1 :
名無し三等兵 :
01/10/29 20:17 ID:Qav6KmVe
前回とまったく同じ文章を書いてもいい?
3 :
1 :01/10/29 20:27 ID:ux8By2pL
まったく問題なし!どんどん書いてください!!(^^)
4 :
名無し三等兵 :01/10/29 20:28 ID:qXl1+7kF
書いてくれ。君が泣いた話を。
5 :
名無し三等兵 :01/10/29 20:31 ID:jcJo53xw
>4 いや、泣いたは泣いたでも荒らしに泣いた話なんだが・・・
多分、雑談スレで拾ってきた話! 2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。 その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。 少女「あんたら地元の人間か?」 団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」 少女「で、何しにきたんや?」 団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」 少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」 団体「・・・・?」 少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。 寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて 夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。 私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。 あんたらにわかるか? 消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。 でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」 最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。 あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。 団体は撤退。 彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。
7 :
1 :01/10/29 20:34 ID:ux8By2pL
>>5 __________
∧∧l||l /
/⌒ヽ) < それは結構です・・・
〜(___) \
''" ""''"" "''  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
8 :
名無し三等兵 :01/10/29 20:36 ID:iF5ego4m
9 :
名無し三等兵 :01/10/29 20:40 ID:l1LNFCH6
名著「海上護衛作戦」より。 海上護衛本部参謀、大井大佐が、連合艦隊の参謀から「大和を特攻させるので、海上護衛 艦隊にまわす重油が無くなった」と云う連絡を受けた時に言った言葉。 「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎!」
11 :
ばばぼん♪ :01/10/29 20:47 ID:nU0lf9L1
>>5 これは「地方自治体の自衛官募集協力に反対!?」
の過去スレのいずれかに出てたヤツだったかな?
12 :
名無し三等兵 :01/10/29 21:06 ID:dnLeiisB
では>10に関連して 沖縄特攻作戦を命令された艦長たちは、説得にきた聯合艦隊参謀に噛み付いた。 「我々は陛下から艦と赤子をあずかっている。しかも、これは日本に残された最後の艦隊だ。 そんな意味の無い無駄死にの作戦なんぞ承服できるか! 死にたければ、まず聯合艦隊司令部が日吉台の穴からでてこい」 と、反発した。 太平洋を所狭しと戦い続け、どんな無謀な作戦でも黙々と従ってきた駆逐艦長たちが、 上の自己満足だけの作戦で艦と乗組員たちを失ってなるものかと 帝國海軍の歴史の中で唯一作戦命令を拒否したという逸話がここに生まれた。 しかし、伊藤長官が 「我々は死に場所を与えられたのだ」 と諭すと、それまでの態度をおくびにも出さずに、もくもくと出動の準備をはじめた。 栄光も伝統も関係ない。 いうべきことは言い。みずからの責任を放棄せずに最後まで戦い続けた先人たちに敬礼
13 :
名無し三等兵 :01/10/29 21:12 ID:0gNbmFe3
大和関連は泣ける話が多いね。 3000人で特攻しただけに。
14 :
兵八 :01/10/29 21:53 ID:6PKGz2Rj
大和スレに書いたヤツだけど、許可を頂けますか?せっかくだから。 艦長有賀幸作大佐御最期 艦橋最上部ノ防空指揮所ニ在リテ、鉄兜・防弾「チョッキ」ソノママ、身三箇所ヲ羅針儀ニ固縛ス 暗号書・総員上甲板等、最後ノ処置ヲ完了、万歳三唱ヲ発シ、之ヲ終ルヤ、傍ラノ見張員生存者四名ヲ顧ミル 彼等、剛毅・赭顔ノ艦長ニ敬服ノ余リ、其ノ身辺ヲ離ルル能ワズ、総員死ヲ共ニスル覚悟明ラカナルヲ見テ、 艦長一人一人ノ肩ヲ叩キ、「シッカリヤレ」ト激励シツツ海中ニ突キ落トス 最後ノ兵、彼ガ微衷ヲ示サントテカ、食残シノ「ビスケット」四枚ヲ艦長ガ手ノ内ニ残シ行クヲ、 艦長ニヤリトシテ受ケ、二枚目ヲ口ニシタルママ、艦ト共ニ渦二呑マレタリトイウ カカル折ニ、「ビスケット」ヲ喰ラウ豪胆ハ無類ナリ 以上、見張長ノ言ナリ 彼モマタ艦長ノ傍ラヲ離ルル能ワズ、肩ヲ触レツツ海中ニ没スルモ 我身ニ固縛ヲ強イザレバ浮上シタルナリ
15 :
:01/10/29 22:00 ID:ux8By2pL
>>6 __
/__|__
/_了TДT) 泣けるじゃねぇかゴルァ!!!!
(|〆/|)
/|  ̄ |
∪ ∪
16 :
:01/10/29 22:12 ID:ATABD1mj
>>6 マジ泣いた。
オレも神戸で被災して、
自衛隊にはお世話になったよ。
今でも感謝している。
17 :
:01/10/29 22:23 ID:ux8By2pL
>>14 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|なんだとゴラァ!なめとんのか?!
\_____ ______
∨
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 隊長!我々は戦後生まれなので、なに書いてあるのか読めません!
\___________________ ________
∨
フサーリ♪
.。,;,v,,V;,, .
ヘV乂ヘY\ノX(。 .ロ || / ̄ ̄\ || / ̄ ̄\ ___ 4|
,ゞ| ミ_ノノノ ノ_ || . |ァ| ____」 |ァ| _____⊂ヽ _|_o_7 ||
ミミミ[||,, *゚ー゚)ソ || || 且[||. `∀´). 且[||. ´∀`) ノ (゚Д゚,,) 且
ミミ( ” : ”つ[]|:||・| 匚|](う” : ”) 匚|](う” : ”/ ⊂”: C)[|_囗
彡シ| | |ぐ / |.|| / | | | | / | | | | | | | ヽ
.(__)_). /__|  ̄ (__)_).  ̄ (__)_) ∪∪  ̄
18 :
兵八 :01/10/29 22:38 ID:6PKGz2Rj
>>17 不覚にもワラタ。
確かに、我ながら読み難くてしょうがないなあ・・・・・・。振り仮名つける訳にもいかないし。
19 :
:01/10/29 23:03 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/12(月) 14:46 『佐久間艇長遺言』(昨日海軍省より発表) 小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。 されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。 我等は国家のため職に斃れしと雖も唯々遺憾とする所は天下の士 はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるや を憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜 水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺 憾とするところなし。 沈没の原因 瓦素林潜航の際過度深入せしため「スルイスバルブ」をしめんとせ しも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水 せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。 沈据後の状況 一,傾斜約仰角十三度位 一,配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に 困難を感ぜり。十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動 ポンプにて排水に力む。 一,沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども 「メンタンク」は排水し終われるものと認む。電流は全く使用する能 わず,電液は溢るも少々,海水は入らず「クロリン」ガス発生せず 唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。 (后十一時四十五分司令塔の明りにて記す) 溢入の水に浸され乗員大部衣濕ふ。寒冷を感ず。 余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざ ればその発展を望む可からず,細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。 世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは 前言の誤りなきを確信す。 一,司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止 して動かず,この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。 一,潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す,かかるとき に困る故。幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。 我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に「カラサキ」引 出の中にあり(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ 之れを愚父に致されよ) 公遺言 謹んで 陛下に白す 我部下の遺族をして窮するものなからしめ給はらんことを ,我が念頭に懸るもの之あるのみ。 左の諸君に宜敷(順序不順) 斉藤大臣 島村中将 藤井中将 名和少将 山下少将 成田少将 (気圧高まり鼓膜を破らるる如き感あり) 小栗大佐 井出大佐 松村中佐(純一) 松村大佐(竜) 松村少佐(菊) (小生の兄なり) 船越大佐 成田鋼太郎先生 生田小金次先生 十二時三十分呼吸非常にクルシイ 瓦素林ヲブローアウトセシシ積モリナレドモ,ガソリンニヨウタ 中野大佐 十二時四十分なり
20 :
:01/10/29 23:04 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/12(月) 14:47 左ノ電文ヲ次官二御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし) 沖縄県民ノ実情二関シテハ県知事ヨリ報告セラルヘキモ 県ニハ既 二通信力ナク 32軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県 知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)サレトモ 現状ヲ看過(かんか)スル ニ忍ヒス 之二代ツチ緊急御通知申シ上クーー ーー若キ婦人ハ率先軍二身ヲ捧ケ 看護婦烹飯婦ハモトヨリ砲弾運 ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮(しょせん) 敵来リナハ老人子 供ハ殺サレルヘク 婦女子ハ後方二運ヒ去ラレテ毒牙二供セラルヘシ トテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門二捨ツル親アリ 看護婦二至リテハ軍移 動二際シ 衛生兵既二出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテーー ーー沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ラン コトヲー―
21 :
:01/10/29 23:05 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/12(月) 14:59
>>19 江田島記念館に遺書が展示されているので機会があったら見に行って
みましょう。酸欠に悩まされながら書き続け、段々と筆跡が乱れて
文字が大きくなっていくのに心を打たれました。
22 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:05 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/12(月) 15:09 硫黄島守備隊の玉砕に際しての電文 「チチジマノミナサン、サヨウナラ」
23 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:06 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/12(月) 15:12 >ーー沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲー― この一文がホント泣ける。報われないよなぁ。
24 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:06 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/21(水) 01:39 セブ島から特攻出撃した大和隊隊員植村少尉が幼いわが子に あてた遺書。 素子 素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りも したし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって 私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代叔母様に私のこと をよくお聞きなさい。私の写真帳もお前のために家に残して あります。 素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやり の深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。 私はお前が大きくなって、立派なお嫁さんになって、幸せになったの を見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまって も、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたい ときは九段にいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様の お顔がお前の心の中に浮かびますよ。 父はお前が幸福者と思います。 生まれながらにして父に生き写しだし、他の人々も素子ちゃんをみると 真久さんにあっている様な気がするとよく申されていた。 またお前の伯父様、叔母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって 下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福を のみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても 親無し児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って おります。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。 お前が大きくなって私のことを考え始めたときに、この便りを読んで 貰いなさい。 昭和十九年○月某日 父 植村素子へ 追伸 素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて 自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒に いたわけです。 素子が知らずにいると困りますから教えて上げます。
25 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:06 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/22(木) 23:26 落合信彦の本からだからそのつもりで(笑)。オイラが泣いたのはこれ。 ノルマンディ上陸作戦で戦死した兵士のポケットに入っていた紙に書かれていた、 I die today, for your tomorrow. (あなた達の明日のために、僕は今日死ぬ)
26 :
46式中学生 :01/10/29 23:08 ID:hvbegR+m
>>20 太田少将最後の電文ですか
ここまで市民の事を考えてくれていた将がいたこと事態泣けますよねぇ・・・
27 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:10 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/22(木) 23:31
>>24 この間靖国に行ったとき、ちょうど特攻関係者の展示をやっていたんだけど、
そこに展示されていた遺書の数々を読むと、思わず目頭が熱くなり、
涙を流すまいと歯を食いしばって耐えたよ。
結構みんな俺より若いんだよな、特攻隊員。
今の俺に死を前にしてあんな文がかけるだろうか。心が痛かった。
しかしあそこにたむろする、ヤクザまがいの右翼はどうにかならんもんだろうか(憂
28 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:11 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/22(木) 23:37
>>24 こばやしよしのりの戦争論に引用されていましたね。
絵が入ると泣けます。ていうか泣きました。
あと、靖国に来れば私に会える とかいう文もあったような
たとえこの身は南海に散るとも いく年のちの春を思えば・・・
紫電改の機体に彫られてあったそうな
29 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:12 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/23(金) 00:09 「エルベ特別攻撃隊」ってドイツ空軍体当たり部隊。手持ちの本から引用。 『そして1945年4月7日にマグデブルグ上空でベルリンに向かうB−17の 大編隊を迎撃し、パイロット達は突進の途中で 「忘れるな。奴らに殺された我らの母を。子供を」 と無線機に絶叫しながら、B−17の尾翼めがけて突進した。』 276p 第二次大戦航空史話(上) 秦 郁彦著 中公文庫 ソーゼツです。突っ込む方も、突っ込まれる方も……。
30 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:12 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/23(金) 19:29 佐藤章 菊水隊 イ36潜、イ37潜、イ47潜 昭和19年11月8日出撃 妻への手紙 まりゑ殿 かねて覚悟し念願していた「海い征かば」の名誉の出発の日が来た。日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。 短い間ではあったが、心からのお世話になった。俺にとっては日本一の妻であった。 小生は何処に居らうとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。 子供も、唯堂々と育て上げてくれ。所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ、小生も立派に死んでくる。 充分体に気をつけて栄へ行く日本の姿を小生の姿と思いつつ強く正しく生き抜いてくれ。 大東亜戦争に出陣するに際して 昭和十八年九月二十一日 章 まりゑ殿
31 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:13 ID:c5iKND3U
>>22 その父島では、食料が足りないわけでもなかったのに、米軍パイロット
とっ捕まえて食ってました。
別な意味で泣ける…
32 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:13 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/23(金) 23:44 「貴様らだけを死なせはしない、俺も必ず後から行く」 ミッドウエー攻撃に出撃する搭乗員達に訓辞した山口多聞司令官は 空母飛龍と運命を共にした。
33 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:15 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/24(土) 13:52 >19 そう言えば佐久間艇の引き上げ後、乗員が全員持ち場を離れずそのまま死んでいたのは 世界中が驚愕したとか。 ちなみにほぼ同時期にイタリア艇が沈没したときは乗組員は、ハッチ周辺で折り重なる ように死亡していたそうです。
34 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:16 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/25(日) 04:05 大西瀧治郎中将辞世の句 「これでよし百万年の仮寝かな」
35 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:17 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/25(日) 11:10 昔見た終戦記念日かなんかのテレビ特番にて。 生き残ったパイロットのじいちゃんが、どこかの飛行場跡地で(うろおぼえスマン) TVクルーに、 「あの戦争のことは、私たちのことは忘れてやってください。あんな辛い時代を 今の人に忘れてもらえるのが、私や仲間たちの一番の願いで、供養だと思います」 と涙ながらにそんなような内容のことを言っていた、そんな番組があった。 そういう想いの人もいるのか、と思った途端、私も涙が止まらなくなった。
36 :
名無し三等兵 :01/10/29 23:17 ID:ux8By2pL
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/03/25(日) 14:15 中部太平洋方面艦隊司令長官 南雲忠一中将 サイパン島よりの決別文 「今や止まるも死、進むも死、生死須くその時を得て帝国男児の真骨頂 あり、今米軍に一撃を加へ太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めん とす…茲に将兵と共に聖寿の無窮、皇国のいやさか弥栄を祈念すへく敵を もと索めて発進す 続け」
私が本気で泣きそうになった言葉です。いい言葉ですよ。 進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上の道だ。 日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわっ て、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして 日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先 導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか。 (昭和二十年四月、沖縄特攻に赴く戦艦大和艦上での臼淵磐大尉の言葉。 吉田満著『戦艦大和ノ最期』より) PS 言葉でもOKですよね?>1さん
「ノー・サンキュー」 イギリス東洋艦隊司令長官サー・トム・フィリップス大将。 プリンス・オブ・ウェールズから退艦を勧められた時の言葉。
39 :
1 :01/10/29 23:31 ID:ux8By2pL
>>37 __
/__|__
/_了TДT) いい話じゃねぇかゴルァ!!!!
(|〆/|)
/|  ̄ |
∪ ∪
40 :
ナナシニコフ :01/10/29 23:48 ID:LNYx3HqT
”Я умираю、но не сдаюсь! Прощаи родина. 21 Z ‘41” ―1941年7月、レニングラード正面にて、 侵攻するドイツ軍に対し3日に亘る頑強な抵抗を行った後 撃破されたトーチカの壁に刻まれた対戦車砲兵の遺言― ”我死せんとす。されど断固降伏はすまじ! さらば祖国よ。 ‘41年7月21日”
清沢洌著 暗黒日記 昭和20年1月25日より 昨日、技術院総裁八木秀次博士、議会で答弁していった。 「最近必死必中ということがいわれているけれども、必死でなくても必中であるとい う兵器を生み出すことが、われわれかねがねの念願なのであるが、これが充分に活躍 する前に、戦局は必死必中のあの神風特別攻撃隊の出動を待たねばならなくなったこ とは、技術当局として誠に慚愧にたえず、申し訳ないことと考えている」 八木さんがそんなに恐縮する事じゃね〜のに〜 八木さんは悪くね〜よ〜(i_i)
42 :
海軍航空隊厨尉 :01/10/29 23:51 ID:I1eyerKe
山中氏の、この号令。 「坂井三郎中尉、海軍航空隊を退隊されます。総員見送りの位置につけ!!帽振れ!! 帽振れ!!帽振れ!!帽振れ!!」
37さんと38さんの書き込みを見て、ふと思い出しましたが・・・ 大和特攻のとき、最初に航空攻撃を受けて行動不能になった磯風が雷撃(砲撃?) で沈められたとき、生き残りの部下を全員、雪風に移したあと、磯風の艦長さんは ひとり、艦橋に残られたそうです・・・ おそらく、そのあとに来るさらなる惨劇も予想しつつ、どのようなことをお考えに なっていたのか・・・ 胸の詰まる想いとともに五十余年後からご冥福をお祈りさせて頂きます・・・
こっちでも、スペイン戦争で一席。 アルカサル包囲戦に置いて、籠城するフランコ軍の指令、モスカルド大 佐の息子が、包囲側の人民戦線に捕まると云う事件発生。 籠城軍に手を焼いていた包囲軍は、彼を人質にして、立て籠もる大佐に電 話で、 「お宅の息子を預かってる。即刻降伏しないとあんたの息子の命は保証で きない」 と勧告。 その後、電話口に捕虜となった息子が出てきて、父である大佐と直接話 す機会があった。 大佐「スペインのために、雄々しく死ね」 息子「わかりました。さよなら」 とだけ言葉を交わしたと云う。 その後、アルカサルは救援部隊が来るまで持ちこたえ、大佐の息子は人 民戦線側に銃殺されてしまいました。
45 :
>40 :01/10/30 00:00 ID:nW1RaNyB
俺の手元にある訳がちょっと違うのでよく判らないんだけど 日付からしてそれってブレスト・リトフスクで最後まで頑強に 抵抗したソ連兵のものじゃなかったっけ?
46 :
名無し三等兵 :01/10/30 01:04 ID:R2FRovC2
だいぶ前の週刊「朝日」に乗っていた司馬遼太郎ねた の終戦直前の満州出の関東軍最後の戦車隊の話はイイ!
>45殿 一等自営業氏の”バルバロッサ作戦”では、貴見のとおり引用されてるようですが、 小生が読んだ本(惜しむらくは書名を失念)ではこのようになってました。 カレリア地峡からの攻勢に対する防御なら、 時系列的にありえない話ではないのでは? ちなみに、”Прощаи”を一等自営業氏は”許せ”と訳しておいでのようですが、 日常の別れの挨拶である”До сбиданья”に対し 永遠の別れを示す語であること、並びに文脈から”さらば”と訳しました。
48 :
名無し三等兵 :01/10/30 01:39 ID:5Zbj4eFN
一応「軍」と名の付く話。 ニュースか何かで見たけど、日本と韓国の高校が文化交流でビデオレターの交換をしてた。 その時どういうわけか韓国の女子高生が従軍慰安婦専用の老人ホームへ取材に行った。 そこにいたのは日本軍に協力させられ、戦中、戦後と不幸な人生を送ったおばあちゃん。 悲惨な体験を生々しく話し、涙にくれる女子高生。ここまでは気の毒だけど少し嫌な気分。 しかし最後に。 「でもいいかい、お前達、決して日本人を恨んじゃいけないよ、あれは戦争だったんだ」 これでさっきまで嫌な気分になってた自分を心から恥じました。 韓国人っていい人たちだよ。
49 :
名無し三等兵 :01/10/30 01:43 ID:R2FRovC2
>48 それが間違いです!
