02 ID:???
>>289
リンドバーグって親ナチだろ。
っつーかリンドバーグは真珠湾攻撃直後に退役した筈だが。
312名無し三等兵:03/06/22 21:13 ID:???
小野田さんは、非正規戦を担当する。ナカノ学校び卒業生だったからな。
もとより友軍の再上陸までの敵陣の混乱を任務としていた。。
313名無し三等兵:03/06/23 02:31 ID:???
>>308
日露戦争では政略的な狙いで、国際法・国際慣習が遵守されたからな。
諸国民の同情と支援を得るべくヨーロッパ・アメリカ流の戦場作法に徹しようとした。
兵士たちの手帳には「我々は文明国として戦争を行っている」旨が書かれていたそうだ。

しかしエリート指導層と一般民衆との隔絶が問題だった訳で。
その後も歪みを正そうとしなかった指導層にも問題はあるし、悪ノリした昭和の軍部はもっと問題w
314名無し三等兵:03/06/23 02:52 ID:???
>>313
話の腰を折るようで悪いが、国際法と云う概念が確立したのは、第一次大戦後であり。
日露戦争当時は、まだ国際法そのものが存在しなかった。
日露戦争で日本軍が文明国に徹しようとしたのは、日本人らしくこれが文明国だ。
そんな幻想に追われて、それを守ろうとした結果でしょう。
315名無し三等兵 :03/06/23 10:41 ID:???
>314
幕末のころ、万国公法とかなかったかな?
316名無し三等兵:03/06/23 11:43 ID:???
国際問題に関しては、西欧の国際慣習で結論を下そうとする考えはあったでしょうが。
戦時国際法などなかったよ
317名無し三等兵:03/06/23 18:45 ID:3sDxKGI9
http://plaza4.mbn.or.jp/~tactic/index.html
こんなん見つけたんで載せてみるテスト
318名無し三等兵:03/06/23 22:41 ID:???
何やこれ?
319名無し三等兵:03/06/24 03:05 ID:???
ふぉふぉふぉ
320名無し三等兵:03/06/24 08:32 ID:osIsMivn
>>220
ルイ14世は勘弁してくれ。こいつは実際に軍を指揮して戦った経験がない。
二次大戦最高の名将は?と聞かれて、ルーズベルトって答えるようなもんだ。
この時代のフランスからなら、ヴォーバンを選ぶべきかと。
321名無し三等兵:03/06/24 15:25 ID:???
>>220
どれもクセの多い司令官ばかりだ。こんな連中を集めたらまとまるものも、まとまらないような気がするが
322名無し三等兵:03/06/24 17:35 ID:???
>>321
まず、誰がトップになるかっていう権力闘争で半分はあぼーんだな。
で、その後も主導権争いがあり、あるいは、敵に分裂につけこまれて、
あと4人もあぼーん。
最後に残った一人が、絶望的な戦況の中で芸術的戦術を見せるが、
最終的に衆寡敵せず、壊滅させられるって具合になるんじゃないかな。
323名無し三等兵:03/06/25 12:26 ID:???
軍人のトップも色々あるが、マッカサーのような職業軍人で上流階級の出身ってのは、やはり傲慢なものだ。
まあ。職業軍人はどしても敵味方で物事を判断するクセがあるようだし
一般の国民とは考えが違ってくるな
324名無し三等兵:03/06/26 13:08 ID:???
>>306
>>307
日清・日露両戦争当時の日本は、対戦相手より明かに国力が劣っていた。
太平洋戦争中の日米が1対10とするなら、日露は1対100ではないかとさえ言われる。
それでも勝てた。

当時の清国やロシアは、国内が乱れてどちらも崩壊寸前だったからだ。
そして太平洋戦争当時の日本は、日本の方が軍閥や官僚制度が硬直化して手の施しようがない状態であり、アメリカの方は繁栄の絶頂だった。。
この差が大きいね。
ほれ。昔から「敵を知り己を知れば百戦危うからず」って言うでしょ。。
誠に至言だ。
325名無し三等兵:03/06/26 14:35 ID:???
>>324
つか、当時の技術水準での輸送力に、限りがあって、国力をうまく使えなかったからと思われ。
326名無し三等兵:03/06/27 02:22 ID:???
>>325
まあ。バスチック艦隊は、地球を半周する大航海にかなり四苦八苦したみたいやな
327名無し三等兵:03/06/27 03:24 ID:???
付け加えるとしたら当事のロシア兵の半数(75パーセント説も有)が文盲
日本では兵卒の中でも文盲は数えるほど、世界でも類を見ない高水準の教育レベルだった
328名無し三等兵:03/06/27 07:02 ID:???
>>327
日本語は50音しかないからね。
文字は漢字を別とすれば憶えやすい
その反面、同音異句が多くなり、馴れないと言葉がやりにくい。
一方で英語のようにスペルを多数、憶える必要がある言語は、日本語ほど簡単に文章が出来ないものさ
329名無し三等兵:03/06/27 08:29 ID:???
>>327
司馬遼太郎が学徒動員で軍隊に入って
大学生だからってんで、現役&第二乙の新兵に
軍人勅諭&戦陣訓の講義をさせられたときに
「徳川家康を知っている新兵が一人もいなかった」と、驚いたそうな。

昭和40年代に二等陸士として自衛隊に入隊した浅田次郎も
小隊内には「読み書きの出来ない仲間がいた」。と書いている。

つまり「識字率」とか「お勉強が出来るか否か」で
兵の優劣を決めることは出来ないってこった。
もって生まれた知能の程度はホモサピエンス同士である以上、互角!
330名無し三等兵:03/06/27 10:03 ID:???
>>326
バルト艦隊だけじゃない。
シベリア鉄道の苦労も忘れんなよ。
331劣等従者 ◆QCe2TI1.LU :03/06/27 10:40 ID:???
>>329
しかしモンゴロイドの脳は(以下略
332名無し三等兵:03/06/27 10:59 ID:HTxBhjXf
>>324
>日露は1対100

日本が100個でやっと対等だったの?そんなに差が?
日清はどれくらい?
333名無し三等兵:03/06/27 14:52 ID:???
家畜と奴隷の管理方法のノウハウがあるから将校未満は字が読めなくても、数が10まで数えられなくても大丈夫。
さらに、条件反射による家畜訓練の方法もとり入れているので、言葉が通じなくて何とかなる。

334名無し三等兵:03/06/27 15:00 ID:???
>>333
日本は農業で国を支えていたので、また家族を単位していたので、ここの人材の頭のよさが、それなりに重要だ。と、いってみる。
まあ、ひとを家畜扱いするような認識の香具師に言っても無駄だとは思うが。
335名無し三等兵:03/06/27 15:34 ID:???
>>332
日清についての資料はない。
336名無し三等兵:03/06/27 15:46 ID:???
>>328
>一方で英語のようにスペルを多数、憶える必要がある言語は、日本語ほど簡単に文章が出来ないものさ
識字率に影響を与えるほど難易度に差があるとは到底思えんが、
それを置いても教育をどれだけ受けているかどうか、ってのが本質だろ。

>>329
>つまり「識字率」とか「お勉強が出来るか否か」で
>兵の優劣を決めることは出来ないってこった。
ボクシングなんかじゃ教育の有無は関係ないだろうが、
戦争じゃ大有りだろ。基礎教育すらちゃんと受けてないような
DQN連中、統率取るだけで莫大なエネルギーを必要とするぞ。
337名無し三等兵:03/06/27 20:19 ID:???
白村江は範囲外??
338名無し三等兵:03/06/27 21:38 ID:???
>>337
白村江も入れても良いが、しかし詳細な戦史に関する記録があったか?
日本書紀に記されているくらいしかないと思うが?
339名無し三等兵:03/06/28 08:56 ID:???
平将門の乱で、将門はあっさり討たれたよね。
その理由として、将門が人望を失っていたことが上げられる。
そもそも一族内の争いだったのが、朝廷が東西で乱が起こる。
そのような予言を信じて、将門を追いつめたものだから、どうにもならなくなって
将門も王権をうち立てるようになった面があるようだけど
340名無し三等兵:03/06/28 12:02 ID:???
>>329
国家総力戦の前提に義務教育の普及があることを知らんのか?
341名無し三等兵:03/06/28 16:36 ID:???
>>340
国民の学力がある程度高くないと、なかなか思うような動きが出来ないのは事実でしょう。
342名無し三等兵:03/06/28 18:29 ID:???
>>329

ウソかホントかは知らないが。
二次大戦中のソ連が分隊、小隊単位の戦闘で単純な行動しか取れなかったのは。
部下であるアジア人と指揮官であるスラブ人との間にうまくコミュニケーションがとれなかったかららしい。

同じ日本人同士、言葉が通じても文字が読めなければ行動にそれなりの支障が出るものと思われ。
343名無し三等兵 :03/06/28 22:18 ID:???
>>339
違う。農繁期では農民は戦えない。
344名無し三等兵:03/06/29 12:21 ID:???
>>342
同一の民族ならば文化や価値観が、自ずと似てくる。
その点が、諸外国の軍隊に比べてほぼ単一民族で構成された。
日本軍では連携が上手く行ったのは事実でしょう。

言語に関しては、テレビやラジオが普及する以前は、地方の「なまり」が酷かったからな。。
地方出身者同士で、まったく言語が通じなかったこともしばしばあったでしょう。
それでも異国の言語よりはマシだけど、必ずしも日本人同士言葉が通じたと考えるのはどうかと思いますけど
345名無し三等兵:03/06/29 14:23 ID:???
>>342
そのための郷土連隊です。村の評判というシバリも利用できますし。
346名無し三等兵:03/06/29 15:00 ID:???
三方原の戦いで、家康が勝つ方法は無かったのか?
347名無し三等兵:03/06/30 12:13 ID:???
>>346
武田信玄は野戦の天才だ。
野戦で家康が勝つのは難しい
初めから城に籠もっての攻城戦にもつれ込んだ方が優位だったろう。
攻城戦では、精強な騎馬隊の能力も十分に生かすことが出来ないし
家康に勝つことは無理でも、負けないようにするのは可能だったろう
348_:03/06/30 12:16 ID:???
349名無し三等兵:03/06/30 12:45 ID:???
>>347
家康だって野戦上手であるわけだが…。

まあ、経験の差が大きかった上に、信玄の方が2万超の軍勢。
一方、家康の方は、1万足らず。これに信長からの援兵が3千。

これで死なずに済んだわけだから、それでも家康は大健闘したとも言える。
350ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :03/06/30 22:11 ID:???
 確か、家康は信長に対して信義を見せるために篭城を止め、出撃したんじゃな
かったっけな?
 それを見越して、信玄もワザと城を攻めなかったんじゃなかったけかな〜?
351名無し三等兵 :03/06/30 22:20 ID:???
有力な説としては、武田軍を放っておくと、三河一帯の地侍等が武田に臣従してしまうので、
一撃を加えて帰城するはずが、失敗して(信玄の作戦)しまったというのがありますな。
352名無し三等兵:03/06/30 23:47 ID:???
>>351
鶴翼に構えて信玄の後陣を叩くはずが、
信玄はそれを十分に予期しており、魚鱗の陣形で待ち構えておりましたな、確か。
魚鱗の陣形で、後陣→先鋒にあたるところに小山田、山県ら老練の将を配して。

ところが、先鋒だけでけりがつくはずが、ほとんど全軍投入という羽目になったはず。
そのあたりが家康の健闘を表していたと。
353海の人 ◆STEELmK8LQ :03/07/01 12:43 ID:???
>352
 というか日本史の軍記物で出てくる「鶴翼」だ「魚鱗」だ、っていう陣構えには
フィクション以上の意味ってあるの?
354352:03/07/01 13:23 ID:???
>>353
多分………合理的意味は、ほとんどないと思う(w

あ〜ただ、欧州の斜線陣でも言われてる思うが、陣形で接触〜攻撃のタイミングやバランスを調整していたってのは、多少は日本でもあるんだろうなあ、とは思うんだけどね。

鶴翼…両翼から戦端を開き、間をおかず全線で攻撃…
魚燐…中央突破を指向しつつ、適宜に後続部隊の投入を図る…
みたく…。こういうことが軍記もので、正しく認識・描写されてるかつーとはなはだ疑問だが。
355海の人 ◆STEELmK8LQ :03/07/01 14:24 ID:???
>354
 あ、なるほど〜、そういう風に実体を読み解いていけばいいのねん
 「どうせ構成の造り事じゃん」とか、さっくり否定していただよ、さんくす:-)
356名無し三等兵:03/07/01 23:30 ID:???
あげ
357SL:03/07/02 19:23 ID:???
>354
>適宜に後続部隊の投入を図る…
>軍記もので、正しく認識・描写されてるかつーとはなはだ疑問だが。

このへんは「車懸かりの陣」に混同されて描写されたりしてますな。軍記もの。
358ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E :03/07/02 22:08 ID:???
 日本の戦国時代にはヨーロッパで言う、鉄砲隊と歩兵が混在した形での陣形『テ
ルシオ陣形』とかに相当するようなモノはあったんだろうか?
359SL:03/07/02 23:01 ID:???
混在はしているが、『テルシオ陣形』(隊形か)のように機能を重視した訳ではなく、
兵制の都合によるものですね。
360名無し三等兵:03/07/03 12:39 ID:???
>>358
戦国時代の日本の軍備を見れば、西欧型の重装甲に比べれば、機動性を重視したものが中心だな。
西欧に見られるような重装甲の兵士による密集陣形よりも、機動性を生かした戦法が中心だ。
これも西欧と違い。起伏に富み。森林の多い地形が理由だろう。
日本刀一つとっても、西欧の刀は、その重さで叩き付けたり、鎧の隙間から剣を突き立てるものだが
日本刀は斬るためのものだ。
それが可能だったのも、鎧が西欧のものと違い。軽武装だったからだろう。
361名無し三等兵:03/07/03 13:59 ID:???
>>360
日本刀は馬上刀として発達したという定説は?
362名無し三等兵:03/07/03 14:04 ID:???
それ以外にもあるぞ。
槍の発達でクリアできるし。
逆に>360の論理を適用すれば、槍が発達しないことになってしまう。

洋の東西を問わず、装甲の敷衍は、火力に対する防御だろう
363名無し三等兵:03/07/03 17:05 ID:???
>>362
洋の東西を問わず。白兵戦時代の戦争の主役は、刀より槍だ罠
364名無し三等兵:03/07/03 19:19 ID:???
戦国時代には、乱戦では、主力は刀よりも槍やった。
基本的に遠距離の相手には、弓を使い
近づくと槍での乱戦が主流のスタイルや
365名無し三等兵:03/07/03 19:38 ID:j/kZQ8g3
槍に太刀打ちするには3倍の力が必要とか。
弓にもいろいろあるみたいで。
でも、昔のヨーロッパだか分からないけど、
棍棒をつかってたんでしょ?痛いだろうね。
366名無し三等兵:03/07/03 20:37 ID:???
なんで鉄砲があんなに強かったのに戦国時代は槍兵もいたんですか?

銃剣とかなんでつけなかったの?
367SL:03/07/03 21:47 ID:???
戦国時代はまだ環つきの銃剣がなかったから。
1680年頃ヨーロッパで環つきの銃剣ができて、
パイク兵に取って代わった。
368補完:03/07/08 05:44 ID:???
368 名前:犬と呼ばれる商売 投稿日:03/07/05 17:17 ID:???
 金銭を得ることを目的に軍役に就く者を傭兵と呼ぶならば、傭兵はいつの時代の戦場にも
多かれ少なかれ存在した普遍的な存在といえる
 しかし、一つの軍制としての傭兵制度はそのような普遍な存在ではなく、ある特定の時期に成立し発展し
消滅している
 代表的な傭兵としては、古代ギリシアのギリシア人傭兵やローマ帝国のゲルマン人傭兵、
中世封建制下の傭兵、絶対主義期の傭兵等をあげることができる
 特に、絶対主義時代における傭兵制度については、19世紀の軍人たちが専ら国民軍の見地から
盛んに批判的に論じており、彼らの見解は現在においても有力な定説と目されている
 そして、その中には傭兵制の歴史的過程をかなり明確に指摘しているものもある
 「戦争は政治の一手段である」と身も蓋もなく言い切ったクラウゼヴィッツは、その著書「戦争論」の中で
次のように述べている
 「封建制度は漸次に衰退し、統一的領土国家が形成され、国家的結合は一層緊密になり、身分上の服従関係は
物質上の関係に変じ、ついで金銭関係が漸次に大多数の関係を支配し、封建的軍隊は給金を給付される軍隊と
なるにいたった
 傭兵制度はかかる変化への過渡を形成するものであって、従って一時は大国の器械ともなった
 しかしそれは長くは続かなかった
 短期の契約で雇用された兵士は常設的な軍隊に変じ、国家の兵力はいまや国庫の負担をもって設けられた
軍隊によって維持されることになったのである」
 そしてクラウゼヴィッツは、アンリ4世の治世には封建軍と傭兵と常備軍の三種類の軍隊が並用され、
その後、傭兵は三十年戦争の頃まで残存し、18世紀においても僅かながらその存在の痕跡を認めることができる、
と述べた

 確かにクラウゼヴィッツが指摘するように、近世初期の傭兵制は一時的偶然的に成立したものではなく、
封建制の解体と続く絶対主義の確立と密接な関係をもって成立した産物であった
 傭兵制はクラウゼヴィッツが主張するように封建軍から常備国民軍への過渡的形態に他ならないとしても、
その過程は彼が言う程に短期のものではなく、またそう単純でもなかった


そんだけ
369補完:03/07/08 05:45 ID:???
369 名前:money-fief 投稿日:03/07/05 17:18 ID:???
 正規の、もしくは純粋な意味での封建軍は、封土を媒介して成立した軍事的主従関係を基礎として成立する
 この場合、軍役奉仕すなわち出軍義務には時間的空間的な制約条件が付加されていたが、臣下が軍役免除金を
支払って軍役を免れる慣行もまた存在していた
 ドイツ皇帝フリードリヒ・バルバロッサは、イタリア遠征の際にこの免除金によって現地傭兵を
大量に調達することができた
 このような軍役免除金の慣行は、他面においては金銭を支給されて軍役奉仕を行う者の存在を示唆している
 彼らは、封建軍の中ではいまだ「金を支払われている補助軍」的な存在ではあった
 しかるにこの手の「補助軍」的な存在が封建軍の中で次第に幅を利かせるようになると、封建制の紐帯とも
言うべき封土が金銭化するようになっていく
 もっとも注目すべき点は、これらの金銭が主君からの恩恵としてではなく、正当な労働に対する報酬としての
意味が強いことであった
 これはすなわち封建的主従関係の希薄化を意味する
 こうして封土による主従関係を基として成立していた封建軍は大きく変化を見せる
 軍役提供に際して土地を担保に金銭を授与するようになり、封土よりもむしろ金銭の授与に重点が
置かれるようになる
 こうなると出陣のために金を払うことと封土にかえて金を与えることの差がなくなり、
一人で複数の主君に対して軍事的な主従関係を結ぶことも、また全く封建的主従関係にない人間のために
金銭の獲得を目的に軍事奉仕を提供することも可能になってくる
 このいわば「傭兵化した封建軍」は、14世紀のヨーロッパ諸国で広く見られるようになっていた


そんだけ
370補完:03/07/08 05:45 ID:???
370 名前:契約戦士 投稿日:03/07/05 18:15 ID:???
 この「傭兵化した封建軍」においては、封土が金銭に変わってはいたが、いまだ主従の間には
封建的身分関係が明示されており、それに基づいて一定の契約金が付与されていた
 故に「傭兵化した封建軍」の傭兵化がどれだけ進展したとしても、純然たる傭兵軍とは言い難い
 むしろ傭兵軍は封建制の崩壊を伴って出現した
 封建関係の崩壊の過程で伝統的な主従関係を喪失した貴族や騎士を中心に農民や下層民をも加えた
一個の武装集団が封建社会解体の混乱期に形成された
 彼らは言うなれば一種の野武士団、盗賊騎士団であり、各地に散在し、専ら金銭の獲得を目的として
求めに応じて有力諸侯に雇用されて従軍した
 戦争を商売とするこの集団は有利な条件を求めて諸侯、君主とも雇用契約を結び、
平時には一種の失業状態に陥って略奪を行うこともあった
 この手の傭兵集団は、14世紀のドイツではrittergesellschaft、百年戦争期のフランスではcompagnie、
15世紀のイタリアではcompagnie di venturaと呼ばれて悪名を流しまくった
 これらの傭兵軍には一定の特徴が認められている
 その成員の出身階層は雑多であるにしても、下級貴族がその中核をなし、それに郎党、奴隷、農民、職人等が
参加していた
 しかし時には有力貴族の庶子や次男三男も多く参加しており、諸侯が高額な契約金をもって
このような傭兵集団を雇用していたという事実と相まって、封建制の危機の深刻化を物語っている


そんだけ
371補完:03/07/08 05:46 ID:???
371 名前:悪党と手を結ぶ 投稿日:03/07/05 18:16 ID:???
 封建危機の進行は、封建制の国家規模での再編成によって、絶対主義体制の確立により一応の克服を見た
 政治的に見れば混乱した封建秩序を再建し、強力な絶対主義を築き上げるために、
第一に軍事力の集中強化が要求された
 傭兵軍は封建的秩序の混乱を体現した忌むべき存在ではあったが、皮肉にも同時に当時唯一の頼みとなる
軍事力でもあった
 王権はこれを整理統合し、自己のみに所属する軍隊を編成することにより、絶対王権形成のための
軍事力の集中を図った
 こうして傭兵軍はいわば常備軍化していく
 フランス王シャルル7世の編成した軍隊は封建的要素が色濃く残るものの、同時にこうした常備軍的性格を
もつものでもあった
 また15世紀のイギリス軍は、全国的統一規模のものではなく、有力諸侯によって編成された軍隊であったが、
やはり常備軍としての要件を備えていた

 勿論、このような常備傭兵軍による軍事力の集中を可能とするためには、その物的基盤を保証する王室
または諸侯の財政の充実が前提となっている
 王領からの収入のみならず、臨時税や間接税、戸別税等の様々な徴税権の独占が同時進行していた
 更にその常備傭兵軍の中核が貴族や騎士と呼ばれる階層で構成されており、根底には封建的性格が
根強く残っていた

 しかし、絶対主義下の軍隊が全てこの常備傭兵軍によって構成されていた訳ではなかった
 常備化された傭兵集団は間もなく壮丁の徴募兵と俸給制度を基礎とした常備軍へと改編され、
純粋な意味での常備傭兵軍は主に外国人傭兵部隊として存続した
 例えばフランスでは、伝統的にスイス人とドイツ人で編成された部隊を維持し続けている
 無論、これらの他にも僅かではあるが純粋な封建軍も存在していた
 しかし、いずれにせよ絶対主義軍隊が傭兵的性格が濃い常備軍であったことは否定できない


そんだけ
372補完:03/07/08 05:47 ID:???
372 名前:名無し三等兵 投稿日:03/07/05 18:30 ID:???
そ、そんだけ氏!?
お、お目にかかれて光栄です!わたしはあなたの過去ログを見て軍板住人になりました。
ゆっくりとご講義の内容を読ませていただきます。
スレ汚しにならないよう極力ROMさせて頂きますので、以降出没を控えますがご容赦を。
373補完:03/07/08 05:47 ID:???
373 名前:名無し三等兵 投稿日:03/07/05 22:30 ID:???
わぁ、そんだけ氏だあ。もう来ないかとオモテタよ。
374補完:03/07/08 05:49 ID:???
374 名前:悪の枢軸に認定 投稿日:03/07/06 17:10 ID:???
 法制史において、法廷外の係争処理のための制度であるフェーデの克服運動として出現したラント・フリーデは、
直接には、当時ドイツで猖獗を極めた盗賊騎士団raubritterの活動を封じ込めることをその主たる目的の
一つとしていた
 1389年に、ライン、バイエルン、シュワーベン、フランケン、ヘッセン、マイセン等の各地方に施行された
エーガーのラント・フリーデでは次のように記されている
 「神の意志に反し悪しき集団が力を得てこのラント・フリーデ地域で再結成されたり、
またはこのラント・フリーデ地域にやってくることがあれば、我々は全力を挙げてそれに対処し、
その全員を追放するであろう」
 この、「悪しき集団」とはすなわち当時ドイツに跳梁していた盗賊騎士団のことである
 このような盗賊騎士団への抑圧は、多かれ少なかれ他のラント・フリーデにおいても重要な関心事であった

 「呪うべき、しかして聖なる法律に違反せる、都市の内と外、都市相互、私人相互、私人と都市の間に結ばれた
種々の不法な団体や、我々が堕落と認めた方法によって設立された同盟や協定は、いかなる口実を持つ
誓約団体であっても、我々はこれを拒否し否認する
(中略)
 我々は、我々の前任者たる神聖なる皇帝たちの聖なる法が、躊躇亡く禁止し解散を命じたがごとき団体を
現在までに結成し、将来においても結成せんとする動きがあることを知るが故に、ここにこのことを宣言する
 ただし、諸侯や都市やその他のものが、州や国土の一般的な平和のために相互に組織する同盟や協定は
少なくともこの禁止令からは除外される」
との1356年の金印勅令の規定は、当然のことながら大空位時代(1253〜1273年)以後、
あらゆる禁令を無視して事実上の政治勢力となっていた都市同盟に適用されない
 ここで主に取締の対象となっているのは、多くのラント・フリーデで結成を禁止された盗賊騎士団に
他ならなかった


そんだけ
375補完:03/07/08 05:50 ID:???
375 名前:仁義なき人々 投稿日:03/07/06 17:11 ID:???
 実際のところ、盗賊騎士団raubritterなる名称自体が、史料の上で明確な用例を持つ用語ではなく、
後世になって諷刺語として普及した用語だった
 これは、フェーデを完全に犯罪視する近代的概念によるところが大きい
 むろん、フェーデ権の濫用による逸脱行為により盗賊騎士と呼ばれるに相応しい騎士が存在していたことは
事実だが、だからといって盗賊騎士団が単なる武装難民の群れだったとは言い難い

 ゼルバッハのハインリヒ・ズルトの年代記によると、1356年、アプリア、トスカナ、イタリアその他で
略奪や暴行、放火を働いていたソキエタスと呼ばれる武装集団が、アウグスブルクの司教アルクゥルトに率いられ、
ミラノ領主に対して攻撃を仕掛けたが、彼は500名の兵士とともに捕虜になった
 1357年、プロヴァンス地方のマルセイユ及びエークト市近郊でカールなる人物がソキエタスを結成し、
城を襲撃し人命を殺傷し財産を略奪したりしたが、教皇領を荒らすことはなかったため、
教皇はカールに対しプロヴァンス地方からの退去を条件に2万4千フローリンを与えている
 1361年及び1362年には、ブレティニーの休戦によって解雇されたイングランド傭兵が中心となって
アヴィヨンでソキエタスが結成された
 彼らは聖堂及びローヌ河の橋梁を占拠して教皇領への糧道を遮断し、その周辺地域で略奪を働いている
 教皇は皇帝と諸侯に対し援助を請い、結局3ヶ月余り暴れ回ったソキエタスは結局金銭によって和解し、
ミラノに向けて立ち去った
 このソキエタスはその後一部が再び舞い戻ってアヴィヨン市に侵入したが、一部が捕らえられ、
10名がローヌ河で溺死刑、11名が絞首刑にされている


そんだけ
376補完:03/07/08 05:55 ID:???
376 名前:大強盗団が往く 投稿日:03/07/06 17:16 ID:???
 ニュルンベルクのマティア年代記では、1354年にミラノ大司教がソキエタスの隊長ヴェルネルスに金を与え、
ソキエタスは帰国してシュワーベンで解散したと記されている
 彼は「神の敵、信心の敵、同情の敵」と刻まれた胸当をつけ、1500から2000の騎士団を率いて
イタリア半島を荒らし回った
 その後1万人の兵士からなる別のコムパニアが結成され、プロヴァンスのメモリアレスなる者を隊長として
ロンバルディア地方に進出した
 このコムパニアはプロヴァンスに戻ってシュワーベンのランドウという男を隊長としてミラノ市の近傍に
野営地を構え、同市を攻撃しないかわりに食糧の提供を受けたり、領主や都市に食糧の提供を強制した
 このコムパニアは永年にわたってヴェニスに雇われて皇帝の側に立って戦い、その後ラヴェンナに向けて
移動している
 1365年には、主任司祭と呼ばれるイングランド人に率いられた1万2千の騎士を含む無数の兵からなる
ソキエタスがアルザス地方に侵入したと記されている
 彼らは夜を徹して多くの家屋を焼き払いつつ前進し、夜明けとともに攻撃準備を整えてシュトラスブルク市の
城壁の前に到着、都市と周辺の住民は防備の整えられた城壁内に逃げ込んだ
 同じ頃、アヴィヨンから来たカールという人物がこのソキエタスを撃退するためにゼルツ市で軍勢を募った
 このことを知った主任司祭は麾下の軍勢を率いてアルザス地方を退去したが、この際に彼は
「我々は皇帝の命でやってきたのに、その我々を追放するために軍勢を集めるとはけしからぬことだ」と、
皇帝を非難したと言われている
377補完:03/07/08 05:55 ID:???
 また、1375年にもイングランド人のソキエタスによるアルザス侵入があったと記されている
 リムブルク年代記では、1365年に大ゲゼルシャフトがアルザス地方の各地を1ヶ月にわたって略奪した
 このゲゼルシャフトは婦女子を除いても2万人の大所帯だったと記されている
 また、1380年には、リムブルク市の近くで大きな戦闘があり、ニーダーラントやオーベルラントの
優秀な騎士、あるいは日出ずる東洋の国の人々(!)など、300グレーフェン(グレーフェンは重騎兵1名と
軽騎兵2〜3名からなる騎兵の編成単位)からなる軍勢がリムブルク市の前市で放火と略奪を行ったと
記されている


そんだけ
378補完:03/07/08 05:56 ID:???
377 名前:犯罪が起こるのは社会のせいです 投稿日:03/07/06 17:20 ID:???
 これらのエピソードは、年代記という史料の性質上、時期や人数、地名やその他細部について個別の検討を
要する問題が多い
 ここに出てくるソキエタスやコムパニア、ゲゼルシャフトと呼ばれる集団を構成した兵士が
各地で略奪や破壊を展開していることは、彼らが字義通りの意味での盗賊騎士と呼ばれるべき存在であり、
彼らが野盗の群れに他ならないことを示していると考えられる
 特に1361年にアヴィヨンに出没したソキエタスや1365年にアルザスを襲撃したソキエタスは、
1360年のブレティニーでの英仏休戦の結果、解雇され見知らぬ大陸で生計の途を失ったイングランド人傭兵の
なれの果てであったことを考慮すれば、彼らが野盗化して各地を放浪するのはある意味当然のことであった
 1338年、ニーダーラインのエッセン女子修道院長が、
「エッセン修道院領内の住民は、悪しき人々の攻撃のために非常に苦しめられ、彼らの生命財産は、
日夜冷酷残忍な手によって脅かされている
 領民がかかる不当な暴力や悪意ある侵入に対して自発的に抵抗し、乱暴者の乱暴を防ぐためには(以下略」
と語っているのも、このような盗賊騎士団を対象にしたものだった

 しかし、このように年代記作家の目には好ましからざる存在として映ったソキエタスやコムパニア、
ゲゼルシャフトの、アウグスブルク司教と同盟したり、教皇やミラノ大司教から金銭を貰って
アヴィヨンやミラノから退去したり、皇帝の命を装ってアルザスに侵入してみたり、
または野営地を構えて食糧を要求した等の行為は、彼らの行動が必ずしも強盗団のそれと同一ではなく、
金になる仕事を求めて各地を放浪するうちに、適当な機会に恵まれず野盗化したという事実を示唆しているに
過ぎない
 1385年、教皇ウルバヌス6世はオーストリアのヘンゼルなる男が率いるドイツ人ゲゼルシャフトを雇って
ルツェルンで作戦させており、1394年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルは盗賊騎士団を傭兵として雇い入れ、
1396年に解散させた後はその成員を自らの臣下として丸抱えで抱き込んでいる
 結局、この手の盗賊騎士団の本来の目的は傭兵として活動することであった


そんだけ
379補完:03/07/08 05:57 ID:???
378 名前:お呼びとあらば即参上 投稿日:03/07/06 19:49 ID:???
 盗賊騎士団が一個の独立した部隊として軍務に就いていたことを示す史料も少なくない
 1328年、イゼンブルクのヨハネス以下25名の人物が皇帝ルードヴィッヒ4世と傭兵契約を交わした
 この契約書は、「我々は、我々自身と我々の仲間全員のために皇帝と次の如き協定を結んだことを
宣言するものである」で始まり、「良好にして合法的に奉仕」することを約した彼らに対する具体的な賃金と
その支払方法が約された後、「皇帝は、我々がヴィナリとケルグリの両要塞を保有してそこに駐留し、
もし上記の朕軍の支払が定められた期限までになされない場合には、我々傭兵が敵と通じて勝手にこの要塞を
処分することを許した」とした上で、「しかし、支払が満足に行われて所定の期間が経過した場合には、
我々はこの二つの要塞を皇帝に返還することを約するものである」と記されている
 1303年、ボヘミア・ポーランド王ヴェンツェスラウスとフランス王フィリップ4世が神聖ローマ皇帝
アルプレヒト1世に対抗すべく結んだ軍事協定では、両者が来る使徒ヤコヴの祭日までに10万プラーグ銀の
軍資金を費やしてドイツで傭兵を掻き集めることをお互いに約している
 外国の君主が短時間のうちに大量の現地傭兵を集め得るということは、すなわち盗賊騎士団が有力な
兵力供給源としての機能を果たしていたからに他ならない
 1327年、皇帝ルードヴィッヒ4世がその勅令で、「もし何らかの重大な理由により貴下自身が出陣し、
または貴下の軍隊を派遣することが不可能な場合、貴下の希望によっては、傭兵を集めるための資金の
提供によって、貴下の出陣義務を免除することを余は承認するものである」と言っているのも、
容易に傭兵として雇用し得る盗賊騎士団の広汎な存在を前提としたとすることに疑問の余地はない
 教皇庁をはじめとするイタリアの各都市がしばしばドイツ人傭兵を多用していたという事実も
同様に解釈することが出来る
380補完:03/07/08 05:58 ID:???
 特に、教皇のアヴィニヨン捕囚、皇帝権の失墜等に象徴される14世紀のイタリアでは、諸都市の分裂抗争が
続き、盗賊騎士団の活動に絶好の場を提供していたと考えられる
 フィレンツェで権勢を得たイングランドの傭兵隊長ジョン・ホークウッドの成功の陰には、
このようなイタリアの社会状態が背景となっていた


そんだけ
381名無し三等兵:03/07/08 21:56 ID:???
>>368-380
お手数をおかけしました
 盗賊騎士団はその社会的立場と成立の経緯から、当時の封建社会と異なる一種独特の組織的体質を有していた
 前述の1328年に盗賊騎士団が皇帝と交わした傭兵契約によれば、イゼンブルクのヨハネス以下25名に
のぼる多数の人物が皇帝と契約を結んでいること、しかも彼らが、「我々自身と我々の仲間全員のために」と
言明していることから、盗賊騎士団が封建的階層秩序を止揚した、いわば成員の平等を原則とする
同志的結合とも呼ぶべきものの上に成立していることが推察できる
 さらに、フリードリヒ1世バルバロッサが1158年に発した勅令では、「都市の内と外、都市と都市、
私人と私人、あるいは都市と私人の間に結成される集団、あらゆる誓約団体は、血縁的結合をも含め、
いかなる形のものであれ、余はその結成を禁止し、既に成立したものに対してはこれを解散せしむるものである」
と述べ、かかる同志的結合集団が既にこの時期に発生していたことを示唆している
 同様のことが1224年のフリードリヒ2世の治世の際にも発生している
 この時は、フリードリヒ2世の忠実な封臣であるリバルドゥスの従士たちがハウスブルク渓谷に拠り、
誓約によって成立する団体や同盟のごときものを勝手に結成しようとしたため、そのような団体の結成が
許されるか否かの裁決をリバルドゥスから求められている
 これに対し、フリードリヒ2世は自らの許可無しにいかなる団体の結成をも禁ずる決定を下している
 このような従士たちが領主を除外した誓約によって、恐らくは各自平等の立場から結成した団体を、
そのまま盗賊騎士団と同一視することは危険であるが、彼らが容易に放浪して盗賊騎士団へと変容していくことは
十分に推測できる


そんだけ
 しかしながら、盗賊騎士団の同志的結合と呼ぶべき性格は、いわゆる高度に理念化されたものではなかった
 前述の年代記の記述でも見られるように、彼らは幾度も離合集散を繰り返し、しかもそれは何らかの
金銭的な利害と常に絡み合っていた
 このことは、彼らの同志的結合がより刹那的でかつ極めて稀薄な性質を持ちやすいことを示している
 つまり、盗賊騎士団内の封建的階層秩序を否定するという性質が、成員の金銭的利害の一致という一時的な
動機によって導かれているということ、そしてこの金銭的利害こそが彼らの組織の本質を決定していたことを
意味している
 盗賊騎士団が戦闘員の他にも家族をはじめ多くの非戦闘員を含んでいたのも、また騎士身分のみならず
雑多な階層で構成されていたことも、このような組織的性格を前提としていたからである
 盗賊騎士団の利害追求型同志的結合は、妻子や売春婦のような非戦闘員のみならず、金銭的利害を
媒介することによって一般の都市民や農民、下層民をも積極的な戦力要素として内に取り込むことになる
 かのジョン・ホークウッドもその出自は鞣革業者の息子だったと言われている
 いずれにせよ、盗賊騎士団は従来の封建軍隊の中核をなしていた封臣軍とは全く別の種類の軍勢だった


