1 :
名無し三等兵 :
李舜臣があまりに天才だったから?船の能力の問題?
それにした所で、日本側に海戦専門の武将が少なかったとは云えども、
実戦経験は豊富だったのに、少し陸戦の経験がある程度の李舜臣に、
なぜ、あそこまでコテンパンにやられたのか、実に不思議だ。なぜだろうか?
2getですかよ?
|・∀・)<2
|彡サッ
彼には亀甲船が有った、何よりも*祖国防衛*の意味を理解していた。
秀吉軍は、何の為に戦うか意味を掴みかねていた。
>>1 朝鮮にやられたというよりも明の援軍の海軍にやられた。
数が違いすぎる。
以前亀甲船関連で色々書かれていたスレがあったような…
というか亀甲船は数がそんなになかったそうな。
9 :
:02/08/05 22:44 ID:???
>>1 ところで李舜臣って、「今の」韓国(朝鮮)人?
いや、それとは別にすごかったんだと思うよ。
>>1と同じで俺も興味ある。
亀甲縛り、ハァハァ
>>9 正解!!
しかし謀反の疑いを掛けられ救国の英雄は、一族もろとも酷いリンチを
され殺されてしまいました。
>>12 「この本要らん」と思って、捨ててます **ソース無し**
恐らく
>>8の中に有ると思われ!
第2次朝鮮出兵では朝鮮水軍を壊滅に追い込んでますよ。
朝鮮の軍船の98%くらいを撃沈してます。海戦前は200隻程だった朝鮮軍の内、
生き残ったのは11隻。もちろん亀甲船も一隻残らず沈んでます。
以後敵側の主力は明国水軍です。
亀甲船は日本軍のお得意の切り込み作戦にたいして有効なもんで、実際は
以外と小さいんだ。
同時期の南蛮船つかえばあっというまにドボンよ。
手漕ぎだし原始的。
たまたま秀吉が補給というものの重要性をしらんかったのと、大きな船はあんのに
(当時は世界最大級の交易船もっており、後年の黒船よりでかかった)大砲のせて戦艦にしなかった。
まあ、あんまその後の日本もかわらんね、補給の重要性をかんがえなかったんだから。
したがって、つよくはない。
亀甲船については、カンコ君側にあまり信用できる資料はなく
最近作られた復元船についても、士気を鼓舞する以上の物では
ないと知り合いの倭城研究家が言ってました。がいしゅつだっ
たらごめんなさい。
日本側の情報を総合しますと、
・外見は5〜600石から1000石くらいで、わが国で言う大型の関船か
小型〜中型安宅船の大きさ。
・船首は戸立て作りで、丈夫だがスピード、保針性とも良くない。
・帆柱は日本船と同様起倒式で、櫓(櫂)走が主で航洋船ではない。
・櫓床があるので、日本船と同様重火器は船首にしか装備できない。
つまり単艦ではさしたる戦力差はないわけです。
敗因とされているのは、
・日本側の水軍の最高指揮官がはっきりしておらず、効率の良い
指揮が出来にくかった。また船戦に不慣れな指揮官が多かった。
・亀甲船は天蓋のある閉囲構造だったので、矢倉が開放構造の日本
船のように焙烙弾(榴弾)を投げ込む攻撃が通用しなかった。
(船戦は切り込み戦ばかりとは限りません。)
・現地の水路誌や海象は李提督のほうがはるかに詳しかった。
物量という意味ではさしたる差はなく、陸戦では優勢裏に戦いを
すすめた日本があれほどまでに打ち破られたのは、ひとえにトップ
の水軍に対する認識不足、指揮官の不在が主な原因のようです。
島津に最後の海戦でやられたんじゃないの?
AOEだっけ?のゲームの話が興味深く面白かった。
なんでも、「ウリナラの亀甲船がこんなに弱くはないはずニダ!」とかいって、
当初、弱かったのを無理やり強く変えさせたんだとか。
たかが、ゲームとはいえ、おそるべしカンコック。
>>18 でも火炎船に弱いんじゃなかった?
あと城からの攻撃に見事に弱いね。
司馬遼太郎の
明治という国家
によると、
日本海海戦の時、日本の提督が、絶対に勝ちたい、勝たねばならん、李舜臣に祈った、とのこと。
誰だったかは忘れた(東郷ではなかった)
対馬で海上封鎖の任務に付いていた提督だったような・・・
思い出せん。
>19
悲しいぐらい宣教師に弱い。
20人宣教師がいれば、あっという間に味方にも亀甲船の大艦隊が(w
>>1 坊やだからさ
は、冗談だとして、確か狭い水路に追い詰められて沈められたって話は聞いた
ことがある。
釜山へ、何度か敵前上陸を試みたけど、日本側の防備が強くて、
撃退されたらしい。順天でも、城の陸上砲台に押され気味で、
戦果は芳しくなかったとか。
結論として、日本水軍が上手だった罠。
閑山島の海戦だっけ?
12隻(李舜臣)対79隻(脇坂安治)で戦って、59隻までしずめられちまった
言うひどい負けを喫したのは。
この戦いの敗因は何なんでしょう?
age
>>25 ノリャンツ?海戦で、島津水軍が圧勝しましたが、何か?
ケキョーク、
>>15-16で言い尽くされてるんでなひ?
亀甲船なんて・・・。
半島系の厨も夏休みなんだね。
>>25 露梁津の海戦が勝ちなら
トラファルガーもフランス・スペイン海軍の圧勝になっちまうと思うが?
単純に損害だけ比べれば日本側の方が多いし。
>>27 つうか閑山島の海戦みたいな負け戦の原因は何よ?
まず 舞台の整理から始める必要があると思います。
朝鮮半島南岸の潮の流れ、釜山から対馬までの帆走に要する時間、
朝鮮水軍の根拠地 将官らの武技 などを調べてみるといいかもしれんです。
32 :
荷鑓:02/08/10 00:56 ID:???
>>肉
李舜臣の最期は何処だっけ?
あの国の歴史書は虚言妄言ばっかじゃネーか?
なんつーか、朝鮮征伐にせよ太平洋戦争にせよ、
朝鮮人ごときと戦って負けたという気はサラサラしないんだが。
露梁津の海戦が勝ちというのは島津オタだけが言ってることね。
日本史板でも戦国板でもそれで荒れる荒れる。
単に、李舜臣を破った薩摩が、自分の手柄を大きく見せるために「敵はこんなに強かったがわれわれも打ち破った」という自慢ではないのか。
それを過大にうけとり李舜臣は英雄ニダになったのではないか。
>>35 破ったというか殺しただけ。
戦闘自体は負け。閑山島の海戦の時の脇坂水軍よりかはましだけど。
>>33 あのだな、敵を侮っていては勝てる戦も負けてしまうぞ。
君のようなのが支那を侮ってかの戦争に日本を巻き込んだのではないか?
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言うし
というか、この件に関しては戦前の日本の捏造もあまり「かの国々」と変わらん。
その古いソースを未だに使うのが多いから困るな。
本当に負けたなら日本軍は内地に帰れなかったのではないかな。
だれも、書いていないが朝鮮出兵で1番儲けたのは硝石を双方に売った南蛮商人とルソンに矛先を向けられないですんだスペインかな。
15,16の書き込みで終わったな。このスレ。
結局、李舜臣が天才だの、日本水軍をコテンパンにやっただのは、
鮮人の妄想だってこった。
火縄銃の音聞いただけで、ブルって敗走するぐらいだからな。鮮人はw
朝鮮出兵じたいは豊臣政権にとってなんの益にもならんかったが、鮮人は
震え上がって、以後、徳川幕府に朝貢し続けたからな。
李が、鮮の英雄かなんか知らんが、草葉の陰で泣いてたろうなw
41 :
名無し三等兵:02/08/16 06:52 ID:OaOOPSwq
>>39 この戦争における、南蛮商人の活動は、
朝鮮側にも向けられてたんですか?
>40
「ますべ」「千摺り」とか「おなにい」は毒だよ
おっと、俺を鮮人だと?
アホか、8/13に靖國にさんぱいしてきたわ
昨日は正午きっかり近所の護國神社におったわ・・・
>>42 護國神社とはあなたは正しい作法の方のようで・・・
44 :
42:02/08/16 21:43 ID:???
>43
毎月1回、護國神社で奉仕作業をやっとります
45 :
非国民:02/08/18 03:42 ID:???
なぜ日本のサラリーマンは陳舜臣に勝てなかったのか?
保守age
半島軍人を称えるスレはここニダか?
47 :
名無し三等兵:02/09/05 09:50 ID:0IJnlT/a
>46
いえ。
腐敗した宮廷の策謀で『狡兎死して走狗煮られる』状態に陥ったにもかかわらず
破綻状態の残存艦隊率いて最強島津軍と戦って戦死した義人を嘆くスレです。
白村江でも負けてるし...
日記を読んでいると、具体的な討議の話が出てこないので
あともう少し詳しく書いてくれたらいいのに、と思うことが有ります。
とはいえ、作戦会議の参加者名を挙げてくれるだけでも大いに想像を
刺激されるのでありがたいですが。
ともかく根拠地から戦場まで近いというのが驚きでした。
また、軍を整備する責任の所在、戦場に遅参せずに部隊を率いてくる
責任などがあちらこちらで顔を出してる感じです。
露梁津の海戦は、島津の勝ちだよ。
確かに被害は、島津の方が大きかったが朝鮮海軍は、撤退に追い込まれたのに対し島津方は
最後まで戦場に残って制海権を確保し小西行長を救出した。
51 :
名無し三等兵:02/09/08 12:05 ID:xK83awzH
>>29 や
>>34 は朝鮮人さんのようだが、
その損害比とやらを実証できる資料はあるのか?
朝鮮側の誇大戦果報告だけを鵜呑みにしちゃ駄目だよ。
買ったのならどうして戦線を離脱して戦略目標である小西の撤収を許したの?
リクツになってないんだよ、キミらは。
朝鮮側を信じるなら島津の文書も信じたほうがいい。死者15人(?)だったっけ?