50 :
名無し三等兵 :01/10/30 01:43 ID:x0Ay3org
>48 それだけで全部をいい人と見るのはだろうだろうか 「日本は謝罪と補償を(以下略!」 とか叫んでる奴はどうなるの? 韓国人は一つじゃないんだよ。 そういういい人も居れば日本人を劣等民族だと思っていていちゃもんつけてくる最悪な奴も居る。 もう少し頭捻れ
51 :
名無し三等兵 :01/10/30 01:44 ID:x0Ay3org
× だろうだろうか ○ どうだろうか
>ナナシニコフ殿 残念ながら自営業氏の「バルバロッサ作戦」は存じ上げません。私が引用 したのは学研M文庫(厨房資料でスマソ)の「バルバロッサ作戦」からです。 しかし自営業氏がこの本を参考にしている可能性は大であり、この書物の 記述事体が間違っているのかもしれませんね。 一応引用しときます >(ブレスト・リトフスク戦において)もしくは、西島の兵舎の壁に、「俺 >は死ぬ。降伏するものか。許せ、故国よ」署名は無かったが41・7・20の日 >付けもあった。このことから、要塞の地下に潜った数グループが七月末 >まで抵抗を続けたことがわかる
53 :
5式好き :01/10/30 01:50 ID:wPIGJBLQ
チョンは心の中で復讐したくてたまらない人達です。 うそつき従軍慰安婦の言う事真に受けるなよ。 あいつら本物の売春婦だったんだから
( ・∀・) まあまあみんな、マターリしようよ。 泣ける話じゃない話は、別の所でするべきだと思うよ! どの話も泣ける話で、コメントしがたいよ!
>>48 最後のところが
>これでさっきまで嫌な気分になってた自分を心から恥じました。
>韓国人っていい人たちだよ。
ここのところが
「自分が日本人であることを恥ずかしく思いました」なら
パーフェクトなのになぁ〜w
56 :
48 :01/10/30 02:26 ID:LAX+1XBy
まあ、確かに決め付けたのは私が悪かった。 でも私の中ではこの一言で間違いなく韓国人に対するイメージががらりと変わりました。 単純といわれようがなんだろうが。 しかし私の下手な文章のせいで。。。 最終行は忘れて、おばあちゃんの気持ちを汲んでやってください。
>>48 まぁ、過剰反応してるのは約一名だけだから、そんなに気にしないようにね。
58 :
海の人 :01/10/30 08:28 ID:n1YDM5Ns
>56 いあ、気持ちはよくわかりますです:-)
59 :
兵八 :01/10/30 20:13 ID:hERGbxKm
>>20 ちょっと遅レスで申し訳ないんだけれど・・・・・・。
太田中将といえば、この電文も泣かせるよなあ。
60 :
兵八 :01/10/30 20:17 ID:hERGbxKm
あら、途中で途切れちゃったよ。ゴメン。これのことね。 「発 沖根(注:海軍沖縄部隊を指す)一二〇〇 一、朝来 敵戦車及ビ歩兵、当司令部壕外ニ蝟集シ煙弾ヲ撃チ込ミツツアリ 二、我方、凡ソ刀ヲ持チテ戦ヒ得ル者ハ悉ク敵ニ当タリ、立ツ能ワザル者ハ自決シツツアリ 三、七四高地二箇月ニ亘ル奮戦モ本日ヲ以ッテ終止符ヲ打ツモノト認ム」 しかし、全部隊で受信されたはずなのに公刊戦史にも載っていないというのは、なんとも・・・・・・。
うう、これは希に見る名スレだ・・・
62 :
名無し三等兵 :01/10/31 00:40 ID:xwyUmHvN
>>37 「戦艦大和ノ最期」は戦闘開始までに10回は泣けます。
63 :
名無し三等兵 :01/10/31 10:12 ID:FfKIXcTj
>>46 本当にね。
ソ連軍侵攻後、秩序も何も無く彷徨っていた敗残の部隊が一台の一式戦車に出会う。
で炊飯中の搭乗員達が「俺らは今まで3回夜襲した。次で最後だろうから飯食ってけ。」
って腹一杯食事させるんだよね。
その戦車を敬礼で見送った後、その部隊は装具を整えて行進して行ったという(泣)
64 :
名無し三等兵 :01/10/31 10:42 ID:GHL25CKf
>>62 新東宝の白黒映画の「戦艦大和」はDVDで見たが、
けっこうまともな作りだった。
あれ見て思ったんだが、艦内のどこか行くのに、
甲板通らないといけないのは欠陥だなぁと思った。
航空機から機銃掃射かけられるなんて
想定に入ってなかったんだろうけど。
モナ−板で見つけました。以下転載です。 出征の折よめる 待ちわびし召集令をうけしより 心おどりぬなにとはなしに 君のため国の為なりとはいへど 老いしちち母思はぬにはあらず 勇ましき働きせよといひさして 涙に曇る母のみことば ふた親に妾(わらわ)つかへむ国のため いざとはげますけなげなる妻 門の辺(べ)に送るみ親ををろがめば 泣かじとすれど涙こぼるる 手をつかへなみだぐみたる教子(おしえご)の 姿を見れば胸さけむとす いざやいざ朝日のみ旗おしたてて ふみにじらなむ露の醜草(しこぐさ) __ ヽ=v=ノ (゚Д゚,(ヾ | 。 y' | 。 〜 ∪∪ 『山桜集』より ______ _______________________ ∨ ∧ ∧ ( ゚Д゚) [|] _ < y~|⊃ |講| /旦 ̄ ̄ ̄ ̄\|談| ,| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ||擬| .| ||古|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ これは、猿田只介といふ教師出身の一兵卒が残した歌であります。
66 :
名無し三等兵 :01/10/31 15:31 ID:xoHDJuop
名前:£@歴史抹消主義 投稿日:01/10/29 06:39 ID:Zu2ivkcC キスカ撤退時、日本軍は後から上陸してくる米軍の為に、キスカ上空 で撃墜され戦死した米軍パイロットを埋葬した場所に、撃墜された日や その状況を英語で書いた立て札を立てておいた。
67 :
名無し三等兵 :01/10/31 17:32 ID:xoHDJuop
名前:吉田茂 投稿日:2001/06/07(木) 22:34 「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。 きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、 災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。 言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。 どうか、耐えてもらいたい」 (昭和32年2月、防衛大学第1回卒業式にて) 隊員の大部分が吉田首相の言う通りの人生を送り、なおかつ吉田首相の言葉が真実を含んでいるだけに、 自衛隊員の苦労と忍耐を思うと泣けてきます。
68 :
名無し@神戸在住 :01/10/31 17:40 ID:BW0Be7/o
神戸のものです。 震災のあとの混乱がやや落ち着きを取り戻した頃から、 つぶさにテレビなどで観察していましたが、 本当に涙を流してくれたのは自衛隊の高官殿だけでした。 「我々がすぐに力になれなかったのは本当に悔しい」と。 その涙を見て、少し救われた気持ちになりました。 残念なのは、その人が制服を着ていたということしか 憶えていないことです。 我々のことを思いやってくれて ありがとう、とこの場を借りてお礼を申し上げます。
69 :
名無し三等兵 :01/10/31 18:14 ID:xoHDJuop
名前:DarkToyDealer 投稿日:2001/06/05(火) 16:13 ここ読んでて思い出しました。 結構前のテレビだったかで、戦争末期のどさくさで、行方のわからなくなってた戦友 を探す、元パイロットのじーちゃんの話が取り上げられてた。 特攻隊の遺影を展示してある、記念館で、その戦友の遺影を見つけた刹那、 目つきが変り、背筋を伸ばし、戦友(とも)の遺影に敬礼し、一言 「ここに居られたでありますか!!」 じーちゃんの目に浮かぶ涙。 数十年を経ようと、死で隔てられようと、戦場で結ばれた二人の友情は不滅のもの だった。 ちと涙してしまったよ。
70 :
名無し三等兵 :01/10/31 18:20 ID:xoHDJuop
http://mytown.asahi.com/fukushima/news01.asp?c=5&kiji=295 特攻隊で死を覚悟 小松順吉さん
20歳で兵隊に行った。教員になりたいと思ってたから通信学校を志願して、
高等科が終わると実施部隊の指導をしてた。茨城県の鴻池ていうところだっ
た。「丸大」っつう、爆弾の中に人間が乗って操縦して、敵に体当たりする部
隊だった。特攻隊なんだよ。1トンの爆弾に飛行機のような羽根がついてて、
操縦稈(かん)がついて、それに乗る部隊だった。最新の電波探知機は積ん
でても、まだよく使いこなせなかったときだから、無線と一緒に教えてた。
こういう実施部隊は、戦闘機乗りの訓練を積んだ優秀な人しか乗れねぇんだ
よ。高度5000メートルくらいから鴻池の飛行場に急降下で降りて来て、地上
すれすれまで突っ込んできては、ヒューっと上がっていくんだわい。毎日そん
な訓練してた。はじめて「丸大」っていう爆弾使ったのは沖縄だった。爆弾に
人間が乗って操縦するんだから、百発百中だ。もちろん人間は帰ってこねぇ。
何千人も乗った船沈めるわけだから、それを名誉としてた。
このまえ浜松の航空基地へ行ったら、あそこに航空博物館ってあんだわい。
そこでたまたま、おれたちの部隊の少尉の人の遺言状に出会ってな、巻紙の
達筆な遺言状だった。こんなとこで会うんだものなぁ……、涙が出た。
江田島に海軍博物館ってあんだげど、あそこさ行ったらあらゆる部隊の遺言
状がいっぱいある。みんなに一度は行ってもらいてぇなぁ。おれはばぁさまと一
緒に行って、ずうっと読んでったが、涙ぼろぼろ出てくんだわい。訓練すっとき
はおれも飛行機に乗ってたから、遺言状はいっつも書いてた。死ぬことはいっ
つも覚悟してたからな。
おれが当直のとき、おれの代わりに乗ってったヤツが死んだ。おれが死ぬはず
だったんだ。3人で当直してて爆撃に遭って、おれだけ助かったっていうときも
あった。
あの時の日記、いまでも時々出してみる。忘れたくねぇと思ってな。一緒に寝起
きしてたヤツが丸大に乗って出て行くときは、やっぱ……涙が止まんねがった
……。
爆弾積んだ7人乗りの飛行機から、ひとりずつ1トン爆弾の中に入って、飛行機
から離れていくんだ。一緒に寝起きしてたヤツが、ピンピンしてたヤツが、死ん
で行くんだゾ。ハッチ開けたら、もう帰ってこねぇ。おれの孫と同じぐれぇの年な
んだゾ。
戦争は人殺しだ。
あんなことはやっちゃなんねぇ。人を殺しても罪になんねぇんだ、戦争ってやつは
……。
子供たちには教えておきたい。こんなこと、二度とやってはなんねぇってな。
遺言状を読んでみっといい。17、18歳の、まだ少年が書いてる遺言状だ。あんな
こと、二度と書かせちゃなんねぇ。
71 :
名無し三等兵 :01/10/31 18:36 ID:ZeUagHJh
72 :
名無し三等兵 :01/10/31 18:51 ID:xoHDJuop
名前:名無し三等兵 投稿日:2001/04/09(月) 12:53 デルタフォース隊員が敵地に取り残された。 ペンタゴンは救出部隊を送り込まなかった。 デルタフォール指揮官マシュー・クエンティン・シェパード少佐が明らかな越権行為をしながらもヘリと一個小隊を送り込み(+自分)取り残された隊員を救出した。 しかし、ペンタゴンはこの越権行為への処分として少佐の辞表を受け入れた。 少佐が基地を後にするとき、ジープのドライバーの軍人が少佐に敬礼をした。 「なぜ民間人に敬礼をする。」 そしてジープに乗り込み、走った。そこには少佐を慕っていた50人近くの兵隊が花道を造っていた。 その真ん中を少佐が乗ったジープがゆっくりと走る。 兵隊が一斉に敬礼をした。ジープに乗っていた少佐も敬礼をし、兵隊も手をおろした。 その後拍手の嵐と少佐を慕う声が響いた。
73 :
名無し三等兵 :01/10/31 19:02 ID:3ztxObWd
お父さんが戦争に行くことになったのに、何も知らない小さな子供。 「お父ちゃん、汽車のオモチャ買ってきて」「よしわかったぞ」 お父さんは南の島へ出兵し、戦闘で洞穴の奥に追い詰められて自決の道を 選んだ。その洞穴の壁には気車の絵が残されていた・・・。 これ有名な話しみたいだけど、思い出すだけで涙が出てしまう・・・。
74 :
名無し三等兵 :01/10/31 19:40 ID:xoHDJuop
>>67 __
/__|__
/_了TДT) 時代のせいなのか、小泉と比べると泣けるぞゴルァ!!!!
(|〆/|)
/|  ̄ |
∪ ∪
75 :
レオパルド :01/10/31 19:47 ID:C4HiIxeA
__ /__|__ /__了 TДT) 軍刀さかさまだぞゴルァ!! (| \|〆 〜|  ̄ | ∪ ∪
76 :
名無し三等兵 :01/10/31 20:32 ID:InF7pQkf
>>75 確か上の奴の方が軍刀がそれとわかりやすいので上の奴が採用されたんじゃなかったかな?
77 :
持ちネタ・・・? :01/10/31 20:40 ID:xoHDJuop
>>75 394 名前:チセ女神 ◆5PSMTIsE 投稿日:01/10/22 03:35 ID:qsRKTup/
269 名前:レオパルド 投稿日:01/10/21 15:58 ID:+xhmJM83
__
/__|__
/__了 ゚Д゚) コレハ?
(| /|)〆
|  ̄ |
∪ ∪
399 名前:レオパルド 投稿日:01/10/22 07:56 ID:v7+rCZG5
>>394 最悪・・・・
俺の失敗作が・・・
sage
おまけにずれてるし・・・、直しておいてあげるね!
__
/__|__
/_了TДT) 軍刀さかさまだぞゴルァ!!
(| \|〆
〜|  ̄ |
∪ ∪
78 :
レオパルド :01/10/31 20:52 ID:hPWSFrkj
沖縄第32軍の袂別電報の最後 矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還り 皇国護らん 秋をも待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春に よみがえらなむ これ、好きなんだよなあ。泣ける。
>>68 その高官は確か中部方面総監であったと思います。
兵庫県知事を断罪したかった・・・。
81 :
名無し因果応報 :01/10/31 22:06 ID:yrF7PqdW
何度見てもこのスレは心に響くね。 嗚呼、忘れるまじ。かく戦い散った人々のいたことを。 東西南北、国家組織の区別なく。
82 :
海の人 :01/10/31 22:31 ID:RJO0lnnT
>68,>80 当時、中部方面総監の任にあった当時陸将の松島悠佐氏ですね。 松島さんに限らず、当時の初動で動いた隊員一人一人が、もたもたと明確な指示を 出さない行政・政府に、イライラとした時を過ごしました。 海の人のいた部隊も、緊急支援に備えてありったけの缶飯を集め、毛布類もできる 限りで積み込んで待機完了したのが当日の午前中であったのですが、結局災害派遣 要請が遅れに遅れた挙げ句、当初の防衛庁に対する命令が関西方面の部隊に限った ものであったために、ようやく出港できたのは翌日の昼間ということがありました。 小川和久さんも著書「なぜヘリは飛ばなかったか」の中で述べておられますが あれはまさに「人災」でした。 これこそまさに、本当に泣ける話です。
麻生幾の「情報、官邸に達せず」を読んだんだけどホント酷いね。 こんな連中がトップにいるようじゃ、有事の際は… 泣くに泣けないからsage。
84 :
名無し三等兵 :01/10/31 22:58 ID:lRuCp/+G
軍事板ピカ1評価の高い渡辺洋二さんの「飛燕」より 昭和20年初夏の飛燕の特攻隊員(学徒動員)の方の会話 Aさん「この戦争は負けるのか?」 Bさん「・・・・」 Aさん「命が惜しくて言うんじゃないが戦争に負ければ、日本が負けるって判って るなら俺達が死んでも意味ないじゃないか・・・」 Bさん「私たちが死んでも、日本人の何人かは生き残るでしょう。その人たちを信じて 死ぬしかありません」 Aさん「そうか!そうだな。その人たちを信じて死のう・・」
85 :
名無し三等兵 :01/10/31 23:04 ID:gSmG/653
有事の際、ほんとに心から心配だ・・・ 十中八九、だめだろうな・・
86 :
名無し三等兵 :01/10/31 23:10 ID:NmqhnDh/
つか、ダメとあきらめたら本当にダメだろ。 心配するだけならしないほうがマシ。 とりあえず民主主義ってのは、 「俺たちの国だから俺たちが変える」という意思なくして存続はせんのよ。 誰かが変えてくれる、なんて思っちゃったら負け。 ちゃんと新聞で情報集めて、そういう問題をきちんと考えてる政党に票入れましょ。 それが「こころならずも命を失ったすべてのひとびと」に唯一報いられることなんだから。
>85 小泉から守旧派に政権変わったら尚のこと・・・ 昭和初期リバースは止めて欲しい。
88 :
名無し三等兵 :01/10/31 23:25 ID:vC5koEio
>我が国の官僚の危機意識 まぁ、文武・官民問わずもともと”官僚制組織”の不文律として、 ”指揮―命令/服務―報告系統を乱さない=直属の上司までしか報告しない。” というのが有りますし、 加えてウチの国のお役人方は、昭和恐慌時に取り付け騒ぎを起して以来 ”パニック”とか”風評被害”の元となりかねない”マイナス情報の流布”を 極度に恐れる傾向がありますからな。 加えてもともと”尻に火が付”かないと動かない国民性もありますし、 とりあえず、米国並の、非常時を想定したマニュアル・体制を整備した上で あとは個々の官吏の危機意識の改革を図るしかないかと。
90 :
名無し三等兵 :01/11/01 00:34 ID:xMcxf/eU
テロ対策法のニュースの後で ♪引っこ抜かれる 戦う 食べられる だけど私たち愛してなんて言わないよ〜 引っこ抜かれる 戦う 食べられる けれど私たちあなたに尽くします〜♪ ってCMソングが流れた。・・・泣けた。
91 :
名無し三等兵 :01/11/01 00:39 ID:aSs+iDXc
前線の泣ける話は多いけど、たとえばノモンハンでアホな作戦を立てて大敗北を 喫した挙句、昇進して太平洋戦争で指揮をとった将校がいたとか。(詳しく知らんけど) これこそ泣ける、と言うか泣くに泣けない。
92 :
名無し三等兵 :01/11/01 00:41 ID:Oo2764/i
俺はラオスで行方不明になったときにゃ大泣きしたもんだよ♪
94 :
名無し三等兵 :01/11/01 01:05 ID:vgzoAGL0
有名な話だけど、米軍の捕虜にご馳走のつもりで牛蒡を出したら戦後 「木の根っこを食わされた捕虜虐待だ」といって裁判にかけられた話 は泣けるなあ。 A級戦犯以外の裁判は結構いいかげんだったらしい。(A級戦犯もか)
95 :
名無し三等兵 :01/11/01 01:10 ID:K035YrXM
もし日本があの戦争についての裁判やったら・・・・・ あの戦争はやむを得なかった。よって全員無罪。
大和が沖縄に向かって夜間航行していると、何も知らない イルカ達が無邪気に寄って来てしばらく一緒に泳いだのを 半ば死を覚悟している見張りの兵隊が見たという話。 情景を思い浮かべて、なんかその無常な感じに泣けました。
>>86 ,89
ええ、あきらめちゃいけませんやね。どんな状況でも文句をいいつづけて
投票にも行って少しでも良くする努力をしないとね。
>>96 ああ、なんていい話なんだ!インディアナポリスの乗組員たちに教えてあげたいくらいだ!