そんだけ
384戦争の犬のプロ:03/07/08 22:02 ID:???
 ケルン年代記によると、1228年に、ブラバント公ヨハネスとゲルレンス伯レイノルの不和が募り、
ついに両者が戦争準備をはじめたことについて次のように記されている
 この際、「ブラバント公ヨハネスはケルン市民及びその他の多くの貴族や従者に報酬を与えて味方に引き入れた」
 これに対してゲルレンス伯レイノルも多くの者を味方にしたが、彼らは各地で行われた種々の戦争に
熟練している連中であった」
 「種々の戦争」というものが、大軍同士による野戦というよりむしろ、小規模な攻城戦や小部隊による襲撃、
伏撃、略奪といった小競り合いであり、そしてその手の小競り合いに「熟練している連中」が容易に盗賊騎士団に
身を投じる存在であることは言うまでもない
 しかし一方で、この係争にケルン市民もまた報酬を得て参加していることを考えると、この戦争熟練者の中に
民兵としての経験にものをいわせて盗賊騎士団にその身を託することによって、ようやく生計の途を見出した
都市の下層民が含まれていたことが推定できる
 15世紀以前の都市における階層分化が具体的にどのようなものであったかは明らかではないが、
時代が下るにつれて都市民間の貧富の差が顕著となって貧困化無産化が進行したことは間違いない
 特に、アウグスブルク、ゲールリッツ等の商業と輸出工業が発達した都市ではこの度合いが極めて深刻で、
社会構造全体において安定性に欠けていた
 少なくともケルンのような大都市ではこのような傾向が早い時期から存在し、その内部に相当数の無産下層民を
抱え込んでいたと考えられる
 特に、1329年のブレスラウ、1351年のシュパイエル、1392年のハルシュタット及びラウフェンで、
それぞれ職工が賃金問題を巡ってストライキやサボタージュ、一揆等を起こしていることは、ギルドの閉鎖性が
強化された結果、生計の目途が立たずにランツクネヒトに身を投じた15世紀末の遍歴職人のように、
既に14世紀において盗賊騎士団に身を投じて熟練兵となる以外に生きていく方策のない下層民が、
都市の内部に相当数潜在していたことが推測できる


そんだけ
385手に持つ鋤を槍に替え:03/07/08 22:03 ID:???
 農民であっても事情は変わらなかった
 1244年、バイエルンのラント・フリーデは、次のような布告を行って農民の武装に制限を加え、
騎士と農民の間に明確な一線を画そうとした
 「農民及び彼らの息子は、教会に行く場合に限って、鉄兜、鉄帽、革鎧、両刃の短剣、鎖鎧その他の軍装を
着用することを許可する
 農耕に出る場合には、短いナイフと鋤だけしか携行してはならない
 帯剣できるのは家長のみで、その他の者には許されない
 ただし、犯罪人を捕まえたり、外敵の侵入を防いだり、国の危難に備えるために必要なものは、欲すれば
いかなるものであれ家の中に貯蔵してもよい」
 しかし、このような12世紀の身分法思想の名残はすでにこの時代においてはほとんど消滅していた
 前述のエッセン女子修道院長が1328年に発した布告では、「悪しき人々の攻撃」によって
苦難に陥った修道院領の農民を守るため、「領民にして、馬、甲冑その他の武器を所有する者があれば、
その馬や武器は所有者の死後もエッセンの防備のために子孫または相続人の手に保有されるべきである
 余も余の役人も、かかる馬や武器を、遺産相続やその他の理由によって没収してはならない
また、何人も、これらの馬や武器を、負債の故をもって差し押さえてはならない」と規定されていた
 盗賊騎士団が横行した14世紀では、むしろ農民の武装化は強化される傾向にあり、
これは逆に、農村の下層民もまた、容易に盗賊騎士団に身命を売り渡せたことをも意味していた
 特に農民戦争時代のドイツ南部では、農地の細分化と農民の小作農化貧農化が進行したが、14世紀においても
このような傾向は認められている
 正業をもってしては生活し得ない貧困小作農にとって、盗賊騎士団が極めて魅力的な職場となるのは当然だった


そんだけ
386赤貧の騎士:03/07/08 22:05 ID:???
 これらの都市民や農民の下層分子を組織し取り込んだ盗賊騎士たちも、何も好き好んで放浪していた訳では
なかった
 この時期に出現したテリトリウム(領封制)国家の形成は、それ以前に存在していた個々の権利の集積ではなく、
かつてのインムニテート(不輸不出権)圏の散在性を否定し、隣接地に対してはインムニテート圏の不当な拡大、
新しい特許状の獲得、売買、交換に対し、広汎な封鎖地域を形成し、そこに新しい権力原理による統一主権を
確立しようとするものであった
 大グルントヘル(荘園領主)がテリトリウム領主へと変貌していく反面、他者はそれに服属していく
 テリトリウム国家を作ることができなかった大土地所有者はテリトリウム領主の主権にとっては障害物であり、
滅亡する運命にあった
 この場合、地代収入の減少や公権利の消失は彼らの没落を早めた
 このような競合関係が生じた際に、こうした抗争に巻き込まれた小土地所有者である騎士階級は
新しいテリトリウム領主に従属するか、または盗賊騎士団を結成して各地を放浪するかしかなく、
いずれにせよ没落の道を避けられなかった
 騎士身分でテリトリウム領主となった事例は僅かしかなく、14世紀には、同一家系の出身でありながら
ある者は騎士として生活しているのに対し、他の親戚は農村や都市で労働に従事しているような例さえ少なくない
 無論、全ての盗賊騎士が土地を失ってしまった訳ではなく、盗賊騎士団の中には一定の根拠地を持ち、
そこを基点に各地で活動した集団も少なくなかった
 しかし、いずれにせよテリトリウム成立に伴う経済変動によって、騎士たちが彼らの土地からの収入のみを
頼りにして満足な生計を立てられなくなっていたことは明らかであり、そこに彼らの没落の原因があった
 更に、種々の事情で土地を手放さなければならなかった場合、彼らの没落はより凄まじかったに違いない


そんだけ
387名無し三等兵:03/07/09 11:48 ID:???
すごいなあ。そんだけ氏。ありがたく購読しております。

兵を募るということの、社会的ダイナミズムはすごいでつね。
兵隊志願の男ばかりでなく、旦那を追ってくる嫁、家族、荷物やらなんやらが、人口まるごと大移動してきたんだ…
そういうものに略奪されたら、そりゃ村なんかいちころでつね。
388明日の飯より今日の飯:03/07/09 21:38 ID:???
 前述したように、テリトリウム国家の出現により、下級貴族である騎士は大別して二つの選択を迫られた
 テリトリウムに隷属した騎士は、後に等族議会を通じてテリトリウムの絶対主義化に抵抗する機能を
果たすことになる
 もう一つは、いずれのテリトリウムにも属さず、結果として帝国議会に出席権を持たない帝国騎士たちで、
彼らのうちの少なからぬ数が盗賊騎士へと転身することになる
 ドイツにおいて、盗賊騎士団がシュワーベン、フランケン、アルザス、ラインの各地方で多数発生したのは
偶然ではなかった
 これらの地方は、いずれも強力なテリトリウムが成立していなかった
 多くの群小テリトリウムが発生したこれらの地方ではそのどれもが弱体なため、騎士がテリトリウムに
吸収される可能性も低く、それだけに帝国直属の身分を維持しつつも、それに相応する経済力を持ち得ない彼らは
盗賊騎士団として活動していく
 前述したように、ラント・フリーデ運動がこうした盗賊騎士団の絶滅を意図したものであるのも当然だった
 ラント・フリーデ運動によって支配権の確立を目指したテリトリウムにとって、主として都市を喰い物にする
盗賊騎士団の活動は、テリトリウム領主の経済的基盤を実力を持って脅かすものと考えられたからだった

 ただし、テリトリウム成立の過程における必然的結果として盗賊騎士団が発生したと単純に結論づける程には
話は単純ではなかった
 テリトリウム成立期に盗賊騎士団を傭兵として使ったのは、実はテリトリウム領主自身だった
 1283年、ルドルフ1世はその勅書の中で、土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成する権利を認めている
 また、1356年に金印勅書の結社禁止規定では、諸侯や都市が国土の治安と防衛を目的とした
相互協定や同盟の結成が承認されている
 実のところ、盗賊騎士団の活動こそがテリトリウムの発展を強化し、それが更に盗賊騎士団自身の消滅をも
早めることになった


そんだけ
389王様は二言目には金と言い:03/07/10 21:32 ID:???
 フリードリヒ1世バルバロッサは、軍役免除税に関して三つの勅令を発している
 1158年に発せられたものでは、「余は、ドイツ及びイタリアにおいて皇帝戴冠式のために公示された出征に、
自ら出陣するか、または封土に応じて軍費を支払うことによって、おのれの主君を助けざる者はその封土を失い、
主君はそれを没収して自らの用に供する権利を持つことを、ここに厳に布告するものである」と記されている
 また同年、「公示された出征において、主君によって召集された者は誰でも定められた期間を自ら従軍するか、
適当な代理人を主君に提供するか、あるいは封土の年収の半分を主君に納めることをなさない場合は、
主君は彼の者の封土を没収して自らの用に供する権利を持つことを、余は厳に布告するものである」
 さらに1160年の「ローマ進軍についての規定」では、「この法によって出征を命ぜられた者で、主君に
従って軍勢を引き連れて集合しない場合は、余の面前で権利回復の望み無しにその封土を奪われるべきである
(中略)しかし、留まらんと欲して主君の許可を得た者は、その年の封土の現金その他の収入を、軍費として
支払わなければならない」
 軍役免除税を意味する「軍費」の徴集こそ、「他の傭兵を集め得るための金銭の提供」であり、
盗賊騎士団を雇い入れるための有力な財源となった
 このような重大な意義を持つ軍役免除税を納める相手が、皇帝に対してではなく自己の主君に対してであった
こと、そしてこれを怠った場合に没収された封土の所有権が、皇帝ではなく当該主君に帰属することは、
既にオットー2世の勅令でも示されており、軍事統帥権の二重構造を示唆するフリードリヒ1世の勅令は、
当時既に慣行となっていたものの確認に過ぎない
 もともと現実の出陣の代償としての意味を持つ軍役免除税は、中世初期以来、名目的に存在していた自由民の
一般的な従軍義務を理由として広く徴収されて傭兵を雇うための有力な財源となっていた
 やがてこれらの主君がテリトリウム領主へと移行していき、その過程で実際の出陣よりもむしろ軍役免除税の
納付を奨励することによって、自らの勢力拡大のために盗賊騎士団を傭兵として利用していくことになる


そんだけ
390最初の一匹はどこに:03/07/10 21:33 ID:???
 もっとも、テリトリウム国家成立の時期はフリードリヒ1世バルバロッサの時代よりも後のことであり、
シュタウフェン家滅亡とそれに続く大空位時代こそがテリトリウムの発展に絶好の地盤を提供することになる
 しかし、当時既に新しいテリトリウム成立の萌芽はすでに芽生えていた
 1180年のハインリヒ獅子公失脚の際に出されたフリードリヒ1世の宣告文では次のように記されている
 「かつてバイエルン及びウェストファーレン公であったハインリヒは、教会と帝国貴族の自由を、
彼らの財産を奪い、彼らの権利を侵すことによって著しく圧迫した
 このため、諸侯及び貴族の激しい訴えによって召喚されたが、余の面前に出頭することを怠り、
その後も教会と諸侯並びに貴族の権利と自由を侵害することを止めず、(中略)
 バイエルン、ウェストファーレン、エンゲルン公領並びに彼が帝国より受封した全ての領地は、
ヴェルツブルクにおいて開催された厳粛なる法廷において、諸侯の一致した判決によって没収されることになった」
 この事件の告訴が諸侯と貴族からなされているのに対し、判決に関与したのは諸侯のみであり、
ここでは諸侯と一般の貴族が明確に区別されて用いられている
 この宣告文が発せられた時には既に、単なる「主君」の間に分裂が起こり、そのうち一部が諸侯と呼ばれる
存在へと変化しつつあったことを示唆している


そんだけ
391都合のいい人々:03/07/10 21:37 ID:???
 封土を介して発生した封臣の軍役義務は、必ずしも無制限なものではなかった
 軍事統帥権の強弱にもよるが、「東部地方へ」、「州の中で」、「二日行程は自弁で」、「河岸まで」、
「一日行程の行軍」等、地域的時間的な制限が予め決められているのが常であった
 もっとも、この手の制約は封建軍に限ったものではなく、国民徴集軍でも同様だった
 そして、このような制約の多いシステムの克服こそが、テリトリウム実現を目指す王権にとって
克服すべき重要な課題の一つであった
 貨幣収入の増加によって自らの強化を図ったテリトリウム王権が、一方で軍役免除税の徴収によって
封建軍の現実の出陣を無用とし、他方で貨幣の力によって思うがままに運用し得る軍隊、すなわち傭兵軍を
自らの権力の基盤に据えようとしたのもある意味で自然の成り行きだった
 ここに、盗賊騎士団が脚光を浴びることになる
 1360年、ブレティニーの休戦によって敵地で解雇されたイングランド傭兵のように、何時でも何処でも
放棄して他と代替できるこの軍隊は、権力強化を目指すテリトリウム王権にとって極めて有力な手段を提供した
 1314年、ゲルレンス伯レイノルトとオーストリア公フリートリヒが交わした協定では、ゲルレンス伯が
オーストリア公の要請に応じて、契約金を受け取って自らの指揮下にあったソキエタスを提供している
 このような盗賊騎士団の雇用は、テリトリウム権力にとって必要不可欠なものだった

 没落騎士を中核として都市民や農民の下層分子をも内に取り込んだ盗賊騎士団は、テリトリウム実現を目指す
諸権力の競合の産物であると同時に、自らを傭兵としてテリトリウム権力に身売りすることをその本質としていた
 彼らが出没したのが、シュワーベン、フランケン、ライン、アルザス等の各地方であったのも、
群小のテリトリウム国家が発生したこれらの地方が、単にテリトリウムの吸収を免れた盗賊騎士を多く輩出した
だけでなく、彼らが傭兵として雇用される機会が極めて多かったことをも示している


そんだけ
392全てを解決する素敵な道具:03/07/11 21:44 ID:???
 テリトリウム成立を巡る競合関係の煽りを受けて没落を余儀なくされた騎士が非騎士階層まで抱き込んで
組織した盗賊騎士団が、テリトリウム権力に有力な軍事的基盤を提供していたことを考慮すれば、
テリトリウム国家にとって盗賊騎士団は必ずしも全面的な抹殺の対象にはなり得ない
 「土地の永久平和を守るために傭兵軍を編成」したり、金印勅書の結社禁止令で「州や国土の一般的な平和の
ために相互に組織する同盟や協定」が除外されているのがいい例である
 しかし、一方でテリトリウム国家が支配権確立の有力な手段としたラント・フリーデが、その主要な目的として
盗賊騎士団の根絶を掲げていることも否定できない
 この盗賊騎士団の二つの矛盾する性格は、いつ解雇されてもおかしくない彼らの不安定な立場にあることに
起因している
 この点で、ラント・フリーデが実は一種の空文規定だったのか、それとも盗賊騎士団が必要悪的存在だったのか
についてはこの際どうでもいい
 最も注目すべきは、貨幣収入が増大したテリトリウム国家にとって、金銭で動員可能であることによって
非常に指揮掌握が容易な盗賊騎士団は極めて使い勝手の良い軍事力であったことにある
 盗賊騎士団自体は必ずしも当時のドイツの軍制を代表する存在ではなかったし、ドイツに存在した軍事力の
主力をなすものでもなかった
 現実の軍役奉仕のかわりに提供される軍役免除税が傭兵動員の有力な財源になるという慣行は、
すなわち正規の封建軍もまた傭兵として出陣できることを意味していた
 強力な財源を有するテリトリウム国家は、封建契約外の従軍に対して金銭の支給を行うことによって
封建軍の地域的時間的制約を克服しただけでなく、実質的に金銭契約下の傭兵軍と酷似した封建軍を
無制限にそして大量に戦争に投入することになる


そんだけ
393お手当をください:03/07/11 21:51 ID:???
 14世紀以降、伝統的な封建軍の傭兵化が進行していく
 封建軍動員文書で金銭報酬の支給に関して記されたものは13世紀以前にも存在しているが、
それでも金銭支給に関する規定の全く見られない文書も相当数存在していた
 しかし、14世紀に入ると、動員文書の殆ど全てで金銭報酬の支給が言及されるようになる
 そこには、支給される手当は主君の側からの一方的な恩恵ではなく、正当な労働に対する報酬だとする
認識が強く働いている
 1311年6月、皇帝ハインリヒ7世は、「オーストリア・シュタイエル公レオポルドは来る聖ニコライ殉教日
(12月6日)まで、イタリア地方において100名の騎兵と100名の弓兵をもって、余に奉仕することを
約したので、余は当該期間における奉仕の代償として、6000マルクを与えることを公に約した
 しかして、余はその支払を、まず10日以内に1500マルク、ついで7月に1000マルク、8月に
1000マルク、9月に1000マルク、10月に1000マルク、11月に500マルクを支払って、
聖ニコライ殉教日までに6000マルクを完済せんとするものである」と述べている
 当時の傭兵の1ヶ月分の報酬の基準は、騎兵で4マルク、装備練度の優良な歩兵で3マルク程度であり、
このことを考慮すれば、各月ごとの支払が月々の報酬を意味していると考えてまず間違いない
 オーストリア公レオポルド麾下の封建軍は、紛れもなく賃金の対価として軍役に就いているのである


そんだけ
394金の下に旗は集う:03/07/11 21:52 ID:???
 1310年、ホーエンベルク伯ルドルフは、「公正なる我が主君ローマ皇帝ハインリヒ7世は、
余に500マルクを与えたので、余は主君を助けることを約束するものである」と語って出陣しており、
金銭給与を軍役の前提条件とする慣行が一般的だったのはまず間違いない
 1314年、バイエルン公ルードヴィッヒは、皇帝即位のための兵力提供を各地の封建領主に要請した際に、
「戴冠について支障が起こった場合でも、クリスマスに半分、復活祭に残り半分というように、前述の金額は
支払われるであろう」と、計画が失敗しても約束した金額を支払うことを明言している
 ここで、いかなる政治的陰謀とも関係せずに専ら傭兵として従軍する封建軍の存在が、軍事作戦立案において
必要不可欠な前提条件となっていたことはまず間違いない
 また、1310年にハインリヒ7世がフォーシニーのユゴーに宛てた文書で、「もし前述の数以上の軍勢が
集められるようなことがあっても、余は汝が満足できる待遇をなすことを約束するものである」と記しているのは、
場合によっては契約外の兵員の提供をも辞さない程に、封建軍の傭兵としての従軍が非常に有利だったことを
示している


そんだけ
395戦争の算段:03/07/12 22:56 ID:???
 封建軍に対する報酬が、上からの恩恵ではなく軍役奉仕のための条件となっていた以上、報酬の支払いに対して
確実な保証が要求されたのは当然だった
 1310年、ハインリヒ7世は「余の忠実なるヴァイセンブルクの貴族ヨハネス及びペトルスの兄弟は、
彼らが常に聖なるローマ帝国に対してなしてきた真の忠誠と誠実を余に約して慣習的に調達された武器と馬を
もって8名の騎兵と2名の弩兵とともに忠実に奉仕することとなったので、余はこの兄弟に対し、
軍費を自ら調達する必要がないように184マルクを与えることを約束するものである
 しかしながら、余はこの金額を直ちに調達することはできないので、余及び帝国の所有しているハスレ渓谷を
土地住民を含め担保として提供し、秋に60マルクを、残りを謝肉祭までに必ず支払うこととする
 それができなかった場合、前述の渓谷は彼らの保有に任せることを認めるものである」と述べている
このように支払完了まで土地の占有を許した例はかなり多い
 またハインリヒ7世が1313年にサボイ伯アメデゥスに手交した文書では、「余がアルプスを越えてより
次の1月に至るまで、伯が余に提供した奉仕に対し、伯が余より既に受け取ったものを除いて、
余は今なお8000フローリンの借財を伯に負うものである」と記されており、借用証書の意味も持っていたと
思われる
 更に、「ギレルムス伯またはその後継者に前述の金額が支払われるまで、全ての兵士と楯持ちは
ケルン市に侵入し、そこに留まって撤退しないであろう」という宣言も見られ、場合によっては実力行使さえ
躊躇われなかった


そんだけ
396忠誠のお値段:03/07/12 22:58 ID:???
 このように、封建軍が賃金の報酬を前提に従軍するようになり、しかも報酬の履行のために様々な効果的な
方策がとられていたことは、封建軍の性格に大きな変革をもたらさない訳にはいかなかった
 1301年に提出された文書では、「我々は尊敬すべきトリエル大司教ディルテルスに忠誠を捧げ、
10名の軍勢とともに、皇帝となった前オーストリア公アルベルトに対し、大司教を援助することを約した
それに対して、大司教は我々の一人ヨハネスに対して年内に90マルクを支払うことを約した
それが履行されるまで、我々は相応の土地を占有するものである」
 また1314年、皇帝ルードヴィッヒは、「余の忠実なる貴族ヨハネスは、余の帝国の繁栄のために示した
献身的にして誠実なる真情と、彼が余ならにに帝国の騎士であることを鑑み、余は彼が慣習に従って
葡萄酒その他の商品に課税して300マルクを得ることを認めるものである」と文書に記している
 忠誠を捧げた者に対して封土の授受よりもむしろ金銭の給与が考えられるようになっており、
封建的主従関係においてももはや封土が第一義的な価値を持つものではなくなりつつあった
 しかも、ここで述べられている金銭授与は傭兵に支払われる金銭給与とは事情が異なっている
 こうなると、封土の変形としての金銭の授与と、軍事作戦の都度支払われる報酬との間に明確な一
線を引くことは困難であり、同時に数十人の諸侯と忠誠関係を結んだナッソー伯ゲルラッハは極端としても、
封建軍が金銭さえ貰えればどこにでも出陣する傭兵軍と類似してくることは避けられなくなっていた


そんだけ
397ご褒美を下さい:03/07/12 23:01 ID:???
 傭兵化した封建軍と盗賊騎士団には、両者ともに傭兵契約下で従軍していただけでなく、
前者は後者に容易に移行する傾向にあり、その性格に極めて似通った部分が少なくない
 しかしながら、両者の間には契約締結上の明白な差異が存在していた
 1328年、ヨハネス以下24名の盗賊騎士が皇帝と交わした傭兵契約書で、「我々自身と我々の仲間全員の
ために」と記しているように、契約当事者は単なる代理人として軍役奉仕を約束するだけで、何ら特別の報酬を
要求する者ではなかったのに対し、傭兵化した封建軍は、皇帝ハインリヒ7世がフォーシニーのユゴーに宛てた
文書で、「余は準備金として130マルクを支払い、彼が軍勢を引き連れて余のもとに到着してより1ヶ月以内に
更に2400ポンドの銀を与えることを約束するものである」と述べているのをはじめ、多くの場合、
一種の契約金が問題となっている
 このような両者の契約上の差異は、一種の同志的結合を本質としていた盗賊騎士団に対し、
封建軍が大幅に傭兵化してもなお階層的身分秩序を維持していたことに起因している
 そして、契約金不要な盗賊騎士団がテリトリウム権力を補強する新しい軍制の萌芽となる可能性があったことは
一面においては否定できない
 皇帝ヴェンツェルがシュワーベン地方のシュレグラー・ブントなる盗賊騎士団を1394年に雇い入れ、
1396年の解散後にその成員を自己の家臣団に組み込んでいるし、1370年代以降、盗賊騎士団の野盗的な
活動は漸次沈静化の方向へと向かっている


そんだけ
398神yo重い槍を祝福する:03/07/13 19:46 ID:???
 15世紀に入ると、傭兵の契約形態に大きな変化が認められるようになる
 1427年、帝国議会はある決定を下した
 「異端に対する戦いを遂行し、神の加護によって事件を落着せしめるため、傭兵を集めるに決した
 しかして金銭を受け取って従軍したい者は誰でも、例え囚人であっても受け入れられるべきである」
 ここで言及されている「異端」とは、紛れもなくボヘミアのフス派のことである
 市場や祭などの群衆の多数集まる場所で、請負人によって鳴り物入りの宣伝と募集が行われたランツクネヒト
のように、集団傭兵契約を行う盗賊騎士団を介さず、市民や農民を個人契約の形で吸収することによって
成立する新しい傭兵制度の普及である
 この変化には戦術上の要求が大きく関わっていた
 クルトレーとモン・ザン・ペヴェールのフランドル軍、ナンシーでブルゴーニュ公を殺したスイス槍兵は
純然たる無敵の攻撃兵器である装甲槍騎兵に対して槍兵密集陣の防御兵器としての戦術的可能性を示した
 一度、戦場における歩兵の戦術的有効性が認識されるや、量的に大量の兵員を調達できる有力な源泉として、
市民や農民がテリトリウム領主の前に大きくクローズアップされるようになった
 戦史上類を見ない奇形的な衝撃力を備えた装甲槍騎兵の圧倒的な戦術的優位に翳りが生じはじめた
 勿論、装甲槍騎兵が戦場から姿を消すのは16世紀末まで待たねばならないが、それでも10世紀以前の戦場を
支配していた戦闘の方程式は再び少しずつ戦場を支配し始めようとしていた
 戦場に単純に大量の兵力をぶち込めばぶち込む程に勝利の可能性が見えてくる戦争のスタイル対応すべく
軍隊は変容していく
 騎士と市民と農民を同列に置いた新しい軍隊に、盗賊騎士団の付け入る余地は全くなかった


そんだけ
399遍歴の騎士故郷に帰る:03/07/13 19:47 ID:???
 盗賊騎士団の中核をなしているのが騎士である以上、各地を放浪する盗賊騎士団は、テリトリウム領主と
対等の立場で、双務的な傭兵契約を結ぶことを望みこそすれ、必ずしもその永久的な隷属下に入ることを望まず、
場合によってはテリトリウム権力に掣肘を加える危険性すら持っていた
 この傾向は特にイタリアの傭兵隊長に顕著で、比較的主権の確立していたドイツではイタリアほど
極端ではなくとも、彼らドイツの盗賊騎士団も危険物となり得る不羈奔放な性格は同様であった
 盗賊騎士団を構成していた没落騎士が、必ずしも土地を所有しない浮浪の徒ばかりだった訳ではないこと、
あるいは帝国騎士の没落は否定できない事実としても、全ての騎士が盗賊騎士という諷刺語そのままの状態に
あった訳ではなく、なお相当量の土地を所有していたこと等はこのことを裏づけている
 14世紀末、盗賊騎士団と比較的良好な関係にあった皇帝ヴェンツェルに対し、多くのテリトリウム領主が
盗賊騎士団の解散を要求して圧力を加えたのも当然だった
 当時、テリトリウム主権と等族議会の二元構造が必然だったとしても、権力強化を目指すテリトリウムにとって、
テリトリウム権力に本質的に超然的な立場をとる盗賊騎士団の存在を公認する訳にはいかなかった
 テリトリウムを側面から支えるラント・フリーデ運動において盗賊騎士団が攻撃対象になったのも
このような事情によるものだった
 そしてその動きはテリトリウムの強化と等族議会の弱体化が進むにつれて加速していく
 やがて15世紀に入って戦術上の変化が軌道に乗り始めた時、没落の度合いを深めた騎士、市民、農民が
従来とは全く異なる立場から新しい傭兵軍に参加するようになると、盗賊騎士団は完全に消滅する


そんだけ
400領主のものは領主へ:03/07/13 20:00 ID:???
 中世国家の形成に際して、レーン制は個々に発生した地方領主権力の組織者としての役割を演じた
 しかし一方で、このレーン制による支配関係では、封臣の封主に対する独立性の維持、封主の封臣に対する
服従の要求という不断の利害の対立があり、この対立は結局は両者の実力関係いかんによって解決された
 このような対立は封主と封臣の間だけでなく、更に独立的な権力者相互間においても常に不可避的に存在し、
この一種の無政府的な闘争状態に対処するために、封建的支配者は自ら武装せざるを得なかった
 しかし封建的支配者の軍事力は、彼ら自身のフェーデに備えるためのみならず、被支配階層の反抗を抑圧する
機能もまた有していた
 勿論、平時において農民を規制する手段としてはまず荘園裁判があり、農民の個人的反抗に対して直ちに
軍事力が行使された訳ではないが、それでも封建権力の基盤をなす軍事力は、領主権にとって潜在的かつ基礎的な
強制力として働いていた
 しかし農民の反抗が個々の領主の保有する軍事力を超えて集団化組織化された時、封建領主たちは必然的に
平時の無政府的対立を放り投げ、ここに反乱鎮圧のために統一された封建軍事力が動き出すことになる


そんだけ
 中世末期最大の農民一揆であるドイツ農民戦争においても、多くの領主が同盟や協定を結んで農民団と対立した
 ロートリンゲン公アントンは、1525年5月、自領であるロートリンゲンの一揆を鎮圧し、ついでアルザスに
侵入し、5月15日、ツァーベルンで当地の農民団を撃破した
 この時、1万8000の農民が殺されたと言われている
 その後、5月下旬に帰国するまで中部アルザスの農民を襲撃してまわっている
 ヘッセン方伯フィリップは、1525年5月上旬、フルダ修道院領の一揆を鎮め、5月15日、
フランケンハウゼンでミュンツァー指揮下のミュールハウゼン一揆軍を撃破した
 ザクセン公ゲオルグは、ヘッセン方伯フィリップと協同してミュールハウゼン一揆の鎮圧を行った
 ブランデンブルク辺境伯カジミールは、シュワーベン地方とフランケン地方に挟まれたリース及びその周辺の
農民一揆を各個撃破して5月8日にオストハイムでその主力を撃破し、更に北フランケンに進軍して
キッツィンゲンでビルトハウゼン農民団を撃滅している
 しかし、反農民軍の中核をなしていたのは、強力な封建諸侯の個人的な軍事力ではなかった
 それは文字通り危機に直面したドイツ南西部の中小封建領主によって組織されたシュワーベン同盟軍である


そんだけ
402戦う農夫:03/07/14 21:46 ID:???
 ドイツ農民戦争の時期は、ドイツ傭兵ランツクネヒトが一般化しつつある時期でもあった
 ランツクネヒトの普及は同時にドイツにおける優秀な歩兵軍の出現を意味していたが、ランツクネヒトの普及が
マクシミリアン1世の政策によるかどうかは別として、とにかく農民戦争の時期ががその勃興期に当たっていた
ことは間違いない
 ドイツ南西部はランツクネヒトの故郷であり、多くの農民は傭兵に応募した経験があり、このためにしばしば
農民団は傭兵団として組織され、傭兵が指導者となった
 リース農民団は、各村から選ばれた24名の委員からなる委員会が最高指導部を形成し、これによって役員が
任命されていたが、委員も役員も全て傭兵上がりで、中には1525年のパヴィアの戦闘から帰ったばかりの
者もいた
 5名の隊長には各々7、8名の護衛兵が配属され、旗手、下士官、衛生下士、給養下士、書記、鼓笛手、
陣営内の警務を司る憲兵1名が任命されており、全員に報酬が支給されていた
 また、リース農民団の旗には、握手した農民と傭兵の姿が描かれていた
 このような傭兵団的な組織の農民団はリース農民団に限らず、タウベル農民団、フルダ農民団、
ヴェルテンベルク農民団、ミュールハウゼン農民団等、至る所に存在しており、他にも傭兵が村々に一揆を
煽動し指導して歩いていた例も少なくなかった
 農民戦争を戦った農民団はその名からイメージされる純朴な農夫の群でも、圧政に耐えきれず立ち上がった
義民の集団でもなかった
 彼らは第一線級の訓練と経験を積んだプロの戦闘集団だったのだ


そんだけ
403全てのものを野に集めて:03/07/14 22:01 ID:???
 1487年6月26日、皇帝フリードリヒ3世はニュルンベルクの帝国議会からシュワーベンの等族に
勅令を下した
 その勅令では、1486年にフランクフルトの帝国議会で結ばれた10年間のラント・フリーデを守るため、
また彼らの権利を守るため、来る7月26日にエスリンゲンで会合し、同盟を結成するよう記されていた
 勅令は、等族内部の階層性を完全に無視しており、シュワーベン全ての聖俗諸侯、騎士及び都市に宛てられ、
彼らの大多数がその当日に指定された場所に集まった
 そこではウェールデンベルク伯フークが皇帝の代理人として提案を行い、同盟規約の起草のために少数の委員が
選出され、更に8月24日と9月3日に再びエスリンゲンにおいて会議が開かれ、その席上で規約の草案に修正が
加えられ、同盟の承認と成立が最終的になされたのは翌1488年2月14日のことだった
 このような同盟が成立したのにはそれなりの訳があった
 シュワーベン地方ほど無数の小テリトリウム国家と帝国都市に分裂した土地はなく、そしてそれらは絶えず
周辺の強大なテリトリウム国家からの侵略に晒されていた
 特に15世紀末には、バイエルンを本拠とするウィッテルスバッハ家のバイエルン公ゲオルグとアルブレヒトの
兄弟の台頭が著しく、着々とその所領を拡大し、周辺の帝国都市にもその支配権を拡大しつつあった
 バイエルン公ゲオルグは、ティロル大公ジギスムントからハイデンハイムとキルヒベルクを買い取り、
1458年にドナウウェルト市、1485年にネルドリンゲン市を支配下に収め、更にウルム市にも
その食指を伸ばしつつあった
 群小テリトリウム国家においてもバイエルンに対する恐怖は同様で、ここに同盟結成の第一の動機があった


そんだけ
404王様はお怒り:03/07/14 22:01 ID:???
 皇帝フリードリヒ3世もまたバイエルン公兄弟と激しい対立関係にあった
 1487年初頭、皇帝と同じハプスブルク家の系列に属するティロル大公ジギスムントが
バイエルン公アルブレヒトに死後の遺産相続を約束し、しかも既に前オーストリアの管理を委ねてしまっていた
 皇帝としては、このようなハプスブルク家の勢力を殺ぐ行動を許すことはできなかった
 かくして皇帝、諸侯、シュワーベンの等族を結合させたのは、バイエルンに対する政治的対立であり、その際に
仲介者、調停者としての役割を担っていたのが、皇帝の顧問官であり、しかもシュワーベンの貴族の最有力者でも
あったウェールデンベルク伯フークであったのもまた当然と言えた
 ただし、シュワーベン同盟の成立自体は15世紀を通じて問題になっていた「帝国改革」運動とは直接には
無関係だった
 このため、一説によると、帝国改革に熱意を持てなかったフリードリヒ3世は、シュワーベン同盟の成立に
対しても余り積極的でなかったとも言われている


そんだけ
405山崎 渉:03/07/15 12:04 ID:???

