お前らのジーちゃんの戦争体験

1名無し三等兵
を書いてくれ。
俺のジーちゃんの内の一人は海軍で南方に行ったそうです。そこでは整備兵で
飛行機の燃料入れをしてたそうだ。直接的戦闘は一度も無い、と。ただ死人はいやと言うほど見たらしい。
一度はアメリカの捕虜をの○○大佐と言う人が目隠しにして首を日本刀で切り落としたらしい。
孫のうちで戦争話をまともに聞くのは俺だけなので喜んで俺に話す。
もう一人のジーちゃんは俺が生まれる前に死んだので知らない。ただ海軍の中佐で勲章とか結構ある。
2名無し三等兵:02/06/25 19:17
2
3名無し三等兵:02/06/25 19:21
大阪大空襲を屋根の上から見ていたそうだ。
4一等自営業 ◆O8gZHKO. :02/06/25 19:21
3GET!
53:02/06/25 19:23
>>3
勝った!
63:02/06/25 19:24
>>5
偽物ハケーン
7名無し三等兵:02/06/25 19:27
じじいは不潔で嫌だ
衛生教育がまるでなっちょらん
進駐軍に頭からDDTぶっかけられて全面否定されたんだが
死ね死ね洗脳教育しか受けとらんからな
そんなものを教育と称するのもいかがなもんか
8一斗自営業:02/06/25 19:29
8Get
9名無し三等兵:02/06/25 19:30
>7
おまえがじじいになるまであと何年?

>4
だれか、例のAAを・・・
10名無し三等兵:02/06/25 19:36
陸軍の上等兵だったそうです。
日中戦争に参加しトラックの運転手をしていたとの事です。
ちょっと、アクセル加減を間違えるとすぐおかしくなったといっていました。
祖父は、その後病気になり原隊からおいて行かれてしまったそうですが、
その原隊は、南方に派遣されて玉砕しているのです。
運のいい祖父です。(中支にいたのでシベリア送りにもなってない。)
家には、鉄兜と38式の実包があったと父が言っていましたが、鉄兜の方は、
洗面器として使い古され、実包は祖父が捨てたそうです。
祖父が叙勲された勲八瑞宝章と日中戦争従軍章は、祖父が亡くなる前に押入れから見つけ、
死後、私が受け取りました。
大切に保管してあります。
11名無し三等兵:02/06/25 19:53
うちのじいさんは満州に行ってたそうです。
射撃が成績が良かったから軽機関銃やらされて大変だったと言ってました。
あれ担いで歩くと肩の皮がずるむけて辛かったと。
その後、上の人間に気に入られたらしく好きな部隊に転属させてやると言われて迷わず戦車を希望したそうです。
戦車だったら重い機関銃担がないで済む、というのがその理由だそうで。
12名無し三等兵:02/06/25 20:05
 3…3GET!!
  ∧_∧             ノノノノ  -___
 (;・∀・)            (゚∈゚ )  ─_____ ______ ̄
 (一等自)          丿\ノ⌒\  ____ ___
 | | |          彡/\ /ヽミ __ ___
 (__)_)             ./∨\ノ\  =_
                  .//.\/ヽミ ≡=-
                 ミ丿 -__ ̄___________

 (⌒\ ノノノノ
   \ヽ( ゚∋゚)
    (m   ⌒\
     ノ    / /
     (   ∧ ∧
  ミヘ丿 ∩∀・;)
   (ヽ_ノゝ _ノ


     丿   ,;⌒⌒i.
  ノノノノ⌒ヽ (   .;;;;;)   ______
 (゚∈゚ )  ミ)     ,,:;;;)  |         |
/⌒\/(   ) ヽ| |/ |;,ノ  |  仕事場→ |
( ミ   ∨∨  | /  .,i  |______|
 ノ  /     | | ,,i; ,, . ,;⌒∥
( \/ヽ ,,,丶, | |,,,;.    ;i,   ∥ヽ
 \ ) ) ..   ,,   ´ヽ (,,... ∥丿.,,,
 ///   ,,   ,,  ... ´ヽ  ∥,,, ..,
`ヾ ヽミ ,,  .、 ヽ .. ヽ丶.,.ヽ ∥、,,
13名無し三等兵:02/06/25 20:08
中国にいたらしい。詳細は不明。
最後は、「アメリカは次は台湾にくるに違いない」ということで台湾に行ったら、
アメリカは沖縄に来て、そのまま敗戦となったそうな。

じいちゃんに線香上げにきた元上官の方いわく。
「いやー、○○君にはよくけつを蹴り上げられましたよ、ははは。
 でも今にして思えばあれで良かった。
 怖がってじっとしていた者は、どんどんにやられていった。
 でも何故か、自分達みたいにどんどん進んでいった者は生き残った。」

だそうな。
14名無し三等兵:02/06/25 20:17
もうこういう系のスレはおなかいっぱい。
おまえら何人爺ちゃんいるんだよw
15名無し三等兵:02/06/25 20:19
終戦間際、帝都防衛のためにとりあえずかき集められた兵として参加。
八月一日に東京到着。やることもないので適当に塹壕を掘りつつマタ
ーリ東京見物。
と言っても、ほとんど瓦礫と焼け野原しか無かったそうな。
161:02/06/25 20:23
本当に死と隣りあわせで、自分の代わりに3人は死んだらしい。
本当は自分が電報を上官に届ける役だったのに、たまたま変わりに行った人が
戦闘機銃で殺られた、など。
後、俺が「海軍って毎日のように殴られるとかいった、いじめがあったんやろう?」
と聞いたら、「それをいじめと取ったらそうだろうけど、その当時は少しもそう思ってなかったから
いじめじゃない」といわれた。殴られるのが当たり前で何の恨みも無い、と。
171:02/06/25 20:28
空中戦は、それはそれは壮観だったらしく、人が死ぬと言う意識はほとんど無く
純粋に下で楽しんでたそうだ。「3万ドルの映画」と言ってたらしい。
18名無し三等兵:02/06/25 20:40
>>14
は外道。つか文体皆同じ。
19一等自営業 ◆O8gZHKO. :02/06/25 20:50
そういやーガキの頃、頭からDDTかけられた覚えが・・・・
頭丸刈りにされますた。
20:02/06/25 21:30
体格が規定に満たなかったから、兵隊には行けず
戦前から勤めていた、工場で空襲で工場が無くなるまで
戦闘機のエンジンのキャブレターを作っていたそうだ
21名無し三等兵:02/06/25 21:36
良スレage
22予備海士長:02/06/25 21:40
レイテ海戦で沈んでしまいました
写真一枚しか見たこと無い、お墓には色々解説見たいのが掘ってあります
もう一人のおじいさんは軍馬に乗っている写真が飾ってあった
終戦間際で南方志願して南方付いたら終戦、一人も殺さなかったそうです
23とむ猫:02/06/25 21:41
マレイシヤでねずみ食ったそうです。
その話を聞いて以来、ジイちゃんは私の中で偉人となりました。
24:02/06/25 21:53
ちなみに俺の母方の曽祖父は、国鉄に保線で勤めていた関係で
ビルマで工兵として鉄道工事をしていたそうです。
25シベリア帰還兵の孫:02/06/25 22:05
私の祖父は、旧日本陸軍兵長だった。祖父は戦前から車屋をやっていたので
徴兵されて満州の自動車部隊に配属された。さまざまな苦労があって生前よく
「軍隊は運隊」と言っていた。
ソ連の満州侵攻後、ソ連兵とは何度も戦闘を交えたらしい。ある時、斥候に出
て、敵の斥候と遭遇し手榴弾でソ連兵を倒して、戦利品として、マンドリン
(ソ連のサブマシンガン)をもって帰ったら感状をもらったそうだ。
そんな祖父にも死守命令が下され、蛸壺を掘って破甲爆雷を抱えて、T34と差し違え
ることになったが、運よく終戦の情報が部隊に入り祖父は助かった。
その後、祖父は仲間と虎屋のようかんが満載されたトラックでひたすら南へに
げたそうだ。ほとんど「兵隊やくざ」の世界だ。しかし、途中でソ連軍に捕ま
る。当然シベリアに送られたが、祖父は自動車の運転が出来たので、厚遇されて
いたらしい。しかし、これでは何時になったら日本に帰れるか分からないので
ある時から運転を拒否すると、「チタ」という場所へ送られ、森林伐採の重労
働をかせられた。仲間は半分以上死んだらしい。そして昭和26年、祖父は真鶴
へ復員船で帰国した。栄養失調で、酷く体がむくんでいたそうだ。
祖父はよく、戦場での経験を私にしてくれたがいつも「また、ソ連と戦争にな
ったら俺はまた戦う」と言っていた。
26名無し三等兵:02/06/25 22:13
 ビルマの方で突撃の際後ろから味方に撃たれて即死。
 神が赦しても我等は赦しません。
27名無し三等兵:02/06/25 22:30
俺の爺様は、海軍の整備兵として空母「隼鷹」へ乗り込む。
「隼鷹」の本土帰還後、百里の海軍基地へ回され、
そこで終戦。最終階級は兵長。
終戦後は国鉄の整備員やってた。
今も元気に生活してる。
28名無し三等兵:02/06/25 22:34
>>27
今のうちに聞ける話は聞いとけ。後で後悔するぞ。
29名無し三等兵:02/06/25 23:34

     ∧_∧____ 何が聞きたいの?>>1
    /(*゚-゚) ./\
  /| ̄〇〇 ̄|\/
    |_しぃ__|/
301:02/06/25 23:38
>27
28の言うとおり聞けるうちに聞いといたほうがいいと思う。俺の死んだジーちゃんなんて
話したくてたまらなかったらしい。けど俺の母親とか誰も聞こうとせず寂しい思いをしたんだろうな。
もし今生きてたら、俺がいやと言うくらい聞いてやるのに。どんな戦記本を読むより、実際に経験した人の
話を聞くほうがはるかにためになる。50年後今度は俺が孫に110年前はこうだったんだよ、って言えるしな。
311:02/06/25 23:46
>27
自分のジーちゃんがビルマで死ぬなんて結構辛いよな。俺のジーちゃんももし海軍に
志願しなかったら、福岡なので龍・菊兵団に召集されてビルマで死んだ可能性も高い。
実際、ジーちゃんやバーちゃんの知り合いは多くの人がビルマで死んでいる。たぶんその中には餓死した人も多かったんだろうな・・・。
32名無し三等兵:02/06/25 23:54
母方のじーちゃんは彗星63型の搭乗員だった。
勘のいい方ならじーちゃんの任務が何であったか
おわかりいただけるだろう。
33名無し三等兵:02/06/25 23:54
ウチの祖父は南方で機関銃撃ってたらしい。
でもなんとか帰ってきたそう。
よく酒を飲む人だったそうで、酒で嫌な戦争の思い出を
忘れたかったんじゃないかなと思う。
341:02/06/25 23:56
普通のパイロットはそうじゃなかったが、ほとんど全員の学徒兵のパイロットは、豆を生で大量に食ってたらしい。
腹を壊して飛ばなくていいように。多くの本では、学徒兵は勇敢に戦ったみたいに書かれているけどな。
けど、俺的にはこっちのほうが人間味が感じられて好感が持てる。機械みたいに死を恐れず、よりもはるかに。
35 :02/06/25 23:58
日本刀持って、大陸でおお暴れ!











すみません、嘘です。内地勤務です。
36名無し三等兵:02/06/26 00:25
この手のスレって今まで2、3個あったよな、軍事板住人はそんなに多かったか?
3727:02/06/26 00:43
>1
>28
今度、よく聞いてみます。
確かに爺さんの話って、面白半分に聞いてたし・・・



・・・爺さんの好きな酒でも買って、たまに帰るか
38名無し三等軍曹:02/06/26 00:50
母方のじいさんは海軍の整備兵で、房総半島の基地に配属されていた。
プロペラの回転と機銃の弾の出るタイミングを合わせる仕事をしていて、腕はよかったらしい。
けど、食料庫からしょうゆ盗んだりろくな事してなかったそう。

そんなじーさんも腹は切ったが元気です。
39名無し三等兵:02/06/26 01:09
小学生だったじいさんは、10キロも歩いて
爆撃された水力発電所を見に行ったそうだ。
40名無し三等兵:02/06/26 01:13
じーちゃんじゃないが、うちの親父は沖縄の八重山諸島で
英軍の空襲の中、畑耕してた。当時11才。
その叔父は、小船で石垣島に渡る途中、艦上機に襲われて
目の前で知人が死んだそうな。この人は当時16~17才。
41名無し三等兵:02/06/26 01:22
母方の祖父は、美幌航空隊所属でマレー沖海戦に参加し戦死。
父方の祖父は、第一挺進団所属でパレンバン降下作戦に参加し戦死。

以上真っ赤なウソ。
二人とも百姓長男にて出征すらせず。
42名無し三等兵:02/06/26 01:48
俺の祖父は二人とも幼い時に死んじまって話しを聞いたことないが
親父は沖縄で哨戒艇に乗っていたって
昼間は殆ど船に乗ることは無く、もっぱら夜間だけの警戒任務に従事してたと。

オカンは奄美の人で、機雷で死んで打ち上げられた鯨とか食べてたらしい。
43 :02/06/26 01:49
【ビックリ】TECHSIDEにチョン【やっぱり】
http://corn.2ch.net/test/read.cgi/news/1024572389/

TECHSIDE(テックサイド)は日本一有名な個人運営のニュースサイトです
 HOME http://techside.net/
 BBS http://www.ag.wakwak.com/~spec/yybbs/
 教えて君BBS http://www.ag.wakwak.com/~spec/osiete/
 一言板 http://210.136.179.189/cgi-bin/ch/chabo.cgi

管理人のTECH(テック)さんは、とてもいい人です。みんなでバナーをクリックしてください!
44  :02/06/26 04:39
父方の祖父さんは鹿屋航空隊で機関士としてマレー沖海戦に参加、
一式陸攻にて低空スレスレに、
レパルスに雷撃するも、、ハズレ。その後、負傷により(機関砲の暴発により)
鹿児島の鹿屋空軍基地にて地上勤務、終戦まで特攻隊を見送る。
ワシが中1の時亡くなる。忘れ形見に錆びた短剣があり。
45名無し三等兵:02/06/26 04:52
もれのじいさんはにほんとうでちょんをじぇのさいどしまくったっていってたYO!
46名無し三等兵:02/06/26 06:43
>>45
>ちょんをじぇのさいど
敵味方の区別もついてなかったのに、よく生きてたね
( ´_ゝ`)フーン
47名無し三等兵:02/06/26 06:45
ヨタは絶えんよ。
48名無し三等兵:02/06/26 06:47
そのうち

ホントに言ってたよ
嘘だと思うなら次の火曜に・・・の喫茶店で
カモ・ファティーグ着てるのオレだから来い。

とか言いよってからして
49名無し三等兵:02/06/26 06:52
>>45はリアル厨房か?日韓併合って知ってっか?
それにしても寒すぎるな。(氏
5049:02/06/26 06:55
しまった。リア厨なら曾祖父さんじゃないと計算が。
懲罰大隊逝ってきます…
51名無し三等兵:02/06/26 06:55
50!!

地主の長男だったんで、回避。
52名無し三等兵:02/06/26 06:55
くっ無念
5349:02/06/26 06:56
>>51
ニヤソ。
54  :02/07/03 01:44 ID:???
漏れの祖父さん、日露戦争で203高地に壮絶な突撃をして死んだ。
俺?俺は57歳だよーーーん。
55名無し三等兵:02/07/03 01:55 ID:z6mrxAJS
兵隊にむやみに殴られながら松の根っこ堀。
56名無し衛生兵:02/07/03 02:18 ID:DsyxgyPj
うちの祖父(衛生兵)はコレヒドールが云々て言っていた。
伍長だったらしい。兵長って呼んだら激怒するw
祖父の兄は近衛兵だったらしい。
57名無し三等兵:02/07/03 02:27 ID:dnp6AUc1
俺の祖父はビルマで山砲隊に所属していた、
現地の人と仲良くなって、その時にビルマで子供が出来たって言ってた。
向こうでずっと暮らすつもりだったらしいけど、
結局イギリスの捕虜になってそのまま日本に帰ってきた。
他にも、B29を打ち落とした話や捕虜時代の話、戦友の話等色々話してくれた、やっぱり今でもあの時代が懐かしいみたい。
あと、>>25の祖父と同じく「アメリカや中国と戦争になったら戦う」って言ってます、「命を捨てて敵兵10人以上道ずれにする」ってw
58名無し三等兵:02/07/03 06:38 ID:AiuWCpXS
オヤジだが、戦争中は横須賀海軍工廠で
空母信濃を造っていた。
すぐ沈没したのそのせいか。
59名無し三等兵:02/07/03 07:03 ID:qjPrAl4Q
うちのじいさん中国大陸にいっとったらしい
軍人手帳を持って帰ってきたらしい
ほんとはだめらしいけど
60名無し三等兵:02/07/03 07:37 ID:eGt9SI0j
父方の祖父は横須賀のT○SHIBAで働いてた
61名無し三等兵:02/07/03 07:42 ID:???
俺の母方の祖父さんは家族ごと満州に行っていたらしい。母親は満州で生まれたそうだ。
父方の祖父さんは東南アジアの何処かで戦死したそうだ。
62名無し三等兵:02/07/03 08:00 ID:iXpvbdYL
>>58

ワラタ
63名無し三等兵:02/07/03 09:08 ID:???
漏れのじいちゃんは、伊号潜水艦でドイツに行きますたが、戦況が
悪化して帰国できなくなったので、SS義勇擲弾兵師団「ヤーパン」
に入隊して、東部戦線で戦死しますた。現地でドイツ人とケコーン
したので、漏れは1/4、ゲルマンの血が流れてます。




言ってみたかっただけ。スマソ、逝ってきます。
64名無し三等兵:02/07/03 09:54 ID:???
うちのじいちゃんは俺が3歳の時に死んだけど
ばあちゃんの話では陸軍で大陸に行ってたそうな
で南昌・長沙・桂林を転戦したらしい
S19年に桂林の辺りで手榴弾に目やられたとかで内地送り、
そのまま終戦迎えたんだって

ちなみに母方のじいちゃんは
風船爆弾作ってたっていうが、こっちは眉唾っぽい
65名無し三等兵:02/07/03 13:41 ID:???
>>64

母方のじいちゃんって東京周辺の人じゃない?
風船爆弾は秘密兵器だったけど、学生なんかを動員して人海戦術で作ったから、
携わった人は多いよ。ウソではないと思われ。
66名無し三等兵:02/07/03 14:02 ID:???
父方の祖父
徴兵され、横須賀で高射砲の装填手をやってたそうです。
夜中の点呼でのけつバットの話をよくしていました。
当時横須賀にいた長門の話もしていました。
甲板掃除の話とか、主砲がいかに太かったかとか。
マッサージが上手くて上官に気に入られて饅頭とかもらってたらしいです。

6764:02/07/03 18:42 ID:???
>>65
ところがどっこい、思いっきり山口県人
関東の方に出ていったなんて話も聞かないし
だから相当に眉唾っぽく思えてならない……
68名無し三等兵:02/07/03 19:39 ID:4v1eEU8k
俺の爺ちゃんは、ナウル島の沖で病院船で内地に帰還中、潜水艦にボカチン食らったそうです。運良く生き残り、その後は水雷科の教官をしていたそうです。
俺の先生は、開戦時に赤城に乗っていて、真珠湾に行ったそうです。その後ミッドウエーで爆弾を食らって、舵が故障したときに、水に潜って作業をしたそうです。(水中溶接だか溶断が専門だった)
その後、長門に乗ってレイテにも行ったそうです。長門に爆弾が命中したときに、たまたま持ち場を離れていて、九死に一生を得たそうです。俺は2回も死に損なったって、いつも言っていました。
69名無し三等兵:02/07/03 19:45 ID:l35yLf/B
学校の先生。奉安殿とか教育勅語とかしていたクチ。
戦前戦中は当たり前で迷いはなかったんだろうが、戦後の
価値観の転回をどう乗り越えたか謎である。

戦中の話はしたがらなかった。戦前の話ならした。
大勢の教え子が戦場に行ったとも聞く。
70名無し三等兵:02/07/03 19:56 ID:???
曰く「関東の飛行機工場(立川飛行機?だったかな)で飛行機作ってた」そうな。
殴られ、腐りメシを食わされ、空襲で仲間を失い、挙げ句に敗戦でポイ、と
粒々辛苦を味わった為、朝日新聞(8/15以降版)に真実を見つけてしまった。
まあ、現実に苦労した人は戦争反対を叫ぶ権利は有ると思うけどね・・。
71名無し三等兵:02/07/03 20:25 ID:EGkyZNkF
うちのじーちゃん、ものすごい大地主の長男(何でも杉並区と同じ位所有してたそうな。)
で、戦争も親の鶴の一声で行かなくてすんだそーな。

で、終戦日の放送聞いた時・・



「・・・・・・フッ・・・・・・・・・・」




っと鼻で笑ったそうです。(大笑)
72俺のチンポは連射不可:02/07/03 20:32 ID:Dws4eZ7l
>>65
俺のじぃちゃん、巣鴨に住んでたけど、学徒動員で
風船爆弾を作ってたって聞いた事ある。もう鬼籍に
入っちゃったけど。
73名無し三等兵:02/07/03 20:33 ID:VzBp+HBg
俺のとうちゃんは、俺が小さいときから何かあるたびに、
“とうちゃんは、昔、少年航空兵だったんだ!!”
“クラスでも優秀なものしか少年航空兵になれなかったんだぞぉ~”
って自慢してました。

もすこし戦争が長引けば、間違い無く特攻隊だったのに!!
74名無し三等兵:02/07/03 20:34 ID:+Cx6zYQt
おれのばぁちゃんだけど、東京大空襲の時どっかの山まで登って逃げてたら
燃える東京がとてもキレイだったなんていってた。焼夷弾なんか花火よりすごいとか。

http://jbbs.shitaraba.com/news/446/himajin.html
75名無し三等兵:02/07/03 21:57 ID:???
>>72

風船爆弾は、和紙を貼り合わせて上からコンニャク糊を塗って乾かして出来上がり
だから、大掛かりな工作機械はいらない。そのかわり広い作業場所がいるってんで、
劇場とか体育館みたいなところが工場に選ばれた。かなりの部分は東京周辺で作
ったから、東京に昔から住んでいて昭和19年頃に勤労動員されるくらいの年
だった人だと、風船爆弾作らされた割合は多いと思われ。漏れもそういう人から
話を聞いたことがある。関西でも宝塚の劇場なんかで作ってた。
76名無し三等兵:02/07/05 00:03 ID:hRDNzsKR
俺のじーさんは去年亡くなったが
明治四十五年生まれ
昭和十四年10月出征~昭和十八年十月復員 勲八等瑞宝章授与
除隊時の階級は陸軍伍長。 
第五師団所属で支邦へ派遣されたが
ばーちゃんの話しでは主計兵(経理らしいが旧陸軍の組織はよく分からないのでスマソ)
だったらしいが、じーさんが亡くなった後、アルバムを見たら
中国服着た写真がいくつも出てきて、法事の時の親族の話では
スパイ(便衣)やってたらしい。

旧陸軍の主計兵(経理)でそんなことできるんだろうかと不思議に思った。

なお、じーさんが亡くなる一年前に国から勲五等瑞宝章を授与されたよ。
77名無し三等兵:02/07/05 00:14 ID:YAJb+Iiw
俺のじぃちゃんインパール作戦に逝ったよ。
この逝ったて字でも間違えではないよ・・・。
でも行軍3日目で無線でよびもどされて助かった。
呼び戻された理由は無線の試験に受かったから帰ってこいって命令だったらしい。
で、一式陸功にのったそうです(無線技師として)
78名無し三等兵:02/07/05 01:01 ID:qh7QsF4+
誤解があったらいけないようですので
とりあえず書いときます。
じーさんは支那に対してスパイ(便衣)をやってたらしいのです。
(逆賊ではありませんので)
前の書き込みではどっちの便衣かわからないような書き込みに
なってしまったスマソ。
7978:02/07/05 01:03 ID:qh7QsF4+
76です
名前書き込み忘れました。すみません。
80名無し三等兵:02/07/05 19:11 ID:HrgNmHFg
友達のじいちゃんは軍医、
で海南島に詰めて終戦まで豚を追う毎日
帰ってきても「いや~、美味い戦争やった」
……冗談かと思ったが本当らしい
81名無し三等兵:02/07/05 19:27 ID:hAYYBjfF
父方の祖父は開戦時既に40歳過ぎてたので徴兵はされず。母方の祖父は徴兵直後に
ガダルカナル島で戦死。
父は大戦末期に学徒兵として土浦で衛生兵の訓練を受け、京都人なのに納豆好きに
なって帰ってきた。戦争があと半年長引いてたら父も戦死してたかもしれず、そう
なってたら俺もこの世にはいないんだなあ……
82名無し三等兵:02/07/05 19:29 ID:hAYYBjfF
友達のじいちゃんは満州に渡って仕事をしていたそうだが、字があまりにも
上手いのでスパイと間違えられたそうだ。なんで字が上手いとスパイという
ことになるかはよく分からないらしい。
83名無し三等兵:02/07/05 19:30 ID:i1H5gfQS
どこぞの工兵だったそうな(任地は内地のどこかだが詳しく教えてくれなかったらしい)
土木作業を延々やってたらしいが突然の土砂崩れで生き埋めに。

十五人が下敷きになったらしいがじっちゃんだけが助けられて帰ってきたそうな。

そんなじっちゃんは自分が生まれる年に死去。
ばあちゃんは神戸と姫路の空襲が田舎の山奥からもよくみえたとか。
閃光弾がそれはきれいで山の向こうであかあかと光と陰が踊っていたと。

小学校の先生だったんだがそこにも士官が配属されてきて教練やってたらしい。
で、しょっちゅうばあさんの前まで「わざわざ」やってきては自分の部下を殴り飛ばしていたらしい(w
84   :02/07/05 23:32 ID:???
>>82
シナ人は習字が上手いからだよ。
85名無し三等兵:02/07/05 23:33 ID:???
じーこの戦争はこれからだ
86名無し三等兵:02/07/05 23:48 ID:???
俺のじいさんは九竜(だっけか?)に乗ってて、
大和が沈む様をその目で見ていたらしい。

話聞いたのだいぶ前だから船の名前を忘れちまった・・・。
お盆帰ったらまた詳しく聞かせてもらお。
87松宮長官:02/07/06 00:34 ID:MtlezVPV
父方→シベリア帰り。でも、当時の話は家族にもしません。
母方→足柄乗組み。靖国行き。五十回忌には足柄行進曲を墓前で歌って
やりました。ただし、俺だけ。
88名無し三等兵:02/07/06 01:06 ID:4r8koTOd
大叔母っていうのかな?祖母の姉になる人から聞いた話で、とてもローカルな話題です。
神奈川県の逗子市に披露山という山があります。頂上は公園になっています。
今はどんな風になっているか、しばらく行ってないのでわかりませんが、猿山や展望台
の基礎になっている円形のコンクリート部分が高射砲陣地の跡です。
売店のところが指揮所で、対空機銃があったんだそうです。

終戦間際に艦載機のコルセアが単機で機銃掃射をしにきて、指揮所の対空機銃と一騎
打ちの形になったんだそうです。
ずいぶん前ですが、公園の入り口で、これがそうだよと指差されて、よく見るとそのときの
銃撃の跡が岩肌の窪みとして残っているが見て取れました。

結局、コルセアは撃墜されて、海に墜落したということですが、機銃を撃っていた若い兵
士も相打ちで12.7mm機銃をうけて、即死だったそうです。
死体の破損がひどくて、手足がちぎれ、とてもむごたらしい状態だったと言ってました。

なんで、大叔母は看護婦でしたが、なんで高射砲陣地に居たのかは聞き漏らしましたが、唯一の戦闘
89名無し三等兵:02/07/06 01:36 ID:LlnHir2E
軍事板の怪奇現象のひとつに住人数100人前後なのに
この手のスレが何度も何度も建ち
「私の祖父は・・・」の口調で始まる文が
もう明かに300人分くらいあることが数えられる。
怪奇現象と前述したがこれは怪奇は怪奇でも未知に対する
畏怖を表したものでは無く、仕組みは簡単で同じ人物が
何度も何度も思い付いては書いているだけなのであるが・・・
怪奇なのは誰もそれを指摘しないという状況である。
これに対しての明確な理由は判明していないが
恐らく暗黙の了解や通念と言った類のある種の「秩序」なのかもしれない。
90名無し三等兵:02/07/06 01:48 ID:NEkAhzxx
うちのじいさん(3年前に死去)は、軍医付の衛生兵だったそうです。
石屋やってて力も強かったのに、背が低いっていう理由だけで衛生兵。
当時、一兵卒は知らなかったジュネーブ条約も軍医殿に教えてもらったそうです。
それで、フィリピンで軍医殿と一緒に投降。
収容所の飯はうまかったそうです。
91j:02/07/06 01:57 ID:vbIEKizB
じい様は満州で顎とすねを撃たれたそうなこの前
葬式で火葬の後弾が二つ出てきた
父さんはかなり言ってた
そんなとーさんは満州から逃げる直前に生まれたらしい
9288:02/07/06 02:07 ID:4r8koTOd
>>89
漏れはこの板の住民ではなく、とおりすがりに書き込んだだけだよ。
軍板に書くのは初めてだし、最後のほうは修正中に送信しちまった。

あんたの指摘は正しいのかもしれんが、なんでもかんでもつくりごと
と決め付けるのはどーかな。
93名無し三等兵:02/07/06 02:24 ID:???
>>88
ところでコルセアって20mm機関砲じゃなかったっけ?
94名無し三等兵:02/07/06 02:32 ID:???
うちのじいさんは38式歩兵銃でコルセアを8機落したそうです
95名無し三等兵:02/07/06 02:33 ID:Y6dNBHWv
>>93
12.7mmを6丁です。20mmを4丁のは戦後の戦闘爆撃機のタイプです。
96F4U:02/07/06 02:35 ID:+zkLcGh1
>93
F4Uは基本的には12.7㎜×6丁
C型のみ20㎜×4丁です。
97 :02/07/06 02:35 ID:pBcjUTAj
http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b24900076

これって買う価値ありますか?
買った人います?
秘蔵映像満載らしいのですがそれは本当なのですか?
98名無し三等兵:02/07/06 06:01 ID:/1IbC7GM
じいちゃんは大正2年生まれで、志願で陸軍に入隊(甲府の四十九連隊)、
仙台の教導学校出て、226の後満州に行って、途中で四十九と離れて、終戦時
は南京にいて、レイテに行かなくてすんだそうだよ。実戦は満州で「ロスケ(絶対
ロシアって言わない)の河用砲艦三隻と連隊砲で撃ち合って、一隻は沈めてやった」
なんて言ってた(w非常~に疑わしい(w
あと、「じいちゃんは中尉だったぞ」って言うが、20年元旦の写真にしっかりと
曹長の階級章付けて写っているの見て、苦(w実際はポツダム准尉だったそうで・・・
99名無し三等兵:02/07/06 06:12 ID:???
>>98
ビッグマウス・グランパ萌えw
ポツダム准尉ってどういうのなんですか?教えていただけるとコレ幸い。
100検索ぐらいしろよ:02/07/06 07:36 ID:???
>>99
www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/dictio/d3hagyou.html
ポツダム進級の項参照
101名無し三等兵:02/07/06 17:54 ID:EShzEqFq
>>99
は~・・・
お前には戦時中の体験聞けるじいちゃんいないんだろうな。
リアル厨房か工房のじいちゃんだと、徴兵検査も受けてないだろうからな。
102名無し三等兵:02/07/06 19:47 ID:???
>>97

おめーチョコ戦車スレでも同じこと聞いて、書評スレに逝けって
言われたじゃん。激しくスレ違い。シュピーン者の宣伝じゃないの?
103名無し三等兵:02/07/06 20:39 ID:???
俺のおじいさんは大陸へ行ってた、無線関係の仕事をしてたみたいだ(詳しくは
知らない、色々聞く前に癌で死んでしまった・・)
防寒帽、防寒外套着たおじいさんの写真が俺の宝物!歩兵第六連隊所属!
兵長だった・・・
104名無し三等兵 :02/07/06 21:33 ID:???
 じいちゃんじゃなくて、漏れの親父だが、戦争中は陸軍幼年学校に
行っていた。戦争が終わって半世紀以上たつのに、いまだに当時の
教官を「教官殿」と呼んで、尊敬している。大陸の激戦を生き抜いて
きた叩き上げの下士官だったらしい。
 今でも年に1回、もう70歳を過ぎた教え子たちが80歳を過ぎた
教官殿を囲む会をやってるよ。
 東京大空襲の焼け跡とか地獄も見ているので、あまり口には出さない
けど、戦争体験のない若い軍ヲタを好ましく思っていないらしい。

 でも、親父が何かというと戦争中の苦労話をしたんで、その影響で
漏れは軍ヲタになっちゃったんですけど。
105名無し三等兵:02/07/08 03:04 ID:jH1BNKXS
うちのじいちゃん(ばあちゃんも)から聞いたこと
満州にいた
トラックの運転手をやっていた
仲間の救出のための突撃一歩手前で休戦になった(ノモンハン?)
壊れた橋をトラックで飛び越えた  ←後で、みんなで万歳したらしい
モンゴルの民族衣装を着た写真がある
戦闘機に撃たれたけど、じいちゃんだけ助かった  ←戦闘機のパイロットは笑ってたらしい
上官の命令を無視して違う道に行ったら助かった(正しい道は地雷原だっだ)
途中で憲兵になった
赤狩りに行った
満州の家の隣りは豆腐屋

ばあちゃんは看護婦
ばあちゃんは銃を3発撃ったことある
近所の人と手榴弾で魚をとった


何か嘘っぽいところもあるけど、死んじゃったから確かめ様がない。(ばあちゃんは元気)
もっと聞いとくんだったなぁ~
106名無し三等兵:02/07/08 09:48 ID:zhqiNFgM
俺の親父は昭和5年生まれで予科練で彗星の訓練やっとったと言っ
てたんですが、昭和20年5月でやっと15歳になる親父は、ほん
とにそんなことやっとったと思いますか?
健康だったので選ばれた(クラスの中で2人くらいだったそうな)ら
しいのですが。
親父、もう亡くなっちゃったので聞くに聞けません。
107名無し三等兵:02/07/08 10:59 ID:???
ふつーの歩兵だったって。
万里の長城を側面から攻撃中、弾の飛び交う中を城の上をだーっと走って
後ろに回りこんだ敵兵がいて、そいつに後ろから撃たれたんだと。
肩甲骨を後ろから撃ち抜かれてて心臓の上を通過。
そこが今でもへこんでる。で、その戦傷で後方送り。
ガキん頃風呂場で背中あらってあげてるとき
よくそのへこんだとこにタオルつっこんでグリグリしてたなぁ。
108106:02/07/08 11:01 ID:zhqiNFgM
いや・・・クラス内じゃなくて学校内で2人だったかも。
109名無し三等兵:02/07/08 11:12 ID:KmOCAlm5
 俺の爺様は戦時中、駆逐艦(艦名不明)に勤務していたら、南太平洋で腸を壊したとかで下船後送された直後に、船はあえなく撃沈されたそうな。
 ちなみに親父は当時消防で、関西にてコルセアの機銃掃射に追われ、級友の一人を挽肉にされたと言う。。。
 まことに、今の俺がいるのも、紙一重の運だったわけですな。
110名無し三等兵:02/07/09 02:19 ID:c2qlhydx
戦車の整備兵だったという話を親から聞いたことがある。
満州だったのかなぁ?
(東京在住、おそらく第一連隊)
111名無し三等兵:02/07/09 03:04 ID:z7lEpT19
ウチのじーさん一式ライターのパイロットだったらしーい
本人言わくキリモミ飛行も可能ならしいが多分ボケている
112名無し三等兵:02/07/09 03:43 ID:w2KeF+RL
うちのじいさまは陸軍少尉で満州→今なにかと話題の朝鮮半島と勤務してた
なんか小隊長やってたってさ
軍人にしては背が低いので、バカにされないために最前線で指揮を
とってたらしい‥そのせいか、防衛戦の途中に中国兵に脇腹を撃たれて
負傷→入院→帰還そのまま内地で終戦をむかえ‥まあ運がよいのか
悪いのかわからんと言ってました

あと、当時から韓国人は信用できなかったみたい‥現に負傷したときに
きた衛生兵が韓国人で担架で搬送中に軍刀をとられたとご立腹です

チョン軍刀かえせ!
113名無し三等兵:02/07/09 05:19 ID:YyWAvcnV
父方祖父→憲兵隊だったらしい。皇居で撮った写真がある。

母方祖父→軍馬をひいて輜重兵だったらしい。ビルマに行ってたそうな。終戦は内地だった。
       じいちゃんが庭木道具を入れてる箱は薬莢入れだ!

114名無し三等兵:02/07/12 04:14 ID:nMNaqavC
父方…中国で陸軍の主計中尉。
   戦闘には一回も出ていないが、ゲリラ等が出る危険な道を
   トラックで移動することもあったらしい。
   持っていた軍刀と拳銃は、終戦時に没収(軍服は今でも残っている)。
   日本には上陸用舟艇で引き上げてきたらしい。
母方…兵隊にとられるも体が弱いので、すぐに帰された。
   持ち帰った鉄兜は犬のえさを入れる容器として使っていたが、
   叔父さんが友達と何かとそれを交換しちゃって残ってない。
その嫁の祖母さん…空襲の後は地面が熱くて歩けなかった、電柱に人間の
   体の一部が引っかかっていた、肉の焼けるにおいがした、そうだ。
   敗戦時に真っ先に思ったことは「これで明日から空襲が無くなる」
ついでに友達の祖父さん…瑞鶴に乗っていて、沈められボートで命からがら脱出。
115名無し三等兵:02/07/12 08:16 ID:CcFBoVhz
母方のGちゃん、生前は近衛兵だったのが自慢だった。
その息子、つまり叔父は、近衛兵の息子のためか外地には送られず、
各務原の飛行場で三式戦のテストパイロットをしてたそうな、
テストパイロットといってもつまりは完成した機体の最終チェックだ。
ほとんんどがDNQの機体だったらしい。
116名無し三等兵:02/07/12 08:46 ID:???
>115
> つまり叔父は、近衛兵の息子のためか外地には送られず、
それはない。

> テストパイロットをしてたそうな
優秀なパイロットだった、ということでは?
117名無し三等兵:02/07/12 21:30 ID:???
みんなの家にはじーちゃんのアルバムある?
うちには「聖戦の思ひで」ってのがあるんだが。
当時久留米師団現役兵で歩兵(怖っ
中国戦線で小隊単位で撮った写真が多かった。
初めて見た時はかなり興奮したなあ。

ちなみに2回目の召集で戦死してます。
118名無し三等兵:02/07/12 23:36 ID:HEhzdGCS
おじいさんは看護兵(と申していますが衛生兵?)
詳細はわからないけど根性はすごい。
私が怪我しても、病院につれてってもらえませんでした。

老人ホーム利用者さん
その1 伍長どの。中国大陸で橋を爆破したり穴を掘ったりしたらしい。
     アルバムを見せて頂いたが悲惨の極み。中国兵の首切り写真…
その2 一般兵(下の兵隊さんです)。満州やら、中国上海から下っていったそう。
     当時の事は語りたがらず。

この辺の人たちは中国方面への出征が多かったようです。
119キムチズム ◆s7Wd5K5U :02/07/13 00:04 ID:???
祖母は既に亡くなっていて、あくまでも祖母の話ですが…。
わしの祖父は陸軍航空隊の整備士で、階級は伍長だったらしいです。
シンガポールのほうに居たらしく敗戦後捕虜になって
1・2年経って日本へ帰ってきたそうです。
捕虜とは言え、食事は結構いいものをくれたらしいです。

ちなみに祖母は過去の事あまり語りませんが・・・・
なんだかソ連を非常に嫌ってたり千島列島の話よく出したりと・・・・。
120名無し三等兵:02/07/13 00:37 ID:XEZGA2Tv
うちのじいさん、2.26事件の時、反乱軍だったらしい・・・
夜中に上官に「これから特別訓練を行う!!」ってたたき起こされて、
「ダッダッダッ」(←じいさんの口癖)と行進して都心で配置についたのだと。
しばらくしたら通りの向こう側に別の隊が来て「お前達の父と母は・・(以下略)」
それでも市街戦の訓練だと思ってずっと対峙してたらしい。
その時の上官は自決したってさ。

「下っ端は上官命令が全てだから、世間がどうなってるかなんてわからん」と
よく言ってたよ。
それが軍隊なんだなぁ・・・・・・・と怖くなった。
ちなみに存命中。長生きして下さい。
121真厨房:02/07/13 00:41 ID:???
手負いの仲間に
「足手まといになるから殺してくれ」って
言われたって話はガイシュツ?
122名無し三等兵:02/07/13 00:49 ID:XEZGA2Tv
じいさんじゃなくてお袋の話。
S20当時は一家で渋谷在住だったのだが、疎開で埼玉の与野へ。
東京大空襲の夜、2階から見た南の空(東京方面)が
夕日のように真っ赤だったのだそうだ。
当時5歳のお袋は理由がわからずに「きれいだな~」って見ていたのだが、
その当時、病気で軍を除隊していたじいさん(母の父)が
「あれは、東京が燃えているんだ」って呟いたのを
今でもはっきり覚えているとな。
想像するだけで怖い・・・・

ばあさんは戦争の話がキライ。「現代は食べ物がおいしいねぇ」と日々感慨深げだ。
123スマトラ:02/07/13 01:37 ID:SHoMUuxq
に行ってた。そこで敵に至近距離から背中、膝を撃たれ野戦病院行き。
そこで撮った仲間との写真は俺に激似だと。
戦艦大和が迎えに来て帰る予定だったが大和撃沈→しばらく野戦病院でバカンス。
おととし、膝のコブを切除したら弾の破片が出てきました土佐。以上
124:02/07/13 02:50 ID:5ouTbDsE
731部隊…
125名無し三等兵:02/07/13 03:07 ID:???
士官学校にいってて実戦経験無いらしいんですけど
戦争末期でもちゃんと教育してたんですか?
126匿名:02/07/13 03:18 ID:4SWZ5SRO
私の祖父はドイツ人だった。彼は戦前、エジプトの遺跡調査隊で、そこでユダヤ人の女性と出逢った。彼女も調査隊で日々を共に過ごす中で恋愛感情が生まれたそうだ(この時既に祖母は病死していた)
やがて戦争が始り祖父と彼女はドイツに帰国した。ユダヤ人の彼女は収容所に、そして祖父はSDに配属された。
ある日エジプトにいる親ナチのスパイから情報が入った。
「エジプトでローズベルトとチャーチルが極秘会談を行う」と。
ヒムラ―は全力を挙げ情報収集に乗り出した。勿論全ては極秘の内に。
会談の場はメナハウスホテル。そして正式な日時も判明した。
祖父の推測だが、現地スパイを利用してたとの事。
そしてある日、祖父はヒムラ―とある倉庫に出かけたそうだ。
127匿名:02/07/13 03:30 ID:v2dl6YaJ
そこには米軍の輸送機があった。前面が真っ黒に塗られ、全てのマークは消されていたらしい。
そしてそこにはユダヤ人の彼女と数名の兵士がいた。
そしてヒムラーから言い渡された事、それはエジプトに潜入しローズベルトの暗殺。
米軍の軍服と偽造した身分証明、米軍の拳銃が渡された。
彼女は行かせたくないと反対したら、コノ作戦に従事しなければ彼女は処刑の運命だという。
祖父は彼女を守る為に作戦に参加する事にした。
祖父と彼女も含め勿論英語は話せた。<中略>そしてある嵐の晩いよいよ出撃の時が来た。
全ては極秘だったせいか飛行中は幾度も自軍の砲撃を受けたらしい。
無事エジプトに着いたが、途中で別行動してた他の仲間は身元がバレテ連行された。
128名無し三等兵:02/07/13 04:36 ID:???
うちの曾じいちゃん、陸軍のヒコーキ乗りだったそうな。
結構最初からヒコーキに関わっていたらしく、実家の方には複葉機の写真もある。
で、百式司偵とか言うヒコーキのテストパイロットとかやってたらしい。
戦後、ヒコーキの会社をやろうと仲間集め&お金とか集めてたんだけど、
フィリピン沖で撃墜されて戦死した。

そん時の階級が中佐で、死んだから特進して大佐。
漏れリアル厨房時代、死んだら二階級特進だと思ってたからちょと驚いた。
129名無し三等兵:02/07/17 18:46 ID:???
海軍陸戦隊。マラリアにかかりながらも敵を攻撃する為に
鉄砲持って海に潜った。それしか聞いてない。
130名無し三等兵:02/07/17 18:59 ID:HlKkm/L/
http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1026877456/l50

腐ったサヨク共
鬼畜米英の本性をこのスレで学べ
131名無し三等兵:02/07/17 20:16 ID:mN8LaxGx
開戦の時、Gさんは6才か7才。もっとも日露戦争だが。
親父はニューギニアで高射砲部隊、本人は軍曹だといっているが
多分ポツダム軍曹。戦場では伍長なんじゃないかな。
女房の親父は台湾で少尉。敗戦後も暫く、残って残務整理をしていたようだ。
俺がパソコンを持たせたのだが、ここに来て書き込みをするまでには至ってない。
書き込みをすれば面白いんだがな。
132眼鏡man:02/07/17 20:19 ID:65/UeELu
 まったく。最近の左翼共はすーぐ
「うよくだぁ」とかいいやがるから・・・。
先人の苦労を知るべきだ。
133名無し三等兵:02/07/17 21:19 ID:???
>132
はげどー「うよくだぁ」とかいうやつが
「ぶさよだぁ」とばかにされてることにきづいてないよね
1341971産まれ♀:02/07/17 21:25 ID:???
爺さんのことは何も知らない。
爺さんは自分が産まれるずっと前に死んだ。お婆ちゃんも多くは語らない。
ただ、シベリアの「イルクーツク」というところから手紙が来たこと、最後は「たいせと」
(タイシェット)で死んだということしか知らない。どこのどんな部隊にいたとか、そういう
具体的な話は何一つ教えてくれないまま、ばあちゃんもボケてしまってもう話は聞けない。
知っているはずの父はアル中でもう心が壊れかけててやっぱり何も教えてくれない。

「おじいちゃんが生きててくれたらお父さんもこんな人生を歩まずにすんだかも」
おばあちゃんが呟いた言葉が忘れられない。

想い出を語れる皆様が羨ましいです。
135SSスレッド1:02/07/17 22:18 ID:1vp0XLax
>>134
戦争に負けることと、人生に負けることとは違います。
お父さんのことは同情申し上げますが、
お爺さんは死してもなおあなた方のことをお考えになっているのではないでしょうか。

かくいう自分の父も、海軍陸戦隊、高射砲連隊に所属する父を持っておりながら
「日本はアメリカに負けて良かったんだ」
などという祖父の死を侮辱するがごとき言葉を吐いたことがあります。
(我が父ながら殴り倒してやりたいと今思いますし、絶縁状態ですが)

周囲がどうあれ、祖父達の死を無駄にしない為には、
現代の自分の人生を大切にし、祖父達が愛した郷土を自分達も愛することです。
しかし決して偏った観念を持つ必要はありません。
今の人生を大切にし、決してあきらめず、今の環境を精一杯生きること。
それをあなたのお爺さんも望まれているはずです。
どうか周囲に負けずご自愛してください。

(自分の祖父はフィリピンにて米軍の反攻を押しとどめ、退却する味方を援護するべく現地に押し留まり、戦死しました。)


136名無し三等兵:02/07/17 22:34 ID:HLuS0JwZ
「日本はアメリカに負けて良かったんだ」
そう言うからにはそう思うに足る事があるのでしょう。
何も考えていない最近の若者が言うならまだしも、
戦争時代を目撃してきた人の言葉を否定してしまうのは
よろしくないと思われます。
137SSスレッド1:02/07/17 22:43 ID:1vp0XLax
>>136
家の親父は戦後生まれです。
138マジレス:02/07/17 22:50 ID:???
俺の爺さん二人とも戦争で死んだから話は聞けねーよ。
139SSスレッド1:02/07/17 23:09 ID:???
>>138
えーと所属部隊が解ったら色々解ると思いますよ。

たとえば自分の場合、調べた結果ですが
最後まで残る部隊となって無電を最後に全滅したということです。

連隊に生き残りの人がいるかも知れません。
遺族の調査が新事実を掘り起こしたっていうこともありますからね。
もしかしたら、おじいちゃん達が記録によって何かを語りかけてくれるかも知れませんよ( ´∀`)
140眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/07/17 23:24 ID:???
爺ちゃんの話は前に書いた。

婆ちゃんの弟は、軍人じゃない。
神戸銀行の銀行員だったけど、なまじ中国語とロシア語が堪能だったので、
徴用されて軍属に…。
そのまま中国に行って、特務機関で間諜として働いてたらしい。
で、バレたのかそのまま行方不明に…。

残された奥さんは家を出、婆様の母親に一人息子は預けられたが、思い切り
貧乏で、生活費にも事欠く有り様。
婆さんが曾祖母に色々邪魔されながら、生活費を送っていたそうだ。
軍人なら恩給とかが付くんだが、軍属はなぁ…。
141名無し三等兵:02/07/18 00:09 ID:???
>「日本はアメリカに負けて良かったんだ」
これは戦争体験者もよく言いますね。はっきりと肯定・否定に別れますが。
東条英機の悪口は皆お約束。

なんか関東軍の人いないね。さすがにチャンコロ殺しまくったよ、とか
言ってたなんてこのスレに書けないよな。ウチの爺さん実は・・・やっぱやめた。
142SSスレッド1:02/07/18 00:15 ID:???
軍人恩給が出るって言っても微々たるもの
家のばあちゃん、今にも崩れそうな県営住宅で細々暮らしてる。
戦後は本当に苦労したそうだ。
進駐軍のメイドになったり・・。

そんなにめにあっても弱音を吐いているのは見たことがない。
大正生まれってたいしたもんだなあと感じるよ。
それと共に死んだ軍人の遺族を追い込む日本社会ってなんなのかなあとも感じる。
遺族にとっての名誉ってあるはずなんだけど・・
143名無し三等兵:02/07/18 00:41 ID:TxYnfoID
新参者です。
何という良スレ!