・重巡インディアナポリスはテニアンに原爆を送り届けたあと撃沈された。極秘だったため救助が遅れ、
沈没時に脱出できた900名のうち生存者は300名程度だったとか。あとの600名は鮫に喰われた。
98 :
名無し@神戸在住 :01/11/01 08:29 ID:EljDQfez
>>68 名無し三等兵殿
>>82 海の人殿
情報ありがとうございました。
せめてお名前だけでも、と思って「探偵ナイトスクープ」にでも依頼はがき
だそうかと思っていました。
自衛隊殿撤収の日、王子陸上競技場であったお別れと感謝の式典で、
小さな女の子から花束が手渡されたときは、泣きました。
自衛隊の人がいなくなったらどうなるの?という人もいましたが、
自分は「よし、これからは自分の力で立ち上がるぞ」と決意しました。
アフガニスタンの難民支援も心が通い会うものであれば、良いのですが。
99 :
名無し三等兵 :01/11/01 15:36 ID:Src2qxea
>>94 11 名前:名無し三等兵 投稿日:01/10/02 09:59 ID:ARr0f0qY
日本軍の捕虜収容所で食料が少なかったので、連合軍の捕虜に
収容所長が工夫してごぼうを食事に出して食べさせていたら、
戦後「木の根っこを食べさせた、捕虜虐待だ」
として戦犯で裁かれた。
12 名前:名無し三等兵 投稿日:01/10/02 09:59 ID:ARr0f0qY
>>11 懲役30年の実刑に処せられました。
ちなみに、腰痛に悩むアメリカ人捕虜にお灸治療して直してやったら、
火あぶりにかけて虐待した、として、死刑になったとさ。
376 名前:なるほど 投稿日:01/10/11 21:46 ID:X/WTluJ6
連合軍の裁判で出で来る。
お灸=拷問
これは笹川良一が誤解だと主張して理解されたと言う話しが
ここに出ている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/index.html
このスレ、BGMに加古隆「パリは燃えているか」をかけて読むとたまらん、涙が出てくる。
102 :
名無し三等兵 :01/11/01 18:27 ID:n90Kem0m
103 :
94 :01/11/01 19:28 ID:3HVPax33
104 :
猛牛フェルナンドス :01/11/01 19:30 ID:Gb+LoDVn
少々趣旨と違うかもしれんが・・・・。 歴戦の名艦「雪風」の錨と舵輪が、日本に返還されてきたのは昭和四十六年十二月八日、 場所は横須賀市の海上自衛隊横須賀地方総監部である。 ******(中略)*************** 会場の地方総監部グラウンドに運び込まれた「雪風」の錨と舵を見て、 「こんな姿になってしまったのか」 「あの雄艦が、これだけになってしまったのか」 と「雪風」会員たちは泣いた。 あらためて流れた「雪風」の追悼の涙であり、いまは亡き、 十六駆逐隊、十七駆逐隊の戦友を葬う涙であった。 光人社刊 “「雪風ハ沈マズ」” 豊田穣 著 より 個人的にこういう“男泣き系”はツボにはまる物で・・・・・。
105 :
90 :01/11/01 23:34 ID:aN0MQ1Hu
>100、>102 同意サンクス。ブッシュと小泉の映像にこの曲かぶせるとなぁ・・・泣けるなぁ・・・。
106 :
名無し三等兵 :01/11/02 03:46 ID:d54uH9aQ
一風変ってるけど苦労したということで自衛隊板からコピペ
-----
昔、新聞(読売か朝雲)の投書欄に載ったことあるよ。垢教師の生徒イジメ話。
内容は、中学校の垢教師に、父親が陸自の女生徒が授業中に「オマエの父親は
人殺しだ」と言い続けられノイローゼになってしまい、イジメが父親に知れ
た。しかし、当時の自衛隊に冷たい風潮やら何やらで泣き寝入り状態だった
が、酒の席でつい部下に愚痴をこぼしてしまった。で、この人は中隊長でかな
りイイ人だったらしく、話を聞いた中隊全員が激怒。連名で県の教育委員会に
抗議の手紙を送ったそうだ。
結果は県から校長へ指導が入り、驚いた校長が垢教師を強く叱責したところ、
この垢教師はメチャビビッて(そりゃ、自衛官約200人の怒りはヤクザだって
ビビる)女生徒に土下座までして謝罪し、頼みもしないのに卒業するまで放課後に家庭教師まがいの個人授業までした、て話。
-----
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/jsdf/975433458/890
107 :
>5 :01/11/02 04:05 ID:c5KIn3tI
テメェー笑い死ぬとこだったぞ。
>>106 こんな教師までもが「聖職」などと言われている
現状を鑑みると泣けるのう。
109 :
>60 :01/11/02 17:05 ID:bygkbzuW
沖縄県民と太田中将といえば、その息子(養子)で湾岸戦争後の掃海艇派遣 部隊指揮官だった落合海将(退役)は、自衛隊に対して手厳しい沖縄の地連 に赴任したときはたいそう歓迎されてとか。 また、湾岸派遣時の体験を語る講演会で、平和団体の妨害行動が地元の古老 の「彼は太田中将の息子さんだ」という一言によって諫められた、という話 がある。
>109 太田中将の電文を読み直してから見たら ウルウルだよ。
漢(おとこ)だよな…
112 :
名無し三等兵 :01/11/02 22:29 ID:gnLeI15Y
>>6 泣けました。
震災の救助作業等に関わった自衛隊・ボランティアで活動してくださった方
を含むすべての人に心より敬意を表します。
>>112 私も震災の後、雪の東名をバイクで神戸に駆けつけました。
あまりの寒さと除雪剤のせいで高速上でバイクが止まり、高速バスの
バス停で一夜を明かす羽目になりましたが、JAFにレスキューして貰い
近くのバイク屋さんの好意で無料で修理して貰い、無事たどり着くことが
できました。
そしてボランティア団体に合流し、バイクで物資輸送をするぞ!と意気込
んでいたところ、私が担当した物資は全国から集まってきた看護婦さん。
あんなに短期間にあんなにたくさんの看護婦さんとお知り合いになれる
なんて・・・。連絡先聞いて文通したり、近所から来ていた看護婦さんとは
帰った後、デートなんかしたりしました。
震災復興コンサートで嘉門辰夫が歌っていた「ボランティア同士でいちゃ
いちゃしてるんじゃねぇ〜!!」というのは私のことです・・・。
でも下心があってボランティアしに行ったんじゃないからね、それだけは
信じてくれ・・・。
泣けない話なのでsage
>113 俺はなんでかしんないが派遣された教会の跡地で、 ひたすら壊れたカベをツルハシつかってぶっこわしてたよ… あと、ばあさんの話し相手。 うらやましくなんかないぞ(泣
115 :
>98 :01/11/03 00:56 ID:mRveUcyi
『阪神大震災自衛隊は戦えり』松島悠佐 著 1,500円 時事通信社 という本があります。イイ本ですよ。
116 :
名無し三等兵 :01/11/03 02:50 ID:k2t74Rzr
こんな話は反感を買うかも知れぬが、結構好きなので。 ドイツ軍の敗戦も決定的な第二次大戦大戦末期、ソ連軍に包囲されたベルリンの地下壕で ヒットラー;余の死せる後には、ドイツの橋・道路・工場を全て破壊せよ。 デーニッツ元帥;承知いたしました。 で何日か後、帰還したデーニッツはヒットラーに対面 デーニッツ元帥;総統、あの命令は従えませんでした。戦後ドイツ国民が生き残り、再び立ち上がるために、残しておかなくてはいけないと考えたからです。 ヒットラー;(涙を流しながら)君は、立派な人だ。
117 :
名無し三等兵 :01/11/03 08:25 ID:7bdPzvop
「たこちゃん、元気ですか」 「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている 夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ないことです」 「たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力に なれる人になるばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、 お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにしてください。 戦地のお父さんより」 栗林忠道中将が、硫黄島から10歳だった末娘に送った遺書。赴任する日、 門の前で泣いて見送った幼子へ、死地から精一杯の愛情を込めた泣ける手紙だ。
>116 不覚にもいい話だ
デーニッツ元帥ではなくて、軍需大臣のシュペーアだったような・・・
>>119 シュペアーが逆らったのはもう少し前だったような。
別エピソードなんだろうか。
>109 落合海将補は、太田中将の実子で他家に養子に行ったんだよ。
>100でアップした曲が自衛隊板でクソスレ立てに利用されてた。鬱で泣きたくなる。
123 :
>121 :01/11/03 13:35 ID:ZWXdMHP+
校正してて(養子)の位置をコピペしそこなったのを気づいた ので今、訂正しようかなっと思ったら先に指摘されてしまった。 以下訂正させてください。 沖縄県民と太田中将といえば、その息子で湾岸戦争後の掃海艇派遣 部隊指揮官だった落合海将(落合家に養子)は、自衛隊に対して手 厳しい沖縄の地連に赴任したときはたいそう歓迎されてとか。 また、湾岸派遣時の体験を語る講演会で、平和団体の妨害行動が 地元の古老の「彼は太田中将の息子さんだ」という一言によって諫 められた、という話がある。
124 :
ふみ :01/11/03 13:44 ID:J8qapcQj
で、実のお兄さんが日教組のえらい人で「兄弟の深刻な対立」というのを やって「征途」でネタにされていた。
125 :
名無し三等兵 :01/11/03 14:59 ID:lONm1T5p
>124 え? どのネタですか??
お兄さんについては触れられていなかったような気がするがどうよ
127 :
名無し :01/11/03 19:49 ID:EiIw80+1
太田中将の家族については気の毒なことであった。 沖縄県民は政府がやらない以上、援助すべきであった。 もっとも家族の方は辞退されたであろうが。 太田中将の業績と言葉は日本の歴史に永遠に残る。 いま20世紀のイデオロギーが崩壊し、真の民族史が姿をあらわし始めたとき、 沖縄の英雄たちの貢献は歴史に不滅の輝きを増す。
128 :
£@歴史抹消主義 :01/11/03 21:47 ID:NS0n1uu6
「良い月だなあ、艦長、二人で月を賞でなから語ろうか」 「じつにいい月ですね。私は月のとてもよい晩に生まれたそうですが、今日もまた、 いい月の下で、しかもこんな良い死に場所を得て、幸いです」 (ミッドウエーで被弾した「飛龍」艦上での山口司令と加来艦長の会話)
129 :
__ :01/11/03 22:25 ID:OZhqJYTj
124>> 確かうちの近所の公立高校の先生だったはず。 兄弟2人の対照的な生き方を描いたドキュメンタリーを TVで見たことがある。
130 :
名無し三等兵 :01/11/03 22:42 ID:u7cODU1C
靖国神社の軍用犬の慰霊碑も泣ける。徴用された犬達は一匹も帰ってこれなかった んだって・・・
131 :
名無し三等兵 :01/11/03 23:02 ID:21hnEyVu
大田中将のご子息のそれぞれの生き方に関して 部外者があれこれ嘴をはさむなど許されないことです。
132 :
名無し三等兵 :01/11/03 23:18 ID:eNKtMHJp
>131 激しく同意
134 :
兵八 :01/11/04 17:08 ID:w7BT8EM3
<<128の続き 主計長「本艦の金庫にはまだ三万円ほどの現金が残っていますが、いかが致しましょう?」 加来艦長「三途の川を渡るのにカネが要るから、そのままにしておけ・・・・・・」 山口司令官「そうだよ、地獄でたらふく飲むのにもカネが必要だよ・・・・・・」
>>114 __
/__|__
/_了TДT) 泣ける話だゴルァ!!!!
(|〆/|)
/|  ̄ |
∪ ∪
>>38 リーチ艦長の「さようなら。諸君元気で!幸運を祈る!」と笑顔で分かれ
を告げた。これに泣けるものがある。
>>106 自衛隊じゃないが警察関係でも70年代はそういうこと有ったらしいな。
佐々淳之氏の息子さんもそういう目に遭ったそうな。
#佐々氏の場合、その教師を自宅に呼びつけて激論の末に「ならば私
もあなたを免職に追い込むまで徹底的に戦う!」と言ったらとたんに
向こうは泣いて謝ったそうな。
名スレだ。本当に名スレだと思う。ココ(TдT)
137 :
ナナシニコフ47 :01/11/06 01:13 ID:XVLVrnl4
ジャック・ノースロップという男がいた。 全翼機、胴体や尾翼を省いた純粋な「飛行翼」を夢見た彼は 「ノースロップ式全金属製多桁式応力外皮構造」を発表、 全身全霊をかけて全翼式爆撃機を世に送り出そうとした。 しかし、彼の夢はあまりに斬新過ぎた。 XB-35はライバル機B-36との競作に敗北。 起死回生を狙ったジェット爆撃機YB-49は朝鮮戦争の勃発によりキャンセル。 ジャックは失意のままノースロップ社を去り、航空業界から引退した。 それから25年。パーキンソン病で余命いくばくも無い彼のもとに ノースロップ社からの招待状が届いた。 不審に思いつつノ社に赴いた彼に、あるものが手渡されました。 それは、模型。当時ノ社が極秘裏に開発を進めていたステルス全翼爆撃機、 エンジンナセルも垂直翼も無い、純粋な全翼機、B-2の模型でした。 彼は涙を流しながら『神がなぜ私に25年の余命を与えたもうたのか、今わかった』と 呟いたそうです。 ♪語り継ぐ〜人もなく〜吹きすさぶ〜風の中へ〜 紛〜れ散らばる星の名は〜忘れられーて〜も〜 BGM:ヘッドライト・テールライト(中島みゆき)
138 :
名無し三等兵 :01/11/06 01:51 ID:1anXDPvG
>>137 最後のセリフに泣けた。
氏は実機の飛行を見れたんでしょうかね?
139 :
名無し三等兵 :01/11/06 02:19 ID:U2ak/qMq
>>124 立場は違えど別に兄弟の仲が悪いという事はないと思います。
田村洋三氏の著書「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の中に、
「ペルシャ湾派遣の時に私の身を一番案じてくれたのは兄でした」
という趣旨の落合氏の発言があったような……。
140 :
あー腹立つ :01/11/06 03:04 ID:Un9ZYPfa
>>6 この話社民党のHPに書き込んだら消されたとのこと。
別に自衛隊賛美しろとは言わんが・・・T-T
141 :
名無し三等兵 :01/11/06 03:32 ID:R8q6DWJr
>>139 落合氏は征途では主人公の進の友人として登場、文中では二人の相似点を
説明するくだりで「深刻な対立に陥ったこともあった」と表現。(進の兄、
守は分断国家日本の一方の空軍の長であり進の長男、拓馬の戦死の「公式
な」責任者。甥の仕組まれた戦死がなければ弟のいる日本に亡命するはず
であった)
日教組うんぬんの出所は、当時の読売新聞の夕刊一面に掲載された「ペル
シャ湾で掃海作業に従事する派遣部隊指揮官へのインタビュー」記事中の
ことで、小説内には兄上の御職業への言及はない。
142 :
海の人 :01/11/06 10:10 ID:MqeRAmwp
>140 2chで出回っているせいで、作り話と判断されちゃったんじゃないでしょかね。
>142 それも理由でしょうけど、何より自衛隊の出動を遅らせたのは 当時の社会党・村山政権であるというのが最大の理由ではないかと。
144 :
海の人 :01/11/06 14:54 ID:MqeRAmwp
>143 ありゃ、そうすると社会党がわに後ろめたい気持ちはあるということなのかなぁ。 てっきり、やつらこれっぽっちも悪いとは思ってないもんだと思ってました^_^;
>144 中傷誹謗だとしか思ってないでしょ、連中は。
1943年3月3日の八十一号作戦における駆逐艦「朝潮」座乗第7駆逐隊司令 佐藤康夫大佐の話かな・・・。個人的に泣けたのは。 出撃前に旧知の仲だった運送艦「野島」の艦長が 「足の遅い『野島』はきっと敵にやられてしまうだろうから骨だけは拾っ てください」と言ったのに対して 「いや、『朝潮』が護衛している限り見殺しにはしない。必ず助けに行く」 と佐藤大佐は約束した。 そしてダンピール海峡にて輸送船団は文字通り全滅。護衛の駆逐艦も「白雪」 (3水戦旗艦)「荒潮」「時津風」を失い3水戦司令部は残存各艦への北方へ の退避を命じる中、 「ワレ『野島』艦長トノ約束アリ。『野島』救援ノ後ニ避退ス」と信号する と「野島」の方に向かい、ただ1隻敢然と「野島」や僚艦「荒潮」等の漂流者 を救助の後、4隻の後を追い北方に避退するも敵の追撃を受け「朝潮」は沈没。 このとき「朝潮」「荒潮」両艦長は戦死するも生き残った佐藤大佐は部下の懇 願を断り一人艦に従容として艦と運命を共にした・・・。
147 :
トミドン :01/11/06 21:00 ID:ZnsE9Vrh
土浦の予科練での俺の親父の話 上期生が「これは天皇陛下の命令だ」と不当な命令した事に反発し、 「天皇がそんな馬鹿な事言う訳ない!!」と反論した。 しかし、天皇を馬鹿呼ばわりしたと噂をたてられ、 不敬罪として銃殺刑という事になった。 同郷の中尉が目隠しされた親父に近づいて 「本当に天皇陛下を馬鹿と言ったか?!」と聞いてきた。 「自分は馬鹿とは言っておりません!!」と親父は言ったそうだ。 「しばく待っていろ!!上官と掛け合ってくる」と中尉が言い、 戻ってきて「いいか!空に撃つ!!銃声がしたら倒れろ」と言う。 生きた心地のしない中、中尉のいう通りに銃声を合図に倒れた。 目隠しを取られまわりを見ると上官達が全員集まっていた。 そしてテーブルに白い布を掛け、水杯が置かれ、 今日から特攻隊員だと言われ全員から敬礼を受けたそうだ。
149 :
名無し三等兵 :01/11/06 21:18 ID:v82rENuR
>>147 間違ってたら申し訳ないですが、
軍法会議って軍法に違反した兵隊を裁くのでは?
不敬罪は普通の法律だからその場合は裁判所なのでは?
不敬罪で銃殺ってあるのでしょうか?
どこに軍法会議の文字が?
>>143 ただね、責任をもっぱら村山社会党におっかぶせてとぼけている兵庫県知事の責任は、
より重大だと思うんだよね。
たしか、自衛隊の災害出動の要請は都道府県知事の権限のはずだから。
152 :
149 :01/11/06 21:25 ID:v82rENuR
>>150 すまん
全然見当違いのレスだったかな
銃殺って軍法会議以外はないと思ったのだけど
あの頃は普通の死刑でもあったのかな。
>152 それを「はぐらかし」という。 そう言われたくなくば一般犯:銃殺刑に拘らぬこと。
154 :
名無し三等兵 :01/11/06 21:34 ID:slL73HUO
貝原知事は自民党も相乗りして推してたからな。 ところで、村山内閣の国土庁長官はどこの政党のだれだったけ?
>149 もちろんない。あなたが正しい。新旧共に刑法では絞首刑以外の処刑は 採用されていない。彼は単なる掲示板荒らしだ。 おそらく時々出てくるゲーム好きの女言葉の荒らしと同様、 知性と良心がないだけだ。気にする必要はない。
156 :
トミドン :01/11/06 21:54 ID:ZnsE9Vrh
>155 俺は予科練での親父の話を書いただけなのに(^^;;
50も過ぎた年輩の方がジオシティの捨てメアド使うとは…。 悪いが事実とは到底思えません。
荒らして申し訳ありませんでした。
トミドンさんには別に悪気は無いんじゃない? 多分、どっかで話が勘違いされるか、歪んで伝わっただけだと思うけど。 親父さんの話っていっても、本人じゃなくて伝聞でしょ?
160 :
トミドン :01/11/06 22:12 ID:ZnsE9Vrh
>157 わたしゃ、37歳ですが!?(^^;; そのメルアドも普段使っておりますが??