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
406名無し三等兵:03/07/15 12:40 ID:nHu164dD
中世の戦力は傭兵が中心だったからね。
何せ傭兵同士は、金のために戦うのだから、戦死どころか戦傷も嫌だ。
どっかの国の談合のように形だけ戦って、勝負がついたらさっさと終わる。
そんな戦いだったようだ。。

しかし領主同士の利害対立による中世の多くの戦いとは別に民族や宗教が絡むと、戦争は一転してややこしくなる。
アラブ世界で声高く叫ばれるような十字軍による異教徒・異民族に対する無差別虐殺。
こんなことが繰り返された。

近年でも第二次大戦が陰湿を極めたのも、総力戦ってこともあるが、それよりも人種対立や民族対立の要素があったからではないか?
そんな気がする
407名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/07/15 19:10 ID:???
>406 >第二次大戦が陰湿を極めたのも

ちゃいます、イデオロギーというか観念的世界認識を強制しようとした莫迦どものせいでつ。
特に、機関銃と戦略爆撃を実用化した虐殺大好き国家どものせいでつ(偏見
408名無し三等兵 :03/07/15 20:18 ID:???
>>407

いやいや、その陰湿の意味は捕虜や支配民に対する虐待にイデオロギー以上のものがある、ということではないだろうか。
409大声が会議を仕切る:03/07/15 22:44 ID:???
 シュワーベン同盟は、ラント・フリーデの擁護者として違反者に対して制裁を加え、また外部からの脅威に
対抗するために実力を備えた組織でなければならず、従って同盟は文字通りの軍事組織でなければならなかった
 その最高指導機関である同盟委員会は結成当初は委員長2名と委員18名からなり、委員は諸侯、貴族、
都市から各々6名ずつ毎年選出されたが、これは1500年には委員長3名、委員21名に改正されている
 委員長の選出は同盟委員会の下部組織である各等族議会において行われることになっていた
 委員会は必要に応じて随時に委員長によって召集され、開催地は、ウルム、エスリンゲン、アウグスブルク、
ユーバーリンゲン等一定しなかったが、1500年以降はウルムで開催されるようになった
 また、11月中旬に年1回の定例委員会に限っては、ウルムとエスリンゲンで交替に開催されていた
 委員の主要な権限は、同盟内部の紛争について裁決する他に、同盟への敵対行為や攻撃に対する防衛の決議に
あり、その決議に関する委員会の指導権は常に無制限で行使されていた
 このように同盟委員会は、同盟の内部統制を保ち、その対外行動の方針を決定する中枢機関としての機能を有し、
いわば実質的な連合政府と呼べるものであった
 同盟委員会を構成する21名の委員は、諸侯、貴族、都市から各々7名が選出されていたが、そこでは必然的に
諸侯及び有力な帝国都市の勢力が支配的だった
 1500年当時、オーストリア、マインツ、アウグスブルクの司教、バイエルン、ブランデンブルク、
ヴェルテンブルク、ヴェルテンベルク、バーデンの各諸侯は各1名の委員を推す権利を有し、また都市では、
ウルム、アウグスブルク、メムミンゲン、エスリンゲン等の富裕で強力な帝国都市が委員を独占しており、
群小の貴族や都市はほとんど発言する機会を封じられていた
 上記の諸侯と大都市の面子は時期によってかなりの変動があるが、シュワーベン同盟の寡頭制的性格、すなわち
ドイツで発生したテリトリウム国家の利益擁護機関としての性格が、委員会の構成に端的に見出すことができる


そんだけ
 シュワーベン同盟軍の運営は、同盟委員会の政治的な指導の下で行われていた
 軍は常備的なものではなく、事態の発生とともに召集された
 召集兵数は予め各諸侯、貴族、都市に割り当てられていたが、実際の動員数は同盟委員会が決定したが、
多くの場合、実際の動員数は動員定数の6割程度だった
 シュワーベン同盟軍が大規模動員された年の召集動員定数は概ね下記の通りだった
 1490年:騎兵2340、歩兵1万9500  1492年:騎兵3500、歩兵1万4000
 1500年:騎兵1350、歩兵1万350   1512年:騎兵1062、歩兵8435
 1522年:騎兵1330、歩兵9475    1524〜1525年:騎兵1892、歩兵11285
 ただし、農民戦争に際しては同盟委員会は騎兵200、歩兵2000の予備軍を別に編成しており、
更に同盟の費用で召集されながら、諸侯個人の指揮下で運用され、同盟軍に算入されていない軍隊も存在しており、
農民戦争においてシュワーベン同盟の動員した兵力は動員定数をはるかに上回っていた
 軍隊の装備と食糧は各同盟加入者の負担が原則だったが、同盟規約第74条によれば、召集した兵員に金銭を
支払うか食糧を支給するかはそれぞれの同盟加入者の裁量に任されていた
 また、諸侯や大都市によって編成された砲兵隊の費用は同盟全員に配分されていた
 召集兵員の配分は、当初は諸侯と等族の比率が1:1だったが、後には5:2となり、諸侯の実力が
動員力でも決定的だったことがわかる
 同盟軍の総指揮に任ずる同盟軍総司令の下には司令と砲兵司令が任命されており、総司令は当初は同盟会議に
よって選出されていたが、1512年以降は皇帝に任命権が委ねられている
 しかしこれには6名の同盟委員が帯同し、一種の軍監としての役割を果たし、総司令は、「この軍事顧問の
了解のもとに振る舞うべし」と定められていた


そんだけ
411名無し三等兵:03/07/16 13:47 ID:???
たまたまググッてたら、何とアレクサンダー大王の書記官長エウメネスを
主人公にした漫画が連載されているんだな。
外人に話したら目を丸くされたぞ。

あの時代でも興味のある人物だけにどんなものか覗いてみよう。
412泣きを入れてみる:03/07/16 21:30 ID:???
 1525年1月下旬から2月にかけてオーベル・シュワーベンの農民蜂起が急速に激化しつつあった時、
シュワーベン同盟の委員としてウルムに滞在していたバイエルンのカンツラーとエックは、2月11日に
バイエルン公ヴィルヘルムに宛てて一通の手紙を書き送った
 「畏れながら、例え早急に歩兵を送ることができなくとも、使いものになりそうな騎兵だけは緊急に送って
いただきたい
 何故なら、この場合一刻の躊躇も許されないからです」
 この要請に基づいて、2月13日に貴族に対して召集令が発せられた
 「何時、何処へ諸君を召集しようとも、諸君は諸君の職務によって定められているに相応しく、従者、馬匹、
甲冑を携え、装備を整えておくように」
 しかし、当時の貴族の大多数は貧困を極めており、この召集に対して当然のことながら苦情が相次いだ
 ヴォルフ・ヴァルフという貴族は同盟委員会に対して嘆願書を送っている
 「私は既にヴェルテンベルク戦争において財産以上の装備を整えなければなりませんでした
 この度は、私に家計を支えられるだけの給金か糧食支給の約束が与えられますならば、それでやっと4頭の
馬を支度できましょう」
 また、ルドルフという郷士の訴えでは、
 「私は3週間も瀕死の床についておりまして、ただ今も病気で家から一歩も出ることがかないません
 そこで息子に馬と甲冑をつけて同盟軍に差し出しますが、私自身はこの度は馳せ参ずることができない次第です」
 ファイト・ロートレックなる貴族は、
 「私はほんの僅かな財産しか持っておりません
 貧しい貴族であるという以外は資産も官職も身分も持たず、ただこの僅かなもので家族を養わねばならない
有様です」


そんだけ
413発破をかけてみる:03/07/16 21:32 ID:???
 下級貴族たちの苦悩をよそに、2月18日に再びエックから報せが届いた
 「本日、事態について熟考いたしましたが、書面に示されているよりもより多くの援軍を送ることが
望ましいようです」
 この報告を受けて、2月21日に今度はバイエルン諸都市にも召集準備の命令が下った
 それによると、都市は馬と兵車を用意すべきであり、「市民並びに都市住民はただちに武器と甲冑を完全に整え、
4隊を編成してうち2隊は長槍兵、1隊は弩兵と銃兵であるように」要求されていた
 しかし、事態はますます緊迫の度を増していたため市当局は頼りの民兵を手放す訳がなく、3月31日に
閲兵場に到着した都市の召集兵は僅か877名で、しかもその多くが兵士としては如何なものかな連中だった
 このため、4月26日に次のような布告が出された
 「困難なる事態はなおも終結しそうになく、永らく妻子から離れることは市民にとって苦痛であろう
それ故、市民を呼び戻して、その後は毎月、月の終わりまでに、人または給金のいずれにせよ、金銭を送るか、
あるいは市民自身の代理となるような傭兵を代理として送るか、いずれかを選ぶように」
 この市民の召集に代わる金銭の供出額はかなりの高額だったらしい
 この軍役免除税が傭兵を雇い入れるための費用に充てられたことは間違いない

 バイエルンの場合、割り当てられた兵員の3分の1はこうした軍役免除税で供出されたため、
都市民や農民からの大規模な兵員徴募はかなり後になるまで行われなかった
 これには、農民がしばしば一揆勢に脱走したため、農民の徴募に慎重を極めたこともあった
 しかし、隣接したアルゴイ農民団の脅威が増大し、しかもヴェルテンベルクで作戦する同盟軍からの援軍が
当てにならなくなったため、5月14日に初めて農民に対する募兵が発令されることになる
 地方の世話役や判事は農民を集合させ、書記によってこの布告文を朗読させた



そんだけ
414布告文を読み上げてみる:03/07/16 21:33 ID:???
 「傲慢なシュワーベン農民は今やレッヒ河を越えて侵入し、バイエルンの農民に行を共にするよう強要している
 彼らに組みせぬ者は追われ、既に多くの者が家族と家畜を伴いランズベルクやショーンガウへと逃亡しつつある
 加えるにシュワーベンの輩はバイエルン公並びに高貴な人々に向けて不遜極まりない脅迫状や果たし状を
手交し、軍使として派遣された丸腰の騎士を捕らえるに至り、我ら大公は契約に反しても武器を取らざるを得ない
 しかして、レッヒ河を越えてバイエルン公国に侵略してきた者どもおよそ1万4000は、
シュタインガーデン修道院を略奪し、破壊し、焼き払い、今またライテンブーフ修道院も、その所領内に住む
全ての村人、農民を含め、その恐ろしき脅威のもとに晒されつつある
 しかしながら、ライテンブーフ修道院の農民たちは屈することを欲せず、シュワーベン農民とは何事も共に
為さざること、彼らが生死を共にする領封の御領主にして慈悲深きバイエルン公のお側に最後まで踏みとどまる
旨をシュワーベン人どもに告げ、かくして数百人のバイエルン農民はパイセンベルクその他の山々に拠って
シュワーベン農民を防ぐべく、良き武器を携え集まった
 しかして彼らは慎ましき臣下として慈悲深き御主君に身命を捧げ、神の御加護と共にシュワーベン農民の
傲慢にして暴虐な振舞にとどめを刺さんことを雄々しく誓い合った(中略)
 我ら慈悲深き御主君には、忠良にして誠実なる汝らに思いを寄せられ、汝ら全ての祖国、汝ら自らの名誉、資産、
家族、住居をあくまでも維持し、救い、守らんとの思し召しである
 畏れ多くも、汝ら忠良にして慎ましき農民には疑いもなく満幅の信頼を寄せられ、かくては邪悪にして不逞なる
シュワーベン農民が例え四倍に余る多勢であっても、神の御加護の下に勝ちまさるであろう
 また汝らの中には、この領邦の法廷の下において不正なる重荷に困窮しつつあると思い違いをする者もあろうが、
汝らの慈悲深き御主君には、この騒乱、騒擾の鎮まり次第、慈悲深き御配慮と正しき改善を願われている
 しかして畏れ多くも、いかなる疑い、不信を汝ら一人だにも寄せられざる如く、汝ら世話役もまた思慮、情意を
あげてこれに思いをいたさんことを」


そんだけ
415名無し三等兵:03/07/17 11:06 ID:???
>>411
岩明均のヒストリエね。アフタヌーン連載中。
 バイエルンに限らず、シュワーベン同盟の勢力圏内での農村に対する召集令は大抵がこのような調子で、
実際に大きな反響を呼んだ
 しかし、布告文への反響と、その内容が当時の状況を正確に伝えていたか否かとは全くの別問題だった
 前述のブランデンブルク公の布告文で述べられているシュタインガーデン、ライテンブーフ両修道院領の農民は、
シュワーベン農民を拒絶するどころか、むしろこれに呼応して600人が農民団に加わっていた
 また、武装してパイセンベルクに集まった農民250名は、蜂起農民に対抗すべく集結したのではなかった
 実際には、秘密裡に集まった彼らは、より大きな農民団を組織すべく談合していた蜂起農民の基幹要員だった
 バイエルン公国の至る所で農民の不満が充満していた
 アイハッハの世話役の5月21日の報告によれば、「役人が死刑の脅迫によって農民を武装させ検閲に赴くよう
命令した」時、「彼らは命令に従うべきか、それとも農民団を結成して蜂起すべきか、数時間にわたって協議した」
と記されている
 また、ミューニッヒの世話役は、6月10日に、「大公の勅令を奉読した際に、クリスチャン・ライトナーなる
男がこれに公然と悪口雑言を吐き散らした」と報告している
 バイエルンはこうした農民の不穏な言動に対して、強力な警察力をもって弾圧した
 既に1525年3月6日には警戒令が敷かれ、「他国者、見知らぬ乞食、巡礼、その他嫌疑のある者に対して
食事を給したり歓待したりしてはならない」と命じている
 そしてこれは農民戦争の激化とともにますます強化されることになる


そんだけ
 下級貴族、都市民、農民の徴集がこのような状況であったから、こうして強制徴募された兵からなる
シュワーベン同盟軍がどのような状態だったかは容易に想像できる
 3月1日、エックは委員会に宛てて、バイエルン公ヴィルヘルムから同盟に送り込まれた軍勢について、
次のように書き送っている
 「歩兵隊の隊長シュテッケルが本日私に通報したところによりますと、100名が脱走してミュンヘンへ
向かったということです
 しかもシュテッケルの手許には金もなく、書記も一人としておらず、全く聞くに堪えない汚らわしい話です
 畏れながら、この悪人どもについていかが思召されましたでしょうか
 シュテッケルは兵の大多数がミュンヘンの者だと申していますが、奴らはしたい放題の破廉恥極まりない
ならず者ばかりです
 奴らに対しては、畏れながら、無慈悲に振舞わねばならず、笞で打つこともまたやむを得ないでしょう
 我々は踊りに来たのではなく、戦争に来ているのです
 金を貰う時は一人も欠けることはないのに、検閲となると多くの脱走兵が出るのを私自身よく存じております」
 当事者たちの不満がこうであったから、ましてや民衆の同盟軍に対する嫌悪はこれ以上だっただろう
 同盟軍では軍律など存在しないに等しかった
 2月24日、ヴェルツブルク市参事会がバイエルン政府に訴えたところによれば、バイエルンの部隊が
ヴェルツブルク市を通過した際、隊長か憲兵が諸経費を支払って市の制度を尊重するよう前もって文書で
確約されていたにもかかわらず、「全ての約束が守られず、夜となく昼となく市の門は開放され、
これを閉めようとした市参事会の者は殴り倒され、今日においても軍需品その他の提供に対する支払の多くが
行われておらず、市民は兵士によって笞打たれている」と述べられている
 「要するに、市民誰一人として日々自らの家庭の平和を保ち得ない」ような恐ろしい事態が至る所で
現出していたのだった


そんだけ
418村のみんなとは戦えない:03/07/17 22:18 ID:???
 強制であろうがなかろうが、徴募兵における農民の比率はどうしても高くなることが避けられない
 シュワーベン同盟軍においても例外ではなく、農民出身の徴募兵はかなりの割合を占めていた
 そして彼らの多くが自らと同じ社会階層である蜂起農民に対して敵愾心を抱いておらず、募兵の段階で既に
このことを言明していた
 エックの書簡でも、「我々は農民に対しては使われたりはしないと決心している兵を4000人も所持している」
とか、「グレームリヒが同盟軍の歩兵2000を率いて進軍したが、彼らは農民と戦うことを欲せず、
安穏なるままにおかれんことを嘆願する有様で、我々が命令に服従するよう命じれば脱走してしまう」
と記されている
 オーストリア大公フェルディナントも、「兵士たちにはよく働けるように絶えず給金を支払わせている
 しかし彼らはいかなる待遇いかなる報酬があっても、決して農民に対して立ち向かったりせず、これを拒絶し、
支払があった後でお互いにこっそり好き勝手に逃走してしまう」と嘆いている
 バイエルン公ルードヴィッヒが共同統治者である兄のヴィルヘルムに宛てた信書には、
 「騎兵は役立たず、歩兵は信用できず、奴らはみな農民だ
 あなたも知っているように、奴らは理由もないのに進もうとしない
 要するにチンピラどもを信用してはならない」と記されている
 同盟軍内の農民出身の兵の脱走、寝返り、不服従、農民団への通敵を示す史料は枚挙に暇がない
 同盟軍は常に分裂の危機を内在していた


そんだけ
419戦場に群がり集う狗:03/07/17 22:22 ID:???
 シュワーベン同盟軍は、一面では確かに分裂と寝返りの危機をはらんだ軍隊ではあったが、
実際にはそうならなかった
 そして勿論、そうならなかっただけの理由があった
 エックはヴィルヘルム公宛てに次のような進言を行っている
 「畏れながら、私が憂慮いたしますように、土着の者から有力な武装兵を召集し得ないとお考えになり、
マントゥーアに書面を送って200乃至300人の軽騎兵をすぐに掻き集め、適当に養っておいてはと
お考えになろうとも、私は別に異存はありません
 何故なら、ヴェネツィアがそのような軽騎兵を多数召し抱えているという話ですし、手を尽くせば
精々一月足らずで200乃至300、あるいは400位は集められるものと思います
 農民に対して非常に『いい奴ら』です
 というのは、公国に一揆が起こるような場合、このような軽騎兵とかボヘミア人といったような外国兵を使って
鎮めるのが、またとない名案に他ならないからです」
 事実、多数のボヘミア人歩兵が手段を尽くして集められ、4月の時点でヴィルヘルム公の手許だけで既に
1000名に達していた
 また、同盟軍も多数のボヘミア人傭兵を雇い入れていた
 外国人傭兵だけでなく、賃金に対して雇われたいと望む農民は地元でも多数存在し、傭兵隊の編成は
容易に行われた
 例えば、5月11日、上アルゴイ農民がバイエルン公国に侵入した際、ザルツブルク大司教は、歩兵350名の
ために1400フローリン、騎兵50名のために600フローリン、計2000フローリンを傭兵調達資金として
バイエルン公に贈っている


そんだけ
 シュワーベン同盟は実質的に軍事組織であり、その最高指導機関である同盟委員会は、同時に同盟軍の総司令部
でもあった
 しかし、委員会は決して最初から農民団に対して強硬姿勢で統一されていた訳ではなかった
 特に都市の代表者はしばしば平和的な交渉によって事態を収拾することを主張しており、その中心的人物である
アウグスブルクの委員アルツトは主戦論に反対して次のように述べている
 「私は全く反対だ
 例えなにがしかの富を得ようとも、それは我々にとって快いものだろうか
 我々が剣をもってせしめたものは、我々全てにとって快いものだろうか
 土地と人間の荒廃、夥しい流血がきっと起こるだろう
 それ以外の何ものでもないのだ」
 また、皇帝の代理であるバーデン辺境伯フィリップ、ザクセン選帝侯フリードリヒも、「穏やかに協定を結び、
大規模な戦争にまで拡大しないよう」同盟委員会に勧告している
 このような穏健派に対し、強硬派としてはバイエルンがあり、またヘッセン方伯フィリップなども容赦ない
農民弾圧を主張していた
 これらを代弁しその推進者となったのが、バイエルンの官房長ラインハルト・フォン・エックである


そんだけ
421聖霊と子の御名において:03/07/18 21:58 ID:???
 エックは早くから詭弁と強引さと陰謀の人として知られていた
 初めて同盟委員会に出席したのは1513年2月23日だったが、その時から精力的な活動によって同盟を
主導しており、彼無しには委員会は決議が進まず、決議の文案さえもエックの添削を受けたと言われている
 また彼はあらゆる作戦に直接関与し、彼自身が自負しているように、「彼がいない限り、誰も戦争に赴こうとは
思わないと他の委員たちが懇望する」有様だった
 そして絶えず都市の穏健派の克服に努め、国外追放されたヴェルテンベルク公ウルリッヒが農民と協同して
シュワーベンに来襲しつつあると脅迫的な警告を振りまき、ついに同盟委員会を主戦論でまとめ上げることに
成功した
 彼は文字通り戦争準備に没頭し、2月15日の手紙で、「私が例え1時間でもありとあらゆる奸計や悪巧みの
話をしていることがあれば、10フローリンの金をやってもいい」と言明するくらいで、3月17日の手紙では、
「恐らく過労のため、神の御意志のため、体が少なからず弱まった」とも記している
 ただし、10フローリン程度の端金よりも奸計を巡らすほうがエックにとっては大事だった
 エックは農民一揆の原因を全てルターにあると主張していた
 1523年の書簡では。「全てはルターの教説に少なからず原因があり、しかも日毎に勢いを増しており、
恐らく何よりも憂慮されるべきです
 このような不服従からはキリスト教信仰の頽廃ばかりでなく、臣下たちに御上への蔑視と根絶の企てを
引き起こすでしょう」と警告を発している
 戦争の激化とともに論調は激しさを増し、「これらの出来事は全てルターのせいで起こったのです」、
「ヘーガウ、ブライスガウ、シュワルツワルト等の農民蜂起は全てルター派の坊主どもが起こしているのです」
と言い始め、ついには「諸侯や貴族を打ち倒そうとするこれらの振舞は結局のところ、その根源をルターの教説に
発している」と叫び続けた


そんだけ
422:03/07/18 21:59 ID:???
 エックには、農民の行動に対する冷静な判断、農民からの要求を理解しようとする努力などは端から眼中に
なかった
 彼は、「なるほど農民たちはその貪欲のために神の言葉、福音、隣人愛を引き合いに出している」、「しかし私は
農民の兄弟愛には全く反対だ」、「もしフッガーが私と隣人愛を分かち合うとすれば、これほど残念なことはない」
などと語っている
 そして農民の要求に対しては、「どれ一つとってみても、驚かされないものはありません
 奴らは河川を全て自由にしようとしているのですから」と言うだけで、有名なシュワーベン農民の十二箇条に
ついてもこれを黙殺し、最後には「貴族は皇帝に至るまで全て皆殺しにし、いささかも容赦しないつもりだと
ハイルブロンの農民が宣言した」と曲解する始末だった
 要するに彼は徹頭徹尾、反農民で一貫していた
 「農民どもは正真正銘の悪魔で、奴らを信じてはなりません」、「農民どもは本物の野獣です」、「この悪魔ども
は絞首刑にしてから破門しなければなりません」、「もし(農民との)交渉が決裂するような事態になれば、
トルコ人が攻めてきたと思って振舞う以外にはありません」などと絶えずバイエルン公に進言し続けたのだった


そんだけ
 このような調子だったから、当時の人たちも流石にエックはヤバ過ぎると感じていた
 皇帝カール5世はエックの人物像を次のように評している
 「あれは裏切りや破廉恥にかけてはユダヤ人を上回り、金のために祖国や帝国、全世界だって売りかねない
 たんまり金を掻き集めた後で一人で死んでいくだろう」
 この証言は戯画化されてはいるものの、確かにエックは目的のためなら手段を選ばなかった
 「援軍が来るまで、我々は悪漢どもと交渉を引き延ばすつもりだ」
 農民団の勢力が優勢だった場合、彼は協定を結ぶことを躊躇しなかったが、その狙いは時間の余裕の獲得で、
交渉の結果など最初から気にしておらず、十分に兵力を整えた頃、彼は農民を挑発し協定を踏みにじって
攻勢に出て農民団を徹底的に粉砕するのが彼の得意技だった
 更に、彼は農民の処断に当たって一片の慈悲も見せなかった
 前線からバイエルン公に宛てた書簡のほとんどで、彼は隠しきれぬ喜びをもって処刑した人数を報告している
 「ロートリンゲン公がエルザス・ツァーベルンで農民2万人ほどを斬り殺しました(中略)
 プファルツ伯ルードヴィッヒは農民1万8000ほどを撃ち殺しました(中略)
 21日にヴァインスベルクを焼き払い、何一つ残しませんでした(中略)
 (捕虜2名を得ましたが、)その1人の首領は木の下でじりじりと焼き殺しました
 その他の刑罰はとても思いつかなかったからで、もう1人は斬首しました」
 こうしたエックの目指していたのはテリトリウム権力、この場合はバイエルン公国の権力強化だった
 彼はそのために全力を傾け、周囲の誹謗中傷にもかかわらず、その政策を遂行した
 彼を理解し、終生親密であり続けたのはバイエルン公ヴィルヘルムだけだった
 ヴィルヘルムの弟ルードヴィッヒは次のように語っている
 「兄はエック以外は誰も信用しようとしない
 『似た者同士』というが、彼はまさしくそれだ」


そんだけ
424法難:03/07/19 09:59 ID:???
 エックはまた、農民戦争の機会を利用して教会財産の奪取をも目論んでいた
 シュワーベン同盟軍に提供した部隊やバイエルン公国領を防衛する部隊にそれぞれ莫大な給与を支給せねば
ならなかったが、この負担を農民に押しつけることが更なる一揆を誘発することは流石の彼も気づいていた
 このため、バイエルン政府は、教会、特に修道院に軍費の財源を求めた
 「全ての教会から金を集め、特に修道院からは数千グルデンの賦課がなされるべきです」と彼は書き送っている
 既に1523年、緊急の際には教会財産を使用する許可を教皇から獲得し、1525年2月18日、
特別委員が任命されて差し当たって総計3万フローリンの集金が決定され、目立った反発もなく実行されている
 4月2日、委員は教会と修道院を巡回して金銭や銀器の供出を命じ、続いて4月23日には一般の聖職者にまで
資金供出負担の範囲が拡大されることになった
 5月7日、第二次強制募金が修道院に命じられ、回状には「農民は司教、修道院長、司祭をはじめ全ての
聖職者を追放しようとしている」という脅迫的文言がご丁寧に記されていたが、貧困な下級修道院や聖職者は
これに応ぜず、割当額の半分も集まらなかったと言われている
 それどころか無数の苦情が寄せられ、ベネディクトボイエルン修道院長は、「当修道院は以前より負債を負い、
誰も金を貸してくれない」、ロール修道院長は、「最善を尽くしたが、最初の集金のため当修道院は破産状態に
ある」と言い、「真実を申し上げれば、教職者たちは酷く貧乏しております
 さもなければ全くこのことを喜んだでありましょう
 司祭様に1グルデン差し上げるより、慈悲深き我が御主君に4グルデン差し上げるほうが嬉しく存じます」
と訴えている
 しかしバイエルン政府は容赦なく6月12日に三度目の寄付を強要し、最後に既に戦火の収まった9月上旬、
5万フローリンの募金を割り当てている
 こうして教会財産の略奪は常軌を逸した横暴を示し、例えばテーゲルンゼー修道院の被害だけでも、
軍費4000フローリン、現物1000フローリンに達している


そんだけ
425自転車操業:03/07/19 10:00 ID:???
 実際のところ、同盟軍の財政はほとんど整備されておらず、このため資金調達は泥縄で行われた
 兵の装備と糧食は各当事者の負担だったが、その他の費用を巡っては都市と下級貴族の間で果てしない争いが
続けられていた
 1500年の決議でようやく、各加盟者の収入の1パーセントを払込むことが決定された
 しかし貴族はほとんどその義務を果たすことが出来ず、またこの頃頻発した戦争のために軍費は
到底賄いきれないほどに膨張し、結局、貴族と都市を問わず、人口に応じて軍費が割り当てられるようになった
 農民戦争が勃発すると、同盟委員会はますます財政窮乏に迫られ、ついに加盟者に割り当てられた軍役提供の
3分の1を金銭で代納するよう各加盟者に呼びかける有様だった
 しかもその払込みすら滞ったため、鎮圧された一揆農民から過酷な罰金を徴収することによって、
かろうじて急場を凌ぐことを余儀なくされていた
 罰金額は農民一人当たり6〜8フローリンが相場で、例えばラインガウの農民たちは1万5000グルデンを
支払わねばならなかった
 また、シュワーベン同盟はアウグスブルク、ニュルンベルク、ラーフェンスブルクの大商人に寄付を勧誘したが、
いずれも拒絶され、ただヤコブ・ブッカーだけが4000フローリンを寄付していた
 フッガーは同盟の有力な諸侯であるオーストリア大公フェルディナントに、農民一揆に対抗するための資金
として1524年に2万5000フローリンと2000ドゥカーテン、1525年に5万9562ドゥカーテンを
融通している
 フッガーが農民戦争で無関心な中立を保っていたとする説もあるが、少なくとも資金面で同盟を援助した
反農民運動の強力な支持者であったことは否定できない


そんだけ
426名無し三等兵:03/07/19 17:26 ID:???
なんだこの基地外はw
427名無し三等兵:03/07/19 19:44 ID:???
>425
雑音は気にしないで続きをお願い致しますm(. .)m
428妥協は存在しない:03/07/20 08:54 ID:???
 前述のように同盟内部でも穏健派と強硬派が存在しており、この態度の相違にによって農民戦争の経過もまた
交渉や調停の時期と武力衝突の時期という二つの段階に概ね区分される
 例えばマインツ大司教領に属するラインガウは経済的に裕福な地域だったが、同時に過去にも何度か一揆が
発生しており、潜在的な危険地帯でもあった
 1524年11月頃にマインツのヘディオという改革派教職者の煽動によって蜂起の準備が整えられ、
翌1525年4月23日、エルトヴィレ市民が市参議会に訴状が提出されたのを契機に一揆は各地に拡大し、
間もなく29箇条に及ぶ訴状が作成された
 この訴状は大司教の代理人に手交され、交渉は長引いたものの、やがて在地貴族が市民と農民に加盟するに
至って5月18日にその要求が全面的に認められることになった
 ところが両者の協定が施行されようとしていた時になって、部外者が全てをひっくり返してしまった
 ベーブリンゲンでフランケンの農民団を撃破したシュワーベン同盟軍が、余勢を駆ってマインツ領に
進出してきたのだった
 注目すべきは、農民団に妥協した立場のマインツ大司教でさえ、同盟軍を歓迎しなかったことである
 この時、マインツ大司教の代理人であるシュトラスブルク司教ヴィルヘルムは、同盟軍にマインツ領への進軍を
中止するよう申し入れている
 しかしこれに対して同盟軍の総司令、「農民のイェルク」の悪名でドイツ史上に燦然とその名の輝く
トゥルフゼス・ゲオルグ・フォン・ヴァルトブルクは、この要請を拒否して次のように答えたと伝えられている
 「我々は、農民の放縦、乱暴、由々しき誤謬に対しては厳粛かつ断固とした態度をとるように命令を受け、
その責務のためには、我々は汝らの御主君(マインツ大司教)の慈悲深き嘆願を受け入れられないし、
また言われるべきではないのだ」
 これでマインツの農民たちの運命は決まった

そんだけ
429神罰の味:03/07/20 08:57 ID:???
 和平交渉は、ラインガウに限らず、多くの地域で試みられていた
 フルダ修道院領では、4月22日に副修道院長と一揆勢の間で平和裡に協定が結ばれたにも関わらず、
5月3日に制止を押し切って進攻してきたヘッセン方伯フィリップの軍勢に蹂躙されている
 他にも、5月26日にはレンヘンで穏健な内容の「オルテナウ協約」が成立している
 他にも、バーデン・ドゥルラッハ、シュパイエルのブルーライン、ブレッテンのクライヒガウ、
その他多数の地方において、交渉による解決の可能性は十分にあった
 こうした交渉は全て4月あるいは5月上旬に結ばれ、農民団への血みどろの攻勢は上シュワーベンを除けば
5月に始まり、6月にはその頂点に達する
 この5月上旬が、農民戦争における平和交渉から武力衝突への転換点となった
 ただし、5月上旬までの交渉による解決への努力は過大評価できない
 確かに農民に対して穏健な領主は例外的に存在しただろうが、領主と農民が結んだ、あるいは結ぼうとしていた
協定の中には、領主に強制されたものや、その場凌ぎの時間稼ぎのために領主によって譲歩されたものが
圧倒的に多かった
 上シュワーベン、アルザス、プファルツ等では、時間を稼ぐために、交渉があからさまに引き延ばされている
 また、中には農民に力ずくで協定を強制された領主も少なくなかった
 農民戦争の起点であるシュトーリンゲン村の一揆とワルズフート市の蜂起からして、領主との交渉や
シュトックアッハの調停裁判にかけれれており、しかもそれは領主側にとって、単に時間の余裕を獲得せんが
ために過ぎなかった
 ともかく4月までの交渉と協定の時期は、個々の事情はどうであれ、客観的には帝国の作戦準備期間であり、
5月以降、帝国領各領主の反攻が一斉に開始され、その反攻の唯一の中核的存在こそがシュワーベン同盟軍だった


そんだけ
430名無し三等兵:03/07/21 16:21 ID:???
test
431足りないのは覚悟:03/07/21 16:23 ID:???
 1524年末から1525年2月中旬にかけてのシュワーベン同盟軍はお話しにならないくらい劣勢で、
ただ手をこまねいて一揆の拡大を見守る以外になかった
 2月中旬、追放されていたヴェルテンベルク公ウルリッヒが農民兵とスイス人傭兵を率いてヴェルテンベルクに
侵入、シュトゥットガルトを占領する直前にまで迫ったが、後援者であるフランス王フランソワ1世がパヴィアで
敗北した上に囚われてしまったため、後方連絡線の途絶したウルリッヒ軍は自壊してしまった
 この時、シュワーベン同盟軍はシュトゥットガルトの防衛についていたが、これを契機に戦力を回復していく
 逐次陣容を強化した同盟軍が行動を起こしたのは、ようやく4月に入ってからだった
 統一した作戦展開能力に欠く農民団側は同盟軍の機動戦に抵抗できなかった
 まず4月4日、トゥルフゼス・ゲオルグ・フォン・ヴァルトブルク率いる同盟軍はウルム近郊のライプハイムで
バルトリンゲン農民団を襲撃してこれを撃破した
 この際、農民1000名が殺され、3000名が捕らえられたという
 続いて4月中旬までにバルトリンゲン農民団の残余を殲滅してこれを完全に解体し、次いで15日から16日に
かけて、ヴァインガルテン修道院近郊でボーデン湖畔農民団と対峙した
 両軍の兵力は農民団1万2000、同盟軍7000と同盟軍が劣勢で、しかもボーデン湖畔農民団は
農民団きっての武闘派と言われており、大砲すら装備していた
 そこでヴァルトブルクは4月17日に「ヴァインガルテン協定」を結び、戦闘を避けてヘーガウに撤退した
 この協定は、同盟軍の破滅を救ったのみならず、シュワーベンにおける、ひいては帝国全域における農民蜂起を
挫折させることになる
 農民団は、団の規約文書や旗を引き渡し、要求書をオーストリア大公の主催する調停裁判に提出し、それまでは
従前通り租税を納めるという妥協的な、そして戦略的には敗北に等しい協定に満足し、それと引き換えに、
総計3万に達するとまで言われる戦力を擁する農民団は、戦争を一挙にケリをつけられる最良の瞬間に
解散したのだった


そんだけ
432機動戦:03/07/21 16:28 ID:???
 ヘーガウに向かった同盟軍は、シュトックアッハで進路を北に転じ、ヴェルテンベルクに入った
 ここで一揆勢の中でも穏健派のマーテルン・フォイエルバッヘルに率いられたヴェルテンベルク農民団の
1万2000が同盟軍を迎え撃ち、5月10日、ヘレンベルクで対峙した
 ヴァルトブルクは敢えて攻撃せず、農民団と交渉をもち、5月12日、休戦条約を結んでベーブリンゲンに
進駐するや、直ちに条約を無視して砲撃を加えて農民団を撃破した
 この戦闘で、農民約2000から3000名、一説には8000名が殺されたと言われている
 続く23日、同盟軍はキルヒガウ農民団を撃破してプファルツ選帝侯ルードヴィッヒの作戦を掩護した
 選帝侯軍がブルーライン、ブルフザールを占領してプファルツの一揆を鎮圧した後、同盟軍は選帝侯軍を
加えてフランケンに転じた
 一方、農民蜂起の精神的指導者であるトマス・ミュンツァー率いるテューリンゲン農民団は、5月15日、
フランケンハウゼンで諸侯軍に惨敗し、その本拠地ミュールハウゼン市もザクセン選帝侯によって占領された
 ミュンツァー一派の運命が決した同じ15日、フランケン地方ではラウベルタール農民団、
オーデンヴァルト・ネカータール農民団、計1万5000がヴェルツブルク司教領で合同し、
ウルゼルフラウエンベルクを包囲しつつあった
 この攻撃は完全に失敗し、しかも彼らは部隊を再編成するどころか逆に分裂をはじめ、何かと口実をつけて
離脱する者が続出した
 こうした農民側の無為無策に乗じてフランケンに入った同盟軍は、5月29日にカールスウルムを奪取し、
次いで6月2日にタウベル湖畔のケーニヒスホーフェンで敵前強襲渡河して下フランケン農民団を撃破、
4日にインゴルシュタットの城址で農民団残余の英雄的な抵抗を掃討し、7日にヴェルツブルク市を奪回して
フランケン地方の農民一揆を完全に鎮圧した
 6月17日、バムベルク司教領に進出した同盟軍はハルシュタットを焼き払った
 この際、「騎兵たちは何人も容赦せず、隊長を激怒させ、味方でありながら敵よりもなお有害な存在だった」
と伝えられている


そんだけ
433わんにゃん@名無しさん:03/07/22 13:07 ID:???
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
434彼らの自慢も終わりを告げ:03/07/22 19:43 ID:???
 シュワーベン同盟軍という独立的に行動するたった一個の野戦軍によって、農民団がこれほど短期間の間に
次々に撃破されていったのにはそれなりの理由があった
 一つには、よく言われているように、農民たちに軍事的、政治的な指導者を欠いていたことにあった
 農民戦争における一揆勢は同時多発的に発生した各地の蜂起の総和に過ぎず、決して各農民団が組織的に
連携していた訳ではなかったため、作戦展開における戦力集中の点で農民たちは圧倒的な不利にあった
 前述の通り、農民団の軍事力の中核は同盟軍や諸侯軍と同様にランツクネヒトだったが、「戦い慣れた
ランツクネヒトは下士官としては優秀だったが、司令官としては駄目だった」
 トーマス・ミュンツァーは一揆勢の精神的指導者だったが、彼でさえ狂信的な小集団を統率できたに過ぎず、
統一した戦線を構築するだけの力量はなかった
 もう一つは、農民団の戦術的限界にあった
 騎兵戦力で劣勢を余儀なくされていた農民団の慣用していた戦術は、フス戦争でフス派が編み出した車両要塞
の発展型だった
 車両要塞は基本的に陣地防御戦術であり、軽砲や弩、アルケブスと、それを防護する車陣と長柄武器で
構成されており、陣地防御の要件である火力と障害の連携を満たしていたため、フス戦争においては
確かに教皇の装甲槍騎兵の突撃を破砕してみせた
 しかし、大砲が当たり前のように野戦に投入されるようになっていた農民戦争の頃にはもはや通用しなくなって
いたのだった


そんだけ
435不実と悪意の故に:03/07/22 19:44 ID:???
生き残っていた農民団は今や二つに過ぎなくなっていた
 そのうちヘーガル・シュワルツワルト農民団は7月2日にオーストリア大公フェルディナントの軍によって
撃破されて四散し、残るアルゴイ農民団は、7月15日、ヴェルツブルクから急行軍で南下してきた
シュワーベン同盟軍にロイバスで蹴散らされた
 ザルツブルクの一揆は、ゲオルグ・フォン・フルンズベルク率いる同盟軍支隊と戦ってかなり有利な協定を
約束されつつ8月末に鎮められた
 1525年12月7日、一揆の発祥地であるワルズフート市が同盟軍とオーストリア諸侯の部隊によって
占領され、かくして農民戦争は完全に終結する
 ちなみに、ザルツブルクの一揆勢は翌1526年4月上旬に再び大規模な蜂起を起こし、今度は同盟軍主力に
よって粉砕されている
 同盟軍の作戦を見ると、シュワーベン同盟軍が4月上旬から7月にかけての4ヶ月間にドイツ南西部を円を
描きつつ、しかも要所においてはかなりの速度で行動していたことがわかる
 そしてその至る所で、単独で、あるいは諸侯の軍と連携しつつ、蜂起農民を撃破した
 まさしく同盟軍はこの戦争において恐らく唯一の戦略機動打撃部隊であり、領主側の反撃のための切り札に
他ならなかった


そんだけ
436純粋戦闘手段:03/07/22 19:47 ID:???
 シュワーベン同盟軍が、多くの傭兵によって構成されていたことは様々な点から指摘することができる
 同盟委員会は1525年2月上旬に各加盟者に対して3期に分けて兵員提供を命じているが、それは金銭に
よって代納してもよく、2月末に2万4700グルテン、5月半ばに3000グルテンが現金で代納されている
 また、兵員を提供する場合でも、騎士や民兵、強制徴募兵、傭兵等、その出自は問われなかった
 市民の多くは軍役を忌避して代理人を出すか、免除金を支払うほうを選んだ
 同盟とは別に諸侯が独自に行っていた徴募も実際には金銭獲得の名分に過ぎなかった
 こうして集められた軍資金は、ほとんどが同盟委員会、あるいは諸侯による傭兵の雇用に充てられた
 更にボヘミア人傭兵や北イタリアのラテン系職業傭兵が同盟軍の一翼を担い、「一揆鎮圧の最良の手段」とまで
評されている
 また、農民出身の強制徴募兵は信頼性に問題があり、しばしば命令不服従や通敵の傾向が見られたが、
金銭を目当てに同盟軍に応募してきた農民出身の傭兵は、本来同胞である農民に対してほとんど呵責を
感じておらず、少なくとも農民への同情から略奪や暴行を手控えたような史料は存在しない
 そして、同盟軍を指導していたのもまた全ての封建支配階層ではなかったし、同盟自体が全ての支配階層の
利益擁護機関ではなかった
 同盟の結成の経緯自体が、強力なテリトリウム国家の寡頭制的支配のための手段に他ならず、絶対主義の
形成期に要求された傭兵軍の原型となるものであった
 なお、シュワーベン同盟は農民反乱の危機を克服後、その役目を終え、1534年、ヘッセン方伯フィリップに
支援されたヴェルテンベルク公ウルリッヒの帰還を直接の契機として解散した


