第二次大戦中の東欧の軍隊、兵器を語るスレpart2
1 :
ホルティ支持者 :
03/05/21 20:02 ID:2EhEq+OM 大好きだった東欧軍隊スレが死んじゃったので新スレを立てました。 いちおう前スレのアドレスを・・・ http//hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1025095466//
2げっとずざー
3
軍板で4をとったのははじめてだ
スレ立てお疲れです〜。 折角の一周年を前に無念の散華ですた。 過去ログの見方はよく分らないけど、一応、見ることは可能みたいですね。 明日はお休みなので、かちゅの過去ログから、15日以降…って大したこと無いけど …ポコポコ貼り付けてみようかなと思います。
7 :
ギシュクラ・ヤーノシュ :03/05/22 00:18 ID:YkS4ONkH
参りましたね・・・。ここ数日サーバーがおかしいみたいでしたが・・・。 全スレでアームズマガジンの記事の話が出てましたが、宮崎駿氏の雑想ノート もどきの代物でした。戦艦シュマンクマイエルってなんじゃい・・・。 しかもヴァルタヴァ川を戦艦が遡上するなんて非常識な話でした。 嘘話は上手に作らないとしらけるだけですなぁ・・・。 二重帝国崩壊後、一時期、戦艦の一部をチェコ船籍にして海軍を保全 しようとしたとか耳にしたことがありますが、本当でしょうか?
8 :
山崎渉 :03/05/22 00:56 ID:???
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
>7 ま、過去ログは保存して読めるみたいですから。 さて、二重帝国崩壊後の戦艦というか、各種艦艇の移籍は確かマジャール王国 への移籍が検討されていたはずです。 元々、ハプスブルク家の温存のために、Austriaからマジャールに移って、此処で 王家を再興しようとした訳で、しかも、敗戦国Austriaの支配下に置かれていた地域 (敢えて国とは言わない)なのだから、軍関係のものは接収されることはないだろう と言う目論みがあったようです。 が、クーンによる赤色革命が勃発してしまい、内戦でホルティ率いる白軍を支援した CzechoslovakiaとRomaniaに国土が蹂躙され、しかも、周辺各国ともハプスブルク家の 復権は何が何でも阻止する動きを見せていました。 更に、戦争による領土獲得の為に、広大な領土を有するマジャールを敗戦国に仕立て 上げないといけなかったので、結局はその温存策が出来ず、ポシャッたかと記憶して おります。 ちとうる覚えではありますけどね。
>>9 多くの人が勘違いしているが「うる」ではなく「うろおぼえ」が正解。
age
12 :
名無し三等兵 :03/05/24 21:34 ID:IfzPLfIA
初めまして。 私はこのスレのテーマに関してはまったくの素人なのですが、オーストリア ・ハンガリー二重帝国海軍に関心がある者として初めてレスさせていただき ます。 今ハンガリーやホルティに関する記述がなされているようですが、ホルティ といえば第一次大戦時に巡洋艦・駆逐艦部隊を率いてイタリア沿岸部やオト ラント海峡の連合国封鎖線を襲撃した気鋭の提督として知られております。 まず1915年5月23日にイタリアが対オーストリア宣戦すると即座に出動し、 翌24日には軽巡洋艦ノヴァラ、駆逐艦1隻、水雷艇4隻を率いてコルシニの敵 水雷艇と信号場を襲撃しました。
ホルティ・ミカローシェ 折れ的には昭和天皇に馬を送ったってのしか知らない。
14 :
12 :03/05/24 23:28 ID:IfzPLfIA
ふと気づいたのですが、ホルティ提督の初(だと思うおそらく)のイタリア沿岸部 (コルシニ)襲撃は今から88年前の今日なのですね。 ちなみに、この時アントン・ハウス提督(二重帝国海軍司令長官)率いる本隊(ド 級艦フィリブス・ウニーティス以下の戦艦10隻、駆逐艦4隻、水雷艇20隻)もアン コナを砲撃しております。
ホルティって海軍の軍人なのに軍事クーデターで陸軍部隊を率いてたりする謎。 あと勝手に摂政になったりする謎。
>12 いらっさい。 数人でこのスレ維持も大変なので、引き続き参加宜です。 >15 第二次大戦ネタだけでこのスレ引っ張っていくのは難しいのよ。 それに第二次大戦の東欧については、バルカン戦争とかそれ以前の露土戦争 まで遡らないと時代背景が理解できないのです。 元々のスレには第二次大戦ネタがたくさんあったので、徐々に紹介していこうと 思っていますが、前スレでも許容さ入れていたことだし、この程度の脱線は許容 して下され。
18 :
名無し三等兵 :03/05/25 22:37 ID:CyzhvOzI
へぇ、昔のハンガリーには海があったんですか 何読めばそんなことが載ってるのですか? 世界の艦船とかでもイタリアの話題はありますけど
>>18 ネタか?ヨーロッパの内陸国は河防艦が発達したんだよ。
オーストリア海軍も有名だろ。「サウンド・オブ・ザ・ミュージック」のトラップ大佐は実在の人物だぞ。
まあモンゴル海軍とかも実在したことだし。
煽りにマジレスするのも阿呆らしいが。 >18 偶には歴史の本でもご覧なさいな。 1918年まではマジャール王国にも海がありましたから。 タイムズアトラス歴史地図など、図書館で借りて読んでご覧なさい。
ルーマニア海軍も有名だぞ。 二次戦のときドイツ海軍に編入されたりして。
23 :
名無し三等兵 :03/05/25 23:10 ID:CyzhvOzI
トラップ大佐は映画では若目のおじさんですよね。 あんなに若くて偉くなれるんですか?
25 :
12 :03/05/26 00:14 ID:ob0QhMAj
元々の東欧軍隊スレでも眠い人様がおっしゃっていたと思うのですが、オーストリア ・ハンガリー二重帝国時代には、ハンガリーには唯一の海への出口フューメ(現クロ アチア領リエカ)がありました。 ここのダヌビウス造船所では、元々帝国海軍の駆逐艦や水雷艇などの小艦艇しか建造 されていなかったのですが第一次大戦前夜に拡張され、新鋭軽巡洋艦ノヴァラ(ホル ティ提督の艦)とヘルゴラント、フィリブス・ウニーティス級ド級戦艦の4番艦セン ト・イシュトヴァーンなどの大型艦も建造されるようになりました。
26 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/05/26 00:33 ID:n7ivijv1
>18 ついでに教えてあげると宮崎駿氏のアニメ「紅の豚」で主人公が 豚さんになる前、第一次大戦当時の空戦シーンで登場する敵機は オーストリア・ハンガリー海軍の航空隊の飛行艇です。
27 :
名無し三等兵 :03/05/26 01:14 ID:+JhWJ0su
トラップ大佐はサブマリンエースです。 オーストリア・ハンガリー海軍では第一次大戦前に潜水艦部隊が編成されると 伝統にとらわれない気風と高給により若い士官の関心を引きました。 開戦時7隻の近海用潜水艦しか持っていませんでしたがフォン・トラップ中尉は その中の艦長の一人でした。 海軍上層部の無理解によりオーストリア・ハンガリー海軍の潜水艦作戦範囲は 母港であるプーラ付近にのみ許可が出されていて、アドリア海南部での戦闘も 困難でしたので、1916年終了時点で中小型船を18艘しか沈めることが出来ませんで した。 しかし17年になりようやく考えを改めた海軍は、随一の長距離作戦が可能な U-14と新型のU-10型2隻の潜水艦を南のカッタロに移動させて無差別潜水艦戦 を宣言しました。上のレスにあるオトラント障壁に対する打撃により地中海に 出撃可能となったU-14は2ヶ月で合計3万トンの船舶を撃沈する戦果を挙げました。 戦勝ニュースに飢えていた新聞はU-14の艦長フォン・トラップを盛んに エースとして取り上げ、国民的英雄扱いしました。 映画「サウンド オブ ミュージック」のエピソードにありますように、 ドイツがトラップ大佐を自軍に招こうとしていたのは潜水艦戦のエースで ある彼の実績と名声を欲していたからです。
>>27 今まで知らんかった。
まさかそんな凄い人だったとは・・・・・・・
でも笛とか吹いてる家族でハチミツ風呂とかに入ってそう。
31 :
12 :03/05/26 22:43 ID:ob0QhMAj
1917年になると無差別潜水艦戦の宣言により、オーストリア・ハンガリー海軍は 潜水艦の建造を促してこれを積極的に活用する方針を採りはじめました。 そして5月15日になるとホルティ提督率いる軽巡洋艦ノヴァラ、ヘルゴラント、サ イダ、駆逐艦2隻、水雷艇5隻がオトラント海峡の封鎖線を急襲してこれを破壊し たことにより潜水艦の地中海進出が可能となり、8月にはゲオルグ・フォン・トラ ップ大佐の指揮するU-14が上記のスレにあるようなすばらしい戦果をあげました。 また、地中海に派遣されていた日本駆逐艦「榊」がギリシャ・クレタ島沖でオー ストリア潜水艦U-27の襲撃を受けたのは同年の6月11日のことです。
で政権への道はまだ遠いの?>>ホルティ
Nagyb?yai Horthy Mikl耀 1868年生 1957(昭和32)年没 ケンデレシュ出身 ハンガリーの軍人・政治家 フィウメ(現、クロアチア リエカ)の海軍兵学校で学ぶ 第1次世界大戦中、オーストリア・ハンガリー帝国海軍提督 戦後、ハンガリーに帰国 1919(大正8)年 クーンの社会主義政府に対する反革命を指導 政権を奪取 ハンガリー国民軍総司令官 1920(大正9)年 国会で摂政に任命される 1921(大正10)年3月 前オーストリア皇帝でハンガリー王でもあったカール1世が復位を企図 これを拒否 10月 再度カール1世の復位を拒否 1938(昭和13)年 ミュンヘン協定 トリアノン条約でチェコスロバキアに割譲したスロバキアの一部をとりかえそうとするが、失敗 ナチス・ドイツに援助を求める 1938(昭和13)年 第1次ウィーン裁定 スロバキアの一部を獲得 1940(昭和15)年 第2次ウィーン裁定 ルーマニア領のかなり広い地域(トランシルバニア北部)を獲得 これらの見返りに、ハンガリーは第2次世界大戦でドイツ、イタリアに味方することを承諾 1942(昭和17)年 ドイツの敗戦を確信 連合国との単独講和を企図 1944(昭和19)年 ドイツ軍、ハンガリーを占領 親ドイツ政権を樹立 10月 ソ連軍、ハンガリーに侵入 ソ連との停戦を企図するがドイツ軍に逮捕され、特別列車でドイツに連行される 終戦時、バイエルンでアメリカ陸軍に逮捕される 1945(昭和20)年 釈放 1951(昭和26)年 ポルトガルに移住 もうちょっと
34 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/05/27 00:02 ID:Wyn0SeiC
シシィことエリザベート皇妃の孫で後に「赤い皇女」の異名をとる エリザベート皇女の愛人(!)エゴン・レルヒも潜水艦の艦長でし たね。艦名が手元資料が埋もれてわからないですが・・・。
35 :
12 :03/05/27 00:38 ID:jrFzLnKE
寝る前にレスさせていただきます。 オーストリア・ハンガリー海軍は第一次大戦勃発時には潜水艦7隻(U1〜6、U12) を保有しておりまして、エゴン・レルヒは潜水艦U12の艦長でした。 U12は1914年12月25日にはオトラント海峡に進出して同海域でフランスのド級戦 艦ジャン・バールに対し魚雷攻撃を行い、これを損傷させることに成功しました。
36 :
名無し三等兵 :03/05/27 00:39 ID:XBFsxX2M
37 :
名無し三等兵 :03/05/27 00:52 ID:BHZ+OszG
バルカン半島も東欧に入れていいでしょうか?
南スラブ話は前スレでも小さく盛り上がった事が。
39 :
黒装束 :03/05/27 20:35 ID:DQt3tQGR
>ホルティ提督のあとがまに政権についた矢十字党、 サーロシていうのはどんなやつ?
>フランスのド級戦艦ジャン・バールに対し魚雷攻撃を行い、これを損傷 >させることに成功しました。 「ジャン・バールを損傷させたのはマサチューセッツだろう!」と言う無知な 奴が出て来ることを予想して捕捉。 13.5インチ戦艦のオセアンの旧名がジャン・バールと言う
>>39 サーラシ・フェランツ(1897〜1946)
軍人の家庭に生まれる。
1935年、ファシスト団体「民族の意志」を創設し、後、「民族社会党」を結成したが
禁止され、投獄される。
1940年、出獄し、矢十字党の党首となり、1944年、ヒトラーの後押しで首相に就任。
反対派を徹底的に弾圧し、テロ政治を行う。
政権崩壊時に脱出に失敗し、逮捕され、戦後人民裁判で死刑に処された。
42 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/05/27 22:49 ID:NuVvuoLt
>24 トラップ大佐は1880年4月4日のお生まれです。 ですから「サウンド オブ ミュージック」の物語の当時は初老ですね。 いや〜、皆さんお詳しい・・・。
どうでもイイけどあの映画のラストに出てくる修道女はホンモノのトラップ大佐の娘さんです。 なんでもイイけどアルプスの位置からするとなんでドイツ側に逃げてるのか謎。
>なんでもイイけどアルプスの位置からするとなんでドイツ側に逃げてるのか謎。 それは演出だからしかたないYO
45 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/05/28 00:13 ID:2xzfI185
46 :
山崎渉 :03/05/28 15:50 ID:???
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
47 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/05/28 23:26 ID:KuhwUWbo
しようがないなぁ・・・。
48 :
黒装束 :03/05/29 21:21 ID:LXUu9B9i
>41 情報感謝。 昔映画で「ハンナ・セネシュ」というのがありましたが、 ファシスト時代のハンガリーをよくあらわしていました。 映画で知る限りサーラシはかなり残酷なヤシだったようで・・・ かなり短期政権でしたが。 個人的には漏れは東欧のファシストに興味あります。
49 :
名無し三等兵 :03/05/30 16:01 ID:CmkA6BT6
12 オーストリアってド級戦艦まで造ってたんですか? びっくり!!潜水艦は有名だけど・・・
チェトニクとかウシュタシェとか東欧のファシストの詳しい文献ってないでしょうか? わからんことがおおすぎる
>48 「諸君!私が国王に生まれていなかったら…私は『農夫』に生まれたかった」 これは、Romaniaの独裁者CarolIIの慣用句でした。 で、この『』の部分が、『教師』なり、『技師』なり、『炭坑夫』なりになった訳で…。 ついでに、前スレからコピペ。 復刻★信じられないが、本当だ。 Part2 32 名前:名無し三等兵投稿日:01/10/29 14:43 ID:7fX2wWTe 第二次大戦中、クロアチアを支配していたファシスト政党「ウスタシャ」の 指導者パヴェリッチのもとをある人物が訪ねた。 見ると机の上に籠いっぱいの牡蠣のようなものが盛られていた。 それは何かと訪ねるとパヴェリッチはこともなげにこう答えた。 「それは私の支持者からの贈り物でね。」 「セルビア人の眼球だよ。」 >49 二重帝国の仮想敵国はイタリアです。 1867年以来、何度も矛を交えています。 その国に対抗すべく、戦艦から潜水艦まで各種取りそろえていました。 >51 前スレ(Dat9フォルダだかにあります)をご覧になるのも良いかも知れませんね。
53 :
12 :03/05/30 23:47 ID:+CXs6oXW
>49 オーストリア海軍は、1912〜15年にかけてド級戦艦4隻を、またそれ以前に準ド級 戦艦3隻を建造しております。 加えて超ド級戦艦4隻の建造計画もありましたが、第一次大戦の勃発でキャンセル となりました。 参考までに・・・ ド級戦艦 ●フィリブス・ウニーティス ●テゲトフ ●プリンツ・オイゲン ●セント(聖)・イシュトヴァーン 準ド級戦艦○エルツヘルツォーク(大公)・フランツ・フェルディナント ○ラデツキー ○ズリーニ
54 :
黒装束 :03/05/31 00:16 ID:gIm7f6WR
>51 文献といってよいかどうかわからんが、 「ファシストの群像」という本がある。今手元にないので 詳しくは覚えてないが長谷川とかいう大学教授が書いた やつがある。 内容としては 西欧のファシスト達・東欧のファシスト達・ アメリカのファシスト達とある。12年まえくらいのこと なので絶版になっていると思うが、シロートでもわかりやすく 書いてあるのでおすすめではある。
ルーマニア陸軍のPhlepsという人物に関してご存知の方はいらっしゃらないでしょうか? 1939年時の階級が少将の人物なんですけど。
56 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/06/01 00:15 ID:lddnjVLj
聖イシュトバーン号は数年前にハンガリーのダイバー達が残骸を調査して 遺品や艦名の金属板を引き揚げています。 ブダペストの軍事博物館に遺物が展示されてますよ。 それにしても遊牧民族の王様の名前を戦艦につけるとは・・・。 プリンツ・オイゲンもラデツキーもズリーニも陸戦の英雄 ばかりだなぁ・・・。
>55 それは、第七SS志願山岳歩兵師団「プリンツ・オイゲン」の司令官だった、 Artur Martin Phlepsの事でしょうか。 Artur Martin Phleps(1881〜1944) 1881.11.29 Siebenbogenに生まれる。 1896〜1900 二重帝国陸軍士官学校に在籍。 1901〜1918 チロルを皮切りに、帝国各地を転勤。 最後には二重帝国陸軍参謀本部に在籍。 1918.11〜1919.2 Austria共和国軍で残務整理。 1919.4.1〜 Romania王国陸軍に佐官級で入隊。 歩兵師団の部隊長などを歴任。 1923〜 参謀本部スタッフに就任、また陸軍大学で教鞭を執る。 1925〜 再び、各歩兵師団、山岳歩兵師団の指揮官を歴任。 1935.4.15 准将に昇進。 1939. 少将に昇進。 1940.2.1 Romania王国国防大臣に就任。 1940.8.6 Romania王国陸軍退役。 1941.6.30 国家社会主義労働者党に入党。 1941.7.〜1942.1 第五SS戦車師団Wiking師団司令部に所属 1942.2.1〜1943.6.21 第七SS志願山岳歩兵師団司令。 1943.6.4〜1944.9.21 管区指導者、地区警察司令官。 1944.9.21アラド近くで、ソ連兵によって射殺される。 最近ドイツ語を使っていないので、所々意訳がありますが、こんな感じかと。
58 :
12 :03/06/01 01:23 ID:m1te4Jhe
>56 そうなのですか? 聖イシュトヴァーン号の遺品がブダペストの軍事博物館に展示 されているのですか。それにしてもハンガリーのダイバーが残骸を調査したとはす ごい!・・・ウイーンの軍事博物館にもオーストリア海軍コーナーがあるという事 なので、いつか行ってみたいものです(いつの事になるやら・・・)。貴重な情報 をありがとうございます。 ・・・ところでズリーニに関しては????状態なのでさっそくネットで調べてみ よっと。
>58 前スレからコピペしたり。 285 名前:ギシュクラ・ヤーノシュ 投稿日:02/09/21 02:11 ID:h70inMDi >284 そんなことを書いたことがありました。 ズリーニはハンガリー貴族の家名です。 戦車はシゲトヴァール城でスレイマン2世率いるトルコの大軍を相手に篭城した ズリーニ・ミクラーシュの名前をいただいています。 最期はトルコ軍に城主以下が突撃を敢行して全滅するという壮絶な最期を遂げた 人物で、敗色濃い時期に登場した戦車の名前としては考えさせられるものがあり ます。ズリーニ一族はクロアチアの太守の家柄でしてクロアチアではニコラ・ジ ュービッチ・ズリンスキーという名で知られています。 第一次大戦後シベリアを突破して極東に逃れたチェコ軍団の一部が帰国途上神戸 に来たおり、関西学院大学のグリークラブのメンバーが通訳をしたそうです。チェ コ軍団には軍楽隊もあり、チェコの軍歌をグリーのメンバーは伝授されたのですが その中に「ウ・ボイ」という曲がありました、グリーのメンバーも歌詞の意味もわ からず「どうもチェコの軍歌だそうだ」ということで歌いついでこらえたそうです が、ベルリンの壁崩壊の後、海外の合唱団体との合同コンサートかなにかで披露し たところ、あわせて歌いだした人たちがいたそうです。それがクロアチアの合唱団 だったことから、ウ・ボイはイヴァン・ザイツ作曲のオペラ「ニコラ・ジュービッ チ・ズリンスキー」の中の曲で、ズリーニ以下が群がるトルコ軍に向けて城門を開 き、最期の突撃を敢行する場面の曲だと判明したそうです。 世の中には奇縁というものがあるものだと、こういう話を聞くとつくづく思います。
61 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/06/01 13:23 ID:htic3D18
ズリーニというと同名のお孫さんがいます。 この方も有名な軍人でかつ詩人で祖父の武勲を「シゲトの危急」 という作品にしています。この方も対トルコ戦の勇者でしたが、 思想的にはハプスブルク家からハンガリー王国を独立させよう という方向の方なので、いくら有名人と言ってもオーストリア ハンガリー海軍の軍艦名にはならないでしょう。 彼は狩猟中に猪の反撃で命を落とし、彼の弟がその遺志を継ぎ ますが、露見して処刑されてしまいました。 しかし、その娘ズリーニ・イロナの夫、テケイ・イムレ、そして イロナの息子ラコーツィ・フィレンツ2世と対ハプスブルク戦争 は引き継がれていくことになりました。
で、478以降のログ貼り付けでし。
478 名前:名無し三等兵 投稿日:03/05/16 14:41 ID:???
オーストリア=ハンガリーの艦船写真が見られるサイト
(ギリシャもあるよ
ttp://www.gwpda.org/naval/pg000000.htm 479 名前:名無し三等兵 投稿日:03/05/17 00:28 ID:???
スウェーデン戦闘機の性能の良さに感動するな。
サ―ヴ社はWW2当時から本当に良い仕事する所ですなあ
生産数?あまりの少なさに寂しくなる(藁
480 名前:ギシュクラ・ヤーノシュ 投稿日:03/05/17 23:37 ID:JjxTmaOp
>479
ハンガリーかどっかがグリペンを採用するのではありませんでしたっけ。
481 名前:眠い人 ◆gQikaJHtf2 投稿日:03/05/17 23:40 ID:???
>480
マジャールのグリペンは、洪水の余波でキャンセルされたんじゃなかった
でしょうか。
最近の情勢には疎いのですが。
482 名前:消印所沢 ◆z3kTlzXTZk 投稿日:03/05/18 18:40 ID:???
>>481 それはチェコの話ではなかったかと.
64 :
12 :03/06/01 22:16 ID:m1te4Jhe
>59,60,61 どうもありがとうございます。いろいろと勉強になります。 >63 このオーストリア・ハンガリー海軍のサイトはいいですね。特にド級・前ド級戦艦 以前の艦艇は世界の艦船ではお目にかかれないものだし・・・一見の価値ありです ね。このサイトを見られる方は以下を参考にしてみて下さい(こんなものでよけれ ば・・・)。 オーストリア・ハンガリー海軍艦艇 [ド級戦艦] フィリブス・ウニーティス級 /フィリブス・ウニーティス/テゲトフ/プリンツ・オ イゲン/セント(聖)・イシュトヴァーン [準ド級戦艦] エルツヘルツォーク(大公)・フランツ・フェルディナント級 /エルツヘルツォー ク・フランツ・フェルディナント/ラデツキー/ズリーニ [前ド級戦艦] エルツヘルツォーク(大公)・カール級 /エルツヘルツォーク・カール/エルツヘル ツォーク・フリードリヒ/エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス ハプスブルク級 /ハプスブルク/アルパード/バーベンベルク [海防戦艦] ブダペスト級 /ブダペスト/ウイーン/モナーク [砲塔装甲艦] クロンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ/クロンプリンツェセィン・エルツ ヘルツォーク・ステファニー
65 :
12 :03/06/01 22:23 ID:m1te4Jhe
64の追加です。 [軽巡洋艦] アドミラル(提督)・スパウン/サイダ/ヘルゴラント/ノヴァラ [装甲巡洋艦] カイゼリン(皇后)&コニギン(女帝)・マリア・テレジア/カイザー(皇帝)・カ ール6世/サンクト(聖)・ゲオルグ
66 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/06/03 23:08 ID:IVrG1kPz
ハプスブルク級のアールパードはイシュトヴァーン1世が初代王(キリスト教 世界から認められた)となったハンガリーの王家です。 バーベンベルグはハプスブルク家が支配する以前のオーストリア大公家です。 両方とも絶家になっちゃってますが・・・。 クロールプリンツは皇太子ですね。自殺したルドルフ皇太子とその皇太子妃 だったベルギー王家出身のシュテファニーの名前ですね。 あとマリア・テレジアは皇后でハンガリー女王です。 蛇足の補足でした。 それから、巡洋艦でカイザリン・エリザベートという のがありまして、青島で日本軍に降伏したかと思います。 確か、日本に寄港したこともあったのではないでしょうか。
青コート部隊とペチコート部隊。
>>67 青コート部隊はウクライナだとわかるが「ペチコート部隊」とは?
69 :
12 :03/06/04 00:16 ID:7BMK2fly
63のオーストリア・ハンガリー海軍のサイトには紹介されていないのですが、66で ギシュクラ様が触れられたので、 65の巡洋艦の追加です。 [防護巡洋艦] カイザー(皇帝)・フランツ・ヨーゼフ1世/カイゼリン(皇后)・エリザベート [軽巡洋艦(旧)] ツェンタ級 ツェンタ/アスペルン/スツィゲトヴァー [水雷巡洋艦] レオパルト/パンター この中でスツィゲトヴァー≠ェ??状態・何を意味するのかさっぱりです(という か私の読み方がてんで違ってたり・・)。ネットで検索すればでてくるかしら?
70 :
名無し三等兵 :03/06/04 00:17 ID:Ps9F2stS
71 :
12 :03/06/04 00:37 ID:7BMK2fly
>66 巡洋艦カイゼリン・エリザベートに関しては前スレで眠い人様がおっしゃっておりま したよね。・・私は正確な事はよくわからないのですが、親善を目的として日本に 寄港し、その帰途第一次大戦が勃発して青島で日本軍との戦闘に巻き込まれた、と 何かの本に書いてあったような気がします。 またそれ以前の1893年にも、新しく皇太子となったフランツ・フェルディナントを 乗せて日本に寄港したとの事です。
72 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/06/04 23:17 ID:mzkwtY68
>69 それはシゲトヴァールですね。このクラスは古戦場の名前のようです。 シゲトヴァールはハンガリー南部にある城(ヴァールは城の意味)で ズリーニ・ミクラーシュがスレイマン大帝率いるオスマン帝国の大軍 を迎え撃ち、壮絶な玉砕(最期は家族を我が手にかけ、城門を開いて 敵陣めがけ突撃を敢行)をとげた古戦場です。
73 :
寓話 :03/06/05 19:45 ID:qvMCAVgv
>ところでブルガリアってなにしてたんだ?いちよ枢軸側 なのか?
>>73 ラスカンにのってる。
対パルチザン戦を除けば実質枢軸国としか戦わなかった枢軸国家として。
ブルガリアは1941年3月,枢軸同盟に加わりました. 大戦には参加したくなかったようですが(詳しい解説希望), ドイツの圧力により,1941年12月に対米英宣戦布告しました. ただし,独ソ戦には参加しませんでした. 主な戦闘としては,ルーマニアのプロエスティ油田に対する米英の空爆に対する 迎撃戦闘を行っています. 1944年6月のソ連軍の大攻勢により,国境にソ連軍が迫ると, ブルガリアは8月26日,独ソ戦についての中立を宣言しましたが, ソ連はこれを受け付けず,翌27日,ブルガリアにソ連は宣戦布告しました. そのソ連の圧力で9月9日にブルガリア政府は対独宣戦布告し, 1945年の終戦までドイツと戦いました.
76 :
12 :03/06/05 22:42 ID:Yd21Ai3F
>72 いつもいつもありがとうございます。たしかにツェンタの戦い、アスペルンの戦い と続いているので3番艦も続きそうですよね。・・・それにしても詳しいなぁ・・・ >73 第一次・二次大戦を問わずブルガリアの海軍の動向に関心があります。特に第一次大 戦時のブルガリア海軍はどのような艦艇を保有していてどのような戦闘を行ったのか ?など興味津々で(以下略)。
とりあえず書き直すのも何なので、コピペでお茶を濁す。 さて、Bulgariaについて話をしてみませう。 この国はトルコより独立し、黒海に面した国であったが、12世紀の大Bulgaria帝国 を夢想して周辺各国との争いが絶えなかった。 何しろ、そのころのBulgariaは、Romaniaの一部とGreeceの殆ど、更に、Belgrade 近くまで領有してたりする。 1912年には、Serbia、Montenegro、Greeceと組んでTurkeyを相手に第一次Balkan戦争 を戦い、Macedoniaを得た。 SerbiaはRussiaの支持の下でアドリア海への通路を要求、ItalyはAlbaniaの占領を望み、 GreeceはItalyによるドデカネス諸島占領に抗議し、二重帝国はあらゆる勢力拡大を阻止 しつつ、Bulgariaを援護すると言う混沌状況の中、1913年にBulgariaがSerbiaを攻撃し、 第二次Balkan戦争が始まる。 このときは二国間戦争だったはずなのに、各国の思惑により、Serbia支援のために Romania、Greece、Montenegro、Turkeyが参戦。 これに対し、Bulgariaを支持する二重帝国は支援を行おうとするが、GermanyとItalyが これを阻止し、結果として、Romaniaは南ドブルジャを、Greeceはマケドニアを、それぞれ Bulgariaより割譲される。 これが、第一次大戦でBulgariaが同盟側に立って参戦する原因となったのである。
さて、そのBulgariaですが、第一次大戦では1915年にドイツと友好・同盟条約を 締結し、10.14に参戦します。 その代償に、Serbia領のマケドニア(現在のマケドニア共和国)を同盟諸国から 獲得します。 そして、Greece、Romaniaが連合国側に参戦した場合に、これを撃破した暁には Greece領マケドニアとRomaniaのドブルジャを獲得する権利を持っていました。 後者の権利は、1916年にRomaniaが参戦し、12月に全土を制圧した時に発生しま した。 ドブルジャは、1918.5.7のBucharest条約で正式にBulgariaのものになります。 しかし、4ヶ月後、前年に連合国側に立って参戦したGreeceから行われた連合軍の マケドニア攻勢により、Bulgaria軍は崩壊し、同盟国側としては、9月末、最初に戦線 を離脱してしまうのです。
第一次大戦後、Bulgariaも敗戦国となり、1919年11月27日、ヌイイー条約 を締結します。 これにより、Serbiaにマケドニアを中心とした国境地帯の一部を割譲し、 Romaniaにはドブルジャを返還し、Greeceにエーゲ海に面したトラキア西南 地方を割譲した上、空軍保有の禁止、保有兵力上限2万人という枠を嵌め られます。 このため、戦後は難民問題とYugoslaviaに対するマケドニアの主権要求が 主な政治課題となりました。 敗戦後、政治の舵取りをしていたのは、農民党と言う政党で、首相のスタン ブリスキーは、農民に対する土地改革、マケドニアとBulgariaの一体化を 推進してきました。 これに反発したのが、旧体制勢力で、彼らは軍を動かし、1923年に将校団が 決起して、首相を射殺し、共産党と農民党を解散に追い込みました。 更に、世界恐慌で経済が混乱し、国家社会主義勢力が台頭すると、バスに 乗り遅れるな、とばかりに、1934年、ツヴェーノと言う保守派将校組織のクー デターが起き、ゲオルギエフ大佐による独裁体制が確立します。 その大佐は1935年に失脚し、国王ボリスIII世の直接統治が始まるのです。
でもって、前回のスレではBulgaria海軍に関して、お茶を濁したので、 とりあえず書いてみましょう。 先程も書いたように、1878年の露土戦争の結果独立を勝ち取った国で、親露国 です。 その海軍は、1896年にKrum、Aleksandr I、Simeon Velikiと言う三隻の蒸気船と、 Asenと言う練習船、それに三艘の蒸気小型艇から成っていました。 これらの艦艇は、ロシア帝国から供与されたものでした。 その後、フランスの援助を受け、Nadezhdaと言う717tの砲艦を彼の国に発注 しました。 これが、1908年まで旗艦となります。 更に、黒海沿岸にフランスの援助で造船所を建設し、Kaliakraと言う80tの小艇を 建造します。 1903年に第一次建艦計画が立案されます。 これは、15t級魚雷艇を12隻、90t級魚雷艇を2隻、150t級の魚雷艇を2隻、練習艇 と若干の沿岸哨戒艇を含んでいましたが、結果的に、97tの魚雷艇を6隻、魚雷艇 母艦が3隻、沿岸防御用の240mm砲2門と100mm砲2門をフランスのシュナイダー に発注しました。 1905年に、更に2隻の機雷敷設艇が完成します。 1910年には更に拡大計画が立てられ、470t級の駆逐艦2隻、190t級潜水艦と、機雷 敷設艦が計画されましたが、政府が借款を得るのに失敗したので、立ち消えとなり ました。 一方、1908年には、Russiaが黒海艦隊で余剰となった巡洋艦、砲艦、機雷敷設艦、 魚雷艇の売却と供与を持ちかけますが、国をRussiaの保護下に置くのを条件としま したので、これは立ち消えとなりました。
第一次大戦は、1898年竣工のNadezhdaと言う砲艦(717t)を旗艦に、魚雷艇 Vasil Levski、Hristo Botevと言う20tの魚雷艇(1877年竣工)が現役でした。 前者は、バルカン戦争で砲を陸揚げし、戦争終了後、またその砲を装備し、 第一次大戦中の1915年に砲を再び陸揚げしています。 1918年にRussiaのセヴァストポリに送られ、此処でBolshevikの手に落ち、 赤軍の艦艇となっていますが、程なく退役し、1941年までセヴァストポリで ハルクとして使われました。 後者は元帝政Russia海軍の魚雷艇で、1884年に供与され、Balkan戦争、 第一次大戦共に、哨戒艇として用いられました。 Botevは、1930年に退役し、1936年に記念艦としてRuseで係留されていました。 Levskiは程なくガソリンエンジンに換装し、1938年に退役しました。 最初の購入艦であるAleksandr Iは、350tのFrance製で、平時は王室ヨット、 戦時は機雷敷設艦兼輸送艦となります。 これは、1913年に座礁し、1914年に修理されましたが、程なく除籍されました。 最初の建艦計画で導入された、France製97.5t級魚雷艇は、Drski、Smeli、 Hrabri、Strogi、Letjashchi、Shummiの6隻。 レシプロ水管缶で1900hp、これで26kt/hを出し、石炭10.5tを搭載して、500海里 の航続力を誇る。 武装は、37mmシュナイダー速射砲2門と、450mm魚雷発射管が艦首に1基、艦上 に連装管が1基装備されている。 Shummiは、1916年9月12日にVarnaに於いて、Russiaの敷設した機雷に触雷して 沈没し、Strogiも損傷、Letjashchiは、1918年10月にFranceに鹵獲され、11月28日に Varna沖で沈められました。
で、Drski級の水雷艇の残りは、しぶとく生残り、1920年代前半に掃海艇に 改造され、後に再び魚雷発射管を装着、1934年に改装され、第二次大戦でも 哨戒艇になっています。 この時の武装は、450mm魚雷発射管2基と、20mm砲2門、そして1942年には 47mm砲2門を追加され、2丁の機関銃と、爆雷が装備されています。 休戦後、これらの艦艇はSoviet海軍に引き渡され、1954〜1955年まで使用 されています。 Drskiは、ソ連海軍退役後、Varnaに返還され、陸揚げされてモニュメントと なっているそうです。 このほか、1920年代までに装備した艦艇は、1918年5月25日にドイツから 供与されたUB1級潜水艦のNo.18があり、これは、ドイツのUB8で、Varnaの 防備に用いられました。 休戦後、ヌイイー条約でFranceに引き渡され、1921年8月にビゼルタでスクラップ になりました。 同時に、UB7も供与される予定でしたが、これは到着前に撃沈されてしまったそうです。 機雷戦艦艇は、105tのFranceの蒸気帆船、De Romasを1906年に購入して、Kamchija と改名し、機雷10〜12発を搭載する機雷敷設艦として使用しました。 第一次大戦では哨戒艇として用いられ、1924年に測量艦に艦種変更されています。 第二次大戦では再び敷設艦となり、1945年以後、また測量艦に戻され、1952年に除籍 されました。 このほか、15t級の内海掃海艇として、Konduktor Dokuzanov、Kapitan-Lejtenant Minkov、 Kapitan-Lejtenant Minorの三隻と8t級の内海掃海艇として、Nesebr、Emona、Kalacerkaの 三隻が在籍しています。 これらは、1917年にドイツから引き渡されたもので、一度Franceに接収されたものの、 返還され、最後の艇は1955年まで使用されました。
1921年、Bulgaria海軍の再建に当たって、米海軍で余剰となったSC級の駆潜艇が2隻購入 されました。 これは、Chernomorec、Belomorecと命名されました。 これは、1934年に一度退役しましたが、すぐに再使用され、タニューブ河の警備に使用され、 第二次大戦終結まで使用されています。 このほか、少数の哨戒艇と、1906年に購入された28tの訓練艇Strela、17tの魚雷揚収艇が 在籍しています。 第二次大戦のBulgaria海軍はまた今日の夜にでも。
>>68 ペチコート部隊ってエロゲのキャラだろがよ!
で、昨日の続き。 1919年7月27日に締結されたヌイイー条約の結果、枢軸国から得た有力艦は スクラップまたは連合国に引き渡され、4隻の魚雷艇を主力とする警察部隊として 海軍は存続しました。 1938年の再軍備宣言に至るまで、忍んだ訳です。 1937年にドイツと軍事援助条約を結び、3000万マルクの援助を貰い、ドイツの 軍事物資の購入に充てました。 第二次大戦では、1941年3月に枢軸に加盟し、ドイツの軍事援助を更に貰い、 なけなしの商船はドイツ軍の輸送に活動しました。 1944年9月8日にソ連軍が国境線を越えたとき、休戦に同意し、矛を逆しまにして ドイツ軍に襲いかかりました。 海軍も例外ではなく、ソ連軍の指揮下で、Danube河戦隊と黒海艦隊に属して、 活動しています。 このうち、前述のDrski級魚雷艇のうち、Smelyは、1943年5月19日に撃沈されました。 このほかの戦闘艦艇は1921年にFranceを通じて米国から購入した、SC級駆潜艇2隻 があるだけです。
1930年代に新たに加わったのは、大戦直前の1939年に、Bulgaria海軍にリュールセン社製の S2級魚雷艇が4隻引き渡されています。 これは、ドイツのSボートと同型で、5隻が建造され、うちS2〜S5の4隻が、F1〜F4と言う艇名で 使用されました。 このほかに、同型艇をBulgaria国内で建造する予定でしたが、大戦勃発による部品入手難で 果たせませんでした。 これも不活発で、1944年9月にソ連軍に引き渡され、ソ連軍はTKA958〜961を改名して使って いました。 戦争終盤の1945年4月2日にソ連から返還されています。 もう一つ、その建造できなかった魚雷艇の代わりに、30t級のBritish Power Boat製魚雷艇に 似たデザインの魚雷艇をドイツから1942年に引き渡されています。 これは、オランダで建造中のものを捕獲し、1941年に完成させたもので、ドイツではS201〜 S202として在籍していたのを、1隻追加してBulgariaに供与したもので、同型艇4隻がRomania に渡りました。 この艇の搭載エンジンには、英国デザインらしく、英国製のR.R.Marlinが3基使われています。 このエンジンは、大戦初期に欧州で撃ち落されたRAFの機体から取り外したものがそのまま、 載せられたそうです。 艇名は1号〜3号で、これもソ連に供出されてTKA962〜964となり、1945年4月2日に返還され ました。 これらの艇はいずれも、共産化後の1947年に、除籍されています。 このほかの小艦艇も同じ運命を辿っています。 但し、曳船のVoievodaは、1945年に当時は友邦だったYugoslaviaに供与されて います。
88 :
12 :03/06/07 22:54 ID:q1zXyY9E
>72 この軽巡洋艦シゲトヴァール(スツィゲトヴァー改め)は、第一次大戦勃発(1914年 7月28日)ののち、軽巡ツェンタその他の艦艇とともにモンテネグロ沿岸部の封鎖活 動に従事しておりましたが、、兄のツェンタの方は運悪くアドリア海南部に進航して きたド級艦クールベ以下11隻のフランス戦艦部隊と遭遇し、ド級戦艦ジャン・バール の砲撃を受けて沈没してしまいました。8月15日の事です。 その後兄の敵討ちをしたのが(撃沈までには至らなかったが)、エゴン・レルヒの指 揮する潜水艦U12でした(→35のレス参照)。二重帝国海軍が大戦の初年に喪失した のが、このツェンタと巡洋艦カイゼリン・エリザベートの2隻です。 >77〜79,81〜84,86,87 ・・・・・・・もう言葉ではなんと表現してよいのかわかりません。 いつもほんの軽い気持ちでコメントしているだけなのに・・・ なんか一方的に大切な知識をいただいてしまっているようで申し訳ないような気持ち です。
「親露厨」みたいな名前の酒なかったっけ?
>77〜79,81〜84,86,87 そ,そ,ソース希望. そんなにマイナー海軍に詳しい本,洋書だろうが何だろうが,ぜひ買いたいので. (無料サイトだと,なお嬉しいが)
>88 (・3・) エェー 気にしないですYO。 二重帝国海軍の文献は本当に見あたらないので、いつもその知識には 感服いたしておりまする(煽りでも何でも無しに本当でつよ)。 性が、怠惰なもので、適当に御題を出して頂ければ、有難いです。 >89 それ、真露酎では無かったか…と。 ネタにマジレスしたかもしんない。 >90 ソースでつか、ソースは脳内でつ。 …つ〜のは冗談として、>77-79はOxford版Bulgaria史 を主に、その他、歴史の本をひっくり返して書いたもの。 Bulgaria海軍の下りは、Conway's All The World's Fighting Shipsの集約版 で、1860-1982までの海軍現勢を4分冊に分けて書いてあるもののうち、 Vol.II(1906-1921)とVol.III(1922-1946)を参考にしました。 漏れの海軍関係の記述は殆どがこれに頼っています。 偶に、Jane's Fighting Shipsの復刻版を使ってますけどね。
92 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/06/08 00:30 ID:jCok9C5O
オーストリアでは二重帝国海軍関係の本がけっこう出ていますよ。 拙宅には写真集の類しかないですが・・・。 一度アマゾンの本家の方で検索してみます。
93 :
名無し :03/06/08 01:06 ID:???
軍学者、兵頭二十八が早稲田に来るって知ってた? 6月12日の4時から大隈講堂で講演するらしいが・・・ 詳しいこと誰か知らない?
ところで2次大戦のドイツ海軍の「プリンツ・オイゲン」 の命名のいきさつをどなたかご存知ないですか。 ホルティ提督がらみとか聞いた覚えがあるのですが・・・。
時期的にドイツ・オーストリア併合がらみでしょう? >プリンツ・オイゲン
97 :
12 :03/06/08 22:18 ID:5U2V4E7m
>91,92 私の二重帝国海軍関連の記述は、そのほとんどが「exciteの翻訳検索」を用い、オース トリア海軍∞オーストリア・ハンガリー海軍≠ネどのキーワードで引っかかったサイト・ 資料の情報を利用させてもらっています。探せばかなりのものがあるのではないかと思い ます。 あと文献に関してですが、 1.The Central Powers in the Adriatic,1914-1918:War in a narrow sea 2.THE NAVAL POLICY OF AUSTRIA-HUNGARY:Navalism,Industrial Development and the Politics of Dualism の2冊を、 1は最近必要なところを読み、2はこれから読み始めようというところです。2は内容が非常 に詳しくすばらしい本です。両方ともアマゾンを通して購入しました。 >94 (お答えにはなっておりませんが、一応自分の知っている範囲で・・・・)第2次大戦のドイツ 戦艦「プリンツ・オイゲン」は、もともとテゲトフと命名される予定だったみたいですが、 すでに友好関係にあるイタリアの心証を悪くしないようにとの配慮から急きょ名前を変更 した。と、これまたなにかの本か雑誌に出ておりました。 ちなみにこの時の艦は3代目でありまして、1代目はリッサ海戦(1866年)時のオーストリ ア海軍装甲艦プリンツ・オイゲン、そして2代目が第1次大戦時の同海軍のド級戦艦プリン ツ・オイゲン、です。
98 :
12 :03/06/08 23:00 ID:5U2V4E7m
〜97の訂正ということで〜 第2次大戦の独戦艦プリンツ・オイゲンはどうやら4代目のようです。 1870年代にもう1隻プリンツ・オイゲンという名のオーストリア海軍の装甲艦が建造 されております。よって1次大戦のド級戦艦は3代目ということに・・・。
99 :
名無し三等兵 :03/06/09 17:55 ID:6pDZ6BvN
あのー、二次大戦の東欧の話はどうしたの? ついでにズリーニというとハンガリーの突撃砲ですね
いやトラーンが忘れられて留
>>99-100 いや〜、前スレでかなり語られていたので…今更同じ事を書くと、見る人が
つまらないか、と。
とりあえず、タス最高!と言っておきましょう。
一応、Bulgaria海軍ネタを書いているので…また追々折に触れて書いて
いきます。
>97 テゲトフではイタリアは心証悪いでしょうねぇ・・・。 それでオイゲンですか。オイゲンだとフランスが怒るかもしれませんが 仮想敵なんで構わないのでしょうね。 >99 戦車のズリーニも軍艦のズリーニも名前の由来は一緒で、上で出ている シゲトヴァールで壮絶な討ち死にをしたクロアチア太守ズリーニ・ミク ラーシュ(ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー)のことです。 敗色濃いさなかに戦車にこういう名前をつけるセンスというのは・・・。 どうせつけるならナンドールフェヘルヴァール(ベオグラード)の戦い で奇跡の勝利をおさめたフニャディ・ヤーノシュにすればよかったのに。 そういえば計画だけで中止になった超ド級戦艦にはフニャディ・ヤーノ シュの名が予定されていたという話を聞いたことがありますが、本当で しょうか??