そうですか。年齢はともかく、信用はしません。 「坂井三郎最後の出撃」なんてスレがあるここで、 嘘だ本当だといっても野暮なだけですが、まあ、ね。
>>137 プロジェクトXの国内ネタが切れたら是非見たい。
163 :
トミドン :01/11/06 22:33 ID:ZnsE9Vrh
>159 歪んで伝わったのは否めないですけど、、(笑) なんせ婆さんの話では親父が終戦で戻ってきてからは 頭がおかしくなっていて3年間精神病院に入っていたと言っていたので、、(笑) >161 では、 「復刻★信じられないが、本当だ。 Part2」 にでも書けばかったですかね? でも、うちの親父はその中尉には 今でも感謝してるそうですよ。
164 :
荒らし :01/11/06 22:37 ID:Gk7WC95X
>163 「信じられない」という意見だけでもないことをお忘れなく。 #歪んで伝わってる(というか歪んで解してるのでは?)という指摘をしたかった としても文章が拙いと荒らし認定される場所ですからしょうがないです。
お話の内容はあまりにも 日本離れしすぎています。その程度でごまかせるようなら 軍法会議はいりません。
166 :
荒らし :01/11/06 22:47 ID:Gk7WC95X
トミドン氏が「そう聞いた話」まで疑う気にはなれませんな。 もちろん、人それぞれですが。 彼の親父さんが彼にそういう話をした、ということを俺は信じる。
楽しいホラだったのに、変なところでけちが付きましたな。 まあ、ホラはホラスレで吹いた方が馬鹿なツッコミも入らないでしょうけどね。
168 :
名無し三等兵 :01/11/06 23:00 ID:bCLCq9gm
日清戦争のラッパ卒はがいしゅつでしょうか? キグチコヘイハ シンデモ ラッパヲ ハナシマセンデシタ 銃弾が喉を貫いてもラッパを吹き続け、絶命した兵卒の話です 何でも2人似たような境遇の兵卒がいたそうで、戦後ちょっと揉めたそうです 吉村昭の本に出ていましたが、ラストの老人の話がぐっと来ます 「勇敢なラッパ卒が2人いたんでしょう。それでいいじゃないですか」と
169 :
:01/11/06 23:55 ID:vThYv9NQ
それで(・∀・)イイ!
>151 そうですね。救出活動に明け暮れる住民に対して 「飯ぐらい自分で炊け!」って放言した奴ですもんね。
171 :
名無し三等兵 :01/11/07 00:18 ID:oVRWEY6I
>>168 水さして悪いが、その話はこういう顛末だったと聞いたことがある。
曰く、確かに「死んでもラッパを離さなかった兵隊」はいたそうだ。但し、
その兵隊は有名な木口小平ではなくて、別のラッパ手だった。
しかし、小平(同じく戦死している)の家の方が名家ないし金持ちだったため、
いつの間にかすり替えられ、戦前の修身の教科書には木口小平の美談と
なったそうだ。
これも別の意味で泣ける話だ。
>>138 ジャック・ノースロップは1981年2月に亡くなってます。残念ですが、
B-2の初飛行を見ることは叶わなかったみたいです。
彼のスピリットたちが飛ぶ姿を天国のノースロップが眺めているといいですね。
二次大戦初期に祖国を失ったポーランド人パイロット達は、フランスへ逃れそこで 戦い、フランスが敗れると、イギリスに渡り戦い続けました。 しかし、戦争の趨勢が見える頃になると、祖国ポーランドはソ連に『解放』され、 その影響下に置かれようとしている事を薄々と感じるようになっていました。 そんな中、英国空軍で活躍したポーランド人エース、ニウゲニウッシュ・ホルバ チェフスキが、1944年8月18日に戦死する直前に同じ部隊のパイロットに語った言 葉。 「我々がここで用済みになったあとは、君らが来て、私の国のために戦って欲しい ーー私の国は自由を得られないかもしれない」
174 :
£@歴史抹消主義 :01/11/07 20:44 ID:Lb7Jo5hi
「いまどき、誰が関心をもつかね? ずいぶん昔の話だ……」 アメリカ第56戦闘航空軍に所属したポーランド人エース ボレスワフ・グワディッ ホ 戦争終結から数十年後、戦時中の体験を聞かれて
175 :
£@歴史抹消主義 :01/11/07 21:02 ID:Lb7Jo5hi
>>134 兵八さま
補足ありがとうございます。
しかし、二人が良い感じで盛りあがってる時に、そんな事を聞いてくる主計長も
なんだかな…… って感じですけどね(^^;
176 :
名無し三等兵 :01/11/07 22:29 ID:+8piRd3/
艦の金庫を預かる主計長の立場としては当然のことでしょう。
177 :
名無し三等兵 :01/11/07 22:37 ID:3oUkuivf
むしろ最後まで己の職責を全うしたといえるかと
178 :
£@歴史抹消主義 :01/11/07 22:40 ID:AVoupluA
>>176 さま
>>177 さま
なるほど! そ〜とも言えますよね。
うむむ、少し思慮が足りませんでしたね。
179 :
名無し三等兵 :01/11/07 23:29 ID:BS5m2plA
ノースロップ氏の話、イイね。 age。
180 :
名無し三等兵 :01/11/07 23:50 ID:o+ZoDj0X
>>168 吉村昭氏の、どの著作かおわかりになりますか?
できれば御教授願います。
最近、氏の著作にはまってるもので(^^ゞ
泣けるかどうかわからんが、有名ないい話の一つに特殊潜行艇シドニー港攻撃 にまつわる話もあるんじゃないか、と。 1942年の5月31日から6月1日にかけて行われた特殊潜行艇のシドニー港潜入攻 撃作戦の折り、出撃した3艇のうち2艇は防潜網にかかり自爆、もう1艇は敵の 猛攻撃の前に湾内奥に追いつめられ自爆。乗員4名は戦死した(もう1艇は湾か らの脱出には成功したがその後行方不明)。 豪海軍は自爆した2艇を引き揚げ遺体を収容。特殊潜行艇隊の勇猛果敢な戦い ぶりにいたく感銘を受けた豪海軍は4名の海軍葬を執行。弔銃斉射も行うとい う敵国軍人に対して異例なまでの丁寧さであり、遺骨は交換船で日本に返還 された。 戦場といえでも憎しみばかりがあるんじゃない、ってことで。
>181 当然ながら反対の声もあったのを、海軍側が押し切ったそ うですね。 しかし、そのときの豪海軍提督の言葉 「彼らのような、決死の覚悟という最高の勇気を示した勇 士に対しては、最良の兵器を与えて報いるべきではないだ ろうか。 私なら、平和時波穏やかなシドニー港ででも、あれで横断 しろと言われたら断る」 (正確には覚えていないが) には、別の意味で泣ける。 前線で戦う将兵には、最良の武器、最良の作戦をもって報 いるというのは、軍幹部の最低限の責任なんだろうに、そ れを敵軍に指摘されてしまうとは…。
>>181 >>182 479 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/18(金) 02:09
*靖国神社ウェブサイトよりコピペ(長いので分割します)
松尾敬宇海軍中佐 熊本県出身 海軍兵学校第66期
昭和17年5月31日歿、満24歳
憂国の烈士・三島由紀夫は『行動学入門』の中に、“行動の美の典型”として
「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、
月の明るい夜のことであったがハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこから現れ、日本刀を
振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が伝えられているが、このような場合に
その行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが
完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にも
そう何度となくあらわれるものではない」
と記した。
この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(当時大尉)その人なのである。
中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、遠くシドニー港の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。
184 :
コピペ2 :01/11/09 15:31 ID:nJx5laMJ
480 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/18(金) 02:10 <続き> 中佐は壮途につく直前(昭和17年3月29日)、両親と兄姉を呉(広島県)に招き 一夕を共にすごす。この時、父から贈られたのが前記の『行動学入門』に 「日本刀をふりかざし‥‥‥」と記された伝家の菊池千本槍(短刀に柄のついたもの)である。 その夜、中佐は「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床に就く。 二十四年育て上げ、唯一筋に国に捧げまつろうとする吾が子の肌の温もりに、 今宵が最後の夜を予感、春寒を遮るようにその五体をわが胸に引き寄せる母であった。 昭和17年6月5日の大本営発表によれば 「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、5月31日夜、濠州東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、 湾内突入ニ成功、敵軍艦一雙ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル我特殊潜航艇中三雙未ダ帰還セズ」と。
185 :
コピペ3 :01/11/09 15:33 ID:nJx5laMJ
481 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/18(金) 02:11 <続き> この大胆不敵な作戦は濠州の人々の心胆を寒からしめたが、 日本海軍軍人の忠勇武烈に深く感銘した濠州海軍は 6月4日、松尾艇、翌5日に中馬艇(海軍中佐中馬兼四)を 引き揚げると共に、艇内から収容した四勇士を6月9日、 海軍葬の礼を以って弔ってくれた。 この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、 シドニー地区海軍司令官ムアーヘッド・グールド少将は 『勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示された勇気は、 誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである。 これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。 これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか』 と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのである。 戦後、濠州海軍は松尾艇、中島艇を切半して一艇とし、首都キャンベラの オーストラリア連邦戦争記念館に安置、御遺品と共に丁重に展示している。 「この勇気を見よ!」と説明が特筆大書され、内外の参観者に大きな感銘を与えているとのことである。
186 :
コピペ4 :01/11/09 15:34 ID:nJx5laMJ
482 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/18(金) 02:12 <続き> 昭和43年4月、中佐の母堂は濠州へ答礼感謝の旅に出る。 83歳の老母は「訪豪に当たりて」の一文を草した。 『昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました 松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかわらず、 世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、 その上遺骨は日章旗で覆い、丁重に遺族へ届けていただいて、 10月9日、鎌倉丸(戦時交換船)横浜に着くや全国民の感激は とても言葉に尽くせませんでした。(中略) ただ貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日は 遥かに貴国を拝し、感謝合掌しておりました。この度はからずも、 松本先生(地質学の泰斗松本唯一博士)始め多くの方々の 御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、 こよなき喜び、かつ光栄に存じます。』 とつ国のあつき情けにこたえばやと老いを忘れて勇み旅立つ 母堂まつ枝刀自は会う人の全てを魅了する玲瓏玉の如きお人柄で、 その上、素晴しい歌人でもあった。 訪豪の十日間、“勇士の母”として濠州は海軍をはじめ朝野を挙げて、 あたかも国賓を迎えるごとく歓迎した。
187 :
コピペ5 :01/11/09 15:38 ID:nJx5laMJ
483 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/18(金) 02:12 <続き> 一行は中佐ゆかりの戦跡を巡るが、狭い湾口を見詰めた母堂は 「よくもこんな狭いところを‥‥‥母は心から誉めてあげますよ」とつぶやき、 湾内では戦死した6名の勇士の名を心に叫びながら、故郷の押し花、色紙と日本酒を海にまいた。 湾内を見下す断崖からは、中佐の許嫁だった女性から託された和歌二首を記した紙片を海に投じた。 その人の真情が母堂の手で手向けられたのである。中佐への何よりの供養であったろう。 連邦戦争記念館では、中佐の御遺品の数々に涙を注ぎ、愛艇を撫でさすり、 菊池神社の神酒と花輪を供えた母堂は、 愛艇を撫でつつおもふ呉の宿名残りおしみしかの夜のこと と、吾子に添い寝をした最後の夜を回想する。そして館長からは、中佐が最後まで締めていた 血染めの千人針などの御遺品が返却された。 一行の行く先々に大勢の記者が待ち構えていて、新聞は母堂の各地での写真と詠歌を トップ記事で競って報道したため、濠州国民を感動の渦に巻き込んだ。 昭和55年(1980)1月24日、母堂は95歳の一生を終えた。27日の葬儀には、 中佐の忠烈を讃え、母堂を慕う400余人が辺鄙(へんぴ)もいとわず全国から参列。 オーストラリア大使館からの弔電をはじめ、霊前には数々の弔辞が述べられ、 詩吟、和歌などが献詠されて、葬儀は3時間に及んだという。(おわり)
188 :
タタタタ・アテヨイカヌ :01/11/09 19:21 ID:DEm26vvh
二十歳でヨーロッパに旅をした時の実話をいっちょう。 ルフトハンザの国内線に乗りフランクフルト上空にいたとき、 隣に座っていたアメリカ人のじい様に話しかけられた。 仕事か旅行か、日本はいい国だ、とか世間話をしたとき、 「私は昔、ここの空を飛んだことがある」とじい様がポツリと言うので、 俺が、あなたは飛行機を操縦できるのかと聞いた。実はじい様は、 戦争のとき爆撃機のクルーで、フランクフルトを爆撃しに来たことがあるそうな。 それを話したことでじい様は何を思い出したかしょんぼりして、 「平和は一番大事なことだ。日本人の君は、それがわかるだろう」と言った。 俺はただうなずいたが、若いのもあって、 消沈したじい様が隣に座ってるのがやだなあなんて思ってしまった。 そこでじい様、雲海を見ながら一言。 「きっと天国ではアメリカもイギリスも日本もドイツも、みんな仲良く飛んでいるよ」 今思い出すとほろっと来るエピソード。 じい様にはあの雲海の中に、たくさんの国の飛行機が仲良く飛んでいるのを想像したのでしょう。 俺はそれ以来「メンフィス・ベル」を観るといつも少し、泣きます。
>>182 この頃の甲標的は自己充電能力を欠いたが故にそれまで出撃した艇のすべて
が未帰還になってしまったというのが真相のようです。ソロモン戦では艇は
放棄し乗員は脱出という例が多くなってます。
とはいえ、当時の日本には敵湾内に潜入し、攻撃するにはそれくらいしか手
段がなかったわけで、決してベストではない(というより欠陥品)兵器で出
撃し、果敢に戦った彼らの姿勢は文句なく立派です。
ちなみに後期型の甲標的は自己充電機能がついて局地防衛用としては有効だ
ったとか。
それと書き忘れてたけど、母潜群は6月3日まで潜航艇の帰還を待っていた
そうです。
>>183-
>>187 詳細サンクスです。真に勇気ある行動はたとえ相手が何者であったとして
も賞賛されるべきものである、
母君も立派というか健気というか・・・。うむ、これ以上は何も言わない
でおこう。本当に泣ける。戦争は狂気ばかりが支配する世界ではない、と
いうことで。
>>188 経験者にしか言えない重みある一言だな・・・。空のかけら達は天の国の蒼
穹の中を優雅に舞う。戦うためではなく・・・か。
名スレだ。ageだ
今年の夏、パリに行った時のこと。 あいにく直行便ではなく、ウィーン経由の便だった。ウィーン離陸後、 窓から眼下を見下ろしていると大きな町が見えた。フランクフルトだった。 フランクフルト通過後は、長閑な田園風景が延々と続いたが、50数年前、 この空で起こったことを想像して、ため息が出たよ。
191 :
名無し三等兵 :01/11/10 00:23 ID:3ZONgXv9
先日ひさしぶりに東京の街を歩いた。 半世紀前にここが焦土と化したこと思うと 地べたにさわりこんでる若者どもをアフガニスタンに送りたくなったよ。
戦時中、実際に南方に渡った方々は、今の堕落しきった若者をみて何を考えるのだろう・・・・
193 :
名無し三等兵 :01/11/10 21:37 ID:vpLHdEYw
あんまりそういう若者批判みたいなのは・・・。 うーん、子孫が平和を享楽してるのをうれしく思ってんじゃないかな。なんつーか、うまくいえないけどさ。
「先達の贈り物の上で生かされている自分というものをわきまえな い生き物は、自分がどう思っていようとも、ナメクジより哀れな生 き物です。」 第一次大戦前に生まれ、第二次大戦に従軍した某英国人が、童話に 書いたウサギの言葉。 …敗戦国でこれを言うと辛いんだがな。まあ何にもしないで経済 大国になったわけでもないし。
195 :
:01/11/10 22:08 ID:21fvYAxu
何度読んでもシドニー特殊潜航艇の話しは泣ける。
196 :
名無し三等兵 :01/11/10 22:18 ID:2GPY1vDJ
「さよならジュピター」を期待で胸ふくらませ、友人たちと連れ立って見にいった晩のこと。 本邦SF映画の未来を想って、泣けて泣けてしかたありませんでした。 拭っても拭っても涙がこぼれて止まりませんでした
>196 分かる。あなたの気持ちは俺もよーく分かるが、ここでその話はやめようや。 なんかとても悲しいよ。グスン
198 :
194 :01/11/10 22:29 ID:y+F+UAzt
事故レス ×第一次大戦前に生まれ ○第一次大戦後に生まれ いくらなんでも老兵だ…
199 :
名無し三等兵 :01/11/11 01:44 ID:bXaMczTN
>>193 おっしゃりたい事はよくわかります。
多分のほほんと暮らしている我々を見て、英霊達は微笑んでいらっしゃると思っています
以前、うちのじーさんが言ってた。 学徒動員で戦争行って、右手の指なくして帰ってきたじいさんなんだけど。 「俺が若い頃は何も好きなことできなかったから、お前はなんでも好きなことやりなさい」 って。漏れが大学中退したときもなんも責めもせずにいてくれたのはじいさまだけだった。 今度墓参りに行くぜ。じいさま。
201 :
名無し三等兵 :01/11/11 11:17 ID:aBRyASux
>200 ほろ、いいじいさまだ。
202 :
:01/11/11 14:36 ID:ApKsG2eO
歴史群像の今号、駆逐艦「神風」の話が出ているけどなかなか良かった。 米潜からの奇跡の回避運動と、その後の日米の艦長同士の交流。 「あの時の戦闘の詳細を知りたいので、そちらの情報を送ってくれないか」 と、殺しあった相手に送ってくる辺り、アメリカは凄いなあと正直に思ったよ。
今の日本を考え、自分のすべき事をきちんとする。 先人のことを考えることは大切なことではあるが、 考えすぎてしまってはいけないと思う。自分の生きた 結果をあの世で評価してもらうぐらいに考えないと。 英霊達が日本の礎になってくれたことは揺るぎ難い 事実であるが、それだけに縛られてはいけないと思う。 そんな事では英霊たちも死んでも死に切れないだろう。
204 :
名無し三等兵 :01/11/12 11:54 ID:2II7Psdl
>173 ポーランド絡みで。 リシャルト・ククリンスキ元ポーランド軍陸軍大佐の話。彼は1972年から米国に 亡命する81年まで、米中央情報局(CIA)のスパイとして活動した。その彼がア メリカに帰化したときの言葉。 「私はアメリカ合衆国への忠誠を誓います。しかし同時に私の心も肉体も永遠に ポーランド人であることは、お許しを願いたい」。 そのククリンスキー氏はポーランドに民主政権が誕生した後初の選挙が行われた 際、アメリカのポーランド大使館に突如として現れて、自分のポーランド軍時代の 身分証明書をしめして「ポーランドの市民として投票に来ました」と言ったそうだ。 しかし、大使館員は彼が本国で死刑宣告を受けていることを知っていたので「残 念ながら貴方には投票の権利はありません」と。そう告げられ、ポーランド領事館 を退出したククリンスキーは大使館前で涙を流したと言う。 彼は祖国を愛するがゆえに、その祖国がソ連(共産党)によって支配されるのが 許せなかった。それがゆえに「裏切り者=スパイ」に身をやつし、祖国のために 戦ったんでせう。ちなみに現在彼は名誉回復措置がとられています。
205 :
名無し三等兵 :01/11/12 12:49 ID:qMEVuZUe
樺太電信局の乙女
206 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:44 ID:K50AmoSA
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
ド人がいたといわれる。
その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
て、「ポーランド救済委員会」が組織された。
しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請すると
を決定した。
207 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:46 ID:K50AmoSA
(206の続き) 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日 し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請 した。 女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え れば、驚くべき即断であった。 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、 決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年 7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来 日した。 合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療 や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児 たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと 考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。
208 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:49 ID:K50AmoSA
(207の続き) 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を 受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし て以下を挙げている。 ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯 消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入 れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人 の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま って悔しかったこと、、、 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同 情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音 楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に 招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を 絶たなかった。 腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若 い看護婦は、病の伝染から殉職している。 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾 度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。
209 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:51 ID:K50AmoSA
(208の続き) このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも 哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り 戻した。 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人 々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親 身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗 船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを 表した。 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念 の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈 りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの 頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。 その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。
210 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:52 ID:K50AmoSA
(209の続き) こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、 シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと いう。 極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問 した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒 野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された 時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺 理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐 在代理公使となっていたのである。 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な 交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全 館員が出席して応援し、また資金援助もした。
211 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:55 ID:K50AmoSA
(210の続き) 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、 イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運 動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ 部隊と愛称された。 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤 児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加 し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、 イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数 のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院 は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を 兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを 大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま した」といって直ちに引き上げた。 当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日 本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、 この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく 庇護したのである。
213 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:57 ID:K50AmoSA
(212の続き) 95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に 招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激 しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ いた。 私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢 でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。し かしもうそれは叶えられません。 しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、 這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小 さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に 私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す ことはありません。 と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日 本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ あった。
214 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 16:00 ID:K50AmoSA
(213の続き) シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹 介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。 そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、 「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題 した礼状の中で次のように述べている。 日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に 存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児 童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく れた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘 れることはない。・・・ われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福 な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自 分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、 髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一 度や二度ではない。しばしばあった。・・・ ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告 げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい る。・・・ ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、 最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持 っていることを伝えしたい。
215 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 16:03 ID:K50AmoSA
(214の続き) 「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震 災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに 招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。 世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男 の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は 不憫で涙が止まらなかった、という。 震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤 児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、 「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救 済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。 4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人 一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年 前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返 しをしたのである。 (おしまい)
216 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 16:10 ID:K50AmoSA
え〜、長々とコピペしてすみませんでした。 以上はハングル板から拾ってきたのですが、もし かしたら他板では既出しれません。
ああ、日本語がヘン・・・。
>>216 ×既出しれません。
○既出かもしれません。
218 :
名無し三等兵 :01/11/12 17:34 ID:Yqr1nXYp
>>216 いや、とても(・∀・)イイ!!よ。泣いたよ…。
219 :
>>216 :01/11/12 18:03 ID:3mQTwfba
>>219 ハン板に、コピペされていたということもあるから。
>>219 スンマセン。
HP貼っておくだけでよかったかな・・・。
223 :
あー :01/11/12 19:12 ID:3mQTwfba
ごめん>>いまちゃん スレの最後しかみなかった(藁
224 :
名無し三等兵 :01/11/12 19:12 ID:Q1n4k4fX
ウム感動を堪能した、今時珍しい経験だ。とくに2ch軍事板では。
226 :
名無し三等兵 :01/11/12 20:04 ID:zIurqvQ9
あそこのページはそういった話の宝庫ですよ
これを見た後厨房板に逝ったらキレそうになりました(藁
>>206 ええ話とページを紹介してくれてありがとう。
229 :
名無し三等兵 :01/11/13 03:40 ID:EXDc8cr8
むっちゃええはなしやん・・・泣きました。
230 :
U-名無しさん :01/11/13 17:57 ID:Mv1lWZSN
2002年のワールドカップ、ポーランド来るんよ。 スロヴェニアとかチェコは元々応援する気でいたけど(来れればの話)、ポーランドも応援しようかな。
231 :
名無し三等兵 :01/11/13 18:07 ID:6dGG0XkR
水を差すように東欧ジョークをひとつ。 「ポーランドは、世界で一番広い国だ。 その領土はヨーロッパに、 その首都はモスクワに、 そしてその国民はシベリアにいる」 失礼しました。
>231 泣けないけど、シニカルで良し!