ようするに、あの戦いの実相ってのは後年尾ひれがついた話が多すぎる。
明確に言えるのは、小西を包囲していた明朝鮮水軍に島津が突入、戦いの末、
朝鮮の最高指揮官が死に、島津も被害は出たが、小西撤収は成功した。
損害比などという信頼すべきデータは残っていない。
52 :
名無し三等兵:02/09/08 12:20 ID:xK83awzH
慶長の役になると日本側も対策を考えていて、
緒戦で朝鮮水軍を壊滅させる手段に出た。
この結果、半島南岸の制海権は完全に日本側のものとなって、
ついには半島西岸に進出しようとした。
このとき復帰して西岸入口で阻止したのが李舜臣で、その効は称えられるべきだろう。
ところが緒戦での主力の壊滅で、半島南岸の制海権は終始
日本側にあったというのが事実だ。
多くの本はそのことを知ってか知らずか、李舜臣によって日本が制海権を
奪回されたというようなことを無造作に書いている。それで多くの人が
騙されている。
実際は、李舜臣の小規模な艦隊では日本水軍の西岸への進出をゲリラ的に
阻止するのが精一杯だった。
明水軍の参戦を得ても、最後まで本格的な半島南岸の制海権確保への
反撃は出来なかった。
島津との最後の戦いの場所が南岸東側への最大進出域だった。
小西を包囲の目的が達せられなかったのも戦力不足ゆえだろう。
つうか、戦略目標を達成できていない時点で『戦略的敗北』……。
54 :
名無し三等兵:02/09/08 12:38 ID:xK83awzH
島津の当時の全勢力は8000人。
それがすべて船に乗り込んで順天に向かったとは到底考えられない。
数百隻の戦いなんてのは大嘘だと思う。
まして朝鮮側の記録にある「200隻撃破」などというのは大ホラもいいところで
もしそうならほとんど残り少ない島津を殲滅するのは分けもないはずなのに、
明朝鮮水軍は逆に撤退している。
軍オタ諸君ならすぐにわかる数量計算だ。
実際には島津は戦場に残っていたのだから、戦い最後の次点では明朝鮮側に
大して悪くとも互角の戦力を残していたと考えるのが普通。
こういう常識的な判断もせずに政治的な思惑で文章を書きつづける
歴史家という人々にも困りものだ。
なんか打通ネタと同じ展開だな。
戦術的勝利は戦略的勝利に勝るのか。
>>55 ん?よく意味がわからんが…。
結局、島津は目的を達し、李水軍は目的を達せなかったんだろ?
損害云々の前に、ここが大事だと思うのだが…。
どっちの勝利かかなり明らか。
あと、戦術と戦略の線引きは微妙ですゾ。
age
某研卿が来たら一気になごみそうなスレだ(w
そして某研が飽きると同時に落ちる、と。
59 :
名無し三等兵:02/09/11 23:33 ID:Kjc7WhZI
せっかく活躍しても、謀反の罪着せられて
死刑されて、忘れ去られちゃー嫌だな
60 :
名無し三等兵:02/09/11 23:41 ID:NThTxM2I
結局は朝鮮戦役では敗退したし。太平洋戦争では負けたが日中戦争ではかってい「た」とほざく打通と同種の人間が多いな〜。
朝鮮人ばっか
おやおや、最終的な戦争の勝利敗北が個々の戦闘の勝利敗北の最大の決定要因だとでもいうのですか。
朝鮮半島の「歴史学」によれば、マンシュタインの機動防御も
数年後にベルリンが陥落したからマンシュタインの負け、という結論になるんだろうなあ。
63 :
名無し三等兵:02/09/13 23:59 ID:97FHGww7
1>>トーゴーが生まれていなかったから。
まぁ、あそこで手を引いておいて良かったと思う。
リターンとリスクが合わないからやめたんだろ。
65 :
ニセ冒険:02/09/14 00:46 ID:EixsEhwW
まあ、秀吉による軍勢の派遣は百年戦争における英国とどれほどの違いがあるというのだろうか。
明国に対する調略がなかったという点において英国とは事情を異にするするというわけなのか。
しかし軍事的にはジャンヌダルクによって敗退したとはいえ、全般的には押し気味であった
という点においては、同じなわけだろうか。
そのあたりの分析については、本物の冒険に登場を願うしかないのだろうか。
なぜチョイルキッポは屁臭いのか?
67 :
名無し三等兵:02/09/14 08:52 ID:eKFpAti3
>秀吉による軍勢の派遣は百年戦争における英国とどれほどの違いが
まあもともと英国と仏蘭西はアレのおかげで不倶戴天の敵同士だったからな。
英と仏が(表面上)仲良くなったのも第一次大戦以降だしソレすらも本当は独と同盟結びたかった英国に
あの腐れ皇帝が肘鉄砲くらわせたからしょーがなく仏と同盟結んだだけだしな。
北の亡国が攻めてきて共同で防衛にあたれば将来的に(表面上)仲良くなる可能性があるか。
某研チックな文章だなおい。
空母の数が足らなかったから
けっきょくアレか。
李舜臣は実は言われてるほどは大したことがないと。
それでも、劣勢な中、よくがんばった提督ではあるわけか…。
いやね、東郷平八郎提督が、李舜臣を評価してたみたいだから。
漏れ的にはあまり李舜臣を悪し様に言う気にはなれんのよ。
だからってチョソマンセーなわけではないけどね。
亀頭船ナメンア!
アジア屈指の名将です。
無敵日本軍と腐れ朝廷敵にまわしてよく頑張ったほうだと思うが。
(楠木正成ほうふつとさせるわな)
明水軍は一体何やってたの?
>東郷平八郎提督が、李舜臣を評価してたみたいだから
詳細キボンヌ
こういう話をチョンの教師が盛んに吹いてるとか
言うのは聞いたが日本じゃよく知られてない。
>>75 そういや俺も聞いた事はあるが。
細かくは聞いた事ないな。
チョンに騙されたか?
きっと、東郷ターンの起源は李舜臣(=韓国)ニダ!といいたいのです。
島津ヲタの次は嫌韓厨か…
被害担当艦4番艦…
>東郷平八郎提督が、李舜臣を評価してたみたいだから
詳細キボンヌ
朝鮮水軍は、ではなく
李舜臣は、であれば全く天晴れなほど健闘したと言える。
>78
まあまあマターリマターリ( ・∀・)
>78
2chで朝鮮関連ネタを語ろうなんて(・∀・)ムリナコッテ
>81
朝鮮関係たまに褒めると嫌韓厨ワラワラよって来るしなー。
日本人だからといって、朝鮮水軍を過小評価して
島津をマンセーするような輩ばかりとは限らん事を覚えておけ。
後者の方が水増しの度合いは常軌を逸している。
84 :
名無し三等兵:02/09/26 08:55 ID:1DEDZJm4
水滸伝ファンとしては李舜臣の活躍と受難は燃える話なんですがねえ。
「乱中日記」買うか。
85 :
名無し三等兵:02/09/26 09:54 ID:PCmw+NEs
島津を褒めるとアズマが沸いて出てくるからなあ。
一つで良いから褒められる要素を持ってください>>朝鮮
坂の上の雲に、日本海海戦に先だって東郷平八郎が李舜臣に祈りを捧げた、というシーンがあるね。
司馬遼太郎だし、何か資料があるかもしれない。
>>85 俺なんか豊臣びいきの徳川大嫌いだが、維新の時の薩長も嫌いだったりする。
89 :
通りすがり:02/09/26 14:41 ID:j8brOF7a
もし薩長なき「近代化」だったら1945年の惨状は・・・
なんて妄想しちゃいました
90 :
名無し三等兵:02/09/26 16:08 ID:ZnFu4H0l
さて、結局「李舜臣」は戦争責任を問われて”あぼーん”された訳だが。
91 :
名無し三等兵:02/09/26 16:22 ID:1DEDZJm4
>90
されないって。
文禄の役の終盤に李舜臣は部下の「元均」に讒言されて無位無官になったの。
んで慶長の役に元均の指揮により朝鮮水軍は壊滅、白衣従軍していた李舜臣が
その後、残存艦隊率いて獅子奮迅し、最後は露梁海戦で戦死したのよ。
>>90 そうなの?秀吉軍の矢で射殺されたんじゃなかったっけ?
というわけで日本軍最強
薩摩水軍も亀甲船も、加藤鷹にかかればイチコロさ。
>91
その彼を後の政府が称えるわけか……
なんか、もの凄く自分勝手な話だよなあ。 冷静に考えると。
96 :
名無し三等兵:02/09/26 18:34 ID:1DEDZJm4
>95
楠木正成と真田幸村と比べてどっちが悲惨かな。
>坂の上の雲に、日本海海戦に先だって東郷平八郎が李舜臣に祈りを捧げた、というシーンがあるね。
そこの部分はフィクションだそうです。
98 :
某研究者:02/09/26 18:58 ID:Nvmu2h6G
まあしかし小西行長の謀略に引っ掛かったのは
どう言う訳なのだろうか(まあこれが原因で一時更迭される羽目に成った訳だろうが)
99 :
名無し三等兵:02/09/26 19:06 ID:aHu9ybW0
敵とか情報とか兵站とかをなめきってた日本軍が手痛くやられたってことでいいんじゃなかと?