そんだけ
437フランスの事情:03/07/23 21:38 ID:???
 封建制とは、土地を媒介として成立する軍事的主従関係であり、故に封建軍の中核をなしているのは、
封土の所有を前提に本来無報酬で召集に応じる家臣団である
 換言すれば、王領地においては封土を保有する全ての貴族、王領地の外にあっては王と直接の封建的主従関係を
結んだ大貴族や諸侯と彼らの率いる陪臣団であり、両者が王の軍隊を構成している
 しかし、こうして形成された軍隊は、局地戦ならばともかく、大規模な総力戦を戦おうと決心した王にとって、
慣習上、または契約上、余りにも大きな制約が内在していた
 第一には、軍役奉仕の時間的・空間的制約で、従軍する範囲は地域的に限定されていた
 第二に、諸侯たち封臣軍の軍役奉仕は安定性、永続性に欠け、また提供する兵力は常に不十分な傾向にあった
 このような問題は封建軍固有のもので、中世フランスにおいても例外ではなかった
 慣習上、フランス貴族は自らの属する州の外にあっては40日を越えず、また諸侯たちが国王に提供する兵力は
彼らの保有兵力の1割程度だったと言われている
 11世紀末、バイユー司教は、騎士100名の封主として彼らの軍役奉仕を受けていたが、司教の封主である
ノルマンディー公に提供すべく義務づけられていたのはそのうち20名だけだった
 しかもノルマンディー公が国王への軍役奉仕のための兵をバイユー司教に求める場合、司教が提供することに
なっていたのは僅か10名に過ぎなかった
 一般に、フランス国王に対して諸侯たちが提供した騎士は総計でも1000名を越えることはなかった
 当然、国王は軍隊の主力を王領地貴族に求めざるを得ず、その兵力もまた大きな限界を免れ難かった


そんだけ
438騎兵の時間:03/07/23 21:40 ID:???
 勿論、フランスの軍事力を構成していたのは貴族のみではなく、都市や農村も主に歩兵を提供していた
 しかし彼らも貴族同様に時間的、空間的制約と兵力の限界を避けることはできなかった
 彼らを召集すべき国王の総動員令も、理論上はともかく、現実には王領地以外に及ばず、しかも彼らの
軍役服務期間は3ヶ月以上は許されなかった
 しかも、装甲槍騎兵の発展に伴い、野戦における歩兵の戦術的価値は相対的に低下していく傾向にあった
 また、余りにも巨大な野戦軍は兵站上維持し得ないという事情もあった
 このため、むしろ国王は歩兵を大量に徴集するよりも、軍役免除税の代納を推奨し、彼らの軍役奉仕義務を
フランス全土に拡大・強制しつつ、その金銭による代納を要求し、その軍役免除税をもって無制限に運用できる
傭兵を適時に雇用、維持するようになっていく
 このような事情であったから、フランス国王が実際に召集し、運用できる兵力はそれ程大きくなかった
 ルイ6世とルイ7世が対イングランド戦に投入したフランス野戦軍の兵力は、1194年で騎兵300〜400、
歩兵5000、1203年で騎兵300〜400、歩兵8000、1214年のブーヴィヌの戦で
フィリップ2世の軍勢は騎兵3000(うち装甲槍騎兵1000)、歩兵8000〜1000、1268年の
十字軍にサン・ルイが派遣した兵力は非戦闘員を含めて約1万、カペー朝末期においても王の召集する野戦軍は
騎兵2500、歩兵1万〜1万5千程度が上限だった
 しかも、これらの数字に少なからぬ数の傭兵が含まれていたことはまず間違いない
 以上のように、中世フランスの封建軍がそれ自体固有の制約を内包している以上、比較的大規模な作戦を控えた
国王や諸侯が、金銭によって無制限に運用できる傭兵の雇用を躊躇う理由はどこにもなかった
 傭兵は中世封建軍制の制約を打破する不可欠の要素として、中世を通じて存在していたのだった


そんだけ
439異邦の兵:03/07/24 19:15 ID:???
 既に992年にアンジュー伯フルコがブルゴーニュ公コナンとの抗争に派遣した軍は傭兵軍だった
 1066年、ノルマンディー公ウィリアムのイングランド征服に従軍した兵の大半もまた傭兵だった
 1103年、フランドル伯ロベールがイングランド国王ヘンリーに対して年400マルクの報酬で
毎年1000名の騎士を調達することを約した傭兵契約は、低地地方に存在する傭兵の存在を示唆している
 1174年、ルイ7世がドイツとフランスに巣喰う傭兵の一掃について皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサと
結んだ協定では、「ブラバント人と呼ばれる非道の輩」を両国から追放することが約されており、
 1179年のラテン宗教会議では、「ブラバント人、アラゴン人、ナヴァール人、バスク人」及び彼らに対して
武器をとることを拒む者には教会が厳罰を加えることが指令されており、当時フランスで、ブラバント、アラゴン、
ナヴァール等の出身の傭兵が横行した事実を示している
 12世紀以降、傭兵の比率は増加し続け、14世紀になってもこの傾向は続く
 その反面、フィリップ4世の治世になると、彼らの略奪は公共の治安に対する最大の敵となった
 1312年には、フランドル遠征から帰還した傭兵数百名が略奪の罪を問われてブールジュにおいて絞首刑に
処されている

 この時期のフランスで注目すべき傭兵として、フィリップ4世の治世以降に雇用されるようになった帝国騎士と
ジェノヴァ弩兵がいる
 フランスの東辺には、神聖ローマ帝国に属しながら事実上半独立の公伯の領国が多数存在しており、
ロレーヌ公、ブラバント公、ルクセンブルク公、ブルゴーニュ伯、サヴォイ伯等の彼ら公伯は、専ら報酬を
目当てに、しかもこの報酬をもって法理上一種の封土とみなして擬制的な「臣従宣誓」を捧げながら、
フランス国王と一時的な軍事奉仕契約を結び、国王は彼らが提供する帝国騎士をもってその軍隊を補強していた
 一方、ジェノヴァ弩兵もまた契約によってジェノヴァ市が提供していた
 イタリアやドイツに比して都市工業の発達が遅れていたフランスでは、12世紀以来次第にその戦術的地位を
向上させつつあった弩の専門射手を国外に求めなければならなかった


そんだけ
440悪党:03/07/24 19:16 ID:???
 帝国騎士やジェノヴァ弩兵は、百年戦争期を通じて継続的に雇用され、その数も増加する傾向にあった
 1346年のクレーシーや1382年のローズベーケでは彼らが重要な役割を演じている
 また、この他にもフランス軍にはイタリアやスコットランド等から継続的に傭兵が供給されていた
 1424年のヴェルヌーイエ戦では、フランス軍1万4000のうち、ミラノ公が送ったイタリア人傭兵が
500ランス、スコットランド王が送ったスコットランド人傭兵が5000、その他にスペイン人傭兵400〜
500ランスが従軍していた
 これらの傭兵たちは、それでも基本的に封建的な体質を保持しており、封建制を破壊もしくは否定する存在と
いうよりむしろ封建制を補強する存在と言えた
 そして、フランス軍にはこれらの傭兵の他にも、封建的主従関係から独立し、封建軍制の枠外で行動する
傭兵団、いわゆる野武士団compagnie、ドイツでは後世に盗賊騎士団と諷刺される武装集団が存在していた
 その起源は必ずしも明らかではないが、初めて登場するのは14世紀中頃、すなわち百年戦争初期である
 それは、イングランド人を首領としてブルターニュで結成され、1347年にエドワード3世に雇用された
幾つかの野武士団がその最初だったと言われている
 しかし、フランスにおいて野武士団がその略奪行為が顕著となるのは、1356年のポワチエ戦の後、
特に1360年のブレティニーの休戦以降のことで、これらの野武士団が、もともと傭兵団として英仏の
いずれかに雇用されて従軍していたのか、それとも休戦の結果、本来の封建軍が野武士団化したのかは
明らかでないが、恐らく両者ともあったと思われる
 前にも述べたが、ブレティニーの休戦後、英仏両軍、特にイングランド軍から解雇された野武士団の略奪こそが、
フランス全土を震撼させた最初の事例となった


そんだけ
441Tard-Venus:03/07/25 22:43 ID:???
 一般に、野武士団は戦争以外には略奪しか生活手段を持たない
 ブレティニーの休戦は彼らから生活の糧を奪い、とりわけエドワード3世と当時ノルマンディーの大半を
領有していたナヴァール王シャルル・ド・モーヴェーによって給与の支給を停止されたイングランド軍内の
野武士団は、彼らの撤収と彼らの占領する要塞のフランスへの譲渡を約した休戦条項に反して引き続き現地に
留まって要塞を占拠するか、あるいは略奪目当てに各地を横行する以外に生きていく手立てがなかった
 ノルマンディー及びイル・ド・フランスでは多数の野武士団が残留して各地の要塞を占領し続けて
絶えず周囲の住民を脅かし、とりわけノルマンディーでは、ヒュー・オブ・カルヴァリーやジェームズ・パイプ等
のイングランド人首領に率いられた野武士団の活動に悩まされた
 特に、ジェームズ・パイプは、コルメイユ修道院を占拠して上下ノルマンディーを脅かした
 また、同じくイングランド人首領ロバート・マーンコートはシャルトル近郊かヴァンドームを襲い、
ヴァンドーム伯夫人とその姫君をさらって身代金4万フローリンを強要しているら
 パリ周辺はいうまでもなく、オルレアンさえ他の野武士団の脅威に晒されていた
 シャンパーニュでは野武士団が蝟集し、1360年夏以降、ブルゴーニュ、ローヌ河流域、更にラングドックへ
南下を企てた
 これらの地方は今まで戦禍を受けることが少なく、従って略奪の絶好の対象だった
 幾つかの野武士団は集合して大集団を形成し、「大兵団grand compagnie」と呼ばれ、著名な首領として、
ジョン・ホークウッド(イングランド)、セガン・ド・バードフォル(ペリゴール)、ベルチュカ・ダルブン
(ガスコーニュ)、プチ・メシャン(ラングドック、一説にはサヴォイ)等が参加していた


そんだけ
442鬼畜の功夫:03/07/25 22:44 ID:???
 「大兵団」は1360年末にアヴィニヨン近郊のポン・サン・テスプリを奪取して教皇領に脅威を与えたため、
教皇イノケンティウス2世は彼らを破門してしまったがやっぱり何の役にも立たず、皇帝やフランス国王に
救援を要請しなければならなかった
 翌1361年2月、ようやく協定が結ばれて彼らはポン・サン・テスプリを去り、多くはラングドックに移動し、
ヴレーやオーヴェルニュを略奪してまわった
 一部はミラノのヴィスコンティと戦うべくアルプスを越えたが、ホークウッドの兵団を残して間もなく
フランスに帰った
 その後、これらの野武士団はラングドックの三部会の委嘱を受けたスペイン人傭兵に追われて北上し、
1362年4月、リヨン南方のブリニューでフランス国王の軍を撃破した彼らは、リヨンネー、フォレ、
ニヴェルネー、オーヴェルニュ、ヴレー、ラングドック等に分散して略奪を続けることになる
 野武士団は各地において残虐の限りを尽くし、殺人、放火、食糧や香料、毛皮の強奪、婦女暴行、誘拐、
不法な通行税の強要等、およそ悪逆非道と呼ばれることは一通りやった
 神にすら敬意を払わず、聖職者を捕殺し、教会を焼き、聖器を涜してはばからなかった
 イングランドのジョン・オブ・ハールストンは、百余の聖杯をコップがわりに食卓に使用していた
 特に、富裕な市民、聖職者、貴族、あるいはそれらの子女を捕虜または人質として強要する巨額の身代金は、
彼ら野武士団にとって最も魅力的な収入源だった
 しかも、各地方、各都市は彼らを撃退する能力を持たず、むしろ戦闘による被害を恐れ、立退料を払って
被害を他地方に転嫁するという安易な手段を選ぶことが多かった


そんだけ
443猟狗を野に放つ:03/07/25 23:22 ID:???
 当然のことながら、フランス国王は野武士団の跳梁を黙視しなかった
 ノルマンディーとイル・ド・フランスにおいては、多数の赦免状を発して慰撫に努めるとともに、
ベルトラン・デュ・ゲクランを起用して野武士団の掃討に当たらせた
 デュ・ゲクランはジェームズ・パイプと交渉してコルメイユ修道院から立ち退かせ、リヴァロで
ジャン・ジュエルを撃破し、1363年にはカーン、サン・ロー、ヴィール間の全地域を解放した
 しかし、南東諸地方の野武士団対策は困難を極めた
 前述の、ラングドックから北上するセガン・ド・バードフォルやプチ・メシャンの率いる野武士団1万と
これを迎え撃つ国王軍の間で生起したブリニュー戦では、フォレ伯、ジョアニ伯、ラ・マルシュ伯等が戦死し、
総指揮官タンカルヴィル伯をはじめ多数の捕虜を出して国王軍の惨敗に終わった
 その後、方針が変更されるようになり、野武士団を軍事力で制圧するよりも、彼らを国外に誘導して
一時的にでもフランス国内を彼らの略奪から守ろうと試みられるようになった
 しかし、野武士団を国外に誘導しようとする様々な施策は、少なくともジャン2世の頃には実を結ぶには
至らなかった
 例えば、当時ラングドックに亡命していたカスティリア王子アンリ・ド・トラスタマールは、ブリニュー戦の
直後、故国に攻め入るためにベルチュカ・ダルブレやプチ・メシャンら野武士団の首領と契約を交わしたが、
必要な報酬の金策に奔走する間に、野武士団は約束を破って折しも戦闘中のフォア伯とアルマニャック伯の
軍隊に投じている
 また、1363年3月にキプロス王のアヴィニヨン来訪を契機に立案されたイェルサレム王国再建計画も、
野武士団の軍事力を利用する予定だったが、結局計画倒れに終わっている


そんだけ
444征けば生きては帰れず:03/07/25 23:23 ID:???
 1364年のシャルル5世の即位直後からフランス国内の政局は急展開を見せる
 まず、ブルゴーニュ公位を巡ってフランス王とナヴァール王シャルル・ル・モーヴェーの間で争われていた
いわゆるブルゴーニュ継承問題が、デュ・ゲクランの介入で1365年3月にナヴァール王が屈したことによって
解決した
 次いで、イングランド王が推すジャン・ド・モンフォールとフランス王が支持するシャルル・ド・ブロアの間で
争われていたブルターニュ継承問題が、1365年8月にブロアが戦死してモンフォールがブルターニュ公位に
ついたことでケリがついた
 こうした軍事的な緊張と弛緩によって、新たな野武士団が再びノルマンディー、メーヌ、オーヴェルニュに
流れ込み、その被害もまた増加していった
 前述したように、野武士団を国外に誘い出して一時的に国内の被害を局限する施策、すなわちその目的で
彼らを一時的に雇用する施策が執拗に試みられた
 既に1365年5月には、シャルル5世は教皇と皇帝の諒解を得て、オスマン・トルコの侵攻に対抗すべく
ハンガリー十字軍を計画している
 ただし、余りにも遠くしかも多大な危険を予測させるこの計画に野武士団は何の魅力も感じず、
ストラスブール近傍まで進軍した僅かな野武士団も2ヶ月で帰還する始末だった
 しかし、イングランドとナヴァール両国王を味方と頼むカスティリア王ドン・ペドロと、その庶出の兄弟にして
アラゴン王アンリ・ド・トラスタマールとの、カスティリアの王位を巡る紛争が絶好の機会を提供することになる


そんだけ
445盗賊故郷に帰る:03/07/26 18:27 ID:???
 アラゴン王と、ラングドックに亡命中のアンリ・ド・トラスタマールの要請を受け、1365年以降、
デュ・ゲクランは各地の野武士団を結集し、彼らを率いて年末にはピレネーを越えた
 この軍勢には各国出身の野武士団が、中にはヒュー・オブ・カルヴァリーのように従来イングランド陣営に
いた野武士団まで参加し、一説では総勢3万に達した
 その後のカスティリア戦役は、1366年4月にペドロの敗走とアンリの即位、1367年2月、黒太子の介入
とペドロの王位回復、アンリとデュ・ゲクランの反攻と続き、1369年3月にペドロの戦死とアンリの再即位で
一応の決着を見るが、ともかく一時的にしろ野武士団を国外に連れ出そうとしたシャルル5世の計画は成功した
 もちろんこれによって野武士団がフランス国内から消滅したわけではなく、カスティリアへの遠征に最初から
参加しなかった野武士団は依然としてブルゴーニュその他の地方で活動していたし、その上カスティリアから
帰還した野武士団は再びラングドックやオーヴェルニュ、アンジュー、シャンパーニュ等、各地に侵入して
再び略奪を働いている
 しかしその頃には、フランスの各都市や各地方でも、野武士団の略奪に対する防備が組織され強化されていた
 ラングドックでは1365年にアルビ市と周辺の農民が武装し、侵入してきた野武士団を撃退しており、
またナルボンヌでは野武士団と交戦してこれを全滅させ、ブルゴーニュではディジョンの代官ユーグ・オーブリオ
が野武士団を狩り出して極刑に処している
 この時期、野武士団の活動による被害は一応は峠を越したことになる


そんだけ
446狼藉御免:03/07/26 18:29 ID:???
 以後しばらく野武士団の活動は、英仏間の暫時の小康状態が野武士団の発生を抑制したことにより、
全く根絶されたわけではないが、比較的少なくなっている
 しかし、1415年のアジャンクール戦を契機に英仏領国の緊張が増し、1422年のシャルル7世の
即位以降、野武士団の活動が再び活発化する
 既に国土の大半を喪った「ブルージュの王」シャルル7世は、十分な給与支給の能力に欠きながらも、
アルマニャック党の兵力以外に頼むべき軍事力を持たなかった
 勿論、1429年5月のオルレアン解囲や7月のランスにおける国王の戴冠を可能にしたのはこれらの
兵士たちの活躍にあった
 けれども彼らの活動を促した決定的な要因は、間違っても哀れな国王に対する忠誠心でも、
ましてやイングランド・ブルゴーニュ軍の圧力からフランスを解放しようとする情熱でもなかった
 百歩譲っても、そのような動機はたかだか副次的な要因でしかなかった
 むしろ彼らを動かした動機は戦争そのものにあり、ことに戦争に伴う破壊的な略奪にあった
 シャルル7世が頼みとしたほとんど唯一の軍事力は、アルマニャック党の野武士団だった
 従って、1430年以降、戦線の膠着状態は彼らの略奪を軟化するどころか、むしろ促進させることになる
 年代記者オリヴィエ・ド・ラ・マルシュは次のように記している
 「フランス王国全土は略奪横領に明け暮れる城や砦で満ち満ちている
 王国のまっただ中に、『追い剥ぎescorcheurs』と呼ばれる種々雑多な戦士たちが蝟集し横行し、生きんがため、
奪わんがため、食糧と冒険を求めて地方から地方へと移動し、フランス王の直領にすら斟酌を加えない
 いかにポトン・ド・サントライユとラ・イールがフランスの主要にして著名な指揮官であったにせよ、
しかも彼らはこれら略奪の徒、これら追い剥ぎの徒に属した」
 そればかりではなく、オルレアン公シャルルの庶出の弟でオルレアン防衛を指揮したデュノアでさえ、
野武士団の首領に過ぎなかった


そんだけ
447聖少女の愉快な仲間たち:03/07/26 18:30 ID:???
 旗を振り回す電波女を助けて活躍したことで知られているラ・イール(本名エチエンヌ・ド・ヴィニヨール)、
サントライユ、アンブロアーズド・ロレをはじめ、デュノア、アントアーヌ・ド・ジャバンヌ、フロケ、
ギー・ド・ブランシュフォール、アルノー・ギラン・ド・バルバザン、ゴーチェ・ド・ブリュザック、
フォルテピス(本名ジャック・ド・ブイイ)、レストラック卿、アルマニャック家の庶子、ノアイユ家の庶子、
ブルボン家の二人の庶子等が率いるアルマニャック党の「追い剥ぎ」たちは、それぞれあるいは前線にあって、
あるいはむしろ戦線を遠く離れて各地で横暴を極めまくった
 とりわけ王侯のような威容と財力を誇って「盗賊の王」の異名を持つカスティリア出身の
ロドリグ・ド・ヴィランドランドは、ほとんどフランス全土、中でもラングドックやブルゴーニュ、
オーヴェルニュ、アンジューを荒らし回り、彼が進軍してきたという噂だけで恐怖の種を撒き散らし、
この恐怖は彼を伝説化した
 例えば、リヨンの評議会は彼が接近しているとの報せに議論が沸き、ニームでは彼に対する恐怖から
特別の監視役が任命されていた
 また、ジャン・ド・ラ・ロシュはポアトー、リムーザン、ペリゴール、サントンジュの各地方、
更にブルゴーニュで活動している
 彼ら「追い剥ぎ」による被害は前世紀の同業者たちのそれに優るとも劣らない
 彼らは耕地を荒廃させ、農具を破壊し、農作物を奪い、住民を拷問し、婦女子を強姦し、更に都市や教会から
多額の身代金を強要し、至る所に恐怖を撒き散らした


そんだけ
448陵辱の大地:03/07/27 20:03 ID:???
 しかし、このような「追い剥ぎ」すなわち野武士団の暴虐が最悪を極めたのは、1435年にフランス
(=アルマニャック)とブルゴーニュの間で成立したアラスの休戦以後のことだった
 王国を割っていた両派の接近は人民を喜ばせたが、一方で、失職による事態の悪化を危惧する野武士団に
不安を巻き起こすことになった
 イングランドとの戦争が今後も続いたとしても、今までのような多数の兵力は必要とはならないだろうこと、
シャルル7世が伝統的な流儀に従って彼らを解雇するだろうことを彼ら自身は完全に理解していた
 こうして、フランス、ブルゴーニュ両軍から解雇されて野武士団化した兵士が続出し、「追い剥ぎ」の活動は
一段と激しさを増していく
 しかも、彼らを引き続き雇用するに足るだけの財政的余力に欠いていたシャルル7世は、人民の筆舌に絶する
苦難に対して、「彼ら(野武士団)も生きねばならぬ」と無責任な回答しか与えられなかった
 当然、野武士団の活動はフランス全土に及び、パリ周辺、ボーヴェジス、ピカルディー、ヴァロア、
シャンパーニュはアルマニャック党だけでなく、ブルゴーニュやイングランドの野武士団まで横行していた
 1443年12月、ソンム諸都市の総督ボードゥアン・ド・ノアエルは、メーニュレー及びサンス地方が、
「その近傍にあってこれらの地方での農耕を妨げているクレイユ、クレルモン、ムーイ、グルネーその他の要塞の
守備隊」のために、4年来何の収益も得られていないと嘆いている
 ロアールではブールジュの代官が野武士団によって殺害され、ノートルダム・ブールディユー僧院は周辺住民の
避難所となり、「幼児の泣き声と妊婦の出産の叫び声の中で」ミサを執り行わねばならなかった
 オーヴェルニュはロドリグ・ド・ヴィランドランドの草刈場となり、ラングドックはあろうことか自らの総督
ジャン・ド・グレーリによって荒らされていた
 中でもブルゴーニュは、ラ・イール、サントライユ、ヴィランドランド、アントアーヌ・ド・ジャバンヌ、
フロケ、ブルボン家の庶子ギー・ド・ブランジュフォール、ゴーチェ・ド・ブリュザックらの破壊的な訪問を
相次いで受け、更に彼らに迎合した在地貴族や、あるいは公領救援に派遣されたピカルディー兵の略奪を
甘受しなければならなかった


そんだけ
449平和はお前を解放しない:03/07/27 20:04 ID:???
 以上のように、百年戦争期の野武士団の活動が集中した時期は概ね二つに区分できる
 ブレティニーの休戦後のジャン2世からシャルル5世の治世の時期と、シャルル7世の治世、特に1435年
から1444年の時期である
 これら二つの期間のそれぞれの野武士団の軍事的性格にはほとんど差異は見られない
 彼らの広汎で長期にわたる活動の基礎は、戦闘集団としての個々の野武士団の統一性と団結にあり、
ドイツの盗賊騎士団と同様に、成員の間には通常の封建的主従関係は存在しない
 野武士団は国王や諸侯と軍事的な主従関係を結び、しかも解雇されればその主従関係もまた消滅する
 デュ・ゲクランがピレネーを越えてカスティリアに殴り込んだ際に率いていた軍勢の中には、
もともとイングランドに与していた野武士団もいた
 また、15世紀においても、ヴィランドランドはブルゴーニュ公、シャルル7世、その側近ラ・トレモイーユと
雇用主を転々とし、ジャン・ド・ラ・ロシュもペリゴール伯ジャン・ド・ブルターニュ、ラ・トレモイーユ等に
雇われている
 このように、各野武士団はそれぞれいわば一個の独立した勢力を形成していた


そんだけ
450介者たち:03/07/28 20:47 ID:???
 野武士団の活動の動機は報酬のみであり、戦争とそれに伴う略奪が彼らの稼業だった
 しかも講和や休戦は彼らを解散させることは出来ず、むしろ収入源を失った野武士団は略奪に走り、
故に彼らの破壊的な活動は戦時よりも平時において甚だしかった
 そして、傭兵としての報酬と略奪の戦利品は、時として野武士団に莫大な財産をもたらした
 主にブルゴーニュ党に属してラ・シャリテを中心に活動したペリネ・グレッサの財力は、ブルゴーニュ公自身が
彼に資金援助を頼るほどだった
 またヴィランドランドもその晩年には教会に多額の寄進をし、かつ膨大な遺産を子孫に遺している
 ただし、特殊な場合を除いて野武士団は相互の連絡もなくそれぞれ単独で行動し、しかも個々の野武士団の
兵力は必ずしも大きくはなかった
 数百名に達することは極めて稀で、通常は多くても100名、大抵の場合は100名に満たなかった
 1362年のブリニュー戦におけるアルノー・ド・セルヴォール麾下の兵力は騎兵200ランス、弩兵400名
を誇っていたが、これはむしろ例外だった
 オルレアン防衛のために兵員数が最も増加した1429年3月でさえ、オルレアンの庶子デュノア、
ポトン・ド・サントライユ、ギョーム・ド・サルネーの率いていた兵力はそれぞれ85名、61名、12名しか
いなかった
 ジャン・ド・ビュエイユが率いていた兵力は1428年の時点では42名に過ぎず、数年後には約600に
増加しているが、これも例外的である
 もっとも、野武士団の周辺には常に蹄跌職人、靴職人、屠殺人、桶職人、洗濯女、書記が付き従い、
野武士団と一緒に宿営しており、その周りには更に住民たちから巻き上げた品物を売買する古物商がいた


そんだけ
451武者揃:03/07/28 20:59 ID:???
 これら14世紀と15世紀のフランスで活動していた野武士団の出身地は種々雑多で、
 ブルターニュ、ガスコーニュといったフランス国内のみならず、イングランド、ウェールズ、ナヴァール、
アラゴン、ブラバント、ドイツ等の近隣諸国出身の野武士団は珍しくなかった
 出身階層についても事情は同じで、彼らの社会階層は決して単一ではなかった
 彼らの多くが騎士すなわち下級貴族の出身だったことは注目に値するが、従僕、職人、農民等の非貴族層の
出身者も必ずしも少なくなかった
 例えばジョン・ホークウッドは鞣革業者の息子、プチ・メシャンは騎士の従僕、ロバート・ノールズは織布工だった
 このように、出身地及び出身階層が雑多を極める彼らの社会的性格は、14、15世紀を通じて一貫しているが、
14世紀に比して15世紀には比較的多数のフランス人、しかもフランス貴族が野武士団に参加していたという
僅かではあるが簡単には見過ごせない相違点もあった
 14世紀の著名な野武士団の首領としては、セガン・ド・バードフォル(ペリゴール)、ベルチュカ・ダルブレ
(ガスコーニュ)、プチ・メシャン(ラングドック、一説にはサヴォイ)、アルノー・ド・セルヴォール
(オーヴェルニュ)等のフランス出身の他に多数の外国人の名を挙げることができる
 ウェールズからジャック・ウィン、スペインからガルシオ・ド・カストロ、ドイツからフランク・ヘネクィン
そしてイングランドから、ヒュー・オブ・カルヴァリー、ジェームズ・パイプ、ジョン・ホークウッド、
ロバート・マーコーント、ジョン・オブ・ハールストン
 このように、イングランド人を中心とする外国人が多数参加し、彼らの率いる野武士団がむしろ主流を占めた
ということは、14世紀の野武士団の多くがイングランド軍から解雇されたという事情に因るところが大きい
 勿論、15世紀の野武士団に外国人がほとんど参加していなかったというわけではなく、15世紀においても
カスティリアのヴィランドランドのような外国人が外国からフランスに相当数流入していた
 しかし、シャルル7世の治世の頃には、没落貴族、中小貴族の非嫡子、あるいはオルレアン家、ブルボン家
といった大諸侯の庶子等、フランス貴族層から多数の野武士団が生まれることになる


そんだけ
452傭ヲ賃シテ之ヲ戦ワシムル:03/07/29 18:24 ID:???
 前述のように野武士団には様々な社会階層の出身者によって構成されていた
 中世末期の社会変動、特に百年戦争による混乱が、市民や農民の一部を野武士団に参加させたことは間違いない
 15世紀にはタバリと呼ばれる農民が主に農民で構成された兵団を率いて数年にわたってリヨンの森に
立て籠もり、イングランド、フランス、ブルゴーニュの別なくあらゆる軍隊に攻撃を加えたと言われている
 しかし注目すべきは、このように雑多な社会階層のうち、多くの貴族が野武士団の中核を形成していたこと、
特にシャルル7世の時代に盛んに活動した「追い剥ぎ」では、フランス貴族階層が構成員の大半を占めていた
ことにあった
 直属家臣団の召集を中核とする封建軍制は、必然的に深刻な時間的空間的制約と兵力の限界を伴う
 このような制約下で比較的大規模な軍勢の動員を妨げられた国王や諸侯は、制約を克服すべく帝国騎士や
ジェノヴァ弩兵に代表される外国人傭兵の雇用を試みた
 しかし、これらのエリート兵としての外国人傭兵は、その高い軍事能力に劣らぬ高額な報酬を要求したため、
量的制約を克服するには至らなかった
 封建軍制の有する諸制約、差し当たって特に時間的制約を克服する基本的な手法は、封建軍を構成する
個々の貴族への給与の支給だった
 本来封臣の軍役奉仕期間の延長を求めるための給与支給は、同時に封建軍の行動半径の拡大を伴い、
併せて従来軍役義務を怠りがちだった貴族の従軍を促すことによって兵力の増強をも期待できる筈だった
 換言すれば、金銭による給与支給は、封建制の枠内で固有の諸制約を克服しつつ封建軍の軍事力を強化しようと
する試みだった
 フランスでも十字軍を契機として既に12世紀に出現したこのような給与支給は、その後13世紀末までに
普及し規則化し、1274年の勅令では、指揮官級の高級騎士、平騎士、騎士見習の日給はそれぞれ20スー、
10スー、6〜7スー、弩兵は15デニエ(4デニエで1スー)、一般の歩兵は1スーと定められていた


そんだけ
453田分け者:03/07/29 18:26 ID:???
 ただし、このような貴族の軍役奉仕に対する給与の支給が、封建軍の傭兵化あるいは封建軍制の解体の
直接の原因になった訳ではなかった
 本来、給与は軍役奉仕期間の延長に対応したものであり、実質的には「封土」の特殊な一形態と解釈される
限り、それは単に封建軍制を補強するものに過ぎない
 しかし、給与が延長された軍役奉仕期間に対する報酬という本来の性格を超えて軍役奉仕全般に対する
報酬としての意味を持つに至れば、話は違ってくる

 一般に、百年戦争はフランス貴族層の消耗と没落を促し、王権による権力の集中を準備したと言われている
 しかし実際には、フランス貴族の疲弊とそれに伴う領主権力の解体は既に12、13世紀には著しい進展を
遂げていた
 十字軍以降、農奴の解放が徐々に進行し、領主の直営地が永代農民保有地に分割され、更に農民の負担は
軽減していく
 この過程は、広範に行われた開墾が多数の自作農を生み出すことによって更に促進される
 一定の諸負担を代償に保有地の自由処分権が農民に譲渡され、逆に多くの領主は一定の限られた地代の
取得者に過ぎなくなった
 13世紀末には定期小作農が出現し、これに伴い農業賃労働さえその萌芽を見せはじめる
 当然、領主である貴族階層の経済的基礎は危機に瀕した
 事態は中小領主にとって一層深刻で、封土の細分化の傾向がその疲弊を更に推進した
 相続権の平等が一般に認められていたフランス南部の成文法地域は言うまでもなく、長子相続法が確立していた
北部の慣習法地域でも、事実上封土は子弟たちの間で分割され、時には娘の婚姻の持参金がわりにされていた
 既に領主の収入源としての価値を徐々に減少しつつあった封土のこのような細分化は、
個々の貴族の経済的没落を決定づけた


そんだけ
454賞ヲ干メ利ヲ蹈ム兵:03/07/29 18:52 ID:???
 このように疲弊し弱体化した貴族階層によって構成されるべき封建軍が極めて維持困難だったことは
言うまでもなかった
 本来、封建軍は個々の貴族の自主独立的な軍事力を基盤としている
 前述の給与支給も、貴族の自主的な軍事力の維持を前提としてのみ、それを補うものとしての補助的性格を
持ち得た
 しかし、貴族の経済的な没落は、貴族の軍事力の経済的基盤を崩壊させ、同時に収入源としての価値の低下した封土は、封建的主従関係を媒介する意義すら下落させた
 そして、貴族の自主的な軍事力の崩壊は彼らの軍役奉仕を基礎とする封建的主従関係を弛緩させる
 こうなると、金銭給与が本来の補助費的なものから、あらゆる軍役奉仕を対象とする一般的なものへと
その性質を変換せざるをえなくなってくる
 給与支給は本来の封建軍制を補強するに留まらず、その構成員に傭兵的な性格を付与することによって
封建軍制そのものの変容すら引き起こした
 封建軍制において軍役義務を負う貴族すなわち封臣はもはやその義務の履行を必ずしも全うしなくなっていた
 軍役免除税は史料上でも既に11世紀には存在していたが、特に12世紀以降、著しく増加していく
 1274年には軍役忌避に対する罰金が規定され、1316年には軍役免除税の金額が公布されており、
これらの事実は貴族階層の少なからぬ部分が既に封臣軍召集から脱落していたことを物語っている
 軍役免除税の納付と軍役奉仕に対する金銭による給与支給は表裏一体で、軍の維持を欲して給与支給の財源を
求める国王や諸侯は、むしろ軍役忌避者の免除税納付を奨励した
 ここに封建軍の傭兵化への変容の起点が存在している
 この時点で、貴族はもはや必ずしも軍役奉仕の直接の担い手ではなく、貴族はもはや戦士の同義語ではない
 貴族は、単に一定の給与を支給されて従軍する兵士たちの供給源としての機能しか要求されなくなった


そんだけ
455戦争職人:03/07/29 18:55 ID:???
 中世フランスの基本的な戦術単位は「旗団banniere」と呼ばれており、兵員数は一定していないが、
複数の装甲槍騎兵を中核として軽騎兵や弩兵、槍兵等で構成された最小の諸兵科連合チームで、
中核となる装甲槍騎兵の数は5〜6名以上、14世紀以降には15〜30名以上に増加している
 そして、封臣団の無償軍役奉仕という本来の性格を失い傭兵化しつつあった封建軍は、当然その編組や
指揮系統に重大な変質を余儀なくされた
 旗団の指揮官である高級騎士chevalier banneretは、もはや必ずしも上級貴族である必要はなくなった
 貴族たちは政治的社会的紐帯の有無にかかわらず、自らの代理人として声望と軍事能力に優れた高級騎士を求め、
そのような高級騎士は兵員募集人としての性格を帯びるようになる
 封建的主従関係ではなく給与支給によって統率されるようになった旗団において、高級騎士が隷下の兵士に
対して極めて強力な指揮権を発揮できたのは当然で、こうして野武士団の首領の無制約な指揮権に
非常に類似した指揮権が封建軍内で成立することになる
 14、15世紀フランスの野武士団はこのような軍制上の変容から発生した
 野武士団の発生要因は封建軍制そのものの中に準備されていたのだった
 百年戦争勃発後、「旗団」はその組織的性格の劇的な変化に伴い、その名称も「兵団compagnie」へと
変化している
 百年戦争、1347年以降の黒死病、ジャックリーの一揆は、既に進行していたフランスの封建制の危機を
更に促進させた
 戦争と疫病による耕地の荒廃は農民を貧窮化させ、必然的に封建領主の窮乏を加速させた
 しかも、イングランドとの戦争で捕虜になった貴族は更に深刻で、巨額の身代金は彼らの経済的没落を決定づけ、
彼らを支配階級から転落させた
 15世紀の例になるが、ケルシーのレーモン・ベルナール・ド・ゴールジャックはイングランド軍によって
その居城を占領され、自身は僅か1年の間に捕虜になること5度にわたり、その身代金のために全資産を売却して
破産している


