919 :
名無し三等兵:03/02/05 03:54 ID:U+zhDoUI
あのころの米軍は女子供容赦無く撃っていたからな。以前見たドキュ
メンタリー番組では、パイロットには日本国民全てをターゲットにし
てよしと上層部も認めていたと報じていた。鉄道が主要ターゲットと
されたから、旅客車が散々撃たれまくり、多くの死傷者が出た。
920 :
名無し三等兵:03/02/05 04:19 ID:PNDPL3O/
俺のじいさんは海軍で、豊川海軍工廠→空母翔鶴(作業員)→南方戦線(ブーゲンビル)
だそうだ。
ブーゲンビル上空で零戦と米軍機の格闘戦を見たそうだ。
零戦はひらりひらりと軽快だったと。
あと、とんでもない空母が日本にあった、というのが口癖だった。
信濃のことだね。情報統制が海軍内でも凄まじかったらしく、
信濃の存在は戦後知った海軍軍人も多かったそうだ、、、、、。
>>914 戦後は国鉄マンですか!
更にエリート決定でな。
922 :
無名さん:03/02/05 17:45 ID:rXuWW7Ry
923 :
名無し三等兵:03/02/08 11:27 ID:1nIo+Hc8
age
ボケると昔帰りするのは本当だね。
今さっき、お昼のサイレンのときに、
「敵襲だ~!!」と言ってコタツの中に隠れてた・・・
925 :
:03/02/10 22:32 ID:???
北朝鮮スレにいたんですが、このスレを紹介されましたので来ました。
最近、母方の祖父母(ともに80歳)と話す機会があり、体験を聞きました。
(2人ともまだ存命です)
で、祖母から聞いた話。
祖母は看護婦だったので、病院船で転々としておりました。
祖母の仕事は、病院船に乗って傷病兵を回収して日本に送るという仕事らしいです。
看護学校もちょっと繰り上げ卒業になって、病院船に乗ったそうです。
中国、朝鮮半島あたりの港町を訪れることが多かったそうです。
で、現北朝鮮の清津に行った時の話。
(清津=セイシンと発音してました。拉致事件でも話題になる地名ですが、「チョンジン」と
言うので、同じ場所だと最近までなかなか気づかなかったそうです)
そのときに、港から少し行った場所に、きれいな住宅地があって、きれいなチョゴリを着た
女性がたくさんいて、当時の自分たちよりも、ずっといい生活をしていた様子だったそうです。
「商売女じゃなくて、上品で上流階級という感じだった。なんとなくわかる」と言ってました。
他にも中国の港町では、モノを売りに来る中国人と値切り合戦をしたらしいです。
一度魚雷が来て、危うく船が沈没しかけるところだった、とも言ってました。
(船長のとっさの舵取りの機転で沈没を免れたそうです)
少し前に、小渕総理名義の感謝状のようなものをもらったというので、見せてもらいました。
926 :
:03/02/10 22:33 ID:???
>>925の続きです。長くてすみません。
祖父は中国南部(上海あたり)から北部へと転戦してたそうです。
祖父の職業は薬剤師でしたので、前線に出ることはなかったと言ってました。
上海、南京近辺~奉天(=現在の日本大使館のある瀋陽のことだそうですが)
あたりまで。
そういえば、当時の満鉄社員というのは、エリート、と言ってました。
たぶんお給料も良かったと。
これは余談ですが、祖父は南京大虐殺には懐疑的、というか
「あんなものは存在しない」と言い切りました。
というのは当時、部隊の荷物持ちとして現地の中国人を雇っていたそうです。
(当然、給料は出してるとのことです)
で、祖父が転戦してた頃というのが、1940~1943年くらいだったと。
たしか南京大虐殺は1937~8年くらいだったかと。
その頃に本当に大虐殺があったなら、その後の40年くらいに
上海、南京あたりで日本軍が荷物持ちで中国人を雇えるだろうか?と。
(中国人が日本兵を怖がって来ないのではないか?)
あと、当時の現地の中国人と、私服っぽい服装の時の日本兵や日本人は話してみないと
パッと見た目では全然区別がつかなかったそうです。
そこまで日本人と中国人を細かく区別して、あんなに大量に虐殺できるわけがない、と。
戦争中の話には詳しくないんで、祖父のいうあたりがどれくらい信憑性があるのかは
知らないんですが…。
927 :
:03/02/10 22:50 ID:???