>>97 と言うか坂の上の雲自体一見ノンフィクションっぽいフィクションだろ。
あれを読むたびに乃木将軍に同情してしまう。
>99
確かに。
でもあの程度の残存戦力で日本軍補給路を切断しえたのには素直に感心するけどね。
過小評価は禁物よ。
司馬さんの小説はどれもそんなもんだ。
というか、この人意図的に正反対のことを書くね。
103 :
某研究者:02/09/26 20:20 ID:QBiQ6fWJ
彼の戦術が優秀だったのか
或いは亀甲船の性能が良かったから勝てたのかと言う事だが
亀甲船の数は現実には少数だとすれば基本的には前者と言う事な訳だろうか
(まあ只亀甲船以外の大砲の搭載数・防御力も
確か日本の船より上だった訳だろうが其れで敵の物量の優位が無くなる各個撃破を行えば
確かに勝てなくは無いと言う事だろうか)
104 :
某研究者:02/09/26 20:22 ID:QBiQ6fWJ
まあ各個撃破に加えて地形を利用しての奇襲・潮流を利用しての
一撃離脱と言う戦法が主体だった訳だろうか
(まあ只これは現地の情報が無いと不能な事だろうし
日本軍が戦争前から地形・潮流の情報を詳細に得る事は可能だった訳だろうか)
105 :
某研究者:02/09/26 20:31 ID:QBiQ6fWJ
まあ亀甲船一隻に大砲が日本の船の10倍位は有った訳だろうし
これで日本船10隻程度に相当すると言う事は無いのだろうか
(まあ只火打石式では無いから当てるには至近距離での砲撃が必要であり
日本側の大砲や大筒(これは命中精度は大砲より上かも知れぬが)
でダメージは受けていた訳だろうし
後期には一撃離脱されぬ様にロープで固定されて白兵戦に持ち込まれていた訳だろうか
(まあしかし亀甲船の竜の頭部から出る煙幕と言うのは実際役には立ったのだろうか))
トリップなしかよ・・・。
107 :
某研究者:02/09/26 20:35 ID:QBiQ6fWJ
まあ大砲より精度の高い大筒で亀甲船の大砲の射程外から
射撃を行えば大砲の射程内に突入される前にかなりダメージを与える事は
出来たかも知れぬが
某研卿絶好調ですな。
あいかわらず文章見るだけで頭がクラクラする・・・。
某研キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
111 :
名無し三等兵:02/09/27 01:13 ID:Cais41xg
後ろダマにやられたんじゃないのか.
だから朝鮮側の記録にはたいして書いていない.
113 :
名無し三等兵:02/09/30 12:03 ID:JgQmng5A
>83
宗家の秀吉&李朝への虚偽報告といい、島津家の件といい、加藤清正の虎退治といい、
九州人の粉飾DQNぶりは今も昔も変わらず、か……
114 :
名無し三等兵:02/09/30 12:14 ID:7+6LHCnL
115 :
某研究者 ◆TkxmpUgI :02/09/30 12:17 ID:BMyfDEmk
しかし大砲の数が大いにしては明や朝鮮軍は弱いが
矢張り銃の有無と言うのは大きい訳だろうか
(6m等の槍を持つ長槍兵も明や朝鮮には恐らく存在しないだろうが)
まあしかし明軍や朝鮮軍の大砲は捕獲・使用されていた訳なのだろうか
116 :
某研究者 ◆TkxmpUgI :02/09/30 12:28 ID:BMyfDEmk
>まあしかし明軍や朝鮮軍の大砲は捕獲・使用されていた訳なのだろうか
他には馬や攻城塔・船舶等も捕獲された可能性は
有る訳だろうか
「大阪冬の陣」時の大阪城への砲撃や原城への艦砲射撃(オランダ依頼)も亀甲船ショックが
あったからとか妄想してみる。
アルマダやトラファルガル海戦では、
主力艦の砲門数やトン数等のデータが大体揃ってる。
他にもアルマダは飲料水の樽が焼かれて・・とか、
半月系陣形とか風向きの話とかも判ってるし。
トラファルガル海戦に至っては更にデータが多い。
李舜臣の海戦って意外と研究者が少ないテーマなんだね。
119 :
某研究者 ◆TkxmpUgI :02/09/30 12:50 ID:BMyfDEmk
>「大阪冬の陣」時の大阪城への砲撃
まあ只これ以前に城が砲撃された事が全く無い共
思えないがどうだろうか
>>118 最後の海戦で朝鮮水軍はほぼ壊滅したし明国水軍はあの後国自体があぼーんしたしな。
しかも両国とも武官が蔑まれる環境下ではまともな記録自体あるかどうか・・・。
>119
確かに大友宗麟の「国崩し」エピソードは有名だけどね。
でも慶長の役の倭城攻防戦時の明軍の砲撃の方が大名連中には衝撃的だったんじゃなかろうか。
(確かあの時代はヨーロッパ製の大砲とか傭兵が中国で活躍したんだっけ)
大体五本指の爺の権力妄想で行かされた戦争で、
泥沼の消耗戦に巻き込まれるし、焼き物ぐらいしか
宝はないし、散々ではあったな。
123 :
名無し三等兵:02/10/01 02:24 ID:6MPExX7u
鉄砲、大砲を使用するには硝石が必要だが、明の入手ルートはどうなんだろうか。
スペイン、ポルトガルは両方に売っていたのではないかな。
このあたりが、家康のポルトガル、スペイン排除の理由ではないだろうか。
124 :
名無し三等兵:02/10/01 16:09 ID:E7uyFIZD
↑明は豊かな硝石産出地そのものを直接支配しております。半島で西班牙、葡萄牙ルートの硝石を調達した可能性は無いとは言えないけど、当時の日本と違って輸入に頼り切る必要は無いかと。
125 :
名無し三等兵:02/10/01 16:25 ID:a9yY2ZmS
>>123 基本的にはカトリック布教⇒信者増大⇒キリスト教国建設⇒西班牙等後ろ盾
⇒傀儡国家化⇒植民地化(゚д゚)ウマーが心配だったと。
朝鮮出兵を経験した外様大名連中が火力重視になるのを防止するために鎖国政策か。
(伊達政宗も西班牙に援軍要請してたしな)
>122
五本指なら普通ですが、何か?
イエズス会報なら中公の単行本で読みました(図書館で、ですが)
127 :
某研究者 ◆TkxmpUgI :02/10/02 07:30 ID:VuNzKaD0
明軍や朝鮮軍の鎧もキュイラスや胴丸の様に胴体の厚みを増した物では無く
全体を薄い板で満遍無く被う型の鎧であるから(まあ只歩人甲は兎も角明甲鎧の胴体は厚いのだろうか)
白兵戦能力は兎も角防弾効果は低かった訳だろうか
(しかし竹束等を用いて銃弾を防いだ可能性は有るのだろうか)
大型の皮製置き盾を防御に用いたものの、日本軍の鉄砲には全く無効であったという例や、役後、朝鮮の武官が「降倭隊の持つ鉄砲は甲冑をたやすく貫く」とヌルハチの臣下を恫喝したという話がありマス
>117
関が原の直前の大津城攻防戦で立花が行ったらしい。
朝鮮征伐なら、加藤清正のウルサン城攻防戦で明側が行った。
>125
だけど、伊達政宗って、今の自民(野中とか)と社民の議員みたいな奴に最近は思えてきた(ついでに朝鮮を卑屈にした新羅の金タスイと同じ)。
あと何年早く生まれてきたら、伊達の天下とか言うが信長、秀吉、家康とくらべると卑小な人物だな。
130 :
:02/10/08 11:34 ID:???
>>127 全軍が装甲していたとでも?
鉄砲の威力も知らなかったのに?
あなたは研究者だそうだが、大方、靴下にタキオンパワーでも封じてるんでしょうね。
>130
某研は明・朝鮮の鎧の性能について話してるだけなんだが・・・
132 :
名無し三等兵:02/10/08 12:22 ID:ujhdssEF
>>91 それは朝鮮御得意の作り話。
慶長の役の始めに派閥争いに巻き込まれて命令無視(作戦拒否)と戦果誤認でタイーホ
かわりに元均が李舜臣が「勝ちめないからヤダ」と言った作戦をすることになり
結果元均と朝鮮水軍はアボーン。
>>95 李舜臣が崇められるようになったのは
日韓併合後だそうですな。現地では忘れ去られていたそうな。
135 :
名無し三等兵:02/10/08 14:35 ID:ujhdssEF
>>133 つい先日立ち読みした学研のムックかなんかだったよ。
作り話は朝鮮だけでなく、戦国大名も負けず劣らずだよな。
137 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/08 15:09 ID:hHKKWGPp
>全軍が装甲していたとでも?
>鉄砲の威力も知らなかったのに?
まあ鉄砲を止めるだけの鎧や盾が無く共
大鎧の様に胴体の厚みを増して弓を止めるのに特化した鎧と言うのは無かった訳だろうか
(矢張り中国は弩・朝鮮は弓が強力である訳だろうが)
歩兵や槍騎兵は盾で弓を防げるから重装甲は不要としても
弓騎兵は盾を使えないので重装甲が必要である訳だろうか
欧米は15世紀以後はだいたい中央集権してるから記録が残りやすいんだとな。
やっぱりグーテンベルクは偉大だ。
139 :
138:02/10/08 15:14 ID:???
欧州の間違い
140 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/08 15:14 ID:hHKKWGPp
>鉄砲の威力も知らなかったのに?
