1 :
岡康 :
03/05/21 19:35 ID:r8pvQaLE 戦後60年近くになろうとしていますが太平洋戦争に 参加したおじい様とおばあ様の体験を語り合い交流 しませんか?
2 :
名無し三等兵 :03/05/21 19:36 ID:muj2cXby
2?
既出
4 :
ななし :03/05/21 19:41 ID:r8pvQaLE
やっと復旧したか!でもタイトルがよくないぞ。 ちなみにウリの祖父は中国の広東省での作戦に従事した 一般の兵士だ。地元での物資調達作業のときに村人 から現地妻を進められたが、「キリスト教徒」なので いらないと言ったら、泣いて感謝されたという。 それだけ現地では風紀が乱れていたのだと改めて思う。 除隊後は某大手鉱山会社の仕事に戻り、松代大本営建設 のため、人員の派遣を手配していた。
5 :
名無し三等兵 :03/05/21 19:41 ID:G/+YwGfO
6 :
名無し三等兵 :03/05/21 20:37 ID:8+/8KfvO
台湾で従事していて米軍に空爆され倉庫みたいなところに軟禁されて 最期は戦艦に乗って帰国したそうだ
7 :
名無し三等兵 :03/05/21 20:41 ID:mULMmNbE
日露戦争で戦死した
8 :
名無し三等兵 :03/05/21 20:45 ID:65UsjhJp
半島で羽振りが良かった。 終戦後、本土に引き上げて唖然とした口。
9 :
名無し三等兵 :03/05/21 20:53 ID:7TKAPDmS
731部隊で細菌兵器つくってました
10 :
名無し三等兵 :03/05/21 20:57 ID:GVCL/qgv
えーっと理研で原爆作ってました
伊52の乗員で戦死した。
某研究所で研究してたらしい。独り言が多かったってさ。
タイガー戦車に乗っていました
>>14 声に出して読め
「あなたのおじい様の戦争体験を教えて 」
16 :
名無し三等兵 :03/05/21 21:30 ID:XLkRNir5
>15 戦争体験のある人のおじいさんってぇと西南戦争あたりか?
そういうことになるかな。
俺の爺さん(故)は川崎五式で米軍機100機撃墜したんだぜ! なわけねーだろ、川崎重工の戦闘機の整備士だよ・・。
漏れの爺さんは西南戦争に従軍していてね、 なんでも連隊旗を腹に巻いたまま戦死したそうだと。
じいさんは、結核にかかっていたので、徴兵を免れました。
終戦時には結核にかかってても徴兵されたんだぞ
全部が全部じゃねーよ厨房が。
漏れのじーさんは戦争には行ってません 料理人でコック長をやってたようで ただ天皇陛下に料理を出したのが誇りだそうです でも張り切ってい料理を準備していたが 陛下にカレーを注文されて(´・ω・`)ショボーン としてたそうな
24 :
山崎渉 :03/05/22 00:59 ID:???
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
25 :
名無し三等兵 :03/05/22 16:42 ID:9dBlI/KJ
わりと日本近海で沈んだ空母ってなんなんだろう? ウチの爺ちゃんそれに乗ってたらしいんですよ
日本近海で作戦行動中(回航中)に沈んだ空母といえば信濃。
27 :
名無し三等兵 :03/05/22 18:11 ID:GEQ058rk
2030年に勃発した日朝戦争でチョソのT−62戦車を携帯用ビーム兵器で撃破したらしいですよ
マジレスすると千代田に乗ってて撃沈されますた
29 :
名無し三等兵 :03/05/22 18:22 ID:dUP5syX1
陸軍航空隊の整備兵だったうちのじいちゃんは、墜落した敵機の部品の精度と自分がいじっている日本機の部品の精度を比較して、「この戦争は負ける」と思っていたそうだ。
30 :
25 :03/05/22 18:22 ID:???
>>26 レスありがとうございます
爺ちゃんは自分が中学生の時に他界してしまったんで
空母の話しはうろ憶えだったんですがたしかそんな名前だったような気がします
静岡県の遠州灘沖という所で沈んだというような話しを聞いた気が…
まあ、日本の一番近くで沈んだ空母といえば天城であろう。
>31 海鷹ではないのか。 あれは擱座か。
ウチの父方の爺様は近衛で戦車に乗ってたそうで。 80近い今でも大型特殊免許保持して、 現役バリバリの会社員やってる元気なヒトです。 この間遊びに行ったら、東名を120キロでかっ飛ばして あっちこっち案内してくれました……コワカッタ
オレの母方のじーさんはニューギニアだかラバウルだかで憲兵まがいの任務についていた。 わざわざ自分で縄をこさえて規律違反者を取り締まってたらしい。 ある日、日本は負ける、死にたくねえとかいって上官に呼び出された。 上手くごまかしたそうだ。なんとが復員できたからいいけど。
35 :
名無し三等兵 :03/05/23 01:25 ID:f5foA3OL
↑意味が判らないんですけど…
36 :
名無し三等兵 :03/05/23 03:21 ID:bvk4Zzld
うちの爺さんの弟は満州で師団の参謀をしていたそうです。 ソ連の侵攻の後、捕虜となり、暫くシベリアに抑留されていたのですが、なんとか帰国出来ました。 爺さんたち家族は、士官はまず処刑されているだろうと、弟の帰国は全く予想していなかったので、 帰ったときはみんなで泣いて喜んだらしいです。 爺さんの弟は、ソ連では赤化教育を散々されたが、「あなたがたの言ってることはもっともです」 と適当に返事をしていたと言っていました(w
うちの爺さんは、ソ連に捕まってシベリヤ抑留だったというが、露西亜女抱いたりして 命からがら日本に帰国出来たそうな。 捕虜だったそうですが。
38 :
名無し三等兵 :03/05/23 04:35 ID:vQlvl1JG
2回徴収された母方の爺さんの話 同じ部隊の知障の兵隊に少し離れた建物を指して 「あの建物の灯りがつくのが先か、お前が着くのが先か。賭けよう」 といって走らせ、着く直前に灯りをつけては 「惜しかったな。もう1回やってみな」 と繰り返し何度も走らせたそうです。ひ、ひでえ。
39 :
名無し三等兵 :03/05/23 18:15 ID:70IjdJ0b
うちの死んだじいさんは昭和18年にドイツへ他の陸軍将校とともに軍事オブザーバー として派遣され、ドイツ降伏まで在留。場所は忘れたがベルリンの近く の士官学校だか兵器学校だかにいて、ロシア軍が接近したので、陸軍省の命令で他の日本人将校 と北方の港湾に逃れようとしたが(英米軍への降伏は論外だったため)、途中ロスケに包囲されて、 そのまま降伏。しかし当時ロシアとは日本は交戦していなかったので、ひと悶着ありながらもその後 モスクワ経由で満州へ放流される。しかし、その満州で再び侵攻してきたロスケにつかまり、運悪く シベリアに。三年ほどの拘留を経て帰国。ドイツでのロスケの残虐行為を目の当たりにし、 抑留中に散々いじめられたじいちゃん、はっきり言って死ぬまでロシア人を憎悪してました。
家の死んだ祖父様は、駆逐艦「若月」に乗ってたそうだ。 波を蹴立てて航行しているセピア色の写真をよく見せて貰っていたのだが 乗っているのに何故.....? 僚艦に乗っていて勘違いしてたのだろうか?
25歳。
去年まで飛行機に興味無し君だったけど、Fighter Aceで
フライトシムはじめた。一度やってみなよ。
料金は一ヶ月1000円(税抜)、クレジットカードかウェブマネーどちらでも払える。
払うだけ払ってプレイせずに一ヶ月分の料金だけでやめることもできるし、
思い切って飛んでしまえば君もエースになれる。
金なきゃオフラインでフライトすればいいだけ。暇つぶしになる。
爆撃機とか空母とか色々あるのでマジでお勧め。
http://game.2ch.net/test/read.cgi/fly/1053577223/
42 :
名無し三等兵 :03/05/23 22:32 ID:ZAl5C/Vu
俺のじいちゃんは関ヶ原で徳川軍に突っ込んだそうだ。
うそくせー
家に軍隊手帳があるんだが、字が汚くて読めない。 なんか赤字で勅諭みたいな軍人精神を書き記してあるんだが、大意もわからん。 こーいうのは古典の分野だろうか・・。
うちの母方のばーちゃん、 終戦時に国後から引き揚げてきて別海に住んでたんだそうだけど、 戦後かなり長い間、千島との間の海峡では日本の領海なんぞあってなきが如しで、 夜な夜なソ連の哨戒艇や駆逐艦が沿岸数百メートルまで接近しては 陸上の港湾施設や集落を探照灯で照射して歩いてたとか。 「人狩りに遭うぞ!」つって、地元民は夜の間は決して家の外に出なかったそうだ。
>>40 自分で撮った写真とは限らんでしょう
元々は実家へのお土産用だったのかも
47 :
名無し三等兵 :03/05/24 08:41 ID:GhDGvLdJ
おれのじいさんはなんだかかわいそうだ・・ 無口な人で、長くは喋ったことがないけど、 ばあさんによると、戦前はうるさいほどに喋って、元気だったそうだが 最近はだいぶ治まってきたそうだけど、 ひどいと週に1回は食事も取らずに、 「俺は捕虜を殺した、俺は捕虜を殺した・・」って魘されてるんだって ハゥ
48 :
槍乃会 :03/05/24 08:59 ID:???
昭和以前からキリンビールを飲んでいたんですね 若い人のちょびヒゲが沢山います
49 :
名無し三等兵 :03/05/24 09:36 ID:hSEVbFPJ
俺のオヤジは、生まれて初めて書いた手紙が同郷の兵隊さんあての 慰問袋なんだって。その返事がきたそうだ。 それで、それから程なくしてその人が戦死したという知らせが。 未だにトラウマらしいよ。
50 :
名無し三等兵 :03/05/24 10:07 ID:GSrEqwL8
おー、復活したか、うれしいな。 このスレ好きなんだ。 オイラ、前スレ、前々スレで語り尽くしちゃったから、小話。 この前、叔母一同と食事をする機会があったのだが、 かぼちゃだけ残していた。 曰く、戦後すぐは食料が無く、玄関にでかいかぼちゃが ゴロゴロと転がっていてそれだけを毎日、毎日たべたので それがトラウマで未だにかぼちゃが嫌いなんだって。 そうしたら、伯母一同がそろって、 「あれは辛かった・・・。」と言っていた。 戦時中は文句が無くて、戦後に文句があるという事は、 やはり戦後の混乱期が一番食糧難だったみたい。 ちなみに母は戦後混乱期生まれだが、やはり栄養失調で ちょうどはだしのゲンの妹がなっていたように、湿疹が出来ていたって。 伯母は、「あの頃は、どの赤ちゃんも栄養失調で、できものがあった」と言っていた。 こんな所みたいです。 ちなみに、場所は家のある東京の話です。
うちの母方の爺さまは陸軍歩兵で中国で戦っていたそうな。 一番、進んだときで柳州までいったんだって。 桂林の戦いで水筒を撃ち抜かれてしまって戦闘後に困っていたら その時の師団長が自分の水筒をくれたらしく今でもそれを大切に使ってる。 長生きして欲しいよ、爺ちゃん。
53 :
名無し三等兵 :03/05/25 00:33 ID:NPUU8VI9
55 名前:名無し三等兵 投稿日:03/05/24 17:24 ID:B1TJEM3y
シベリアに抑留された日本人は、厳しい寒さのなか強制労働に従事し、栄養失調や過酷な重労働から6万2000人が死亡した。
http://www.remus.dti.ne.jp/~froggy/siberia3.html 50年代に社会党左派議員団が、ソ連の収容所に抑留者を訪問した。収容所側は面会の条件として捕虜が政治問題については発言するのは禁止していた。
面会の席上、尾崎清正元中尉が意を決して立ち上がり、自分たちの救出のために国論国策を曲げることは断じて避けて頂きたいこと、われわれは祖国のためなら甘んじてシベリアの土となる決意であることを表明した。
そして、「日本の青年へ」と題して同様の趣旨の嘆願書を手渡した。ところが、この議員団は手紙を握りつぶし、「”戦犯”たちの待遇は決して悪くないという印象を受けた」などと記者会見を行ったのである。
・野溝勝【左派社会党参議院議員】ら訪ソ議員団
「『戦犯』たちの待遇は決して悪くはないと言う印象をうけた。一日8時間労働で日曜は休日となっている。
食糧は一日300gとパンが配給されており、肉、野菜、魚などの副食物も適当に配給されているようで、栄養の点は気がくばられているようだった。」
出典元:1955年10月6日『朝日新聞』より
【踊る埴輪より】この発言が問題なのは、彼らがソ連側の説明を信じきってそのように言ったのではなく、実情を分かっていながら国民を欺くためにあえて嘘をついたことにあります。
また、この訪ソ団はシベリア抑留者が国会・国民宛に出した嘆願書を揉み消したことでも有名です。
http://haniwa82.hp.infoseek.co.jp/meigen/
>>53 うおっ、ちょうど向こうのスレにそれに対してレスつけたや。
☆信じられないが、本当だ Part5.1
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1053521646/76 一つ、小話。
前スレに書いた、バイト先で会った、
戦車の整備兵をやっていた人から聞いた話。
戦後、その人は自動車整備工をやっていたのだが、
その中でエンジンを開けてびっくり!!
車のカムの軸受けに、削ったブリキを入れて隙間をあわせてあった。
曰く、戦争中、後は部品が調達出来なかったので、
カムが削れてもかわりの部品が無い。
そこで、苦肉の策として、隙間にブリキを入れて調整していたというのだ。
すでに擦り切れてぺらぺらになっていたそうだが、
それで相当な距離を動いていたらしい。
「日本の技術は、こういう現場の人の努力から来るかもしれない」
と言っていました。
多分、こういう腕の良い整備士がいたからこそ、日本の飛行機も
そこそこの稼働率を誇れたのだと思う。
戦争末期に稼働率が下がったのは、こういう人達が徴兵されたのも
一因かも知れないと、今思った。
おいらのじーちゃん、もう死んじゃったので詳しい話を聞けない のが本当に残念なだけど、小さい頃聞いた話で覚えているのが じいちゃんは海軍に入っていて(たぶん偉くはなかった感じ) 船だか潜水艦だかに乗っていたんだけど、1回目に乗った船が 撃沈され、その後乗った船も撃沈されたのに2回とも生き残ったって話。 (とんでもなく漠然としていてスマン)今思うと2回も撃沈されて 生きてたって本当の話?って思っちゃうよ。 じいちゃんの話は、それでお前が産まれたのは本当に運のいいこと なのだから命を大事にしる!とか絶対に戦争は起こしてはならねぇ! とか人はいつ死ぬかわからないのだから親や仲間を大事にしる! とかいう説教で終わるパターンだった…。でも小さい頃の記憶だから いつの戦争のことなのかとか全然分からないんだよね。 マジで2回とも生き残ったのかなあ?そういうのってあり得る話? おいら戦争のこと全然分からなくて未だ半信半疑なんだよね…。
56 :
名無し三等兵 :03/05/25 17:06 ID:nfsTtfaJ
57 :
じんべえ :03/05/25 17:26 ID:3GXPmFj7
いとこのじいちゃん 元海軍少尉で(特務)ラバウル航空戦に上飛曹として参加していたときのこと 語呂がいいので「波平行安」の刀を座席の後ろにつっこんで出撃していた。 ある日、空戦中に敵の放った弾丸が風防を突き破り、軍刀の切先三寸のところに 命中し、頭からわずかに弾道がそれ、助かった。 今でも弾痕のついたままの刀を宝物として持っている。
58 :
名無し三等兵 :03/05/25 18:31 ID:Vl31Nnow
>>55 うちのじいちゃんは正確に言うと沈没1回だけど、1回目はミッドウェーで最上に乗ってて、
三隈にぶち当てられた近辺にいたから、危うく・・・
で、勤務所が飛行甲板になったから駆逐艦に移ったら、ほどなく潜水艦に雷撃されて沈没。
10時間くらい海に浸かって漂流したって。
そういやぁピカドンの時は呉に居て、きのこ雲が良く見えたって言ってたな。
>>57 良い話やね。さすが武士の魂日本刀。当時から大切にしていたから守ってくれたのかも。
59 :
名無し三等兵 :03/05/25 19:07 ID:zhnMQq56
漏れのじいさんは上海事変のとき上海市にあった大世界というレジャービル(今でもあるよーーーーー)にはまり、あへん中毒になった。
中国の飛行機に繰り返し攻撃を受けて 後ろをみたらみんな死んでいた。 平原で襲撃されると危険らしい。
61 :
名無し三等兵 :03/05/25 20:51 ID:Okm1cQUI
>>58 うちのばあちゃんも呉在住。しかもその日は家の前の海で家族で泳いでたのでよく見えたらしい。
うちの爺さんはビルマ戦線に砲兵として従軍したけどイギリス軍の捕虜になってたらしい。
ビルマへの慰霊ツアーのさそいがあるたびに「現地の人間にあれだけひどいことをしていながら、どのつらさげてビルマにいくつもりか。」って激怒していた。
>>58 おや、そちらもビルマ戦線で砲兵ですか。
うちの爺さんは野戦重砲兵第3連隊(三島)でインパール作戦に参加していたそうです。
もう随分記憶が薄れてしまって、大した事は聞き出せていないんですけれど。
野戦重砲三連隊は当時珍しい牽引車装備の機械化砲兵で、それが自慢だったのか
「うちの連隊は挽馬(ばんば)じゃないんだ」を何度も聞きました。
「火炎放射でやられた砲陣地に入ったら、みんな砲の傍で死んでいた。
分隊長は砲身にまたがったままで焼け死んでいた」という話も聞いたことがあります。
中隊の生き残りが11人というから、きっと地獄を見てきたんでしょう。
以前三島大社まで連れて行った時、50年ぶりということで本当に懐かしそうでした。
小話一つ。
開戦の日。役所に勤めていた祖母は女性職員たちと
「勝てるわけないじゃないねぇ」などとお昼の雑談を楽しんでいたご様子。
そんな祖母は「グラマン(F6F)」の機銃掃射を受けた経験のせいか
飛行機はぜんぜん乗らず、先日はじめて「プロペラが無い飛行機がある」と知りました・・・。
63 :
名無し三等兵 :03/05/26 23:19 ID:G+l1lc7n
うちの母方の祖父は戦艦金剛の砲術担当で ガダルカナル砲撃にも参加したそうだ。 で、金剛と書かれた写真や記念絵葉書とか 持ってるんだが、これがどう見ても榛名なんですわ…
>>63 なんか、いいね、その話。
吹き出してしまったです。
65 :
じんべえ :03/05/27 02:29 ID:UlC+l3BB
いいなあこのページ じいちゃんらと話してるみたいで ほっとするよ
ある意味、羨ましいよ。俺は生まれてきた時は 2人ともジーちゃんはいなかったし。
67 :
名無し三等兵 :03/05/27 04:32 ID:N8KVcZQR
>>63 うちの他界した父も金剛乗り組みでした。ガダルカナル砲撃の頃までは
乗ってたんですが、その後地上勤務で中国に送られ、親日中国政府の海軍の
教官をしていたと聞きました。良く話してたのは初陣のマレー沖で、英国艦隊
と刺し違える覚悟だったそうです。機関担当の下士官だったそうで、海軍工機
学校を首席で卒業し、その時頂いた銀の懐中時計があったのですが、まだ父が
死ぬ前に見つからなくなってしまったのです。見つかったら家宝として大事に
保管してくれと父に頼まれていたのですが、死後16年経つ今も見つかりません。
>>68 >銀の懐中時計
そういう貴重な資料が失われるのは、悲しいことですね。
見つかったら、画像UPキボンヌです!!
70 :
45 :03/05/27 14:22 ID:???
母方のじーちゃんの弟が赤城乗り組みの一飛曹だったんだけど、 ミッドウェイで生き残った後一度も内地を踏まずにラバウルに送られて、 ガダルカナルの航空戦で戦死してしまったそうだ。 最後に戦地から送られてきた手紙、今でもじーちゃんの家の神棚に収められてるよ…… ちなみに、当のじーちゃんは国後で高射砲を撃ってたそうだ。 沖縄に送られる予定で釧路まで移動したら、 乗り換え予定の輸送船が二隻続けて潜水艦に撃沈されて、 三隻目の船を待ってる間に終戦になったとか。 「俺は船運がいい」って口癖みたいに言ってる。
父方のじーさんは徴兵されるも体が弱く 舞鶴で事務員をしていたらしい。 鈴鹿に出張させられて、帰ってきた次の日に 鈴鹿が大空襲を受けたとか。 母方のじーさんは昭和天皇と同い年=戦中は40前後。 さすがに徴兵されなかったが、従軍記者として満州へ。 シベリア送りにされたが、どうにか帰ってこれた。 やっと家に帰った際、満州に行く前に作った末娘=私の母に 「おじさん、いつ帰るの?」と聞かれ ものすごくヘコんだそうな。
家の爺さんは師範学校でてマッタリ生きといりましたが、召集され、 ジャワ島の戦いの中爆弾落とされてあぼーんされてしまいました。・゚・(ノД`)・゚・ なんでも富士山と同じくらいの高さの山を登って敵軍を討つという戦術でしたが、 富士山って・・・そりゃ駄目だろうと・・・・(ノД`)・゚・゚
ウチの祖父じゃないが、友人の先日他界されたお祖父様は戦艦比叡機関兵曹で、 第三次ソロモン海戦にも参加し、機関部配置ながら九死に一生を得たそうな。 総員上甲板で上がったら艦橋が半ば消滅し、何処もかしこも遺体だらけ、 しかも途中で重傷を負った兵が、「水をくれ」としきりに叫んでいるのを横目で見てしまったんだそうな。 色々お世話になったのに、お礼を言う前に他界されてしまった。 今度墓参りくらいには行かないとな・・・・。
74 :
age :03/05/28 04:44 ID:???
age
75 :
_ :03/05/28 04:45 ID:???