103 :
12 :03/06/10 22:30 ID:hCEASzPT
>99,100 おっしゃる通りだと思います。 また機会あるごとにご指摘いただければと思います。 >102 へぇそうなんですか?二重帝国海軍の超ド級戦艦にそのような人物の名がつけられて いたかもしれないとは・・・・。ネイビー関係の本では「モナーク級」「モナーク代艦級 」としか書かれていないので、非常に興味深い話です。 ・・・・余談ですが、この超ド級艦4隻に置き換えられる予定だった?海防戦艦3隻(モナ ーク、ウイーン、ブダペスト)は、第一次大戦勃発時はかなりの旧式艦でしたが、意 外や意外、大戦ではけっこうの活躍ぶりなので驚いています。
>103 ネット上で見たことがあるという程度なんで確信が持てないのですよ。 それで誰かご存知ないかと思いまして・・・。 旧式艦大活躍というとフォン・エッセン率いるロシアの黒海艦隊も そうでしたね。
>103 ブダペシュトは、1918年5月頃に前部砲塔に17口径38.1cm砲を一門 装備した陸上砲撃専門艦に改造しようとして、果たせなかったようで。 15in砲はドイツから入手する予定だったのでしょうかね。
106 :
名無し三等兵 :03/06/12 21:11 ID:tMe8VyF5
ニムロデ対空戦車は?
>105 なんか三景艦みたいですね。 大砲はシュコダじゃないんですか? ウイーンの軍事博物館には第一次大戦当時のシュコダの製品が いくつかおいてありますよ。
どっちかというとイギリスのモニターみたい。 改造したとして何処で使うつもりだったんだろ。 大規模な上陸戦でも考えていたんですか?
豆知識 ゾルゲの映画ができたそうですが,ゾルゲと同時代,フィンランドのあの オットー・クーシネンの妻,アイノ・クーシネンも,東京でソ連側のスパイとして 活動していました. コード・ネームは「イングリット」. 裕福なスウェーデン人作家「エリザベート・ハンソン」と自称し,上流界への 潜入を図りました. しかし1937年,世界中の殆どの諜報員がそうであったように,彼女は帰還命令を 受け,帰還直後に逮捕されています. (ゾルゲも帰還命令を受けていたのですが,危険を察知し,のらりくらりを これを拒み続けました.もし,これに応じていたら…….歴史は皮肉に 満ちてますな) 前スレではフィンランドの話もOKとのことだったので,書き記す次第.
>107 陸上の要塞砲転用はイタリアが良くやってましたね。 砲身長もそんなに大きくないから、そうかもしれない。 >108 上陸戦とかではなく、Italyの沿岸砲撃用だったようです。 対するItalyは、参戦初期に二重帝国から奪取した艀に大口径砲を載っけて、 Monitorとして使用していましたが。
111 :
12 :03/06/14 00:08 ID:Jer/U87g
・・・・思いついたので、なんとなく書いてみたり・・・・ オーストリア・ハンガリー二重帝国海軍艦艇 [超ド級戦艦] エルザッツ・モナーク級 /エルザッツ・モナーク/カイザー(皇帝)・カール5世/エルツヘル ツォーク(大公)・フレデリック/フニャディ・ヤーノシュ >105 陸上砲撃専門艦に改造されようとしていた≠ニいうのはなんとなくわかるような気が 。これら3隻の第一次大戦における戦歴が「陸上部隊の援護射撃」という形が多いようで したから。 昨年(1917年)の10月16日には海防戦艦ウイーン、ブダペスト、水雷艇10隻がベネチア の北東に位置するイタリア軍陣地(ピアヴ川河口付近)を砲撃し、同24日にドイツ、二 重帝国陸軍がイタリア国境を越えてカポレットの敵軍を急襲すると海軍は再び支援に赴き 、11月16日には戦艦ウイーン、ブダペスト、水雷艇14隻が再びピアヴ川河口を砲撃した りしました。
112 :
アンチネスク :03/06/14 20:55 ID:OaHF2hI8
誰か、アントネスク又はホルティについて詳しい方、彼らの経歴について詳しく教えてください。
ホルティ・ミカローシェ 1868年生 1957(昭和32)年没 ケンデレシュ出身 ハンガリーの軍人・政治家 フィウメ(現、クロアチア リエカ)の海軍兵学校で学ぶ 第1次世界大戦中、オーストリア・ハンガリー帝国海軍提督 戦後、ハンガリーに帰国 1919(大正8)年 クーンの社会主義政府に対する反革命を指導 政権を奪取 ハンガリー国民軍総司令官 1920(大正9)年 国会で摂政に任命される 1921(大正10)年3月 前オーストリア皇帝でハンガリー王でもあったカール1世が復位を企図 これを拒否 10月 再度カール1世の復位を拒否 1938(昭和13)年 ミュンヘン協定 トリアノン条約でチェコスロバキアに割譲したスロバキアの一部をとりかえそうとするが、失敗 ナチス・ドイツに援助を求める 1938(昭和13)年 第1次ウィーン裁定 スロバキアの一部を獲得 1940(昭和15)年 第2次ウィーン裁定 ルーマニア領のかなり広い地域(トランシルバニア北部)を獲得 これらの見返りに、ハンガリーは第2次世界大戦でドイツ、イタリアに味方することを承諾 1942(昭和17)年 ドイツの敗戦を確信 連合国との単独講和を企図 1944(昭和19)年 ドイツ軍、ハンガリーを占領 親ドイツ政権を樹立 10月 ソ連軍、ハンガリーに侵入 ソ連との停戦を企図するがドイツ軍に逮捕され、特別列車でドイツに連行される 終戦時、バイエルンでアメリカ陸軍に逮捕される 1945(昭和20)年 釈放 1951(昭和26)年 ポルトガルに移住
114 :
アンチネスク :03/06/14 21:06 ID:OaHF2hI8
>113 ありがとうございます
115 :
12 :03/06/14 23:19 ID:Jer/U87g
116 :
12 :03/06/14 23:36 ID:Jer/U87g
ゾルゲ関連について,もう一つ. 1920年代,ゾルゲが上海で活動していた頃,彼と接触していた KGB(当時はNKVD)エージェントの一人が,イワン・ヴィナロフという人物ですが, 彼はその後,1940年代(ゲオルギー・M・ディミトロフ時代)には ブルガリア諜報機関の長となっています. ゾルゲとは関係ありませんが,当時のブルガリアはNKVDの浸透をかなり 受けていたようで,イワン・スメタノフ駐ソ・ブルガリア大使もNKVD側の 工作員として抱きこまれていたり,大使館の暗号通信も全て解読されていたり しています.
アントネスク(Ion Antonescu 1882-1946) ルーマニアの軍人、政治家。 第一次大戦中の国土防衛戦で名を挙げ、参謀総長になる。 一方で余り国民に人気のない国王カロルII世が外交で失政を重ね、ソ連、 マジャール、Bulgariaに領土を喪失し、国内情勢が不穏になったときに、 カロルII世の一発逆転を狙って、首相に任命される。 当時、大天使ミカエル軍団というファシスト団体の軍事部門、「鉄衛団」の 行動がナチスの支持を得て顕著になり、第一次大戦と同様、何としても中立を 維持したい国王は、将軍の支持の下でそれを弾圧するつもりだったが、1940年 9月、ナチスドイツの教唆により、鉄衛団がクーデターを決行。 国王カロルII世を退位させ、皇太子ミハイを擁立し、国内の実権を握る。、 但し、中立政策は大きく転回せざるを得ず、ドイツの同盟を強化する必要があり、 一時同盟を組んだ「鉄衛団」を切り捨て、弾圧。 1941年6月の独ソ戦勃発に際し、ベッサラビア、ブゴヴィナ回復を旗印にソ連に 宣戦布告、12月に米国に宣戦を布告した。 しかし、国内では民族農民党を中心に反戦運動が繰り広げられ、1944年8月に ソ連のRomania侵攻と同時に、国王とその側近勢力のクーデターにより、政権は 瓦解。 同時に、将軍は逮捕。 1946年、戦争犯罪人法廷にて、親ドイツ派の戦犯として死刑を宣告され、執行される。
119 :
12 :03/06/20 00:33 ID:KfyjE93M
〜111の続きです〜 海防戦艦部隊の対イタリア作戦基地はトリエステにありましたが、2番艦のウイーンは 、12月10日同軍港内に停泊していたところを強行突入してきたイタリア魚雷艇(MAS) の攻撃を受けて沈みます。 対する二重帝国海軍は、喪失したウイーンの代わりに戦艦アルパードを急きょポーラ からトリエステに移動させ、同19日には戦艦アルパード、海防戦艦ブダペスト、軽巡 洋艦アドミラル・スパウン、駆逐艦6隻、水雷艇16隻、掃海艇5隻より成る艦隊を派遣 して再度ピアヴ川河口のイタリア軍陣地を砲撃しました。 話は変わりますが、第一次大戦時のルーマニア軍は二重帝国のドナウ川河川海軍と戦 火を交えたようですが、「実際にどの場所でどのような戦闘があったのか?」につい ては疑問が・・・。ドナウ川は二重帝国とルーマニアとの国境沿いには流れていなく、 ブルガリア・ルーマニア国境に沿って流れているので、二重帝国の河川軍艦はここま で進出してきたとか?
>119 二重帝国当時ベオグラードのもう少し先のドナウが90度屈曲してる あたりまでハンガリー王国領でドナウがセルビアとの国境でした。 このへんで河川軍艦同士での河戦(海戦じゃないよなぁ・・・。) があったのではないでしょうか。 しかし、広いとはいえ中国の河川みたいな幅はないので岸から 狙い撃ちされたら河川軍艦なんてイチコロのような気がするんで すが・・・。
122 :
12 :03/06/22 00:30 ID:ePhzz7Ur
>120 どうもありがとうございます。一次大戦のルーマニア軍というと、どうも二重帝国領内 のトランシルバニアを攻めた陸軍のことしか頭になかったので、河軍のとこには目がい ってなかった。ギシュクラ様のおっしゃることは大いにありえたのではと思います。( 当時のセルビアはすでに二重帝国の占領下に置かれていたし・・・・) でも第一次大戦時のルーマニア河軍はどんな艦艇を保有していたんだろう?二重帝国の ドナウ川河軍を含めて前スレとネットで調べさせていただきます。
123 :
アンチネスク :03/06/22 01:35 ID:EfOywn55
>>118 ありがとうございます。あとアントネスク生まれた都市や年代をできれば 教えていただきたいのですが・・・誰か教えてください。お願いします。
124 :
アンチネスク :03/06/22 01:45 ID:EfOywn55
すいません123ですが書き忘れていたので・・・。 ブルガリアのボリス三世について誰か詳しい方、彼の経歴について教えてください。 お願いします。
>123 「東欧を知る事典」より 1882年 ピシュティに生まれたとあります。 フランスで軍事訓練を受ける。 第一次大戦時はルーマニア軍に従軍する。 1937年ルーマニア軍参謀長となり、40年には元帥。 同年国王カロル2世によって首相に任命されるが、逆に 国王に対し独裁権の放棄を要求、カロル2世を退位させ その子ミハイを王位につかせる。 当初「鉄衛団」指導者シマHoriaSima を副首相に起用 し提携するが、41年1月にはヒトラーの合意のもと鉄 衛団を粉砕、軍事独裁政権を確立し、ルーマニアを日独 伊三国同盟に加盟させ対ソ宣戦を行う。 44年8月政権倒壊後に逮捕され、44年6月に戦犯と して処刑された。 だそうです。眠い人さまの解説とダブってますがご参考 までに。
>125 ギシュクラ・ヤーノシュ殿、フォローサンクスコです。 ラテン語系のRomania語は余り、得意でないので。 >124 ボリスIII世((БорисIII)1894〜1943:在位1918〜43) 1894年生まれ。 Sachsen-Coburg-Gotha家のFerdinand I世と、Palma-Bourbon家のMarie Louise との間に誕生。 初代Bulgaria国王だったFerdinand I世が、1918年に敗戦の責を負って退位した後を 受けて、国王に即位。 当初は、農民党などを立てて、民主的政治を心がけるが、戦後の混乱が拡大するに 連れて、政権と対立。 1923年 将校の反乱によるクーデターを支援。 9月に共産主義者の反乱が起きるがこれを鎮圧。 一気にモーナルヒスト(君主制主義者)の地位が向上。 1925年 Sofiaの聖ネデリャ教会で、国王ボリス3世の暗殺を狙った爆弾テロが起きるが未遂に終わる。 1934年 一時民主主義者に政権を明け渡すが、保守派将校組織ツヴェーノによるクーデターを裏から画策。 1935年 ツヴェーノ指導者 ゲオルギエフ大佐失脚により、独裁体制を構築。 1940年 三国同盟加盟により、Romaniaから領土獲得。 第二次大戦に際しては、“象徴的戦争”を宣言 1941年 英国に宣戦を布告。12月に米国に宣戦布告。 マケドニアを併合 1943年 ヒトラーと会談後、急死。 SimeonII世が6歳で跡を継ぐ。 (今のSimeon Saxe-Coburg-Gothaで、Bulgariaの首相) なお、妻Joannaは、Savoia家のItaly国王、Vittorio Emanuele III世の娘です。
127 :
アンチネスク :03/06/22 13:54 ID:EfOywn55
>>125 ,
>>126 どうもありがとうございます。大変、勉強になりました。今、自分は第二次世界大戦中の
国家指導者について調べてるのですが、彼らについての資料があまりなくて・・・。
これからも東欧指導者について、質問する事がたびたびあると思いますが、
そのときは、よろしくお願いします。
>127 参考になりそうな本を挙げておきます。 「東欧を知る事典」平凡社 「小独裁者たち 両大戦期間の東欧における民主主義体制の崩壊」 法政大学出版局 「ハンガリー史」恒文社→そうとう古い本で内容に?がつくところがあります。 「ルーマニア史」恒文社→同上で、内容の?はハンガリー史以上。絶版になってます。 「ハンガリー・チェコスロバキア現代史」山川出版社 「東欧のナショナリズム」刀水書房 拙宅にあるのはこのあたりでしょうか。 個人的にはハンガリーがオスマントルコに敗北する1526年あたりまでが興味の範囲 なんで、あまりお役に立てないと思いますが・・・。
130 :
アンチネスク :03/06/23 23:54 ID:BlF3pQ0y
誰か、クロアチアの指導者パヴェリッチについて詳しい方、彼の経歴に ついて教えてください。クロアチアは東欧ではなく中欧に属するような気も するんですが・・・・教えてください。
132 :
アンチネスク :03/06/24 00:21 ID:C6kdPc0g
>>131 一応、以前にそのスレを調べてみたんですが、あまり彼経歴についての情報が
書き込まれてなくて・・・・。それで、ここに書き込まさせていただきました。
>132 にゃるほろ。 今宵は、ちと精根尽き果てているので、ギシュクラ・ヤーノシュ殿の登場を 待つか、明日まで待って下しい。
134 :
アンチネスク :03/06/25 17:21 ID:CJUS6jh/
一応、パヴェリッチについての質問を130で示されたスレッドにも 書き込んでおきました。 で、新たな質問なんですが、第二次世界大戦中のスロバキアの指導者って 誰なんですか?詳しい方、当時のスロバキアの指導者の名前と彼の経歴に ついて教えてください。お願いします。
>134 手元の資料はハンガリー王国関係のものばかりなんで現代は手薄です。 パヴェリッチについてはの手元資料は 「バルカン世界」ジュルジュ・カステラン著 彩流社 「ユーゴスラビア史」スティーブン・クリソルド著 恒文社 「クロアチア」ジョルジュ・カステラン著 文庫クセジュ ぐらいしかありません。 ざっと見たところ 1889年に生まれた 1928年にイタリアへ移住し、イタリアファシストの援助により 「ウスタシャ」を結成。 枢軸軍のユーゴスラビア侵入後ユーゴへ戻り「クロアチア独立国」 の指導者としてセルビア人・ファシスト敵対者・ユダヤ人の虐殺 を行った。戦後、戦犯として死刑を宣告されたがアルゼンチンに 亡命、1955年マドリードで死亡。 という程度の記述でした。 あちらのスレの方の方がはるかにお詳しいでしょう。 スロバキアの指導者は1938年まではアンドレイ・ フリンカ神父、その死後はヨーゼフ・ティソだと思い ます。
>134 パヴェリッチは向こうに任せて…。 Slovakiaの大統領は、1939年10月(つまり、Czechoslovakia解体の翌日)に 就任したヨゼフ・ティソ(Jozef Tiso)です。 彼は1887年Bratislava生まれ。 1932年にBratislavaのCatholicの大僧正となる。 そして、Slovakia独立を求めるSlovakia人民党の指導者となり、1938年、前の 指導者である、Andrej Hlinkaが死亡した後、その党首に就任。 ミュンヘン会談直後の1938年10月6日、Slovakia人民党により、Slovakiaの 自治が宣言され、その一派は公然と、Czechoslovakiaからの独立を求めます。 1939年3月13日に、ヒトラーはティソを呼んで、独立を宣言するように扇動し、 彼はそれに応えて3月14日に州議会で独立を宣言しました。 こうして、Slovakiaは独立し、共和国となります。 しかし、独立直後にドイツと保護条約を結び、ドイツの保護国となってしまっています。 1939年9月30日にCzechoslovakiaが正式に解体されると、翌日にはティソは大統領 に就任します。 任期は7年、そして、「指導者」の称号も得ます。 1940年11月24日に三国同盟に加入し、1941年6月24日に対ソ宣戦。 1942年には、ユダヤ人の国内からドイツへの移送を開始します。 ティソは、Catholicの枢機卿(だったかな、兎に角聖職者)だったので、Vaticanから 抗議が来ると、それを一時中止します。 1944年8月にSlovakia蜂起が起き、全土をドイツ軍の占領下に置かれ、彼の政府は 終焉となります。 そして、東からソ連軍が攻め込んできて、1945年4月に米軍占領地にて投降。 戦犯としてCzechoslovakiaに引き渡され、戦争犯罪人として1947年に死刑となります。
138 :
アンチネスク :03/06/26 00:57 ID:pOyf7jG6
>>135 ,
>>136 ,
>>137 ありがとうございます。これで、東欧の第二次世界大戦中の枢軸国指導者
についての経歴を知ることができました(ハンガリーのホルティ、ルーマニア
のアントネスク、ブルガリアのボリス三世、スロバキアのティソ、クロアチア
のパヴェリッチ・・・もし、ここに書かれた以外の東欧枢軸国があれば教えてください)
みなさんの協力に感謝します。
>138 枢軸国が三国同盟に加盟した国という意味であれば、Montenegro、Albania もその仲間に入ります(いずれも、Italyの保護国ですが)。 後、Yugoslaviaも、枢軸国っちゃぁ枢軸国です。 Yugoslavia政府は元々ドイツ寄りで、1941年3月に三国同盟に加盟します。 しかし、直後に軍部(こっちは連合国寄り)のクーデターで政権が転覆し、直後に Bulgaria、Hungaryなどの侵攻を招き、最終的にはドイツ軍の介入を受けたりして います。
140 :
アンチネスク :03/06/26 17:35 ID:pOyf7jG6
>>139 枢軸国をそう定義してしまうと「日独伊三国同盟に参加していないのに
連合国に宣戦布告し交戦したフィンランドやタイが枢軸国ではない」と言うことに
なってしまいます。また、ユーゴスラビアを枢軸国にしてしまうと「連合国に
与えたダメージより、枢軸国に与えたダメージの方が大きい枢軸国」と言う、
かなりおかしな事になってしまうんです。なので、枢軸国を決めるのに
日独伊三国同盟に加盟していたかどうかはあまり参考にならないんです。
それで、質問なんですがアルバニアやモンテネグロは連合国に宣戦布告
した事があるのですか?もし、あるのならば当時のそれらの国々の指導者
の名前と彼らの経歴について教えてください。誰か詳しい方、教えてください。
よろしくお願いします。
>140 AlbaniaとMontenegroは、基本的にItalyと同君連合を構成しています。 従って、Italyが宣戦布告をすると自動的に戦闘に巻き込まれる訳です。 厳密に言えば、それらの国の指導者は、Italy国王たるVittorio EmanueleIIIと 言えます(奥方は、Njegos家(Montenegro国王家)のHeleneですので、 Montenegroについては彼に正当な継承事由がある訳です)。 例えば、ItalyがGreeceを攻撃した出撃基地はAlbaniaだったりします。 まぁ、満州を想定してみて下さい。
142 :
アンチネスク :03/06/27 01:49 ID:vtbZU8qO
>>141 なるほど。勉強になりました。今まで、大戦中のアルバニアの事を、単なる イタリアの植民地だと思っていたので・・・。 それで思ったんですが、たとえ、それらの国の王位をイタリアの国王である ヴィトリオ・エマヌエーレ三世が受け継いだとしても、やはり実質的な指導者は イタリアのベニト・ムッソリーニに、なってしまうような気がするのですが・・・。 (大戦中、日本の実質的指導者の東条英機と形式的指導者である昭和天皇の関係のように) それらの国々には実質的な首相や元首はいなかったのでしょうか? それとも、やはりヴィットリオ・エマヌエーレ三世こそがそれらの国の、 実質的指導者なんでしょうか? 彼以外の指導者がもし、いたのなら、彼らについて詳しく教えてください・・・。
1946年9月に処刑されたスベロニアのLEON RUPNIK将軍は?
144 :
アンチネスク :03/06/28 00:39 ID:GW0fozgl
>>143 スロベニアって当時独立していたのですか?・・・なんだか当時のユーゴスラビア
のことがわからなくなってきました・・・。当時のユーゴスラビアに詳しい方、
当時のユーゴスラビア情勢について教えてください(どこが独立していたとか・・。)。
お願いします。
>144 少しは自分で調べてはどうかな? 図書館あたりに行けば東欧の各国史ぐらいあるだろう? 聞いた知識は身につかないですぞ。
>>145 もうしわけありません。我が家の近くに図書館がまったくないんです・・・。
(つい最近まであったのですが、閉鎖されてしまって)。
でも、ご指摘の通りですね。これからは何とかして自分の力で調べていきます。
>>144 スロベニアは独立して無かったはず。民族運動は強かったけど。
ユーゴが占領されると、その地域性が災いしてイタリアとドイツに真っ先に
一部の領土を割譲された。
LEON RUPNIK中将はユーゴの元将軍でドイツ/イタリア軍の傀儡である
約1万〜1万5千のスロベニア国家防衛隊を率いていた。
148 :
名無し三等兵 :03/06/30 22:32 ID:N6eVhkIz
アンチネスクさんは本屋へ行きなさい
149 :
名無し三等兵 :03/06/30 22:35 ID:/SlRwN4F
>>マンガだけど『石の花』はどうか?
>149 歴史背景はともかく,Ju-52で爆撃したりしているので……. やはり,ギシュクラ・ウールが挙げた本をまず買うのがよろしいかと. ネット通販など利用すれば,古書を安く入手することも可能です. >アンチネスク・ウール 近所に公民館で,本の貸し出しをしているようなところがあるかどうか, 移動図書館が近所にやってきてはいないかどうか,市役所等に問い合わせしてみるのも, 一つの方法です. 現在はたいてい,各図書館で相互に貸し出す本を融通しあっている(相互貸借)ので, 「公民館の図書室」や移動図書館レベルでも,県内の図書館にある殆どの本を 借り出すことができるはずです.
151 :
アンチネスク :03/07/01 01:46 ID:U/whEeDy
>>145、>>148 先日、少し遠出をして図書館に行って来たんですが・・・。 特別休館日だったので閉ってました・・・。で、本屋に行って いろいろな資料を立ち読み(親切にも立ち読み専用のコーナーがある) してみたのですが・・・東欧関係の本があまりおいてなくて・・。 しかし、2件めの本屋でなんとか「東欧を知る事典」を発見して読んで みました。でもやっぱり立ち読みは落ち着かなくて・・・・。来週あたりに もう一度図書館に行ってこようと思います。
アンチネスクにユーゴの事を教えてやれよ。可哀想に。
153 :
名無し三等兵 :03/07/03 18:13 ID:pUDn/6of
かばちんage
154 名前:12 投稿日:03/07/05 00:34 ID:Kgq+3d0M ・・・・気分転換によかったら・・・・ 第一次世界大戦勃発の翌1915年、ドイツ、オーストリア・ハンガリー二重帝国と三国同盟 を結んでいたイタリアは、当時オーストリア領であったダルマチア(現クロアチア領)、 アルバニアなどの領有を狙い、5月23日に対オーストリア宣戦を行った。イタリア海軍は 主力となるタラント軍港にド級戦艦と前ド級戦艦、アドリア海に面したブリンディジ港に は巡洋艦と駆逐艦を配備し、またベネチアには前ド級戦艦2隻、装甲巡洋艦4隻を中心とし た艦隊を進出させ、さらに英仏から派遣された艦艇も加えオトラント海峡の封鎖を行った 。6月5日、イタリア海軍は仏駆逐艦4隻に護衛された巡洋艦4隻を派遣してダルマチア南部 のラグーサ(現クロアチア領ドブロブニーク)・カッタロ(現モンテネグロ領コトル)間 の鉄道を砲撃し、同日軽巡洋艦ニノ・ビクシオと仏伊駆逐艦4隻もリッサ島を砲撃した。 これに対し、アントン・ハウス提督の指揮するオーストリア海軍は、戦艦の温存策をとり つつも、一方では軽巡、水雷艇、潜水艦などを活用したTip and run raidsと呼ばれる奇 襲攻撃で敵に被害を与えた。6月9日には潜水艦U4がアルバニア沿岸部で英巡洋艦ダブリン を雷撃して損傷を負わせ、同17日には装甲巡洋艦サンクト・ゲオルグ、水雷艇14隻がリミ ニその他のイタリア沿岸を、17・18日にはホルティ・フォン・ミクローシュ提督率いる軽巡 洋艦ノヴァラ、アドミラル・スパウン、駆逐艦4隻、水雷艇4隻がアンコナとリミニの中間 にあるファノとペサロを急襲して打撃を与えた。 また7月7日には、潜水艦U26(独潜水艦UB14がオーストリア艦籍に編入されたもの)が北 アドリア海に出撃していたイタリア装甲巡洋艦アマルフィを撃沈し、18日には潜水艦U4が 南ダルマチアのラグーサを砲撃していた同装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディを沈めた。 (オーストリアの潜水艦部隊はドイツの援助で強化され、大戦中に新たに20隻(計27隻) が就役した)一方オーストリア側は8月8・13日の戦闘で潜水艦U3とU12(艦長エゴン・レ ルヒ)を失っている。
最近、何度も鯖は飛ぶし、ログは飛ぶし…。 てな訳で、トリビア的保守カキコ。 信じられないけど、マジャールは世界で最初にTurbopropEngineを実用化した国でした。 作ったのは、George Jedrassikと言う人で、ガンツ車輌工場の技術者だった人。 1932年に彼はまず、100hpEngineの設計を行い、それは1937年に試運転にこぎ着けて います。 そして、その間、彼は次のCs-1Turbopropを設計しています。 これは、13500rpmで、1000hpを発揮する予定だったそうです。 このEngineは、鋳造製インレット・ハウジング、ギア比0.119の減速ギア、2個のベアリング で支持され、大口径中空シャフトで結合された、15段のコンプレッサーと、11段のタービン、 折れ曲がった逆流式アニュラー型燃焼機、空気冷却式タービンディスクと延長翼部を有する ブレードなど、現在のものと余り変わらなかったらしいです。 Cs-1は1940年8月に試運転され、このエンジンは、国産のX/H(RMI1)双発戦闘爆撃機の 動力にも採用されました。 もし、対ソ宣戦が無ければ、1942年くらいには、Turboprop軍用機が空を舞ってたかもしれ ません。 1941年に、この野心的な計画は、資源集中の観点から中止させられ、ドイツのDB605エンジンの 供給と、Me-210のライセンス生産が決まったのです。
156 :
名無し三等兵 :03/07/11 10:29 ID:+Owm7TZu
チェコってなにげに国産ライフル作って海外とかでも広く使われていない? ソ連の侵略以来軍事産業は地に落ちた感じがするが・・・
157 :
名無し三等兵 :03/07/11 11:04 ID:NDDI/TOv
>>156 拳銃など戦後もベストセラーになっているものがある.
159 :
156 :03/07/11 22:19 ID:???
いやプラハの春以降軍事を含む産業という産業が衰退したのは明白。 ソ連としては反乱を抑えるためにもなんとしてもチェコの軍事産業を制御したかったんだろう。 残念な話だ。ところで最近のチェコではなんか動きはあるのか?
160 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/07/12 14:51 ID:Lg+ZfeX1
>155 ガンツ社は確かディーゼルエンジン?かなんかでも有名だったような記憶が あります。かなり技術力は高い会社だったと思います。 光学器械のガンマ社も高い技術力を持っていました。 戦後、幻の1眼レフカメラ「デュフレックス」を開発しましたが、確かソ連 から横槍が入ってカメラメーカーは東独に集中させられたと聞きます。 >156 オートバイのレースの世界でもチェコのヤワとCZは相当に強力なメーカー でしたが、プラハの春以降海外参戦が出来なくなりGPから撤退せざるを 得なくなってしまいました。予算的な問題もあったのでしょうが、野心的な マシンを開発していただけに残念なことでした。 モトクロスとスピードウェイの世界ではチェコのメーカーはその後も有力で したし、ラリーの世界ではシュコダ社が参戦を継続、タトラ社もパリ・ダカ ールラリーのカミヨン(トラック)部門の有力なコンテンダーです。 軍事関係でなくてすみません。
161 :
名無し三等兵 :03/07/12 15:29 ID:bNlTzjnA
>>155 「実用化」ということは,発明は別の中の人ですか?
>160 ガンツ社は鉄道車輌と共に、発電機、蒸気機関のメーカーでもありましたから、発電用のタービンなんかも製作していたの ではないかなと思います。 スレ違いですが、1909年に関西鉄道にガンツ社製蒸気動車という代物が輸入されていたらしいですね。 日本では使いこなせなかったようですが。 >162 軸流式タービンエンジンそのものは、1922年にフランスのマキシム・ギヨームが特許を取得していますし、 遠心式タービンエンジンでは、英国のフランク・ホイットルが特許を取得していますな。 更に遡ると、1877年にドイツのヨゼフ・バルトハイムが可燃性ガスと空気を混合させた際に噴流が発生 することを確認し、それを駆動源としてタービンを回す特許を取得していますね。 ついでに、世界最初にタービンエンジンを搭載した航空機は、1909年にフランスにいたルーマニア人、 アンリ・コアンダーが作った一葉半式の航空機で、これにタービンエンジンを搭載しています。 一応、浮揚はしたそうです。 こいつは、Caproni C.C.1の様に、機首に大口を開けて、ピストンエンジンを駆動させて、空気を取り込み、 ダクト内で空気を圧縮し、その噴流を推進力として使用しようと言う、一種のエンジン・ジェット機でした。
>163 köszönöm szépen (Thanks!)
165 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/07/13 20:26 ID:XsvhRSo9
>163 関西鉄道というと今の関西本線ですな。 昔、おぼろな写真を見たことがあります。 客車に蒸気機関車がくっついたみたいなもんです。 国産のヤツが明治村に現存してます。 日本の鉄道に入った機関車はドイツ・イギリス・ アメリカが主で、軽便鉄道等でフランス・ベルギー 製を購入した例があります。 ハンガリー製というのはこれぐらいではないでしょ うか。
166 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/07/14 00:57 ID:yjSn1AlL
前スレ補足 ガンツ式の蒸気動車は明治村の国産のと姿形は異なります。 あと、ガンツ社は今も健在でMAVの車両や路面電車・地下鉄 の車両を作ってます。
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
169 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/07/15 22:12 ID:hqOaehP2
また貴様か!
ただいま戻りました。 って誰か私の事覚えてる人いますか?
>170 此処にいますよ。 オツカレチャーン。
172 :
スレ立てた人 :03/07/16 21:39 ID:6flOZCbm
ナゼかこのスレ、かちゅーしゃでは見れないんですけど?見れるようにするにはど うしたらよいですか?
173 :
172 :03/07/16 21:54 ID:6flOZCbm
見れるようになりました。
174 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/07/16 23:47 ID:E5iNmtdC
>170 無事のご帰還なによりです。 土産話をお聞かせください。
>>170 お疲れ様でした.覚えていますとも.
ウィーン包囲中のオスマン軍の砲弾に跨って飛んでいった方でしたよね?
>>174 世界史板では質問にお答えいただき,有難うございました.
ところで上レスのホルティ略歴を見ると,カール1世の復位を二度拒否していますが,
摂政であるところのホルティに,そんな権限があったわけですか?
それとも,カール1世が国民に不人気だったと言うことですか?
今月の航空ファンにエストニア空軍が取り上げられていますた。 久々に買ってまった。 >175 消印所沢殿 マジャールにとって、王制の維持は必要不可欠の状況でした。 即ち、王制を維持することで、二重帝国時代の領土要求に対する正当性を持たせる 事が出来る、と、支配層は考えていた訳です。 本来、赤化したとしても、フランスのフォッシュ首相は可成り好意的で、スロヴァキア からマジャール赤軍が撤退すれば、ルーマニア軍が占領したトランシルヴァニア地方 の還付も考慮に入れていたのですが、クン・ベーラ首相が利害得失を考えずに居座った ために、フランスとしても最後通牒を出し、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、チェコスロヴァ キア軍によるマジャール赤軍の掃討を行い、報復的措置として、領土を周辺諸国に割譲 した訳です。 その喪失した領土を返還させる為の方便としては、中世の条項におけるマジャール法で、 「聖イシュトヴァーンの聖なる王冠の領土」であると言う基礎が必要でした。 即ち、王国を止めて、共和国になると言うことは、領土放棄と見なすと判断した訳です。 1919年の赤色政権崩壊時、反革命政府は、一時的に王国はハプスブルク家の一族、 ヨーゼフ大公を摂政に選出しています。 しかし、反革命政府は1920年1月に実施した選挙結果だけで、王政復古を保証する旨の 宣言を行い、これが、協商国の心証を害して、結果的にトリアノン条約の過酷な処分に 繋がった訳で、ハプスブルク王家の復帰は、本来はチェコスロヴァキアの様に戦勝国側 に立っていたマジャールを敗戦国に落剥させた思いが指導層にあり、また、ハプスブルク 家の復辟は、協商国、周辺諸国の脅威に映ったため、その外部からの圧力(マジャール 赤色革命の転覆は周辺諸国軍隊によるものを想起されたし)により、最終的にカール国王の 廃位に繋がった訳です。
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
今回の看板にホルティ提督が…キターーーーーーー。
支援
>>178 えっ、いったいどれですか?
いっぱい人がいて、わかりません。
>181
●初心者歓迎 スレを立てる前に此処で質問を 91 からコピペ
651 名前:名無し三等兵[] 投稿日:03/07/22 18:30 ID:EuViaoMo
今週のバナーの人名を教えてください。
左下がヴィルヘルム二世ってのはわかるんですが。
652 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/22 18:43 ID:???
>>651 チャーチル(青年期) ニコライ2世
ホルティ リヒトホーフェン
ちょっと不明 ムスタファ・ケマル
作者氏が答えるのが良いのでしょうがでしゃばればこんな感じ
左下はちとわかりませんが顔や髪型からしてヴィルヘルム2世では無いと思われます
653 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:03/07/22 18:52 ID:???
>>652 自己レス
左下はバイエルンの王太子ルプレヒト元帥でした
182 :
ホルティ支持者 :03/07/25 23:23 ID:Fi9MiJf3
おー、素晴らしい!!ホルティが居る。やはりこのスレの力か・・・?
>>176 詳しい解説ありがとうございました.
同時期,外交で点を稼いだルーマニアとは対照的ですね.
>>178-182 アントネスク,サーロシ,ボリス3世,ゲオルギオフ大佐,トラップ大佐,等の
顔写真も希望.当方の索敵範囲では発見しえず.FAQに載せたいので…….
184 :
ホルティ支持者 :03/07/28 01:15 ID:vJLlIoNA
ボリスの写真は結構、ぐぐればみつかりますよ。アントネスク、サーラシも どっかにあった気が・・・
>176 カール帝がハンガリーに来たとき小協商各国は臨戦体制に入ったそうで、 フランスに対する根回しは妃の兄君を通じてある程度なされていたもの の、周辺各国に対するそれはまったく欠けていたそうです。 因みに最近友人から聞いた話ですが、ホルティ提督はその死の直前にオ ットー大公に面会を求め、大公は願いを聞いて提督に会われたそうです。 提督としては過去を悔いる気持ちがあったようで、回想録にはハプスブ ルク家の当主が統治する強力で幸福なドナウ諸国連邦を見ることができ れば幸せだというようなことを書いているとのこと。
186 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/07/28 01:20 ID:lQ/4UvPw
トラップ大佐もどこかで見た気が・・・。
187 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/07/28 10:15 ID:nzyUQ296
188 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/07/28 10:45 ID:nzyUQ296
>187 トランシルヴァニアの名門貴族であるテレキ伯爵です。 一応、有名な地理学者でもありました。 19世紀には先代?がケニア山の4240m地点まで登っていたり。 この写真の人は、Teleki Pal(1879-1941)で、1919年の反Bolshevik委員会に 外務大臣として入閣し、1920年7月〜1921年4月まで首相(外相兼任)に就任。 1920年のソ連・ポーランド戦争では、マジャール軍の参戦を参画し、フランスが 一時期取っていた親マジャール政策を発展させることに心血を注ぎます。 彼はトリアノン条約の撤廃と引き替えに、南東ヨーロッパに於けるフランスの橋頭堡 としようとしますが、Polandがその意に反して、ソ連との戦いで勝利した上、フランスの 内閣の中の親マジャール派が、他の閣僚を説得できなくて、断念。 その責任を取って辞職します。 その後、色々な職に就きますが、Hitlerが周辺諸国に影響を及ぼし始め、マジャールも右傾化 を顕著にします。 しかし、ホルティはそれを好まず、あくまでも中立を保とうと、右傾化の上、ナチスドイツへの傾斜が 顕著だったゲムベシュ・ジュラ派を遠ざけ、1939年にイムレーディの跡を継いで再度首相に登用 します(ちなみに、前内閣では文部宗教大臣として入閣)。
ホルティ−テレキ・ラインは、Germanyの影響を排除するべく奮闘しますが、外務大臣に日本の 松岡の様なGermanyマンセーのチャーキが付いていたので、坂道を転げる如く、親独への道を 歩み始めています。 ただ、その政治姿勢は、近衛と同じく首尾一貫せず、曖昧な態度に終始した訳で、第二次大戦 勃発に際しても、Polandへの義勇軍を黙認し、敗北したPoland兵が領土を通過するのを黙認する 一方で、Germanyの歓心を買うべく、反ユダヤ法の制定など様々な政策を行っています。 1939年のチェコ解体の時の紛争、1940年のトランシルヴァニア割譲時の紛争についても、対応を 誤り、Germanyは周辺諸国の強大化を望まなかったこと、そして、ドイツ人に親Romania感情が あったことから、最終的に5分の2の返還で済まされてしまいます。 その代償に、過激なファシストのサーラシを釈放し、三国同盟に加盟します。 ところが、最後の政策が自らの破滅を招き、この三国同盟加盟が支持層の中道派・左派から批判を浴び、 そのBalanceを取る意味で、Yugoslaviaと永久友好条約を締結し、連合国からマジャールがGermanyの影響 下に無いことを示し(たつもり)、更にYugoslavia自体も当時は三国同盟加盟国であり、右派からも何の問題 も出ないはずでしたが、加盟翌日、政府がクーデターで倒され、Germanyは彼の国に侵攻を決め、マジャール に出兵を求めました。 此処でも、英国との戦闘状態に入ることを恐れて、 「我が国はGermanyに荷担せず、ただ座視していれば、未回収の領土がGermanyの占領下に入ります。 だから、我が国はGermanyの後から入って、Yugoslaviaとの敵対行動は避けます。 ただ、未回収の領土を回収しに行くだけです」 と言う玉虫色の政策を行おうとします。 そんな政策はGermanyは元より、連合国の筆頭たる英国からも完全に無視され、彼は1941年4月2日〜3日に自殺。 その後、4月6日に対Yugoslavia戦争となり、4月8日、英国は関係を断絶。 最終的に12月の英国による宣戦布告に繋がっていった訳です。
>>189 横レスですが
末期に編成されたSS師団「ハンガリー第2」の別名に「ゲンベシュ(あるいはゲンボス)」
と冠している書籍がありますが、文中に出てくるゲムベシュと同一人物でしょうかね
192 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/07/31 19:46 ID:MyvVRcH+
眠い人様 テレキについての詳しい解説ありがとうございます。
193 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/07/31 20:01 ID:MyvVRcH+
194 :
名無し三等兵 :03/07/31 20:23 ID:npPFD5MR
195 :
名無し三等兵 :03/07/31 20:24 ID:9g1Bhli+
196 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/07/31 23:46 ID:o6FAFhJk
1枚目はテレキ伯ですかね。 2枚目はブダのゲレルトホテル前ですね。今も残る温泉ホテルです。 昔のマジャール騎兵のカッコをしたやつが中央に何人かいるのが興味 深いです 5枚目は矢十字ですね。今でもこのマークをつけたネオナチみたいな のがいます。
画像関係で情報を提供していただいた方々,ありがとうございました.
とりあえず,ボリス3世とアントネスクの顔写真をFAQに載せました.
他のも順次乗せていく予定です.
>>194 ヒトラー時代にも相当頭脳流出してますね.
有名どころでは,ハンガリーからアメリカに渡って原爆開発に携わった
レオ・シラードとか.
彼はまた,ソ連に原爆情報を渡した一人(KGBによる暗号名『エディター』)でも
ありますが.
∧_∧ ∧_∧ ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕 = ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
199 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/08/02 23:29 ID:krwPmhtU
>197 えらい名前に改名されましたな?? さて、そのへんの物理学者たちの話は「異星人伝説」という本 になかなか面白い話が出ています。 そういえば、シギショアラへ行った時にヘルマン・オーベルト に関する展示を見ました。あの方はトランシルバニアのザクセ ン人だったのですね。
あ、ギシュクラ氏はCroatiaに旅立ったんですかね。 良いなぁ。 ローンさえなければ…ショボーン。
「ほほう,これがギシュクラ氏のお土産ですか.ダルマチア名産の牡蠣ですね」 「いえいえ,これはセルビア人の目玉ですよ」 >「異星人伝説」 φ(.. )
(⌒V⌒) │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。 ⊂| |つ (_)(_) 山崎パン
アンチネスク君もう来ないのかしら。
205 :
アンチネスク :03/08/16 19:10 ID:6dp+JohG
>>204 では、久しぶりに書き込まさしていただきます・・。
自分は今セルビアのMilan Nedicについて調べているんですが
どこにも彼についての資料がないんです・・。一応、彼の経歴について
記してある海外のサイトがあるんですが、未知の言語で書かれていて
訳すことができません・・・。
誰か、彼の経歴について教えてください。お願いします。
で、一応自分も話題を・・。ハンガリー軍の兵器の資料を見ていたとき、
パールドゥチ重戦車とティングリシュ重戦車言う戦車を発見したんですが、
どう見てもドイツ軍のパンター戦車とティーガー戦車にしか見えないんですが・・。
当時のハンガリーってパンターやティーガーを生産できるほどの工業力ってあるんですかね?
それとも、やはりドイツ軍がハンガリー軍に給与したのでしょうか?
>>205 >ハンガリーの虎
アーマーモデリング誌12号にハンガリーで運用されたティーガーIの記事がありますた。
ハンガリーの軍事雑誌に掲載されてたらしい同記事を抜粋すると
・1944年4月以降、消耗したハンガリー第2機甲師団の第3戦車連隊第I大隊に対し10両が配属された。
(他にも中古のIV号戦車12両、III号突撃砲10両が配属、整備用具・予備部品はなし!)
これらのティーガーIはティーガーIIに装備改編する第503重戦車大隊の中古品だった。
訓練も503大隊の兵員が教育に当たった。
・ティーガーは前述第I大隊の第2・第3中隊を構成した。
・訓練完了後、ティーガーは小隊単位でハンガリー第24歩兵師団の各大隊戦区に分散配置された。
一週間の戦闘で損害皆無で十分な戦果をあげた後、大隊に復帰した。
・ハンガリー第1軍機動予備として防御戦闘に従事、結局バックアップの不備により7両が放棄ないし事故で失われ
残りの3両は後送された。
とりあえずライセンス生産ではないです。
ハンガリー人もティーガーの攻撃力、防御力は絶賛しているようでした。
本日コミケに行って東大戦史研の最新刊を購入しましたが、お題は「中小国のWW2」でした。
東欧関連ではルーマニアと自由ポーランドを扱っておりました。概説史として良い感じなので
興味のある方は冬に行ってみるとよいかと。
207 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/08/16 22:39 ID:Mzwrrc4B
かば◎氏のHPにもハンガリーがパンサーを使ってたという記述がありま すが、パンサーの方はどのような経路でハンガリーに入ってきて、どんな 運用をしたんでしょうね?情報キボンヌ。
>>206 ハンガリーの虎についてのレスありがとうございます。
209 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/08/18 00:53 ID:tqn5kQzb
>202 そんなもん買ってませんって・・。
>>209 ご旅行おつかれさまでした.
>そんなもん買ってませんって・・。
失礼,買ってきたのは元クロアチア代表FW「4年前のW杯得点王なのに,
今はどこの空の下……」シュケルのほうでしたか.
確かに今ならお買い得ですね.
>>201 >ローン
<最終通告>
前略
先日発送させていただいた債権譲渡書は既に拝見頂いたものと存じます.
同書面でもお知らせしました通り,弊社は各サイトのインターネット・コンテンツ
事業者様より接続料金回収を委託されている者です.
この度,弊社顧問弁護士事務所と協議の結果,以下の通りの事業と決定し,
本メールを最終通告とさせていただきます.
【入金期限】 平成15年8月25日
【振込先】 (代表口座)
●●●銀行 ●●●支店
(以下略
さて,ネタ書き込みはさておきまして,昨日,NHK「ヨーロッパ・ピクニック 計画」再放送を見たんですが,ショプロンの門の件といい,ズグリゲット教会の 件といい,ハンガリー政府は非常に狡猾な外交を展開していますね. 翻って,両大戦間の外交は非常にお粗末に感じるのですが,例えば, スロヴァキア侵攻など,大国(フランス)の介入を招かないと 思っていたのでしょうかね? ブラティアヌ外相擁するルーマニアとはあまりに対照的過ぎて……. 戦闘の実際を見ても,ブダベシュトを占領されるなど,「なんだかなあ……」と いった感じがしますが. >209 そういえば,シゲトヴァールはどうでした?