そんだけ
456上から下から:03/07/29 18:56 ID:???
 このような危機の深刻化は、諸侯や大貴族の間で、非嫡子の権力からの排除による嫡子への権力集中を促した
 当然、ヴァロア王家も例外ではなかった
 1374年10月の勅令で、シャルル5世は次男ルイへの采邑地の授与、すなわち王領地の分割を認めず、
1万2000リーヴルの地代年収と4万フランの一時金を与えること、長女及び次女にはそれぞれ10万フラン、
6万フランの一時金で満足すべきことを定めている
 このような王室や公伯諸侯による権力集中は、一方で王権や諸侯権力による中小領主への侵害を伴っていた
 シャルル5世が、ボージュー卿の所領のボージョレーや、ジャン・ダルマニャックの所領のシャロレー伯領で
間接税の徴収に成功したように、国王や諸侯の徴税吏はその権限を領主たちの所領に浸透させていく
 多くの領主は慣例的に自己の領内で徴収される税の3分の1乃至3分の2を取得する権利を認められていたが、
そんなものは何の役にも立たなかった
 こうして貴族階層の大半は軍事力の経済的基盤を喪失していった
 彼らは既に各自の城塞を維持する能力すら喪ってしまった
 要塞の修理と防衛のためにアランソン伯は1000フラン、ヴァンドーム伯夫人は600フランを
シャルル5世から支給してもらわねばならなかった
 また、ラ・マルシュ伯は自領防衛のために40ランスの兵力の支援をシャルル5世に仰いでいる
 その結果、シャルル5世はこのような要塞に対する監督権を強化していく
 折しも、イングランド軍の長弓戦術で何度も地獄を見たフランス軍は、ポワチエ戦後、戦略方針を転換して
イングランド軍との野戦を回避し、攻城戦と局地戦を重視しつつあり、王権の要塞への介入を更に加速させた
 1367年7月、シャルル5世は勅令を発し、全国の要塞の調査、要塞の防護力の強化、防備の手薄な要塞及び
その周辺地域の王領地への併合、防衛困難な要塞の即時撤去を命じている
 もはやフランス貴族の自主的な軍事力の整備は死文に等しかった
 既に百年戦争が始まる前から変容しつつあったフランスの封建軍制は、戦争とともに急速に解体していく


そんだけ
457べからず:03/07/29 18:57 ID:???
 フィリップ6世以降、ジャン2世、シャルル5世等、歴代のフランス国王が対イングランド戦で用いた
戦力の中核は、一部の外国人エリート傭兵を除けば、給与の支給に頼る傭兵化した封臣軍だった
 シャルル5世の時代においてもなお純粋に伝統的な封建軍は部分的に存在し続けたが、
それは主にドーフィネのような辺境地方に限られていた
 むしろフランス王室は、既存の情勢を把握し利用しつつ、可能な限りの軍事力を整備し維持すべく努力を注いだ
 召集を期待できる貴族の調査が全国規模で実施され、兵科に基づく給与体系が確立した
 シャルル5世は兵士の日給を倍増させ、高級騎士で40スー、平騎士で20スー、騎士見習で10スー、
弩兵で5〜10スーに定めている
 更に幾度も発せられた勅令において、彼らの装備と乗馬の査閲が月2回予告無しに行われることが命じられた
 このような入念な施策、特に同一内容の勅令が幾度も発せられたことは、当時の軍隊が勅命を遵守せず、
ややもすれば国王の統率から逸脱する傾向にあったこと、戦術単位としての各兵団が恣意的な行動に
走りやすかったこと、また、兵員数や装備に関する虚偽の申告が頻繁に行われていたこと等を物語っている
 1374年にシャルル5世が発した勅令では、各兵団長が兵員数をごまかし、部下に給与を支払わず、
かつ軍の規律が無視されていることが記されている
 そして、将軍は4名の副官をそれぞれ査閲のために任命することを指示し、続いて「充分に武装して
自ら出席する立派な戦士以外は」査閲を受ける資格がないこと、これらの兵士に対して「都市や要塞において
正当な価格を支払わずには如何なる物品も手にせず、誠実かつ潔白に身を処すること」を宣誓させるべきこと、
正当な理由無しにいかなる休暇も許されるべきでないこと、軍隊に随伴する者は「軍に役立つ職人、商人」で
なければ立退きを強制されるべきこと、兵は100名の兵団に編制され、各々に兵団長が任命されるべきこと、
兵団長の任命権は国王あるいはその代理人のみに帰されるべきこと、100名の兵を率いる者は月100フランを
受領し、部下が犯す無秩序の責任を負うべきこと等が規定されていた


そんだけ
458悲惨の城:03/07/29 18:58 ID:???
 このような勅令によって軍規を保たねばならなかったということは、その軍隊が実質的に野武士団の集合体と
紙一重だったことを物語っている
 兵団長と野武士団の首領は本質的に相違点がほとんどないと考えてまず間違いない
 封建軍の変質は極限に達し、もはや伝統的な封建軍は存在せず、もう野武士団への変容はあと一歩だった
 ただし、14世紀においてはこの変化はまだ一般的ではなく、この時期に従軍したフランス貴族は
一般に従軍直前に軍役奉仕の契約を結び、作戦が終了すれば、一部は野武士団として略奪を続けてはいたが、
大部分は解散してそれぞれ自領に帰還していた
 14世紀の野武士団においてはフランス出身者の比率は15世紀と比較すれば低い
 14世紀において既に極めて深刻化していた封建危機も、まだフランス貴族の社会的経済的基盤が、
野武士団に転職しなければならなかった程には破壊されてはいなかった
 封建危機が洒落にならなくなるのは15世紀のシャルル7世の治世においてだった
 戦禍で荒廃したノルマンディーは言うに及ばず、フランス貴族の没落は全フランスに及んだ
 ガスコーニュでも貴族の没落が著しく、プレーニャンの領主ベルトランは債務決済の能力を欠いて破門され、
プロヴァンスでは多数の乞食貴族が輩出した
 一方で権力の強化と集中を推し進めていた大貴族では、ブルボン、オルレアン、アルマニャック等の諸侯の
ように、非嫡子がそのツケを払わされた
 従軍した貴族階層の脱落者たちは、軍事行動が終了して給与の支払いが停止した後も兵団を解散することなく、
野武士団として略奪行為に走った
 これは、彼らの多くが帰還すべき所領を持たず、あるいは自らの貴族としての地位を保障する収入源としての
領地を欠いていたからに他ならない
 彼らにとって貴族という身分は単なる名目にしか過ぎず、実質的に彼らは貴族ではない
 既に極度に弛緩した貴族間の封建的紐帯は問題とならず、彼らは純粋に戦争技術者であり、傭兵であり、
もはや封建軍を構成していた封臣とは全く別の種類の人間だった


そんだけ
459苦悩の王:03/07/29 18:58 ID:???
 15世紀のフランスにおいて封建軍制は完全に崩壊し、既に変質しつつあった封建軍は多数の野武士団に
解体した
 そして、これら野武士団こそシャルル7世の治世において存在したほとんど唯一の軍事力だった
 権力の集中を企図していた王権が、軍事力集中の直接の対象としたのは、これら野武士団以外にはなかった
 1365年12月、デュ・ゲクラン率いる野武士団の大軍が入国した際、アラゴン王は彼らの略奪や破壊を
恐れつつ、野武士団以外に頼みとする軍事力が存在しないが故に、彼らの来援に狂喜しなければならなかった
 フランス国王もまた、野武士団のビジネスライクな性格と破壊活動を甘受し、唯一有効な軍事力として
利用すべく、心を砕かねばならなかった
 ジャン・ド・ラ・ロシュは1431年4月に赦免状を与えられ、更にポアトーの代官に任命されている
 また、ヴィランドランドは1432年に「フランス国王顧問侍従」の称号を与えられ、
かつジャン・ド・ブルボンの娘との婚姻を許されて王家の親族に列している
 このように、野武士団の首領たちに対して多くの赦免状を発行してその罪を許し、更に高位の官職への
就任を認可してその歓心を買ったのは、このような国王の配慮に基づくものであった
 しかしながら、対イングランド戦に最後の勝利を握らんとしていたシャルル7世にとって、野武士団の略奪や
反抗のような恣意的な無政府的活動を放置することはできなかった
 粛清を断行し、彼ら野武士団を強力な王権の統制に服させることは緊急にして不可欠な課題となった
 もっとも、こうして緒についたばかりの軍事力集中の道は決して平坦ではなく、
目の前に横たわる障害の克服は容易ではなかった


そんだけ
460野盗の尊厳:03/07/29 18:59 ID:???
 個々の野武士団は一個の独立した勢力であり、王権その他のいかなる権力に対してもほとんど拘束されない
戦闘集団だった
 自ら野武士団を指揮してシャルル7世の下で戦ったジャン・ド・ビュエイユが、晩年に著した歴史物語
「ル・ジュヴァンセル」は、野武士団の貧乏ながら大胆な貴族たちの物語だが、その中で
「生まれながらの貴族でない者も、それ自体高貴な軍務の訓練によって貴族である
その素性の如何を問わず武器は人物を高める」と登場人物の一人に言わせている
 このような自負と自信、武器を手にする生活への絶対的な信頼は、彼らが構成する野武士団の自主独立性に
由来している
 この物語の中で、野武士団に身を投じた貴族たちは、直接従軍しない国王側近の貴族に対して軽蔑を隠さない
 国王の許への出仕を希望するある青年は、野武士団の先輩は次のように語っている
 「お前は馬鹿げた真似をしたいのか
 御殿でとりとめもないお喋りをしたり、お上品なシャッポ、でかい頭巾、流行の帽子を被ったお上品な連中と
お付き合いするより、我々の仕事のほうがはるかに立派だ」
 このような野武士団の王政ではあるが奇妙な自尊心にも関わらず、一方で権力への接近を求める傾向が
多少なりとも存在していたことは否定できない
 また、フランス土着の貴族にとって、王室との直接間接の封建的紐帯が彼らの独立性をある程度制限していた
こともまず間違いない
 しかし、この時期の極度に弛緩した封建的紐帯が、彼らの無拘束で恣意的な活動を完全に制御する能力を
喪失していたこともまた事実だった


そんだけ
461無賃:03/07/29 19:04 ID:???
 野武士団は、必ずしも直接に国王に雇用されていた訳ではなく、むしろ彼らは諸侯や有力貴族に、しかも前述の
ヴィランドランドやジャン・ド・ラ・ロシュのように、転々と雇用主を変えて雇用されるほうが多かった
 このような場合、当の諸侯や有力貴族が国王と敵対関係にあれば言うまでもなく、例え国王と友好関係に
あったとしても、彼らが雇用する野武士団と国王の間の軍事統帥権は間接的なものに過ぎなかった
 1424年にブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンとシャルル7世との間で、両派の野武士団が占領する
全要塞の国王への明渡しを定めた休戦条約が結ばれた際、ブルゴーニュ党に属していたペリネ・グレッサールは、
国王とブルゴーニュ公の説得にもかかわらず、自らの預かるラ・シャリテ城の明渡しを頑強に拒否し、
更にブルゴーニュ公に使したラ・トレモイーユをその途上で捕らえて1万4000リーヴルの身代金を課した
 その後1436年に彼はようやくシャルル7世と和解したが、その代償として国王は彼をラ・シャリテの
守備隊長に任命し、毎月400リーヴルの給与を与えねばならなかった
 多くの野武士団に対して本来このような間接的な主従関係しか持ち得なかった国王による野武士団の直接的な
掌握、即ち王権の絶対的な軍事統帥権の確立による軍事力の集中への試みは、当然、野武士団を雇用することで
直接的な軍事統帥権を握る個々の諸侯や有力貴族の抵抗を覚悟しなければならなかった
 しかし、軍事力集中を目指す王権にとって最大の障害は、野武士団の独立性や諸侯の抵抗よりも王室の財政難にあった
 財政逼迫故に少数の野武士団しか雇えず、しかも彼らへの給与は不十分で、時には金庫の中身が完全に枯渇して
給与の支払いが停止され、いずれにせよ野武士団の略奪を黙認せざるを得ないような状態では、
全野武士団の活動を王権の拘束下に置くことなど不可能だった
 ある「追い剥ぎ」に与えられたシャルル7世の赦免状によれば、その者は「若いときから我が軍に属して従軍し、
宿年の敵イングランド軍及びその他の敵と戦い、しかもその従軍期間中、給与も報酬も精々ほんの僅かしか
支給されず、この理由のために敵味方の区別無く犠牲にして略奪に走ることを余儀なくされた」のだった


そんだけ
462grande ordonnance:03/07/29 19:06 ID:???
 1439年11月2日、シャルル7世は、オルレアンに会する三部会の承認を得て「大勅令」を公布した
 国王のみが軍隊を召集し兵団長を任命する権限を持つこと、貴族はただ各自の要塞の守備隊を保有する権利のみ
許されること、兵の大部分は解雇され、有能な者のみ軍役に留まること、各兵団長はそれぞれの兵団について
定められた兵員数を正確に維持し部下に対して責任を負うべきこと、国王の雇用から漏れた兵団及び略奪を行った
兵は草の根分けても追い詰めること、そのためには平民が彼らの略奪と襲撃を武力で撃退する権限を許されること、
以上を貫徹するために不可欠な財政的措置として、徴税の権限もまた国王の独占に帰するべきこと、すなわち
領主は各自の領民に対し慣習的な負担以上を課することを禁じること
 以上が「大勅令」の骨子だったが、その発布が直ちに効果を上げた訳ではなかった
 直ちに施行されたのは、国王に属する各兵団が配置されるべき要塞の決定と、その一月分の給与に該当する資金の調達だけだった
 ジュヴネル・デ・ジュルシンが言っているように、「多くの勅令が作られるが、それは文書が公布されるだけ
 全く馬鹿げたこと、嗤うべきこと、王にとって不名誉なこと」だった
 しかも、その内容自体も決して目新しいものではなかった
 一般に王権による軍事力独占の試みは、1314年及び1320年に貴族による軍隊動員権の要求を受けて
必ずしも達成されなかったが、既に14世紀初頭に行われていた
 特に、1374年のシャルル5世の勅令は、軍隊の厳正な軍規の維持を求める点で類似の内容で、
シャルル7世の大勅令はむしろシャルル5世の時期の軍制の再現を当面の目標としていたと考えられている
 ただし、大勅令の要旨である、封建貴族からの軍事権の収奪による国王の独占的な軍事統帥権の確立、
兵団すなわち野武士団の粛清と軍紀の粛正、その物質的基盤としての徴税権の独占は、軍事力の集中独占の
全過程そのものを示している
 換言すれば、この勅令はフランス王権による軍事力の集中の全プログラムの集約的表現だった
 例え直接的には野武士団の耐え難い横暴と対イングランド戦争遂行の必要性から生じたものであるにせよ、
シャルル7世の軍制改革はこのプログラムの忠実な履行によってのみ達成されるのである


そんだけ
463:03/07/29 19:07 ID:???
 勿論、シャルル7世の軍制改革の道程は容易ではなかった
 軍事権の収奪とそれに並行する徴税権の剥奪の危機に怯える諸侯や有力貴族と一部の野武士団の激しい抵抗が
起こるべくして起こった
 シャルル7世に対する諸侯たちの反抗は、既に1435年のアラスの休戦の直後に芽生えていた
 政治的野心から王権を利用するために、または必要に駆られて年金その他の贈与を国王から獲得するために
宮廷に接近しようとする諸侯たちと、国王の側近で排他的優越的地位にあったメーヌ伯シャルル・ダンジューや
リッシュモンとの軋轢がその直接の動機だった
 しかし、1437年4月、ブルボン公シャルル1世、アランソン公ジャン2世、ブルターニュ公ジャン5世、
アンジュー伯ルネ、アルマニャック伯ジャン4世ら不平貴族が企てた反乱は、国王軍の迅速な行動によって
あっけなく失敗している
 更に1439年の大勅令はこれら諸侯の神経を逆撫でし、しかもこの軍制改革案によって存在を脅かされた
「追い剥ぎ」も反国王陣営に加わることになる
 先の不平貴族たちに加えてヴァンドーム伯、ラ・トレモイーユ、デュノアが参加し、ジャン・ド・ラ・ロシュ、
アントアーヌ・ド・ジャバンヌ、ブルボンの庶子アレクサンドルらの率いる野武士団が加わり、
その上更に彼らは太子ルイを擁立した
 いわゆるプラグリーの乱である
 1440年2月に始まったこの戦争は終結に数ヶ月を要したが、国王とリッシュモンの軍隊は反乱軍の
拠点ポアトーを制圧し、更にオーヴェルニュを席巻した
 結局、国王はルイにドーフィネの領有を許し、ブルボン公に1万5000リーヴルの年金を約するなど
不平貴族に対して慰撫に努めなければならなかったが、ともかく王権に対する反抗は失敗に終わった


そんだけ
464黄金で埋め尽くす:03/07/30 23:12 ID:???
 プラグリーの乱以降も諸侯の反抗は根絶されたわけではなかった
 1442年2月に、今度はブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンとオルレアン公シャルルの主導のもと、
ブルターニュ公、ブルボン公、アランソン公、ヴァンドーム伯、ユー伯、ヌヴェール伯らほとんどの諸侯が
ヌヴェールに会して国王に対して要求を突きつけている
 しかし少なくとも者シャルル7世の治世において貴族たちの集団的反抗はこれが最後となった
 この時点で、シャルル7世の軍制改革に対する障害の一角は崩壊した
 もっとも、これには買収、年金の付与、徴税権の部分的許容等、国王にとって少なからぬ経済的負担を要求した
 アランソン公とデュノアは買収されて不平貴族の列に盃を返した
 ヴァンドーム伯、ラ・マルシュ伯、ユー伯、フォア伯は6000リーヴル、ヌヴェール伯は8000リーヴル、
アングレーム伯は1万1000リーヴル、アランソン公は1万2000リーヴル、オルレアン公は
1万8000リーヴルの年金を得た
 また、オルレアン公は16万8900エキューの間接税徴収権を獲得した
 しかし、不平貴族に対する徹底的な懐柔によってこの最後の反抗が慰撫されて後は、貴族はもはや激しい抵抗を
ほとんど示さなくなった
 それでも抵抗の姿勢を見せた貴族は皆無ではなかったが、今度は国王も容赦しなかった
 シャルル7世の治世末期に若干の抵抗を見せたアランソン公は1456年に、アルマニャック伯は1460年に、
それぞれ所領を没収されることになる


そんだけ
 諸侯に対する王権の強化と並行して、他方では野武士団の粛清と掌握が進行していた
 1441年、シャンパーニュに軍を進めたシャルル7世は、ブルボンの庶子アレクサンドルをはじめ野武士団の
首領十余名を処刑し、更にヴォークルールでも野武士団の首領ロベール・ド・サルブリュックを処刑した
 しかし、真に処罰に値する野武士団の多くは国王の追求を逃れて依然として各地を横行しており、この粛清行は
極めて部分的な成果しかあがらず、しかも1444年5月のツールの休戦は、更に新手の野武士団を野に放った
 やはり、かつてデュ・ゲクランが行ったやり方、すなわち野武士団を国外の戦争に連れ出す以外に有効な手はなかった
 チューリッヒの裏切りに激怒するスイス誓約同盟諸都市とチューリッヒを支援する皇帝フリードリヒ3世との
抗争、アンジュー公ルネとメッツとの債務を巡る紛争が絶好の機会を提供し、シャルル7世は、「秩序と軍紀が
殆どまたは全く保たれない兵士たちを集め、自らメッツとロレーヌに向かおうと決心した」
 野武士団は当時のフランスに存在するほとんど唯一の軍事力であり、従って彼が企図する軍事力集中の唯一の
対象でもあったから、国王は野武士団を国外で消耗させようと考えていたわけではなかった
 国王は、皇帝や諸侯の軍資金負担を利用して暫時野武士団を国外に誘導し、その活動によってロレーヌ諸都市の
制圧という年来の野望を達成するとともに、軍制改革の準備のための時間を捻出しようとしたのだった
 1444年7月、ラングルに集結した野武士団の大軍約4万は、太子ルイに率いられてスイスに入り、
8月26日、ザンクト・ヤーコプでスイス誓約同盟軍1500と衝突した
 この戦闘は後にヨーロッパ中で恐怖と憎悪で語られることになるスイス槍兵密集陣のデビュー戦となったが、
ともかくこの戦闘でスイス軍を皆殺しにしたフランス軍は、10月に誓約同盟と和解した後にアルザスに転進し、
翌年4月までアルザスに留まって暴虐の限りを尽くした
 一方、国王が直率する軍勢も1444年9月にロレーヌに侵入し、翌年2月の和約までメッツ周辺を略奪し、
2月以降もなお数ヶ月にわたってこの地方の諸都市を攻撃した


そんだけ
466compagnies d'ordonnance:03/07/30 23:30 ID:???
 この間にナンシーに滞在していたシャルル7世は、1445年初頭以降、元帥リッシュモンをはじめ、
アンジュー公、クレルモン伯、フォア伯、タンカルヴィル伯、デュノアらの協力を得て、軍制改革の準備を始めた
 速やかに野武士団の粛清を行い、同時にこの休戦期間中に国王直属の常備軍を編成することが計画された
 既に内密に国王軍への雇用を保障されていた主要な野武士団の首領たちは、予想される他の野武士団の反抗に
率先して対抗することを約束していた
 4月にはリッシュモンは自らロレーヌに赴いて信頼できる野武士団に国王への忠誠を誓わせ、
またアルザスから帰還した軍勢にも同じく忠誠を宣誓させている
 この根回しはものの見事に成功し、計画は期待を裏切って支障なく運んだ
 国王の常備軍への雇用に漏れた野武士団には、過去の悪行の特赦令が発布され、同時に武装解除と兵団の解散が
命じられたが、彼らにはもはやこれに抵抗して武力蜂起を試みるだけの力も意志もなかった
 残る課題は雇用を約束された野武士団の国軍への編入で、その詳細は1445年5月26日の勅令で規定された
 フランス陸軍は15個の兵団からなり、各兵団はそれぞれ100個ランスで構成するよう定められた
 ランスの定数は一定ではないが、この時期の一般的な構成は装甲槍騎兵1名、剣または槍兵1名、弩兵2名、
従僕1名、小姓1名の計6名で、少なくともフランス軍の法規上の総兵力は9000に達した
 しかし実際には、各兵団隷下のランスの定数及びランス内の兵員数は必ずしも規定量には達していなかった
 このため、兵団数を当初の15個から20個に増加することによって兵力の不足を補い、更に1446年に
この規定をラングドックにも拡張適用して新たに5個兵団を追加し、総兵力は1万程度にまで増強されている
 軍はランスを単位として要塞や都市に分散配備され、それぞれの地方の住民が負担する租税によって維持され、
通常、1個ランスにつき毎月30リーヴルの給与を支給された
 各兵団長の任命権は国王が独占し、王の官吏は給与の支給に先立って各兵団の兵員数を検閲し、駐屯地を巡って軍紀違反を罰した


そんだけ
467francs-archers:03/08/01 00:10 ID:???
 こうして成立した新しい軍隊「勅令騎兵団」は、直接的には対イングランド戦に備えて創設されたものであり、
戦後も永続的に維持されるかどうかは怪しいものだったが、間違いなくフランス最初の常備軍だった
 かつての軍事統帥権の拡散に終止符を打ち、軍事力の集中はようやくその最初の成果を得た
 ただし、シャルル7世の軍制改革は勅令騎兵団の創設のみを指している訳ではなかった
 1448年4月28日の勅令で組織された「自由弓兵」は一種の民兵制度であり、弓または弩の操作に熟練した
壮丁を各小教区から1名乃至数名の割合で集め、戦時召集に備えて祝祭日に訓練を強制した
 その代償として、自由弓兵は戸別税を免除され、召集中は月4フランの給与を支給された
 装備は各人の自弁だったが、1451年以降は貧しい兵に対しては各小教区が費用を負担するようになった
 しかしこの制度は、フランドルやアルトアを含むブルゴーニュ公領、更にブルターニュ、ラングドック等を
その適用範囲から除外し、しかも徴兵官の恣意と不正もあって、シャルル7世の治世にはその総兵力は
8000を超えることはなかった
 その上、こうして編成された自由弓兵は実戦では余り役に立たなかったと言われている
 例えば、サンリス出身のある弓兵は、自身が軍役に適さないにもかかわらず、専ら戸別税の免除を目的とした
強欲な老人だった
 ルイ11世は自由弓兵の徴募率を50戸につき1名に引き上げて総兵力を1万6000に増員させたが、
その治世の末期にはこれを疎んじて一時この制度を廃止している
 結局この制度は約1世紀間にわたって細々と維持されたが、1535年12月24日の布告によって最終的に
廃止され、類似の民兵制度「レジョン」が後を継いでいる


そんだけ
468compagnies de petite paye:03/08/01 00:13 ID:???
 更にシャルル7世の治世中には、「薄給騎兵団」と呼ぶしかない特殊な軍隊が存在していた
 勅令騎兵団の総兵力は1万を上回り、うち戦闘員は7000程度に達していたが、やはり兵力不足は
否めなかった
 このため、1449年に対イングランド休戦期間が満了した直後に徴募されたのがこの薄給騎兵団である
 これは勅令騎兵団への編入に漏れていた貴族や非貴族階層で構成された軍勢で、その名称のちょっといやな
イメージに反して編制や運用は勅令騎兵団と変わらなかった
 その地位も勅令騎兵団の補助部隊ではなく、実質的に勅令騎兵団と相互連携しつつ行動する独立した野戦軍で
あったが、その名の示すように給与の額は幾分低かった
 ただし、薄給騎兵団は勅令騎兵団に比して非貴族階層の比率が高く、この点で過去のシャルル5世の時代の
典型的な傭兵的封建軍に近かった
 勅令騎兵団では、中核兵科である騎兵のみならず、本来平民の兵科と目されていた弩兵や槍兵にも
貴族階層出身の兵が数多く見られ、過去の純然たる封建軍よりも貴族的な軍隊だった
 これは、勅令騎兵団の母胎となった野武士団にフランス貴族が多く存在していたことが原因だったと思われる
 また、勅令騎兵団への入隊を機に貴族の身分を許された非貴族階層出身者も珍しくなかった
 少なくとも、非貴族階層の入隊を制限して勅令騎兵団を貴族階層で独占することを意図するような
史料は存在していない


そんだけ
469ぼるじょあ ◆ySd1dMH5Gk :03/08/02 04:26 ID:???
     ∧_∧  ∧_∧
ピュ.ー (  ・3・) (  ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
  = ◎――――――◎                      山崎渉&ぼるじょあ
470徒花:03/08/02 10:37 ID:???
 シャルル7世は、野武士団化した貴族を再編成し、野武士団固有の傭兵的性格を払拭することによって
比較的安定した常備軍である勅令騎兵団を創設した
 14世紀後半に登場した歩兵の携行火器である手銃は15世紀中頃にはアルケブスと発展し、
15世紀末にはヨーロッパ中に急速に普及し、16世紀中頃には槍兵と連携させる知識と実績が蓄積され、
野戦戦術に大きな変化を促すことになる
 一方で中世伝統の騎兵突撃に頼る旧態然とした戦術と、騎兵中心のランスという昔ながらの古い戦闘単位で
編成された勅令騎兵団はしかし、なおも戦場で自らの戦術的有効性を証明し続けた
 1543年、フランス軍が銃と槍で改編された時でさえ、勅令騎兵団は野戦軍の主要な一角を占め続けていた
 勅令騎兵団は騎槍をホイールロックピストルとサーベルに持ち替えて、ヨーロッパで装甲槍騎兵の戦術的価値が
消滅した16世紀末以降も存在し続け、最終的に17世紀中頃まで生き延びる
 しかし、シャルル7世の軍制改革の主眼としていた、選抜された常備野戦軍としての勅令騎兵団が成功したとは
言い難かった
 軍事力整備の重点は、常備軍ではなくフランス内外から徴募された純粋な傭兵へと移行しつつあった
 16世紀以降、フランス国王の軍隊は、スイス槍兵、ランツクネヒト、イタリア軽騎兵等の外国人傭兵の比率が
著しく上昇する
 軍事能力に定評のあるこれらの外国人傭兵こそが、職業的な兵士を中核とする絶対主義の軍隊の主力を占める
かけがえのない存在だった
 シャルル7世の常備軍構想は、絶対主義への傾斜を辿るヨーロッパ王権の軍事力集中の最初の成果でありながら、
皮肉にも絶対主義の成立と前後してその軍事制度から排除される過渡的な運命を担うことになる


そんだけ
471山岳傭兵:03/08/02 10:40 ID:???
 ルイ14世の側近とスイス大使の掛け合いで、パリからジュネーブまで道路を黄金で舗装したり河を真っ赤に
したりと何かと大変なフランスとスイスだが、1474年以降、スイスは強力な歩兵軍をフランスに供給してきた
 フランス以外のヨーロッパ各国にもスイスは大量の傭兵を送り込み、これが最終的に禁じられたのはようやく
1927年になってからだった
 現在ヴァチカンで観光客相手に客商売しているスイス護衛兵も、その起源は1505年に教皇ユリウス2世が
スイス傭兵を雇用したことに端を発している
 中世封建軍において、歩兵の大量出現は確かに画期的な出来事だった
 中世の野戦戦術は装甲槍騎兵の衝撃力を基盤として展開されていた
 畸形的に発展した装甲槍騎兵は他の兵科では真似できない衝撃力を備えており、封建領主たちが
自領の戦闘資源の少なからぬ量を装甲槍騎兵の整備に投資していたのも当然だった
 一方で、騎兵に対抗するためには壁に頼るか歩兵の密集陣しかなかったし、戦争において攻城戦の重要性は
中近世を通じて増加する傾向にあったから、歩兵の戦術的価値が軽視されていた訳ではなかった
 弩兵や銃兵のような投射兵科は城壁の上でこそ真価を発揮する兵科で、近接戦闘に巻き込まれると屠殺されるしかなかった
 投射兵科を城壁から降ろすためには、十分な防護の手段を講じ、しかも圧倒的な火力集中を成し遂げるために
数を揃えなければならなかった
 こういった事情から、中世の軍隊はかなり安定した諸兵科連合軍だった
 攻城戦では歩兵が主力となり、野戦においては攻撃は装甲槍騎兵が、防御は歩兵が中核となって戦術が展開された
 スイス槍兵密集陣は、このような戦術的閉塞を打破すべく編み出された戦術だった
 スイス人は、長槍、矛槍、弩や銃で武装した歩兵方陣が攻防両面で戦闘の主力となれること、
すなわち歩兵が装甲槍騎兵の打撃力を代替できることを証明した
 このため、戦術史上においてスイス槍兵は革命的な意義を持つ存在であると高く評価されている
 問題は、そんな気狂いじみた真似ができたのはスイス人だけという点が無視されていることだった
 畸形的な兵科に対抗できるのは畸形的な兵科しかなかった


そんだけ
472名無し三等兵:03/08/02 14:23 ID:???
>>471
 スイス槍兵ってどういう格好で運営されたのですか?
長槍から銃、弩なんかまであつかう器用なファランクスみたいな密集陣形をとる兵科であったって事?

 スイス槍兵って1515年のマリニャーノの戦いで敗北してから、姿を失うんですよね。
それ以来スイスの国是は永世中立へ舵を切ることになったそうですね。
よほど敗れたのが衝撃であったのだろうか。

473名無し三等兵:03/08/03 04:09 ID:???
>>472
スイスの地政学的な位置づけを見れば、中立を保った理由もわかる
大国の狭間にある地政学的な位置づけ。
国内を見れば、多民族国家であり。下手に他国とくっつけば国内の民族対立に火をつけかねない。
そして緑豊かな山国と言えば聞こえが良いが、天然資源にも農作物にも恵まれない地形。
どこの国も侵略しても採算が取れない。それどころか侵略後の統治も難しい国だ。
だから中立を守れた。
474名無し三等兵:03/08/03 10:03 ID:???
ひどい荒らされようだね。
475海の人 ◆STEELmK8LQ :03/08/03 10:04 ID:???
 奇形的なのは兵科だけではなくて、国自体が奇形だったわけで(笑)
 まぁ、でもヘルウェティー族の時代にカエサルにけっ飛ばされて以来、幾世代が流れて
民族が混合しようと、あの山の中から出てこなかったのは先見の明があったというか
なんというか。
476黒幕:03/08/03 21:19 ID:???
 スイス兵の傭兵化は、15世紀中頃から始まる
 1450年、ニュルンベルク市がブランデンブルク選帝侯の率いる軍勢騎兵500歩兵4000を撃破した
ピーレンロイト戦では、1000名程度のスイス兵が参加していた
 1475年、ケルン大司教領の等族がブルゴーニュ公シャルルと対峙したノイス戦では、約200名のスイス兵が雇われている
 その時のスイス兵の指揮官で、テュービンゲンの騎士で後にミュルタンで大勝ちするウィルヘルム・ヘルターは、
ケルン側から傭兵契約の交渉を受け、400名の傭兵と15頭の馬を提供する旨を返答した
 しかし馬のほうは拒絶され、折り返しヘルターは兵士1人に1ヶ月4グルテン、隊長に8グルテンの給与を
要求したが返事が無く、足元を見られたヘルターは今度は給与の額は並でいいと書き送ったが、
ケルン側はまだ傭兵を重要視していなかったため破談となっている
 スイス兵が本格的に傭兵化したのはブルゴーニュ戦争からだった
 この戦争の根本的な原因は、フランス国王ルイ11世、ブルゴーニュ公シャルル豪胆公、皇帝フリードリヒ3世
の鼎立状態にあったが、直接的な動機は、誓約同盟の一員であるベルン市が勢力拡大を狙ってオーストリアに売った喧嘩だった
 1468年6月、オーストリアの圧迫下にある帝国都市ミュールハウゼン市を救援するという口実の下、
ベルン市は1万3000のスイス兵をアルザス地方に進めた
 ミュールハウゼン市は、ベルン、ゾロトゥルン両市と25ヶ年間の攻守同盟を結んでおり、これがベルン市の侵略の大義名分となった
 侵略軍の指揮官ニクラウス・フォン・ディースバッハはフランス国王と特に親しい間柄であり、
このフランス、ブルゴーニュ、帝国の勢力均衡を破るきっかけを作った黒幕はルイ11世だった
 ブルゴーニュ公はフランス国王にとって譜代第一の臣であるとともに、王権拡大のためには最大の障害物を意味していた
 更にハプスブルク家もフランスの勢力拡張に反発する宿敵であり、遅かれ早かれフランス国王は何らかの手段で
彼らを打ち倒す必要があった
 従って、ベルン市のオーストリア攻撃は、例えフランス国王の直接的な関与で行われたものでなかったにせよ、
その意図に応じた行動に他ならなかった


そんだけ
477どいつもこいつも:03/08/03 21:22 ID:???
 喧嘩を売られたオーストリア公ジグムントは、フランス国王に援助を要請して拒絶され、やむなくブルゴーニュ公に頼った
 シャルル豪胆公はこの機会を利用して上アルザスを占領しようと企てた
 1469年5月9日に結ばれたザンクト・オメールの和約によってシャルル豪胆公が進駐することになった
地域は、ワルズフート、南シュワルツワルト、ラウフェンブルク市、ラインフェルデン市、ゼッキンゲン市、
ブライザッハ市、プファルツ伯領で、豪胆公はこれらの占領地の代官としてペーター・フォン・ハーゲンバッハを
任命した
 この男は悪政の限りを尽くして74年5月の農民一揆で虐殺され、ブルゴーニュ戦争は開幕することになる

 ところで、ザンクト・オメールの和約後、ブルゴーニュ公はオーストリア公との協定を履行しなかった
 ジグムントがブルゴーニュ公の武力援助に対して5万グルテンを支払うことになっており、ワルズフート等の
オーストリア領の一部の支配権のブルゴーニュ公への提供はその担保だった
 ところが、支払完了後もブルゴーニュ公は占領を継続して軍を撤収しようとしなかった
 このため再びルイ11世に頼った哀れなジグムントは、この老獪な外交手腕を備えた陰謀屋の仲介で
かつての敵に救援を頼まねばならなくなった
 オーストリアとスイスの交渉は、ルイ11世の紹介で1473年7月に始まり、1474年1月には本格化した
 特にスイス側の担当者ニクラウス・フォン・ディースバッハとルーツェルンのベロミュンスター修道院長ヨスト
はこの交渉に大張り切りで、1474年3月30日、誓約同盟とオーストリアの間に「永遠の協調」が結ばれる
 同時にスイスと、シュトラスブルク、コルマール、シュレットシュタット、バーゼルの四市、いわゆる低地同盟
との間にも攻守同盟が結ばれ、ここに対ブルゴーニュ連合戦線が完成する


そんだけ
478天幕を引き倒す:03/08/03 21:24 ID:???
 この軍事同盟は、ブルゴーニュに対し直接的な利害関係のない誓約同盟をシャルル豪胆公の正面に引きずり出し、
自ら傷つくことなく本来の敵を打倒せんとするルイ11世の外交的勝利を意味していた
 1474年9月6日、誓約同盟会議の席上で、ルイ11世の代理人は国王の言葉として、
誓約同盟がブルゴーニュと事を構えることになればフランスは全力を挙げて支援すること、
そしてそのための軍事作戦に対して年間2万9000フランを提供することを伝えている
 「もし諸君がフランスの援助なしに戦争を遂行するならば、私は戦いの続く限り諸君に友愛の証として
年間8万フランを提供しよう
 これに対してスイスは報酬に対して立派に義務を果たせる者を多数派遣すべきである」
 この提案は明らかに傭兵契約で、誓約同盟がこれに同意したのは10月26日のことだった
 かくして、スイス兵はフランス国王の傭兵としてブルゴーニュ戦争に臨む

 スイス軍は昔から錯雑地形での戦闘に定評があったが、ブルゴーニュ戦争でもその評価を裏切らなかった
 1474年11月、同盟軍1万8000がエリクールに集結中のブルゴーニュ軍騎兵8000、歩兵4000を
奇襲、その野営地を蹂躙した
 同盟軍のうちスイス兵は8000、残りの大半はシュワーベンのドイツ人傭兵で、同盟軍には騎兵は700しかいなかった
 槍兵密集陣の戦闘スタイルのデビューはザンクト・ヤーコプだったが、この戦闘では槍兵密集陣の基本となる
3個梯隊による戦闘展開が初めて実戦で試された
 この戦闘は同盟軍の完全な奇襲となったが、これは第1梯隊の主力を務めたスイス兵の強引な突撃のおかげだった
 もっとも、この戦闘は正面きっての野戦ではなかったため、歩兵突撃という自殺的な戦術スタイルが
果たして有効か否かはまだ誰も判断できなかった
 ブルゴーニュ豪胆公もその一人だったが、彼は自らの不明を自らの命で贖うことになる