76 :
名無し三等兵 :03/05/28 06:33 ID:v3NEVk8P
うちのじいちゃんは中国いってたけど テストうけて少佐に昇進して日本に帰ってきて生き残った とかいってたけどテストとかあるんですか どんなテストかしら…… もうかたっぽは「かっこよかったから国内パレードしかしなかった」とか さらに胡散臭い事言ってまちた……
>>76 それはじいちゃんは階級をサバ読みするの法則に
当てはまりそうですな。
78 :
76 :03/05/28 13:29 ID:???
胡散臭さ炸裂
79 :
山崎渉 :03/05/28 15:47 ID:???
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
80 :
ななし :03/05/29 01:37 ID:UJNSv8qX
たのむ、日本女子大や東京女子大の英文科出身で戦争中に 日本軍の軍務に従事していた人を知っている人はいないか?
81 :
age :03/05/29 01:55 ID:???
age
82 :
名無し三等兵 :03/05/29 02:09 ID:2eQuF5ey
ウチノオトウサンハセンシシタアメリカヘイノシタイヲヒキズリマワシテヨロコンデイマシタ
>>80 そんな限定された人について聞かれても、難しいと思うよ。
論文か何かだっけ?
それだったら、足で調べないと。
直接学校に電話して、
卒業者の会か何かを問い合わせるのが良いと思います。
84 :
98 :03/05/29 02:25 ID:???
家のじいちゃんは東京の香取神宮近くの宿で会計をしていたそうな 戦車に地雷を仕掛ける訓練をしたらすぃ、終戦の知らせを聞いたとき は、これで田舎に帰れる♪みたいな気持ちだったそうな、 周りの人間もそんな感じだったそうな。
昔、婆様は、言葉の意味も分からない俺によく「テーシンタイ」の頃の話をした。 東京の空襲の時にはそっちの空が真昼みたいに明るく見えたとか、 同僚が妊娠しちゃって、やむなく出産したけど赤ん坊は死んだとか。 でも「辛いばかりだったけど、テーシンタイでかっこいいショーイさんと結構青春してたりもしてたよ」 とも語っていた。大きくなってからそれらの言葉の意味を知って、 女はたくましいなと思った。 と、ここまで書いて気が付いたんだけど、確か俺の爺様は少尉だった筈。 孫にのろけてたのか?
>>85 ええい、ババアはいい、ジイジの話を聞かせろ!!
失礼、言ってみたかっただけです・・・。
>>86 爺様はあまり自分から語ろうとはしなかったなぁ…。
教師やってて召集されて満州に行き、弾にも当たらず帰って来たのに、
最初に寄った大阪?の焼け跡で、不発の焼夷弾踏んで大火傷で入院した。
という話は聞いた記憶がある。
ついでにまた婆話で悪いんですが…「低空で飛んで来たアメリカの飛行機に、
機銃掃射を受けたとき、パイロットのニヤッと笑った歯まで見えた」
と婆様は言っていたんだけど、そんなことって実際あるんですかね。
誇張だと思ってたけど。漏れは軍事の知識はありません。この板の方々ならどう思われます?
充分ありえると思う。 俺の叔父は幼児のころ畠で機銃掃射を受けたが、そばに居たその姉(うまりおれの母)が 同じく笑いながら赤ん坊を狙って撃ってる米兵を見たと言ってる。 ジジババ話で無いのでsage
>ついでにまた婆話で悪いんですが…「低空で飛んで来たアメリカの飛行機に、 >機銃掃射を受けたとき、パイロットのニヤッと笑った歯まで見えた」 これはみんな言いますね。 あやふやな記憶と恐怖とかがあいまって、 こう見えたと思っているのかもしれないですね。 けど、機銃掃射くらい低空まで来るのならば パイロットが見えてもおかしくないけど、 映画の同じようなシーンを見ても、 パイロットが見えるかどうか微妙だと思う。
書きたいけど本人特定されそうだからやめた。
91 :
名無し三等兵 :03/05/31 23:43 ID:YZ3lcDlo
バーさんの話なんだけど 「アメリカの飛行機はゆーっくり落ちてくるけど、 日本の飛行機はパーッとすぐ落ちちゃう。」って行ってたな。 B29のことなんだろうけど。一般人が見られるほどよく落ちたのかね。 あと、こんなことも言ってた 「防空壕に入ってると、プスプス焼夷弾の破片が刺さる音が聞こえる。」 結構怖いのかも。
92 :
名無し三等兵 :03/06/01 00:43 ID:ArbDp1I0
>>91 確かB29の損耗率は20%行ったんじゃなかったっけ?
エンジントラブルとかも含めて
と思ったら
↓こんなのがあった
59 名前:名無し三等兵 投稿日:02/08/02 22:19 ID:Yzjc1mmv
>>48 B29の損失機数は約450機。(含対戦闘以外の不時着等)
述べ出撃数は約33、000機で損失率は1.36%
米陸軍航空隊が受領した機数が2、132機この機数が実戦配備数とすると。
損失率は21.1%になる。米軍も楽な戦いではない。
>>91 >「アメリカの飛行機はゆーっくり落ちてくるけど、
>日本の飛行機はパーッとすぐ落ちちゃう。」って行ってたな。
これはただ単に飛行高度の違いかもしれませんね。
B−29は高いところにいるから、落ちてくるのに時間がかかる。
日本の飛行機は低いところにいるから、すぐ落ちてくると。
94 :
名無し三等兵 :03/06/01 03:31 ID:CSDM8Sq+
>B−29は高いところにいるから、落ちてくるのに時間がかかる。 >日本の飛行機は低いところにいるから、すぐ落ちてくると。 そうすると周りに米機がいないのに日本機が落ちたと? たぶん日本機はすぐ火を吹いたり、エンジンが止まって操縦不能になるのに対して アメリカ機は被弾しても出力が低下して徐々に降りてくるということでは?
95 :
名無し三等兵 :03/06/01 04:02 ID:Hn12u0Iz
前に別板でも書いたけど、うちの母親の話。 まだ小さかった母親をじいちゃんが抱っこしながら 「いよいよ大和が出る。これで日本は勝つぞ」 って言ってたらしい。 大戦中、大和はその存在を知られてなかったとか聞くけど、あれは間違いだね。
>>95 >大戦中、大和はその存在を知られてなかったとか聞くけど、
>あれは間違いだね。
あれは完全に間違いみたいですね。
軍の広報で、「長門を超える新型戦艦が就航している」というような
文が一般に公開されていました。
これは信じられないが本当だスレよりです。
97 :
91 :03/06/01 17:41 ID:???
>>92-94 いや、多分大きいからふらふら落ちてくるんだと思うよ
空気抵抗で。
一応そのときの話では、火を噴いてるって話だったから。
高射砲が全然あたんないって言ってたけど。
そういえば、近くの都立大学(今は都営マンション)が爆撃目標で、
爆弾が落ちたあと行ってみたら、コンクリートの貯水槽が吹き飛んでいたらしい。
>95 親戚のおじいさん(故人)が、輸送船の銃手やってて、 大きな戦艦とすれ違ったけど、戦後しばらくしてから 大和か武蔵だとわかった…てな話してました。 ちなみに、そのおじいさんの乗っていた輸送船は米軍機の空襲にあい、 直撃弾こそなかったものの、至近弾をもらいすぎて沈んだそうです。 「飛行機落とせたの?」ときいたら、 「さっぱり当たらんかった。」といっていました。 ついでに、そのおじいさんのいとこは夜間戦闘機月光の斜銃手だったそうですが、 出撃してもほんとに真っ暗でなにも(敵も味方も)わからんかったそうです。 あれではどうにもならんというようなことをおっしゃっていました。
>>98 なんか、すっげー良い話。
実際はそんなもんでしょうね。
船の機関銃は、とりあえず鼻先に向けて撃って
爆撃コースからそらせるためのもので、
実際に当てるようなものではないと言うような話をきいたことがあります。
100get
101 :
名無し三等兵 :03/06/02 21:12 ID:DT46zLS/
「我が海軍には新鋭戦艦あり」という報道の後、 大本営ニュース映画に利根が最大戦速で航行するニュース映画が流れた。 ちまたでは「この前の広報映画に出てきた新鋭艦がその新戦艦だ!」という噂がたった。 大本営海軍部は「大本営ニュース映画で映された艦は新鋭戦艦ではない」と釈明する声明を出した。
102 :
名無し三等兵 :03/06/02 21:18 ID:QD+lCk7W
>>91 日本機は空中爆発で翼がもげるから、空気抵抗が減って早く堕ちるのだ、多分...
103 :
名無し三等兵 :03/06/02 21:19 ID:wmcLdBJ1
玉音放送があった翌日には、近所の陸軍の飛行場に忍び込んで盗みをやっていたそう。 この間のイラクと状況は変わらないみたい。
104 :
名無し三等兵 :03/06/02 21:25 ID:C2mOAI5N
>>98 戦争経験者がいてよかったですね・・・・
自分は周りにそういう人いないので・・・・
いい話だと思います
105 :
名無し三等兵 :03/06/02 21:30 ID:QD+lCk7W
>>104 そうだな
みんな、80超えたじいさまは大切にしてやれ。
そういう人は減るばっかなんだからさ。
>>103 >玉音放送があった翌日には、
>近所の陸軍の飛行場に忍び込んで盗みをやっていたそう。
基本だろ!!
ウチのじいちやんは年食いすぎで戦争はいかなかったけど、
戦後の焼け野原でくず鉄拾い(電線とか)やってえらい羽振りが良かったらしい。
ただし、羽振りが良すぎて、通報されて、
場偉大な賠償金を負わされた。
が、それまで儲けたお金で一括で払ったんだって。
それ位、クズ鉄拾いは儲かったらしい。
母曰く、「同時で誰でもやっていたのに、ウチだけ摘発された!!」
と言っていた。
ママン・・・。
親戚のじいさん(既に他界)は憲兵少尉、 メチャクチャ兵隊をぶん殴った事があるそうな。 不条理なことをしたと悔やんでいた。 その息子は現在陸上自衛隊の二尉。 別のじいさん(これまた他界)は海軍の爆撃機パイロットで フィリピンで敵戦闘機の機銃弾を受け右腕を吹っ飛ばされた、 一緒に風呂に入り腕のない右肩をさすりながら 「戦争はやっちゃいかん」と諭された、非常に説得力があった。
うちのヒイジーさん(かな?)確か日本海海戦にでたらしいとジーちゃんに 聞いた・・・
毋方のじーちゃん、右手の手首から先が無かった。 小さいときに聞いたら、「昔、戦場で敵が投げてきた 手榴弾投げ返そうとしてなぁ…」当時、意味は分から なかったが、葬式の時戦友だった人がフィリピン戦で 味方を庇おうとした時の事だったそうな。
109です。文見たら言葉がおかしいので訂正させてください。 葬式の時に戦友だった人が教えてくれたのですが、です。 お馬鹿な文かいてしまってスマン。
一人に付き何人自慰さんがいるんだか( ´,_ゝ`)プッ
>>111 定期的に来る馬鹿だな。
2chなんて、初期の頃から比べれば
何倍、何十倍にも利用者が増えているよ。
これを考えれば、簡単にわかるだろうにさ。
このスレだって、過去にレスが止まった事もあるよ、ネタ切れで。
106のじいさんは過去ログで数回登場しているよ。
いや〜オレも
>>111 に同意。
誇張や捏造や誰かの経験談の無断転載も紛れていると思って読んでる
114 :
名無し三等兵 :03/06/03 11:23 ID:Tdf8pTC2
>>108 そーだよな。あの頃の若い人は日露戦争の英雄の話を聞いてたんだよな。
うちの爺さんも今年96だが日中戦争の話よりも日露戦争の話ばかりしてくれた。
日露戦争の話が好きで戦前よく調べていたらしい。軍ヲタ?
俺が生まれる前の話だが、5年前に死んだうちの爺さんは 戦争中に中国の村で略奪してきた鍋や釜を「戦利品だ」と言って家族に自慢したらしい。 当時極左過激派学生だった俺の親父は、 それを聞いて激怒しすごい親子喧嘩になったそうだ。
116 :
名無し三等兵 :03/06/03 11:50 ID:AU1vK2Hy
インパール作戦の数少ない生き残りでつ・・
117 :
直リン :03/06/03 11:52 ID:GY3QD9xM
118 :
名無し三等兵 :03/06/03 12:01 ID:202QFb/o
うちのじじ様(既に他界)は陸軍の教官パイロットしてて、 潜水艦でドイツに行くのはいいが、帰りはロシア経由になるだろうって ロシア語も練習してたそうな。 日本語、英語、ロシア語、あとドイツ語も話せたらしい。 でも、神風号と一緒に写ってるじじ様の学生時代の写真見ると、 眼鏡かけてる。
父方の祖父は千島列島で船ごとしずんだらしい。s19.10.20〜25 船種は不明。唯一知るばあさんが少しボケてしまったのから。 母方の祖父は病弱で徴兵を免除された。彼の弟は、s19.10.22 フィリピンにてマラリアに冒され死亡。
>>113 そういう場合は、読んだ話だがと一言いれて欲しいですね。
確かに、過去にどこかのホームページから転載というのもありました。
もしかして、ホームページを作った人かもしれませんが。
121 :
名無し三等兵 :03/06/03 17:40 ID:VRohpWoP
>>114 軍歴がある年寄りってそんなもんだって。
122 :
hg :03/06/03 17:41 ID:NP0YMvub
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だいぶ前にも同じようなことを書いたような気がするが再び。 陸軍だったらしい。大尉だったらしい。 満州に行ってたんだがどっかの陸軍士官学校に呼ばれてすぐ日本へ戻った。 しかしその直後、祖父の中隊は全員グァム島で玉砕。 そのときのことを話すときはなんだかすごく悲しそう。 満州で電車に乗っていてゲリラの襲撃を受けたこともあるとか
ひいじいさんは近衛兵ですた
漏れのじいさん、もうそろそろ90なんだけど戦時中は 飛行機の整備やってたんだって。 あまり詳しくは話してはくれないんだけど、これから特攻に出撃する 飛行兵が、笑顔で「今日も空がきれいだ」って飛び立ったんだって。 それが印象的だったらしくその話はよくしてくれた。 また別の日は明日出撃する飛行兵が基地の隅で泣いてるのを見かけたらしいよ。なんの言葉もかけられなかったって。 最近元気がなくなってきたようなんだけど、もっと話が聞きたいなあと思うね。
うちのじいちゃんは、長崎の三菱の熟練工だったし年も食ってたので 教育徴兵?とかで久留米の連隊にちょっと逝って帰ってこられた。 でもその結果被爆・・・。
127 :
名無し三等兵 :03/06/04 20:49 ID:yVCfSeiM
以前、他のスレにも俺のじーちゃんの事書いたんだが、 また新しく事実が判明しました。俺のじーちゃんは南方のフィリピンへ 行ったんだが、レイテ島に行ったかと思ってたら 驚いたことに、ルソン島南部で住民を虐殺した部隊にいたんだわ。 俺がまだ9歳位のときに、じーちゃんは「わしは戦争でお前くらいの 子供も殺した」って言ってたの思い出したよ・・・。本当だったんだ・・・。 かなりショックだ・・・。 ルソン島南部のりパって町で住民を家の中へ連れ込み、銃剣で刺し殺した後は その家に放火して死体ごと焼き払ってた部隊だわ・・・。 同じ部隊の生き残りが証言している話では、家の前で刺されて瀕死の子供も見たって いうから、それは俺のじーちゃんがやったのかもな・・・。 また、カンルーバン捕虜収容所ってとこに終戦直後いたみたい。 誰か、俺のほかにじーちゃんが、通称「藤兵団」にいたって人いませんか? ただ、この藤兵団「○○飛行場大隊」にいた人は必ずといっていいほど 虐殺のタブーを隠して話さないらしいから、なかなか居ないか・・・。 いずれにせよ、これでじーちゃんの戦争時の謎がやっと解けた。 虐殺の体験者の話では、一度虐殺すると、一生夢でうなされるらしい。 自分が殺した相手に殺される夢を毎日のように見るらしい。 続く
128 :
127 :03/06/04 21:09 ID:yVCfSeiM
俺のじーちゃんも、よくうなされてたよ。 すごく苦しそうにして、「やめろっ」て言いながらうなされてた。 実は俺も何度かうなされた事があって、内容を話すと 夢の中で真っ暗な場所に死体の山があって、みんな苦しそうに うめきながら、「殺してやる、殺してやる」って俺に言うんだよ。 その時はすごく苦しくて、夢から目が覚めても冷や汗がすごいんだ。 この悪い夢を何度も見たし、その場面というのは、 じーちゃんの部隊が住民を銃剣で殺して、放火した後の死体の山と 同じような場面じゃないかと思う。 孫まで呪われるような悪事だと思っています。 また、フィリピンで虐殺のあった場所では、夜中に幽霊というか、 誰もいないはずなのに、すすり泣く声が聞こえたり、人影が見えるらしい。 実は俺の家でも、昔よく夜中に外から、それも人が入れない、家と家の間から うめき声とか人影が見える事がよくあって、 俺も正直慣れちゃってて「うるせえな」ってくらいにしか思わなかった。 じーちゃんの死後、そういった事はピタリとやんだから、 あれはきっと虐殺された人たちの怨念だったんだと思います。
129 :
127 :03/06/04 21:27 ID:yVCfSeiM
また、この部隊は赤ん坊やその母親まで平気で殺しまくった部隊で、 無数の死体が転がる建物を放火して、その火を笑いながら見ていたそうです。 いくら戦争でも、人間としてやってはいけない事をした最悪の部隊だと 思います。それでも、俺にとっては大事なじーちゃんがいた部隊です。 あれだけ優しかったじーちゃんが、まさか20歳半ばでそんなことを していたとは、すごいショックだし、ここまで人間を変える戦争は怖いと 心底思います。 殺されたフィリピン人があまりにも可哀想なので、 俺はその虐殺被害者(生き残りもたくさんいる)に何かしてあげたい。 少しフィリピン語を覚えてきたし、何か犠牲者に力になってあげたい。 終わり
>>ID:yVCfSeiM 捏造ご苦労さん、わざわざageで書くあたりが汚らしいチョンらしいな。 「旧日本軍の残虐行為」のほとんどが朝鮮人志願兵の仕業なんだよ。
俺がいく耳鼻科に元軍人が3人いる・・・・ 1人は便衣兵に酷い目に合わされて 1人は明石の乗組員(途中で輸送船に転属) 1人はラバウルにいた・・・ どれも大変いい話でした・・・
132 :
_ :03/06/04 21:55 ID:???
いくらなんでも「日本軍の悪行」とされる事件を全部朝鮮兵の仕業にするのはあんまりだろ。
134 :
じんべえ ◆2kK64Yc21o :03/06/04 22:03 ID:so957uFa
>>133 それはいえる
日本兵だって程度がいいやつばかりじゃないし
根こそぎ動員だから
酒鬼薔薇聖斗みたいなのや変態、サディストも混じっていただろうし
イギリス兵捕虜をクビチョンパした日本海軍軍人もいたしな。
136 :
名無し三等兵 :03/06/04 22:07 ID:HlLYqcQO
130晒しage
>>130 悲しくないか?何もかも信じられないって・・・何もかも疑うって・・・
もしウソでも騙されてやるって言うのもアリだと思うぞ。
そんなことばっかり言ってるとそのうち自分が信じてもらえなくなるよ。
なんてね、すれ違いスマソ
138 :
預言者 :03/06/04 22:11 ID:???