212 :
名無し三等兵 :03/08/22 00:36 ID:22FEnCd0
>211 戦後でもハンガリー動乱でめたくたにされていますよ。ヨーロッパ・ピクニック計画は35年越しの復讐。
213 :
名無し三等兵 :03/08/22 01:02 ID:AcostlEe
ベオグラードの軍事博物館は88mm砲に感激。 ワルシャワでは日本のカブトに感激。 リガではケッテンクラートに感激。 ブカレストではMG42を持たせてくれて感激。 ブダペストは面白くなかったが、フリーマーケットでモーゼルやら P38やらシュマイザーやらMP44やらをいじらせてもらえた。 意外と骨董屋や町の銃砲店のほうが面白かったりする。
214 :
213 :03/08/22 01:04 ID:AcostlEe
しかしサラエボやベイルートの崩れたビルや穴だらけのアパート群や 地雷注意の張り紙のほうがずっと現実的で印象的だった・・・
>212 そのレスたぶん釈迦に説法
216 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/08/26 01:55 ID:9O9Jk6Sx
自分、F1も好きで見てるんですけど、24日のハンガリーGPでジョーダン フォードから打撲でドクターストップをかけられてるファーマンの代役に 初のハンガリー人F1ドライバー、バウムガートナーが出走しました。結局 リタイアしちゃったんですが、まだ22歳なのであと何年かたてばレギュラー になれるかも。って激しく板違い。
217 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/08/27 00:31 ID:5i0DlsYe
>216 二輪でも125クラスにガボール・タルマーチ選手ほか2名が参戦して いますよ。 コースサイドでハンガリー国旗を振って応援していたら必ず手を振りか えしてくれる、気さくなナイスガイです。
218 :
名無し三等兵 :03/08/27 01:53 ID:OIbilQf+
ヘ⌒ヽフ ( ・ω・) _( ι ), / 丶 ̄ ̄ ̄ ̄丶 / 丶 ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄〇 // / __ 丶  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ __ // / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ \_ 丶_\ \ / ◎ ◎ ◎ \_ \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \\_ \ ((( | ◎┌───┐. ◎ |_  ̄|  ̄ ̄CX ̄ ̄ ̄||_ ̄| | └───┘ |__|_MINAPON_||__| ((( \ ◎ ◎ ◎ ◎ |__| / |__|ヾ.´ \\\\______/ _/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
219 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/09/04 01:45 ID:+pb5q3Qa
age
220 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/04 23:35 ID:RZga/DCb
>218 ルーマニアのマーシャル戦車??
221 :
名無し三等兵 :03/09/04 23:38 ID:OtrBEbyS
シュマイザーとMP40は別物です。
まあ厳密にはねえ・・・・・ じゃあショルメルか?
B1 bis主力戦車
225 :
名無し三等兵 :03/09/04 23:48 ID:cZH14g3J
みなさん、国によって戦車のキャタピラって違うこと、
もちろんご存知ですよね?
砂漠に適した戦車、湿地に適した戦車などいろいろと…。
http://www11.plala.or.jp/pinkmermaid/ すれ違いすみません(#^.^#)
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chu…♪(^_-)―☆
226 :
名無し三等兵 :03/09/04 23:49 ID:cZH14g3J
あ、私は女性ですよ、ちなみに…!
>218は転輪が上下2段になっているので、 第1次大戦頃の試作戦車と見たがどうか。
今ごろホルティの話を書くのもなんですが、ここに
ttp://ww1.m78.com/hito-2/horthy.html ホルティの略歴が掲載されてます。
それによるとホルティは1957年、亡命先のポルトガルで87歳で死去。
1993年に遺骸は祖国に戻され、生地のケンデレス(Kenderes)に埋葬された、とあります。
現在のハンガリーではホルティは評価されてるってことなんでしょうかね。
ハンガリーの共産化を一度は食い止めた人物でもあることだし。
久しぶりにこのスレに来たんですが、実はパヴェリッチとセルビア産の牡蠣の話を最初に書いたのは自分だったりします。
じゃあローザルクセンブルグやマレーネディートリヒは母国で評価されているのかと小市時間
231 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/05 22:30 ID:JrIl7czZ
>229 どうなんでしょうね。博物館のみやげ物屋で提督の肖像の絵葉書とか 普通に売ってますから、社会的に容認されないというようなことはな いように思います。
チェ・ゲバラの肖像画を浦和レッズ・サポーターがよく翳しているのですが,
レッズ・ファンはゲバラを評価しているのでしょうか?(そんなわけねえ)
まあ,でも,ホルティは第1次大戦の英雄であることは確かだし…….
潜水艦に関する切手のサイトを発見.東欧諸国の項目もあり.
http://lapin.hi-edu.ru/sos/
233 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/07 01:20 ID:oJjUr+q9
>232 矢十字とは区別されていますね。あのマークは公の場では駄目の ようです。提督の肖像絵葉書は国立博物館やブダ城の王宮博物館 、軍事博物館でも発売中です。
どなたか二重帝国の駆逐艦タトラ級の8隻目の名前を教えてください。 イタリアに譲渡とされた7隻、リカ、トリグラフ、ウソツォク、オルエン、タトラ、セッペル、バラトンは 世界の艦船196911月号(数年前にJR水道橋から神保町へ向かう途中の古書店で1冊100円で20冊くらい買ったうちの1冊) でわかったのですが。 大日本絵画の「第二次大戦駆逐艦総覧」のイタリアの項目にも譲渡のあった7隻しかのっていません。 光栄の「艦船名鑑1939-45」も退役済らしくて載ってません、まあこれはもともと網羅されていませんが。 素人でよくわかりませんのでご協力お願いします。 しかしユーゴとルーマニアでは、二重帝国の旧水雷艇がWWU後も使用されているんですね。
>234 Tatra級駆逐艦は、前期型として6隻が1912〜13年に建造。 これの艦名は、Tatra、Balaton、Csepel、Lika(I)、Triglav(I)、Orjen。 次いで、Ersatz Tatraとして改良型が1917年に4隻建造。 Triglav(II)、Lika(II)、Dukla、Uzsok。 このうち、Tatra級のLikaとTriglavは、1915.12.29に触雷して沈没。 その代艦としてErzatz Tatra級の2隻がこれを襲名している。 んでもって、お書きになっている通り、7隻がItalyに引き渡され、1隻(Dukla)が France海軍に引き渡されている由。 Duklaは1936年に除籍されている。 France時代は、Matelot Leblancと言う艦名だったらしい。
236 :
234 :03/09/11 19:17 ID:???
>>235 眠い人様、ご教示ありがとうございます。
襲名があったとは知りませんでした。
237 :
12 :03/09/11 23:13 ID:/V8K02Ke
>234,235 おおお!! ひさしぶりにオーストリア・ハンガリー海軍に関するレスがついている!! 私も以前「exciteの翻訳検索」で出てきたThe Austro-Hungarian fleet:Destroyers のサイトで、眠い人様が235で書かれたような内容を目にしました。 また話を脱線させて申し訳ないのですが、 Tatra級駆逐艦のBalatonとCsepelは、 1917年5月15日にオトラント海峡の連合国封鎖線を襲撃したオーストリア艦隊(指揮ホル ティ・ミクローシュ提督)の分航・陽動部隊として活躍し、 海峡南東部のコルフ島沖でイタリア駆逐艦Boreaと同輸送艦Carroccioを撃沈しています。 また同級のLika(I)とTriglav(I)は、 1915年の12月29日に軽巡洋艦Helgoland、駆逐艦Tatra、Balaton、Csepelとともに 当時イタリア軍が占領していたアルバニア中部のドウラッツオを襲撃しましたが、 この時敵の機雷源に進入してしまって沈没しました。
旧独の旧式巡洋艦がユーゴの自称防空巡洋艦ダルマティアになって、 第二次大戦中に独に接種されてクロアティアに渡されてズニアムとか言う艦名になったと言う話を、 撃沈戦記か何かで読んだような覚えがあるのですが。 当時のクロアティアってほかにどんな戦力があったのですか?
239 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/09/14 13:54 ID:qM9aWKsz
スレ違いでスマソだが、今日のF1イタリアGPでハンガリー出身のゾルト・バ ウムガートナー選手が、検査でレースに出場不可とされた、ファーマン選手 の代わりに出走します。興味のある方はどうぞ。ちなみに予選18位。あだそ んなに経験が無いので、完走すれば十分かと。
>238 Yugoslaviaは1941年に独、伊、Hungary、Bulgariaなどの攻撃を受けて降伏します。 この時、Italyは、Yugoslavia海軍が所有していた艦艇を接収し、自国海軍に組み込みます。 が、今度はItalyが連合国に降伏したので、独がItalyに所属していた旧Yugoslavia海軍艦艇を 接収します。 で、独立Croatia国海軍は、1943年のItaly降伏で接収された艦艇を独から変換して貰ってスタート しました。 ところが、今度はTito率いるPartisan勢力が強大となり、独はこの国を見捨て、1944年には早くも 海軍は崩壊しました。 まずDalmacijaは元々、旧帝政ドイツ海軍の小型巡洋艦Niobe(1900年竣工)だったのを、1925年に 除籍後、Yugoslaviaが購入し、1926〜27年にかけて砲術練習艦に改造して用いています。 1941年、Italyが捕獲してCattaroとなり、1943年独が再捕獲してNiobeに戻し、すぐにCroatia海軍に 引き渡されて、Zniamとなっています。 この艦は、1943年12月19日、英海軍のMTBに雷撃され損傷、2日後に沈没しました。 このほかCroatia海軍には20隻の艦艇があり、敷設艦Kiebitz(旧Italy海軍 RambIII)、水雷艇 TA48(旧二重帝国海軍78T/1913年竣工→旧Yugoslavia海軍T3:1945.2.20英空軍機により、 Triesteで撃沈)、武装商船G102、G104、KM級魚雷艇8隻(うち1艇はPartisanに投降)。 また、水雷艇T7(旧二重帝国海軍96F/1916年竣工→旧Yugoslavia海軍T7:1944.6.25Muter 島付近で、英海軍のMTB659/662/670により、破壊)、機雷補給艇Mosor(1920竣工→Italy海軍 Pasman:1944.12.31Istu島付近で座礁、1954年解体)がありました。 河川艦隊には2隻の河川用MonitorであるBosna(旧二重帝国海軍Koros→旧Yugoslavia海軍Morava: 1941.4.11自沈→Croatiaによって浮揚→1944年6月触雷により沈没。)、Sava(旧二重帝国海軍Bodrog →旧Yugoslavia海軍Sava:1941.4.12自沈→Croatiaによって浮揚→1944.9.9再自沈)が主力であり、他に 6隻のMotorboat(このうち少なくとも3隻はPartisanに投降)がありました。 他に、10隻の雑役船があったようです。
241 :
238 :03/09/14 15:30 ID:???
眠い人様、ご丁寧な回答ありがとうございました。 何かそれなりの戦力のような、そうでもないような、微妙なところですね。
>>239 スレ違いでなくて板違い
でも予選はキエーザの前にいけてよかったね
243 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/14 22:06 ID:366jmV7t
モータースポーツ板にバウムガルトナースレがあります。 皆で応援しよう。
244 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/09/15 09:10 ID:7AK9Nm8X
バウム完走おめ!!
スレ違いなんですけど、旧ユーゴ海軍の艦艇って連邦解体後どうなっちゃったんですか?
>245 一応、CroatiaとSloveniaと新Yugoslaviaに分けられましたが、新Yugoslaviaの 海軍基地の殆どは、Croatia領土にあります。 Slovenia海軍は、Trieste湾に面したコペルに基地を設け、ささやかな海上部隊を有しています。 1995年当時(以下同じ)で、兵員35名(予備役460名)、内海哨戒艇2隻。 尤も、商船からして、滞貨重量トン数200t(商船2隻)という規模でしたが。 Croatia海軍は、沿岸の殆どを占拠しているので、根拠地は多いです。 最大の根拠地は多島海に面したスプリト、次いでイストラ半島でVenice湾に面したプラ、スプリト 北西のシベニク、あと、プロスがあり、小規模根拠地として、ラストボ、ビスがあります。 人員は1,100名 内海型特殊部隊用潜水艇ウナ級が1隻。 コルベット:クラエル級1隻(RBS-15搭載)。 ミサイル艇:ラーデ・コンカール級1隻(RBS-15搭載)、オーサ級1隻。 魚雷艇:シェルシェン級1隻 内海哨戒艇:ミルナ級3隻 機雷戦艦艇:シルバ級機雷敷設艦2隻、フコク・フラナッチ級機雷掃討艇1隻、ハム級内海掃海艇1隻。 揚陸艦艇:D-3/D-501級LCT5隻、LCU3隻など 雑役船:サルベージ船1隻、モマ級調査船1隻、弾薬運搬船2隻、曳船1隻。 商船85隻、滞貨重量トン184,000t でもって、残りが新Yugoslaviaの艦艇だが、主な基地はCroatia海軍に持って行かれたので、 残りはコトル、ティバト、バルだけ(うち、本当に本土にあるのはバルだけかな)。 なので、殆ど稼働出来ないのが現状。
>>246さんサンクス! やっぱり内戦すると海軍は駄目になりますね。 陸軍は必要上無理やりにでも使える組織をおっ立てるけど、海軍は駄目だ。 しかしSlovenia海軍の司令官って、その規模だとまさか大尉くらいとか? などと妄想してしまいます。 オーストリアの河上部隊の指揮官が確か80年代ごろは大尉だったとか、 世界の艦船の各国海軍の現勢にのってましたからね。
248 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/20 00:11 ID:aYZHVOsU
スプリトとシーベニクには行きましたが軍艦は見なかったです。 元々が中世の遺跡を追っかけてますもんで・・・。 内戦時にはユーゴ連邦の軍艦がドブロブニクとかザダルを海上 から砲撃しています。ドブロブニクなんかは裏山からの砲撃と あわせて市街の70%に被害が出たそうです。
>247 どうなんでしょう。 まぁ、今のAustria海上部隊は陸軍の一部ですから、大尉とかでも仕方無いと言えば 仕方ないですし。
少し前の『航空ファン』に「オーストリア陸軍航空師団第1航空連隊第3 ヘリコプター隊のOH-58」の写真が載っていましたが、オーストリアでは もしかしたらSAAB105やドラケンの部隊もこの陸軍航空師団に所属している のですか? (現代の話で申し訳ない。)
>250 Austriaに於いては、全兵科は陸軍の一部です。 なので、水上部隊も航空部隊も全て陸軍に属しています。 ちなみに、Austriaの航空部隊(K.u.K. Militaer-aeronautische Anstalt)が出来たのは、 世界でも最も古い方で、1892年だったりします。 今の航空部隊(Oesterreichische Heeresfliegerkraefte)が復活したのは、占領から 脱した1955年ですね。 昔は条約でAAMの装備が認められていなかったのですが、今はどうなんでしょうね。
252 :
250 :03/09/24 23:53 ID:???
>眠い人様 お返事、Vielen Dankです。 AAMの装備はどうなのでしようね。オーストリアは昨年にユーロファイター・ タイフーンの導入を発表しましたが。ハンガリーのグリペンのリースはもう 確実ですが、グリペンをこちらは購入する予定のチェコは昨年の洪水被害の ために見直しがある、と去年言われていましたね。ジョージ・ブッシュは 洪水からの復旧に援助するからといって中古のF-16を買わせようとたくらん でいましたが。 ちなみに11月にオスプレイ軍用機シリーズから『ハンガリー空軍Bf109の エース』が出る予定です。ハンガリー語の固有名詞がどういうカタカナに なっているか心配ですが、軍装のイラストは楽しみです。ただハンガリー の戦闘機乗りたちには戦後の悲惨な後日談があり、下士官はともかく士官 だった人は戦後ハンガリー人民軍の空軍を創設するのに協力したにも かかわらず皆スターリン時代の粛正に遭い、中には絞首刑になった人も いたし、動乱後釈放された人も未熟練労働者や門番の仕事くらいしかなく、 彼らについて話すのはタブーで、1989年にTobak Tiborというもと第101「ピューマ」戦闘機連隊のパイロットだった人の本が出で、初めて WW2のハンガリー空軍の活躍が知られるようになったようですね。
253 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/25 01:01 ID:qEPwGWBL
亡命チェコ空軍の連中も悲惨だったみたいですね。 宮さんが持ち込んだディープ・ブルーって連中の話 でしたよね。私はまだ未見です。
>>252 ティボルの本,日本語版は出ています?
なければ原書で買うので,原題を教えてください.
(ああ,またこうして本が増えていく……)
>>253 ルーマニアやブルガリア,クロアチアのパイロットも,対敵協力者扱い…….
亡命してアメリカの民間航空のパイロットになった,ハンガリーの
ヘッベス隊長のようなケースが,いちばん利口だったわけですな.
そうそう,眠い人氏,例のタイに関する情報提供ありがとうございました.
荒れだしてからはあちらには行っていないので,この場を借りてお礼申し上げます.
で,あっち,まだ荒れてます?
255 :
252 :03/09/25 20:45 ID:???
>所沢様 Tobak Tiborの著書は外国語には翻訳されていないと思います。 3点ともペーパーバックです。 最後に書かれた著書は有名な軍事関係の出版社から出ていますので もしかしたら入手可能かも知れませんが、前の2点は無理ではないでしようか。 なお著者は昨年死去しました。 (ウムラウトは ¨ で、長音は ' で表しました。) Pumak fo¨ldo¨n-e'gen, Lap-e's ko¨nyvkiado' kft, Budapest, 1989 Puma'k e's a to¨bbiek, Aero & Ra'dio' kft, Budapest, 1990 Puma'k e's Boszorka'nyok, Zri'nyi Kiado' Budapest, 1995 書名の後の名前は出版元です。 ズリーニ出版社はきっと御存知でしょう。
>252 みゅ〜、買わねば…し、しかし資本が…。 一応、スコードロン社から出ていたHungarian Air Force(By George Punka)を 持ってはいるのですが。
257 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/26 00:55 ID:lx3L7aqJ
ブダの王宮の軍事博物館の廊下に大戦中のハンガリー空軍を描いた 油絵がたくさん飾ってありましたが、あの類も89年以降に解禁 になったのでしょうね。 大戦中のハンガリー空軍の機体で現存しているものってあるのでし ょうか・・。戦車だと対空戦車が国内に、クビンカにズリーニとか が残ってますが・・・。
チェコは結局、中古のF-16を12機買うみたいですね。 >257 ギシュクラ氏 博物館にありませんか? チェコとかなら、結構残っているみたいですけどね。 敗戦国だからかなぁ。
259 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/26 23:19 ID:6RIimh2A
眠い人さま 王宮の軍事博物館には模型の類しかないですよ。 銃器の類は多いですが、大物は置いてないですね。 フェリヘジ空港の横にある飛行機展示スペースみ たいなところにも無かったですね。 ミグ15とかはレンタカーで走っていて、田舎の 空港のゲートキーパーになってるのを見たことが ありますが・・・。
>眠い人様 ペーパーバックで値段は安いのですが、ハンガリーは本の増刷は あまりしないので新本での入手は難しいでしょう。 >ギシュクラ様 交通博物館の隣にあるペテーフィ・チャルノクにハンガリーの航空史 に関する展示があり、昔の民間用の小型機は何機か展示してあると 思います。 やはり敗戦国で終戦時に残った機体は全て破壊されたのでしよう。 まあBf109などをライセンス生産しましたがチェコのAvia S-199(チェコ スロバキアで戦後にBf-109にユンカース製の発動機を積んだ機体で 操縦性は悪化したそうですが、イスラエルに輸出されてエジプトの スピットファイアと戦うなどしたらしいです。)の場合とは違って オリジナルと異なる点もないですしね。保存する意義もそれ程 ないのではないかと・・・。あっ、でもフィンランドのバッファロー は保存されている機体もありましたね。
261 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/27 00:20 ID:xqXsAA5u
なんかバラトン湖の湖底から個人で残骸を引き揚げたとかいう 話がなかったですか? フィンランドにとってバッファローは救国の戦闘機ですからねぇ。 そういえばバッファローもどこぞの湖底から引き揚げてましたね。
>ギシュクラ様 バラトンから引き上げられたのはソ連のシュトルモヴィクだったかも 知れないです。
263 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/09/28 00:45 ID:NeMaQICH
でしたっけ・・確か個人で兵器のコレクション持ってる人が いてとかいう記事だった記憶があるのですが・・・。
>>263 ケセールの軍事科学博物館のことやったら,斎木伸生氏の記事を見た限りでは,
陸主体やなかったかと.
ちなみに斎木氏,この夏は東欧・ロシアに取材旅行に行ってきて,150万も
散財したとか.何を買ったんやろ?……
>>255 情報ありがとうございます.
さっそくハンガリーのネット書店巡りを.
265 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/09/28 17:47 ID:4J5xuL/Y
>>252 それは大日本絵画から日本語版が出るということですよね?あー、つい
でにクロアチア空軍のほうも日本語版出してくれないかなぁ。
保守カキコ。 原武史氏の書いた、講談社現代新書の新刊に、「鉄道ひとつばなし」という本が あって、それをつらつら読んでいるのだけれど、戦前の「白馬に乗った昭和天皇」 の白馬って、マジャール産の駒だったらしい。 サラブレッドの馬産地としてはこの地は結構有名だったのでしょうか。
267 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/10/02 22:52 ID:aPgMYMnv
昔はマジャール騎兵は有名でした。 軽騎兵(フッサール)はハンガリー起源です。 フランスの軽騎兵はラコーツィ・フィレンツ2世の 独立戦争の折、敗れて亡命したラコーツィにくっつ いてフランスへ逃れた連中が元祖です。 騎兵のユニフォームのど派手な肋骨服もマジャール 起源です。 それはさておき、パンノニア平原というところは馬産 畜産に向くところで、それゆえに古くはアッチラ大王 の率いるフン族の根拠地ともなり、マジャールの定住 以降もバトゥ・カン率いるモンゴル軍の侵攻を受けた りしています。 一次大戦前の競馬の世界で世界を席巻し無敵と呼ばれ た名馬キンツェムもハンガリーの産でした。
>>254 えらく前の書き込みに今更なんだが、
ルーマニア、ブルガリア、クロアチアの連中は
対独協力者扱いされても仕方ないと思うけど。
>268 当時の国家の命令の下で戦っただけなのに? デンマークのパイロットのように枢軸側に志願していりゃ別だが。
270 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/10/05 00:42 ID:QCOqVkpa
271 :
名無し三等兵 :03/10/05 00:52 ID:WYLlHoz0
フィッシャー現ドイツ外相の 父親はハンガリードイツ人で畜産業者だった WW2で赤軍に追われて西ドイツへ移住
272 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/10/05 01:04 ID:QCOqVkpa
失礼、チェコ人は3人でした。 >271 それは知りませんでした。ハンガリーには今でもドイツ人が けっこう住んでます。私の友人の大家さんもそうです。 聞いたところでは戦後はドイツ語を話すのを禁止されたりし て苦労したそうです。
>177 関係無いこと書くな殺すぞキサマ。
オスプレイ軍用機シリーズVol.39『第27戦闘航空団 アフリカ』がもう店頭に 並んでいて、次回配本予定は『ハンガリー空軍のBf109エース』なのですが、 ハンガリー人の著者の名前、Punka Gyo¨rgy(プンカ・ジェルジ)がジョルジョ・プンカとなっていて、これはハンガリー語の固有名詞の表記に関して は今から覚悟しておいた方がいいということですね。 そういえば文林堂「世界の傑作機 P-51A・B・Cムスタング」の中で デブレツェンのことが何故か「ドブリセン」となっていてどうしてそういう 間違いが起きるのか不思議に思いました。
>274 頑張れGripen氏 > デブレツェンのことが何故か「ドブリセン」となっていてどうしてそういう > 間違いが起きるのか不思議に思いました。 デブレツェン(Debrecen)のフランス語読みだと「ドブリセン」になあるかも。 私もカールセンの「ファシズムの勃興」(昭和45年 訳)の ハンガリーの章で英語の原文からそのまま訳したらしく ゲンベシュ(Gömbös)がギュラ・ゴムボス、サーラシ(Szalasi)がスザラシ と書いてあって、「誰?」と思ったことがあります。
276 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/10/11 23:00 ID:wg43WA41
ややこしいのはハンガリーの町はドイツ語の地名もあって (エステルゴム=グラン、ジェール=ラープとか)元の 本の出版元がどこかで読む方が混乱することがあります。 これがトランシルバニアになるとルーマニア語の地名も あって・・・。 ルーマニア語 オラデア ハンガリー語 ナジ・セベン(セベンだけの場合もあり) ドイツ語 グロース・ヴァルダイン 勘弁してほしいです。 あと、ヤノシュがジョンとかヨハンとかに変わっていたり はしょっちゅうで・・・。 戦艦の「シュツェント・イシュトファン」もほんとは セント・イシュトヴァーンと書くのが正しいのかと思います。
>276 そう言えば、今日の新聞でハンガリーワインがどうとか書かれていましたが、 トーケイ・ワインじゃないのか?と思わず突っ込みを入れてしまいました。
ソ連併合前のバルト三国の海軍はどんな状況だったのでしょう? エストニアが旧ロシア製の駆逐艦や潜水艦を持っていたの知っているのですが。
>279
空軍については、最近出たソ連軍用機(光人社NF文庫)にちょこっと書かれています。
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1025095466/23を元に再投稿 。
今は鯖そのものが飛んでしまったような…この前スレ?は1年近く続いたスレでしたのに。
エストニアは、旧ロシア帝国の駆逐艦を引き継いで使ってましたが、これを 1933年にPeruに
売却しています。
艦名はLennuk、Wambolaでいずれも1917年竣工のものでした。
他に旧ロシア砲艦のLembit(先代:1925年退役)、Laine(1941.7.24撃沈)、Wanemine(1941年自沈)。
国産砲艦としては、1939年に建造されたPikkeriがあり、これは大統領ヨットを兼ねていました。
この艦は、1940年にソ連に引き渡された後、通報艦となり、雑用艦になった後、1955年にモスクワ大学の
調査船に改造され、黒海で1960年代末に至るまで使われました。
また、旧ロシア艦では、機雷敷設艦Ristna(大戦を生き抜き、1960年退役)、Suurop(1941年8月撃沈)がありました。
このほか、自国海域で沈没していたドイツの魚雷艇A32を引揚げ、Sulevとして再就役させています。
この艦は、ソ連編入後、NKVDの哨戒艇となり、輸送艇、練習艇となって1955年にScrapとなりました。
駆逐艦は売却しましたが、その代金でヴィッカースに潜水艦を発注しています。
Kalevは1941年11月に触雷、沈没しましたが、もう一隻のLembitはソ連時代を生き抜き、1956年から
海軍工廠の試験用潜水艦となり、1979年にTallinnで記念艦になっています。
小型艦艇としては、200t以下の砲艇が6隻、内海掃海艇3隻、哨戒艇8隻、砕氷船3隻、輸送艦2隻と
タグボート4隻があります。
ラトヴィアは元ドイツの掃海艇M68を手に入れ、Virsaitisと改名して哨戒艇として使用しています。 また、有力艦としてフランス製潜水艦が二隻1926年に建造されました。 艦名はRonis、Spidolaと言い、ソ連に引き渡された後は、Liepajaで、ドイツ軍の手に落ちないよう、 1941年6月24日に自沈しました。 後の有力艦は、1926年竣工のフランス製掃海艇、Imanta、Viestursくらいです。 Viestursは大戦を生き延び、1950年代末に除籍されますが、Imantaは1941年7月1日に触雷、沈没 しています。 このほか、沿岸哨戒艇Ergis、小型哨戒艇3隻、砕氷船3隻、測量艇1隻と、練習艦が1隻有りました。 リトアニアは海軍に金がかかっておらず、旧ドイツ掃海艇M59を1931年に購入し、哨戒艇Presidentas Smetonaとして 改装、使用しました。 こいつも、ソ連引渡後 NKVDの哨戒艇に転用され、1944年に撃沈されています。 このほかの艦艇は、小型哨戒艇6隻、砕氷タグ1隻だけです。
素早い回答ありがとうございます。 こうしてみると当時はエストニア、ラトヴィア、リトアニアの順のようですね。 20世紀末の戦力だとリトアニア、ラトヴィア、エストニアと、 当時とひっくり返っている感じなのがなにか興味深いですね。
ブルガリアって東欧の中でも地味な印象がありますね。 ヨーグルトとソ連の最も忠実な同盟国、中世のブルガール帝国。 この三つしか思い浮かばないんですが、WW2時の軍隊、特に海軍ってどうだったんですか? あとイタリア併合前のアルバニアも地味ですねえ。
285 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/10/25 23:11 ID:JmlwfOUE
286 :
ホルティ支持者 ◆ddjdTky6U. :03/10/25 23:18 ID:JmlwfOUE
Albaniaについてはもう少し待ってね。 保守ついでのトリビアカキコ。 第二次大戦時のマジャール事情(1942年3月) ・最も不足しているのは油脂類。 ・対独輸出品の大部分を占めるのは、野菜、果実、果物、穀物で、昨年度は7500万マルクに達する。 ・工業原料、石炭、鉄鉱、スフなどをドイツに依存している。 ・スイスを通じて、英国製綿製品を輸入している。 ・石油産出量70万トン、80%はドイツ向けに輸出。 ちなみに、1942年当時の日本の外交情報では、一番纏まっている軍隊としてブルガリア軍が上げられて いました。
http://www.libri.hu/ にて
Tobak Tibor
を検索.
結果:
Keresési feltétel: "TOBAK TIBOR"
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残念!
>>288 Tobakの著書は3点共品切れでしようね。
特に最初のは出版社ももう存在していないかも知れないです。
ズリーニ出版から出た3冊目には戦前のハンガリーでは町で適性のありそうな
若者をスカウトしてイタリアに送り込んで操縦訓練をして下士官のパイロット
にした、なんて話も載っています。
そういえば今出ている『航空ファン』12月号にはルーマニア空軍の特集が
載っていますね。イスラエルの会社と共同でMiG21を近代化したランサーC
のことなど最近の話題が中心ですが、簡単なルーマニア航空史も載って
います。
最近復活した空軍基地内のルーマニア正教の礼拝所などちょっと笑えます。
(いや笑っちゃいけない。それよりもカトリックやプロテスタントの礼拝所
は無いとしたら少数民族差別になるかも。)
290 :
288 :03/11/03 00:50 ID:???
>289 レスどうもです. 古書店のほうでhitがありましたので,現在magyar nyelvと格闘中.
291 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆yvX9GqWfKI :03/11/11 23:58 ID:PwmpfUUQ
ハンガリー空軍のBF109エース発売されました。 地名・人名は大使館広報室が協力してくださったとのことで、 妙な表記は見当たらない模様。出来れば現地語表記も併記 していただけると検索に便利なんですが・・・。
>291 まぁ、滅多に出ないですから、そこまで望むのは酷か、と。 …というか、何で人が金無い時に出しますか(号泣。
293 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :03/11/13 00:17 ID:1TEvN3Wl
続刊でクロアチア空軍も予定されてるそうですよ・・・。
>293 本間脱華? うへぇ〜(血涙。
思えばMen at Armsシリーズのクロアチア軍を (゚听)イラネと本屋で無視した5年前 今は探しても見つからない。とほほ・・・
296 :
名無し三等兵 :03/11/25 16:33 ID:fI7ERJwZ
保守。
マケドニアのことを調べていて、第二次大戦中に起きたマジャールのユーゴでの 出来事を見て、ホンマに支配する気有ったのかと思ったのは内緒だ。 と言う状況で保守。
298 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :03/12/07 00:51 ID:hU46Zt8B
ハンガリー軍はけっこう野蛮なことを仕出かしたようですな・・。
>298 ですね。 と言うか、木々のざわめきに恐れを為して…と言う所でしょうか。
例えば、北ジーベンビュルゲンのオルドクトでは、1940年9月9日に、進駐してきたマジャール軍兵士 に対して、ルーマニア人司祭が教会の塔から発砲し、4名が負傷。 それに対し、マジャール軍は歩兵部隊を投入、村とその教会を攻撃し、死者68名、負傷者195名の惨事を 起こしたり、イプでは、自分が持っていた手榴弾が爆発し、マジャール軍兵士2名が死亡したのを奇襲と 司令部が判断した為、9月14日に第32歩兵連隊が村の一斉手入れを敢行、死者152名。 …なにをか況やですな。
301 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :03/12/18 00:10 ID:0qfuxp0L
>300 ジーベンビュルゲン=エルデイ=トランシルバニアは元々ハンガリー領だった だけに余計に過剰な反応をしてる感じですね。 具体的には知らないのですが、マジャール軍はロシア方面でも問題を起こして いたようです。
>301 ブリヤンスクの森の南方地域ですね。 ここは1941年11月〜43年5月まで、マジャール陸軍の三個師団が占領下に置いており、若干のドイツ軍部隊が 協力していました。 しかし、不十分な武装と不足した人員では、占領地を維持することが出来ず、Partisanの活動を抑え切れない と判断したマジャール軍は大量報復措置と「死のゾーン」設置を実施し、1942年夏までに約3万人のPartisanと、 その疑いのある者を殺害しています。 ちなみに、Partisanの損害とマジャール軍損害の比率は、10:1から15:1だったようです。 これは戦後に多数のマジャール軍兵士の訴追、死刑に繋がってきますが、その責任者、ボガニ・カロリ将軍は、 その責任を免れ、ソ連もその引渡要求を断念しています。 また、1943年にはUkraineのドロシチで、ユダヤ人労役従事者用の病院や、第105、107病院に放火し、入院患者 の焼死なんて事もしているようです。 一方、逆にマジャール国内に戦闘が移ると、逆にルーマニアや、ユーゴ、ソ連軍の暴行の嵐が吹き荒れた訳ですが。
とりあえずギコナビを使って書き込めるようになりました. ただし,バナー保守員氏が用意してくれたFAQ検討板にはいまだ書き込めず. ところで,まさかトゥラン主義みたいな誇大妄想に引っかかる奴が, ハンガリーにいるとは思わなかったんですが,某氏の指摘を受けて, がっつり影響受けてる人間が大勢いて,日本の皇室を迎えようとかやってたと知り,愕然. フィンランド,トゥラン あるいは, フィンランド ツラン では検索には引っかかりませんでしたが,まさかフィンランドまで, ってことはないよな…….まさかな…….いくらなんでもな…….
昨日の映像の世紀でハンガリー住民に乗っ取られたT-34が出てきたんで すが、アレの写真ありませんか?ハンガリーの紋章が砲塔脇に描かれて るのに萌え
306 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :03/12/29 22:45 ID:WyeH9iRq
>302 そんなことを仕出かしてますか・・。ハンガリー軍の野蛮さにドイツ軍 も眉をひそめたとか書いてあるのを読んだことがあったもんで・・・。 >304 東欧を知る事典とかにある程度の記載はありますが、それ以上のことは ちょっとわからないです。今岡先生の回想録とかがあると面白いのでし ょうけど・・・。 日本の皇室をという話は本当にあったのですか?悪い冗談としか思えな いのですが・・。
>307 うみゅ〜、そげなものは持ってないです(苦笑。 ただ、日本の皇室云々の話はマジャールのことを調べていた時に 何処かで見た記憶がありまして…。 何で見たかは失念したのですが、もしかしたらこの本を見てたかも しれません。
今岡さんの『ツラン民族運動とは何か』という小冊子に 皇室を迎えて云々、ということが書かれています。
311 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/01/01 14:01 ID:nW2dUleg
うわぁ・・本当だったのか・・。 現在ハンガリーでツラニズムというとマトモに扱ってもらえない というのもなんか納得がいくような気が・・・。 皇室から王を迎えるというのはどの程度の具体性があったのでし ょうね。
312 :
310 :04/01/01 21:42 ID:???
オーストリア=ハプスブルク帝国が消滅して新しい国王をハンガリーと利害関係 が少ない国の王族・貴族から選ぼうとしたのでしようかね。日本の皇族も そのリストの1つにすぎなかったのではないでしようか? また日本はロシアを破った国として人気があったのでしょうけれど、もしかしたら そんな日本から国王を迎えればトリアノンの失地回復をしてくれるのではないか? という期待があったのではないでしようか? あくまで想像ですけれど。 まあトリアノンによる精神的なショックは破滅的と言えるほど非常に大きくて、日本から 国王を呼ぼうなどという取り乱したことを考える人が出てくるほどだったのではないか、 などと勝手に想像しています。 なお今岡さんの『ツラン民族圏』というちょっと大きめな本は前半がツラン運動の詳しい 解説、後半がウラル語族系諸民族とトルコ系民族・モンゴル系民族・ツングース系民族 の概観で読み物としては面白いです。ただ参考文献が全く挙げられていないので資料と しての価値は少ないでしょう。
バナーが代わるたびに「誰ですか?」質問が常見問題になるのには正直,閉口.
頼むからぐぐってくれい.
http://yomi.kakiko.com/mlt/faq/faq08.htm#jaruzelski で,そのヤルゼルスキイについて,世界史板から拾って上に載せた,
ワルシャワ蜂起中のエピソード,本当なんですかね?
本人の回顧録がソースであるだけに,何か胡散臭げ.
>310
情報 ko:so;no;m sze'pen! (Thanks!).さっそく探さねば.
>311-312
まあ,トラウマになるでしょうなあ,トリアノン条約は.
フィンランドでトゥラニズムが幅を利かせてなかった様子であるのは,
こちらの国は独立したばかりで国民意識が高揚していたという要素が
ありそうですね.
保守カキコ。 >314 ちょっとうる覚えだけど、フィンランドの独立ってドイツの後押しで出来た訳で、 その時は公国だか王国として、ドイツのどっかの領邦の王様を持って来たの ではなかったかなぁと思うのですが…。 どちらかというと、北欧との関係が強いから、国王を持ってくるとすれば、そちら 方面から調達するでしょうし。
316 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/01/26 23:58 ID:bvfV4VF6
>315 皇弟のヘッセン公フリードリッヒ・カールですね。 あっという間にドイツが敗北してますが、正式に 即位したんですか。
317 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/01/29 23:57 ID:3fuzK++H
GUN誌の記事でチェコのピストルを取り上げてますね。
ああ巨大マカロフことVZね。
>316 1916年にフィンランド王位に就いていますから、正式に即位したのではないかと 思うのですが…。 そう言えば、ナッサウ公Wilhelmの従兄弟が、Wilhelm I世として、1912年にアルバ ニア公となり、1914年にアルバニア国王に即位していますね。
以下,当方が使っている語学教材から抜粋. (著者イーエシュ・ジューラ Illye's Gyula はモスクワで クン・ベーラ Kun Be'laと再会する) 「7月27日か28日,敗北の3〜4日前に,あなた〔クン・ベーラ〕はペシュトで 最終的には勝利するという話をされた」 と私は15年後のモスクワで言った. 「もちろんです」 「状況を御覧になっていなかったのですか? 当時はもはや全てに希望が 失われていたというのに.まだ子供だった私でさえ分かっていたんですよ. 中央ティサ部隊はそのとき既に捕虜となっていたのに」 かつての大衆演説家は私へと目を上げ,静かにこう言った. 「翌日には既に,ルーマニア軍がドナウ・ティサ川間に進攻していました」 「私自身,彼らの前面に行きました.あなたの呼びかけにしたが手,武器を手にして ティサ川畔を見張っていたのです」 「私は30日にキラーイヒダにいて,ヴェルトナーやペイヤー,そしてウィーンから やってきたヴエムと一緒に,カニンガム覚書について討論していたのです.私は 取引を望みませんでした」
>320 一体どんな語学教材使ってるんでつか((^◇^;)?
322 :
不眠症の人 :04/02/14 21:14 ID:/NsB76DE
今日近所のマルエツの中の本屋で大日本絵画・オスプレイの『ドイツ空軍 地上攻撃飛行隊』をちょっと見てきたのですが、なんでも今月から隔月刊に なって、4月はクロアチア空軍のエース、6月はルーマニア空軍のエース、8月は 何かフィンランド戦闘機隊の第2弾、10月はヘルダイバー(SB2C)飛行隊だそうです。
323 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/02/15 17:45 ID:mTkukoxS
>322 クロアチア空軍にルーマニア空軍ですか・・・。 東欧者としては買うしかないですなぁ・・。
>322 ヘルダイバーではギリシャ空軍の活躍も載るのかなぁ…。 後はブルガリア空軍だけか(ぉ。
>>321 "Magyar Novella'k vol.2" van. 大学書林.
>>322-324 Tobakを買わずに済みそうでつか?
nyに [軍事] 秘録 第二次世界大戦 「スターリングラード攻防戦」.mpg を放流しますた 自己エンコです
327 :
名無し三等兵 :04/02/22 22:55 ID:GgUjhxfr
久々の保守。 先日、免許関係の質問の回答を色々調べていた時に、旧陸軍のトラック開発の話が ありました。 その中で、旧陸軍は1931年にCross-country性能が優れたトラックを求め、英国の スカンメル、ソニークロフト、そして、チェコのタトラの6×4を輸入しました。 これらを見本に製作したトラックが、いすゞの九四式自動貨車だったそうです。 戦後まで連綿と続く、いすゞのボンネットトラックの系譜がタトラというのには吃驚し ました。 それにしても、ベルリエとかビューシングとか、ベッドフォードなどのトラックもあった でしょうに、何でタトラのトラックなんかを買ったんでしょうね。
>328 ZB26機関銃の例から考えて,軍内部にチェコマニアがいたのでは,と妄想. Igaz is, jo szabadok pulyka ko:ru:l besze'lni? ところで,トルコの話していい? EC加入しようかという「東欧」だからいいですよね? 先日,昭和20年11月刊行(製本?)のガリ板刷りの 「新シキトルコ」 という本(奥付も何もないので,ただ報告書を製本しただけのものである 可能性も)を手に入れたんですが,出しているところが「調査研究動員本部」. どうしてもこの部署とトルコとは繋がらないんですが,眠い人さん, 繋がりをご存じないですか?
>329 私見ですが、トルコ内戦終息後の彼の国は、或意味、上からの民主化というか、 国家による統制の下、国土、産業開発が行なわれていますから、そう言う意味では、 調査研究動員本部のお手本的国家だったのかもしれません。 また、ギリシャや英国、フランス、イタリアを相手に凄惨な国内戦を戦い抜いてきて いますから、来るべき本土決戦において、国内体制の構築を研究するのに、良い題材 だった可能性がありますね。
>>330 なるほろ.ありえる!
その前に,闇雲な精神主義が突っ走ることへの危険(トルコの場合は例の
トゥラニズムで第1次大戦に突入.結果,国家解体されかねない危機に)を
学んで欲しかったものですが.
あ,国家総動員方の前後だったら,もう手遅れか…….
ミハイT世ってご存命中?
>332 2001年当時はご存命でしたね。 東欧の王族で死亡記事が出たのは、ゾグーI世くらいなので、まだご存命中では?
334 :
名無し三等兵 :04/03/20 23:15 ID:MN+cLlbu
ご本人のHPがあったのはこの御仁でしたっけ・・。
>334 でつよん。
He-111スレの方で、トルコ軍で使われたHe-111とかを取り上げたけど、 時間があれば、こっちでも同じように取り上げたいなぁ。 来月になるまでも少しお待ち下しい。
337 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/03/28 02:05 ID:T1Xy9UL5
オスプレイの「クロアチア空軍」4月18日発売だそうです。
>337 貴重な情報サンクスコです〜。 しかし、Croatiaなんて良く出せたよなぁ。
需要があるんですかねぇ・・。 この調子でルーマニア空軍とかも出してほしいですね。
パンツァー誌にブダペスト攻防戦の記事がでてました。
アフ【ガ】ーンの泥沼に足を取られて,そこまで予算が回らないよぉ〜. >需要があるんですかねぇ・・。 「商品は売るもんやない.売りつけるもんや」 営業職の先輩の「格言」.
てな訳で、何故かもう発売されていました、「クロアチア空軍…」。 >339 喜んでつかぁさい。 次回配本は、その「ルーマニア空軍」でつ(;。;)。 「第二次大戦のルーマニア空軍エース」 …一体どうした?大日本絵画の中の人。 「クロアチア空軍…」 その歴史、運用、戦歴、撃墜数、エースの名鑑とそして彼等のその後なんかも 結構詳しく書かれています。 上まぁ、クロアチア空軍研究のエキスパートが書いている本ですから、その辺は おかしな本ではないでしょうが、ユーゴの人(クロアチア人とは明示していない)が よく此処まで書いて出版出来たなぁと思う訳で…。 それと、もう一つ。 KOEIから、WWII戦車2 「東部戦線」が出版されていました。 こっちは独ソを含む、東部戦線参加全軍の機甲兵力の図版でして、独ソ以外では、 フィンランド、スロヴァキア、マジャール、ロマーニャ、イタリア、ブルガリア、ユーゴが 取り上げられていました。 こうなると後は、海上兵力だけだな(無理。 それから、中公新書ラクレから「世界ファシスト列伝」なる本が出ていました。 東欧各国のファシスト諸勢力についての入門編的なものでした。 今月は大漁ですねぇ。
343 :
名無し三等兵 :04/04/10 21:21 ID:LSEb6Z2O
東欧史研に来なさい!
>こうなると後は、海上兵力だけだな(無理。 訳はやるから,本代スポンサードきぼん(無理.
サローシとかパヴァロッチの画像がたくさん入手できたのでバーナーにしようか とおもったらあの手の人たちは目が逝っててかなり怖いので画像捨てちゃいました。
>342 クロアチア空軍以外は捕獲しました。 あとはクロアチア空軍だな・・。 ハンガリー空軍もメッサーだけでなくて フォッケを使った部隊もあるのでそのへ んも希望〜。 しかし、ルーマニア空軍って・・。 昔、フィンランドブームを仕掛けた連中 だけに今度は東欧??
>344 お金がない お金がない ほんとのこ〜とさ〜♪ >346 昔、航空情報のエース列伝シリーズだか言うのがあって、米英日独は各々分冊(日本は陸海軍別だったかな、 最近海軍のは復刊してるみたいですけど)、最終巻が世界のエースだったんですよね。 それ以来じゃないですかね。 枢軸軍の東欧諸国を取り上げたのは…。 空モノは後ブルガリアとか(無理。
>347 原書で出版されていれば望みがない訳ではなにのでは・・。 クロアチア空軍の本が出たのであれば、何が出ても驚かない ような気が・・。 ところで、歴史板にオーストリア・ハンガリー海軍スレが出来 てます。ここと重複のような気が・・・。
>348 洋書でBulgaria空軍の話は見た覚えがない…いあ、確か第一次大戦のBulgaria空軍関係の 本があったような…。 オーストリア・ハンガリー海軍スレは一応、第一次大戦までですから重複ではないでしょう。 Dat落ちは避けて欲しいですね。 なかなか興味深いので、ROMしてまふ。
ここの住人の方も書き込んでおられるようですし、 眠い人さまもいかがです?