233 :
名無し三等兵 :01/11/13 23:54 ID:Kp9a52cT
>216 泣いた。 いい話だ。 こういう話を読むと帝國時代の日本て捨てたものじゃないとおもう。 ユダヤ人救済といい、アメリカへの最後通告のおくれはあるが、 旧外務省やるときゃやるじゃないか! 親ポーランド人ここに誕生。
>>233 あのー。ユダヤ人救済は杉原千畝の独断ですよ。
杉原の「ビザ出していいですかね?」って電報に
「正規の手続きができない者にビザを出してはいけない」って返電したのが外務省です。
杉原は人として正しい選択をしましたが、彼が日本に帰国した後、外務省は彼を解職しました。
ええい、善意の行いを非とするような人非人の集まりなんぞ氏んでしまえっ。
(きっとこの体質は今でもずっと変わってないんだろうな…)
杉原が解職されたのは、被占領国となった日本に大掛かりな 外務省が必要無くなったからリストラがあって、単にその対象になっただけ、 という話を聞いた記憶があるが、どうなんだろう。
236 :
£@歴史抹消主義 :01/11/14 06:40 ID:4Cge+w70
>>235 さま
>杉原はリストラ
ん〜 こんな話があります。
杉原が戦後帰国してから暫くの間、外務省省内へ出勤していると、省内で「杉原
はユダヤ人を助けて、かなりの額のお金を貰った」と云うデマが流がれていたそ〜
です。 で、解雇する時も、事務次官だかなんだかが杉原を呼び「もう庇えきれな
くなっちゃったんだ」と云う事で、暗に辞表を出すよ〜にほのめかしたんだとか。
基本的に外務省的には杉原は本省の意向を無視した裏切り者だったようです。で
なければ、90年代に入ってから『杉原の名誉回復』な〜んて事されませんわな。
んでもって当時の事務次官様は「官僚の無謬性を堅持すべきだ!」って事で猛反
対だったとか……
外務省って、外務省って……
237 :
£@歴史抹消主義 :01/11/14 06:45 ID:4Cge+w70
自分に追加! 杉原はノンキャリなんで、大量リストラの対象者になった ってのも 本当だと思う。 ノンキャリで、裏切り者だったから、解雇リストのかなり上位に居た んじゃないかな?
238 :
名無し三等兵 :01/11/14 06:50 ID:mQbC+uOT
>>236 ×「官僚の無謬性を堅持すべきだ!」
○「官僚は無責任を堅持すべきだ!」
チャンチャン
官僚制の離れ小島。 今頃になって立て続けに捕まっているのも、 一般省庁と自分の所は違う、と思って甘く見ていた 結果ではないかな。 大蔵(財務ってか)省あたりが数年前にぶったたか れているのを見ても、なんとも思わなかったんでし ょう。最初から誰も、官僚が無謬だ、なんて思ってないん だけど、例えば外交上の失策があったとして「間違 えてました」と認めても相手国が同意しなきゃ意味 がない。賠償しない限り損害も帳消しには出来ない。 だから、間違っていても無効には出来ないだろう。 とはいえ、それは無謬とは違うはずなんだが。
あ、今の外務省は外交官試験がないから普通の お役所と一緒ね。でも大半の役人は旧制度の出 身だし、どっちみち役人には変わりないな。
241 :
£@歴史抹消主義 :01/11/14 07:10 ID:SScZ7P77
242 :
238 :01/11/14 07:35 ID:77xL8uj3
頼む!! 俺のレスがいくらつまらんネタだったからって わび入れるのだけは勘弁してくれ!! 泣けてくる!!
243 :
名無し三等兵 :01/11/14 15:17 ID:aVk/mFlr
他に良いお話はありませんか?アゲ
ただね、杉原ビザもらってシベリア経由で日本にきたユダヤ人、
日本にちゃんと入国してるんだよね。
まあ官僚の掟の落とし前はともかくとして、
杉原の不十分な手続きで逃れてきたユダヤ人を受け入れた日本政府、
ていうのもまた見落とさないでほしいな。
ユダヤ人、戦中も厳重監視のもとにおかれたとはいえ、
強制収容もされなきゃ国外退去もさせられていないらしいし。
それとね、最近の
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/sugihara/tiune2.htm というような本もあるけど
(個人的にはやたらに世界だの松岡だのが担いでいる本だから何ともいえないんだが)
>たまたま図書館で手にした The Holocaust Oral History Project & The Unlikely Liberators Project 編
>『意外な解放者』(情報センター出版局、1995) の、
>杉原問題研究の第一人者と言われる篠輝久氏による解説の中に、次の一節を見つけることができました。
>
>「外務省は彼の退職について、
> 『一九四六年から一九四七年にかけて行なわれた<行政整理及び、臨時職員令>に基づく機構の縮小の結果
> であり、杉原氏だけでなく当時の外務省職員の三分の一が退職した』と説明している。
>「また、その言葉を裏づけるように、杉原氏は一九四四年にルーマニア公使館で勤務中に勲五等瑞宝章を受賞し、
> 退職までの間、昇給、昇進も順調に得ていた。
> また、退職金、年金についても、不利な扱いはいっさい受けていなかったようである」
>
> 加瀬氏の言われるように“命のビザ”を発給した「直後」でこそなかったものの、たしかに杉原氏は叙勲していたのである。
> こんなこと『知ってるつもり』でも『世界ふしぎ発見』でも言ってなかったゾ。
>
> これからすべてのテレビ番組は、矢追さんがディレクターしていると思って見なくちゃ
てな話もある。 なんともいえんな。
まあこんな話書いても誰も泣いてくれないだろうからsage
口直しに、ちょっと親やバーサンから聞いた戦中の話。 中島飛行場の武蔵野工場を爆撃に行くB−29、 投弾が早すぎたんだか、なんだか、 10キロ以上手前のバーサンちの前にたちならぶ社宅があぼーん・・・目も当てられない・・ とか B−29の迎撃にあがった戦闘機が逆落としになって墜落、井の頭公園の池につっこんだとか・・・ バーサンはそれを目撃して泣いたそうな。 ともかく、空襲があると空から薬莢が降ってきたり、匂いガラス(風防のアクリル)が降ってきたりで、 よくひろったものだ、とバーサンの娘である私の母親がいっていたっけ。 その母親は、国道を立川の方に向かってばく進する戦車の縦列にあったそうな。 恐ろしく地面が揺れてまるで地震のようだったと。97式みたいなこといってた。 泣ける話ではない・・なあ・・・
246 :
£@歴史抹消主義 :01/11/15 07:40 ID:aBPxer7d
>>244 さま
>強制収容もされなきゃ
ん〜 どうでしょう? 1942年二月に上海の虹口地区にユダヤ人用隔離地区が作
られ8000人が収容されたって話があるんですが……
247 :
£@歴史抹消主義 :01/11/15 07:44 ID:aBPxer7d
パルチザンに射殺される前、ムッソリーニの愛人クララは、ムッソリー ニに、こう囁いたとされている。 「最後までついてきたでしょう。うれしくはなくって」
248 :
無能戦略家 :01/11/15 09:53 ID:fC21NpA7
「マス―ド司令…ようやく帰ってきました…」 ―北部同盟兵士がカブール市に入った直後の言葉
>>246 強制収容所(日系人とか、ドイツ支配下のちのユダヤ人)とはでも、あきらかにちがいますね。
それと私が言っているのは日本国内在住のユダヤ人。
>246 ん? あれっていわゆる「強制収容所」だったの?
251 :
244 :01/11/15 12:58 ID:AJ9FwUAP
>>266 ごめん、よくしらべたら 神戸→上海に移送されたみたいなこと書いてんのもあるのね。
不勉強でスマソ
ゲットーが不愉快でないわけがない。が・・・しかし強制収容所とはまたあきらかにちがうね。
扱いがいい加減だったかもしれないけど、別に民族絶滅政策をとっていたわけでもないし。
ここはきっちりおさえとかないと・・・
どっちつかずの戦争が終わるまでの不決断、の所産のようなとこもあるのかなあ・・・
満州ではユダヤ系の人間が結構いたような記憶もあるし・・・
いずれにせよ関係ないからsage
252 :
名無し三等兵 :01/11/15 18:13 ID:Jg5dZLpf
>「外務省は彼の退職について、 > 『一九四六年から一九四七年にかけて行なわれた<行政整理及び、臨時職員令>に基づく機構の縮小の結果 > であり、杉原氏だけでなく当時の外務省職員の三分の一が退職した』と説明している。 まぁノンキャリアだったというのが、大きいと思うなぁ。 だって、真珠湾攻撃の通告おくれをやらかしたやからが、戦後も外務省に残っていたって話だぜ。 しっかり出世してさ。 日本の名誉を守ったともいえる英雄が辞めさせられ。 未来永劫国賊ともいうやつが居座った外務省って・・・・ 真紀子、あんた外交音痴だが、外務省を改革してくれるなら俺は支持するぞ!
253 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/15 18:15 ID:E+opxHwz
え〜、戦争・軍事とチョトちがうかもしれないけど 佐々淳行の「連合赤軍『あさま山荘』事件」(文春文庫)より。 それから目黒区五本木の内田邸を弔問した私は、昭和元禄の戦後の日本ではめったに見る事の出来ない光景を目撃して粛然と襟を正した。 畳敷きの八畳間に北に枕を安置され、白布を顔にかけ、武家の作法通り鯉口を切った短刀を胸にのせた御遺体の傍らで、未亡人のくらさん(42)と長女の高校生尚子さん(17)と次女の中学生の孝子さん(14)の三人が、身も世もあらぬ悲しみに抱き合って号泣している。 (つづく)
254 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/15 18:18 ID:E+opxHwz
(253のつづき) よほど内田尚考警視長(殉職により二階級特進、勲三等)が生前二人のお嬢さんを可愛がっておられたのだろう。その純粋な悲しみようは正視に耐えない。 その三人を、なんと端然と正座した白髪の切下げ髪の老母が「尚孝はお国のために死んだのです。泣いてはいけません」と気丈にもたしなめているではないか。 いまや日本で絶滅に瀕している武士という種族の最後の母親たちの一人がそこに坐っている。 息子を返せと恨み、悲しみをぶつけてきてくれる方がどれほどか。 立派な警察幹部を死なせてしまったという喪失感が胸に迫り、刀自(とじ)と呼ぶにふさわしい品のいい御母堂への慰めの言葉が見つからず、私たちは俯いて畳の目をジッと凝視しているばかりだった。 警察庁上層部をふくめてほとんどの人にとって、内田、高見(繁光警視正、殉職により二階級特進、勲四等)という殉職者の名は新聞の活字に過ぎないが、共に戦った者たちにとってはこういう遺族との身を切られる思いの出合いが待っているのだ。
255 :
<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/15 18:19 ID:E+opxHwz
なんで「あさま山荘事件」のことを思い出したかというと、今日の中スポでこの本が映画化されるという記事を見たからです。(w この本には泣ける(つーか燃える)話が(俺的には)満載です。 なんか戦争・軍事と関係ないようだけど、この本の解説で露木茂さんが最後の一行で「貴重な『戦記』である」と書いてるんで・・いいかな?
>>254 ×息子を返せと恨み、悲しみをぶつけてきてくれる方がどれほどか。
○息子を返せと恨み、悲しみをぶつけてきてくれる方がどれほど楽か。
257 :
名無し :01/11/15 19:33 ID:yHWioBMo
ドキュメンタリー専門番組のdiscovery channnel。 ときどき泣かせる番組をやるので目が離せない。 一番印象に残っているのは、敗戦濃色のころ、金、錫、ボーキサイトなどの軍需物資原料を運んで 引き替えにドイツの軍事技術情報を運ぼうとしていた日本の大型潜水艦引き上げの番組だった。 金塊目当てに、大西洋で撃沈された潜水艦を探し出すという内容だった。 目当ての大型潜水艦は見つかったが、結局、金は見つからなかった。 しかし、深海潜水艇のクルーは日本から遙か離れた海底に眠る日本人の勇気に敬意を 払い、苦労のすえ、潜水艦から日章旗を引き上げる。 その後、潜水艦乗組員の遺族達を捜し出して、広島の呉で深海潜水艇のクルーの手から 遺族の方々に日章旗が手渡されたとき、不覚にも涙がこぼれた。
>244 「(杉原氏発行のビザを持った)ユダヤ人がウラジオストックに大量に きているが、説明せよ」 というような本省からの問い合わせに対して、杉原氏は 「不備ならば乗船を拒否するよう指示されたい」 というような返答をしているらしい。 無論、拒否できるわけがないのを見越してのことで、本省からも、 「日本の代理公使が発行した正規のビザを持った者の入国を拒否 したのでは、ソ連に対する日本の面目がまるつぶれで、できるわ けがない」 という返事がきたらしい。
259 :
258 :01/11/16 00:57 ID:aaRoNNe5
基本的には、外務省逝ってよしと常々思ってるんだが…。 >252 >未来永劫国賊ともいうやつ には不賛成だな。その言葉は、外交ということを何も考えていな かった軍幹部にこそふさわしい。 (もっとも、「国賊」は言い過ぎだろうというだけで、彼等に責 任がないとか、ましてや外務次官になっても納得できるという意 味では全くない。) 当時の大使館は、単に時間稼ぎの交渉というだけの方針を伝えら れて、いつ交渉を打ち切るとも、ましてや通告の手交と同時に (30分というのは、ないも同然の余裕だろう)攻撃をするなんて伝 えられていた訳ではなかろう。 事情を知った現在の目で見れば、「あの非常時にふざけている」 という以外の評価はあり得ないと思うが、状況を知るすべのない 連中が通常勤務をしていたとしても、「国賊」とまで言う気はし ない。 そもそも政府/軍の一部では、通告無しで攻撃する予定だったの を、天皇に(だったと思う)くぎを刺されていやいや方針を変え たという話も聞く。 当初は数時間の余裕があったのを、攻撃30分前まで手交時間を遅 らせているなんていうことも考えあわせると、少なくとも政府/ 軍の一部幹部は、通告が間に合うように手を打つ(事前に現地に、 開戦が間近いことを知らせておくなど)気がないどころか、むしろ 間に合わない方が好都合と考えていたんだろうと思われる。 いずれにせよ、手交の場でハルが野村大使を責め立てたときにも、 大使ですら何を言われているかわからなかったというくらいに、 現地職員を情報から切り離していたんじゃ、まともな外交ができる わけがないと思う。 (泣ける話じゃないんでsage)
260 :
名無し三等兵 :01/11/16 10:26 ID:nLTpepR9
261 :
海の人 :01/11/16 11:49 ID:ZQZy59Hj
>260 最初から一気に読ませる文章はなかなかのスレッドに育ちそうな雰囲気だったのに 途中からウヨサヨバカ論議になってしまっているのに、別な意味で泣けた_(__;)_ このスレ立てた人、軍事板で立てれば良かったのに。
こないだジーサン(故人)の家で押入ごそごそやってたら、 錦の袋から日本刀がごろごろ! と思ったらみんな刀身ないのね・・・・ 占領下に進駐軍が命令出してみんなもってかれてしまったそうな・・・ また〜りと行きましょう・・・ 外務省ネタは別スレと言うことではいかがでしょうか? (私がいうのもなんですが) というわけでsage
263 :
£@歴史抹消主義 :01/11/16 17:34 ID:JtB+SjUr
ちょっと時間がないんで、手短に上海ユダヤ人用隔離地区が出きるまでの経緯をお話 をしときます。 1941年12月の日米開戦まで、日本政府内部には、ユダヤ勢力を利用して対米関係 の好転を謀ろうとしたり、経済の行き詰まりをユダヤ資本の導入で打開しようとす る勢力が存在していたそうです。 しかし、日米開戦により、事態は急転します。開戦により、ユダヤ勢力を使った 時局打開論はその論拠を失い、42年3月のユダヤ人問題に関する会議において 「我方が利用中のもの又は将来利用せんとするものは好意的に扱う」 が、それ以 外のユダヤ人は厳重な監視下におくという主旨の決議がなされました。また相前後 して、それまでの日本の生温いユダヤ人対策に不満を持っていたドイツからの強い 要請もあり、43年2月、上海の虹口地区にユダヤ人、8000人を収容する隔離地区が 出来ます。住民は『J』とスタンプされた、黄色のストリップ入りの出入パスを持 たされ、隔離地区外で住むユダヤ人には、ダビデの星入りのマークをつける事が強 制されたそうです。 また、世界各地から送られていた救済基金が途切れた為、上海のユダヤ人達の生 活は苦しくなり、一日分の食事量が、1300キロカロリーまで落ち込みましたが、ユ ダヤ人達は結束して大戦を乗り切ったそうです。
264 :
名無し三等兵 :01/11/16 18:12 ID:JBJ9cqGt
265 :
£@歴史抹消主義 :01/11/16 20:39 ID:KG5gQ6Fc
266 :
264 :01/11/16 21:27 ID:ZQu8BMre
>>265 どうもありがとうございます。探してみます。
267 :
£@歴史抹消主義 :01/11/16 21:30 ID:RMWsA/aR
>>244 さま
>
ttp://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6tiune.htm 上記のHPで見つけてきた話しなんですが、ど〜でしょう?