母方のじーちゃんは陸軍の戦闘機パイロット 中国戦線で呑龍の護衛をやって、部隊が南方に転進になるときに病気で内地に送還 回復後は二式複戦に乗って本土防空戦に参加、B-29一機撃墜不確実 終戦の数ヶ月前からは憲兵をやっていたそうな 照空灯に照らされたB-29に後下方から忍び寄って 斜め20ミリをエンジンに向かってぶっ放したら 火を吹いて高度を下げていったそうだ 危うくB-29と激突しそうになったので左急旋回で避けて降下して 見上げたらもうB-29は見えなくなっていたらしい 唯一じーちゃんから直接聞いた戦争の話 もうそのじーちゃんも他界してしまいました
母方の爺様は満鉄で働いていたらしい。 去年同窓会みたいなのがあって、その時の写真を見せてくれた。 戦争体験は、終戦のときに銃を埋めてきたことぐらいしか聞いてない。 あと、うちの墓は機銃掃射をうけて割れていた。 今年の正月に帰ったら新しくなってたけど。
141 :
_ :03/06/04 23:47 ID:???
>>137 うーん、130じゃないけど、
127−129はじいちゃんの話というよりは、
噂話をじいちゃんにつなげただけでしょ。
じいちゃんから直接聞いたわけではなくて、
憶測をじいちゃんにつなげているだけだから。
アサヒ新聞そのままの手口だよね。
ちょっと意図が見え見えでイヤな感じがしたよ。
127さんが書いている事実は、
・じいさんがルソン島南部にいた
・戦後は捕虜収容所
・じいさんが寝ていてうなされる。
これだけだからね。
このスレでは、本当にルソン戦記に名前も出てきた人の御孫さんも
書き込んでいるわけで、そういう憶測の情報だけで、
そういった人たちを犯罪者扱いするのはすごい侮辱だと思う。
143 :
_ :03/06/05 01:28 ID:???
>>142 に援護射撃
127氏のいう「カンルーバン捕虜収容所」という
言い方は戦時中はまずしない。戦後の呼び方。
同名の本も出版されてる。
当時の一般兵士なら「カランバン捕虜収容所」
あるいはカンルパンといったはず。
祖父からの聞き取りである可能性はきわめて低いと思う。
モンテンルパと並んでその筋では有名な収容所だから、
ボロがでたんだね。
ゲリラの戡定作戦で過剰なことをしたこの事件は、確かに
処罰されるべきだけど、戦後、取調べの段階から露骨な報復が
行われたことも知っとかなきゃね。
145 :
名無し三等兵 :03/06/05 01:57 ID:GTHBDm0X
>>139 すみません軍事には素人ですので純粋な疑問なのですが、パイロットから
憲兵に転属になるってことは実際あるのですか?
146 :
127 :03/06/05 02:54 ID:nQJFzino
>>130 イタタタタタタタタタタタタw
厨房すぎ。w自分にとって都合のいい話のみ信じる、ある意味幸せな坊や。
信じる信じないは自由だからね〜 僕ちゃんには10年早いお話だね^^
「ゴー宣・戦争論」でも読んで鵜呑みにしておねんねしようね〜。(保母さん風)
>>142 推測じゃないです。もし推測だけで書いてたら、どえらい妄想家ですよ。
それに戦争時の中国とフィリピンは違いますよ。フィリピンは被害者の
家族や、実際に日本兵に襲われて負傷した人がたくさんいます。
ソースは「ルソンの谷間」「ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民
虐殺の記録」「殺した・殺された 元日本兵とフィリピン人200人の証言」
という本です。なお信じるかどうかはご自由ですが。
>>144 捕虜収容所にいた話はじーちゃんから直接聞きました。
モンテンルパは昭和28年に捕虜釈放、
カンルーバンは昭和21年8月に捕虜釈放。
俺の伯母(父の姉ね)は昭和22年生まれです。そうなると
カンルーバンのほうだなと。
>>146 ん、いやさ、一番聞きたいのはおじいさんから直接聞いた生の話な訳さ。
それをちゃんと書いた上で、
その後にあなたが後から仕入れた感想や憶測を書くのはいいけど、
ごっちゃに書いているでしょ。
君は書き方がものすごく不味かった訳だね。
その場合、あなたのおじいさんがルソン島にいらして、
戦後、捕虜収容所に抑留されていた。
が、後から本を読んだら、この部隊は戦犯の疑いがある。
もしかして、そういう事があったのかな、
小さい頃に聞いた話が本当だったのかな
と思うくらいに書けば問題無しです。
しかし、真実が判明したら、都合よくソースが出てくるね。
148 :
115 :03/06/05 03:21 ID:Pb0gePrg
爺さんの話ではないのだが、 うちの親父の経営する会社の先代社長は陸軍中野学校出身で 戦時中は大陸で情報収集活動をしていたそうだ。 ある時陸軍の部隊に随伴して占領した町に入ったところ、 焦土作戦で町は廃墟と化していた。 現地調達を考えていたらしく部隊の食料は既に底を尽いていたのだが、 町にはもちろん食料など残されていない。 井戸水にも毒が入っている。 しかし唯一ぶどう畑にだけはたくさんのぶどうが実っており、 彼はそれから補給が来るまでの一ヶ月の間ひたすらぶどうだけを食べ続けたという。 当時の日本人にはぶどうなどそうそう口にできるものではなかったのだが、 最後には見るのも嫌になって終戦後もしばらくはぶどうが食べられなかったそうだ。
149 :
127 :03/06/05 03:25 ID:nQJFzino
ごめ。たしかにわかりにくい部分もあるかな。 実は俺フィリピン人に知り合いがいて、その人が俺のじーちゃんの 名前知ってたのよ。 同姓同名はちょっとありえない名前だし、他にある特徴も一致しててね、 間違いなく俺のじーちゃんを知っててびっくりしたよ。 もし俺がそのじーちゃんの孫だとばれたら袋叩きに会う所でした。 すごく悪いことをした人だと聞かされて、その人に聞いた話と これら資料が一致するので、ひどくへこんだんです。
150 :
>>149 :03/06/05 08:29 ID:epahSgNc
スバラシイほど都合のいい話ですね
| (゚∀゚)ノ キテネー!
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1054763051/l50 / ̄ノ( ヘヘ  ̄ ̄
| (゚∀゚)ノキュンキュン!
/ ̄ノ( ヘヘ  ̄ ̄
| (゚∀゚)ノキュンキュン!
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| (゚∀゚)ノキュンキュン!
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152 :
名無し三等兵 :03/06/05 13:27 ID:Wlw5bsLk
私は127氏ではないが、もうひとつ、都合の良い祖父の戦争体験話をしてみよう。 私の祖父は京城帝大卒業後はとある郵船会社に入社し、主に総務系の仕事をしていた。 太平洋戦争が始まると、軍属として海軍に徴用された祖父は、海軍省勤務を へて大井篤著「海上護衛戦」でおなじみの海上護衛総隊に配属された。 そこでの祖父の仕事は、最初は配船業務にかかわる郵船会社・統制会・ 逓信省等とのリエゾン業務だった。しかし祖父は自称「英語使い」だったためか、 通信傍受に関係する業務を行うようになった。 正確な業務内容と所属は本人の記憶があいまいでわからない部分が大きい。 しかし英文電文和訳が主な仕事であったこことは間違いないようだ。 けれどもこの配置転換は祖父の「英語使い」としての技量が認められたからではないだろう。 裕福な家に生まれた祖父は、よく言えば天真爛漫、悪く言えば怠け者の放蕩者。 そもそも民間企業はもとより役所仕事に向いている人物ではない。 祖父の配置転換は実際には左遷のようなモノだったらしく、仕事は暇であったそうだ。 旧司法省ビルの一室に机を与えられたそうだが、いつも退庁は午後六時前。 しばしば余暇を利用しては府内某所で遊び仲間とテニス・トランプに 興じ、勤務中も隠れて講談本を読む始末(通信傍受と講談本は切っても切り離せないモノなのだろうか?)。 また女遊びのすさまじさは未だに我が家の伝説となっている。 見かねた上司から嫌味を言われたというぐらいだから本当に暇だったのだろう。 あるいは仕事を与えられなかった、「使えなかった」ということだろう。
153 :
152 :03/06/05 13:28 ID:Wlw5bsLk
有力なコネがあったとはいえ、このような人物を飼っておくとは まあ当時の海軍には相当の度量と余裕があったということなのだろうか。 (私はよく生前の祖父に太平洋戦争中の体験を話すようにせがんだが、 いつも話してくれたのは「海軍省高等官食堂のメシはまあまあだったが、 やはり飽きがきた。それに物資が払底してくると やはり不味くなった。そこでたまに帝国ホテルで内緒のメニューを 食べていた」なんてハナシばかり。 くどいようだが本当に仕事をしていなかったようだ。) それはともかく、そんな祖父にもようやく海軍の役に立つ時がきた。 ただしそれは、終戦後のことであった。 終戦後、祖父は進駐してきた米軍との通訳業務のためにしばしの間忙しい時期を送り、 横浜、横須賀、厚木とあちらこちらに派遣されて業務にあたった。 (しかし祖父がたちいって話してくれたのは「グランドホテルのメシもなかなかで 見事な玉突台があった・・・・云々」といったハナシばかり。) 海軍省が廃止され二復が設置されるのを機に、祖父は海軍省を免官となった。 普通の戦争体験であれば、これでハナシはオシマイとなる。 しかし海軍廃止をもって、祖父の「戦争」体験は終わらなかった。 海軍をやめた祖父は、日本郵船には復帰できなかったものの、 昔のツテと若干のコネを利用して、なんとか海運関連の仕事につくことができた。 しかし新しいようやく生活になれるはじめた頃、祖父は突然地元の警察署に呼び出された。 待っていたのは米陸軍将校とMP。祖父はその場で身柄を拘束された。 つい長々と書きすぎた。続きは夜に。
わざとらしい(プッ
155 :
名無し三等兵 :03/06/05 17:39 ID:tJYOTUD3
うちのじーさん(故人)は足が悪かったからか、長男だったからかで戦争には行かなかった。 で、当時は網元をやっててデカい船を持ってたから、輸送船としてその船を国に徴収?されたらしい。 県でも2隻しか徴収されなかったらしくて、その話をじーさんから聞いた親父が今でもたまに自慢げに語る。 じーさんの弟ではシベリア抑留にあった人もいるし(次男)、ノモンハン事変で通信兵として奇跡的に 生き残った人もいる(三男)。四男だけはブーゲンビルで戦死したらしい。 じーさんたちは既に全員他界してるけど、歴史を理解できるようになった今では国・家族・未来の為に 戦ってくれたことをありがたく思います。
156 :
名無し三等兵 :03/06/05 17:49 ID:AyqGsO2d
あんまし関係ないかもしれんが 戦没者の墓石って先端が四角錐なのでわかりやすい。 墓地で見かけると、墓石の裏にまわって彫られてるいる戦没地・ 年令・階級を読み、手をあわせることにしている。
157 :
名無し三等兵 :03/06/05 17:52 ID:0L5OXL80
うちのじーちゃんは、どうやら中国の旧満州に出兵しとったみたいです。 はなしによると、あそこらへんは冬になるとめちゃくちゃ冷えて川が凍って 戦車でも渡れるようになるらしいです。じーちゃんがどうも配置換えか何かで内地に 行かされたらしばらくして戦争が終わったそうです。ホント運よかったんだなーじいちゃんて。
159 :
名無し三等兵 :03/06/05 18:38 ID:aY1D4ffF
| (゚∀゚)ノ ラッキ-ダタネー! / ̄ノ( ヘヘ  ̄ ̄
やれやれ、軍隊には大なり小なり虐殺は付いて回るのに なぜ日本兵が行ったという事例だけ狂ったように否定したがるんだろうね。 その他の”じいちゃんの話”は疑うことなくスルーしてるのにね(藁
161 :
リアル厨房 :03/06/05 19:08 ID:d6ZgKMFT
俺の爺ちゃんはフィリピンにいったそうです。 バタバタ仲間がやられて 「ああ!もう全滅したか!」 っていうときはだいたい3分の1ぐらいしか死んでないんだそうです。 斥候にも出たそうですが生きた心地がしなかったとか。 「もうなぁ。死ぬかと思ったぞ」 って言いながら腰を浮かして屁をこいてた爺ちゃんがなつかすぃ。('A`)
>>161 勇ましくないけど、実際に自分が戦争に出たら
そんな感じだろうね。
へっぽこなじいさんだけど、立派ですよ。
>>149 おーう、前スレの弟さんの仇討ちじいさんの話の方ですかな?
それが本当だとしたら、それはそれですごい事実ですなぁ。
それ位有名だったら、フィリピンの資料を調べてみると良いですよ。
あと、戦後にゲリラとして戦っていたと言う話なので、
いつ収容所に入ったか名度の時列系を調べてみると良いです。
何か、話が二転していて、
どこまでが確認できた事実なのか解らないです。
お前等論争は他所でやれ
127氏はどうも、書き方に疑いたくなるような箇所が多くて、 どうしても釣りか煽りに見えてしまうなあ。 本当でも嘘でもかまわないけど、127氏はどうしても自分の話を信じさせたいと 躍起になっている節も見受けられる。 本当の話、とするにはちょっと信じがたい。 本当の話だとしても、憶測や脚色が結構入り混じってるしね。 特に、127氏まで悪夢にうなされる部分(激しく藁)
戦艦長門に乗った友人のお爺さんの一言。 「でぇっかいフネだなぁ〜」 戦争体験じゃないか。
168 :
名無し三等兵 :03/06/06 01:21 ID:1awsxhtq
うちは15歳で陸軍特別幹部候補生(船舶)に志願して 小豆島で「マルレ」という小型船の訓練を受けたらしい。
そーいや、戦犯で思い出したが、 免許の書き換え時に話を聞いたじいさんで、 台湾で偵察機に乗っていたが、 帰ってきて、さて大学に行こうと思ったら 自分のいた部隊が戦犯の疑いを受けていて、 大学に入れなかった。 「台湾で誰か悪さしたんでしょ」と言っていた。 実際に同じ部隊にいてもこんなもんらしい。 これって、もしかして前に書いたかもしれんな。 あのじいさんの話はもっと聞いておけばよかった・・・。
>160 文句は本多勝一にでも向けてください。 なお、軍板においては「コヴァは犬扱い」であることをご理解ください。
かーーーー、つまらんな、つまらんぞ、もっと刺激的な話がイパーイあるだろ 支那でクーニャ狩りに性を出したとか、南方で土人部落を襲撃して無料の慰安所 を作ったとか、占領地で女という女は手当たり次第にはらましてきたとかさ〜 何を格好つけてるんだよ〜
うちのじいさん予科練でめちゃくちゃ虐められたらしい
>>171 当然、現実はこんなものだよ。
軍隊といっても、憲兵っていう警察システムがあって、
違法行為は取り締まられていたんだからね。
更にわざわざうらみを買うような事はしないだろ。
何のために、慰安婦システムがあるんだか。
>支那でクーニャ狩りに性を出したとか、南方で土人部落を襲撃して無料の慰安所
>を作ったとか、占領地で女という女は手当たり次第にはらましてきたとかさ〜
けど、このあたりは水木しげるの戦記ものの中で読んだ気がする。
南方の土人に日本兵がもてて、水木しげるも誘惑されたとか何とか。
>171 そんなやつはいねえって。 妄想しすぎだお前。
176 :
名無し三等兵 :03/06/06 09:44 ID:odoL+DAI
俺の爺ちゃんの葬式の時に隣の爺ちゃんがいっていた話。 その爺ちゃんは駆逐姦だか水雷艇の魚雷係だったんだが、 武蔵にくっついてレイテに向かう途中、 このまま行ったらおれら絶対死ぬなー、と思った爺ちゃん達は、 みんなで一生懸命魚雷発射装置を壊した。 なんでも、魚雷を発射管に充填するやつが壊しやすくて、ほかは壊れなかった。 その甲斐あって、船は母港へユーターン、爺ちゃんは長生きできたが、そのまま武蔵に随伴した香具師らはあぼーん… どこまで本当かは知らない。
>>176 ああ!!オマエのじいさんか!!
俺は駆逐艦か船長だったけど、
死に場所を探して武蔵にくっついていこうとしたけれど、
魚雷の発射管がぶち壊れて、死にそこなった。
おかげで戦後まで生き残れました。
178 :
名無し三等兵 :03/06/06 11:07 ID:6wj4mVWl
うちの曾じいちゃんの話。 どうも詳しい所属はわからないのだが、大陸に行っていたとのこと。 そこで案内として雇っていた中国人にある日「病気になったので薬をくれ」 と言われたらしいが、もちろんそんなものは持っていない 困ったじいちゃんは持っていた歯磨き粉をその中国人に渡したそうだ。 後日、そいつは「お前のおかげで治った、ありがとう」 と言って食料をたくさん持ってきたそうな 曾じいさんいわく「シナ人、ありゃー丈夫な奴らだ」とのこと。
>>178 ひでえ!!
いや、ひいじいちゃんは、
プラシーボだか、プラシーボ効果ってヤツを狙っていたのか!?
180 :
127 :03/06/06 18:21 ID:WVrEbi54
127です。上の方の、俺への批判みてため息でますわ。 はあ・・・。なんか哀れというかなんと言うか・・・。 あのな、軍隊にも「いい軍隊」と「悪い軍隊」がいたの。 兵隊にも、いい人悪い人がいたの。それぐらいのこともわからんのか? フィリピンで虐殺があった証拠・証人はいっくらでもあるのに、 いきなり捏造だの朝日だのと左翼扱い。アホか。しかし朝日って言われたのは ワラタ。 中 国 じ ゃ な い の。 フ ィ リ ピ ン な の 。 必死になって旧日本軍の悪い部分をごまかす厨房。 お前ら、ガキの使い以下だな。
>>180 >ワラタ
楽しかったかい?よかったね。
>フィリピンなの
そうか左翼系新聞はアジアでの蛮行とやらは一切触れないのか
いやあ、
ち ゃ ん と 新 聞 読 ん で る 人 に は か な わ な い な あ。
>証拠証人はいくらでもいる
おまえのじいちゃんが脳内妄想の産物でなけりゃ戦犯になってるはずだがねえ。
証拠証人があるくせに戦犯でもない、でも伝聞情報によれば、戦犯に違いない
いやあ、どういう頭脳の持ち主なのかねぇ?
信じたいと思うことを信じればいいが、さっさとそれ系の掲示板へいってくんないかね。
うざいから。
>>180 ちゃんとレス読んだ?全部嘘だと決め付けてる人ばっかりじゃないのに・・・
そんな書き方をしたらまともな議論にならないでしょう特に最後の文
184 :
127 :03/06/06 18:48 ID:WVrEbi54
先日、俺のじーちゃんの生家へ20年ぶりに行ってきました。 理由はひとつ。戦争で、何があったか。 フィリピン・ルソン島で虐殺した部隊だから、藤兵団だろうと決めて かかっていたんですが、驚いたことにじーちゃん、山下兵団だって。 それも山下大将の直属部隊?だったそうな。 開戦初期、マレーシアに行っていたそうで、なんととあの有名な 銀輪部隊にいたそうです。 そして戦争末期。フィリピンの資料を見ていくと、ルソン島にて 藤兵団以外に山下兵団も虐殺を行っていました。 それも皆殺しに近い虐殺を。 これ以上詳しく書くと個人が特定されてしまいますのでここまでに します。 最後に、個人的に意見を言わせていただくと、 やっぱり旧日本軍には当然ながら、いい部分、悪い部分があって、 いい部分は真珠湾の活躍、アッツ島にて玉砕した部隊、そして硫黄島の 戦い、インド独立など。 悪い部分は各国で行われた虐殺です。 我々、孫の世代としては、旧日本軍のいい部分は賛否し勇気を称え、 虐殺という悪い部分は恥じて反省し、また悪事を認めようともしない 同世代の低脳な厨房(こいつらは悪を認める勇気がない、ただのガキ。) がいることも大いに恥じ、戦争の本当の姿を正しく理解し、 後の世代に伝えていくべきだと思います。
185 :
127 :03/06/06 18:57 ID:WVrEbi54
>>181 あんたかわいそうだよ。
ちゃんとフィリピンでの戦争資料等読みなよ。
虐殺して戦犯になって処刑された人もいるし、戦犯にならなかった
人もいる。つまり、虐殺したけど戦後日本に帰ってきた人は
たくさんいるよ。そんなことも知らないの?