>350 いえいえ、あっちはそれほど詳しい訳でないので、火傷しない程度にROMっときます と言っても、今、ギシュクラ殿は異国の空の下…ええなぁ。
突然ですみませんが、 ハンガリー空軍のBf109エースを読んでいて、 当時のハンガリー空軍の部隊編成に疑問が浮かんだのですが、 例えば、ハンガリー空軍司令部は第1戦闘航空群と2/1FSを 5/T戦闘航空群と5/2FSに交代させたとありますが、 この場合、2/1FSは第2戦闘航空群第1戦闘飛行隊で、何故、上部部隊 が第1戦闘航空群なのでしょうか?。 普通ならば、第2航空群と共に行動しているとおもうのです。 それとも変則的に別の航空群の指揮下に配属されていたのでしょうか? それと、第〜航空群とのみの記述がある場合、これは、航空群本部部隊のみ を示すのか、それとも指揮下の飛行隊も含んでいるのでしょうか? 独逸空軍の場合の記述は、理解するのに問題はありませんが、異、 ハンガリー空軍の事になるとこの辺が理解出来ません。 この点についてご存知の方がおられましたら、御教授下さいませ。
353 :
12 :04/05/05 23:40 ID:RrSAnkKF
>>348-351 ご無沙汰しております。昨年オーストリア・ハンガリー海軍のカキコをした者です。
さて早速ですが、眠い人様・ギシュクラ・ヤーノシュ様 是非オーストリア海軍の
スレへいらして下さい。
自分などは、ただ興味関心の赴くままに二重帝国海軍のサイトや文献をかじる程度
ですが、お二方のように軍事だけでなく、思想・歴史・文化・その他雑学等に深い
知識と見識をお持ちの方がおいでになれば、スレが非常に良いものになることと思
われます。火傷をしっぱなし?の自分ですら、相も変わらず ずうずうしくレスして
いる位なので、お気軽に。
♪【精強】♪♪オーストリア海軍♪♪【帝国】♪
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1081010048/l50
>352 手元にある、Hungarian Air Force(Squadron刊)に依ると、 例えば、The 1 Fighter Wingは以下の構成でした。 The 1 Fighter Wing 1/1 Fighter Group 1/1 Fighter Squadron 1/2 Fighter Squadron 1/3 Fighter Squadron 1/2 Fighter Group 1/4 Fighter Squadron 1/5 Fighter Squadron 1/6 Fighter Squadron 1939年当時の編成ですが、The 1 Fighter Wingの下に、1/1 Fighter Groupと1/2 Fighter Groupが 編成されています。 その後の拡張で少しは変わっているのかもしれませんが…。
355 :
352 :04/05/10 16:02 ID:/GU7lpJT
眠い人さん 有難うございます。 この編制表で、やっと疑問が解けました。ハンガリー空軍の場合、 中隊の上部番号は航空群ではなく、航空団の番号だったのですね。 てっきり、私は、第4飛行隊以下の表記を2/4だと誤解して想像しており ました。 これで、件の本も読み易くなりました。 本当に有難うございます。
うに、そろそろ件の本も読まねば…。 と言うか、そろそろ、ルーマニア空軍本も出てきたんじゃ無かろうか。
357 :
352 :04/05/20 03:56 ID:???
眠い人さん ええ、六月十三日が楽しみです。 旧独逸空軍物は、和文でも色々とあり、 敢えて、洋書を購入しなくとも、安価で情報を得る事が出来ますが、 三国同盟の主要国の空軍であってもイタリア空軍さえ、 戦歴や部隊編成又は編制の詳細な記述は、件のシリーズの イタリア空軍のエースぐらいが現状と思います。 勿論、旧朝日ソノラマ・旧サンケイ系にも多少の記述はありましたが、 余りにも、抽象的すぎました。 だからこそ、枢軸国の日の目を見ないマジャール王国やルーマニア王国や クロアチア独立国等の空軍、果たして独逸の軍法の元に置かれた クロアチアまで独立国の空軍として認めて良いのか解りませんが…。 でも、今まで、近所の古本屋に入る英書では、これらを探れるものは 全く以って有りませんでした。 私もこの頃、2チャンネルを見るようになり、 以下の文が質問虫という行為の様ですが、 もし、宜しければ、前述のHungarian Air Forceを 何所で買い求める事が出来るか、教えて頂ければ、幸いです。
358 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/05/22 18:04 ID:ckkZ6tnm
>357 日本のアマゾンで購入できるのでは? そこで見当たらねばアメリカのアマゾンでも・・。 アマゾンを見てるといらない本まで購入して 貧乏になるのでご注意を・・・。
>357 すみません。 返事が遅れてしまいまして。 えっと、Hungarian Air Forceは、東欧の崩壊後に出た本で、大体10年前くらいに、 西山洋書で購入しました。 薄っぺらい本で、著者はGeorge Punkaです。 ISBNコードは、0-89747-349-3。 今は古書店にしか無いと思いますが、ギシュクラ氏も書いておられるように、海外では 入手可能かもしれません。 さて、マジャール戦闘機隊は、第二次大戦前に一度、実戦を経験しています。 1939年のチェコ解体時、王国領土としてスロヴァキアのカルパート・ウクライナ地区の 領有権を主張して、ポーランドも交えて国境紛争を起こしています。 まず、3月24日にスロヴァキア空軍の爆撃機隊がマジャールの都市を空爆しました。 この時、スロヴァキア空軍のAvia B.534戦闘機、Letov S.231軽爆撃機の編隊を迎撃し たのが、マジャール空軍のC.R.32戦闘機でした。 両国空軍機の空中戦の結果は、合わせて9機のスロヴァキア空軍機が撃墜された、 ワンサイド・ゲームでした。 逆に、マジャール空軍の爆撃機隊は、Igro近郊の空軍基地を爆撃し、損害無しで帰還 しました。 この紛争は3月31日まで続きましたが、ドイツの調停で終息しています。
360 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/05/23 21:31 ID:tInz1huZ
絶版になってますが、アメリカのアマゾンだと3件ヒットがあります。 中には海外への郵送不可の書店もありますが、大抵は購入可能だと 思いますよ。 しかし、無駄使いにはご用心・・私は中世のハンガリーやらチェコや らが興味の対象ですが、満足に読めもしないのに本を買い込んで家人 に顰蹙を買ってます。
>360 ここ最近、洋書には手を出すことなく(と言うか出ないのですけどね)、 専ら、和書をシコシコ集めている状況でつ。 それにしても、Slovakia空軍の本が何処に逝ったか見あたらないわさ。
オランダ海防戦艦を扱った本てないでせうか?
あれ? 来週だと思ってたのに、オスプレイの新刊がもう出てるっぽい。 明日、途中下車して買いに行くかな。 内容はなかなか面白そうですよ。 >362 ちょっと、このスレの主旨とは外れますけど、1974年か1978年頃の「世界の艦船」が、 Netherlands海軍の特集をやっていました。 この辺でちょこっと触れられてはいますね。 後、オランダの出版社で、オランダ語の本になりますが、Uitgeverij De Alk bv.から 出版されているのに有ったような気がします。 ただ、漏れは購入していませんので、ホントにうろ覚えでつ。 この出版社のNetherlands海軍航空隊75年の歩みは持っているんですけどね。
364 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/06/11 23:39 ID:vE0IDsPM
365 :
名無し三等兵 :04/06/14 00:42 ID:g4V2mF+/
大日本絵画のオスプレイ・第二次大戦のルーマニア空軍エース買ってきました。 当方こっち方面の知識はほとんどないので、考証の正確さや人名地名の表記法など 細かいことは分かりませんが、やはり大国に立ち向かう小国の奮戦というのは燃えますね。 IL-2FB(AEP)でIAR80が活躍するルーマニア軍ミッションを作成したくなりました。 B-24は飛ばせられないけど、B-25で代用してプロイエシュティ油田攻防戦を 再現できたらいいなとか思ってます。
366 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/06/14 23:18 ID:LgRlTxe0
おお!もう出版されてますか。 これは書店に急がねば・・・。
367 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/06/15 22:37 ID:ZxUMHXQ9
というわけで本日入手いたしました。 ルーマニアの国産戦闘機って結構数を作ったのですね。 エンジンなんか自製できたんだろうか・・・。
>367 戦前からFrance製のGnome-Rhone14をLicense生産してます。 他に、PolandのP.Z.L.11f、24E戦闘機、ItalyのSavoia-Marchetti S.M.79B(S.M.79ですが、 三発ではなく、Junkers Jumo211を搭載した双発型)爆撃機、Bf-109G戦闘機のLicense 生産を行なってます。 ちなみに、国産戦闘機と銘打っている、I.A.R.80/81は、その殆どの部品を、PolandのP.Z.L. P.24E戦闘機から流用してたりしますので、国産と言えるかどうか…。 しかし、P-51Bが戦闘に投入されてたのにはびっくりしましたねぇ。
ハンガリー・ルーマニア・クロアチア空軍の本が日本語で読める。 良い世の中になったものですね。
370 :
名無し三等兵 :04/06/22 00:12 ID:IiEAilrM
>368 部品を流用というのは購入とか捕獲した機体の再利用ですか??
>370 P.Z.L.P.24などの高翼戦闘機は、ロマーニャの主力戦闘機としてI.A.R.で国産化して いました。 なので、その生産の為に作られた部品をI.A.R.80/81系列に使用したという訳です。 少なくとも原型機は後部胴体、尾部、車輪、エンジンをP.24Eから流用しています。 流石に構造は低翼単葉引込脚になっていますけど。 量産機は、当初の開放式コクピットが視界の良い密閉式風防になっていますし、 そこかしこがRefineされています。 ちなみに、このうちの1機はS.M.79B用に製造されたJumo211(最初はDB601を 希望していたようですが)を装備して飛行しています。 戦後も暫く使われ、1950年代の共産政権時代にも、正規の操縦席前部に開放式 のコクピットを備えた練習機に改造されて少数機が使用されていました。
イラクで死んだハンガリー兵に合掌。
373 :
名無し三等兵 :04/06/26 00:49 ID:GBH8PnGI
いや、ハンガリー以外でも亡くなっておられる東欧各国の 軍人の方はおられますよ・・・。 という訳で合掌・・・。
保守
375 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/07/11 21:30 ID:s5ldCTal
眠い人 ◆gQikaJHtf2さま 歴史板のハンガリースレにてホンヴェードに海軍部門ありや? という質問がきております。 もしよろしければ、ご回答賜ればありがたいのですが・・。
376 :
ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w :04/07/13 00:56 ID:GRhsHIbt
ご出張深謝いたします。 よろしければ今後もお越しください。
ちょと怖いのでホシュ。
さて、今回は、Societe Anonima Industria Aeronautica Romaniaについて。 Romaniaという国は、世界最初のジェットエンジンによる予期せぬ飛行をした、アンリ・コアンダに見られるように、それなりの水準を誇っていました。 しかし、それはあくまでも個人レベルのこと。 第一次大戦では、国土が戦場になったために、それ以上発展しませんでした。 トリアノン条約の結果、新たにRomania領土になったAradの地に、旧マジャール王国のMAVAG鉄道車輌工場がありました。 1923年、この会社はRomaniaに接収され、Astra-Aradと言う会社組織に変更されます。 Aradの地には、マジャール王国にBenz航空機エンジンを供給していたMagyar Automobil Restzbenytarsasag(M.A.R.)の工場もあった為、 航空機製作に移行していきます。 そして、Polandの航空機技師、Stanislav Sasefskiを主任技師に招き、1923年、初めての航空機、250馬力のBenzエンジンを搭載した、 ASTRA-Sasefski複座複葉機を製作します。 この機体は非常な成功を収め、Arad-Bucharest間の民間航空航路を開拓するのに使用されました。 これで自信を深めた会社は、1924年、会社は、Fabrica de vagoane ASTRA din Aradと名称を変更します。 次いで、自国の航空工学を修めた教授を主任技師に、空軍向け偵察機を製作しますが、これは失敗します。 偵察機なのに、安定性が悪かった様ですが、それでも国産機なので、練習機として25機、採用されました。
しかし、根本的な梃子入れを図った政府は、この会社とは別に、航空機を製造する公営企業を資本金200,000Leiで立ち上げます。 この会社、Industria Aeronautica Romana, Societate Anonimaの設立は、1925年8月6日で、FranceはPotezの資本が多く入っていました。 まず、この会社が手を付けたのが、当時、資本提携関係にあった、Potez社の最新鋭多用途軍用機、Potez25の生産です。 この間、製作工場の建設費を惜しみ、11月1日には、前述のASTRAを傘下に組み入れ、1927年には吸収しています。 ちなみに、Industria Aeronautica Romana, Societate Anonimaとは別に数社が航空機製作を行なっていましたが、これらは、独立していますが、 ブランドとしては、一時期を除き、I.A.R.で統一されています。 今回は、Industria Aeronautica Romana, Societate Anonimaの方だけを取り上げることにします。 Industria Aeronautica Romana, Societate Anonima(略称I.A.R.)は、機体開発部門、エンジン開発部門をBrasovに、また分工場をAradに 持っていました。 また、Brasovでは飛行場も経営していました。 この体制で、最初は先述のように、1927年から33年にかけて、Potez25を250機生産し、次いで、Morane-Saulnier35練習機を1927年に30機、米国製Fleet 10G練習機、更には、 P.Z.L.P.11cの生産と言う感じで、外国製機の生産を行なって技術を蓄積していく傍ら、Potez25をパラソル単葉化したPotez25Mと言う機体を試作しています。 また、エンジンは、Gnome-RhoneK-7/K-9/K-14、De Havilland Gipsy-Majorを中心に、第二次大戦前までに1,100基のエンジンを生産していました。 国産機としては、1930年から戦闘機の開発を始めますが、いずれも習作に終わって、本格的な戦闘機は、I.A.R.80まで待たなければなりませんでした。 その代わり、練習機、多用途機として、I.A.R.22/23/24を、複葉偵察爆撃機として、I.A.R.37を、複葉偵察機としてI.A.R.38を、それぞれ試作、生産し、国産機の 開発能力もそれなりに付いてきました。 また、ItalyのNardi練習機なども国産化しています。 このほか、車輌、工作機械、建築資材なども製造していました。 戦時中はドイツ製の機体の修理、製造を行ない、1940年にRegia Autonoma Industria Aeronautica Romana に改組されました。
戦後、ソ連に工場を接収され、Sovromtractorとなり、トラクター製作を主な事業にします。 1949年から航空機製作を再開しますが、1951年にURMV-3となり、1960年には脱Stalin化で、I.I.L.と名前が 変更されます。 この間、小型軽飛行機を中心に試作製造を行ないます。 1968年、今度は、ICA-Brasovとなり、Romaniaの独自路線で、Helicopterの生産を主に行なうようになります。 また、脱ソ連化の一環で、AerospatialeのSA316B Alouette IIIを生産し、次いで、SA330L Pumaの生産を行なっています。 1991年、独裁体制が崩壊した後は、社名を再びIAR SAに戻して、Kamovと提携して、Ka-126を生産しています。 と言う訳で、I.A.R.80が出て来ないのは、これが、本体の製品ではなく、傍系のS.E.T.が製作したものだからで、他に、最近のI.A.R.ブランドで 製造している、ICARなんてのもあって、何が何やら…。 次週、この辺に手を付ける予定でつ。
たいへんに興味深いです。始めて聞くことばかり。 続編に期待します。
眠い人乙です。 次回も期待しております。
緊急事態発生につき、今週は休載。
386 :
名無し三等兵 :04/08/01 22:49 ID:Eep6HxFr
age
保守
相変わらずデータ復旧中につき暫くお待ちください。
ああ、ご当人や周囲の人本体(?)に緊急事態が発生したのではなかったんですね ちと心配しておりましたが、とりあえず良かったなぁと言っておきます PCの記憶装置関連でトラブルのご様子で、それはそれで緊急事態で不幸なのですが 漏れの××ちゃんはただのPCなんかじゃない、大切な身内なんだッ! と言う、眠い人氏の魂の叫びを込めたツッコミを期待してみたりしておきます
>389 一瞬それをしようかと思ったのでした。 今まで集めた資料やら何やら、結構中にありましたから。 若干まだ復旧に時間が掛かる(と、ずるずる行かなくもないが(ぉぃ))ので、 今週もお休み〜。
う〜ん、PCに続いて今度は風邪か、もうね、アボカドバナナかと(aary
なるほろ,当方が風邪を引いて寝込むことになったのは,PCを通じて眠い人氏に うつされたからだったのれすね. ウィルス対策をしなければ.
(・3・) エェー 風邪をうつされるのはkissしたからって相場が決まってますYO!
間が開きましたがやっとこ復帰シマスタ。 そう言えば、「戦う男の制服図鑑」とか言う本に、ロマーニャ陸軍の制服が出てきてビクーリ。 I.A.R.とは別に第二次大戦前に存在した航空機メーカーとしては、他に2社がありました。 今日はその中の一社を取り上げてみませう。 さて、航空省の管轄下に民間機製造を専らとする会社、Intreprinderea Pentru Constructii Aeronautice Romane (略称:ICAR)があります。 1932年にFleet社の軽飛行機を製造する会社として設立され、1936年に多座民間機であるICAR-1と複座複葉練習機を 製造していました。 第二次大戦中は、Fieseler Fi 156 Storchを製造しています。 その後、この会社は政治体制に翻弄されます。 まず、戦後はソ連の接収を受け、共産化によって、1951年にAteliere de Reparat Material Volant 2(ARMV-2)に改組されます。 ここでは主にソ連製航空機や自国開発機の改造、修理を行っており、戦後、空軍で用いられていたI.A.R.80の複座改造型 なども手がけていました。 しかし、非スターリン化に伴い、1957年にCentrul Tehnic Industrial Aeronautic(CTIA)に改組され、この間、Yak-11の国産化、 Yak-23の複座化改造などを行っています。 その後、1959年にIntreprinderea de Constructii si Reparatii Material Aeronautic(ICRMA)となり、IAR-811/813などの軽飛行 機を開発しています。 また、この組織はURMV-3の傘下に入り、68年にIntreprinderea de Reparatii Material Aeronauticとなります。 以後、Romaniaが独自路線を取るにつれて、1978年からはIAv Bucurestiとなっています。 製作する機体は、西欧の機体となり、英国のBAC-111旅客機、BN-2アイランダー軽飛行機であり、この国産化 は現在でも行われています。 Romaniaの政権崩壊後は、1990年11月20日にRomaero SAと改組され、主にBAC-111を年産1機で製造しています。
395 :
名無し三等兵 :04/09/05 13:45 ID:UT9VxTWk
年産1機・・ですか。 なんかトキかコウノトリみたいです。
う〜みゅ、S.E.T.は資料が見あたらないナリ。 と言うことでちょっとお休み。 >395 ま、日本も人の国のこと言えませぬし(苦笑。
うに、S.E.T.を書く前にFAQに載っかってシマタアルヨ。 明後日こそ書こう、うん、書けるさ、きっと。
さて、やっと、最後のS.E.T.に到達シマスタ。 Fabrica de Avioane Societatea pentru Exploatari Tehnice(通称、S.E.T.)は、1923年に設立されました。 この会社は主にRomania空軍の軍用機を中心に製作しています。 最初の4年は技術研究とか空軍装備機の研究に費やし、1927年にProt-I、Prot-IIと言う試作機を製作します。 これは2機しか作られず、次いで、1929年にS.E.T.3複葉機を作りますが、これは政府に採用されないと言う 余りぱっとしない状況でしたが、それでも、12機が生産されました。 次いで10機生産のS.E.T.4を作りますが、これは欠陥品ですぐ退役となり、1930年に製作した複葉複座中等練習機の S.E.T.7が、やっと軍の採用するところとなり、主力練習機として50機が生産されました。 このS.E.T.7は成功作と言って良く、これを基に、更に発展型としたS.E.T.7Hを1936年に8機、同じく、観測機に改造した S.E.T.7Kシリーズが60機も生産されています。 また、これを単座化し、戦闘練習機とした、S.E.T.Xが試作されましたが、それは売れず、試作に終わりました。 このため、S.E.T.では、本物の戦闘機を試作して、それとセットで売り出すことを考え、1934年に本格的な複葉戦闘機、 S.E.T.XVを開発します。 この機体の性能は良く、外見もNACAカウリングを採用したスマートなモノでしたが、これもRomania空軍ではP.11を 既に採用していると言う理由で、採用を見送り、結果的に試作のみに終わっています。 以後は、S.E.T.10練習機、S.E.T.31初等練習機を開発しますが、S.E.T.31が10機、空軍に売れただけで、結果的に新規 開発は以後行なわず、下請けになっていきます。 1936年から、米国のFleet社の練習機、Fleet10Gのlicense生産の割当分80機で糊口をしのぎ、 1939年から、I.A.R.の完全下請けとなり、I.A.R.27観測機、I.A.R.39急降下爆撃機の製造を行ない、 イタリア製Nardi F.N.305練習機の国産化を担当してこれを124機生産し、並行してI.A.R.80の開発・ 生産を行いつつ、He-111H-3のLicense生産を準備したところで、敗戦に至っています。 戦後は下請工場という地位に落ちていたこともあり、余り顧みられず、他の会社が曲がりなりにも 生き残ったのに比べ、1947年に解散に追い込まれてしまいました。
すみません。 圧壊深度に達したので、一度、ageさせていただきます。
ハンガリー・スレでまたミツコの話が蒸し返されていましたが,考えてみれば, 第2次大戦では同盟国――正確には味方の味方――だったわけで,当時の ハンガリーでの対日感情はどんなものだったのかなあ?と疑問に思ったものの, 検索レベルで調べがつくはずもなく……. ハンガリーの新首相,田中角栄の河川敷並みの資産形成ぶりですね.
>30はどこかに移転してますか
今読んでいる、コーエーの軍用車輌名鑑ですが、小国のソフトスキンも良く取り上げています。 チェコ・スロヴァキアのシュコダ、タトラ、プラガ、ヴィコフ、ポーランドのポルスキ・フィアット、マジャールのMVG、 HSCSとか。 しかし、この本を読んで思うのは、マンフレート・ヴァイス社の英国の車輌に与えた影響です。 原型がマンフレート・ヴァイス社で造られ、英国で生産されたものも結構あったのですね。 ストラウスラーの英国亡命は、マジャールにとって結構損失ではないか、と思った次第。
403 :
名無し三等兵 :04/10/14 08:51:28 ID:CFzi2Woj
良スレあげ
一日経ても煽りすらなかったとは。 この板のレベルが知れますね。 書き込む知識はないので、見させて頂きます。
本題とは関係ないのですが、文庫本で世界名作劇場の原作が出版されていましたね。 当然、トラップ一家物語も主題歌CD付(苦笑)で、発売されていました。
ちょっとネタ切れでつ。 Slovakiaのことを色々調べているけど、Slovakia語がよく分かってなかったり。
さて、マターリ、Slovakiaの空軍について書いていきますか。 1939年、HitlerはSlovakiaの分離主義者、Hlinkaの人民党を扇動し、Josef Tisoを大統領とするSlovakia国をCzech解体の 翌日に独立させ、3月23日、ViennaでHitlerと共に保護条約に調印し、ナチスドイツの保護国となりました。 新国家は、270万人の人口を有し、そのうち、Slovakia人が240万、13万のドイツ人、10万のマジャール人、8万のユダヤ人で 構成されています。 この保護条約では、Schtzzoneと呼ばれる西Slovakia地域と要塞などの軍事施設ににドイツ陸軍が駐留し、ドイツ空軍はZlinaに 第15観測飛行隊、Malacky-Novy、Dvorの空軍射爆場を使用、他に二ヶ所の空港に約40機を駐留させていました。 しかし、保護国とは言え、一定の軍事力は保持していました。 今回は空軍について書いていきますので、それについて話を進めていきましょう。 解体前、Czechoslovakia空軍はFranceを範にしており、全土で6個飛行連隊で構成されていました。 第1〜第3までは戦爆連合、第4が戦闘機連隊、第5と第6が爆撃機連隊でした。 このうち、Slovakiaに配備されていたのは第3飛行連隊で、その最後の連隊長、Gustav Studeny大佐は、 Czech人だったので、解体時にBratislavaの州軍司令に格下げされました。 Slovakia独立後、自動的にその連隊はSlovakiaの軍に組み込まれ、国家防衛省直属となります。
司令官は中佐(後に大佐、将軍)Ferdinand Catlos、Karol Sojcekが短期間勤務していました。 機体は300機近い様々なものがあり、供給は旧Czechから行なわれていました。 その内訳は、Avia B.534戦闘機が60機、Bk-534戦闘機が11機、Letov S.328観測機が73機、 Aero A-100偵察機が14機、発達型のAb-101偵察機が1機、Praga E-39練習機が41機、E-241 が33機、Avia Ba-122高等練習機10機、Bs-122曲技練習機が13機。 爆撃機として、Aero-Bloch M.B.200重爆が1機、Avia-Fokker F.VII爆撃輸送機が1機、Avia B.71 (Tuporev SB-2のLicense生産型)軽爆が1機、このほかに戦力として期待できない旧式機として、 Avia B.34戦闘機が3機、Avia Ba-33戦闘機が2機、Letov S.16爆撃機が5機、S.616爆撃機が1機、 Aero AP-32襲撃機が5機、APb-32襲撃機が1機、Letov S.128観測機が5機、Aero A.11偵察機が3機、 Aero A.211練習機が2機、A.230練習機が1機、A.330練習機が1機、Letov S.239練習機が1機という布陣 でした。 これら雑多な寄せ集めの機体を率いて、新たに司令官に赴任したのが、37年のZurichで開催された国際 飛行競技大会で、Avia B.534を駆ってドイツ空軍の誇るBf-109を追いつめたメンバーの一人で、国内でも よく知られていた曲技飛行の名手、Jan Ambrus中佐でした。 と言う訳で、次回は、マジャールとの紛争について、少々。
409 :
名無し三等兵 :04/10/31 23:38:48 ID:oX30m1sj
眠い人はなんでも知っているんだな。
眠いのにこれだけ博識って事は起きているときはすさまじいだろうな
>410 世界を滅ぼしかねないので 封印魔法で半分寝ていてもらっていまつ
412 :
名無し三等兵 :04/11/02 04:49:07 ID:5lBjELrn
warata
413 :
o(゚ぺ)○☆ドカッ☆\(`O´θ/♪ :04/11/02 21:04:51 ID:dNogt3EO
それにしても分からんからと、♪いい気なもんだ★ ソ連軍のラボーチキンLaGG3は、ドボアチーヌD.520のパクリだし、 ユーゴスラビアの国産戦闘機ロゴザルスキーIK3は、モラーヌ・ソルニエMS406のコピーだからなあ…★
さて、Slovakia地域は元々、二重帝国地域ではマジャール王国に属し、マジャールでは、この地域を「未回収のマジャール」地域と見なしていました。 このため、マジャールとこの国の国境地域は従来から"Hot Border"となっていました。 特にCzech政府が弱体化した1938年からは、マジャール空軍機が偵察に侵入したり、宣伝ビラをばらまきに越境したりしており、1938年10月25日には、 マジャール空軍の1/2"Ludas Matyi"飛行隊に属するC.R.32戦闘機2機が、Ju-52/3m爆撃/輸送機1機と共にSlovakia南部に越境し、伝単をばらまいて いた時に、チェコスロヴァキアを越境した同国空軍第10飛行隊のLetv S.328を発見、これを撃墜し、操縦士を負傷させ、後席偵察員を死亡させる事件が 起きています。 時代は下って、1939年3月のチェコ解体の際、国の東の枢要部であったカルパートウクライナ地区は独立を宣言しますが、既にマジャール陸軍が侵攻を 始めており、3月16日に占領(マジャール側から見たら正当な支配者に戻った)が完了しました。 そして、3月23日、占領地区を更に拡大し、あわよくばスロヴァキア全土を支配下に置こうと、カルパートウクライナ地区の国境を越えます。 けれども、この企てにSlovakia人はAugust Malar大佐の指導の下、軍民挙げて結束し、マジャール軍相手のレジスタンスを開始。 発足したばかりの空軍もまた、国境線で衝突を繰り返しました。 こうして、第45戦闘飛行隊(隊長:Jan Svetlik大尉)、第49戦闘飛行隊(隊長:Jan Prhacek大尉)、併せて約20機のB.534戦闘機、 第12観測飛行隊(隊長:Frantisek Wagner大尉)、これに第13観測飛行隊の一部から兵力を抽出して、併せて約20機のS.328観 測機、AP-32観測機を以て、最前線基地のSpisskaに赴任しました。 しかし、機体は確保したものの、乗員はチェコ解体時の戦力分割に手間取り、当初は各飛行隊に6名程度しか居ませんでした。 これは、Ondrej Dumbala少佐指揮下の第37〜39戦闘飛行隊、第15偵察飛行隊から抽出して供給して確保します。 彼らは到着早々にして砲火の洗礼を受けることになりました。
既に、3月23日の侵攻初日、マジャール空軍の奇襲によって、前線基地に19機展開した機体のうち、2機のB.534が撃墜、4機の B.534と1機のS.328が対空砲火で撃墜され、第45戦闘飛行隊の隊長、Jan Svetlik大尉と、第49戦闘飛行隊のStefan Devan 伍長が戦死し、これがスロヴァキア空軍初の戦死者となりました。 翌日の24日はスロヴァキア空軍にとって災厄の日となりました。 スロヴァキア空軍は、Uzhorodから出撃したマジャール空軍の1/1 "Ijasz"飛行隊のC.R.32と17回空戦を行ない、 S.328を1機、B.534を2機、撃墜または捕獲(B.534)され、4機のB.534と1機のS.328が損傷して不時着しました。 この時、第49戦闘飛行隊長など3名が不時着しましたが生き延び、1名(Jasef Zachar軍曹)が捕虜となりました。 この日の午後、Sovrance近郊でこの紛争における最も大きな空戦がありました。 第12飛行隊の12機(3個分隊)のS.328は第45戦闘飛行隊に属する3機のB.534に護衛され、マジャール陸軍部隊の 攻撃に出撃しましたが、その途中でマジャール空軍の9機のC.R.32戦闘機に襲われ、惨敗を喫したのです。 この戦闘で、1機のS.328が撃墜され、操縦士のGustav Pazicky軍曹が機上戦死、偵察員のFerdinad Sveno中尉は、 パラシュート降下中にマジャール軍戦闘機に射殺されました。 このほかのS.328はいずれも不時着を余儀なくされ、B.534戦闘機は全機撃墜破されましたが、これらの乗員は いずれも救助されました。 ちなみに、この際、スロヴァキア側の記録ではFrantisek Hanovac軍曹とMartin Danihel伍長がマジャール戦闘機 の撃墜を報告していますが、マジャール側には記録がなく、公式とは認められていません。
更に厄日は続き、Spisska Nova Ves基地にマジャール空軍のDebrecenから飛来した、3/4 ”Sarkany"と、 3/5 "Huvelyk Matyi"両飛行隊から抽出されたJu-86K-2爆撃機が10機飛来し、スロヴァキア領土に対する初空襲 を行ないました。 この攻撃で、12名の兵士と一般市民が死亡し、2機のB.534、3機のAP-32、1機のS.328とB.71を地上で破壊します。 しかし、基地機能の破壊には失敗しました。 その後、戦線は膠着状態が続き、4月に入って直ぐ、マジャールとの戦闘は下火となって、新たな東部国境線が 確定し、合意に至りました。 こうして紛争は終わりを告げたのですが、2年後には紛争を起こした両国が共に戦うのですから運命とは分からない ものです。 次回はスロヴァキア、ポーランドと戦うの巻。
さて、マジャールとの衝突で惨敗してから約半年後の1939年9月1日、スロヴァキア陸軍はドイツ陸軍と協同してポーランドに攻め込みます。 と言うか、スロヴァキア駐留ドイツ軍がスロヴァキアとポーランドとの国境を越えたので、仕方ない側面はあったのですが。 当時のスロヴァキア陸軍は35,000名。 彼らはドイツ軍南方軍集団の一翼を担っていました。 けれども、スロヴァキア陸軍はポーランド内陸部まで侵攻するのにはほど遠い状態で、1938年のミュンヘン条約でポーランドに 割譲されたOravaとSpisと言ったほんの一部の地域を回復するのが精一杯な所でした。 空軍に関しては、僅かに3個飛行隊、即ち、Obdrej Dumbala大尉の指揮する、第13飛行連隊麾下の第39、第45戦闘飛行隊に所属 する約20機のAvia B.534戦闘機と、第16観測飛行隊のLetov S.328観測機が10機、これらのみ、ポーランド戦役に参戦しています。 このうち、Letovはスロヴァキア陸軍部隊の対地支援、爆撃、連絡、伝単の投下、首都と国境線間の急使派遣など、多様に使われ ました。 また、ポーランド南部にドイツ軍が侵攻してからは、8機がVinne飛行場に進出し、ドイツ空軍のJu-87と共に襲撃に使用されています。 しかし、ポーランドのStryj近郊で第39飛行隊のAvia B.534が敵軍の対空砲火で撃破され、操縦士のViliam Grun軍曹は、敵領土に 脱出後、数々の逃避行を行ない、基地に帰還することが出来ましたが、9月9日に、もう1機のAvia B.534がPresovで不時着し、 操縦していたViliam Jalovier伍長は運が悪く、死亡してしまいました。 ポーランド戦役末期の9月26日、先述のViliam Grun軍曹は、Prasov近郊でポーランド陸軍第13飛行連隊のRWD-8連絡機を撃墜 します。 ちなみに、この時のポーランドは敗北し、所属の空軍機はルーマニアに越境している最中でした。 ともあれ、撃墜は撃墜と言うことで、スロヴァキア空軍初の公式撃墜記録となりました。 と言うことで、次回はスロヴァキア空軍の増強について。
PCの調子が良くないので、とりあえず、休載。
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1939年末、泥縄式に設立された空軍の再編成、機材の再整備が行なわれます。 既存の機体の分解整備や、修理については、Slovakia国内では出来ず、ドイツの保護領となっている旧Czechから人が派遣されて行ないました。 戦闘機飛行隊は、第11、12飛行隊がPiestanyに、第13飛行隊がSpisska Nova Ves.に配備され、これらにはAvia B.534/Bk.534が支給されました。 観測・偵察飛行隊は7個飛行隊を3個に再編し、第1飛行隊をZlina、第2飛行隊をSppiska Nova Vesに、第3飛行隊はNitraに配備し、機材としては、 既存の飛行隊が用いていたLetv S.328が支給されました。 更に、旧訓練部隊は、1940年に入るとSlovakia空軍飛行学校と改称され、各地に点在していた部隊を、Trencianske Biskupice基地に集約します。 後に、戦火が激しくなってくると、Tri Duby基地へと移動しています。 発足当初の使用機材は、Plaga E.39/E.241、Avia B.534、Letov S.328、Ba/Bs-122が使用されていましたが、これらの機材はドイツからの供給を 受け、Focke-Wolf Fw-44、Gotha Go-145、Heinkel He-72、Klemm Kl-35D、そして戦闘練習用にBf-109Eに取って代わられました。 総合整備工場、航空機工場は、元々Nitraにありました。 1943年8月には、Tri-DubyとMokradに移動しています。 ここでは全機種の修理、整備の他、Skoda-Kauba S.K.257練習機、Junkers Ju-87D-5を生産していました。
421 :
名無し三等兵 :04/12/02 08:26:08 ID:1snckkp6
700浮上
ちょっと先走りました。 話を戻して、1941年3月1日、スロヴァキア空軍の再編が行われます。 先に編成された第11、12、13戦闘飛行隊で、第2戦闘機大隊を編成し、Vlasdimir Kacka大尉が指揮官となりました。 この大隊はPiestanyに配備されます。 同時に、第1〜3観測飛行隊は、第1観測機大隊を編成し、指揮官にKournel Jancek少佐が任ぜられます。 これは、Spisska Nova Ves.に司令部が置かれました。 時代は下って、1943年6月1日、第3戦闘機大隊がPiestanyにて編成されます。 その大隊には東部戦線で戦闘中だった第13戦闘飛行隊のBf-109G-4と、新しく編成されたBf-109E装備の 第14戦闘飛行隊の2個飛行隊から成る予定でしたが、第14の方は機材が間に合わず、紙上の存在でしか ありましせんでした。 第2戦闘機大隊は、第13が抜け、第11、12戦闘飛行隊から成っていましたが、Avia B.534戦闘機からJu-87D-5 爆撃機へと機材を更新しようとしていました。 しかし、これは戦局の悪化で、遂に完了しませんでした。 第1観測機大隊は、旧型機を一掃し、Focke-Wolf Fw-189A-2に機種変更しました。 しかしながら、機材の補充は十分ではなく、これらの機体は、偵察機隊の機材を横滑りさせたものだったりします。
勘違いしている奴があまりに多いのでいわせてもらう。Bf109は孤高。突然スマン。 だがもう我慢ならねえ。Bf109、しかもハンガリー製に乗ってまだ半年の俺だが、いわずにはいられなかった。 ちょっと出撃に行った先や基地で、よく「Bf109いいっすねえ」などといわれる。 俺のはハンガリー製だしノーマルだし、別にそうでもないっしょ。でもなんかいわれる頻度が高い。 なんでよ?謎だった。 しかし、この間気付いた。声をかけてくる奴はほぼ100%ハンガリー空軍機に乗ってるんだよ。 Bf109やFw190じゃない。その他のハンガリー空軍機な。Me210とかヘジャとか。He112とか。 ひでえ奴になるとCR32とかCR42とか。あえて「その他のハンガリー空軍機」と呼ばせてもらう。 そいつらの「Bf109いいっすねえ」の中には「同じハンガリー空軍パイロットの仲間ですね」ってニュアンスを感じる ことに気付いたんだよ。冗談じゃねえって。仲間じゃねえよ。 「俺の機体の血筋はBf109とつながってるんだぜ」みたいなオーラも感じる。つながってねーよ。 完璧に気のせいだ。ふざけんな。 Bf109と他を比べてどっちがいいかなんてことはいうつもりはない。Bf109に乗ってる奴はそんなことは いわない。Fw190に乗ってる奴もそうだろう。Me210やBf110乗りでも同じだ。Ju87乗りだってそうだろう。 その機体が好きで乗ってる奴は他を認めつつも他を羨まない。自分の選択に自信を持ってる。 「その他のハンガリー空軍機」に乗ってる奴はそうじゃない。Bf109やFw190、そしてハンガリー空軍の栄光につかりながら 「その他」に乗ってる。きもち悪い。一番手に負えないのが「その他」のイタリア機に乗ってる奴らだよ。 尾翼にハンガリーの3色があるってだけでBf109と同列だと思ってる。いや、信じてる。心の底まで信じきってる。 ありえねえ。同列なわけねえだろ。いっしょにするな。死ね。 誤解のないように言っておくが、Fw190には敬意を表してる。Fw190乗りは「その他のハンガリー空軍機」乗り とは違う。Bf109を羨まない。精神が違う。 もう一度いうが、Bf109は孤高。 その他のハンガリー機とは違うこと、そして明確に区別されるべき存在であることを忘れるな。
>>422 ちなみに戦術偵察ではなく、戦略偵察を行なっていた
部隊はあったんですか?
425 :
名無し三等兵 :04/12/11 15:30:07 ID:7GfLDrTr
ケシュケメートの航空ショーに行ったっけなあ・・・
>426 もしかして某GTOスレの人?
訂正。 >426× >423○
1943年4月1日、第41爆撃飛行隊が編成されました。 これらの基幹要員は、Slovakia空軍の航空学校を卒業後、ドイツはバルト海沿岸のGriefwaldで訓練を行なっていました。 後に、実戦訓練はCrimea半島のSimferopol近郊にあるSakiで、3機のHeinkel He-111H-10を用いて行ないました。 1943年秋には飛行隊はPopladに移駐します。 この基地には、他に時代遅れのS.328、Fw-58BとJunkers W.34が配備されていました。 同じ頃、第51輸送飛行隊がTri Duby飛行場にて編成されました。 この飛行隊には、フランス製のCaudron C.445M Goelands軽輸送機が5機、ドイツ製のKlemm Kl-35D 軽飛行機が2機、He-111H-10が1機、Fi-156Cが1機配備されていました。 輸送機部隊としては、このほか、Vajnoryに航空輸送グループ(LDS)があり、C.445M、W.34、Kl-35D、 Ju-52/3m、Fw-58B、He-111H-10、そして何故か米国製のStinson SR-10C Reliantが配備されてい ました。 後者は、軍の輸送の一部を担っていたほか、Slovakia航空の民間航空機としても用いられています。 後に、第51輸送飛行隊の任務の殆どは、軍の輸送ではなく政府機関の要務飛行が中心と成っていっており、 軍の戦力としては使用されなくなっていました。 >424 上記の通り、爆撃機部隊すら少数機でうろちょろしていたので、戦略偵察機部隊はありません。 ただ、後に述べる、薔薇色の未来計画ではその辺、考慮されていたみたいです。
と言う訳で、今回はSlovakia空軍の薔薇色の未来計画について。 色々な増強の結果、1944年7月までに、Slovakia空軍は16個飛行中隊で7個飛行連隊を構成し、更に3個飛行師団を構成する 軍備拡張案が完成する予定でした。 第1飛行師団は、偵察と観測を任務とする師団で、第1飛行連隊を構成している、第1飛行 中隊、第2飛行中隊はFw-189を装備し、第3飛行中隊は偵察型のBf-109の装備が予定さ れていました。 第1飛行師団に属する第2飛行連隊は戦爆連合で、第21飛行中隊と第21飛行中隊に、 Do-17、Do-215を装備しています。 第2飛行師団は戦闘機師団で、配下の第1飛行連隊に属する第11飛行中隊、第12飛行 中隊にはBf-109を装備し、第2飛行連隊には第13飛行中隊、第14飛行中隊を持ち、前者 はBf-109、後者はBf-109またはBf-110を配備する予定でした。 第3飛行師団は爆撃機師団で、第1爆撃連隊は第31飛行中隊、第32飛行中隊で構成され、 これらの装備機はJu-87、第2爆撃連隊は第41飛行中隊、第42飛行中隊で構成され、これら の装備機はHe-111、S.M.84になる予定でした。 最後が輸送連隊で、第51飛行中隊、第52飛行中隊、第53飛行中隊で構成され、装備機は、 Ju-52/3mを装備する予定でした。 これらの装備機はいずれもドイツとイタリアに発注し、代金の払い込みまで済ませていましたが、 Slovakia保護国の崩壊で、全然引き渡されませんでした。
とりあえず、今日はお休み。 年末進行で出来れば良いなぁ。
AM見た?ハンガリー軍の突撃砲大隊だってよスバラスィー。ただ、掲載 写真が既出杉かな。
1940年にSlovakia空軍(VVZ)の司令部がTrencinに設置されました。 初代司令官には、Jan Ambrus中佐が就任しましたが、彼はCzechoslovakiaの抵抗運動に 加わるために国を出てしまい、以降は陸軍の高級将官が司令官に就任します。 第二代がRudolf Pilfousek中佐、ついでAnton Pulanich中佐(後に少将まで進級)、そして そしてStefan Jurech少将が就任し、最後は1944年8月26日の空軍廃止の日まで、Alojz Ballay大佐 が就いていました。
やんわりと保守。 眠い人乙! 続き期待しております。
今週はちょいとお休みでつ。 早寝早起き元気な子(謎。
う〜、今週も仕事の都合でお休み。 利計なんて嫌いだ〜。
なかなか翻訳が進まなくて鬱。
また〜りおねがいします
1942年まで、Slovakia空軍の装備は、以前のCzechoslovakia空軍の装備をそのまま利用するので十分でしたが、 更に大戦が進むと、これでは性能不足になり、1942年以降、1944年までドイツとイタリアからの供給で賄われること となります。 但し、ドイツからの機材については、フランス戦線で使用して、不要になった機材が主に供給されました。 その機材に関しては、実に様々なものが供給され、型もバラバラで、Slovakia空軍が要求するものにマッチしたとは とても言えないものでした。 てことで、次回はSlovakiaの航空機メーカーについてちょっくら。
439 :
名無し三等兵 :05/02/10 21:53:01 ID:E70nHiTA
保守
いかんなぁ、せっかくの四連休だったのに、カキコも何も出来なかった。
_, ._ ( ゚ Д゚) チャデモノミナガラ ( つ旦O ノンビリマチマスyo! と_)_) _, ._ ( ゚ ◎゚) ズズ… ( ゙ノ ヾ と_)_) _, ._ ( ゚ Д゚) ………… ( つ旦O と_)_) _, ._ ( ゚ Д゚) ガシャ ( つ O. __ と_)_) (__()、;.o:。 ゚*・:.。 _ _ ξ (´ `ヽ、 __ ⊂,_と( )⊃ (__()、;.o:。 ゚*・:.。
何か週末忙しすぎ。 と言うか、今日もPCセットアップだし(鬱。
閑話休題。 1933年、ベルリンでオートショーが開催された。 これには、その年の1月に政権を獲得したHitlerがやって来た。 彼は他の車には目もくれず、真っ直ぐにタトラのスタンドに向かった。 そこで、彼は主任設計者のHans Ledwinkaに出会い、彼が遊説を繰り広げた際、 タトラ・ツインという車で、100万キロメートルも走り回ったことを話したという。 そして、彼はLedwinkaの開発している空冷V8RR駆動の新型タトラについて、熱心に 質問し、その夜、Ledwinkaは再度Hitlerに呼ばれ、10時過ぎまで、新型車に関する 説明を求められた。 最後に別れる時、Hitlerはドイツが生産する新しい国産車は、タトラのような強い空冷 にすべきだ、と言ったと言う。 Porscheの国民車構想の最初の基本設計は1933年暮れ、次の詳細な提言は、1934年 1月に行われ、その後のPorsche-Hitler会談で、Volkswagenの誕生につながっていくの であるが、Volkswagenの試作車が1938年のWolfsburg工場起工式で、Hitlerの横に置か れた時、Porscheの下には、タトラ社からの10項目に渡るパテント侵害の通告が来ていた。 それには、シャーシの構造、トランスミッションのギアボックスレイアウト、冷却空気のダクト 方式などなどがそのままそっくり取り入れられていた。 その後のチェコ併合でタトラの訴えはうやむやになりましたが。
唐揚げスマソ
はっ、しまった。 今日は早く帰ったのに、此処のメンテが出来てない。
,-‐-、 .ll r-,o-、 ,-‐-、 r_==‡ヽ ||.lニニ゚ニl__ rr===ヽ (,,・∀・) ..l,(,,,゚д゚) .il,,´ー`) /~ヘ/ヽ~ヾ l,l仁,,)|゚ | /l゙~,Y~゙iヾ -==l::lニ("仁ニ(''l_l .l|i_lTl l゚ | i,,l''')ニ仁l''')ニl::l==- スロヴァキア軍 ハンガリー軍 ブルガリア軍
>スロヴァク軍 ‡がポイントですな
>446 カワイイ(ぉ Slovakiaの航空機メーカーと言っても、大したものではありません。 けれども、LetovとAreaがBeckovに工場建設を計画し、1941年にはMrazがChocenに分工場を建設しています。 でもって、Slovakiaの航空機として固有のものとしては、Zdenek Rublicによって設計され、Nitraで製作された機体があります。 この機体は、低翼単葉のZoborIスポーツ機/軽旅行機です。 原型となったのは、Czechoslovakia製のBenes-Mraz Be-555 Superbibiで、これは10機生産され、うち8機がSlovakiaに引き渡されました。 ZoborIは9機が生産され、その全てがOK-SOB〜OK-SOJの民間登録記号を付けていましたが、Slovakia政府所管の国民防衛隊練習・連絡 飛行隊に所属することになっていました。 しかし、何故か最後の2機はドイツ空軍に引き渡されてしまいました。 その他の本物の軍用機については、Trencianske Biskupiceにある国営軍用機修理工場で生産が行われようとしていました。 また、PragueのSkoda-Kaubaの主任設計技師だったAustria人のOtto Kaubaが、いくつか製作した試作機の発展型として、ドイツ空軍が採用 した、練習戦闘機Skoda-Kauba SK-257の生産を此処で行おうとしていました。 この機体、最初は、1,000機の生産が目論まれていました。 しかし、後に100機に削減され、最終的にSlovakiaの工場で生産されたのは、僅か5機にしかなりませんでした。 このほか、国営軍用機修理工場では、Ju-87D-5のLicense生産が行われています。 12機のJu-87D-5が此処で生産され、5機がドイツに見本として引き渡されました。 残りの7機がSlovakia空軍に引き渡されましたが、残念ながら、これらは接収されています。 と言うことで、次回は対ソ戦争での鹵獲機の修理などについて
あ、>448補足。 ドイツに引き渡されたJu-87D-5ですが、軍用機として引き渡されたのではなく、あくまでも 民間ベースの商業輸出として引き渡された様です。 ちなみに、これらのJu-87D-5には、OK-XAA〜OK-XAEの民間登録記号が付いていました。
風邪引いて折角更新しようとしたのに断念。
∩___∩ /7へ,、 | ノ ヽ ,///スく / ● ● | ,ノ'彡/"´ | ( _●_) ミ ,/,/'" コレをケツにぶち挿して 彡、 |∪| 、`\ ,/,/ 早く風邪を治すクマ―! / __ ヽノ /´>,./,/ (___) / _えr'"シ | / | /\ \ | / ) ) ∪ ( \ \_)
>451 熱は下がった。 しかし体力が元に戻らないのだった。 パターリ
浮上!