以前書いた、という人もコピペでいいので再掲お願いします。
うちのじーちゃんもとっくの昔に鬼籍で話は聴けません。

父は熊本在住でガキの頃、長崎のキノコ雲を見た、ということです。
14422歳台某:02/07/18 01:06 ID:???
じいちゃんばあちゃん4人とも元気だが、戦争の参加者はいない
母方のじいちゃんは病弱だったので徴兵回避
母方のばあちゃんは当時教師で、戦争末期に、物資が無くて
木で作られた戦闘機が墜落するの見たって力説してる。ホントなのかな
145T.R ◆OB0.UQBo :02/07/18 01:13 ID:+ZwF8Y5r
俺の母方の伯父は、陸軍少尉だったそうです。
「日本刀で首を切ったら、最初に脂が浮いて、それから血がにじみ出てくる」
とボソッと言ったのを一度だけ聞いたことがあります。

俺の父方の祖父の弟は、憲兵大佐だったそうです。
「わしゃ、蒋介石とマージャン打ったんじゃ」
と酔っ払う度に話してくれました。

父方の伯父は海軍で駆逐艦乗りだったそうです。
「南方でサメを釣ったら、駆逐艦が揺れた」
と話していたそうです(これは父からの伝聞)。

皆さん、俺が厨房の頃にはすでに鬼籍に入り、俺がそれらの話の凄さを理解
した頃には...。・゚゚・(>_<)・゚゚・。
146名無し三等兵:02/07/18 07:55 ID:???
>>145
お、南京大虐殺の張本人か?
147SSスレッド1:02/07/18 11:25 ID:???
>>146
時代によっても、軍によっても、所属した部隊によっても価値観が違いますから、個人攻撃は良くありません。
極限まで張りつめた神経、人格を変えられるまで埋め込まれるストレス、人間性を否定される任務。
そういった中で自己を
「自分だけは大丈夫だ!」
など言える人がいたら神です。

146さんの祖父弟さんのご冥福を心より祈ります。


148大艦巨砲主義:02/07/18 12:01 ID:???
うちの母方の爺ちゃんたしか大発艇に乗ったとか。
詳しく知らないので今度か帰った時に聞いて見よう。
たしか暗号練習でラムネ飲みたいとか入れて皆で笑ったとかって聞いた。
149杉浦 日向子:02/07/18 12:25 ID:8afYSJTD
 自慢なら〔藁
母方の祖父は、日露戦役で、工兵として参戦。金鵄勲章を得たそうだ。
部隊でもわずかな人数の授与だったとか。

 オヤジの兄弟は、ノモンハンでBTの大群来るの本部への伝令で、後に
金鵄勲章を授与とか、中国戦役でもらったとか有り難味のないようにもら
っていた。
オヤジは、航空士官学校から調布に配属、飛行機無くなりました〔藁
いわゆるポツダム少尉(藁

 あと、コレヒドール戦の前に内地に戻るとか霞ヶ浦航空隊にとか
で、親戚一同一人も戦死していない要領がイイ家系だが〔大藁
150  :02/07/18 13:22 ID:???
俺の父方の祖父は満州はハルピンで警察官をしてたらしい
軍人ではないのだが匪賊だか馬賊を射殺したことがあるらしい
151名無し三等兵:02/07/18 14:13 ID:m/9WydH+
>>146
南京事件があったと洗脳されている人ですか?
152T.R ◆OB0.UQBo :02/07/18 16:15 ID:OZwtGuA2
忘れてた。

昔、俺が入院してたとき、同室の患者さんはインパールの生き残りだった。

『俺はトラックでの輸送部隊だったから生き延びたけど。
 ひどいもんだった。白骨がごろごろ転がってたよ』

さて、インパールにトラック部隊があったなんて知らなかったのだが。
この人の話、事実かどうか、今でも知りたいものだと思ってます。

別の患者さんは、中国戦線で戦ってたらしい。

『強姦なんかやった奴はみんな殺された。
 金でも物でも良い。ちょっと置いてくれば、何ともなかった。
 俺は軍票を置いてきたけど、やっぱり大丈夫だったな』

さて、この話、事実だとしたらかなりおもしろいと思うのですが。
153名無し三等兵:02/07/18 16:51 ID:???
>>152
あったと思うよ…。
ソースを思い出せないんだが、第15軍には、
いくらか自動車化補給中隊があり、
かつ作戦前にも多少は増強されていたはず。
もっともごくごく少数で、道なき道の山岳地帯。
ほとんど役に立たんかったろうな。
154名無し三等兵:02/07/18 16:55 ID:m/9WydH+
>>152
読解力無いのかな・・・。

> 『強姦なんかやった奴はみんな殺された。

これって強姦した日本兵が誰に殺されたの?
155名無し三等兵:02/07/18 17:19 ID:???
祖父は戦艦に乗ってて東シナ海で戦死。
遺書はブルネイ泊地から送られてきたものがあったが、出撃間近
のものはなかった。
祖母の妹の夫に後は頼むと言って家を出たらしい。

妹の主人は海軍の人事関係だったらしく、祖父の戦死後
特攻を知っていたのに乗組みを阻止できなかったのかと責められたらしい。

156T.R ◆OB0.UQBo :02/07/18 17:22 ID:1/H1olUI
>>154

当然、そのことは聞きました。で、書き込んでませんでした。ごめんなさいm(__)m

『そこら辺の兄ちゃんとかおばさんとかが、帰り道に、鎌で首切るんだよ。
 怖いぞ~、誰が敵か、わかんねえんだから。
 何人も、そうやって首切られたな』

だそうです。
ほんとかどうかはわかりませんが、その表情や声に、異様なまでの説得力があ
りました。それ以上を問いただす根性は、ありませんでした。
157名無し三等兵:02/07/18 17:34 ID:m/9WydH+
>>156
ありがとうございます。

そうですか。
殺された兵士は自業自得なのかも知れないけど、
対価を払えば襲われない、というのも利に賢い彼ららしいな、と思いました。
158SSスレッド1:02/07/18 18:05 ID:???
ここで俺らがこうやってじーさん達の戦いを語り継ぐことは、供養になっているような気ぃする。
おい!お前ら!共に子、孫まで伝えような!
159機甲自転車:02/07/18 18:06 ID:???
>>153
山砲みたいに分解して運んでる映像を
見た事があります。代わりに大量の牛に運ばせ
随時、解体食料にする一挙両得!って画策したけど
牛が河でおぼれてお終い
160名無し三等兵:02/07/18 18:10 ID:???
父方のじーちゃんはすでに他界しちまってるが、水雷艇で沿岸警備してたらしい。

母方のじーちゃんは未だに交通警備員などを趣味でやるくらい健在だが、
太ももにはまだ南方で食らった銃弾の傷跡が残っている。

今のうちに母方のじーちゃんの話を聞いとくか・・・。
161名無し三等兵:02/07/18 18:12 ID:6ZCGDFf/
百式指令偵察機に乗ってたらしいが詳細はわからない、まだ元気だけど
162名無し三等兵:02/07/18 18:12 ID:I6plFQOw
>>159
NHKの「ドキュメント太平洋戦争 インパール 責任なき戦場」だね。
角川から文庫で出てる。8月15日が近づいてるんで最近また書店に並んでる。
163一号海防艦:02/07/18 18:14 ID:???
上海で戦争してたらしい。軽機関銃を扱っていたらしい。軍隊手帳にのってた。
164名無し三等兵:02/07/18 18:14 ID:I6plFQOw
>>155
東シナ海で戦艦てことは金剛に乗っておられたのかな?
165:02/07/18 18:29 ID:4MURq8He
父方の祖父は数学が得意で中国大陸で通信兵をやっていた際味方の暗号解読に大活躍だったとか
ウチの家系は代々数学だ得意だったとか
まぁ俺は文系君なんだけどね
ついでに身長が175cm近くで当時としてはかなり大柄で軍服や軍靴は新品を支給されたとかも聞いたな

母方の祖父は満州事変の時弾丸が首をかすったらしく比較的早期に復員
その後は首の傷を理由に戦場には出なかったらしい

どっちもあんまり修羅場はくぐってなさそう
166名無し三等兵:02/07/18 18:41 ID:nT8rgThW
>>158

司馬遼太郎氏が自分がぞくする戦友会が建立する記念碑の文章
をたのまれて「(前略)事の是非を越えて、事実は事実としてかたりつ
がれるべきであるからして、残された我らはここに集いて記念
に(後略)」とかいたらしい(不正確ですまん)。おれはこれの
「事の是非をこえて」というところが非常に好きだ。というわけなので
ここにいる人間だけでもいいことも悪いこともきちんと語り継ご
うじゃないの。
167杉浦 日向子:02/07/18 18:46 ID:7s661UJu
 東京大空襲の前は、調布じゃ飛べる飛行機なかったとか。
3月10日は、調布に降雪あり。とオヤジが主張するが、被災
された場所じや雪なんて降ってねぇぞと各方面の年寄りから言
われた。(藁

 新司偵のⅢ型は、カッコええが、九州に本体移ったんだっけ。
168名無し三等兵:02/07/18 18:56 ID:???
俺のじぃは内地で警察官(憲兵?)をやっていて、
甲府大空襲の時に韮崎~甲府(19㌔)間を下駄で1時間で走りぬいて
被災民を先導していたらしい。
169名無し三等兵:02/07/18 19:08 ID:nzm7foiZ
うちのじーちゃんは台湾でマターリしてたらしい
170名無し三等兵:02/07/18 20:19 ID:???
漏れのばあちゃんの思い人は扶桑で死んだそうだ
171名無し三等兵:02/07/18 21:28 ID:CMnagwvH
俺の祖父は省線勤務だったから赤紙がこなかったそうだが
曽祖父は日露戦役のとき最終階級は大尉。
203高地攻略戦でマキシム機関銃を太腿に食らってそのまま除隊。
そのときの勲功で青山墓地にお墓をもらった。
ついでに祖父の従兄弟が陸軍でレイテ戦にて戦死。
その人の墓も青山にあって祖父は毎年欠かさず
我が家の墓に行く前にそちらにお参りにいった。
1721971産まれ♀:02/07/18 21:29 ID:???
>>134です。SSスレッド1様、ありがとうございました。貴方の書き込みを拝見して
少し泣きました。そしてこの板の他のスレを見て勇気が少し出ました。
祖母も父も前述のような状態ですが、だからこそ、自分が覚えていてあげなければ
祖父のことを誰も覚えていない状態になってしまうかも、と思いました。
母によれば、幸い、祖母はときおりふと正気に戻る時があるそうです。お盆に帰省した
ときにもし聞けたらいろいろ聞いてみたいと思います。そしていつか、今は空っぽの
祖父の墓に、遺骨とまではいかなくても何か形見の品を祖母と一緒に埋めてあげたいと
思います。
173名無し三等兵:02/07/18 21:36 ID:+7nwYV3Z
うちのじいはインパールの生き残り!!
「帰ってきたら一度は捨てた命だ!」と好き勝手やって家族の冷たい視線
にあってましたが、決して細かい戦場でのディテールは話さなかったとこ
みると相当辛い思いはしてたようです。
174眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/07/18 21:51 ID:???
自分が他スレで書いたもののほぼコピペで、しかも爺ちゃんでなくてスマソ…。

うちの曾祖父は学校卒業後満鉄に就職し、結婚後は日本郵船に転職しました。
戦前は外国航路の客船・貨客船に乗り組んでいた船医だったそうです。
1920年代にはドイツ航路でハンブルクに寄港した際、スペイン風邪が流行っていたので、
ボランティアで検診を買って出て、市民から感謝されたらしい。

戦時中は乗る船もなくなり、年が年(60近く)だったので、子会社の近海郵船に出向 となり、
上海~長崎の路線を結んでいた数少ない民間船、長崎丸に乗り組んでいました。
開戦半年後の1942年5月13日14時、長崎丸は上海からの帰途、哨戒艦と接触するために
長崎港外伊王島北方で、航路を誤って自軍の敷設した機雷に触雷し、僅か8分後に沈没しました。

この時、死者13名行方不明26名を出しました。
(なお報道当初は死者14名でした。曾祖父が死者の列に寝かされていた
 そうです。検死に来た知り合いの医者が、頸部に手を当ててみると微か
 に息があることが判って、慌てて病院に送り、一命を取り留めたそうです。)
まだ戦勝の余韻のあるとき、その時に起こした事故だったので大きく報道され
ました。

この時操舵を指揮していた船長は救出されましたが、貴重な船舶を失った上、
生き残った船長に対する風当たりは強く、一週間後に東亞海運長崎支社屋上で
壮絶な割腹自殺を遂げました。

ただ、祖父は曾祖父から話を聞いていたそうで、 「あれは人災。誤った海図を渡
した海軍が悪い」 と終生宣っておりました。
ちなみに、この曾祖父、結構贅沢者だったので敗戦後の栄養失調に耐えきれず、
結核を患って1946年にあの世に行きました。
で、墓には何故か眼鏡しか入ってないそうです。
175名無し三等兵:02/07/18 22:29 ID:???
俺の母方のじっちゃんは熊本に住んでるんだけど、
戦争に借り出されて戦ってたみたいだけれども、
急に恐ろしくなって走って逃げ出したそうだ。
まぁ、そんなじっちゃんがいてもおかしくはないだろう。

近くに自転車屋があって、自転車直すのがじじいで
片手はフック船長みたいになってるよ。
どやら戦争でやられたみたいだ。器用に片手のフックを
使って自転車のパンクを直すよ。
176SSスレッド1:02/07/19 00:08 ID:???
>>172
なんか書き込みに元気が無かったので心配していましたが、少しは元気が出ているようで安心しました。
色々大変なことはありますが頑張ろうねー( ´∀`)
177名無し三等兵:02/07/19 11:42 ID:YV/I/gnI
大正8年生まれのジーさんは昭和15年に召集され陸軍に入隊しました。
その後『独立飛行師団司令部』なる部署に配属になったそうで
役どころは航空機関士?で搭乗員&陸上整備員だったそうです。
開戦前(昭和16年秋頃)に北千島(たぶんカムチャッカ半島のチョイ南?)
に移動し越冬したそうです。 
ジーさんの戦時中の話の半分以上は食べ物(食事)の話で、やはり食料事情は
良くなかったみたいですね、今でも食事には口うるさい(イヤシイ)ジーさん
です。 当島ではシャケ(メートル級のでかいヤツ)が産卵に河を上ってくる
そうで、しかもその河は遠浅で手ずかみでいくらでもシャケを捕獲できたそうです。
卵(イクラ)だけ取って身は全部捨てイクラだけ食ったそうです。
その食べ方ですが、飯盒にワラを敷きその上に魚卵を置いて塩をふり数日待つと
納豆の様に発酵して最高に美味かったそうです。
先日『どっちの料理ショー』でイクラ丼をやっていたのを家族で見ていたのですが
ジーさんがこの話を持ち出して『こんなのたいしたこと無い』と悦に言って
おりました。 冬になると何メートルも雪が積もるので飛行がないのであまり仕事
がなかったそうです、越冬用の食料は飛行場の中央に山ずみし四方を実包を装填した
兵隊が24時間体制で哨戒にあたっていたそうです。 敵より食料泥棒の方が心配だった
らしいですね、食料泥棒は即射殺とゆう掟だったそうです。
当番制で雪道を通って食料を取りに行ってそうで、2人一組で前後になりテンビン棒形式
で運搬したそうです。 ジーさんはかならず後ろの係りになってつまみ食いをした
そうです。 その他ツンドラ地帯に不時着した話や沖縄戦、飛行機会社からの新機
受領の話やら終戦間際のB29迎撃用の試作機の話などあるのですが長くなりますので
このへんで・・・ 

178SSスレッド1:02/07/19 12:22 ID:???
後一ヶ月足らずでお盆だが、みんなはどうすんの?やっぱ墓参りにいく?
漏れはじーさんの墓、瀬戸内海なので逝けない(泣、今東京)
そのかわり九段逝くけど。

というかここにいる連中とオフやったら酒旨そうだな
179WF:02/07/19 12:26 ID:???
うちの祖父、海軍陸戦隊。
トラック諸島に行ったそうな。
物がなくてネズミをくったそうな。
マラリアにやられながらも鉄砲もって敵を襲いに行ったと。
 復員率は低かったそうです。
 
 戦後はビルマのミートキーナで長男が戦死した家の婿養子となり
必死に働いて定年の2年後、肝臓ガンと糖尿病を併発して14年前に死去。
 69歳。でも祖母は今年93歳でピンピンしてる。
 祖母曰く、「弟は若くに死んでしまって・・・月五万の恩給も私が死んだら
無くなる・・・」だそうです。彼女は終戦時40超えていたかとと思うとすごいな・・・
180一号海防艦:02/07/19 13:40 ID:???
じいちゃんのこと書いたから
ついでにうちの父ちゃん、昭和三年生まれ
昭和20年9月に陸士に入学予定だったらしい。(年あわないジャンと思ったが
繰り上げだったらしい)本人いわく「あと半年戦争続いていたら俺はこの世に
いなかっただろう」と話していた。子供心にすごいなと思っていたが、
最近酒飲んでいたら、「あと半年戦争が続いていたら、戦後どこの大学でも
入れたんや」と言っていた。
おいおいと思ったが、戦後学歴で苦労して人だからしょうがないと考え直した。

瞬間、「 戦 争 続 い て 死 ん ど っ た ら、 
  
     俺 ど ー な る の よ」
181名無し三等兵:02/07/19 16:45 ID:RsD0Hn8Y
>177つづき・・・不時着編
そもそもジーさんの所属していた『独立飛行師団司令部』の主な任務は、軍の作戦参謀
などのエライさんを飛行機に乗せて前線に送り届けたり(その逆もアリ)するのが主な
任務だったそうです。 昭和17年の初夏に北千島から満州方面に参謀を送り届けることになり
3座の単発機で出発したそうです。 大変肥満した参謀だったらしく搭乗させるのに一苦労
したそうです(機体が狭いと相当ブツブツ文句を言ったそうでなだめすかして押し込んだ
との事)、前席に操縦者、中央席に参謀、後席にじーさんの順で飛び立ったそうです。
中国大陸にさしかかる手前で参謀がパイロットに国境線(ソ連との)ギリギリに飛ぶ様に指示
したので少し進路を変えたそうです、ジーさんは『めんどくさい事を言いやがる』と思いながら
パイロットの指示を受けないで勝手に基地に変進の打電をしたそうでこれが後になって
ジーさんの命を救ったそうです。 中国大陸にさしかかってすぐに発動機が不調になり排気管から
火の粉を『バスッ、バスッ』と吐き出し始めたそうです。すぐさま不時着を決意したパイロットは
その旨を参謀&ジーさんに伝えました、ジーさんもそれを受け発進基地に即打電したそうです。
この時ほど早く正確にキーをたたいた事はなかったそうです。
以下つづく・・・・
182名無し三等兵:02/07/19 17:11 ID:RsD0Hn8Y
>>181つづき
高度1500m(ジーさんの感)から下を覗くと一面枯れた草原の様に見えたそうで
ジーさんはひょっとすると上手く不時着出来そうだな、と思ったそうでパイロットも
同様に感じたらしくその旨を参謀に伝えた所完全に『ブルッテ』いたのか蚊の鳴くような
声で返事をしていたそうです。 パイロットはエンジンの出力があるうちに着陸態勢にはいる
旨を伝えるとグングン高度を下げて行ったそうでジーさんは参謀にベルトの確認と前座に頭を
打ちつけない様両足の間に頭をいれる様指示したそうです。 いよいよ着陸態勢にはって
車輪が接地し何バウンドかした後滑走状態になったそうです。その時は『ヤレヤレ』
助かったと思ったそうですが速度が落ちてき始めたその時いきなり機体に急ブレーキ
がかかり体が思いっきり前にほうり出されそうになった瞬間!ものすごい音と衝撃と共に
目の前が真っ暗になったそうです。
以下つづく・・・


183名無し三等兵:02/07/19 17:45 ID:RsD0Hn8Y
>183つづき
どれくらい気絶していたかは分らなかったそうですが、顔中がドクドクと脈打っていて
眼球や耳が痛くて気がついたそうです、機体もろともさかさまにひっくり返っていたそうで
外に這い出そうともがいていたらベルトをしている事に気が付きそれをはずすと風防の天井に
『ドッサ』と頭から落ちたそうです。 幸いジーさんは後席のっていた為なんとか這い出す
事が出来たそうですが、外に出たとたんガソリンの臭いに気が付き恐怖(爆発)にかられ
機体から一刻もはやくのがれようと思ったらしいのですが、まったく下半身に力が入らなくて
(腰がぬけた状態)上半身だけで(ハイハイの状態)50m以上も必死ではなれたそうです。
数十分後やっと我にもどったジーさんはゆっくり機体の方に近いて(歩いて)行ったそうですが
その時なぜ機体が転覆したかが分ったそうです。 上空からは枯れた草原の様に見えていたのだが
実は蔦のような(芦かな?)植物が折り重なった湿地帯だったのだそうです。
機体の速度のあるうちはその上を車輪が滑走しているが速度が落ちて機体の重量がかかった瞬間
車輪がそれらの植物にひっかかってしまってっ『デングリ返し』になってしまったそうです。
その話を聞いて私はアッツ島で米軍に捕獲された零戦を思いだしました、寒冷地のツンドラ地帯って
同じなんですね、
爆発(出火)の危険はなさそうと感じたジーさんはパイロットと参謀の救出を始めようと
したらしいですが、パイロットはすでに即死状態(眼球が飛び出て額からは脳みそが出ていた)そうで
参謀の方はといえば逆さまの状態でまだその時点では息があったそうですがベルトの付近の腹部から
内臓(腸)がでていたそうえす。なんとか機外に運び出そう思ったそうですが
風防が地面(植物)にめりこんでいて空かずガラスを蹴破ったもののなにせ巨漢の参謀で
どーにもならなかったそうです、とりあえずはみ出した腸の中に手をつっこみベルトをはずして
頭部を上向きにしたそうです。 その後救援を待つ事になるのですがジーさんが返進を打電した
おかげで事故から数時間後には捜索機が現れ翌々日の朝には救援の陸上部隊に収容され九死に一生
をえたそうです。 
不時着編・・・・完
184名無し三等兵:02/07/19 20:28 ID:tM7yNWDD
>>183
うわー、大作ご苦労さまです!
参謀様は当然、お亡くなりになったのですよね。

人間って簡単に死ねないんですね・・・。
ドンナニイタカッタダロウカ。
185 :02/07/19 20:44 ID:???
仙台第二陸軍病院 教育隊二班に所属していたらしい。
当時の手紙に、
「何時博士になるのかと、一日千秋の思で待つてます」
との文言があったので、軍医候補?
それともただの社交辞令だろうか。

外地には征かなかったので武勇伝は無い。
186名無し三等兵:02/07/19 23:17 ID:???
漏れの爺さんは隼乗りだったよ。
本人いわく「逃げ回っていたよ」と笑っていたが、インドネシアあたりで
戦い続けていた。
飯は、虫を混ぜたご飯を食べてたんぱく質をかせぎ、敵の銃撃の破片
を受けたこともあるそうだ。
爺さんの持っていた陸軍航空隊に関する本をみると、どこか忘れたが、
どこかの戦隊に赤丸がついていた。そこが爺さんの部隊だったんだろう。
終戦間際くらいまで1式戦闘機に乗っていたみたいだ。
もう亡くなったが。
亡くなった時は、末期ガンで、全身にいろいろな管がつけられていた。
それでも、激しい苦痛があったろうに、最後まで看護婦さんに冗談飛ばしたり
していた。
なんというか、本当にすごい人だったと思うよ…。
漏れが中学の時に亡くなったのだが、その時に、今くらいの知識があれば
もっと色々と話せたろうな…。
187名無し三等兵:02/07/19 23:28 ID:???
>>183
その話、人物特定できそうだな。

渡辺洋二タンに書いてほしいような。
光文社あたりに手紙出してみたらどうよ。
188名無し三等兵:02/07/20 00:22 ID:???
スレの趣旨とはずれますが質問して宜しいでしょうか?
母方の先祖で台湾出兵で戦死した人がいます。
結婚してたようで彼の嫁はそれが原因で気を病み家の裏の林で首を吊り他界。
祖母が詳しく知ってたようですが、最近痴呆が激しく聞けない状態。
戦死者名簿みたいなので調べたいのですが何処に行けば閲覧できるのでしょうか?
クレクレでスイマセンが何卒宜しく御願致します。
189SSスレッド1:02/07/20 01:45 ID:???
>>188
防衛庁の管轄だったかな
190名無し三等兵:02/07/20 01:48 ID:???
>188
戦死なら、靖国神社でもわかったはず。
191名無し三等兵:02/07/20 01:49 ID:???
親族の口伝→仙台の歩兵部隊にいた
写真   →厩橋警防隊とある(何故かセーラー帽)。

結果、陸軍か海軍かもわかりません。
192名無し三等兵:02/07/20 03:54 ID:q+ChaRZk
初カキコです

母方の祖父が、陸軍航空隊の操縦士でした。
中国戦線で戦闘機乗りをした後に、南方へ送られたけど
着いた直後に病気で内地へと送還。
療養した後に、本土防空戦に従事。
終戦時には憲兵をしていたそうです。
最終階級は伍長。
終戦を郡山でむかえ、水本隊という隊に勤務していた
ようです(写真アリ)。
この部隊の情報がどこにもないのですが、なにかご存知の方
がいたら、情報お願いします。

5年前に祖父は他界し、当時はこういう話にあまり興味
がなかったので詳しく聞いていないのが非常に悔やまれます。
上記も祖母や伯父から聞いた話です。
でも一つだけ祖父から聞いたエピソードの記憶があります。

本土防空戦で、祖父はB29と空戦をしたそうです。
祖父は斜め銃装備の機体でB29の下方にもぐりこみ、
斜め銃で射撃、B29はエンジンから火を噴き、降下して
いったそうです。
ただし撃墜未確認でした。
陸軍で斜め銃ですから、たぶん二式複戦屠龍でしょう。

残っている写真はもう終戦時と療養中のもののみですが、
未確認
とはいえB29を撃墜した祖父の血が流れていることを
誇りに思います。

長文に質問アリ、大変失礼いたしました。
193名無し三等兵:02/07/20 03:56 ID:q+ChaRZk
なんか失敗してしまった・・・?
すみません、逝ってきます・・・
194名無し三等兵:02/07/20 04:02 ID:+59xpmON

隼やら屠龍やらのパイロットだったじいちゃん達カコイイ!

195名無し三等兵:02/07/20 04:31 ID:???
↑なんですか、この浮かれ厨は?
196名無し三等兵:02/07/20 04:39 ID:H5RgPxZv
漏れのじいちゃんではないが、江田島卒でパイロットの教官をやっていた
じいさんの話によるとエースパイロットが搭乗する零戦にはドイツ製の水
冷式エンジンが乗っとたと言ってたのですが本当なんでしょうか?

197名無し三等兵:02/07/20 04:52 ID:???
>>190
そのじいちゃん、絞め殺してさっさとあの世に逝ってもらいましょう。
出鱈目を吹聴するじじいは老害です。
198197:02/07/20 05:34 ID:???
わう。
x >>190
O >>197
199197:02/07/20 05:35 ID:???
ギャッ
x >>197
O >>196

ウツシ。
200名無し三等電信兵:02/07/20 06:33 ID:???
>>196
俺のじいさんは操縦士で憲兵だったので聞いてみたら、「陸軍のエースが
乗る五式戦には独逸製の水冷エンジンが載っていた」との事ですので本当
でしょう。じいさんの兄弟は海軍上等飛行兵曹で昭和15年に中国で
戦死したのです。
201コスタリカ一等警備士:02/07/20 10:00 ID:???
うちの祖父は
「金剛」だか「榛名」に乗ってたそうな。
202名無し三等兵:02/07/20 21:17 ID:???
>>200
ネタだよね。
203 :02/07/21 17:00 ID:???
204名無し三等兵:02/07/21 20:20 ID:???
age
205名無し三等兵:02/07/21 20:41 ID:w9U8CaBK
陸奥とかいう軍艦に乗っていたとかいなかったとか。
台湾友好とかいう盾も持っていたな爺さん。
206名無し三等兵:02/07/21 21:14 ID:AkffGZoH
そんな事より1よ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
このあいだ、揚陸作戦でヘンダーソン飛行場行ったんです。ヘンダーソン飛行場。
そしたらなんか敵戦闘機がめちゃくちゃいっぱいで上陸出来ないんです。
で、よく見たらどうやら看板に、飛行場死守、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、飛行場死守如きで普段来てないヘンダーソン飛行場に来てんじゃねーよ、ボケが。
飛行場死守だよ、飛行場死守。
なんか陸軍もいるし。師団で防衛か。おめでてーな。
よーし隊長ジーク落としちゃうぞー、とか言ってるの!、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、爆弾やるからその位置空けろと。
ガタルカナル島ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
岳の向かいをパトロールしてるグラマンといつ撃ち合いが始まってもおかしくない、
撃つか撃たれるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。高射砲師団は、すっこんでろ。
で、やっと銃撃と思ったら、坂元の奴が、ペロ8、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、そもそもペロ8流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、ペロ8、だ。
お前は本当にメザシを撃墜したいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、撃墜スコアアップって言いたいだけちゃうんかと。
海軍通の俺から言わせてもらえば今、海軍通の間での最新流行はやっぱり、
一撃離脱、これだね。
一撃離脱に死角撃ちと急降下。これが通の襲い方。
で、それに一式陸攻。これ最強。
しかしこれを実行すると次からグラマンにマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前、1は、直援任務でも実行しなさいってこった。
207名無し三等兵:02/07/21 21:27 ID:???
>>200
オチの見え透いたネタは痛々しいぞ。
208名無し三等兵:02/07/21 21:33 ID:???
ウチののじーさんは当時学生で学校の近くに米軍の爆撃機が墜落してそれを見に行ったって言ってた
かなり損傷の激しい死体が転がっていたらしい
209名無し三等兵:02/07/21 21:59 ID:WNU9gRDI
俺のじいさんは戦中は室蘭の造船所で働いてたそうだ。名前は忘れたが駆逐艦や戦艦
もドックに入っていたらしい。
ある日、千歳に出向いたときに零戦が米爆撃隊を迎撃するのを眺めてたら、急降下した零戦が
上昇しないでそのまま地面に突っ込んでびっくりしたらしい。で、格納庫付近が機銃掃射で滅茶苦茶だったとか
関係ないが終戦後は消防団に入っていて一昨年に勲六等旭日賞を受賞した

で、
じいさんの兄貴が陸軍で中国戦線に行っていたらしい。階級は曹長だった。
山から敵を百式で狙撃したりしたが滅多に当たらなかったと。
よく物資が友軍の兵に盗まれて上官からいろいろ言われてたらしい。終戦後も列車で田舎に帰って
くるときに飯盒を誰かに盗まれて、つい癖で代わりに鍋を他人から盗んできたらしい。

じいさんは戦中の話をよく話してくれるので親父が軍ヲタになった
その血を受け継いで俺も軍ヲタになった

なんか文章変だな。スマソ
210南方軍:02/07/21 22:08 ID:8Fevr+Ix
ウチのじーちゃんは父方は海軍で潜水艦に乗ってたって。母方は陸軍でビルマに行った。ビルマでは飢えとマラリアでかなりの人が死んだりしい。じーちゃんは蛇やらを食べて生き延びたって。
211名無し三等兵:02/07/22 01:23 ID:vOVlpIO5
うちのじいちゃん(とうの昔に老衰)は潜水艦に乗っていたらしい。
どんな名称の艦かわからないけど。

先日部屋を掃除していたら、海軍省功績調査部と書かれた袋に
ガラス製の目盛り無し定規みたいなのがでてきた。
その他、当時の戦争を綴った文献みたいなものもでてきたよ。
「魚雷を抱き、爆雷を呑んで太平洋を狭しと疾駆する ―
勇ましいかな、俊敏隼の如きわが駆逐艦の勇姿!」
なんてのが書いてあるよ。
これは一体、どういう本なのかなと疑問を抱いている。
212名無し三等兵:02/07/22 02:54 ID:???
>>188
厚生省(今は厚生労働省だっけ?)じゃないのかな

>>175
クック船長(キャプテン・クック)だわな
213名無し三等兵:02/07/22 15:16 ID:nrK+z1ZG
うちのじじいは陸軍の航空隊にいたらしい
しかし現在、指の先っちょをちょっと切ったくらいで
真っ青になって卒倒しかけながら「ばんそうこう、ばんそうこう」と
悲鳴を上げる姿からは信じられない…
214名無し三等兵:02/07/22 18:32 ID:x9SOXZUG
>>211
めっちゃ興味あるなあ、その本。
内容はどんな感じ?

ガラス製の目盛り無し定規ってのは、
もし厚みが結構あるなら文鎮かもね。
潜水か水雷学校とかで貰ってたりして。
あくまで想像ですけど。
215番組の途中ですが名無しです:02/07/22 18:41 ID:8tmLgBwL
わしのじいちゃんは原爆が落ちる3日前まで
負傷して広島の病院にいたらすい。
入院した理由も載ってた船が破壊された時に受けた傷が原因。
まだ漏れの親父も仕込まれてなかったから漏れの存続も
あぶなかった罠
216名無し三等兵:02/07/22 19:52 ID:jdMkodLG
私の親戚でもなんでもないジーちゃんの話で申し訳ないのですが・・・。
今から6~7年前の話です。
その日も私は某横須賀中央駅のホームで京浜急行を待っていました。
ベンチにホームレス風のジーちゃんがおりました。
どんなキッカケだったか覚えていませんが、私はそのジーちゃんの昔話を聞きました。
なかなか興味深い話だったので乗る電車を数本遅らせて聞き入ってしまいました。

ジーちゃんは昭和19年初頭に召集(もしくは志願)され、横須賀海兵団に入隊したそうです。
教育期間を経て、呉警備戦隊の海防艦(第○×号と言っていたが、当方失念)に乗艦。
その海防艦は対馬・朝鮮海峡の警備に当たっていたそうですが、米潜に遭遇する機会はなく、
ヒマな日々を過ごしたそうです。乗員も予備召集組が多く、家庭的な雰囲気で、海軍に
ありがちな陰湿な私的制裁などはほとんど無く、楽な勤務だったそうです。
「あ」号作戦や捷号作戦のウワサも聞こえてきたそうですが、とにかくヒマで楽だったそうです。
そんな戦局とは遊離したジーちゃんの海軍生活が一転したのは、昭和20年に入ってからです。
(つづく)
217216:02/07/22 20:26 ID:jdMkodLG
>>216(つづき)
昭和20年の新春、ジーちゃんは軍艦「矢矧」乗組みを命ぜられました。
新鋭巡洋艦という事で、嬉しく、誇らしい気持ちだったそうです。
これまで乗っていた海防艦とは比べ物にならない大きなフネと感じたそうです。
配置は前部主砲の横辺りにある銃座の機銃員だったそうです。
海防艦とは打って変わって厳しい毎日だったそうですが、「これぞ海軍」と
思ったそうです。
さてやがて4月を迎えます。沖縄に米軍が上陸します。みなさんご存知の通り
天一号作戦が発動されます。上官の話では「沖縄に来襲した米艦隊を撃滅する」という
事なので、ジーちゃんも含め、みなヤル気満々だったそうです。
水上特攻という話はまったく無く、悲壮感は皆無だったそうです。
そうしてジーちゃんを乗せた「矢矧」は「大和」や2水戦駆逐艦と共に徳山を出撃しました。
「大和」はたしかに大きなフネでしたが、海防艦時代から見慣れていたので、「矢矧」ほどの
インパクトは無かったそうです。
さて天一号作戦の経過はみなさんご存知なので詳述しません。一水兵の立場では作戦の
流れを知る術はありませんでした。
ジーちゃんはとにかく戦闘配置下令により持ち場である銃座に就き、指揮官の命令通り
雲霞のごとく群がる米艦載機に対して25ミリ機銃を撃ちまくったそうです。
いちばん恐ろしかったのは敵機の攻撃よりも間近で発砲する主砲の爆風だったそうです。
正規では主砲発砲時は警報ブザーが鳴るはずでしたが、その日はブザー無しで発砲する
事が多かったそうです。機銃指揮官が真っ赤な顔で「艦橋は俺達を殺す気か!」と
怒鳴っていたのが、印象的だったそうです。
ジーちゃんは戦闘中の「大和」やその他水上特攻隊諸艦の姿は覚えていないそうです。
とにかく機銃を撃つのに夢中だったそうです。機銃が過熱のためしばし作動不良になった
そうです。撃てなくなると急に心細くなったそうです。
やがて「矢矧」は爆弾や魚雷を受け始めました。そのたびに爆風や衝撃に襲われ、
生きた心地がしなかったそうです。しかし興奮し、無我夢中だったので、あまり
怖くはなかったそうです。
(つづく)
218216:02/07/22 20:47 ID:jdMkodLG
>>217(つづき)
昼過ぎ「矢矧」は魚雷や爆弾の被弾によりフネの行き足が止まりました。
航行中は黒煙が風圧で流されましたが、航行不能になったため、甲板上は煙に包まれ、
息が出来ず死にそうになったそうです。多くの同僚が甲板に倒れ、ジーちゃんの周囲は
修羅場と化していたそうです。
沈没しそうだというので、機銃指揮官の命令により海に飛び込んだそうです。何度も
溺れそうになっている内に、「矢矧」は沈没していたそうです。ジーちゃんは「矢矧」沈没を
見ていないそうです。やがて海中からも衝撃を感じる大爆発を目撃したそうです。
ジーちゃん曰く「あれが大和の沈没だったのかもしれない」だそうです。
ジーちゃんは「大和」の沈没も見ていませんでした。
一緒に海に飛び込んだ同僚が「駆逐艦が助けてくれる」と言っていましたが、周囲に
味方駆逐艦は見えなかったそうです。
その後数時間、数人の同僚とまとまって海面を漂っていましたが、やがて味方の駆逐艦が
近づいてきたそうです。しかし敵機が攻撃してきたので、すぐに駆逐艦は見えなくなって
しまったそうです。
夕刻、米軍の飛行艇(カタリナか?)飛来し、機銃掃射を加えてきたそうです。銃弾は付近に
着弾し肝を冷やしたそうですが、ジーちゃんも同僚も被害はありませんでした。
自分たちを見下ろす飛行艇の乗員の顔が今でも忘れられないとの事でした。
全員かなり衰弱していましたが、力尽きる者は居なかったそうです。そして日没直後、再び
味方駆逐艦がやってきました。駆逐艦の乗員がジャコップを降ろしてくれたそうですが、
手足に力が入らず登るのに苦労したそうです。
とにかく、ジーちゃんは救出されました。
(つづく)
219名無し三等兵:02/07/22 20:57 ID:aBf/PubF
うちのじいちゃん11年まえに死んじゃったけど、しばらくしてから当時の総理大臣
海部さんの名前で従軍~~とかいう感謝状と銀杯が送られて来た。
220名無し三等兵:02/07/22 21:11 ID:qJOPSDSN
日本人理事長登用を非難 朝銀問題で労働新聞

 【北京22日共同】
朝鮮中央通信によると、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の
労働党機関紙「労働新聞」は22日、破たんした在日朝鮮人系の朝銀信用組合の
受け皿となる近畿地方の3信組に公的資金投入の条件として日本人理事長が
登用されたことを非難し、退任した在日朝鮮人理事長の地位を回復させるよう求めた。
 同紙論評は「民族金融機関である信用組合の根本的性格を否定し、
組合を抹殺しようとする許し難い行為」と非難した。
北朝鮮本国の公式報道機関が朝銀信用組合への日本人理事長の登用問題に
言及したのはこれが初めてとみられる。

http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=MYZ&PG=STORY&NGID=AITN&NWID=A3142210
221名無し三等兵:02/07/22 21:11 ID:qJOPSDSN

スマソ、誤爆。
222216:02/07/22 21:13 ID:jdMkodLG
>>218(つづき)
ジーちゃんを救出した駆逐艦は「冬月」でした。衰弱したジーちゃんたちを介抱してくれた
「冬月」の乗員の言によれば「作戦中止、佐世保に帰投」だったそうです。ジーちゃんは
「負け戦」を自覚したそうです。
翌日「冬月」は佐世保に帰投。ジーちゃんは負傷もしていたので佐世保の海軍病院に収容されたそうです。
その後、ジーちゃんは後遺症に悩まされ、軍務に復帰できませんでした。
やがて夏近くになり、症状も軽くなったジーちゃんは長崎の病院に転院しました。
そして8月9日を迎えます。
昼食近く、突然大きな爆風により病室の窓ガラスがすべて吹き飛びました。原爆投下です。
ジーちゃんは爆風の凄まじさは覚えていますが、閃光やキノコ雲を見た記憶は無いそうです。
爆心地から遠かったので、病院は窓ガラスが吹き飛ぶぐらいの被害で済んだそうです。
しかし夕刻から無残な被爆者がどんどん収容され始め、軍医の命令によりジーちゃんたち
動ける患者も看護を手伝ったそうです。残酷な修羅場は「矢矧」でも経験していましたが、
非戦闘員まで被害を受けている姿はむごくてたまらなかったそうです。
その後、ジーちゃんの後遺症の件はウヤムヤのまま、9月に復員するまで病院で看護を
手伝ったそうです。
戦後は楽しい時期もあったそうですが、ほとんどはツイてない人生だったようで、
やがてホームレス同然の生活になってしまったようです。
1時間ほど話を聞き、私はジーちゃんと別れました。
今思えば、もう少し詳しく話を聞けば良かったです。なかなか記憶のしっかりしている
ジーちゃんだったし・・・。
その後、ジーちゃんの姿は見ていません。
以上はジーちゃんの話を再構成したものです。この話の真偽は分かりません。
とにかくジーちゃんの話をそのまま書いています。もしウソだったらごめんなさい。
でも自分は信じます。あのジーちゃんには今でも元気でいて欲しいです。
長文スマソ。
223名無し三等兵:02/07/22 21:37 ID:XVtGDxvI
>>219
うちは従軍~って言うやつじゃないが、
勲○等~ってやつがあるよ。
総理大臣 佐藤栄作 名で
うちのじいちゃんは戦死してるけど
戦時に兵役についてたら皆もらえるじゃねえの。
224名無し三等兵:02/07/22 21:56 ID:qJOPSDSN
>>216
>>217
>>218
>>222

長文乙彼!
あなたを通じてここの住人に伝わったことで、
じーさんも喜んでるでしょう!
225SSスレッド1:02/07/22 22:08 ID:???
矢矧回顧録ヨカッタです、大変感動しました。
ありがたう。

おじいさんにも感謝。
226211:02/07/23 01:58 ID:DVv9teKN
>214
これってどういう類の本なんだろうなぁ。
表紙、背表紙は手作りで、戦争に関する記事がファイルされている。
多分、どこかの新聞社(出版社?)が作成したものだと思われ。
日本万歳、鬼畜英米のテイストが存分に盛り込まれた内容なので
戦争当時に作成されたものと思われます。
真珠湾攻撃の記録も記載されていますが、それ以外の戦闘記録は
ほとんど見当たりませんね(そりゃそうか)。

詳細な説明ができなくてスマソ。
227名無し三等兵:02/07/23 02:14 ID:???
うちの下宿の大家さんの家には、シベリア抑留何たらって言う感謝状が
額縁入りで飾られていた。
228名無し三等兵:02/07/23 10:06 ID:???
うちの爺さんはチェコ軽機がイイ・・・としきりにいっていた
フォードトラックに乗っていたようだが支給の38騎銃じゃ駄目駄目だと
それと趣味がてらしばしば大学に赴いていたらしいのだが
結構堂々と「日本は負ける、当たり前だ」という人も多かったそうな
229名無し三等兵:02/07/23 13:46 ID:???
うちの爺さんは学徒動員で満州へ送られ、
と思ったらすぐ終戦。
で,シベリア抑留されたがなぜか太って帰ってきたらしい・・・ガクガクブルブル
230東日本国民:02/07/23 14:15 ID:???
じいさんの従兄弟がアメリカに住んでて、
日本に里帰りに来たので話が聞けました。

その従兄弟はお父さんの時代に移民して、
ワシントン州に住んでたらしい。
で、1940年(当時20歳)にサンノゼに移り住んで
インディアンの居留地を借りて(ここらへんいまいち判らんかった)
農業をやってたらしい。

で、トラクターなんかを新しくしてさぁ頑張ろう、
と言うところで開戦となり収容所に入れられたそうな。
一応、農場とかトラクターとかはアメリカ政府融資付きで
アメリカ人に売却されたそうな。
なんでも親しくしていたアメリカ人に安めの値段で売ったらしい。

で、収容所では日本から取り寄せた花とか木を栽培して、
戦後は庭師として身を立てたと話していた。

日本からの移民が戦争中に収容所に入れられたのは歴史としては知っていたが、
やっぱ実際に聞くとショッキングなものがありますた。

文章ヘタでスマソ。
231名無し三等兵:02/07/23 15:26 ID:TYFcC+kH
>>229
な、何を食ったんだ~ッ!!!
232名無し三等兵:02/07/23 16:42 ID:???
うちのじいちゃんの話だと、中国戦線で、便所でうんこしたら、
下が豚小屋で豚がそれを食べにきたということしか聞いたことない。
もっと聞いときゃよかったなあ。
あと戦友会からもらったと思われる、トラ・トラ・トラというタイトル
のデカくて分厚い戦史の本を見せてもらったくらいか。

233チキンヘッド:02/07/23 18:40 ID:???
うちの父方の祖父さんは招集されなかったからなぁ、
図書館の館長やってて、東京大空襲の最中図書館守りぬいたって話ぐらいしか聞いたこと無い。
もっとも、親父が学生時分に鬼籍に入ったんで詳しいことはわからんが・・・

父方の祖母さんの方は、身長制限だかをごまかして従軍看護婦してたって聞いたな、赤十字だか陸軍病院だか
忘れたけど、去年大往生したんでもう聞けないや・・・
234229:02/07/24 21:28 ID:???
>>231
まだ元気に存命だけど
怖くて聞けない!!
235235:02/07/25 01:12 ID:Qgc/nhtR
物凄い長文・駄文ですけど、
それでもよろしければ書いてもいいですか?
といっても、知人にメールしたもののコピーですが・・・
236名無し三等兵:02/07/25 02:29 ID:XNJEbpaf
>>235
チャレンジャーが好きです。
237名無し三等兵:02/07/25 06:35 ID:???
>>235
おながいします
238名無し三等兵:02/07/26 00:02 ID:89JDBK3Z
私のヒ祖父(40年位前に死亡)の話でありますが、日露戦争の旅順港攻略戦で
小隊全滅の折、一人生き残り且つナニやら武功があったそうで勲章(?)を頂き郷里の
英雄に祭上げられたそうであります、処が除隊後戦場より持ち帰った小銃段を分解中
暴発し左手の指二本無くなったそうであります、その事が警察を通じ師団に知れ
哀れ!勲章(?)剥奪となったそうです。
その息子(私の祖父)は日中戦争に出陣しどこやらで中国軍のスパイとみなされる
人が処刑される現場に遭遇し、隠れて撮った写真を持ち帰っております、日本兵が刀で
後ろ手に括られた中国兵?のxxをxった瞬間の写真です、xがビューと吹き出た
凄いヤツです、今も家に在りますが、その事は家人の誰も触れたくないみたいです
(当然か・・)。
239名無し三等兵:02/07/26 02:33 ID:spc79IbS
母方の曽祖父は近衛にいたという噂なんですが、
千葉県で農業を営んでいる若者が、近衛になれるものですか?
ちょっと疑問に思ったので・・・。
240名無し三等兵:02/07/26 02:34 ID:???
>239
なれますよ。
思想面で問題無ければ、職業は問いません。
241名無し三等兵:02/07/26 02:38 ID:???
>>240
そうなんですね! ありがとうございます。

うちは、祖父に戦争のこと聞きにくい環境なのですが、俺も興味
あるので、がんばって聞いてみたいと思います!
242チャレンジャー:02/07/26 02:45 ID:78Ho52hj
僕は戦争とか兵器とか全然くわしくないのですが・・・。
それでは次から逝ってみます。
243チャレンジャー:02/07/26 02:47 ID:???
今日、さっき、カアちゃんが買い物に行っているときに、爺ちゃんと二人で戦争の話をした。
というか聞いてみた。

ひょんなことから、電車の話をしていたら、昔(戦時中に)、長崎の佐世保に行った話になり、
戦争の話が始まったのでいろいろ聞いてみた。
東京から九州佐世保まで30時間くらいかかったみたい。

いつになくしゃべってくれたのではじめて聞く話しだらけだった。
記憶の新しいうちにさっと記録に残しておこう。
244チャレンジャー:02/07/26 02:48 ID:???
じいちゃんは、学校を出た後、横須賀の海軍の整備工場で働いていたそうだ。
そして20歳になるとまるで今の成人式のように、軍の身体検査があって、
それに合格すると軍に入隊することが決められていたみたい。

甲乙丙とかあるらしいけど、何処にも問題がなければ甲で、はい、あなた入隊決定状態だったらしい。
問答無用に今の仕事は終わり。あなたは軍人ですとこうなってしまうのだそうだ。

爺ちゃんの場合は海軍の工場で働いていたため、
海軍の航空隊の飛行機の整備兵として雇われたというわけ。
後になってみるとこれが良かったと爺ちゃんは語る。

ちなみに、乙の1種だとかにされると、後で、例の赤紙が送られて配属が決まるみたいだが、
実は絶対こっち(赤紙)のほうがいいらしい。
赤紙ってイメージが悪いけど、今の仕事を続けることが出来るし
場合によるけど戦争でもきついところにはつれていかれないらしい。意外だった。

それでも、軍に入ると給料はそこそこ良いらしい。
月に16円もらえたみたい。それから少しずつあがっていくということ。
爺ちゃん曰く、当時、天丼が15銭という。月に100杯食えるのか?
いまだと、天丼1000円としても、月10万円となるかな。
245チャレンジャー:02/07/26 02:49 ID:???
爺ちゃんは横須賀(今のアメリカ軍基地のあるところ)の学校で入隊式をやって、
新しく出来た武山(ここも横須賀にある)の軍隊に入ったそうだ。
今は、自衛隊の設備の整った施設はあるけれども、
当時は兵舎が2つしかなく田んぼを埋め立てたところだから、雨が降るとひどかったらしい。
しょっちゅう海から砂を運んでぶっ掛けていたとさ。
船の生活に慣れるために夜はハンモックで寝ていたみたい。
246チャレンジャー:02/07/26 02:49 ID:???
その爺ちゃんも、ついに前線へというか、
さっき言った佐世保とかよって、沖縄の方やマレー半島の方の小さい島にもいたらしいが、
入隊からおよそ1年後に、台湾の基地に行っていたそうだ。当時、21歳ということか。
ここも新しく出来た基地で、というか、爺ちゃんの仕事は飛行機の整備だから、飛行場である。

横須賀に比べて、よっぽど台湾の方が整備されていたそうだ。
飛行場はもちろん、町から飛行場に続く道すべて舗装されていたとのこと。

ごはんも思ったよりうまくて、良いところだったという。
さっきの小さい島(名前忘れた。)より、米もうまかったみたい。
日本の米に比べたらそれは味は落ちるらしいが…
鯛はたくさんいたけど、これはまずかったと。

飛行場の近くの町では、爺ちゃん達が行くと、店でただで飯を食わせてくれたみたい。
片言の日本語をしゃべったそうだ。

砂糖も豊富な所で、すごく良かったみたい。
しかも軍が、家族あてに10キロほど、砂糖を送っていてくれたらしく、
爺ちゃんは帰ったときにものすごく感謝、喜んでもらえたそうだ。

しかも、神社が日本のようにあったみたい。
家の近くの山を指差し、日本みたいに『山の麓にあるんだよな』と笑っていた。
この頃は、結構のんびりやってたみたい。
247チャレンジャー:02/07/26 02:50 ID:???
ただ、飛行場で整備していた時、昼の12時頃エンジンの整備を終えて、
これから訓練のために飛行機を外に並べて準備していたところ、
アメリカの戦闘機の攻撃を受けたという。

アメリカの戦闘機はあのヨットにあるような?
2つにわかれた形をしているやつでグラマンとか言ってたかな?
低空で飛んできたから、ぜんぜん気づかなかったらしい。

とにかく飛行機を外に並べてあるから、それをことごとくぶっ壊されてしまったらしい。

爺ちゃんはとりあえず格納庫に走って逃げたという。飛行機は格納庫を狙わないらしい。
格納庫を壊せる能力を持っていないので、置いてある飛行機を狙っていくのだそうだ。
防空豪みたいな隠れ穴も作ってあったみたいだ。

ただし、爺ちゃんは飛行機を移動せねばならず、飛行機のタイヤを盾にして転がしながら
飛行機へ近づいていき飛行機を移動させたみたい。

理屈の上では戦闘機は自分の正面に入ってこなければ絶対撃たれることはないらしい。
少しずれていればいい、真正面しか打てないから。…だそうだ。

それでも、訓練前にすでに飛行機の乗り込んでいた人もいたらしく、
あいにく無事であったみたいだが、あれは怖かったろうなーと言っていた。
この低空で飛行機が飛んでくるような映画のシーンがあるが、確かに似ているらしい。
248チャレンジャー:02/07/26 02:51 ID:???
ちなみに、爺ちゃんはミッドウェー海戦で負けた時に、
この戦争は負けるんじゃないかなと思っていたらしい。
そして、海軍だけに山本五十六が死んだときには負けると思ったみたいだ。