もちろんフィリピンだけじゃなく、他の国でもそうだよ。
人にソース求める前に、自分で正しい予備知識もたほうがいいよ。
まあ、厨房には何をいっても無駄だろうけどさ。
俺の文章は全部、良識ある大人が読むものだから、難しかったら
スルーしちゃえばいいよ。
君がいつか、俺の話を真剣に聞けるようになってくれるといいんだが。
以上。厨房にはもうレスしません。レスしても無駄ですからね。
186 :
名無し三等兵 :03/06/06 18:58 ID:Z1QZGcIe
>>184 アメリカ軍のもっとすさまじい虐殺にも触れろ
B-29であんなことやこんなこと 無差別空襲や原爆でぎゃ・・・(以下略)
ベトナムであんなことやこんなこと・・・(以下略)
うちのじいちゃんは岐阜の山奥で工場に勤めてたみたいです。 技術職だったんで戦争に行かなくてすんだとか。 終戦間近は空爆が激しくで焼けた馬とか食ったそうな。 でもって、終戦後は資料処分で大変だったらしい。 なんか、アメリカまで行って帰ってこれる爆撃機の図面を引いたらしい。 燃やしたらいいけど・・・ もう死んじゃって詳しいことは聞けないのが残念。
188 :
127 :03/06/06 19:11 ID:WVrEbi54
>>186 もちろんアメリカは悪の権化ですよ。
あの戦争だって全部アメリカが悪いし、アメリカがやってきた虐殺は
永久に許されないものだと思います。
ましてやアメリカの虐殺と比べたら日本軍の虐殺は微々たるものですよ。
これはみんなわかってる事ですのであえて書かなかったんですよ。
爺さんは教師だったので出征せず。 8月14日、勤労奉仕先の工場の監督官から 「明日は来なくてよろしい」と言われ 15日は生徒を川で遊ばせていたそうな。 正午過ぎに川べりで近くの住民から 「戦争に負けた」事を聞いたとか。 よく晴れた、蒸し暑い日だった、と。
>>186 なら日本の戦争犯罪は全て見逃していいと?
なんか言ってる事が、「俺は万引きしたが強盗をする奴もいる。俺を責めるのは止せ」って感じだ。
191 :
名無し三等兵 :03/06/06 19:46 ID:Z1QZGcIe
死んだじいちゃんは満州で官吏(保健関係)をやっていた 昭和20年7月に獣医科見習士官として入隊 が すぐにソ連軍が攻めてきた 獣医科なのに人員不足で歩兵中隊を指揮 手榴弾を喰らって負傷した 収容所に行っても、獣医でしかも将校だったので他より扱いがずいぶんよかったらしい しかし家宝の刀を没収され、しかも帰国途上に妻子全員を失った このことを話すじいちゃんはいつも涙ぐんでいた
192 :
名無し三等兵 :03/06/06 19:47 ID:Z1QZGcIe
>>190 日本だけじゃなくアメリカのことも責めろ、と言いたかった
>188 まぁ一応言っておく、 貴方も解ってると思うから誤解しないでくれよ? 何と比べたって虐殺は虐殺、「比べて良い物じゃ無い。」
ばばあとじじいさっさと死ね、糞ムカツク、半分キチガイのゴキブリどもが。
195 :
直リン :03/06/06 19:53 ID:iyBzWN/5
196 :
名無し三等兵 :03/06/06 19:53 ID:6wj4mVWl
>>182 もしかして親族かも知れませんな、かなり多いし。
197 :
190 :03/06/06 20:00 ID:???
うるせー馬鹿共、俺もお前も日本もアメリカも、世界人類すべからくキチガイの集まりだ。
>>198 言えてる、そもそも心という物自体異常。
200 :
名無し三等兵 :03/06/06 20:26 ID:Z1QZGcIe
>>198 君はまだアメリカのキチガイさに達していないな
>>200 実はみんなアメリカ嫌いということにブッシュはきずいていない
アメリカがキチガイに思えるのはお前の気がおかしいからさ 俺もお前もみんなキチガイ キチガイが怖くて直立歩行が出来るか
あああああああああああああああああっsっっっっっっっd
204 :
名無し三等兵 :03/06/06 20:33 ID:Z4Gn0KwR
狂うのが怖くて生きていけるか!!・・・話を元に戻そう
フィリッピン戦線で飴公を5〜6人ほど撃ち殺して勲章をもらいますた。
勝利宣言で逃亡したへたれのいるスレはここですか?
208 :
名無し三等兵 :03/06/06 20:37 ID:PSg+1onX
じいさんは海軍の主計にいた。 国内の鎮守府で物資の調達がかり。 おかげで、戦争が終わるまで、自分の金で買い物をしたことがなかったそうだ。ばーさんの買い物も常に業者がはらっていたとのこと。 敗戦になって、物資をだいぶ自宅に運び込んだようだ。 しかし、戦後になって業者の態度ががらりと変わってしまい、生活は大変だったらしい。
戦争で人を殺せば英雄、日常で人を殺せばキチガイ。
213 :
名無し三等兵 :03/06/06 20:42 ID:Z1QZGcIe
荒れるなよ
禿げるなよ
禿げてます
w
>>178 ,182
>ほぼ同じような話をばあちゃんから聞いたぞ!?
むむ、これは
「実は支那事変は実はワシがおこしたんだ・・・。」系の話ですな。
それはそれで興味深いですな。
>>191 ああ、ご愁傷様です。
自分も前スレと前々スレに書きましたが、
じいちゃん・ばあちゃん・父・叔父と満州からの帰還組です。
話を聞くと、本当に生きて変えれたのが不思議なくらいだった様子ですね。
>>127 うーん・・・。
検索結果とか出して、
いろいろとおじいさんに関して
調べられるようにしてあげたんだけどね・・・。
君がそういう態度ならば、このスレには来てほしくないなぁ・・・。
君の態度はおじいさんの体験を伝えたいのではなくて、
ただたんに虐殺をやっていたという話をしたいだけに見えますよ。
別に虐殺の話でもいいんですよ、実際にあっただろうしね。
ただ、そうやって、はじめは弟の仇討ちで、次はルソン島、
それで山下兵団とコロコロ話しが変わって、
それについての根拠の説明も無ければ、
周りを納得させることはできませんよ。
あっ、今思い出した。 これは戦争のはじまる前の話だけど、せっかくなので書かせてください。 これって、半分笑い話なんだけど、 じいさん、ばあさんが満州に行くときに、 同じ村の満州開拓団の全員が菩提寺に髪の毛を残していったそうです。 こんなこと、本人達はずーっと忘れていたのですが、 お寺さんが掃除した時にこの開拓団の髪の毛が出てきて、 遺族に配られたそうです。 その中に、じいさん・ばあさんの髪の毛もあったそうです。 預けてから、50年近く経っていた時でしたが、じいさんもボケてなくて、 ばあさんも元気な状態だったので、笑い話で済みました。 ちなみに、ばあちゃんは今も元気です。じいさんは年で大往生でした。
真の愛国者なら、お前らの祖先は虐殺した云々とケチをつけられても、 優雅に煙草を吹かしつつ 「しましたが何か?もしかして足りませんでしたか?」 と返すもんだ。
>127 そもそもてめえが厨房だ。
とりあえず127氏。 このスレではやってほしくないが、言い合い隔離スレあたりで 「南京大虐殺は無かった!」とコヴァを装ってカキコしてみれば、軍板住人が 日本軍の虐殺行為を全否定する立場を無条件に取るものでないこと、 ここではコヴァはボウフラ以下の扱いを受けていることを実感できるでしょう。
224 :
152 :03/06/07 04:34 ID:GBOJ9lrs
>>152 >>153 のつづき
さて米軍に拘束された祖父だったが、何事もなく三日ほどで帰ってきた。
戦犯狩が横行する中、家族親族はひどく心配していたが、本人によれば
待遇はよく、「砂糖・クリーム入りのコーヒーが飲み放題」で、
「海軍時代の話」をいろいろ聞かれただけだったそうだ。
しかも仕事の話はさほど多くなく、気があった担当将校と
ゴルフやメシや音楽のハナシばかりしていたそうだから、祖父らしい。
しかも帰るときはオミヤゲがついた。
なにやらくだん担当の将校と仲良くなり米軍関係の仕事を斡旋されたのだ。
仕事は二種類。日本語文献の翻訳と港湾荷役作業の監督である。
前者は問題がなかった。入間かどこかのキャンプにいって仕事をするだけの
九時五時の仕事だ。
しかし港湾荷役作業のほうはそうはいかない。
不定期のうえ、六ヶ月ほどのあいだ北海道や沖縄などに行かなければならない。
半年も家族と別れるのは厳しいが、給料は良く、しかも米ドルで支払われる。
祖父も悩んだであろうことは、想像にやすい。
ただ叔母のハナシによると、当時の祖父は家族の心配をする必要があまりなかったそうだ。
終戦直前に祖母、つまり祖父の妻が亡くなったのだが、その後祖母の実家は
娘たち(母と叔母)を引き取って育てたいと申し出ていた。
男でひとつで娘たちを育てるのは大変であろう、という配慮もあったのだろう。
だが叔母によれば、祖父と祖母の関係が極めて悪化していた関係上、祖父と祖母の実家の仲が
ややこじれていたという事情もあったようだ。
結局祖父は娘たちを、妻の実家に預けたうえ、仕事を引き受けた。
海軍時代と同じで「仕事はひじょうは楽だった」と生前の祖父は面白可笑しく話してくれた。
かなりのホラを交えていたはずだが、それらは以下のようなハナシだった。
沖縄での港湾荷役の仕事は、主に出稼ぎフィリピン人と現地住民の混成部隊を監督する
仕事で、日本語も英語もイマイチ通じなかった。
225 :
152 :03/06/07 04:36 ID:???
どこでもメシは栄養満点だが最低だったので、PXで缶詰などを買って自炊した。 輸送中の「司令官用トレーラ」を勝手に「行方不明」にして、ここに仲間と一緒に住み着いた。 北海道はえらく寒いトコロで、宿舎のシャワーがよく故障して往生した。 韓国ではもぬけの殻になった女学校に居住区があったが、「日本人とバレるリンチされる」ので 敷地の外には一歩もでられなかった。 しかし朝鮮戦争中だったので戦時ボーナスがもらえた。 台湾では旧帝国海軍航空隊出身の台湾人パイロットが、航空会社のパイロット活躍していて いろいろ便宜をはかってもらった。また満州航空や大日本航空の元パイトッとたちもいたので あまり寂しくもなく、ペイも良かったので面白可笑しくすごすことができた。 輸送機や旅客機のキャビンはかなり寒く、いつも布団を被っていたが ベッドがある点、今のジェット旅客機よりも快適だった。 台湾では外出が自由だったので、散々お大尽の生活をした。 詳細は省くが、祖父の弁によれば彼はアチコチで荷役関連の仕事をしていたらしい。 朝鮮・台湾といった外地を訪れたは、占領期の日本人にしては珍しいことであろう。 祖父はこうした暮らしを1950年代中旬まで続けたが、「根無し草生活」に飽きたそうで ようやく祖国に定住することにした。 その後はいくつかの職を転々とした後、創設間もないとある航空会社に就職した 普通のサラリーマン生活を続けた。 私が知っている祖父の物語はこれで終わりだが、ハナシはまだ終わらない。 ここからは私の物語である。 亡くなる数年前から祖父は私の家で暮らしていた。そこで少年時代の私はよく祖父の話相手 をするトコロとなったのだが、老いても祖父は話し好きの話し上手で、 私の祖父のハナシをいつも楽しんでいた。もちろん少年ながらも祖父の語る物語を、 老人にありがちな罪のない愉快なホラ話として受け止めていたことは、言うまでもない。 上のハナシは基本的には生前の祖父から私が直接聞いた話である。 むろん周囲の親族から聴取した事柄や私の感想で、いくぶん行間を補ってはいるが。
226 :
152 :03/06/07 04:39 ID:???
ところで数年前滅多にないことだが親族会があった。 そこで叔母と話した私は、二つほどショッキングな事実を知った。 まずは英語。「お爺さんは英語が得意なモダンボーイ(?)でしたねえ。」 「アラヤダ、お父様は英語は全然ダメよ。そりゃ船会社にいたのだから少しはできたでしょうよ。」 「エ?でも英語が堪能で、それでアメリカ軍に雇われてたんでしょ?」 「ナニ言ってるの?あなたのお爺様がお得意だったのはロシア語と朝鮮語よ お爺様の育ちは京城。ロシア語は独学みたいだったけど、私が小さいころのお父様は いっつもロシア語の本を読んでおられたわ」 私は驚愕した。 「じゃあなんで米軍関連の仕事をしてたのかな?」 「さあ、わからないわ。でもお父様と一緒にいたアメリカ人はみんな日本語が話せたわよ。 みんな二世のひとだったけど。英語を使う必要がなかったのじゃない?」 帰り道、私は冷静になって考えてみた。 そんなみんな日本語が話せて二世ばかりいる部隊とはどんな部隊だろうか? 語学要員を抱えているのは主に軍政と情報関連しかないだろう。 「祖父は単なるスチャラカ根無し草ではなかったのではないか?」 そんな子供じみた期待感をこめて、色々考え、また探してはみたが成果はほとんどなかった。 しかし近年SIGINTについて調べていたとき、偶然ひとつの事実を発見した。 祖父は昭和26〜27年の大半を朝鮮での「港湾荷役」に費やしたことはほぼ確認されている。 またその前後、祖父がジョンソン基地で「翻訳」の仕事をしていたこともわかっている。 母はツテで招かれたジョンソン基地でのクリスマスパーティについてよく記憶していた。 そして同時期の1950年から米空軍通信保全軍団(USAFSS)は、朝鮮半島で大規模な通信傍受作戦を 実施していた。 翌1951年9月,第6920保安群がジョンソン空軍基地(現空自入間基地)で編成され 朝鮮半島と日本をまたぐ形での活動を開始した。 部隊のなかでも空中通信傍受を専門とする第1無線機動大隊は、太平洋戦 (当時は陸軍航空軍所属)から活動していた部隊で占領後からジョンソン基地に進駐し、 日系二世語学要員を大量に要していた。
227 :
152 :03/06/07 04:42 ID:???
同部隊の活動はいまだ不明な点が多いが、朝鮮当時は朝鮮・中国空軍の戦闘機部隊の無線傍受を 空中で行う活動を行っており、空中COMINTの草分け的であった。 ところで朝鮮戦争勃発後、同部隊は朝鮮語・中国語・ロシア語(いわゆる露華鮮)を 専門とする傍受要員不足に悩んでいた。そこで目をつけられたのが、旧軍の情報関係者だった。 旧軍の情報関係者とG2、キャノン機関などとの関係は現在ではよく知られている。 終戦後、米情報機関は旧軍情報関係者の一部を保護し、彼らの有するロシア・中国関係情報を活用した。 またごく少数の日本人が、日本国内および大陸での現地人工作要員として活動したこともしられている。 ところでこれは最近明らかになりつつあることだけれども、第1無線機動大隊は、 朝鮮戦争中に、ロシア語・中国語・朝鮮語旧軍関係者を傍受要員としてひそかに活用していた。 この部隊は1951年の一時期、ソウル近郊の某女子高跡に駐留していたが、そこでは 日本人傍受要員によるロシア語・中国語傍受情報の書き起こし翻訳が行われていた。 彼らの存在は部隊外には極秘とされ、ペリメータの外には一歩もでられなかった。 ものの本によれば日本人要員の存在は、のちにリッジウェイ国連軍最高司令官の知るところとなり、 朝鮮半島から退去させられるところとなる。 これは共産側のプロパガンダに利用される懸念があったからである。
228 :
152 :03/06/07 04:43 ID:???
子供じみた期待感をこめて言わせていただければ、一見スチャラカだった私の祖父は 実は語学要員として、戦中戦後をとおして通信傍受任務の一端を担っていたのではなかろうか? 戦中は海軍、戦後は米軍にリクルートされたのであろう。 状況証拠とはいえ、期間やジョンソン基地、二世など符合する点がいくつかある。 また沖縄などでの港湾荷役監督は、実際には決して給料の良い仕事ではなかったし 祖父が述懐するほど、待遇の良い仕事ではなかった。 それに思い起こしてみれば、海軍省にせよ朝鮮にせよ、祖父はいつも「仕事は楽で閑だった」といって 立ち入ったハナシを不思議なほど一切しなかった。 また台湾についていえば、CIAが彼の地で大陸に対する偵察・工作員侵入のための 航空作戦を行っていたことは有名だし これに旧満州航空関係者、旧大日本航空関係者が徴募されていたことは、よく知られている。 かつて『文芸春秋』に掲載された初代某空港長の物語はあまりに有名であろう。 彼らと付き合っていたという祖父の証言は、なんとも示唆的だ。 もちろんまったくの偶然かもしれないし、ハナシ自体、すべて祖父のホラだったことも 考えられる。寂しい人間がホラを飛ばすことはよくあることだし、「翻訳」の仕事も じつは米軍基地での単純労働を言いつくろうウソだったのかもしれない。 しかしそれにしては、親族が思い起こす祖父の生活は、あまりに派手だった。 相変わらずホテルでメシを食い、将校クラブでメシを食い、服もお洒落で遊び人だった。 いやいや、これらも困窮者ならではの見栄だったのかもしれない。 それでも私は祖父が単なる根無し草のスチャラカではなかったのではないかと 思いたい。これ以上の調査はあえてやめておくことにはしているが。
229 :
152 :03/06/07 04:50 ID:???
なお米軍の空中SGINT活動や日本人要員については Larry Tart,Robert Keefe "The Price Of Vigilance Attacks of Amercan Surveillance Floghts" をとりわけ参照している。 祖父の話は別にしても大変面白い本なので、SIGINTに関心のある方には ご購読をお勧めする。 つまらんハナシで申し訳ない。 しかし私個人としては、これで心がナンだかス〜としたよ。
なるほど。
231 :
名無し三等兵 :03/06/07 09:51 ID:A1XhEDPR
内のじーさん、技術将校で日本にいた。戦時中も、芸者遊びだったとのこと。 敗戦時、全ての書類を焼いたとのこと。現在は軍人恩給と年金でのんびりやってます。
爺ちゃん(故)は中島飛行場で働いていたそうだ 東京か兵庫かどちらかは聞いていないが 恐らく東京で働いていたと思われる そんなある日、爺ちゃんはうっかり機械に指一本挟んでしまって 半分程無くなった(まぁ、指一本で済んだので安いものだろう) 爺ちゃんが何故、徴兵されなかったのは謎だ 体力が無かったのか、何か病気か・・また、よほど機械整備の評価が良かったのか・・ 手先も器用で、良く自作の戦闘機や船とか作ってた 生きていたら、戦闘機とかに、ついてイロイロ話し合ってみたかったのに・・ 残念です。
233 :
_ :03/06/07 10:06 ID:???
↑自作の戦闘機や船はもちろん模型だよね?(汗
235 :
:03/06/07 11:14 ID:???
>>232 >>爺ちゃんが何故、徴兵されなかったのは謎だ
うちの父方のGさんですが、かなりの年齢なのに赤紙がきた。
町の人達に送られて入営したものの、身体検査でテイ種不合格…
小柄で痩せすぎで、年くってたからというのが理由らしい。
つーか赤紙出す前にわからないのかって話しだが。
B-ちゃん曰く「恥ずかしくってはずかしくって、こっそり夜に家に帰ってきてもらった」そうな。
で、その漆職人のG-さんは戦時下の人手不足を補うべく、刑務所の刑務官をやってたそうな。
父方の曾祖父は身長「六尺」、父は170cm台、漏れも185cmという ほぼ甲種合格の家系だというのに、何故か祖父だけは150cm弱で乙種?合格。 輜重兵として満州事変に行った。 馬に乗って移動していたところ、その馬が地雷を踏んでしまい、両脇にいた 部下ともども即死。自分だけ馬の胴体の陰になり無傷だったといい、(祖母の 話に拠れば)ずっとそれを苦にしていた。 最終階級は伍長。 その祖父が10年前に死んだあと遺品の整理をしていたら、戦地から家族に 宛てた絵葉書が出てきた。その本文が 「○○子、○○(子供の名前)元氣ニ シテイマスカ。 オ父サンハ マイニチ元氣デ シナノ兵タイヲ 殺シテイマス」 もちろん上官の検閲印付きだが、そこに名前を書かれた伯母たちは、 「こんな手紙を小さい子供に出すのが変じゃない時代だったんだよネェ」と、 茶飲み話にケラケラ笑ってました。
>>152 面白い!!
じいさんがホラ吹きでも、スパイでもなんでもいい!!
ありがと!!