うちの父方の祖父の話です。これは父や亡くなった曽祖父などから聞いた話です。
父方の祖父はある田舎の医者でした。派手な人でした。
バイクが好きで戦前だというのに、日本に数台しかないハーレーに乗り
往診するような人だったといいます。。。ほんとかどうかはわかりませんがw
祖父が戦争に出て行ってから、鉄が不足してこのハーレーも供出の憂き目に
あった時に、「息子が帰ってきたら乗るから」と最後まで曽祖父は守ろうとしたそうですが…。
祖父は軍医として、ニューギニア方面に行ったそうですが、転戦の途中、
おそらくジャングルで移動中に戦病死ということだそうです。
あまり詳しいいきさつはわかりません。
でもジャングルで亡くなったのではないか、とわかったのには少し後日談があったからです。
その後、曽祖父は祖父が残していった、たった1人残された子供(つまりうちの父)を育てまして、
その父も無事に医者になりまして、診療をしていたある時の話。
「あの、もしかして〇〇さん(祖父)の息子さん?」と年配の患者さんから言われたそうです。
(苗字が珍しい&父が祖父に似ていたそうです)
その方は昔、南方に出征していて、怪我をして、祖父に見てもらったそうです。
で、その方は母親1人を残してきていて非常に辛い、という話を祖父にしたら、祖父が
「じゃあ、アンタは重症で従軍には不適格、要治療ということで、内地に送り返します」と
多少誇張した診断書を書いてくれて、内地に戻ったそうです。
その後、祖父を含む部隊が、南方でほとんど助からなかったことを聞いたそうです。
あの時、祖父の判断で自分は命拾いしたと。「助けてもらったから今があるんだ」と。
やはり、祖父は帰らぬ人になったことを父が告げると、診察室で大泣きされたそうです。
そんな祖父は靖国に眠っています。曽祖父は
「息子に会いにいってくる」と地方から、靖国まで何度か行っていたと、後で聞きました。
一度機会があれば、靖国に行ってみたいと思ってます。
928 :
名無し三等兵:03/02/10 23:27 ID:tTDKXGLw
涙で画面が見えなくなったよ(泣
929 :
名無し三等兵:03/02/11 01:02 ID:khfUyN4B
>>927 りっぱな爺様ですね。
ニューギニア軍医日記
鈴木正己著
ニューギニアの部隊に軍医として、従軍された方が書かれた本があります。
当時の部隊の様子がわかります。
参考まで。
>>2 のリンクなんかおかしいんですけど…。
前スレはどうすれば読めますか?
>>930 ちゃんと一番下の“隊長!過去ログ倉庫で、~”をクリックすれば出ますよ。
932 :
930:03/02/12 14:12 ID:???
>>931 ありがとうございます。
Open Janeからだと「ここは壊れています」とかいう文字化け画面に
なってしまうので困っていました。
IEからいけました。
933 :
名無し三等兵:03/02/13 17:51 ID:ztx0Sji/
>>927を書いた者です。
昨日父に再度この話を聞いたら、漏れの一部記憶違いがあったので
訂正しておきます。すみません。
父が、祖父の後日談を聞いたのは、たまたま出会った患者さんではなく、
父がまだ医学生のときに、ゼミで合宿をしようということになって、
父が幹事になった時に、合宿先を決めて事前に訪ねたところ、
たまたまそこのご主人が祖父と戦地で同じだったそうです。
で、そのご主人は旅館の後継ぎで、母親だけを残していくのがとにかく
心残りだったという話だったそうです。で、祖父の嘘の診断書、祖父の訃報を
聞くという話にいたるわけです。
みんな学生でお金がなかったので、「合宿の予算はこれくらいで…」と言ったら、
ご主人が、
「あなたのお父さんは命の恩人だから、せめて息子のあなたにお礼させてほしい。
その予算で食事は豪華に、お調子もたくさんつけますから」と。
父は一応固辞したそうですが、ゼミの夜の飲み会では予定に無かった活け作りの刺身やら、
いろいろ豪華な料理が出てきたそうです。、
ゼミの教授が青くなって「〇〇くん(父)…。よ、予算は大丈夫か?」と聞かれて、
父は教授にそのいきさつを話したそうです。で、宿のご主人も教授に説明されたそうで。
で、教授、「じゃあ、〇〇くんのお父さんのオゴリで乾杯!」(←おいおいw)と盛り上がり