ついでにその当時の報道に関しては、やはり無茶苦茶であったそうだ。
爺ちゃんのいた飛行場でのその被害は、新聞でなんと飛行機2機となって報道されていたそうだ。
爺ちゃん言いながら笑ってた。

そして、爺ちゃんは台湾から帰っていった。
日本に帰るときは飛行機で。船よりも早く帰れるのはうれしいけど、
爆撃機に詰めて載せられていたから、あまり気分の良いものではなかったそうだ。
しかも、混み合う中で、敵機に襲われたことを想定して、
手には1メートル以上の機銃を持たされたという。
相手に当たらなくても、とにかく撃てば相手はびびってあまり近づいてこないのだそうだ。
249チャレンジャー:02/07/26 02:52 ID:???
帰ってきた爺ちゃんは今度は、海軍らしく船の生活を過ごすこととなった。

ちなみに船の生活は“最悪”だったらしい。
前に、海軍の制服はカッコ良くてよいと言っていたが…
どんなに船に乗りなれても、出航2日目は絶対気持ち悪くなるらしい。
その後慣れていくそうだ。船の生活は1ヶ月が良いとのこと。それ以上は大変だって。
風呂も前には毎日、入れたが船の上ではそうにもいかず、しかも塩が混ざっているので嫌らしい。

その後、船で台湾の前にいた基地にも行ったそうだ。
その時にはすでに格納庫も破壊されていたとのこと。
そして物資輸送で台湾往復はよくやっていて、先に書いた砂糖をしばしば拝借していた…みたい。
船が本土の港につく前に飛行機は飛行場に向けて船から飛んでいくから、
操縦士と結託して飛行機に砂糖を隠して載せてたんだって。
その後、みんなで山分けしていたらしい。一度見つかって大問題になったって…笑ってた…。

まあでも大抵は太平洋上で過ごすらしい。見渡しても何もなくてひどく不気味だそうだ。
ただ、いるかはよく引っ付いて泳いでたとさ。
釣りなんかしている暇はなくて、時間があればとにかくゴロンと横になって休んでたみたい。
なかには花札を持ってきている奴もいたみたいだけど、
とてもじゃなく忙しくて実際そんな暇はなかったとのこと。
ただ、船から返ってきた時は毎回宴会して町に繰り出して遊んでいたそうな…。
250チャレンジャー:02/07/26 02:54 ID:???
もちろん、爺ちゃんは飛行機の整備士だから、空母に乗ってた。
整備士だからさぞかし手が真っ黒でしょうがないでしょと聞いたら。
油の汚れはオイルで落とすみたいなことをいっていた。
油対油、良く落ちるのだそうだ。ガソリンもあったしとの事。

何艘かで編隊を組んで航行しても、
その艦隊で敵に狙われるのは空母と一番大きい護衛艦、駆逐艦だそうだ。
だからよく狙われたみたい。
はじめの頃の魚雷は海面を飛んでくる?から、すぐに発見できたらしいが、
しばらく経った後の魚雷は、進化して、
海面より少し低いところからくるので発見が遅れて怖かったらしい。
それでも、魚雷はけっこう見つけやすいらしい。赤黒い大きい塊みたい。

大体攻撃は飛行機がやってきて、その後に魚雷がくるというパターンだそうだ。
最後、爺ちゃんの乗った船(瑞鳳とかいうやつ)が沈没させられた時、
午前10時頃から、夕方過ぎまで、飛行機、魚雷の繰り返しで攻撃を食らったそうだ。
相手の飛行機も燃料と爆弾の搭載の制限があるから、しばらくすると帰っていくという。
飛行機で足止めして、そこを魚雷でたたくというやり方だと言っていた。
船では当たらなくても機銃をとにかく必死で打ちまくるらしい。
そうすれば、相手の飛行機はびびって本当に近づいてはこないと。
251チャレンジャー:02/07/26 02:55 ID:???
爺ちゃんは整備兵だから、隠れ、走り回っていたというが、
とにかく必死で何がなんだかわからんらしい。
武器も持ってないし。だから、怖いと実感する暇もないという。
ただ、機銃を撃っている人の近くにいると手伝わされるので
その人の近くには行かないようにしてたとさ…。

もう、船が沈んでしまうというところで脱出をはかる。
あんまり早く飛び降りると、船から1人離され、当然に救出してもらえないからだ。

ぎりぎりで飛び降りて、船の沈む渦に巻き込まれないかと
心配になるところだが、波があるから、結構それで流されて平気らしい。
船が沈んだ後は、ぷかぷかと船に積んであるものが、上に浮いてくるから、それにつかまるという。
252チャレンジャー:02/07/26 02:56 ID:???
数人で叫んで海に飛び込んだ後に爺ちゃんがつかまったのは丸太ん棒で、
それに何人か結構な人数でつかまっていたらしい。
ほとんど意識のない者でもしっかりとつかまっていたそうだ。
人間の精神力というのはものすごいものだと非常に感心したらしい。
ただ、みんながつかまると沈むらしく、爺ちゃんはつかまったり、離したりしながらしていたそうだ。

救助船はその艦隊の中の狙われなかった小さな船、ということになるらしく、
実際その船は肉眼で確認できるほどほんと近くにいるという。

ただし、その後の攻撃のおそれと、船からは人が発見しづらいこともあり、
なかなか何時間も助けに来てもらえなかったそうだ。
敵の攻撃は、爺ちゃんの乗っていた空母等が沈んだため、じきにやんだという。

なかでも、元気のあるものが、大声で叫んで救助を呼びかけたそうだ。
そして、幸いにも爺ちゃんは救助されたが、一人ぼっちで離れている者には、
わざわざ船は救助に行かず、まとめた人数を救助しても、体力をひどく消耗している者は、
船にも乗せなかったという。
かわいそうだったよ、と爺ちゃんは言った。
253名無し三等兵:02/07/26 03:02 ID:???
チャレンジャーさん、どうもありがとう。拝読しますた。

うちの祖父(90歳)は、年いってたので実際に戦争へは行かなかったと
言うけど、祖父も「負けると思っていた」といってました。
うちの祖父はもう喋れなくなってしまったけど、お祖父さんから聞いた
話は宝物です、もっといっぱいお話してくださいね。
俺は今、もっと話しておけばよかったと後悔していますから・・・
254チャレンジャー:02/07/26 03:03 ID:???
そんな爺ちゃんはついに本土に帰ってきた。
しかし、大分の飛行場へ。

この時には、いろいろな者が軍隊に召集されていて、
学生の志願兵がいた一方、30から、40代のオジさんもいたという。

この大分の飛行場では、特攻の飛行機の整備。
特攻に行く連中は志願兵の人間だから、若かったといっていた。
爺ちゃんもそんな大した年じゃないのにと聞いてみたら。
16、17とかそんな連中だったとのこと。

飛行機は霞のなんとか飛行場で練習に使っていた、馬力もない飛行機だったそうだ。
赤とんぼとか言っていた。

特攻に行く人には、動揺とかはあまり見られなかったみたい。
ただ、それでも中には、エンジンの調子が悪いだとかなんとか言って、
帰ってくる人もちらほらいたみたい。

おれが、それが普通なんだよね多分、と爺ちゃんに言ったら、
爺ちゃんも、『それが普通だよ』と語気を強めて言っていた。
255チャレンジャー:02/07/26 03:04 ID:???
そんな爺ちゃんも、
船を下りて、大分から終戦までは、『お遊びだった。』と言っていたのが印象深い。

終戦後は、大分から帰ってくる時に、電車のなかで荷物を盗まれながらも無事帰宅。
前に爺ちゃんの友達が写真を撮ってくれて家に送ってくれたときに、
すでに家族はその写真を見て死んだんだと思っていたらしく、まずは驚かれたとさ。
256253:02/07/26 03:06 ID:???
うわ、ごめんなさい。続いてたんだね。
横槍いれちゃったーよ・・・逝ってきます。
257チャレンジャー:02/07/26 03:09 ID:???
>>253
続いてしまってすみません・・・
はい、なかなか戦争の話しを聞く機会をつくれないですが、
聞ける時にはどんどん聞いてしまおうかなと、目論んでおります。
長々としたコピペで失礼しました・・・。
258253:02/07/26 03:13 ID:???
>>257
うちの祖父は、母方が内地で父方は召集されなかったので、
外地のお話はとても興味深いです。
貴重なお話ありがとうございます。お祖父さんにもよろしくお伝え
くださいね。
259名無し三等兵:02/07/26 03:13 ID:???
>>257 チャレンジャー氏
いや良い話をどうもです。
是非色々な事を聞かれて下さい。
260名無し三等兵:02/07/26 08:47 ID:???
母方の祖父の話なんだけど、戦争の話がしにくい家なので情報がぶつ切り。
僕自身軍事に詳しくなくて何を言ってるのか良く分からず。
だれか解説してください。
・二次大戦初期に北海道の北の島へ上陸して足を撃たれたらしい
・オーストラリアの近くまで潜水艦で行ったことがあるらしい
・戦争末期に陸軍に引っ張られたが(?)六角棒で殴られる海軍にくらべれば
陸軍のしごきなんてちょろかった、らしい
・権威を笠に着てえばる上司(?)がきらいだったらしい。「天皇の大事な兵隊を
ぼこぼこ殴るな」と理屈で言い負かせたのでさらに馬鹿にしていたらしい。
・玉音放送のあとは景気のいいことを言っていた上司を殴って軍をやめたらしい
261名無し三等兵:02/07/26 22:29 ID:???
>>260
・初期に敵国である北の島上陸であればアッツ島かキスカ島
(アメリカ領土、ソ連とはまだ開戦してない)
・潜水艦乗員ならばどこまで行ってもおかしくない。但しオーストラリアなら特殊潜航艇
によるシドニー軍港特別攻撃隊を搬送した可能性もあり。
・戦争末期に陸軍が輸送用潜水艦を独自に建造したので、海軍からの指導員かと。
・8月15日に一応敗戦したが、まだ停戦状態(正式敗戦は8月末)で
軍はまだ解体されてないので殴ったって言うのは願望かと
(どさくさまぎれに集団でやったかも)

まだ存命なら乗組艦名と階級位は聞いといた方がいいよ。
262名無し三等兵:02/07/26 23:35 ID:JdsR8lFC
戦争当時の新聞ってもう残っていないのかな。
今更ながら閲覧してみたいと思う。
263眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/07/26 23:47 ID:???
>262
縮刷版がありますよ。
あれは図書館とかで手続きすれば閲覧可能ですよ。
あるいは国会図書館でマイクロフィルムと格闘するか。
264名無し三等兵:02/07/26 23:56 ID:9D0cK6C7
265260:02/07/27 00:22 ID:???
>>261
ありがとうございました。
もちょっと機会を見つけて聞いてみます。
祖父は戦後は捕鯨船の機関士をしていたそうで、
「白人奴隷の売買を見たことがある」とか
「船が日本に帰った時、港まで来た祖母を娼婦と間違えた進駐軍兵士と口論した」
とかの真偽さだかではない逸話をいろいろ持っているのでいい感じです。
266名無し三等兵:02/07/27 02:06 ID:???
4年程前、銭湯で話をした老人。
「ワシは戦時中、戦車乗りだった」
とのたまうので
「え、本当ですか!何式に乗ってたんですか?」
と私が質問したら非常に困った顔をして
「せ、戦車は戦車だ!」
としどろもどろでお答え下さいました(w
20歳そこそこのガキに煽られないでくれ、じいちゃんよ...。
267名無し三等兵:02/07/27 20:27 ID:1QFW2k/d
>>239
近衛兵は全国の各徴募地区に推薦の命令と人数の割り当てがくる。
当然、近衛兵にふさわしい人間が推薦されるのだが、役所、町長、在郷軍人会、各種学校の校長などが、協議して推薦する。
推薦の基準は特に決っておらず、家柄のいい者、品行方正な者、学業優秀な者などさまざま。
水のみ百姓のセガレでも尋常小学校の成績優秀とか、親孝行で近所で評判とかであれば充分推薦される。
268エミリー:02/07/27 20:40 ID:VaPDbje8

              ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        ナデナデ (´∀` )<最近いいネタないんだよね~。。。
  _/ ̄ ̄ ̄ ̄\⊂( ∪ ) \________
 ∑_    ∪ ´∀`)(_(_)
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ モキュモキュ
           ゚o
            〇
       (⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
       ( ̄\ ふふ。俺はここで毎晩フィーバーだぜ!
       (  ゚Д゚)y─┛~~ http://got.to/hadakaa
       ( ̄ ̄       炉利にはタマラナイゼ!
        ~~~~~~~~~~~~~~~
サンプルもある。(タダ)まあ、一日しのぎのネタにしかならんが見て損は無いと思う。タダだし、。。

269名無し三等兵:02/07/27 20:57 ID:FChewhJY
俺のじっちゃんは雷撃で敵空母を撃沈したそうだ。

270名無し三等兵:02/07/27 21:29 ID:???
>>239
>267氏の記述に追加。
一つ、絶対的な基準が、あった。
本人はもちろん、家族・親戚が共産主義等の反皇室思想や、反国家・社会思想の持ち主でないこと。

 あと、絶対的な基準ではないが、徴兵検査の結果は相当に重要だったらしい。
もっとも、多くの地域で、トップは地元の部隊にして、
その次ぐらいを近衛に送る、といったことはあったらしい。

ただ、近衛に送った兵が、不祥事を起こしたり、他の兵と比べて問題がある、
ということになると、その地域の名誉・評判に関わってくるので、
家柄はいいけど体力はない、とか、逆に体力はいいけど、頭は良くない、
という人物が選ばれることは、まずなかったようです。

従って、近衛兵として招集されることは、相当の名誉とされていて、
終戦近くの時期はともかく、
招集にあたっても、「赤紙」一枚ではなく、地元の招集担当者や、
村長、町長、警察官等がやってきて、
近衛に招集されることになったことを伝えるところが多かったという。

平時、伍長相当の上等兵で招集を終えた近衛兵などは、
水呑百姓の家でも、「うちの娘を嫁にもらってくれ」という話が多数来たといいます。

 遊郭等でも、他の兵より、もてたそうです。
その結果、他の部隊の兵からは嫉妬され、
「近衛は軟弱で、見た目ばっかり」という評判の原因になったともいいます。
271239:02/07/28 01:41 ID:???
>>267 >>270
近衛って優秀なんですね! うちのひいじいさんがそんなに優秀だった
なんて、なんか感動しちゃいました。

>「近衛は軟弱で、見た目ばっかり」
曽祖父の写真見ると、カナーリ男前なんですよ。ちょっとドキッとしますた。

もっと知りたくなったので、自分でも近衛について調べてみます!
(検索すると文麿とか出てきそう・・・)
272名無し三等兵:02/07/28 09:18 ID:QnaIrqlt
もれの大叔父さんの話
中国戦線で99双軽に乗っていた。護衛戦闘機なしでは国民党軍の戦闘機が怖かったらしい。
273ロンメル太郎 ◆PO9wZXbs :02/07/28 09:51 ID:???
曾爺さんは日露に従軍して鉄砲玉をくらった。
それで、手術で摘出した弾を溶かして、鉄の箸をつくった。
死んだら棺にいれてくれと言い残していたらしいが、
婆ちゃん曰く「燃えなかったので骨壷に入らなかった」
家族一同、そりゃ当たり前だと激しくツッコミ。

戦争体験とビミョーに違っていてスマソ
274名無し三等兵:02/07/29 02:01 ID:???
まあageておく訳だが(苦笑
275普段は競馬板住人:02/07/29 03:24 ID:???
父方の爺さんなんだけど戦中に鹿児島で陸軍の召集受けて
フィリピンのカガヤン(ルソン島の)へ行ったそうな。
最終的に山に逃げこみ、終戦1ヶ月後くらいに投降したらしい。
こちとら生まれも今も関東なので鹿児島の爺さんとは
生涯片手で数えるしか会った事ないんで、唯一聞けたのがこれくらい。
どの部隊かわからないものかな? あと、この辺の復員率ってどんなもん?
相当悲惨だったってよく聞くけど…>比島
276名無し三等兵:02/07/29 03:34 ID:???
俺の爺ちゃんは10年前に逝ったけど、昭和18年頃は中支に歩兵として
派兵されていたらしい、階級は伍長とか言ってたが、俺と一緒に酒を飲むと
何時も戦地の話を色々噺をしてくれた、部隊の駐屯地の周囲に八路軍のゲリラ
がよく出没するらしい、其の為に月に何度かのゲリラの討伐戦を行ったらしい
帰還する時、捕虜も何人か連れてきたと言っていた、捕虜は憲兵が取り調べて
機密情報を白状しない奴は、見せしめに、打ち首にしたんだよ、その打ち首の
役が、部隊の下士官に順番に回ってくる事になってるので、爺ちゃんにも番が
初めて回ってきた時は、相当気後れしたらしい、目隠しをした捕虜の首を斬り
落とすのは、初めての場合は一撃では大抵無理で、数回軍刀を振り下ろしたと
言ってたが、昭和新刀なので刃こぼれで使い物に成らなかったそうだ、この噺
は、爺ちゃんが逝くまで、二度としてくれなかったよ。
277名無し三等兵:02/07/29 13:01 ID:???
http://choco.2ch.net/test/read.cgi/army/1027914586/l50
ここに凄い事が書き込んでるよ
278名無し三等兵:02/07/29 13:07 ID:???
>>275
フィリピン全体では生還率22%だったかな。
ルソンも犠牲者多いけど一番悲惨なのがレイテ、生還率3%。
279名無し三等兵:02/07/29 14:01 ID:???
俺の曾爺ちゃんはシベリアで捕虜になってたそうだ。
爺ちゃんは、どっかの山に戦闘配備されてて、
結局戦闘にはならずに終わったそうだ。

二人とももう死んでるから、生で話が聞けない。残念。
280名無し三等兵:02/07/29 14:06 ID:???
父方のじいちゃんは工学博士で、運輸省の公務員。
中国に港の設計に出向いたりしてたそうな。
シンガポールとかインドネシアに行った同僚もいて、何人かは帰ってこなかったとか。
徴兵されなかったせいか、反戦的な考えを持っていて、天皇が嫌いだった。
でも勲章は辞退しないでちゃっかりもらっていた。

母方のじいちゃんは帝大の工学部卒で戦争末期に徴兵され促成栽培の海軍少尉となる。
訓練中に事故で同僚が死んだりしたそうな。
でも乗り組む船がもう残ってなかったそうで、陸軍みたいな格好をした水兵を率いて
九州防衛にあたっていたらしい。
穴掘ったり、資材運んだりと色々あったらしいけど実戦を体験する事無く終戦。

母方のばあちゃんは戦中は学生。
神戸で風船爆弾の風船部分を作ってたらしい。
ほんとかな?

母方のひいじいちゃんは、台湾の警察官。
じいちゃんの言うには「台湾はいい所だった、台湾人も概ねいい奴ばかり。
ただし朝鮮人は信用ならない。あいつらには気をつけろ」と言っていたらしい。

あと、親父にもちょっとだけ戦争体験(?)が。
朝鮮戦争のときに、九州から出撃していくB-29を見たらしい。
あと、F-86もよく見たとか。
281名無し三等兵:02/07/29 16:16 ID:CuXSLt2L
>>275
一般的には地元鹿児島連隊(番号は知りません)へ入営、
で鹿児島連隊は熊本師団に所属のはずです。
その部隊の戦歴は知りませんが。
あと暁部隊って言うのがあって、それは陸軍船舶部隊ですが、
その可能性も有ります。
私の親類が暁部隊でルソン島で戦死しています。
282名無し三等兵:02/07/29 22:47 ID:dOYlnhfC
バイト先のじーさんの話。
16歳で志願して海軍に入りそのまま戦争突入。
駆逐艦に乗っていたらしいが、敵前上陸のときはマジで怖かったらしく、
戦車の後ろに身をかがめて隠れていたとか。
自分の乗っていた艦が沈められた時は、外に吹き飛ばされ一晩海を漂って助かったらしい。
台湾で終戦を迎え現地で捕虜になり、
しばらくは蒋介石の軍に武器、設備等の使い方を教えていたらしい。
この時は捕虜といっても宿舎から外出できないだけで、
毎晩現地の人のおねーちゃんたちが差し入れを持ってきてくれて快適な生活を送っていたとか。
終戦後は貨物船の船乗りで世界の港で女を買ってたらしい。
中でもアルゼンチンの娘は目がクリクリしてすげーかわいかったと嬉しそうに話してた。
そんなビンビンな人ですが、今は雑居ビルの夜警のおじーさんです。
283名無し三等兵:02/07/29 22:47 ID:0GxzeEuk
>>275
>>281
ルソン島で戦った鹿児島の歩兵聯隊なら、第23師団第71聯隊かも。
リンガエン~ベンゲット道~バギオ間で苦戦した部隊です。

284おちょ:02/07/29 23:03 ID:ELiYT4dZ
山下は吉原で終戦を迎え、たいこもちになり、

切れ痔容疑者として入院させされた。入院理由は「若旦那に

変態行為及びをケツを許した。」からであった。

しかし、山下には証明するべき病気が無かった。

にも拘らず山下はA級切れ痔として浣腸刑を言い渡された。

「あんまり強くするなよ。痛いからな。」

「アヌスの虎」と言われた山下奉文の最期の言葉である・・・・。
285名無し三等兵:02/07/29 23:12 ID:???
>>284
痴れ者め。叩っ斬ってくれる!
286275:02/07/29 23:30 ID:???
>>278
>>281
>>283
レスありがとうございます。
一つ思い出したことがあるのですが、爺さんはフィリピンに行く前に
最初の召集で一度大陸の方へ行ったと言っておりました。
んで、熊本の第6師団を調べましたら歩兵第36旅団第45連隊が鹿児島編成で
たしかに大陸へ行っていたようです。……南京へ。
もしかしたら例の真相を知っているかもしれません。
ちなみに存命です。ピンピンしてます。今のうちに聞いたほうがよかとですか?
287おちょ:02/07/29 23:37 ID:ELiYT4dZ
>>285
レスありがとうございます。
斬っちゃって~
288名無し三等兵:02/07/29 23:41 ID:???
>>286
微妙な話なので、聞くとしてもストレートに聞くのは避けたほうがよろしいかと。
289名無し三等兵:02/07/29 23:55 ID:???
>>286
九州師団は荒くれ者で有名だからねぇ。
まぁ、やんわやりと聞いた方がよか。
290名無し三等兵:02/07/29 23:59 ID:???
私の叔父は歩兵で南方に行っていたそうだが、敵機が飛んでくると38式で
当たりもしないのに撃たねばならず、でもそのあとの掃除が面倒なので撃つ
振りだけしていたそうです。
291名無し三等兵:02/07/30 00:37 ID:kY37B7mi
>>283さん、詳しそうなので
質問スレじゃないけど、聞いてもいいですか?
292名無し三等兵:02/07/30 01:23 ID:zQNpHVuU
>262じいちゃんの蔵にあったよ。
当時の新聞には陸軍のことを地上軍ってかいてあった。
293名無し三等兵:02/07/30 02:52 ID:???
うちの祖父は千葉の農民ですが、
戦時は青森のほうで馬に乗っていたという噂です。
そのあたりの軍隊は、どんなことをしていたんでしょうか。
今後調べてみたいので、とっかかりになるような情報を教えてください。
294名無し三等兵:02/07/30 07:01 ID:???
>>293
www.hi-net.ne.jp/tjouba/p03-8.htm
にいた可能性を提示してみる。

295291:02/07/30 07:53 ID:???
自己解決しました。
スレ違い
296名無し三等兵:02/07/30 21:29 ID:KkXrsz4z
>>293
騎兵は昭和10年代初頭に廃止された。
ただ満州では現地対応で騎兵隊が編成されたり、鹵獲した馬を現地部隊が活用したたりしていた。
内地(青森)で馬に乗っていたとなると、まだ馬を使っていた兵科。
砲兵か輜重じゃないかな
297名無し三等兵:02/07/30 21:31 ID:KkXrsz4z
296だけど。
各歩兵連隊にも連隊砲運搬の駄馬、輜重の駄馬が配備されていたよ。
298軍事マニア歴33年:02/07/31 04:31 ID:4bfxEVXY
 自分の母方の祖父は、中国戦線に日本陸軍の将校待遇の
技術者として従軍して、飛行場を整備する仕事をしていた。
中国奥地で悪い病にかかり、昭和十八年の暮れに東京の陸軍病院
で亡くなった。母方の祖母はまだ生きていて同居しているけど、
既に3年位前からボケてしまっていて、とても、詳しいことは聞ける
ような状態ではない。 
 これとは対照的に、父方の祖父は一兵卒として日中戦争に従軍したんだ
けど、大地主の子供だったので後方任務の楽な仕事にばかり就き、最終的
には軍の高級将校から、「貴様は大地主の息子だから内地で軍隊のために
食糧を生産する仕事をしてくれ」と言われ、さらに、戦地で結核にもかかった
ので、従軍してから一年位で除隊になった。
299275:02/07/31 23:22 ID:???
275です。
あれから色々調べたのですが、第6師団が戦争後期に
フィリピンへ行ったという記録が見つかりませんでした。
師団が南京攻略後、すぐに本土へ帰還しているのまではわかったのですが
その後の配備までは不明でした。
そこで同じ鹿児島編成の第23師団第71連隊の方を調べましたら
この部隊も開戦直前に一度大陸へ行っていました。ノモンハンに。
爺ちゃんの配属されたのはこっちの部隊と考えた方が自然ですね。
しかもノモンハン事件の時に連隊はほぼ全滅してましたので
恐らくここで補充として満州駐留中に配属された線が濃厚と思われます。
フィリピンでもリンガエン湾からカガヤン方面に敗走して全滅に近かったようですし、
両方行って生き残っているなんてことはまず考えられませんから……。
とりあえず盆に実家(と言っても関東ですが)帰った時に
親父に知っていることを聞いてみようと思います。
300名無し三等兵:02/08/01 00:31 ID:???
http://choco.2ch.net/test/read.cgi/army/1028114897/970
のヤシ、それってどこの島だ??教えれ。

爺さんスレならこっちがあるんで上のスレから移動してきました。
301名無し三等兵:02/08/01 00:44 ID:???
>>299
283ですが、第6師団はブーゲンビル島で終戦を迎えています。
第23師団はノモンハンで一度壊滅し、フィリピンで再び壊滅した不運な師団ですね。
気の毒にも両方の戦場を体験された方もいるらしく。
302 :02/08/01 01:35 ID:h0H1HkQ8
age
303名無し三等兵:02/08/01 02:09 ID:VcsDdLA8
未だに南方に辞書を忘れたといいつづけるうちのじーさん。
通信兵だったようなきがする。
戦争が激化するまえに帰ってたらしいけど、詳細は不明。
以前にどの島にいたのかも聞いたけれど忘れた。
徴兵でいったのに、志願と間違えられたらしい(笑)
とりあえず、聞くのは果物が美味かったとかシャツ一枚で生活できたとか。
病気にならなかったら激戦区に送られたとか言ってたが……話が脱線するからよくしらん。
部隊は今度聞いておこう。
304293:02/08/01 02:55 ID:???
>>294 >>296 >>297
あがとうございます!
お盆に祖父の家行くんで、そのときにちゃんと理解できるように
勉強しまーす。
305名無し三等兵:02/08/01 07:37 ID:???
>>300
喜界島じゃないの?
3061:02/08/01 14:40 ID:T54zHQLc
久しぶりに来てみたらレスが結構ついているじゃない。全部読ませてもらいましたよ。
皆さんのジーちゃんに比べると俺のジーちゃんは・・・・。
軍艦で見張り台に立っているときでも、見張り台の高さと船のゆれによる恐怖で、双眼鏡を
一度も覗いたこと無いんだって。けど、そんなジーちゃんでも昨日のNHKの「その時・・・」
を見ていたら突然泣き出した。なんでもジーちゃんはラバウルで整備兵をやっていて、
自分の知っている人が結構ガ島で死んでしまったそうだ。
いつも嬉しそうに戦争の話をするけど、辛く悲しい経験もたくさんしてきているんだろうな。

307名無し三等兵:02/08/01 15:24 ID:ekwzwQfS
そういえば橋田寿賀子さんも風船爆弾製造してたらしいね。学徒勤労動員ってやつでかな?
おれの祖父は中国へ徴兵されて砲兵としていったらしい。俺が消防一年の時に死んだから直接聞いたわけではないですが弾を飛ばして見えないところで人が死んでると思うと恐ろしいってなことを言ってたらしいです。
あと敵の大部隊のど真ん中に入ってしまったらしいのですが、そこで敵に見つからないように発砲しなかったことで全滅を免れたということで勲章かな?をもらって上海休暇をもらったそうです。
308名無し三等兵:02/08/01 15:51 ID:/re5st9l
うちのじいさんは海軍陸戦隊でどっかの島を守備してたが、
最前線に何人か送ることになり、当然皆しり込みしてたが
うちのじいさんは手を挙げて行ったらしい。
ところがアメ公の飛び石作戦のおかげで最前線に行ったじいさんは
生き残り、以前いた島の守備隊は玉砕したそうな
この最前線(激戦地?)ラバウルかトラック島だと思うのだが
思い当たることあったら教えてください。
309名無し三等兵:02/08/01 16:17 ID:???
このスレ読んで感動した(TT
書くような事じゃないかもしれないが
祖父は大砲の砲手をやっていたらしい
結局訓練生って言うのかな、その時終戦を迎えたそうな
訓練で的の小屋に一発で命中させて上官からとても誉められた、
と誇らしげに話していた。
あの頃じゃ珍しい恋愛結婚だったり、パワフルな爺さんだったんだが
一年ちょっと前に結核が再発して肺炎起こして逝ってしまった・・・、
もっと話聞いたり、ちゃんと孝行するんだったと今でも悔やまれる・・・。
(砲の種類は聞いた時まだ小さかったから聞いてない、
的が小屋ってのもその時の記憶で、違ってるかも。)
310名無し三等兵:02/08/01 18:56 ID:uhOeVe6Q
>>308
多分そうでしょう。
後はフィリピンが落ちて
沖縄から台湾に行った可能性も無きにしも非ず。
(陸軍も1個師団が沖縄から台湾へ引き抜き)
311309:02/08/01 19:26 ID:???
久しぶり母に爺さんの事聞いてみた
大砲の種類は馬での牽引砲だったらしい(当然ながら陸軍)
その馬の世話もしていたそうだ
的が小屋だったのも本当だった。
中学が結構頭いい所じゃないと入れない所だったから
通常の歩兵じゃなくて砲兵にされたんだと思うと言っていた。
歩兵とは食べてる物が違ったそうだ、
砲兵は米?なのかな、食べてたらしいけど、
歩兵は高粱とか言う赤い穀物を食べてたらしい。
死ぬ前日に病室で就職、徴兵、終戦...までの話をしたらしい
戦争の話を聞く為ではないけれど、行ってあげればよかった・・・。
312名無し三等兵:02/08/02 00:27 ID:???
>300
ご指名どうも。うちの爺さん、徳之島の人です。
>305が喜界島って言ってるけど喜界島じゃなくて。
徳之島には陸軍の飛行場があって。2ヵ所に。その北側の方で任務に就いていたそうです。
昔爺さんのとこ行った時にその飛行場跡見たんですが。今は普通の道になってました。
ただ1km以上ずっと直線が続いてるんでそれだとわかります。
で、その道の両側はサトウキビ畑ばかりなんですが掘り返すとよく不発弾が出るそうです。
313名無し三等兵:02/08/02 02:07 ID:???
>>309
砲兵は馬の世話で苦労したらしいです。
気性の荒い奴は蹴る・噛む・抱きつくで、慣れない兵隊は散々な目にあったそうな。
旧制中学卒業の方なら、作家の山本七平氏のように観測関係の見習士官だったかも
しれませんね。
314309:02/08/02 13:35 ID:???
>>313
馬の噛み跡が残ってたそうです
冬の寒い日には馬の側で寝ると暖かかったというのも聞きました。
315大艦巨砲主義 ◆WpxW/KVk :02/08/02 14:18 ID:YMji/omR
どうも私の爺ちゃん(母方)は通信兵でガダルカナルに行かされる予定でした。
しかし先発の部隊が壊滅してしまったて、ガ島からの転進が発動した為、
行かなかったそうです。そして終戦まで静岡の方で防空壕を掘っていたそうです。
祖父曰く偉い人はコルセアが飛んできたりした時に馬に乗っているために、
よく弾に当たって死んだそうです。階級は終戦兵長だそうです。
316名無し三等兵:02/08/02 14:23 ID:rGdNW4co
俺の親戚は敗戦した日に特攻で飛ぶ予定だったと言っていた
そんな偶然もあるものなのかと思いつつ敗戦直前まで特攻
させようとしていた日本の焦りを感じた
317名無し三等兵:02/08/02 15:25 ID:???
漏れの中学の先生は特攻隊の生き残りって言ってたなあ。
本当かどうかわからないけど、出撃の為操縦席に足入れたとこで終戦
だったって言ってたなあ。
出撃寸前で終戦っていうのを誇張したんだろうけどさ。
よく聞いとけばよかったよ。
318名無し三等兵:02/08/02 16:24 ID:???
オレのじいちゃんは慈恵医大でて(9年)、速攻で陸軍。師団軍医長で
終戦。少佐のポツダム中佐。ネタとしては…

1)華中にいたころ(この頃は連隊軍医長)、大休止のち朝食行軍の号令が
かかってから…「軍医どのッ、第3中隊がなんか騒いでます。ゲリしてます!」「なに食った!」「それが、メシたいて乾燥味噌で近所の農家のナッパ
もらって味噌汁食っただけですが…」「?」
オチはその農家、タバコ栽培農家。一日行軍なしだったとか。
2)南方にいたとき、当然補給なし。軍医長の任務は「栄養の確保」 毎日
サツマイモつくってたそうな。そんなとき師団司令部から「撃墜した米軍機の
非常食を調査して内容を報告せよ」とブツと命令がきて、装備の差にガックリ
したそうだが、なかに乾燥血清があったそうだった。パックのラベルに「この
血清は米国女性の献血からできたものだからガンバレ!」と書いてあるのを
報告したら、師団長が「米国も銃後の女性がはりきってるのう」と。
で、レーションは軍医長が処分してよい、といわれたのでこの粉末血清を
飯ごうで煮たら、にこごりみたいなものができた。栄養はあるはずだが激マ
ズ。衛生下士に「これ、病院にもっていって『マズイが栄養はある。よかっ
たら一匙づつたべろ』」とやったら10分もしないうちに衛生下士が戻って
きて、「全員がたべました」 人間の生きることに対する執着を見たと
言っていた。
ウチは江戸っこなのでとーちゃんもすげえ体験しているけど、じーちゃんじゃ
ないから割愛。お粗末さまでした。
319軍事マニア歴33年:02/08/02 18:21 ID:R2Sakvyo
 298に関連した質問なんですけど、自分の父方の祖父のように、
地主の息子だから出征しても楽な仕事にばっかし就いた、という方々
は結構いたようです。なんでも、軍隊の方も片っ端から男子全員を兵隊に
とったわけではなく、将来の日本のことを考えて、地主、大企業等の長男は
跡取りがいなくなると困るので徴兵しなかったとか、技術職に就いていた
人は最前線には出さなかったとかいうことがあったようです。
 この辺の事情について詳しい方がいたら教えて欲しいのですが。

320名無し三等兵:02/08/02 19:58 ID:W57z8AbL
>>318
素人質問で申し訳ないですが、
乾燥血清の使用目的って毒蛇に噛まれた時用ですか?
321318:02/08/02 20:09 ID:???
>320氏へ
なんでもジイサマのハナシでは、携帯注射器と「溶解液」がセットされていて、
注射して輸血と栄養補給をかねる「つもり」だったのだろう、とのことでした。
322名無し三等兵:02/08/02 20:54 ID:FQ1/Jeg8
>>319
詳しい訳では無いが、参考になれば。
昔TVで、3度召集された人の話を見ました。
その人は、数少ない馬の蹄鉄を打つことが出来る人だったそうです。
馬は輸送の主力ですから。
各連隊にそういう情報(家族構成、職業、免状等)がびっしりと書かれたノートが有り、
それも見ました。こんな人が部隊に各何人とか規定があって、これを基に召集したそうです。
村や町の兵事係が適当に数合わせをやっていた訳ではない様です。
本土決戦前提の時間稼ぎ部隊(敵の上陸を2時間遅らす部隊とかあったらしい)
は別でしょうが、戦闘能力を発揮できなければ意味なし。
陸軍は地元連隊に入るから召集後に口利き等があって、後方勤務もあったかもね。
日本の将来(敗戦後)を軍が考えてたかはちょっと疑問。陸軍あたりはマジで1億玉砕だろう。

技術職はどの辺までを言うかでちょっと疑問。大卒?熟練職工は?
海軍は大卒技術者を片っ端から技術士官にしたそうだ。陸軍は一兵卒で採ろうとするから。
323名無し三等兵:02/08/02 21:41 ID:QW4HpZ7S
>319
 そういう制度があったのかは知りませんが
 うちのじいさんは東大卒で16年徴兵で取られたらしいですが
 終戦まで満州の後方航空基地で経理をやってたそうです。
324323:02/08/02 21:42 ID:QW4HpZ7S
当時の帝大です。
325眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/08/02 22:10 ID:???
>319
あくまでも徴兵担当官は役場の職員ですから、その人とコネがあれば、
徴兵されることはありませんでした。
確か、この季節にやってたNHK特集でそう言う話が出てたか、と。

うちの母方の祖父は、電炉メーカーの経営者一族だったので、戦争には
行かなかった。
そう言う場合、陸軍とか海軍とか軍需省とかから徴兵猶予の証明(「誰それは
国に必要な産業に従事して軍に無くてはならない存在だ」などと書いたもの)
を出して貰って、徴兵されても即日帰郷だったとか聞いている。

反対に父方の祖父は、曾祖父が県知事より高い給料を貰っている人だった
にも関わらず、それに祖父はこの時代にしては珍しく一人っ子の総領息子
だったのに、都合3回徴兵されている。
最終階級は衛生兵の兵長。
最初は中国、次にグァム→ラバウル、三回目が本土。
流石に三回目は即日帰郷だったそうだが…。

これは、ずっとその地に住んでたわけではなかったのと、周囲の妬み、それ
から、これは最大の要因だが、祖父はプロテスタント教会が設立した私立学
校の教員だったというのもあったらしい。
二回目の時は、ラバウルでB-17の爆弾が野戦病院に落ち、背負っていた兵
に破片が刺さり、その兵は死亡。
祖父も頭に爆弾の破片を受け(破片の切れ目ではなく、爆弾の表面の部分が
頭に当たり、頭頂部が陥没した)、昏倒。
生き残ったものの、マラリアで台湾の軍病院に後送され、曾祖父の知り合いの
医師が、「結核…軍務に適さず」という診断を出してくれたので、広島に帰って
きたそうな。
なお、祖父のいた部隊はラバウルからビルマに転戦し、インパールで壊滅した
そうだ。
326名無し三等兵:02/08/02 22:12 ID:bqZYRiFg
巡洋艦高雄にのっていた

327名無し三等兵:02/08/03 02:46 ID:???
おらの父方の ぢぃちゃん は、水呑み百姓の小倅で、人並みに喰うために職業軍人になりますた。

最初に徴兵された時に台湾の連隊に配属され、まだノンキな時代だったから、
かなり気楽な処もあり「せいしゅん を おうか」してたそうです。

満期除隊して故郷に帰っても独立して生計を立てられないビンボー生活よりはマシと思い、
そのまま、職業軍人になってしまった。
(今で言う処の公務員だと思うので、安定した生活ができると思ったらしい。)

終戦まで、あちこちに転勤(と言うのかな??)してて、2・26事件の時は、東京の部隊の
応援を命じられたが、詳しい事情を知らないので、命じられるまま任務についたそうな。

あまり頑丈ではなかったらしく、終戦は、腸チフスの療養中に迎えた。


ぢぃちゃん 自身は昭和の終わりに鬼籍に入ってしまい、直接に話しを聞けませんが、
色々と思うことがあったらしく、貧農の子供時代~終戦までの半生記を残してくれました。

たぶん、都合の悪いことは書いてないと思いますが、当時の ぢぃちゃん の気持ちを
想像する手掛かりになります。


独身時代、台湾のカフェーの女給さんたちと『キャアキャア騒いだ。(原文ママ)』そうで、
ぢぃちゃんにも、普通の青年時代があったんだなぁ~。と思うと、
おらが知っている ぢぃちゃん は「年寄り」だったから、ちょっと不思議な気分です。
328名無し三等兵:02/08/04 01:55 ID:???
今でも生きては居るが、今死にそうな、離婚した母方の爺さんの話。

俺は、勉強がどうもできなくて、よく、その爺さんに説教された。
その時必ず言われたのは、俺は、海軍のせいで大学に2回行く羽目になったんだ。
志学できるときは、今だけだ。死ぬ気でやれば、何でもできる。わかったか!といつも一喝されてた。

そんなある日、爺さんが機嫌がいい時に戦争の話してくれと、俺が頼んだ。
爺さんの話↓
俺は、軍隊に取られるのが嫌で、大学に行ったんだ(どこか忘れたが、大阪圏にあった公立の大学)。
大学で、成績がよければ、出征しなくても良かったから必至で勉強して、なんとか出征せずにすんでたんだ(何とか特権ってのがあったらしい)。あの法律ができるまではな。
その法律とは、なんとか特権を全廃して大学に通う物も出征を義務図けるとのものだったらしい。(国家総動員なんたら法?)
それで、海軍に行くことになった。(婆さんは今でも海軍に取られたと言う)
実家は兄弟が多く、親は百姓で、貧しかったらしい(でも、大学に行かしてくれた兄弟でただ一人)。
出征のときは、敗戦濃厚で、親は、深夜、農作小屋に爺さんを呼び出して言ったらしい。
「負ける戦争に命掛けんでもええ。せやけど、国の為に死ねと言われたらその通りせよ。
手柄立てられる様な事に出くわしたら、手柄立てて、立派になって帰ってくんやぞ」と
言われたそうだ。
それで、町内の人とか、親戚が集まって、見送りしてくれたそうだ。
329328:02/08/04 02:07 ID:???
海軍に入ってから、頭に良さを買われて(本人がそう言ってる)
船にのったんだ(船名不明)。
艦列組んで航行してたら、アメリカの艦攻が飛来してきてな。
僚艦がやられるのを遠巻きに見ててな何時かやられるのではないかといつも考えていたらしい。
その日が来たらしい。
相変わらず艦列を組んで航行中に、敵の艦攻が急降下してきた。第一派は被害がなかったが、
5分~10分後に第二派がきたそうだ。
爺さんは、同期のどもと機銃に付かされ、攻撃に備えていたらしい。
ビユーーンと音と共に、飛来してきたので、必至に打ち捲くったのだが一つも当たらなかったらしい。
それで大打撃を受けて、寄港する羽目になって、寄港して、上陸中に終戦。
その後、爺さんは、京大に行ったそうだ。
何故2回行かなきゃ行けなくなったかは、なんか、何処も取ってくれなかったので、京大に入って一からやり直したらしい。

爺さんが見せてくれた、出征の時に手渡された日章旗の寄せ書きは、飾ってあって、それに触るとパイプで殴られた。
あと、軍服姿の爺さんの写真と、軍刀、実弾2発見せてもらったことがある。
あと、艦長から貰った、壺と、腕章は今でも大切に金庫に閉まってあるらしい。
330名無し三等兵:02/08/04 14:08 ID:ewO9Dwib
age

331.....:02/08/04 15:52 ID:???
 私が生まれる前に死んでいたので母から聞いた話だけですが、うちの母方の祖父は
戦時中、インドネシアに電力会社を作るためにジャワ島に渡って現地召集され、
そこで終戦を迎えて一年余り抑留されてから帰ってきたそうです。明治三十八年生まれで
四十近いオッサンだったので、戦争末期まで召集されなかったようで。
 だから、初年兵イヂメを逃れるため「便所掃除に行ってきます!」と言って率先して
便所掃除をやった…という、しょぼい話しかありません(笑)。むしろ、ジャワ島よりも
内地で空襲に遭った祖母や母の方が生命の危険を感じていたかも?

 父方の祖父は父が小さい頃に死んだので、戦争を体験してないと思います。
332名無し三等兵:02/08/04 22:46 ID:6ei5adQE
>>331
戦時中にも
ジャワは天国ビルマは地獄とまで言われていましたからねえ
333名無し三等兵:02/08/04 22:52 ID:8L7160xg
北海道に生まれて旭川で徴兵をうける。
北支派遣軍として中国で戦闘。
指揮中に貫通銃創を受け後送。
連絡任務中に乗車したトラックが地雷を踏み負傷。

再編され第35師団 歩兵第220連隊として南方へ派遣。
途中で輸送船但馬丸が、米潜の雷撃を受け沈没。
駆逐艦五月雨に救助され、ニューギニアに上陸。
補給の欠乏と、陣地構築などの重労働で戦病死続出。
なんとか生き残って復員。
334名無し三等兵:02/08/04 23:14 ID:A6r2fTVU
母方の父の弟は駆逐艦に乗ってたそうです(艦名わすれた)

それで、なんと戦艦大和の沖縄特攻に参加していたそうです。
あれで生き残った駆逐艦と言うと・・・まさか雪風!?
335名無し三等兵:02/08/04 23:26 ID:???
>>334
涼月とかも生き残ってる
336名無し三等兵:02/08/05 01:08 ID:???
>>335
初霜もだよ。
初霜の艦長はまだ生きてるぜ、
337名無し三等兵:02/08/05 17:35 ID:bKUHzLEt
1770です、181~183不時着編につづき沖縄編です。

このスレに投稿しようとジーさんに事あるたびに戦争中の話をさせようと話題を振って
みるのですが、急に怒り出したり、固まったりでなかなか聞き出させません(最近ちょいボケ
が入ってる様です)、基本的に戦争中の話は多分したくないのかな?と感じています。
したがって断片的ですが沖縄での話を書いてみます(過去不時着の話に次いでよく聞かされますた)

正確な年代は分りませんが米軍上陸直前までいた様です。 断片的なのでとりあえず話を箇条書きに
してみますと、
1.まだ米軍の艦載機の攻撃がなかった頃に輸送船の入港の連絡があると対潜哨戒の任務に付いて
いたそうです。 対潜哨戒の命令が下ると皆先を争って任務に付いたそうです。
貴重な物資を守る為に皆必死だったのかな?と思いきやそーではなく上空に上がるととても涼しく
思いっきり昼寝が出来るからでパイロット以外は皆思い思いに食料を持ち込んでは天然クラーで
涼をとったそうです、地上にいると陣地構築などの労働があるので対潜哨戒に一度上がると天国
だったそうです、私がそのせいで輸送船がやられたのでは?と聞くとその頃はすでにどーにもならない
雰囲気になっていた(兵隊が)そうです。
以下つづく


338名無し三等兵:02/08/05 17:36 ID:bKUHzLEt
337 つづき
2.海軍の『銀河』爆撃機の話
多分台湾沖航空戦?の頃だろうと思うのですが、ジーさんのいた飛行場に十数機の銀河がやって
きたそうです。 ジーさん曰く非常にスマートで『カッコイイ』と思ったそうです。
ジーさんの記憶では1度出撃したらしいのですが総数の1/3ほどしか出撃しなかったそうです、
後で海軍の兵隊(多分整備兵)に聞いた所、残りは故障その他で可動していなかったそうです
その理由も後日ジーさんなりに納得したそうですが・・・
銀河が飛来して数日も経たないうちに米軍の艦載機がやってきて飛行場を銃爆撃(数回にわたり)
されて虎の子の銀河もあっけなく全滅したそうです。 燃料の入っていた機体は燃えカラの機体は
そのままの姿で残っていたそうです。 燃えている機体からは熱で暴発する機関銃のおかげで近寄れ
ないそうで翌日になっても余熱で思い出したように『パンパン』と搭載機銃の暴発があったそうです。
ほとぼりがさめて燃えていない機体にジーサン達は行ってみたそうですが外観とは裏腹にとても
兵器として使えるような代物ではなく工芸品のような作りだったそうです(点検ハッチを開けてビックリ
キッシリ擬装が詰め込まれて手の入る隙間もないくらいだったそうです)。
燃えていない機体も機銃弾で穴だらけで再生不可能状態でジーさん曰くこの時点で
事実上沖縄の航空兵力が壊滅したのではないか?とゆうことらしいいです。
339名無し三等兵:02/08/05 17:43 ID:XBxdSt9p
母方の祖父は陸軍の経理部大佐だったので戦場には行かず・・・。
でも、勲三等を持ってたりもする。
もう、他界したが、戦後はそのコネを利用して闇市を仕切っていたそうだ。
で、横流しの米で煎餅屋を始めて警察に捕まったとの事。
なにせ、無口な人だったので本人の口から戦争話を聞いたことは全くない。
340名無し三等兵:02/08/05 17:52 ID:bKUHzLEt
337 つづき

3. 爆撃を受ける際の注意点の話
使用可能な航空機が無くなったジーサン達のやる事といえば、トンネル掘りだったそうで
ジーさん達が掘ったトンネルは後日病院になったそうです(とは言え穴に敷板を置いただけ)。
連日敵の艦載機がやって来てボカボカやられたそうですが飛行場だったので特に狙われたのでは?
と言っておりました。 爆撃を受ける際の注意点ですがジーさん曰く
まず両手の親指で耳をふさぎ、残りの指で両目をふさぐそうです。同時に爆弾の降下音と共に
口を大きく開けて息を吐くそうです。逆に息を吸って空気を肺に溜めておくと
気圧差で内臓破裂をおこすそうです、爆弾の場合直撃以外はこの対処法で大丈夫との事です。
なんども低空に下りてきた敵の搭乗員の顔を見た(目線が合った)そうで
なんとも言えない無力感を味わったそうです。
以下つづく
341名無し三等兵:02/08/05 18:02 ID:bKUHzLEt
337つづき

4. 沖縄最終便?での脱出(転進←(^^;)
敵の爆撃の後はどうしても死傷者が出るので死体処理をせざるおえません
ジーさん達は率先して爆撃直後にそれらをやったそうです、なぜなら時間が経つと
臭いが激しくなってくるので早めにやってしまった方が得策との事らしいです。
そんなこんなでジーさんは米軍の上陸が近いと覚悟を決めていたそうですが
偶然にもかつて可愛がってもらった上官に拾われて最終便(定かではありません、ジーさん
はそう思っている様です)で内地に送還になったそうです、
少し休憩してつづきは後日記載しす。
342名無し三等兵:02/08/05 18:04 ID:7BgLN0G9
民間の会社で海軍の軍艦作るところで働いていたとか何とか・・・・

んで、陸軍に徴兵される前に志願して砲兵として満州へ。
なんか一五〇糎ナントカ砲撃ってたとかなんとか。
伍長か?軍曹くらいだったらしいでよ。
終戦間際(後?)にソ連軍に捕まり強制労働を強いられる。

んで、その後無事帰国。
343名無し三等兵:02/08/05 18:08 ID:BnvUnU4m
どうもこんにちわ、この板には初めてカキコさせていただきます。
俺のじいさんですが、第二次大戦中は中国に従軍するも、厳しい従軍生活に
嫌気が差して途中でバックレて、なんとか日本に帰ってきたそうです。
その後、日本軍兵士の戦地派遣のための事務業務(脱走したのによく罰せられ
なかったと思うんですが・・・)に携わっていたそうです。
そこで、気にくわなかった仲のよくない上司を本来の勤務先から、
ラバウルなどの激戦地に投入するように、わざと誤った事務手続きをしていたそうです。
それも何人もの上官を死線に投入して死なせていたそうです。
(ろくなもんじゃねえな・・・)
極め付きの話ですが、インドネシアに派遣されたときに、酒が飲みたくて、
同僚の兵士と軍の倉庫に保管されていた、工業用のメチルアルコールを
盗んで回し飲みしたそうです。
その結果回し飲みした10人中8人が中毒死。ジイちゃんと残り一人が生き延びた
そうです。これで自信をつけてしまったらしく今でも「俺は鉄人だ」と
ほざいております。一体何やってんだか・・・

ちなみに、中国に出兵したときは日本軍の残虐行為をイヤというほどみたと
いいます。「そりゃあひどかったよ・・・日本軍のやった事は・・・」
って言っていましたね・・・。
344334:02/08/05 18:27 ID:+Cpvn8rr
335、336氏

すいません、結構生き残ってたんですね。

で、その人に俺が「大和見た?」って聞いたら、「想像してたのより、小さかった」
って言ってました。(笑)

戦後は実家の魚屋を継いで今も元気で暮らしています。今度もっと当時の話を聞いてこよう
345名無し三等兵:02/08/05 20:53 ID:2tGc1fqi
親戚の爺さん二人の話なんだけど
一人は特攻隊で、飛行機で特攻するんじゃなくて
話によると、機雷を歩いて引っ張っていって相手の戦艦に体当たりすると
いう特攻だそうです。練習中にかなりの人が死んだそうです。
幸いな事に特攻する前に終戦を迎えました。
終戦で海軍から2000円もらって帰ってきたそうです。

もう一人の爺さんは横須賀で対空砲を撃ってたそうです。
話によると、制服が白色で敵の戦闘機に狙いを定められやすいらしくて
負傷したそうです。
346名無し三等兵:02/08/05 21:12 ID:???
うちのじいさんは航空隊(陸海不明)で整備やってました。
真珠湾の奇襲は東南アジアの方で聞いたらしいです。
魚釣ったり、酒飲んだり楽しくやってて、飛行機乗りの飯は上等だから
おこぼれで自分らも良いのが食えたとか。
終戦間際では銃弾が飛んでくるような状況もあったそうですが、おおむ
ね楽してたと話してました。
辛い体験を話す気がないのかもしれないけど。
終戦後は捕虜としてマレーシアに送られてから帰ってきました。
うちの隣の爺さんは中国戦線で苦労したらしいが、うちの爺さんは運が
良かったんだろうと思う。

そういや開戦時の東南アジアの基地ってどこだろ?
実は最初は台湾とかだったのかも。
347眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/08/05 21:29 ID:???
>346
陸軍だったらハノイ、海軍だったらサイゴンとかその辺だったと思います。
当時、フランス領インドシナは日本軍が進駐していましたから。
もう少し経てば、タイとかにも進出していますがね。
348名無し三等兵:02/08/05 22:42 ID:???
戦闘機の機銃に撃たれても生きてるものなの?
腕とか当たったらそのまま腕吹っ飛びそうだ・・・。
胴体とかは即死じゃない?
349名無し三等兵:02/08/05 23:19 ID:h3D+QsQm
連隊区を地図に書いて
苦戦した連隊,玉砕した連隊をみるとどのあたりが目立つんだろう
やっぱり久留米,旭川,会津若松とかがすごいのかな
350マルサッカ:02/08/05 23:23 ID:???
うちの爺ちゃん横須賀で銃撃食らった(当たった)らしいけどピンピン生きてるよ。
未だに弾入っているとか言う話だけど?
351名無し三等兵:02/08/05 23:29 ID:???
>>348
陸にオケル重機関銃と同じだからね。(12.7mm)
>>350
凄い強運の持ち主ですな
352名無し三等兵:02/08/05 23:50 ID:???
おれの父方のじーさんはかなり前になくなったんだけど、
中国で戦っていたみたい。階級は軍曹。敵の食料備蓄所を急襲した
かっくいい話とか水汲みに行った帰りに水筒落として上官に殴られた
とかいう情けない話も聞かせてくれた。
食べ物関係のはなしが多かったのはやっぱり当時腹が減ってたからなのか?
でも中国語はペラペラでした。
 母方のじーちゃんはきょねん82で亡くなったんだけど、近衛をやってたらしい
大砲かついで皇居の周りを走ったり、軍馬にのって千代田周辺を闊歩したっていう
話を聞いた。実戦経験は1度も無し。剣道8段で(剣道は7段までは何とか行けるが
8段がむちゃくちゃ大変だって言ってた)学業超優秀のすげーじーちゃんだったらしい。
353名無し三等兵:02/08/05 23:56 ID:B5sDrhi4
俺のジーちゃんは名高い?菊兵団。戦友がたくさん亡くなったそうだ。
今でも言う台詞「大阪の兵はいっちょんいかん。あげなこつじゃ、戦争に勝てるわけがなか」です。
(大阪の人、もし見ていても気を悪くしないでね)
354名無し三等兵:02/08/06 00:27 ID:???
>>353
私のジーサンも菊師団、ビルマで戦死してます。
もしかしてジーサン同士知り合いだったかもね。
菊兵団で大阪の兵を語るって事は、ビルマ戦線の生き残りでしょ。
ぼろぼろで撤退してきたら、きれいな軍服、武器は充実で
弾薬無くて苦労した福岡県人はぶち切れたそうな。

一時期大阪に住んでたけど、皆お口が達者で・・・
いい人が多いんだけどね。
355名無し三等兵:02/08/06 00:36 ID:???
>353,354
「安」兵団だっけ…(名前がもうヨワい)
寄せ集めの年寄り応召兵ばっかりだからしょうがないですよ。
みんな家族持ちだったりするからナー
「アーロン収容所」の会田雄次先生は「安」の所属です。
装備も相当貧弱だったそうですから、そう責めないでやっておくんなさい。

大阪人に言わせりゃ、
「ロクな武器もなけりゃ、食うものも食わせんのに戦争なんぞやっとれるか」
ということになりましょう…
356名無し三等兵:02/08/06 01:01 ID:TMVeZuXN
母方の祖父の弟もビルマで戦死。
ただし敵弾に当たったとかいうのではなくて
餓死だったとか・・・
遺骨を持って帰ることができなかったから
生き残った戦友が小指を切り取って持って帰ってきてくれたらしい。
でも誰の指かは定かでないので、祖父母が「受け取ったものも
弟のものではないだろう」と言っていた。

その祖父は海軍航空隊。詳しい所属は不明だが
昭和20年の春に九州にいた。
滑走路で飛行機の整備(といっても飛ばないハリボテだったらしいが)を
していたら空襲があり、「グラマン」が機銃掃射をしてきた。
祖父は戦友二人と壕に向かって走って逃げた。
真ん中に祖父、両側に戦友というような感じで横に3人並ぶ形になってたらしい。
あとちょっとのところで機銃弾に追いつかれ、両サイドにいた戦友に命中。
一人は頭部に弾が命中し、脳みそが飛び出てしまった。
その飛び出た脳みそが地面に落ちると
まるで意思があるかのごとく、「ばばばっ」と動いたとか。
祖父のその時の感想は怖いとかでなく、
「桃色できれいだなぁ」というものだったとか。

小学校のときに一度だけ聞いた話だが、
子供心にかなりショッキングな話だったなぁ。
357327:02/08/06 02:32 ID:???
>>346
>>実は最初は台湾とかだったのかも。

おらの ぢぃちゃん が最初に徴兵されたのは、大正13年だったから、
まだまだノンキな時代だったらしい。

当時は、籤で配属部隊を決めていたらしい。
(ぢぃちゃん の本には、その籤引きについて詳しく書いてないから、よく分からないけど…)
それまでは、籤の10番までが海外入隊となっていたらしい。
ぢぃちゃん は、23番なのに、その例破りとなったらしい。
(一本気でおっちょこちょいの ぢぃちゃん の事だから徴兵検査の時にでも、
 「配属はどこでも良い」とウッカリ言ったんぢゃないのかなぁ??)