>>236 >「こんな手紙を小さい子供に出すのが変じゃない時代だったんだよネェ」と、
これは、それっぽいなぁ・・・。
手紙
出すにも、検閲が入るから、
こういう事を書くほうが届きやすいとか聞きますしね。
うちのじいさまは鈴鹿の軍教に逝ったあとに南方派遣要員として向かったらしいが奇跡的に撃沈されることなくビルマだかどこだかに到着。 話はあんまり聞いてないが当時の写真を見るからに整備要員だったようだ。つうか鈴鹿っていうじてんで航空軍なんだっけか。 そんなじいさまも去年畑でトラクターの下敷きになって天に召されました。合掌。
戦場に行く汽車に乗ったが、途中で汽車を仲間と共に間違えて戻ってきた。 そしてその後すぐ終戦。 おかげで今の私の姿があります。 ありがとう。
戦場に行く汽車に乗ったが、途中で汽車を仲間と共に間違えて戻ってきた。 そしてその後すぐ終戦。 おかげで今の私の姿があります。 ありがとう。
今BSで太平洋戦争従軍記やっているよ
このスレを見てたらすごいじいちゃんに会いたくなってきた。 昔は軍とか戦争の知識なんてぜんぜん無かったから、じいちゃんが嬉しそうに戦友 の話とか戦争中の話してるのもあんまり興味無く聞いてたしなあ・・・ そういえば、補給が来ないんで飯盒に雑草を入れて鍋をつくったときに、妙に美味いと おもったら中に野ネズミが入ってた・・・っていう話もあったな・・・。 いつも重たい背嚢を背負って走り回ってたっていってたっけ・・・ いまはもういないけど、おれはじいちゃんを誇りに思うよ
244 :
名無し三等兵 :03/06/07 21:49 ID:aEIjGIOb
内のジーサン、知り合いの軍上層部にお願いして、国内の倉庫勤務にしてもらったらしい。資材の調達担当だったので、敗戦直後までモノには不自由しなかったとのこと。周囲も尊敬のまなざしでみてくれたので良かったとのこと。 今の自衛隊は尊敬されずかわいそうとのこと。
何でもバーさんが芸者かなんかで少将クラスの人相手したらしい
>>239 整備兵士さんとかの話が出てこないから、貴重ですね。
>そんなじいさまも去年畑でトラクターの下敷きになって天に召されました。合掌。
これは・・・、合掌です。
しかし、ボケて家族に迷惑かけるより、良い死に方だったかもですね。
>>244 >今の自衛隊は尊敬されずかわいそうとのこと。
それは、いざ、有事が起これば尊敬されるようになると思われ。
>>246 したり顔して「良い死に方だったかもですね」とか言ってんじゃねぇよクソが
248 :
名無し三等兵 :03/06/07 23:54 ID:avW3R8g7
>246 よくないだろ ボケても生きている方が嬉しい
>>168 うちの義理の伯父が○レの設計メンバーだったよ。
幹候に工兵科ができたときの一期生で、暁(船舶工兵)の
中隊長やった次の任地が大阪造兵廠で、新兵器の電気系統の設計を
担当したとの事。で、そのあと神戸の○レを製作する軍需工場で監督官に
なったと。ベニヤ板製のローテク兵器で、エンジニアとして、生涯
最大の恥だと言ってた。
当時の日本の工業水準が欧米とかけ離れていた一例として、
工作機械がアメリカ製で、消耗部品の調達に困ったこと、
銅線が紙巻で耐性に欠けること、
兵器の電源電圧が完全には安定できないこと
などのことを聞いた。
そのほか、中支時代のこととか結構聞いたんだけども、伯父は
母とは親子ほど年齢が離れてて、もうすぐ90歳になるんで半ボケ気味。
数年前までは頭もしっかりしてたんだけどね。
>>246 つーかボケると決まったわけでもなし。
煽りだろ。煽りだと言ってくれ246
>>247 ,248,250
ああ、ゴメン、気分悪くしたね。
実際に、ウチのじいさんがボケて、7年かな?寝たきりだったのよ。
それはもう大変だったよ。
ばあさんだけでは面倒は見られないし、お金はかかるしで。
それで、十分に長生きして、
このケースだと80前後だったでしょ、おじいさん。
家族に迷惑かけず、ポックリいけるならば、
幸せだと、羨ましいとおもったんよ。
252 :
名無し三等兵 :03/06/08 00:21 ID:jCok9C5O
>251 私の祖父は結婚3年目でフィリピンに出征、洞窟に立てこもって 最期は火炎放射器で焼き殺されたそうな。部隊はほぼ全滅で、数 少ない生き残りの方からの伝聞で詳細はわからない。 先日、祖母が亡くなった。 で、祖母の病床の枕もとから包みが一つ出てきた。 何かと思ったら祖父との手紙を全部残していたんだわ。 それを読みながら涙が止まらなかったよ。
>>252 いいおじいさんだったんだろうね・・・。
こっちまで涙がでて来る・・・。
254 :
名無し三等兵 :03/06/08 00:55 ID:BmFo5DG7
満州にて野砲隊?の隊長をしていたそうです。その為馬に乗っていたそうです。 実家には、マントを羽織った祖父が馬に乗っている写真があります。 昔は軍刀や鉄兜があったんですが、今はどこへいったやら。 負傷して、弾がまだ体にあると聞いていましたが、亡くなってお骨の中に金属片があるのを見つけた時、なぜか涙がでて止まりませんでした。
255 :
名無し三等兵 :03/06/08 01:05 ID:RJdeyIs2
サイパンにて 飛行場整備。 空襲され防空壕に非難。 苦しそうにしている人がいたので 場所を代わってあげた直後、(おそらく爆撃により) 今までいた位置が崩れる。代わった人はもちろん死亡 人がつぶれる音というやつを聞いたそうである。 脚を負傷、長野の陸軍病院にて終戦。 ※小学校で平和教育(南京とかの生々しいやつ)のあと 俺は祖父のこと嫌ってしまった ・・・中国で悪いことをできるわけでもないのに・・。
曽祖父は日露戦争で(当時陸軍中尉)旅順攻略戦に参加した。 自分の中隊を指揮して敵陣地に踊りこみ、愛刀で斬りまくった。 12人目までは覚えていたそうだ。 切っ先が飛び、刃が鋸みたいになるような激戦で 自身も3発被弾し動けなくなったので、敵陣地の中で「死んだフリ」 をして捕虜にならずに済んだ。
257 :
255 :03/06/08 01:06 ID:RJdeyIs2
孫に嫌われたまま 死んでしまって取り返しがつかない。。 わるいことをした 。
>>257 明日でいいから仏壇かお墓に謝ってあげたら?
孫に嫌われてひどく落ち込んでるから
西南戦争でもよかですかのう・・・
曽祖父は日露戦争で(当時元只のプログラマー)旅順攻略戦に参加した。 自分の中隊を指揮して敵陣地に踊りこみ、バレットタイムで撃ちまくった。 機関銃150発目まではエビゾリでよけていたそうだ。 ビルからビルへ飛び、ワイヤーがすり減るような激戦で 自身が救世主である事を自覚したので、ロスケの群れを相手に棍棒一本で「百人斬り」 をしてザイオンが破られずに済んだ。
262 :
256 :03/06/08 16:29 ID:4xSIdHMv
戦死者収容の休戦時に味方にみつけてもらったそうな。
263 :
>>256 :03/06/08 18:24 ID:uKfD1wMQ
そのスーパー日本刀を拝めさせてください!!
12人も殺せる日本刀!!
>>256 さん、あなたは神ですねwww
ネタなら
>>261 の方がまだマシです
264 :
_ :03/06/08 18:24 ID:???
>>263 どっかの小説家がつくった嘘を信じちゃいかんよ
日本刀は(刀にもよるが)そのぐらいは斬れるもんだYO
>>263 同田貫上野介だったそうです
残念ながら残ってませんが
まあクリスティーズでは日本刀より青龍刀のほうが高額で落札されているわけだが。
>>268 うそ、それじゃあ日本刀買いに行かないと!
外人には日本刀のよさは分からんのかねえ、サムライソードってだけで。
日本刀は実際には血糊で鈍っても多少は切れたりする。 切れなくなっても叩けば鋼鉄なのですげー凶悪だし、 突けば刺し殺せる。 よって12人も殺せるのもあながち嘘じゃないんだよねえ。 ただ軍刀サーベルは駄目。 ありゃ日本刀じゃない。 ろくに切れやしないし下手すると簡単に折れるんだよ…
いきなり話をもとに戻すみたいで悪いが、漏れのじいちゃんは高射砲第十六連隊ってとこにいて、パレンバンっていうインドネシアのどこかにいたらしい。 話が漠然としすぎてて良くわからない。 何か知ってるひと、情報キンボヌ
>>271 パレンバンは有名な落下傘降下作戦が行われた場所、精油所(油田だっけ?)がある
たぶんその精油所の防空にあたった部隊だと思われる
>>271 16高砲隊は中国だろ。南京とか上海とか。
>>274 当時よくあった部隊の一部派遣かなんかじゃない?
276 :
名無し三等兵 :03/06/08 22:56 ID:qY5k9U9W
ひいじいちゃんの話なんですが… ロシア人だったんですが、何故かドイツ海軍で水兵だったそうです ドイツの戦艦に乗っていてイギリスの北のほうの大きな港に攻めに(?)行ったときに港の中で戦艦が沈んで亡くなったそうです ちなみにその直後に戦争は終わったそうです ドイツ人のひいばあちゃんは「泳げないのに水兵にされちゃって運が悪かった」と言っていたそうです 何分まだ生きてる証言者が母親しかいないので曖昧な部分が多いのですが、おそらく第一次世界大戦の時の話なんじゃないかと思います
277 :
名無し三等兵 :03/06/08 23:00 ID:y3dNzijE
どうたぬきっていやぁ、確か実戦刀の中でも耐久性がずば抜けていたと以前聞いた事が。 あながちネタとも言えないのでは?
278 :
271 :03/06/08 23:08 ID:???
おお、みなさんサンクスです。 自分でも資料さがしてみたら、連隊歌の歌詞が出てきました。 聖戦の下見よここに 大陸の空制覇して 溌刺の士気厳然と 首都南京に団結す 高砲十六祖国の前衛 勅諭深く畏れみて 軍紀正しく武技を練り 柴金山上なお遥か 長江千里守備に恃す 高砲十六中支の護り 敵翼いくつ襲うとも 撃墜々々又撃墜 第一線に躍進し 武威は赫たり高射砲 高砲十六我等の戦史 東亜の空の朝みどり 雲らす仇をうち懲し 我が騎隊の征くところ 天に輝け日章旗 高砲十六祖国の希望 ・・・そうやら本当に中国みたいですね。じいちゃんもこれ歌ってたのか・・・
>>276 ロシア人とドイツ人の血を引く方ですか?
281 :
:03/06/09 00:12 ID:xjb4adFI
>>ロシア人だったんですが、何故かドイツ海軍で水兵だったそうです 第2次の時だったら、ロシア人の武装親衛隊の部隊があったけどね。 「ロア」とかなんとか言って、反共ロシア人の集まりだけど。
>>279 、
>>280 4分の1ドイツ人だと思っていたら母に8分の1だと訂正されたことで初めてしりました
どういう事情でロシア人がドイツで水兵になったのかはさっぱりわかりません
確実なのはばあちゃんがドイツに来た日本人と結婚して、太平洋戦争が終わってから日本に来たと言う事だけです
ちなみにじいちゃんは軍人ではありません。 商売でドイツに来ていたようです
「もう戦争終わりだったのに…ツイてない!」みたいなことをよく聞いたそうです
>>282 なんだとー!!
という事は、君のじいちゃん、ばあちゃんは
ヨーロッパ戦線にいたことになる。
12日までに、レポートに2000文字以上にして提出するように。
>>274 高射砲16連隊は南京編成だけど、
パレンバン派遣後防空101連隊に改編されて、
更に高射砲第101連隊に改編されてるよ。
285 :
名無し三等兵 :03/06/09 16:43 ID:m7ebpYHk
私のおじいちゃんは陸軍の特務機関にいたそうです。 私が小学校の時亡くなりましたが、その後、左翼思想に染まり おじいちゃんの戦争体験を聞かずに今まできました。 洗脳がとけた今、改めていろいろ聞いとけばよかったと 後悔しています。おじいちゃんにとても申し訳ない。 だから少しでもおじいちゃんについて調べたいと思っています。 所属していたところが特務機関というところなのでなかなか わからないのですが、何か資料や書籍などあるでしょうか。
>>285 おじいさんの軌跡をたどるのは、良い供養になりますね。
特務機関員についてはとりあえず、検索だけしてみると良いですよ。
例えば、273のページにも特務機関員が出てきますね。
(もしかしてこの人?はないだろうね。)
勤務地や、出身地、軍籍があったのかなど、
できるだけ詳しく書いてくれれば、アドバイスできると思います。
287 :
名無し三等兵 :03/06/09 20:16 ID:m7ebpYHk
>286 ありがとうございます。満州や吉林省、後半は日本各地で 勤務していたようです。地道に探してみようと思います。ちょくちょく ここものぞかせていただきます。
>>287 満州だと、満鉄の特務機関が有名だね。
ただ、いろいろと動いているから、ちがうかな。
特務機関員って、ちゃんとした軍属じゃない人もいるし、
スパイなので隠すことが多いから、
なかなか追跡が難しいですね。
ガンガッテ、探してみると良いですよ。
289 :
名無し三等兵 :03/06/09 21:14 ID:o22ksAPD
内のじいさん、戦争中、アメリカにいて、米軍に参加。 今でも日本に勝ててよかったといってます。今は日本人です。
>>289 パープルハートの人かな?
ヨーロッパ戦線?それとも、太平洋戦線?
もし、よかったら詳しく書いてください。
291 :
名無し三等兵 :03/06/09 21:50 ID:m7ebpYHk
>288 がんばります。 話は違いますが、父と母におじいちゃんの話を聞く過程で 空襲の話になりました。 父と母は鹿児島にいたのですが、鹿児島も空襲がひどかった ようです。しかし、人間とはたくましく、空襲があるのに鹿児島湾で 頭まで海につかり手だけ出して釣り竿で魚を釣ろうとしていた人が いたそうです。 本当かなぁ・・・と思いつつ、不謹慎ながら笑ってしまいました。
>>289 日系?
293 :
:03/06/09 22:40 ID:GrMA7bxl
ウチのじいさんは 徴兵検査で身長が170cm だから甲種合格だったが 視力が0.6程度だった為射撃が 水準以下w。よって第一補充兵となる。 昭和19年1月佐倉連隊で北シナへいく、都内だがw 初年兵だったため往復ビンタは300回程度食らうw 昭和20年勤めていた日本無線三鷹工場の要請で 帰国。原隊復帰する前に正月だからという理由で 自宅に帰るw。自宅で飯食った後、武装返還。 受付の人に、脱走だぞヲイ という突っ込みをうけ下関から40時間かかった と嘘をついて難を逃れる。大正五年生まれ88歳 存命です。
294 :
名無し三等兵 :03/06/09 23:01 ID:x+U2HqHB
父方のじーさんは、開戦当時ヤンマーでエンジンを作っていた為、 召集はなかったと言ってました。 母方のじーさんは海軍大尉。舞鶴にいたそうですが、すでに 亡くなっているため詳細は不明。過去に立派な日本刀と二種軍装を 見せてもらいました。
なんかwの入れ方が??だけど元気でナニよりだね
>>295 おじいちゃん本人が書きこんでるんだから仕方ない
298 :
ちっとん :03/06/11 19:44 ID:0jDmSv4v
わしの叔父が二人戦争にかかわったが、はなししていいか?
ぜひ
300GET
>>297 まだ途中までしか読んでないけどサヨっぽいな。
中帰連か?
>>301 の脳内では初年兵苛めや日本軍の出鱈目さを身を持って体験した人がその事を書いたら「サヨク」なんだそうです。
( ´,_ゝ`)プッ
一番上のおじさんは戦死。 陸軍仕官学校出身のバリバリの軍人。一族の誇りだった。 隼に乗って大平洋各地へ転戦。最後の出撃はレイテ戦だった。 つづきはこんどね。
307 :
名無し三等兵 :03/06/12 06:34 ID:WKkSsQgU
パトリオットが ガシュガシュガシュガシュゥゥいうて巡航ミサイルがゴォォォいうてドカーンいうてたらしいですはい。
うちの祖父は、戦時中糖尿病で病死しました。 母の小さい時、印象的だったのは森永のキャラメルの大箱があった事です。
>>283 母に色々と聞いてみたけど
「じいちゃん、ばあちゃんはフランクフルトで空襲に会って大変だったらしい」
とか
「戦争が終わって日本に避難してきたけど避難する先を間違えた」
なんて程度のことしか聞けませんでした
競馬のHP見てて思い出したのですか、ひいじいちゃんのドイツ戦艦が沈んだとこはスカパフロウって港だったと思います
スカパフローで自沈したのならWW1の時の奴だけど自沈したの一杯居たはず
俺のじいちゃん… やめた。書くのがめんどくさい
うちの近くにいつも孫らしき子供と遊んでいるおじいちゃんが いるのですが、話をするのにはどうしたらいいでしょう? 今日はじめてこんにちはと言ったら向こうも返してくれました。
317 :
名無し三等兵 :03/06/12 15:51 ID:n50Asi9y
>>316 挨拶→天気の話し→近所の話題→自分の話し
を経てから相手の話しに入った方がいいんじゃない?
聞きたいのはやはり戦争体験なのかい?
>317 やはり聞かないほうがいいのでしょうか?
ひいじいちゃんは戦時中かなハワイでシェフやってた かなり信頼されてたらしく 日本人ではじめて議員だかになったって 95歳くらいで死んだけど
父方の祖父は部落出身で米軍が捨てたドラム缶が 空から落っこちてきて当たりそうになったと言っていた ごめん、戦争とはあんま関係ないワラ
俺のじいちゃんは軍医だったらしいけど、戦争の話になると機嫌が悪くなってどこかに行ってしまう。 戦争の体験を聞いておくべきなのかな。 怖いけど
>>321 きっとすげー情けない事したんだよ
恥ずかしくいて行っちゃうんだって
>>321 ミドリ十字の関係者?
と聞いてみる。((((((( ;゚Д゚))))))))ガクガクブルブル
「オガライト」って言うおがくずベースの燃料があるんだけど、 それが子供の頃に見た焼夷弾にあまりに似てたんで、最初に見たときは漏らしちまったそうだ ちなみに叔父さんの話なわけだが(歳がバレるな…) 子供の頃に焼夷弾の不発弾を拾って遊んでいるうちに発火し、子供2人が焼死。 叔父さん自身も大火傷したらしい
>>306 つづき。
レイテ戦時、飛行場に大量のグラマンが来襲。隊長だった叔父は「みんな、おれにつづけ!」と、わずかな機数で迎撃にむかい、そして、帰ってこなかった。もちろん遺骨もなく、あるのは出撃前に残した遺髪だけ。
うちの祖父は訃報を聞いても戦後まで信じなかったという。
上記の話をしてくれたのは、レイテで生き残った整備士が田舎まできて話してくれたという。
もう一人の叔父のはなしはまた今度。
326 :
名無し三等兵 :03/06/13 01:20 ID:E+xObtjE
うちのじいさんはフィリピンで陸軍の曹長をやっていたらしい. 米軍が上陸してきて,機関銃で足を砕かれて復員できたらしい.
じいさんじゃなくて父親の話ですが、戦争末期に三十半ばにして徴兵にとられた。 詳しいことは知らないが、九州の飛行場で雑用みたいなことやってたときに、艦載機 艦載機に掃射され、左腕を根元から切断するはめになった。 私も疎開中にお寺の境内で艦載機に機銃掃射されてすごく怖かった思いがある。 当時、私達の地方(東海地方)は、小型機は全部「艦載機」、B29は「ビーニクー」と 呼んでましたが、他の地方ではどうだったのでしょうか。 本を読んでもB29を「ビーニクー」と呼んでいたという記述を見たことがないのですが。
おれんちも東海地方(やや関西より)で空襲でメタメタにやられてて、
親戚なんかが集まったとき空襲の話、聞くけど、フツーにビーニジュウク
って言ってますよ。
艦載機に襲われた話も聞いたことないな。
つか、
>>327 おいくつですか?
戦艦武蔵でコックやってたって聞いた
330 :
ななし :03/06/13 14:49 ID:80I7onBD
290さんへ もしかして日系アメリカ人ですか? 詳細きぼんぬ。
331 :
:03/06/13 15:15 ID:???
うちのおじいちゃんは早稲田大学生でした。 サイパンに送られる輸送船が沈没。 サメのいる海で数時間浮いてから救助され、戻ってからは 怪我をしたので終戦まで病院にいました。 もし沈没していなくてそのまま行っていたら死んでただろうと のことです。
>>329 小型潜水艇で戦艦武蔵に忍び込んだ米軍の戦闘員と両手に百式構えて戦うわけですね。
沈 黙 の 戦 艦
俺は沖縄が大好きで何度も観光旅行に行きます 仲良くなった年配のタクシー運転手さんに戦争 の体験を聞かせてもらったけど、印象的だったのは 「戦争は怖かったけど兵隊さんは皆優しかった」 と諭すようにしみじみ語ってた事です。当時 小学校4年生の運転手さんは兵隊が珍しく頻繁に兵舎 をこっそり覗きに行ってたらしい、ある日兵隊に 見つかり怒られるのかと思ったら「坊主!男だったら コソコソ見るな!堂々と見ろ!」と兵舎に招いてくれて 夕食をご馳走になった、無骨な顔に囲まれて怖かったそうだが 残さず食べて「坊主もっと食え!」と褒められたそうだ 「また来い」、「勉強しろよ」、「父ちゃん母ちゃんを大事にしろよ」 と頭を撫でられて乾パンや金平糖をお土産にもらい帰ってきたそうだ 金平糖をかじりながらブラブラ夜道を歩いて帰ったあの日の事を 「金平糖がおいしかった事を今でも思い出すねぇ」って笑っておられた 「後で父ちゃんに大目玉を喰らった」そうだ。 また来年もお元気であればあの運転手さんに会いにいこうと思ってます。
>>191 ひょっとしたらうちのじいさんの恩人かもしれません。
うちの爺さんは奉天の獣疫研究所で細菌研究をしていましたが
獣医として入隊、しかしその後獣医免許がないことがわかり
40過ぎで二等兵、そのままシベリアのバレイに抑留され終戦を迎えました。
詳しくは聞いておりませんので、誤りがあるかもしれませんが
上官に教え子か後輩かどちらかがいて、そのおかげで爺さんは
割とすぐに前線からはずされて、今にしてみれば命だけは
助かったということを婆さんが言っておりました。
終戦後一人叔父が生まれまして、爺さんにとってのひ孫も
3人おります。もしその上官があなたのおじいさんだと
したら一族に代わり是非この場にて失礼ではありますが
御礼の気持ちをお伝え申し上げます。
失礼、変な敬語表現になってしまいました。 厚く御礼を申し上げます。
>>334 ヤバイそのおじいちゃんヤバイよ。(苦笑
>>336 すぐに人体実験と結びつけるけど、
彼らの研究は、風土病などのまじめな医療が主任務だよ。
生物兵器などの研究は、その中の一つですがな。
父方の祖父は、中国へ向かう途中に船から落下。 目の辺りの傷が治らず、ばい菌にやられて失明。程なく帰還。 何故か仕事が来ないまま終戦。
339 :
334 :03/06/14 18:36 ID:???