454 :
幕間劇 :2005/04/05(火) 07:22:51 ID:???
「まいっちゃったなー」 療養所のベッドで、眠い人はひとりごちた 季節の変わり目に風邪を引き、大丈夫だからと普通にすごしていたつもりが、一人娘を気遣う両親の目には、よほどフラフラしているように見えたのだろう、むりやり療養所に放り込まれてしまったのだ 大した事は無い、家で寝ていれば直ると言ったのだが、聞き入れてもらえなかった 療養所に入るなんて大げさで嫌だったのだが、熱が引いたのに起き上がることが出来ず、自分が如何に消耗していたのか、思い知らされる事となってしまった しかし、熱が引いて意識がクリアーになってしまった今は、退屈で仕方ない 彼女はその知的活動で知られている 東欧の事物の学識が深く、僅かな情報から資料を見つけ出し、その一言一句まで絞りつくす様は驚嘆を込めて「東欧の吸血鬼」と呼ばれるほどだ その彼女が、丸一日ベッドに縛り付けられたままではたまらない 誰かが見舞いに来てくれればそれなりに凌げるのだが、一昨日、入院という事態に驚いて来てくれた担任と委員長に、熱でボーっとしてまともに応対できず(当人は憶えてない)、お見舞いは容態が落ち着くまで自粛となり、誰も来ない
>454 ワラタ。 とりあえず、週末には何とか着手できるかな。
>>455 おお、息災で何より、復帰楽しみにしています。
Revenge!
トレンドマイクロのあほぉ。 折角翻訳したのが、全部パァかい(号泣。
さて、偶にはageさして貰います。 >448の続きで。 Slovakiaは、ロシア戦線に参加して更に戦力になる機材を手に入れる計画を立てます。 具体的には、陸軍中央兵器廠の技術者を派遣軍に帯同させ、捕獲したものの内、役に立つものを見極めさせて、本国に輸送させたのです。 こうして入手した機体には、I-16若干機、I-153若干機、Antonov Ss-6(ロシア製Storch)若干機、Archangelsky SB-3急降下爆撃機1機、 Polikarpov Po-2連絡機1機がありますが、その殆どの機体は本国への鉄道輸送中に破壊され、Slovakiaが手に入れたのは、僅かに Ss-6連絡機6機、I-153戦闘機1機、Po-2連絡機1機に過ぎませんでした。 特に、一番入手したかったSB-3爆撃機(Slovakiaには当時まともな重爆が無かった)は、修理して本国へ空輸している最中に、Lvovで 離陸中に接触事故を起こしてしまい、修理不能となってしまっていました。 と言うことで軽く保守して、次回から東部戦線に行けたらいいなぁ。
うう…暇がない。 東部戦線が…。
そう言えば、今日だか昨日だかに、ソ連に抑留された日本兵とRomania兵の交流の ドラマがありましたね〜。
うう、代替スレとして期待していた某スレが落っこちて仕舞った。 東部戦線は未だ手を付けられず。 そう言えば、ラスト・オブ・カンプフグルッペの続編にちらっと、Slovakiaの話が 出てきてましたね。
Slovakiaは、ドイツがソ連に侵攻した1941年6月22日に参戦した最初の衛星国の一つでした。 Slovakiaはまず、Rudolf Pilfousek大佐指揮の2,000名からなる快速グループ(1941年7月に5,000名で編成された快速旅団 に格上げ)と、Ferdinand Catlos将軍指揮下の50,000名以上の兵力を以て侵攻軍を編成しています。 この50,000名の兵力のうち、35,000名は、8月には自国の農産物収穫のために、復員させています。 こうして、Slovakia陸軍は再編成されますが、快速旅団は、Jozef Turanec砲兵大佐(後、将軍)指揮の下、8,000名に拡張され、 快速師団となり、陸軍本隊は、Augstin Malar大佐(後、将軍)率いる、8,000名から成る警備師団となっています。 快速師団は、Slovakia陸軍でも優秀な装備を優先的に割り当てられ、最も近代的で、最も機械化された部隊でした。 また、警備師団は、快速師団の後方で、その補給路を守っていました。 これらの師団は、ドイツの南方軍集団に属し、Livov、Kiev、Rostov経由でCaucasusにまで足跡を印しています。 今回は、陸軍の動きだけでしたが、いよいよ次回は空軍編。
今回はちょっとお休み。
>465氏 そんな餌でクマーと釣られるわらひがいる(苦笑。 さてさて、東部戦線に陸軍が分け入っていったのと同時に、空軍も又、東部戦線に派遣されます。 東部戦線に先陣として派遣されたのは、Kornel Jancek少佐の第1観測飛行隊の第1飛行中隊(Rudolf Galbavy大尉)、 第2飛行中隊(Frantisek Wagner大尉)、第3飛行中隊(Belo Kubica大尉)の合計30機のLetov S.328と、 Vladimir Kacka大尉率いる第2戦闘飛行隊の第11〜13飛行中隊に所属する、33機全てのAvia B.534戦闘機、そして、 Imrich Kublis大尉率いる連絡飛行隊から、7機のPraga E-39、E-241、各1機のStinson SR-10C Riliantと Be-555 Superbibiが抽出されました。 独ソ戦勃発以前には、これらの飛行隊は、平時の基地から野戦基地、即ち、Spisska Nova Ves、 Kamenice nad Cirochou、Nizny Sebes、Nizny Hrabovecと言った、東部Slovakia地区に展開しており、 独ソ戦勃発後の7月7日までに、更にUkraine西部地区に歩を進めることとなりました。 けれども、これが意味するところは、Slovakia国土の防空を実質的に無防備にすることに繋がり、 7月1日にはB.534を装備する第11飛行隊はPiestanyに帰還し、航空学校からの特に優秀な3名の 操縦士を加え、これらの戦闘機を用いて、ドイツの兵器製造工場が多く配置されている、Vah渓谷の 防衛戦力の基幹として配置し直されました。
残りの5個飛行隊については、予定通り、Kiev方面へ向かう西部Ukraine地区に展開し、ドイツ軍の 夏期攻勢、秋期攻勢の何れにも参加して成功裏に任務を完了しました。 これらの飛行隊は以下の飛行場に展開して、任務を遂行しています。 第1飛行中隊 → Zagorze、Sambor、Lvov、Rzeszno、Vinnica、Haysin、Berdiczev、Bielaya Cerkev、 Vasilkov、Mytnica、Bieliki、Nikolayevska、Sofiyevka 第2飛行中隊 → Koniuszki 第3飛行中隊 → Koniuszki、Komarno 第12飛行中隊 → Sambor、Lvov、Proskurov、Bar、Vinnica、Haysin、Berdiczev、Bielaya、Cerkev、 Gubin、Mytnica、Bileliki、Nikolayevska、Sofiyevka 第13飛行中隊 → Sambor、Lvov、Rzeszno、Czortkov、Yarmolincy、Bar、Tulczyn では次回は、初期の戦闘の詳細について…。
468 :
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/06/07(火) 07:55:57 ID:kXTGIdPu BE:70902634-#
圧壊深度に近づいているので、一旦ageさせていただきます。
今週は、スペインの資料解読に精根尽き果てたので、お休みです〜。
う〜みゅ、ふらふら書いてたら、第二次大戦のブルガリア空軍、スロヴァキア空軍エースの 本が出てしまった(鬱氏。
今日も暇無し、貧乏暇無し。 と言うか、これから訳す部分が、オスプレイの本と被るかどうか、それが問題。 てことで、練り直し。
うぐぅ、Hang-upとわ。 >472 所沢氏 紹介ありまとー御座いますぅ。 後ほどじっくり読んでみまする。 さて、S.328装備の観測飛行隊は、退却するソ連軍部隊に対する攻撃、戦線を越えての偵察飛行、連絡任務に用いられました。 ただ、連絡任務はその装備から見て余り適任ではありませんでしたが。 一方で、1941年8月初めの時点で、Avia B.534装備の戦闘飛行隊は、ドイツ軍のHenschel Hs-126偵察飛行隊である、3.(H)/32、4.(H)/32 と共に、戦線を越えていき、後に、S.328装備の飛行隊が彼らに付いていきました。 戦闘機隊の任務もまた、戦場上空哨戒、地上目標への攻撃が主なもので、対戦闘機任務は余りありませんでした。 この襲撃任務で一番戦果を挙げたのは、Vladimir Kacka率いる第12戦闘飛行隊のAvia B.534戦闘機11機で、Vinnica-Niemirov幹線で行 軍中のソ連軍隊列を襲撃したことで達成されました。 この時には4機の戦闘機が損害を被ったのにも関わらず、敵師団に壊滅的な被害を与えています。 また、第12戦闘飛行隊が、空中での戦果を挙げたのは、1941年7月29日のことで、Josef Palenicek少尉率いる小隊が、15機の"Curtiss" 戦闘機(実際は、I-15かI-153と思われる)と空中戦を行い、数機の損害と引き替えに、1機の"Curtiss"を撃墜した、と言うものでした。
東欧じゃないけど、ロシア派遣イタリア軍(第8軍)とロシア派遣スペイン義勇軍(青師団)の 戦歴と装備した兵器が知りたいですね。 あまり詳しく載っている本とかありませんし。
>>474 Ospleyには確か青師団本があった。
マカロニは記憶にないけど、個人戦記なら、「雪の中の軍曹」つー正真正銘の傑作があるよ。
青師団はいったいどこで戦っていたのだろうか?独ソ戦の資料見ても「青師団が
義勇軍として参戦した・・・」。とあるだけで詳しい戦歴は皆無。
やっぱりマイナーか。
>>475 日本語訳で発売して欲しいものだが・・・
イタリア第8軍に関してはL3/35とL6/40とセモベンテ自走砲が2種類ぐらい配備されたとかだったかな?
装備された戦車は実はたったの4種類しかないのですかね。
477 :
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2005/07/09(土) 18:58:12 ID:ydzoVvr2 BE:141804746-#
閑話休題。 この前の別スレ崩壊に懲りて、一旦ageます。 >474 Romania経由でUkraine方面に進撃しています。 装甲兵力としては、第3騎兵師団(第3軽機械化師団)に属する、第67ベルサリエリ装甲大隊所属の L6/40軽戦車と、1個中隊のセモベンテL40 47/32、それに少数のL3 カルロベローチェも有ったそうな。 しかし、1942年冬にDon川戦線、Stalingrad北方で壊滅的な打撃を受け、結果的に1943年初めには 本国に呼び戻されたそうです。 空軍に於いては、ロシア方面特別航空兵団が編成され、ドイツの第4航空軍傘下で活動しました。 その兵力は、22°Gruppo C.T.のM.C.200が51機、61°Gruppo O.A.のCa-311が22機、S.M.81が11機を基幹とし、 M.C.200はKrivoy Rogから作戦していました。 初撃墜は展開初日で、SB-2bisとI-16の戦爆連合の大編隊を迎撃し、6機の爆撃機と2機の戦闘機を撃墜して います。 後に、B.R.20、Z.1007が追加され、1942年からは、M.C.202が参加、激しい戦闘を繰り広げましたが、指揮官が 戦死、兵団も地上軍の敗退に伴って1943年に引き揚げました。 青師団ではないけど、スペインの空軍義勇兵は、中隊規模でJG57に所属して、1941〜44年初期まで、交代制 で合計4個中隊が東部戦線で戦っていますね。
>>477 そう言えばイタリア降伏後も東部戦線に残ったイタリア軍部隊が少数存在して
ドイツ軍の指揮下で戦ったとか。空軍もSM.81がドイツ軍への輸送機として活躍したらしい。
青師団の本国帰国後もやっぱり一部の部隊は残ったようだ。
それはそうとロシア派遣イタリア軍にM11/39やM13/40は無かったのでしょうかね?
あとスペイン空軍義勇兵はやっぱりBf109装備でしょうか?
>478 T34を鹵獲して用いたと言う話もありますが、主力戦車の殆どが北アフリカと本土に 持って行かれたので、結局は数の多かった軽戦車を送ったみたいです。 でも、セモベンテを送っているのだから、主力戦車M13/40系列を送っていたのかも しれませんね。 青師団は、兵力18,000名で、1941年7月25日にドイツ国防軍第250歩兵師団として、 東部戦線に出撃しました。 しかし、1943年10月に戦線を離れるまでに、12,776名の犠牲者を出したそうです。 ちなみに、スペイン出発時は同国陸軍の制服を着用していたのですが、前線では ドイツ国防軍の制服を着て戦っていました。 なので、ドイツ国防軍の戦史に紛れ込んでいるのではないか、と思いますです。 あと、空軍義勇兵は、当初Bf-109でしたが、後にFw-190に乗り換えたみたいです。
で、書いた後に資料が出てくる、と(苦笑。 第3"Amedeo d'Aosta"軽機械化騎兵師団は、1942年4月に第3騎兵師団を改編し、機械化したもので、 1942年12月当時の編成は、師団司令部、第213自動車化師団司令部警護小隊、第874自動車化師団 司令部警護小隊、第3"Savoia"竜騎兵連隊、第5"Nobara"槍騎兵連隊(配下に第5"San Giorgio"槍騎兵 戦車大隊、第5、第6槍騎兵大隊)、第3自転車化軽歩兵連隊(第18、20、47、103自転車化軽歩兵大隊)、 第6自転車化軽歩兵連隊(第6、13、19自転車化軽歩兵大隊)、第3"Principe Amedeo Duca d'Aosta"機動 野砲兵連隊、第120自動車化野戦砲兵連隊(第13自動車化対戦車大隊)、第99自動車化迫撃砲大隊、 第103自動車化通信中隊、第105自動車化工兵中隊、第73自動車化衛生中隊(第159、837野戦病院、第26 治療隊)で構成されていました。 なお、対戦車大隊にはM35 47mm対戦車砲、迫撃砲大隊には、M27/31 81.5mm迫撃砲が装備されていた様です。 前身の第3騎兵師団は、1940年6月、北部のヴェネト州第45ベローナ軍管区のベローナ衛戍地で編成され、 アルプス軍団に配属され、ユーゴ戦に参加、後、第8軍イタリア派遣軍団(後の第29軍団)に配属され、1941年 8月からドイツ南方軍集団と共に転戦、1942年4月にハリコフ方面に侵攻し、12月のスターリングラード救出作戦 支援の際、ドン川付近の戦闘に参加、部隊は甚大な損害を受け、1943年3月にイタリア北部、エミーリャ・ロマーニャ 州の第6ボローニャ軍管区、ピアチェンツァ駐屯地に移動し、8月にボローニャ駐屯地に移転し、再編を完了、9月15日に ドイツ軍の武装解除を受け、解隊となっています。
>474 青師団 1941年7月20日ニュルンベルク軍管区にて編成 262、263、269歩兵連隊、250砲兵連隊(3個砲兵大隊10.5cm野砲と1個砲兵大隊15cm砲を装備) 250戦車猟兵大隊(3個中隊、3.7cmPak装備)250偵察大隊(2個オートバイ中隊) 250通信大隊(2個中隊)250工兵大隊(3個中隊)等々 1941年8月20日中央軍集団、第9軍に配属、東部戦線へ参戦、26日にヴィテブスクへ進撃 10月10日北方軍集団、第16軍に転属、以後ノヴゴロド、イリメリ湖周辺、ヴォルホフ、レニングラード包囲に出撃 特に1943年2〜3月のクラスニボルでソ連43、45、63、72、4個師団に対して前線を守り切った。 1943年10月7日青師団は解隊、ほとんどはクリスマスまでにスペインへ帰国するも 一部の兵士はドイツ121歩兵師団にて1944年1月でもエストニア戦線で戦闘を続行 1944年3月にスペインに全員帰国。 1941年、718名戦死、1612名負傷、86名行方不明 1942年、1252名戦死、2777名負傷、3名行方不明 1943年、1964名戦死4077名負傷、237名行方不明 他に1941年-1944年の間に484名が捕虜になった。 他にも空軍義勇兵、海軍義勇兵(掃海艇に乗艦)が有名だがソ連側にも スペイン内戦後の亡命者による歩兵部隊や戦闘機パイロットがいた。
>>480 >>481 ありがとうございます。青師団はレニングラードですか。寒さに弱そうなのに
なぜか他の枢軸同盟国とは違って北方に派遣されたのですね。
他の枢軸同盟国はフィンランドを除くと全て南方軍集団なのに・・・・
>482 そう言えば、今月の光人社NF文庫の新刊に、「中立国の戦い」という本があって、 そこに少しだけスペインが取り上げられています。
とりあえず、ちょっとだけ保守して、明日、余裕があれば再開予定。
さて、間が開きましたが、>473よりの続きで…。 Avia B.534戦闘機では、不整地での離着陸性能が良いお陰で、少なくとも二人の戦闘機パイロットがソ連の捕虜になることを免れ、いくつか の冒険譚を作ることになりました。 例えば、1941年7月25日のこと、第13飛行隊のAvia B.534戦闘機3機は、Ladislav Hodro曹長に率いられて、Henschel Hs-126の護衛任務 に就き、Tulczyn近郊を飛行していましたが、この時、ソ連軍の重対空機関砲の射撃を受け、Frantisek Brezina軍曹の機体に命中して、機体 はソ連軍の勢力圏内に不時着してしまいました。 また、二人目のパイロットである、Stefan Martis軍曹の機体も、同じく対空砲火で、主翼と風防に損傷を負いました。 しかし、Martis軍曹は不時着したBrezina軍曹の機体の側に着陸し、Brezina軍曹を乗せると、危険で冒険的な飛行を行い、遂に味方の勢力圏内 にある飛行場に着陸させたのです。 当然、この二人の操縦士が取った行為に対し、当局はこれを賞賛し、それぞれに2級と3級の英雄勲章を与えました。 これは、東部戦線で戦ったSlovakia空軍兵士に対する、最初の叙勲でした。 それから5日後、第12飛行隊のJozef Palenicek少尉率いる6機のAvia B.534戦闘機は、Gradzev近郊を制空と爆撃任務のため、 飛行していました。 この時、Martin Danihelys軍曹の機体が対空放火で損傷し、前線後方の敵勢力圏内に不時着せざるを得ませんでした。 と言うことは、即ち、彼が捕虜になる危険性がありました。 そこで、Gustav Kubovic軍曹と、Jozef Drlicka軍曹の両機が残り、後者がDanihelys軍曹を救うために、彼の機体の側に着陸し、 Drlicka軍曹の機体の主翼上にDanihelys軍曹を乗せたまま、離陸し、彼を安全な場所まで連れて行ったのです。 但し、そうそう上手いことが続くことは無かったり…というので次回。
眠い人殿乙です。 主翼上・・・
眠い人殿乙です。 保全age
すんまへん。 寝てたら書く暇有りませんですた。
眠い人慰安age
Slovakia軍の戦闘用航空機の最大の弱点は、燃えやすいことでした。 彼らは、しばしば地上からの対空砲火(幾らかは味方、Slovakia陸軍とかドイツ軍から)により、損傷を受けることがあったのです。 また、特殊なBiBoLi航空ガソリンや補充部品の欠乏に悩まされ、このためにエンジンに特別な改造を施さなければなりませんでした。 これらの要因により、徐々に残存航空機の数を減少させていきました。 さし当たり、第2飛行隊は7月25日の時点でKoniuszki飛行場から、Spisska Nova Vesに引き揚げざるを得なくなり、第1飛行隊、第3飛行隊についても、 その半数を引き揚げてしまいました。 他の飛行隊についても、長期間の派遣から徐々に撤退を行い、8月15日には第13飛行隊がTulczynからPiestanyに撤退し、その2日後には第3飛行隊の 残余の部隊が、NitraからKomarnoに撤退、第1飛行隊の残余の部隊と、第12飛行隊だけは残置され、Kiev正面に進撃する快速師団を支援していました。 つ〜こって、次はKievに於ける、第12飛行隊奮戦記について。
半月ぶり乙であります
ど〜やら、大日本絵画のOsplayさん休刊のようで。 やっぱ出版不況なんじゃろか。 どっかから、Peter Gosztony氏の著作出さないかなぁ。 『ヒトラーの外国軍』『赤軍 1917-1979年』『第二次大戦とハンガリー陸軍』 この辺、邦訳で読みたいでし…と今日は頭が痛いのでチラシの裏。
>ど〜やら、大日本絵画のOsplayさん休刊のようで。 マジですか・・・_| ̄|○
昨日某所にて力入れて調べまくったのと、休日出勤のためなかなか書けない。 気合いが足りんぞ、眠い人(ぉ。
>>492 私が訳そう!(来世に)
>>495 面白い!
マジャル語では写真の簡単な解説をしているだけなので,
翻訳エンジンにかければなんとなく分かるのではないかと.
499 :
495 :2005/09/03(土) 22:44:49 ID:xP5kQddR
>>497-499 色々紹介いただきありがとうございます.
これから拝見させていただきます.
>ブルガリア語がキリル文字系だったとは知らなかった。
キリル文字そのものっす.ちなみにモンゴルも.
東欧文学(邦訳のもののみ)はいっとき読み倒したなあ(遠い目……)
ギシュクラ・ヤーノシュ氏来ないかなぁ。 来られたら、結構、解読してくれるんだけど(他力本願。 >490の続きで、今回は第12飛行隊奮戦記…。 さて、1941年9月に入ると、Slovakia空軍の活動は絶頂を迎えます。 最初の半月、第12飛行隊は、Dnieper河の渡河を行うドイツ軍部隊から、Kiev北方60kmに位置するGornostaypolの橋の防衛を任されます。 9月7日、その橋の上空で、10機のAvia B.534戦闘機と、9機のI-16とで空中戦が繰り広げられ、この戦闘では自軍の損害無しで、2機のI-16を 撃墜しました。 翌日、3機のB.534と2機のI-16との空中戦になり、今回は1機のB.534が撃墜されました。 10日、3機のB.534が哨戒中、3機の"I-17"戦闘機(この機体は、最高速度480km/h超、20mmCannon砲を装備した新世代の戦闘機(LaGG-3、 MiG-3などの可能性が高い)と同じ空域で空戦となり、1機のB.534が大破しましたが、2機の"I-17"戦闘機を撃墜しました。 とは言え、これだけの奮戦に、第12飛行隊だけでは手が回らず、実際には、本土から第13飛行隊所属の10機のB.534が分遣されていました。 しかし、これらの機体も戦闘で疲弊し、3機が損失していました。 一方、快速師団を支援する第1観測飛行隊もまた、9月21日までにRudolf Galbavy少佐率いる7機のLetov S.328が最大級の戦果を挙げています。 彼らは、空爆により、Prosev〜Sofiyevka〜Glikoye〜Voronkovを結ぶ線の東方地域において、集結地に集結した800両の車輌を撃破したのです。 こうして、1941年の秋は概ねSlovakia空軍の旧式機材でも有利に過ごすことが出来ました。 次回は、概括などを少々。
>ギシュクラ・ヤーノシュ氏来ないかなぁ。 再建された世界史板ハンガリー・スレッドに声をかけてみますか? ただ,本人談によれば,ギシュクラ・ウールはmagyarに堪能では ないそうですが. (先のハンガリー渡航の際は,「旅の指差し会話帳」を持参したそうです). 保守age
うにゃ〜ぁ。 今週、来週は書けない罠。 そのうち、月一回ペースになりそうな。 >502 所沢氏 乙です。 とりあえず、件のスレのふいんき(←何故か変換できない)を見てから、声さ掛けてみるか どうか考えます。
そう言えば、この前、光人社NF文庫の日露戦争兵器集を読んでたら、二重帝国軍の 装備が結構、日本に見本として入ってたのですね。 意外です。
1941年秋の終わりに、最初に東部戦線に派遣された機体が引き揚げて来ました。 1941年10月26日には、最後の第1飛行隊(この部隊は僅かに3機のS.328に減少していました)と、 第12飛行隊(同じく4機のB.534戦闘機に減少)が、Sofiyevska基地からTri Duby、Piestanyの 両基地に引き揚げて来ています。 この年の派遣が一応成功裏に終わった背景には、赤軍の総退却と、I-15、I-153、I-16と言った 旧式機で無秩序に構成されたソ連空軍が挙げられます。 1941年7月から10月にかけて活躍したSlovakia空軍の兵士達は、自国の宣伝機関から、"tatranski orli" (タトラの鷲)という渾名を与えられ、その出撃回数は、東部戦線だけで3,275回を数え、殆ど損害無しに、 I-16を3機、"I-17"を2機、"Curtiss"を1機撃墜しています。 また、Slovakia空軍の操縦士は、対空砲火、敵機との戦闘で、修理が不可能であると明確に判明しない限り、 極力、機体を持って帰ろうとしています。 作戦行動中に帰還に失敗した唯一人の操縦士は、1941年9月21日のJ.Kalisky軍曹だけでした。 Letov S.328を護衛中、Rogozov上空で対空砲火によってまさかの撃墜を喫してしまいました。 しかし、S.328はこれを助けようとせず、結果的に連絡飛行隊が責任を追求されています。 てことで、次回は東部戦線夏の陣。
>>495 の壱番目をめっちゃテキトー訳.自信はありませんので,悪しからず.
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写真キャプション:
「ハンガリー式塗装されたT34で,写真裏面には balogh J.と書かれています」
写真投稿者が,他の人からの質問に答えて;
「この写真は自分(投稿者)自身のものです.
Mobil: 06-20-416-4504〔これは意味不明〕
父から譲られたもので,明日のために〔?〕うpしました.
当り前ですが,60年前の事を完全に思い出すのは難しくて,今でも
混乱していて,この戦車の写真でもそうです.
しかし,この写真を父が撮り,fel is maszhatott ra'〔この部分,
辞書ソフトでも不明〕
余談ですが,塔の頂上で,押印の色合いが,飾られてサインされています.
近くにいた,戦車や戦闘車両のハンガリー軍部隊が指揮していました.
父が上空を飛んでいて,沢山のT-34を見,尋ねるまでもない非常事態だと
分かりました.
つまり,ロシア軍がもう40kmまで迫っていると分かって,その戦車の
シルエットを見て興奮したのです.
見た場所はNadworna付近だったと覚えていました.
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繰り返しますが,訳の正確さには全く自信がありませんので,念の為.
508 :
495 :2005/10/02(日) 14:56:20 ID:???
とりあえず、関口君みたく暫く旅に出ます。 探さないでください(ぉ。 >506 乙〜。 >509 む〜ん、Nazi関係は大丈夫なんだろか。
保守。
>眠い人氏 例の返信,届いてますか? 念の為,こちらにて確認をば.あそこはなんだかエラーがわりとあるようなので.
とりあえず、今週もカキコ出来ず。 こんなことで飯野海運、ふと考え込んでしまふ秋の夜長。
保守
久々に…>505以来。 1942年夏、東部戦線駐留Slovakia空軍部隊は機材補充を本国で行いました。 1942年6月13日にUkraineを出発した部隊は、第1観測飛行隊、第11戦闘飛行隊の第一陣で、前者はLetov S.328を6機、 後者はAvia B.534が12機と相変わらずの機体です。 既に両機とも第一線で使えるものではなく、戦線後方でPartisan対策のための警備師団に協力して観測任務を実施する 任務に就くことになりました。 最初、両飛行隊は、Zitomir基地を根拠地にしていましたが、第1小隊(隊長:Frantisek Wagner大尉)では、連絡任務の 他に、対Partisan攻撃任務も追加されました。 これらの飛行隊は、1942年10月までにUkraineに残っていましたが、一旦本隊は本国に帰還し、連絡用の機体として、 第3飛行小隊のS.328残存機、フランス製Caudron C-445M Goelandと米国製Stinson SR-10C Reliantが本国〜Ukraine 間またはCrimeaとその後背地との連絡に用いられています。
東欧の国産やライセンス生産された戦車について詳しいサイトを ご存知ありませんか?
ださくの本でも買え。
某サイトの洪語訳と交互にやっておりますので,インターバル空きまくり.
例によって訳に自信はありまっしぇん.
>>495 www.netlabor.hu/roncskutatas/modules/myalbum/photo.php?lid=1102
▼城にあったニムロード〔訳者注:英国のニムロッド対空戦車〕に似た(もの).
投稿者:クリス
〔閲覧者コメントには有益な情報はなし.僅かにこれ↓くらい〕
▼オヂヴァート(webmaster)
そう,ボーヤイン Bo'lyain の,あるハンガーに止められているもので,
一目を引きます.
▼ケニグ〔訳者注 あるいはドイツ人で,ケーニヒかも?〕
そこへ通りかかることがありますが,私の知る限り,最大2週間(?)一時的に
置いてあります.たまたまボーヤインに置かれたものです.
〔訳者注:そんなわけで,そのページからは,この車輛の正体は
分かりませんでした.まあ,ただのニムロッドだったりして〕
>>516 以前は「河馬之巣」という素晴らしいサイトがあったのですが,現在
閉鎖中だとか.
しかも残念ながら,アーカイブによる閲覧も「不許可」.
まあただのニムロッド(英国じゃなくハンガリーだし)だと思うが。
あ,そうだっけ? どうも,正面装備はあまり関心がないもので.
とりあえず、質問スレで出てたので此処にて補足。 東欧に於いて、枢軸側で戦ったのは、ブルガリア、ルーマニア、マジャール、スロヴァキア、クロアチア、 アルバニアの各国。 上まぁ、このうち、アルバニアは、イタリア王国に併合されたのに等しいので、書くことはないわけですが…。 でもって、スロヴァキア、クロアチアは、分離前の国、即ち前者はチェコ、後者はユーゴスラヴィアの軍備 の一部を引き継いでいます。 スロヴァキアの場合は、解体時にスロヴァキア国内にあった、第3機械化師団の装備をそのまま接収し、 LT Vz.35軽戦車を50両と、OA vz.30装甲車を20両程度を中核に発足しています。 LT Vz.38軽戦車は、チェコ軍向けのもの10両を順次引き渡され、更に27両をCKD社に新規発注し、ラトビア 向けでその国の消滅に伴い、引き渡されなかったLT Vz.40軽戦車を21両買い上げました。 1943年までにこれらの装備は順次、ドイツから供給された中古のLT Vz.38を37両と、OA vz.30の後継として II号戦車(A〜Cの初期型の中古)、主力戦車として、III号戦車、自走砲としてマーダーIIIHが発注されますが、 1944年に起きたスロヴァキアの叛乱で軍隊は解体されました。 ちなみに、対戦車砲としては、シュコダの37mm砲が装備されています。
マジャールの場合は、最初はオーストリアの影響、次いでイタリアの影響が強く、小銃などの主要装備は オーストリアから導入しています(周辺諸国と折り合いが悪くてチェコなどの装備が買えなかった)。 周辺諸国と折り合いが悪いので、その装備は出来るだけ国産化する方針が立てられ、マンフレート・ヴァイス と言う日本の三菱重工みたいな一種の国策会社で生産が行われてます。 戦車については、まず、1935年にイタリアのL3軽戦車を導入して35Mとして国産化、これは150両が導入され ました。 主力戦車となったのは、スウェーデンが開発したランズベルク社のL-60軽戦車を、38Mとして輸入品のA20が 80両、国産品のB20が110両引き渡されました。 これは、独ソ戦の結果80両に対して火力増強が行われています。 また、対空戦車型が開発されました。 その後、新型主力戦車としてチェコのシュコダが開発したT-21中戦車を元に、40M/41Mが開発され、40mm ボフォース対戦車砲を備えた型が280両、75mm榴弾砲搭載の火力支援型が140両、このほか、長砲身75mm 砲を備えた型がありましたが試作に終わりました。 41Mについては、この車台を元に突撃砲型が開発され、70両程度が生産されました。 装甲車としては、英国のアルヴィス装甲車の発展型を導入し(設計者がマジャール人だったので)、100両程度 を生産しています。 このほか、損耗補充用にドイツから38(t)戦車、4号戦車などが導入されています。 他の国は別の機会に。
523 :
名無し三等兵 :2005/11/15(火) 18:11:16 ID:h/1i2JoP
保守
【卍】 ≦◎ ̄> [×] G\(〇!〇ウ \ <:>\ 我等が『ロシア解放軍』も語れ!
>521-522 初心者スレで質問した者です。ありがとうございます。 東部戦線で戦ったのだから、せめてT34 に対抗できる程度の火力を持つ車両か対戦車砲はないのかなぁ? と思ったもので。 読んでみると、トゥランが少々マシな程度で、ずいぶん寒いものなんですね……
>524氏 そう言えば、何処かに「幻影」があったっけ。 >525氏 基本的に、東欧各国はソ連相手に戦争をする予定はなかった訳です。 マジャールなんか、大戦に参加するか否かで、首相がピストル自殺しています。 とりあえず、ドイツの尻馬に乗っかってソ連に侵攻した時点では、未だボロが出なかった訳ですが、 ソ連が反攻作戦に出たときに、ブルガリアを除く各国とも大損害を出して撤退しています。 それで補充されたのが、ドイツ軍が使った中古とか故買品でして。 国産戦車が製造できたマジャールは随分恵まれている方なのです。
あうあう、貧乏暇無しでやんす。 閑話休題。 1937年版の児童百科事典というのを手に入れますた。 この中から、東欧関係の記述引用。 1.ポーランド (1)兵役制度 ポーランドは東を不倶戴天の仇敵関係で世界赤化を国是とするソ連に、西にはVersailles条約に不服、 国境改訂を強調し、再軍備宣言を行ったドイツに挟まれているため、国を保つには一切を犠牲にして国防 に努力せねばならず、3,000万の人口に対し、27万の常備軍を有し、その陸軍費は国家予算の半ば近くを 占める。 兵役制度は徴兵制度を採用し、壮丁年齢は20歳、予備役は40歳、後備役は50歳とし、兵役期間は一般兵 2年、騎兵、騎砲兵2年1ヶ月。 (2)兵力と編制 上述の通り、総兵力27万人で、このほか、準軍隊の(装備は寧ろ国軍に勝る)国境警備隊が約3万、警察隊 は32,000、税関監視隊が約5,600ある。 陸軍の編制は、軍団管区司令部が10、歩兵師団30個、3個旅団で編制された騎兵師団1個、独立騎兵旅団が 12個、野砲兵連隊が30個、特殊砲兵連隊が20個、飛行旅団3個、飛行連隊6個、戦車連隊1個。 (3)化学戦 化学戦については、小規模ながら完備し、研究、教育、特に国民に対する瓦斯防禦教育は注目に値する。 軍部の施設としては、陸軍省兵器局内化学戦課の下に軍用化学研究所があり、その下に化学戦学校と、瓦斯 教導学校がある。 民間施設としては、航空化学戦防護協会があり、会員数40万、国民瓦斯防護教育車輌(鉄道車輌)が約10両と、 同自動車約数十両で、毎年瓦斯防護週間を設け、民衆教育の普及徹底に努めている。
2. オーストリア 平和条約によって、その軍備を将校以下3万人に規制されていたが、その後密かに禁を破り、これを38,000に増加した。 1935年、ドイツの再軍備宣言に刺激されて、従来の6個混成旅団を、7個師団、機械化師団1個と航空機300機に編制を変え、 なおかつ、総兵力も7万人にすべく拡大中。 3. ハンガリー この国も、平和条約によって軍備の制限を受けているが、7個混成旅団、2個騎兵旅団を有し、総兵力は約35,000である。 4. ブルガリア この国も同様に平和条約による軍備制限国で、全兵力上限が2万である。 5. その他の諸国 ルーマニア:総兵力17万人 ユーゴスラヴィア:総兵力12万人 ギリシャ:総兵力6.5万人 トルコ:総兵力14万人 チェコスロヴァキア:総兵力17万人 リトアニア:総兵力1,9000人 ラトヴィア:総兵力25,000人 エストニア:総兵力15,000人
今日はとある試験で玉砕。 なもんで、カキコする気力無し。 次週までお待ち下さい。
530 :
名無し三等兵 :2005/12/08(木) 13:34:52 ID:t54wVpHt
>>528 ドイツに従属した枢軸国の将官を教えて!
よそで国防軍に吸収されて、活躍したオーストリア軍将官は教えて貰ったけど・・
あと、腰抜け元帥グラツィアーニの軍歴知ってたら教えて。
531 :
うえっはっはは :2005/12/12(月) 09:16:42 ID:7NdDV/iJ
いごfぬいgbhf08ひうb6tvr5ぬ。 」
あれから一月経ちました。 で、>515以来。 第11飛行小隊(Ivan Haluzicky少尉、次いでJan Dulla少尉、最後がMikulas Guljanic大尉)は、 相当長期間、Ukraineに取り残されていました。 この飛行隊は、1942年10月にOvruchに移駐し、1943年3月にはMinskに移駐しますが、相変わ らず、Partisan相手の作戦飛行と偵察を続けていました。 Slovakia空軍の隊員たちにとって、特にStalingrad戦の後の作戦は殆ど理解しがたいものとなり、 士気は低下し、B.534とS.328の少なくとも2機が脱走したことが報告されています。 これは、また、ドイツ人兵士たちが揶揄する文句、"Partisanen nummer zwei"(Partisanが二人いる) の理由の一つとなりました。 1943年8月、部隊はMinskからPiestanyに引き揚げています。
B.534とS.328で東部戦線。 きついなあ・・・
>534 やっと次回にエミール登場ですよ(ぉ
うみゅ、折角書きかけたのに、小林幸子に邪魔された。 明日仕切り直しなり。
1941年秋に、東部戦線の第一線から最後の飛行隊がSlovakiaに引き揚げてから少し経って、 Slovakiaの首都Bratislavaに滞在していた駐留ドイツ空軍司令部に対し、Slovakia空軍は繰り返し 使用機材の更新を依頼していました。 Yak-1、LaGG-3、MiG-1/3と言ったソ連の新型戦闘機が頻々と見かけられるようになり、それが 段々多くなってくるであろうと言う見通しの元、これらソ連新型戦闘機に対抗するためには、少なく とも1個飛行隊は、現在の機体よりドイツ製の優れた機体に更新し、訓練を積んで、最高の状態に 持って来ておく必要がある、と言う訳です。 その願いは、1942年2月25日に漸く叶えられ、18名のパイロットと、98名(一説には88名)の整備士が、 新型戦闘機、Messerschmitt Bf-109Eの転換教育を受けるため、DenmarkのKarup-Grave基地にある 戦闘機学校に派遣されました。 その指揮官にはSlovakia空軍で最も有能な指揮官である、Ondrej Dumbala大尉(彼は、1941年に早くも ドイツの二級鉄十字章を授けられた最初のSlovakia人のうちの一人)が任命されました。 厳しい訓練を終えて、1942年7月6日、彼等の殆どは帰国し、第13戦闘飛行隊を編成します。 機材は、1942年から翌年に掛けて、27機のMesserschmitt Bf-109E、内訳は、E-1/B、E-2、E-3、E-7、 E-7/Tropが各2機、残り17機がE-4と言う編成で、何れもドイツ空軍の第一線機材更新によって余剰となった 機体が、Slovakia空軍に引き渡されました。
昨日書くつもりだったのに、時間がなかった。
いつも乙ですー 次の書き込み、またーり待ってます
良スレッドにつき保守
乱立dat落ち予防
さて、新鋭機(苦笑)を渡された我らがSlovakiaの面々…。 1942年10月27日に、Ondrej Dumbala少佐(昇進した)指揮下の第13戦闘飛行隊の操縦士の面々が、 所謂、第一次転換訓練修了者として、Azov海に面した東部戦線の基地へ向けて、Piestanyから出発 しました。 その展開時点では、7機のBf-109E"Emil"(1機のE-3、5機のE-4、1機のE-7)が参加し、11月に入ると、 更に5機のBf-109Eが供給されました。 1943年7月にJozef Palenicek少佐率いる第二次転換訓練修了者が戦闘任務にとって変わるまで、 東部戦線で戦闘を行っています。 この間、1943年1月5日には、第13戦闘飛行隊はKerchから移動して、Maikop基地に移り、此処から 作戦行動に出ていました。 3月18日にはTaman基地に送られ、4月1日にはAnapa基地、9月に再びTamanに戻り、その後Kerch、 最後はBagerovo基地へと、即ち、独ソ前面の南部戦線で戦闘を繰り広げています。 この頃になると、最早Emilの供給は無くなり、1月5日からBf-109F-3に機種転換され、3月1日には、 更に新しいBf-109G-2が、同じ月の後半から月末に掛けては、ロシアに於ける最後の補給となる Bf-109G-4が引き渡されていきます。 けれども、これらの機体はSlovakia空軍のものではなく、ドイツ空軍のものを貸与されたもので、その 結果、これらの機体にはバルカンクロイツが塗装されていました。 Slovakia空軍の操縦士が使用していることを示すものは、僅かにプロペラスピナーのカバーに描かれた Slovakia国旗の色、赤、青、白に過ぎませんでした。
さて、続き。 第13戦闘飛行隊は、もはやSlovakia地上軍の支援に用いられることはなく、Otto Dessloch将軍指揮下の第4航空艦隊に 属するJagdgeschwader 52(JG52)の13(Slowkei)Staffel、所謂、13/JG52と称されるようになっています。 この飛行隊は、Crimea半島、Azov海、黒海のあちこちで、中でもKuban近辺で過酷な空中戦を繰り広げていました。 その任務は、迎撃戦闘と爆撃機護衛の両方で、警戒警報で飛び上がったり、地上軍も攻撃したりと正に八面六臂の活躍 でした。 1942年11月28日、Vladimir Krisko少尉と、Josef Jancovic軍曹の2人の乗った2機の"Emil"は、警戒飛行中に9機のI-153 に遭遇し、損害無しでそのうちの3機を撃墜しました。 これがEmilでの初めての戦果でした。 この戦場に出撃していたソ連の航空部隊は、第4、第5前線航空軍で、最初のうち、Slovakia人操縦士達に対して、旧式機 材と経験の浅い操縦士の組合せで立ち向かっていましたが、後になると、その機材は、MiG-3、Yak-1、LaGG-3、La-5、Spitfire、 Airacobra、Pe-2FT、Boston他の機材に更新され、それと共に、操縦士の腕前も上がって、Slovakia人操縦士達は苦戦を免れなく なりました。 次回は、第13戦闘飛行隊の戦闘総括について。
う〜ん、今週、来週と時間が取れない。 来週日曜に出没できればいいな。
チェコスロヴァキアは、当時世界第二位の規模の兵器産業を持っていた国 そこが作る戦闘機はまぁそれなりに使えるものであると思っていた昔 Avia B.534の画像を見るまで、色々と勝手な想像してましたねぇ 眠い人さんの次レスに期待
>545氏 でも、KPのキットの作りにくいことと行ったら(ぉ。 確か箱絵は、マジャールとの紛争で活躍するB.534だったりするんですよね。
う〜みゅ、世界史板の某スレで時間を費やしていたら、書けず。 そろそろ、東部戦線ともおさらばで、次回は本土防空戦の予定。
1番強いのは ドイツ武装SS外人部隊でちゅ
いくらなんでも下がりすぎです
550 :
名無し三等兵 :2006/02/09(木) 01:09:47 ID:??? BE:206593092-#
自分がAvia B.534の絵を初めて見たのは、I-153を打ち落としたシーンだったっけ I-153はWW2にはちと旧式なれど創意工夫が凄く、綺麗な飛行機だと思ってたから、 ショックだった 何でこんな飛行機に落とされてんだ そう思った時、I-153に思い入れている自分に気が付いたよ…
551 :
名無し三等兵 :2006/02/09(木) 12:34:25 ID:tuvQbnp5
ホシュ
>543の続きで。 第13戦闘飛行隊は、東部戦線から引揚げるまでに、凡そ2,000回の作戦飛行を果たし、210回の空戦(他の記録では204回または215回) に勝利したと考えられています。 一方、操縦士の戦死者は僅か7名…ですが、その中には、Joseph Drlicka軍曹(三級英雄勲章、二級鉄十字章授章者)、Jozef Jancovic 軍曹(三級英雄勲章授章者)の様なエースも含まれていました。 また、この飛行隊で最も成功を収めた操縦士は、Jan Reznak上級軍曹で、32機の確実、1機の不確実撃墜を記録し、ドイツ人から彼に対し、 二級鉄十字章、一級鉄十字章、そしてドイツ十字章金章を授与しました。 次いで戦果を挙げたのが、Jan Gerthofer中尉で、27機の確実、5機の不確実撃墜により、2級鉄十字章、1級鉄十字章を授与されています。 また、同じく2位になるのが、Izidor Kovarik軍曹で、29機の確実と1機の不確実撃墜により、2級鉄十字章、1級鉄十字章、黄金騎士戦功十字 章、ドイツ十字章金章を授与されています。 1位、2位と言った順位付けに関しては、ソ連軍機撃墜の数について、未だはっきりした資料がソ連側から示されていないので、未だ変動する 可能性があります。 第13戦闘飛行隊の戦果についても、戦果誤認など様々な理由で誇張していることが明確になっています。 それどころか、戦後に新生Czechoslovakia空軍発足時に参加したSlovakia人達がその戦果(と称されるもの)を声高に主張したこともあり、 正確な数が判りません。 不運なことに、第13戦闘飛行隊に関する活動記録と書類が失われてしまっているため、事実を確かめる術はとても難しい訳です。 けれども、その疑問に対する回答の一つとして、あるドイツ人歴史家が述べた様に、「戦闘機パイロットに関するスロヴァキア人の記録は、ドイツ人の 標準から見ても評価できるものである」と言う賛辞があることも事実です。 第13戦闘飛行隊は、1943年10月末まで東部戦線に留まり、以降、Slovakia本国に引揚げ始めました。 ロシア戦線での最後の勝利は、1943年10月23日、Gustav Lang軍曹によって達成されています。 で、次回は第13戦闘飛行隊の引揚げの要因についていくつかの考察をば。
クロアチアのウスタシばかりが有名ですが、セルビアにはファシズム的な団体が存在したのでしょうか? パヴレ公の摂政政治ではないやつで。
チェトニク?