まあ只戦争後期には銃に対抗する為の鎧や盾を
作り得た可能性は有る訳だろうが
>140
防弾に優れた「南蛮鎧」も短期間(慶長年間)だったからなー。
142 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/08 15:19 ID:hHKKWGPp
後は日本の様な長槍兵は存在したのかだが
後期には存在した可能性は有る訳だろうか
(恐らく槍歩兵は明・朝鮮兵共に短槍+盾を装備していた訳だろうが
銃撃に手持ちの盾等は(竹束の盾や鉄の盾でも無い限り)
役に立たなかった訳だろうが)
143 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/08 15:24 ID:hHKKWGPp
>防弾に優れた「南蛮鎧」も短期間(慶長年間)だったからなー。
まあ1596年以前の登場なら信長は南蛮鎧を使用していなかった訳なのだろうか
(最上胴・仏胴や桶側胴も南蛮鎧の影響から生じた訳だろうし
これも1596年以降の登場である訳なのだろうか)
>143
「輸入南蛮鎧」は「南蛮具足」より前にポルトガルから入ってるはず。
慶長に普及した「南蛮具足」とは「和製南蛮具足」のことかもね。
で夏の陣が終われば実用一辺倒の「南蛮具足」より日本人趣味の和風具足へ移行とか。
余談だけど、小田原征伐あたりでは鉄砲の弾は単なる鉛でなく、青銅とかを混ぜたの合金になって貫通力は大きくなっていたらしいね。
あと鉄砲の威力は、ドイツの三十年戦争の時より強力だったら強い(発火方式はおとっていたが)。
146 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 09:46 ID:Xo095tKe
>あと鉄砲の威力は、ドイツの三十年戦争の時より強力だったら強い(発火方式はおとっていたが)。
まあマスケット銃等の銃身の長さを見ると本当にそうなのか共思えるが
精度は火打石式のマスケット銃は火打石の衝撃で銃がぶれるので火縄銃より劣るのではないのか
(後はストック等の効果も有るだろうが長銃等では火打石の衝撃も
ある程度は緩和される訳だろうか)
雑兵は錬度が低いので銃の精度は無関係かも知れぬが
精鋭銃歩兵や騎銃兵ではどうだろうか
147 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 11:34 ID:Xo095tKe
148 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 11:53 ID:Xo095tKe
>李舜臣はすかさず船団を返し湾口をふさぎ、鉄砲を並べて猛射を加える。樺山久高らはたまらず船を浅瀬に乗り捨て南海島に上陸して逃げ散っていく。
>実はこれが策であった。樺山らは戦闘不能と見た李舜臣は、続く寺沢広高の船団を迎撃すべく観音浦を離れた。その頃、大将島津義弘の本陣船は、大変な危機にみまわれていた。
まあ李舜臣が樺山を追撃しておれば島津は死に李舜臣は死ななかったと言う事だろうか
上のHPを見る限り日本船の防御力は言われる程低くは無いかも知れぬが
(しかし日本船の水密構造等は朝鮮や明の船にも有った訳なのだろうか)
まあ李舜臣も小西行長と樺山久高(まあこれは島津の命令かも知れぬが)の謀略には敗れたと言う事だろうか
(矢張り彼の采配や戦略能力・謀略では無く亀甲船の性能で勝利していた分も
大きい訳だろうか(まあ亀甲船を考案したのは確か李舜臣では無かっただろうが))
149 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 12:01 ID:Xo095tKe
>まあ李舜臣も小西行長と樺山久高(まあこれは島津の命令かも知れぬが)の謀略には敗れたと言う事だろうか
まあ正直此れ等は余り高度な戦術では無いだろうが
樺山の其れは敵のダメージが解り易い地上戦では無く
船上の戦いだから出来た奇襲である訳だろうか
150 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 12:46 ID:Xo095tKe
http://www.pp.iij4u.or.jp/~butakai/sisenn.htm 日本側も地雷を使用していた様だが
地雷を以前から使用していた明軍はこれに対して対策は無かったのだろうか
(まあ城の攻撃前に地面を全て掘り起こすと言うのも困難だろうか)
2回目は弓を使用してから突入しているがこれは地雷対策(仕掛けた地雷が爆発する迄の時間を稼いでから突入)である訳だろうか
敵の突入時に木の盾で銃弾が防がれたと言うが至近距離からの銃撃を止める様な盾と言うのは
どれだけの厚みが必要である訳だろうか
まあ古城の食料庫の食料は事前に焼き払う等するか新城に移送しておけば良かったかと思うが
しかし泗川新城と言うのは日本式の城なのだろうか
>全員体中に矢がささり、蓑虫のようだったという。
まあこれは桶側胴の様な物を装備しておらねば致命傷共成り得た訳だろうか
>迎え撃つ島津軍は定石通り、火縄銃の一斉射撃で出迎える。島津得意の3段戦法(島津家は、長篠の合戦に織田信長がこの戦法を採用する10年以上前に薩摩平定にこの戦法を用いている)である。
まあ三段撃ちは無かったとの説も有るが
城の銃眼等の数は限られている訳だろうし同時に全ての銃を放つ事は
無い訳だろうか
151 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 13:11 ID:Xo095tKe
>すると火攻めに使おうと引いてきた火薬などに火がつき、大爆発して敵中は大混乱に陥った。
まあ矢張り敵に銃撃される危険の有る先鋒隊に余り火薬を置くのは危険であると言う事だろうか
>引き続き、大砲に釘や鉄くずを入れて暴発させると、鉄片は凶器となり敵兵の肉を切り裂いた。
これは明や朝鮮側の通常の散弾より強力な訳なのだろうか
(明軍や朝鮮軍が同様の物を使用した可能性は無いのだろうか)
>「いまぞ、城門を開きて、敵を切り崩せ」と大音声を響きわたらせた。言うも終わらないうちに、満を持していた城兵が、引き絞った矢が放たれるように城門から飛び出し、激しい白刃戦が展開された。
まあ敵を砲撃で混乱させてから白兵戦に持ち込んだと言う事だろうが
敵は城門を砲撃し破壊しなかった訳だろうか
>敵の背後から鉄砲や矢を射かけると、はたして敵の背後は大混乱になった。
>これには先鋒も動揺して、その鋭鋒は鈍った。
まあ李舜臣もそうだが妙に日本側に背後を突かれる事が多くないだろうか(苦笑
(日本側の機動力は鎧や騎兵の馬の問題で明軍や朝鮮軍より低い筈だが
容易に背後を突けたのはどういう事なのだろうか)
この場合はほぼ空の城を日本の主力が戻る前に攻撃する事に焦って
背後の防備を疎かにしたと言う事だろうか
某研無職説。
亀甲船って本当に有効なのでしょーか。
いすんしんは日本の補給船を攻撃するんでしたっけ。
ならば亀甲船みたいな足の遅いのは足手まといになるんじゃないのかなあとおもうのです。
154 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 14:51 ID:Xo095tKe
http://isweb39.infoseek.co.jp/travel/sekibi/page010.html まあしかし島津の馬上筒は朝鮮でも使われたのだろうか
(しかしこれだけ技術が有るならホイールロック式の銃を使用した方が
良かったかも知れぬが)
>いすんしんは日本の補給船を攻撃するんでしたっけ。
>ならば亀甲船みたいな足の遅いのは足手まといになるんじゃないのかなあとおもうのです。
まあ彼等は潮流を利用して移動しているから
機動力はカバー可能と言う事だろうか
(日本の船の足も兵員や物資を満載しているなら
余り速くは無い可能性も有るだろうか)
まあ只何れは日本側にも潮流のDATAは得られ日本側も高速で移動或いは
離脱出来た可能性も有るだろうが
155 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 15:31 ID:Xo095tKe
|\_/ ̄ ̄\_/|
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\ 皿 / < イスンシンデス
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\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \__)
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157 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 16:21 ID:Xo095tKe
>まあ島津騎兵は馬上筒と同時に短筒迄携帯していたと言うが
西欧のカラビニエはピストルを持っていなかったかも知れぬが
そうであれば島津騎兵の方が火力は強力である訳だろうか
(しかし槍は同時に携帯していた訳なのだろうか)
>某研
泗川の戦いは薩摩のプロバガンダみたいなもんだから
ここに載せるのは止めれ。
159 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 16:29 ID:Xo095tKe
>泗川の戦いは薩摩のプロバガンダみたいなもんだから
>ここに載せるのは止めれ。
まあ只これが作り話と言う証明は有る訳なのだろうか
(無論そうで無いと言う証明も無いかも知れぬが)
味方や敵の物量が正確だったかは兎も角用いられた戦術自体は
事実であった可能性は無いのだろうか
160 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/09 16:37 ID:Xo095tKe
まあマスケット銃の数が少ないならカラビニエの数も少ないだろうし
矢張り其の部分では西欧の騎兵は不利だろうか
(重装騎兵もこの時期は恐らく軽装の3クオーターアーマーだろうし馬が銃で倒れれば
アウトだろうが)
161 :
:02/10/11 00:40 ID:B1w7UBMc
ハングル板に比べると、議論のレベルが低いですな。
誰も相手してないからでは?
軍板のカバー範囲は第二次大戦以降と思われ。
163 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/11 06:59 ID:LSyv5TwZ
まあしかし明の船舶の大砲装備数は
どの程度だったのだろうか
>>なぜ、あそこまでコテンパンにやられたのか、実に不思議だ。なぜだろうか?
オイオイ
チョソの捏造だろそれ
まあ捏造は大名どもも派手にやってますから、おあいこということで。
まあ文禄の役はマジでコテンパンだったけどね。
慶長の役ではさすがに前回の教訓を基に優勢だったみたいだが。
167 :
:02/10/13 00:11 ID:RC+Z/xmW
>坂の上の雲に、日本海海戦に先だって東郷平八郎が李舜臣に祈りを捧げた、というシーンがあるね。
ないよ(わら
水雷艇の艇長だか水兵だかが祈った話。
チョン=現在 捏造歴史 構築中
日本=捏造された歴史を検証中
つか、いすいしんって言われてもピンとこない。
結局何やった人?
170 :
名無し三等兵:02/10/17 23:19 ID:9K9lMKKy
亀甲船という言葉に仄かに漂うエロさが好きだ……。
>170
リア厨並みの若々しい性欲と、一応、称えよう。
あの頃は、沖縄の伝統的墓形式や六角形にも反応したもんだ(遠い目
.‐'' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
| ________ |
| | ∧__∧ | |
| | <`∀´ > | |
| |_/ 二\ | |
| |_/\ \\) | |
| | \ \ | |
| | / /\ ̄ ̄ ) |
| | / /  ̄| ̄ 非 常 識 |
| \ \ \ \ |
ゝ、 \ \ \ \ ノ
173 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/18 00:25 ID:HleBQcVz
まあ良く比較されるネルソンやドレーク程に
戦略的に決定的な仕事はしていないと言う事で
良い訳だろうが
李舜臣はヤンウェンリーのモデルです。
帝国軍の侵攻を受けて、査問中のヤンを仕方なく送り出した同盟軍。
まさに李舜臣とかぶっています。
当時の戦争は、ローテクなので、
武器の優越による勝敗はしれてるんじゃないの?
蒙古、宋、高麗の連合軍が日本を攻略できなかったように、
豊臣政権下の日本も、半島や満州を攻略できない。
地理的にみて、当時の風や人の力で動く船などを考慮して
大軍を投入するには、兵站の確保などが不安定で限界がある。
>当時の戦争は、ローテクなので、
>武器の優越による勝敗はしれてるんじゃないの
日本の火縄銃(鳥打銃)で緒戦は決したし中盤以降は明・朝鮮の大砲(特に海上)が
勝敗を左右しましたがなにか?