>>334-335 うちのじいさんがいた奉天の獣疫研究所は満鉄所属でしたから
731部隊や生物兵器とは基本的に関係はありません。
炭疽菌や鼻疽菌、豚コレラなどは満州の風土病でしたから
当然研究はしていました。それは事実です。
ですがじいさんやじいさんの同僚の名誉にかけて
生物兵器の研究や人体実験は行っていなかったと断言させて
いただきます。
うちのじいさんは南の島の方へ(何処だかは聞いてたけど忘れた)行って終戦間際に熱病にかかったそうです。 で、引き上げの際に病気で帰れず、帰ってきたのは自分の葬式も終わって墓も立った後だったそうです。 つうか一緒に墓参りに行くと墓に爺さんの名前と命日(戦時中の適当な日にちらしい)が彫ってあって。 見るたびに本人(存命ですよ)苦笑してます。
仕事で、市内の住民の中から戦争体験者のルポを聞き取ったことがある。 5人くらい聞いたかなあ。
俺の大叔父(父方ばあさんの弟)は桐型駆逐艦の艦長やってたんだけど、 艦橋に米戦闘機の機銃掃射を受けて、頬の横をかすめたとか。
>>340 >で、引き上げの際に病気で帰れず、帰ってきたのは自分の葬式も終わって墓も立った後だったそうです。
>つうか一緒に墓参りに行くと墓に爺さんの名前と命日(戦時中の適当な日にちらしい)が彫ってあって。
>見るたびに本人(存命ですよ)苦笑してます。
まさに幽霊。
つか、墓石立て替えろよ!!
笑い事で済んでよかったですな。
344 :
名無し三等兵 :03/06/14 23:14 ID:Pk1V7Kac
うちのじいちゃんはよく分からん。 年は忘れたが今80過ぎでソ連へ戦いに行ったらしい。 医者に医学を教えてたとか医者やってたとか、曖昧な事しか聞いてない。 酒飲みで新しい物好きで借金してでも新製品を購入するような人らしい。 今はニタニタ笑って酒飲んでタバコすって暮らしてる。。。
このスレは本当に面白い。 ブクマクして毎日大爆笑しています。
347 :
345 :03/06/14 23:39 ID:???
348 :
名無し三等兵 :03/06/14 23:57 ID:GjRoiO9f
大東亜共同宣言 抑(そもそ)も世界各国が各(おのおの)其の所を得相倚(あひよ)り相扶(あひたす)けて万邦共栄の楽を偕(とも)にするは世界平和確立の根本要義なり 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞(たくま)しうし遂には大東亜の安定を根底より覆(くつがへ)さんとせり 大東亜戦争の原因茲に存す 大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全(まつた)うし左(*原文のまま)の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。 一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す 一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す 一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚す 一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す 一、大東亜各国は万邦との交誼を篤(あつ)うし人種差別を撤廃し普(あまね)く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す
>>340 生きて帰ってこれてよかったね。うちの大叔父は、ニューギニア
からの復員船のなかで衰弱死しますたです。
350 :
名無し三等兵 :03/06/16 13:16 ID:B5oiAytu
私の祖父(すでに亡くなっている)は戦争末期頃に南方戦線に行くことになったそうだ。 しかし、その移送の途中に米軍に攻撃されて船は沈没。 祖父は何とか木片をつかみ、台湾やら中国に漂着したそうだ。 そこで飛行機の整備兵をやってるうちに終戦を迎えた。 その船に乗って生き残っていたのは10人ぐらいだったらしい。 船が撃沈しなくても南方に行く予定だったんだし、 なんと言う奇跡なんだろうと子供心に残りました。
私の祖父 中学校?位で満州に行きました その後 重歩兵に配属 敗戦後 戦犯で、シベリア抑留 5年後 舞鶴港から帰国 数十年後 孫の私に武勇伝の数々を語る 数年後 孫の私に現地の芸者とのハメ撮り写真を発見される 現在 存命 おじいちゃん長生きしてね
352 :
名無し三等兵 :03/06/16 14:43 ID:H7FfFIgC
最近、母方の祖母の葬儀で田舎へ行って遺品の整理をしていたら、祖母が大事にしていた物の詰まった戸棚から、祖母より先に無くなった祖父の遺品が出てきました。 「海軍兵長○○」と書かれたアルマイト食器が数個、駆逐艦クラスとおぼしき軍艦の前での乗員集合写真、祖父が出征時に、祖母や幼い母と写した記念写真。 ありきたりながら、歴史の彼方の戦争が、一気に身近に感じた瞬間でした・・・。
私の祖父ではないのだが、一回だけの取引をしたある個人商店主が凄かった。 初見で「お元気でつねぇ」といったら、米寿超のご高齢で現役。 MT車を駆りながら、異常にテンションが高い。 車内でなぜか戦争の話となったら、 爺「わたしゃねぇ!インパール逝ったんですよっ」 漏「えええ よく帰れましたねぇ」 爺「そりゃねぇ、わたしゃ○○町(県内でも有数の山奥の町)のねぇ、 炭焼きの家なんですよっ。いってみりゃ山岳民族ですから! だから生き残ったんですねぇっ」(←この通りのテンションの高さ) 漏「大変だったでしょ」 爺「大変でしたねぇっ、町の出身の人はだいたい死んじゃったからっ!」 時間が短かったので、これくらいしか聞けなかったけれど、 『八甲田山死の彷徨』でも山奥の徴兵が生き残ったのを思い出しますた。
>>353 すんげえ貴重な話だ!!
>『八甲田山死の彷徨』でも山奥の徴兵が生き残ったのを思い出しますた。
この部分、台湾の高砂族(台湾の少数民族)のいる部隊は
生還率が高かったそうです。
それは、南方の山の中でも食料を見つけられるから。
だから、高砂族の兵士さんは可愛がられたと言っていました。
高砂族は部族が違うと、違う言語なので、
今でも長老達の共通語は日本語だと言っていました。
日本に来たら、やはり靖国神社にお参りに来ていました。
「自分は日本人として育って、日本人として戦ったが、
敗戦で中国人にされてしまった。
それでも、少数民族なので、自分が中国人という実感が無い。
やはり自分の祖国は靖国神社と日本なのでは?という感覚が今でもある」
と言っておりました。
これ、読売新聞からです。
父方の祖父は南の島で飛行機の整備兵だったそうです。 現地でマラリアを患い、帰国してからは自転車や自動車を扱う個人商店をやっておりましたが、 50を過ぎて肝硬変を患い、後に肝臓ガンになり、東京への転院・長期入院を含めて15年ほどの 闘病の末に亡くなりました。 20年近く前に亡くなった時は、私は10歳だったので、戦争に関する話を聞く機会は ほとんどありませんでしたが、「戦争なんかしちゃいけない」 「自民党に入れとけば良い。社会党なんかに入れたら何をするか解らない」と言っていた事だけは、 何故か覚えています。 (当時はロッキード裁判などゴタゴタあって、マスコミでは自民党バッシングがされていました)
俺のじいさんではないが。 バイト先の現場にいた鉄骨か鉄筋の溶接の親方。 80過ぎてさすがに現場は息子に任せていたが、元気そのもの。 南方でインパール?作戦に参加して中隊で7人しか生き残らなかったそうな。 その話を始めると、周りの職人が「また始まった」と笑ってた。 それで、印象に残ってるのは戦場の話ではなくて・・・ 「(鉄筋を眺めながら)どんどん入れる鉄筋が多くなってくるなあ・・・おいボウズ(俺)、なんでこんなに鉄筋入れるか知ってるか?」 俺:「え?やっぱり地震とか・・・」 「馬鹿、違うよ・・・」(急に声を潜めて) (てっきり業界の裏話とか癒着とかそんな話かなあなんて思ってたら) 「前の戦争じゃ、鉄がなくて負けたんだ、だから今のうちに建物に鉄をいっぱい仕込んでんだよ・・」 じいさん、戦争に負けたのは鉄が無かったからじゃないよ。 それにビルから鉄筋を引っこ抜いて戦車を作るような戦争をもう一回したいのか。 と言いたくなったが、きっとじいさん一流のジョークだったのだろう・・・
>>356 戦争を実体験なさった世代の言葉は重いですね。
鉄の話、視点は俺には面白い。その人、結構戦略的視野に長けている人かも。
感心した。(実際鉄が無かったのが敗因の一つなのも事実だし。)
今の国民に、長期的視野で戦略を(例え鉄という一面からだけだとしても)
見つめることの出来る人が何人いるだろうか。
>>327 の方は一体お幾つなのか気になって仕方が無いのだが・・・
359 :
名無し三等兵 :03/06/17 01:55 ID:gx2XSNta
うちの母方の祖父は徴兵されたのち東部戦線に従軍してソ連軍の捕虜となった。が ラーゲリから脱走してシベリア鉄道沿いに?ドイツまで歩いて帰ったとか。 (それ以上のことは全く語らずに5年前他界・・・) 49年に母親が生まれたわけだから少なくとも48年中にはひそかに帰還していたことになるが まあよく捕まらずに帰って来れたものだとしか云いようがない。 昼間どこかに隠れて夜中のうちに移動したのだとは思うけど 食糧調達などはどうしたのだろうかとても疑問。 今となってはその詳細を知ろう由もないのは残念・・・
360 :
名無し三等兵 :03/06/17 02:12 ID:GBJFjoMG
>>357 ぢゃ、硬貨にはジャンジャンとレアメタルを素材にして発行してもらおう。
>357 タングステンの500円硬貨、劣化ウランの10円硬貨とかか?
362 :
名無し三等兵 :03/06/17 02:37 ID:o+1B3hgf
>劣化ウランの10円硬貨とかか? や め て く れ
363 :
名無し三等兵 :03/06/17 02:46 ID:GBJFjoMG
ニッケル、コバルト、バナジウム、白金、モリブデン、チタン、ニオブあたりか? 100円、50円が銅75%、ニッケル25%の白銅なのは、やはり戦略物資を備蓄するためだろう。
364 :
名無し三等兵 :03/06/17 03:00 ID:gx2XSNta
>>363 戦前のコインにニッケルを使った物があったのは
やはり戦略物資確保のためだったようだ
(参考文献:「お金と切手のひみつ」学研まんがひみつシリーズ<1979年?>
幻の 一 銭 陶 貨 には笑った覚えがある)
「のらくろ」にもニッケルの腕時計を買ったとみせびらかすシーンがあったのも
そんな時代のあらわれだったのか・・・
さすがに劣化ウランとコバルトのような放射性物質をコインに使うのは問題ありと思われ。
365 :
名無し三等兵 :03/06/17 03:47 ID:GBJFjoMG
一昔前の100円硬貨は銀だった(w
366 :
名無し三等兵 :03/06/17 04:22 ID:E8JbdthG
俺のじーちゃん朝鮮行ったっていってたな
367 :
名無し三等兵 :03/06/17 05:06 ID:bBhoLODV
敗戦後に、パチンコがまたたく間に全国に広まっていった時期、 「パチンコ玉は、復讐戦に備えて、兵器に使うベアリングのボールを 作り溜めしているのだ。」 という噂が流れたそうです。
ワイの知り合いの爺さんは、陸軍の輸送船に乗っといて、輸送船が魚雷にやられて撃沈されたよ。 そんでその爺さんは、片足が吹っ飛ばされて、めでたく除隊。。 おかげで南方戦線にいながら、戦後も生き延びることが出来た。。 もしあのまま、南方にいたら、十中八九戦没者の列に加わとったやろな。 その爺さんは、前皇后陛下、つまり御隠れになされた皇太后陛下より下賜された義足を見ながら、そんなこと言っとったわ。
そういえば、海軍におった爺さんも、ワイの知り合いにおるが。 その爺さんは、駆逐艦に乗っ取ったそうや。 その駆逐艦は撃沈され死にかけたそうやが、その後は本土に戻され。 生きながらえることが出来た。 その爺さんの戦場での思い出話の中に、戦闘があって海で爆発があれば、その後で必ず魚がぎょうさん浮いてくるから。 それを取りに行くのが楽しみだった。そんなことを言うていたな
370 :
名無し三等兵 :03/06/17 07:58 ID:Di24bdXJ
>>127 とか、孫のバイアスがかかってる体験談はどうも。
あと、前スレなどで良くあった、俺のじいちゃんはXXにん頃しますた!ブルブル
ってゆうのも・・・無邪気な法螺話を鵜呑みにしないで検証してみてほしいかなと。
その法螺話の積み重ねが凶悪日本軍伝説になったのだから。
現に東京裁判では犠牲者まで・・・
漏れはじいちゃんや戦友さんに食い下がり、嫌がられましたがw
371 :
名無し三等兵 :03/06/17 08:00 ID:Di24bdXJ
だって輜重兵なのにシナ兵五人切り!なんていうもんですから。 馬鹿だよ、俺の爺!
>>371 非戦闘兵でも戦闘に参加することがあったのであながち嘘でも・・・
輜重兵は伍長から軍刀が吊れるわけだし
ちなみに俺のじいちゃんも
>>191 で書いたとうり。
インパールに行って、まだ「やる気マンマン」ってのも困ったもんだ。 「前の戦争」ってなあ やっぱりジョークでしょう(汗
374 :
名無し三等兵 :03/06/17 19:09 ID:3+Z+34BF
>>370 かわいそうだから年寄りの話くらい素直に聞いてやれよ
375 :
名無し三等兵 :03/06/17 19:09 ID:GeYOSFPU
>>367 ポンポンバラバラに跳ねるような無茶苦茶な真円度のたまは
ベアリングには使えないっすよね(^^ゞ
>373は>356へのレス
>>350 です。
撃沈された船がどの船であったか、
戦場で戦う兵士として徴用されたのに整備兵になることがあるのかとずーっと気になってました。
本当に生き残った兵士が10人ぐらいだったら相当な事件として残っていると思うんですが
こういうのってどのように調べたらいいのか皆目分かりません。
全く知識のない私めにお教えいただけないでしょうか。
>>350 おじいさんの名前のほかにどんなことを知ってます?
まず、本籍地は分かるよね。陸海軍のどちらかも分かると。
兵籍番号は分かりませんよね。恩給の資料とか多分ないよね。
だったら、
最初に、お爺さまの所属した部隊を特定し、部隊の行動記録を
調べればいいんですけど。ところで、都内在住ですか。それとも
地方?都内だとかなり調べるのが楽なんだけど。
>>370 >>374 いいや、ホラ吹き爺さんにはどんどんツッコミ入れた方がいいって。
裏路地でDQNをぶっ飛ばす青春のいい思い出とはワケが違うんだからな
>>356 前も書きましたが、祖父が戦前に青森で灌漑工事していたら、
竹を支給されて、これで土手作れと。
「日本はこんな所に使う鉄材も不足しているのか!?」と思ったそうです。
そして、どうやって強度計算を出すのか苦労したそうです。
この話、いま思うと、鉄の不足ではなくて
予算不足のだけだったようなきもしますが・・・。
>>369 どっかの戦記ものの小説に、
爆雷を訓練で爆発させるときに、新兵を甲板に並べて見せる。
ドゴーン!!とものすごい水柱があがるので、
これならば潜水艦でも破壊できるな、いいもの見せてもらったと思ったら、
浮いてきた魚をとれと神兵に命令。
その爆雷で気絶した魚を取るための要員として、見学させられたのか?
と書いてありました。
けど、その日の夕食は新鮮な魚が腹いっぱい食べられたので、
以後の爆雷の訓練は楽しみだったとか。
最近ばぁちゃんが恩給&年金で年収600万以上だって事を知りました… じいちゃんは終戦時大尉です ばぁちゃん大事にしよ…
動機はともかく年寄りを大事にするのはいいことだ・・・
>>383 そのとうり 80歳の老人作るには80年かかるわけだし
年寄りは大事にね
>>382 >最近ばぁちゃんが恩給&年金で年収600万以上だって事を知りました…
どんなばあちゃんだ!?
それだと、じいちゃんは相当な役職にいた人で、
戦後は公務員か何かだよね。
詳しく聞くべし。
>>384 うん、まさにそうのとうりですよね。
その80歳の老人を作るのに、
0歳の赤ちゃんが100人以上必要なわけですから。
387 :
名無し三等兵 :03/06/18 01:36 ID:chMjLVk+
>>380 旧国鉄の陸前原ノ町駅の駅舎はたしか昭和18年製で
鉄材不足から鉄筋ならぬ竹筋コンクリートになったとか・・・
(参考文献:コロタン文庫43 国鉄全百科)
>>387 わおっ!!
情報ありがとうございます。
じゃ、それは全国的に行われていたことなんだ!!
けど、その時期ならわかるけど、戦前の話だから、
昭和10年代の話だと思います。
けど、じいさんのリアクションが、
「竹で強度をどう出すか?」と考えたという事なので
当時からすでに非常識なことだったみたいです。
389 :
名無し三等兵 :03/06/18 13:35 ID:oaWSSJ0v
>>388 将来の鉄(を筆頭とする資材)の不足がすでに懸念されていたのでは?
当時はなんと屑鉄を米国から輸入していたらしく
昭和16年ごろにはその屑鉄すら禁輸されていたとのことです
>>389 >当時はなんと屑鉄を米国から輸入していたらしく
クズ鉄を馬鹿にするな!!
チハたんの材料だぞ!!
つか、クズ鉄って実は良い材料なんですよね。
鉄鉱石から製鉄と言うと、これまた製鉄の技術が必要で、
さまざまなプロセスが必要ですが、クズ鉄ならば
溶かして成分調整だけでそこそこな材料が出来てしまうという訳です。
従って、一種の班加工製品みたいな感じなのです。
という訳で、やっぱりチハたんは偉いのだ。
>>389 そんな事いったら原子炉の隔壁だって屑鉄だ
うう・・陸奥ちゃん・・・
うちの亡き父親は農家の次男だったので 徴兵されました。 そしてラバウルに行きました。 結果、捕虜になりました。
393 :
139 :03/06/20 02:49 ID:???
>>145 恐ろしく亀レスですまん
レスがつくとは思ってなかったからスレ覗いてなかった。
俺もよくは知らないんだが昭和20年に入ると他の兵科から兵科に異動する
というのがけっこうあったとか。
それは軍からの命令であったり、志願であったりしたらしい。
詳しくなくてすまん。
394 :
名無し三等兵 :03/06/20 18:42 ID:BIJTUBAm
定期あげ
395 :
名無し三等兵 :03/06/20 19:02 ID:ZNtyjQKQ
東京タワーの鋼材の原料は米軍戦車由来の屑鉄です
396 :
名無し三等兵 :03/06/20 19:29 ID:oq/errPk
亡くなった私の祖父は、白銀重二と言う人の航空部隊の曹長としてノモンハン事件、蘆溝橋事件に従事したそうです。 その後、満州のチチハルという所に駐屯し、終戦前に帰国し千葉県で戦闘機操縦の教官をして、出撃直前で終戦を迎えたそうです。
397 :
名無し三等兵 :03/06/20 19:54 ID:3tyzOLPY
私の祖父は、得撫島守備隊で少尉だったそうです。 終戦によりソ連軍進駐、局地的停戦条約(?)締結に 立ち会ったとか。内容は 「日本軍は武装解除の後本国帰還を許す。ただし 一部の捕虜は免れない」とかで、祖父の小隊が 得撫に残された。 貧乏籤を引いたと思ったらしいが、後に知ったところでは 帰国したはずの方々は「シベリア送り」だったらしい。。。 祖父は得撫から樺太へ。S23帰国。 その後、GHQから呼び出しを受け、何事かと思ったら 情報提供を求められたらしい。
398 :
まりも :03/06/21 13:46 ID:dtJYQlVU
うちの爺さん、満州で股間を撃たれて帰国。 ケツの肉を引っ張ってきて縫い合わせたらしく、凄い傷跡。
>>398 助かって良かったですね。
満州からは生きて帰れない人もおおいので、
じいさんの運の強さに感謝すべきかと。
400 :
まりも :03/06/21 15:26 ID:EHj8NfBL
本当に運のイイ爺さんです。しかしどういった状況だったのか、一切語ってくれないんですよ。謎です。
401 :
名無し三等兵 :03/06/21 15:27 ID:l44DZG2s
特攻隊志願、終戦2日後には出撃予定、中尉だったらしい。
みんなすごいなぁ。ウチのじいさんはろくな話ないよ。 片方は陸軍士官学校60期かなんかで教官の兼松隊長とか言うのがルソン島に引っ張られちまって逝っちまったっていう話だけだし。 もう片っ方は技術仕官で広島の山でなんか建設作業してたら原爆のきのこ雲が見えたって言うのと。 あとは川にダイナマイト投げて魚を採ってたら(よく意味がわからないが)隊長にばれてボコボコにされたっていう話。 どっちも戦地に言ってないからダメポ。
>>400 ウソだったんだよ。
じじいなんてそんなもん。
404 :
名無し三等兵 :03/06/21 15:37 ID:l44DZG2s
川にダイナマイトってのは多分その音で失神した 魚を手当たりしだい拾うという現在禁止されてる漁の仕方のこと ではないだろうか?