そんだけ
479卑劣の愉悦:03/08/04 22:29 ID:???
 1475年7月、低地同盟はスイス傭兵3000を含む騎兵1250、歩兵1万2000の野戦軍を編成し、
ブルゴーニュ領の攻略を企てた
 まずリーズル市を奪取し、続くブラーモン市攻略では、1000グルテンの契約料でベルン兵2500、
バーゼル市等の傭兵1700が増強された
 リーズル市占領で得た戦利品はオーストリア公、低地同盟、誓約同盟で三分される筈だったが、
スイス兵は手当たり次第に略奪し、「スイス兵は得物を振り回して市民や農民を脅し、獲物を即座に奪い取った」
と伝えられている
 この略奪行為は戦利品の分配を巡ってスイス傭兵とドイツ傭兵の対立を深刻化させ、
給与の遅配も重なって、ニクラウス・フォン・ディースバッハが戦死した直後の8月に野戦軍は解散した
 これと前後して、1475年5月、皇帝フリードリヒ3世は、その子マクシミリアンとブルゴーニュ公の
継嗣マリアとの婚姻を条件に休戦を結び、ルイ11世もまた9月にブルゴーニュと単独講和した
 このことはシャルル豪胆公にスイスを攻撃する絶好の機会を与えることになった
 この休戦によって、ルイ11世は戦争の重荷を誓約同盟に転嫁し、同時にスイス傭兵への巨額の出費からも解放された
 しかもブルゴーニュ公は孤立したスイスに対して復讐戦を企てており、フランス国王は全くの中立的立場から、
自らは指一本動かすことなく、コイン1枚使うことなく宿敵と傭兵の死闘を傍観していればよかった
 フランスが外交的に休戦したとはいえ、スイスは事実上の傭兵としての意義を失ったわけではなく、
現実にはむしろその逆だった


そんだけ
480異常の敵:03/08/04 22:40 ID:???
 1476年3月のグランソン遭遇戦はこのような事情の結果として生起した
 ブルゴーニュ軍2万に対してスイス誓約同盟軍は1万8000、うちベルン兵は7130だった
 不期遭遇戦という戦術指揮官にとって最低最悪の状況の中で、豪胆公はその名に恥じぬ最良の手を打った
 スイス軍の準備未完に乗じてブルゴーニュ軍主力の速やかな戦闘加入を狙った彼は、混乱した状況の中で
驚くべき努力をもって麾下の騎兵と砲兵を掌握しスイス軍へ突撃をかけた
 この短兵急な攻撃はベルン兵を中核とするスイス軍前衛梯隊1万によってかろうじて阻止されたが、
ブルゴーニュ軍の攻撃衝力はなおも健在で、豪胆公は再攻撃の成功を確信した
 次の攻撃を周到な準備のもとで行うべく、彼は砲兵と弩兵、銃兵からなる火力支援基盤の前進を命じた
 急進してきたスイス軍の中央梯隊と後衛梯隊が豪胆公の大砲に超越攻撃をかけたのはまさしくこの瞬間だった
 槍の林が一瞬で大砲を呑み込み、自分たちに向かって突進してくるのを見たブルゴーニュ兵の間で
パニックが広がり、やがて全軍が壊乱した
 この大敗北はしかし、ブルゴーニュ豪胆公の戦争意志を破壊することはできなかった
 グランソンから3ヶ月後の6月9日、豪胆公は再建した軍を率いて今度はミュルタンを包囲した
 ミュルタン守備隊の指揮官はアドリアン・フォン・ブーベンブルクで、ブーベンブルク家はもともと
ブルゴーニュ公の金融業者を務め、ブルゴーニュ家から報酬を受け取っており、アドリアン自身も
ミュルタン戦の直前までシャルル豪胆公から金を貰っていた
 この恩知らずは城壁の上に軽砲を並べ、ブルゴーニュ軍は城壁破壊用の重砲を持ち込んでいた
 ミュルタン戦は、ミュルタンを救援せんとするスイス誓約同盟軍とブルゴーニュ軍の間で行われた
 今度はブルゴーニュ軍は野戦陣地を構築してスイス軍を迎え撃った
 当時の軍事的常識で推し量れば、周到に準備された陣地に歩兵突撃を行うことは自殺に等しい筈だった
 しかし、砲と弩と手銃で構成された突撃破砕射撃の火網に真っ正面から突っ込んだスイス軍は、凄まじい出血を
無視し、速度を維持したまま陣地線を貫通、陣内を蹂躙してブルゴーニュ軍後衛を瞬殺する


そんだけ
481大往生:03/08/05 21:08 ID:???
 かつてブルゴーニュ公によって領地を奪われたロートリンゲン公ラインハルトは、シャルル豪胆公の度重なる
軍事的失敗を見て復讐を決意した
 彼は軍を組織してナンシー市を奪ったが、ここでシャルル豪胆公の反撃に遭う
 八方塞がったロートリンゲン公は、1476年11月、ルーツェルンの誓約同盟会議に臨み、
4万グルテンの傭兵契約料を提案した
 会議はこれを拒否したが、傭兵の徴募を許可し、8400の傭兵がバーゼルに集められた
 ロートリンゲン公は、全ての希望をスイス傭兵に賭けていた
 チューリヒのハンス・ヴァルトマンが傭兵1500を率いてバーゼルに到着したとき、ロートリンゲン公は
馬から降りて非常な親しさをもってヴァルトマンを迎え、彼の乗馬と並んで歩いた
 恐縮したヴァルトマンはロートリンゲン公に乗馬を勧めても公はこれを断り、バーゼル市門でようやく馬に乗り
ヴァルトマンと並んで市に入った
 しかし集まった傭兵は全てが満足な兵士だったとは言えず、1000名以上の「なお年端もいかぬ子供に過ぎ」ない者を
帰国させねばならなかった
 また残りの大部分も年若く胸甲も持たぬ劣悪な装備で、こんな連中を送ってくれるよりも「年のいった者」を
2000人ほど送ってくれたほうがいいとロートリンゲン公が嘆く有様だった
 しかし、ロートリンゲン公にとって悪いことばかりではなかった
 ナンシーへ向けて進軍する傭兵軍に低地同盟から1万2000の援兵が加わり、数の上ではブルゴーニュ軍に
倍する兵力に膨れ上がった
 スイス軍は堅固な地形に拠るブルゴーニュ軍を数の暴力で押し潰し、敗走の混乱の中で豪胆公は膾の如く
斬り殺された


そんだけ
482凶名:03/08/07 02:23 ID:???
 ブルゴーニュ戦争は、兵力や戦術上の勝利の点で、ほとんどスイス兵によって戦われたといっても過言ではない
 そしてその結果はどうだったか
 王権拡大に狂奔するルイ11世ほどブルゴーニュ公の破滅に心から狂喜した者はおらず、彼はスイス兵と
その同盟者が戦闘で勝ち取った果実の採り入れに忙殺された
 ルイ11世はただちにブルゴーニュ公領を併合し、更にブルゴーニュ伯領に対しても領有権を主張した
 もっとも、後者に関しては誓約同盟と皇帝が反発したため、1478年1月、マクシミリアンの相続権を承認することによって決着した
 こうして、ヴァロア、ハプスブルク両家はそれぞれの目的を達成したが、この戦争の立て役者たるスイスには
取りたてて言うべき何の利益ももたらされなかった
 強いて挙げるならば、スイスが得たのはただ一点、戦場でのスイス兵の血みどろの評判だけだった
 ブルゴーニュ戦争での一連の戦闘で、スイス軍は、従来は愚行とされていた強引な歩兵突撃によって
有力な戦闘部隊を撃破できることを証明し、ヨーロッパ諸国の軍隊に衝撃を与えた
 ただしそれは、この戦争が野戦戦術が騎兵中心から歩兵中心へと移行する契機となったからではなかった
 ブルゴーニュ戦争以後も、騎兵は戦場を制する攻撃兵器として役割を担い続けたし、
スイス軍を真似て決定的な瞬間に方陣を組ませた歩兵を突撃させようとする困った指揮官もいなかった
 ヨーロッパの王や諸侯や傭兵隊長が事実として認識したのは、前から薄々感じてはいたけれども、
スイス傭兵はちょっと洒落にならないくらいヤバい連中だということだった
 防備を固めた槍兵方陣は強力な防御兵器だが、更にスイス槍兵は騎兵さながらの突撃をもやってのけた
 地理的な事情や様々な因縁から戦場でスイス兵を敵に回す可能性が高いドイツでは深刻だった
 ドイツで大規模な歩兵軍が登場し、しかも槍兵が高い比率を示していたのは、スイス軍を模倣したからではなく、
スイス槍兵密集陣の突撃に対抗するためだった
 騎兵の対抗兵科としての槍兵の増強はドイツのみならずフランスやイタリアでも認められていたが、
ドイツにおいて最も顕著だったのはこういった事情からだった
 ドイツ歩兵は、装甲槍騎兵のように突進してくるスイス槍兵密集陣と戦わねばならなかったのだ


そんだけ
483血塗れた希望:03/08/07 23:57 ID:???
 ブルゴーニュ戦争の終結によって北方の領土分割が一段落すると、今度はヴァロア、ハプスブルクの
対立の焦点はイタリアに移った
 フランスは公然と対外遠征を敢行し、スイス兵は傭兵として重宝された
 しかし、雇用主はフランスに限らず、フランスの敵である教皇、イタリア諸都市、神聖ローマ帝国皇帝が
争ってスイス兵を求め、これにスイス自身の利害が絡まり、複雑な様相を呈することになる
 1494年、フランス王シャルル8世は、3万に達する軍を率いてナポリを攻撃した
 この遠征軍には、スイス誓約同盟が傭兵の応募を禁じていたにもかかわらず、スイス傭兵7400が
参加していた
 ナポリ王国の征服後、皇帝マクシミリアン1世とミラノ公を中心とする同盟結成の報せを受けたシャルル8世は、
急遽本国への撤退を開始したが、1495年7月、フォルノヴァで包囲される
 この戦闘で、度重なる突撃を歩兵の方陣に撃退されたイタリア騎兵は、迂回してタロ河を強行渡河せんとして
逆にフランス騎兵によって撃破された
 その後、スイス兵が決死的な突撃を行って包囲網を穿孔し、フランス軍は整然と後退した
 この戦闘で決定的な役割を演じたのは間違いなくフランス騎兵だった
 フランス騎兵は持ち前の機動力で火消し役として随所でイタリア軍の突破を防いで歩兵を死地から救い、
最終的にイタリア軍の包囲の企図を挫いた
 これは、徒歩で移動しなければならないスイス槍兵ではどうやっても真似できないことだった
 それでも、損害を受けつつ騎兵突撃に耐え、最後に退路を確保したスイス兵の働きもまた無視できなかった
 グィッチャルディーノは、この戦闘でのスイス兵を「軍の華にして希望」と讃えている


そんだけ
484密告者には死を:03/08/08 20:30 ID:???
 この間、オルレアン公ルイは、シャルル8世の行動を側面から支援すべくミラノ公国を攻撃した
 この作戦には、ベリンツォーナ、ルガーノ等を与える約束で、ウリ、シュヴィッツ等の森林州から
傭兵2000が参加していた
 しかし、1495年6月、逆にミラノ公ロドヴィコ・イル・モロによってノヴァラに包囲され、2ヶ月後に降伏した
 この際にフランスではディジョンの代官アントワーヌ・ド・ヴェーゼが中心となって、救援軍として
2万のスイス兵が集められている
 シャルル8世の死後、オルレアン公は王位についてルイ12世となった
 1499年、彼は誓約同盟と10年間の同盟・傭兵契約を結び、その加勢を得て同年夏にミラノ市を占領した
 ミラノ公ロドヴィコは皇帝のもとに逃れて2万の軍を組織した
 この軍勢にはスイス傭兵7〜9000、ドイツ傭兵7000、イタリア傭兵3000が参加していた
 ミラノ軍はミラノ市を奪回し、1500年4月、両軍はノヴァラで対峙した
 この時、フランス軍には1万5000のスイス傭兵が与していら
 ところが、誓約同盟にはこの恐るべき衝突を阻止する統制力に欠けていた
 誓約同盟は決して統一政府ではなく、利害関係の異なる州政府の地域的な連合に過ぎず、西部諸州はフランスに、
東部諸州は皇帝やミラノに与力していたのが実情だった
 スイスの西部と東部の対立の因縁はブルゴーニュ戦争の頃から表面化しており、イタリア戦争の経過とともにますます深刻化していた
 それでも誓約同盟は一応は戦闘中止の命令を両軍のスイス兵に伝えるべく使者を派遣したが、合戦には間に合わなかった
 結局、スイス兵同士の殺戮劇はミラノ側のスイス傭兵の裏切りによって回避され、
ミラノ公自身はスイス傭兵に偽装して脱出を図ったが、ウリ出身のスイス傭兵の通報で捕らえられて処刑された
 この通報者は2年後に帰国したところを捕らえられて処刑されている


そんだけ
485存在理由:03/08/10 17:43 ID:???
 以後もスイス傭兵はイタリア半島の各地で戦った
 ナポリでチェザーレ・ボルジアに与し、1501年から1504年にかけてフランスと戦い、1507年には
ジェノヴァの戦い、1509年5月、ヴェネツィアが大敗したアニャデルロでは皇帝軍に加わっている
 ところで、スイスがフランスと組んで傭兵契約を結んだ動機は、報酬という利益の他にも存在していた
 もともと誓約同盟は北イタリア、南西ドイツを連絡する峠、特にザンクト・ゴタルト峠を中心とする森林州に
よって結成されたもので、この峠を通過する交通路のイタリア側の登攀口であるベリンツォーナ、ルガーノ、
ロカルノを支配下に収めることは誓約同盟の宿願であり、14世紀以降、ミラノ公と抗争を繰り広げていた
 ザンクト・ゴタルト峠からベリンツォーナに至る地域はスイスのいわゆる「古い州」に比して自立が遅れており、
14世紀初頭以降、この地域を支配するディエンティーヌ修道院長と「古い州」との間で対立が続いていた
 1377年、ミラノ公の妻がこの地の領主となり、ミラノの勢力拡張に対するスイス側の講義を避けるため、
彼女はスイス人に対してコモの関税を免除している
 1390年代にはミラノの支配域はザンクト・ゴタルト峠の頂上まで及んだ
 これに対して誓約同盟はこの支配を打ち破ろうとしばしば軍事作戦を展開し、1422年、アルベドで決定的に敗北した
 この戦闘で、スイス軍の主力である矛槍兵の緩やかな方陣は、優勢なミラノ騎兵にズタズタに粉砕された
 機動の発揮を保障する地形における騎兵の戦術的優勢は、勇猛で知られたスイス矛槍兵でも覆せなかった
 この戦術的敗北は、スイス軍が長槍を主力とする密集方陣への転換を余儀なくされる契機となった
 この敗戦後も、コモのスイス人の関税免除の特権は維持されていたが、誓約同盟の憎悪と屈辱を晴らすことはできなかった
 そしてこの劣勢を挽回すべく、ルイ12世のミラノ攻撃に誓約同盟は嬉々として強力を誓ったのだった
 1499年、ミラノ攻略を企図したルイ12世と傭兵契約を結んだ際、ベリンツォーナの譲渡は重要な条項として約されていた


そんだけ
486御簾の中の人:03/08/11 09:31 ID:???
 しかし、北イタリアに覇権を確立したフランス王は、この約束の履行を拒否し、あろうことか傭兵への給与の
支払を遅らせてスイス兵を激昂させた
 1501年夏の時点で給与不払額はほぼ30万クローネンに達していたが、ルイ12世は余りに高いとして
手八丁口八丁を駆使した結果、4万クローネンにまけさせた
 この姑息はフランスと誓約同盟の関係を険悪にさせるには十分だった
 誓約同盟内部で反仏派が勝利を得た
 「今や全ての12州は、アッペンツェル、ザンクト・ガレン市とともに、1503年7月21日、バーテンに会し、協定を締結した
 彼らはお互いに、外国の君主から公的なあるいは非公然に提供された報酬、賞与、贈物を拒絶する義務があり、
同盟所属者の勝手な出稼ぎに対しては、名誉、身体、財産における重罪によってこれを禁じ、
誓約同盟の全領域において対外戦争のために徴募が行われた場合には、これを死刑をもって禁止する義務がある」
 実際の行動はこの会盟よりも早く、1503年1月には実力をもって因縁のベリンツォーナを占領し、
4月にはアローナの和約によってフランスにその領有権を承認させることになる
 一方、時の教皇ユリウス2世は、この両国間の紛争を見て、スイス兵を利用してフランスをイタリアからの駆逐を企図した
 こうした教皇の意を奉じて反仏運動を指導したシオンの司教である枢機官マットォイス・シンナーだった
 彼は、スイスのヴァリス州ミューレバッハに生まれ、ベルン、チューリッヒ、コモで学び、エルネンで生涯を聖界に沈めた
 一僻村の説教者から身を起こして司教まで上りつめた彼は全くの謀略と煽動と苦労の人で、
スイス出身であるコネを使って1509年にルイ12世との傭兵契約の更新を拒否させることに成功した
 1507年、絹染色工ノヴィのパオロを指導者としてジェノアの下層民が反乱を起こし、
ルイ12世はスイス兵6000の援軍を得てこれを鎮圧した
 これが、フランスに対するスイス傭兵の最後の仕事となった


そんだけ
487犬の分限を超えて:03/08/12 15:09 ID:???
 1510年3月、スイスは水面下で教皇と連携し、5カ年の傭兵契約を結んだ
 有事の際には、スイス誓約同盟は教皇に傭兵6000を送り、それに対して教皇は各州に年金1000グルテン
を支払うこと、従軍中の給与として兵士は月6フラン、将校はその倍額が支払われることが約された
 更に1511年2月には、皇帝マクシミリアンと誓約同盟の間にも「永世同盟」が結ばれる
 かくして、スイス軍は公然と対仏軍事行動を開始した
 1511年11月、チューリッヒのヤコブ・スタッファーの指揮するスイス軍1万が南下してミラノを包囲した
 しかし、この軍勢は前代未聞の極寒のために攻撃を行わず帰国し、その際にロンバルディアの諸都市を略奪し、
3000戸が焼かれている
 かつての同盟者であるフランスとの決定的な衝突は、1512年6月、ラヴェンナを巡って開始された
 ヴェネツィアの騎兵4200、歩兵5500、多数の砲兵を含むスイス軍1万8000は、
男爵ウルリッヒ・フォン・ホーエンザックスとヤコブ・スタッファーに率いられてラヴェンナ、パヴィアを抜き、
さらにジェノアに進んで北イタリアからフランス軍を一掃する
 フランスの退場と同時に北イタリアの分割が企てられた
 教皇、皇帝、ヴェネツィアに交じって、今度はスイスも口を出した
 スイスはこの機会に際して、単なる傭兵として脇に押しやられるままになろうとは思わなかった
 スイスは北イタリアに号令できる決定的な成果を要求していち早くドーモ・ドッソーラ、ルガーノ、ロカルノ、
メンドリジオ、ルイーノ、ボルミオ、キアペンナを占拠し、これらを「共同領有地」と宣言した
 バーデン会議の決定により、ミラノ公国はロドヴィコ・イル・モロの息子マッシミリアーノ・スフォルツァに
委ねられたが、彼はスイスに対してミラノ市門に至るまでの関税免除の特権を保障し、既得の領土拡張を承認し、
しかもその保護下に入ることを約束した
 こうしてスイスはミラノ公国を支配下に押さえ、北イタリアに隠然たる勢力を誇った
 この時期のスイス兵は、誰に雇われ、利用されるということもなく、その強力な軍事力を利己的に行使し、
いわばスイスの黄金時代を築き上げた
 余りにも一瞬の黄金時代ではあったが


そんだけ
488:03/08/12 15:11 ID:???
 前述のように、1510年、誓約同盟は教皇と5年間の傭兵契約を結んでいた
 しかし、教皇の賃金不払はルイ12世よりも甚だしく、このために誓約同盟は内部分裂を惹起して
親仏派が再び台頭する
 この間にルイ12世は捲土を期して兵力を整え、1513年春、騎兵8000、歩兵1万4000を率いて
ミラノ攻略の構えを見せた
 フランス軍の中には、皇帝の禁令にもかかわらず7500のランツクネヒトが加わっていた
 これに対し、強行軍で到着したばかりのスイス軍1万はまだ準備の整っていないフランス軍の野営地を強襲した
 砲と弩と銃による突撃破砕射撃の火制地帯を抜けたスイス軍はフランス軍を文字通り粉砕した
 この戦闘でフランス軍の作り出した火箭の弾幕から生還したあるスイス兵は次のように語っている
 「生まれてこのかた誰もこんな恐ろしい砲撃と苦悶を聞いたことがなかった
 そして誰の胸にも、ただ一人としてこの戦場から生きて帰れるとは考えなかった」
 「辺りに聞こえるのは鋭い武器の叩き合う音と死者の低い呻きだけだった」
 しかし、真に恐るべきはこのような業火の中でなお突撃を続けたスイス兵の精神性にあった
 最初の陣地線に達した時には既にスイス兵の隊列は維持できなくなっていたが、もはや厳格に隊列を組む
必然性も存在していなかった
 フランス軍の組織的戦闘力は完全に破壊されて潰走した
 それでもスイス兵の蹂躙攻撃に立ち向かおうと方陣を組んだランツクネヒトたちは誰一人生きて帰れなかった


そんだけ
489撃つべき銃すらなく:03/08/13 16:38 ID:???
 このノヴァラの戦闘は、まさしくスイス槍兵密集陣の絶頂が戦場でどれだけ猛威を振るえるかを証明する戦闘となった
 しかし同時に、この戦闘はスイス軍の戦場での栄光の最後となった
 1515年9月、スイス軍はマリニャーノにおいてフランソワ1世率いるフランス軍と激突した
 この時、フランス軍には装甲槍騎兵2500ランスを中核として、槍兵8000、アルバニア軽騎兵1500、
ランツクネヒト2万4000、スペイン傭兵1万等からなり、総兵力は5万5000に達していた
 ガルララーテの和約によってベルン、フライブルク等の親仏派西部諸州のスイス兵1万4000が離脱したため、
森林州の兵を中心とするスイス軍2万は、再びフランス軍陣地を正面から急襲した
 フランス軍はノヴァラの教訓を無駄にはしていなかった
 今度はフランス軍は周囲に壕を掘った土塁の背後でスイス軍を迎え撃った
 土塁上には砲兵と銃兵が十分に射線を計算されて配置され、その背後ではランツクネヒトがスイス兵の激流の
最後の防波堤となるべく並んでいた
 ランツクネヒトの任務は、砲兵と銃兵が1発でも多くスイス兵の方陣に弾を撃ち込めるように、
壕を越え土塁を駆け上がるスイス兵に逆襲をかけ、彼らを守って彼らの前で死ぬことだった
 この周到に準備された陣地はしかし、スイス軍の突撃への誘惑を諦めさせることはできなかった
 十文字放火を冒して突撃したスイス軍は、凄まじい損害を受け、更にフランス騎兵の中世的な騎兵突撃を
無防備な側面に受けて前進を阻まれた
 スイス軍が壊滅的な打撃を受けてなお整然と後退できたのは、スイス軍の後衛梯隊が退路を確保し、
主力の後退を掩護したからだった
 速度と大胆に頼る攻撃戦術はついにマリニャーノで火力集中による防御戦術の前にその限界を露呈した
 スイス槍兵密集陣の無敵の戦術的優位はもはや消滅しつつあった
 1516年11月、誓約同盟はフランスと「永遠の協調」を結び、南アルプスの支配地を放棄する


そんだけ
490山崎 渉:03/08/15 21:20 ID:???
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
491名無し三等兵:03/08/15 22:41 ID:???
保守
492道具:03/08/16 10:21 ID:???
 1516年以降、スイスはほとんどフランスの傭兵に終始することになり、1521年5月、フランソワ1世は
スイスと終身傭兵契約を結んで、各州に年3000フランを支払う代償に一時に6000〜1万6000名の
スイス兵を動員することが約された
 おかげでフランソワ1世は、スイスとの同盟復活後の30年間に延べ12万のスイス兵を使うことができた
 この時期は宗教改革の時代でもあり、ツヴィングリの激しい傭兵反対論の影響をもろに受けたチューリッヒやベルンでは
16世紀を通じて傭兵に対する悪感情が高まり、また商工業経済の発展も相まって、こうした傭兵稼業とはかなり疎遠になっていく
 これに対してウリ、シュウィッツ等の森林州は十分な産業を持たず、安定した傭兵の兵力索源となった
 アンリ2世は1549年に終身傭兵契約を結び、1552〜1568年、メッツ、トゥール、ヴェルダンの奪取、
ブローニュ、カレーの奪回に際してスイス傭兵5800が参加し、これに対して年額3万リーブルの報酬が支払われている
 シャルル9世はユグノー戦争の勃発とともに契約を更新し、続くアンリ3世も1582年に契約更新を行って
スイス兵1万2000を得てカルバン派新教徒軍に対抗し、そのための負債額は200万リーブルに達した
 アンリ4世は1万3000のスイス兵に支えられて新教徒軍を退けたが、1594〜1605年に
総額で3600万リーブルの傭兵報酬を支払わねばならなかった
 ルイ14世の治世に入ると、1663年以降、傭兵契約料は高騰し、その報酬は1703年だけで45万リーブル、
1705年には500万リーブルに達し、常に2万程度のスイス兵がフランス軍に加わっていた
 オランダ戦争には2万5000、ファルツ戦争には2万9000のスイス兵が投入され、スペイン継承戦争では
フランスに2万5000、オランダに1万6000、オーストリアに4800、サヴォイに4900、
合計約5万のスイス兵が敵味方に送られ、まさしくスイス傭兵制の絶頂期を迎える
 1777年、ルイ16世は防衛目的に限定してではあるが50年間の傭兵契約を結び、
1792年8月10日、テュイルリー宮殿のスイス近衛兵の死闘で幕を下ろした
 立法議会がスイス連隊の解散を命じたのは8月20日のことであった


そんだけ
493長靴をはいた犬:03/08/16 10:23 ID:???
 一般に中世ヨーロッパの都市では、市民の政治的機会均等と経済的自由を獲得し、司法、財政、軍事の自治権を
確立して都市自治体(コムーネ)を形成した
 市民はコムーネの自由と独立を維持するために民兵を整備して治安維持と防衛に任じた
 中世イタリアの自由都市も例外ではなく、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ、ピサを筆頭に北イタリアの
自治都市が民兵で軍隊を組織し、コムーネの自治の確立と維持のために戦った
 中世都市の自由はこうした市民自らの命がけの都市愛郷心すなわち愛国心によって支えられていたというのが
定説となっている
 にもかかわらず、イタリア自由都市全盛の14世紀から15世紀にかけては、傭兵隊長コンドッティエーリが
全盛を極めた時代でもあった
 勇名どころとしては、14世紀のホークウッドやヴェルナー・フォン・ウルスリンゲン、
15世紀のスフォルツァ・アテンドロ、ブラチィオ・ダ・モントネ、ニッコロ・ピッチニーノ、
フランチェスコ・スフォルツァ等が挙げられる
 彼らは都市や封建諸侯の間で高収入を求めて放浪する典型的な傭兵隊長で、中には都市の政権を奪って
僣主化する者もいた
 フランチェスコ・スフォルツァは1450年にミラノのヴィスコンティを倒して政権を奪い、ミラノ領主になっている
 実際のところ、都市の自由独立を保障していたのは専らこれら傭兵によるものであって、
市民の手によるものではなかった
 マキャヴェリはこれらの傭兵を盛んに非難し、民兵制度による国土防衛を主張し、実践しようとした
 しかし、北イタリア諸都市の軍制は、その経緯は様々だが、軍制の主体を民兵から傭兵へと転換していく
 この動きはフィレンツェですら例外ではなかった


そんだけ
494primo popolo:03/08/17 21:46 ID:???
 フィレンツェにおいて、ポポロと呼ばれる市民階層が都市貴族と争い、これを排除して市政権に関与するように
なったのは13世紀中頃のことだった
 この革新的な市民集団は市の政治権力を掌握するや、貴族の権力の復活を抑え、自己の政権を防衛するために
民兵制度を設立した
 ジョヴァンニ・ヴィラニーの年代記によれば、フィレンツェではじめて民兵制度が設立されたのは1250年だった
 この年は、フィレンツェに第一次市民政府がつくられ、ゲェルフ(教皇派)またはギペリン(皇帝派)に属する
都市貴族と市内の6個地区から12名の委員と1名の民兵隊長が選出されることが規定されていた
 こうしてポポロははじめて市政に参与し、その公職を貴族と折半した
 彼らは速やかに民兵制度を設け、市内における貴族の活動を抑制し、外敵への防衛の任に当たらせた
 市内に20コンパニ(1コンパニは兵50名)、各郡は96個教区に従って96コンパニの民兵部隊が編制され、
フィレンツェ領内の壮丁は残らずこのコンパニに選出された
 各コンパニには指揮官が任命され、総指揮官としてポポロのウベルト・ダ・ルッカが民兵隊長に選出された
 民兵は市庁舎の鐘が危急を告げて鳴らされたならば、直ちに民兵隊長の指揮下に入って戦ったと言われている
 ヴィラニーの年代記によれば、1312年、皇帝ハインリヒ7世が騎兵1800と多数の歩兵を率いて
フィレンツェを急襲した時、市政府は鐘を鳴らして市民を集め、市民は武装して民兵軍の旗を掲げて市庁舎前の
広場に集まり、司教までもが武装して馬に乗って駆けつけた
 民兵軍は市門を固めて皇帝軍の攻撃を防ぎ、フィレンツェの危急を救った
 ヴィラニーの話は多分に誇張され理想化されているが、古い民兵制の理念は概ねこのようなものだった


そんだけ
495太鼓を抱え父の剣を背負って:03/08/21 16:45 ID:???
 民兵は単に治安維持と自衛のみならず、積極的な対外戦争にも従事した
 1254年、東方貿易の拠点となるタラモーネとポルト・エルコーレの港をピサと奪い合った際にも
フィレンツェの民兵は出兵している
 フィレンツェ民兵軍はまずピサの同盟都市であるピストイアとシエナを占拠し、最後にピサ軍を撃破して
目的の二つの港を奪取した
 1260年の対シエナ戦ではフィレンツェの民兵の大半が動員され、しかも徹底的な敗北を喫したことで
フィレンツェの歴史において有名な戦役となった
 ヴィラニーの年代記によれば、この戦争はフィレンツェ全市をあげての総力戦で、従軍できる者は全員動員され、
家族の誰かが戦場に赴いていない家庭はなかったと言われている
 この戦争の目的は市の多数の亡命者を保護していたシエナを討伐することで、市政府は民兵の全兵力を文字通り
結集し、それにゲルフィ同盟のルッカ、ボローニャ、ペルジア、オルヴィエートからの援軍をあわせて
フィレンツェ軍を編成した
 総兵力は騎兵3000、歩兵2万に達し、総指揮官であるボデスタのフランチェスコ・トロギジオに率いられ、
モンタペルティでシエナ軍と衝突した
 兵力で劣勢だったシエナ軍はドイツ人騎兵を雇って応戦し、フィレンツェ民兵軍はプロフェッショナルな
装甲槍騎兵の突撃によって粉砕された


そんだけ
496僕たちの町、僕たちの軍隊:03/08/21 16:46 ID:???
 1266年、ギルド市民が市権力を完全に掌握するとともに、民兵制度は更に強化された
 12のギルドが結成され、そのうち、法律家と代書人のギルド、カリマラ通りギルド、羊毛ギルド、
絹織物と聖マリア門のギルド、両替商ギルド、医師と薬剤師のギルド、毛皮商ギルドの七つが大ギルドと呼ばれ、
亜麻商人と古着屋のギルド、靴屋ギルド、鍛冶屋ギルド、左官と大工のギルド、肉屋と屠殺人のギルドの五つが
小ギルドと呼ばれた
 これらのギルドの成員が民兵軍を構成し、ギルド組織はそのまま市の軍事組織となった
 全てのギルド・メンバーは有事の際には武装して各ギルドの旗の下に集まり、ギルドの親方の命令に従うよう
規定されていた
 ギルド市民が市の政治権力と軍事力を掌握したことにより、彼らは自己の共同の利益を擁護するために結束し、
そのためにも自分たちの自治都市を防衛しようとした
 1266年、皇帝マンフレッドの副王グィドがフィレンツェに駐在中、部下の兵士に給与を支給するために
市民から税を徴収しようとした時、ギルド市民兵は実力でグィドを追放している
 このように古い都市貴族の権力を排除し、自由な自治都市を建設しようとする理念に燃えた市民による
民兵組織こそ、ヴィラニーが理想化し、後にマキャヴェリが恋い焦がれた軍隊に他ならなかった


そんだけ
497ジャスティに生きろ:03/08/22 22:23 ID:???
 フィレンツェを牛耳ってきた市民階層だったが、やがてその中で階層分化が起こり、ポポロはポポロ・グラッソ
とポポロ・ミヌートに分かれ、一部のポポロ・グラッソが市政を掌握するようになる
 こうなると都市自治体の軍制も当然変化しなければならなかった
 1282年、ギルド代表委員会が設立され、12ギルドの中でも最も富裕なカリマラ通りギルド、羊毛ギルド、
両替商ギルドの三大ギルドが市政府首席(プリオリ)に選出され、後に彼らはシニョリと呼ばれるようになる
 プリオリ(シニョリ)の職務は自治体の財産を管理し、市民の安全と福祉を旨とし、貴族の横暴を抑え、
ポデスタと民兵隊長を監督して法を遵守せしめ、無益かつ過大な出費を抑えることだった
 更に、彼らの許可無くしては市政顧問の会議、民兵隊長の会議、ポデスタの会議等、いかなる会議をも招集する
ことができなかったばかりでなく、いかなる法律をも提案することができず、いかなる審議をも許されなかった
 シニョリは市政府の最高権威者であり、あらゆる役員と民兵隊長の任免権を握り、市政の実権は彼らに集中した
 更に1292年、「正義の法令」が制定され、富裕市民の政権は確固たるものになった
 この法令は実質的には一種の治安維持法で、建前は貴族の乱暴を抑制するためのものだったが、
実際にはポポロ・ミヌートへの圧力を意味していた
 この法令を遂行すべく、「正義の旗手」が制定され、旗手には貴族の逮捕権と市民騒乱の鎮撫権が与えられ、
これらの任務のために市内各地区より集成された1000名の民兵の指揮権が委ねられた
 これと同時に従来のギルド民兵組織は解散され、この新しい民兵軍は1年後には4000名に増強されることになる
 これは、市民全体の利益を擁護するという理念の下で組織された市民軍の伝統の消滅を意味していた
 軍事統帥権はポポロ・グラッソに集中され、ポポロ・グラッソは自己の政策を遂行し、軍事行動を行う時には、
その軍事力をポポロ・ミヌートのアマチュア兵に求めることなく、市外から傭兵を雇い入れた
 こうして、フィレンツェの軍事力は軍事能力の怪しい民兵からプロフェッショナルな傭兵へと転換する


そんだけ
498ハードなゲーム:03/08/24 17:17 ID:???
 もっとも、それ以前においてもフィレンツェが傭兵を雇用した前例は存在していた
 1267年、サン・イラリオを攻撃する際にはモンフォールとフランスから騎兵800が雇われ、
1269年のシエナ戦では、アンジューのシャルル1世の代理人ジャンベルタルドとフランス騎兵400が雇用されていた
 しかし、本格的な傭兵軍が組織されるようになったのは、1282年の大商人政権の成立後だった
 1288年から1291年にかけての対ピサ戦ではシャルル2世の封臣のアメリゴ・デ・ナルボンヌと
当時ヨーロッパ最強を謳われていたフランス装甲槍騎兵400が高給で雇われている
 1301年には教皇に仲介を頼んでフランス王弟シャルル・ド・ヴァロアとフランス騎兵800が、
1305年にはピストイア攻撃のためにカラブリア王ロベルトと騎兵300が、
1316年にはランド・ダ・グッビオが市内の治安維持のために雇われている
 1325年の対ピストイア戦はフィレンツェ軍制の傭兵軍への転換を決定的にした点で注目すべき戦争となった
 カストルチオはボローニャへ至る要衝ピストイアを占領し、フィレンツェを脅かしていた
 ボローニャ地方を主要な市場とするフィレンツェにとって、ピストイアはまさしくフィレンツェの産業にとって
重要な拠点であり、それ故にこの戦争は文字通りフィレンツェの生死を決する戦争となった
 もはやフィレンツェには美しいだけの理念や建前に気を配る余裕はなかった
 フィレンツェは莫大な軍資金を投入し、市の歴史上未曾有の大軍が編成された
 フィレンツェ軍の主力はフランス人傭兵で占められ、それにペルジアやボローニャから送り込まれたドイツ人傭兵、
ボルテルラ、キウジ、グロッセート、モンテプルチーノからの援軍が加わり、総兵力は騎兵3500、
歩兵1万8000に達し、この大軍を率いたのはスペイン人の傭兵隊長レイモンド・ディ・カルドナだった
 この軍勢に参加していたフィレンツェ民兵は僅か500に過ぎなかった