あいや、チェトニクは結果として共闘しているけれど、元々王党派じゃないですか。 そういう連中じゃなくて、戦前のセルビアでアレクサデル王やパヴレ公の様な連中ではなく 真性ファシズム的な団体は存在したのかな、と思って。
>555 う〜ん、勢力は弱いです。 一応、1931年の内閣で法相だった、ディミトリェ・リョティッチ率いるファシスト団体、「協同体主義者連合」は ありましたが、選挙で殆ど支持を得られていません(全得票数の0.8%)。 次いで、1930年代の半ばの政治危機で登場したのが、ミラン・ストヤディノヴィッチで、彼の率いるユーゴス ラヴ急進同盟(JRZ)が1938年頃からファシズムに傾斜していっています。 こちらはリョティッチの様に埋没することなく、権力を握っており、彼自身、首相を務めています。 しかし、ドイツに過度に依存しすぎたことによって、国民の支持を失い、更に非セルビア人のと対立してパヴレ 公に解任されてしまい、パヴレ公が前面に出た訳で。
>556 ありがとうございます。それじゃ、チアノ日記に書いてあった彼への評価は妥当だったのですか。 更なる質問で恐縮ですが、占領政府のネディッチ将軍は政治基盤となる組織を持っていたのでしょうか?
>557 チアノの評価は妥当じゃないですかね。 Milan Nedichについては、"YugoslaviaのQuisling"と称する文献もありますから、 つまり、政治的基盤は一切持ってなかったか、あっても頗る脆弱なもので、それ でいて軍隊に於ける地位は高い為、占領ドイツ軍が利用しやすい人物だったと 言えるでしょうね。 今週はお休みでし〜。
>558 再びありがとうございます。ネディッチ将軍カワイソス
560 :
名無し三等兵 :2006/02/21(火) 06:44:53 ID:5Q+x0aYM
ハンガリーって空軍あった?
あった?と言われてもなあ・・・
562 :
名無し三等兵 :2006/02/21(火) 21:09:14 ID:x25aAo0b
保守
>560 このスレの上の方でマジャール空軍については幾つか触れてますよ。 来週までごきげんよう。
>552の続き。 第13戦闘飛行隊がSlovakia本国に呼び戻された理由ですが、主な理由の一つには、 数人の操縦士が、ソ連側に寝返った事が挙げられます。 特に、StalingradとKurskでの第三帝国とその同盟国の大敗北によって、彼等には、 枢軸国側として戦うための意義が見いだせなくなり、戦意を喪失していきました。 1943年9月9日、Kuban上空を哨戒飛行していた2機のBf-109G-4…Anton Matusek軍曹 (彼は僅か1週間前に一級鉄十字章を授与されていた)とLudovit Dobrovodsky軍曹が 操縦していた機体…は、無線でソ連機と衝突したと伝えた後、ソ連側に亡命し、後に ソ連でLa-5FNの操縦教育を受け、Slovakiaの叛乱での戦闘に参加しています。 また、1943年9月11日には、Alexander Geric軍曹が、Stefan Martis曹長と共にドイツ軍の Fw-189偵察機を護衛中に戦線を越えてしまい、帰還に失敗したとされました。 実は、彼等は元々の計画で、この偵察機を撃墜する予定でいましたが、その攻撃に失敗 しました。 しかし、Stefan Martis曹長がAnaba着陸後に、ソ連軍機によって攻撃を受けたと報告した上、 Alexander Geric軍曹のBf-109G-4が撃墜されたとしています。 Moscow放送すら、そのGericの撃墜について触れ、撃墜したパイロットは勲記を受けたと していました。
実際は、Geric軍曹機の胴体内には、無線修理兵のVincent Tkacik一等兵が同乗しており、 彼等は共にソ連の地に亡命していました。 Tkacik一等兵は、ロシア人達にとって未だ秘密の塊だった通信基地設備のエキスパートで、 彼の情報はソ連軍にとっても有用だった様です。 1944年にAlexander Geric軍曹は、諜報任務のためにソ連からSlovakiaに戻ります。 そして、1944年8月29日、彼はPraga E-39で、Illava北方に飛行するため、Piestanyを離陸し ますが、失敗して死亡しました。 1943年9月11日に発生した事実が発覚すると、遂に、Ferdinand Catlos将軍を第13戦闘飛行 隊の司令に任命し、部隊は、「士気の低下」を撤収の理由としましたが、実際は、Slovakia駐留 ドイツ空軍作戦司令部の命令が下ったためで、10月までにVajnoryに撤収を完了しました。 撤退後は、Emilが5機、Slovakia空軍の所有物として引き渡され、1943年に引き渡されたGustav は、全機がドイツ空軍で用いられ、失われました。 このため、最新の機体が、新たに飛行隊に供給されています。
568 :
名無し三等兵 :2006/03/07(火) 11:48:56 ID:gFlA2nh2
ドイツに 東方なんとかっていう部隊あったな 大東亜特務隊 の事ではないよ
>568 Peter Gosztony氏の「ヒトラーと外国軍」邦訳頗るキボンヌなんですけどねぇ。 守屋さん忙しいのかしらん。 さて、空軍の撤収は前に書きましたが、陸軍も同時期に東部戦線から撤収しました。 当初、「快速師団」、「保安師団」と言う2個師団編成となっていましたが、度重なる消耗で、 機械化部隊も歩兵師団化されてしまい、名称も、第1、第2歩兵師団となっていました。 こちらも、その撤収までに、総兵力16,000名のうち、前線を去ってソ連側に投降する兵が 続出し、その数は3,000名に達しました。 このため、1943年11月には、残った兵員で、脱落したイタリア軍の装備を接収して、第1、 第2機械化師団に再編成し、本国に戻されました。 こうして、東部戦線からSlovakia軍はいなくなりました。 てことで、キリが良いので、今回は此処まで、次回からは米国相手の本土防空戦について。
保守
いかんなぁ、落ちるペースが速くなってる。 さて、今回から対米戦。 1944年からイタリア南部を基地にした第15空軍の空爆標的としてSlovakiaが挙げられるようになります。 Slovakiaの空爆目標には、首都Bratislavaの精油所、Dubovaの石油貯蔵施設、Dubnice nad Vahomその他の 兵器工場があり、Slovakia空軍は、その状況に対する早急な対応をしなければなりませんでした。 東部戦線から撤収後した第13戦闘飛行隊(Vladimir Krisko中尉、彼は東部戦線で9機を撃墜したエース、が 指揮官になりました)は、Vajnoryに基地を置き、1944年2月からはPiestanyに移駐しました。 その任務は、首都Bratislava近辺の拠点防空であり、このため、Emergency Flightと非公式に呼び慣わされる 様になりました。 けれども、その機体は旧式化しており、12人の操縦士に14機の機体が配属されてはいますが、2機のBf-109E-1/B、 1機のE-2、1機のE-3、6機のE-4と、1機のE-7/trop、更に2機のAvia B.534と1機のBk.534だったりします。 その飛行隊の本土防空戦に於ける「初撃墜」は、Danubeに不時着させたもので、1944年3月13日のこと、緊急警報により 出撃した、2機から成る警戒飛行隊のうちの1機、Rudolf Bozik曹長が、ドイツ空軍II/ZG1の「双発機」Bf-110G-2を攻撃し たものでした。 この駆逐機は、接近してくる2機のEmilをP-51と誤認し、攻撃したので、その結果として、Rudolf Bozikは、これを撃墜し、 後に、「米国の『四発爆撃機』を撃墜した!」と報告した不幸な事故だったりします。 てことで、いよいよ対米戦本番の開始。
>572氏 そりゃ、攻撃されたら、撃墜しますわな。 ま、「不幸な事故やってん」で済ませられただけ、幸いなところがありましたね。
さて、ポンコツと言っても良い機材で編成された、Slovakia空軍第13戦闘飛行隊ですが、これらの機体は、 漸く、ドイツ本国から供給された14機のBf-109G-6で代替されることになりました。 この部隊は、Wienにある、ドイツ空軍本土防空戦闘機隊の一部隊である、Oberst Gotthard Handrickが指揮 するJG8の配下にある予備部隊としての位置付けをされています。 1944年春にそのBf-109G-6群は、莫大な数の米国爆撃機に対して、毎日の様に迎撃戦闘任務を行っていま したが、実際は人目に付かずに訓練を実施すると言う名目で、万一戦闘に巻き込まれたとしても、それを回避 することになっていました。 と言うのも、その機体と乗員たちは、来るべきドイツに対する叛乱の為に温存しておくべきだと判断されたから です。 その叛乱計画は、Slovakia国防相のFerdinand Catlos将軍が陸軍の参謀達と計画していたものとは別個に、 Jan Golian大佐が計画していたものでした。 ですから、BratislavaにいたSlovakia駐留ドイツ空軍作戦本部の将校達は、Slovakia空軍の飛行が消極的だ と言ってSlovakia空軍の部隊を非難していました。
反乱の為にグスタフを温存ですか・・・
保守。
気がついてみれば、このスレが軍板最古参スレだったんですね。 いや、月日の経つのは早いもの。 てことで、今日はお休みです。
578 :
名無し三等兵 :2006/04/05(水) 11:48:42 ID:fwgKlGAR
ガンバレ
1944年6月26日午前、第13戦闘飛行隊のMesserschmitt Bf-109G-6戦闘機8機が、Wienを目標にした護衛戦闘機隊と強力な 爆撃機隊を迎撃するために離陸しました。 そのSlovakia人操縦士達を率いる指揮官は、その飛行隊の副司令官の職を辞したJuraj Puskar中尉(彼は、東部戦線に配属 され、150回以上の戦闘出撃と5機の確定撃墜を成し遂げた猛者です。)でした。 Juraj Puskar中尉は、第459爆撃機集団のB-24などが、Nove Zamky空域に到達し、西方のBratislavaに向け直進した時に 初めて攻撃命令を下しました。 Gustav Lang曹長がまずB-24を撃墜し、Juraj Puskar中尉とStefan Jambor曹長がそれぞれ1機のB-24に損害を与え、 Rudolf Bozik曹長が1機のB-17に損害を与えました。 けれども、護衛の任に就いていた第52戦闘飛行隊のP-51と第82戦闘飛行隊のP-38が戦闘に介入し、Slovakia戦闘機隊の 少ない機体より遙かに強力な戦力によって、多くの犠牲を支払う羽目になりました。 つまり、僅かな時間で、5機のMesserschmitt Bf-109G-6が破壊され、2機が致命的な損害を受けたのです。 Juraj Puskar中尉、Gustav Lang曹長、Stefan Jambor曹長(少なくとも彼は機体から脱出後、パラシュート降下中に空中で、 P-51に射殺されました)が空中で散華し、Pavol Zelenak曹長は、不時着後、その傷が元で死亡しました。 殺された3人の操縦士たちは、何れも東部戦線で輝かしい軍歴を持ち、Slovakia空軍にとっても至宝と呼ばれる人達で、 Slovakiaの3級英雄勲章やドイツの十字章金章を持つ人もいました。 これにて、実質上、Slovakia空軍に於いて最も成功した飛行隊である第13戦闘飛行隊の戦歴は、装備機の殆どを失った ことにより事実上終焉を迎え、米軍に対する攻撃も以後遂行出来なくなりました。 従って、その後のドイツに対する叛乱の際には、新型機Gustavは非常に少数の機体が使われたに過ぎませんでした。 てことで、次は大海嘯…じゃなかった、Slovakia国家の崩壊する大寺院(ぉについて。
とりあえず、変な流れになっているので、予防のためにsageカキコ。 来週は無理そうだし。
581 :
名無し三等兵 :2006/04/15(土) 21:51:46 ID:D+3rTzIa
語るならスロバキアよりフィンランドでしょう
スオミは北欧
フィンランドはかなり語られている。 スロバキアは寡聞にして聞かない。 ので、スロバキア大海嘯、希望。
寝坊した(謎。 1944年春、独ソの前線は、遂にSlovakiaへと到達しました。 これにより、Fascist体制から国の解放を願い、対ドイツ叛乱首脳部は計画を加速します。 まず、Augustin Malar将軍を司令官とし、第1、第2歩兵師団を核に編成された、東部Slovakia軍団が Slovakiaの東部国境に送られました。 当初計画では、この部隊は35,000名以上で編成され、ドイツ軍北方ウクライナ軍集団を支援して、 Carpathia山脈の防備に用いられる予定でした。 実際は、赤軍が現れると同時に、そっくりそのまま寝返って、国境線を開き、赤軍の指揮下でSlovakia 全土の速やかな占領に協力する予定にしていました。 東部Slovakia軍団の支援航空兵力としては、新編された航空軍集団に委ねられました。 その戦力は、40機の航空機、550名の兵員、57名の操縦士から編成されています。 この小規模な航空隊は、Julius Trnka少佐を隊長に、1944年7月27日から8月3日にかけて東部Slovakia に配備されました。
編成は以下の通りです。 第1偵察飛行隊(隊長:Rudolf Galbavy大尉) ZlinaからPresov近郊のIsla飛行場に移駐。 装備機: Focke-Wolf Fw-189A-2 6機、Praga E-39 2機、Klemm Kl-35D、Fieseler Fi-156C 各1機 第2観測飛行隊(隊長:Jan Fratric中尉) Spisska Nova VessからHrabovec飛行場に移駐。 装備機: Letov S.328 12機、Klemm Kl-35D 2機、Praga E-39、Focke-Wolf Fw-58B、Fieseler Fi-156C 各1機 第12戦闘飛行隊(隊長:Jozef Palenicek大尉) Spisska Nova VessからNizny Hrabovec飛行場に移駐。 装備機: Avia B.534 5機、Avia Bk.534、Praga E-39、Fieseler Fi-156C-1 各1機 この飛行隊には後に、1944年7月26日の米軍との空戦で壊滅したPiestanyの第13戦闘飛行隊から、 Messerschmitt Bf-109G-6が4機、Islaに移駐し、補強戦力として配備されています。 このほか、航空軍集団には、3機のLetov S.328と、3機のJunkers Ju-87D-5がPopradとSpisska Nova Ves に補充され、予備戦力となりました。 こうしてSlovakia空軍に於いて、航空軍集団は最高の機材を持つことになり、残ったのは、実質上戦闘に 耐えない旧式機が残るだけとなりました。
と言う訳で、次回は崩壊の序曲に…。
ほうかい
40機で航空「軍集団」ってなんかすごい……
ここでする話ではないかもしれないのですけれど、
軍事板FAQのブルガリア海軍の項を読んでいて、疑問に思った点があります。
1930年代に取得した「S2」級の魚雷艇4隻「F1」〜「F4」というのは、
ドイツ海軍で「S2」〜「S5」という呼称だった艇そのものですか?
実は、スペイン海軍について調べているのですが、
その中で、「S1」〜「S6」が、フラン狐軍に譲渡されているという話を見つけたのです。
うち「S2」級の4隻は、1936年11月頃〜1939年2月に引き渡され、
旧「S2」の「Falange」は内戦中に喪失。
残りは「LT11」〜「LT13」として、内戦後まで使われて、1946年頃に除籍というのですが。
参考
オスプレイの「ドイツ海軍のEボート 1939‐1945」
ロシア語のサイトから、
ttp://www.almanacwhf.ru/?no=8&art=10
>589 ん〜、誤訳ですねぇ(苦笑。 確かにSpainにS1〜6が引き渡されています。 でもって、1940年に二代目のS1が引き渡され、1943年に二代目のS2〜S5 が引き渡されています。 二代目のS1は、本来Bulgaria海軍のF5となるべきものだったのですが、 戦争勃発と共にドイツに売却され、これが二代目S1としてドイツ海軍に 就役しました。 S2〜S4については、S2がVelebit、S3がDinara、S4がTriglav、S5がRudnik、 何れもYugoslavia海軍が、1936〜39年に掛けてLurssenで建造したSボート で、1941年にItalyに接収され、1943年のItaly降伏で自沈したものを引揚げ たり、捕獲したものです。 ど〜こで電波を受信したんだろ。
初代 S1:独→西 S2〜S5:独→西 二代 S1:(ブルガリアF5)→独 S2〜S5:ユーゴ(Velebit他)→伊→独 で、別にF1〜F4(初代S2級)は、ブルガリアに無事直行ということでしょうか。 ややこしくて、東欧らしい気がしますw
またドナウ川が大変らしいので土嚢で保守。
今週、来週と、暇がない訳で…うう。 来週日曜が早く終わればカキコ出来るけんど。
下がりすぎているので浮上させてみる。
596 :
名無し三等兵 :2006/04/25(火) 23:43:59 ID:1dZLLgLt
保守
597 :
名無し三等兵 :2006/04/26(水) 00:52:30 ID:dbIwjstg
ブロンベルク事件にオレが最初にであったのは、7〜8年前だと思うけど図書館でみた本だった。 題名は覚えてないし、当時はあまりそんな強い印象もなかった。 当時覚えていた内容を思い返すと、1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻直後だった。 第一次大戦後、ポーランドに奪われた西プロイセン地方に住むドイツ系住民百万のその後の運命だった。 その日は、日曜日で教会の礼拝に行く途中のドイツ系住民の婦女子に、ポーランド人がこん棒や、斧などもって 襲い掛かり虐殺した。 そのことだけが記憶に残っていた。 最近になって出会ったのが「世界戦争犯罪辞典」でたまたま新橋の本屋で見て、この項目が載っていた。 開戦前から、ポーランドは国内のドイツ系住民に弾圧を加えていたが(結局は、それがヒトラーの望んでも居なかったが結果として ポーランド撃つべしとプロイセン系将軍から突き上げられたことは容易に想像できるが)それが開戦の大きな要因であろう ことは容易に想像できる。 9・3にドイツ軍が迫っているとして、地元のポーランド警察や一般のポーランド住民、はては敗残のポーランド兵も 加わって、武器や無線機などかくしていないかどうかを調べると言って、ドイツ系住民の家に押し入り、暴行、殺人、強姦、略奪、放火をはたらいた。 このことは戦後も1960年末にいたるまで調査がおこなわれ、当事者、目撃者の尋問により、当日虐殺されたドイツ系住民の名前3841人を割り出した。 そのリストに載っていないものを考慮すると4000〜5000人にのぼる。 イェドワブネよりも虐殺規模はおおきい。 しかし、敗戦ドイツには何も言えない。 イェドワブネのユダヤ人殺しの件を聞いたときも、ポーランドのブタ野朗と思った。 やったことよりもそれを隠し、しかもその罪を敗戦で何もいえない ドイツになすりつけること自体卑劣国家だと思った。
ageると↑斯ういう人が出て、板が荒れるからヤなんですよねぇ。 すみませんが、ポーランドは世界史板にそれ専用のがありますから、そっちで やっていただけませんかねぇ。
下げておきましょう・・・
やたらとドイツの肩を持ちたがる奴がいるから困る。
ドイツもポーランドもソ連も好きな俺が来ましたよ
大昔のモデルグラフィックス誌にポーランド軍戦記が 連載されていた事があった。 ワクワクしながら読んだもんだ。
たまにはルーマニアのことも思い出してくださいね。
順調に停滞中…orz >603氏 Slovakiaがはねたら、次はI.A.R.80シリーズに行きましょうかね。
>>604 >次はI.A.R.80シリーズに行きましょうかね
是非とも。
>585をよく見ると…。 ああ、第2観測飛行隊にJunkers W.34が1機抜けてた(笑。
上げておこう
現役最古スレ保守
さて、>585の続き。 抵抗運動を準備し、それを成功ならしめる為にも、軍首脳と高位の政治家の双方が人を出して、ソ連政府と赤軍高位レベルと接触し、軍、特に空軍の支援を 仰ぐ必要がありました。 1944年8月3日、LS-SVZの一部である青年航空学校の指導教官であったLudovit Koza大尉の操縦するHeinkel He-111H-10がTri DubyからVinnicaに向けて 飛び立ちました。 この機体には、彼ら乗員とは別に、2名の高位高官が乗っており、彼等を無事にソ連側に派遣しています。 2日後、Mikulas Lisicky少佐とその乗員が操縦するFocke-Wolf Fw-58Bが、ソ連中央軍のロシア人と非合法のSlovakia国家委員会の委員2名をSlovakiaに 迎え入れる為に、Mokrad'からChortkovに向けて飛行しました。 1944年9月4日、この頃には既に叛乱が開始されていましたが、Viliam Grun中尉が操縦するSavoia-Marchetti S.M.84輸送機が、Partisanの指揮官と軍の代表 を乗せて、Mokrad'からKievに向けて飛行しました。 このほかの機体も屡々、ソ連側との連絡に用いられています。 Focke-Wolf Fw-189A-2がTrencianske Biskupiceより、Junkers W.34がPopradより、Klemm Kl-35DがPresovより、各々連絡飛行に携わっていました。 さて、次回は愈、叛乱に至る過程をば…。 ただ、来週は旅行中なので再来週かなぁ。
ノシいってらっしゃいまし
ほ
酒保
う〜ん、今日は保守がてら原稿書いてから行こうかと思ったのですが…。 ドイツ軍の部隊名とか出てきたので、それを調べているとカキコする暇がござんせん。 1944年当時、Slovakiaに展開していたドイツ軍部隊名ぷりぃず。
>>613 >1944年当時、Slovakiaに展開していたドイツ軍部隊名ぷりぃず。
高橋慶史氏くらいしか、わからないのでは・・・
>>613 1944年当時の部隊名がわかれば当時の所在がわかる本を持っているが
逆引きは難しい。
民衆蜂起でのシルくらいしか判らないね。。
ユダヤ人問題を調べていて見つけた,戦時中の日本とポーランドの諜報協力について. 情報分野での日本とポーランドの協力は,20年代初頭に始まっており, 濃淡の差はあったものの,戦争終了まで続いた. 1930年代半ば以降,日本は東欧の状況に鑑み,パリ,ベルリン, ワルシャワの大使館武官部を教化してソ連情報を収集することになった. 日本はポーランドの協力の下,ヨーロッパ北東部をカヴァーする情報網を 築き上げた. その中心はストックホルムにあり,中心人物は小野寺信武官だった. アメリカのヒレル・レヴィンが,「ヨーロッパ抜群の情報専門家」と呼んだ 男である. この情報機関の指令により,杉原千畝はカウナスに領事館を開設した. ドイツがケーニヒスベルクの日本領事館開設に同意しなかったための 代替地だった. 杉原が受けた訓令は,ドイツ軍がソ連に侵攻するか否かを探れという ものだった. 外務省では,杉原はヘルシンキで短期間,公使代理の職にあった他は, 単なる書記官・翻訳官に過ぎなかったため,当初この人事に首を傾げた. 他方参謀本部は,カウナスでの情報活動をできるだけ目立たない形で 進めることを要求していたので,外務省としても上級職の外交官を派遣する ことには抵抗があった.
杉原は周到に関係を築き上げていたので,すぐ情報活動を始めることが できた.前の赴任地,ヘルシンキでポーランドの地下運動関係者とのコネを 作り上げていたのである. その中にヤン・ペレツ少尉ことスタニスワフ・ダスキエヴィッツと, ボレスワフ・ロツイキがいた.2人はミヒャル・リュビオコフスキイこと R大佐の秘密グループに属していた. R大佐はポーランドの軍情報機関の指導的人物で,杉原の貴重な 情報提供者となる. 彼に近い連絡役は,ジェルジ・クンセヴィッツ大尉こと アルフォンス・ヤクビアニッチ,別名クーバで,これも杉原の任務にとって 重要な人物となる. 杉原は領事の地位を利用して,彼らに日本や満州国の旅券を発給してこれに 報い,後には通過査証を発給して,ポーランド系ユダヤ人の逃走を可能にする こととなる. ポーランドの情報機関にとっては,杉原に軍事情報を供与する見返りとして, 日本の外交ルートでロンドンの亡命政府との安定した連絡を確保することが 重要だった. しかし,カウナスの領事館は1940/4/29閉鎖. 杉原は1941年9月,プラハに赴任. その後の1941/3/6,彼はケーニヒスベルクに着任. 両地での主たる任務も,ドイツ軍とソ連軍の動向を探ることだった. 杉原はここでもポーランド情報機関と協力した. その何人かは彼の仲介で,ベルリンの満州国大使館または日本大使館から 満州国の,時には日本の旅券まで手に入れた. ゲシュタポは,彼らから見ると胡散臭い杉原の同行を観察していたが,手が 出せるわけではなかった. しかしドイツ側にとっては,ポーランドのスパイが日本に 協力しているだけでなく,敵国であるイギリスにあるポーランドの 亡命政権にも情報を送っていることが気に入らなかった.
ケーニヒスベルクはナチスの牙城だった. 東プロイセンの首都であるこの街の市長は,SSの北東地域本部長でも あったが,カウナスの公使館から杉原についての情報を入手していた. 彼は,杉原が情報活動をしていることにつき外務省に抗議したが, 杉原のほうは1941年6月初め,とっくにドイツ軍の大規模な集中と 物資輸送について東京に報告済みだった. 6/22,バルバロッサ作戦開始. ポーランド協力者は定期的に領事館を訪れ,最新情報をもたらす. しかし外務省は,これら情報には懐疑的だった. 戦争が進むにつれて,杉原の行動の自由も狭められる.ゲシュタポは,彼は 外交官であるよりはスパイだと見ており,追い出そうとする. 翌年9月,東部戦線の状況のために領事館は閉鎖され,ドイツ側は目的を 達する. なお,1941年12月以降,形式的には日本はポーランドと戦争状態に あったにも関わらず,複数のポーランドの暗号専門家が終戦まで関東軍に 勤務していた. 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」 (芙蓉書房出版,2004/1/20),p.135-136, 140-142, 151-153を参照されたし.
>>617 小野寺武官については奥様の小野寺百合子さんが著書を
書いています。
「バルト海のほとりにて」
諜報活動が良く判ります。
>609の続き。 一方、現実主義的なドイツ人達は、東部Slovakia軍の叛乱の失敗を冷徹に見ていました。 それ故に1944年8月末、"Kartoffelernte mit Praemie"作戦…Enno von Rintelen大佐指揮の突撃隊と、 後方警備部隊から構成された第531戦闘団が、第24機甲軍の支援を受け、Slovakia軍の抑留と武装 解除を実施したのです。 その結果、僅か2,000名程度の兵士たちがその追及の手を逃れるに過ぎず、彼等は随時Slovakiaの中央 部に移動していくことになりました。 このドイツ軍の対応から、Slovakiaの作戦計画は大きな影響を受け、その結果、Slovakia空軍の兵士の 大多数も、1944年8月31日早朝にIsla飛行場からソ連への亡命飛行を選択します。 その企てで、26機の航空機、その内訳は残存したLetov S.328が7機、Focke-Wolf Fw-189A-2が6機、 Avia B.534が3機、Messerschmitt Bf-109G-6が2機、Klemm Kl-35Dが2機、Bk.534、Fi-156C、Fw-58B、 Fw-44、E-39、W.34がそれぞれ1機となっています。 これらに搭乗した81名の空軍兵士達は、Livov周辺に飛行しますが、このうちの何機かは、第15親衛"Stalingrad" 前線戦闘航空軍の戦闘機や対空砲火で失われています。 この大脱走の結果、Slovakia空軍は優秀な人員と機材を失うことになりました。 ただ、不幸にも、一部の空軍兵士達には叛乱が別の方法で知らされ、Slovakia中央との連絡も絶たれ、 Banska Bystrica基地とTri Duby基地の機体は1944年8月29日の時点で総て破壊されてしまいます。 このため、Tri Duby基地には航空軍集団の機体が展開し、大規模増強が図られることとなりました。
>614-616氏 消印所沢氏 いあ、Slovakia語の本なのですが、ドイツ軍についてはドイツ語で書かれてイマスタので、今回の 部分は、本当に日本語訳が適当かが不明な訳で。 特にEnno von Rintelenが本当に突撃隊を指揮していたのか、"Korueck"(ueはドイツ語のu¨)が 果たして戦闘団という訳で良いのかどうか…。 本当にドイツ語はちょっとしたトラウマがあって、得手ではなく辞書と首っ引きで調べましたけど、 自信Nothingであったり。 と言うことで、来週土曜日以降、8月のは未遂に終わりましたが、10月の大規模叛乱について 進んでいく、と。(そう言えば、チェコスロヴァキアのフサーク大統領の著作にもこの辺があった 気がした)
624 :
名無し三等兵 :2006/05/22(月) 16:55:22 ID:PnqupEMB
ほしゅ
保守はsageでも可能。そして軍板の圧縮ラインは740で、毎日平均 十スレ強増えてる現状では総スレ数が720くらい(現時点で673スレ) になるまでは保守不要。更にここんとこの圧縮落ちボーダーは 書き込み無し一週間程度。
なんか上の方にお馬鹿が来て荒らしているようなので、ちょっとカキコ。 来週はちょっと忙しいのでカキコ無し。
保守
で、結局今日はカキコミリダターリ。
保守
>622の続きだから、今回から叛乱。 1944年8月29日、ドイツ軍は宛にならないSlovakia保護国の直接統治域のいくつかを占領下に置きました。 同時期、Slovakia陸軍は、連合国の一部であるCzechoslovakia陸軍の一部であることを宣言し、ドイツ軍に対する抵抗戦に入ります。 叛乱した陸軍は、1944年10月には5万の兵士と7,000のPartisanで構成され、Jan Golian大佐(後、准将)と、後に彼の後を継いで、師団 長だったRudolf Viest将軍が就任します。 なお、Viest将軍はCzechoslovakia併合後、Londonに亡命し、Moscowを経て着任しました。 てことで、次回は空軍の動きなぞ。
631 :
名無し三等兵 :2006/06/10(土) 13:08:15 ID:kMKG0fH+
懲りずにほしゅ
さて、叛乱空軍は、ZvolenとBanska Bystricaの間に位置するTri Dubyに集中配備していました。 それまでこの基地は、青年航空学校、整備学校、操縦学校と言った航空関係の学校から来た生徒を、Slovakia空軍兵として 訓練する空軍飛行学校が設置されていた場所でした。 可能な限り、Slovakia空軍兵士(偶にはその乗機も含んで)達は、Vajnory、Piestany、Trecinなどの残存Slovakia空軍基地から この基地めがけて集まって来ました。 それに加えて、残置されたMokradの航空補給部隊、また、Popradの第41爆撃飛行隊から、叛乱初日の占領ドイツ軍に対する作戦 任務に従事した後、Tri Dubyに移動したLetov S-328が数機…元々、これらは混成航空団の機体、但し、この機体は既に用途廃棄 になっていた旧式機でしたが…増加しました。 こうして増えた混成航空団の構成は、Messerschmitt Bf-109E-4が2機(但し、弾薬は欠乏している)、Avia B.534が4機、Letov S.328 が7機、Savoia-Marchetti S.M.84bisが2機、同S.M.84が1機、Focke-Wolf Fw-58Cが2機、Junkers Ju-52/3mが2機、Caudron C.445M が2機、Junkers W.34が2機、Klemm Kl-35Dが2機、Praga E-39が6機。 このほか、操縦訓練学校のFocke-Wolf Fw-44、Heinkel He-72、Gotha Go-145も加わっています。 こんな状態であるため、混成航空団は1944年9月初旬から、以前航空戦闘団の基地にあったMesserschmitt Bf-109G-6を2機、 Letov S.328を2機、Focke-Wolf Fw-189A-2を1機、それぞれ整備の上、ソ連を通じて引き渡して貰っています。 それでも、いくつかの機体は、弾薬と予備部品の欠乏で早々に失われ、それ故に、機体は少数であり、戦闘に必ずしも適切な 戦力投入が出来ませんでした。
>632の続き。 混成航空団の指揮官は、Miklas Singlovic中尉(後にVladimir Krisko中尉)で、彼の下に、25名の操縦士と12名の機上偵察員、 そして、12名以上の地上要員から成っていました。 また、彼等に混じって、旧Yugoslaviaの2人の操縦士が所属していました。 1人は、Arsenije Bolievic少佐(Yugoslavia王国空軍第34戦闘飛行隊)とSavo Poljanec大尉(同国空軍第161戦闘飛行隊)の2人 ですが、彼等はドイツ軍の捕虜収容所を脱走して:、Slovakiaに入ったところで、叛乱に遭い、彼の国の空軍に身を投じたものです。 なお、叛乱空軍の総司令官は、Jozef Toth大佐でした。
保守
来週は多分ミリ。 叛乱初日から、混成航空団は基地周辺を防禦しつつ、ドイツ占領軍に対する攻撃、 宣伝ビラの散布、安全な連絡手段の提供、包囲された味方への補給などを行って いました。 これらの任務は、主にS.328、B.534、Bf-109G-6が担っていました。 混成航空団の航空機は、戦闘中に損傷を負ったり、時には乗員が怪我をした状態で 帰還することも屡々でした。 その整備士達は、これらの機体を維持し続けるために戦闘による損傷を修復するのに 一生懸命に働き続けました。 また、彼等は夜間の間中ずっと、ソ連軍の輸送機であるLisnov Li-2やDouglas C-47 から補給品や武器をTri Duby基地に荷下ろしする任務に就かなければなりませんでした。 他の航空兵や飛行学生達は、凡そ1,200名に達しましたが、彼等に行き渡るくらいの機体が 十分に無く、歩兵部隊としてドイツ軍相手に勇敢に戦いました。 これらの歩兵部隊は、3つの歩兵大隊…これらは、Ivan Haluzicky大尉、Daniel Kunic大尉、Teodor Slajchart大尉の 3名の士官の指揮下にありました…と、3つの歩兵中隊…これらは、Mikael Minka中尉、Juraj Mesko中尉、Jan Zubrik 中尉が指揮していました…で構成されていました。 ちなみに、彼等の部隊のことをドイツ人達は、「青い悪魔」と呼んでいました。 つことで、次回はドイツ部隊の反撃編。
本日はやっぱ、ミリダターよ。
保守
重巡ヴラド・ドラクルを従える超弩級戦艦フニャディ・ヤーノシュ・・・
639 :
名無し三等兵 :2006/07/01(土) 06:50:04 ID:4m86llKt
age
>635の続き。 ドイツ空軍は、屡々好機を見て、Tri Duby基地に空襲を掛け、その機能を破壊しようと試みました。 この結果、4機のS.328、2機のS.M.84bis、2機のFw-58C、1機のBf-109E-4と1機のBf-109G-6、そしてその他の若干の機体が、 その空襲で完全に破壊されました。 また、部隊は特に地上要員に犠牲が出ましたが、基地機能は維持されました。 さて、叛乱軍にとって初勝利となったのが、1944年9月2日にAvia B.534でFoncardaに於て、Frantisek Cyprich上級軍曹が撃墜した マジャール空軍のJu-52/3mでした。 これは複葉固定脚の機体での最後の勝利獲得でした。 混成航空団はこの叛乱中、350回の作戦任務をこなし、6機の撃墜(3機のFw-189、2機のJu-88、1機のJu-52/3m)と3機の地上 撃破(3機のJu-87)を果たしています。 これらの対航空機戦に加え、叛乱軍とドイツ軍が対峙する前線に於て、多くの戦闘車両や装備の破壊と損傷を果たしています。 それと引換に彼等自身も又、操縦士の内、2名が死亡、2名が重傷を負い、基地への空襲で多数の地上要員を失いました。 混成航空団の中で最も戦功を上げたのは、Rudolf Bozik曹長で、彼はBf-109G-6を駆ってFw-189を2機、Ju-88を1機撃墜しました。 彼の戦果は、従って、ドイツ、ソ連、アメリカの各国空軍で構成されていることになります。 でもって、次は叛乱軍の悩みとか。
1944年にAvia B.534は辛いな・・・
保守
うみゅ、亡命Czechoslovakia軍の編成なんかが出てきて、今日のカキコはムリポ。
保守
645 :
名無し三等兵 :2006/07/17(月) 11:48:12 ID:YTBJ2HJF
あげ
ハンガリー「汎アーリア主義に対抗してみますた」 つトゥラン戦車
ズレーニーがいいなあ・・・
ああ、何かごちゃごちゃやってると結局カキコ出来んし。
あいりん地区で午後8時ごろ、 スーパー玉出に買い物に行ったら 入り口でガードマンに監視されながらホームレスが日本経済について熱く討論していた。 その帰りに近くで人が刺された。 一泊1000円とかの簡易宿泊が多い所の飲み屋ではカラオケ歌ってる声が聞こえた。 天王寺公園の道路近くのホームレスのベニヤ板で作った家から朝7時ちょうどに 目覚まし時計がなったのには驚いた。 1年前の話。
650 :
649 :2006/07/26(水) 03:28:55 ID:???
誤爆です、すみません。
紅の豚で空戦やってた飛行艇は ハンザCCとマッキM.5でおk?
>640の続き このSlovakia叛乱の期間中、空軍は困難な立場に追い込まれています。 その理由の一端は、1944年7月1日にMoscow北東350kmのIvanovo飛行場で編成された、第1チェコスロヴァキア戦闘機連隊が、 ソ連から派遣されてくることにありました。 その連隊は、以前、英国空軍に参戦していた20名の戦闘機操縦士達で編成され、彼等は義勇兵として東部戦線に参戦していた ものでした。 彼等はRussiaの地で、更に2人のSlovakia人、1943年9月9日にBf-109G-4を駆ってソ連側へ脱走し、ソ連戦闘機の飛行訓練を 受けていた、元第13戦闘飛行隊所属のAnton Matusek曹長とLudorvit Dobrovodsky一等軍曹を組込ます。 1944年9月17日、連隊は、Zvolen近郊のZolna飛行場で、新品のLavochkin La-5FNを21機受け取り、後に、Tri Dubyからの作戦 に参加することになりました。 この精鋭飛行隊は、直ちに前線に参加することを宣言し、混成航空隊は短い勝利の後に、その要員の休息と、保有航空機の修理 の時間を与えてくれたのです。 既に9月18日の時点で、連隊の8機の機体が、Piestanyのドイツ空軍基地に対する攻撃を行い、6機の機体を地上で破壊し、自らの 損害はゼロと言う戦果を挙げました。 その後、9月20日には、Slovakiaにある別のドイツ空軍基地、Malacky-Novyを破壊する、米国陸軍航空隊第15空軍の空襲に参加し、 米軍と共同で27機を破壊しています。 このため、ドイツ空軍は、Poland南部に配備していた、第77地上襲撃航空団とマジャール北部に配備していた第52戦闘航空団を この叛乱に投入せざるを得なくなりました。
この戦闘飛行連隊は、のべつ幕無しに、多くの作戦に参加しました。 爆弾を搭載して地上部隊を支援したり、叛乱軍の航空基地上空の防空なども実施しています。 これらの活動期間中、573回の戦闘飛行任務に就き、13機を撃墜(Bf-109を4機、Fi-156を3機、Fw-189とFw-190をそれぞれ2機 ずつ、Ju-87とJu-88をそれぞれ1機ずつ)し、多くの機体と地上設備を地上で破壊しました。 この中で最も戦果を挙げたのは、チェコ人のLeopord Srom准尉で、彼は、3機のBf-109、1機のFw-189と1機のFi-156を撃墜して います。 反面、彼等の損害は、10機の航空機が破壊され、そのうち3人の操縦士が死亡、1人が捕虜となり、4人が不時着して負傷しました。 この損害の総ては、地上からの対空砲火に依るものでした。 てことで、次回は、ソ連の支援について。
保守
【卍】 ≦予 ̄> G\(^■^ ラ \ <!>+\ よくわかったな …余の持っている《スロバキア叛乱》の本には、 政治的タワゴトしか書いておらんが…。
みゅ〜、パソの調子がおかしいので、続きは来週…。 しかし、ログとか全部パーになるかも。
_人人人人人人人人人人人人人人_ > な なんだってー!! <  ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄ _,,.-‐-..,,_ _,,..--v--..,_ / `''.v'ν Σ´ `、_,.-'""`´""ヽ i' / ̄""''--i 7 | ,.イi,i,i,、 、,、 Σ ヽ . !ヘ /‐- 、u. |' |ノ-、 ' ` `,_` | /i'i^iヘ、 ,、、 | |'' !゙ i.oニ'ー'〈ュニ! iiヽ~oj.`'<_o.7 !'.__ ' ' ``_,,....、 .| . ,`| u ..ゝ! ‖ .j (} 'o〉 `''o'ヽ |',`i _,,..-<:::::\ (二> / ! _`-っ / | 7  ̄ u |i'/ . |、 \:::::\ '' / \ '' /〃.ヽ `''⊃ , 'v>、 !、\ \. , ̄ γ/| ̄ 〃 \二-‐' //` 厳選して精製されたデータは本当に資産だと思う今日この頃 みなさん、バックアップ取っておきましょうね
保守。
660 :
名無し三等兵 :2006/08/15(火) 19:58:00 ID:UKKrDXqk
あげ
とりあえず、パソの調子と悪金は回避できた。 >653の続きで。 ソ連側もこの叛乱に手を差し伸べています。 武器や軍需物資の運搬には、主に第4親衛爆撃航空師団"Bryansk"のNorthAmerican B-25 Mitchell が投入されました。 こうした物資は、1944年9月4〜5日の夜間にTri Duby飛行場に、同じく1944年9月21〜22日夜間からは、 BreznoとHronom近郊のRohozna補助飛行場にそれぞれパラシュートで投下されました。 これらのMitchell爆撃機は、1944年10月27日までに498回の投下を行い、うち352回が成功、そして、253t に及ぶ武器、弾薬、火薬を叛乱軍に届け、その間に1機を失っただけでした。 同時に、ソ連長距離空軍第5航空軍"Orel"の第53航空師団"Stalingrad"、第54航空師団"Orel"所属の Douglas C-47とLisnov Li-2もまた、物資や人員の輸送にあたりました。 天候が許す限り、これらの機体は、Tri Dubyに向けて軍需物資を輸送すると共に、Slovakia陸軍からの 脱走兵とCzechの亡命兵で構成され、ソ連国内で編成された第2Czechoslovakia空挺師団の2000名程度 の兵員も援軍として送り込んでいます。 このほか、Lavochkaの第1飛行連隊は航空燃料を運搬し、帰りに傷ついた兵士、女性、子供たちの脱出を 助け、ドイツによる叛乱鎮圧前には、Slovakia所有の準備金をRussiaに運搬しています。 1944年9月26〜27日の夜間から叛乱鎮圧までの間、第5航空軍"Orel"は、701回の飛行を行い、うち354回 が成功、その輸送で、385tの武器、弾薬、軍需物資と1,928人の兵士が輸送され、698名の人々と、20.3tの 物資がソ連側に輸送されました。 失われた機体は、Douglas C-47が6機、Lisnov Li-2が8機を数え、最後の飛行は、1944年10月24〜25日の 夜間飛行でした。 てことで、一週おいて、次は米国の間接支援。
うーん
東欧ねえ
WWIIねえ
なんだかなー
666 :
名無し三等兵 :2006/08/24(木) 00:03:57 ID:fFHs8Vwv
666
グランドパワー9月号のズリーニィの図面、ズリーニィIIの前面装甲が25mm装甲板の3枚重ねで計75mm なのに対してズリーニィIの装甲厚が100mmなら普通に考えて25mm板の4枚重ねになってるだろう所が IIと同じ3枚重ねに描かれてるね。 何はともあれトンガリ頭の多面構成は萌える。
とりあえず、予定通り今週はお休みでつ。
保守
いつぞやの tp://www.netlabor.hu/roncskutatas/modules/myalbum/photo.php?lid=1064 の中から, >Re: Fronton. を訳. 添削してもらいましたので,この訳で間違いないかと. 「ちょっと面白い話がある。 昨年12月、ドミニカ共和国で廃棄処分にされた3台のL30の購入の 可能性がもちあがった。軍事史博物館は、この3台の購入と輸送に必要な 1400万フォリントを工面しようとしたができなかった。 ここでちょっと考えたのだが、1400万フォリントが用意できないなら、 国内での発掘にいくらぐらいかかるだろう。 というのも、頼まれれば水中を漁るダイバーのチームを 知ってるからなんだけど。」
>661の続きで…。 1944年6〜8月に掛けて、Slovakia上空で、ドイツ空軍本土防衛戦闘機隊と、米国陸軍航空隊第15空軍との間で幾度の戦闘があり、 米陸軍航空隊は、13機のB-24、2機のB-17、2機のP-38、1機のP-51を喪失しました。 ドイツ軍はこれら撃墜機から脱出した米軍の乗員を捕獲し、Ferdinand Catlos将軍指揮下のPerzinok近郊にあるGrinavaの捕虜収容 所に収容していました。 1944年9月1〜2日の叛乱に際し、其処のSlovakia軍監視兵は捕虜収容所を脱走し、叛乱の中心地、Banska Bystricaに向かいますが、 その時、収容されていた米陸軍航空隊の兵士26名も彼らに合流して脱走しています。 てことで、次回は、米軍とOSSの暗躍について若干。
保守
OSSはあちこちで色々やってたんだなあ。 ダレスは有能な奴だ。
保守
そろそろ地底奥深くだから偶にageんと拙いだろうか。 >671より。 1944年9月17日、Tri Dubyから米陸軍航空隊の脱走兵達をItalyに輸送するため、 ItaliaのBariから第15空軍第483爆撃航空隊のB-17が2機、派遣されてきました。 そのアメリカ人達は、10時頃、Slovakiaの地に降り立ったのです。 また、護衛には、以前Slovakia空軍を鎧袖一触に蹴散らした第52戦闘飛行隊所属の 41機のP-51Bが動員され、B-17とこれらのP-51Bは、行きに8tの武器弾薬と、OSSの 特殊部隊隊員6名を同乗させていました。 このうち護衛機の1機、Ethan Smith中尉の機体は基地上空を低空で飛びすぎて、地面 に接触して墜落してしまいました。 彼の機体は破壊されますが、彼は大怪我をしてZvolenの病院に入院し、一命を取り留め ます。 更に、その後間も無く、Alexander Watkins中尉の機体も又、エンジン故障で不時着しました。 彼の機体はそのまま放置して、中尉はB-17に乗り込み、13時15分に両機は無事、Bariに着陸 しました。 で、更に米軍の捕虜引取り飛行は続く。
蕋江
677 :
テスト :2006/09/21(木) 03:29:36 ID:???