>>400 辛い経験だったのかも。
話したくないならば、そっとしておいてあげて。
406 :
397 :03/06/21 17:04 ID:dgQZYo82
>>402 >あとは川にダイナマイト投げて魚を採ってたら
水中で爆発が起こると、水は振動を伝えて、魚が死んでしまう。
んで、その魚をとると。
しかし、この漁法は404さんの言うとおりに禁止されている。
なぜかと言うと、釣りや漁と違って根こそぎ破壊してしまうから。
だから、上官に地元民もつかっている川で
そんな事をするなと怒られたのかも。
>>407 つまり底引き上げ漁業を更に手荒くしたものか・・・・実際対馬海峡なんか、漁獲量がなあ。
そう言えばうちの祖父さんが「軍事教練をまともに受けた最後の世代なので、
装備は一通り扱えたからあれやこれや便利に使われたよ」と苦笑していた事があったけど、
小中学生に対する軍事教練って、戦争直前は無かったのかな。
それとも軍需物資や人員が前線部隊へ集中され、軍事教練が簡略化されたとか?
>>408 兵士が足りなくなって、工員、農業労働者が足りなくなって、勤労奉仕の方が
学業よりもメインになって、そう言う余分な物に時間を掛けていられなくなったとか。
>>402 夏場なんかは、魚と小学生が一緒に浮かんでくる可能性もあるわけで。
お魚はもういい。
>247、248 亀スマソ お前ら! 家帰って居間でTV見てたら 爺ちゃんに 「人様の家に勝手に上がりこむとは、どういう躾をされたんだ!?出ていかんかぁ!!!」 っていわれた事があっても同じ事言えるんだろうな!? ・・・(ノд-。)マァシナレテモカナシイワケダガ
NHKアーカイブスなんかで、40年代の戦争ドキュメンタリーを見てると、 戦争経験者が若い・・・・ 年寄りが喋ってるよりなんか生々しいんだよね。記憶も確かだし。
うちのジーちゃん・・・憲兵だったけど終戦後も何故かピンピンして帰ってきたらしい 温厚な性格で兵士から人気あったらしい・・・
っていうかTVに出ている老人の殆どはDQNばっか
うちのじいさんもTVにこそ出てないがDQNっていうか、 日本軍嫌いの右翼マニアそして歴史マニア。 広島県に住んでおきながら解放同盟に公然とけんかを売って、 家を囲まれたという武勇伝(?)がある。
漏れのジーさん、潜水艦乗りとか言ってたけど陸軍にいたとか言ってたなぁ。 あのときはもうぼけたから海軍と陸軍ごっちゃになってたのか、今になってはもう効くことができないけど、、、
陸軍は輸送船も建造していた。官僚主義もここに極まれり。
421 :
名無し三等兵 :03/06/22 03:05 ID:1+cDxrjs
空母や魚雷も開発してた、、>帝国陸軍
漏れの爺さん、海兵出の将校。 以前「丸」に手記載せてた。 零戦に乗ってたが、戦闘機を打ち落としたことはないらしい(w 二回か三回撃墜されてそれでも生き残った。同期はほとんどあぼん。 撃墜されてパラシュートで脱出したとき大火傷を負い、落下しながら八百万の神に 「助けてください。おながいします。」とひたすら祈ったそうだ。 その欲張り&小心な爺ちゃんのおかげで今の漏れがいる(w
>>393 お答えサンクス。そういうことがあったんですね。
本土防空戦で命懸けでB29と戦った139さんのおじいさんに、日本人
として感謝します。
>>421 毎度腐すのもアレだがある意味泣ける話だ・・・。
海軍が戦車造ったことぐらいは知ってたけど。
425 :
名無し三等兵 :03/06/24 13:03 ID:MBQrOFv7
うちのじいちゃん 樽生達人
426 :
名無し三等兵 :03/06/24 14:41 ID:burQu15m
日本で最初に戦略渡洋爆撃を行ったのは「海軍陸攻」 つうか、海軍が戦略都市爆撃おこなうなよ(w
>>426 「海軍の陸攻」もしくは「96陸攻」のほうがいいかと。
428 :
名無し三等兵 :03/06/25 11:08 ID:4EfCbeT7
うちのジジイはアメリカ移民の子供。戦争はじまる前に帰ってきて何年か 日本で過ごした後、徴兵されて満州へ。 配属先の中隊長が知り合いで、”お前なにがやりたい?”と聞かれて、” わしゃ、訓練がないところがええの。”と答えたツワモノです。 軍隊ではトラック運転したりご飯作ったりしてたらしい(w ”兵隊が米ばっか喰う、米が足りないと恨まれるから、軍曹が倉庫の番 してる奴と話して、気を引いてる隙に、他所の隊の米まで積んでくる” とか、 ”カレー粉が余って仕方がなかったけど、捨てると怒られるので、隠れて 捨ててた。” とか、 ”戦争には行ったけど、鉄砲一回も撃った事ない。” とか、勇ましい話は一切無しでした。 アメリカ時代の写真を見る限り、結構な暮らしだったみたいなんで、鬼畜 米英とか言われても、ハァ?とかそんな感じだった見たいでつ。 ちなみに寝たきりになってからは、しきりに”アメリカに行きたいなあ。” と言いながら、他界。棺おけには合衆国の地図を入れて焼きました。
429 :
ななし :03/06/25 11:40 ID:UAfdyZh2
428さんへ え、おじい様は日系米国人だったんですか? 詳細を希望.
430 :
428 :03/06/25 11:56 ID:???
曽祖父が移民船でカリフォルニアに渡ったという話。詳しくは俺も良く知らないのです。 ただ、当時の写真がいくつか残ってて、親戚の経営する雑貨店で一族が移ってる奴 とか、ピクニックに行ったときにとったらしい自動車を背景にした奴とか、 あと見たことはあるけど、父の実家のどこかに埋もれちゃったらしくて発見できない 白人ばっかりのなかに、日本人が2、3人まぎれてる小学校の時の写真とか見る限り かなり不自由のない生活してたっぽい。 意外と資料としては貴重なんだろうか?そういう写真とかって。 ちなみに、満州は一番良いときに行って、帰ってきたあと、再召集は無かった模様で す。そのご某財閥系造船に勤務して、それなりの生活してたので困窮するようなこと は無かった模様。 婿養子に行った時に、肉を食いたいのに、曾祖母が肉を食うのをえらく嫌うので外で 七輪で焼いた話とかしてますた。
431 :
名無し三等兵 :03/06/25 12:50 ID:NA+sUn/u
私の大叔父は、満州に送られて金日成と戦っていたよ。 もっとも北朝鮮の偉大な建国者として崇められている金日成とは、別物だろうが。。 当時は複数の金日成がいたそうだし。
>>431 今のキムはもともと別人だったそうです
名前もキムイルソンじゃなかったそうで
伝書鳩を扱う部隊ってどうゆう部隊なんでしょうね
うちのじいさんは重巡洋艦妙高に乗って、エンジニアとして インドネシアに行ってたそうです。 ガキの頃はいろいろと話聞きました。 まあ、今は家庭内の事情で会うことができませんが・・・。
3年前に逝ったうちのじいちゃんの話、聞きたい人いる? 階級は憲兵少尉だったそうでつ
んじゃあまず、昇進具合から書きます。 昭和5年1月10日 第八大隊第一中隊に入隊 二等兵 10月1日 一等兵 12月1日 上等兵 6年11月23日 帰休除隊 7年3月11日 憲兵 上等兵 10年2月2日 伍長 11年4月21日 軍曹 13年7月22日 曹長 15年2月 陸軍中野学校配属 12月 常州分遺隊長歴任 16年8月1日 准尉 10月7日 勲六等、端賽章受勲を受ける 19年4月 少尉 杭州憲兵隊本部附 第二軍司令官、西大将の護衛(北支済南) 東久?宮中将身辺護衛 陸軍大臣板垣大将身辺護衛兼副官として任に当たる (斉南、青島、旅順、京城、福岡、東京空路に同行) だそうでつ、私はあまり詳しくないので分かる人がいたら 補足よろ、第八大隊とか中野学校、端賽章等など・・・。
ちなみに上海市街戦や万里の長城の警護 にも当たっていたそうでつ。
5年前になくなったうちのじーさまは、戦時中横須賀で40サンチ砲弾 造ってました。腕の良い旋盤工だったのを買われて、だったそうです。
4月に死んだばあ様が旅順で陸奥に乗ったことがあるそうな。
442 :
名無し三等兵 :03/06/25 23:34 ID:NiQvOTAb
>>432 スターリンに拾われる前は、日本軍に追われてハバロフスクまで逃げてきた。
反日パルチザンで本名は金成柱。
せいぜい小隊長くらいしか勤まらなかったチンピラだよ。
だからこそ。無謀な朝鮮戦争を起こしたのだけどね
近衛師団で陸軍軍曹やってたそうです。 で、九段の本部で、新兵の招集やってたもんだから、敗戦後カンペキな 戦犯扱いで、一時は絞殺刑も覚悟したって言ってました。
絞首刑の間違いでつた。
>>429 パープルハートの話で、映画かな?
こんな話をきいたことがあります。
日本人アメリカ移民って、教育だけは日本で受けさせる人が多くて、
兄はアメリカ軍に参加。
弟は、日本に滞在中に戦争がはじまって、日本軍で参加。
兄は日本人を助けるために、色々と苦労して日本人に投降を呼びかける。
その中で、弟を知らないか、知らないかと探し回る話がありました。
>>432 現在、金日成とされている、金正日の父は、
戦時中はソ連の中国人部隊を率いて、
大尉として主に満州でゲリラ活動していました。
朝鮮には、二度ほど進入した記録があるだけです。
ですから、431の御爺さんが戦っていたのは、
もしかして後の北朝鮮国家主席だったかもしれませんね。
すると、じいさん、なんで殺さなかったの!?と言う話になります。
>>438 >補足よろ、第八大隊とか中野学校、端賽章等など・・・。
もっと聞きたい!!
補足よろじゃなくて、父か母にも聞き込みして!!
良い供養になりますよ。
>>446 山崎豊子の著作で「二つの祖国」というのがそれですね。
NHKの大河ドラマで「山河燃ゆ」と改題されて放映されました。
20年位前の話。
450 :
428 :03/06/26 09:34 ID:???
今日、大阪環状線で血色はいいけど年はかなりいってそうなお年寄りが 乗ってきて、出入り口の直ぐ近くに立っておられました。 座っていた若い女の子が”次降りますからどうぞ。”と席をゆずろうとした ら、 ”私も次に降りますから。”と断り、そのままその女の子に話し掛けておら れました。 聞くとはなしに聞いてたら、”おじいちゃん、今年86だけど、戦争でガダル カナルから生きて帰ってくるくらいだから、丈夫なんだ、お嬢ちゃんガダル カナルって知ってるかい?、1000人行って、一人しか帰ってこなかった んだよ”と・・・。 まあ当然そうきかれたお嬢さんはガダルカナルが何処にあるかも知らな かったのですが、”知りません。”と答えず、”勉強しておきます。”と答え てました。 もう10年もしたら、戦争に行った人たちはほんとに居なくなるなと思った 次第。
伯父はビルマ戦線でした。 志願兵だったため、早くから戦線に出ていたそうです。 補給が来なくてきつかったと言ってました。 食料を調達するのが命がけだった、と、酒を飲む 度によく言います。明け方にジャングルをコソーリ 移動して、落ちている果物を拾い集めたそうです。 倒した英兵がいい物食ってるのが皆に解り、 嫉妬も絡んで余計に勇猛になったそうです。 戦闘については余り話したがらないので、 話題は食べ物ばっかり。 完熟マンゴーはうまかっただの、英兵の非常食は ビクーリするほどうまかった、など。 ただ、戦友がいっぱい死んだ、あんな思いは もう勘弁だな、と最後は呟くようにいいます。 今春、春の叙勲の栄誉に輝いた時に靖国神社に 一緒に行きました。伯父は今まで戦友に逢わせる顔が 無いと、上京しても決して行きませんでした。 しかし、もう80を超え、伯父の中で何かが 変わったのかもしれません。 戦友の名を探し、見つける度に何かを嬉しそうに 呟いていました。一緒に行った漏れはなぜか 涙がこぼれました。 長文スマソ
453 :
名無し三等兵 :03/06/28 00:02 ID:s+Y38Hnv
>>450 実際は3人行って2人帰ってこなかったぐらい?
硫黄島は20人言って19人帰ってこなかったぐらい
レイテ島は100人言って97人帰ってこなかったぐらい
だっけ?
454 :
名無し三等兵 :03/06/28 00:17 ID:09DUQNJ1
京都伏見の16師団はレイテ島で1944年10月に全滅したが 実は帰還してきた兵士が620人くらいいたらしい 全滅といっても実際には一兵卒残らず皆無になったわけでなく 部隊の建制が維持できなくなり組織的戦闘不能になる寸前に 大本営やら師団司令部への連絡のために内地に帰した軍人がいたようだ 帰還してきたほとんどがこれについてきた便乗組だったとか それでも戦時の師団編制20000人程度とすると620人といっても 100人に対して約3人・・・確かに100人行って97人は帰って来なかったという勘定になるな
よく死ぬ間際には「天皇陛下万歳」ではなくて「おかあさーん」と言って 死んでいったと言われますが、祖父の体験ではそうともいえないらしいです。 いくら死にそう、死ぬからといってもやはり「天皇陛下万歳」と言って死ん でいったそうです。名誉ある戦死だったと伝えてもらうにはそう言いながら 死ぬことが必要だったそうです。
456 :
名無し三等兵 :03/06/28 00:44 ID:yA6KXf4i
こんなスレがあったんだね。 ウチはオヤジが超晩婚だったので、オヤジの話。 ウチのオヤジは中国の大連に渡って、専門学校(今の工業大学) を卒業して、製鉄所に勤務していたのだが、昭和18年に招集され て、訓練だけしてその後戻されたそうだ。衛生兵だったんだと。 実戦には全く参加していない。 訓練はかなり厳しく、起床ラッパが鳴るたびに鬱になったって言ってた。 衛生兵にされたが、訓練では38式を撃ったとのこと。「かなりよく当たる 銃」だったらしい。 オヤジの兄貴はノモンハンに送られて、ソ連軍の銃弾を肩に食らった。 5年前、ウチの実家に来た時、もの凄く怖かったと言ってた。 母方の兄弟も男が三人いて、一人はテニアン島で戦死。他の二人は 国内のどこかの師団にいて、双方とも衛生兵だったらしい。 また、オヤジが昔会社やってた時の部長が、陸軍特攻振武隊の少尉 だったと・・・。 以上がウチの一族の戦争体験。今年の夏、実家に帰ったらもうちょっと 詳しく聞いてみようと思います。
457 :
名無し三等兵 :03/06/28 00:56 ID:oTYbQwhG
うちの爺ちゃんは終戦の日に徴兵され大阪の訓練施設に いったそうです。到着と同時に爆撃されてお前は通信兵だ、と渡された 通信機と司令官が吹っ飛とぶが、一週間訓練し家に帰ったらしい。
俺のじいさん穴堀りしかしてないって・゚・(ノД`)・゚・。
>>459 それでいいんですよ。
生きているのがなにより。
461 :
459 :03/06/28 01:36 ID:???
じーさんは陸奥に乗っていた水兵だったようだけど… 爆沈の生き残り組だったのかな?心筋梗塞で逝って しまわれたから闇の中だが。
463 :
名無し三等兵 :03/06/28 11:46 ID:s+Y38Hnv
>>454 レイテは全部で8万人いたわけだからね
海軍入れたらえらいことに・・・
うちの大伯父は、徴兵で末次信正連合艦隊司令長官の従兵やってたそーだ。 訓練など随分無茶やった長官だったが、従兵には非常に優しく、海軍の 古きよき時代を満喫した兵隊時代だったらしい。
465 :
名無し三等兵 :03/06/28 16:11 ID:PC+vxbLF
うちの爺さんは、満州の重砲連隊にいたそうです。よく 三角法の話を交えながら、大砲の打ち方を聞かされます。 この間聞いた話は、大砲を馬ではなく13トンの牽引車で 引っ張っていったとのことで、当時としては珍しいことだったと いっています。
466 :
名無し三等兵 :03/06/28 16:56 ID:hN2bk0sm
大学病院で隣のベッドにいたお爺さんから聞いた話。 徴兵されたとき、海軍でロシア近くの海を守る部隊に配属されたそうだ。 ご存知のように、あのあたりの海は落ちたら心臓麻痺で死んでしまう。 南方みたいに物につかまって何時間も漂流できない。 死ぬことを覚悟したそうだ。ところが実際には運良く(?)南方へ送られた人は 皆、アメリカ軍に"ボカチン"(沈没?)され生きて帰ってこなかったそうだ。
中国戦線に出てたらしい。 んで、終戦の報告が来たら「日本が勝った」と思ったらしい。 ・・・中国では勝ち戦が続いていたんだなあ、と思った。
468 :
名無し三等兵 :03/06/28 17:16 ID:5eV8hH3j
うちのとーちゃんは、兵科士官にもかかわらず、事務畑に紛れ込んで適当にやっていました。 戦争中は、死ぬなんて考えたことなかったけど、戦後、戦犯容疑で進駐軍に引っ張られて「死ぬ!」と思ったそうです。
469 :
名無し三等兵 :03/06/28 17:26 ID:JDVZeaQG
俺の母方の爺さんは、戦時中は会津城の守備隊だったと言ってたな。 あ、父方の爺さんは親父と一緒に室蘭で艦砲射撃を喰らったらしい。 親父の実家には大叔父だか曾爺さんだかの遺影(陸軍)があったな。 嫁さんの父方の爺さんは満州にいて、シベリアに抑留されていたそうだ。 もうほとんど戦中を体験した人は残っていないな。
470 :
469 :03/06/28 17:36 ID:JDVZeaQG
追加 たった今思い出した。 末期に予科練に入っていた学校の先生がいた。 千歳基地に配属されていて、何でも全機体のエンジン音を聞き分けられたそうで、 ある日異音に驚き飛び出したら「富嶽」だったんだそうだ。 撃墜した米軍機の燃料タンクに12.7mm機関砲を何発か打ち込んでみても全然漏れが無く、 日本の燃料タンクは拳銃で撃ったらチョーっと漏れが出て嫌になったそうだ。 もう少し戦争が長引いていたら確実に特攻隊に行く事が決まっており、 上官から「お前なら確実に敵艦に当たる」と褒められる位飛行が上手だったそうだ。
471 :
名無し三等兵 :03/06/28 18:28 ID:GrPtK2Iq
>>438 異常に早い昇進速度だな。入隊前の前歴は?11ヶ月弱で二等兵から上等兵に進級
するのは通常ではありえない。前職が重要になる。上等兵で憲兵に合格する学力
からして、高等教育を受けているようだが、除隊後に憲兵試験を受けたのか?現役
以外で憲兵任用していた証拠にもなるし、非常に興味深い履歴であることは間違いない。
472 :
ぴーす :03/06/28 19:24 ID:6JuHtDiZ
俺とは多分他人だけど台湾総督府営林所の履歴書を公開します。 (位動爵 博士) 陸軍歩兵少尉正八位 (氏名) 北川均 (府県族籍) 石川県士族 明治三九年生 (経歴) 昭和四年 台湾総督府台北高等商業学校卒業 昭和四年 台湾総督府営林所勤務、月俸八五円、宿舎料二十円給わる 昭和八年 陸軍歩兵少尉に任ぜられる 故人だから名前出してOKですよね?