そんだけ
499beautiful dreamer:03/08/25 21:06 ID:???
 1325年の対ピストイア戦を転換点として、フィレンツェの軍制において、民兵は全く見られなくなるか、または付随的に
極めて少数が参加するに過ぎなくなり、フィレンツェの軍事力の主力は外国人傭兵によって構成されるようになった
 1328年の対カストルチオ戦では騎兵300、歩兵1000の傭兵軍が主力を担い、民兵は少数が補助的に
随伴していたに過ぎず、1336年から1341年の対ピサ戦の際もその主力は3000名の傭兵で、
これにマスティノからこれまた1600名の傭兵が増援されており、民兵の姿は全く見られなかった
 こうしてフィレンツェの民兵制度は14世紀には本来の軍事的意義を喪い、外国人傭兵がそれに取って代わった
 この転換の最大の要因は、民兵というアマチュアが通用するほど戦場はファンタジーではなかったことにあった
 この時期、装甲槍騎兵の衝撃力が完成の域に達してあらゆる兵科を圧倒して戦場を支配しており、
矛槍を手にした訓練未熟な民兵の貧弱な隊列は、完全に鉄で装甲された突撃兵器に抵抗できなかった
 装備と士気に優れるフィレンツェの民兵は、イタリア最強の市民歩兵軍と謳われていたが、
それでもフランス人やドイツ人の騎兵の圧倒的な優位性を認めない訳にはいかなかった
 1265年、カストルチオと戦ったフィレンツェ民兵軍は、カストルチオに雇われていた少数のドイツ人騎兵の突撃によって恐慌し、
戦列を分断されて絶望的な抵抗の末に壊滅し、肉親を失わなかった市民はいなかったと伝えられている
 この戦闘から生還したフィレンツェのある貴族は、貴族と市民の合同会議の席上で、「ドイツ人騎兵は民兵よりはるかに強力で、
その戦術も格段に進んでいるため、フィレンツェの民兵はドイツ人騎兵に全く抵抗できない」と語っている
 1312年、ハインリヒ7世が訓練されたドイツ人騎兵800とイタリア人騎兵1000を率いて
フィレンツェを急襲した際、フィレンツェの民兵は専ら城壁に頼って防御に徹するしかなかった
 辛うじて市を守りきれたのは、司教が押っ取り刀で駆けつけて市民を鼓舞したからではなく、
ハインリヒ7世が病気に倒れてフィレンツェ攻略を断念したからだった
 実情はヴィラニーのドリーミングなストーリーとはかなり違っていた


そんだけ
500戦うかその俺と君は:03/08/26 23:12 ID:???
 フィレンツェ市民の歩兵の外国人傭兵、特に騎兵に対する劣勢は明らかだった
 市民が騎兵としてドイツ人やフランス人の騎兵に対抗することも決して不可能ではなかったが、
民兵をそこまで鍛え上げるための労力と時間と費用を捻出することは限りなく不可能に近かった
 経済活動に忙しい民兵には初歩的な軍事訓練を受ける余裕すらなかった
 一般に、中世ヨーロッパの陸戦技術は野戦であれ攻城戦であれ兵科の細分化専門化が進行しており、
戦場は、騎兵であれ歩兵であれ、あらゆる兵科の兵士に高い技能が要求される場所だった
 従って、気高い理想や高い士気を誇っていても訓練の不十分な民兵に軍事的価値は全くなかった
 物心つく前から馬に乗って人を殺す修練を積んできた者、重い鎧を着てあらゆる殺人技術を発揮することを
天職だと信じている者、戦士であることが呼吸することと同じくらい当たり前の社会で育ってきた者、
槍や弩のテクニックを修得できなければ行き倒れる運命しか残されていない者、そのような連中が行き来する場所では
フィレンツェ市民兵は場違いな存在だった
 更に、13世紀末に毛織物工業、金融業、海外貿易が緊密な関連を保ちつつ発展しはじめると、
これら商工業に携わる市民は利益の見込める経済活動に従事するようになり、割に合わない兵役を忌避するようになった
 フィレンツェが余りに戦争に淫しすぎていたことも無視できない要因だった
 1251年から1254年に対ピサ戦、1253年にピストイア攻撃、1254年にシエナ攻撃、1256年に
対ピサ戦、1260年に対ピサ戦、1267年にルカ、ポルト・ピサノ攻撃、1269年に対シエナ戦、
1274年にピサ攻略、1289年から1293年に対アレッツォ戦と、フィレンツェはほとんど絶え間なく
周囲に喧嘩を売り続けていた
 市民が市権力を掌握し、市の軍制の基礎として民兵制度が確立して以降のフィレンツェの過剰な好戦性には
目を見張るものがあるが、流石に市民も軍役奉仕を喜ばなくなってきた
 1282年以来、対外戦争が始まると特別の戦争対策委員会が設立され、委員に選出された者はコムーネから
資金を受領してフィレンツェ領内から民兵を掻き集めなければならなかった


そんだけ
501峠を越えて:03/08/27 22:47 ID:???
 やがてフィレンツェの富裕な市民は従軍するかわりに市政府に金銭を支払って軍役奉仕を免れるようになり、
1325年、遂に市は軍役免除税を正式に規定した
 この軍役免除税によって、富裕市民は名誉を守りつつ兵役から解放されることになった
 しかし、軍役免除税は豊かではなかったポポロ・ミヌートにとっては過大な戦費負担にしか過ぎなかった
 ポポロ・ミヌートにとって、ポポロ・グラッソの政権獲得後に頻繁に行われた戦争は、全てポポロ・グラッソの
経済的利益のために行われていると映った
 しかも戦場は軍事能力が皆無に近いフィレンツェ市民にとって鉄と肉の怪物が横行する鉄火場だった
 こうなると、ポポロ・ミヌートがあからさまに軍役奉仕を忌避するようになるのは当然で、
ポポロ・グラッソはポポロ・ミヌートに軍事力を期待できなくなり、遂に彼らを武装させることに危惧を覚え、
ポポロ・ミヌートの武装解除に踏み切ることになる
 こうして民兵の戦術的限界と市民の兵役忌避により13世紀末から14世紀初頭にかけてフィレンツェ民兵軍は
消滅し、かわって外国人傭兵が台頭した
 もっとも、この外国人傭兵は15世紀のコンドッティエーリとは違い、傭兵化しつつある封建軍だった
 中世末期の封建制の崩壊と封建貴族の経済的基盤の変動によって騎士身分に代表される小貴族の多くが
封主との封建的主従関係を維持しつつ、他方で金銭収入を求めて他国の諸侯や都市自治体に高い報酬で
雇われるようになっていた
 ドイツ、フランス、スペインの小領主や封建騎士たちが、自らの軍事技術を買ってくれる新しい雇用主を求めて、
手勢を率いてアルプスを越えた
 ルクセンブルクのハインリヒ、オーストリアのフリードリヒ1世、バイエルンのルードヴィッヒ、
ボヘミアのヨハン等の封臣軍が続々と職を求めてイタリアに入ってきた
 イタリアの諸都市はこれらの外国封建諸侯の訓練された軍勢によって自国の軍事力を強化できることに気づき、
高給をもってこれらの外国人軍隊を迎え入れた
戦争に生涯を捧げた外国人たちは、市民の最も技術の優れた職人よりも高い報酬を要求した


そんだけ
502外套と天秤と鎚鉾:03/08/28 22:31 ID:???
 フィレンツェもこうした解体しつつある封建軍を傭兵として雇い入れ、自国軍の強化を図った
 1267年、アンジューのシャルル1世の臣モンフォールのギーとその手勢のフランス騎兵800が、
1289年、アンジューのシャルル2世の臣アメリゴ・デ・ナルボンヌとフランス騎兵400、
1301年、フランス王弟シャルル・ド・ヴァロアとフランス騎兵800、1305年、カラブリア公ロベルトと
騎兵300、1315年、ランド・ダ・グッビオとその手勢、1325年、スペインのレイモンド・デ・カルドナ
とその手勢のブルグンド騎兵100、フランス騎兵130、更に他の都市から増援として送り込まれていた
フランス騎兵1500、ドイツ歩兵500、1326年、ナポリ王ロベルトの子カラブリア公と騎兵1000、
1336年、騎兵2000
 これらの兵力が13世紀末から14世紀前期にかけてフィレンツェに雇われた外国人傭兵軍だった
 これらの騎兵には歩兵や段列が随伴していたことはまず間違いないから、総兵力はより大きかっただろう
 彼らは全て純粋な意味での傭兵ではなく、傭兵化しつつある封建軍だった
 13世紀以降、フィレンツェが外国人傭兵を用いた戦争は、市の基幹産業である毛織物工業、カリマラの毛織商、
金融業と密接に関連していた
 1266年、ギルド市民政権が成立した際、大ギルドの成員が重要な役職についたが、1282年、
シニョリの成立とともに羊毛ギルド、カリマラ・ギルド、両替商ギルドの三大ギルドの政権が確立した
 これ以後、市の全ての経済活動のみならず全ての行政権がポポロ・グラッソに握られることになる
 ポポロ・ミヌートの指導者ディアノ・デルラ・ベルラは1292年にポポロ・ミヌートの支持でプリオリに
就任し、1293年に「正義の法令」が制定された際に民衆を扇動してポポロ・ミヌートによる市政の乗っ取りを
画策したが、大商人の反撃によって失敗し、1295年に市から追放された
 この事件を契機にポポロ・グラッソの政権は決定的なものとなり、この大商人政権の下で経済と政治は
完全に融合した
 こうして、フィレンツェの対外戦争は全て羊毛工業と金融業の発展のために遂行されることになる


そんだけ
503名無し三等兵:03/08/29 23:00 ID:???
非常に危険な深度と思われますので勝手ながらageさせていただきます。
沈んで欲しくないのであります。
504名無し三等兵:03/08/29 23:01 ID:WJ4Y3flb
あげてない・・・鬱
505大商人:03/08/30 01:02 ID:???
 フィレンツェの毛織物工業の由来は余り明らかではないが、もともとフィレンツェで生産されていた毛織物は
非常に粗雑で生産量も極めて僅かだったため、フィレンツェ領内とその周辺の限られた範囲でしか流通していなかった
 ところが、半製品的な外国産毛織物が輸入され、それがカリマラという商業資本家によって加工されるように
なってから、フィレンツェの毛織物工業は急速な展開を始めた
 カリマラ商人とは、資本をもって原料購入及び製品販売を独占すると同時にいまだ手工業の段階にあった
毛織物製造工程の一部を管理する商業資本家すなわち問屋商人だった
 従って、カリマラ・ギルドは主に毛織物を取り扱う商人ギルドだった
 彼らは当時の世界的市場だったシャンパーニュ大市で商品と貨幣の取引で活発に活動しており、
この市場から北フランス、フランドルの毛織物、特にアラビアの良質なガルボを輸入した
 12世紀中頃、アラビアの毛織物工業が没落して以降は、フランドル、オランダ、ブラバントから良質な粗布が
流入するようになった
 染料は、大青をエルフルトから、緋をアジアから、 明礬をフォケーア、ヴォルテルラ、ジェノアから購入した
 この製品に対する需要は最初からイタリア全土に根強く存在していたが、後には西アジアにも輸出され、
その地の染料や薬品などと交換された
 更に販路はフランスやイングランドにまで拡大された
 この原料輸入と製品輸出はほとんど全てピサを通して行われていた
 フィレンツェが頻繁にピサに戦争を仕掛けていた理由がまさにここにあった


そんだけ
506名無し三等兵:03/08/30 04:41 ID:???
何かやたら長文が増えたな
>>1としては千まで行って欲しいが、話が盛り上がってない(;;)
507名無し三等兵:03/08/30 05:42 ID:???
どう考えても軍板最高クラスの名スレにしていただいているというのに何を言うか。
508名無し三等兵:03/08/30 05:56 ID:???
他のスレのレベルが低す……
509名無し三等兵:03/08/30 08:14 ID:???
>>518
もしかしてこの>>1って講師の方をご存じないのだろうか・・・ヤレヤレだぜ
510名無し三等兵:03/08/30 12:42 ID:???
>>509
一方的に話だけで議論になってないから盛り上がってないと言っているのですが
511名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/08/30 13:43 ID:???
>510
そんだけ氏の講義に対して、疑問や異議を述べて、ちゃんと解説を受ける意欲があるなら、書き込みが人段落ついたら書き込んでみたら?
例えば、ドイツというか神聖ローマ帝国でいうなら、貴族から封を受けそれに従属している家人層が、騎士階層を構成する重要な役割を果たしていたわけだけれども、
それが重騎兵の軍事的異議の低下にともなって、いかに貴族をも取り込んで騎士階層が騎士階級化していったのか、軍事的な面から話を聞いてみるとかね。
512名無し三等兵:03/08/30 21:15 ID:???
>土方タソ
正直厨房レベルの知識しかないので
>騎士階層が騎士階級化
みたいな語の意味すら…ヽ(`Д´)ノ ウワァァァン!!
騎兵が主、貴族が従だった関係が騎兵の凋落とともに形骸化し、
単なる無駄飯ぐらいになっちゃった。みたいな話なんでつか?
急がしければ無理にとは言いませんが、解説お願いできないでしょうか。
513名無し三等兵:03/08/30 21:19 ID:???
と思ったけど、まずはそんだけ氏の講義が一段落ついてからですね。
512はスルーしてくだちい。
514名無し三等兵:03/08/30 23:17 ID:???
515505:03/09/01 00:48 ID:???
>>510
申し訳ありませんでした
516象太郎:03/09/01 16:12 ID:???
>510
講義が一段落するまで合いの手を入れないようにしているだけです
書き込みこそしないものの、ROMの数は相当多いはずですよ、二年ぶりですから
>515
続きをお願い致します
517名無し三等兵 :03/09/01 16:17 ID:???
>>516
そのとうり。オイラもROMってます
そんだけ氏続きをよろしく。
518名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/09/01 22:37 ID:???
>そんだけ氏

非常に勉強になる書き込みを、まことにありがとうございます。
長文書き込みをする一人として、貴君の書き込みは非常に多くの示唆を得ることができ、かつ多くを学ばさせて頂いております。
これからも書き込みを愉しみにさせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

このスレの書き込みのお礼は、いつか別のスレでの長文書き込みでお返しさせていただきますゆえ。

で、時々、シャア板で見る、そんだけ、の一言は、貴君の書き込みでいらっしゃるのでしょうか?(死滅
519名無し三等兵:03/09/01 23:13 ID:???
確かにレスできる雰囲気ではないよな。
>>1の面白くない気持ちも解らんではない。
520名無し三等兵:03/09/01 23:32 ID:???
誰かナポレオンとネルソン提督の戦いを語れる人はいない?
あれだけ欧州全域を席巻したナポレオンが、海ではネルソンに叩かれまくったのは興味がある事実だ。
521名無し三等兵:03/09/01 23:45 ID:???
む。
このスレは既に役目を終えていたように見えたから(註>>367>>368の日付)、
そんだけ氏が再利用のつもりで講義を始めてくれたと思っていたのだが、
その認識は誤りであったか?

漏れはそんだけ氏のお話をまだ聞きたい口なので、
元々のスレ住人さんが嫌がるというのなら、別に専用スレを立てようと考えるが如何であろうか?
まぁもう寝るから返事は遅れると思うけれど。

522大宮二等兵:03/09/01 23:55 ID:emJE1pDN
自衛隊も傭兵になって外貨稼ぐか?
523505:03/09/03 22:38 ID:???
>>516
私の早合点で不快な思いをさせてしまった>>1さんにはとても申し訳なく思っています
続きはいずれ別のスレを見つけて書こうと思っています
貴官のご活躍を記念しています、朋友よ
>>517
>>518
>>521
というわけですので恐縮ですが今暫くお待ち下さい
524名無し三等兵:03/09/04 01:00 ID:???
>>523
いやいや。お気になさらずに。。
長文を書いてくださったのに不快な思いをしたのであれば、申し訳がありません。
by>>1
525ベリヤ ◆rbseVr1Ek2 :03/09/04 01:05 ID:???
>>520
エジプト遠征の際にフランス艦隊壊滅させられて本国から断たれる。
有名なトラファルガーの海戦でイギリスへの上陸作戦の頓挫。同時に
ネルソン提督戦死。
526名無し三等兵:03/09/06 10:32 ID:???
ハーメルンの笛吹男を地で行く展開だな。
これで満足なのか?>>1
527名無し土方 ◆cDIj6u5gc. :03/09/06 13:27 ID:???
>526
まさかこんなことになるとは、思ってもみなかったのではいかと。
528象太郎:03/09/06 13:42 ID:???
>526
1を責めるのはお門違いではないだろうか
そもそも、そんだけ氏は再会を約束してくれている
又暫く待てばいいだけのことだ
529名無し三等兵:03/09/07 17:31 ID:???
>1が流れを読んでなかったってことでしょ
個人的には>503-504がいらんことしたなと思うが
530ハスケ ◆BnyPF68LQs :03/09/12 01:27 ID:???
応仁の乱…中世日本の転換期となった大紛争…。
興味はあるが、今は個人的な視点から掘り下げて行く時間がないな。
本を買う金も無いしなぁ。
中世日本の戦争の実像(武器・戦術レベルまでのミクロな視点をも含む)ってのは、
あまり語られないし、研究もされてこなかったようだから、その分興味が沸くんだよね。
と、保守兼ねてネタ振り&自分への宣言。(←これやっとかないと、気になる物が多い
オレは、自分自身で調べる対象を忘れるときがw)
531名無し三等兵:03/09/13 01:14 ID:???
そんだけ氏の連載はここと、ヨーロッパの剣は…、陣形と戦術以外にもありますか?
532名無し三等兵:03/09/13 12:20 ID:???
533名無し三等兵:03/09/17 20:45 ID:???
ageられて荒らされて廃墟になるというお約束の展開だったな。
534名無し三等兵:03/09/19 13:02 ID:???
真田雪村が家康の首を取っていたらどうなったじゃろ?

あんましかわらないかな??
535名無し三等兵:03/09/19 15:46 ID:???
秀忠と本多佐渡でなんとかやっていくんじゃない?
536名無し三等兵:03/09/21 15:30 ID:vvLHLq03
軍事は数学と同じで
いろいろな解き方を知っていれば
どんな問題にも対応できる。
537名無し因果応報@味ぽん:03/09/21 18:49 ID:???
ゴスロリチャーン(・∀・) ゴスロリチャーン(・∀・) ゴスロリチャーン(・∀・)
538名無し三等兵:03/09/26 01:20 ID:???
人類がいつから「戦争」を始めたのかはよくわからない。

アウストラロピテクスの時代、今からおよそ500万年前に生きていたと考えられている
彼らが、果たして平和的な生活を行っていたのか、それとも絶え間ない暴力を生きて
いたのかは、現在でも論争の的となっている。

時代をはるかに下った50万年前の北京原人の時代、人類は既に火を知っていた。
彼らは組織的な狩猟を行い大型生物を狩る技術を持っていたが、彼らがその武器を
同族に対して向けたかどうかという点については、考古学的な資料は沈黙している。
おそらく、彼らは棍棒や動物の骨を武器として用いていたのだろう。

7万年前に地上を闊歩していたネアンデルタール人は、一つの重要な武器を発明した。
それは、木製の槍で、先端は鋭利に削られ、かなりの殺傷能力をもっていたと考え
られている。そして、この時代、彼らは石斧を製作することも知っていた。そして、やがて
彼らは、石を打ち合わせてできる薄片が、鋭利な刃物として使用できることも学んだ。
しかし、彼らが同族に向かって武器を使用した証拠は、この時代にも極めて乏しい。
539名無し三等兵:03/09/26 01:21 ID:???
クロマニヨン人の時代、今から3.5-1.2万年前には、人類の武器製作技術は著しい進歩を
示していた。彼らは石や動物の骨を使って槍の穂先を作成し、槍投げ器を使って
槍の射程を延長することができた。しかし、彼らが洞窟に残した壁画に書かれた情景は
のどかで平和的なもので、人類同士の闘争が行われていたと明言できるような情景は
ほとんどない。

そして、1.2-0.8万年前の中石器時代になると、武器技術の革命が生じた。すなわち、
人類は弓矢と投石器、短剣、鎚矛を手に入れたのである。弓矢はおそらく地中海地方で
この時代の最初期に発明され、急速に広まった。弓矢は、殺傷能力を遠方に投射する
ことを可能にした。

また、同時に軍事技術の萌芽がこの時代には見られる。壁画からは、横隊や縦隊などの
隊列を組み、指揮官に統率された人々の姿を見て取ることができる。おそらくこれらは、
大規模な狩猟の際に行われた統率技術をその起源として持っているのであろう。壁画から
は指揮官が自分を周りから区別されるような徴を身につけていたこともわかっている。

そして、この時代には、人が人を対象として組織的な戦闘を行っていたと考えられる
証拠がいくつも存在しているのである。おそらく「戦争」は、この時代に始まった。
540名無し三等兵:03/09/27 03:19 ID:???
ふむふむ
541名無し三等兵:03/09/29 11:46 ID:???
戦争の起源ですね。組織的戦闘と殺人の違いを見分けることや、
殺人を伴う儀礼的なスポーツなどとの違いなどは難しそうですが。

素人考えで恐縮ですが
<殺人と組織的戦闘の違い
戦場のあと、例えば大量の殺害された人骨が纏まって出土する
戦場での統制に用いられる道具、例えば旗、楽器などの出土
集落の防備体制 獣の侵入を防ぐよりも遥かに厳重であること 人間の侵入を防ぐ体制が
整えられていること

などでしょうか。
542名無し三等兵:03/09/29 17:06 ID:???
>>541

# すみません、文体変えたくないので。

考古学においては、以下のような考古学的事実があることをもって戦争のあった社会、
もしくは戦争を知っていた社会が存在したことを認識する。これらの事実は互いに補い
合うものであるが、実際には問題も多い。どのような問題があるか、という点については、
以下で具体例について述べるときに触れる。

A. 集落が防御的な設備を持っていること。すなわち、高地集落、環濠集落、防壁の存在、
濠の存在、防御柵、逆茂木、のろし、出入り口の防御的構造、出入り口周辺での戦い
の跡、村の破壊、火事
B. 武器の存在。遠戦兵器と近接戦用の兵器、武器の破損と再生、防具の存在
C. 殺傷されたあとをとどめる人骨
D. 武器の副葬
E. 武器を模した祭器
F. 戦士や戦争場面の造形

このような遺跡や遺物が残されているのは、いずれも新石器時代になってからで、
しかも地域によってその時代に大きな差がある。日本では、弥生時代になって、
西日本で上のような性質を持った集落が発生したと考えられている。しかし、同時代の
北関東・東北からは、こうした性質を持った集落は発掘されておらず、おそらく戦争を
知らない社会であったと考えることができる。
543名無し三等兵:03/10/02 02:12 ID:???
さて、ここで問題。「戦争」とは何か。

我々が当然のものと考える戦争(たとえば、「国際人道法」(藤田久一)では、a prioriに
戦争という用語を使用し、その定義を与えていない)は、実は非常に近代的で西欧的な
概念であると言うことが可能であるかもしれない。なぜなら、国際法における戦争とは、
戦意の明示もしくは黙示の表明をともなう武力紛争として定義され、その手続きとして
1907年の「開戦ニ関スル条約」に定められた開戦宣言、もしくは条件付開戦宣言を含む
最後通牒を行うことを要するとされているが、このような戦争の定義は20世紀に入って
からのものである。また、この戦争の定義は、1933年のモンテヴィデオ条約に定義されて
いる主権国家の存在をその暗黙の前提としている。したがって、こうした戦争の定義を
新石器時代に適用することは困難である。

我々はより緩やかな「戦争」の定義を、文化人類学から得ることができる。文化人類学に
おける最大公約数的な定義は、「政治集団間の組織的な武力紛争」というものである。
この定義はきわめて広く包括的なものであることに注意されたい。政治集団、という用語は、
国際機関から血縁共同体までの様々な集団を含むことができる。そして、組織という
用語も、国家の正規軍から、リーダーを有する武器を手にした集団までをさすことが可能である。

新石器時代の「戦争」は、おそらくこのような緩やかな定義に従った場合に、「戦争」と
呼ぶことが可能であったものだったのだろう。この意味での「戦争」は、曖昧な定義であるが
ゆえに、「戦争」と呼べない周辺的な武力行使の様態を伴うことになる。

そうしたものを含めて、現在の「未開」部族が示す「戦争」や「武力行使」の形態を眺める
ことは、石器時代の「戦争」を類推する上で何らかの手助けになるであろうから、以下では
それについてみることにしよう。
544名無し三等兵:03/10/04 00:02 ID:???
わくわく
545名無し三等兵:03/10/06 20:08 ID:???
hosyu
546名無し三等兵:03/10/09 01:57 ID:???
というわけで、国家を形成するには至っていないいくつかの社会における戦争の
形態について概観してみることにしよう。注意しなければならないのは、これらの
社会における戦争が記録されたのが、ほとんどすべての場合において、その
社会と西欧文明との間の接触が行われた後であるという点である。
つまり、我々は、常に西欧人の持つ「未開」社会に対する偏見、西欧文明との
接触によって生じた「未開」社会の変容などを注意深くかっこに入れながら
眺めなければならないのである。
さて、我々が国家を形成しない部族社会や狩猟採集民の社会を観察すると、
戦争とまでは言えないが、戦争の一歩手前とは言えるような武力紛争が存在
していることに気付く。こうした武力紛争としてよく知られているのは、報復闘争
(いわゆる復讐)と掠奪・襲撃である。前者は、殺人をきっかけとして被害者側の
集団が殺人者側の集団のメンバーを殺害して復讐を遂げようとした場合に生じる
闘争のことである。この場合に単位となる集団はリネージ・クランなどの出自
集団や、村落などの居住集団であることが多い。この報復闘争は、うまくコントロール
され調停されないときには、時としてより大規模な闘争に発展することがある。
そのような例を我々は後で見ることになるだろう。
掠奪・襲撃も様々な形態をとる。獲物となるのは主として牛や女である。夜陰に
まぎれて数名で数頭の牛を奪うような小規模な掠奪も行われるが、南部スーダン
のナリーム人のように、人口の1割弱が武器をもって参加するような、大規模な
掠奪も存在する。
ナリーム人は指揮官の指揮のもとに終結し、自らをいくつかの異なる機能を
持つ部隊に分割する。偵察隊は掠奪を行う放牧地に先行し、情報を収集して指揮
官の下に持ち帰る。そして突撃隊が牛の放牧地を包囲し、残余の部隊が放牧地を
正面攻撃する。掠奪行為そのものは掠奪隊というそれ専門の部隊が行う。また、
掠奪が終わり、自分たちの村落に帰還するときには、敵の追っ手を妨害するために
殿軍を配置して防御陣形を取る。このような掠奪行は時として300kmもの遠方に
まで及ぶ。

547名無し三等兵:03/10/18 09:16 ID:???
そんだけ氏はいつごろ復活するんだろう。
皆様ごきげんよう。
>518の約束を果たしてみようかと、少々の書き込みなどを。
よろしければ、しばらくお付き合いくださいませ。

1950年6月25日より始まった朝鮮戦争は、北朝鮮軍の開戦奇襲の成功によって韓国軍が大きな損害を受け首都ソウルが陥落したことにより、3年余りの長期にわたって戦争が継続する結果となりました。
以下は、開戦よりソウル陥落までの戦争経過を、各師団担当正面ごとに時系列に沿って記述したものです。

1950年6月25日は日曜日であり、韓国軍の各部隊の大半は、兵士に外出許可を出しており低い警戒態勢にありました。
これは、3月以来繰り返し警戒警報が出されていたために韓国軍に馴れが生まれ、全体的に緊張が薄かったことと、4月以来部隊は警戒待機下にありその間特に異状が発生しなかったため、将兵に休暇が必要であると判断されたこと、が、理由とされています。
また、1948年4月の済州島蜂起からあと韓国全土で左翼勢力の蜂起が相次ぎ、その掃討に韓国軍主力が拘束されてもいました。
実際に38度線国境付近陣地に配置されていた部隊の数は、韓国軍の61個大隊のうち11個大隊であり、残りの大隊のうち25個がゲリラ討伐のために南部に分散配置され、残る25個大隊は第一線師団の予備としてソウル−原州−三陟の地域に駐屯しておりました。
北朝鮮軍による国境突破は、半島西部では、第1軍団に所属する、第1、第6師団と第203戦車連隊、第206機械化連隊が韓国軍第一師団を、第3、第4師団と第107、第109戦車連隊が第七師団を、それぞれ攻撃することで始まりました。
半島東部では、第2軍団に所属する、第2、第7師団と独立戦車連隊が第六師団を、第5師団および第766、第424、第200の独立連隊が第八師団を、それぞれ攻撃することで開始されました。

北朝鮮軍は、6月25日0430頃より38度線全線で砲迫3000門による攻撃準備射撃を開始し、30分後に全線で国境線を越えて侵攻を開始しています。
韓国軍陸軍本部が、甕津半島の第十七連隊からの緊急電報を受け取ったのが0600頃であり、続いて議政府正面の第七師団からの緊急電報が入ったのが0830頃でした。
そして、全軍に非常呼集がかけられ作戦命令が発せられたのが0700前後であったのです。
甕津半島の第十七連隊は、北朝鮮軍第3警備旅団及び第6師団第14連隊の計6800名の来襲を受け、第一線大隊の各分哨は壊滅し、その主力も包囲されました。
第十七連隊主力は、これまでの国境紛争の際と同様に反撃に移ったが、兵力が約二倍半で装備も優越する北朝鮮軍の撃退に失敗し、26日朝、派遣されたLST3隻に分乗して仁川に撤退しました。
開城の第一師団第十二連隊は、北朝鮮軍第6師団主力の2個連隊の攻撃を受けています。
第6師団長は、第6師団第13連隊で、地域一帯の制高点でもある松岳山正面から攻撃をかけて第十二連隊を拘束し、第6師団第15連隊を京義本線鉄道を利用して列車で一気に開城駅まで突進させ、腹背から挟撃することを決心しました。
25日朝の時点で、第十二連隊は多くの兵に休暇外泊を与えていたために実勢力は通常の半数くらいであり、全線にわたって配備は手薄でした。
このため、第6師団長の奇計は成功し、第十二連隊は南北より奇襲を受けて壊乱し、開城は0930頃には完全占領されてしまったのです。
なお、第十二連隊で部隊として後退に成功したのは、連隊本部と2個中隊のみであったとされています。

高浪浦の第一師団第十三連隊は、0500頃より北朝鮮軍の砲兵射撃が開始され、後、北朝鮮軍第1師団及び第203戦車連隊(T-34x40輌)の攻撃を受けています。
連隊は、まず57mm対戦車砲で射撃をしたが効果が無く、続いて爆雷や梱包爆薬、柄付き爆薬などをもって肉薄攻撃を行いました。
これにより、北朝鮮軍戦車4輌を撃破したものの、第一波約90名全員が戦死したため、後に続くものがいなくなりました。
このため、北朝鮮軍戦車は陣地の突破に成功して国境陣地背後から射撃を開始し、第十三連隊はそれ以上の防御戦闘を断念して、25日夜に陣地を撤収し、臨津江南岸の既設陣地に移動しています。
ソウルの北20kmの水色にいた第一師団司令部と第十一連隊は、秩序良く北上して25日中に臨津江南岸の文山里付近の既設陣地に入りました。
第一師団長は、第一師団の目的は、北朝鮮軍をソウルの西側から進入させないことであるとし、その目的を達成するために陣地に拠って遅滞防御を行うことを考えていました。
このため師団長は、戦前より各部隊長に対し、開城−高浪浦の線の陣地は警戒陣地であり、師団の主抵抗線は臨津江南岸の高地線であることを徹底させていたのです。
これによって、第十二連隊及び第十三連隊、休暇外泊中の将兵が三々五々と陣地に集結しつつありました。
このため、第十二連隊主力の臨津江渡河後に臨津鉄橋を爆破する予定は遅延し、北朝鮮軍第1師団は第十二連隊と混交状態で急追しため、第一師団は鉄橋の爆破に失敗し、橋は無傷で北朝鮮軍の占拠するところとなってしまいました。
この結果、翌26日朝0900頃、北朝鮮軍第6師団の一部が文山駅の北側高地を占領し、第十一、第十三連隊の背後から圧力をかけ得る態勢となってしまったのです。

第一師団は、この京義本道を制する緊要地形である高地を奪回するべく、増援として到着した陸軍士官学校教導隊の2個中隊相当の部隊をもって1000頃逆襲し、高地を奪回しています。
さらに、北朝鮮軍主力の渡河がいまだ終了していない態勢に乗じて、師団の全力をもって反撃に出ました。
1300第十一連隊は増援の歩兵学校教導隊を配属され、臨津鉄橋方向へと進発し、師団左翼の主抵抗線の回復に成功したのです。
しかし、北朝鮮軍の優勢なる砲兵の猛射を受けてそれ以上の攻勢は持続せず、さらに第十一連隊の背後に北朝鮮軍の戦車が回りこんで退路を断ち、第十一、第十三連隊の全面に圧力をかけてきました。
結局第一師団は、現陣地でのこれ以上の抵抗を断念し、26日夕刻、各連隊に対し奉日川南方の後方陣地への後退を下令しました。
この後退は、さらに増援として到着した第十五連隊第三大隊、第二〇連隊第三大隊の協力を得て速やかに秩序良く行われ、翌27日早朝には、第一師団主力は再配置を完了しています。

第一師団は、師団長の陣頭指揮の適切と、それによって士気を鼓舞された将兵の勇戦によって、翌28日まで陣地を固守することに成功したのでした。
議政府正面に展開していた第七師団は、第一連隊に38度線を警備させ、第三連隊を東豆川、第九連隊を抱川に配置し、師団司令部を議政府に置いていました。
師団の任務は、反撃部隊の到着まで議政府付近を確保することでありました。

北朝鮮軍の主攻軸は、この議政府回廊に指向されています。
第4師団と第107戦車連隊が東豆川道から、第3師団と第109戦車連隊が抱川道から、議政府を目標に0530攻撃を開始しました。
北朝鮮軍の攻撃は、まず戦車と自走砲を韓国軍陣地の前面に進出させ、その支援の元に工兵が道路両脇のトーチカを破壊することから始まりました。
さらに、この正面攻撃の間、歩兵は急峻な崖を登って陣地の背面に進出し、道路を突破してきた戦車の支援の元、韓国軍陣地を攻撃し、0800頃には国境陣地の要点の占領に成功しています。
これらの攻撃によって第一連隊は後退を余儀なくされ、さらに後退中に急追してきた北朝鮮軍の戦車と自走砲のために大損害を受けてしまったのでした。

この第一連隊の防御戦闘中に、第三連隊と第九連隊主力は、それぞれ既設陣地に進入し、第九連隊は25日夕刻まで抱川北側の陣地を固守していました。
しかし、第三連隊は、第4師団師団砲兵主力と第107戦車連隊の主力の支援を受けた第16連隊の猛攻を受けて陣地を突破され、夕頃には東豆川を占領され、その南側に後退させられてしまいました。
春川攻略を担当したのは、北朝鮮軍第2軍団の第2師団であり、これを五台山で活動していたゲリラ部隊が支援する形となっていました。
第2師団師団長は、韓国軍の陣地が高さ300〜400mにも及ぶ切り立った崖のような水利山系にトーチカを中核とした野戦陣地を構築しているために、正面攻撃ではこれを攻略することは非常に困難であることを理解していました。
最大の理由は、錯綜した地形のために砲兵陣地の適地が少なく、主力である加農砲が使えず、榴弾砲もしくは迫撃砲が主力となり、これらの砲ではトーチカの銃眼を射撃することができないことにありました。
このため第2師団は、第4連隊に正面から牽制の攻撃を行わせて韓国軍の注意をひき、その隙に第6連隊が北漢江の河床道を潜進して、韓国軍陣地の正面を奇襲突破することを着想したのです。

第2師団は、攻撃準備射撃の後、予定の通り攻撃を開始し、第6連隊は北漢江の河川敷に進入しました。
しかし第6連隊は、待ち構えていた韓国軍の105mm榴弾砲の射撃を受け、両岸は断崖が多いこともあって退避することもままならず、大損害を受けてしまいました。
さらに、第4連隊も、水利山頂のトーチカ陣地を攻撃したものの、待ち構えていた韓国軍の猛射を受けて大損害を受けています。
河床道の第6連隊は、韓国軍砲兵の集中射撃によって損害が50%に達し、韓国軍陣地正面の第4連隊は督戦を受けて突撃を繰り返したものの、攻撃は頓挫したのです。
第2師団長は、予備の第17連隊を右第一線に投入したが、戦局を打開することはできませんでした。
北朝鮮軍第2師団は25日一杯力攻を続けたが、韓国軍第六師団も予備の第十九連隊を増援したために、北朝鮮軍の攻撃は進捗しなかったのです。
北朝鮮軍第7師団は独立戦車連隊(T34x30輌)の配属を受け、第六師団第八連隊を攻撃しつつ洪川へ向けて前進中でした。
第八連隊は、峻険な地形と肉薄攻撃によって防戦を行っていたが、25日夕刻には麟蹄南方25kmの三街里付近に後退させられてしまいました。
北朝鮮軍第2軍団長は、25日の夜、第7師団に対し「麟蹄に引き返し、春川の東方に進出して、第2師団と協同して春川を攻撃せよ」との命令を発しました。
第2軍団長は、北朝鮮軍最高司令部から与えられた「ソウル南側に進出して韓国軍主力を包囲する」任務の達成の為に、春川を奪取することを最重要視していたのです。
このため、目前の第八連隊の撃破よりも、第六師団主力を撃破して春川を占領し、第2軍団の一部でもソウル東南方に突進させることが、軍全般の企図に合致すると判断していたのでした。

第7師団は、一部を三街里に残置し、主力は山間の一本道を反転して26日の夕刻には春川東方に進出しました。
そして、ただちに春川の攻撃に参加し、戦車は道路から、歩兵は昭陽江両岸の切り立った高地を攻撃しましたが、まもなく日没となり、攻撃は進捗しませんでした。
翌27日、第2軍団は第2、第7両師団の攻撃を調整して総攻撃を実施したが、峻険な山岳の地形の為に戦車と砲兵の威力を発揮できず、第2師団の損耗が40%に達して攻撃力を失ってしまったのです。

北朝鮮軍第2軍団は、ついに春川の奪取に失敗しました。
韓国軍第六師団は春川の陣地を確保していましたが、東海岸の第八師団が敗退し、27日夕刻にはソウルの防御が崩れた為に、春川だけが敵中に取り残される格好となったのです。
このため第六師団は、27日夕刻陸軍本部の命令を受けて同日夜後退し、洪川南側の阻止陣地につき、江陵から原州に向かって退却中の第八師団を援護しました。
28日朝、北朝鮮第2軍団は春川の町を占領し、第7師団は洪川から原州に南下し、第2師団は加平を経てソウルに向かって前進しています。
東海岸道を守備していた第八師団は、師団司令部を38度線の南方24kmにある江陵におき、第一〇連隊に38度線南側の峻険な地形を利用した国境陣地を守備させ、第二一連隊を38度線南方64kmの三陟に駐屯させて太白山脈のゲリラを討伐させていました。
北朝鮮軍第5師団は、東海岸道を速やかに突進し、浦項付近に進出する任務を与えられていました。
北朝鮮軍最高司令部は、この第5師団の突進を支援する為に、第766、第424、第200などのゲリラ戦訓練を受けた独立連隊を韓国軍の後方に上陸させ、在来ゲリラとも連携させて、第八師団の退路を遮断させようとします。
それと同時に、以後内陸に浸透させて、中央道を南下する第2軍団主力の前進を援護させようとしました。