杉原氏は、外務省の人員削減の一環で免職になったのであって、訓令違反の
ために免職になったわけではないと主張する方もいますが、これでは杉原氏が
辞職した理由が判らなくなります。
なぜなら、人員削減が理由の免職であれば、退職金が全額支払われるのに、
辞職した場合は、退職金は削減され、不利になるからです。
従って、これは、杉原氏が言うように、訓令違反による免職を言い渡された
と見て間違いないでしょう。訓令違反は懲戒免職の対象となり、懲戒免職の場
合は、退職金は出ませんから、杉原氏が辞職した理由が明確になります。
>261 >このスレ立てた人、軍事板で立てれば良かったのに。 軍事板にも以前ありませんでしたっけ?
>267 人員削減が理由の免職の場合、退職金は少しだけ多く支払われます。 辞職の場合は全額支払われます。 細かいことですが。
>>269 さま
あ、そうなんえすか。 いや、知りませんでしたわ。
教えて頂き、ありがとうございました。
271 :
269 :01/11/17 06:56 ID:7rTBfIhc
>270 更に言えば、訓令違反(だけ)程度で懲戒免職の処分が出ることは考えられません。 「民間ではあるじゃないか」という意見もあろうかと思いますが、それは懲戒権の濫用 にあたるので(実際には泣き寝入りしているであろう)労働者が訴訟にすれば大抵の 場合勝つ筈です。 全く泣ける話と離れてしまったんでsageまくり(汗
272 :
なんだか不慣れで不手際 :01/11/17 13:32 ID:dekrcvHF
273 :
なんだか不慣れで不手際(ほんとに) :01/11/17 13:42 ID:dekrcvHF
274 :
兵八 :01/11/17 19:33 ID:68GOibD3
手練の潜水艦長として有名な、板倉光馬少佐の話。 昭和10年ごろ、板倉さんが新品少尉として「最上」に乗り組んでいた頃。 当時海軍にはある悪い風習が蔓延していた。高級士官が、上陸時の帰艦時間を守らない。 そのくせ下士官・兵が門限を破るときっちり罰を加えるというもので、若い板倉少尉は 日頃から腹に据えかねていた。 ある日、「最上」の鮫島艦長が1時間以上も遅れ、ご婦人方に囲まれて帰ってきた。 板倉少尉は酔った勢いもあって激昂し、艦長を殴り飛ばした。 もちろん、艦長を殴ったとなると軍法会議モノである。板倉少尉は艦長に詫び状を 提出し、クビを覚悟した。 ところが、頬を腫らした艦長は怒るどころか、少尉が激昂した理由を懇切に問い正し、 「よし、わかった」と言ったきりだった。 まもなく、軍令部から士官の綱紀粛正に関するお達しが出た。少尉の意図する所を汲んだ 艦長が、上層部に意見書を提出してくれたのだった。
275 :
兵八 :01/11/17 19:35 ID:68GOibD3
時は移って昭和19年1月。 伊41号潜の艦長となっていた板倉少佐は、中部ソロモン・ブーゲンビル島のブインに対する ネズミ輸送任務を命ぜられた。ところがなんと、ブインには自分が殴った元「最上」艦長、 鮫島中将が居たのだった。 伊41は厳重な敵の警戒と機雷源を突破し、無事に補給任務を完遂した。 板倉艦長は、ラバウルで財布をはたいて買ったサントリーの角瓶と煙草とを「昔、艦長を殴った 板倉が潜水艦長になって物資を届けに来ました」という趣旨の手紙と共に鮫島中将の下へ 渡した。中将は大いに喜び、煙草は短く切って司令部の全員に配り、ウイスキーは水割りにして 回し飲みしたという。
276 :
兵八 :01/11/17 19:35 ID:68GOibD3
終戦後、鮫島中将は栄養失調でボロボロになりながらも内地に帰還した。 昭和41年。死の床に在った鮫島元中将を、板倉氏が見舞った。 鮫島氏はもう口もきけない状態だったが、板倉氏を見るなり、床の間を指差した。 見るとウイスキーの角瓶を、一輪ざしにして飾ってある。オヤ、まさかと思っていると、 横から鮫島婦人が説明してくれた。 「主人は何一つ持って帰らなかったけど、この空き瓶だけ大事に抱えて持って帰って来たんですよ。 板倉からもらったんだと言ってね。」 ・・・・・・なんだかホロリときたんで、ご紹介します。
>>276 良い話だけど既出だったような…。
違ってたらスマソ
278 :
兵八 :01/11/17 19:53 ID:68GOibD3
>>277 ありゃ、そうでしたか?
でしたらこっちこそスマソ。
279 :
名無し三等兵 :01/11/17 21:18 ID:/iFu2OYI
いやいや、いい話は何度聞いてもいいものです。 既出だったかもで、書かないことにより、良い話が広がらないほうが問題でしょう。 それに、この話はこの新スレでは初めてですよ。
>>180 さま
横レスですが『シシテラッパヲ』でしょう。
『海軍乙事件』に収録されてます。
281 :
名無し三等兵 :01/11/18 02:59 ID:mW/+RIXI
>>180 ありがとうございます。
「海軍乙事件」は半年前に読んだばかり・・・
逝ってきます(笑)
283 :
£@歴史抹消主義 :01/11/18 03:06 ID:LlOxRcP6
『インド洋にイージス護衛艦「きりしま」出撃!』スレで見つけてきた話 960 :名無し三等兵 :01/11/02 00:42 ID:WhnGwQYz 湾岸戦争の掃海艇での会話。 「いいか、もしかすると、お前達が喰う食料の入った冷蔵庫に、お前達 を入れて帰ってこねばならんかもしれん。それでもいってくれるか??」 「はい。」 北朝鮮のミサイル事件での会話。 「北朝鮮のミサイル施設を爆撃できるか?」 「片道でなら出来ますし命令ならばやりますが、片道攻撃を部下に命じる 事はできません。命令が出れば、私が行きます。」 あるイーグルドライバーの言葉。 「私達がミサイルを撃つ時は、私達の作戦は失敗したときです。私たちは 常に抑止力でなければならないのですから。」
284 :
名無し三等兵 :01/11/18 06:13 ID:nGa8N04C
戦後の掃海任務の殉職者、57名。 戦後の復興を支えた多くの人のなかで ほとんど語られることのない人たち。
>>277-278 がいしゅつっても、
確か「信じられないが本当だ」スレの方でだったと思う
287 :
兵八 :01/11/18 19:30 ID:US9wDU3O
>>286 そりゃどうも。
「サクラ サクラ」
前スレ読んで、「ペリュリュー島玉砕戦」を知り、買ってきて読んだ。
泣けて泣けて仕方が無かった。
で、「英霊の絶叫―玉砕島アンガウル」も図書館で借りてきた。
これもクルわ・・・・・・著者が五九連隊第一大隊の生き残りであるだけに、余計。
「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」ってのはやり過ぎだと、常々思っていたけど、
よく考えてみたら「適当な所で投降し、捕虜になれ」なんて中途半端な覚悟じゃ、
そもそもあんな無謀な戦争は出来ないよなあ・・・・・・と、最近考えるようになりました。
駄文につきsage
戦車11連隊の話もお願い
>>287 >よく考えてみたら「適当な所で投降し、捕虜になれ」なんて
中途半端な覚悟じゃ、そもそもあんな無謀な戦争は出来ないよ
なあ・・・・・・と、最近考えるようになりました。
激しく同意デス。
290 :
極東板よりコピペ :01/11/19 11:15 ID:d4jWNqll
元クルガ兵(ネパール人)の証言。 我々は世界最強の傭兵だ。 第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。 インド軍は1日で降参させた。 だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も 半数以上が戦死した。 これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。 玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ 食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。 戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。
291 :
名無し三等兵 :01/11/19 13:36 ID:Hmfgb2JQ
>284 そのうち一名は、朝鮮戦争における仁川沖掃海作業中に亡くなられており、 事実上、自衛隊唯一人の「海外派兵での戦死者」なのですが、 当時の日本政府はこれを「外務省嘱託の、作業中の事故」としてしまい、 公式に認めたのは実に20年後のことでした。 香川県、金毘羅神社といえば、「航海安全の神様」なのですが、 今も年に一回、最寄の高松港に掃海母艦、掃海艇が寄港し、 乗員ならびに、掃海隊司令による、殉職者慰霊祭がとり行われており、 先人の霊をお慰めしております。
292 :
名無し三等兵 :01/11/19 22:28 ID:DqKlcZCE
泣けるかどうかはわからないが、良い話であると思うエピソードを1つ。 戦後、自衛隊の発足に伴い、自衛艦に掲げる自衛艦旗をどうするかが問題となった。 結論は簡単に出ず、そこで米内光政海軍大将の親戚で海上警備隊(海自の前身)の良き理解者でもあった画家、米内穂豊画伯に旭光をモチーフにした新たな旗の製作を依頼した。 米内画伯はこれを快諾したが、画伯が提出したのは帝国海軍の軍艦旗と全く同じ図柄だった。米内画伯は、 「旧海軍の軍艦旗は、黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、光線の配合等実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがありません。 それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚描き上げました。これがお気に召さなければご辞退いたします。 ご迷惑をおかけして済みませんが、画家の良心が許しませんので……」 と申し出たという。 その後、この旧軍艦旗と同じ図案に関して議論が重ねられたが、吉田茂首相に最終的な判断を仰ぐことになった。説明を聞き終えた吉田首相は次のように述べた。 「世界中で、この旗を知らない国はない。どこの海に在っても日本の艦であることが一目瞭然で誠に結構だ。旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」 かくして、昇る太陽をかたどった旭日の軍艦旗は、今日も護衛艦の旗竿に堂々と翻っているのである……。 出展は「行進曲『軍艦』百年の航跡」(谷村政次郎著 大村書店刊)から。
>292 ええ話や・・・誇るべきRising Sunだな
295 :
名無し三等兵 :01/11/21 02:08 ID:dhX6FqXG
>>292 素朴な疑問だけど、なぜ普通の日章旗ではいけないのだろう。
296 :
名無し三等兵 :01/11/21 09:11 ID:O0Wjp+Up
>>295 回答になってないけど、入港時には前の旗竿に日章旗あげてるよ。
>>295 国際法上の「軍艦」であることを示すためでは。海軍国で国旗と違う軍艦旗
持って無いのはアメリカぐらいでしょ(艦首旗はあるけど)。
これは祖父から聞いた話です。 昭和18年の暮れか19年のはじめだったそうですが、当時新聞記者だった 祖父が軍需省に取材に行ったとき、大西という海軍の将官(多分中将か 少将だったらしい)が応対してくれたそうです。 青二才だった祖父は軍隊批判などかなり危ない事も言ったらしいのですが、 大西さんは黙って話を聞いてくれたとか。で、最後に「戦局が苦しいのはよく 分かっているし申し訳無い。君たちのような若い人が中心となってこれからの 難局を切り抜けていくしかない」というようなことを言ったそうです。 話を聞いた私は、もしかしたらその将官というのは大西瀧次郎中将の事かも 知れないと思い、祖父に彼が特攻隊の創始者であることも話しました。 意外なことに祖父はそれを知らなかったそうで、「あんな折り目正しい人がなぁ」 と驚いていました。 しかし、これは本当に大西中将のことだったのでしょうか。確証はありません・・・。
今検索してみたら、大西瀧次郎中将は昭和18年11月から1年弱の間、 軍需省航空兵器総務局長をしておられたようですね。
300 :
ベタ藤原ー1 :01/11/22 23:24 ID:I4Q4asid
自衛隊(警察予備隊)初の災害派遣の話なんですが、基本部分は
>
ttp://www.sannet.ne.jp/asagumo/195002.html から持ってきて、「土曜日云々」の話は、昔読んだ雑誌の記憶(かなり怪しい)
を基に書いてあるので、間違えがあるかもです。
昭和26年10月14日から15日にかけて「ルース台風」が九州に上陸、本州日本海側
をかすめ東北を縦断、各地で交通 網が寸断され、出水や家屋倒壊などで死者・不明
943人という大災害となった。山口県下の山間部でも大きな被害が発生、田中龍夫知
事が地元の小月部隊(当時は第11連隊)に救援を要請した。部隊では直ちに県災害
対策本部に幹部を急派、情報収集に当たるとともに第4管区総監部に報告、指示を
仰いだ。
ところが返事は「出行保留(不許可)」 当時、災害派遣は「出行」と呼ばれ、
警察予備隊では前例がない上、許可権者は内閣総理大臣とされていた。 総監部の不
許可理由は
@第1回出行は軽々しく実施すべきでない
A警察の前に率先出行する必要はない
B情報が不足
C諸般
を総合して時期尚早、というものだった。
しかし、刻々と入ってくる情報は「死傷者多数」など悪化の一途。
岩国の米軍はヘリコプターで食料や医薬品の投下を始めている。切羽詰まった11
連隊では、被害の惨状を写した写真を副連隊長に持たせ、福岡の総監部に急派し出
行許可を懇請させた。 ところが、副連隊長が福岡の総監部に到着したのが土曜の
午後で、副連隊長が総監部長との面会を求めたところ、対応にあたった参謀が、
「今日は土曜日だ! 午後からは休みで仕事はしてはいけない規則になっている。
月曜日に出なおせ!」
と云う趣旨の事を言ったそうです。
301 :
ベタ藤原ー2 :01/11/22 23:24 ID:I4Q4asid
それに腹をたてた副連隊長は、総監部長宅に直接乗りこみ直談判をし、状況を理 解した総監部長は、小月部隊の出動懇請を中央に報告。 結果、それは吉田総理ま で届き 「よし、小月部隊を出動させろ」 という総理の一言で小月部隊の派遣が決定、被災した山口県広瀬町で延べ2,700人 が1週間にわたり不明者の捜索や道路啓開、救援米の輸送など救援活動を展開した。 これが警察予備隊(自衛隊)初の災害派遣となった。 NHKの『プロジェクトX』でぜひ取り上げてもらいたい話だと思います。
302 :
:01/11/23 00:12 ID:V/kO+Tm9
>300-301 紆余曲折の果てに見事に任務を遂行した第11連隊の活躍と 参謀のアホぶりに泣けます(TT) 戦争、災害はは週末や休日だからといって待ってはくれません。 間違いであって欲しいですがこういうアホはどこにでもいそう...
父の大港勤務時に新潟地震が起きました。 なんでも「ちっちゃな船におっきなエンジンを取り付けて一晩かけて新潟まで向かったんだよ。 でな、一晩中何やってたかって言うと、ひたすらオニギリを握ってたんだな」 父からこんな話しを聞きました。 これってマジですかね(^^ゞ ある意味泣ける話かもと思ったんですが(笑)
大港=大湊?
>>304 御指摘感謝です。
仰る通り「大湊」です(^^ゞ
「英霊の絶叫――玉砕島アンガウル」より―― 翌朝、それまでなかなか元気だった松島上等兵が苦しみを訴え始めた。 負傷して三日目である。声の出せない彼は傷口を指差して、「傷の箇所を見てください」 とでも言うように身悶えするのである。 目を近づけて見ると、包帯は真っ赤に濡れていて今までとは違った症状を呈している。 じっと観察すると、息を吐くときはその血のしぶきが吹き出し、息を吸うとさあっと引いてしまう。 耳をすますと、ジブ、ジブ、シューシューという音があからさまに聞こえてくるのであった。 呼吸のたびに傷口から空気が漏れているような感じである。間違いなく、松島にとっては 最後のときがやって来たのだ。私は彼が哀れでならなかった。何か意中を聞いてやりたい気分に駆られた。 「何か言いたいことはないか?」 と私は彼に言った。聞いたとしても、私も遠からず死ぬ身である。遺族に伝言することなどは不可能であろう。 しかし、彼は補充兵で故国には妻もあれば子もある。言い残したいことは多い筈であった。 ・・・・・・彼は声も出せない重傷ではないか、どんな方法でその言わんとするところを聞き出せばよいのか。 紙も鉛筆も無い洞窟の中で、私は咄嗟に彼の枕元なるべく近くに身を寄せて、私の掌を彼の正面に向けた。 (私のとった行動の意味が彼に判るだろうか?) しかしそれは杞憂というものであった。松島は動かない手を微かに震わせている。既に硬直気味の 彼の手は、もう自分の意志ではどうにもならないのである。私は急いで彼の右手に触れて、人差し指で 字が書けるような拳にしてやった。彼の胸部からは尚一層、ジブ、ジブ、シューシューという 不気味な音が激しく高くなっている。彼は私の掌の上で、ゆっくりと人差し指を動かし始めた。 片仮名一文字を書くのに三十秒から一分かかるような有様である。私も、一生懸命その書き文字を 判読せねばならなかった。彼は髪と髭の伸びた顔を苦悶に引きつらせながら、それでも 気力を振り絞って書いた。
「ハンチョウドノ、ゴオンハシンデモワスレマセン。ツマトカツボー(勝坊、三歳の愛息)ニヨロシク。 ・・・・・・チチハリッパニハタライテ、メイヨノセンシヲトゲタ」 ・・・・・・これだけ書くのに、およそ三十分はかかった。その一文字一文字を判読するうちに、 私は泣くまいとすればするほど、目頭が熱くなり、最後の文字を書き終わって右手をだらりとさせたとき、 涙が溢れるのを止めようもなかった。これこそアンガウル島守備隊員の、血のにじむような思いで 綴った遺言であり、絶叫であったのだ。やがて彼は、微笑をすら浮かべて水筒を指さした。 (うんと飲めよ、松島!) 私の差し出す水筒の水を彼は、ゴクゴクと音を立てて、実に美味そうに飲んだ。その幸せそうな顔 ――それは私の一生が終わるまで忘れられないものである。松島上等兵は水を飲んでまもなく 息を引き取った。もう苦しそうなジブ、ジブ、シューシューという音も静かになったのである。 ――この日の正午頃、私はたった一人きりになった寂しさを噛みしめながら、何処に居るか判らぬ 友軍を探し出すべく、奥地の鍾乳洞陣地へと歩き出した。重い心であった。だが、 (松島よ。必ず仇を取ってやる) と敵を憎む気持ちはますますつのるばかりであった。
308 :
名無し三等兵 :01/11/26 20:45
感想:このスレは「台湾で出会った、忘れれない人」と 相通ずるものがあって良いですね。
309 :
名無し三等兵 :01/11/26 20:46
朝鮮戦争ネタ(最近こればっかりやけど許して)だけど。 米海軍史上最初のアフリカ系米国人のパイロットの話。 彼の名はジェス・ブラウン少尉。 VF-32のF4U乗りだった。 彼とコンビを組んだのは、白人のWASP階級の出身である、トム・ハドナー中尉だった。 (ちなみに、高等学校ではジョージブッシュの知合いになり、海軍兵学校ではジミーカーターと 知合いになっている) 彼らはVF-32のロッカールームで会ったとき。随分前からの知己のように自然に握手を 交わした。 以来、チームとしてコンビを組んできたのである。 さて、やがて彼等の属するVF-32は空母Leyteに乗り組み、朝鮮へと出撃した。 何度も出撃したが、操縦技術に一日の長のあるジェスが分隊編隊の長機であった。 1950年12月4日、彼等の乗ったF4U-4Bが敵地上空をさしかかったとき、中国兵が一斉に 小銃を撃ち上げた。 運悪く、その弾の一つがジェスの乗ったF4Uの弱点である滑油冷却器に命中した。 被弾三分後、彼の機のエンジンが止まった。 しかし、パラシュートは使えない低高度で、猫の額のような平地に不時着するしかなかった。 不時着後のあまりの機体の損傷状態に、誰もジェスが生きているまいと思った。 が、彼は生きていた。 しかし、コクピットから出てくる気配はない。 トムは迷わず、ジェスを助けるために自らも不時着する事を決めた。 誰も反対するものがいなかった。 彼は見事に不時着をやってのけ、ジェスの元に向かった。 しかし、ジェスの身体はコクピットに挟まれて身動きできなかった。 二時間後、漸く救難ヘリが到着した。 ヘリから胴体を壊すための斧と消化器が下ろされた。 トムはヘリのパイロットと共同で、機体を壊す作業を行った。 ところが、頑丈な機体は傷一つ付かない。 そうこうしていると、ジェスが薄れゆく意識の中で静かに言った。 「トム。もし僕が国に帰れなかったら、デイジー(妻の名)にこう伝えてくれ。 僕は彼女を愛していると」 夕暮れが迫っていた。 冬の日でもあり、このままでは遭難者が3人に増えてしまう。 決断の時だった。 「ジェス」と彼は静かに語りかけた。 「ジェス。僕たちは君を見捨てることが出来ない。僕たちは全力を尽くしてみる。 僕たちは此処を離れて助けを求めてくる。だから、我慢してここで待っていてくれ。 僕たちは此処に戻ってくる」 彼は断腸の思いでヘリに乗り、翌日Leyteの艦長に詳細を報告した。 艦長はトムの思いを理解し、ジェスの遺体を収容するためにヘリを出そうとまで言った。 しかし、トムは断った。 前日に続いて救難ヘリを同じ場所に送り込むことは危険な行為だったからだ。 その日のうちに、Leyteからコルセアの一個小隊が飛び立ち、ナパーム弾を投下して、 ジェスの遺体とコルセアを焼き払った。 「愛する戦友の火葬の炎の様だった」とトムは後に回想している。 時は流れ、1973年4月、ノックス級フリゲートの一艦にジェス・L・ブラウンという名前が 付けられた。 彼は、アフリカ系米国人の海軍パイロットのパイオニアとして長く記憶されているので ある。
黒人差別が多かったので妙に勘ぐってしまう俺・・・
というより、斧でどついても壊れないような飛行機と零戦が戦ってたのかと思うと 別の次元で泣ける。
313 :
名無し三等兵 :01/11/28 12:40
>>191 「プライド」という映画は糞映画だ、という意見もあるが、
焼け跡の東京、が冒頭のシーンで出てくる。
青い画面がだんだんと明るくなり、ものの姿や影が見えてくる、それは
どこまでも広がる真っ平らな焼け跡。よくみるとかすかに人が
ゆっくりと動く点のように見えている。
このシーンを見て私はなぜか涙がぼろぼろと出た。
大スクリーンで見ないとたぶんこの感じはワカラナイだろうが・・・
「そこには、死屍累々と横たわる戦友達の骸が・・・・・・ 故郷に両親を、妻を子を、思い出を、一杯残してきた人達です! 無念の思いにその唇は歪み、その眼は、虚空を彷徨って・・・・・・!」 インパール作戦の生き残りが、パル判事の前で号泣するシーンで泣けた。 どうせなら、ちゃんとした回想シーンをつけて欲しかったな。
>>206-215 遅いレスですまんけど、現在もポーランドは、知日国として知られていて、日本研究も盛ん
(大学に日本学科があるし、結構留学生も日本にきている)だけど、この話もその背景にあ
るのかもしれないね。
316 :
名無し三等兵 :01/11/28 15:35
>>216 __
/__|__
/_了TДT) 泣ける話だゴルァ!!!!