厳しい軍律、激しい演習はキツかったらしいけど、三度三度メシが喰えるから、
水呑み百姓の小倅としちゃ~、嬉しかったらしい。
「いくら働いても浮かぶ瀬の無い小作百姓よりはマシ」と思い、
また、予期せぬ事情もあって、職業軍人の道を選んだらしい。

二度目の出征(と呼ぶのなか??職業軍人だったし。)は、蘆溝橋事件の後、
増員令が出て、家族を日本に残して、中国に単身赴任したらしい。
(実家のアルバムには、単身赴任中の ぢぃちゃん に送った
 写真館で撮った「家族の肖像」が貼ってある。)


ぢぃちやん は、子供の頃に軽い結核になってたらしくって、徴兵検査で甲種合格となったのが
自分の身体は誰にも劣らない立派な身体だと証明してもらった様で、とても嬉しかったらしい。
(ただし、おらの父方の親戚一同がハゲなのと腸関係が弱いのは ぢぃちゃん の遺伝だと思う。)
358354:02/08/06 18:10 ID:???
>>355
ゴメンゴメン別に責めてません。
たまたま後方に居たのが大阪の部隊だってだけで
どこの部隊が居ても同じ事やったでしょう。
359名無し三等兵:02/08/07 12:19 ID:KVC4c4VQ
age

360撫順満鉄病院:02/08/07 12:53 ID:94h7ea5d
うちのじーちゃんは撫順(満州)の満鉄病院でインターンを
していたそうだ。負傷兵がいろいろな情報を持ってくるんで
「そろそろやばいか?」と判断して先に嫁を日本に
戻したんだそうだ。その直後にソ連が攻めてきてシベリア送り。
ところがじいちゃん「ここで逃げないと生きて帰れぬ」と
確信したらしく、走行中のシベリア行きの列車から脱出。
機関銃で掃射されたらしいけど畑のトウモロコシが育っていて
運良く逃げ切ったらしい。それでも何発か食らったそうだ。
満鉄病院まで、途中いろいろしながら(たぶん盗みとか。
詳しくは聞いてない)何日かで戻れたそうだ。戻るなり
倒れ込んで二週間ほど生死の境をさまよったとか。
病院にはまたソ連兵が来たらしいけど看護婦連中に
かくまってもらい、無事日本に帰ることができた。
じいちゃんもう死んだけど、その数年前に一緒に中国旅行
してきた。大連~沈陽~撫順の旅。じいちゃんが当時
勤務していた満鉄病院はまだ残っていて病院として
使われていた。じいちゃん半泣きになりながら
「ここで勤務してた」とか「ここで生死の境をさまよった」とか
聞かせてくれた。最後には病院の裏に行って線香を
あげていた。「誰だかわかんなくなってた遺体をここに
埋めたんだよ」って。じいちゃん泣いていた。
ここの病院の院長は、じいちゃんの時代の院長を知ってて、
じいちゃん、話ができて喜んでいた。
あと2,3年したら病院を取り壊すことになっていたらしく
あのとき行けてホントによかった。
じいちゃんとばあちゃんの馴れ初め話も面白くて、今よりも
はるかにダイナミズムのあった時代だったのかなあなんて思った。

もう一人のじいちゃんのことはよく知らない。
近衛兵だったとは聞いたけど。
361名無し三等兵:02/08/07 13:07 ID:???
母方の爺さんは満州の国境警備してたらしい。
師範学校出の教師だったから徴収兵でも士官から一目置かれていたらしい。
部下をいじめる横暴な士官を“叱って”いじめを止めさせたらしい。いじめられていた本人は凄く感謝して戦後も付き合いあったらしい。
362名無し三等兵:02/08/07 13:22 ID:???
もう死んじゃったけど、内のおかん側の爺さん中国(満州)の偉いさんだったらしい。
あまり話ししてくれなかったけど、一緒に風呂入ったら尻に爆弾の破片が残っていたし
銃痕があった。日本が負けて、引き上げ船で帰ってくる時、船上で家のおかんが、
生まれたそうだ。(つーことはおかんは中国国籍か?もし満州で生まれてたら残留孤児?)
引き上げ船の中では、死んでしまった赤ん坊や子供が、海に捨てられていた。
おかんも熱がでて死にそうな時に、爺さんの部下が、どこからか薬を調達して来て
助かったそうだ。かなり小さい時の話だが、そんなとこです。
363名無し三等兵:02/08/07 13:33 ID:???
折れの爺さんは南方、大陸に逝くのが嫌で
勉強して近衛師団とか言うとこに配属されたらしい。
でも、それが死ぬまで悪いと思ったらしく
県人会の慰霊旅行には毎年参加して、軍刀、双眼鏡などを
大切に保管していた。まあ、折れには山下大将の逸話を子供の
折れに語るボケ爺にしか思わなかったが。
364名無し三等兵:02/08/07 13:46 ID:???
俺の知ってる爺さんだが、満州で線路の工事をやってたと聞いた
突然の爆発で両目を失い、今も義眼入れてる。
365名無し三等兵:02/08/07 22:36 ID:???
昨日、臨時で行ったバイト先の現場のおっちゃん。
豊川の海軍工廠で働いてたそうで、爆撃を受けた時の話しを聞かせてくれた。

爆撃のときは、どっちかというと戦闘機の方が怖かったらしい。

超低空を飛んで来ていきなり屋根の上に現れるから、見えた時はもう逃げられないとか、
低空飛行のあまり戦闘機が電線の下をくぐったとか、
あげくパイロットがニコニコしながら撃ってきてハラ立ったとか。

極めつけは、上の人から
「戦闘機に狙われたらまっすぐに寝転んで、銃撃の線を見ながら左右に転がって避けろ」
とか無茶を言われたらしい。
理屈は分かるがそりゃねえだろ(笑)
おっちゃんも「そんなバカな事言ってりゃ、戦争にも負けるよな」と。

昔のことだからか、終始笑いながら話してた。
もう消化できてるんだろうな。
366名無し三等兵:02/08/08 00:55 ID:???
>>360
へえー。戦時中からインターン制度ってあったんだ。
なんか日本ってすげーな と別の方向で感心してみた。
367名無し三等兵:02/08/08 22:16 ID:r6ReChbP
漏れの親父の兄弟の話をひとつ
親父の兄弟3人は一人も戦地に行かなかった。
コネではない。
親父の父親(祖父)は40を過ぎていたため召集されなかった。
長男は日本光学に勤めていたので召集は遅かった、昭和18年に甲種合格で近所の人たちから
万歳の声援に送られ少年飛行兵として華々と四日市の航空隊に入隊した。
ところが10日後の深夜に家の門をたたく音、長男だった。
風邪気味の体でレントゲン検査を受けたら結核と診断されて即除隊になってしまった。
次男は丙種合格で詳細は聞いてない。
末っ子の親父は甲種合格で少年戦車兵として入隊予定(富士)であったが終戦になった。
当時は東京の芝区に住んでいた。高度1万から1万2千を飛行機雲引きながらB-29が飛んでいく
決まって夜に空襲、その繰り返し、空襲は単機でB-29が進入してくる、高度は僅か5百前後
爆弾倉を開いた状態ですぐ上を何機も何機も通過する光景はほんと圧倒されたとのこと。
祖父曰くアメリカ相手に勝てるわけがない!この戦争で死んだら犬死と言っていたそうだ、
だから学徒動員で疲れている親父をたたき起こしては防空壕に親父を放り込んでいた。
一番怖かったのは陸上機と艦載機による空襲であった、グラマン(F6F)そしてちょっと
疑問だったが双発双胴のP-38が乱舞、もはや制空権は味方になく機銃の発射音、弾着音
超低空での爆音がいっぺんに来てパニック状態になった、どぶに入るというより無我夢中で
走って落ちたというのが正解だったとか。
玉音放送については良く聞こえたと言っていた、感想はやれやれ、やっと終わったかと安堵した
とのこと。
終戦後1ケ月は祖父と釣り三昧、ある日電報が来て学校は既に始まっているから来るように
とのことだった。登校したらその組の3人位はいなかったかなと言っていた。

368名無し三等兵:02/08/09 09:33 ID:???
>>367
ツインマスタングじゃなくてツインライトニングっていうこと?
369名無し三等兵:02/08/10 19:35 ID:glw+0ewb
ageageageageageagegagegage
370名無し三等兵:02/08/10 21:25 ID:???
うちの爺さんは中国戦線にいたが行軍が辛くて辛くて仕方なかったとのこと。
不時着した偵察機(機種不明)のパイロットを助けに行ったらパイロットは小舟で
既に脱出した後で自分たちが逆に包囲されて助けられたなんて間抜けな話をしてくれました。

が、爺さん2ちゃんねらーもびっくりな中国・韓国嫌い。その悪口と来たら。昔の人は野蛮ですね。
371名無し三等兵:02/08/11 03:07 ID:XxX0Pw94
>>27
超遅レスだが、うちの近所の鍛治屋の爺様も「隼鷹」に整備兵として
乗り込んでおりました。
いつもその頃の話や、乗っていた船が沈められてフカの泳ぐ海を
泳いで友軍の艦に助けられた話などをしておりました。
戦後家で鍛治屋をやっておりましたが、当時の艦載機の修理用の外板
を持っていたみたい。
残念ながら3年程前に亡くなられましたが。
372名無し三等兵:02/08/11 03:46 ID:UBNrf72d
うちの爺様はよく話をしてくれないので厨房時代の塾講師の先生のお父さん。
昭和20年に少尉任官。零戦五二型を駆け。本土防空戦を戦い抜く。
エンジン後流しよってマフラーをなびかせてる写真はなかなかに萌え。
先生の話では本当は八月十三日に沖縄に向けて出撃するはずだったのですが
30分ぐらいしたらエンジンから恐ろしい勢いでオイルが漏れたのでやむなく
基地に引き換えしたそうで、それを悔やんで逝ってしまったと聞きました。
その後も零戦は敵弾にあたるともの凄い揺れる、とか
一分の一零戦ガレージキットを作っている、とか
今度興味があるなら20mm弾をあげよう、とか
およそ塾では習わんことを教えてもらった自分は立派に軍オタになりました。
今もって先生とその父に感謝です。


373名無し三等兵:02/08/11 04:50 ID:???
ビルマに歩兵として行ったらしい。
弾食らった跡を見せてもらったことがある。
消防のときに死んでしまった・・・
もうちょっと長生きしてほしかった。
数年後にはそういうことに関心を持っていたから・・・
374名無し三等兵:02/08/11 08:01 ID:???
よぼよぼι"ι"ぃはさっさと氏ね
ただの戦争犯罪人だろ?
375名無し三等兵:02/08/11 08:27 ID:???
>>374
おっ、近所の小学生と同じ意見だな。
376名無し三等兵:02/08/11 18:10 ID:qI3VwVDz
agextu
377名無し三等兵v:02/08/11 18:31 ID:???
>>374
恐らく君は運命と立ち向かう時、ただヒタスラ逃げ道のみを、捜し求め
迫り来る物に立ち向かう事など想像する事も出来ず。
無様な敗北を味わう事でしょう。
** 味わう、のにも若干の知性は必要だが。**

まぁ早くPCの電源切って宿題でもやりなさい。
378名無し三等兵:02/08/11 22:30 ID:V1AXgfjc
>>371
隼鷹のプラモ、ガキの頃作ったなぁ。
自分たちの乗艦がプラモになる気分ってどんな感じだろうかね。
379名無し三等兵:02/08/11 22:49 ID:???
それは漏れの叔父さんがTopの64式をガンショップで眺めてたり
同じくその弟の漏れの親父がスモーキーのニューナンブ改造キットを
その横で眺めていたりした時のような気分でつか?
380名無し三等兵:02/08/11 23:34 ID:SyvgBkkC
この機銃にはあいつが、、とかそういう感慨があるのかなぁ・・と。
381名無し三等兵:02/08/12 01:17 ID:wUsY5RsN
>>89
おれも住人じゃないよ。たまにROMってるけど。

うちのじいさまは身長が足りなかったので、徴兵されなかったんだと。
そんで男が不足したのをいいことに、かどうかは知らんが、3回も結婚している。
母方の方は金剛の機関員だったらしい。帽子が残ってた。
382名無し三等兵:02/08/12 01:47 ID:e/lRfVC7
この板初めて来ました(・∀・)

俺の祖父はシンガポールに行ったそうです。
東京から台湾を経由して、シンガポールに到着したらしいです。
船の上では時々相撲大会が催されたそうです。
シンガポールは既に陥落した後で、祖父は空港で働いた?そうです。
チャンギ空港のあたりはそのときは日本軍の施設がありそこに駐屯してました。
イギリス軍から銃火器を取り上げるとき、インド兵が多くて驚いたとのことです。
結局、終戦で戻ってきたイギリス軍につかまったそうです。
今でもシンガポールに戦友会で行ってるみたいです。
祖父もそうですが祖母も東京(現荒川区、現渋谷区)なので空襲が激しくて、
そのときの苦労話を祖母から何度も聞かされました。

もう一人の祖父は足が悪く戦地には赴きませんでした。
しかし、祖父は背が高く(185くらい)体格が良かったため、
戦時中は肩身の狭い思いをしたそうです。
田舎なので空襲も無かったとのこと。
383名無し三等兵:02/08/12 04:04 ID:???
>>374
すまんのぉ、オレのじーさんは戦犯だ。
生きるために真面目に頑張ってたんだけどね。当時は。

オレが「戦争はコワイ」と思うのは、ヒトを極限状態に追い込んでしまう事だよ。
精神的にも、肉体的にも。
そうなった時、オレも大本営発表を素直に信じるかもしれないし。
テロだって、そうなんだろうな。

まぁ、おまえがそう言い切るんなら、戦争反対を唱えて頑張ってくれ。

それと、おまえのじーさんは出征してないかもしれんが、
空襲の経験はあると思うから、生きている内にその話しを聞いとけ。
それがおまえの家族の「歴史」だ。
歴史って、そゆもんだ。

スレの主旨とズレたから、sage。みんな、スマソ。
384名無し三等兵:02/08/12 17:25 ID:opzdTpGJ
あげ
385名無し三等兵:02/08/12 17:30 ID:qCF3bYiJ
おれのじいちゃんは中国戦線で砲兵だったらしいYO!
シベリアに送られて終戦から11年後に帰ってきたYO!
帰ってからはあまり戦争の話はしなかったYO!
でもシベリアからもって帰ってきた飯盒とスプーンが現地の生活をもの語っていたYO!
その後将棋で80年代に海部首相からもらった賞状があるYO!
386名無し三等兵:02/08/12 17:36 ID:Wf6LhK3j
バーちゃんの戦争体験でもいいかい?

昭和20年の今日8月12日に、久留米大空襲があった。バーちゃんはBSの工場で働いていて
今日が給料日で給料をもらって帰る途中で爆撃(銃撃)にあったそうな。
バス停でバスを待っている時に、ロッキードの機銃で足をやられたそうだ。かすり傷程度だったが
モンペが裂けたらしい(バーちゃんのモンペ姿は・・・・想像出来ん)。
弾が地面に突き刺さる時の「プス、プス」という音は今でも忘れられんらしい。
387鉄道板住人:02/08/12 19:05 ID:???
数年前、旅行途中の列車の中で隣に座った女性の話だが。

金沢出身のその女性。
戦時中はまだ10歳だったそうで。金沢にあった連隊の慰問によく逝ったそうだ。
そのときの若い兵隊たち(18、9くらいらしい)に、記念にいろいろなものを
もらったようだ。慰問した兵隊も戦線へ送られることとなり何度も見送りをした
といっていた。末期に金沢にも米軍機の空襲があったらしいが、そのときは既に
郊外の寺に疎開していたそうな。夜間空襲の時は、空が真っ赤に染まっている
のを見て子供心に「怖い、だけど綺麗」と思ったそうな。
また兄も一人、従軍して戦地でなくなっていると言っていた。

年齢を重ねた方々の体験談を聞くのは好きだが、その女性も戦時中の話を避けず、
ほとんど当時の話ばかりだった。
別れ際「こんな話を聞いてくれる人は親戚や孫にもいないヨ」と言っていた。
避ける人もいるが、語りたがる人もいる。
かなり前に既出した司馬遼太郎の碑銘は、私ら若い世代も肝に銘じるべきだと思う。
388名無し三等兵:02/08/13 04:02 ID:???
いろんな話があるね。
うちの父方の祖父はもともと警察に勤めていた。
召集されて、親類縁者やご近所に見送られながら汽車で出征していった
が、その後すぐに、どっかに手を回したとか、うまく立ち回ったとかで
ひょっこり帰ってきたらしい。
その後は酒びたり。おまけに外に愛人を作ってうちに帰ってこなくなっ
た。給料をうちに入れてもらえなくなってたまりかねた(私の)祖母は、
当時2歳だった私の父を背中にくくりつけて妾宅にどなりこんだが、甲
斐なくすごすごとうちに帰っていく途中でB29の空襲を受けて、あわ
やという場面もあったらしい。父はその時の恐怖の記憶があるという。
終戦後しばらくして祖父は病気にかかり、愛人にも捨てられて、そして
うちに舞い戻ってきた。でも酒はやめずに最後は脳溢血で逝ってしまっ
た。私が生まれるずっと前の話。
仕事は出来る人だったらしいが、弱い人間だったんだと思う。
前線や銃後で立派に戦われた方々に対しては、申し訳なく思います。
ただ、現実にはこういう人もいたんですね。それがうちのじいさんなん
です。合掌。。
389371:02/08/13 04:40 ID:Xnj0ULcL
>>378
あったあった。
その人の家に遊びに行ったら田宮のウォーターラインシリーズの隼鷹の
プラモが作って飾ってあったよ。
懐かしい~。
390名無し三等兵:02/08/13 14:44 ID:Ajipysxb
>>381
金剛って、ダイアモンドのこと?
391名無し三等兵:02/08/13 15:56 ID:96ttcqc7
オレのじーさんは、軍需産業として軍隊手帳作っていたから兵役免除で戦争に行きませんでした。
オレのじーさんの作った手帳に家族の写真などをはさんで胸に抱き、戦地で死んでいった兵士達、、

392名無し三等兵:02/08/13 15:58 ID:???
>>391
がんがれ
393名無し三等兵:02/08/13 16:51 ID:0jXG13LE
ちなみに嘘なんだけどね
394名無し三等兵:02/08/13 19:11 ID:dm6KGX4q
ウチの爺さんの死にかけ話し。

満州にて-40℃の中で行軍中意識を失うが仲間が基地まで連れ帰ってくれたらしい。
通常は行軍中に倒れた者は放置だとか。
満州より南方戦線へ移動の為後発部隊へ、先発隊の輸送艦がボカチン食らって全滅の為輸送艦不足により南方戦線に行かずに済む。
その後、米艦載機編隊による機銃掃射で部隊60名中57名が一瞬で死亡。
終戦後、引き上げ船(米の兵員輸送艦らしい)も後発隊を選ぶ。
先発隊は米軍の敷設した機雷に接触して海の藻屑となる・・・。
爺運良すぎ。


395名無し三等兵:02/08/13 20:22 ID:zt6BrpjR
うちのじいちゃんは中尉で百式司令部偵察機の操縦手だったらしい
F4Fに撃たれて破片で負傷したことはあるらしいがその後は順調に任務を続け
大戦後期には内地で教官だったために戦死せずにすんだらしい
396名無し三等兵:02/08/13 20:29 ID:???
うちのじい様は大工で、徴兵こそされたものの工作兵として横須賀(?)で内地勤務してたらすぃ。
そこで作ってたのが木製の戦闘機、機種は知らないが一体どんなのを作ってたのかなぁ…。
あと、善意で兵隊さん達に家具を作ってたとかも聞いた。
397忍者(現高一):02/08/13 21:49 ID:UnNzLWx1
父方の爺は比島に居たらしいとアメを殺したかは不明。アルバムに三八持って訓練に励む姿を見た。母方は生まれが遅かったので征く寸前で終戦。母方の爺は三人の兄がいて一番上が戦死。階級高かったらしく葬式は村全体。一方二人は最近逝去。爺さん達に色々聞きたかった。
398名無し三等兵:02/08/14 03:24 ID:???
>>388
戦中に「こりゃ~アカン」とか、「勝てるワケがない」と思う人が居たそうです。
大っぴらに口には出せなかったけど、思っている人は沢山いたと聞きました。
私の母方の祖母は、敗戦の玉音放送を聞いた時、「やれやれ、やっと落ち着いて眠れる」と
言ったそうな。
太平洋戦争に対して、一般市民の本音は「おいおい、勘弁してくれ~。」と思っていたのかな。
と想像します。

388 さんのお祖父さんは、早くからその事に気が付いてしまい、遣る瀬無かったのかな。
と、ちょっと思ってしまいました。

(私はヘタレなので、敵前逃亡してしまうと思う。)
399名無し三等兵:02/08/14 16:39 ID:???
母方の祖父の話など。
衛生兵として北支戦線(?)に派遣され、一度部隊が全滅したものの奇跡的に
生き残ったそうです。
ところが、その後終戦まぎわに中国から沖縄へ移動中、輸送船が潜水艦の
攻撃を受けて沈没し、そのまま亡くなったそうです。

で、2年ほど前、親戚筋より軍服姿の祖父の写真が発見され、その写真を
見たところ自分にそっくり。自分が軍服を着るとこうなるのかというぐらい。
このときばかりは生まれ変わりとかそういうのを信じたくなりした。
400名無し三等兵:02/08/14 23:33 ID:KF90bh2r
あげ
401名無し三等兵:02/08/14 23:36 ID:6Mb5J947
うちの祖父は、師範学校在学中に予科練に行ったそうな。
で、グライダーくらいの段階まで進んだ頃に終戦。
燃料とかが豊富にあったら、ちゃっちゃと訓練終わって特攻逝ってそうだったと言ってたな。
402名無し神兵:02/08/14 23:45 ID:???
うちの知り合いのぢーちゃんは戦車兵(砲手?)だった様で、
戦車が砲弾喰らって操縦手を即死させ、そのまま突き抜けて逝ったそうな。
ぅ~ん 日本戦車(歩兵支援車か)の装甲って紙ですね
403名無し三等兵:02/08/14 23:47 ID:XAeqF3FH
戦争の実情を語り継ぐ良スレだなあ。
「作る会」がいかに戦争を美化しているかがよく分かる。

ちなみにうちの爺さんは大陸で軍医やってたとか。
戦争の話は、「思い出すのも嫌だ」といって語ってくれなかった。
皆さん、戦争体験者の生の声が聞けてうらやましい。
404名無し三等兵:02/08/14 23:49 ID:???
小学生の頃、身近な人の戦争体験を聞いてレポートにする、という授業があって、
近所のじいさんに話を聞きにいった(うちのじいさんはフィリピンで戦死)
他の生徒の話は、空襲が~防空壕が~配給が~B-29が~というのが多かったが、
オレが聞きに行ったじいさんは、新兵のときずっと小銃に謝った、ゲートルをとく瞬間が気持ち良かった、
南方のバナナはうまかった、黄燐の防御戦で火傷した、
という他とはちょっと違った話が聞けました。
オレは面白かったけど、先生は不満気だった(w
405名無し三等兵:02/08/14 23:54 ID:Jzvl8hVp
うちのじじいが戦友会に出たときに、
「昔はえらくカッコ良くてシャキっとしてたのに、みんなヨボヨボのじじいになっててガッカリした。」
と言って笑っていた。
406忍者:02/08/14 23:58 ID:6tRPxAmM
血縁の無い人ですが母の小学校のころ避難訓練で校長が話をしたがその人は戦争中自分の壕にアメがガス弾投げてきたので手ぬぐいにションベンかけてマスクにして難を免れたとか。あと戦車隊いた人いたらしく耳遠かったとか。んでメチャ軍隊口調だったとさ。
407名無し三等兵@番号三九四:02/08/15 00:01 ID:KFAk9AeW
爺さんは通信隊だったそうで、三八式騎兵銃持ってたらしい。
軍馬、自動拳銃、軍刀が支給される時に軍馬だけ貰って後は断ったとか。
理由は「満州の荒野では拳銃の弾はとどかん、軍刀は重いだけ。」と言う話し。
戦闘が無さそうな場所では弾薬クリップを(5発単位)一つずつ捨てながらの行軍の時もあったらしい。
一つ捨てるとその分軽くなったんだとさ。
そんな爺さんの自慢話は「万里の長城から小便した。」だった・・・。
408名無し三等兵:02/08/15 02:28 ID:???
叔父の話です。まあ酔ったときしか話してくれないのですが、予科練を志願、
霞ヶ浦で偵察員として訓練中に終戦となったとのこと。

とにかく毎日ぶん殴られた。上官はその時「お前らのうち何人かはあらかじめ消耗を
見込んでいるんだ!」と死んでも構わないようなことを言っていた。
人間扱いされず毎日ぶん殴られる生活はつらかったらしく、あんな時代は二度と
来て欲しくないと言ってました。

その一方で叔父の弟(当時小学生)だったうちのオヤジは予科練の兄貴をもって
そりゃあもう鼻高々だったそうです。(w
409名無し三等兵:02/08/15 03:46 ID:7kn7ABZI
スレから外れますが先日、名古屋の「もう一つの戦争展」に逝ってきました。
多くの大戦中に従軍した方々が食い入るように資料や展示物に
見入っておられまして、そのお元気そうなお姿にちょっと感動もしました。
まだまだお元気で後世に真実を伝えていただきたいものです。

反面、同じ場所の3Fでやっていた「あいち 平和の為の戦争展」は
糞でしたが。
ただし、当時の空襲などの記録はまぁまぁ見れましたがね。
お時間のある方は17日までやっていますのでどうぞ。
410名無し三等兵:02/08/15 03:56 ID:???
>>396
確か、陸軍が四式戦闘機「疾風」の木製版を作ってました。
モスキートの真似をしたんでしょうが、重量過多で見事にお蔵入り。
勤務地が横須賀だったってのが微妙ですが、
もしかしたら>>396のお爺さんはこの機体に鉋かけてたのかも知れませんね(w
411名無し三等兵:02/08/15 04:01 ID:6ec87t6o
下野新聞(栃木県)
http://www.shimotsuke.co.jp/hensyu/news/tiiki.html#news2

■旧陸軍鉄道連隊の記録残す 野木・手記を収集
 【野木】終戦間際の旧満州(現中国東北部)で隊員数百人の命を救い、侵攻する
ソ連軍を前に自決した旧陸軍鉄道十九連隊の隊長や連隊の軌跡を同隊員だった佐川野
の無職、天谷繁男さん(77)が終戦記念日を前に小冊子(二十八ページ)にまとめた。
天谷さんは「戦後五十七年たち、風化しつつある戦争の記憶を何らかの形で残したか
った」と話している。

 小冊子は旧満州に駐屯していた旧陸軍鉄道十九連隊第二大隊の終戦間際の様子を
まとめた。約二年かけ当時の資料などを基に、遺族や関係者からの手記を集めた。

 終戦の二日前、旧満州吉林省の図門駅に向かっていた同隊は戦況の悪化から大隊長
の峰尾豊少佐(24)=当時=の判断で同駅へ向かうのを止め、ソ連軍の侵攻を防ぐため
鹿道橋を爆破。翌日、ソ連軍が図門駅周辺を激しく空襲したため、結果的に橋を渡る
はずだった隊は全滅せずに済んだ。しかし、峰尾大隊長や中隊長らは隊員の命を救っ
たにもかかわらず、三日後には迫るソ連軍を前に自決したことなど、冊子には関係者
の目を通じて当時のやりとりが赤裸々に書かれてある
412名無し三等兵:02/08/15 04:13 ID:???
>>404
>>オレは面白かったけど、先生は不満気だった(w

ソコがオイシイのにね。
様々な視点から見た戦争の方が、リアルに伝えると思うYO!
413Na:02/08/15 05:49 ID:y7mFJ63K
>>396さん
戦闘機では無いですけど、九九艦爆の木製版、明星も海軍で造っていましたね。7機が完成したそうですが、金属製より700㎏以上重くなったそうで練習用に使用したそうです。
414名無し三等兵@番号三九四:02/08/15 10:02 ID:KFAk9AeW
>>405
戦友会も年々人数が減って集り悪いらしいね。
歳で外出不能な人も居るらしいけど、歳が歳だし数がね。
415名無し三等兵:02/08/15 10:15 ID:???
家の叔父(父方)はフィリピンのペナン島守備隊だったよ。
階級は陸軍小尉(大学出なので)で、小隊率いて戦っていたけど持病の下痢が悪化。
まともな補給も受けれずに病死したらしい。遺体も未だ見つかって無い。

死んでから階級が中尉に上がったけど、嬉しくないだろうな…。
416シンガポールで捕虜:02/08/15 10:17 ID:kJflFgsG
じいちゃん夕霧乗ってたそうだけど沈没したの?
417名無し三等兵:02/08/15 10:26 ID:6wjEK0hg
俺の祖父は衛生兵で満州の方に派遣されていたみたいです。
その時装備していた軍刀は、まだ家に大切に保管されています。
418おいらの爺さん:02/08/15 11:33 ID:???
ハルマヘラ島に行ってたけど、
たしかあそこには、俳優の池部良がいたらしいぞ!
419名無し三等兵:02/08/15 17:45 ID:fAibvtfR
整備兵で紫電改の整備してたそうだ。
420名無し三等兵:02/08/15 17:47 ID:???
>417
衛生兵も軍刀を装備してもいいのですか?
421331:02/08/15 18:17 ID:9zww9dwO
>>418
 おぉ、だとすると池部良と同部隊? 池部良のエッセイ好きです。でも
『ハルマヘラ・メモリー』は未読。

>>420
 いいんじゃないですか。そういえば、比留間弘氏の著書に輜重兵は昔、
兵卒も銃ではなく刀をぶら下げてたとかいう話が書いてありました。
422名無し三等兵@番号三九四:02/08/15 18:40 ID:VxiL6mC8
婆さんの話しによると今でも寝言でスゴイ唸り声を上げるそうです。
戦争の時の夢見てるんだろうと言う話し。
彼等の戦争は記憶の中で続いているのでしょう。
423名無し三等兵:02/08/15 19:23 ID:???
死にそうな目にあった人を馬鹿にしちゃいかんな~。
424名無し三等兵:02/08/16 05:58 ID:???
423意味不明
425sage:02/08/16 09:46 ID:???
ウチはなぜか、祖父・叔父達はみんな戦争に行ったんで結構話はききますた。そんな中で、
俺の母方の爺ちゃんは舟乗り。レイテか何かの海戦の時、戦艦武蔵の航海士見習いでずっと
艦橋におったそうな。爺ちゃん曰く「主砲がすぐにダメになって何ともならんかった。」そ
の後、機銃手の補充のため、煙突付近に降りた時の話だけはなかなかしてくれませんが、明
日、全て語ってもらう約束をしてくれたんで、聞いてきます。辛い話なんでしょうが、どう
しても知りたいし・・・・・。
同じく父方の爺ちゃんは飛行機乗り。で、ミッドウェーで米軍機2機を撃墜したものの、自分
も被弾・墜落。運良く米軍艦船に救助され、戦後生還しました。が、敵の弾を左足に受けてお
り、膝から下がありません。爺ちゃん曰く、痛いと言うより熱かったそうです。そんな爺ちゃん
達ですが、今も健在だす。二人とも電動三輪車を乗り回し、今の平和を謳歌しています。


爺ちゃん達に幸多かれ。
426名無し三等兵:02/08/16 10:23 ID:PDABhnk1
父方:昭和19年ニューギニアで戦死 母方:中国戦線、終戦直後にソ連軍の捕虜になりシベリア送り、昭和21年帰国、平成元年没
427名無し三等兵:02/08/16 11:13 ID:37eg2Ntv
学校の先生の父親はシベリアに送られたそうです。
当然行方不明・・・ 
428名無し三等兵:02/08/16 11:21 ID:m9V9Iwzi
家の爺ちゃんは1926年生まれです。
11歳で南京攻略戦に参加しました。

徴発と称しては女を探しに行ったそうです。
強姦した後は、憲兵隊に通報されるのが怖いので殺したと言っていました。

最近本をだしたので、詳しく知りたい方は買ってやってください。

「南京戦 102人の証言」
429名無し三等兵:02/08/16 11:32 ID:pAcwDpAa
うちのひい爺ちゃんは、中国に一般兵として行き、無傷で帰ってきました。
戦死しないで済みましたが、一度も敵を倒してないそうです。
430名無し三等兵:02/08/16 11:49 ID:pAcwDpAa
>>429
の続き、そして銃弾4発が残ってます。
431名無し三等兵:02/08/16 14:39 ID:???
>>410>>413
ども、疾風に九九艦爆ですか。
でも、練習機ならともかく、折角作ったのにお蔵入りとは…。
432名無し三等兵:02/08/16 14:44 ID:iNwUAWwz
>>428
従軍慰安婦の吉田某に続く詐話師のじじいですね!
Nステ見ましたよ!
433名無し三等兵:02/08/16 15:02 ID:HmqdjATS
九九艦爆700kgオーバーですか。急降下爆撃機を木製にしたのが
失敗って訳でもなさそうだしなあ。何か致命的な問題がありそうだ。
しかし家の爺さんの白黒写真で軍服着たの見てるけど体細くてど近眼
トラックの運転してなきゃ間違いなく過労死してたな。
434名無し三等兵:02/08/16 16:33 ID:02RuG1mm
うちのじいちゃんは、痩せ過ぎてて徴兵されずにすんだって言ってたよ。
あと米軍の捕虜に内緒でタバコをあげたりとかもしてたんだって。
ちなみに戦艦武蔵の図面を書いたとか言ってたよ。

435名無し三等兵:02/08/16 16:59 ID:???
うちのじいちゃんも背低すぎて徴兵されなかったらすぃ
もう片方のじいちゃんも貧弱で終戦間際に徴兵されたらしく
シベリアだかに向かう途中で終戦迎えたらすぃ
436名無し三等兵:02/08/16 17:05 ID:AqyvjHN3
戦争体験じゃないけど
おじいちゃんの家の離れの小屋には
60年ぐらい前の新聞が障子に貼ってあって
義勇軍がどうのこうのとか書いてあった
437軍事マニア歴33年:02/08/16 18:29 ID:???
>428,432
 自分も昨日のNステ見たのですが、南京戦での大虐殺の証言をしていた
方々が映った時に「第16師団所属」と字幕に出ていたので、とっても
びっくりしました。自分の母の遠い親戚の元陸軍中将がこの師団の師団長を
していたことがありました。京都に師団本部があった第16師団は後に
バターン半島攻略戦に参加して、「バターン死の行進」でまた歴史に名を残した
部隊です。
 自分の母の遠い親戚の元陸軍中将閣下は、バターン戦の後から昭和19年の
初め頃までこの師団の師団長を務めておられました。この間、16師団はずっと
フィリピンに駐屯していて、最前線に出ることは一度もありませんでした。
その後、マッカーサー率いる連合軍がレイテ島に上陸した時にはレイテ島の
守備についていました。マッカーサーは、「“バターン死の行進”の戦犯である
“垣”(16師団の通称)の連中は一人も日本に生きて帰すな」と命令して、
16師団に対して猛攻撃を行い、16師団はレイテ島で玉砕しました。
 この時の生存者の証言を元に、戦後、「レイテ戦記」が書かれました。
 自分は仙台市民なんですが、母の遠い親戚の元陸軍中将閣下は、戦後、
仙台市内に住んでいて、母がまだ女学生だった頃には、よく学校帰りに
元陸軍中将閣下の家に行って家事手伝いをしていたそうです。そうすると、
昔の部下が尋ねて来て「閣下、お久しぶりでございます」とか言いながら、
話をしていたそうです。元陸軍中将閣下は「部下達を死なせてしまったのに、
自分だけが生き残ってしまって申し訳ない」ということをよく言っていた
そうです。
 自分が12才の時に仙台に引っ越してきた時には(父が銀行員だったので、
12才までは全国を転勤して回っていました)、もう、元陸軍中将閣下は
亡くなられていましたが、その方の未亡人には会ったことがあります。
 遠い親戚の戦争体験になってしまってスマソ。
438名無し三等兵@番号三九四:02/08/16 20:53 ID:dMqzYVhJ
満州の最前線では食料が不足していたらしい。
余り生えていない草の根をかじったり、蛇一匹を5~6人で分けながら食ってたとか。
引き上げ船が米軍艦艇だったとかで、水のみ場に置かれていた砂糖の包みをポケット一杯に詰め込んで仲間と分けて帰ったそうです。
439名無し三等兵:02/08/16 21:05 ID:???
家の爺さん、無線関連の陸軍の技術参謀をやっていた。
問題は婆さんの親父。どうやらMTシップを取り仕切っていたらしい。
機密事項だからあまり話も残ってないし、娘に軍事機密をワラワラ言わない罠。
440名無し三等兵:02/08/16 21:28 ID:S3462go4
前に爺さん万里の長城で戦ってたってカキコした者です
昨日会ってきたので、詳しい話を聞こうとしたのですがあまり話したくないらしく聞き出せませんでした。

ぽろっと洩らしたのが、
爺さんは内地で大本営放送の内容を本気で信じてて、
終戦の時、実は負けてたと聞いて何もかも裏切られた思いになったそうです。

でも爺さんの本棚みたら『軍事学要項』(だったと思う)とか謂うぼろぼろの旧軍の軍規書がとってあって(村田銃の図解とか描いてあった)
441340の続き:02/08/16 21:37 ID:ibdSNz+A
普段の仕草みると愛国心を失った訳でも無いし
教師やってて、中学校とか高校の校長もやってて戦後の反戦教育にも多大に関わってた訳で
本棚には反戦、平和を扱う書物がある一方で
戦後の日本人が失った物…みたいな本も沢山あって
なんだか凄く複雑みたいです。

携帯からなんで340とID違うかもしれません
442441:02/08/16 21:40 ID:GZhea7zy
すいません340じゃなく440です
443名無し三等兵:02/08/16 23:52 ID:Z77GoZsz
小さい頃祖父と一緒に風呂入ったとき、
「じいちゃんって臍が3つある!すごい!」
という会話をしていたのを覚えてる。
後で聞くと祖父は満州に出兵していたそうで、あれは銃撃された痕らしい。
大きくなってからは祖父とも疎遠になり、あまり詳しい話を聞くことはできなかった。

今年は三回忌。じいちゃん、安らかに眠ってくれ。
444名無し三等兵:02/08/17 01:55 ID:woEXBHoy
親戚のじいさんなんだが、海軍で飛行機に乗っていて、終戦があと4-5日伸びていたら特攻に行くことになっていたそうだ。
あまり合わない人なのでよくは知らない。今度あったら聞いてみよう。
445名無し三等兵:02/08/17 02:25 ID:CTll2umT
知り合いの爺さんなんだけど。ラバウル基地の整備兵。
その後ニューギニアに転戦。ポートン作戦で敵の上陸を迎え撃ったらしい。
飛行場は初日に艦砲射撃と空爆で壊滅。
零戦の20㍉機関砲を外して海岸に据え付けて射撃してたら、敵狙撃兵に撃たれて右腕を負傷。
敵の上陸を許した後は、ゲリラ戦で抵抗を続けたそうだ。(切り込み)
その爺さんの体は銃創や無数の切り傷が今でも残ってて生々しい。
その爺さんの話はホントに面白いよ。
446名無し三等兵:02/08/17 02:40 ID:MVeiMkBh
うちの爺さんは運がよかったのか悪かったのか徴兵を免れてますた。

大連の製鉄所(いわゆる軍需工場?)に行ってたせいか兵役検査で
乙種の上のほうの合格だったにもかかわらず赤紙がこんかったらしい。

んでその後シンガポールでなんか役人募集してるから
「市役所かなんかの事務だろう」と思っていったら実は陸軍の施設で
びっくらこいて結局飯炊きの監督をしてたそうです。

現地の人を使っていたので毒を入れられたりしたら大事なので
なだめたりすかしたりして機嫌損ねないように大変だったそうです。
豚とか締めたら皆で要らない部分(頭とかそういうの)を一緒に食べたそうな。

一回米を盗まれたことがあって帳簿を改竄したりもしたそうな(´∀`;)イイノカ?
寺内?とか陸軍の南方総司令が来ることもあってそういう日の前日は
マターク一睡も出来んかったそうです。
毒入れられたら困るから見張りしてたそうな。

ジイサンの話は意外と民間からの視点なのでおもろいっす。
447名無し三等兵:02/08/17 02:45 ID:n5ReeuW5
10年ほど前の文藝春秋に「戦友会の八月十五日」という記事があったのを覚えている。
戦友会は将校と兵が別々に開くことが多いらしい。あるときある将校が兵の戦友会に出席したとき、
だまっていた一人の元兵士がやおら立ち上がって、その将校をぶん殴ったそうだ。
他にどんなことが書いてあったかすっかり忘れたが、これだけは覚えている。
448名無し三等兵:02/08/17 02:54 ID:???
爺さんではないが僕の親父も昭和一桁生まれで戦中派。
小学生の頃、航空隊に憧れて民間の航空学校の試験を受けたら合格。
学校が満州にあったため親(僕の婆さん)に泣きながら止められて満州行きを諦めたそうな。
終戦間際には空母艦載機のグラマンに追っかけ回されたり。
終戦後は進駐軍にマムシ取りをやらされ食料もらったりとか、親父の話も面白い。
ちなみに僕の爺さんの兄弟は海軍士官で全員沖縄に突っ込んだ。
遺影の軍服姿はとても凛々しい。全員勳6等貰ってる。(将校で戦死したためらしい)
449名無し三等兵:02/08/17 02:55 ID:???
>>447
そういうのはあるだろうな。まっとうな将校でも作戦上味方を見殺しにしないと行けない場合も
当然あるだろう。下から見ればその将校は許せないだろうし。

ましてやその将校がDQNだったりした日には…。

単なる馬鹿上司もそこらへんの会社であれば「あの馬鹿が!」ですむけど、戦下の軍となれば
自分や戦友の命がかかってくるもんなぁ。
450名無し三等兵:02/08/17 03:05 ID:MVeiMkBh
婆さんの話も書いておこう。

婆さんは女学校(農学校だったかも)を出た後、
満州の花嫁のお誘い(相手は憲兵さん)を蹴って
神戸かその辺りの飛行機工場で名簿とかをつくってたそうな。

んで戦争が激化する前に母親がなくなったため実家に戻ったらしい。
工場は空襲でやられちゃったと、後で聞いたそうな。
実家が農家だったせいか食べるものにはあんまり困らんかったみたい。

なんか教科書の戦時中の記述とギャップありすぎ。
工場時代はデートで宝塚歌劇を見に行ったみたいだし。

意外と田舎はマターリだったみたい。
451383:02/08/17 05:24 ID:???
>>441
オレのじーさんは、オモイッキリ、B級戦犯です。職業軍人でした。
オレの親父は、敗戦時には12歳で、陸軍幼年学校の受験が済んだ教室で
玉音放送を聞いたそうだ。(親父がそう言っていた。)

親父の話しでは、「みんなを守る為に自分(親父)は20才までに死ぬ。」
と、敗戦までは思い込んでいたらしい。
親父は、まだ思春期前の年頃で、気持ちの切り替えも柔軟にできたと思う。

だが、親父よりも年上だった人たち、純粋に信じていた人たち、
昔の映画で、愚連隊とか、特攻崩れと呼ばれた人たちの気持ちを想像すると、
オレは胸が痛くなる。

オレにとっては想像でしかないが、たぶん「信じていたのに裏切られた」
と言う気持ちだったと思う。
452383:02/08/17 05:28 ID:???
職業軍人だったじーさんは、敗戦後、事情徴収(と言うのかな??)はあった様だが、
実刑まではゆかなかったらしい。

敗戦ですべてを失い、戦後は子供6人(親父とその兄弟たち)を育てる為に
戦ってたと、オレは思う。
(職業軍人だからオイシイ話しが色々とあったらしいが、じーさんは曲がった事がキライで、
 すべて跳ね除けていたらしい。おかけで、戦後はビンボーのズンドコ。
 オレが子供だった頃に一家離散と言う危機に直面した事もあるらしい。
 オレは「そん時にちょっとは蓄財しとけよ、ぢぢぃ。」と思った事もあった。)

でも、じーさんの心中は、色々と思うことがあったらしく、残りの人生を使って、
敗戦までの半生記を書き残した。
その半生記は、じーさんが死ぬ直前に親戚一同が手分けして校正し、
みんなでお金を出し合って、自費出版した。
身内に配る位の極小規模な自費出版だった。