北朝鮮軍第5師団は、0500時攻撃を開始し、同時に漁船や小型貨物船に分乗したゲリラ部隊を、玉渓、三陟、臨院津港、江陵、に上陸させました。
三陟に上陸を企てたゲリラ船団は、第二一連隊の57mm対戦車砲によって2隻を沈められて撤退しましたが、玉渓には約400人、臨院津港には約600人、江陵付近には第766連隊の2個大隊が上陸して、第八師団司令部と各部隊間の連絡を遮断しています。
これによって第八師団は各所で分断され、26日、江陵の司令部で米軍顧問も全員出席の上で部隊長会同が行われ、師団は後退することを決定し、退路を内陸に選択したのです。

米軍顧問団は26日夜に江陵から原州に向かって退却し、同地で第六師団司令部と合流しました。
第八師団は、後方を整理し重装備を下げた後、27日陸軍本部に報告後、28日朝には整然とした退却に移りました。
第八師団は、この3日間の戦闘で731名の兵員を失い、29日に掌握していた兵員は6135名でしたが、火砲その他の装備はそのほとんどを持ち帰ることに成功しています。
6月25日0900頃に陸軍本部が把握しえた情報は、次の通りと考えられています。

1、甕津半島に配置されている第十七連隊は壊乱に陥り、米軍顧問は脱出を要請してきた。
2、開城から高浪浦にかけて配置されている第一師団は、戦車を伴う優勢な敵と激戦中。
3、議政府方面の第七師団は、第一連隊が突破され、第三、第九連隊が東豆川と抱川北側で戦車を伴う敵と交戦中。
4、春川方面の第六師団は、敵に大損害を与えつつ既設陣地を確保、固守している。
5、東海岸の第八師団は、第一〇連隊をもって38度線南側の既設陣地を固守し、ゲリラ討伐に投入されていた第二一連隊を集結中、ただし師団後方に上陸した敵部隊によって退路を遮断されている。

以上の情勢判断により、韓国軍参謀総長は、既定の防衛計画に基づき、南部の3個師団をソウル北方に集中し、議政府正面の北朝鮮軍に対して反撃することを決心したのです。
韓国軍参謀総長の反撃計画の基礎は、以下の三点にありました。

1:議政府正面の敵は、北朝鮮軍第4師団の1個師団と戦車数十輌である。
2:第一師団は、臨津江の障害を利用し得るので、陣地を持ちこたえ得るであろう。
3:第二師団は、明朝までにその主力を集結し得るであろうし、第三、第五師団も明日中には戦闘に参加し得るであろう。

これにより25日夜、第七師団は、東豆川の南側に集結し、翌朝からの攻撃を準備ています。
しかし、反撃のために抱川の第九連隊を招致しなければならないのにも関わらず、交代に来るはずの第二師団の部隊が到着せず、夜半に第九連隊を陣地を撤収させて主力と合流させることとなりました。
このため、一時的に抱川道を守備する部隊がいないという危機が生じていますが、北朝鮮軍の追尾が無かったために事なきを得たのでした。
大田に駐屯していた第二師団は、25日午後には北上を開始しましたが、ゲリラ活動や輸送計画の不備により師団主力の出発がいつになるかは完全に不明でした。
しかし、韓国軍参謀総長は、翌26日早朝より既定計画どおりに反撃に出ることを重ねて命令し、第二師団は抱川道方面から、第七師団は東豆川道方面から反撃に出ることとなったのです。
ところが、第二師団が26日の朝までに議政府に集結し得た兵力は、師団司令部と第五連隊の2個大隊にすぎなかったのでした。
このため第二師団長は、2個大隊の歩兵だけで攻撃してもどうにもならないと考え、この2個大隊で議政府東側の隘路を防御させ、主力が集結してから攻撃を行うことにしました。

こうした韓国軍の動きに対し、北朝鮮軍第1軍団は、韓国軍の南部集団が集結を終えるまでに議政府を占領することを目指していました。
また、ソウルに圧力をかけることによって韓国軍主力をソウル北方に誘致し、第2軍団によるソウル南方への仰回運動によってこれを捕捉し包囲殲滅することを目標としていたのです。
そこで、26日には、第3、第4師団とも2個連隊を並列して一挙に議政府を攻略するように指導したのです。

韓国軍第七師団は、予定の通りに反撃を開始しました。
この反撃は、北朝鮮軍第4師団が攻撃を開始しようとしていた矢先に先制攻撃をしかけた結果となり、第4師団は混乱状態に陥りました。
しかし、北朝鮮軍第3師団が、26日朝に無人になっていた抱川を占領し、引き続き第109戦車連隊を先頭に南下を続けたのです。
韓国軍第二師団第五連隊と支援砲兵が、道路上を突進してくる北朝鮮軍のT34に対して射撃を行いましたが、効果がなく、北朝鮮軍戦車隊はそのまま議政府に突入してしまったのでした。
続いて、戦車に続行していた北朝鮮軍第7連隊が、砲兵の支援の元に第五連隊に対して攻撃を開始し、逐次第五連隊の両翼を包囲するように機動し始めています。
第五連隊は、戦車に中央を突破され、さらに両翼を包囲されそうになったので、急速に戦意を失って東南方の山中に壊乱してしまいました。
この北朝鮮軍第3師団による議政府占領によって、韓国軍第七師団は退路を失い、南北から挟撃される態勢となりました。
このため、師団は重装備を放棄して議政府西方の山中に分け入り、議政府南方へと脱出することとなったのです。
北朝鮮軍は、26日の夕刻には完全に議政府を占領し、第3、第4師団は合一してソウルに迫る態勢をとりました。
しかし、それでは当初の計画にそわなくなる為に、議政府にとどまって翌27日の攻撃を準備しています。

韓国陸軍本部は、議政府正面の反撃の失敗に動揺し、逐次到着する第二師団の後続部隊や、第三師団、第五師団、首都師団も議政府道に投入し、北朝鮮軍の南下を阻止しようとこころみました。
しかし、27日の朝より始まった北朝鮮軍の攻撃に対し、これらの部隊は逐次投入される形となりました。
また各部隊は、それぞれ直接陸軍本部の指揮下で戦闘することとなり、各個ばらばらに無統制な反撃や防御を行うこととなったのです。
ですが韓国軍は、27日一杯は、ソウル周辺の山地丘陵地帯を占領して確保し、北朝鮮軍のソウル突入を阻止し続けていました。

27日1930頃、北朝鮮軍第3師団第9連隊は、戦車とともにソウルの東北角に突入したが、猛射を受けて撃退されています。
続く28日0100頃、北朝鮮軍の戦車がソウル市内に突入に成功し、その混乱の中で続く0215頃、漢江橋が韓国軍によって爆破されてしまいました。
この時点で、第二、第三、第五、第七、首都師団は、ソウルの外郭防衛線でそれぞれ組織的防御戦闘を継続していたのです。
しかし、北朝鮮軍が28日1130頃ソウルの中心部に突入し、ソウル市内東大門付近の防御線が突破されたことや、漢江橋が爆破されたことを知った各部隊は、一気に士気崩壊して漢江南岸へと壊走し始めました。
このため、装備のほとんどが遺棄され、各部隊は完全に組織的戦闘力を喪失してしまったのです。
28日終わりの時点で、韓国軍陸軍本部の掌握下にある兵員は、開戦当初の9万8千名に比し、2万2千名に減ってしまっていたのでした。
さて、上記の国境会戦の経過を見た上でまず思うのは、準備未完の状態で敵の攻撃を受けた際の戦線崩壊の速さですね。

韓国軍は、5月1日のメーデーを警戒して営内待機をしており、続く5月30日の総選挙の際に何かが起こる可能性を考えて警戒待機を続けていました。
また、平壌放送は連日南糾弾の放送を繰り返し、さまざまな「平和統一」策を提案するなどして揺さぶりをかけてきていました。
こうした北朝鮮のプロパガンダに対して、韓国国内の不満分子が蜂起する可能性を考え、韓国軍は6月11日より再度の警戒待機に入っていたのです。
すると、北朝鮮は平壌放送を通じて朝鮮独立運動の功労者である゙晩植と、韓国が逮捕していた南労党地下工作責任者の金三龍と李舟河の両名との交換を提案してきました。
これに対して、6月23日、韓国側はソウル放送で応諾する旨を放送しましたが、北朝鮮は回答をしませんでした。
こうした経緯から韓国軍は、同日が金曜日であり、農繁期でもあり実家の農作業の手伝いが必要でもあることから、将兵に週末の外出を許可したのでした。
このような長期にわたる緊張の連続は、実は人に馴れを発生させ、知らず知らずのうちに緊張を緩めさせてしまうのですね。
実は韓国軍も韓国政府も、北朝鮮軍に南進の意図があり、それに応じて必要な戦備の充実を図っていることを承知しており、ほぼ正確な北朝鮮軍の戦力と部隊配置を把握していたのです。
そうでありながらかくのごとき奇襲を受けてしまったのは、一つには、当時の韓国が非常に貧乏であり、戦車、野砲、航空機、その他重装備はおろか、地雷や鉄条網に至るまで、必要な装備の購入が制限されていたことがありました。
そしてもう一つには、韓国は、世界的な戦略情報はアメリカに完全に依存しており、肝心のアメリカが共産陣営の動向について非常に甘く見積もっていたのです。
そして、当時の韓国国内は、反体制運動が激化しており、各地で北朝鮮の支援を受けたゲリラが蜂起している有様であって、韓国軍はまともな練度には無かったということもあったのです。
ちなみに、白善Y将軍の第一師団は、大隊訓練を終えた時点で開戦を迎えましたが、他の師団は中隊訓練がようやく終了し、大隊訓練に移行する段階で開戦を迎える羽目になったということです。
この結果、個々の将兵や前線小部隊が勇戦敢闘しても、それを戦術的な勝利や、作戦上の優勢に結びつけることができなかったのでした。

開戦奇襲を受けずに済むかどうかは、敵がいつ、どのようにして戦争を開始するか決定する以上、事前に開戦そのものを予測することが極めて困難であるが故に、非常に難しいものがあります。
敵が十分な兵力を集結させ、示威行動を繰り返すならば、これに対応していくだけで我は疲弊し緊張を失っていくことになるのです。
この我の対応の不備を突いて敵が攻撃を行うならば、開戦奇襲は容易に成し得る事になります。
さて、続いて各方面の戦闘を見ていきますと、北朝鮮軍の戦車の活躍がまず目に付きます。
韓国は、その地勢から、例え戦車であっても道路上を進撃するしかないのですね。
開けたところでも、一度に4輌から5輌が横隊になるのが精一杯ですから、機甲衝撃力を発揮した驀進は不可能だったのです。
まして6月ですから水田には水が張っており、戦車も歩兵も、道路を離れて進むのは非常に困難であったのでした。
ところが、韓国軍に有力かつ十分な数の対戦車火器が存在せず、また北朝鮮軍のT34に対抗可能な戦車も存在しなかったために、T34が移動砲台や移動トーチカとして相互に援護しあいながら前進してくると、もはやこれに対抗しようがなかったのですね。
そのため、韓国軍の第一線部隊は、後退するか左右の山地に逃げ込むかするしかなくなり、北朝鮮軍は進撃路を確保して一気に突進することが可能となったのです。

春川正面での韓国軍第六師団の活躍や、東海岸での第八師団の離脱の成功は、北朝鮮軍の戦車の投入が無かったということが非常に大きな意味を持っています。
議政府の第七師団の壊滅の原因は、北朝鮮軍の機甲部隊が後方に展開して退路を断ち、師団主力が包囲されてしまったからなのですね。
また第一師団が、これだけ勇戦敢闘しつつも北朝鮮軍に圧迫され後退せざるを得なかったのは、北朝鮮軍の戦車が第一師団の両翼を迂回して後方に回り込み、随時圧力をかけてきたからなのです。
さらに、一度後退して予備陣地に移動し、あらためて準備を整えて敵を迎え撃とうとしても、常に北朝鮮軍の戦車が後衛部隊に圧力をかけ、場合によっては混交して部隊に追随してくるために、どうしても準備未完の状態で敵を迎え撃たないとならないという状況が起こっています。
第六師団が逆に北朝鮮軍に対してあれだけの損害を与えられたのは、険要地形によって事前の準備通りに陣地防御戦を行いえたから、というのが理由としては大きいでしょう。
また、第八師団がさほどの被害もなく戦場から離脱し、第六師団との合流に成功できたのも、追撃する北朝鮮軍に戦車が無く、容易に敵との間合いを取れたからでしょう。
さて、暴露歩兵の衝撃力の弱さは、春川戦での北朝鮮軍第2師団の壊滅からも明白なわけです。
第2師団は、第六師団に対して砲迫の数では圧倒的に優勢でした。
第六師団は、師団砲兵が105mm榴弾砲15門、各連隊に81mm中迫撃砲が12門と57mm対戦車砲が6門、各大隊に60mm軽迫撃砲が9門、というものです。
これに対して第2師団は、師団砲兵が122mm榴弾砲12門と76mm加濃砲24門、各連隊に120mm重迫撃砲6門、76mm榴弾砲4門、45mm対戦車砲4門、各大隊に82mm中迫撃砲9門と45mm対戦車砲2門、各中隊に60mm軽迫撃砲4門、でした。
時間あたりの投射弾量比は、韓国軍師団と北朝鮮軍師団とでは、約1:10にもなります。
しかし第2師団は、錯綜した険要地形によって陣地防御戦を行った第六師団によって、逆に砲迫に大きな損害を受けています。
その損害は、26日と27日の戦闘で、師団砲兵7門、76mm自走砲16輌、45mm対戦車砲2門、迫撃砲数門とされています。
これは、地形の制約から砲兵の陣地が限定されていたために、韓国軍が、陣地になりそうなところに予め射撃を準備していたことと、北朝鮮軍が直射支援のために無理に砲兵を前線に出して銃眼射撃を行ったこと、が理由として挙げられるのですね。
こうした、支援火力の発揮に難がある状況での徒歩歩兵の陣地攻撃は、あまりにも大きな損害を受けるのに比べて、戦果はほとんど得られない、という、南北戦争以来の当たり前の事実が明らかになったわけです。
ちなみに、第2師団の損害の大半は、第六師団の師団砲兵の105mm榴弾砲の射撃によるものとされています。

さて、こうした状況では、敵の阻止射撃に抗堪しつつ、敵の火点を制圧可能な装甲と火砲を持った戦車が大きな威力を発揮することになるのが明らかでしょう。
地形が峻険で、容易に敵の陣地防御線を迂回することができない場合、敵を攻撃するためには、陣地を正面から攻めなくてはならないわけです。
そうなりますと、どうしても敵の射撃に耐えられる装甲を有する火砲を第一線に展開させて、歩兵が陣地に突入するのを支援しなくてはならなくなるのです。

第六師団が春川でこれだけ粘れたのは、北朝鮮軍第2軍団長が第六師団を正面から撃破し、春川を占領することに拘泥したためであるわけです。
もし、第7師団があのまま直進して26日中に洪川を陥落させ、続いて第六師団を後方から攻撃していたならば、27日中に春川を陥落させることは不可能ではなかったでしょう。
重要なのは、いかにしてソウル南側に第2軍団主力を展開させ、韓国軍主力を包囲殲滅するか、であり、そのための攻勢発起点となる春川の攻略をいかに素早く成功させるか、でした。
漢江橋の過早爆破という韓国軍のミスがなければ、最悪の場合、韓国軍主力が漢江以南への離脱に成功し、漢江線沿いに防御線を引くことに成功していたかもしれないのです。
この場合機甲部隊の運用としては、敵の後方を遮断し、もって敵の継戦能力を無力化するという間接アプローチこそが、適当であったと言えるのではないでしょうか?
国境会戦から得られる戦訓は、まず開戦奇襲を受けないようにすることは非常に困難である、ということでしょう。
このため、敵の奇襲を受けた場合、いかに敵の浸透を防ぎ、味方が反撃準備を整えるまでの時間を稼ぐか、が極めて重要になるわけです。
そのためには、事前に周到な陣地構築と、砲迫の射撃準備を行っておき、可能な限り短時間で我の態勢不備を挽回して火力を発揮できるようにするか、にかかってくるわけです。

多数異方向からの同時攻撃を受けるならば、我は指揮能力が飽和し、容易に敵の突破を許すことになります。
これを防ぐには、我は十分な火力を準備し、敵の攻撃を火力によって妨害し、敵の攻撃の連携を乱す以外に方法はないでしょう。
そして、敵の攻撃の連携が乱れ、その隙に乗じて内線である故の彼我の相対的時間の優位を活かして、敵を各個に撃破し、敵の攻勢衝力を破砕するのです。

議政府回廊での韓国軍の敗北は、北朝鮮軍との相対的機動力で劣位にあったにも関わらず、あえて無理な反撃に出たことでしょう。
これは、韓国軍参謀総長が政治的にソウル陥落を許容できないという要請があったために、あえて無理を承知で行わせたものです。
しかし、当時の韓国軍と北朝鮮軍の戦力差から考えるならば、逆に無理な反撃は味方の防衛線の戦力を早期に喪失し、敵の攻撃を勢いづかせかねないのです。
そして、議政府回廊での第七師団の反撃は、まさしく師団の戦力を早期に喪失し、逆に北朝鮮軍の南下の勢いを強めさせ、増援として投入された第二、第三、第五、首都師団の各師団を敵の各個に撃破する機会を与えたに終わったのでした。
防御作戦においては、敵が攻勢限界に到達したか否かの見極めこそが重要になります。
敵が攻勢限界に到達する以前に、我が反撃に出るならば、逆に敵によって我の戦力は大きく減殺され、我の後退に乗じて敵のより一層激しい攻勢にさらされる事になるからです。
我の防御態勢の維持のための逆襲と、敵の攻勢破砕のための反撃は、似ているようで違うものであることを理解しなくてはなりません。

第一師団の臨津江での逆襲が、度々大きな効果を発揮したのは、これが味方の防衛態勢の機能の維持のためのものであり、北朝鮮軍の攻勢能力の破砕そのものが目的ではなかったからなのですね。
北朝鮮軍の攻勢能力の破砕は、あくまで陣地防御戦によって損害を強制することでなし、その陣地防御戦を戦い抜くための態勢の維持のために、必要な地勢や陣地の確保のために適時適切に逆襲を行っているのです。
多分に韓国陸軍本部は、この両者を混同して、第七師団に無理な反撃を強要し、結果として早期にソウルを喪失するという結果に陥ったのです。

とりあえず、今回はここまでとし、次は気が向いたときにでも書き込みさせていただきます。
それでは、皆様、ごきげんよう。
567名無し三等兵:03/10/28 12:14 ID:???
>名無しロサ・カニーナ氏
 朝鮮戦争史は微妙に時代とかの関心がずれていると思われ。
 戦術系スレとかへ逝ってヨシ
568名無し三等兵:03/10/28 13:40 ID:nuhFOShn
>>567
オマエガナー
569名無し三等兵:03/10/28 14:54 ID:???
567=1
570名無し三等兵:03/10/28 17:11 ID:???
うーむ、圧巻…
571名無し三等兵:03/10/28 18:08 ID:???
書き込んでくれる人にイチャモンをつけてまわってスレを廃墟にしようとする
>>1って一体・・・
572名無し三等兵:03/10/28 20:29 ID:???
朝鮮戦争ってすげー面白い(不謹慎ですが)と
思うけどなあ。
北朝鮮の奇襲から始まり、国連軍の必死の釜山防衛戦
仁川上陸作戦、国連軍の快進撃
中国軍の参戦と国連軍総撤退
再び戦線を立て直し少しづつ北進するものの、
陣地戦となり膠着状態に。
これだけドラマチックな戦争は近代ではそうないでしょう
573名無し三等兵:03/11/01 08:52 ID:???
核が使われなかったから減点−50点!
574名無し三等兵:03/11/01 10:19 ID:???
米ソ中がドンパチやってるのに戦場が朝鮮半島にコンパクトに
収まってるのもある意味「わかりやすい」しね
575トルエン大尉:03/11/01 16:29 ID:???
>>572
特にSLG向きでした。EPの朝鮮戦争は面白い。
576名無し三等兵:03/11/01 17:09 ID:???
朝鮮戦争ってもう50年も前なんですね。
日露戦争とWWIIの間隔より間が開いてる。
577トルエン大尉:03/11/01 17:17 ID:???
ジェット戦闘機以外はWW2の兵器やドクトリンで行われているからね。
578名無し三等兵:03/11/02 19:45 ID:???
>>547
そんだけ氏のイメージ

本職は宮廷かどこかの史学研究科の教官。教授って程でもないが30代の講師位か?
ソロソロ研究室のボンクラ共の卒業論文を書かせるためのネタ振り、締め上げに忙しくなる季節なのだが、
折悪しく大学祭なんかが始まっているので、思うように進まないが、持ち前の繊細さのために口出しが中々できない。

579名無し三等兵:03/11/03 01:42 ID:MVHDQU+s
>>655
蟹薔薇さまったら、どこにいらっしゃるかと思えば・・・。
(そのスレ、スゴい人が次々現れて1?の居場所が無くなってますなw)
580579:03/11/03 01:42 ID:???
スマソ。
誤爆しますた
581名無し三等兵:03/11/03 02:11 ID:???

「人類が昔は平和に暮らしていた」・・?ぷ

昔ローレンツという動物学者が同族を殺すのは人間のみと言っていたが
それは完全に間違いであるというのが明らかになっている。
あらゆる哺乳動物では同族殺しがあり、その割合は1000匹に一匹とか。

殺し合いやその延長の戦争は何万年前からあったし多分数万年後にもある。
それに備える必要があるのは歴然としていますね。
582名無し三等兵:03/11/03 04:09 ID:???
↑誰に対してのレスなんでしょうか…
583581:03/11/03 09:12 ID:???
>>582

538desu
584名無し三等兵:03/11/03 09:32 ID:???
全然盛り上がらないスレだね。
585名無し三等兵:03/11/03 11:58 ID:???
>>584
お前みたいな鼠賊が来るからな
586名無し三等兵:03/11/03 12:08 ID:???
全然盛り上がってるスレだね。
587名無し三等兵:03/11/03 18:06 ID:???
>>581
ライオンのようなハーレムを作る動物は、ハーレムの雄の交代のたびに子殺しを行う。
チンパンジーの中でも孤立した個体へのリンチが確認されている。
群の秩序を守るため、自分の子孫を残すため
理由は幾つかあるが、動物の同朋殺しにはそれなりの理由はある
人間の殺し合いもその延長だろうな
588名無し三等兵:03/11/03 21:56 ID:???
>>581

# あんまり頭の悪いやつの相手はしたくないんだけどな。

漏れは、>>538で、

>「人類が昔は平和に暮らしていた」

こんな主張はしていない。もう少し読解力を身につけるように。
589やれやれ:03/11/04 09:03 ID:???

588って、長文書くだけで頭はあまりよくなさそうですね・・・
590名無し三等兵:03/11/04 12:30 ID:???
漏れとしては、>>546の続きが読みたいのだが。
このスレは、止まるまで書き込みしづらい雰囲気はあるのが、良スレなので維持ヨロ
591名無し三等兵:03/11/04 16:18 ID:???
>>587
人間の場合、経済的理由が殆どだろうな。

一般的には、人間はその環境内の許容範囲まで人口を増やそうとする。
許容範囲が近くなってきた場合、人口の増加速度は緩やかになるが、
それは堕胎及び嬰児殺し(特に女児)、婚姻年齢の高齢化、授乳期間の延長、
その他、積極的あるいは消極的な人口抑制によって成し遂げられる。
一般的に考えられているのと違い、戦争は人口の長期的な抑制に役立たない。
なぜならば、出生率は女性の数に依存するからであり、
戦争で死ぬのは主に男性だからである。
こうした努力により、長期の人口抑制が行われても、多くの場合は最終的に人口が地域の養える人数を超える。
その場合、新たな生産様式を身に着けるのであるが、その際の原資となるのが、消費されるはずだった児童の生育コストである。
前近代において、狩猟採集から農業へと生産形態が変化したのも、主たる理由はこれなのだろう。

ま、保守ついでに駄文をつらつらと。
592やれやれ:03/11/04 21:36 ID:???


一生懸命書いているのに良い反応がないから、
今度は一人芝居ですか(藁。

私大文系の学生レベルの内容じゃあねえ。
その程度で勘違いしていると赤恥かくから
やめといた方がいいと思うよ。
593名無し三等兵:03/11/05 00:04 ID:???
しかし、もりあがらないね。

テーマも良いと思うし、そんだけ氏の光臨もあったのに
なぜ、盛り上がらないのか・・・・。
やっぱ、日本人は三国志と戦国時代、第2次大戦での話しか
興味ないのかな・・・・・・・。
594名無し三等兵:03/11/05 00:09 ID:???
ところで〉1はどうしたんだ?
手前がそんだけを追い出したんだからさっさと盛り上げろ
595名無し三等兵:03/11/05 01:07 ID:???

591=593=594 何がやりたいの?
自分の思うようにならなきゃ「盛り上がらない」、・・プ。
あのねボクがね、未だ来る所じゃね、無いのよ(藁。

596名無し三等兵:03/11/05 01:28 ID:???
>>595>>1
非常にわかりやすいwwww
597やれやれ:03/11/05 02:02 ID:???
>>569

根本的に完全に間違っているのに「わかりやすい」ねえ・・・・。

もう全く言葉もありませんねえ(苦笑。君、高校生だよね?
もしそうでないとしたら、Absolutely hopeless, malon, slucker
ですねえ(藁。書いてもいいけど、ネタにしかならないよ。
598名無し三等兵:03/11/05 05:19 ID:???
はは、「根本的に」間違ってるというなら、あなたが、その「間違ってる部分」を指摘しなされ。
このスレッドはネタを求めてるのですよ?
599名無し三等兵:03/11/05 07:11 ID:???
ついでにレベルも下がってるし。
そもそも、現代戦を理解するのに過去の戦史なんか必要ない
なんていう人が軍板にいるとは思わなかった。
愚者は体験に学び賢者は歴史に学ぶ。
勝つためならなりふりかまわず、役に立ちそうなことは
最低限行わないと勝負にもならない。
WARGAME(ボードね)とか、株式でも何でも良いから戦ってみればわかるのになあ
600名無し三等兵:03/11/05 22:11 ID:???
誇りまみれの歴史から学ぶものなど何もない
教条主義捨て去れば新人類の灯が点る
601名無し三等兵:03/11/05 23:12 ID:???
>>600
クラウゼヴィッツにしても、孫子にしても、教条というには、一般論なんだが…(苦笑
602名無し三等兵:03/11/06 06:45 ID:???
「誇り」にまみれているのなら、学ぶ価値もありそうなものだが(w
603名無し三等兵:03/11/07 14:54 ID:???
そんだけ氏の講義がどこかで再開されてないかとスレをしらみつぶしに回る日々……。
嗚呼、これはもう恋か。
604海の人 ◆STEELmK8LQ :03/11/07 14:57 ID:???
 そういえば、そんだけさんの講義だけ抜粋したサイトなんてないかなぁ。
605名無し三等兵:03/11/07 15:52 ID:???
>>599
漏がこのスレを建てた時には、皆さん、一様に過去の戦争など参考にならない
歴史板に移せと言われたよ。
むしろ過去の戦争が参考になるって言った人の方が少なかった
と言いますかぜんぜんいなかった。
606名無し三等兵:03/11/07 15:56 ID:???
ローマ帝国の命運を賭けた戦い
カルタゴとの三次に渡るポエニ戦争。
特に第二次ポエニ戦争では、カルタゴの名将ハンニバルが、包囲戦を初めて採用した。
これでローマ軍を殲滅した。
さらに象を用いた戦法は密集戦法。
これはいまの戦車戦の原形とも言えるな。
ガリア戦では、ゲリラ戦を行うガリアに対しての焦土戦
何のことはない。第二次大戦の戦法は全て、この当時からあったのだよな。
607名無し三等兵:03/11/07 19:29 ID:???
>>603
申し訳ありませんが、このスレへの仁義もありますので再開は当分先になります
608名無し三等兵:03/11/08 00:06 ID:???
良レス排除にしか興味のない輩は措いとくとして。

>>607
603ではありませんが、心待ちにしてますよ。
このスレ以外で再開される場合には、一言書きこんでおいていただければ
望外の幸福です。
609名無し三等兵:03/11/08 02:27 ID:???
>605
てめぇの糞スレを良スレに変えてくださった恩人に泥をかぶせるような真似をして、
よく出てこれるな。消えろ。
610名無し三等兵:03/11/08 07:34 ID:???
まあまあ落ち着いて
611名無し三等兵:03/11/08 14:25 ID:???
過去の戦争云々以前に軍事になんて詳しくなってどうすんの?(プ
612名無し三等兵:03/11/08 14:32 ID:???
それを言っちゃあおしめえよ
613名無し三等兵:03/11/08 14:34 ID:PaL8xQA/
>>611

まあ、趣味だしな。
生きていく上では知らなくても困らない可能性が高いだろうな。
614名無し三等兵:03/11/08 14:35 ID:???
>>605
そりゃお前が「過去の戦史を知らなければ現代戦は理解不能」とかわけわからん事言うからさ
「過去の戦史の教訓は現代戦にも通じるものがある」と
「過去の戦史を知らなければ現代戦は理解不能」と言うのでは意味合いが全く違う
615名無し三等兵:03/11/08 14:40 ID:???
そういや。
中国戦線で調理をしていた兵士がカレーを作っていたら。
上官殿に「おい貴様!臭いで敵にばれるだろ!!処刑だ!!」
などと理不尽な事を言われるんだけど。その時上官殿の腹がなってしまい、
上官殿が「俺にも後でもってこい・・・」
と言って帰っていくというエピソードがなんかなかったっけ?
616名無し三等兵:03/11/08 14:44 ID:31KXUv5B
帝国ホテルの料理長のエピソード、このシトは東京オリンピック選手村のレストラン総コック長もやった。

終戦後、シベリアでもずいぶん苦労した。
617名無し三等兵:03/11/08 14:56 ID:???
え、実際問題として、そんなことで処刑されることってあるの?
臭いで気づかれると思うなら。怒鳴るなよって感じだし。
618名無し三等兵:03/11/08 15:22 ID:???
>>616

その人ってシベリアでロシア人に死にかけの日本兵のためになんか作ってやれ。
と言われたのでなにが食べたいと聞いたら「パイナップルが食べたい」
と言ったので。ロシアの食料庫にはりんごと調味料しかなかったので。
りんごを砂糖で煮てパイナップルに味をにせたんだよね。

しかし、本当にロシア人は酷いな。
619名無し三等兵:03/11/09 13:03 ID:???
人生なんにでも応用はできる。
本屋にも孫子に学ぶビジネス戦略とか
あるじゃん
620名無し三等兵:03/11/09 16:32 ID:???
クラウゼヴィッツもあるな。
役に立った事はないが。
あえて言えばランチェスターくらい?役に立つのは・・・
621名無し三等兵:03/11/09 17:47 ID:???
役に立つか立たないか、興味があるかないかを決めるのは個人の主観。
役に立たないと思うならそれでもいいし、興味がなければそれでもいいだろう。
しかし、自分の貧弱な価値観で他人の行動を評価して悦に入るのは見苦しい。
それは単に無知無能な人間が他人に嫉妬しているだけだ。
622名無し三等兵:03/11/09 19:51 ID:???

はいはい、高校生はこんな所に来ちゃだめでしょ。

・・ったく一目で分かるわ(藁。
623621:03/11/09 21:43 ID:???
どんなこともこじんのしゅかんだから、ぎろんのひつようなんてないんだよ。
624名無し三等兵:03/11/09 21:45 ID:???
>>622
厨房もカエレ
625名無し三等兵:03/11/09 21:48 ID:???
>>624

オマエモナー
626617:03/11/09 21:51 ID:???
シカトかよ。
627名無し三等兵:03/11/14 12:17 ID:???
>>621-626のようだから、糞スレだの厨房どもだのって言われちゃうんだよ。
もっと建設的にマタ〜リ行こうぜ。

なんにしろ、学びは楽しいのだ。それで無問題。
知識へのマッチョイズムは捨てて、素直に教えを請うようにならないと(と自営業閣下のように老成してみる)
628名無し三等兵:03/11/15 21:08 ID:???
hoshu
629名無し三等兵:03/11/26 19:14 ID:???
良スレ保守
630名無し三等兵:03/12/05 19:30 ID:???
age
631名無し三等兵:03/12/06 20:04 ID:???
もうこのスレは寿命ではないだろうか。
632名無し三等兵:03/12/06 20:23 ID:???
>>631
そんだけ氏の講義再開を待っていると思われ。

633名無し三等兵:03/12/06 22:02 ID:???
>>632
すいませんがこのスレでは再開しません
内容はこれからどんどん地味で盛り上がらなくなっていきますから
あまりこのスレにはそぐわないと思います
それにいくらか加筆修正を加えて最初から仕切直しますので、
恐らくこのスレの容量が保たないでしょうし
634名無し三等兵:03/12/07 00:21 ID:???
>>633
もーどこでもいいから兎に角読みたいっ!
皆様ごきげんよう。

それでは、以下のようなスレでも立てましょうか?


 【歴史を】白山の戦い【変えた】


   
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄」
―――――――――――――‐┬┘
                        |
       ____.____    |
     |        |        |   |
     |        | ∧_∧ |   |
     |        |( ´∀`)つ ミ |  窓から投げ捨てろ!
     |        |/ ⊃  ノ |   |    ∩   ∩
        ̄ ̄ ̄ ̄' ̄ ̄ ̄ ̄    |    | .|∧_∧
                        |   | | (    )
                        |   (_ ゝ__ノ
636名無し三等兵:03/12/07 18:15 ID:???
>>635
いいです。
とかいうと「そんだけ氏の代用かよ!」と言われそうだが貴方のも読みたい。
ちなみにそんだけ氏土方氏のマジレスはテキストにして保存してあるんだよ。
637名無し三等兵:03/12/27 23:00 ID:???
今日はそんだけ氏の集中講義がありました。
9時から17時まで。場所は探してくださいね。それ臭い名前で引っ掛かりますから…

>名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/12/27 09:03 ID:???
ちょっとお借りしますよ
今年中に終わらせないと気持ち悪いもんでね
前スレリンク無し
加筆修正有り
最初から仕切り直し
638名無し三等兵:03/12/28 01:56 ID:???
THX、見つけたよ。
639名無し三等兵:03/12/28 02:18 ID:???
>618
第二次大戦終結直後のシベリアで捕虜のために苦労してそのリンゴを持ってきてくれたのもまたロシア人の中の人だということを知ってるかな?

しかし、本当に厨房の無知さは酷いな。
640名無し三等兵:03/12/28 03:40 ID:???
ひ〜 探してみたけどわからない〜
もちっとヒントください〜
641名無し三等兵:03/12/28 04:39 ID:???
>>640
そんだけ氏の専門分野は…中世欧州。
大昔の戦争、だな。いわゆる。
642名無し三等兵:03/12/28 07:58 ID:???
>641
640さんじゃないけど見つけたよ
ありがとう
643名無し三等兵:03/12/28 08:56 ID:???
しかし、他の人が中世欧州のことを書くと世界史板に行けとか煽られるんだが
そんだけ氏はこれだけ多くの人から慕われる。
やはり、書いているレベルによるのか
644640:03/12/28 15:00 ID:???
発見しました。
ありがとうございます。
645名無し三等兵:03/12/28 19:29 ID:???
>>641
漏れも見つけたよ。情報THX。
>641様
ごきげんよう。

私も見つけることができました。
情報をありがとうございました。
647名無し三等兵:03/12/28 22:26 ID:???
うーむみつからない。。。
これ系のスレ全部お気に入り登録してたつもりが・・・・

というよりこうすることにメリットあるの?
648名無し三等兵:03/12/29 00:33 ID:???
何でみんなこっちのスレにレスしてるんだろう?
649641:03/12/29 01:56 ID:???
うーむ、伝統的にそんだけ氏の講義開催中は、スレ汚しを防ぐためにその場所を秘匿されることが多いんだ。
今回は、お話としては終わったみたいだし、リンク先を提示しても良いような気もするのだが…

>>647
適切なキーワードで検索かけてくださいね。
650名無し三等兵:03/12/29 02:25 ID:???
それ以前に中断の経緯を考えればここで例のスレの話をするのはいかがなものか。
そんだけ氏のこのスレの1氏への気配りを無にしているのでは?
651641:03/12/29 03:00 ID:???
>>650
ごもっとも。
652名無し三等兵:03/12/30 14:45 ID:???
ごめん、見落としてた。
まだ残残ってたね。

と言う事で、「日本と世界の歴史的な戦争を語りましょう」スレにもそんだけ氏は降臨してるよ。
あと土方氏の朝鮮戦争講義も勉強になるよ
653名無し三等兵:03/12/30 14:49 ID:???
誤爆すまぬ
654名無し三等兵:03/12/30 20:13 ID:???
さて、もう日本と世界の歴史的な戦争について語りあわないのですか?
6551:04/01/12 11:33 ID:???
保守age
656名無し三等兵:04/01/13 23:06 ID:???
上げるならネタをくれ
657名無し三等兵:04/02/21 00:39 ID:???
個人的にはマイナーな戦国時代の島津あたりをきぼん
そのうちネタ降るけど。
658名無し三等兵:04/02/21 03:56 ID:???
hoshu
659366:04/02/21 05:53 ID:???
>>367
Thx
660名無し三等兵:04/02/21 05:54 ID:eHOeMt3+
Thx!!!!
661名無し三等兵:04/03/11 16:48 ID:???
ho
662名無し三等兵:04/03/26 03:09 ID:BXnjuHvV
663重巡 ブリンツ・オイゲン
ロシア人逝ってヨシ!!