心置きなく、飲み食いしたそうですがw
>>929 本の紹介ありがとうございます。一度機会があれば読んでみたいと思います。
保守
935 :
名無し三等兵:03/02/14 04:31 ID:buUBCDp6
最近実家の本棚をあさってるとじぃちゃんのアルバムと書類がでてきました。
うちのじいちゃんは、近衛歩兵連隊の幹部候補生から地元の連隊に志願将校で配属。
支那事変に出征。武漢三鎮では中隊長で武勲あげたらしい。昭和16年に関東軍、
昭和19年に憲兵大尉で内蒙、昭和20年北蒙司令部付、少佐で終戦。と書いてありました。
アルバムには天皇陛下、朝香宮師団長、旅団長高田少将、小畑少将、連隊長飯沼大佐、
阿南大佐の写真が名前つきで張ってありました。たぶん2.26や南京戦に行っているので
歴史に興味がある今ならじぃちゃん沢山聞くことができたのにと思っています。
もうだいぶ昔に亡くなってしまっているけど。
初めてカキコします。
先日、祖母の葬式で田舎に行ってきたところ叔父とかから、爺ちゃんの話が
ちょっと聞けた。 爺ちゃん、孫には戦争の話はしない人だし、叔父とかが
酔った上での話だったので真偽は不明だけど。
今までは陸軍伍長でニューギニアにいたと聞いていたが、どうも中支戦線
から南方に転出したらしい。 ラバウルと言う話だったが、陸軍はラバウル
にいたんでしょうか? どうもラバウルって言うと海軍のイメージが強いの
ですが・・・。 ちなみに茨城です。 でもカナーリ福島よりなので連隊区が
水戸だったのかどうかは勉強不足で分かりません。
狙撃兵だったらしく、そのせいもあって孫には話をしてくれないのか?
爺ちゃんの弟は満州で終戦。 やっぱり抑留されたみたいで、家には銀杯と
海部総理のときの賞状があった。 今度、この人に詳しい話を聞きたい
と思っています。
ともあれ、これからは婆ちゃんが死んじゃってガックリしている
爺ちゃんをちょこちょこ訪ねて励ましてやらねば・・・。
939 :
名無し三等兵:03/02/14 13:09 ID:CXiOgj4U
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940 :
名無し三等兵:03/02/14 22:30 ID:Ok4OWz5U
みんな学生でお金がなかったので、「合宿の予算はこれくらいで…」と言ったら、
ご主人が、
「あなたのお父さんは命の恩人だから、せめて息子のあなたにお礼させてほしい。
その予算で食事は豪華に、お調子もたくさんつけますから」と。
父は一応固辞したそうですが、ゼミの夜の飲み会では予定に無かった活け作りの刺身やら、
いろいろ豪華な料理が出てきたそうです。、
ゼミの教授が青くなって「〇〇くん(父)…。よ、予算は大丈夫か?」と聞かれて、
父は教授にそのいきさつを話したそうです。で、宿のご主人も教授に説明されたそうで。
で、教授、「じゃあ、〇〇くんのお父さんのオゴリで乾杯!」(←おいおいw)と盛り上がり
心置きなく、飲み食いしたそうですがw
そんな祖父は靖国に眠っています。曽祖父は
「息子に会いにいってくる」と地方から、靖国まで何度か行っていたと、後で聞きました。
一度機会があれば、靖国に行ってみたいと思ってます。
以上です。
>>940誤爆しました。
泣ける話スレというのがあったので、そちらにもレスして来たのですが…
すみませんでした。
>>938 漏れの爺様も陸軍ですがグァムからラバウルですた。
広島か観音寺だけど。
敵前揚陸した後も防衛要員として残ったようです。
ただ、B-17の爆撃は激しく、漏れの爺様は衛生兵だったですが、病院にまで
爆弾が落ちてきて、爆弾の破片が頭を直撃する状況だったそうです。
943 :
名無し三等兵:03/02/15 22:56 ID:VnlHwVl3
アゲ
944 :
ネルソン:03/02/15 23:36 ID:gtLAgaH/
俺のじいちゃんは中支で陸軍中尉・連隊副官だった。ある日、連隊長に帯同して司令部まで行く事になったが、前日に食あたり!連隊長とじいちゃんの代わりに帯同した部下は搭乗機を撃墜されて戦死…。食あたりが無ければじいちゃんが戦死…。
俺の爺ちゃんは少年通信兵で海軍に入った。爺ちゃん曰く、海軍のシゴキは凄ま