>>176 それはしれてる。
日本の火縄銃がある程度有効だったのは確かだが、
それは大陸側の防衛が手薄だったから。
逆に後半戦の日本軍の劣勢は、食料補給が困難になったのが原因。
奥に攻めれば攻めるほど、兵站の確保が難しくなる。
しかも敵地で、軍隊から庶民まで全部敵になるからね。
あと、日本軍は諸国連合なので、必ずしも団結力があるわけでもなく、
諸大名の思惑が、食い違うことも多い。
ただ、それにしても、朝鮮の役の前半戦で、明朝国境付近まで攻め上れたのは、
日本は、なかなか大したもの。
蒙古、宋、高麗の連合軍は、博多湾で釘付けになっていたからね。
まあ、それだけ、日本の国土は、半島に比べて、地形が複雑なので攻めにくいのかもね。
日本には、九州、四国、本州があり、国土の中に瀬戸内海があったりして、
畿内に侵攻するのは大変であり、
中部には、日本アルプスがあり、東海道や北陸道の狭い海岸線を通らなければ、
関東にもいけない。
そんなことしてる間に、食料不足になって、兵は飢える。
178 :
名無し三等兵:02/10/18 16:05 ID:8KnCffb1
当時の日本の攻勢限界点は、朝鮮半島に届いていないだけではないか?
>>178 幕末、西欧が発明した蒸気の軍船を導入することによって、
大軍を海を超えて容易に輸送することが可能になった。
それは兵站の確保が容易になったという意味。
つまり、日本と大陸、半島との距離がもろう近くなった。
そして、戦争では、勝敗に、両者の国力差(人口、経済力、動員兵力)が
繁栄される可能性が高くなったということ。
蒙古、宋、高麗の連合軍は、博多湾で釘付けになっていたからね。
?
太宰府は陥落して日本軍は転進のまっさいちゅうでしたが、何か?
で、海上泊中に台風によって兵力の大半があぽーんされたわけで。
正直九州の要所を落とされ、非常にまずかった。
李将軍?そんなに日本を打ち負かしたすげぇ将軍なら
今ごろまで日本に対する恨みはないはずだよな。
やっぱ それなりに強かったろうが結局、アポーン将軍
だったんだよ。決まり!!
李将軍は日本の輸送船が護衛もつけずに単独行動していたことに
着目し、補給線を叩くために何艘も沈めた。
戦をするにあたって日本の不手際が目立つが、
この輸送に関する差配などを整えたのは
誰であろう石田光成どのでおじゃる。
この不手際で日本軍が非常に苦戦したわけですわ。
日本が海戦に弱かったのは、各地の水軍に依存しており、
国家水軍を秀吉が持たなかったせいもある。
倭寇などで松浦党などが中国大陸沿岸や朝鮮半島周辺を荒らし回ったが、
匪賊の戦いと対外戦争は次元が違うということだろう。
でも、日本の名立たる武将は大方無事に帰ってきたんだよね。
>184
つーか、5万石以上の大名で死んだのっているか?
186 :
名無し三等兵:02/10/18 23:44 ID:JOr5HZcI
三戦板往けやクソが。
>>180 元寇のあった時期は、台風のシーズンからずれてる。そのことを考慮にいれなければならない。
つまり神風説は最近否定されている。
しかも、強風?であぼ〜んになったというのは、攻めきれず、戦闘を終えて、帰国に向かう途中から。
たしか最初の元寇の時は、大宰府の近くくらいまで攻め込まれるが
結局、蒙古の将軍は、退散を命じている。
つまり、そこが兵站の確保などを考えると限界点なわけで。
それ以上、攻め込むと逆に前線部隊と後方部隊の間が間延びして、逆襲を食らいやすい。
しかも大陸軍は海を超えてやってきてるので、本国からの持続的な補給は期待できない。
だいたい大宰府なんて、博多湾のすぐ近くで九州の片隅。
とてもじゃないけど、日本全体を征服するのは、ほとんど無理。
しかも大陸軍は14万くらい。本州まで戦おうとすれば、日本軍の動員兵力は、
30万は越える上に、守勢の日本のほうが兵力数プラスアルファを期待できる。
>>187 二回目のときは、間違いなく台風(あるいは何らかの嵐)による壊滅だじょ。
一回目の撤退については、確かに台風によるものでは無かったらしい。
詳しくは白石一郎タンの書籍なんぞ読むよろし。
>>184-185 明、朝鮮の将軍たちは、それぞれの王朝の官僚軍人。
つまり国家に従順に奉仕する公務員のようなもの。
対して、日本の武将は、日本各地にある半独立国家の国王のようなもの。
彼らは、結局、自分が大事なので、安易に敵に突撃して、命を落とすようなことはない。
日本側の武将は、基本的に用心深く、攻めたり引いたりするわけで、
自分たちの命を粗末にしない。
まあ、大陸の将軍たちは公務員で、日本の武将は民間会社の社長といったところ。
>>188 二回目の時は、強風で壊滅したというのは、ある程度言われてるが、
確か、その時の戦闘は、結局、博多湾に釘付けになったと思われ。
結局、ほとんど上陸出来ず、2ヶ月間、船の上で足止めを食らったわけで。
2ヶ月間も14万の兵が船の上での生活は過酷であり、しかも、その間に、
食料も無くなり、飢えだす頃である。
ところで14万という数字は眉唾だと思う
>>188 強風で壊滅したのは、戦闘の最中では無く、
食料がつきて、諦めて退散する途中であるので、
別に戦闘には必ずしも影響してないと思われ。
蒙古軍が太宰府攻略後、一挙に京都鎌倉まで攻め上ろうとしていたのなら兎も角、
北九州一帯を策源として占領地域の拡大を図れば日本は危なかったと思う。
>>190 壊滅した場所は、博多湾じゃないじょ。
元の艦隊が集結していた、鷹島と九州との内湾じょ。
この地形である方向から風が入った場合、まさに竜巻状の凄まじい状況が
起き得ることが、気象学として再現できたそうだよ。
おそらくそれと同じと思われる現象が、10年ほど前に台風が通過した際
現地で観測されている筈。
元寇の80年前、
鎌倉軍が28万の兵力で、奥州軍3万と戦になっているよね。
あと承久の乱の時、鎌倉軍19万が京都へ攻め込んでいる。
それが、当時の日本の動員兵力を考える材料にはなる。
少なくとも、日本本土の戦では、大陸軍より
数で上回る兵力をつぎ込める。
しかも、ホームでの戦なので、兵站の確保も容易。
>>196 その数字が誇張でないとどうして思える?
中世日本で28万や19万もの野戦軍を動かすことはまず不可能
>>194 北九州だけでは、かなり厳しいと思われ。
大宰府が戦略的に重要だというのは、たぶん海外の敵に対しての
事実上最前線という意味だからであろう。
そこが落ちても、別に日本全体から考えて、片隅のようなもの。
歴史的に見て、本州四国の連合軍と九州軍とでは経済力、兵力に多く差があり、
戦になれば、あっさり平定される。
戦国期の豊臣方の本州四国軍25万と島津方の九州軍5万は、
あっさり勝敗がついたんだし...
>>198 必ずしも誇張ではないだろう。
日本全体で軍を動員すれば、それぐらいは十分に可能。
ただ、忘れてはいけないのは、おそらく農民兵が主力だったと思われ。
日本が海を越えて、大陸に攻め込むとなると、長期遠征になるので、
農民兵は農作業に縛られて、従軍できない。
職業軍人中心なので、豊臣の朝鮮の役のよいうに13万くらいが限度と思われ。
ただ、元寇は、本土決戦なので、めいっぱい兵力を動員できる。
農民兵も動員できるので、全体で30万くらいは可能。
>>199 北九州を抜かれれば、瀬戸内海を洋上機動して一挙に京都まで行ける
663年に白村江敗北が近江遷都の引き金になったことを考えれば、
当時北九州喪失が国防に及ぼす影響の大きさは明らか
北九州は大陸との最前線というだけでなく、ここを失えば畿内に
直接脅威が及ぶ戦略上極めて重要な場所
決して辺境なんかじゃない
>>200 28万や19万の兵員を養えるだけの豊穣な地域が当時の日本にあったか?
それだけの人口を擁する都市すらほとんどなかったのに
>>201 でも結局は攻め込まれなかったでしょう。
しかも白村江の時は、日本の畿内政権は、東国、特に奥州の支配権は不完全なものであり、
南九州もやはり不完全なものであった。
それでも、結局は攻め込まれることは無かったわけで。
しかし、元寇の時は、日本は北海道以外は完全に支配権が確立しており、
しかも鎌倉政権の誕生で、中心軸も、畿内一辺倒から
東国に広がっていた。状況もかなり違う。
>>202 鎌倉期の日本は、既に人口が1000万は超えていたと思われ。
人口1000万だと、それぐらい動員は可能。
普通、最大で、人口の10%(鎌倉期だと100万の兵力)の動員は可能。
ただ、それくらいになると、かなり負担が大きく政権の維持が困難になるが...
おそらく領地や金などの見返りがないと、戦後、政権が不安定になると思われ。
ちなみに豊臣政権下の日本が1600万くらいと思われ。
>>203 >でも結局は攻め込まれなかったでしょう。
白村江の後、唐・新羅の日本侵攻が行われなかったのはあくまで結果論であり、
結局攻め込まれなかったから北九州は重要でないとする論法は理解しがたい
実際、敗戦後日本は北九州と大阪湾に一連の要塞群を建設している
>しかし、元寇の時は、日本は北海道以外は完全に支配権が確立しており、
>しかも鎌倉政権の誕生で、中心軸も、畿内一辺倒から
>東国に広がっていた。状況もかなり違う。
それはつまり北九州も畿内も失っても全然大丈夫ってことか?
そのような事態になれば西日本は確実に喪失する
北九州が確保されてしまえば蒙古の後続兵力が次々に上陸するであろうし、
九州、中国地方が攻略されれば日本側の兵站上の優位は完全に失われる
それでも大丈夫と?
>>204 それは日本全土で動員可能な兵員の上限であり、
それらの兵員を一つの地域に集中できることとは違う
当時の10万以上の兵員が集結したら確実に飢える
南北朝時代に奥州から上京した北畠軍がどうなったか考えれば明らか
5万でもまず無理だろう
>>202 その豊嬢な土壌があったかどうかなんてのは、実は曖昧な解釈。
当時は基本的に、安土桃山、江戸期に比べれば、
商品型経済が発達してなかったから、
江戸のような100万都市は存在してなかったが、
だからといって、農村部を含めた人口は、そんなに少なかったわけではない。
鎌倉期でも人口1000万くらいなので、世界的にみて5,6番目くらいの人口。
近代の産業革命以前は、基本的に農業生産高(人口に正比例)が
経済の中心なので、日本はそれぐらいの大国だった。
京都の人口は10万ちょっとくらいだが、それは商品経済が発達する前なので、
都市への人口集中が起こる前であり、農村部に住む割合が高かったから。
>>207 だから、京都の人口が10万なら、それよりはるかに多い軍勢をどうやって養うの?