なんだ蕋江作戦の蕋って"?"にならずに出せるじゃん
テストに使うなage
679 :
近頃では… :2006/09/24(日) 06:27:51 ID:???
(〇m〇) (^■^ ラ [・ム・ ] 枢軸関係の書籍も色々とカラフルで詳細な物が、 次々と各国から出ているから 我々が資料探しに苦労していた フタ昔前とは隔世の観があるな…。 ◎フランス版のルーマニアンMe109の本には感動したぞ!
保守
久々に…>675より。 1944年10月7日には、再びBariから第52戦闘飛行隊所属の32機のP-51Bに護衛された、 第483爆撃航空隊のB-17Gが6機、他に撃墜された米軍航空隊の飛行兵達を回収する為 に叛乱軍の占領地に派遣されました。 このB-17Gには16tに及ぶ武器弾薬と共に、20名の米国OSSと、英国SOEに属する特殊部隊 兵士達も搭載していました。 これらの機体の帰りには、20名の米国人飛行兵と、Londonに赴くSlovakiaの政府及び軍の 代表3名が搭乗しています。 この荷物の積み卸しと、彼らの搭乗手続きが進む間、Mustangと第1戦闘機連隊に属する La-5が、上空を哨戒飛行していました。 この時の米国側の護衛戦闘機隊指揮官は、Charles Boedeker大尉でしたが、彼はドイツ 空軍のFw-190が機銃掃射の為に基地に接近するのを見逃してしまいます。 結果的に、Czech側の航空機に搭乗していた、Frantisek Sticka准尉が軽い怪我をしただけで 済みましたが…。 てことで、次回はドイツの動きなんぞ。
ほしゅ
683 :
名無し三等兵 :2006/10/08(日) 03:16:28 ID:xSBBLHpX
凄く前のコメントにレスするけど >506 >fel is maszhatott ra' これ、felma'szikの、接頭辞と動詞の間にisが挟まってるだけ。 つまり、それに登ることも出来たんだってな具合です。
WW2オランダ軍は神秘のベールに包まれてる。 航空機や戦車はおろか採用小銃が何なのかすら不明 チューリップ野郎どもの装備や士気が腐っていたとは思わん。 状況証拠から判断するとシビリアンコントロールが過剰に働いて 戦う前から自滅したと言う見解もできる。
フォッカーの末路は第一次大戦の栄光を知ってると信じがたい程の物がある。 大戦後、民間機を売りまくったのももっと信じがたいとも言えるが。 大航海の栄華がスペイン、ポルトガル、オランダから完全に英連邦と それに協力する北米に奪われていた後の事とはいえ、ナチスの恨みの深さに気付かず 日本への圧力には鈍い所など、何か国全体から見るとフランスより深刻な状態だったとさえ思える。 植民地を持ち、そこからあがる利益で安逸に暮らす事は、後々まで残る国の弱体化を招くのでは無いだろうか? これは当時の日本もまた例外では無かったと思う。 影響下に置いた日本やその他に米国債を買わせる事による繁栄をとげている現在のアメリカに、 当時のオランダに似た病弊の兆候がみえる気がしてならない。
とりあえずオランダを「東欧」とはいえないな。 どっか別のスレでどうぞ。
>681の続き。 空では連合国の協力で或る程度制空権を握っていましたが、地上の第一線では、当然のことながらドイツ軍の方が優勢で、叛乱軍は、その支配地域を徐々に減少 させていきました。 天候が悪化すると言うことは、連合国との空の架け橋が途切れることを意味する、つまり、安定した補給が受けられなくなり、航空機の地上支援活動も出来なくなる ことを意味します。 しかも、そのことは、叛乱軍の終末がより早く訪れることを意味するのです。 こうした理由で、混成飛行隊が失った航空機は、ソ連からの同型機供給で補充を受けることになりました。 同じく、歩兵として戦っていた航空隊の要員を、ソ連赤軍の指導の下、新しい飛行隊を編成する計画で、ソ連後方に送ることも出来なく なりました。 1944年10月25日、ドイツ軍のSchill戦闘団は、Zvolenに到達し、Tri Duby飛行場から、避難をしなければならなくなりました。 撤収先まで飛ぶことが出来ない不要な航空機には火が付けられて破壊され、午後には、第1Czechoslovakia戦闘飛行隊のLa-5FNの 生き残り11機と、混成飛行隊のGustav Kubonic曹長の操縦するBf-109G-6が1機、Fw-189A-2が1機、S-328が1機、W.34が1機、この 飛行場を飛び立ち、ソ連の前線に向けて飛行しました。 しかし、Kubonic曹長の操縦するBf-109G-6と、Anton Matusek軍曹の操縦するLa-5FNは、Dukla Pass通過時にドイツ軍の高射砲に捉え られて撃墜され、Kubonic曹長は戦死、Matusek軍曹は民間人に保護され、助けられました。 残りの機体は、UkrainaとRumaniaの赤軍支配地に逃れ、赤軍の保護の下、新たに戦争に参加することになりました。 飛行機に乗ることの出来なかった空軍の残りの人々は、叛乱後の弾圧の中、或る者は田舎に逃れ、或る者は陸軍の叛乱部隊と共に、 Tatra山脈に逃れて、Partisanとして闘いを繰り広げ、1944〜45年の冬をそうして過ごし、1945年春に赤軍によって解放されることになります。 てことで、叛乱の項は終わり、次回は終章として赤軍に逃れたSlovakia空軍について。
>684 まぁ、Denmarkよりは、本国は果敢に戦っていないと言えるかもしれませんね。 亡命政権もNorwayに比べれば、やる気ナッシングと言っても過言ではありませんし。 第二次大戦中のHollandの国内状況については、白水社刊 Simon Kuper著 「アヤックスの戦争」と言うのが面白いですし、オランダではないにしても、Belgiqueの 状況なら「Basque大統領亡命記」が中々秀逸な記録です。
今週は体調不良につき、カキコ無し。 インフルエンザの予防接種が拙かったのだろうか。 もう、後1章だけなんだけどね。
>>691 お大事になさって下さい。
風邪流行ってるなぁ。
アビアB35.1 アビアB35.2 という模型が出ます。 1938年初飛行、チェコスロバキア初の低翼単葉戦闘機との事。 液冷エンジンの固定脚・・・駄作機かな?
>693氏 昔、CzechのKPから1/72でプラモが出ていました。 すんごく作りにくかった覚えが…。 機体自体は、1938年初頭からB.534の後継機として設計が行われたもので、最初のB.35/1はB.534の単葉化から 発展したものです。 なので、最初の試作機は固定脚でした。 機構的にも引込脚は複雑ですし、構造も簡単で、重量も引込機構の無い分軽くできる、と。 胴体は鋼管骨組で、前半はジュラルミン張り、後半は羽布張り、主翼は木製で、ジュラルミンと木を接着した合板 で作られています。 この構造はB.534と全く同じで、B.534に比べると、Hispano-Suiza12Yシリーズでもモーターカノンを付けた12Ycrsを 装備しています。 まずこの習作による試作試験を経て、離着陸性能改善の為の補助翼と大型フラップを取り付けたのが、B.35-2。 ちなみに、Aviaの機体は先ずベースとなる機体を開発し、それを徐々に改善していくと言う手法が多いです。 そして、1939年8月に初飛行したのが、本格的な戦闘機型で、これが本命のB.35-3です。 こいつは、固定脚から引込脚に代わったのが最大の改良点。 で、更に主翼近辺を中心に改良を加え、より実用的にしたのがB.135。 この機体は、Bulgaria空軍の戦闘機として12機が輸出され、1941年に引き渡されています。 Bulgariaは同時にLicenceも購入し、部品図がBulgaria国立航空機工場に引き渡されましたが、大戦の進展で、 ドイツ機が供与されたため、生産は中止となり、この機体の開発も中止されています。 Bulgaria空軍の機体は、配備後、本土防空用の迎撃機となり、Rumaniaの油田を空襲しに来た米国陸軍航空隊 の爆撃機と激しい戦闘を繰り広げています。
眠い人保守
>>694 お答え、感謝です。
AZモデルというメーカーからプラスチック・モデルとして出ます。
1/48なんですが、簡易インジェクションかな・・・
中立宣言するのはイイけど防衛計画のセンス0のアホ国が多かったな。 そのせいかマンネンヘルムの軍人ゲージの振り切り加減が凄い。 フィンランドとスイス以外は軍上層部に無能とカスしか居ないって状況が何よりビックリだ
【卍】 ≦予 ̄> G\(^■^ ラ だからこそ、余の理想に共鳴する人々が各国民から現れたのだ! \ <!>+\ ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ G\(^∀^ G\(^∀^ G\(^∀^ ク 【卍】 ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ G\(^∀^ G\(^∀^ G\(^∀^ ク 【卍】 ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ ∠ ̄∬ゝ G\(^∀^ G\(^∀^ G\(^∀^ ク 理想主義のみが人間の眼を開いて、武力と権能の権利を認めさせる。 純粋な理想主義は、最も深奥な知識である。 その証拠は、純真にして健全な子供のうちに見ることができる。 こうした純真な子供が成長すると、滑稽な平和主義に憤慨し、 国家の理想のために進んでその若い生命を 犠牲にすることを望むようになるのである。
変なのが湧いてきた・・・
そもそもスイスやスウェーデンは「東欧」なのだろうか……
保守
ぐわぁぁぁ〜、もう嫌やorz! Dellか損テックかショップブランドPCでも買ってやろうかしらん。
ほしゅ。
折角、まともに動くパソコンを用意したというのに、規制中ですか、そうですか(泣き。 てことで、結局、一ヶ月ご無沙汰です。 次週こそ規制がなければ続きをカキコしますです。(m_m)
期待保守
トランペッターがトルディとかズレーニーを 1/35を出してくれないかな・・・
1944年8月31日の時点で、ソ連側占領地に越境したSlovakia空軍の面々は、その後方で編成され、戦闘を繰り広げつつあった 第1Czech混成航空師団に加入することになりました。 彼らの再教育は、1944年9月24日から、ソ連空軍の第41訓練飛行隊で開始し、彼らは其処に配備されたIl-2、La-5、Yak-1そし て、Yak-7で飛行訓練を受けています。 この第41訓練飛行隊は、10月13日にCzechoslovakia訓練センターと名称を変更し、司令にはCzechoslovakia戦闘飛行隊の副官 であるJan Klan大尉が就任しました。 その再教育はかなり徹底的なもので、非常に経験を積んだ戦闘機パイロット12人にはLavochikin La-5FNを使用した転換訓練、 また、14人7組のパイロットと銃手に対しては、Ilyushin Il-2地上攻撃機が宛がわれることになっていました。 これらは10月15日に叛乱軍支援で前線から戻す予定だったものです。 けれども、これらの機体は前線から戻りませんでした。 丁度、前線を撤収するこの頃から前線の天候が急変し、悪化したため、前線に足止めされてしまったものです。 それでも、Czechoslovakia戦闘飛行隊と混成航空団は、叛乱の終息までには、順次引き揚げを行い、10月末に は全機ソ連占領地への引き揚げを完了させることが出来ました。
保守。
710 :
495 :2006/11/25(土) 23:52:12 ID:???
眠い人保守
>>710 ヲヲヲ、凄い。
トルディ・トゥラーン・ニムロッド・チャバなどワンサカ出てますね。
38tと比べるとトゥラーンは堂々たる中戦車だ。
何言っているかさっぱりなのが残念だなあ。
眠い人保守
真珠湾攻撃保守。
真珠湾攻撃成功保守
716 :
名無し三等兵 :2006/12/13(水) 14:11:05 ID:gplwvu1y
ルーマニア、ハンガリー等枢軸国の三軍の司令官を誰か知ってます? 知ってる方教えて
保守
眠い人保守
>708の続き、久々に…。 1944年10月29日、Czechoslovakia亡命政府軍のLudvik Budin中佐は、ソ連国内にある全てのCzechoslovakia航空隊を統括する 司令官に任命されました。 そして、配下の航空隊は、ソ連空軍の第2前線航空軍の司令官、S.A.Krasovskyi将軍麾下となり、それらは、La-5FNを装備する 2個戦闘飛行隊、Il-2を装備する1個地上攻撃飛行隊、Pe-2FTを装備する1個爆撃飛行隊で構成された混成航空隊でした。 この飛行師団は、以前、Ludvik Svoboda准将麾下にあった第1Czechoslovakia陸軍航空隊に属していた部隊です。 なお、本土解放の進行に伴い、1944年の末までに、ソ連の前線後方で提供されていた乗員養成のための基地は返還を促され、 訓練機材の提供は中止されました。 この影響で、爆撃飛行隊用の要員が不足し、爆撃飛行師団の編成は見送りとなり、地上攻撃飛行師団用のIl-2についても、 整備員とその機関銃手が不足していましたが、後者については、ソ連兵を補充することで解決を図っています。 こうした要員の教育は、比較的ゆっくりと進められました。 その要因として信じられているのは、教育をするのに不利な悪天候、教育用航空機の不足、また、Slovakiaの操縦士の飛行 技術が、前線で働くには不十分だった事が挙げられています。 少なくとも彼らの殆どは、以前旧式複葉機に搭乗していた人々であり、そこから最新鋭航空機にステップアップすることは 非常にハードルが高く、その結果、多くの航空事故を経験していたからでした。
とりあえず、冬厨モード突入なので、保守カキコ。
クリスマスイブ上げ
>719から…年内に完結できるか。 第1Czechoslovakia混成航空団は、公式には1945年1月25日に編成されました。 この航空団は、ソ連赤軍第8前線航空軍のN.V.Zdanov将軍指揮の下にありました。 この航空団を編成している飛行要員のうち、70%はSlovakia人で占められていました。 また、その航空団の司令官代理業務も行っており、それには、Julius Trnka少佐、次いでMikulas Lisicky少佐が就任していました。 その航空団に属する、第1戦闘機連隊は、Ludovit Koza大尉が連隊長に就任し、また航空団参謀を兼ね、第3飛行隊は、Jozef Kolembus大尉が 掌握しています。 第2戦闘機連隊は、Ivan Haluzicky大尉が指揮を執り、隷下の第2飛行隊は、Ladislav Stasik少尉が指揮を受け持っていました。 第3地上攻撃連隊は、Mikulas Guljanic大尉が指揮し、隊長代理として、Frantisek Wagner中尉がおり、参謀兼3つの飛行隊の隊長として、 Osvald Fencl、Jozeff Niznansky、Miclas Singlovicの各大尉が就任していました。
1945年2月20日、第1と第3連隊は、前線にほど近いIwonicz飛行場に進出していました。 その間、第2連隊は装備機が無かったので、引き続き、Przemyslに有った赤軍第41訓練飛行連隊の機材で、訓練を重ねていました。 この連隊の装備機は結局戦争に間に合わず、1945年4月末に漸く、新型のLavochkin La-7が引き渡されました。 前線が更に進んで、Katowiseでの訓練が完了した後、第1、第3連隊は、1945年4月13日に、前線から僅か20kmの地点に設置されたPoremba飛行場に移動します。 翌日からOstravaでの作戦行動に参加し、両方とも地上作戦支援に乗り出します。 Lavochkinによって護衛されたShtrumovikが、Ostrava、Opava、Tesinの各地区に於て、ドイツ軍の中央軍集団の各部隊や補給網に対する攻撃に参加しました。 1945年4月から5月にかけて、第1Czechoslovakia混成飛行師団は、567回の作戦飛行を実施し、90tの爆弾を投下し、600発以上のRS-82ロケット弾を発射、多くの 軍事施設を破壊しています。 Shtrumovikが行った空中戦闘は4回で、Fw-190を1機撃墜しています。 (撃墜したのは、第3連隊に所属する後部銃手で、以前、英国空軍の亡命Czechoslovakia人部隊である第311sqn.のCzech人空中勤務者となっていた、 Richard Husman曹長) また、戦闘機同士の空中戦では、第1連隊が1機のBf-109、1機のFw-190に損傷を与えた代わり、2機のLavochkinが失われています。 第1連隊の操縦士で唯一の戦死者は、Michal Minka少尉で、彼は1945年4月20日にLa-5FNに乗って戦闘飛行に出撃する際、地上に駐機していた Shtrumovikに激突して、機体を破壊した時に死亡しました。 このほか、第3連隊では、地上対空砲火により、5機が失われ、2人の乗員が死亡しました。 別の乗員は、作戦飛行に出る際に、別のShtrumovikに接触して機体を破壊しています。 他の機体の何機かも、大なり小なり対空砲火による損傷を受けています。
第二次大戦を通じて最後に戦死したSlovakia人操縦士は、1945年4月28日にWodzislaw近郊で Shtrumovikに搭乗中、撃墜されたJarolim Gucman曹長でした。 師団としての最後の作戦飛行は、1945年5月2日に行ったIl-2攻撃機7機による、Tesin鉄道駅の 攻撃でした。 1945年5月10日、第1混成Czechoslovakia航空師団は、解放されたCzechoslovakiaにある Albrechticky飛行場に集まり始め、5月18〜25日にかけてPrague-Letnany飛行場に移駐しています。 これらの機体は以下の通りです。 師団司令部:Polikarpov Po-2連絡機4機、Focke-Wolf Fw-58Weihe1機。 第1戦闘機連隊:Lavochkin La-5FN戦闘機22機、La-7戦闘機13機、La-5UTI練習機2機、 Polikarpov Po-2連絡機1機 第2戦闘機連隊:Lavochkin La-7戦闘機41機、La-5FN戦闘機4機、La-5UTI練習機2機、 Polikarpov Po-2連絡機1機、Junkers W.34連絡機1機 第3地上攻撃連隊:Ilyushin Il-2攻撃機24機、Il-2UTI練習機2機、Polikarpov Po-2連絡機1機 1945年6月1日、これらの機体はCzechoslovakia大統領Edvard Benesの閲兵に参加するため、 Letnaey飛行場を飛び立ちます。 6月20日に、この部隊は今まで指揮下に入っていた赤軍から独立した部隊となりました。 8月1日には、第1Czechoslovakia混成航空団は、Czechoslovakia空軍第4飛行師団となり、多くの メンバーの出身地であるSlovakiaのTrancianske Biskupice、PiestanyとTri Dubyに移動しました。
こうしてSlovakiaは消滅した…政治的にも軍事的にも…のですが、その空軍に対する興味やら、 注目すべき事象やらが有りすぎており、それは非常に起伏のあるものです。 一方、第二次大戦での彼らの行動というのは常に論争の種に成ってしまいます。 彼らは、マジャールを筆頭に、Poland、ソ連、米国、そして、ドイツ軍とも戦いました。 けれども、同じように第二次大戦を戦ったPoland、France、英国、ソ連、Czechoslovakia各国空軍 の方が目立っています。 それは、不名誉なSlovakia保護国のあった6年間を無きものとしたいと言う動きがあり、また、この 時代のことを思い出したくないと言うのもあったのかもしれません。 と言うことで、Slovakia空軍一代記完結。 次回は、ポーランド語に挑戦するか…I.A.R.80の話と言う泥沼に足を踏み入れてみる所存。
乙。年内に完結させるとは見事。 …改めて読み直してみると長いなぁ。
>>725 お疲れ様でした。
I.A.R.80の話、希望!
728 :
名無し三等兵 :2006/12/31(日) 16:39:15 ID:t4Hm1YTs
保守
ポーランド軍コォ━━━━щ(゚Д゚щ)━━━━イ!!!!
何気に、軍事板FAQの東欧(+ユーゴ)海軍関係は、充実してるのね これも眠い人閣下のおかげのようですが
731 :
名無し三等兵 :2007/01/08(月) 08:30:53 ID:HuOuT83h
あげておくよ。
さて、今回から、I.A.R.80の話…なんだけど、Poland語の難解さに早くも腰が引けてたり(笑。 たったこれっぽっちの文章を訳すのに3時間ですもん。 てこと、先ずは概説から。 1930年代までに欧州諸国では、経済や軍事が大きく発展していました。 Romaniaも例外ではなかったのですが、第一次大戦で得た領土が大きくなり、周辺諸国との 紛争の火種となっていたため、特に潜在的な軍事的な脅威に対抗して、独自の航空兵力整備 が必要になりました。 1925年に、早くも、Romaniaに航空会社、I.A.R.(Industrial Aeronautica Romania)が航空機の ライセンス生産を始めるために創設されます。 これは同時に、海外から航空機を輸入することに伴う、機材ならびに部品の供給が絶たれない 様にすると言うリスクマネジメントの結果でもあります。 こうして、同盟を組んでいたFranceの示唆により、その仲介を受け、同じくFranceの影響下に あったPolandから、50機のP.Z.L.11b戦闘機を導入することになりました。 この戦闘機に装備するエンジンは、FranceのGnome-Rhoneのものを装備することとなります。 この戦闘機は、1933年からRomaniaの工場からDeliveryされ始めています。 但し、実際にはエンジンの生産が遅れ、これらの機体は、Franceから供給を受けたGnome-Rhone エンジンを装備した機体が部隊に引き渡されることになりました。 また、重要部品もPolandから供給され、それをRomania側で組立てただけだったりします。 てことで、次回は、その生産発展について。
I.A.R.80 キタ━ヽ( ・鷹・)人(・檻・)人(・牛・)人(・猫・)人(・鴎・)人(・鷲・)人(・公・ )ノ━!!!! ありがたや。
>732の続き。偏頭痛が酷くて、ワンセンテンスだけの翻訳也。 1934年、パリの戦闘機設計ビューローでは、国営航空機工場(P.Z.L.)向けにP.Z.L.P.11cを 原型とした輸出型の開発に着手します。 これは、Romaniaからの要請で行われたもので、当時、同国で生産中だったP.Z.L,P.11bの 代替となるものでした。 1935年、Brasovの工場では、P.11戦闘機のコンポーネントを使って、P.11fと呼ばれる一つの 型の量産化に成功しました。
とりあえず、何か圧縮があったみたいなので…って、そんなにスレが増えているのか?
謎です。
見てみましたが知らんうちに変なスレが増えてますね。
ちょっと某書が面白いので今日は中断。
保守
>734より…しかし、一回書いたのに、不調で再度書き直さなければならないとは鬱。 てことで、今回もワンセンテンス。 1936年から、Fortelor Aeriene Regal ale Romania(F.A.R.R.)、即ち、Romania王国空軍では、新型でかつ有力な主力戦闘機として、P.Z.L.P.11 戦闘機を装備することになりました。 結局の所、空軍は100%では無いにせよ、そこそこ満足行く性能の機体を手に入れた訳です。 其処で、P.Z.L.としては、更なる発注を期待して、首都Bucharestにて、新型機P.Z.L.P.24試作機のデモ飛行を実施することにしました。 このデモ飛行は功を奏し、Romania王国空軍は、この機体に十分な能力があることを認め、6機の量産型P.Z.L.P.24E戦闘機の購入契約と、 ライセンス生産契約の締結を行うことになりました。
ミッキークロスミッキークロスミッキミッキークロス
743 :
名無し三等兵 :2007/02/05(月) 13:09:40 ID:i+NfQW4t
あげ
744 :
名無し三等兵 :2007/02/05(月) 15:17:49 ID:nNmaAapR
ブルガリアは1942年夏に マケドニアで資源採掘を めぐってイタリアと大規 模な軍事衝突したらしい けど詳しい人いますか 単なるマイナー好きです
ブルガリアは枢軸国とばかり戦争してますね。 ロシア軍とは戦わずに・・・
746 :
名無し三等兵 :2007/02/09(金) 02:18:10 ID:f/GcPRPf
>>745 規模が規模だけにねぇ・・パルチザン掃討の手伝いで十分じゃないの?
でも・・スロバキアでさえ旅団、航空戦隊おくってんのにね。
ブルガリアは根っからの親露国家だからなぁ。 の割には二度の世界大戦はドイツと組んでるが
748 :
名無し三等兵 :2007/02/09(金) 12:58:10 ID:U8bjcdTU
ブルガリアが対ソ参戦しなかったのはなぜか考えてみた やっぱりスラヴ系の国家ということでヒトラーに対する不信感があったのでは? あの時代の東欧は独ソの少なくとも一方に付かないと生き残れなかったから、同盟自体も 消極的なものだったのでは
最初はドイツに味方して4号戦車をもらったりもしたが のちにソ連に圧力かけられて、そのもらった4号でドイツ軍に攻撃しちゃった つーのはどこの国だっけ?東欧のどっかだと記憶してたが・・・
ルーマニアだろう
ブルガリアは同じスラブ系ゆえ、ソ連とは宣戦布告してませんね。
枢軸に引きとめる為にドイツはかなりの援助を出しましたが結果は・・・
>>749 連合国についた元枢軸国はどこでもやってますね。
フィンランド軍もそう。
Me109G同士の空戦も山ほどあるし。
ルーマニアはライセンス生産してたんだったかな?
>>749 グデーリアンの回顧録に確か載ってた気がする
でも今友人に貸してるから確認できないけど
753 :
749 :2007/02/09(金) 18:46:53 ID:???
>>750 そうかルーマニアかぁ
これ、最初知ったときは「戦車までもらっといて寝返るなんてなんて汚いんだ!」
と思ったが、そこには大国にはさまれた小国の複雑な事情があるんだよなぁ・・・(‘・ω・`)
>>751 ブルガリアは終戦まで枢軸国側だっけか?
そうだとしたら誇り高いって感じで萌え
「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」高橋慶史 詳しくブルガリアの事情が書かれています。 面白いですよ。 ブルガリアが寝返ったのは1944年9月だったかな。
ルーマニアって確かソ連にベッサラヴィアを強奪されたから枢軸国側に入ったけど、 石油は強請られたりハンガリーにトンラシルヴィニアを割譲する羽目になるなど結構扱いは酷い 南方軍集団に属してた2個軍も無茶な攻勢につき合わされてる挙句壊滅してるしな
>>748 というかヒトラーもブルガリアが対ソ戦に加わらないことを了解してたような
ていうかスウェーデン同様の好意的中立じゃダメだったんかね
ユーゴ分割やギリシャ攻略に参加したかったのか
ルーマニア軍の人的損害って異常に多いんだよなあ・・・
第一次大戦だと人口に対しての戦死者の割合はルーマニア軍が一番多いんだよな、確か 第二次大戦でも枢軸国の時に25万を失ってて連合国になってからは17万って…
759 :
名無し三等兵 :2007/02/12(月) 12:00:40 ID:KmrRXOMF
クロアチアも戦死者多いのですか?
>>756 第二次バルカン戦争でタコ殴りされた恨みを晴らしたかったんだっけ。
ルーマニアとハンガリーの仲は三国同盟に加わってからも険悪で、後でルーマニアが寝返ると それ見たことかと両国軍の間でも激しい戦闘が始まったらしい どっかのサイトに載ってたけど見つからない…
>>761 ブルガリアはルーマニアともハンガリーともイタリアとも
紛争を起こしていたような・・・第二次大戦中に。
あそこらへんの各国は常に何かもめてる。
ハンガリーとルーマニアはトランシルバニア、 ブルガリアとルーマニアは南ドブルジャ問題があるけど ブルガリアとイタリアやハンガリーとは国境接してないのに何でまた。
ヨーロッパは基本的に「混ぜるな危険」
イタリアはアルバニア併合して、ユーゴ領マケドニアの西部に触手伸ばしてたろ。 同地の大半はブルガリアが併合した。 それにブルガリアはエーゲ海へ通じるギリシャ領西トラキアも併合したから、 ギリシャを占領してたイタリアとぶつかることはありうる
766 :
名無し三等兵 :2007/02/15(木) 09:42:18 ID:vKQAKpIl
ブルガリアがまだ枢軸国側だったときの1942年にマケドニアで起きた イタリアとの武力紛争を知りたくて 「Axis Forces in Yugoslavia 1941-1945」 を発注してしまった 記事が5、6行しかなかったら悲し
クロアチアにはウスタシ、ハンガリーには矢十字党、 ルーマニアには鉄衛団や大天使ミハイル軍団がいた訳だけど ブルガリアには有力なファッショ系団体はいなかった? ユダヤ人を屠殺しまくったルーマニアと違ってそこそこ保護してたようだし。
ツヴェーノと呼ばれる軍部保守派グループがいたようだが これは国王支持組織だったようだし、真性ファシズム団体は どうかな。欧州各国の例に漏れずなにかしらあったとは思うが 「有力」ではなかっただろう。一応「歴史学研究」1973年6月号に 「ブルガリアのファシズム」という論文があるようだが 大きな図書館で読めるのかな?
パヴレ公の摂政政府が存続してたら利害関係の調整はもっと複雑にw
ルーマニアは東部戦線でドイツに最大の兵力を提供したが、降伏後の対ドイツ戦も最も激しかった国 敗走するドイツ軍を追ってチェコまで進出したらしい
772 :
名無し三等兵 :2007/02/17(土) 20:36:22 ID:zSyE+Lkx
ブルガリアの場合 セルビアがコソボを歴史的に重要地であるということを主張しているのと同様に オフリドなど中世ブルガリア帝国の中心地のあるマケドニアは歴史的に重要地 しかし第1次バルカン戦争、トラキアでトルコ軍と死力を尽し戦っている隙に バルカン同盟国であったセルビアとギリシャは体して戦わずに マケドニアの大部分をかすめ取り、分割した ブルガリアの反セルビア・反ギリシャ的傾向はここに由来している
タイフーンというコテハンは運営から荒らしと認定された危険人物です!
見つけたらみんなで袋叩きにしましょう!
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2chd/1169959035/277 271 :名無しの報告 :2007/02/17(土) 10:52:43 ID:9sq5QVAB0
>266見て思ったんだが>258って以前学園島スレの事で相談してきた奴だろ。
お前ガイドライン見て削除依頼してるのか?
この前のも今回のもどこが荒しなんだよ。他人の意見は荒らしってか。
俺の私見ではタイフーンってコテが全部悪いと思うけどな。
名無しの意見無視するコテが居るスレは例外なくあれる。
277 :名無しの報告 :2007/02/17(土) 13:26:11 ID:9sq5QVAB0
>273
>荒らしのそれは意見ではありません。
>名無しが名無しのルール違反行動を咎めて、
コテが代表して削除依頼を出したのを逆恨みしているだけです。
この発言がどれだけ2chの現状と違うのかよく考えなよ。
あと 80 名前:タイフーン ◆sePHxJrzaM [sage] 投稿日:2006/12/30(土) 01:13:53 ID:???
ハリケーン氏のレスもそれに反応したレスも全てに削除依頼を出させて頂きます。
自ら自演し、割れ酉を使い続けていることを自白なされたのですから。
反論がありましたら避難所が削除整理板でお願いします。
ツイスター氏が言っていたような改ざん等は事実無根の悪質極まりない捏造であり、そんな事実は存在しません。
ここでいくらレスしようと私は削除依頼を出すだけなので、ご了承下さい。
ttp://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1167392078/80 ↑のような発言をするだけで荒れるってわからんかね。んで削除依頼→却下されてるし。
削除依頼でもないようなものを削除依頼しているこいつの方が俺には荒らしに見えるがね。
そもそも削除依頼を盾に暴言はいてる時点でコテ失格
>741より流れぶった切ってスマソ。 同時に、Romania王国空軍と航空大臣は、I.A.R.の航空機工場に対し、世界標準の航空機生産 ノウハウの学習と、機体製作についての学習を行うことを指示しました。 後者の目標に向けて、全国から航空機技師、on Grosu、Ion Coseveanu、Gheorge Zotta、そして、 Gheorge Vallnerらを召集することになりました。 彼らは簡単でかつ、比較的安易な方法で、ライセンス生産を行っている機体を基に、そのP.Z.L.P.24E の部品とライセンス生産されているエンジンを改修して、新しい機体を作り出そうとします。 つまりそれは、困難抜きで、完成度の高い航空機を製作しようと言うものです。 但し、この機体については、元々の機体構造に加え、新たに引込脚を採用することになりました。
TACAMの話を読むとIARの主翼や引込脚もどっかから寄せ集めてきたんじゃないかと思えてしまう…
今日はお休み。 >776 そう言えば、戦後のオラオの主脚はダウティだかイスパノ・メシエだかだったような。
保守
いかん。 英訳して力尽きた。
ラオウの足は「黒王」という巨馬です
カラジョルジェは黒いジョージです
783 :
名無し三等兵 :2007/03/07(水) 16:29:46 ID:1K/iHPSr
カラ=黒い トルコ語?
AMD-65が好きな漏れもここの住人になれそうか?
>774より。 後にI.A.R.80として知られることになる航空機の開発は、1937年10月から開始されました。 それは、P.24から操縦室や後部胴体、内部装備品を流用するものでした。 このプロジェクトに於て、試作機を作り上げるには60,000時間を費やしました。 試作機の最初の金属製部品は、その年の12月に完成し、1938年早春に可成りの部分が完成します。 金属部品はライセンス生産工場から供給され、IAR80の最低限の飛行に必要な部品を払い出しています。 胴体の構造部材は、鋼管を溶接したものから構成され、それにジュラルミンの金属カバーを貼り付けたもの。 そして、動力系統は、ポーランド製戦闘機の余剰部品を取り付けました。
>>783 そういえばマハーカーラが大黒様だっけ。
トルコ側で付けられたあだ名だったのかな。
18世紀の対オスマン独立の英雄で後のセルビア〜ユーゴ王国カラジョルジェヴィチ王家の開祖。
近代セルビアの2王家はどっちも対オスマン英雄の血筋なんだな。
787 :
名無し三等兵 :2007/03/16(金) 05:33:01 ID:E1Fw1U/2
東欧諸国間での工業力差がかなりあるなあ。 ハンガリーとチェコが飛び抜けているが・・・ 装甲用鋼板が製造できないルーマニアは大変だ。 Me109Gのライセンス生産も苦労したろう。
このスレ話題的には東欧じゃなくて中欧じゃん
>>756 ドイツ軍がユーゴに侵攻するときの拠点だったし
トルコに睨みを効かせたいってこともあったんじゃないかな
>789 東欧の概念が明確になるのはWWII以降の共産主義国家群成立後だろうけど WWI後の二重帝国解体によって漠然とながら既に東欧という概念は存在していた
保守
793 :
名無し三等兵 :2007/04/01(日) 04:55:02 ID:AkUERW3u
>>766 クロアチア軍将官についての記述あるだろうか? あったら買うけど・・
カラーとか写真点数は多いの?
794 :
名無し三等兵 :2007/04/01(日) 16:10:00 ID:4/j+sg6Y
>>793 今、出先で仕事休憩中なので手元にないのだが
本の半分ぐらいはクロアチア軍とウスタシャ関係
ウスタシャの軍装や階級まで載っていたと思った
クロアチア軍はどっちかというとドイツ軍の軍装に似ているが
ウスタシャの軍装は東欧独特な感じ?
写真等に関しては他のオスプレイと変わらないと思う
うーん、買いかどうかは迷うね
おそらく注文になるし
洋書店で見かけたら、内容見て判断した方が・・・
月並みだけど
795 :
名無し三等兵 :2007/04/01(日) 16:15:57 ID:4/j+sg6Y
>>793 クロアチア軍の将官に関しては家に戻って本見ないとわからない
スマン、クロアチア軍にはあまり興味なかったんで
カラー写真はなかったと思ったな
まあ当時の東欧だからね
あとオスプレイだから詳しい戦記とかは期待しない方がいいと思います
796 :
名無し三等兵 :2007/04/02(月) 00:05:51 ID:4/j+sg6Y
>>793 今、家に帰って本見直しました
すみません、あまり買いじゃないですね
ページ数で50ページに満たないし、写真(白黒のみ)で2700円(購入時のレート)
内容はユーゴスラビアに駐留した独・伊・クロアチア・ウスタシャ部隊・セルビ
ア(枢軸側)・モンテネグロ(枢軸側)・ブルガリア(マケドニア含む)・スロ
ベニアの戦闘序列と8ページにわたるカラーイラストの各国軍装の説明
クロアチア軍とウスタシャ部隊の戦闘序列は他国より詳しく書いてあり
1944年11月21日以降のクロアチア陸軍とウスタシャ部隊が統合されたクロアチア
武装軍(Croatian Armed Forces)の戦闘序列も載っています
クロアチア軍の将官のエピソードは全くありません
797 :
名無し三等兵 :2007/04/02(月) 02:24:00 ID:3AfJwwkH
>>796 有り難うございます。
大日本絵画クロアチア軍のエース読んで、クヴァテルニクとペギッチ将軍について
興味持ったもんで!
798 :
名無し三等兵 :2007/04/04(水) 04:01:36 ID:DvcPaSNr
ハンガリー執政ミクローシュ・ホルティの最終階級って海軍中将ですか?
はい
800 :
名無し三等兵 :2007/04/07(土) 12:52:38 ID:kwGWnRL1
ハンガリー海軍!の訓練って何やっていたんですか?
801 :
名無し三等兵 :2007/04/08(日) 13:54:48 ID:6q9RHzcG
679 名前:名無しさん@七周年 投稿日:2007/04/08(日) 13:17:47 ID:v2Xm3agm0
>>617 武 知 忠 政 謀 統 速
1 諸葛亮(孔明) グデーリアン
2 劉備(玄徳) モントゴメリー
3 関羽(雲長) ニミッツ
4 曹操(孟徳) アイゼンハワー
5 趙雲(子龍) ロンメル
6 張飛(益徳) パットン
7 呂布(奉先) ハルゼー
8 周瑜(公瑾) マンシュタイン
9 馬超(孟起) スプルーアンス
10 司馬懿(仲達) マッカーサー
11 張遼(文遠) エイブラムス
12 姜維(伯約) 山本
13 陸遜(伯言) ジューコフ
14 張角 毛沢東
15 孫権(仲謀) ド・ゴール
16 夏侯惇(元譲) マウントバッテン
17 孫策(伯符) 山下
18 甘寧(興覇) ドゥーリトル
19 徐庶(元直) 黒島
20 黄忠(漢升) ルントシュテット
>800 ドナウ河、バラトン湖の警備、密輸、密航、密漁、越境、海賊行為等に対する臨検拿捕じゃない?
ポーランド人て強いんですか
804 :
名無し三等兵 :2007/04/12(木) 12:47:41 ID:Cu1sqeWs
弱いやつにはめっぽう強く 強いやつにはめっぽう弱いのがポーランドです
美人が多いのがポーランドとルーマニア。 不美人が多いのがスイスとドイツ。 だったかな? 人種が混ざると美男美女が出来るんだが・・・
806 :
名無し三等兵 :2007/04/13(金) 12:22:35 ID:6Id/7Ubp
ドイツ、スイス出身の国際的モデルとかプレイメイトとかいるけどなあ ロシア、チェコ出身もいるけどポーランド出身って見たことない
807 :
名無し三等兵 :2007/04/13(金) 21:00:12 ID:1Q+bNZ9k
>>805 ハンガリー、チェコ、スロバキヤ、ブルガリヤも美男美女の宝庫だったぞ。
やったやられたを数多く経た国は・・・ 美男美女揃いと言うことかな。
つまり東欧のカーマスートラはバルカンクリーゲである
保守
811 :
名無し三等兵 :2007/04/24(火) 12:43:46 ID:qk1GDSDV
スイスって、エリツェンに賄賂贈ってたんだってね。
にわとりじいさん 鶏 哲夫!ウェイブ♪ 君の研修施設は地元にもあるよ!今年行け! 応援しているよ?しかし、君はブ男だね。 クヤシカッタラ専門医資格トルシカナイネ! [いいわけ無用!] 鶏哲夫・・研修病院 が君を待っている!勇気を出すのだ。 恥じることはない!。分け目のボリュウムに警 報!ソッ剃りが・・・!額が広いな 漢方?専門医?医学博士?WHAT?外科認定? 嘘の奇術はよくないね・・名前deけんさく けんさく急げ急げ!研修。研修。急げ 急げ。体もおんな。心もおんな。一人じゃ なにもできないよ・・・・。でもおとこ 専門医資格とってから専門外来やれよ。 おまえ!西部ライオンズ市「吉川病院」鶏 哲夫
期待保守
いまロシアともめてるエストニアは東欧かな・・・
北欧じゃないか?
東と西に悩まされるから中欧じゃね
817 :
名無し三等兵 :2007/05/07(月) 01:24:38 ID:/7jH8qkl
age
818 :
名無し三等兵 :2007/05/07(月) 10:20:33 ID:55Frna9O
エストニアとラトビアはプロテスタントでロシアよりドイツ、スウェーデンの文 化的影響が強いから→北欧か中欧 リトアニアはポーランドの影響が強いから→東欧 チェコ、ハンガリー、スロバキア、クロアチア、スロベニアは神聖ローマ帝国、 オーストリアと関係が深いからドイツ、オーストリア、スイス、ベネルックス諸 国とともに→中欧 ルーマニア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアはビザンティン 、オスマントルコと関係が深いから→バルカン諸国 ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアは→ 東欧
ベネルクスが中欧と数えられると、参るなw それはさておき、WW2〜冷戦期では、ソ連がいたから、東欧概念が今と異なる。 基本的にWTO諸国が東欧か。 ソ連は、東欧とも言いにくい。あえていえばロシアだな。あいつは。
ロシア=アジアでおk
ロシア人たちは「自分らこそローマ帝国の衣鉢を継ぐもの」と思ってそうw
一応ビザンツ帝国の後継者自称してたしなあ 革命経た今のロシアがどうかは知らないが
フォッシュ
824 :
名無し三等兵 :2007/05/27(日) 11:00:27 ID:udQkppID
あげ
825 :
名無し三等兵 :2007/05/27(日) 12:19:48 ID:bQEAlR6y
「バナナ気取り」の典型だなこりゃw
827 :
名無し三等兵 :2007/05/30(水) 19:24:49 ID:SzQja3ZJ
ワタシは馬鹿で時代錯誤で無知蒙昧で民主主義と程遠いアジア人ではありません 知性と感性に満ち溢れ、自由と民主主義の中で育った純粋な人間、 いわば、欧米人に極めて近い存在なのです!