じかったらしい。
ある時海戦の最中上官に書類を持っていったら
「書式がおかしい」と言って叱られたそうな。
その時おれの爺ちゃんは「船が沈むかどうかの激戦最中にこんなどうでもいい事
をあげつらうとは」と呆れたという。
また空襲を受けた時ドラム缶の陰に反射的に隠れたら、ついさっきまで居た所
が機銃掃射を受けて同僚が見るも無残に戦死したと言っていた。
最後に乗りこんだ船は空母(確か葛城らしい)で、船を下りて陸上の航空基地で
終戦を迎えたと言っていた。年齢は27ぐらいで最終階級は兵曹長
(ポツダム少尉になったかな?)だった。
爺ちゃんが言うには他の人間は部下を殴る蹴るとひどかったが俺は一度も部下を
イジメなかったと言っていた。それが爺ちゃんのほこりだったみたいだ。
946 :
名無し三等兵:03/02/16 21:51 ID:LdgPuEX2
age
>>938 ラバウルって言ったら今村閣下か…
ニューギニアだったら死亡してる確率が高いからラバウルじゃないの?
949 :
名無し三等兵:03/02/19 00:42 ID:PWSyYslu
陸軍もラバウルにたくさんいました。
米陸軍との地上戦闘はなし。
今村大将が、方面軍司令官。
ニューギニアは、最激戦地のひとつ。 運命なのかもしれんが、
最南地で苦労されたと思います。
大学の研究室の同級生の祖父が、山城に乗り込んでいたらしい。
凄いな、奇跡的生還じゃないかと聞いたら、やはりレイテ作戦前に
新兵教育の教官?かなにかの試験に受かって船を下りた5、6人に入っていたそうな。
当然、生き残りはその人たちだけ。
歴史が身近にあったと驚きますた。
うちのジーちゃんは、車の運転が出来たので補給を任されていたみたい。
車のエンジンで飯を炊いていたらしい。出来るのか?
爺さまではなくて爺さまの兄貴の話なのだが。
今から20年ほど前のこと。
厨房だった俺は爺さまにプラモデルを買ってもらって作っていた。
戦艦が欲しかったが買えなかったので、買ったのは軽巡だった。
たまたま爺さまの兄貴が遊びに来ていて(当時70歳過ぎくらい)、箱絵を見て
「おお、わしは昔それと同じ船に乗っていたよ」
戦前の話らしいが、爺さまの兄貴は下士官として軽巡に乗っていたらしい。
プラモデルの船とは全く同じでは無かったけど、同型艦だったそうでで懐かしそうに
プラモデルを眺めていた。
その時の艦長が立派な人だったそうで、今でも尊敬していると言っていた。
少しも偉ぶらず、下士官や水兵のことも気に掛けてくれる珍しい人だったのだとか。
爺さまの兄貴は90まで生きて大往生。
ちなみにその「立派な艦長」は栗田大佐といったらしい。
あの栗田中将と同一人物かどうかは分からないけど。
953 :
名無し三等兵:03/02/19 11:48 ID:hd2dl1rW
満鉄で働いたあと徴兵されて
ボタンコウという街の高射砲部隊に
配属していました。
数年前他界し部屋を整理していたら
写真がたくさん出てきました。
じいちゃんだか戦友が
中国人?の首を切ってる瞬間の
写真等があってショックだった。
ただ地元の中国人達と仲良く記念写真とかも
あったりでよくわからんなあ。
>>952 栗田健男中将その人でしょう。件のおじいさんが乗っていたのは阿武隈で、あなたのプラモデル
は長良級のどれかでしょう?
955 :
952:03/02/19 13:50 ID:???
>954
艦名までは記憶にないけど、三本煙突の5500トン級軽巡だったのは覚えてる。
メーカーはフジミだったと思う。少なくともタミヤやハセガワではなかったかと。
それにしても、そうなのか。栗田中将と同一人物だったのか。
確か昭和ヒトケタの頃、と言ってた記憶がある。
爺さまの兄貴は戦争が始まる前に除隊して広島で電器屋か何かをしていたらしい。
戦争が激しくなると頼まれたか命令されたか分からないが海軍に戻り、
終戦まで海防艦に乗っていたとか。
最後には士官になれたと言っていたと思う。でも水兵あがりで士官になれるものだろうか。
とにかく昭和のはじめに海軍に入ってから終戦まで、ずっと海軍と関わったのが自慢
らしかった。死ぬ年の春まで戦友会には欠かさず出ていたよ。
956 :
952:03/02/19 13:54 ID:???