まず最初に周囲の農村部が食い尽くされる
1名の兵士が1日に消費する食糧を1キロとすると、10万の軍勢なら1日100トン
実際に戦闘してもしなくても10万の軍勢はただ存在するだけで1日に100トンの食糧を消費する
1週間なら700トン、1ヶ月なら約3000トン
これだけの食糧をどうやって調達してどうやって輸送してどうやって配布するのか?
まず最初に周辺の農村部が略奪される
周辺部が略奪し尽くされると今度は部隊はまだ手をつけていないより遠方の農村部に向かう
そうやって、部隊は日々の糧を得るためだけに周辺地域を略奪するようになり、
部隊相互の距離はますます離隔し、軍勢の指揮統制は日を追うごとに崩壊していく
最終的に、10万の軍勢は10万の略奪者の群れになる
>>206 奥州の兵力は、3万くらいが限界だろう。
奥州藤原氏もそんな程度だったと思われ。
奥州は面積の割には人口は少なかったし。
奥州から京まで遠征してきた少数の北畠軍がどうなったかって、
京でじっくりと構えていた足利の大軍が有利に決まってるわけで。
そんなもの比べるのが間違い。
南北朝期、足利高氏が京を占領した時は、6万くらいだろう。
10万くらいの兵力を集中させることは難しくないと思われ。
>>209 書き方が悪かったようだな
北畠軍が何故足利軍に敗北したかではなく、
上京の過程で兵站上の問題からどのように崩壊したのかを言いたかったのだがな
>>208 大坂の人口が20〜30万くらいの時、
豊臣秀吉は、九州、関東遠征に、双方に25万前後の兵を動員したのだから、
京都の人口が10万くらいなら、別に10万くらい兵を
動員するのは可能だと思われ。
確か第二回目の元寇のときは、
博多湾の防波堤を築いて、九州の御家人中心で、4万の兵が待機して、
大陸軍14万は上陸できなかったんだと思われ。
それから考えて、大陸軍が日本を制圧するのは、
総合的に見て、厳しいと思われ。
ちなみに、第一回目の時は、上陸には成功したが、
その時の大陸軍は4万程度だったと思われ。
>>211 豊臣の大兵力は豊臣家の財力と発達した商業経済によるところが大きい
商業経済の発達が戦争資源の大集中を可能にした
しかも戦国時代と鎌倉時代では人口も農業生産力も違う
今論じているのは「商品経済」の発達していない元寇の時代ではなかったか
豊臣家が可能だったから鎌倉幕府も可能だったとする論法は成立するとは思えない
>>210 奥州から京へ北畠軍は上洛する時、
その道のりの間は、必ずしも北畠軍の味方ばかりではないんだし、
当然、足利軍と通じてる連中がいるわけで(というか、足利寄りの豪族が多かったと思う)
兵站の確保は難しいと思われる。
しかし、元寇の場合、九州への遠征に行く東国軍、畿内軍は基本的に、
その背後や、遠征ルートは味方ばかりなので、
兵站の継続的な確保は容易と思われ。
>>213 商品経済の発達の前か後の違いといっても、
近代の産業革命の前か後ほどの違いは無いと思うが...
基本的に、鎌倉期も桃山期も、経済の占める大部分は農業であり、
そんなに違いがあるわけではないと思われ。
本当に経済の構造が大きく変わったのは、200年位前の産業革命になってから。
中世の商品経済の発達による変化は、意外に小さいと思う。
李舜臣の話はどっかに行っちゃってしまったね。
要するに、どうでもイイ人物と思われ。
>>214 足利寄りの豪族が多かったというのは初耳だな
逆に北畠軍は道中で街道沿いの豪族が次々に合流して巨大な兵力に膨れ上がり、
関ヶ原までほとんど抵抗らしい抵抗は受けていない
元寇の場合、東国軍、畿内軍の行進経路は確かに味方ばかりだろうが、
だからといって食糧が魔法のように湧き出るだけではない
京都から北九州までの行進距離は約650キロ
1日の行進距離を30キロとすると行進期間は約22日
10万の軍勢なら約2200トン
これに戦闘や復路も考えれば食糧の兵站所要だけでどう低く見積もっても
1万トンをこえる
これだけの食糧を遅滞なく補給し続けることはまず無理
恐らく行進経路上の農村部は全滅
>>217 そういう解釈で無理というなら
豊臣政権の20万を超える九州遠征も不可能と思われ。
鎌倉期や戦国期も年貢を取ってたわけで、
基本的に、その備蓄米を戦場にもっていくわけで、
略奪しまくるわけではない。
ただ、それぐらいの大軍で戦が出来る期間は1年位かな?
豊臣方が小田原を攻めた時も、25万前後の兵が1年間持つ食料を
持って行ったと言われている。
>>217 少なくとも関東、三河周辺は足利の地盤じゃないの?
このスレ、名称変えたら。
中世と近世の経済構造の変化についての考察という...
>>218 だーかーらー、商人に金払って米掻き集めさせて
大型船で全国から次々に海上輸送で送り込んだ豊臣軍と状況は違うでしょ?
25万の軍勢が1年分の食糧ってどれだけになるか想像できるか?
金と商人で調達できたのになんでそんな不合理な真似をするのか理解できない
鎌倉時代には大量の食糧を調達できる大商人もそれを輸送できる大量の大型船も存在しない
鎌倉時代と安土桃山時代とでは事情が全然違う
ああ、そう言えば北畠軍は下野利根川で足利義詮を撃破してたねえ
でも関ヶ原まで戦闘らしい戦闘はそれくらい
>>218 で、奥州に攻め入った鎌倉軍が28万として、どうやって食糧を補給できたのか
教えてくれないかな?
自分には絶対に無理に思える
224 :
名無し三等兵:02/10/19 05:00 ID:Bf4esgg6
>>217 では、聞くが、そうなると、当時の元が号した14万の大軍も眉唾というわけね。
中国三国志、世界史に名だたる「大軍」の戦も眉唾なのね。
だったら話はわかる。
225 :
名無し三等兵:02/10/19 05:06 ID:Bf4esgg6
>>217 鎌倉武士30万の動員という言葉を、
「一箇所に戦力集中」
という単純な図式で捕らえるから、おかしな論理になるわけだよ。
30万の軍をそのように運用するなど、第一次大戦までは
世界のどの国家も不可能だった。これは、ビスマルクが断言している。
戦力を統一的に運用できるには伝達装置が必要。今の様な無線、有線はない。
結局、数万単位の軍団をいかに統一的に指揮できるか、
その士気を健在たらしめるかが、軍の強さ。
人口の多さ、国土の広さとは関係ない。元とて、小数の民俗だった。
後年の清も同様。
だから、鎌倉武士30万という形容は、数としては信頼できるし、
また運用としても、非合理な数字ではない。
烏合の衆の14万が渡海してきても(それが100万であっても)
指揮系統、士気に阻喪があれば、烏合の衆。
元はまさしくそのような軍を派遣してきたわけだ。
結局さあ、動員不可能派はどういうかたちが元寇なりなんなりの「実情」だと思ってるの?
通して読んでる限りじゃ統一された論理も何もなくただ反論のための反論を繰り返す域から一歩も出てないんだが。
動員不可能派の人は、
一箇所の戦力集中という概念にとらわれ過ぎている。
一箇所の戦力集中ではなく、広範囲の大規模展開(烏合の衆的動員)なら、
鎌倉期だって10万の動員兵力は可能。
だいたい、豊臣徳川の戦争だって、20万くらいの兵力を動員した戦いは、
烏合の衆的に動員された兵力だったと思われ。
実際、戦争になると、一部の数万人規模の軍隊が戦うだけで、
大部分の数十万の兵は、ただ集まるだけで見てるだけというのが、ほとんどだろう。
これは元寇の時の大陸軍14万にも当てはまることだと思われ。
大陸軍は、蒙古兵、高麗兵、南宋兵の烏合の衆的軍隊だった。
指揮系統は、かならずも、うまく一致しておらず、
よって、兵站、兵力数だけではなく、そういう組織的な面からも、
畿内侵攻は無理だと思われ。
>>227 統一されてないのはそっちだよ
こちらの論点はただ一点
中世日本で28万や19万に達する野戦軍を運用するのは兵站上の制約から不可能と言ってるだけ
非動員状態なら中世日本の半兵半農の兵は食糧生産にも従事するため資源をそれ程消耗しない
しかし、一度動員されれば兵士はただ資源を浪費するだけの存在に変わる
ましてやそのような野戦軍を10万単位で編成するなど論外
こちらは何度も10万単位の野戦軍を動員して運用することなどできないと言ってるんだがな
豊臣秀吉がやれたから鎌倉時代でも不可能ではないなどと論点をすり替えてるのはそっち
前にも書いたが、豊臣秀吉の時代にはそれだけの大兵力をどうにか維持できるだけのシステムが一応は整っていた
蒙古軍の場合は状況はもっとシビアだ
仮に
>>228の言うように総兵力が14万だとすれば、
1隻当たりの積載人員が200名としても700隻の軍船が必要になる
それだけの船を博多湾に集結させて統制するなど無線の発明されていない
13世紀には絶対に無理だ
ましてやそれだけの数の船と乗員を調達すること自体が難しい
しかもそれだけ苦労して運んだ兵員の大部分は烏合の衆で見てるだけだという
不合理だとは思わないか?