オレは、自分にとって筋が通らない事は梃子でも「うん」と言わない
一本気なじーさんが、戦前も戦後も必死で生きていて、
それでも「何か」を子供の親父たちや孫のオレたちに伝えたくて、
老骨に鞭打って、650ページにもなる本の原稿を書き残した気持ちを思うと、
哀しさと怒りが込み上げてきて「じーさんの本を国立国会図書館に寄贈しよう」
と親戚に提案した。

国立国会図書館に連絡をしてみると、「ぜひ、寄贈をお願いします」との返事たった。
(こ~ゆ~民間レベルの話しで自費出版となると、なかなか集められないから。と言ってた)

オレの気持ちとしては、戦前・戦後を一生懸命生きた人間がいっぱい居るんだゾ。
戦前の「大日本帝国」、戦後の「日本政府」、ソレが分かってんのかっ!!
と云う事を公の機関に訴えたくて、ずっと残しておきたくて、提案した事だった。
(親戚一同、ソコまで考えてなかった様子だったけど。)
453383:02/08/17 05:32 ID:???
てなワケで、このスレにみんなが書き込んでいる内容は、すっごく貴重な事だと
オレは思う。
永久保存しても良いと思う。

>>1 がこのスレ立てたのは、そうゆう事だったんだな。とオレは思う。

長い話しでスマソ。
454383:02/08/17 05:49 ID:???
余談
じーさんの最後っ屁(半生記)をヒロヒトに叩きつけてやりたい気持ちに
なったんだけど、宮内庁に連絡すると、管轄外。と言われた。(苦笑)
455Na:02/08/17 13:50 ID:A08Xtkka
え~と、資料を探してたので遅くなりました。
>>396さん、433 さん
明星は、ジェラルミン不足が決定的になった1943年の中ごろから空技廠で設計が始まったそうです(海軍では最初の木製機の試作)作り慣れた九九艦爆だったのですが、木製とのことで強度不足、強度を上げるための薬品の開発の遅れ…不運だったと思います。
資料によると、最大速度426㎞/h航続距離1300~2360㎞爆弾30×4または250㎏×1勿論、カタログのみで判断は出来ませんが、ナカナカの性能なのでは?396さんのお爺さん達の職人技があればこそだと思いますよ。

456名無し三等兵:02/08/17 14:22 ID:???
>454=383
昭和の話なの?今の陛下は…なんだったっけ?
457名無し三等兵:02/08/17 15:16 ID:???
>>456
明仁(アキヒト)じゃなかったかな? 今上天皇は。
458名無し三等兵:02/08/17 20:22 ID:/dmyO/KH
なんかいい人ばっかだな
徴兵拒否した人とかは
いないのかね?
459 :02/08/17 20:50 ID:MevkNNkM
こみみみみみも
460名無し三等兵@番号三九四:02/08/17 22:11 ID:mv2lhpl4
もう亡くなったが、爺さんの弟の場合。
元々職業軍人で陸軍士官の為か内地勤務だったらしく、終戦まで生活には困らなかったらしい。
毎朝黒塗りの車の送迎と食料は軍から米や缶詰類が支給されていたとか。
靴を磨くのも部下任せだったとかも聞いた覚えあり。
先に書いた大陸組みの爺さんとはえらい違い。
461383=454:02/08/18 01:04 ID:???
>>456
昭和が終わる前にオレのじーさんは鬼籍に入った。

オレのじーさんは、ヒロヒトと同じ年、
オレの親父は、アキヒトと同じ年。
しかもオレは、ナルヒトと同じ年なんだよぉ~。(大自爆)

それで、じーさんの人生を思ったオレは熱くなってしまった…(苦笑)
若気の至りだ…(恥)
462446:02/08/18 03:40 ID:8MNi7RwJ
>>458
うちのじーさまは帳簿改竄してますがな。(w

意外なことに負け戦なことうちのじーさんの場合わかってたみたいよ。
死にそうになった人の話とか、目の前で人が死んじゃうのを見て
気が触れた人の話を聞いたりしてたことを話してくれたから。
「どーせ兵士に取られて死ぬんじゃー!!」みたいな感じで働く気があんまり起こらんかったそうな。
それでもすることないからボチボチ働きつつ、酒飲んだり花札したりしてたそうです。

食料関係をシンガポールでやってたとき赤痢かなんかが流行って
軍医の判子をもらわないといけなかったそうだが、
軍医がその日シンガポールからいなくなることを知って、
それまでまったくをつけてなかった帳簿を、あわてて書いたそうです。

ということで、すみません、シンガポールの食料関係の資料には
うちのじーさまの捏造が一部まぎれておりますです。
463ハス ◆yPF68LQs :02/08/18 09:15 ID:7hAEmKMv
昨日、父方の祖父母の家に行ったときのこと。いくつになったか?とじいさんに
聞かれ答えたら、そうか、もうそんな年になったか。オレはその年の時は兵隊だった、
と従軍体験を話してくれた。じいさんからそんな話を聞くのは、初めてだったよ。

じいさんは、千葉の鉄道連隊にいて、配属されてた。じいさんは鍛冶屋
だったので、軍隊でもやってたことは以前の仕事とあまり変わらなかったと言ってた。
そればかりか、入隊した頃は飯(白米)が大量に食えたので、太ってしまったらしい。
直属の上司(曹長だったか?)が酒保担当で、白米をいっぱいくれたそうだ。演習に行く時
なんか、飯盒めいっぱい白米をくれた、と言っていた。
階級は二等兵、仲間達が南方に鉄道敷設に出征していく中、じいさんは教育係として終戦まで
千葉にいた、と言っていた。まわりは南方や中国から帰ってきた伍長や軍曹ばかりだったけど
、教育係だったから下士官の前でトンカントンカンやってたみたい。

空襲が激しくなってきてからは、しょっちゅう東京の線路を直してたそうだ。東京大空襲の時、
じいさんはお茶の水の線路の下の川にどんどん飛び込んで行く人達を見た、と言っていた。
路線の下の川が膨れた体(水死体のこと)でいっぱいだったらしい。

戦況が苦しくなってからの飯は当然ながら白米ではなく、コーリャン、米ぬか、白米等で作った
かゆを食べてたみたい。でも古参兵が振るいをつかって白米をより分けちゃうから、もともと少ない
米なんか全然入ってなかったみたい。

最後に、「あの頃に比べたら今はなんでも出来るいい時代だ、やりたいことやってがんばれよ」
みたいな事を言っていたのが一番心に残ったよ。
464名無し三等兵:02/08/19 13:52 ID:m0lu7BCg
age
465俺専用オレ:02/08/19 15:27 ID:zI5xoo5/
>>463 (つД`)
466名無し三等兵:02/08/20 17:47 ID:py1Knja9
漏れのじーちゃんは駆逐艦「朝霧」に乗っていてガダルカナル島近海で
撃沈されて漂流したらしい。史実と合ってるのか?
467名無し三等兵:02/08/20 19:05 ID:BBRAv4yI
あげ
468名無し三等兵:02/08/20 19:15 ID:5Qrxliat
親戚のじいさんだが、
空母赤城の99艦爆の操縦員だったが、ミッドウェイー島の攻撃終了して
母艦まで帰ってきたが、既に赤城は沈んだ後で、仕方が無いので、後方の
連合艦隊本隊まで飛行し、本隊発見後付近の海に不時着。駆逐艦がトンボ
釣りに来てくれたそうだ。
469名無し三等兵:02/08/20 19:26 ID:w6q5spII
>>468
赤城はそんなにすぐには沈まなかったぞ。
かなり長時間燃えていたが。
駆逐艦の魚雷で処分されたんだっけ?
470 :02/08/20 19:37 ID:w6q5spII
>>468
ちょっと調べてみた。
敵空襲を受けたのが6月5日、午前7時23分で
沈んだのは翌日の午前2時だ。(いずれも日本時間)
沈んだ後というのは記憶違いだと思う。
471名無し三等兵:02/08/20 19:41 ID:BBRAv4yI
>469 
 おっしゃるとうり
 赤城はベースが重巡戦艦ですからね
 翌日まで浮いてたよ誘爆を繰り返しながら
 そんでもって山本五十六長官の命令で見方駆逐艦の魚雷での処分

>468
 赤城は第2次攻撃隊の収容後に攻撃されてますから
 母艦に着艦出来なかったって言うのは多分ミッドウェー海戦では
 無かったのでは?その後の一航艦パイロットは各地で戦いましたから
 第二次ソロモン海戦か南太平洋海戦あたりでは無いでしょうか?
 レス希望!!
472名無し三等兵:02/08/20 19:45 ID:???
編隊とはぐれて、やっと母艦見つけたときにはすでに着艦できない状態だったとか?
473名無し三等兵:02/08/20 19:47 ID:NiAycquu
本家のじいさんは、熊谷で飛行機の教官をやってた。
南方から帰還の途中には、家の上空を通過するときに
低空飛行で爆弾ならぬバナナとかを投下してたらしい。
474名無し三等兵:02/08/20 20:02 ID:mu5FQZq/
ボケたジジィの作り話を真に受けて

盛 り 上 が っ て る ス レ は こ こ で す か?
475名無し三等兵:02/08/20 20:09 ID:Gf7r3XMC
>472
 どうかな?第2次攻撃隊収容後赤城被弾までけっこうな時間あったからね
 編隊とはぐれたことは考えられるがそれまでずっと飛んでて燃料がもつかどうか
 疑問です。
476名無し三等兵:02/08/20 20:41 ID:8sR2ItE6
>>474
その台詞はテレ朝に言え
477名無し三等兵:02/08/20 22:17 ID:???
うちのじいさん、宮大工だったが徴兵されて便衣をやってたらしい
…徴兵なのにスパイってあるんだろうか
478眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/08/20 22:20 ID:???
>>466
1942.8.28 ガダルカナル島近海で島への陸兵輸送をしていたが、米海兵隊
の急降下爆撃機に襲われ、沈没。
史実と合ってますよ。
その時、夕雲と白雲も損傷し、天霧が白雲を曳航して避退しています。
4隻で行動していたので、すぐに救助されたのでしょうか。
479名無し三等兵:02/08/21 00:01 ID:vAU/A2fL
↑466ですがどーもありがとうございます。じいちゃんヒザのへんに
爆弾の破片が今も埋まったままです。よく生きて帰って来たなぁ・・
ボケじじいのヨタ話じゃないのが証明されてウレシイ
480眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/08/21 00:06 ID:???
>479
惚けてても戦争の記憶だけはしっかり残ってますね。
うちの祖父もパーキンソン氏病とアルツハイマーだったんですけど、グァム
上陸作戦の話とかはよくしていましたよ。
481名無し三等兵:02/08/21 00:42 ID:IxSVry4c
ゼロ戦と、ロッキードの空中戦はそれはそれは面白かったそうな。もちろんジーちゃんは地上で見ていたのだが。
この光景を自分の子供や孫に話して聞かせられないのが残念だと、みんなで話していたそうだ。自分らは生きて
日本に帰れないと思っていたそうだから。




ジーちゃん、生きて日本に帰ってこれてよかったな。これからも元気でな。
482名無し三等兵:02/08/21 01:40 ID:GS5eBRa1
死んだ爺さんの健在な兄貴なおじいさんは、
中国でやりたい放題したと笑って語っておったな。
まぁ、苦い思い出も少し語られたが。
これ、書いたら何か、それ系の人らに怒られそうだけど、
朝鮮人の兵隊さんは、同じ朝鮮人から物を盗んだり悪さをしていたと語ってた。
自分達も悪さをしたが、身内に悪さだけはしなかったと。
彼らだけは信用するなと言ってた。よっぽどだったのだと思う。
父方の死んだ爺さんは、シベリアで抑留されて足を悪くしたもんで、
あんまり語ろうとはせんかったな...。
483名無し三等兵:02/08/21 04:07 ID:A5ouWkWi
うちの爺さんは巡洋艦(たぶん)にのってて、航行中に雷撃を受けたらしい。
ところが、船が沈みかけてるのに総員退去の命令がなく、みんなオロオロ。
アセった爺さんは独断で「そーいんたいきょー」と言って回ったそうな。
それを聞いて、ほとんどの人は海に飛び込んだが、山育ちの人などが
なかなか飛び込めない。仕方なく、爺さんはその人たちを
海に投げ入れたのだが、何人かは浮かんでこなかったそうな。
結局、船は沈没。

普段は無口な爺さんだが、一度だけこの話をしてくれた。
その後、爺さんひとりで泣いていた。
484名無し三等兵:02/08/21 04:12 ID:/eyADhFz
俺の高校時代の友人に米内という男がいた。この男、海軍大臣、内閣総理大臣を歴任した
米内光政の孫。
当時、戦争とかあまり興味が無かったので、特に戦時中の話も聞かなかったし、
米内も喋らなかった(本人も良く知らなかった様子)。今だったら色々話を聞いたのに。
ちなみに学校はごく普通の都立校。本人は長身で甲高い声で喋るヘンな奴だった。
米内光政を忍ばせるのは大きくて高い鼻ぐらいのもので、カリスマでもなければキレ者
でもなかった。
485名無し三等兵@番号三九四:02/08/21 04:58 ID:74Pa8ddL
>481
似た話しを爺さんから聞いた事有り。
満州方面の敵機は日本の戦闘機に勝てずに落されてたとか。
486名無し三等兵:02/08/21 09:23 ID:O9U4iSTF
>>483
畏くも天皇陛下から賜った御紋の艦艇を
テメーの独断で放棄したとは、ふざけた野郎だ!
さらには人殺しまでしやがって

そ う 云 う D Q N が い た か ら 戦 争 に 負 け た ん だ よ!

487名無し三等兵:02/08/21 09:41 ID:???
>>483>>486
いや、個人レベルの危機管理としちゃ、上出来な対応だと思うけどな。
まあ、結果として船が沈んだんで、ある意味、結果オーライ(?)なんだけどね。

沈んで浮かんでこなかった人間は気の毒ではあるけれど、そのまま残ってたって、
海の藻屑に違いない。
泳げるやつの手助けなり、ランチ・カッターを下ろしての救援なりを当て込んで、
投げ込むっていうのなら、まだしも助かる可能性があった。
いいことは言い切れないけれど、悪いことでもない。

沈みかける艦艇にこだわらず、一人でも多くの熟練乗組員を助けようと試みるのは、
ずっとマシな行為。

この爺さんみたいなやつをDQN呼ばわりするやつがいる限り…

次 の 戦 争 も 負 け だ な ( 藁
488名無し三等兵:02/08/21 16:28 ID:???
徴兵検査のときに健康かどうかで点数つけていくんだけど
もし痔だったら兵士として役立たずだから評価が低くなって
兵に取られなくなる 
そこで俺の曾ばあちゃんは曾じいちゃんを取られないように
するために 曾じいちゃんのけつの穴に針を刺して偽装工作をやった
けど ばれてえらくしかられた
489名無し三等兵:02/08/21 18:16 ID:???
>>487
ま た 戦 争 す る 気 か お 前(w

ちなみに、うちのじいさんは当時満州にいて、戦争末期に根こそぎ動員食らった
途端にソ連侵攻。
「シベリアで働くために兵隊になったようなもんだ」と
今でも酒飲むとそう愚痴る。
490名無し三等兵:02/08/21 20:25 ID:Ex5f/Zi0

私の中学校の担任は幼年兵あがりで、終戦時には沖縄でボートにダイナマイトの束ねたやつくっつけて敵艦につっこむ訓練をやっていたそーな。おかげて生徒は全員2等兵扱いでした。
491名無し三等兵:02/08/21 21:33 ID:41BwFX28
≫490さん
震洋?
492名無し三等兵:02/08/22 13:17 ID:Gg3BGUUj
さすがにジーちゃんが日露の生き残りって人はいないよね?
493名無し三等兵:02/08/22 14:31 ID:???
うちのジーちゃんは呉で高射砲作ってたんだが、会社にないしょで
航空隊に志願した。しかし、目が少し悪くはいれなかった。
そしたら、そこの将校が「貴様は目が悪くとも耳があるでないか!!」
といって、無線への道をひらいてくれた。
「爆撃機にのれるのか~」とうれしがったジーちゃんだが、爆撃機も
敵機をみつけるために目がよくないといけず、これも断念。
その後、満州の士官学校にはいって、そこで無線員に

その後、シベリア抑留で二年間シベリアにいた。そこでよく働いた
のでロシアの将校から「美人の嫁をやる」なんて言われたがきっぱり
ことわったそうな
あと、現地の子供が鉛筆をせがむのであげたら、コロッケをもらったそうな
(抑留先でコロッケなんか食べたのはわしだけじゃ、なんて笑ってた)

かえってきたら無線員だったこともあり、なんどもGHQによばれたらしい
494名無し三等兵:02/08/22 15:11 ID:???
>>493
あと、ばーさんは、看護婦で原爆の落ちた広島にいった。
それとは関係ないのかあるのかわからないが、進路になやんでた母さんに
「看護婦はやめたほうがええ。汚い仕事も多いし」なんていってたらしい

いままでのは、母方の話。
親父のほうはなんもしらん。なんか父方のじーさんは、ひどい事があったらしく
そのせいか、戦後、朝日新聞愛読者に・・・・親父も影響うけて愛読者に・・・
父方のばーさんは、どこぞの材木問屋のお嬢さんらしく戦争体験すくないらしい
元お嬢さんらしくいまでも傲慢。過去の栄光をひきずってる

父方と母方でものすごく戦争への解釈がちがう。
495名無し三等兵:02/08/22 17:20 ID:afapWPgu
うちの爺さんは、ぼけてしまって今では話を聞くことが出来ないが
どうやら階級は軍曹で満州に居たらしい。
戦争が終わってから内地に帰るために汽車に乗ったが、どうも様子がおかしいので
機関士にたばこを渡して話を聞いたところ、シベリアに向かってると聞いて
それならと言って、「たばこをやるからトンネルでスピードを落としてくれ」
と頼み、トンネルで仲間数人で下りて走って逃げてきたらしい。
その後どういう風に帰ってきたかは知らないけど、そん時シベリア送りになっていたら
俺は存在しなかったかもしれんな。
496名無し三等兵:02/08/22 23:08 ID:???
うちの爺さんは少尉でしたが、視力を買われて砲台係&設計をやってました。
砲台は重すぎて方向転換に30分も掛かったとか。
レイテ島にも行ったことがあるらしく、飢餓状態で人食いはホントだったらしい。
旨いって言ってました。

あと、大阪高槻市の地下に大規模な軍事工場を作るということで、
朝鮮人やら大勢引き連れて穴を掘っていたそうです。

終戦後、少尉以上は全員死なないといけなったらしく、上長からピストルを
渡されたそうな。
で、どうしようかなと何日も迷っている最中「やっぱり死ななくても良い」と
言われて助かったらしい。爺ちゃんが早まっていたら今の俺はないわけで。

今はもう他界してしまったけど、もっと聞いておけば良かったなぁ。
497名無し三等兵:02/08/22 23:20 ID:UY0cijTq
アサヒビール名誉顧問の中條高徳氏(陸士出身)の
孫娘からの質問状「おじいちゃん戦争のことを教えて」
という本がお勧めです。小学館から出てます。
498名無し三等兵:02/08/23 06:43 ID:opsux+vE
家の御爺は徴兵で参戦。射撃の腕前が良かったので機関銃の射撃手を任されたそうだ。
中国人は戦闘を避け撤退を繰り返したそうだ。
中国の何処か、城壁と物見櫓が印象に残る場所で戦闘。そこでの抵抗は激しく、いつもと
様子が違ったらしい。相手は城壁の上から攻撃。対する日本帝国軍は身を守る物体の少ない
平地。地面が固く、塹壕(?)が掘れなかったそうだ。
それでも低い姿勢から反撃。が、撃たれ負傷。弾丸が骨を貫通。痛みよりも衝撃と燃える
ような熱さを感じたと。同時に死を覚悟。上官に、自分はもう戦えないので置いていってくれと伝える。
手榴弾を腹に抱えて、いつでも自爆できるようにかまえる。
しかし上官が「若いおまえを死なせる訳にはいかん」と答え御爺をおぶって退却に成功。涙が止まらなかったらしい。
平成の初期の時点でも寒くなると傷が疼いていたようだ。

細かい地名やその他の状況(マスコミや軍人の証言などで派手に報道されていた日本帝国軍批判の事件など)については
話を聞いた当時認識がなかった為質問しなかった。また、聞くことも無かった。

ただ、うちの御爺はかなり豪快な性格だったため、もしも百人切りとやら人食いが実際に行われていたのなら
隠すことなく話したと思う。若いころのヤンチャ話をよくしてたから。

酒が大好きな陽気な御爺だったので戦場での体験談とのギャップが印象に残っている。
499名無し三等兵:02/08/23 11:56 ID:dB7xd5qR
折れの叔父は226事件のいわゆる「青年将校」でした。
妹である母は「兄のやったことは絶対間違ってない」と今でも言っています。
渋谷の裏道に毎年行きます。
500名無し三等兵:02/08/23 12:25 ID:F8eYNB56
父方の祖父は俺が産まれる前に死んでるんだよな。
「空母の機関兵だった」とは聞いていたけど、戦後も生き残ってるんだから
最初はウソだろ~とか思っていたんだが。
ある日、そのぢいさんの軍服姿の写真が出てきたので見たら帽子には「鳳祥」
の文字が。そりゃ生き残ってるわな。

でもずいぶんとまたショボい空母やな、をい と萎えてしまったよ。
501名無し三等兵:02/08/23 16:53 ID:Edau+LU5
大正生まれの母方の爺ちゃん。輸送船で南方へ行く途中、機関が故障し、
やむを得ず船は近くの港に寄ったらしい。それが明暗を分けた。同じ船団で、戦地へ
向かった船はことごとく途中で潜水艦に沈められたらしい。
爺ちゃんは衛生兵だった。
「死んでいく兵隊は、『天皇陛下万歳!』なんて言わない。みんな『お母ちゃーん!』
って叫ぶんだ。まだ女の温かさも知らずに死んでしまう若い兵士が本当に気の毒だった」と言ってた。
爺ちゃん自身も当時かなり若い方だったと思うが。
戦争が終わって、故郷では爺ちゃんの母親が、駅に立って息子の帰りを待った。
毎日毎日、汽車が来るたびに息子の姿を探し、ついに再会できた時は母子抱き合って
泣いたらしい。当時は珍しくなかったのかもしれないが、爺ちゃんの家は母子家庭
だったらしい。


502名無し三等兵:02/08/23 23:46 ID:???
母方の爺さんは南洋庁の職員で現在のミクロネシア諸島の島で植物の研究をしていた。
日本から持ってきた研究用の蛙が脱走して島で大繁殖してしまったらしい。

終戦後、持ち帰ってきた研究資料は全てGHQに没収、南洋庁も解体され研究員の道を
諦めた。

あんまり関係ない話でスマソ
503名無し三等兵:02/08/24 20:47 ID:VBxP5IbQ
自分のじいさんは、よくわからないが蕗港橋(?)から大陸を渡り歩きマレーで頭に弾くらって野戦病院で終戦迎えたらしい。
あの事件の真相を知ってそうだったが、その手の話はしなかった。
そのかわり、捕虜収容所の話は割と良くしてくれて、現地民の面通しがあってレイープなんかした部下は引っ張られていったらしい。
ほかにも、手先が器用だったのでG.I.の時計を修理してやったら、お礼にハムをもらったらしい。
収容所の食事は少なかったらしく、いつも腹ぺこだったので1人で丸ごと1本(それも特大)一気に食べたら、いきなり高たんぱくを大量に摂取したので中毒起しかけた。
それで米軍医に水をたらふく飲まされ、竹の棒でつつかれてマラソンしたらしい。
(因みに軍医は自転車)
収容所ではそんな感じで人気者だったようだ。


眉間の横に窪みがあって弾食らった痕らしいが。
つうかじいさん不死身?
504名無し三等兵:02/08/25 00:33 ID:Kzrj+qr/
母方のじいさんは、中国で戦っていたらしい。
あまりよく話は聞けなかったけど、砲兵部隊にいたらしく
そのせいで難聴になったそうだ。
空襲に来た敵機を塹壕から野戦砲(砲兵に野戦砲って、正しいのかは分かりません。ご容赦ください)
で偶然にも撃ち落としたら、次の日から倍以上の敵機が襲ってきたらしい。
あるときマラリアにかかって、軍医にも放って置かれたが軍医のところまで這って行って
必死で頼んで治療してもらった。
しかし、そのおかげで最前線で戦わなくてすんで生きて帰ってこられた。
復員してきても、戦場での経験はトラウマになったらしく、漏れが中学になった頃でも夜中にうなされて
叫んで飛び起きることがあったそうだ。
そのじいさんも、漏れが高3の時に亡くなった。
亡くなる前に病院のベッドの上で、もう意識が無いのに苦しそうなうめき声をあげたことがあった。
よっぽど苦しいことだったんだと、改めて思った。
じいさん、安らかに。ばあさんも、長生きしてな。
505名無し三等兵:02/08/25 01:03 ID:???
これはひどい捏造ですね。
「腰ダメで捕虜に向かって2時間機関銃打ちまくり」
など内容的にも映画を見て騙ってるような印象を受けます。
たぶんこの連中は戦争に行ってませんね。

証拠をあげろとか言う奴がいそうなので付記すると
打通作戦の従事者の戦記である「歴戦1万5千キロ」(藤崎武雄著)では、
「軽機でも腰ダメ射撃というものがあった。ただし11式では不可能である。」
「それぞれ1会戦につき弾丸の割り当てがなされた。小銃だと200発・・」
と記されており、この連中のデタラメが分かりますね。

506名無し三等兵:02/08/25 02:03 ID:F+OESWcd
(母方)
・海軍の少尉として日本国内のとある基地で経理をやってた・・と聞いた。幸いその
基地は爆撃も小規模で爆撃された数も少くなっかったそうらしい。終戦後、三菱の
製紙工場に勤務。現在80歳以上だったと思う。
(父方)
・陸軍の医療兵?として中国大陸に渡り数々の兵士を助け修羅場を乗り切った。
戦場で盲腸炎になり麻酔無しで手術をした・・と聞いた。終戦後、名古屋の大学で
教授を勤め、その後しばらくして地元、横浜に戻り目医者を開業。ホントかどうか
分からないけど、プロレスラー長州 力の治療もした事があるらしい。一度離婚し
その後、再婚。再婚後に産まれた子供の一人が俺の父親。そのじいちゃんも
一昨年、俺が中一の時、死にました・・あまり、一緒にいた記憶が無いのでそんなに
悲しくなかったけど、葬式が終ってしばらくしてからこの話を聞き、じいちゃんの
凄さを知ったよ。
*余談ですが、母方のじいちゃんの母親は101歳で死んで新聞に載ったらしいです。
これもあとから聞いた話なんですが、何か東海地方の有名な神社の娘だったそうです・・
507名無し三等兵:02/08/25 10:14 ID:L8hU4ov9
>>36
ネットの世界は2~3ヶ月で7~9割の住人が入れ替わるので安心しろ
508 :02/08/25 12:09 ID:Q87l4teM
すげぇいいスレだ・・・思わずじっくり最初から読んでしまったよ。

漏れの両祖父母はもう逝っちゃったし、両親はそういう話に興味ない
みたいだからなぁ・・・
509名無し三等兵:02/08/25 12:12 ID:QFG4rxl/
>>1
なんてイイ名スレだ...
510名無し三等兵:02/08/25 13:37 ID:br9PlvU2
父方の祖父 日中戦争の頃から従軍し砲兵してたみたい。捕虜の首をきるとか、
      フランス軍の将校から手袋取り上げたりとか、結構酷いことしてたみたい。
      最後はタイで終戦迎えたから、拳銃なんかも取り上げられなかったし
      ビルマ方面から帰ってくる人たちの世話をしてたそう。大尉までいったそうで、
      今でも背中も曲らずかくしゃく(?)としてます。

母方の祖父 台湾の病院で終戦迎えたそうです。
      祖父のお兄さんが硫黄島で戦死したそうです。
511名無し三等兵:02/08/25 17:13 ID:/Vbxcg00
祖父は最近話題の16師団で上海戦に行った。
負傷したため南京には入城していないそうだが。
「当時の16師団」の生き残りは結構いると思うなあ。
レイテで玉砕したときにはかなり入れ替わってたんじゃないかな。
512名無し三等兵:02/08/25 17:30 ID:Hz+juUm/
>>511
16師団は太平洋緒戦のバターン半島でも苦戦を強いられ、1個連隊が壊滅してます。
この後も相当の入れ替わりがあったと思われます。
レイテ戦における16師団生存者の記録をみると、昭和18年召集の人が多かったように
思います。


513砧大蔵@本物 pd102016.ch.FreeBit.NE.JP:02/08/25 17:32 ID:49kJIjCU
母方の祖父は高円寺で町医者をやっていたが、東京大空襲の時に駆りだされて、
負傷者の治療に当たった。当時でも東京都はそういう民間防衛のシステムがあったようだ。
でも、死屍累々で凄かったらしい。
父方の伯父貴は海軍機関学校を卒業して、人間魚雷回天の乗組員になった。
しかし、出撃前に終戦になり、戦後は何故か陸自に入って武器学校校長などをやって
陸将にまでなった。
514名無し三等兵:02/08/25 17:44 ID:DLduUlVO
うちの祖父は背が低かったので徴兵されなかったらしい。
年齢から考えて、まだ戦争が激しくなかった時期だと思う。
その後、海軍省で働くようになったため、結局戦地に行く
ことはなかった。が、東京大空襲のときには様子を見に
街中へ派遣され、炎に巻かれて死にかけたそうだ。

終戦後、当然失業。米兵相手に靴磨きをして家族を養って
いたが、ある日泥酔した米兵にいきなりビール瓶で脳天を
カチ割られた。出血とビールの泡でたいそうな大騒ぎになった
そうだ。一緒に仕事してた仲間には元軍人もいて、米兵たちと
一触即発になったと後で聞いたと言ってたよ。
515軍事マニア歴33年:02/08/25 18:23 ID:???
 >511,512
 437でも書きましたが、自分の母の遠い親戚の陸軍中将が、京都第16師団
の師団長をバターン半島戦後から昭和19年の初め頃まで務めておられました。
この方は別に戦犯に問われることもなく、戦後は公職追放になったので、生まれ
故郷の仙台で隠居生活をしていたとオフクロが教えてくれました。
516名無し三等兵:02/08/26 01:51 ID:???
父方の祖父の兄が海軍兵長で大和の乗組員でした。
1945年4月7日、大和と運命を共にしました。
517名無し三等兵:02/08/26 20:25 ID:lo3FDb8t
age
518名無し三等兵:02/08/27 00:11 ID:3KAdp8tP
質問交じりなんだが・・・
財閥系の企業にいたらたとえ下っ端でも徴兵されないものなの?
うちのじーちゃん両方兵隊に逝ってない。
母方は炭坑にいたからまぁ納得なんだが、父方が理解不能。
三●製紙にいたらしいんだが・・・(下っ端だったかどうかは不明)
年齢的には開戦直前ぐらいに呼ばれてるかも?くらいの歳。
オヤジが1歳のときに病死してるからまったく詳しいところがわからんのよ。

519名無し三等兵:02/08/27 00:39 ID:64RjsnpY
ジーちゃんは南方で、豪州軍の捕虜になったそうだ。そこでは毎日必ずといっていいほど
ほぼ同じ時刻にスコールが来ていたそうだ。それでも豪州兵は、毎日道路に水をまいていたそうな。
あと1時間もしないうちに必ずスコールが来るのに。ジーちゃんはいまだに、彼らが賢いのかそうじゃないかが
分からんと言ってる。日本兵ならまずそんなことはしなかっただろう、と。けどこういったところに日本兵とは違った強さが
あったのだろう、と言ってる。
520眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/08/27 00:44 ID:???
>518
んなこたぁ~ないのでは?

軍属だけど漏れの叔父は、神戸銀行(いまの三○住友)に勤めてて、
徴用食らっているし。
片や、漏れの母方の祖父は、中企業だったけど、電炉メーカーの首脳
だったから、徴兵にかからんかったと逝ってたし。
521名無し三等兵:02/08/27 09:21 ID:lbM9NVuw
そういえば、うちのじいさんはフィリピンで
「軽機を腰ダメで猛射」したって言ってたなあ。
これも最近一部で話題ですね。(笑
後に遺骨収集で出会った当時の敵部隊の司令官に、
あんたの軽機は随分効いたぜ、みたいなことを言われたそうだ。
522名無し三等兵:02/08/27 13:09 ID:oJG21Jx6
>518 
 多分それは無いと思うよ!
 うちのじいちゃんは、住○商事に入社が決まってて
 1日も出社しないで兵隊にいったよ
523ヒラヒャーマ:02/08/27 14:04 ID:MQo+xOCq
うちの死んだじいちゃんは戦争に反対していたのだが、やむなく巻き込まれたといっていました。

先日NHKでやっていた台湾沖の海空戦も大戦果をあげたと聞いたそうです。

しかし気がついたときは、敵は日本本土へ。

もう少し戦争が長引いていれば、信州松代に疎開する予定だったそうです。l

戦後は大いに反省し、相撲と雑草を愛して生活しました。
524名無し三等兵:02/08/27 15:23 ID:94ZyB4Aq
うちの祖父は満州で関東軍の航空隊の小隊長をしていた。
あんまり実戦のなかった部隊らしいが、
南京から飛来したB-29を四式戦闘機疾風で2機撃墜して、
満州の新聞に載ったらしい。
今も沖縄にて健在。
525にっぽんの曹長さん:02/08/27 16:03 ID:MOvkJNkk
おらんちは 1945年に満州に少年兵として5803部隊の鉄道隊
ですた。
訓練だけだったそうだけんど
526名無し三等兵@番号三九四:02/08/27 16:23 ID:1rs/h39S
戦中従軍した件で爺さんが、小泉総理の名で銀杯と書状を頂いたそうです。
先の大戦の件でこの様な物が頂けるとは思ってもいなかったらしく、多少は報われた気がしているみたいです。
自分が言葉にするとこんなもんですが、爺さんにしてみれば色々と思うところがある様です。
この件に関して小泉総理には感謝です。
527518:02/08/27 17:49 ID:3KAdp8tP
>>520、522
thanx。
なるほど会社の名は関係無しか・・・。
だとすると何なんだろう?
親父に聞いてみたらなんか若い頃は渡世人みたいなこともしてたらしいんだが・・・
拒否って逃げたら会社にはいられんだろうし・・・。
何かコネでもあったのかな?
バーちゃんももう氏んでるから検証できねーヽ(`Д´)ノ
528名無し三等兵:02/08/27 22:39 ID:n92W7kBX
肉親じゃ無いけど入社当時に整備兵上がりの怖いおじさんが整備課長でおられた
回転機器のベルトの弛みは親指で押さえて第一関節までへこむまでとか、糸張ってモータの中心取りとかなんか
電動機、発動機の裏技を色々教授くださった。
なんか特ー2の親父さんみたいですね。アニメネタスマソ、、こんな小技術者たくさんいたんですよ。
529餓鬼:02/08/27 22:43 ID:1UAF0gnX
NHK緑の島は戦場になった「太平洋・死者たちの声」ってのやってるね
飯が食えてる事が心底ありがたくなる番組です。
餓島で、食い物の名前を延々と綴ってる兵隊が哀れで哀れで・・・
背筋が凍る一言「とうとう餓鬼道に落ちたらしい・・・」
爺さん達、安らかに眠ってください、お願いです。
530名無し三等兵:02/08/27 23:48 ID:X1Q+vR42
10年以上前に亡くなった私のじぃちゃんは、レイテ戦の
生き残りでした。こちらのスレで、3%しか生き残ってないと
知って、改めて驚いた次第です。
じぃちゃんが存命だった頃は私もまだ小学生で、
母から聞いただけなのですが、当時の階級は少尉、落下傘部隊に
いたそうです。
戦後は自分だけ生き残ってしまったという自責の念が強く、
よく飲んだくれてたそうです・・・。
でも孫の私たちにはとっても優しかったじぃちゃん。
そんなじぃちゃんにもっともっといろんな話を聞きたかった。
「レイテ戦記」にじぃちゃんの名前を見つけた時は、
家族みんなで涙したものです。
531名無し三等兵:02/08/28 02:46 ID:X96/IUfw
母から聞いたじぃちゃんの話。
母は兄弟の一番下でじぃちゃんのお気に入りだったので、
幼い頃に戦争中のじぃちゃんの話をいろいろ聞いたそうだ。
じぃちゃんは当時中支と呼ばれた中国で戦って、
いつなのかはわからないが、南京の門の守備もしていたそうだ。
そんな中で、母が印象に残っていると話をしてくれたのは、
攻めてきた敵の戦車の下にじぃちゃんが潜って、戦車を爆破した話。
中国の平野を地平線まで埋め尽くす、真っ赤なケシの花畠の話。
無数に流れるクリークと呼ばれる小川で、魚を捕って食糧にした話。
中国人の少年を一緒に従軍させていた話などだ。
母はじぃちゃんから中国語も教わったが、
今でもおぼえているのはクーニャン(娘の意)一語だけだって。
532名無し三等兵:02/08/28 02:48 ID:55S+oBW0
おれのじいちゃんは終戦間際、木更津で陣地構築。海岸砲の訓練をしたとか。
さえないのう
533名無し三等兵:02/08/28 02:54 ID:???
>>530
高千穂隊の方でしょうか。
激戦下、並大抵でないご苦労をされたことと思います。
534名無し三等兵:02/08/28 03:59 ID:p8kIPMbd
今でもこういう生の声やそれに近い物があるなんて感動しますた。
特に530さんのってすごいな。

家の父方は海軍の二兵曹で、実戦配備されてまもなく終戦。
練度積んで無かったから命が助かった格好だったみたいだ。
戦後は大学に入りなおして国家公務員やってたらしいよ。
ただ、海軍は好きだったみたいで、父親に海軍で習ったマナーのあれこれを教えていたし
父親を陸軍嫌いに育ててしまった。

母方は陸軍の学徒動員で中国に行ったら、シベリアに連れてかれたらしい。
ロシア語を覚えて通訳になったから、言葉が通じると向こうも親切にしてくれたとかで死なずにすんだと言っていたよ。
535 :02/08/28 04:42 ID:ckWSMG4Q
ウチの父方のじいちゃんは特高警察だったなあ。
戦後は警察への復職話もあったらしいけどGHQ見て
こりゃダメだって思って拒否。
その後は定年まで銀行勤め。
小5ん時死んだけどもう少し話聞かせてもらえばよかった。
物心ついてからのじいちゃんの印象っていえば
彫刻とか能面彫ってたり実際に能やったり板付空港で盗掘やってたり(w
俺が少しだけ早く生まれてたらこのスレでも
もうちょっとマシなレス付けれたんだがな
536217:02/08/28 04:50 ID:tVFWaZnh
吾が祖父
結婚後徴集され中国大陸へ
軽機関銃手。

中国軍大隊長の住居を討伐。生存するものは大隊長のカナリアのみ。
このカナリアを大隊長と名付け、飼っていた模様。
残酷と慈悲。人間の本質をみるものなり。

どうやら現地で除隊され 家族を内地から呼び小さな新聞社を中支方面の占領地でやっていた模様。
このころ母誕生。中国人の従業員がいたという。祖母は今も中国語が少し分かる。
その後再招集され、祖母には護身&自決用モーゼル拳銃(どこから入手か?)を残して再出征。

軍馬の輸送の任務。伍長。
後方任務故か分隊には祖父の小銃一丁のみ。部下は丸腰。
会敵の場合、戦闘にならないので軍馬連れ全員で昼間はクリークに浸かって隠れ、夜間行軍。
周りの畑から豆を盗んで生で食べ、水に浸かって腹を壊すため衰弱。とても辛かったらしい。
このためか馬をてなづける特技があり、暴れ馬をたった一人で鎮めたこともあるらしい。
暗夜行軍中、八路軍の小部隊と畑の中ではち合わせ、双方パニック&逃走。死傷者なしというエピソードあり。
任務を終えて生死を共にした馬との別れがとても辛いという。

末期癌で死亡する間際、当時の部下の名前の譫言を繰り返していたらしい。
537536:02/08/28 04:51 ID:tVFWaZnh
217ではありません。スマソ
538名無し三等兵:02/08/28 05:35 ID:Ma/3rkUf
俺の兄貴の中学の校長が戦艦大和の生き残りだった。学徒動員で大和に乗った
急造の海軍少尉だったそうだ。
俺の叔父はガダルカナルの生き残りだったらしい。
今でもレーダーがあったら、負けてなかった、と悔しそうに言う。
539名無し三等兵:02/08/28 12:38 ID:???
うちの爺さんはガタルカナルで全滅した部隊のただ一人の生き残りらしい。
片目を失って義眼をしていた。
壮絶な体験をしたんだろうなあ。
540530:02/08/28 19:20 ID:???
>>533さん
高千穂隊、そうです、その通りです。

>>533&534さん
そんな風に言ってもらえると、死んだじぃちゃんも
浮かばれると思います。ありがとう。

そういえば、じぃちゃんが危篤の時のこと。
痴呆も入ってたせいか、家族の誰の呼びかけにも
こたえなかったのに、戦友のひとりがかけつけて
「○○さん!!」と呼んだ瞬間、顔をくしゃくしゃにして
泣いてたっけなぁ・・・。

話が反れたのでsageますね。
541名無し三等兵:02/08/29 13:30 ID:???
>539
いいなあ
うちの爺ちゃんはガ島で死んじゃった
漏れんとこは父方も母方も戦争で逝ってるから爺ちゃんの顔見たことないんだよな
爺ちゃんが家に居るって、どういう感覚なんだろう?
542 :02/08/30 02:42 ID:yYfsCe6S
なんかで3位になって、刀を買わなきゃいけなくて大変だったらしい。
1位と2位の人は貰えるそうだ。
特攻前に終戦。そのとき25才だから結構年上だったって。
パラシュートの切れ端と刀だけ持って帰ってきた。
刀は見つかると取られてしまうので、折って埋めたそうだ。

じいちゃんの親戚は小笠原?のほうに行ってて、
米軍と仲良くなって缶詰とか色々貰ってきたらしい。

生きてるうちに色々聞いときゃよかった。
刀って、どんなのだったんだろう?
543名無し三等兵:02/08/30 11:33 ID:IYQLqVx+
私の母方の祖父は大東亜戦争のとき、静岡県の海軍の島田研究所で、
マイクロウェーブを使った『殺人光線』の研究をやってました。

殺人光線といっても、1万メートル上空に飛来する米軍機に向かって照射して
エンジンプラグ等の電気系統に異常を起こさせて撃墜しようと言うものでした。

生体実験もやっていたそうで、マイクロウェーブを導波管で導いて、
ウサギやブタ等に照射して実験しました。
マイクロウェーブを照射されたウサギやブタは、耳や鼻や口から水蒸気を
噴出して絶命したそうです。

そして、その実験のあった晩には、チンしたウサギやブタを肴に、
みんなで酒盛りしたそうです。
食料配給の少なかった当時においては、良いタンパク源になったようです。

しかし、当時のマグネトロン発振器は、まだマイクロウェーブの発振効率が悪く、
有効な破壊兵器にはなり得なかったそうです。

結局、開発は終戦に間に合わず、戦後GHQに研究資料を接収されて
全ては歴史の闇の中に消え去りました。

戦後、研究所の仲間たちはテレビ放送や電波通信事業や家電産業分野に散り、
高度経済成長に貢献したそうです。
544ひょっとこハム太郎:02/08/30 11:43 ID:IYQLqVx+
>>543は、私です。機械・工学板から来ました。よろしく。
545名無し三等兵:02/08/30 12:23 ID:???
>>544
あ、どうも、よろしくです~

一つお聞きしたいのですが、
>当時のマグネトロン発振器は~そうです。
と書いておられますが、現代の技術ではそれができるんでしょうか?

小生が小さかった頃は暖めるだけの電子レンジが10万も15万もしたものですが、
今では8000円もあればそれぐらい簡単に買えてしまいますからねえ…。
どれぐらいその辺の技術が進んでいるのか少しお聞きしたかった次第。
546HG名無しさん:02/08/30 12:52 ID:???
私の祖父は93式酸素魚雷のピストン部を作ってたそうな。
丸六(回天)が白い布に包まれてるのを見たことがあると言っていた。
爆撃を受けた時、寮にいて難を逃れたとか。場所は山口の光工場って聞きました
547539:02/08/30 19:48 ID:???
>541
自分が小学生の時ガンでなくなりました。
それまでずい分とかわいがってくれたので とても悲しかったな。
うちの母に聞いた所ではむちゃくちゃな性格で すぐに危ない事をする人だったとか。
なんでそんな人が戦争で生き残れたのか 大きな謎ですね。
548名無し三等兵:02/08/30 20:19 ID:E58J6tPL
>>546
回天部隊が配備されていた光基地併設の工場ですね。
この基地に関する記述は朝日ソノラマ 新戦史シリーズ78「人間魚雷回天」に詳しく記述
されています。爆撃時の模様・被害も書かれていますので是非読んでみて下さいね。
549名無し三等兵:02/08/30 21:22 ID:zDm1bXHQ
祖父ではありませんが、私の父の叔父は満州で戦死したとのことでまだ、遺骨も戻ってきておりません。
ロシア戦で死んだのか、それとも中国人と戦って死んだのか・・。
歴史の中のことですが、時々親父が話します。
私の父は子どものころ、天草で長崎の「あの煙」を見ました。
妻の父は広島の三次で「あの音」を聞いています。腹に響く音だったとだけ言っていました。
戦争するなら・・・・勝って欲しかったというのは私だけの感想でしょうか。
550名無し三等兵:02/08/30 22:21 ID:azNiOKKo
俺の母方の祖父は、中国戦線にいて、飛行機の前に立つセピア色の写真も
見たことあるが、母が言うには、祖父は戦争のことは絶対に語りたがらな
かったとの事。

「よほど嫌なものを見たのだろう」と、母の弁。
551 :02/08/31 03:28 ID:VRxZyTNJ
祖父は開戦後まもなくグアム島攻略に参加し、海軍陸戦隊?とかいう部隊を指揮して
グアムの総督府?を制圧したそうです。ほとんど無血占領だったらしいです。
中佐でした。戦地で病を患い戦中に郷里で他界しました。
父が幼かった為に、祖父のことはあまり父の口から語られることは
ありませんでした。財産を親戚に騙し取られたりして相当貧乏をしたようですが。
そんな父も早くに他界し、祖父のことはもう知りようもありません。
父は生前、大事にしていた戦史本にわずか2行ほど書かれた祖父のことを
教えてくれました。祖父の上陸した場所には、記念碑があったらしいのですが、
おそらくもう残ってはいないでしょうね。
552名無し:02/08/31 04:29 ID:qrctKx1f
近所のジイさんに聞いた話。
中支戦線では、占領地は内地と同じ扱い。、中国人が相手でも、強奪や強姦を
したら立派な犯罪になり、刑務所(陸軍刑務所)へ送られる。
しかし、討伐の終わらない戦闘地域では、支那兵と農家の食料の奪い合いも
有ったらしい。こちらが確保しなければ、敵兵の腹に入ってしまうから、
先に食べてしまうとか。。。
553パンッアー・フォー:02/08/31 05:02 ID:Fe4Emq5r
家のじいさんは、当時の話したがらなかったんで、死後戦友だった人から聞いた
話だと、何か満州や中国で特務の仕事をしてたらしい。
遺品の中に背広姿で拳銃持って写ってるのや、ドイツ人(?)と一緒に居る写真
と鉄十字章がはいいってた。誰からもらったのか調べれるのかなー?