>>470 >ある日異音に驚き飛び出したら「富嶽」だったんだそうだ。
なんでやねん。
474 :
6 :03/06/28 19:26 ID:T8bOppgf
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475 :
名無し三等兵 :03/06/28 22:41 ID:KtLxOqO/
うちは父方、母方とも実家は北海道です。 うちの母方の祖父は大戦末期に徴兵され、陸路で函館まで移動しました。 しかし輸送船の手配がつかないため本州に渡れず、仕方なくそこで援農作業に 従事しているうちに終戦を迎えました。あのままあと3ヶ月ほど戦争が長引いたら 多分南方戦線に送られ戦死していただろうと言っていました。 うちの父の一番上の兄は、釧路で高射砲部隊に所属していました。B−29との 交戦経験もあるそうで、正月に親戚が集まった時など、1機撃墜したぞとよく自慢 していました。しかし当時の高射砲の性能を考えると、いまいちエンジントラブルとかで 落ちた可能性の方が高いような気がするのですが。そもそも飛行時間や建造物 密集度の都合上、北海道はB−29の戦略爆撃ではなく、もっぱら艦載機主体による ピンポイント攻撃だったということを後日知りました。しかしそれを言うと伯父が気を 悪くするので撃墜したことにしています。 父の2番目の兄は少年兵だったとか。たまたま南方戦線志願者を募った時、伯父は 志願しなかったのですが(ヘタレとか言うな)、その時志願した連中は全員戦死したそうです。 しかし今考えてみると、ウチって父方母方ともあの戦争で誰も死んでいないな。戦死者は もとより空襲で死んだ人もいないし。
476 :
名無し三等兵 :03/06/28 22:47 ID:Raem8loj
漏れのじいちゃん、内地で終戦を迎えた上等兵だったんだが、 何か軍需物資を持って帰るのが当り前だったのに、 何にも持って帰らなかったため、ばあちゃんにさんざコケにされたそうな。 「嫁は選ばにゃいかんぞ」と、孫の漏れにしみじみ・・・。
母方の親戚 終戦後、近所の谷田部航空隊に手ぶらで出かけていき 碇のマークつきっぱなしの軍用トラックに、物資山ほど積んで帰ってきた 中には拳銃・機関銃や弾薬、飛行機の部品まで混じってたそうな
478 :
名無し三等兵 :03/06/28 23:12 ID:xvmy8Ntf
うちのじいさんは歩兵第28連隊で現役でノモンハン事変に参加。 大東亜戦争中は桶川にて防衛任務に当たる。 当方実家北海道、東京在住
479 :
名無し三等兵 :03/06/28 23:21 ID:0CBwLjeh
うちのじーちゃんは砲兵でシナにおったと言ってます。 馬に乗って大砲引っ張ってたらしいでつ
480 :
名無し三等兵 :03/06/29 00:19 ID:IZQTkS6G
亡くなった祖母の話 終戦の前の年の夏、製鉄所を狙いに来たB29に日本の飛行機が体当たり、 おまけに後のB29にも当たって、2機共墜落したのを見て地上で大騒ぎ、 防空壕の上で隣組の人達と万歳・万歳の連呼したそう。銀色のはねが キラキラ舞い落ちてすごく綺麗だったそうです。 うちのばあちゃん、奇しくも飛行第4戦隊野辺軍曹機・折尾上空体当たり の目撃者。しかし、万歳って・・20人程の命が失われた瞬間なんだぞ・・ まぁ・・当時はそんなもんかな・・・
481 :
名無し三等兵 :03/06/29 01:48 ID:wmQL5BVu
>>480 万歳連呼ってのは人命が失われたことを考えれば不謹慎に思えるけども、もしその
パイロットがそうしなければそれ以上の人間が死んでいたかもしれない、しかもそれは
自分だったかもしれない、ってことを考えれば、一命と引き換えに助けてくれた
相手に対し、とにかく何かの行動をしたかった、という気持はうなずけるものがある。
>>447 それ本当に金正日の父親の金日成かなあ?
「金日成」ってのは、朝鮮族出身の活動家達のリーダーが、代々襲名
してきた名前だという話。
昔から金正日の父親の功績とされてきた事も、新事実として後から
わかったとされる事も、みんな金日成を名乗った複数の人間がやった事
というのが、事実らしいぞ。
シベリアに抑留された人の中にはロスケに媚うった事を孫に自慢するバカもいるんだな そんな奴からいったいどんなバカな孫が出来ることやら…
485 :
タ :03/06/29 02:58 ID:0lBTB7wr
おっさんなので、父の話。 父は鉄道省の学生だったが、卒業を一年繰り上げされて召集された。 よく、モウ一年若ければ学徒動員だったな、と言っていた。 出兵先はニューギニア。 学卒だが下士官は辞退したと言っていたので、 えらくは無かったと思います。 なぜ辞退?と聞いたら「兵隊になる為に高専出たわけじゃない」 といっていました。 そのニューギニアでの話。 あんまり腹が減ったので、仲間2人と共謀して現地人の畑から 芋を盗み出して食べちゃったのです。 すると翌日、現地の村長が隊長さんに抗議に やってきて、怒られてしまったそうです。 父曰く、「しかし不思議だ。なぜ俺たちが盗んだとばれたのだろう? あいつら夜目がきくのか?」 すると母が、「あなた、芋を煮て食べたのでしょう? そりゃあ、匂いでばれますわよ」 40年ぶりに謎がとけた、と当時の父は喜んでおりました。 しかし、40年も悩む問題じゃないぜ、おとうさん。
祖父じゃなくて曽祖父の話はどうかな? もちろん直接逢った事はないんだが。 砲兵第八連隊所属で、奉天会戦、第一次旅順砲撃、第二次旅順砲撃、二〇三高地砲撃に 参加したと記された従軍記が実家にあるです。 うちの地元(当時の村)で発行した当村出身の兵の出征時の記念写真集も出てきました。 全員明治一九年制定の紺絨服着用です。
487 :
469 :03/06/29 07:32 ID:hWGFqcSD
>>473 んー、聞きなれないエンジン音が響いてきて、
機種確認の為に外に飛び出した、と言ってた。
と記憶している。
488 :
名無し三等兵 :03/06/29 08:33 ID:CEDoEUsq
>>477 うちの奴らもやったらしい。イラクのこと笑えんなと思った。
うおー、今日は大漁ですね。
みなさん、良い話をありがとうございます。
>>483 447に書いた中国系ソ連兵士を率いていたのは、
国家主席の金日成ですよ。
ペレストロイカで公開になった資料からです。
まさか、北朝鮮が金日成がソ連軍大尉だったとは教えないでしょ。
これが今のところ、一番信憑性の高い金日成の出身ですね。
490 :
名無し三等兵 :03/06/29 12:14 ID:5lZLbcBy
>>489 金日成は、朝鮮に帰還?した際には、年齢は30そこそこだった。
おまけに朝鮮語がへたくそでロクに話せなかったそうだ。
戦前から軍を率いていたなら、幾らなんでも20代の若造がやるのも限度がある。
31独立運動の指導者、金日成を扮するには、少なくとも40や50は越えてないと無理。
満州で戦った金日成を北朝鮮の元首領金日成のことだと言うには、少々無理があるが
もっとも朝鮮に帰還した際も、朝鮮人民から口々に偽物と呼ばれたから。
もともと無理があったが
492 :
名無し三等兵 :03/06/29 14:40 ID:7SFT3Xhl
>>486 8連隊って旅順にいたの?
第4師団は第2軍じゃなかった?
後備第8連隊は第3軍みたいだけど
俺のじいさんは弱視で徴兵されなかったそうです。 発明家だったらしく、自転車にエンジン積んだりしてたそうな。 (あまり人の役に立つ発明(?)はしなかったらしい) 奇人として名を馳せたが、津波にさらわれてアボン
>>493 >津波にさらわれてアボン
うーむ、津波ですか・・・。
御気の毒に。
ちなみに、エジソンも電球を開発するまではただの変人でしたよ。
いい年ぶっこいて、納屋に篭って、家族に食わせてもらっていたそうです。
現に、エジソンの特許は4000だか、4万だかに及びますが、
そのほとんどの発明は意味無いものだそうです。
ですから、おじいさんが特に発明家として
おかしかったと言う訳では無いです。
そういえば、イギリスの知り合いが、
サイドカー付きバイクを改造して、サイドカーから操縦出来るようにして、
無人バイクを作っていました。
アホですけど、発明家ってこんなものです。
495 :
名無し三等兵 :03/06/30 22:16 ID:xEAwUPxu
私の祖父は造船工でね。 木造船を作っていた。 戦時中は物資の輸送手段が船しかなかったからな (ほとんどがアメリカに撃沈されたけど) その関係で徴兵は免除されたよ。
496 :
名無し三等兵 :03/07/01 11:31 ID:4+9iWFSo
自分の祖父は、近衛兵だったらしいが、インパール作戦に参加したそうな。 よくわからないのだが、近衛兵って前線にいくものなのだろうか。 誰か詳しいことを教えてください。 祖父は生きて帰ってきたけど戦争の話はしたがらなかったので。
497 :
名無し三等兵 :03/07/01 11:39 ID:XnTYooHF
洩れの婆ちゃんの爺ちゃんは浦賀まで黒船見物に行ったらしい 沖でドカンドカン大砲ぶっ放していて(威嚇射撃?)その音にめちゃめちゃ びびって、この国はヤバイって心配になったってさ。 洩れは婆ちゃんからこの話を聞きますた ちなみに婆ちゃんはペリーを『ぺるりん』って呼んでいますた
うちの爺さんは瑞鶴のゼロ戦の整備兵で 珊瑚海海戦のときのはしを小さいころ聞いたことがある 翔鶴隊の飛行機もきたために収容しきれず ほんの少しの破損があるだけの飛行機でも「すてろーー!」って叫びながら 海中投棄したてみたい 当時はふーんと思っていたが 歴史的な珊瑚海海戦に自分の祖父が参加していたと思うだけで興奮する・・・
499 :
名無し三等兵 :03/07/01 11:54 ID:eXgWv1T6
うちの爺さんは戦地で自分の上官を「敵前逃亡罪」で撃ち殺したらしい 一等自営業先生の「某佐藤」に似た外見だったらしい 「こういう厳つくて、部下を部下と思ってない奴に限ってろくな死にかたをしない もんだよ ヒャハハハハハハ」 と、死ぬ前にいってた
501 :
名無し三等兵 :03/07/01 20:14 ID:2AgeyNcg
うちの死んだ爺さん。横鎮に兵隊にとられました。 訓練後に鴻に信号兵で配属。揚子江で頑張ってたらしい。 あっちの戦闘機、太陽の中から逆落としに突っ込んできて 機銃掃射をするので怖かった、という話をききました。 その後、駆逐艦に乗ってミッドウェイへ。大負けして帰ってきて 体を壊して静養。復帰後、水雷学校?の教官だったらしい。 駆逐艦時代は、信号兵の分際で駆逐隊指令と仕事の上の ことで散々やりあってたそうで。それでも殴られたことは一度も なかったとか。ほんとかねぇ。
502 :
名無し三等兵 :03/07/01 21:58 ID:K2KVAvZr
>>501 駆逐艦は所帯が狭いからのんびりしていて
殴られることもあんまりなかったと聞いたことがある
すぐ沈むから一心同体という気がするし
鬼の山城蛇の長門いっそ赤木で首をくくろうかというようなのが
呉佐世保横須賀ごとに別の艦であったらしいからね
503 :
名無し三等兵 :03/07/01 22:06 ID:RMqBZp9D
じいちゃんの兄貴が支那事変で戦死 所属とかは今度きいてみまつ じいちゃん自体は横須賀あたりの海軍で訓練中に終戦 東京大空襲で遺体処理の応援にいった話よくしてくれます・・・
504 :
名無し三等兵 :03/07/01 22:23 ID:SF/Rk6sH
巡洋艦に乗ってレイテ沖海戦に参加しますた。
505 :
名無し三等兵 :03/07/01 22:32 ID:UwsLBDaP
うちの爺さまは遺品の写真や手帳を見ると輜重兵だったらしい。 輜重兵って評価が低いと聞いたことがあるけどどうだったの?
うちの祖父は昭和20年5月頃、ルソン島サンタフェで戦死したらしいです。 祖母によるとそういう知らせだけで、遺骨は戻らなかったとのこと。 墓碑には「陸軍伍長」とありますが、戦死後に特進したものなのでしょうか。
ウチの爺さん、戦争の事は聞いても一切語らない人だった。 高知の方に行ってすぐに終戦になり帰ってきたらしいが、 多分何かあったんだろうな・・・。
508 :
名無し三等兵 :03/07/01 23:30 ID:UwsLBDaP
親戚の爺さん、朝鮮鉄道で機関助士してた。 軍用の貨物列車は、馬賊に狙われて危険だったらしい。 半島の荒野は広く3、4時間走っても景色が変わらなかったそうだ。 俺が私鉄の運転士になったとき当時使ってた点検ハンマーをくれたよ。
>>502 >すぐ沈むから一心同体という気がするし
この理由が泣けます・・・・。
>>508 >俺が私鉄の運転士になったとき当時使ってた点検ハンマーをくれたよ。
ええもん貰ったね。
>>507 高知出身なんだけど住吉海岸ってとこに当時震洋の基地が在って
終戦間際に謎の爆発事故で多くの隊員が亡くなってる。
もしやそれと何か関係が…
しかし、みんな貴重な体験談ばっかりだな・・
うちのじぃちゃんはラッパの意味の覚え方や、うんこ我慢する方法とか
あと食い物関係の話ばっかりだw
512 :
506 :03/07/02 00:44 ID:???
うちも高知です。と言っても 戦死した祖父は善通寺に配属されていたらしいですが。
うちの爺ちゃんは軍需工場の事故で片目潰して、おかげで戦地には行かなかったが。 人間万事塞翁が馬っての? 何を作ってたかは聞かなかったなあ。
怖くて苦手だったマイジーちゃん。 死後、親(満州生まれ)からジーさんの満州でやっていたことを聞いた。 満鉄の職員で、整備などをやっていたらしい。 戦後帰国の混乱の中で、馬賊狩りをしたり、されたり。 なんて話も聞いた。 戦中は、兄弟で近所のロシア人の家にボルシチの作り方習ったり、 中国人の家で餃子の作り方習ったり。 なんてほのぼのとした生活をしてたそうで、ギャップが激しいなぁと思ったのを覚えてる。 もっと話しきいときゃよかったなぁと、いまは後悔している。
うちの爺ちゃんも満鉄職員だったよ。 でも、爺ちゃんはあんまり戦争中のことは話そうとしないので、婆ちゃんに聞いた話。 満州から引き揚げるときの話。 満鉄職員とその家族が優先的に乗車できる引き揚げ用列車があるということで、 住んでいるところから遠い町にある駅まで行くことになった。 まだ若かった婆ちゃんは髪を切り、男装をして爺ちゃんと一緒に歩いていったそうだ。 ソ連兵は女と見るや……と言われていたからね。 で、駅に向かう途中、二人は運が悪いことに、 「ダワイ!」と、二人組みのソ連兵に呼び止められてしまった。 「ああ、乱暴される」と婆ちゃんは思ったそうだが、 なんと、そのソ連兵たちは婆ちゃんには見向きもせず、爺ちゃんを連行していってしまった。 「もうこれで今生の別れ」と思ったが、どうしようもない。婆ちゃんは駅へと向かった。 駅へついたが、列車はまだ来ていない。 仕方なく、そこで夜を明かし、そして翌日。 なんと爺ちゃんが両手にバケツを提げて、生きて駅へとやってきた! 話を聞いたところ、ソ連兵の兵舎へ連れて行かれ、彼らの服の『洗濯』をさせられたのだという。 しかも、それが終わると二つの大きなバケツに一杯のバターを入れたものを貰って、 釈放されたのだと言うことです。 ソ連兵よ、洗濯ぐらい自分で出来なかったのかね? 以来、爺ちゃんは自分で洗濯したことが無いそうです。
>なんと爺ちゃんが両手にバケツを提げて、生きて駅へとやってきた! 何かワラタ
>>515 少々不謹慎な想像ですが、もしやそのソ連兵は男色家だったのでは。
いくら変装したところで、お婆さまが女性であることは見破られてたような気がします。
(本当に変装が気付かれてなくて男手が必要なのであれば、二人とも連れて行かれたでしょうし)
お爺さまは洗濯もさせられたのかもしれませんが、別なこともさせられたのかもしれません。
それ故、以後、それを思い出すような洗濯を二度としたくなかったのかもしれません。
518 :
508 :03/07/02 22:24 ID:0z3GVzV3
>>510 >ええもん貰ったね。
うん、ほんとにそう思うよ。
いまの運転士は打音検査はしないのでハンマーは使わんのだけど
なんか鉄道員としてのスピリッツを貰った気がする。
ちょっとスレちがいかも、スマソ。
520 :
名無し4等兵 :03/07/02 22:29 ID:i4oDJn1g
神風特攻隊になって突っ込もうとしたのだが あまりにも燃料が少なくて海に墜落→生還。
>>517 俺もそう思ったw 回教徒は自由だもんね。
きっとソ連兵の体のいろいろな所を洗濯させられ、かつお返しに自分も
トラウマになるほどいろいろ洗濯されたんでしょうな。
>二つの大きなバケツに一杯のバターを入れたものを貰って、
ものすごいテクだったようだw
>>517 .521
オマエラ、深読みしすぎ。
そこらへんの事をつっこむと疑心暗鬼になるから止めてくれ。
そういう経験をした人もいるかもしれんが、
そんな話聞いても嫌な気持ちしかせんからね。
・・・と、けど、そんな事が本当にあったなら話さないか。
>>514 自分の父方も満州帰りですが、
話ではほのぼのに聞こえるかもしれないが、
当時も結構大変だったみたいだよ。
確かに、父の話す、ロシア人の子供と石のなげっこしていたと言う話や、
ロシアの女の子はそこらへんで小便する話などを聞くと
ほのぼのした感じだけど、
ばあさんが腸チブスで死にかかって、死ぬのを待っていた話や、
(腸チブスは死病で、かかったらほぼ助からない)
じいさんは3回ロシア人の強盗に入られた話などを聞くと、
やはり死と隣合わせと言う部分があったと思う。
ちなみに、523はハルピンでの話です。
525 :
名無し三等兵 :03/07/02 23:12 ID:QOHPiBOn
>>505 有名な歌で
輜重兵が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち
推してしるべし
526 :
名無し三等兵 :03/07/02 23:51 ID:sp1SuCnB
俺の親父、所沢で戦闘機の整備兵をやってた。 あまりに腹が減るので近くの畑から芋を盗んで、航空燃料で炊いて食べたとか。 落花生は畑に手を突っ込んで、生のまま食べたそうだ。皆は下痢を したが自分は平気だったとか。お百姓さんにはよく軍に怒鳴りこまれたそうだ。 それでも腹が減ったときは、農家の前にただ立ってたら、芋とかを めぐんでくれたそうだ。 東京大空襲の時は地平線が真っ赤だったそうだ。これで戦争も終わると 思ってほっとしたそうだ。 おばあさんは、近くの町が綺麗にひかったので綺麗な花火だと思ったそうだ。 お爺さんに"たわけ あれは空襲じゃ"と諭されたとか。 今も昔も米軍は強すぎる。イラクの人々も当時の日本人と同じ気持ちであったに 違いない。ただ日本人はすぐにアメリカ万歳だったけど、あそこは "目には目を"の国だからなあ・・・
527 :
名無し三等兵 :03/07/03 00:01 ID:rBgo9mW6
>>526 ウチの場合は百姓なので逆。
兵隊さんに食事をもてなしたことがある、
とお婆ちゃんが言ってた。
529 :
526 :03/07/03 00:31 ID:7oZ2RkAe
親父、訪ねていってお礼をしたいと生前よく言ってたな。
530 :
名無し三等兵 :03/07/03 00:34 ID:rBgo9mW6
うちの親戚は兵庫県で歯科医だった。 戦時中(まだ初期のころ)、兵隊さんご苦労さん、と言うことで無料で治療してあげたら 船に呼んでカレーご馳走してくれたそうだ。
>>505 引率役なら外見は騎兵と同じだし、馬に乗っての行軍だからお徳な兵科ですよ。
ただし馬の世話が大変。川辺で歩兵が死んだように休息をとっている傍らで
水を布バケツに汲んできて飲ませ、脚をさすってやらなければいけません。
行軍演習で、行き倒れている歩兵を自動車で拾ってあげるのも仕事ですね。
本当に評価の低いのは輸卒のほう、馬に乗らない随伴の人達のことで
背が低いとか、能力的にちょっと劣る人達が回されたそうです。
532 :
名無し三等兵 :03/07/03 00:54 ID:Kric+3Kb
世界がここの住民みたいなヤシだったらな・・。
>>531 >行軍演習で、行き倒れている歩兵を自動車で拾ってあげるのも仕事ですね。
ああ!!どっかのホームページで見た
じいちゃんの戦争体験話で、落伍した人が自動車に乗っていたというのは、
このことでしたか!!
いや、一人で納得です。ありがとうございました。