書き忘れてたけど。
954殿、ありがとう。ずっと引っかかってた疑問が解決した気がする。
957 :
名無し三等兵:03/02/19 23:47 ID:Pp4dS/Gj
今まで5人の旧軍人の方に会ったが、みな陸軍の人だった。一人は元大尉で後はみな軍曹だった。
昭和13年招集で北支派遣、昭和18年除隊でそのまま満鉄に入社した人もいた。
俺のオジサン(85くらい)だけど、満州にいたのに、
なぜか海軍に徴兵された。昭和19年で、満州徴兵は
ほぼ100%陸軍で、海軍徴兵は当時でも珍しかったらしい。
で、横須賀かどっかの通信隊に配属された。
実は無線士の資格を持っていたのだが、持ってないと大嘘ついて、
初等教育からやり直した。その方が戦地に行かずにすむと思った
そうな。上達が早いとイジメにあうので、わざと下手なフリを
したりして時間稼ぎするうちに終戦。酔っぱらうとこの話ばかり
してた。どこまで本当なのやら。
959 :
名無し三等兵:03/02/20 00:54 ID:0pXaiOra
海軍は、志願では?
陸軍が嫌だったのでは。
960 :
名無し三等兵:03/02/20 01:02 ID:Bch89z1b
>>952 プラモは、ウォーターラインシリーズ?
懐かしい。
栗田は、軍内では、評判良かったはず。
艦隊生活が長いので、
兵隊さんの気持ちも理解していたと思う。
但し、司令長官としての、評価は別。
レイテの判断は、やむないが、
ミッドウえーやソロモンでの戦いは、
疑念ある。
961 :
958:03/02/20 01:28 ID:???
>959
いや、徴兵だと言い切ってた。親父も兄の出征を見送ったらしい。
親父の親父、つまり俺のじーちゃんが電気技師で、20歳前だった
オジサンは、じーちゃんの仕事を手伝ってるうちにモールスを覚え、
資格をとったそうな。おそらくは、その資格に目を付けられたのだ
ろうと述懐してた。85くらいだけど、頭はまだしっかりしてる。
962 :
962:03/02/20 02:24 ID:zzECqarj
爺ちゃんの部隊は満州に居たが、戦局が悪化してタイの方向へ援軍として
南下途中に終戦を迎えたらしい。蒋介石軍の捕虜となり、中国の奥地で橋
や道路を作る作業に3年間位従事して、とても沢山の橋を作ったので蒋介石
が許して帰国が叶ったと言っていた。蒋介石でなかったら帰って来れなかっ
たろうと言うが、、、
>955
俺はじいちゃんが乗ってた三本煙突の「球磨」のプラモあげたら、神棚に飾ってくれてまふ
964 :
名無し三等兵:03/02/20 14:03 ID:XSfraXuX
私の親類に戦艦大和に乗ってたって人がいたけどなぁ(たしか衛生兵をしてた
とかなんとか・・・。)
965 :
名無し三等兵:03/02/20 17:10 ID:NTjei/gF
家の父のお父さんの軍隊手帳がある。
しかし、何かいてあるかさっぱり・・・・・。
まあフィリピンとかに行ったらしい。
勲章とかも有ったらしいんだけど、お金に困った時に売っちゃったんだって。
966 :
名無し三等兵:03/02/20 17:57 ID:QzQMj/YY
陸軍の輸送艦に乗って、フィリピンに物資を運んでいて、アメリカの魚雷に
アポーンされた年寄りを知ってるよ。
片足を失ってるが、その船で生き残ったのは、その人だけ。
だから運が良かった方だろうな
うちのじいちゃん、P38に零戦で挑んで返り討ちに合った
でもしっかり生還
968 :
名無し三等兵:
>>961 よく知らないが、21歳で徴兵され兵役は5年でちゃんと返されたそうだ。
昭和18年に除隊した爺さんが言ってた。
激戦地での勤務者は一年を三年に換算して恩給の金額を決めているってさ。