フォッシュ
保守
830 :
名無し三等兵 :2007/06/08(金) 17:10:04 ID:gmq0hKie
なんだかクロアチア人が強そうに見えます
831 :
名無し三等兵 :2007/06/10(日) 23:46:32 ID:ZgsJplyX
*クロアチア軍編成(41.11.1-43.4.30) ・第1軍団(Sisak) 第1歩兵師団(第1、2、11歩兵連隊、第1、2砲兵大隊) 第2歩兵師団(第3、12、15歩兵連隊、第8、10砲兵大隊) ザグレブ騎兵連隊 第1オートバイ大隊 第3工兵大隊 ・第2軍団(Slavonski-Brod) 第3歩兵師団(第4、6歩兵連隊、第3、4砲兵大隊) 第4歩兵師団(第5、8、10歩兵連隊、第6、7砲兵大隊) バニャルカ旅団(第10歩兵連隊、第1突撃大隊、第8砲兵大隊) スリェム旅団(第5front大隊、第2、4工兵大隊) ・第3軍団(Sarajevo) 第5歩兵師団(第7、9歩兵連隊、第5砲兵大隊) 第6歩兵師団(第13、14歩兵連隊、第9砲兵大隊) 第1山岳兵師団(第1〜4山岳兵大隊) 第1〜4front大隊 第1〜18鉄道警備大隊
>>831 どういう装備だったんでしょうか。
ドイツがマトモな兵器を廻したとは思えないしなあ・・・
833 :
名無し三等兵 :2007/06/11(月) 19:18:06 ID:PpyPFLP7
>>832 自分の持ってるのは編成が中心で装備まではわかりません
>>831 に追加
ドイツ系クロアチア人部隊
‘プリンツ・オイゲン’大隊
‘ルドヴィーク・フォン・バーデン’大隊
‘ゲネラール・ラウドン’大隊
‘エマヌエル・バイエルン’大隊
計4個大隊はドイツ軍武装親衛隊の制服・記章を採用し、シルミアとスラヴォニアで軍事行動
中であったが、1943年4月にドイツ武装親衛隊‘プリンツ・オイゲン’SS山岳兵師団に吸収統合された
また同年同月に非ドイツ系のクロアチア人で編成されたクロアチア第1、2狙撃兵大隊が同師団
に吸収統合されました
《‘プリンツ・オイゲン’SS山岳兵師団の編成について》
1942年10月時点
定数19000(主にバナート、ルーマニア、クロアチアで不法に徴兵されたドイツ系で編成)
・2個山岳兵連隊
・1個山岳砲兵連隊
・1個偵察大隊
・1個工兵大隊
・1個通信大隊
・1個軽戦車中隊(仏ホチキスH-38軽戦車)
・1個フィーゼラー偵察機スコードロン(空軍より配属)
同師団は同時期、セルビアで軍事行動中
834 :
名無し三等兵 :2007/06/11(月) 21:26:15 ID:PpyPFLP7
*クロアチア軍編成(43.5.1) ・第1軍団(Zagreb) 第1山岳兵旅団(第1、5山岳兵連隊、第11/3、6砲兵大隊) 第3山岳兵旅団(第3、11山岳兵連隊、第3/2砲兵大隊) 第4山岳兵旅団(第4、8山岳兵連隊、第1、12砲兵大隊) 第2狙撃兵旅団(第1、10狙撃兵連隊、第4、8砲兵大隊) 第1警備旅団(4個大隊) 第2警備旅団(5個大隊) 第3警備旅団(3個大隊) 第4警備旅団(3個大隊) Zagreb警備旅団(3個大隊) 第1補充旅団(Pokuplje、Kvarner、Velebit連隊、Istrian防衛連隊) Zenica旅団 第1装甲車大隊 ・第2軍団(Slavonski-Brod) 第1狙撃兵旅団(第4狙撃兵連隊、第5、16砲兵大隊) 第3狙撃兵旅団(第5、8狙撃兵連隊、第7、18砲兵大隊) 第4狙撃兵旅団(第7、13狙撃兵連隊、第6/11、22砲兵大隊) 第5警備旅団(4個大隊) 第6警備旅団(5個大隊) 第7警備旅団(4個大隊) 第10警備旅団(10個大隊) 第2補充旅団(Srijem、Tuzla連隊) 第2装甲車大隊 ・第3軍団(Sarajevo) 第2山岳兵旅団(第2、9/6山岳兵連隊、第9/13、20砲兵大隊) 第8警備旅団(5個大隊) 第9警備旅団(6個大隊) 機動旅団(3個大隊) 第3補充旅団 第3装甲車大隊
835 :
名無し三等兵 :2007/06/11(月) 21:40:29 ID:PpyPFLP7
>>834 の訂正と追加
*訂正
(43.5.1)→(43.5.1-44.11.20)
*追加
・軍直轄部隊
A鉄道警備隊(第4〜7大隊)
B鉄道警備隊(第8〜11大隊)
C鉄道警備隊(第1〜3、18、19大隊)
D鉄道警備隊(第14〜17大隊)
E鉄道警備隊(第11〜13大隊)
装甲列車中隊
第1〜3労働者連隊
836 :
名無し三等兵 :2007/06/11(月) 22:05:23 ID:Uw/ejbzL
837 :
名無し三等兵 :2007/06/11(月) 23:13:00 ID:PpyPFLP7
クロアチア軍とは全く別組織でウスタシャは独自の軍組織を有していた 制服、階級記章もクロアチア軍とは全く別個である(クロアチア軍はドイツ軍の 軍装にウスタシャ軍はイタリア軍の軍装に似ている)ウスタシャ軍はドイツの武装親衛隊に性格的には近い*ウスタシャ軍編成(43.6.1-12.31) Poglavnik親衛旅団(第1、2連隊-親衛大隊、騎兵大隊、機動大隊、砲兵大隊、工兵 大隊、戦車中隊、第1、2補充大隊) 第1旅団(第2、3、14、21〜23、28大隊) 第2旅団(第4、6、8、15、16、18、19、36大隊、第2山岳兵大隊、第1鉄道警備大隊) 第3旅団(第5、10〜13、30、33、35、37大隊) 第4旅団(第9、17、19、31、32、34大隊、第4山岳兵大隊) 第5旅団(第1、7、20、24〜27大隊、第1山岳兵大隊、工兵中隊) 第6旅団(4個大隊) 第1コマンド旅団(4個大隊) 第2コマンド旅団(4個大隊) 第1防衛旅団 第2防衛旅団 第3連隊、機動大隊、3個親衛大隊
838 :
名無し三等兵 :2007/06/12(火) 00:03:13 ID:Uw/ejbzL
*ウスタシャ軍編成(44.1.1-11.20) Poglavnik親衛旅団(第1、2連隊-親衛大隊、機甲大隊、機動大隊、砲兵大隊、工兵 大隊) 第1旅団(第2、24、29大隊) 第2旅団(第6、15、16、18大隊、補充大隊) 第3旅団(第5、10、13、30、33大隊、補充大隊) 第4旅団(第9、19、20、31、32、34、35大隊、Otacac防衛大隊) 第5旅団(第1、7、20、35大隊) 第6旅団(第26大隊、他4個大隊) 第7旅団(6個大隊) 第8旅団(第8、11大隊、他5個大隊) 第9旅団(5個大隊) 第10旅団(6個大隊) 第11旅団(4個大隊) 第12旅団(第14、23、25、26、29大隊) 第13旅団(第6、16大隊) 第14旅団(第1鉄道警備大隊、Moslavac鉄道警備大隊、鉄道警備補充大隊) 第15旅団(3個大隊) 第16旅団(Brod警備大隊、Derventa警備大隊、第2鉄道警備大隊) 第17旅団(Ogudin警備大隊、Vrbovska警備大隊、Susak警備大隊、Rijecica警備大隊、 Ozalj警備大隊、Karlovac警備大隊) 第18旅団(Otacac警備大隊、Brinje警備大隊、Senj警備大隊、Lovinac警備大隊) Zagreb警備旅団(4個大隊) Camp防衛旅団(4個機動大隊、砲兵大隊 なおクロアチア軍とウスタシャ軍は1944年11月21日を期して統合され、クロアチ ア武装軍(Croatian Armed Forces)となった
*クロアチア武装軍編成(44.11.21〜45.5.15?) ・第1Poglavnik親衛軍団 Poglavnik親衛師団(第1、2親衛連隊、補充連隊-親衛大隊、騎兵大隊、機動大隊、 砲兵大隊、工兵大隊) 第1突撃師団(第20〜22歩兵連隊、機動大隊、第20、21砲兵大隊) 第5師団(第5ウスタシャ旅団、第11歩兵旅団、第2砲兵大隊→45年4月編成、第23 〜25歩兵突撃連隊、機動旅団) ・第2軍団 第2師団(第15、20ウスタシャ旅団、第20歩兵旅団、第3工兵補充大隊) 第12師団(第3山岳兵旅団、第12ウスタシャ旅団、第3砲兵大隊、第3工兵補充大 隊) 第14師団(第14ウスタシャ旅団、第19歩兵旅団) 第17師団 第18突撃師団 ・第3軍団 第3師団(第1狙撃兵旅団、第2、13ウスタシャ旅団、第7、18砲兵大隊) 第7山岳兵師団(第1、14山岳兵旅団、第1、6砲兵大隊) 第8師団(第1、11ウスタシャ旅団、第18歩兵旅団、第1砲兵大隊) 第9山岳兵師団(第2山岳兵旅団、第9ウスタシャ旅団、第3砲兵大隊) ・第4軍団 第4師団(第7狙撃兵旅団、第8、19ウスタシャ旅団、第14歩兵旅団、第12砲兵大隊) 第6師団(第10ウスタシャ旅団、第15歩兵旅団、第2砲兵大隊) 第15師団(第16ウスタシャ旅団、第16歩兵旅団) -続く-
〈840の続き〉 ・第5軍団 第10師団(第10狙撃兵旅団、第7ウスタシャ旅団、第8砲兵大隊) 第11師団(第4、18ウスタシャ旅団、第13歩兵旅団、第?砲兵大隊) 第13師団(第3、17ウスタシャ旅団、第12歩兵旅団、第?砲兵大隊→45年4月編成、第 28、29歩兵連隊、第5軍団偵察大隊、第1砲兵大隊、ウスタシャ工兵大隊、ウスタシ ャ補充大隊) 第16ウスタシャ鉄道補充師団(ウスタシャ補充旅団、ウスタシャ工兵補充大隊、ウ スタシャ士官学校中隊) 第1ウスタシャ防衛旅団(4個歩兵大隊、親衛大隊、機動大隊、砲兵大隊、警備大隊 、3個訓練大隊、1個人民連隊) 人民軍団(Baranja連隊、Vuka連隊、Posavje連隊)
クロアチア防空巡洋艦「ズニアム」
843 :
名無し三等兵 :2007/06/12(火) 22:09:17 ID:ig/8AnRN
>>842 ズニアムとかクロアチア独立国海軍の艦艇について知りたいけど
お薦めの和書とかある? ズニアムについてだけでも良いけど
>>843 嫌かも知れないが、FAQにまとめがある。
ついでにブルガリア海軍一代記も。
845 :
名無し三等兵 :2007/06/20(水) 11:17:10 ID:MJiP8hwt
保守
*ラトビア義勇軍団(Latvian Legion)概略史@ 最近発刊されたリイド社の外国人義勇兵の本と違い、従軍したラトビア人義勇兵 だったArthur-Silgailis氏の『LATVIAN LEGION』がネタ元です リイド社の本の記述とは違う部分が割りとあります 41.7.20Stahlecker.SS少将に下記部隊を編成 Riga市警察業務→1500人 Riga州警察業務→240人 鉄道警察業務→100人 労働警察業務→260人 収容所警備業務→400人 警察隊予備役→500人 暫くしてバルト沿岸諸国で警察大隊(Schutzmannschaft=Schuma)を編成 リトアニア15個大隊(第1〜15大隊) ラトビア13個大隊(第16〜28大隊) エストニア12個大隊(第29〜40大隊) しかし内ラトビア警察2個大隊はレニングラード南西Krasnoye-seloに送られた 42.3.20ラトビア第21警察大隊はドイツ軍将校2名により軍事戦闘訓練を受ける 42.6最前線のレニングラード南西のUritskに投入され、直ちに実戦に入った 一時、第1中隊が包囲されるが、独・仏・ソ・チェコ製の雑多な兵器で果敢に反 撃し、解囲、ソ連軍を7.28に最終的に撃退した
*ラトビア義勇軍団概略史A 第21警察大隊より先に第19警察大隊が42.5中旬にKrasnoye-seroに送られ、軍事 訓練を施されていたが、大隊長のGustavs Praudins大尉は独軍大将Jeckelnに誤 解され反独行為の罪で軍法会議で起訴され、死刑判決を受けるが、LSA(ラト ビア自主行政政府)により仲裁され、死刑は免れたが、二等兵に降格させられた しかし大尉が無実であったことは自らの身で実証した その後、次々戦功を挙げ、一兵卒から中佐に昇進、黄金ドイツ十字章を受賞した このことから第19警察大隊の実戦投入は第21警察大隊より遅れた しかし第21警察大隊の戦場での活躍はドイツ国防軍の戦闘報告に記され、特に42 年12月の戦闘報告は素晴らしく、それはヒムラーの目に止まり、ヒムラーは感銘 を覚え、直ちにラトビア義勇軍団の編成を決定、ヒトラーに上申した 43年1月ヒムラーはレニングラード戦線のオランダ人、フラマン人義勇兵から編 成されていた第2SS自動車化歩兵旅団を訪問し先のラトビア2個大隊配属を命令 警察大隊群をレットラントSS義勇軍団(Freiwilligen Legion)に昇格させ、装 備も全て独製に一新された
*ラトビア義勇軍団概略史B 42.12、1919〜24年生まれのラトビア人を対象に 25000人→ヒヴィス(国防軍補助要員 15000〜17000→義勇軍団 6000→警察部隊 10000→軍需労働者 に供出するよう命令 先の第19、21警察大隊の他に既に第24警察大隊が独第380歩兵師団に配属され、Pe terhof地区で戦闘を展開していた 先の2個警察大隊の基に第16警察大隊が増援され、第2SS旅団はラトビア人部隊 に42年2月8日に改編 第21警察大隊→レットラント・レギオン第1大隊 第19警察大隊→レットラント・レギオン第2大隊 第16警察大隊→レットラント・レギオン第3大隊 と改称し、レットラントSS義勇兵連隊にまとめられ、連隊長にラトビア人のVold emars Veiss.SS中佐が着任、旅団長には独人のFritz von Scholtz.SS少将が着任 43.3.18旅団はVerkhneye-Koirovoの防衛戦に投入され戦果を上げた 43.4.1レットラントSS義勇兵第2連隊を編成 第24警察大隊(独第380歩兵師団より)→第1大隊 第18警察大隊(在Minsk<ベラルーシ警察司令部所属より)→第2大隊 第26警察大隊(在Krasnoye-Sero<国防軍所属より)→第3大隊 連隊長はラトビア人のKarlis Lobe.SS中佐が着任した
*ラトビア義勇軍団概略史C 43.5、2個連隊編成となった旅団はVolkhov川沿いのKurlyanski戦区に投入 9.2-9、Spaskaya近郊でソ連軍の攻勢を撃退、Veiss.SS中佐指揮下の第1連隊が活 躍、戦功により10月中旬、中佐はSS大佐に昇進し旅団長に着任、第1連隊長には Nikolajs Galdins少佐が昇進した 11.8、第1連隊→第39SS擲弾兵連隊に改称 第2連隊→第40SS擲弾兵連隊に改称 44.1.14、ソ連軍、レニングラード戦域で大攻勢開始 旅団南方の独軍防衛線突破され、独歩兵2個連隊が包囲された Veiss.SS大佐は直ちにT/Rgt39とV/Rgt40の2個大隊を抽出し戦闘団を編成し、 自ら指揮して南方のNekokhovoへ救出攻撃し、独2個連隊を救出に成功、さらに 独歩兵1個中隊と突撃砲3門の増援受け、同地を死守 この戦功によりVeiss.SS大佐は騎士十字章受賞(11人いるラトビア人の同章受賞 者の初受賞者である) 1.29、旅団は独第405歩兵連隊、独第49猟兵連隊と共にSchuldt戦闘団に編入 2.2-14、Orodezh戦 2.15-19、Utorgosh戦 2.21-26、Dubrovo-Podubye戦 2.27、Ostrovへ移動 2.28、Velikaya川(Panther防衛線)に移動し、新編成の第15ラトビアSS師団と合 流した
*ラトビア義勇軍団概略史D 第15ラトビアSS師団の編成 43.3初旬、第15SS砲兵連隊をJelgava(Riga南西)で編成 5.3、第32SS擲弾兵連隊(レットラント第3連隊)をPaplaka(ラトビア西部)で 編成 6.15、第33SS擲弾兵連隊(レットラント第4連隊)をVainode(Paplaka南東)で 編成 7.12、第34SS擲弾兵連隊(レットラント第5連隊)をCesis(Riga北東)で編成 9月、3個擲弾兵連隊、バルト海沿岸のVentspisへ移動 11.11、SS擲弾兵連隊をSS義勇擲弾兵連隊に改称 11.20、師団全部隊、Velikiye-Luki西のNovo-Sokolnikiに移動 第32SS義勇擲弾兵連隊長Arvids Kripens.SS大佐 第33SS義勇擲弾兵連隊長Villi Janums.SS大佐 第34SS義勇擲弾兵連隊長Augusts Apsitis大佐 第15SS義勇砲兵連隊長Voldemars Skaistlauks大佐 44.2.15、Redya川防衛戦 2.22、Velikaya川(Panther防衛線)に到達 第2SSラトビア義勇旅団配下の 第39SS擲弾兵連隊→第42SS義勇擲弾兵連隊(レットラント第1連隊) 第40SS擲弾兵連隊→第44SS義勇擲弾兵連隊(レットラント第2連隊) に改称し、新編の第44SS義勇擲弾兵連隊(Rudolfs Kocins大佐、レットラント第 6連隊)と共に第19SS義勇擲弾兵師団を組織した
*ラトビア義勇軍団概略史E 第15、19SS義勇擲弾兵師団はKarl von Pfeffer-wildenbruch.SS大将指揮下の第 Y.SS軍団配下に編入された ※このように第19SS義勇擲弾兵師団の方が師団番号は後だが、戦闘経験では第15 SS義勇擲弾兵師団よりも豊かであるため ラトビア人の騎士十字章受賞者11人の内、10人が第19師団(又は第2ラトビア旅 団)所属者 ラトビア人の黄金ドイツ十字章受賞者12人(騎士十字章受賞者を除く)の内11人 が第19師団所属者で占められている 44.3.4、Panther防衛線の戦い Velikaya川は氷結していたため、ソ連軍は重戦車も投入した 3.16大損害を受けながらもソ連軍は激戦の末、93.4高地を占領 3.18、第15SS義勇擲弾兵師団長Silgailis.SS少将指揮下戦闘団(第32連隊第1大 隊、第15軽擲弾兵〔フューリジリアー〕大隊、第43連隊第3大隊、第44連隊第2 大隊、第15戦車猟兵大隊)を組織し、ストゥーカと独軍突撃砲支援下反撃開始 3.19、ラトビア義勇兵は93.4高地を奪回 7.10、Panther防衛線Opochka戦 この戦いの戦功により第32SS義勇擲弾兵連隊長Karlis Aperats中佐が騎士十字章 受賞(第15SS義勇擲弾兵師団唯一の騎士十字章受賞者)
>>846-851 乙です。
ソ連軍にもラトビア人部隊があったのでしょうか。
エストニア人部隊みたいに同胞相打つの事態もあったろうなあ・・・
>>852 当然あったと考えるべきでしょう、ラトビアにも共産主義者はいたし
ただ120万の人口では1個師団の兵力を集めるのは困難で枢軸側同様徴兵でしか兵
を集めることはできなかったでしょう
隣国リトアニアではソ連軍は第16リトアニア師団を組織しましたが、4分の1は
ユダヤ人で命令もイーディッシュ語が使用されました
無論、これはリトアニアにユダヤ人が多かった特殊事情によるものですが
但し、バルト沿岸諸国でソ連側に加担する者は地元民から嫌われたのも確かで
それはリトアニア、ウクライナ西部ガリツィアで大戦後の1954年まで“森の人々
”という反ソゲリラが活動していました
実はラトビアにも同様な組織は活動していました
このことはまた後ほど書き込みたいと思います
1944.7.1―ラトビア人の動員状況
Y.SS軍団(第15、19SS師団) 31446
他のLegion 972
警察大隊群(Schuma)14884
国境警備隊 12118
特別行動部隊(Einzeldienst) 5240
特別行動部隊“C”グループ補助 22262
空軍Legion 628
ヒヴィス 12159
トート機関 10585
計 110294
〜44.7.1までのラトビア兵の累積損害
戦死 3914
負傷 7305
行方不明 1362
計 12581
*ラトビア義勇軍団概略史F 44.7.23、第15SS義勇擲弾兵師団は休養のため、ラトビア西部へ撤収 第19SS義勇擲弾兵師団は次の3個戦闘団に分けられた ・Galdins戦闘団 第42SS義勇擲弾兵連隊HQ 6個擲弾兵中隊 1個歩兵砲中隊 1個重火器中隊 1個戦車猟兵小隊、1個5p迫撃砲小隊、1個12p迫撃砲小隊 ・Stipnieks戦闘団 第43SS義勇擲弾兵連隊HQ 4個擲弾兵中隊 1個重火器中隊 1個戦車猟兵小隊、1個5p迫撃砲小隊、1個12p迫撃砲小隊 ・Kocins戦闘団 第44SS義勇擲弾兵連隊HQ 4個擲弾兵中隊 1個重火器中隊 1個戦車猟兵小隊、1個5p迫撃砲小隊、1個12p迫撃砲小隊 ・全般支援砲兵 第15SS砲兵連隊(3個軽砲大隊、1個重砲大隊) 第19SS砲兵連隊(2個軽砲大隊)―第3、4大隊は9月中旬合流(ラトビア本土 で訓練中) 44.7.30-8.7、Lubana-Cesvaine戦 8初旬〜11初旬、訓練中の第19SS砲兵連隊軽砲1個大隊をGross戦闘団に供出 9.11〜Tirza防衛戦 10.11、Y.SS軍団配下部隊 第19SS義勇擲弾兵師団 第271ラトビア警察大隊 独第93歩兵師団 独第21空軍地上師団 同軍団はこれ以降は終戦までCourland(独語Kurzeme)での戦いとなります
*ラトビア義勇軍団概略史G 44.10.15-22、Dobele戦(Courland初の戦い) ソ連軍猛攻するが第19師団、侵攻を1qで阻止する 11.3-4、第44SS義勇擲弾兵連隊に対し、ソ連軍の攻勢 連隊は直ちに反撃し、攻撃開始線まで撃退 44.12.23-30、Dzukste戦 ソ連軍、師団の左隣の第21空軍地上師団の戦線突破し、師団左翼の第42SS連隊の 側面を迂回攻撃、師団は2q程後退させ、26日戦線を安定させ、以降のソ連軍の 攻撃を撃退 45.1.5-9、第2次Dzukste戦 師団、独第4、12装甲師団(両師団とも連隊戦闘団規模)とともに反撃、3q程 奪回する 師団はAugstkalni-Gibelas道を回復、多数のT-34/85を撃破 45.3.17-21、Remte-Jaunpils戦(Courlandでの最後の大規模戦闘) 第42SS連隊はRemte方面で20日までにソ連軍を殆んど進撃させず撃退 第44SS連隊はJaunpils方面で21日突破されるが5q程で立て直す リイド社の本ではCourlandでラトビア人部隊が反乱を起こしたように書いてある が、そのような事実は見受けられない ※終戦時Courlandラトビア人兵員 第19SS師団 5200 Rusmani戦闘団 2500 7個建設大隊 2800 3個警察大隊 1100 空軍補助 560 他 1000 降伏を潔しとしないラトビア兵はゲリラ化した
*ラトビア義勇軍団概略史H 第15SS義勇擲弾兵師団のその後 44.8下旬、師団、Danzig、Gotenhafenへ上陸 師団の車両は58%、馬車ワゴンは64%の充足率しかなかった 砲兵は第15SS砲兵連隊第1大隊と第19SS砲兵連隊第4大隊が後に合流した 45.1.25-27、Bromberg-Nakel戦(西プロイセンの戦い) 1.29-2.25、Flatow-Camin戦 2.26-3.3、Hammerstein-Gramenz戦(ポンメルンの戦い) 3.5-13、Kolberg戦 4.19、師団主力はSchwerinへ撤収 残りのJanums戦闘団(第32SS連隊第1大隊、第33SS連隊第1大隊、第15軽擲弾兵 大隊)は南下し、ベルリン南東からElbe川のGutergluckへ後退、同地で米軍に降 伏 しかしながら殿をつとめていた第15軽擲弾兵大隊とはぐれた ※その後の第15軽擲弾兵大隊 同大隊は他の独歩兵師団同様、師団の最良の兵員で組織 Herzfeldへの後退戦中、主力とはぐれ、しかもWally大隊長は本部に出頭中だっ た 間もなくベルリンへ向かうソ連軍との激しい戦いに巻き込まれ、徐々に市街へ後 退、大隊指揮はNeilands少尉が取った 大損害を受け、市街中心部で独軍部隊と合流、保安局の崩壊したビルに立て篭っ た、残存兵力80 5.2、航空省ビルへ退き、独軍と郊外Pankowへ後退、残存兵力10
*ラトビア義勇軍団概略史I 終戦後のラトビア義勇兵 戦争終結後もソ連による再支配を望まぬ義勇兵たちは北Courlandの森林地帯に逃 げ抵抗を継続した 兵力は4500程度だったが、友好的なラトビア一般人は多かった 彼等はリトアニア、ウクライナのガリツィアの反ソ抵抗組織同様“森の人々”と 呼ばれた ラトビア義勇兵たちはCourlandのRiga-Ventspilsの連絡線を寸断 ソ連の官僚、軍はバルト海の海港Liepajaから迂回せねばならなかった ソ連側は食糧の欠乏する45―46年冬に兵糧攻めをし、一時、抵抗組織の兵員を20 00に減少させたが 47年になると勢力を回復し、CourlandのModona、Ogre、Taurkalneの森林地帯を勢 力下に置いた ソ連側は軍より優秀な装備を施したNKVDの保安部隊を投入 しかし抵抗組織は48年にはRezekne市を攻撃、一時的ながらも支配下に置いた だが、多勢に無勢、次第に押され、抵抗組織の残存兵力はリトアニアに逃げ、同 地の抵抗組織に合流した
*ラトビア義勇軍団概略史J 空軍レギオン・レットラント(Luftwaffen Legion Lettland)について 43.10、10名のラトビア人による訓練航空隊を編成 暫くしてそれは50名近くになった 訓練機にはArado66、Gotha45を使用 44.3、初の実戦攻撃機飛行隊Nachtschlachtstaffel.1を編成 10名の将校、10名の下士官、105名の兵より構成 44.3.22、第3飛行隊編成 44.6、第2飛行隊編成 44.6.26、3個飛行隊は統合されNachtschlachtgruppe.12(NSG12)を編成 北部軍集団において航空支援を行い 44.7.25、NSG12は戦闘飛行1000回を記録 44.8.11、Janis Rucels中佐指揮下Luftwaffen Legion Lettlandを編成 配下に ・訓練飛行学校(Liepaja/Grobin) ・NSG12 ・戦闘飛行隊 ・第385Flak大隊 ※ラトビア人の戦闘機パイロットについて 44.5.31、戦闘飛行隊編成 44.6、5名のパイロット、Fw190の慣熟訓練を独で受ける 44.7、残りのパイロット独へ 44.10、訓練完了した2名、Riga近郊のSpilve空港に送られ、実戦に入る(さらに 3名追加)独第54戦闘機連隊所属 44.11、他の5名のラトビア人パイロットはBerlin北東Griefswaldeの独第1戦闘 機連隊所属となった
kurzemeはラトビア語ですよ 独語ではKurland
861 :
名無し三等兵 :2007/06/22(金) 21:19:31 ID:mGMoI3Eq
age
862 :
名無し三等兵 :2007/06/23(土) 02:34:15 ID:mQKAn9o7
エストニアはどうだったの
〇現代リトアニア地上軍 自動車化歩兵旅団‘鉄狼’(4個自動車化歩兵大隊、1個砲兵大隊、1個予備歩 兵大隊)
864 :
名無し三等兵 :2007/06/25(月) 08:09:20 ID:ZaYHn3KY
保守
865 :
名無し三等兵 :2007/06/28(木) 22:16:32 ID:v9F3dyk5
第2次世界大戦時の東欧の兵の精鋭度ランキング(ロシアを除く) 1.ラトビア、エストニア義勇兵 2.クロアチア 3.ウクライナ、リトアニア反共ゲリラ 4.セルビア 5.ルーマニア 6.セルビア 7.ポーランド 8.ブルガリア 9.スロバキア ってとこですか
セルビアが2つあるよ
きっとチェトニクとパルチザンw
そういやチェトニクの首領はミハイロビッチ ボスニア紛争時のセルビアの指導者もミハイロビッチ 一時、セルビアにはミハイロビッチとストイコビッチしかいないと思った
そう言えば、ドイツ国内のソルブ人は弾圧されて、集団移住させられる所だったとか。 スターリングラードの敗北がなければ、着手される予定だったけど、第一次大戦では 勇敢な兵士としてドイツ帝国軍に絶賛され、しばしば先鋒に使用されたが為に、戦死者 は結構いたらしい。
871 :
名無し三等兵 :2007/07/09(月) 04:03:09 ID:e950lhTO
ふーん
初めまして。 教科書では日独伊三国同盟のみが言われ、スターリングラード戦でもイタリア ・ハンガリー・ルーマニア戦ってるのに“第6軍全滅”のみで酷い物です。 自分達が子供の時“ソビエト側・敵”と教えられた彼らは“第二次大戦中の 味方”だったのです。 もっと東欧を日本の子供に知ってもらわねば。 台湾は日本と共に戦った事を誇りにし、タイも同じらしいです。 本当の戦争を知る上で、彼らの置かれた境遇は善悪・勝ち負けで計れない物が あります。本当の戦争の犠牲者として教科書に載せるべきだ。 従軍慰安婦嘘っぱち。中国・南北朝鮮に屈するな!!
↑スレ違い 他のスレで叫んでくだせぇ
本物のキティかw
>タイも同じらしいです タイ人が聞いたらぶちきれるぞ
アホクサ 台湾が日本の侵略戦争を肯定する教科書なぞ出すわけなかろう 二十一ヶ条要求を始め国民党政府を長年苦しめた日本の侵略が良いことか 東南アジアの教科書でも日本の侵略を肯定したり、日本の侵略を解放などと称し ている国は一つもない そう思い込んでいるのは日本の歴史修正主義者だけ
877 :
名無し三等兵 :2007/07/14(土) 10:50:42 ID:25wgW5yM
スロバキアって自国製の自走砲を生産していたっけ
コピペに反応すんなよ
879 :
名無し三等兵 :2007/07/15(日) 03:01:42 ID:LF+BQ2sm
>>877 無かったんじゃないかな。 もはやシュコダはドイツ資本の傘下に入ってたから。
序盤にピルフォウゼク指揮の快速師団の戦車があった位で
戦後ならズザナがあるな
スコダ社はドイツに接収されたけどスロバキアでは細々他社が生産していたらし いね S-231複葉戦闘機(アビア社) S-328複葉攻撃機(アビア社) A-100複葉攻撃機(アエロ社) Ab-101複葉攻撃機(アエロ社) OAvz.30装輪装甲車(タトラ社) LT-40軽戦車(CKD社)
もうひとつあった B-534複葉戦闘機(アビア社) 他にチェコスロバキア解体前に 輸出用として スコダ社が T-32軽戦車 CKD社が TNH軽戦車 を生産していたが、解体後の動向はわからない
883 :
名無し三等兵 :2007/07/21(土) 12:44:30 ID:4bukgmws
age
884 :
名無し三等兵 :2007/07/22(日) 00:25:40 ID:f9bOcXD5
スロバキア快速師団のドニエプル作戦はどうなったの?
眠い人殿・・・。
今は寝てるんだよ
【質問】 「眠い人」はなんでも知っているんだな。 眠いのにこれだけ博識って事は,起きているときはすさまじいだろうな. 【回答】 世界を滅ぼしかねないほどの凄まじさなので,封印魔法で半分寝ていてもらっているのです.
warota
889 :
名無し三等兵 :2007/07/23(月) 23:45:32 ID:kaptNmAs
誰か眠れる獅子を起こしてきてくれたまえ。 たとえ世界が滅んでもかまわないさ!
890 :
名無し三等兵 :2007/07/23(月) 23:57:30 ID:1F+GykYL
ポーランド軍大好き。騎兵で機銃陣地に突っ込んでくさまは わが帝国陸軍の万歳突撃以上に勇猛果敢。 レッキ7tpとか1号や2号を前面に攻勢かけてきた ドイツ軍を一時撃退してるんだよな。
撃退じゃなくて怖かったんじゃない。戦車相手に抜刀騎兵だぜ。実際には 障害物とか故障に悩まされたみたいだけど。
騎兵部隊が戦車部隊を撃退したという神話がまだ生きていたのか 冷静に考えれば携帯用対戦車火器の全くない騎兵が勝てるわけがない
というか騎兵突撃なんて殆どやってないんだけど。 いつまでナチ公のプロパガンダを信じてるんだか。
なにがナチオタだ ガセネタ野郎 だったら車両故障以外で全損した独軍戦車の明確な数示してみろよ どうやって破壊したのかもな!
それよりも騎兵突撃をした証拠を出せ
砲兵の大口径火砲で戦車を攻撃 歩兵部隊が足止めされたところを騎兵が側面攻撃した。 確認されている騎兵突撃は10数回で その殆どに戦車はいなかったし、やはり殆どが成功してる。 戦車相手に時代遅れの騎兵突撃で〜 なんて妄言はいい加減やめたほうがいい。
俺の文章のどこに“突撃”なんて語句があるんだ、コラッ テメエが不利になったからってこっちの言ってることまで捏造するんじゃねえよ さあ、さっさと銃剣でキヤタピラ刺して戦車止めましたとか 銃床で戦車の装甲ぶち破りましたとか世迷事言って笑わせてや 捏造クン
898 :
名無し三等兵 :2007/07/24(火) 17:17:31 ID:Pw4JhN82
ドイツ厨発生あげ
ドイツ厨じゃないだろう。 夏休みになって遊びに来た釣り師だよ。
ロシア派遣イタリア軍についても知りたいね。スペインの青師団についても・・・・
夏が来たって感じ。
「夏が来た」厨age
904 :
名無し三等兵 :2007/08/09(木) 11:28:32 ID:tuDNuPCz
ハンガリー軍の階級 Lieutenant-Field Marshalって中将? 上級大将? スロバキア軍のLt.colonels 知ってる人いたら教えて!
そういえば昔「眠い人」のほかに 「不眠症の人」なんていうコテハンも見かけたな。
こないだチェコがMe262を大戦後に生産していたことを知ってビックラこいた
907 :
名無し三等兵 :2007/08/17(金) 09:36:27 ID:bT3GGmKh
ネタ尽きた?
もともと眠い人ひとりで切り盛りしてたようなスレだからね
「このネギでですね、眠い人さんの尿道をですね」
ageてみる。
保守
そう言えば、戦車マガジンだったかの別冊は、ドイツ軽戦車だったけど、 35(t)と38(t)の特集で、チェコ時代とか輸出型とかルーマニアの対戦車 自走砲とかに触れられていたっけ。
>906 東欧最初のジェット戦闘機だったっけ。
2007年9月11日時、軍事板最古参のスレ記念カキコ ここの住人には知れ渡っているのだろうけど、IAR-80/81ってカクイイ
IAR-80/81、いいねえ。 被弾に弱かったそうだけど・・・
四年間持ちこたえてるのか……
息の長いスレですなw
918 :
名無し三等兵 :2007/09/20(木) 18:21:20 ID:z8GeP35F
age
軍板のスレが落ちまくってこのスレが立て直されてからもう四年になるのか・・・。 時がたつのは早いもんだ。
歳を重ねている・・・
保守
やれやれ、危ないところであった。データ飛ばなくてよかった。
誰かネタのある人はいないのかしら
眠い人氏やほかの識者たちの努力でもってたスレだからなぁ 教えられるばかりだった側としてはなんともネタ提供のしようが……
保守
926 :
名無し三等兵 :2007/10/19(金) 13:40:33 ID:mK+h9jDn
ルーマニア軍が対ソ戦で唯一単独で作戦行動し、陥落させたオデッサ攻防戦の詳 しい本ってありますか? 英語 OK 独語、ルーマニア語 NG
ないんじゃないかしら・・・
あるなら俺も読みたい、でも英語読むのは疲れ果てるので訳して欲しい 独語やルーマニア語なら訳して貰えないと読めないなぁ
脅威!オデッサ戦車
930 :
名無し三等兵 :2007/10/29(月) 05:33:59 ID:CO6xCt24
そういやルーマニア女、最近日本で見かけなくなったな パブとかなくなっちゃったし
EU加盟して欧州中どこでも好きに行ける以上、遠い日本に来る必要が無いのでしょう
>>930 石原のおかげでそっち系は厳しいんだよね。東欧系の立ちんぼなんか壊滅して久しい
ハンガリー、ルーマニアって戦闘機も戦車もある程度自主開発できたんだよね
ルーマニアの国産戦闘機IAR81はいいねえ。
ハンガリーに国産戦闘機はあったかな? Re2000とかMe109Gとか輸入機がメインだね。
光人社から小国の戦闘機運用扱った本が出てたね。
937 :
名無し三等兵 :2007/11/03(土) 13:28:47 ID:sxlN43yZ
もし大戦が起こらず、ドイツが双方に関与支援しないという前提で 1940年代にハンガリーとルーマニア間で戦争が起きたらどちらが勝ちそう? トランシルバニアとかの領有権争いがあるから可能性はあったはずだとおもうが 力押しでルーマニア優勢?
どうかなあ。 兵の質ではハンガリーの方が良いのかな。 装甲車輛でもルーマニアはつらいね。
41年6月時点のハンガリー、ルーマニア所有兵器 ・ハンガリー 〈航空機〉 CR42戦闘機(伊製) Re2000セリエIファルコ(伊G55セリエI) Ca310リベッチオ攻撃機(伊製) Ca135bis攻撃機(伊製) Ju-87B-2急降下爆撃機(独製) Ju-86K-2爆撃機(独製) 〈AFV〉 39Mチャバ装甲車(20mm砲搭載) 35Mアンサルド豆戦車(伊製L3/33) トルディT/U軽戦車(20mm砲搭載) ・ルーマニア 〈航空機〉 IAR80戦闘機 Bf109E-3戦闘機(独製) Bf109E-4戦闘機(独製) He111H-3爆撃機(独製) 〈AFV〉 R-1軽戦車(チェコ製TNH改) R-2軽戦車(チェコ製LTvz35)R-35軽戦車(仏製)
1941年6月時点のハンガリー、ルーマニア陸軍編成 ・ハンガリー 歩兵師団:8 予備師団:8 戦車師団:2 騎兵師団:1 ・ルーマニア 歩兵師団:18 近衛師団:1 戦車師団:1 国境警備師団:1 山岳師団:3 一見、ルーマニアが優位に見えるが、国内にマジャール人が少数民族としてかな り存在しており、ソ連、ブルガリアとも領土問題を抱える
ブルガリアはソ連と戦争せずに同じ枢軸国たちと 延々と国境紛争してた。 何と言うか・・・摩訶不思議。
942 :
名無し三等兵 :2007/11/05(月) 01:05:43 ID:jUGi7DED
>>941 ブルガリアは42年9月には占領駐留していたマケドニアで資源の利権争いでイタリアと直接武
力衝突したよ
「弱小空軍の戦い方」飯山幸伸 面白い。 東欧の雑多な機体がてんこ盛り。
944 :
名無し三等兵 :2007/11/14(水) 15:01:31 ID:QNPjNvVY
>>940 もともとトランシルヴァニアはハンガリー領だしな。第一次世界大戦をおっぱじめたオーストリアのお陰で、ハンガリーが巻き添えを食ってルーマニアに割譲。
>>941 だって、マケドニア語ってほとんどブルガリア語だし。首都ソフィアが国の西の端にあるのも、マケドニアを将来併合したときに国の中心部に位置するようにしてあるわけだし。
ロシアはトルコから国土を開放してくれた恩人だし。ソフィアに行ったらツァー、アレクサンドル2世のでかい銅像が建ってる。
どうでもいいがブルガリアの国王も「ツァー」
946 :
名無し三等兵 :2007/11/15(木) 22:36:57 ID:PGpYwAMm
ツァーは皇帝と訳すのが普通では?
ペルシャの君主もシャーだっけ?
称号は同じЦарなのに中世のは帝国で近世のは王国なんだな。 >947 アラブの王号がマリクで、二つ合わせてマリク・シャーはトルコの王様の名前だね
英語の自称がkingdomだったからな ロシアに遠慮でもしたのかな
保守
ネタなし。
誰か、1941年12月のハンガリー第2軍の戦闘序列を教えてください
953 :
名無し三等兵 :2007/12/06(木) 22:05:24 ID:6uGRYGOf
>>952 残念ながら第2軍に配属されていた師団はわかりませんが、41年12月時点で
のハンガリー軍師団
・機動軍団
2個自動車化旅団(各3個自動車連隊)、2個騎兵旅団(各2個騎兵連隊)で編
成、定数24000名、但し東部戦線には1個騎兵旅団のみ派遣
・第1装甲師団(編成中)
38(t)軽戦車108両
短砲身W号戦車22両
T号指揮戦車2両
・一線級歩兵師団(第1、2、4〜27)
但し第2、4、11、14〜18、22、24〜27師団は基幹人員のみ
・二線級歩兵師団(第102、105、108、121、124)
後方警備用保安師団、全師団東部戦線投入
954 :
名無し三等兵 :2007/12/11(火) 16:30:22 ID:PjuwNmDr
ハンガリー、ブルガリアは元帥いなかったの? 規模からして一人位いてもいいのに・・
ハンガリーはトップが提督だし。陸軍元帥なんてやばい存在置かせんでしょ。
海がないのに提督?
958 :
名無し三等兵 :2007/12/18(火) 09:17:36 ID:FrfDeg8C
スロベニアとモンテネグロもWWUで若干だが部隊があったのは驚きだ
傀儡国家を作るときには、傀儡軍隊を編成するのが、 独立国の体をなすのに一番手っ取り早いからね。
960 :
名無し三等兵 :2007/12/22(土) 05:37:12 ID:370+2k2t
>>955 そうすね。
ホルティ提督の最終階級は海軍中将でしたね〜
,,..、--―――--、..,, r'" ,.,.,. ,.,., `' 、 ククク・・・ | .i´ _`'-、___.、-'´_ `i l | l u _ `'-、__、-'´ _ l .| ・ ・ ・ ・ | .l `'-、____、-'´ u l | あかぎくん・・・・・・! | |-====、、 ,、====-| | . r‐'、ヽu,、-三- ゛|j~´-三-、u /r-、 悪いが・・・・・・ おまえは今 | r‐| | <´ o 》ノi i、《 o `> .| |`i | ここで死ぬ・・・・・・! | に| | ゛ミ≡彡 | |uミ ≡彡 .| |.コ | これは声だっ・・・・・・! . | ゝ.|.| ト、ヽu__ | .| u、_ /,ィ |.|ノ l 麻雀を司る・・・・・・ 魔物からの声・・・・・・! . ゝ-|| | |ヽ u ゝ!__!ノ u ,ィ'|.| ||‐'´| / | ト'、|`T.T T T.T´レ1| .| | おまえを殺せ・・・・・・ という声・・・・・・! 7/| .| \|`「`「`「`「´| |/ | |ヾ ,.、 -‐ '' "|';';| .| しu`U二二二 ̄u .| |';';'|" '' ‐- 、.., '' "';';';';';';';';';'|;';';'| `'i 、  ̄ ̄ ,、-i´ .|';';';'|;';';';';';';';';';';" '' ';';';';';';';';';';';';|';';';';| | `'-、___,、-'´ | |';';';';'|;';';';';';';';';';';';';' ';';';';';';';';';';';'|;';';';';'| ト、 .ノ| |';';';';';';|';';';';';';';';';';';';
保守
>>961 >2台はいずれもドイツ製の「マイバッハ T-3(Maybach T-3)」戦車で、第2次大戦以後、
>ブルガリア南東部のトルコとの国境付近で地中に半分埋まった状態で残されていた。
三突をマイバッハ T-3(Maybach T-3)とブルガリアで呼んでいたのかな?
野ざらしのまま放置するんなら、維持やレストアする意思と金を持った奴に売ればいいのに。
ドイツのコレクターにはいくらで売りつけるつもり だったのだろうか? ブルガリアにはいろいろ残っていそうだなあ。
3突ならもう主砲にしろ機関銃にしろ実弾生産してないからアメリカの民間人コ レクターは手に入れることは可能なのでは? ドイツ人の場合は官民とも日本よりWWU時代にアレルギーが強いから個人が入手 することは無理だと思う
970 :
名無し三等兵 :2007/12/28(金) 15:03:24 ID:z/blI3eq
ドイツで持ってる奴が居なかったっけ>WW2車両 イギリスのあの集団には敵わないだろうがw
ベルトリンクだね。 あのお祭りは凄いねえ。
>>969 主砲はともかく、8mmMauser弾は普通に生産してるんじゃね?
ドイツはシュビムワーゲンのオーナーズクラブがあるけど戦闘車両はどうだろう? ドイツの戦車博物館の再生能力は凄いからあげちゃってもいい気もする
>>973 個人では戦闘車両は無理だろ
ドイツ国内は勿論、周辺諸国も騒ぐのが必至
ブルムベアなら個人で持ってるドイツ親父がいた気がする
ただ単純に重量のある“装軌”車両は舗装剥がすから個人で移動させるのはムリ なような NATOの演習も戦車は演習地域までトレーラー移動だし
>965 >三突をマイバッハ T-3(Maybach T-3)とブルガリアで呼んでいたのかな? そう当時のブルガリアは35(t)戦車をシュコダ、38(t)戦車をプラガ 四号戦車をマイバッハ T-4と呼んでいてヘッツアーや四号駆逐戦車も プラガやマイバッハ T-4で通していたらしい。 戦前から輸入していた車両もヴィッカース、ルノー、ホッチキス、アンサルド-フィアット と呼んでいて例外はハンガリーのトゥラン戦車をヴェンガー、パンター戦車を ブルガリア語で豹戦車と呼んでいたそうで。
ブルガリアがソ連側に立ったときイタリアのM14/41を支給されてその戦車群と 戦わされた悲惨なドイツの部隊があったな。
ふぉっしゅ元帥
ついに980に来てしまった訳だが…。 こうなってしまうと、後はDATを待つばかり。
sage
マイナーネタながら、濃くて充実したスレでした。 スレに資料性の高いレスを書き込んでくださった皆さんにお礼申し上げます。 ありがとう。 3年の5/21に立った、軍事板最古Liveなこのスレが落ちると、 次は開けて見た事がないけど、4年の11/3のあのスレか…
このスレ、面白いね。 読みふけってしまう。
もう待避するいとまもありません。我々のスレもどうなるか…… 今レスが981を越えました!ものすごい流れ!…… さようならみなさん,さようなら……
986 :
名無し三等兵 :2008/01/12(土) 21:45:48 ID:UKZm8uDX
るーまにあげ
次スレはどうするんだろう?個人的には次スレは欲しいけど…
東欧に限らず、WW2の中小国でいいんじゃないか次は。 今のところオランダだのベルギーだのタイだのブラジルだのを語る場が無いからね。
話題もないしな
990 :
次スレ :2008/01/13(日) 04:04:51 ID:???
991 :
名無し三等兵 :2008/01/13(日) 04:30:03 ID:aOu67Jgs
記念かきこ 東欧の最強の武器は美女
眠い人の一人舞台だったな
このスレが出来た頃からROMってきた みんな乙彼さん。
埋めないのか?
995 :
名無し三等兵 :2008/01/13(日) 12:13:08 ID:J9ywZLbz
くろあちあげ
ルーマニア軍の悲惨さが・・・目立つねえ。 あ、ブルガリアの三号突撃砲泥棒はどうなったんっだろうか?
997 :
名無し三等兵 :2008/01/14(月) 00:31:43 ID:515tpmWR
>>996 装備が貧弱な割に枢軸国ではドイツに次いで派兵してるからね〜東部戦線。
998 :
名無し三等兵 :2008/01/14(月) 00:34:16 ID:kpVsVBaX
ドラキュラもびっくりだっけw
ルーマニア女はいかった〜 もう誰も日本からいなくなったけど
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