(|〆/|)
/|  ̄ |
∪ ∪
317 :
名無し三等兵 :01/11/28 16:10
>>314 んで、牟田口がのうのうと生き残って、平然とでかい面してやがんのが別の意味でまた泣けますな。
318 :
名無し三等兵 :01/11/28 17:44
>>310 これは中国兵の放った小銃弾ごときでF4Uが墜ちてしまった点が泣けるのですね。
>>317 それ以上その話題に触れるな!
スレが汚れる
>287 でも、同じくらい無謀な戦争にうってでたドイツでは、そんなことは言って いなかったような…。 個人の覚悟として「生きて虜囚の辱めを受けず」的行動をとった人々はいた んでしょうが、軍としてそういう教育をしたり強要したりするというのは、 全く次元の違う話だと思う。
>>317 >319
>それ以上その話題に触れるな!
>スレが汚れる
この名スレ「泣ける話」でクソ野郎の名前を出すなという意味で?
それとも話がややこしくなるからという意味で?
もし後者なら、私は違うと思う。ヤツのことはせめて我々ミリタリーマニアだけでも
永遠に呪い侮蔑し憎悪するべき人間と思うけど。
>322 いいたいことはわからないではないが、 とりあえずその論争を続けること自体がスレ汚し。 オレモナー
>323 了解。ヤツの事と英霊達の名前を同じスレに書くことすら汚らわしい ということで処理しませう。「許せない話」スレが立つ日まで。
「322」さん。「許せない話」スレ立てたんで、良かったら来て下さい。
>>321 まあ、「玉砕は善か悪か」とか論じだすとまた白けそうですし。
ここはあくまで、勇敢に戦った先人達を哀悼する、ということで。
再び「英霊の絶叫」より――
黄燐弾で両目を潰されたものや、両腕を焼かれたもの、腹部に大火傷を負ったものなどは、
「残念だ。もう戦うことも出来ない。皆の足手まといになってまで生きたくはありません。
どうか仇を討ってください」
と言い残して、其処彼処で自決していった。お互いに刺し違える者もあれば、
自分の胸を銃剣で突く者もある。自分の首を力一杯切りつけ、それでもまだ死にきれず、
手榴弾を抱いて粉微塵に自爆する者もいた。その悲音が洞窟をゆるがし、爆風は悪臭を
尚一層掻きまわした。
死に際して生き残る戦友のことを思い、最後の奉公をする隊員もいた。
「いいか、俺の血を飲んで渇きをいやし、一人でも敵をぶち殺してくれ」
といって自分の片腕を戦友に切らせ、その血が下に置いた鉄帽に流れ出るのを見届けて、
死んでいった者もある。戦友とはいえ、この尊い血を涙無しには飲めなかったという。
また、私の隣で重傷と火傷に苦しんでいた隊員は言った。
「班長殿、私は死なせていただきます。だが、手榴弾を使うと私の体も真っ黒になるので、
小銃を使って綺麗に死にます。どうか、私の身体の肉を、残った隊員の皆で少しずつ
分配して食べてください。私の肉を食べた力で、敵兵を一人でも多く斃してください。
おねがいです」
こう言いざま、彼は私の傍らで、銃口を口にくわえ引き金を引いた。だが、これを聞いた
私たちを始め残存兵もただ涙を流すだけで、だれも戦友の肉を食べようとはしなかった。
敵に対する憎しみは我々の中に執念となって残り、
「待ってろ。俺が必ず敵を殺してやる」
と死体に呼びかけるしかなかった。
敵の砲撃は衰えを見せない。負傷した上に爆風で鼓膜を破られ、耳の聞こえない兵隊も多かったが、
彼らは黙々と防御陣地を作り、近づく敵を射ち倒していた。洞窟のそばに焼け残った樹には、
守備隊員の死体や、無数の片腕・片足が無残にぶら下がっている。十月五日頃の生存者は
150名くらいであったろうか。洞窟内の湿気によって既に兵器も弾薬も錆び付き始め、
丸腰の兵が多く、小銃を持つものは7、80名で、私自身、「玉砕」は旬日のうちかと思われた。
私の目の前で次々に息を引き取り、自決していった戦友たちの姿や言葉を思い浮かべるとき、
私は涙なしでは語れない。
「班長殿。敵を一人でも多く殺してください」
という怨みのこもった声がいつまでも聞こえてくる。・・・・・・
アンガウル島守備の日本軍、指揮官後藤少佐以下約1200名。昭和19年9月17日、 米軍約21,000名が上陸。10月19日、玉砕。米軍側損害約2500名。 日本軍と行動を共にしていた現地島民の証言。 「・・・・・後藤少佐は午前二時に最後の突撃をと命令。私達島民も参加するといったら、 砲兵隊の松沢中尉が「皆さんは日本人でもないのによく協力してくれました。 私達軍人は日本のために死ななければなりませんが、みなさんはその必要はありませんので 投降して米軍の保護を受けなさい。これは命令です」と説得されましたので、涙ながらに 皆さんを見送った・・・・・・」 アンガウル守備隊の親部隊、第十四師団十五連隊と五十九連隊の主力は、昭和21年2月 パラオ本島から復員した。江口連隊長は入港に際し、全員に軍装・階級章を着用させ、 「師団は米軍の物量の前に敗れた。しかし今後の諸君の任務は、復興を果たし米軍を本土から 追い落とすことにある」 と訓示した。江口の意を汲んだ入国管理官は、規定を破って連隊を3日間兵舎に留め置いた。 そして21年2月21日、空前絶後の、天皇のお出迎えとなる。 江口は「臣八郎不肖にして歩兵第五十九連隊長の付託の重きに堪えず戦い敗れ、多くの 赤子を失い・・・・・」と涙ながらに奏上した。 先帝からは、「御苦労でした」とお言葉があった。 公式のお言葉は、 「パラオ集団ハ真ニ統率力ヲ徹底シテ立派ニ戦闘シ復員モ善ク出来満足ニ思フ」
329 :
名無し三等兵 :01/11/30 12:45
南下し欄が勿体ないので挙げ
兵八さん、そのネタ書こうとおもって押入から本引っ張りだしてきたのに。 ヤラレタ。それじゃあ 59連隊に関して連隊史より アンガウル地区隊ニ対シ畏クモ御嘉賞ノ御言葉ヲ拝ス。忠魂正ニ瞑スベシ。 只、如何セン、未ダ敢闘スル勇士ニ対シ之ヲ報告スル手段ナク断腸ノ極ミ ナリという文になんともいえません。 以前書き込みをしたときは不評だったので貴重なスレの余白を奪った責任をと りましてイイはなしをみつけてきました。 戦争の本70 の「無名戦士の手記」の紹介より抜粋 海軍軍医中佐 上野 千里氏の遺書 かれは上官の米軍捕虜2名の殺害のとばっちりにあい(直接的関与はない)の にもかかわらず処刑された人物です。 私は私が思い罰をうけたことよりも多数の部下がはじめから起訴されなかった ことの喜びのほうが心の大部分を占める自分が嬉しくあります。私の男はこれ で死んで生きることができました。上司から他に下された実行命令によって直 接なされたものとはいえ、私が一人を斬ったものの上官であり、ひとりの患者 として最も身近な責任者で有ったことも事実でした。 好枝どの、私の申すことをよくよく聞いてください。責任という言葉の意味 の重大さは、けして他のなににも置き換え得るべきものではありません。 好枝どの、どうか私にかくも愛する老母妻子の有るがごとく、私のより若き 部下たちにもそうした新生日本に必要な多くの親兄弟妻子があることをお考え ください。さらに戦地において戦中戦後の区別なくいたらぬ私をかれらがどん なにか愛してくれたかということ、その献身的な庇護によってこそ、あるいは 私が戦火に失ったかもしれぬ一身を全うして、短いながら再び生きて皆にあう ことが出来たかのかもしれぬことを思ってください。 (中略) 愛する妻子を捨て、愛する老母をすてても私には捨てられぬ日本人の魂があ った。男の操がありました。長い間優しい妻、賢き母として私の身近に仕えて くださった御身よ、何年かのち、そんな日が来ましたら、微笑みつつ5人の子供 達に語ってやってください。「お父さんは部下の為に司令に利用されおどけ者 として笑って死にました」と しかし、上司の名を知りましてもそれを記憶するような不必要な散財をお慎 みください。私は好んで人身攻撃を致すものではなく、また私個人の不幸を言 い立てるものでもありません。 過去の日本のすべてを憎悪する人があるなら、それは全くの誤りです。しか し、二度と繰り返してならぬ過ちも少なくはありませんでした。みんなはいた ずらに多言に惑わされることなく、すべてをあくまで冷静に判断してくださ い。 はじめて多くを語り晴々としました。どうかご自愛の上五人の子供と仲良く 朗らかに。 このあと5人の子供への遺書があるのですがこれもいいものなので、またの機 会に書き込みます。
旧「泣ける話」スレにカキコした既出レスは入れてはいかんか?
誰も許可してくれないが、勝手にカキコ すまんね>1 「ホタル帰る」2001年5月28日第1刷発行 発行所 草思社 著者 赤羽礼子(旧姓 鳥浜) 石井宏 ヨリ 以下 第四五振武隊隊長、藤井一中尉は特攻出撃も終わりに近い五月二十八日、部下を率いて出撃、 還らぬ人となった。富屋を訪れたであろう藤井中尉について、トメは年長の物静かな人がいた という以外にとくに印象がなかった。 戦後、藤井中尉にまつわる話を聞いたトメは涙が止まらなかった。 戦争が始まった頃、藤井中尉は少年飛行兵の教官に就任した。彼は自分にも厳しい人で、 戦争が激化し、かつての部下だった少年兵たちの戦死の報を聞くにつれ、 「おまえたちだけを死なせるわけにはいかん」が口癖になり、みずから特攻兵を志願した。 藤井中尉は年齢的にも若くなく、結婚してすでに二児があった。こうした年長で係累の多い 将校などの場合、特攻としては採用されないのが原則である。当然のように 藤井中尉の志願は却下された。しかし、「教え子が死んでくのに自分だけがおめおめと 生きているわけにはいかない」という彼の信念は変わらなかった。 妻は最初は反対したが、次第に夫の固い覚悟に押し切られるかたちになった。 夫は再度却下されると、今度は血書して願書を提出した。夫の決意の固さを知った妻は、 後顧の憂いを絶つために 昭和十九年十二月十五日、近くを流れる荒川に、二人の子を道連れに投身自殺した。 自分たちが生きていては心残りとなるでしょうから、お先に行って待っています、 という遺書が残されていた。 血書の願書に妻子の自殺―藤井中尉の特攻志願は受理された。十二月二十日のことであった。 合掌
勇猛果敢に戦った先達の気位は、このちっぽけな東洋の島国に住む 黄色人種を世界中に「日本人恐るべし」と知らしめた事に 集約されるように自分は思います。 御殿場にあるキャンプ富士という海兵隊の基地で英会話を習っていた頃に歓談した 海兵隊員はほとんどが父親がwwUに参戦した兵士でした。 中には当時の日本軍の兵士を狂信的に憎んでいる者も居ましたが、 多数の親御さんは当時の日本兵の戦い振りとその精神を大変尊敬していると 彼らが幼い頃から話していたそうです。
>>332 あのさ、皆が感動してるトコ水刺すようで悪いんだけど・・・
この話はちとひどすぎない?
たしかちょっと前の読売新聞にもこの話出てたけど、そこでのニュアンスは
コレとはだいぶ違ってて「夫が特攻志願をあきらめてくれない」
っつって悲しんだ挙句奥さん自殺したんじゃなかったっけ?
(決して“夫を立てるため”ではなかったはず)
しかも子供まで道連れにしたってのはどう考えたってゆるせないよ、やっぱ。
こんなヒドイ話を無理やり感動系に仕立て上げるあたり、
なんか戦時中のプロパガンダってこんな感じに作られてったんだろうね。
このスレッドは好きなんで毎日来てるけど・・・はあ・・・。
出ると思ったよ。 君のような意見が。
>>334 に同意
読売の記事の事は知らないし、本当の事は自殺した本人しか分からんだろうが
子供を連れて無理心中はやっぱり許せんなぁ・・・。
こっちの方が可哀相だよ。
>>335 スマンね・・・。
気を悪くされたんなら謝る。
はじめてこのエピソードを新聞で読んだ時
子供たちが余りにも不憫でね。ホントに泣いちゃったのよ、自分。
この話はね、有名な話で、右の連中も左の連中も 自分たちのイデオロギーに利用しようとして強烈な脚色をするんだ。 自分が上げた書籍は、極力思想を絡めない記述を貫いてるので コピペしたのだが・・・。 冷静に良く読んで判断してもらいたい。 妻子の自殺については客観的記述をあえてしているんだが、主観を提示する観点は 別の処でしょう。 清志郎じゃあないけど 踊らされるなよ。
俺としては藤井中尉本人がどうこうより無理心中の方に関心いっただけなんだが もしかして338はこの話を聞いた全員に同じリアクションを取って欲しかったのか? だから最後の1行は余計だな。
君は338の意味が理解できなかったようだね。
>藤井中尉本人がどうこうより無理心中の方に関心いっただけなんだが そう仕向けてる書籍、新聞、メディアばかりだということに気が付かないのかな?
342 :
名無し三等兵 :01/12/01 03:04
妻の真意がどちらにあったにせよ、泣ける話ではあります
>そう仕向けてる書籍、新聞、メディアばかりだということに気が付かないのかな? 少なくとも自分の読んだ記事は「仕向けてる」っていうより事実を淡々と 伝えていた印象はあったが・・・。(それにあの「読売」だぜ?「朝日」じゃないんだぜ?) 藤井中尉殿に関しては、その責任感の強さ、人間性は認めるけど・・・なにより 「自分には守るべき存在がある」 って事も思い出して欲しかったね。
>342 そう・・・。 妻の真意は誰にも解らない。 古くから、 ナショナリストが関わる情報では美談化され、 全狂世代のジャーナリストからは悲劇化される話だ。 イデオロギーの確執に翻弄されるべき話では無いと思うが 格好の素材にされている。 が、貴君の感想の通り、「藤井中尉」の戦時感を伝えている話であるし、 私が提示したカキコは「固定観念を持ってる糞野郎の、思想操作じみた記述」 をしていない書籍から引用したつもりだ。 藤井中尉関連にレスしてくれている貴君等がどういう教育を受けた世代か計りかねる。 先の大戦に対する解釈は世代の相違に比例して違うであろうと思う。
お、ヤマトさんひさしぶり。元祖スレで捨てハン使って貴方と
>>333 あたりの対話をしてたの、
実は私です。
藤井中尉の奥さんの話について一言。
奥さんとしては、武人の妻である以前に一人の女性として、
「どうしてあなたが死ななければならないの、私と子供のことはどうでもいいの」
という心情は当然のことだと思います。しかし同時に、
「私や子供のせいで、あの人の足手まといになっては申し訳ない」
というのも真実の感情でしょう。別にどちらが正しいという訳でもない。
ただ、奥さんが恨むとしたら夫や軍ではなく、彼女を追い込んだ時代の宿命を
恨んだことだろうと愚考します。
それから読売の記事は私も読んだけど、あれが載ったのはちょうど「戦争論」が
ベストセラーになった時期と重なってた。「戦争論」ブームの尻馬に乗っかって
感動的な話を相対化してやれって意図がミエミエで、私はあの記事は軽蔑したな。
347 :
名無し三等兵 :01/12/01 10:12
なんとなくもったいない。age あ、政治的な議論はやめてね。
。 。 ▽
俺は藤井中尉の件は100%肯定も出来ないが否定も出来ない。子供も道連れに したのは、当時の感覚では仕方ない所もあるのかなとも思うし。 例えば日露戦争の乃木大将の件を考えてはどうだろう。映画「203高地」で 乃木の自宅の投石して「俺の息子をかえせ!!」と叫ぶ群衆のシーンがあった。 しかしラストでは同じ乃木邸の前で賞賛の声がするラストで終わる。 例えば乃木の息子が2人とも旅順から五体満足で帰ってきたら「乃木は自分の 息子は安全な所に配置した」というヤッカミが起きるのではないか。彼の評価 が「陛下の赤子(民衆レベルでいえば人の息子や父を)をあんなに殺し、自分の 息子は行き残させた、ヘボで悪い指揮官」ということになるのではないか・・・ ということだ。 藤井中尉も妻子を失い、そして自らも特攻した軍人という悲劇の美名の評価が、 もし軍の方針通りにしていて、年齢と妻子の問題もあり特攻に行かなかったら 「人の息子を死に追いやった鬼畜」ということにはなりはしないかということだ。
350 :
名無し三等兵 :01/12/01 11:50
>私が提示したカキコは「固定観念を持ってる糞野郎の、思想操作じみた記述」 >をしていない書籍から引用したつもりだ。 どなたの書いたなんて題名の本ですか。読んでみたいので参考までに 教えていただけませんか。
>>349 >例えば日露戦争の乃木大将の件を考えてはどうだろう。映画「203高地」で
>乃木の自宅の投石して「俺の息子をかえせ!!」と叫ぶ群衆のシーンがあった。
>しかしラストでは同じ乃木邸の前で賞賛の声がするラストで終わる。
えーがの話と事実とを混同しちゃいかんと思いますが。関係ない話なのでsage
>350 332に記述して有り申す。 >平八殿 旧スレの666氏であろうか?