一つだけ、じいさんから聞けたのって

「サーベルはすぐ折れるから日本刀の刃と付け替えて使ってた。」

ってことぐらいだったかな。
554宇宙大統領 ◆MGRLiAK2 :02/08/31 06:51 ID:???
前スレで書いたっけな。。。 まいいや(ぉ

うちの爺ちゃん(母方)は、満州生まれ。
幼い頃に父親(俺からするとひい爺ちゃん)が、鉱山の落盤で逝去。
指揮監督かなんかをしてたと聞いたことがある。

んで、血を見るのが嫌なので
兵役を逃れられる医学校を受験。
内地の学校には落ちて、朝鮮の農学校の獣医学部に行ったそうです。
終戦の年に学校を卒業したんで、徴兵。
運動はしてなかったらしいので、試験(?)で乙種をもらったということをよく話してました。

んで、いざ入隊という時になって千人針やら何やらしてたら敗戦。
(その辺あやふやにしか話してもらってないから、実際は入隊してたのかも)
兵隊関連のことは何一つ語ってくれてません。 今度聞こう。

また、朝鮮に住んでた影響で、出征の時に日章旗にしてもらったという寄せ書きには、
ハングル文字や、「吾等のアボジ○○先生萬歳」(爺ちゃんの名。アボジは朝鮮語で親父という意味らしい)
終戦までは「アボジ」と慕われていたらしいが、
例の如く、終戦を境に朝鮮人が豹変し、えらい目にあったせいか、朝鮮(韓国)の事は何も話そうとしません。キムチも食べなかったかと。


ちなみに、母方のばあちゃんも満州ハルビン市生まれ。
ちっちゃい頃ソ連軍が屋敷に入ってきて、暴れまくったそうな。
ばあちゃん一家は中国人女中と一緒に床下の壕へもぐってたので、
いわゆる暴行などは逃れたと。
555名無し三等兵:02/08/31 07:47 ID:???
父方
南方に行ったはいいが飛行機の操縦が出来なくってずっと待機だったらしい。
イモよりまずいバナナしかまともな食い物が無かったので
敵もいないのに味方がどんどん倒れていったらしい。
相当つらかったらしく、今でもバナナは食べません。

母方
同じく南方に行った途端に百数十人いた仲間が20人に。
相当張りつめていたらしく、日本に帰る船中で病気(何の病気か話さない)に。
それが治って久しぶりに外の空気を吸おうと甲板に出たら富士山が見えて、
嬉しさのあまり腰が抜けたそうです。
迎えに来た婆さんに、荷物と一緒に台車に載せられて東京駅まで行ったとか。

その後、家でくつろいでいると死亡届が送られてきて、爺様本人が受け取ったそうで(w

556名無し三等兵:02/08/31 09:14 ID:G0slVRKt
日中戦争の最初のほうで先頭切って突撃して弾食らって帰ってきたとか。
新聞に載ったとばあさんが自慢してた。
557名無し三等兵:02/08/31 15:55 ID:???
うちのじぃちゃんは台湾の南のほうに進駐していた。
非常に暑く、正月でもふんどし一丁だったという話をよくしていた。
なので軍服は新品同様だったそうだ。
他にも高砂族やバナナの大食い競争等の話を良くしていたが、苦しい話などは殆どしていなかった。
ただ、餓島に逝く予定だったそうだが、逝く直前に撤退したので逝かなくて済んだ、とは言っていた。

ばぁちゃんは今はボケているが
ちょっと前まで「紀元二千六百年」や突撃ラッパの旋律に合わせて「出てくる敵は皆々殺せ」と言う歌を良く歌っていた。
558名無し三等兵:02/08/31 17:50 ID:dezRtBx5
爺ちゃん曰く、敵飛行機に対して地上から機関銃を撃つ人(名前が分からなくてスマン)
は神様だと思っていたそうだ(大袈裟じゃなく)。自分達は避難している中で、
彼らはほとんど全身をさらしたままで撃っていたので。
後日彼らに話す機会があったので「あんたらは、神様だ」と言ったら「自分らも本当に怖い。
だけど、向こうのパイロットも怖いはず。こっちが撃ち続けたら、必ず向こうの弾はそれる。
逆に、こっちが逃げ腰だったら必ず撃たれる。」と言われたそうだ。
559名無し三等兵:02/08/31 18:09 ID:yCLmbwM0
1944年入隊満州へ まだ19~21歳だったか?
1945年福岡へ   米兵上陸阻止のため塹壕陣地を
         掘ってる最中に終戦。

実戦は経験して無いみたいだが
同級生は2/3は戦死したという…
まだじっちゃんが生きてるから
今のうちに多く話を聞きたいが
じっちゃんの気持ちを考えると
聞きづらい…
560名無し三等兵:02/08/31 18:29 ID:???
慰安所通いが唯一の楽しみだったそうです。
561サンプル盛り沢山:02/08/31 18:36 ID:WA/N057T
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562HG名無しさん:02/08/31 18:36 ID:???
>548
レス遅れてスマソ。その本買ってみます。サンクス
563ダメ孫:02/08/31 18:37 ID:???
俺の横浜に住んでる爺ちゃんは、海軍の伏龍特攻隊に居たそうだ。
学徒出陣で最初は砲兵科で対空砲火の訓練をやっていたそうだが、
次に潜水艦学校へと配属。そして最後が、三浦半島の野比浜(だと思う)の伏龍特攻隊。
知らない人の為に説明するけど、これは潜水服を着て敵の上陸地点の水中に潜み、
上陸用舟艇が接近してきたら浮上し、竹竿の先につけた爆弾をぶつけ、自分もろとも撃沈するという特攻隊。
毎日訓練で水中に潜って、帰ってみると何人か足りない。毎日がお通夜状態だったらしい。
何でも潜水服が粗悪で破損したり、呼吸法を誤って苛性ソーダを飲み込んで死んだ人が多かったとか。
結局、関東に上陸作戦が発動されず、終戦を迎え、実戦での出撃はなかった。
いまでも爺ちゃんは酔っ払うと御国歌だが軍歌だかを歌う。今も元気だ。
一方もう故人の北海道の爺ちゃんは、南方へ行くことになったらしい。
で、輸送船に乗ったんだが、途中で病気(何かまでは不明)にかかって降ろされた。
なんとその後輸送船は南方への途上で米潜水艦に雷撃食らって撃沈されたらしい。
結局そのまま終戦を迎えたようだ。
書いてて改めて思ったが二人のどちらが居なくても俺はいなかったんだと思うと
ホント神様に感謝だ。
564名無し三等兵:02/08/31 18:41 ID:???
うちの亡くなった祖父さんは、
詳しい事は聞かなかったけど
中国戦線で戦っていたらしい。小学の時に、
祖父さんが言うには中国兵は追えば逃げ、
こちらが引くと追いかけて来たって事を言ってたな。

全然関係ないけど、祖父さんの兄さんって人は、
2.26事件で戦闘に巻き込まれ負傷して
その怪我が元で亡くなったって話しを聞いたんだけど、
2.26事件の時って激しい戦闘があったのか教えてください。
なんか、俺の弟の友人の祖父さんが、少尉だかなんかで、
その人の指揮下で戦闘に参加して負傷したらしいんだけど。
565ダメ孫:02/08/31 18:57 ID:???
>>563の続きになる。横浜の婆ちゃんのお兄さんの話だ。
お兄さんは飛行機が大好きだったとかで、海軍に入っていたらしい。
海軍でどんな仕事をしてたかは不明だけど、神風特攻隊に選ばれた。
乗機は九七式水偵という下駄履きのオンボロで、沖縄で戦艦に体当たりしたとか。
婆ちゃんは「飛行機が好きだったから、最後まで嬉しかったと思う」と言っていた。
婆ちゃんは泣かなかったが、逆に俺が聞いてて泣きそうになった。
戦後送られた米軍の戦艦の側の記録が残っていて、見せてもらった。
お兄さんの出撃日にはその戦艦に3機の水偵が特攻してきたらしい。
一機は上空を守るコルセア戦闘機に撃墜されたけど、もう一機は突っ込んだらしい。
残った1機は被弾し海上に不時着していたが、しばらくするとまた離陸して、
戦艦の砲塔に突入したとか。結局戦艦は被害が酷くて、総員退避命令が出たらしい。
しばらくすると戦艦は沈没したそうだ。俺は突入した2機のうちどちらかがお兄さんで、
最後に大好きな飛行機に乗ったまま任務を果たせた事を本気で願ってしまった。
長文連続投稿すまん。
566犬尊い:02/08/31 19:46 ID:???
>>565
艦名は何?
567ダメ孫:02/08/31 20:45 ID:???
>>566
すまんそこまでは分からん。
記録にはあったかもしれないが覚えてないよ。
568犬尊い:02/08/31 21:08 ID:???
>>565
何月何日?それがわかれば艦名がわかるかもしんない。
特攻で沈んだ戦艦は無いから、軍艦の間違いでしょうね。
569名無し三等兵:02/08/31 21:54 ID:???
福島県?で秋水の飛行実験をしていた。と昔逝ってた。
570ダメ孫:02/08/31 22:19 ID:???
>>568
さっき婆ちゃんに電話で聞きますた。
うろ覚えで戦艦と書いたが、駆逐艦だった。
よくある戦果の過大報告になっちまった・・・お恥ずかしい。
日付は昭和20年5月4日、
沖縄のザンギ岬(残技と聞いたが検索で出ない。現地語?)沖、
7度51里を哨戒中の駆逐艦。艦名は「Marison」。マリソンか?
艦長は「jR Hansen(ハンセン?)」海軍中佐。「jR」はどんな意味か不明。
ジュニアか?jはミスタイプでなく小文字だと言っていたが・・・まあいいや。
撃沈時は看守を天に向けて沈んでいったらしい。
乗組員331名のうち、救助されたのは179名だそうだ。
古い資料で、判読不明な所もあったみたいだけど、こんな感じだった。
571相原通信員:02/08/31 22:23 ID:CMO7I3oO
じいちゃんの弟が戦艦大和の通信兵をしていたらしい。
沖縄戦も生きて帰ったが戦後白血病で死んだらしい
572犬尊い:02/08/31 22:27 ID:???
>>570
サンクス。
573ダメ孫:02/08/31 22:37 ID:iInLMrj1
>>570
いちおう訂正。×看守→○艦首
574眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/08/31 22:56 ID:???
>570
フレッチャー級の一隻、DD-560 Morrisonですかね。
1945.5.4のことなら、これみたいです。

参考程度で、URL貼り付けときます。
ttp://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/ships/dafs/DD/dd560.html
575名無し三等兵:02/08/31 22:57 ID:D2CbZi22
>ザンギ岬

たぶん、残波岬。南側の浅い入り江一帯は米軍の上陸地点となった。
ちなみに現在、海兵隊員2人が波にさらわれて大騒ぎ中。助かると良いが。
576ダメ孫:02/08/31 23:28 ID:iInLMrj1
>>574
>>575
ありがとうございます。
英語は苦手だけど、3機の双フロートの機体って読めた。
多分あってます。こんな詳しく情報を得れるとは・・・感激。
577名無し三等兵:02/08/31 23:29 ID:4kqkK5fX
お爺様ご存命の方も、けっこういらしゃる様ですがお大事にしてくださいね。
母方の祖父…陸軍に徴兵されて、タイだったかベトナムで終戦、去年病気で、胃の殆どを切断。まだ元気です
父方の祖父…今年他界しました。徴兵されて、海軍の飛行場勤務だった様ですが、戦争中の話は殆どしませんでした。戦友が空襲で亡くなったり、自分達より若い兵士が特攻したり‥内地とは言え悲惨だったようです。
入院中に俺が結婚するまで、頑張りたいなと言ってたそうです。ばあちゃんが「子供が生まれるまで、死んじゃダメだよ」と言うと笑ってたそうです…爺ちゃん情けない孫でスマン、彼女と別れたよ。
578名無し三等兵:02/09/01 00:08 ID:VdZlME3k
良スレだーー。今まで見たどのスレの中でも1番。おそらく、ほとんどのレスが真実だろうから。
579ダメ孫:02/09/01 00:24 ID:ueT5Kc9G
ホント良スレですね・・・貴重な情報がいっぱいだ。
580名無し三等兵:02/09/01 00:56 ID:BM/Ha721
出版関係の人見てないかな?
本にしてくれ。
581名無し三等兵:02/09/01 01:04 ID:???
うちの母方の祖父徴兵されて(静岡何師団か忘れた。)満州に渡ってそこでソ連軍につかまり奥地に強制労働させられて最後の船で帰ってこれた。
とても寒かったと言ってた。
また友達の祖父はガダルカナル島で餓死したと言ってた。
582名無し三等兵:02/09/01 02:35 ID:???
じいさんは昨年88歳で逝ってしまった。小さい頃に腕の弾痕などを見せられて
満州での傷口からウジが沸いてるのをしらずに戦ってたとか話してたな。
 
 将校で中国語ペラペラで諜報員?みたいな任務・・ウル覚えだがチャント
聞いておけば良かった。戦後は検察庁で働いていたが天皇からなんか、メダルみたいのをもらいに
わざわざ東京まで行って、よく自慢していたなぁ・・・
ほんと生きているうちに色々話したかった。

戦争体験話中いつもちゃかしてスマン・・じいさん。
583名無し三等兵:02/09/01 02:37 ID:0l3x9UMm
オレの死んだジーチャンに子供の頃に聞いた話は、
満州行ってたときに、中国軍?の兵士に手裏剣を
投げられて脚に刺さった!って話しを何回か聞いたよ。
手裏剣って。。。
584名無し三等兵:02/09/01 02:46 ID:???
俺のじいさんの兄弟は中野出身ではないものの、流暢な中国語で諜報系の仕事をしていたらしい。
しかし、ミイラ取りがミイラになり、戦中に行方不明となった。どうも中国共産党側に寝返ったらしい。
そこまでは戦後確認が取れたらしいのだが、それ以降の足取りは不明だ。
585ひょっとこハム太郎:02/09/01 02:50 ID:ICSe2vUc
>>545
レス遅れすみません。

現在の技術で可能だと思います。当時は、サイリスタ等のパワーデバイスはもちろん
半導体すらない真空管時代だったので、殺人光線になるような高出力のマイクロウエーブ
を発振させる事はできなかったと思われます。

ただ、現在作るならレーザーを使ったほうがずっと強力なものができるので、
マイクロウエーブはあくまで通信・索敵用として発達したものと思われます。
586名無し三等兵:02/09/01 02:55 ID:3ulXB8Ng
俺のばあさんは長野に住んでいて東京大空襲の時、遠くの山の向こうで真っ赤な空が出ていたっていってたけど長野から見えたんだからすごいよね
587名無し三等兵:02/09/01 03:48 ID:???
>>583
> 手裏剣って。。。

それは金票(ほんとは一文字の漢字)でしょう。
http://www.gaopu.com/5555.html#02.2
日本風に言えば一文字手裏剣です。
中国武術ではわりとポピュラーな武器なので十分有りえる話です。
588名無し三等兵:02/09/01 15:54 ID:???
家の爺さんは中国で狙撃兵をやっていたらしい。
もと猟師だったらしく、どんなに離れていても確実に当てたとか。
なぜかとても部隊では優遇されたそうだ。

589545:02/09/01 22:17 ID:???
>>585
なるほど…。
科学技術はそんなに進歩してるんですね。
我々の祖父の世代は戦時中随分苦労・工夫を
重ねてこられた訳ですが、それが戦後の発展を
支えてきたのでしょうね…。
ご教示ありがとうございました。
590583:02/09/02 00:13 ID:k/zv1AcQ
>>587
おお!そんなのあるんだー!
オレはてっきりジーチャンが子供相手に面白可笑しく話してると思ってたよ。
ジーチャンに「嘘だー!!」って言ったのは謝るYO!
591名無し三等兵:02/09/02 13:10 ID:???
>>588
す、すごい。まじでプライベートライアンのジャクソンみたいな人がいたとは…
猟師っていう出身も同じだし。
592名無し三等兵:02/09/02 15:18 ID:f3qH04jG
私の父は17年または18年応召で近衛におったそうです。戦地に出る事もなく終戦を迎えました。
92式重機かなんかを運ぶ時指を怪我した。試作重戦車の試験走行(警備してた?)
を観てたら、渡ろうとした橋が崩れて戦車が川に落ちた。などと断片的な話しかしません。
あとは紀元2600年の大観艦式?で鳳翔の格納庫を見学したと申してました。

叔父は予科練を志願し、終戦時は厚木航空隊におったそうです。父よりは話してくれましたが
やはり断片的に話すのみで、雷電に乗ってたとか、地上勤務の時は25ミリ機銃で応戦したとか
言っておりました。同じ班のもと戦艦霧島乗り組みの古参兵が就寝中毎夜、霧島撃沈の時間になると
呻き声をあげて目を覚ましていたと語っていました。叔父は数年前に他界しましたが、遺品として
海軍時代の飛行服を貰い受け、形見としております。実家には父が復員時に頂戴してきた陸軍の無線機と
叔父の二種軍装が保管されてます。

母は戦中、市外電話局の交換手をしており、東京大空襲のおりは夜勤で局内にいて難を逃れた
そうですが、(当時から電話局舎は堅牢に造られていたらしい)空襲後、道路のアスファルトが
ドロドロに溶けて歩けなかったと述懐しておりました。

因みに私は当年40歳、今は死語になった?40の恥かきっ子でございます。



593名無し三等兵:02/09/02 16:07 ID:/+x2ieU1
中国に軍医で従軍したそうです。
現地で虎を捕まえて食ったそうです。
あ~それから、大和や武蔵は戦時中は知らなかったそうです。
戦後になってからそんな船があった事を初めて知ったそうです。

戦時中、父は小学生でしたが、B-29を見たとき綺麗な飛行機だと
感じたそうです。
594名無し三等兵 :02/09/02 16:29 ID:OuP6A9D0
親父が(俺の)爺ちゃんはフィリピンで小型艇から各部隊の通信を
介する(管制する?)任務をやってたみたいなこといってたけどそうい
う仕事ってあったの?
疑ってるというかそうかも知れんのだがチョト確かめたい。
595名無し三等兵:02/09/02 16:47 ID:ETgRf0Uo
俺の爺ちゃんは中国に行ってたそうです
1メートルくらい横にいた仲間が「痛!」っと言う言葉を最後に死んでいたとか
飲み水が汚かったので正露丸を大量にとかしてから飲んだとか
水を飲んだ川の少し上流に大量の死体が浮いていたとか
こんな話は何度も聞かされました

おもしろかったのは「天皇陛下万歳!」って言いながら死んでいった人は見たことないって言ってました

それから俺が「中国で戦っていた時日本はアメリカに勝てると思ってた?」と質問したら
「絶対勝てないと思っていた」という意外な答えが返ってきました
596名無し三等兵:02/09/02 17:20 ID:U1faN0as
俺の爺ちゃんは中国出兵3回
3回目の時は結構激戦だったらしく、自分のほほを弾が貫通し歯がなくなりました。
その抜けた弾は隣の人の頭に命中。死亡だったそうです。
部隊の集合写真がありますが、数十人中生還者は数人だったと言っていました。

爺ちゃんの口癖は、
「鬼畜アメリカ。」です。
最近、ちとボケが入ってきたのですが戦争中の事は鮮明に覚えています。
っていか、ボケちゃって、いつも戦時下に入っています。
597名無し三等兵:02/09/02 17:34 ID:???
おれのひい爺さんは、二百三高地で中隊を率いて戦ったそうだ
隊が全滅寸前になり、ロシア兵に追い詰められたが
腹の底から響く声で「うるさいぞこの馬鹿もんが!」と
一喝したら、敵の1個連隊がビビッて退却したそうだ
死ぬ間際まで、大法螺吹きで有名なじいさんだった。
598五十六長官:02/09/02 17:45 ID:2d9EURWf
うちの爺さんは三回出兵した。ノモンハン戦にも参加してシベリアにもいったらしい。
だが無傷。元気に戻ってきた。
599名無し三等兵:02/09/02 17:51 ID:7QiHVzWr
うちの爺ちゃん曰く
関ヶ原での戦いで、敵の大将の首を取ったのはワシらしい
600名無し三等兵:02/09/02 17:52 ID:???
詳しい事は聞いてないけど、ウチのじいちゃんは戦闘機乗りだったそうな。
沖縄の海を空から見てたそうな。

海なんぞ見てる余裕があるって事はけっこう気楽だったのかな~と想像してみたり。
601名無し三等兵:02/09/02 18:32 ID:???
うちのじいちゃんは、赤紙が来るといやなので
自分で、岩を落として右手の中指をつぶしてしまったそうだ
お陰で無事、徴兵をのがれますた

その根性があれば、戦地でも死ななかったのではないかと
思うのだが・・・
602名無し三等兵:02/09/02 19:03 ID:???
現在、全て故人。
①祖父(父方): 海軍主計大尉。戦艦榛名乗務。戦後マッカーサー付通訳。
②曽祖父   : 陸軍大将。19年8月、南方にて玉砕・自決。
③曾祖母の義兄: 陸軍元帥。日清・日露戦争。自刃。
④祖父(母方): 陸軍少佐。日中戦争では南京攻略戦に参加。


①陸軍一家の中にあって、唯一の海軍軍人。空襲による榛名大破着底時、主計官室を出ていたので
 直撃弾から助かった。艦の最期を「解体」として迎えたことを複雑な想いで語っていた。
②弟(元陸軍少将)、曾祖母(雀士)からの伝聞。
 絶対国防圏の最前線として死守するべく着任したものの、戦闘初期の楽観論から玉砕を迎える。
 圧倒的な火器兵力の劣勢に、なす術なく決別電報を打った。短銃自決。雀士。
③武勲あるも、痔主。切腹。
④南京攻略戦で、第10軍に従軍。軍刀で中国人数人を切った話をしてくれた。
 太平洋戦争終結時は、大本営陸軍部第2部。終戦時、自決未遂。
603名無し三等兵:02/09/02 19:05 ID:???
スゲェナオイ
604名無し三等兵:02/09/02 19:18 ID:dEtCNx8B
そんな偉大なじいちゃん達は冥府で
2CHに入り浸っている孫達をどのように見ているのであろうか?
オナホールでオナニーしている俺もな
605名無し三等兵:02/09/02 19:30 ID:???
>>604
情報戦の時代、PCを自在に操れる子孫をみて、きっと頼もしく思っているよ・・・たぶん。


606名無し三等兵:02/09/02 19:32 ID:???
>>604 追記(軍機)
オナホールは止めとけ。
衛生上問題があるし、実戦で逝かなくなるぞw
607名無し三等兵:02/09/02 19:37 ID:fFT5c/D7
>>593
すげえ、虎の肉かいな。
きっと加藤清正と秀吉の不死のエピソードとか
話しながら食ってたのかな。

そんな余裕無いか(w
608名無し三等兵:02/09/02 19:45 ID:vDw8GXj+
>>602
君も家業を継ぐ為に陸上自衛隊へいk(以下略
609祖父は:02/09/02 20:06 ID:7nEBQlLB
北支派遣軍の司令部付き通信兵だった。
司令部と一緒だから安全かと思うと、逆にねらわれたりしたらしい。
敗戦前後、本土と連絡をとるのに通信機を自作した話が十八番だった。
アルミ板を切ってバリコンをつくり云々。

日本軍のロジスティクスの水準がよくわかってとてもためになったな。
610名無し三等兵:02/09/03 02:27 ID:???
>602
19年8月に南方で玉砕、自決した陸軍大将なんて言ったら
特定できそうなもんだが、そんな人いたか?師団長で自決、
後に大将ってこと?(それでも特定できそうだが)

あと、3は明治天皇に殉死したって事なんだろうか。それとも敗戦後?
611名無し三等兵:02/09/03 10:46 ID:JMnT2vd1
>>610
明治維新後、帝国陸軍大将(元帥)は全部で134人しかいないし、
昭和19年8月自決つーたら、該当者は1人だ罠。
第31軍司令官の小畑中将(戦死→大将)じゃないかなぁ?

あと、元帥で切腹も1人しかいないな。乃木将軍。
612名無し三等兵:02/09/03 10:51 ID:JMnT2vd1
>>610
元帥で切腹、もう1人いた。杉山元帥。
でも、日清は逝ってないだろ?
613名無し三等兵:02/09/03 14:28 ID:IZ6p1WEM
10年くらい前に家の工事に来てた大工さんが戦争体験話してくれた。
当時関東軍に所属していて、朝鮮国境付近で終戦を迎えたらしい。

「ソ連につかまるより、アメリカにつかまった方が日本に帰れる」
という情報がすでにあったらしく、その部隊全員は必死で南下して
アメリカ軍に投降したらしいです。

614602:02/09/03 14:52 ID:???
>>611 
間違えてました。
③:ガキの頃から、ずっと元帥だと思ってたら・・・大将だった。
(曾祖母の義兄なもんで・・・、スマソ)
615名無し三等兵:02/09/03 19:47 ID:???
>>593>>607
あんまり関係無い話ですが、
虎の肉と言えば、ムツゴロウさんの著書の中に似たような記述があった。
ムツゴロウの御両親は満州で医者をやっていたそうだ。
その中に、山猫に家畜をやられて悩んでいた現地人の為に銃を貸してあげたら
見事仕留めてきて、現地人が山猫の刺し身をごちそうしてくれたという。

後に裕福になって両親に美味しいものを食べさせようと、
「今までに食べた一番ウマイものは何?」と聞いた所、
二人揃って「山猫だ」と言っていたとあった。
もしかして、猫系の肉ってウマイのかもしれない。
616名無し三等兵:02/09/03 19:50 ID:NTPDRGS/
婆さんに聞いた話。
うちの爺さんは入隊した直後、隊が二・二六に関係したとかで
満州に送られ、その後、隊ごと捕虜になったそうです。
そこで目を盗んで毛布とか売りさばいて貯金ができたとか。
結局おろせなかったそうですが。

自分軍事関係はド素人なのですが
1. この隊がどの隊なのか特定できるか
2. 満州から金融機関かなにかに入金できたのか
ってわかりますか?
617名無し三等兵:02/09/05 05:43 ID:???
 >602
 陸軍大将ではないけれど説明文にマッチする将軍といったら、サイパン島
守備隊が玉砕した時に南雲中将とともに自決した斉藤義次中将がいる。
斉藤中将は自決時、第43師団長。ただし、サイパン島守備隊の玉砕は
昭和19年7月7日。
618名無し三等兵:02/09/05 07:35 ID:???
>>616

家のじいさん・ばあさん・オヤジ・オジサンは満州帰り。
で、ばあさんに聞いた話では敗戦までは日本への送金は可能だったと言っていた。
しかし、ばあさんはもう少し大丈夫だと思っていたら敗戦で貯金・家財とも失ったと言う。

ちなみに当時満州で道路・鉄道関係の公務員の仕事をしていたじいさんは、
本土で公務員やっていた時の4倍の給料を貰っていたと言っていた。
619602:02/09/05 11:31 ID:???
>>617
斉藤義次は大将じゃないし、陸軍少将の弟もいないから、ちがうだろう。
サイパン島守備隊司令官の小畑英良中将が、グアム島で8月11日に玉砕・自決している。
戦死後、大将昇進。弟(小畑信良少将)はインパール作戦時、牟田口軍指令の最初の参謀長。
終戦時は関東軍第44軍の参謀長。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinji-aa.html
620名無し三等兵:02/09/05 13:34 ID:???
>>618
なるほど、送金はできたんですね。

今度法事があるから遺品とかもうちょっとしらべてみようかな。

621名無し三等兵:02/09/07 02:51 ID:+Puso1zZ
age
622名無し三等兵:02/09/07 02:52 ID:???
秋田県
623名無し予備役:02/09/07 03:06 ID:???
こちらもご覧あれ

おじいちゃんの太平洋戦争話。
http://www.am.wakwak.com/~tengu/2ch_020528_ojiityan.htm
624名無し三等兵:02/09/07 19:11 ID:p5H8skZd

ここの住人はスゴイな!

検察になれよ!

625名無し三等兵:02/09/07 19:36 ID:aptLIfQG
私の話ですが・・・
カダルカナルに進駐していましたが十七年初夏(と言うが本地は常夏ですが)
、病を患い内地送還、全快後は疎開先の子供達に竹槍訓練を指導しておりました。
626名無し三等兵:02/09/07 19:42 ID:p5H8skZd
>>625
最年長の2ちゃんねらーですか?
627名無し三等兵:02/09/07 19:57 ID:NgQBBS3p
岐阜大隊ですか?>625
628名無し三等兵:02/09/07 20:01 ID:AflkotH8
軍事板の怪奇現象のひとつに住人数100人前後なのに
この手のスレが何度も何度も建ち
「私の祖父は・・・」の口調で始まる文が
もう明かに500人分くらいあることが数えられる。
怪奇現象と前述したがこれは怪奇は怪奇でも未知に対する
畏怖を表したものでは無く、仕組みは簡単で同じ人物が
何度も何度も思い付いては書いているだけなのであるが・・・
怪奇なのは誰もそれを指摘しないという状況である。
これに対しての明確な理由は判明していないが
恐らく暗黙の了解や通念と言った類のある種の「秩序」なのかもしれない。
私の祖父は通信兵として、青森基地勤務
階級は兵長で、青森の空襲の時は消火活動に出ていたらしい。

聞いた話によると空襲で焼け残った後、
川と田んぼが黒い人間の塊で埋まっていたそうだ(´Д`;)
630名無し三等兵:02/09/07 20:16 ID:FmGelDjl
家のじいさん、馬賊になりたいと言って家出したらしい。
満州で行方不明になった後
戦後無事に帰ってきたそうな。
631名無し三等兵:02/09/07 21:37 ID:???
大正5年生まれ。太平洋戦争が始まる前から戦闘機に乗っていたらしい。
ラバウルの部隊に所属していたらしくガダルカナル島に出撃したりしたそうです。
その時に敵の飛行機の弾が頭に当たってヤバかったらしいけどなんとか帰還できたそうです。
その負傷が原因で内地に戻ってきてどこかで飛行機の教官になったらしいけど、
本土決戦が近づいてくると硫黄島に行くことになったそうです。
そこで10機以上の敵に襲われたらしいけどなんとか生還できたそうな。
その後内地へ帰って実験部隊で終戦を迎えたそうな。

頭に弾が当たって帰還とか10機以上に襲われて帰還とかまゆつばですけど。どうなんでしょう。
一昨年死去。
632名無し三等兵:02/09/07 21:49 ID:???
>>631
どうつっこんで欲しいんだ?え?
633631:02/09/07 22:08 ID:???
追記
敵機を60機以上撃墜したとか最終階級は中尉だったとも聞きました。
中尉というのははともかく60機以上って無理ですよね?
勝率9割だったとしても0.01%未満…

>>632
え、何故ですか?
634名無し三等兵:02/09/08 12:28 ID:???
うんこー
635名無し三等兵:02/09/08 17:09 ID:M/6BP4L7
>631
 ネタですか??
 違うとしたらその方はもしかして坂井三郎中尉じゃないですか?
 
636ロボット三等兵:02/09/08 17:26 ID:Fkc81UQs
 東京帝大法科卒、フランス国費留学でインドネシアで、司政官という物を
していたらしい、これって軍隊のなんて階級なんだろう。
637名無し三等兵:02/09/08 17:29 ID:???
司法官は軍人じゃない。官僚
638動画無料サンプル:02/09/08 17:44 ID:yaKyj1gu
盗撮モノ!!女子高生・OL・芸能人を隠し撮り!!
http://www.traffimagic.com/WIPE7MMLZCA/comein/FSJPN
639名無し三等兵:02/09/08 18:22 ID:zySdlZNF
628=馬鹿。
640名無し三等兵:02/09/08 18:54 ID:???
>>>631

ネタかね。本当なら超有名人だけど。ネタならもうすこし、渋い
人選を希望します。
641名無し三等兵:02/09/08 22:54 ID:DT8jmmfC
>640
もういいよ。せっかくの良スレが・・・。
642名無し三等兵:02/09/08 23:14 ID:???
母方の祖父は兵役についていたのですが、
漏れが生まれる前に死んでしまって、どこで何をしていたのかは今もわかりません
父方の祖父は兵隊になって東京にいたらしく、
軍隊では未成年なのにタバコを吸わせてもらったそうです
学校出(大学だと思われ)の兵隊が、階級が同じなのに威張っていて感じ悪かったそうです
東京が空襲された時に、焼夷弾に水をかけても火が消えなかったといっていました
それと陸軍なのに潜水艦乗ったりしていて、陸軍より海軍の方が厳しいと言っていました
終戦後どうしたのか聞いたら、ヘルメットが重かったので仲間と山に捨ててきたといってました(w
643名無し三等兵:02/09/08 23:31 ID:7qbMjpPl
うちのジイチャン、夜間飛行の訓練中に墜落して、後部座席に乗っていた
相棒だけが死亡した。その事をかなり悔やんでいた。
644名無し三等兵:02/09/09 00:05 ID:WjgTtn4n
>>642
 陸軍兵乗り込みの船舶砲兵は結構多いですが、お祖父さまは陸軍の
輸送専用潜水艦 ○ゆ潜 に乗り込まれていたのではないかと思われま
す。建造数が少ないですから非常に珍しい体験をお持ちと存じます。
 ○ゆ潜については「日本軍の秘密兵器」といった類いの書籍に頻繁
に掲載されてますよ。
645名無し三等兵:02/09/09 12:34 ID:dKlU+sFw
この夏知覧に行って来たのですが、なんとも言えない気持ちになりました。
実際にああやって俺らのジーちゃん達が日本のために、と言って死んでいったんですね。
646名無し三等兵:02/09/09 12:53 ID:RrzphrU3
摩文仁の丘なんかでは
お参りに来た軍人の遺族に
沖縄の人が日本軍に殺されたとか
軍人賛美だと
問い詰めるプロ市民がいるらしい

教科書にも誇らしげに書いてあった気がする
647名無し三等兵:02/09/09 13:12 ID:kODij2Gj
うちの爺さんは奉天の満鉄所属の研究所にいました。
しょっちゅう某石井が来て研究者派遣を要求してたそうな。
あの時代でも、満鉄だからそれなりに断れたそうで…
でも終戦間近に40過ぎで徴兵されちまいました。

満州は本土と違い意外と冷めてたようで、
婆さんは"ああ、こんな年寄りを徴兵するようじゃ負けるな"と
内心思ったそうです。で、教え子だった上官が何とか助けようと
後方移送をかけあってくれたのですが…運悪くソ連の捕虜になり
シベリアの地獄を見た模様。シベリアのことは息子である親父にも
一切話さなかったとか。

大学出のインテリでドイツ語もできたらしいので、収容所では通訳として
重宝されてそれなりに食事は困らなかったようですがそれでも
ガリガリに痩せて戻ってきたそうです。
648名無し三等兵:02/09/09 13:23 ID:rErlzc25
うちの爺ちゃんは、昭和二十年に入ってから予備仕官として陸軍に入隊。
主計少尉として、満州に任官。それと入れ違いに、今まで住んでいた、
東京は大空襲にみまわれる。
その後、ソ連軍が侵攻してくる前に、本土決戦用の物資の管理のために、
日光に転勤。

終戦後は、その物資をトラック一杯分、家までもって帰り、
食糧難の時代であったにもかかわらず、
一家全員、しばらく食いものには不自由しなかった。

ここまで、悲惨じゃない戦争体験はある意味、珍しいとおもう。
649 :02/09/09 13:46 ID:Q37VvEoM
大叔父の話。
学徒で陸軍のパイロットに。任地はジャワ島。
飛行機は練習機しかなくて、主な仕事は敵機が来襲したときに
自軍機を離陸させて逃げまどうこと。(地上に置き放しだと狙い撃ち
されて全滅するらしい)
なんと洗濯はガソリンで行っていたとのこと。(内地では血の一滴なんて
標語もあったのに・・・移送手段がないので余りまくっていたらしい)
辻政信と会ったことがある。(学徒将校の間では嫌われ者だったとか>辻)
激戦もないまま終戦。投降せずに、民間人を装って密かに日本に
帰れとの命令が下ったそうな。そのときの部隊長の訓示。
「日本軍は10年後に必ず復活する。諸官等はその礎になってもらいたい」
私服で脱出したのに、3日くらいであっさり発覚。英軍の捕虜に。
一応将校だったので待遇が良かったらしい。(解放されたとき、大量の
食料や毛布を巨大なバッグ一杯に詰めて渡されたといってた)
650名無し三等兵:02/09/09 21:31 ID:???
結局だれのじいちゃんが一番活躍したの?
651名無し三等兵:02/09/10 01:43 ID:???
>>602
③は柴大将かな?
清国武官時代に義和団事件に際会し活躍。
652名無し隊員:02/09/10 01:43 ID:VU/28OSi
>646
摩文仁の旧軍関係の慰霊塔は沖縄にとっては異様な感覚だと思われ
653名無し三等兵:02/09/11 06:19 ID:FjFQSx1d
>>628
それの答えは、他板で宣伝されてるから
だいぶ前に書き込んだ者ですが人類学板から来ました。
個人的にはネタではないと思いたい。
654名無し三等兵:02/09/11 07:34 ID:CJ2rW5AW
ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」より

浜口(元衛生兵) 吉沢(元上等兵) 奥崎(元上等兵)
野村(元上等兵) 清水(元ウェワク残留隊隊長) 山田(元
軍曹)

浜口「それはね、みんな食べたしね。肉は、みんな、今日は白か黒か
   黒んぼか白んぼかと言ってみんな食べました」
浜口「うちの部隊では日本兵は食べてません」
吉沢の妹「人肉を代用豚と言っていたそうですけど」
浜口「いや黒豚白豚言いますねん」
浜口「土人の豚とったら土人に殺されますよ」

山田「そりゃ生きるためにはいろんなことがあったよ」
山田「そういう現場(食人)を見はじまったのは十九年の七月頃から」
山田「戦争って頭はないよ。生きることだけだよ」
山田「原住民は食わねえよね。向こうは素早しっこくて逆にやにれるから」
山田「勘が良かったんだよ、、俺殺しちゃえばみんな不自由だから
   殺して食いたいという人もいるけど、かばう人もいるわけだ
   それで生きたんだ」
奥崎「それで食われないですんだわけですね。あなたはね」
655名無し三等兵:02/09/11 11:15 ID:???
>>654

ちょっとスレ違いっぽいけど、実際にあっただろうね。
他の体験記を見ていても結構食べた、知らずに食べたと言う記述がある。

フィクションだけど大岡昇平の「野火」が有名。
(ちなみに大岡昇平の「俘虜記」は体験記でノンフィクション。ただ、人肉を食べていると書いてない。)

参考までに、映画「生きてこそ」。
これは実話を元にした映画。
http://cinema.media.iis.u-tokyo.ac.jp/movie.cgi?mid=351
ちなみにこの主人公、後に宝くじを当てて大金持になっているから人生とは面白い。

脱線、スマソ。
656名無し三等兵:02/09/11 12:16 ID:rMJMWLEG
父方の祖父は近衛兵(曹長)でした。
東京大空襲の時と玉音放送前日のことが聞きたいですが、
東京オリンピックの年に死んでます。
男ぶりが良くないとなれないと聞いたことがありますが
親父も漏れも顔は受け継いでません(w
剣術好きだけが似ているらしいです。
なんか帰ってきたら真剣で素振りしてたとかいってました。
油田が県北にあったので艦砲射撃(?)をくらったらしいですが、
県南である家もガタガタ揺れたらしく曾祖母が仏壇もって外へ逃げたとか。
火事場の馬鹿力って本当だなと祖母が言ってました。
ちなみになぜか遺影は近衛兵当時のヤツです。
祖母の趣味らしいです(w

全く生々しい話はないですが。
657名無し三等兵:02/09/11 19:51 ID:???
うちの父方の爺さんは若いころから骨と皮だけのような
人間だったので身体検査(?)に引っかかって戦争には行ってない。
爺さんの義理の兄は重巡青葉に乗ってたそうだ。
遅延信管の鉄鋼弾を被弾したときに装甲が
薄すぎてそのまま貫通。海上に出てから炸薬が破裂して
その大叔父は無傷だったそうだ。同じ船室にいた
仲間は爆風や金属片で全員亡くなったそうです。
658名無し三等兵:02/09/11 20:09 ID:NrTX9Lve
俺のじーちゃんは民間人だったか仕事で軍部と深く繋がっていて
当時は朝鮮に居たんだって
当時はかなり顔が広かった・・・・事が災いして日本に引き揚げるタイミングを完全に逃してしまったそうな
で何処行っても安全じゃなかったらしい
で直接海を越えるのを諦めて中国から大陸を逆進してなんとスリランカまで
行って数年間はそこで商売して生計たててたって話し
なんでそんなに動き回ったかは聞けなかったけど
すげーよ
じーちゃん
659名無し三等兵:02/09/12 02:02 ID:???
うちの爺さん少将で、ある南方の小島を死守しろと言う命を受け死を覚悟した。
ある日米軍の大船団がやってきた。が、その小さな島を無視して通り過ぎて
いってしまった。「他の島で死んでった奴らに申し訳が立たん」と言ってたが
結局その島でも病気で1割ぐらいは死んだとか。
660通りすがり:02/09/13 06:10 ID:abSAvY9b
もう四年前に胃ガンで死んだ父方の祖父は兵役終了後、農学校で教師をしていたが
戦争の激化により招集。
麻布連隊に所属してた。
(今年死んだ婆さんにむかし聞いたところによると近衛兵だったそうだ。
本当かどうかわからなかったが、婆さんはそう言っていた。)
朝鮮ケイジョウ(京城?ヘイジョウ平壌?)で終戦を迎える。上等兵だった。
思い出として聞いた話は、毎晩朝鮮出身兵が「アイゴーアイゴー」と兵舎で
泣いていたそうだ。実戦には参加しなかったよう。
戦後はすぐ帰国できずに昭和23年ごろ疎開先の長野松代の家にひょっこり
返ってきた。
そのとき婆さんは幽霊かと思ったが、でも足があったので幽霊じゃないと思
ったそうだ。
戦後は区役所に勤め公園課勤務で退職。
生前、私が買った電動エアガンを畑で連射して遊んでいたら「軽機みたいな
音だな」と言ってたので、当時「軽機関銃ってこんな音なのかな」と思った
思い出があります。

母方の祖父は役所勤務だったので招集は免れたそうだ。
同じく母の姉の夫つまり私の義理の伯父は、軍医で(たぶん満州あたりで)
ソ連軍の捕虜となり収容所にて病死。
伯母は、「医者の不養生で死んじゃったよ」と言っている。しかし胸の内は
いかばかりか。
余談であるが、母の実兄(伯父)は元陸上自衛隊の戦車乗りだったそうで、
彼の運転する車に乗ったらえらく運転が荒くて怖かったそうである。
「さすが、元戦車乗りだね~」とは母談。
そんな伯父も母から聞くと、戦時中空爆に飛来してきたB-29があんまり
綺麗だったんで庭でボーッと見上げていたら、驚いてすっ飛んできた爺さん
に頭をひっぱたかれて避難したそうだ。
(結構、B-29が綺麗だったというエピソード多いね)
661名無し三等兵:02/09/13 13:49 ID:???
ウチの爺さん、大正6年生まれ。
亡くなったのが、漏れがリアル厨房のころだったから、あまり戦争のつっこんだ話は聞けなかった。
自衛隊の基地なんかによく連れていってもらったのを覚えているよ。
ガンで亡くなったのだが、最後の瞬間まで、看護婦さんに冗談を飛ばすような人だった。
すごいと思ったよ。

亡くなった後、資料の整理をしていたら、何かのコピーが出てきた。
マーカーで線をつけてあるのが、爺さんのいた部隊なんだろう。
陸軍航空隊にいて、「隼」に乗っていたというのは知ってたんだが。

最近、実家に帰った際に、もう一度、その資料をみてみた。
「丸」のコピーで、爺さんの部隊は「第59戦隊」だった。
どなたか、爺さんが同じ部隊にいた、もしくは、自分が同じ部隊にいたというつわものはおらんのか?
662名無し三等兵:02/09/13 14:01 ID:KcuhHUBf
靖国で中国帰りのじいさんが生きて帰れりゃ、戦争ほど面白い物はない。
と言っていました。
663名無し三等兵:02/09/13 14:17 ID:Do1n+JEi
>>1
>もう一人のじいちゃん
ホモの間に生まれたんだね
664名無し三等兵:02/09/13 14:42 ID:???
(´-`).。oO(名スレにも読解力のない厨は蔓延るんだな)
665がさらー:02/09/13 15:03 ID:0GU/htrE
沖縄戦の話なんだけどいいですかね?
うちのおじーは12年前に亡くなったんだけど(ちなみに足が悪かったので兵隊には行かなかったらしい)おじーの妹にあたるおばさん(戦争時10歳くらい)から聞いた戦争の話。
家は沖縄の山原(北部)だったんですけど、北部にも米軍が上陸して来たので家族で山に避難。
その避難中に、おばさんと大きいおじー(ひいおじい)が米軍に見つかってしまい、米軍の小隊に囲まれてしまった。
家族全員「もうだめだ~」と思ったらしいけど、一人のアメリカ兵がおばさんにお菓子を差し出し、おばさんも抵抗なくそれを食べようとしました。
すると、大きいおじーが「うらんだーのくゎーしかんだらならんどー、毒はいっちょんどー(毒入ってるから食うな!)」とおばさんに忠告。
それを見たアメリカ兵はお菓子に毒が入ってないことを証明するためにおばさんの前でそのお菓子をを食べて見せた。
すると、この大きいおじーは「食べなさい」と一言。なんて現金なんだw

その後おばさんたちは何故か解放されたらしく、山やガマに1週間くらい潜んでいたらしい。
そのあといろいろあったらしいんだけど、このおばさん、戦争時の体験談をおもしろおかしく話すんですよ。
そんなおばさん大好きですw 生きていてくれてありがとう。

あとおじーの弟(1945年当時23歳)が海軍の通信兵で、戦死したそうなんですが、どこで亡くなったか未だにわからない。
おばさんの話によると、最後に手紙を受け取ったのは、1944年の秋くらい。広島の呉から届いたそうです。
(この手紙も戦争で焼けてしまったらしい)
で、戦死報告は戦争が終わって三年くらい(この頃沖縄の人はほとんど収容所に入れられてたらしい)たった頃に届いたそうです。
666名無し三等兵:02/09/13 16:16 ID:/a9f6uZS
>>665
「ナマ」がじゅうぶん伝わる話、ありがと。
>どこで亡くなったか未だにわからない
これが、家族にとっては一番つらいことだわなぁ・・・・合掌。
667がさらー:02/09/13 16:29 ID:0GU/htrE
>>666
レスありがとー。
ほんとにね、分かればいいんですけどね>亡くなった場所
摩文仁の戦没者慰霊碑でおじーの弟さんの名前を見つけた時
会ったこともない人なのに涙が出ちゃったッスよ。
僕も合掌…
668へう:02/09/13 17:05 ID:WZG0xYUI
母方祖父は丙種合格で行かず。

父方祖父は中国戦線で下士官。
戦争体験は一切語らなかった。
が、一度だけ中国人の事を「チャンコロ」と言ったことがある。
669名無し三等兵:02/09/13 17:36 ID:???
>>663
オマエのアホさに涙が出てくるよ。
670うりひゃー:02/09/14 01:31 ID:129ABKyE
>665 「うらんだーのくゎーしかんだらならんどー、毒はいっちょんどー」

戦時中の会話でも方言だとなぜかでーじ爆笑してしまう。
671名無し三等兵:02/09/14 15:26 ID:um4OJPju
自分の顔さらして自慢してるブサイコハケーン(・∀・)!!!!

俺ってどっちかと言うとカワイイ系だろ
http://salami.2ch.net/test/read.cgi/male/1031726496/

次スレ↓
俺ってどっちかと言うとキャワイイ系だろ
http://salami.2ch.net/test/read.cgi/male/1031918680/

顔さらして後悔してるみたいだから元気づけてあげて。

問題の顔と証拠のハンドル書いた紙の写真↓
http://fafa.page.ne.jp/bbslog/img-box/img20020912003316.jpg
こいつのおじいちゃんも悲しんでるだろうな。
672名無し三等兵:02/09/14 15:32 ID:???
>>671
このスレにそう言う痛いレスを付けているオマエモナ。
673名無し三等兵:02/09/14 20:09 ID:???
>>668
うちの爺さんは毎日のように言ってます。あの世代は2ちゃんねらーなんぞ目じゃない。
674名無し三等兵:02/09/14 22:58 ID:???
>>673
それは差別発言で言ってるの?<お爺さん
675名無し三等兵:02/09/15 21:48 ID:lSVThkgU

ジーちゃんは南方の原住民の方を今でも「土人、土人」と言っていますが、これって差別用語なの?
「土人は醤油よりも黒かった」などと。
676名無し三等兵:02/09/16 05:03 ID:CDhJC4Gi
うちのじい様は10年程前に亡くなったのだが、孫の俺にはいろんな話を聞かせてくれた
16歳から29歳まで、帝国海軍におってな。 陸戦隊時代の青島では、橋頭堡を築くための
狙撃班に入って連隊長から労をねぎらう書状も貰ったらしい。
大陸での勤務はサイドカーの運転手とか、死体を運ぶためのトラックとか
運転勤務が多かったって。 新しい死体が多かったから、カンオケの隣で仮眠を取ったと爺ちゃん言ってた
それから、「加賀」勤務になり、真珠湾から撃沈されたミッドウェーまで戦い抜いた。
整備兵としての乗船だった。 めまぐるしく、魚雷と爆弾の爆装の変更に辟易だったって。
それから、敵の爆撃にあって気絶しているところを上官に叩き起こされて、沈没寸前の船の甲板(25メートル)
に飛び込み、三時間位漂流した挙句、助かった。 それから、内地勤務になり終戦。

ああ・・まだまだ書きたい。  爺ちゃん・・・心行くまで、一緒に飲みたかったよ・・・


677名無し三等兵:02/09/16 16:01 ID:1wpBF8ww
>>676
kake!
678名無し三等兵:02/09/16 17:01 ID:5JfEAH6U
父方の爺さんは満州にいたが「本土決戦だ!!」ということで内地に帰還→終戦。
そしたら東京大空襲で両親プラス兄弟10人近く死亡してたそうです。
(ちなみに出征中に更に兄弟が増えていたらしく供養されてない兄弟もいるかもしれないらしい)
ちなみに実家は浅草の浅草寺近くで馬具店を営んでおりデカイ店だったそうです。
終戦後にその土地を売りはらい福井に引っ越したそうです。
その爺さんも最後はアル中になり病院を追い出されるなどした後に眠るようにおなくなりになりました。
679名無し三等兵:02/09/16 19:12 ID:???
私の祖父は陸軍の一兵卒として支那大陸から南に行軍してインドシナまで行った。
戦後は警官になり派出所で勤務した、町の共産主義者のリストを持っていて
それで連中を監視していたそうです。
退官後は勲七等の勲章を二つ受けました。
680よそのスレにも書いた事があるけど:02/09/16 19:43 ID:QboVHtjD
ろくに話を聞かなかった事を今でも後悔している。
ただ1度だけ、軍艦マーチを教えてもらった事がある。
それも本来の歌詞ではなくて替え歌だった。
延々と同じフレーズを繰り返すだけ。



「守るも攻めるも 身を枯らす…
 守るも攻めるも 身を枯らす…」


その歌詞の意味に気付いた時には、もうじいちゃん死んでいたよ。
681肥やしよしのり:02/09/16 19:49 ID:???
戦争逝った先で、飯が一人,雑煮に餅2つだったのだが、
うちのじじーのとこに、間違いで3つ入ってた。
そしたら、一つ足りなくなって、後ろのほうで大騒ぎ,
「誰か3つはいってねーかー!?}と上官。
言うか言わぬか迷った末,しぶしぶ「3つはいってました」
といったらしい。。。。。
具体的にどこいったのかはしらん。もーぼけちゃってるから・・・
682名無し三等兵:02/09/16 22:03 ID:???
家のじいさんは、今だに車の板金業の仕事をしている、一応社長です。
自分から志願して海軍に入ったが、視力が足りず整備になりました。鹿児島の基地にいたらしい。で末期になって、人員不足のため特攻隊員になる所だったが、終戦。
683あぼーん:あぼーん
あぼーん
684名無し三等兵:02/09/16 22:09 ID:???
(続き)でその後航空会社(多分日本航空)に働く予定が、実家の東京に帰ってきたが、当然のように家がなく、諦めて昔一時期住んでいた栃木に住む。
かなり栃木が都会に見えたらしい。で現在車の免許の種類を多数持ち、巨人と将棋とカラオケをこよなく愛し、車の整備士をしています。
685名無し三等兵:02/09/17 06:58 ID:LMzeD0iz
じいちゃん、海を越えて戦争行ったけど、イヤになって逃げて来たって言ってたなぁ
686名無し三等兵:02/09/17 12:56 ID:???
今は亡き、うちの爺ちゃんは「呑龍」に乗ってたらしい。
中国大陸で撃墜されて、他の六人(?)は死んで自分だけ助かったそうだ。
それ以来、旅客機は苦手だったが、兵器と戦争映画は好きだった。
「戦争責任は天皇にある」と言ってたのが記憶に残る。
687名無し三等兵:02/09/17 22:47 ID:h5JDIc5u
俺らのジーちゃんたちは、『日本のために』と言って死んでいったのに今の日本と言ったら・・・。
自国の人たちが拉致されて殺されているのに、援助するなんて。戦争で死んでいったジーちゃん達は泣いているよ。



ごめんな、ジーちゃんたち。
688名無し三等兵:02/09/17 22:53 ID:???
バーちゃんの話でわるいけど、俺の地域に昔、強制連行された韓国の人が働かされてた鉱山があった。
そしてバーちゃんは露骨にその人達を差別してた。ちなみにバーちゃんは同じ日本人で
同じ場所に住んでいる人でも「あそこの家は○○病の家系だからつき合うな」と堂々と
言うような人間だった。
ごめん、バーちゃん。俺はそんな貴女が少し嫌いだったよ‥。こんな俺は変なのか?
689名無し三等兵:02/09/17 22:58 ID:zVngWAVu
軍事板の怪奇現象のひとつに住人数100人前後なのに
この手のスレが何度も何度も建ち
「私の祖父は・・・」の口調で始まる文が
もう明かに300人分くらいあることが数えられる。
怪奇現象と前述したがこれは怪奇は怪奇でも未知に対する
畏怖を表したものでは無く、仕組みは簡単で同じ人物が
何度も何度も思い付いては書いているだけなのであるが・・・
怪奇なのは誰もそれを指摘しないという状況である。
これに対しての明確な理由は判明していないが
恐らく暗黙の了解や通念と言った類のある種の「秩序」なのかもしれない。
690名無し三等兵:02/09/17 23:01 ID:???
>>689
よぉ、また来たな。
今夜もせいぜい頑張れや(藁
691名無し三等兵:02/09/17 23:23 ID:???
>688
うんにゃ、あんたは間違ってない。
漏れの祖父は、戦時中会社と工場を持ってたんだが
そこで韓国人をイパーイ使ってたらしい。
排斥があったときに匿ってあげたおかげで
戦後工場もなにも無くなった後、逆に世話になったという話を聞いた。
692名無し三等兵688:02/09/17 23:37 ID:???
>>691
ありがとう。
君んちに比べて俺んちは哀しいよ。
よくよく思い出したらジーちゃんも差別してたし‥。
最近、地元で強制連行された韓国の人の慰霊祭やってたよ。
好きで日本来た訳じゃないのにね。
6931:02/09/18 00:58 ID:/fK8ciU6
>675
うちのジーちゃんも「土人」と言ってるよ。別に差別的じゃないと思うけど。
その土人についてジーちゃんから聞いたことについて。


戦友と二人で自転車に乗っていたら突然敵機が現れたそうだ。ジーちゃん達は驚いて
土人(原住民)たちの家に逃げ込んだら「ここには娘はいない(もちろんその地の言葉で)」
と言って銃を突きつけられてそこから追い出されそうになったそうだ。ジーちゃんたちは
追い出されたらもちろん命が無いと思ってそのまま何とか土人(原住民)の家にいたそうだ。