そういえば北九州は戦略上重要でないと言ってる人もいたな
北九州が重要でないなら何故蒙古軍は太宰府に上陸したんだろう
もっと手薄な場所に上陸すれば良かったのに
>>229 28万、19万といっても、広範囲で展開した軍の合計が、それぐらいだと思う。
実際、戦闘で、行動した軍は、5000〜1万くらいの兵力が、
それぞれ、バラバラで行動して、戦ったわけで。
承久の乱は、1ヶ月間くらいの戦いだったが、畿内から中部地方にかけて、
広範囲で、多数の箇所で、戦闘が行われたと思われ。
一箇所に19万も集まったわけではない。
ちなみに元寇の時は、第二回目の侵攻の時、14万の兵力といっても、
たしか、南宋軍10万と高麗軍4万は、分かれて行動してたと思われ。
出発点も、南宋軍は現在の上海方面から、高麗軍は半島の南端からで、
両者の意思疎通が、うまくいってなかったと思われ。
蒙古の将軍と、南宋高麗の将軍との間にも、うまく意見があってなかと思われ。
これはNHKで、当時の蒙古の将軍の文献かなんかで残っていると思われ。
>>229 誰も大宰府が重要では無いとは言ってないと思われる。
大宰府や博多湾が戦略的に非常に重要なことは確かだが、
だからといって、そこが、一時、大陸軍によって陥落したとしても、
それで日本が完全に征服されてしまうほどになるかといえば、そうはならない。
確かに、九州のほかの地域に比べて、圧倒的に重要であり、
攻めるとなると、誰だって、そこを狙うと思うが...
しかし、それでも、結局、日本を征服するまではいかないと思う。
232 :
名無し三等兵:02/10/19 14:37 ID:qi1FdBAI
>>217 べつに、京に一旦全軍を集めて九州へ出陣するわけじゃないでしょ。
むしろ、近場の中国・四国から兵を集めるんじゃないのかな。
地元の軍勢が主力のはず。
だから、実際にはそれだけの兵站はいらないはずだよ。
233 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 15:11 ID:f5C/E0lw
まあ元寇の際は日本の歩兵が蒙古軍の
槍兵にやられたが
(まあ只短槍であるので長巻でもかなり対抗出来たとの意見も有るだろうが)
朝鮮での戦いでは逆に日本の長槍兵に明や朝鮮の短槍兵が
やられていた訳だろうか
(騎兵対騎兵の戦いでは弓騎兵が明や朝鮮軍に残っていたであろう以上は
槍騎兵と少数の騎銃兵しか無い日本の方が不利だっただろうか
しかし日本の場合は騎兵での単独行動は無いなら歩兵で騎兵に
対抗可能だったろうか)
>233
日本は当時、馬に乗ったまま戦うことはしません。
馬は直接戦闘には関わりません。
235 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 15:18 ID:f5C/E0lw
>日本は当時、馬に乗ったまま戦うことはしません。
しかし絵を見ると馬上で戦っているが
どうなのだろうか(苦笑
>229
だから、だったら君の考える「元寇」像を明示してくれよ。
たたき台になるようなかたちで分かりやすく、さ。
君のやってることはただひたすら「そんな人数は無理だ」と人口無脳的に繰り返してるだけ。
>235
絵はフィクションととったほうが宜しいです。
(作られた時代にもよるし)
238 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 15:28 ID:f5C/E0lw
>絵はフィクションととったほうが宜しいです。
まあ時代を問わず馬上から弓や槍・刀を使用している様に見えるが
これは全く行われなかったのだろうか
大鎧は騎射戦に特化した鎧と言うが
実際は下馬して弓を放っていたと言う事なのだろうか
騎射戦は源平期から鎌倉期までの時代にはされていましたが、
それからのちは、降りて弓を放っていたらしい。
家康が「槍合わせなんぞ、一度か二度しかみたことない」
とかいう発言があったらしい。
確か、「鉄砲と日本人」という本に書かれていたが、
筆者だれだったけ。
240 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 15:45 ID:f5C/E0lw
>それからのちは、降りて弓を放っていたらしい。
まあ馬が敵の射撃に巻き込まれる
或いは盾の外に出るのは鎧が有るとは言え危険な事であるから
戦場では下馬すると言う事だろうか
つーか、弘安の役のときに日本軍が動員した兵力は12万人以上に及ぶんだが。
北九州方面(北九州沿岸防備) 4万
中国方面(中国沿岸防備) 2万5千
近畿方面(京都防備、総予備) 6万
何も10万からの兵を博多に集結させる必要なんてないんだよ。
242 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 15:49 ID:f5C/E0lw
まあ或いは敵歩兵が敗走した場合は乗馬して追撃・退路を遮断と言う方向も有るのかも知れないが
無用な損害も招き得るので余り行われない訳だろうか
243 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 15:52 ID:f5C/E0lw
まあしかし元軍撃退後の恩賞確保の為に
半島に侵攻すると言う計画は無かったのだろうか
>243
文永の役後に高麗遠征を幕府は計画しています。
しかし、煮詰まってきた段階で、
再度の元軍の日本侵略が近いという情報が入り、頓挫する。
245 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 16:06 ID:f5C/E0lw
仮に侵攻しておれば鎌倉幕府崩壊は無く
明等からの半島防衛の為に国が纏まる必要も有る訳だろうから
戦国時代も無かったと言う可能性も有るだろうか
(まあ只銃も長槍も無しに大陸で元軍や明軍に勝てるかは疑問も有るだろうが)
>>245 莫大な戦費の前に鎌倉幕府崩壊が早まるだけと思われ。
247 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/19 16:37 ID:f5C/E0lw
>莫大な戦費の前に鎌倉幕府崩壊が早まるだけと思われ。
まあ半島の元軍が崩壊するタイミングで侵攻すれば
どうかだろうが半島の抵抗をどう抑えるかが
問題である訳だろうか(まあこれは元軍との戦闘で消耗した所を
攻撃すると言う所だろうか)
>>230 >承久の乱は、1ヶ月間くらいの戦いだったが、畿内から中部地方にかけて、
>広範囲で、多数の箇所で、戦闘が行われたと思われ。
>一箇所に19万も集まったわけではない。
しかし、
>>196で
>あと承久の乱の時、鎌倉軍19万が京都へ攻め込んでいる。
と言ってるね
矛盾してないか? それとも意見を変えたのか?
あと、源頼朝の対奥州戦時の日本の総人口が1000万とすれば、
恐らく奥州の人口はどう多めに見積もっても200万程度
その程度の地域に鎌倉軍28万が展開して食糧が確保できると思うか?
しかも奥州合戦が始まったのは農繁期の7月
兵站確保は絶対に不可能だ
たとえ鎌倉軍が5000から1万程度の部隊に分割して行動していようとも
それらの軍勢の兵士が消費する食糧の総計は変わらない
だから、奥州合戦や承久の乱の軍勢の数が誇張だと言ったんだよ
自分は最初からそれだけの大兵力を一つの地域で運用することは不可能だと言ってるんだがな
それこそ人口無脳のように(藁
249 :
名無し三等兵:02/10/19 20:28 ID:WAsFNv9W
>>248 集まるのは不可能、とは書いてないような。
源頼朝の奥州征伐の時の数十万は、実際は、殆んど戦闘してない。
おそらく、全軍が奥州に到達するよりも早い段階で勝敗はついたと思われ。
文献では薩摩の兵も参加してることから、当然、奥州まで到達するのに時間がかかり、
こういう地域の兵は、ほとんど、というか全く戦闘には参加してないはず。
実際は、関東辺りの数万の兵だけで、勝負はついたと思われ。
つまり、これは政治的デモンストレーションのようなもの。
関東に全国から数十万の兵を動員することが出来る政治権力が存在してる
ということを、京都朝廷の連中に知らせるため。
実際、京都朝廷は、鎌倉方に早く武装解除するよう使者を送ってる。
しかし、鎌倉方は無視して、すぐには解散はせず、そのままにしてたと思われ。
>>250 ついでいうなら、奥州を目指した兵が28万近くで、
全軍が奥州に集結したかというと、そうではないだろう。
九州の兵などは、もっと手前で留まって、引き返したかもしれんし。
>>248 おまえの論理、おかしい(藁
何も数十万の兵の食料を、奥州で現地到達するわけないだろうが(藁
それぞれの兵が、自ら本国から、食料を持ってくるわけで。
<恐らく奥州の人口はどう多めに見積もっても200万程度
その程度の地域に鎌倉軍28万が展開して食糧が確保できると思うか? >
という、おまえの考え方は、おかしいだろう。
>>245 元寇が無くて、鎌倉幕府の崩壊は、意外と早く訪れたと思われ。
そもそも、鎌倉幕府の土地制度というのは、元々、150年から200年で
限界を迎える制度のわけで。
封建領主の土地は、子供達に分配されて相続されていくのだが、
当然、代が重なりごとに分け与える土地が無くなっていく。
いずれ、どこかで破綻するか、あるいは制度変換に迫られ、その時点で、
いろいろ、政権に異変があったかもしれない。
元寇の恩賞を与える土地が無く、それが原因で鎌倉幕府の崩壊を早めのも確かだが、
元寇が無くても、意外と早い段階で、鎌倉幕府は崩壊していたかもしれない。
>>251 つまり全国から28万の兵が手弁当で奥州に向かったということか?
そりゃおかしい(藁
そもそも奥州に200万も人口がいるわけない
>>254 人工無能の人?
相変わらず読み違えてない?
Y/ニニ|>o<|\
/ //\___\
|/ / === |  ̄
| / ・ ・ |
\(6 (_λ_)\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ _ ||||||| _| <おまえらおかしいのだ
|(( \□ ̄□/| |
\  ̄ ̄ ̄ ノ \__________
/ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|了
/ |: | ̄ ̄ ̄ ̄
| |______|
| | | | | | | |
| | | | | | | |
( ̄)| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
~ | 人 |
|__| |__|
/(( | | ))\
>>253 何で手弁当なんだよ(藁
そもそも、食料を全部、現地調達するという考えのほうが異常だろう。
普通、食料は本国から遠征先へ武器と共に持っていくほうが常識だろう。
ちなみに第二次世界大戦の旧日本軍の一部は、食料を現地調達しようとして
飢えて全滅してます。
普通、食料なんてものは、現地調達できるかどうか保障はないし、
強引に現地調達しようとして、原住民との間に軋轢が生じると厄介なので、
本国から持って行く物なんですよ。そんなの常識。
あと、奥州の1200年頃の人口は、200万人もいない。
だからといって、奥州へ十数万の兵を派遣出来ないかというとそうではない。
奥州攻めでは、兵糧に豆を煮たものを用いました。
それを俵に入れて運んだところ、豆が糸を引いていたので(以下自粛)
1名当たり1年間に必要な食糧、馬の飼い葉や武器、装備の補充、その他諸々の必需品
全てを一度に輸送する訳じゃなかろうが、それだけの量の補給品をどうやって輸送するのだろうか?
現地調達だけで全てを賄うのは不可能だが、全く現地調達に頼らず長大な補給線を抱えて戦うのもまた不可能
輸送する連中だって飯を食うだろうし
鉄道発達以前においては、程度の差こそあれ現地調達は不可欠な補給手段だ
敵地に侵攻する前にはあらかじめ詳細な偵察を行うのは常識だから、
現地調達の見込みがないような地域には侵攻しない
むしろ軍勢を養えるだけの資源のある地域こそ戦略的に重要な拠点と言える
例えば28万の大軍勢が奥州に侵攻するとして、関東の穀倉地帯を策源とするにしても
食糧だけで1日数十トンに達する輸送を行うことなど不可能だ
安土桃山時代のように数百石から千石級の船舶による海運が発達していない鎌倉時代においては
馬車による輓馬輸送に頼るしかない
馬車1台につき輓馬1頭、積載量500キロとしても、数百台の荷車が毎日奥州へ向けて出発することになる
毎日それだけの補給を維持するためには、数千から下手をすれば万を超える馬車が必要になる
その巨大コンボイも当然食糧を消費するし、護衛部隊もつけなければならない
その半分の部隊が奥州に達していないとしても、だから可能だと言えるような数字ではない
中世日本においては現地調達に全く頼らずに野戦軍を運用することなど不可能だ
太平洋戦争中の日本軍が現地調達に失敗したから現地調達はできないと決めつけるのは変だ
中近世の戦争では現地調達に頼らずして戦争はできない
むしろ、輓馬輸送しか輸送手段のない鎌倉時代においては、現地調達に大きく頼らなければならない
だからこそ、現地調達で養える限界を超えた兵力の野戦軍を運用するなど不可能だ
奥州合戦で28万の軍勢が奥州に攻め入ったり、承久の乱で19万の軍勢が京に攻め入ったりするのは
常識的に考えて不可能
納豆は源義家の前九年の役の時の故事ですな。
>>261 馬鹿な奴だな、まだわかんないのか?
誰も奥州に28万もの大軍が攻め入ったり京都に19万の大軍が攻め上がったり
できるなんてことは言っていない。
国全体の動員能力とある戦場(地域)への投入可能兵力は違うんだ。
後方で治安維持や連絡線の保持に当たる兵力が戦役に対して
動員された兵力としてカウントされているはずなんだよ。
>>262 相手を罵倒することで論破しようとしてるのか?
>>261は中世日本で現地調達に頼らずに戦争することは出来ないと言ってるだけなんだが
こっちは
>>206で
>それは日本全土で動員可能な兵員の上限であり、
>それらの兵員を一つの地域に集中できることとは違う
>当時の10万以上の兵員が集結したら確実に飢える
と言ってるんだが意図的に無視してるのか?
それに対してそっちは
>>209で
>10万くらいの兵力を集中させることは難しくないと思われ。
と反論してるんだがな
で、それに反論してると人口無脳とか馬鹿とか罵倒を始める
言ってることが矛盾してるのはそっちだ
264 :
名無し三等兵:02/10/20 03:49 ID:TJ6TH/8E
むぅ…。
やはり軍板のスレは、ひと味違うな…。
>>234 そりゃ戦国時代に入ってからでは?
しかも伊達正宗なんかは、騎馬武者に鉄砲をもたせた、一種のカラコール戦術みたいなものも展開しているようだし。
鎌倉時代にしても、せっかく長射程の弓を馬上であやつる技術があるのだから、その攻撃力を活かさない手はないと思ふ。
265 :
名無し三等兵:02/10/20 10:10 ID:urNWZOyB
やっぱ誇張だったんかな。
奥州合戦で28万とか承久の乱で19万とか言われるとそれだけでおかしいと感じるけど実際のところはどのくらいの兵力だったの?
当時の輸送力からどれだけの兵力の運用が可能だったか教えてください。
あと荘園時代にはすでに船による輸送が主流になっていたことを付け加えておきます。
267 :
名無し三等兵:02/10/20 11:21 ID:uwlxG2JT
>>264 そういったものは、江戸期に入って創作されたものが多いので。
安易に肯定できません。
268 :
名無し三等兵:02/10/20 11:52 ID:vWoF0G90
269 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/20 16:43 ID:TigD09uL
まあ蒙古襲来絵巻ではモンゴル軍側の歩兵は
短弓ではなく長弓の様な物も使用している様だが
これは彼等の短弓同様強化弓なのだろうか
(そうであるとすれば日本の合成弓より射程は長いのではないのか)
しかしアラブ軍が十字軍のクロスボウでやられたとの記述も有るが
アラブ軍の歩兵は長弓やクロスボウでは無く短弓を使用していたと言う事なのか
(矢張り中国の様な騎兵からのクロスボウ使用も無い訳だろうか)
アラブ軍の矢は十字軍の重装騎兵には通用しなかった(from アラブが見た十字軍)
271 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/20 17:27 ID:TigD09uL
>アラブ軍の矢は十字軍の重装騎兵には通用しなかった(from アラブが見た十字軍)
上まあ十字軍の時点ではプレートアーマーは無いし
盾で防ぐとしてもこの時点では装甲の無い馬がやられるのではないのか(苦笑
272 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/20 18:00 ID:TigD09uL
まあ後パビスの様な防弾装備は
アラブ軍側には有ったのかと言う事だろうが
273 :
某研究者 ◆NITkxmpUgI :02/10/20 19:11 ID:TigD09uL
蒙古襲来絵詞(スゲ、一発で変換できた)の戦闘シーンって、そんなにいい加減なの?
あれ、幕府に論功を要求するために描かせたんでしょ。
相手もプロなんだから、そんなに下手なことは出来ないと思うんだけど。
>>264 ROMっているんですが、
伊達正宗の騎馬鉄砲部隊って史実でもあったんでしょうか?
某光栄の戦国ゲームにそういう部隊が出てきたのですが、
講談らはともかく、史実としてはどういうものなんでしょ。
>>267 伊達正宗のあれも講談の類?
史書などには載ってないのですか?
>>269 モンゴル軍の「てつはう」なる兵器はいったいなんでせう。
>>270 アラブ軍といえばビザンチン帝国や西ゴート王国、ササン朝ペルシア
らも攻略したり、領土を侵食していますが、あれらは重装騎兵だった
ようにおもうのですが。
特にペルシャ軍。
>>274 伊藤博文や源頼朝などの日本の常識と思われる語句は
初期登録されていませんが、なぜか金日成とか毛沢東とか
周恩来、蒋介石、袁世凱などの中国、朝鮮の歴史人物らは
一発変換できます。
曹操、文帝、武帝、光武帝、洪武帝、乾隆帝、雍正帝・・・・
日本語IMEはどこの国の人間によって作成されているのか
とても不思議です。
手榴弾の一種。金属製でイボイボのついた球形の容器に火薬を詰めた物。
導火線を使って爆発させる。
小型の投石機などで発射したりもしていた。
>>279 伊藤博文を伊東裕文と書いても誤字で済みますが、
金日成を金要損とか書いてしまうと謝罪と賠償を
請求されかねないからです。
>>268 そんな事言うと自演出来ないじゃないか……。
モンゴル話は終了ですか。
284 :
名無し三等兵:02/10/26 03:28 ID:Vzi+swII
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
<=( ´∀`)<俺は生粋のチョッパリだけど
( ) \ この話を聞いてなかないやつは
| | | \ 人間じゃないな ニダ
〈_フ__フ \________________
286 :
名無し三等兵:02/11/04 18:36 ID:xwPFXrMm
李舜臣復活!
287 :
陳舜臣:02/11/04 20:36 ID:???
台湾人ですが、何か?
乱中日記読むから維持sage
宣祖実録は日本じゃ読めないんですかね?
つか、スレタイにある人名って何処の人?
291 :
:02/11/16 22:10 ID:???
292 :
291:02/11/16 22:29 ID:???
『和名類聚抄』に、日本全国の石高(正確には「束」という単位)が掲載されています。
無論、大まかな数字でしょうが、判断の助けにはなるかもしれません。
これによると、10世紀における陸奥+出羽の石高は848,268+305,200=1,153,468
です。(日本全国で13,811,339石)
奥州合戦の頃には、何割か増えているかもしれません。
私は軍事には詳しくないので、115万石というのがどの程度の動員力を示すものか、皆様ほどの判断力を
有していません。
293 :
名無し三等兵:02/11/16 23:14 ID:L21waDP5
戦国時代だと百石につき6人ぐらい。
115万石だと7万ぐらいか。
まあ、実際は、最大5万ぐらいだろう。
294 :
291:02/11/17 03:27 ID:???
『土佐国群書類従』所収「兵賦考」には、
「三十石に騎馬一人」「三百石ノ分限ニテハ、主人一人供者九人」
「御国(土佐)ニシテミレハ二十万石ノ御分限ニテハ七千五百人也」
とあります。但し、外征では半分になります。
数字そのものは大阪夏の陣頃のものです。
295 :
名無し三等兵:02/11/28 21:22 ID:1JZdq3Et
age
まぁ英雄は英雄であると素直に認めることも必要だよ
李舜臣は活躍したにもかかわらず無能官吏に嫉妬を受けて
更迭されたっていうし・・・あの国の人じゃなかったら
九鬼義孝ぐらいには重用されてたのではと思う。
まぁ朝鮮史唯一無二の英雄ってことですな
でもなんか朝鮮の血統じゃなくて支那の血を引いてると思うのは
漏れだけか??w
あと、ハングルを作ったナントカという王様を付け加えてあげると親切だね。
298 :
名無し三等兵:
世宗大王の事かな(漢字間違ってるかも…)?
聞いた話なんだが,ハングルは識字率向上の為,下賎の衆専用の文字として開発されたため,
元々文字を読める階級の連中は使う気も,また実際に使うことも殆ど無かったらしいですね.
で,実際に広めたのは朝鮮総督府,そして独立後の漢字追放(!?)運動により現在に至る,と.