南方の原住民達といろいろあったんだろうな。
694名無し三等兵:02/09/18 02:49 ID:???
死んだ父方のじいちゃん、陸軍中野出身の憲兵だった。
満州で要人警護(満州の要人って、ヲイ…)をしてたけど、
何発か銃弾受けて、終戦前に傷病兵として帰国。
帰る船の中で、中国人の首を斬る夢を見てうなされたって
話は、じいちゃんの死後親戚の誰かから聞いたんだけど…
じいちゃん自身は全く戦争の話はしなかったので、本当か
どうかはわからない。
自宅には中野でもらった銀時計があった(あと何か菊の
マーク入ったアイテムいろいろ…)
傷痍軍人会(?)理事で、当時はまだ神社の前とかに包帯
巻いて(戦後何十年治らないんだよ、その傷は…)軍服着て
立ってた物乞い紛いの元軍人(?)を、すごく怒ってたような
記憶がある…
「おまえのじいさんは右翼の親玉だぞ」って、父(じいちゃんの
一人息子なわけだが)に言われたなあ。
695名無し三等兵:02/09/18 18:08 ID:Zy4qljFO

ハン板より一般2チャンネラーの方への勧誘

 被害者の記者会見で平沢議員などが問題にしていた朝銀問題
これを知らずに今後の交渉は語れない。

【朝銀】3兆円の血税投入を追及・阻止せよ【商銀】
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1029255750/-100

朝銀早わかりフラッシュ1
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Denei/8746/

朝銀早わかりフラッシュ2
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-Sunnyvale/4734/chogin.html

コピペ推奨
696名無し三等兵:02/09/18 18:48 ID:TiZtRKuk
葬式にじいちゃんと同じ部隊だった
仲間が来てくれたのはほんとにうれしかった。
697名無し三等兵:02/09/18 19:16 ID:Pm1QjVbS
うちのおじいちゃんの兄貴は零式艦上戦闘機のパイロットだったそうだ。
兄貴にあこがれていたそうだが結局は戦車に乗って南方地区で戦っていたそうです
敵の戦車が攻撃した時に弾が装甲突き抜けたそうです。(装甲が薄すぎる)
結局は戦車は悪い地盤に入りこんで動けなくなり放棄したそうです。
終戦を迎えて兄貴がミッドウェイで戦死したことをしたそうです。
698名無し三等兵:02/09/18 19:31 ID:???
うちのじいさんはドイツに行ってBf109に乗せてもらったらしい。
その後日本に帰ってきて終戦まで予科連の教官してたそうだ。
699名無し三等兵:02/09/19 01:00 ID:???
>>694
なんか漏れ、その話聞いたことがあるっつーか・・・
あんたまさか姉ちゃんか??
700名無し三等兵:02/09/19 12:18 ID:???
700ジーチャン!
701名無し三等兵:02/09/19 17:29 ID:0HbNFrUR
工廠で爆弾作りをしてたらしい。薬品で手が荒れて大変だったといってた。
東京大空襲の様子を高台から見てたらしい。
702 :02/09/19 17:47 ID:82G3y2yj
俺のじいちゃんは戦車の操縦士。あの戦車に乗ったんだとかよく聞いた。
部隊で一番操縦が上手かったらしい。嘘ではなく戦後の会報にも
一番上手かったと当時の上司がコメントをしていた。
中国に派兵されたが、めちゃくちゃ楽な場所だったらしく(漢口周辺)
生還率は90%以上だったみたいだ。
戦争後は共産党軍に戦車操縦を教えてくれと頼まれたらしく、
一年あまり現地で指導を行い帰国。
まあ、日本軍が鬼畜なみの行為をしていたら戦車の乗り方教えてくれなんて言わないわな。
703702:02/09/19 17:57 ID:82G3y2yj
死ぬ直前にはちょっとボケたけど、何度も、「戦友に会いたい」
と言っていたなあ。
祖父の中では戦争時代は悪い出来事ではあったが、同じに友と共に戦い
友情を分かち合い、軍人として真摯に尽くした良き青春時代であったのは間違いない。
葬式にきた戦友が「しばらく会いにこれずにすみません。
・・さんは、心優しく、中国軍は狙撃が上手いから5秒以上はその場に
立ち止まらないようにと気を配って話てくれたことが忘れられない」と
号泣しながら喋っていた。
俺の中ではじいさんはヒーローだ。
704名無し三等兵:02/09/19 20:20 ID:SONR/4Tu
ウチのジーちゃんは衛生兵だったそうだ。
フィリピン逝ったそうだ。

705名無し三等兵:02/09/20 18:32 ID:???
祖父から聞いた話だが、祖父の曽祖父は下関で4国艦隊に大砲ぶっかましてたらしい。
「5隻沈没させた」というガセ話が伝わっている。
706 ◆21/.A.l. :02/09/20 23:15 ID:wNe6qQBT
3年ほど前に死んだ母のの爺さんは南方に行ってたらしい。
爺さん自身は当時のことを全く喋らなかったので、詳しいことはよく知らない。
右足の小指がなかったかな。銃創だった。
母から聞いた話では、戦争映画も大嫌いで、戦争の話をするだけでも怒っていたそうだ。
707名無し三等兵:02/09/21 15:31 ID:???
病弱だったので、シンガポールで上級将校の運転手付きやってたそうだ。
拿捕した欧米製の自動車は運転しやすかったと。
あと原子爆弾の存在を知っていた。
将校の通訳がいて、その会話を聞いてたという。
運転手は見た。か?
その境遇のせいか、田舎暮らしなのに着物や服の色選びのセンスは抜群。
ミーハーでなく、大人しくて質素な人だ。生きてますけど。
708707:02/09/21 15:43 ID:???
>>706
この板だから言えるけど、
前線の兵士で大東亜戦争を肯定している人はいませんわな・・・。
707は母方ですけど、
ニューギニア行きの父方は軍オタで、父も私も受け継いだんですが(w、
まあ、軍部に対してはボロクソです。
特に現地補給が相当苦痛だったようです。
NHKで戦争特集をするたびに、
日本軍の戦略や戦術の何が間違っていたかを得々と語ってくれました。
「負ける戦争をするな」というのは旧日本軍兵士の共通の願いだと思います。

英霊のため、歴史の再評価などという動きがありますが、
「忘れてくれ」というのが正直な気持ちではないかと。
他のスレでもそんな証言があったと思います。
709名無し三等兵:02/09/22 08:24 ID:???
うちの爺ちゃんは戦争中爆撃にあって
片足に爆弾の破片が残ったままになっています。
医者に行ったけど取り出すことは不可能だといわれたそうで。
そのせいで障害者手帳持ってるんですが
足の破片がなけりゃホントに元気な
年齢を感じさせない70歳台なんですけどね。
710名無し三等兵:02/09/22 16:31 ID:AMbcoq3B
俺のジーちゃんも昭和18年ぐらいに始めて南方に言ったらしいけど、行って早々こりゃ負けるな
と思ったそうです。
711名無し三等兵:02/09/22 16:46 ID:???
母方だが
終戦間近、満州でマターリしてたら、地平線を埋め尽くす程のソ連戦車がやってきて、
こりゃ駄目だと退却してたらしい。
んで、シベリア送りになったけど、将校の世話係についたようで、生きて還って来ました。
712:02/09/22 17:12 ID:7N4OzbMs
陸軍の九州第二十○連隊に居たと。
えんえんと毎日毎日ひたすら塹壕掘ってたと。あなほりしてるうちに
終戦。

軍隊の話聞いてきたよ。
米は当然食べられず、なんかトウモロコシの粉となんかを混ぜた粉を
……それも飯ごうとか無いから、竹筒に入れて食べてた。すごくまずか
ったらしい。

んで、配置がえで、市庁舎の帳簿つける係にまわったら、なんとそこでは
米の飯が出たんだと。おいしかったらしい。んで、一度出たのを余った分を
おにぎりにしてくれる。それをとっておくと午後に同じ連隊の上等兵とか
が交代で来て、
「何かお手伝いすることはないでしょうかっっっ」
と二等兵のうちのじいさんにぴしっと敬礼して、仕事の下働きを
させてくれと頼みに来たという(笑)
713:02/09/22 17:14 ID:7N4OzbMs
軍人勅諭の話も聞いた。
「そーだよー。もう軍人はこれを暗記してた」
「へぇ。どんなの?」
「えーとな、……………あれ?……」


まあ、明治生まれだからなぁ………
714 :02/09/22 20:53 ID:???
もう死んだじいちゃんの話。朝鮮の方に軍兵として行ってたときのこと。
米俵3表を持ち上げる力持ちだったじいちゃん(その軍隊で一番腕力が
あったと生前豪語していた)。その力を認められ、捕虜を逃さぬための
首切りを隊長から命じられた。
打ち首のとき、捕虜の顔はこわばり、硬直してたが、死をまじかに控えた
その顔は興奮していた。じいちゃんが力いっぱい刀を首に打ち込んだ。血が
ものすごい勢いであたりに飛び散ったが、まだ死んでいない。人間の首を
一振りで打ち切るのは容易ではないらしい。流血を尻目に再度刀を
振り落とし、捕虜の生命を絶ったそうだ。残酷だね。
おまけ。捕虜に見せつけたことは打ち首だけではない。縄を2本用意する。
捕虜の両足に一本ずつ縄を結ぶ。こんどはそれぞれの縄を二頭の馬に一本ずつ
つなぐ。で、二頭の馬をそれぞれ反対方向に走らせる。興奮しまくっている
人間の流血はすさまじいらしい。真っ二つに割れた胴体から血の雨。
平和ボケしている日本人が見たら失神するだろうね。考えただけでも恐ろしい。
715名無し三等兵:02/09/22 21:51 ID:???
>714
失礼だけど、日本軍の話じゃないんでしょ?
716名無し三等兵:02/09/22 23:03 ID:i0uNkphF
>>714
妄想キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
717714:02/09/22 23:05 ID:???
えーっと祖父は1916年生まれだから本当です。
718名無し三等兵:02/09/22 23:22 ID:???
>>715

なにが聞きたいんだ? 馬鹿かね?
719名無し三等兵:02/09/22 23:25 ID:???
解剖学的にあり得ないんだけどねぇ。
720名無し三等兵:02/09/22 23:39 ID:PKxxydCm
うちの曾爺さんは、日露戦争に2等兵として参戦した際、
顔つきが偉そうだったので、将校用の風呂場をこっそり
使ってもバレなかったのだそうです。

やるな、曾爺さん。
721名無し三等兵:02/09/22 23:50 ID:M2kF2puj
>>714
董卓を思い出した。
722名無し三等兵:02/09/22 23:51 ID:R1DRH7Q4
おれの何代か前のじいちゃんは日中戦争に参加して歌になったらしい。
723名無し三等兵:02/09/22 23:53 ID:R1DRH7Q4
日中じゃねえ日清だ
724名無し三等兵:02/09/22 23:57 ID:???
>>714
>平和ボケしている日本人が見たら失神するだろうね。考えただけでも恐ろしい。

チミタチ韓国人は平気なのかね?
725名無し三等兵:02/09/23 00:25 ID:y4AVTXkF
ウチは駆逐艦「磯風」の機銃手だったそうで。
沖縄作戦時に沈没(処分?)。友軍駆逐艦に拾ってもらい無事帰還。

・・あんまり詳しい事は聞いてませんが、機銃掃射で首が落ちたヒトを見たとか。

その後は京都の職人として一生懸命働いて、数年前、ガンで他界。
726名無し三等兵:02/09/23 00:47 ID:???
>>714
妄想チョ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ ン!!!!!
727名無し三等兵:02/09/23 01:05 ID:RSO5rKwT
お前ら元気だな
728名無し三等兵:02/09/23 01:11 ID:x+s/GU0b
軍事板の怪奇現象のひとつに住人数100人前後なのに
この手のスレが何度も何度も建ち
「私の祖父は・・・」の口調で始まる文が
もう明かに500人分くらいあることが数えられる。
怪奇現象と前述したがこれは怪奇は怪奇でも未知に対する
畏怖を表したものでは無く、仕組みは簡単で同じ人物が
何度も何度も思い付いては書いているだけなのであるが・・・
怪奇なのは誰もそれを指摘しないという状況である。
これに対しての明確な理由は判明していないが
恐らく暗黙の了解や通念と言った類のある種の「秩序」なのかもしれない。
729名無し三等兵:02/09/23 01:15 ID:6nAY9w99
>>728
だからよー、
このスレは話半分でほとんどが作り話なんだから
いちいち突っ込むなよ、大人げないよアンタ。
730:02/09/23 01:17 ID:rUf15QtP
俺のじいさん、東京帝大法科卒→陸軍法務中佐ですよ。

軍法会議議長になれてたのかな?中佐なら軍法会議議長も出来た?
教えて
731名無し三等兵:02/09/23 01:17 ID:x+s/GU0b
>>729
やっぱりそうですか、
水を差して申し訳ありませんね。

では引き続き創作話で盛り上がってください。
732730:02/09/23 01:19 ID:rUf15QtP
俺の話はつくりじゃないよ
733名無し三等兵:02/09/23 01:24 ID:x+s/GU0b
>>732
別にあなたの創作話の真偽に興味はありません。
ただ一つ言えることは、人の経歴で遊ぶということは
あまり上等な人間のすることではないということです。
734名無し三等兵:02/09/23 01:30 ID:6nAY9w99
>>730
でもまぁ、
テメーの爺さんの経歴も大して判らんようじゃな
徴兵されて死亡通知の紙切れだけならしょーがねけど
帝大出て中佐クラスで生き残ったなら、
親戚縁者に聞けば大抵判ることだろうよ。
735名無し三等兵 :02/09/23 01:58 ID:???
ウチのジジイ(母方、8年前に肺炎で逝去)は横須賀基地駐屯時に腸チフスでマジで氏にかけたらしい。
加えて東京大空襲で実弟が脂肪した経緯もあり、強烈な反戦平和主義の旧社会党支持者だった。
友人・知人に共産党員や左派市民団体の人間が多く(全く関係ないが、本人の高校の同級に故・自民党タカ派の議員も居た)、
反戦を訴える映画制作に関し多額のカンパをしていた。
(只、戦前生まれの人間であり、男女同権・フェミニズムと言った思想は皆無であり、自分の嫁を
家政婦、メイドの如く使っていた。)
泥酔して(下戸)よく嗚咽しながら軍歌を詠っていますた。
736名無し三等兵:02/09/23 02:44 ID:???
反戦なのに軍歌??
737ほんとの714:02/09/23 02:52 ID:???
前の717は私ではない。で、おれは韓国人でもない。日本人だよ。
こんなこというとまたくだらんレスがつきそうだが・・・まあいいか・・
714の話しは日本軍の話しだよ。じいちゃんが誇らしげに語ったから
いまだに鮮明に俺の記憶に残っている。俺はただ、そんな風に殺された
やつらがかわいそうだなって思っただけさ。連中の肩を持つ気はない。
戦争は皆が悪もんになるのよ。ただ、最近は危機感がない連中が多くてね。
9・11のときいろんな国のやつらが死んだが、やっぱり人が死ぬときは
悲しいもんよ。号泣するだろ。。。話しがずれてきたな。まぁ、俺の話しは
じいちゃんが嘘をついていない限り本当だよ。
738名無し三等兵:02/09/23 02:55 ID:???
すげーな。
人間を等級付けしたがる差別主義者が、したり顔でモラルを語っているぜ(藁
739名無し三等兵:02/09/23 02:59 ID:???
>>737
気にするな。馬鹿は一匹だけだ。
740素人:02/09/23 03:00 ID:4rzvDTrq
712だけど

>728
>729


本当なんだけどなぁ……。


過去スレは読まずに書き込んだけど、こういう書き込みする人居るのは
嫌だね。このスレは書いても読んでも無駄だぞ、辞めろと言っている。
じいさんの世代の戦争体験みたいなと思って読んで、書いたけど。

大体、じいさん達は若い男はほとんど全部、それどころか終戦間際には
学徒動員で少年達まで戦争に行ってるわけだから、500くらい書き込み
あるのは自然だと思うんだけど。
(そーいや、学徒動員だけは動員された奴ら可哀想だったと言ってたな)


軍事板最近少し見始めたんだけど、軍事板書き込みしてるのが100人という
のはどうやって算出したの?
それと、このスレほどコテハン以外の人が書き込みやすいスレは無いと
思うんだけど。正直他のスレとかで専門用語が出てくるスレとか
書く気にならない。


というか、「怪現象」とか必死にコピペしてるやつ、工作員なん?
741名無し三等兵:02/09/23 03:06 ID:???
何にでも、いいがかりをつけて悦に入る低能は居るもんだよ。
一日ウン万のアクセス数を理解できないアホが喚いてるだけさ。
スルーしる。
742名無し三等兵:02/09/23 03:10 ID:???
2ちゃん創成期より人口が減ってるのか(w
そんなに少なけりゃ、運営に苦労せんよな
ちなみに軍板のレス数は2000~3000件/日
743名無し三等兵:02/09/23 03:10 ID:???
>>740
100人ってのは脳内妄想だから気にするな。300人以上いるだろうというのが2ch関係紹介
のサイトでの情報だ。ソースがないので何とも言えないが。

気にしなくて良いよ。おそらくは「釣り」とか「煽り」とかやって君みたいなすれていない人間を
からかって遊んでいるだけなのだろうから。

釣り、煽り、自作自演が2chの本質だとか言う奴は「2ch」が昔の「2ch」ではなくなった事を
理解していないかわいそうな奴なんだよ。
744名無し三等兵:02/09/23 04:08 ID:xGtIEYbY
俺の曽祖父は出征したのはいいんだけど、配属先が決まって大陸に渡るときに輸送艦が撃沈されて戦死・・・
そんで曾祖母が遺骨を取りに行ったんだけど、帰りにあんまりおかしいので骨壷開けてみたら砂が入っていただけらしい。
多分、曽祖父の骨は日本海のどこかに沈んでる船の中にあると思う。
745名無し三等兵:02/09/23 09:44 ID:RSO5rKwT
輸送船は天井に小さな穴があるだけで
はしごも一度雷撃されたら壊れてしまうので
輸送艦に乗った人は縄梯子を通して
懐中電灯でも持ってないと助からないそうだね
746名無し三等兵:02/09/23 11:39 ID:+3Z8ehrD
>>743
あんたの言いたいことは分かるけどさ、
結局のところ>>714の書き込みをネタとか韓国人とか罵倒して煽るのが
不可思議なんだよね。

結局ここでは、戦闘機や艦船に乗って戦った武勇伝を書くのみで
俘虜を虐待した人や731部隊に所属していた人間などは「戦争体験」に当てはまらない
と言うのが現在の2chの本質なんだよね。

747名無し三等兵:02/09/23 12:45 ID:???
まあ「人間は自分の見たいものしか見ない」ともゆーし信じたくない話は無視すればいーんぢゃないの?
だからチョンだのサヨだの下らないコピペをこのスレに張らんでほしいな。
ちなみにうちの母親は空襲で逃げ惑っててもB-29は「凄く綺麗」って言ってましたな。
748名無し三等兵:02/09/23 18:29 ID:???
戦友目録だったと思うが、母方のじさま宅にあったので読んでいたらじさまが出てた。
それによると赤紙貰ってボルネオに居たようだ。
で、途中でマラリアにかかって内地に帰還してそのまま終戦したようだ。
口からは小さい頃に少し聞いた事あるだけなのだが、短期間だが大和に乗艦してた事もあるらしい。
父方のじさまは村役場の役人だったので徴収は無く、戦争には行ってない。
749名無し三等兵:02/09/23 21:39 ID:QD3Cktch
軍板に何人いるかはともかく一人につき祖父さんなら2人、
曽祖父さんなら4人はいるのが当たり前だから
板の人口以上にエピソードがあるのは何の不思議も無いんだが。
750 :02/09/23 21:55 ID:Y8R8WqMl
じいちゃんではないが、大叔父がゼロ戦で撃墜されて一昼夜太平洋を漂流した
経験がある。90歳だけどいまだに野良仕事してるw
751749:02/09/23 21:56 ID:ABGaITQy
なにもエピソード書かないのもさびしいので一つ書くけど
>>747
俺の親父もB29見たよ。日本の高射砲はなかなか当たらなかったけど
ある時偶然にも当たるのを見た。その頃になると警報がでても防空壕に
入ってる人はあまり居なかったから。
大阪への進入コースからぐらりと外れたB29の機首が親父の村の方へ
向いた。そんなデカイ飛行機は見たことが無かったんで(w 親父や
近所の人は実際より低い高度に感じてまるで自分の方へ向かってきてる
様に感じて怖かったそうだ。
結局その機体は親父の村を遥に超えて落ちてった。
752名無し三等兵:02/09/23 22:09 ID:NjTE9RNf
うちの爺さんは戦争に逝ってないが爺さんの兄が海軍の軍用機(機種不明)操縦士だった。
最後は特攻で死んだが俺が消防の時遠い親戚で基地が一緒だったと言う人が訪ねてきた。
爺さんは無表情に特攻の是非や戦争時代の話をしていたが、具体的な兄の話になり「当時海軍の
操縦士は少年達の間では雲の上の存在で、真っ白な軍服がとてもかっこよかった。自慢の兄でしたよ。」
と相変わらず無表情に言った後急に両手で顔を隠し嗚咽を始めた。
多分10秒ぐらいで覆った手を戻し元の無表情な爺さんに戻ったが、子供心に爺さんは人前で
感情を表さないと思ってたのでものすごく驚いた。
753名無し三等兵:02/09/23 22:20 ID:???
え~軍板の人口ですが・・・

以前漫画板の人口調査をしました。
1日のレス数約2800、そのIDのサマリが約1800、
なので、1日におよそ1000人程度が書き込んでると思われます。

軍板のレスが1日2~3000とすると漫画板と同規模。
1日1000人の書き込みならば、今までに書き込んだことのある人は
数万人の単位になるかもね。
754名無し三等兵:02/09/23 22:22 ID:YhKSc3f9
755眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/09/23 22:35 ID:???
じーちゃんだけで無くても、親戚まで含めたら相当数になりそう。

B-29といえば、うちの母方の爺さんの豪邸を灰燼に帰してくれたらしい。
1945年6月から7月にかけて数回、大阪池田に来襲して、焼夷弾ばらまいて
いったそうな。
多分、ダイハツを狙ったんだと思うが。

うちの母親曰く、
 「豊中の軍の陣地に高射砲があってな。
  「ボンっボンっ」って音がするねん。
  せやけど、黒煙が「ボッ、ボッ」って遙か下で広がるんや。
  悔しかったなぁ…。」
と言ってた。
ついでに、うちの母方の長姉は、学徒動員で大阪砲兵工廠に行ってたそうだが、
たまたま、8月14日は休みで難を逃れたそうだ。
756名無し三等兵:02/09/23 22:46 ID:???
>>746
他の板はともかく、軍事板では「チョソ」だのなんだの嫌韓厨な発言は歓迎されず嫌われて
いる。そういう発言をしているのは軍事板の住人じゃないと思うよ。

#ときどきそういう発言をした嫌韓厨が一瞬で論破されてるしな。普段は面倒だから
#相手にしてないだけ。
757名無し三等兵:02/09/24 00:19 ID:4iGtrLmZ
>>755
あー場所は違うがうちの親父も届かない高射砲は全く同じ事言ってた。それで零戦の体当たりに
「うおぉーやったぁ!」って皆拍手喝采したそうな。
758名無し三等兵:02/09/24 00:23 ID:???
>756
 親 韓 厨 必 死 だ な
759名無し三等兵:02/09/24 00:30 ID:Rv8AGaRT
>>758
論破されちゃうぞ
760名無し三等兵:02/09/24 11:03 ID:???
>>758
クズはさっさとハン板に還りなさい。
761眠い人 ◆ikaJHtf2 :02/09/24 21:28 ID:???
>757
大正とか伊丹とか鳴尾とかがあったのに、うちの親は飛行機の迎撃には
ノーコメントだった。
100機単位だし、夜間だったから目立たなかったのか。

でも、匂い硝子の話は両親とも記憶に有るみたいですね。
あと、アルミ箔と。
762名無し三等兵:02/09/26 00:24 ID:nAJTxVBn
age
763名無し三等兵:02/09/26 00:32 ID:U2fgVDSA
チョソめ市ね!
764名無し三等兵:02/09/26 00:51 ID:DlJA9nqP
漏れが軍ヲタになる前にじいちゃん二人とも氏んじまった。
でもばあちゃんが広島に原爆おっこったとき居たって。
原爆手帳マジで持ってたし。
765名無し三等兵:02/09/26 02:09 ID:CF6l3XEN
うちのじーちゃんは戦争に行って無いんだが、じーちゃんの弟(大叔父さんですな)は
憲兵隊将校で戦争前半は大陸、後半は台湾にいたそうな。
肝心の戦争経験だが、空襲には見舞われたが訓練以外で鉄砲を撃った事が無いと
言っていた。

終戦後、蒋介石軍が台湾に上陸して来た時はこれで最期と覚悟したそうだが、実際は
まともな武器は持たずナベカマ担いで上陸してきたそうな。
766名無し三等兵:02/09/26 22:07 ID:SZYr9NGy
 祖父のいとこ1人は北支に行き、もう1人は満州に工兵として
配属された。電気関係の修理を主にやっていたそうなんだけど、ある時
とある施設へ出張させられて高い所の配線を直す作業を命ぜられたのだが
作業する兵士1人づつに憲兵が張り付き「作業中、絶対下を見るな」
と厳命されたそうな。
 後でそこが「731部隊」の駐屯地だってことがわかったんだって。
その時の工具箱が、今でもうちの棚の上に乗っかっている。
767名無し三等兵:02/09/27 21:50 ID:3iUVJ3O0
俺はじいちゃんには会った事がない。祖母からきいたがじいちゃんは情報部所属だった
らしい。ロシアや日本を行ったり着たりして表面上は新聞記者だった。って祖母が言って
いた。
768名無し三等兵:02/09/28 00:31 ID:???
 交通事故で1ヵ月くらい入院してたので、レスをくれた人にレスが返せなくてごめんなさい。
(398さん読んでないかな)
 スレ違いの余談になるけれど、入院中隣のベッドに寝ていたのが、元陸軍戦闘機パイロット
だったという80歳のじいさんでした。話では、戦いの中「もうダメだ!」というような
瞬間が何度もあったそうです。じいさんいわく、「わしはついとった。そのうち仲間も次々と
特攻に出されてなあ。わしも同じ運命だと思っとったから、「おい、俺もすぐに行く
からあの世で待っとれよー!」と言って送りだしたもんじゃ。でもな、わしが結局行かずにすんで
こうして生きとるのも、若くして死んでいった戦友たちがワシに命をくれとるからなんじゃな、きっと」。
 別居している孫が偶然やって来たおかげで、倒れていたところを発見されて助かったという
そのじいさんは、ピンピンしてやがて退院していきました。声のでかい、明るい人でした。
 一方俺は、うなされてる時にマリアナ沖海戦を戦っている錯覚にとらわれてしまって、
「発艦許可を下さい!」とかナースコールで叫んでいたそうです。
あくる日、突然頭部CTスキャンの検査が入ったのは偶然でしょうか? ホント恥ずかしかった(汗
769  :02/09/28 01:10 ID:???
おじ~じゃなく父親の話だが、確か沖縄戦が始まった頃(?)子供達を九州に疎開させていた。
その時父は対馬丸に乗るはずだったが、手違いで他の疎開船に乗ったそうだ。
知ってる人は少ないと思うが、その対馬丸はアメリカの攻撃により沈没。
生存者は殆どいなかったらしい。
父は運良く助かったのだが、近所の友達をその沈没によって殆ど亡くしたそうだ。

770  :02/09/28 01:11 ID:???
また母は沖縄戦当時5歳。
母方のじいちゃんは野戦病院の医者でそのまま戦死。
母は家族で沖縄本島北部に逃げてそのまま捕虜収容所行き。
いくさの記憶は殆ど無いらしいが、山が焼けてる時土の中から小さな蛇がたくさん出て
気持ち悪かったと言ってた。
ほんと、北部に逃げてよかったよ。
南部に逃げてたら助からなかっただろう。南部に逃げて一家全滅って話は珍しくなかったらしいし。

771  :02/09/28 01:37 ID:???
>>768
交通事故ですか、お大事に・・・・

発艦許可ください」に思わず笑ってしまいました。
772名無し三等兵:02/09/28 02:24 ID:azsVzpjp
うちの家の近くの爺ちゃんなんだけど、昭和15年の頃に
黒龍江の方に九二式重機の銃手として行ってたんだって。
機関銃は発射すると位置がすぐばれるから、発射した後に
すぐ位置を換えなきゃならなかったんで、大変だったって
言ってた。冬場の寒さもかなりのもので、黒龍江が凍って
道になるって言ってた。仮想敵はソ連だったって言ってた
けれども、実際の戦闘はしなかったって言ってた。
その後、本土決戦のために昭和19年頃に九州に移動して、
そこで終戦を迎えたって言ってた。
本土決戦のために戻ってきてなかったら、多分生きては・・・。
773名無し三等兵:02/09/28 03:05 ID:pEx7lv4Y
じーさんじゃなく、おやじの話だが。
陸軍燃料廠の技術中尉。階級章が大佐だかと似てるもんで、少佐が敬礼して
痛快だったとかほざいてる。
最近は石油が一体どこに有ったんだ?とか職責を忘れてほざいとって
まじに煩いよ。
774名無し三等兵:02/09/28 12:44 ID:???
                               _ ノ
.        古巣                  ( (   (. )
                            . -‐ ) ‐- .
                          .´,.::::;;:... . . _  `.
    ここは落ちつくなぁ。。。        i ヾ<:;_   . _,.ン |
                          l     .  ̄...:;:彡|
                               }   . . ....::::;:;;;;;彡{
                          i.   . .. ...:::;;;;;彡|
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775名無し三等兵:02/09/29 22:04 ID:LnUchfNf
オレには軍隊に行った伯父が三人いる。
上の伯父は海軍で、衛生兵だった。階級は忘れたが、
曹がつく階級だった。航空母艦勤務で、赤城や瑞鶴に
乗務していた。瑞鶴艦上での写真が残っている。
艦が沈んだときに海に放り出されたが泳ぎ切って助かったと
いう話を聞いた。

戦争末期には病気のため内地の病院に入院していて、
まあ、つまりはそれで命拾いしたわけだが。
776名無し三等兵:02/09/29 22:06 ID:LnUchfNf
ちなみにその伯父の病気だが、
伯母(伯父の妹)は結核だと言い、
母(そのまた妹)は痔だったと主張している。
777 :02/09/29 22:08 ID:???
対潜哨戒機用の潜水艦探知機の開発してたそうです。
778775:02/09/29 23:42 ID:REiaGZu0
真ん中の伯父は陸軍。北支で輸送部隊のようなところにいたらしい、
トラックの運転が主な仕事だったらしい。

下の伯父も陸軍で、飛行機の整備兵だったそうな。
昭和20年招集だから、訓練の段階で終わったのではないか。
外地には行かず、終戦後兄弟の誰よりも早く復員。
779名無し三等兵:02/09/30 00:30 ID:lFUi2Xvn
オヤジの兄貴の話し。
海軍航空隊にいたらしいが、かなりの無頼徒だったらしく
戦友と芸者相手にどちらの腕前が立つか喧嘩になり、
仲裁に入った芸者を審判にして腕試しをしたらしい。
その腕試しとは…
ある橋の上に芸者を待たせておいて、ゼロ戦でどちらが
その橋の下をくぐれるかを競ったらしい。
でっ、その橋の下をくぐれたのは叔父らしいが真相は分らず…

なぜなら、その叔父は特攻で逝っちまったから…
今残る、ゲタ履き飛行艇の横で撮った写真の姿は勇ましい。
780名無し三等兵:02/09/30 01:16 ID:???
>>771
サンクスです。おかげ様で交通戦争(死語?)から生還しました ヽ(´ー`)ノ
768より
781名無し三等兵:02/09/30 01:46 ID:???

>>779
豪傑だ! 
勝負も危険だし、芸者さんも危険だ。。だけど、二人とも意地でも自信
があって、芸者さんもそれを信じていたって事なんでしょうかね。
あとでバレて上官に怒られなかったんでしょうか?(^^;
まるで映画みたいな話ですね。

‥特攻で散華された事は、とても残念に思います。
782がさらー:02/09/30 12:38 ID:9LD31Zzf
>>768
とにかく無事なおってなによりです。お大事に…
(ホント交通事故はコワイ!)

>>670
レス遅くなってすいません。ホントうちなーぐちは緊張感がなくてね…w

>>769
南部の方に逃げた人たちは悲惨だったそうですね。
真玉橋や一日橋をわざと爆破しないで、そこから南部に逃げる部隊や避難民をバリバリっとやったみたいで。
前の職場に70近い工場長がいたんだけど、その人も左手の指が3本なくて、真玉橋の方でやられたらしい。
そのまま摩文仁まで逃げたらしいけど、家族全員爆撃でやられてしまって骨も残ってない。

毎年6月23日の慰霊の日には、必ず僕ら若い社員を呼んで、いくさの話ししてました。
T里さん、今も元気かな?
783名無し三等兵:02/09/30 13:19 ID:xDRWzHqa
ウチのじーさんは満州で中国軍の捕虜になって、
ヒイヒイ言ってるうちに終戦。
あと高校の頃の英語講師に陸軍士官学校にいるときに終戦、
その後,単身アメリカに渡って帰国後航空自衛隊空将補にまでなった
豪傑がいた。
784783:02/09/30 14:20 ID:xDRWzHqa
そういや満州帰りの中国語の教師もいたな、たしか戦後も満州に残って
中国語覚えてから帰国。
陸自に入ってレンジャー資格取得、
日中国交正常化の時には陸自のおえらいさんの通訳もしたとか。
ウチの学校はよくわからん教師が多かったな。
785名無し三等兵:02/09/30 14:23 ID:uHso1EZ+
俺の祖父は中国で虐殺と略奪を部隊単位で繰返したらしい。
786名無し三等兵:02/09/30 20:14 ID:CIrLnyOb
>>785
八路軍出身?
787名無し熊本人:02/09/30 21:57 ID:???
>>107>>440は漏れが書いたのですがね…
この間会って来たら自分の銃創について
「この傷には感謝しとる」
って言ったのよ。
「なんで?」って聞いたら
「障害者保険がおりるっタイ」ってさ(禿藁

>>407
>爺さんの自慢話は「万里の長城から小便した。」だった・・・。

俺の祖父さんも同じ事言うよ(w
788名無し三等兵:02/09/30 23:38 ID:???
うちの爺さんは満州で狙撃担当?(本人が言ってたからようわからん)で
上等兵だったっていってた。射撃の成績がよかったのかな?
結構戦争が早いうちに所属してた部隊が大損害で本人も撃たれて除隊。
背中にちょっとくぼんだ感じに2箇所銃創が残ってた。
そんな酒飲みでちょっと洒落者な爺さんだったけど、癌でいっちまいました。
亡くなる前の数日間は、もうモルヒネで朦朧としてるせいか戦中とごっちゃになって
先生を軍医さんと呼んで、戦友の治療を頼み込んでました。
本人には負傷した戦友が見えてたみたいです。
789名無し三等兵:02/10/01 01:52 ID:BW5MbuWr
>785
そろそろ赤旗まつりだね。
楽しんできてね。
790名無し三等兵:02/10/01 02:07 ID:???
手先が器用だった爺ちゃんは、
ブーツのせいで足が蒸れて、水虫で苦しんでた上官に
草鞋(ワラジ)を作ってやったそう。

おかげで前線にやられずに済んだ。














なんてことは無いと思う。
791名無し三等兵:02/10/01 02:09 ID:S/89OnyF
高校の世界史の講師が、ワシは軍の暗号班だったと自慢してた。
それでもって、未だにあの暗号が敵に解読されたのが信じられないと言ってた。
やたらとドイツ語の知識を自慢するヤシだった。

792名無し三等兵:02/10/01 02:17 ID:yhBV5No6
大正13年生まれのうちの親父。いままで戦争の話はまったく
しなかったのだが、最近ポツポツ喋ってくる。
15センチ榴弾砲付の砲兵で昭和19年ころ南京近郊にいたとか、
歩兵と違って行軍に疲れたら馬の尻尾握って歩けたので楽だったとか。
中国軍の臼砲が川向こうから撃ってきたときは、ドラム缶みたいな弾が
飛んでくるのが目で見えたとか。

で、南京付近で列車で移動中B29の爆撃受けて負傷、内地送りで助かった
とか。何で南京でB29かと聞いたら、重慶から小倉への定期便爆撃コース
というのがサイパン以外にあって、おそらく天気か何かで爆弾落とし
そびれたんだろうとか言ってた。

戦史なんかだと1万m上空飛んでる話しか聞かないのでちょっと意外
だったね。
793名無し三等兵:02/10/01 11:08 ID:qz49S/eL
燃費が悪いから
安全なところは1万メートルでは飛ばないんだっけ?
794名無し三等兵:02/10/01 14:11 ID:1hNWlcX0
>>781
カメレススマソ
その叔父貴と戦友は上官に大目玉くらったらしいが、上官もなかなかの男で
「芸者はお前のモノになったのか!!」
叔父貴 「ハイ!」
「ではよい!下がれ!」
で済んだらしい。例え英雄伝であったとしても良い話しです。
九州のとある基地での事…
795名無し三等兵:02/10/01 14:25 ID:3Xsn8peI
>一方俺は、うなされてる時にマリアナ沖海戦を戦っている錯覚にとらわれてしまって、
>「発艦許可を下さい!」とかナースコールで叫んでいたそうです。

ワラタよ。軍ヲタの鏡だ。「迷彩君」と呼んで上げよう
796名無し三等兵:02/10/01 20:08 ID:???
うちの爺様は駆逐艦乗りだったと親父が言ってた。
ただ、終戦時に南方のアンボンにいたとだけしかわからないらしいが(親父が)
でも、写真見ると大陸戦線らしき写真がたくさんで、船は少ししかない・・・
ほんとに駆逐艦のりだったのか・・・?
797名無し三等兵:02/10/01 20:34 ID:???
>>796
おそらく調査してみると、
札幌西友と同じで誤差がかなりあるだろう(w

零戦乗りが生産機数より10倍多いとか。
798名無し三等兵:02/10/02 00:48 ID:???
>>797
ワラタ
799名無し三等兵:02/10/02 03:15 ID:KR/VSDZD
うちの祖父ちゃんは満州に行ってたらしい、んで戦争といっても
毎日ドンパチやってたわけではないみたい、たま~に銃撃戦が
あるぐらいでほとんど平凡な日々を送っていたらしい。
で、祖父さんいわく中国の女は色が白くてきれいだといっていたそうだ!
あやしい祖父さんだ。
800800000000000000000:02/10/02 07:58 ID:v0VDoTI3
800000000000000000げと~~~~~~~~~~~~

ちなみにうちのじいちゃんも満州でふくらはぎを撃たれた。
さらに敵の砲弾が近くに落ちたが不発で助かったそうだ。
801名無し三等兵:02/10/02 10:40 ID:???
>>794
それアレだろ
昔の映画にあったぞ。
802名無し三等兵:02/10/03 23:22 ID:???
80過ぎたうちのじいさんの話。
満州から傷病兵として帰還後、東京の陸軍司令部に勤めてたらしい。
酒飲んで機嫌のいいときだとたまにその頃の話をしてます。
私が軍オタになったのもその辺の影響ですが。

じいさんいわく、
満州でも東京大空襲でも死ぬ間際の人間は誰もがお母さん、お母さん、と呼ぶと。
天皇陛下万歳なんて言いながら死ぬやつは誰もおらんと。
今でもたまにその頃の夢を見ては夜中にうなされてます。
60年経ってすら忘れられない記憶というのがどれほどのものか私は想像し切れませんし、
そういうのはできれば一生体験したかないものです。

なんか日教組ご用達みたいな文章になってしまいましたが、
たまにはこういうのもいいかなあ、と。
803名無し三等兵:02/10/03 23:27 ID:???
漏れのじいさんは餓島の生き残りなんだぞ!
804ななしさん:02/10/03 23:27 ID:???
とりあえず俺も天皇陛下万歳なんて言えないな。おかあさんとも言えない。
ちょっと恥ずかしくない? 「万歳」って。

死ぬときはなんか別のかっこいい事言って死ぬよ。
805802:02/10/03 23:36 ID:???
自分の死が瞼に映ってる時にかっこつける余裕は普通ないんじゃないか、とは思います。
自分で体験したことじゃありませんから厨房発言に過ぎない、とは分かってますが。

ついでにうちのじいさんから教わったこと。
戦地で一番役に立つもの・・・機関銃
戦地で一番役に立たないもの・・・上官

・・・・就職してじいさんの言葉の意味が少し分かりました。
806死んでも俺は戦うぜ。:02/10/03 23:42 ID:G2sb6w7Z
>>804
先に地獄で待ってるぜェェェェッ!!

…陣地を構築でもしながらな。
807名無し三等兵:02/10/04 00:03 ID:???
>>804
俺は死んでも君は生きろ Byブーメランストリート
808名無し三等兵:02/10/04 00:32 ID:icQNj/oV
>>801
映画であったの?
んじゃ、俺はオヤジと叔父貴の仏壇に、お香あげにきた
生き残り整備兵のじいさんに騙されたって事だ。
809名無し三等兵:02/10/04 00:44 ID:IgTvAZWy
>>808
うむ。
まったく同じ話の映画が数年前の土曜の昼にやってた。

かなり昔の映画っぽ。
音楽も声も張り方もそれっぽかった。
810名無し三等兵:02/10/04 00:47 ID:IgTvAZWy
本当に確認したいなら、またその親父にあったら
どこの店の芸者だったか聞いてみることだ。
橋が残ってるかな? 潰れてても市役所で調べれない?
811名無し三等兵:02/10/04 00:55 ID:veXYW1H7
母方のじいさんは横須賀の海軍基地の守備についていた。砲術学校での成績が
優秀だったので基地にまわされて、戦中も内地から出なかった。
今年の八月は靖国に行ったから実家のじいさんに会っていない。車で15分くらいの
ところに実家があるからそのうち会いに行こうとしてたら、八月二十日に突然死。
戦争のことはじいさんからは一度も聞いてない。
812名無し三等兵:02/10/04 01:04 ID:???
>>811
一度も聞いてねーのに、なんで砲術学校で優秀だったって知ってんだよ!?
813名無し三等兵:02/10/04 01:15 ID:???
>>804

ひでぶっ!

814名無し三等兵:02/10/04 01:42 ID:???
父方の爺ちゃんの話
爺ちゃんは昭和7年生まれで、もちろん戦争にはいってない。
毎年、ある寺に初詣に行くんだが、いつも同じ話をされる。

昭和20年の正月、爺ちゃんのおじさん(支那あたりで負傷して帰還)
と一緒にその寺に初詣にいったそうだ。
お参りがおわって、持ってきた弁当食って駅へ行くか、というところに空襲警報が鳴り響いた。
爺ちゃん達は駅に逃げ込んで無事だったが、近くの家に爆弾が落ちた。
敵機の音がしなくなったから、子供だった爺さんは燃えてる家を見に行こうとした。
そしたら、おじさんに「大人しくしてろ」とグーで殴られたそうだ。
一緒に駅にいた大人たちが燃える家を見に、駅の外に出ていくのを見てた。
そしたら、敵機がきて、彼らを機関銃で撃った。
みんなグチャグチャになってたそうだ。
もし自分がそこに行っていたらと思うとぞっとすると言ってた。

兵士じゃなかったのでsage


815名無し三等兵:02/10/04 02:11 ID:icQNj/oV
>>809-810
ありがとう。でも俺九州の里離れてるからなぁ
時間かけて調べてみます。
あっ、のんびりしてると整備兵のオヤジの寿命が…
816名無し三等兵:02/10/04 02:28 ID:???
>>811
葬式のときにじいさんの兄弟から聞いた。
817名無し三等兵:02/10/04 04:27 ID:3oP7cHdW
このスレには「ジーちゃんが戊辰戦争を体験した」って人はいないのか
818    :02/10/04 05:15 ID:WCtnDycx
じーちゃんじゃないけど、叔父がトラック近辺で駆逐艦に乗ってた時の話
夜戦になって魚雷が命中、脱出。その時は皆生きてたらしいけど、どんどん仲間が海に
消えていったらしい。朝になって何故消えてたか判った。鮫がうようよいたそうな・・
その叔父は戦争体験を本にしたみたいだけど、題名忘れた。
819名無し三等兵:02/10/04 06:15 ID:cef6Fkek
じーちゃんじゃないけど、昭和5年生まれの亡父が
太平洋戦争末期に学徒出陣してました。
東京は歩いていると靴の底が燃えてくる程の焼け野原だったと言ってました。
亡父とは不仲だったので、詳しい話は聞いてませんが・・・。
820宇喜多:02/10/04 06:25 ID:G+k1pEpR
>>817
うちのジーは関ヶ原の合戦時の西軍の敗走ぶりは、
笑えたと酔うたびにわめいてうるさいそ。
821名無し三等兵:02/10/04 10:08 ID:???
うむ。
ワシの若い頃はソ連を相手に勝利を収めたもんじゃがのぅ…。
822名無し三等兵:02/10/04 18:40 ID:???
亡父は海軍にいた。
胴体が二つの敵機(ライトニング?)や翼の折れ曲がったヤツ(コルセア?)に攻撃を受けたと聞いている。
年に一度の戦友会を楽しみにしていた。
高倉健・吉永小百合の映画「動乱」が大嫌いだった。
「あんなのは当たり前だったんだ」とボソリと言ったのが、印象に残っている。

敗戦間際、当時、小学生だった母の弟はアブみたいな米軍機(ヘルキャット?)に機銃掃射で追い回された。
物陰から見ていた母は「死んだ!」と思ったらしいが、射撃は叔父の両脇を通過、命拾いしたらしい。
母は鹿児島県薩摩半島の出身なのだが、開聞岳の上空を何度も何度も旋回してから、南へ飛んでいった飛行機が忘れられないと言う。
「今日もいくんだね」と言って、一緒にいた人が頭を下げ、母も同じようにしたらしい。
823名無し三等兵:02/10/04 22:16 ID:EvqqkTxe
私の祖母の話によれば、祖母の遠縁にあたる故宮崎繁三郎中将は戦前に満州からの帰国のおり、
鉄道の貨車1両一杯の家財道具とかなりの数の馬蹄銀を土産に持ち帰ったそうです。
外地勤務手当やら、地方軍閥とのつきあいがあったのかどうかは聞き忘れました。
戦後、公職追放に遭ったのですがその馬蹄銀を元手に雑貨商を始め、そこそこに儲けたとのこと。
824名無し三等兵:02/10/04 23:13 ID:???
 母方の祖父は青年開拓団として満州へ行き、現地徴兵。大した戦闘を経ぬまま終戦。
何処にも行く当てが無いのでソ連の占領地域にあった病院に留まり、衛生兵ではないから軍医や看護婦さんの使いっぱしり(ハエ取り等)や匪賊の襲撃に備えた警備(武装解除されているので武器は棍棒 ほぼ無力)などをして過ごしていたらしい。
ソ連の巡検が来た際は、元気な者は白い患者服を着る変装をして誤魔化したらしいが、結局は皆シベリアに送られてしまった。
シベリアでは配給が殆ど無いので死ぬ人が続出、祖父達は隙を見ては亀などを捕らえて食いつなぎ、辛くも日本に帰還できたそうだ。話に出てくる人物がキッチリ「○○軍医殿」など殿付だったのが印象深い。
 父方の祖父は飛行場大隊に所属し外地を転々、で機載機銃の整備をしていたらしいが戦争後半は機材も何も無く暇だったらしい。
中国で、現地の店に行ってご飯を食べたら赤痢になって死にかけたらしく、NHKの紀行番組で、旧陸軍病院が映ったとき「わしゃあはここに入っておったんじゃ」と感慨深げであった。
 
825名無し三等兵:02/10/07 07:11 ID:???
age
826名無し三等兵:02/10/07 07:43 ID:???
戦争体験じゃないけど、漏れが消防のころじっさまに、
「おじいちゃんは戦争で人頃したの?」
って聞いたらしく、親父が
「どういう教育してるんだ!
 わし等は子や孫にこんなことを言われるためにいったんじゃない!云々」
 てな感じで怒られたという話を聞いた。漏れはあんまり覚えてないんだが。
827名無し三等兵:02/10/07 08:29 ID:???
名スレあげ
828名無し三等兵:02/10/10 01:43 ID:2HnhA4Fy
父方のじーちゃん(故人)は仏印に出征していたらしい。確か歩兵第31連隊だったか。(記憶曖昧スマソ)
自費出版されたっぽい中隊史の中に一度だけ名前が出てたが、昭和20年の3~4月あたりに
偵察に出て、その後マラリアで入院したとのこと。最終階級は伍長だった。で、昭和21年に無事復員。
後5年長生きしてくれればいろいろ話を聞いたんだろうが、酒で身体を壊したからな。俺が工房になってすぐの頃に逝ってしまった。
勲八等と満州事変(だったはず…)の従軍記章を授章されてた。
で、そのじーちゃんの火葬の時だが、焼き終わって出てきたのはいいが大腿骨がでか過ぎて骨壷に入らん(笑)
とても氏ぬ前一年くらい寝たきりだとは思えないような骨でな。それを見たとき心から
「こんな奴らを兵隊にしてたから戦えたんだなぁ」と、工房ながらに思ってしまった。

ちなみに曽じいちゃんは日露戦に従軍したらしい。詳細は知らん。
くだらん書き込みスマソ。
829名無し三等兵:02/10/10 02:29 ID:???
親父が子供の頃、群馬県太田市の中島の工場
を爆撃しにいく、B-29の編隊を見たそうな。
白い飛行機雲を引きながら、綺麗だったってさ。
でも、爆撃が始まると、親父の居た茨城まで振動が
来たそうだ。
後で群馬と知って驚いたと。
830名無し三等兵:02/10/10 03:14 ID:6LuWV0UP
俺のじーさんじゃないけど友達のじーさんが広島の方から来た米の爆撃機か戦闘機を撃ち落としたらしい。その人は今、戦艦などの模型を造ったりして余生をすごしてるらしい。
831名無し三等兵:02/10/10 04:12 ID:r/DZqwC7
九二式重機関銃を担いで支那の大陸を渡り歩いたそうな
チョンコロ(中国人)の武器は粗悪らしく弾がまっすぐ
飛ばず曲がりながら塹壕に入ってきたそうな…本当か?
832名無し三等兵:02/10/10 06:01 ID:4xzlpDUE
>>89
最近は北朝鮮やらの話もあるし、この板を訪れる人は増えてると思うよ。
833名無し三等兵:02/10/10 07:54 ID:XeBOG3XT
>>829
そりゃねーべ

日立に艦砲射撃があったとき
うちの実家は水戸だが、遠くで花火が鳴っているぐらいのかすかな音しか聞こえなかったと言う。
深夜で直線距離にして35Kmぐらいでもだ。
834名無し三等兵:02/10/10 07:59 ID:ZRIqRdjm
うちの爺ちゃんは零戦乗りですた。
飛行服っていうのかな、その写真もカッコいいんだけど、
白い軍服(正装らしい)で写ってる写真がメチャクチャカッコいい。
婆ちゃんが一目惚れしたのもうなづける。敵機を落とした事も何度も
あるそうで、勲章ももらってます(俺には良くわかんないんですが)

でも戦争体験を話すのは嫌いだと婆ちゃんに聞かされたので
俺から話を聞こうとしたことは1回もありません。

(´-`).。oO(軍服と勲章って売れるのかなって親父に聞いたらぶん殴られたよ)
835名無し三等兵:02/10/19 20:55 ID:dA1rHmwJ
age
836名無し三等兵:02/10/19 21:02 ID:dA1rHmwJ
age
837名無し三等兵:02/10/19 21:39 ID:yiiC6ADI
834見て思い出したが、家に山本元帥の葬儀通知、直筆手紙があるんだが
これって売れるんだろうか?
838名無し三等兵:02/10/19 21:56 ID:???
     _( `_ゝ´)
   /      )     ドゴォォォ _  /
  / ,イ 、  ノ/    ∧ ∧―= ̄ `ヽ, _
 / / |   ( 〈 ∵. ・(>>837__ >  ゛ 、_
| !  ヽ  ー=- ̄ ̄=_、  (/ , ´ノ \
| |   `iー__=―_ ;, / / /
!、リ   =_二__ ̄_=;, / / ,'
     /  /       /  /|  |
    /  /       !、_/ /   〉
  / _/             |_/
  ヽ、_ヽ
839名無し三等兵:02/10/19 22:05 ID:lPnI3iVB
じーちゃんは海軍兵曹長で、開戦時は上海の沿岸警備や、
戦艦榛名や空母瑞鳳の通信士をしていたみたい。
終戦時は南方の輸送艦隊にいて、たくさんおみやげ持って帰ってきた。
現地住民がくれたらしい。

ちなみに当時、髭を生やしていなかったじーちゃんは、
軍服姿の写真にマジックか何かで髭を書き込んでた。

840名無し三等兵:02/10/19 22:08 ID:???
>>837
売れるほどの値打ちは無い
直筆手紙はおそらく代筆、
封被はあるの?
841名無し三等兵:02/10/19 22:38 ID:iUnH8R3v
俺の親父は大正11年生まれでもうとっくに亡くなったが、死ぬ前に一度だけ戦争中の話を
した事があった。
徴兵された後に肋膜を患った親父は戦地へ行くことは免れたが、東京大空襲の後焼け跡の
後始末に動員されたそうだ。トラックに乗って街角に集められた焼死体を回収するという
仕事だったが、手足が硬直して四つん這い状になった焼けぼっくいみたいな死体を先端に
鉤のついた棒で仲間と二人ヒョイヒョイとトラックの荷台に釣り上げていったと話していた。
印象的だったのは、その時の親父が淡々とその話をしていたことだった。病気でもう先が
長くないと分かっていたのか、それともその体験自体が親父には「普通のこと」だったのか、
もう今となって分からんが。
842名無し三等兵:02/10/20 12:06 ID:vYZGRoyx
じーちゃんは戦争末期に徴兵されて陸軍兵長。
任地は千島最北端の占守島で、終戦直後に上陸してきた露助と交戦し、負傷。
樺太に抑留され、7年くらいで復員。

シベリアでなくてよかったよ・・・(戦闘では散々に打ち破っているだけに)
843名無し三等兵:02/10/20 12:19 ID:???
ウチのじーちゃんはサイパンで戦史、んで二階級特進で少将になった
もう一人のじーちゃんは船倉行ったら一週間で終戦したらしい
844名無し三等兵:02/10/20 12:26 ID:???
うちのじいさんはサイパンから生きて帰ってきました。
戦争の話は一切してくれません。
845837:02/10/20 12:34 ID:zDAp0GLS
>>840
封被はないです。はがきでした。
達筆すぎて読めないのですが、「倫敦に会議で来ている」とか
かろうじてよめます。
曽祖父と友達だったらしいので代筆ではないと思いますが・・・
846名無し三等兵:02/10/20 23:00 ID:???
うちのじーちゃん支那事変とやらに出てた。
撃たれてもがいてる仲間に苦しいから撃ち殺してくれと言われたが、それだけは出来なかったとらしい。
右腕撃たれて銃弾がそのまま右腕に残ってた。
847名無し三等兵:02/10/21 22:23 ID:VgM0jbXe
age
848名無し屯田兵:02/10/23 10:39 ID:DsIzNFLx
俺の場合はとーちゃんなのだが、
赤紙が来て軍通信の通信兵になった。
南京大虐殺は、蒋介石軍に48時間後に無差別攻撃を行うと、
最後通告をしたのに降伏しなかったので、宣言通りにした。
「仕方がなかった。」と言っていた。
支邦戦線に配属後、インドネシアの小さな島に移動。
ある日、師団通信の海底ケーブルが軍通信の海底ケーブルの
近くに設置され、混信して通信出来なくなった。
そこで下っ端なのに師団本部に怒鳴り込んで、上官をギャフンと
言わしたのが自慢。
アメリカは蛙跳び作戦でインドネシアは無視。
補給が止まって、そのまま終戦。
なぜか煙草だけは沢山あって、空腹を紛らわすのに吸いまくり。
蛙、蛇、蚯蚓なんでも食べたそうだ。
復員は、栄養失調で死ぬ寸前にやっと帰還。
実家は東京だが、何故か空襲は免れていた。
「あと一年勤めていたら軍人恩給貰えたのに」と悔しがっていた。
そんな親父も本日未明に他界。
俺はとうとう独りぼっち。
849名無し三等兵:02/10/23 12:35 ID:???
>>848
日本語下手な振りをして
釣りするなよ(汗
850名無し三等兵:02/10/23 14:04 ID:+az2fFgl
捕虜になった人と軍隊3年以下の人はもらえないんだっけ?>軍人恩給
シベリア抑留の人は何年もいたのにもらえないんでしょ?
851名無し三等兵:02/10/23 14:50 ID:???
じいちゃん南京で女犯して殺したらしぃ。
852名無し三等兵:02/10/23 15:16 ID:???
いい話しですよねぇ・・・。
んっ?

ああっ、もうダメッ!
ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!!
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーーーッッッ!!!
いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!!!
ブジュッ!ジャアアアアーーーーーーッッッ…ブシャッ!
ブババババババアアアアアアッッッッ!!!!
んはああーーーーっっっ!!!ウッ、ウンッ、ウンコォォォッッ!!!
ムリムリイッッ!!ブチュブチュッッ、ミチミチミチィィッッ!!!
おおっ!ウンコッ!!ウッ、ウンッ、ウンコッッ!!!ウンコ見てぇっ ああっ、もうダメッ!!はうあああーーーーっっっ!!!
ブリイッ!ブボッ!ブリブリブリィィィィッッッッ!!!!
いやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ!
ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!!
ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!!
ビッ、ブリュッ、ブリュブリュブリュゥゥゥーーーーーッッッ!!!
いやああああっっっ!!見ないで、お願いぃぃぃっっっ!!!
ブジュッ!ジャアアアアーーーーーーッッッ…ブシャッ!
ブババババババアアアアアアッッッッ!!!!
んはああーーーーっっっ!!!ウッ、ウンッ、ウンコォォォッッ!!!
ムリムリイッッ!!ブチュブチュッッ、ミチミチミチィィッッ!!!
おおっ!ウンコッ!!ウッ、ウンッ、ウンコッッ!!!ウンコ見てぇっ ああっ、もうダメッ!!はうあああーーーーっっっ!!!
853名無し三等兵:02/10/23 16:54 ID:Fh7oQB3e
家のじいちゃんの兄弟8人中6人サイパン、テニアン、グアムにて戦死。で、じいちゃん本人は三菱名古屋工場でキ-46(100式司偵の名前は自分が言うまで知らなかったらしい。)の製造管理をしていて生き残った。
854名無し三等兵:02/10/23 17:55 ID:Gd91cUhl
>>851
いい加減にしろ
855名無し三等兵:02/10/24 07:20 ID:Rk4QK7rZ
>>851の祖父は国民党員か八路軍?
856名無し三等兵:02/10/24 08:10 ID:xWzmoFJl
ウチのじーちゃんは中国に行ってたって。
弾が頭をかすめたのがとても怖かったって。
んで、ウチの町の偉い人が大隊にいて町の若者を一人でも生きて返そうということでウチのじーちゃんが選ばれて大隊の通信兵にしてもらったと泣きながら話してくれました。
そのおかげで僕も生まれたので感謝したいと思います。
857名無し屯田兵:02/10/24 12:04 ID:14taMqbD
>>848
釣りじゃないのだが。
今日が通夜で、明日が告別式なんだけど…
858いっちょ盛りageよう:02/10/24 12:09 ID:ZAguDlPC
俺の母方のじいちゃんは憲兵だったってさ。
もう亡くなってしまったけど生前は婆ちゃんは良くじいちゃんに殴られてたらしい。
俺には凄く優しい人だったけどね。
859名無し三等兵:02/10/24 12:38 ID:???
>>857
何つったらいいのかわからんけど、とにかく頑張ってくれ!
860名無し三等兵:02/10/24 22:42 ID:???
うちのGちゃんは、ソロモン方面(最後はラバウル?)に行ってたらしい。
何をやってたかは知らんが、先祖代々船乗りの家系なので、駆逐艦とか
海防艦とかの乗員でもやってたんだろう。
861849:02/10/25 02:26 ID:???
>>857
大虐殺じゃなく南京戦とかいていたらネタだとは思いませんでしたよ。
むう、最後の2行ホントだったのね(汗
すいませんでした。
862名無し三等兵:02/10/25 12:20 ID:???
うちの親族で出征したのは3人。
父方の祖父は昭和19年入隊で陸軍船舶工兵。外地には行かず。
どうやら米艦載機におちょくられてたようだ。
終戦後、恨んでいた直属の下士官を半殺しにして復員。現在存命中。
この祖父の兄は中央ビルマ、ミートキーナ飛行場にて戦死。
空襲時の爆弾片に当たったらしい。
最後は母方の祖父。名古屋の三菱で試作機の製造をしていた。
当時まだ16だったので雑用しかさせてもらえなかったらしい。
確か製造してたのはキ‐112だか116。局地戦闘機だと言っていた。
現在は畑を耕す毎日。
863名無し三等兵:02/10/25 17:01 ID:Iegzkw/q
ウチのじいちゃんではないのだけれど10年ほど前の冬にコンパの後アメ村(大阪ミナミ)の
クラブに行ったときのことです。そこのカウンターにループタイをして派手なシャツをきた
おじいちゃんがなにやらごっつい黒人と話をしてました。「こんな所にあんな老人が?」
ひょっとして外人かなと興味を持って見てて、話が終わったのを見計らって話しかけてみると
日本人で先の黒人とは太平洋戦争時の話をしていたと言ってました。なんでもその黒人のオヤジが
従軍していて日本軍と戦ったそうで話が弾んだとか..

そのおじいちゃんは、最終的に海軍の中尉で巡洋艦に乗って南方をあちこち廻っていたとか
艦名も聞いたのですがなにぶん古い話なのですっかり忘れちゃいましたが、爆撃されて
死にかかった話とかいろいろ話してくれました。
別れ際に(酒入ってたこともあって)敬礼したら満面の笑みをたたえて敬礼を返してくれた時の
顔が今でも印象に残ってます。

あれから10年ほどたったが、あのじいちゃんいまでもクラブに出没しているのだろうか...
864名無し三等兵:02/10/25 17:07 ID:aIXFCI2u
俺のジーちゃん気象係みたいのをやらされた
なんでも頭脳優秀らしく気象にキョ-ミあったらしい
物不足でも食パン1斤に、砂糖多量、白米に肉のおかず、そして羊羹まででた
とても楽しかったといっている
その友達{ジーさんの}が打通作戦で97式のってたそーだ
865名無し三等兵:02/10/25 17:23 ID:wX2bXZcu
じいちゃんは輸送船に搭乗中、
ニューブリテン島沖合約880メートル付近で
米軍の雷撃にあって戦死しますた。
866名無し三等兵:02/10/25 17:31 ID:aIXFCI2u
そうだ書き忘れてた
とーちゃんの会社の支店長の父は駆逐艦雪風の乗務員でレイテから信濃沈没までいたソーダ
867名無し三等兵:02/10/26 12:24 ID:X4wcp0h8
age
868反共抜刀隊:02/10/26 12:47 ID:u5+DHUFt
 比島の軍政監部で、司政官をしていたらしい、司法官試験にも合格していたので
東大法学部に専科学生が何かで呼び戻されてる内に終戦、弁護士になりました。
869名無し三等兵:02/10/26 12:51 ID:dn49JUfw
漏れの親族@母方の話を。
うちのじいちゃんは、二十歳のときに日華事変に参戦したあと、
ニューギニア・フィリッピン方面を転戦したが、どうも終戦は内地、
またはその近辺で迎えたようだ。
その後はなぜか米軍のまかないかなんかをやってて、
復員してきたときは、他の兵隊さんがゲソゲソにやせて帰ってきたのに
じぃさんだけは恰幅いい格好で帰ってきたらしい。

ちなみに、数年前に脳梗塞で亡くなった、ばあちゃんの兄貴って人は
当時の歩兵第32連隊所属で沖縄で終戦を迎え、かなりげっそりとやせて帰ってきたという。
870名無し三等兵:02/10/26 14:52 ID:???
爺さんが支那に出征してた時、内地から塩鮭が丸ごと届き、
駐屯地前の洗い場で、塩鮭に付いていた塩を洗い流していたら
洗い流した塩水を、現地の支那人が血相を変え集団で汲みに来たそうな、
戦闘よりも怖かった、と言っていた。
871名無し三等兵:02/10/26 15:00 ID:pNI0WEU1
学校の後ろの席の祖父さんの話
馬にのっていたら足がマメだらけの奴がいたので
馬を譲ってやったらその馬が地雷踏んでその人ごとあぼーんしたそうだ。
872名無し三等兵:02/10/26 20:27 ID:???
>>871

どういう年齢構成の学校なんだよ。
873名無し三等兵:02/10/26 21:23 ID:???
父方の祖父(78歳同居存命中)は内地で沿岸警備艇?乗員だった
13mm対空機銃手をやっており、昭和20年に入ると
「グラマンとピーサンパチ(恐らくF6FとP38だろう)に機銃掃射された」
と言っていた。その時の敵機の襲撃戦術は巧みであったらしく、
艇首方向から2機が接近してえらく遠方から射撃してきたかと思うと、
こっそり艇尾方向から2機が接近してきて、すぐそこから撃ってきた。
後ろからの2機に船中穴だらけにされたらしい。
こっちは弾が乏しいから三発ずつ途切れ途切れに撃ってたので、
有効な反撃はできなかったそうだ。
874名無し三等兵:02/10/26 22:52 ID:???
>>872
スマソ
学校の後ろの席の香具師の祖父の話
ですた
875名無し三等兵:02/10/27 13:16 ID:VTS6KSCM
あげときます
876名無し三等兵:02/10/27 13:53 ID:???

俺の爺さんは陸軍所属の衛生兵。のらくろの絵がうまい。
相当色男だったらしく、二十前後の頃、兵舎(広島)近くに4人も
愛人がいた。そしてどんな事情だかはさておき、インドネシアにも
金髪の愛人がいた。椰子の浜辺でラブラブだったそうだ。
陸軍の港から5回南洋へ出撃し、最後はフィリピンで捕虜になった。
彼が南洋へ行く目的は極めてシンプルで「もう内地には食い物が
底をついているが、南の島へ行けばバナナもマンゴーも食える」と
いうものだった。ちなみに、最後の出撃志願は同僚から「死にに
行くようなものだ」と猛烈に反対されたらしい。

・・・・が、反対して残った同僚達は、原爆にやられてみんな死んだ。
人生はわからないもんだね。
877名無し三等兵:02/10/27 17:34 ID:???
砲兵で、化学兵器撃ち込んだことがあるとか……。
878名無し三等兵:02/10/29 10:44 ID:???
母の実家に、祖父(84才顕在)の戦時中の写真が飾ってある。
中国風の城門をバックに軍馬に跨り、まるで将軍のようだが、
実際には砲兵兵長で、昭和17年に予備役。
879名無し三等兵:02/10/29 12:40 ID:???
近所に住んでた親戚のじいちゃんの話。
昭和19年に入隊、海軍航空隊で零戦52型に搭乗した。
だが、整備員と隊の士官の独断で、武装が13mm機銃4丁にしてあったらしい。
880名無し三等兵:02/10/29 16:35 ID:???
うちのじいさんの話
海軍軍医で昭和20年8月に広島にいた。
用事で市外へでかけたところ、ピカッゴゴゴゴッ。
たまたま山の裏にいたため被爆もしなかったとか。
山の反対側は木が全て焼け焦げていたそうだ。
881名無し三等兵:02/10/29 17:22 ID:vVBi6xrc
この前実家にいったら、ノラクロの漫画と少年倶楽部があった
ただでもらった
近くの知り合いは、家に、F6Fの破片と、においガラスがあった、倉庫には、38とかあるらしい
882名無し三等兵:02/10/30 01:20 ID:???
スレ違いスマソ。
巣鴨プリズンの中で発行されていた新聞の漫画に「P公」とかいうのがあって
戦犯の間で人気があったって、週刊誌に載っていた。
あれを一度全部読んでみたいな。
883名無し三等兵:02/10/30 20:43 ID:AU69W76F
age
884名無し三等兵:02/10/30 21:08 ID:ZfaLXvNI
うちの祖父(94歳)はもと内務省のキャリアで
ナチスドイツに派遣された時があったらしい。
SSや内務省の幹部とも折衝があって
生ヒムラ-とも会見したとのこと
885名無し三等兵:02/10/30 21:25 ID:A1SDnLJL
ココは軍事板ではまれにみる良スレ。2も期待。
886名無し三等兵:02/10/30 21:32 ID:CJ6yC1Bv
父方の祖父の兄弟か友人は昼寝で船に乗り遅れた。その船が沈んだ。
父方の祖父は華南に行ったらしい。痩せてたのに現地でたらふく食べて
帰って来た時は太ってた。
887名無し三等兵:02/10/31 00:08 ID:???
うちの爺さんは沖縄出身で12歳で2歳上の兄と学徒出陣というか現地徴収されたそうだ。
地元で地理に詳しかったので夜中の連絡任務をしていたらしい。
敵がきてもうどうにもならなくなって集団自決、という時に「おまえは関係ないから
家に帰れ」と言われ殴られて、夜中にふてくされながら家族のいる防空壕へ行った。
が、すでに防空壕は米軍に占領されており明け方よくよく見たら家族は近所の人間
もろとも皆殺しにされて死体が山積みになっていた。(撃ち殺されてたといってたが
火炎放射器による酸欠と思う)
あとはわけもわからず山の中をさまよっていて米兵に捕まったが子供だったので
見逃してくれた。その後兄と再会して終戦。親がいない子供は米軍士官クラスが養子として
けっこう連れて行ったらしいが爺さんは親のカタキだからと断った。
888名無し三等兵:02/10/31 17:21 ID:8ABrk/KU
age
889名無し三等兵:02/10/31 17:41 ID:tVcM5/A5
年がばれるが、おいらの大学時代のクラブの監督さんは
戦闘機搭乗員で、終戦時海軍大尉(ダイイ)、敵機7機(うろ覚え)
撃墜、潜水艦1隻沈めて感状を貰った。
零戦52型、紫電改、雷電に搭乗、空母に下りることもできたそうだ
末期には、特攻隊の直掩機の隊長をつとめた
落とされて不時着すること2回、2度目は病院のベッドで目をさました
そうだ
890889:02/10/31 17:49 ID:tVcM5/A5
上の空戦体験などについておいらが聞いて知ってることを
語りたいんだが、このスレより適当なのはどこだろう
誰か教えれ
891名無し三等兵:02/10/31 17:54 ID:???
俺の祖父は体が弱くて兵隊になれなかった。
892名無し三等兵:02/11/01 02:11 ID:N4aiHoSg
オイラの爺ちゃん(父方)は千葉の幕張で砲兵連隊の暗号兵
昭和18年の召集、砲の着弾などを有線電話で暗号をモールス信号で
通信するのが任務、何回も適正テストされて選ばれたと言ってた
父が言うにはモールス信号も今だに憶えてて、電話番号なんかの数字の
記憶力は抜群だったとか、暗号は、何桁かの数字を特殊は決まりで
足し算や引き算してその答えをイロハに当てはめるもの
父も小さい頃教わったが、才能がなく忘れてしまったとか
射撃訓練の時、砲兵の騎兵銃は短くて当たらない、旧制中学では射撃が
得意だったので、この鉄砲は当たらないと言ったら、上官に思い切り
殴られた、ほかにも意地の悪い上等兵に皮のスリッパで殴られたとか
言ってた

で、除隊になってかえってきて長男なので百姓やってたら、19年の暮れの
ある夜また赤紙が来た、今度は弟だと思ったらまた自分
こんどこそ生きて返れないと思ったそうだ、
出て行くとき息子(4歳)に後を追われてつらかったそうだその息子は
父の兄

893名無し三等兵:02/11/01 02:22 ID:???
漏れの爺さんは10歳で南京娘レイープ&虐殺しますた
894名無し三等兵:02/11/01 03:14 ID:???
知人のじいちゃんの話ですが、そのじいちゃんは満州辺りで戦っていたそうです。
そんで終戦。聞いた話ではアメリカ兵のことを「同じ武器持ってたら勝てた。あいつら
そんな強くねぇ」って言ってました。なんでもアメリカが物量作戦に出てからは、こっちが
機銃で一発でも発射すると大砲をドカドカ売ってくるので、手を出さずにいたそうです。
895名無し三等兵:02/11/01 03:34 ID:gwOiBAKr
陸軍中将でしたが、ぼくが生まれる前に亡くなりました。
896名無し三等兵:02/11/01 03:40 ID:Seicn5mi
輜重兵、戦闘機からの機銃掃射を受けて逃げ出した軍馬と一緒に戦死。
897名無し三等兵:02/11/01 03:43 ID:DePx5T4p
うちのじいちゃん、少年戦車兵から帰るとき軽戦車かっぱらってきて、昭和三十年代まで納屋に隠していたんだけど、近所ともめ事起こしたときに戦車持ちだしちまって、結局海の中に突入して行方不明になったそうだ。
898名無し三等兵:02/11/01 03:44 ID:???
>>897
馬鹿が戦車でやってくる
899名無し三等兵:02/11/01 04:42 ID:???
父方の祖父は大阪府警の警視正
母方は饅頭屋で腕を大ケガして召集されなかった
よって戦争体験はない
900名無し三等兵 :02/11/01 04:53 ID:???
>>897
ワロタ
901名無し三等兵:02/11/01 12:46 ID:MCFUASOP
ここは珍しく名スレ
902名無し三等兵:02/11/01 13:56 ID:gl0RS+lW
先輩の爺さんなんですが、サイパンのどこかは忘れたんですが救援部隊として前線にいったのですが、すでに死者しかおらず切腹した将校がいたらしく内蔵がでてて運ぶのが苦労したそうです。でそこから撤退したんだそうな。
903名無し三等兵:02/11/01 13:58 ID:xxArQMN9
ウチは中国戦線で九七式を使っていたらしい
904名無し三等兵:02/11/01 14:47 ID:???
漏れのじーちゃん、満州で馬にのって伝令やってたとか。一度手投げ弾が
頬を掠めたことがあるとか。それ以上、話してくれなかったYO!いつも物静かで
服装とかパリッとしてて、人の話は黙って聞いてるけど自分から話すことはあまり
なかったじーちゃん。そんなじーちゃんも5年前に逝きますた。もっと戦争体験とか
聞いておけばよかったと禿げしく後悔・・・
905名無し三等兵:02/11/01 15:55 ID:HPnAsvDF
良すれ!
テキスト保存します。

お爺さんはビルマで戦闘機からの機銃掃射で蜂の巣になったとお婆さんが
25年位前に教えてくれました。
そう伝えられた時のお婆さんの気持ちは辛さを超えたものだったでしょう。
私の先祖様二人にナムー。
906名無し三等兵:02/11/01 21:46 ID:nNopiWWU
あげ
907名無し三等兵:02/11/02 00:33 ID:+TlQe52+
近所のじいさんだが、召集されて南方の島に送られ、戦闘もなく終戦。
食糧事情もよかったそうで丸々太って復員、日本に帰ってからのほう
がたいへんだったみたい、どこの島なんでしょう?
908名無し三等兵:02/11/02 04:28 ID:MU+gmL2Q
>>907
ジャワかな?
909名無し三等兵:02/11/02 06:36 ID:CcUnciOF
高等小学校卒後、某電機メーカーで開発の下っ端に従事。
16年最初の応召。歩兵として中国大陸へ。満州・朝鮮北部を転々とする。
18年?いきなり冬の寒いときに夏服+毛布1枚で貨車に乗せられプサンまで運ばれる。
船で東京湾まで。寄せ集め部隊に入れられ南方へ。
サイパンからトラック島へ。召集兵なのに大隊長つきになり、
酒の相手をしているうちにマンゴーの食いすぎもあってか肺浸潤になる。
病院船になっていた氷川丸で内地帰還。これが最後の便船だった。
病状はよくなったのに病院をたらい回し。そのうち召集解除。
勤め先に戻るひまもなく田舎へ帰っていたら、また召集。
指定時刻の8月15日13時、兵営前に来たら通行人に終戦を知らされる。
勤め先の研究所に行ったら、
海軍の命で必死に研究していたソナーをぶっ壊しているところだった。
結局、ポツダム兵長だったそうである。
その後、親戚にだまされて農家に婿入りする羽目になり、今に至る。
俺の爺様、86歳が先日話してくれたことであった。
910元海上自慰衛官:02/11/02 09:13 ID:33GALXfy
うちのじいさん陸軍に徴兵されて満州で終戦迎え露助に捕まりシベリア抑留されて五年位して復員、漏れが自慰隊入るとか言ったら鬼
のような顔して入隊してもいいが陸上だけには入るなと怒られました 陸自は旧軍と一緒で地獄やと言われました
911名無し三等兵:02/11/02 09:26 ID:3/ur5FU7
うちの爺ちゃんは片足を失いました。
今でも義足をはめてます。
傷痍軍人の人っていますか?
912名無し屯田兵:02/11/02 12:57 ID:1NHnNaVx
>>911
昭和40年代、
新宿の小田急百貨店と京王百貨店の境に白い和服姿の
傷痍軍人方がいましたね。
913名無し三等兵:02/11/02 13:21 ID:???
俺が通勤する某駅前にはどうみても50歳代の傷痍軍人の方がいらっしゃっるのだが…
914名無し三等兵:02/11/02 14:45 ID:???
漏れの母方のじいさんは、朝鮮に行っていたらしいが、
結構マタ~リとしていたらしいが。
915911:02/11/02 17:19 ID:6irqdkKA
>>914 うちの爺ちゃんはかなり早く召集されて(南方らし
い)、負傷して戻ってきたようです。その後、村役場に無
試験で採用されて、助役をやってました。
916名無し三等兵:02/11/02 18:29 ID:c1ZotT+D
お爺ちゃんは、海軍の駆逐艦でトトンツーツーをする人だったらしいです。
聞く度に、シンガポールでお正月に現地の人とお餅を食べた思い出と、写真を見せて
語り出します。耳にタコ出来ました。

結局捕虜になったそうです。
917少佐:02/11/02 18:40 ID:dkXSHfsW
俺のジーさんじゃないが、ある爺さんから面白い話を聞いた
ことがある。
その爺さんは中国で戦ってたらしいのだが、例によって
みんなでレイプしまくってたらしい。
だがそれを見てた中国の男達は「もっとやれ!」と手を叩いて
喜んでたそうである。
当時の中国における女性の立場は家畜のようなものなので、
怒る奴は誰もいなかったんだってさ。
918少佐:02/11/02 18:44 ID:dkXSHfsW
もうひとつ面白い話をしよう。
シベリア抑留では、寒さで日本兵が次々死んだのだが、
現地のロシア人にはほとんど裸同然で暮らしてる人達
もたくさんいて「こいつらこんなに寒いのに平気なのか?」
と思ったことが何度もあったそうだよ。
919名無し三等兵:02/11/02 19:13 ID:???
上の2つは何かネタっぽいな。
そもそも話したじいさんがネタのつもりだったのかもしれん(w
920名無し三等兵:02/11/02 23:37 ID:MU+gmL2Q
>>918
日本に来ると風邪ひきまくってますが何か?
住宅環境がぜんぜん違う
日本には蒸し暑い夏があるから
921名無し三等兵:02/11/03 00:10 ID:???
今のロシアは地域暖房だから、真冬の屋外でも日本のトイレより暖かい。
922名無し三等兵:02/11/03 00:18 ID:XwlInfz2
漏れのばーさん
徐州にいたそうだ。
空襲警報のときに防空壕に赤子のお袋と叔父連れて逃げるのがしんどくて(おいおい・・)
死ぬときは死ぬときと腹くくって家にいたところ
ほどなく戦闘機の機銃掃射に遭って屋根をぶち抜けてきた弾丸がすぐ横を通過していったそうな。
お袋に当たってたら漏れの存在なし。

撃墜されて錐もみ状態で落ちる単発米軍機を手を叩いて見物したこともあったそうで。

もしかしてフライングタイガースかな?
923名無し三等兵:02/11/03 00:30 ID:???
>>918
確かに、ロシア人の寒さに対する感覚は日本人とは違いすぎる。
おれんとこは日本海側でロシアから貨物船がくるんだが、この
クソ寒い時期になっても、晴れてると甲板の上で日光浴してる。
今の時期日本人では半そでのヤシすらいないのに・・・。
ちなみに今日もみぞれですた。
924名無し三等兵:02/11/03 00:37 ID:vgNsBimU
漏れの親父は当時中学生で横須賀の海軍工廠に勤労奉仕に借り出され
「信濃」を作る手伝い(?)をさせれたとか言ってた。
そうとう手抜きをしたと自慢していた。

父方の伯父さんは陸軍で初年兵のとき上官に出す飯にフケをいっぱい
落として出したと言ってた(苛められたらしい。)

母方の伯父は一人は軍医で一人は神風特攻隊で九州に行ったが出撃前に
終戦になり「負けた・・」と言って泣きながら帰ってきて、軍刀を
庭に埋めたとお袋がいってたな・・・。

おじいちゃんは父方は警官、母方は医者なんで戦争にはいってい。
925名無し三等兵:02/11/03 00:41 ID:???
昔フケ飯、今ママレモンティー・・・・か。
926名無し三等兵:02/11/03 14:26 ID:ACmJ2erj
ウチのジーサン散髪屋でさ、それもすごく腕が良かったんだって。
南方の前線に配置されてて、仲間はほとんどが死んでしまったんだけど、
部隊の偉い人に贔屓にされて散髪要員に側に置いてもらったおかげで
生き残ることが出来たって言ってた。
やっぱり手に職あると強いよねぇ~。
927名無し三等兵:02/11/03 14:32 ID:GZKcLdY0
うちの爺さんの友達の方が、昔、瑞鶴に乗ってたそうな。
最後のマリアナ沖海戦やったっけ?
沈められたときも、乗ってたらしいよ。

今度、詳しく逸話を載せます。
928名無し三等兵:02/11/03 14:46 ID:fMGtK7I0
みんな氏んどけ
929名無し三等兵:02/11/03 15:34 ID:???
漏れは12/8生まれなんだが、毎年誕生日になると婆さんが
「あんたの爺さんは真珠湾攻撃に参加して氏んだんだよ」
って言う。その婆さん、漏れが生まれたときに爺さんの
生まれ変わりだと言って爺さんの名前をつけようとしたらしい。

930名無し三等兵:02/11/03 15:37 ID:???
>929
するとあなたと爺さんの間に本当に血縁関係があるかどうか疑問がないわけでも
なさそうだが
931インドネシア独立軍:02/11/03 16:15 ID:aT8DsPyE
 東京帝大法科卒、フランス高等法学院留学で、インドネシア占領地行政に参画、戦時中は
戦闘経験なし、戦後、進駐してきたオランダ軍に使われて、同じく占領地行政の立案に携わる内
インドネシア独立軍に、出勤途中のフォードを銃撃され、拳銃数発を応射したのが、唯一の戦闘
経験だそうです。
 その後復員、なぜか、後年スカルノ大統領から、インドネシアの勲章を授与されている。
932名無し三等兵:02/11/03 16:15 ID:???
ふと、思ったんだが、、、、、
整備兵でも、中佐まで出世できるんだろうか?、、、
933名無し三等兵:02/11/03 20:28 ID:AcdxwDwF
age
934名無し三等兵:02/11/03 20:52 ID:GLt6RLma
オレのオヤジのオヤジは満州警察→インパール作戦に参加→
奇跡的に生還した。オカーのオヤジは騎兵隊だったらしい。
田舎に馬に乗った爺様の写真が勲章と一緒に飾ってあった
935名無し三等兵:02/11/03 20:57 ID:XY7EIvw5
爺の戦友は酔うと戦争の話をする。
米兵から分捕ったトンプソン機関銃は腕のなかで
暴れて狙いなんか定まらないとか、背中の銃創や
足の裏の地雷を踏んだ時の穴とか見せてくれる。
936?:02/11/04 02:56 ID:h3yb6Hbj
>足の裏の地雷を踏んだ時の穴とか見せてくれる。
地雷を踏んでもまだ足があるのか!
937名無し三等兵:02/11/04 11:59 ID:blUJGnTG
俺のダチの爺ちゃんは満州の国境警備隊にいたが、ソ連が攻めてきて、奮戦したが、捕虜になった
そして、シベリヤに逝ったが、丸々太って帰ってきた。理由は何でも、コックやってたので、パンとか作らされてた
暖房効いてたし、パンとか食い放題だったから。

関係ないが、赤塚不二夫は満州がえり、中国人と仲良くやっていたから、終戦後も中国人に助けられながら、帰国したらしい
{そんなホンがあった}
938名無し三等兵:02/11/04 12:01 ID:NscD8chZ
>>932
叩き上げだと少佐までです。
939名無し三等兵:02/11/04 13:54 ID:???
>>937
> シベリヤに逝ったが、丸々太って帰ってきた。

仲間を密告でもしたんじゃないのか?
940名無し三等兵:02/11/04 14:14 ID:???
爺さんは中国で戦ってたんだが終戦と同時にシベリアへ抑留された。
収容所といっても大きな煉瓦造りの建物で暖炉もあり、食事もまともで東北の山奥で貧村出身の
爺さんには快適だったらしい。かんじきを作ってあげたロシアン未亡人とのロマンスもあって
シベリア送りは快適だったみたいです。運がよかったんだと思うけど。
941940:02/11/04 14:17 ID:???
>>939
収容所によって待遇がまるで違ったみたいです。でもドイツ人は犬コロのように殺されてた
みたいですね。
942名無し三等兵:02/11/04 22:38 ID:iplja1f2
オレの親戚ではないが、小学生の時親父の仕事の関係でシンガポールにいて
その時親父が世話になった人をシンガポールに招待したとき、
その人ホテルの窓から海をを眺めて、
「街並みは変わったけど、海は戦争のときと変わってないなぁ」と
ポツリと言ったのを今でもなぜか覚えている。
戦争体験の話じゃなくてスマソ。
943名無し三等兵:02/11/04 23:04 ID:???
俺の爺ちゃんはニューギニアでアメの捕虜になったらしい。
怪我して動けないところに米兵が来て捕まったと言ってたが
どうも嘘っぽい。脱走して自分から投降したんじゃねーかな。
2年前に逝っちまったんで真相は闇の中
944名無し三等兵:02/11/04 23:19 ID:KzffS9Oz
非戦闘員たる軍属は各自兵器をとり、陸海軍ととも一隊を編成、
攻撃隊の後方を前進せしむ。ともに生きて
捕虜の辱めを受けざる様覚悟せしめたり。
他に策無きにあらざるも,
武人の最後を汚さんことを恐る。英魂とともに突撃せん。

945名無し三等兵:02/11/04 23:25 ID:???
うちの亡くなったじーちゃんは通信兵でニューギニアに派兵されたよ。
保守的で頑固なじーさんだったな。
ところでお前らのじーちゃんは保守的ですか?





946名無し三等兵:02/11/05 01:39 ID:???
>>945
うちの爺さんは
シベリアでアクチブ→帰還→食うあてがなくて炭鉱に
→石炭掘りつつ組合活動→三井三池→退職→赤旗配りつつ死去

ってなくらいに革命的
947名無し三等兵:02/11/05 06:09 ID:8FsguPzl
うちのじーちゃんも全く戦争の話はしない。
唯一母さんがきいたのが、 
知らずにシベリアに向かってるときにじーさんの部隊の一番上の人が
これは違うところに向かってると気付いたらしくその部隊だけ必死で逃げたらしい。
で、その上の人が周りの様子を見てくるからまってろと言って行ってしまった後
銃声が響き二度とは帰ってこなかったらしい。
じーちゃんは今でも名前を覚えていて、その人の家族に本当の事を話したい。
って言ってたらしい。
そのおかげで私はいます。
そんなじーちゃんは今は飲んだくれのアル中です。
他にもっとすごい体験してたんだと思う。
948名無し三等兵:02/11/05 09:54 ID:???
うちのじいさんは 731部隊です   ・・・  聞くのが怖い
949名無し三等兵:02/11/05 10:53 ID:???
>>948
それでも、聞け。
軍ヲタでないフリをして、何気なくな。
950名無し三等兵:02/11/05 11:42 ID:mMyVmGAR
亀レスだが
>58に空母信濃作ってたおじいさんの話しがあったが
おいらの昔いた会社の開発部で工場の機械の修理とかしてた人が
やはり横須賀で信濃の建造にあたってたと聞いた
進水式で万歳万歳と送り出した艦がすぐ沈められて、本当にがっかりした
と言ってた、人生で一番残念な出来事だったそうな
優秀な溶接工として、潜水艦も作ったと言ってた、潜水艦製造のためには、
水圧に耐えるために最高の溶接技術が要求されるという

58のじーちゃんも当時の優秀な工員さんだったと思うよ
951名無し三等兵:02/11/05 11:52 ID:???
自分のお祖父さんは戦犯だったそうです。
(たしかB級だったと…)
厨房の時に亡くなりましたが、
あまり戦争当時の話を聞いた記憶がありません。

戦後にはその事で色々と苦労したみたいです。

952名無し三等兵:02/11/05 12:26 ID:???
ワイの爺さんは昭和14年入隊で砲兵になった。
爺さんは15センチの野砲(正式な名前はわからん、スマソ)を撃っていたと言っていた。
だが、すぐ横の陣地で40センチぐらいの巨大な砲を撃っていたと言っている。
そんな戦艦クラスの野砲あったのかなぁ?
どなたかしりませんか?
ちなみに爺さん、戦争中の記憶は結構詳しいので。
953大渦よりの何某か。:02/11/05 12:38 ID:???
>952
要塞砲ではないの?
もしくは無砲弾とか。確か、九八式臼砲が直径33糎。
954名無し三等兵:02/11/05 12:41 ID:???
>952
満州の虎頭要塞?
955名無し三等兵:02/11/05 18:42 ID:e4ugtOip
あげて進行して下さい
956名無し三等兵:02/11/05 19:08 ID:naqEUAwK
ウチのじーちゃんも話したがらないなぁ。
満州にいってロシアの捕虜になったそうだ。そして終戦後帰国したのだが、帰って来ればアカと呼ばれひどい目に遭い、仕事すらさせてもらえなかったそうです。
そんなじーちゃんのおかげで、オイラは生まれる事ができました。じーちゃん心からありがとう。
957名無し三等兵:02/11/05 21:34 ID:???
アゲ進行すると爺さんが何人もいるヤシが増えるだけ 2人までにしとけw
マジ後悔するからジーちゃんに話しは聞いておこう!
958名無し三等兵:02/11/05 21:55 ID:0YNDsZO+
あげ
959952:02/11/05 22:34 ID:???
>>953
>>954
サンクスでし。場所は満州とソ連の国境だと言ってました。
ちゅうことは虎頭要塞??
その巨大砲を見て「海軍で戦艦に乗ったらあんなもんを
しょっちゅうぶっぱなすんやからのう
神経いかれてまうわ」と思ったそうです。
960名無し三等兵:02/11/05 22:40 ID:8mkfuAvZ
うちのお婆ちゃんは大阪の陸軍の造兵廠で事務をしていたらしいが、同僚の人から
「中島知久平(中島航空機の社長)の嫁さんか?」とよく聞かれていたらしい。
(旧姓:中島)
あと、うんこをしたあとに伝票で尻拭いて捨ててしまい、首になった人がいたそうだ。
961名無し三等兵:02/11/05 22:41 ID:???
そりゃ虎頭要塞ですかね。
962名無し三等兵:02/11/05 22:56 ID:???
俺の故じーちゃんは陸軍騎兵隊員だった
背が高くハンサムだから選抜されたって
母親から聞いた、騎兵隊は広報部隊所属かいな?
963名無し三等兵:02/11/05 23:00 ID:26mzlsmW
1945年当時、私の父は15歳でして京都市に住んでいたそうです。
学徒動員で今話題の島津製作所に行っており、なんかのノズルを作るラインに居り
ある時責任者?に何を作っているのか質問したところその人は”新型航空機の部品
でその機はB29を落す為に開発中であり、高々度まで短時間で上昇し戦闘後
グライダーみたいに滑空して着陸するんだ”と言われたそうです。
今考えると「秋水」と思われますが、島津でそんな部品を作っていたのでしょうか?
964名無し三等兵:02/11/06 01:23 ID:???
町工場の鉄工所をやっていたうちの祖父は45年に海軍から頼まれて
「秋水」のエンジンパーツを作ったと聞く。ちなみに場所は香川県は高松。

あの頃は主要都市は爆撃くらっていたのでそんな田舎の下請けにも発注が来たと
思われ。祖父はとうに亡くなったが、戦後作った削りだしの「秋水」の冷却用
円柱形パーツを灰皿代わりに使っていたとも家族から聞いたのでたぶん
実話だと信じる。
965名無し三等兵:02/11/06 06:53 ID:???

ある日、山の上の塹壕から眺めていると、下の方でふいに戦闘が始まる。
ドイツ軍とアメリカ軍が小さな人形のように見え、双方が撃ち合いを始め、
兵士たちがパタパタと倒れるのが見える。
自分は全心身をあげ、一命を投げ出してドイツの為戦っているのだが、
それでも、人が人形のように倒れていくのを見るのは面白いことであった。

                       ――あるドイツツ兵の手記より
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      ∧∧
        (   ,,)
     ⊂   .⊃
      ┼   |
       ∪ ∪
966名無し三等兵:02/11/06 07:12 ID:???
うちのばーさん 従軍慰安婦です すんません 在日です
967名無し三等兵:02/11/06 10:43 ID:???
>>966( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
968ちゅらくん:02/11/06 14:15 ID:???
じーちゃんは沖縄戦で大砲を撃っていたらしい。
そのときは「ふーん」て感じだったが、
沖縄戦を生き延びたのと、当時の陸軍で砲兵て
結構エリートだったというのがわかって
今はホームにいるじいちゃんを見直しました。
969名無し三等兵:02/11/06 15:38 ID:BOSdhMvD
もう亡くなった祖父さんだけど。

陸軍でスマトラにいたらしい。現地から内地に向けて送った
葉書とか今でも残ってる。
祖父さんは絵が得意で、葉書に珍しい南洋の果物とか描いて
「こんな面白い果物が沢山あります」
とか書いてあった。でも隅っこに「肌着送ってください」って
すまなそうに書いてあってて、戦地は色々足らないんだなぁと感じた。

何度か死に掛けたらしい(行軍中隣の奴が突然撃たれた等)が無事終戦。
英語が話せるインテリだった(学徒出陣)ので戦後は米兵の
通訳に従事してお土産一杯で帰国したそうな。

でも他の兄弟が戦死してて家を守る人が居なくなっており(他の家人は疎開)
空襲&終戦のゴタゴタで土地を盗られていたそうだ。
場所が23区内なだけに勿体無い事した、って祖母ちゃんが言ってた。
970名無し三等兵:02/11/06 16:57 ID:???
>>969
盗られた土地には今パチンコ屋が建っているでしょう。
971名無し三等兵:02/11/06 17:44 ID:???
俺の爺ちゃんはフィリピンで野砲撃ってたらしい。
んで、ある時アメリカの爆撃機に弾を当てて、部品がバラバラ
落ちてきた話をしてくれた。
最初は豆粒ほどだったのが、ずんずん大きくなってきて慌てたらしい。
あとアメリカの戦闘機に地上掃射受けたときの話とかリアルだったな。
972名無し三等兵:02/11/06 21:24 ID:???
うちの爺ちゃんは軽巡の艦長の従卒やってて、本来機密扱いで撮っちゃダメな艦が全速航行中の写真を
特別に撮らせてもらったらしい
爺ちゃんが亡くなったら、そのアルバム貰ってくれと婆ちゃんに言われたので、有難く頂戴することにしました
なるべく、それが先であって欲しいとおもいつつ
973名無し三等兵:02/11/06 21:35 ID:4IBaabbH
このスレは1000取り合戦は禁止ということでいかがかね。
974名無し三等兵:02/11/06 21:44 ID:???
うちの爺ちゃんは軍医で満州に行ってたらしい。満州からビルマ
へ進軍する予定だったらしい。そのとき部隊の6割くらいがペスト
やコレラ、赤痢で死んだらしい。医者だった爺ちゃんは原因を調べて
みたら蚤や虱が感染源だったらしい。復員後数十年が経ち、そのとき
の原因が731部隊の撒いた細菌付きの虱、蚤と分かったそうな。
975名無し三等兵:02/11/06 21:56 ID:???
AGE
976名無し三等兵:02/11/06 21:57 ID:???
AGEAGE
977名無し三等兵:02/11/06 22:13 ID:ps0A9j/t
オレのオヤジは長崎県島原生まれで終戦時13歳。
松の根掘ってたら爆音が聞こえてキノコ雲が・・・。

広島で原爆にあって長崎に逃げてまた被爆した人が居たらしい。

よく鬼畜米国の戦闘機が飛んできて
機銃掃射して民間人殺していたらしい。
978名無し三等兵:02/11/06 22:16 ID:???
おまえら何人じいさんいるんだよ
979名無し三等兵:02/11/06 22:17 ID:???
>>978
12人ですがなにか?
980名無し三等兵:02/11/06 22:22 ID:njp6ZMOZ
死んだじーきんは、満州で大けがをしてそのまま除隊。
一昨年、親戚一同にみもまれながら、大往生を迎えました。

しかし大正生まれの人は丈夫ですね。
呼吸が止まっても、一時間以上心臓が動いてましたよ。

ちなみに、友達のじ-さまは長門に乗っていました。
981名無し三等兵:02/11/06 22:29 ID:???
>977
あめりか人て殺しが好きだよね。
982名無し三等兵:02/11/06 23:32 ID:l/FMz7Y5
親父の爺ちゃんはどこに所属していたか忘れたが満州に居たそうだ。日本が一番景気の
良い時に行って悪くなる直前に徴兵満期で実家に帰ったそうだ。本人は『炊事軍曹』
とか言われていたらしい。終戦後、暫くして『また満州行きてぇなぁ』とか言って家族全員から
『それは無理だって』とか突込みを受けた模様。詳しくは判らないが満州で相当いい思いを
して来たと思われる。自分が小学生の時に死んでしまったが。
母方の祖父は終戦時長崎の近くの工場で竹と木で出来た飛行機を作っていて『これじゃ日本は
負けるな』と思ったそうだ。長崎の原爆のきのこ雲も目撃して、後片付けにもいったそうだ。
此方も既に鬼籍にはいってしまっているが。
983名無し三等兵:02/11/06 23:37 ID:???
家のじい様45年当時中学生で兵隊の世話をしてたそうだ。
マッチも少なくて火を使ってる奴を見ると兵隊が火つけて来いって
タバコ渡されて、火をつけて戻ってくるんだけど、そのままだと
火が消えるんで吸いながら走っていくと「ガキがタバコ吸うな」
って殴られたそうだ
984名無し三等兵:02/11/07 00:15 ID:???
うちのじいさんは中国でひどいことをしてきたらしい。消防のとき一度聞いたんだが
あまりに恐ろしい話で途中で逃げ出した。それ以来じいさんとは疎遠になった。
チャンコロチャンコロうるさいじいさんだった。
985名無し三等兵:02/11/07 00:40 ID:XcxX95WB
仕事上のお付き合いのあった方の話ですが。
その人は福岡県出身の人で”菊兵団”に所属していたそうです、たまたま英語が
出来たので、英軍捕虜の通訳(尋問?)をやっていたそうですが、”菊兵団”に
捕まった英兵は、「殴られ蹴られ投飛ばされボテクリカエサレた」のちその人の所
に連れて来られ、恐怖心と敵愾心からか一切情報を得れなかったそうです。
近くで作戦中の”安兵団”(京都)に捕まった英兵は、捕虜の待遇が良かったのか
非常に友好的に話が出来たそうです、「敵ながら田舎モンに捕まった英兵が
あわれに思った」と語ってくれました。
986985:02/11/07 00:45 ID:XcxX95WB
補足。
その方は今、ギデオン教会にて聖書の布教活動をされています。
987名無し三等兵:02/11/07 00:46 ID:???
祖父は捕虜にした米兵三名を「処分」したらしいinラバウル
もし判明してたら間違いなく俺は生まれてなかったな・・・

ところで27歳で准尉(終戦時)って一兵卒上がりにしては昇進が早いほう?
988名無し三等兵:02/11/07 01:21 ID:???
うちの爺ちゃんは30で中尉だったな
989USMARINES:02/11/07 02:12 ID:a6pT7c+7
 自分の母は神戸出身。
 甲子園で川西・紫電改作ってたそうです。
 紫電改の逸話で「女工さんが主翼の上下面間違えたんで落っこちた」と言うのを知った時、変な気持ちになりました。
 子供の頃から神戸空襲の体験談をよく聞かされた。
 「凄い」「恐い」とは思ったが、淡泊な人なんで「戦争なんてそんなモンや」と悲惨さが今ひとつ。
 でも、ジブリの「火垂るの墓」をTV放送で見て「あんなモンやない」と鼻で笑ってたのが今でも思い出します。
 それから、「大陸での戦争では『勝った勝った』と喜んでいたくせに、負けた途端に『空襲でひどい目にあった』と被害者面する同世代の奴らが好かん」とも言ってた。
 原爆についても「広島・長崎の人はかわいそうだったが」「命張ったケンカにルールは無い」と言ってた。
 多分、原爆が神戸に落ちててもマッカーサーじゃなくて「アホな戦争始めた東条(母・談)」を恨んで逝ってたと思う。
 あと、家が朝鮮人街の近くだったため在日の人と仲が良かったが戦後「みんな赤くなっちゃって」話が合わなくなったのを悲しんでた。
990名無し:02/11/07 03:22 ID:Q8pYLeES
うちのおばあちゃんは、空襲があった時に当時赤ちゃんだった
僕の父親をダッコして裸足で逃げたそうです。

あと、当時長野に住んでいたそうですが、
東京大空襲のときは、空が真っ赤になってるのが
長野県からでも見れたそうです。
991 :02/11/07 04:26 ID:9LhvCCZF
ばーさんの妹の旦那さんは中国いって戦ってかえってきてからまた
南の島いって生きて帰ってきた強運の持ち主らしい。
ばーさんのそのしたの妹の旦那はなんでも宮様を守っていたのが
自慢らしい。終戦時GHQに日本刀を供出するのがむかつくので
何本も折って鎌にしたそうだ。
おれのじーさんは検査で落ちたらしい。
992名無し三等兵:02/11/07 12:15 ID:???
来たる開戦記念日にむけて新スレを立てるべし━(゚∀゚)━!!
でもサヨが(((;゚Д゚))ガクガクブルブル
993名無し三等兵:02/11/07 13:54 ID:???
ぶっちゃけた話 戦争経験者がみな死んでしまうのは
いつごろよ
 自衛隊には もう戦争経験者いないんだっけ

 第二次大戦のことね
994名無し三等兵:02/11/07 14:10 ID:???
自衛隊は脳内軍隊ですね
995名無し三等兵:02/11/07 14:40 ID:???
お前らのジーちゃんの戦争体験 その2
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/army/1036647391/l50

続きはこちらで。
996名無し三等兵:02/11/07 15:47 ID:???
「呑竜」の通信兵だった彼のとなりの席で、
グラマンの銃弾がケツから肩へ抜け戦友が戦死したそうだ。
997名無し三等兵:02/11/07 16:01 ID:8U98Frf1
トドメ!
998名無し三等兵:02/11/07 16:02 ID:eBhTE/y3
強制終了!
999名無し三等兵:02/11/07 16:03 ID:???
1000ゲット
1000名無し三等兵:02/11/07 16:04 ID:???
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