>>352 然り。ま、あまり力まずにマターリ逝きませう。
世間体か・・・・
藤井中尉は教官として最後まで己の職務をまっとうしなかったばかりか、
自分の世間体の為に?家族までもを巻き込んだ・・・人間と言う見方も出来るんだよな。
(当時と現代とでは意識が違うのは百も承知)
ところで特攻志願が受け入れられたのが昭和19年12月20日、実際の出撃が翌年の5月28日
>藤井中尉はもちろんパイロットではないので、小川彰少尉の操縦する機に通信員として搭乗した。
(
>>334 のリンク参照)やはりこの半年は長かったんだろうな。
このスレにこういうことを書くのもどうかと思ったんだが。
藤井中尉の場合を読んで、中都留大尉、ひいては宇垣中将、
大西中将の場合について考えてしまったよ。
まぁ、結論は出せないんだが。俺は現代の考え方しか出来ないし、
そもそも、遺族でも本人でもない俺がどう考えどう結論しようとも、
それを口に出せる筋合いにない。
>>349 中都留大尉の父上は、宇垣中将を恨んでも恨みきれんだろうな。
乱文スレ違いにてすまん
357 :
匿名希望三等兵 :01/12/02 11:26
結論 藤井中尉は妻子を伴って特攻すれば丸く収まった。
保全age
359 :
音速雷撃隊 :01/12/05 23:34
思想持ち込む連中が入ってきたからここもパート2と同じく短命スレかな・・・。
泣ける話*雑談・講評スレ* でも作ってそっちで死ぬまでやってもらう?
361 :
音速雷撃隊 :01/12/06 00:34
パソコンも10万円台のはした金で買える時代になったからなあ。 粘着も増えた・・・。
>359 思想持ち込む連中ねー。 読んでた限りでは、自分と同じ所に感動しない人間を捕まえて、 勝手にラベル貼ってる奴が一人いるだけにしか見えないが。 妻子を追い詰める程までに自分を追い込んでしまう中尉の人柄 や、誠実な人を思い詰めさせるほどの当時の状況に、共感と感 動と同情を覚える人もいれば、妻子を結果的に追い詰めたこと に、納得できない思いの人もいる、というのは当然のことだと 思う。 こんなのは、思想の問題ではなく感情の問題だろう。 まあ、357みたいなのは論外だと思うが。
>>359-360 結果的に話が多少脱線するくらいの事はどのスレでもあるだろ??
カキコが無いのは只のネタ切れか、時期的に皆さん忙しいだけだと思うが・・・。
つーか、坂井スレの過去レス見れば音速雷撃隊も同じ穴のムジナだし(藁
ハイ、それではバカな話はこのくらいにして 「泣 け る 話」に行ってください。(・∀・)
亀レスすまん >351 いゃ「203高地」の1シーンをあくまで例として出しただけで、現実に戦死者の 遺族からは乃木将軍は評判が悪かったという話もあるし。 乃木将軍が戦後、シジミを幼い子が売っているのを見て、不審に思い「何故に」と 聞いてみると、乃木という馬鹿な将軍が下手な指揮をしたため父親が死んだという ことを言われたとかいう話を、この板のどこかのスレで読んだ記憶が・・・。
乃木希典 諸外国の歴史教科書にも記述されている「海軍元師 東郷平八郎」 彼が大日本帝国海軍艦隊を指揮し、奇跡の勝利と言われ、 世界三大海戦の一つに数えられるあの「日本海海戦」 これの最も大きな勝因は無論「旅順攻略」 その熾烈な攻防で乃木は多くの日本国民を失う。 その中、実子戦死の報を受けた乃木は たった一言「よくぞ死んでくれた」と。 心中いかばかりか・・・。 「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」
んじゃ、乃木ネタでひとつ。 日露戦争後のある年、乃木は私用で長野に赴いた。 秘密にしていたのだが結局そうはいかずつかまってしまい、長野師範学校で 講演を行うよう頼まれた。 講堂に満場の生徒を前にして、校長が乃木の赫々たる武勲を紹介し、 登壇を促したのだが、乃木はどうしても承知しない。 それでも無理強いされるので、乃木は止む無くその場に起立し、たった一言 「諸君、私は諸君の兄弟を大勢殺した乃木であります」 と述べ、あとは言葉もなくただむせび泣いた。これを見た満場の教師・学生も皆泣いた。 (長野県は東京第一師団の管区で、同師団は乃木第三軍に属して多数の犠牲を出している) 乃木のこのたった一言の講演は、長く感動を以って同地に伝えられたという。 それから、ヤマトさん。ここで引用するならむしろこっちだと思うんだけど・・・・・・。↓ 皇師百万強虜を征す 野戦攻城屍山を為す 恥ず我れ何の顔ありて父老に見えん 凱歌今日幾人か還る いや、ま、別にいいんですけどね。
369 :
名無し三等兵 :01/12/06 23:20
いわゆる「プラハの春」を、叩き潰したソ連軍。 最先頭でチェコスロバキアに侵攻した部隊の内部で、士気の低下が問題となる。 「何故、何のために、ここへ攻めこまなくてはいけないのか?」 「反革命分子からの解放というが、ソ連より生活水準が高く、美しい国を、 力ずくで蹂躙してよいものか?」 これに対するソ連軍参謀本部の回答は、第一線部隊をただちに交替させ、 本国に帰った部隊を鉄条網で囲まれた駐屯地に隔離、 満期除隊の近い召集兵を片端から除隊させた上で、 残った将校と兵士を、根こそぎ中ソ国境へ転属させることだった。
>平八殿 いたみ入る次第であります。 他スレも含めて貴殿の造思の深みと博識には感服致しております。 詩人とも謳われた乃木希典大将の、息子訃報時の感は貴君の揚げられた詩の方が 人の親としての心情が出ていますね。 私の揚げたものは親という立場よりもむしろ 一人の人間としての「争いに対する無常と無念の感」を歌ったものですね。 乃木大将の、「自身の立場と家族への愛情」との葛藤を考えると やはり貴君の揚げた詩の方が適切ですね。 自身の見識、思索、まだまだ甘いものと認識する次第です。 有り難う御座います。以後も示唆頂きたく思います。
371 :
名無しコテハン :01/12/07 00:22
>ヤマトさん
あ、いや。恐縮です。貴君の仰る通り、「戦争の無常さ」を詠った詩句としては
「山川草木・・・・・・」も捨て難いですね。
最愛の息子を失ったにも関わらず、そのことを詩文にすら出さない乃木さんは矢張り
偉いと思います。ステッセルも「この正面の戦闘に二子を失い給いつる閣下の心如何にぞ」と
問うて、
「二人の我が子それぞれに死処を得たるを喜べりこれぞ武門の面目」
と答えた乃木に感服して、
「自分は乃木大将のような名将と戦って敗れたのだから悔いはない」と語っていた
と言う話ですし。
(なんでもステッセルは、自分の息子を安全な部署に移していたらしい)
まあ、マターリマタリしませう。
>>369 ひどい話ですね。ベルリン攻防戦の際も、第一線の部隊は軍旗厳正なエリート部隊だったけど
後続の部隊はブタだったという話を思い出しました。
>>371 うぎゃあ、しまった。名前欄変えるの忘れてたYO・・・・・・
鬱陀逝きます。
すべからく意を同じて候 「マターリ」 初代スレのヤウに・・・。
いいかげんサゲを覚えてくれ、頼むから!>ヤマト
375 :
名無し三等兵 :01/12/07 12:13
あげ
>>368 横レスだが、いい加減そろそろ乃木さんの名誉を回復させてあげたいと
読んで思ったよ。
>376 おいおい、回復すべき名誉って何さ? 軍人として彼はあまり誉められた人間じゃない、ってことと 彼が個人としてどういう人間か、ってこととは同一の次元で語っていいことじゃない。 そこんとこをごっちゃにすると某(元)漫画家みたいになる。 そうしたあたりをきっちり分けていかないと、 このスレの大事な部分がウヨサヨ論争にとって代わられてしまいかねない気がするぞ。
>>377 ベトンで固められた永久要塞を、ろくな装備もない状態で早期に攻略しろ、
という大本営や満州総司令部からの無茶な命令を粛々と従ったがために、
戦後、無能だの人殺しだのと罵られる乃木はやはりかわいそうだと思うよ。
「坂の上の雲」は、あまりに乃木や伊地知を悪く書きすぎていると思う。
>365に戻る
ちょっと古いですが1997年6月の「防衛衛生、自衛隊医 官の今昔、第36回中部防衛衛生学会特別講演 阪神桜美 会長 細江 重氏」から抜粋。 次に災害派遣について申し上げます。 私が部隊勤務に就きまして間もなくの頃、第7表のよ うに(昭和28年7月の和歌山県集中豪雨、死者1000人以 上の惨事であった)続く長雨に因って、和歌山県のリアス 式海岸に注ぐ殆どの河川に、膨大な量の土石流が流出し県 内殆ど埋め尽くされ、海岸線に沿う鉄道や国道は全部ずた ずたに切断、各村落は殆ど孤立状態となりました。 昭和 28年7月20日伊丹駐屯地に非常呼集が掛かりました。 集結 、命令受領、準備も急げ急げにて、緊急の災害派遣が始ま りました。 第8表の如く、サイレンと赤ランプのもと休 憩も無く到着してみれば、想像を絶する汚泥の海、死体、 汚物、腐敗、塵埃、等の耐えられない悪臭の中、必死の救 出と、食料と水の緊急輸送配分が開始されました。 私た ちは派遣隊本部救護所にて診療開始。
さて翌朝、巡回中の日赤救護班から、奥の町に右腕の挫 滅症に因る瀕死の女の子がいるから、何とか助けてやって 呉れ、と言う電話が入りました。 早速作戦を立て数名の 隊員と共に担架と治療材料を携行し、患者後送の手順を打 合せ、当時はまだヘリの装備がないので救急車の手配を整 え、出発しました。 道路は全部泥沼、したがって山の尾 根を伝って奥へ入らねばなりません。 山を越え只歩くこ と数時間、目的の町へ到着、宛先を捜し当て早速診察しま すと、女の子は、高熱にうつろな眼、一見衰弱、脱水、著 明。 右上腕内側部の大きく抉り取られた挫滅創は汚染と 化膿で非常に不潔でありまして、上肢全体は極端な浮腫を 認め、まさに敗血症寸前の状態でありました。 応急手当 と処置、注射、投薬の後、母親と妹に、女の子であります が残念ながら右手は切断せねばならぬかもしれない。 出 来るだけ早く高度の治療が必要であるから、和歌山医大病 院へ後送したい。 すぐ準備をしてください。 と了解を 得て本部と相談し、救急車を可能な限り山の中腹まで揚げ る様依頼して、さあ患者の搬送です。 我々みなで担架を 担いで約3時間、坂に加えてぬかるみに足は取られ、滑る は転ぶはまさに泥人形となって、辿り着き、やっと母親と 患者を救急車に乗せて扉を閉め”医大病院まで頼むぞー” と祈る気持ちで送り出したあの時を今でも覚えております。
時移り、お互いに判らないまま年を経ておりました処へ 、一枚の葉書が届きました。 あのときの女の子でした。 びっくりしましたが、手が無くなってどう生きてきたの だろう、苦労の今までだったろうな。 しばし呆然として おりました。 松島前方面総監のお力添えによって、平成6年12月6日総 監部に於いて41年ぶりの再会を取り計らっていただき、本 人、お母さん、妹さん、担架を担いで呉れた当時の衛生科 隊員とで、涙、涙の握手ができたのです。 みんなおじい さん、おばあさんになりましたが、なんと奇跡的に、彼女 の腕は大きな傷跡をのこして居りましたが、完全に治って おりました。 新聞記者に取り囲まれての、夢の様な出会 いでありました。 第9表は新聞の抜粋でありますが、我 々は唯為すべき事をしただけの事が、こんなに感謝されて 良いのだろうか。 嗚呼、医療従事者になって良かった。 自衛隊は何と有機的な力の在ることか。 あの草創の時代には、町に出れば、また電車に乗れば、 税金泥棒と罵られ、じっと耐えて横も向かずに直立して吊 り革を握りしめて通勤したあの我々にも、こんな幸せが待 っていたという思いに感動せずには居られませんでした。 現在は国外へも派遣される自衛隊であります。 天網恢 々疎にして漏らさず、何処かで神様は見ておられます。 また人を助ける任務の多い自衛隊は、感謝を受ける機会に 多く恵まれているのです。 真剣に自己の職務に燃えて、 誇りを持って奮闘努力していただきたいのであります。 以上、謎の関係者でした。(長文申し訳ない)
>>380 軌道修正感謝します。
現在でもまともな評価さえされていない自衛隊員の方々のことを
考えると、泣けます。
384 :
名無し三等兵 :01/12/08 09:18
ネタ切れは悲しい。 あげ!!
385 :
名無し三等兵 :01/12/08 09:42
戦略的に誉められた事じゃないけど騎兵科が廃止されそうになった時、 割腹嘆願した騎兵出身の少将ってだれ?
386 :
名無し三等兵 :01/12/08 21:07
人が集まれば新しいネタもくるかな 期待age
387 :
名無し三等兵 :01/12/08 23:30
泣けるとこまではいかないが、山の賑わいで… 「震電」はエンジンとプロペラが後部にあるため、そのままではプロペラが 機外に脱出した搭乗員をはねてしまう。 設計時の会議で緊急時のプロペラの処置が問題になったとき、空技廠飛行実 験部の大尉は、 「戦爆連合の火網に突っ込む搭乗員の身になって欲しい」 と、プロペラの除去を強く要求し、「技術的に不可能」と拒否する技術大尉 との押し問答の末、自分より先任の相手を殴ってしまった。 その場は大尉の上官の仲裁でなんとかおさまり、震電の仕様に、緊急時にプ ロペラを簡単かつ確実に除去することが盛り込まれたそうな。 (「異端の空」渡辺洋二著より)
388 :
名無し三等兵 :01/12/09 01:29
泣ける話かどうか、わからないんだが。 私が佐世保で仕事をしていたとき、 同じマンションに、アメリカ補給艦の乗員が住んでいた。 一度、そいつの部屋に遊びにいったことがあるが、 きれいな日本人の現地妻?が、コーヒー入れてくれて、 「ネイヴィか、トップガンみたいだな」「アーハッハ、俺たちゃ”ラスト・ガン”さ」 世間話で盛り上がった。 しばらくして、俺が出勤しようとすると、ドアの前にアメリカ海軍憲兵、SPが、 通訳を連れて立っており、 「この下に住んでいた米兵について、何か知らないか?」 「どうかしたのか?」「脱走したんだ」 あのひとと一緒に逃げたのか・・・・・。 「知らないねえ」 逃げ切れるかどうか判らんが、「駆け落ち」なら、幸せでいろよ、と・・・。 俺も転勤で佐世保を離れたから、その後のことはわからない。
390 :
名無し三等兵 :01/12/10 00:03
ネタ無しで申し訳ないが 俺も期待age
391 :
名無し三等兵 :01/12/10 00:27
388です。 情けなくて泣けるネタね。 まだ「ミッドウェー」が現役だった頃のお話。 佐世保港にはさすがに大きすぎて接岸できず、沖に停泊して、 佐世保市街から少し離れたところに、交通艇を行き来させて乗員を上陸させるんだが、 その時、たまたま俺が乗ったタクシーの運転手さんの話。 (元は佐世保弁ですが、訳します) 「アメリカ海軍の水兵が、タクシー止めて、海軍基地へ行ってくれ、って言うんですよ。 そりゃ、お客さんですから、乗せますよね。 基地のゲートの前まで来て、自動でドア開けるでしょ。 そうしたら、ダッと走り出て、ゲートの中に逃げ込むんですよ、そうなったらおしまい、 わたしたちが、すいませんが料金を、って、言っても取り合ってくれません。 わたしの会社だけでも、もう何人も何人も、同じ手口でやられてるんです。 世界最強の第七艦隊が、えらくセコいことですよね・・・」
392 :
名無し三等兵 :01/12/10 00:41
388です、続き。 その、アメリカ海軍の水兵が、夜中の商店街、 ビールの自販機を蹴飛ばして叫んでる。 素面の時なら放って置くんだが、こっちも飲んでておせっかい。 (元は英語ですが、訳します) 「どうしたんだ?」 「おい、日本人、聞いてくれ、何で缶ビール一個が2ドルもするんだ? 基地なら3ドル払ってみろ、半ダース持って帰れるぜ。 クレイジーだ、どうなってんだ・・・・」 街中の居酒屋で、ビール一本で粘るのがアメリカ水兵。 助手席にショットガンつけた海軍ナンバーのハイエースを回転寿司に横付けにして、 「テイクアウト・パックのスシ」食いながらパトロールしているのがアメリカ憲兵。 居酒屋と言わずスナックと言わず、ドンチャン騒ぎが海上自衛隊。 「カネを落とさなければ客にあらず」、 護衛艦隊が入港すれば商店街に、「歓迎・護衛艦隊」の横断幕が出るんだが、 アメさんの軍艦は、何が入港しても知らん振り。 (原潜だけは、テレビ放映されるけど・・・・)
地域によって随分違うんだなあと勉強になる話ですね。 私は御殿場のキャンプFujiのそばなんですがここでは余りその類の話は無いです。 地元との交流を図る無料ボランティアの英会話教室に通ってたので色々話は聞きましたが・・・ 地元のヤ印とはかなり色々あったようだけどカタギの地元民にはとても紳士的だった様です。
>>392 アメさんも、一応外国の港だからあんまりハメを外せないんですかね。
ちょっと気の毒。ところで、
「計算に自信が無かったら、自分の見積りの倍払え」
の旧軍の伝統はまだ残っているのでしょうか?
>>394 うちの弟、陸自(練馬にもう20年近く)なんだが、
おう、これでいいか? というオーバーペイは健在かと思われ。
396 :
名無し三等兵 :01/12/11 02:04
日本軍の、捕虜収容所での話。 アメリカ兵の捕虜も、捕まった時の階級に応じて、分隊編成を取るんだが、 ある分隊の分隊長、軍曹が看守の軍曹に訴えた。 「煙草をくれないか、いや、俺が吸うんじゃない、部下が欲しがっているんだ」 昼間は、駄目だ!と、取り合わなかった軍曹も、同じ軍曹の気持ちはわかる、 規則破りを覚悟の上で、夜、ひそかに「誉」をアメリカ軍の軍曹にプレゼントした。 やがて収容所が移転、アメリカ軍捕虜も移送されることになり、 ぞろぞろと歩く捕虜の中で、聞き覚えた日本語の号令詞、 「カシラァ、ナカッ!ホチョウ、トレッ!」 一糸乱れぬ見事な分列行進で進む分隊、先頭はくだんの煙草をもらった軍曹、 「カシラァ、ミギ!(以下、英語)XX軍曹殿に、敬礼!」 捕虜の身でできる、軍人として精一杯の御礼、 言うまでもなく、日本側の軍曹も、敬礼で答えた。
397 :
名無し三等兵 :01/12/11 03:06
>>396 泣けるね〜。
この日本の軍曹がもしBC級なんかで捕まったら、
そのアメリカの軍曹は自分の立場も考えずに弁護してくれるんだろうな・・・。
なんて妄想して余計泣けた。
398 :
音速雷撃隊 :01/12/12 01:04
他スレに書き込んであった物の丸コピで申し訳ないが切なくなった 名無し三等兵 :01/10/28 15:15 ID:acidLOfo 母の従兄弟の父(なんていうんだ?)は学徒動員で飛行機を作っていた。 ジュラルミンを切ったり、旋盤で鉄棒を切ったりしていたそうだ。 特攻隊のニュースがラジオで流れたとき、 「この飛行機に乗る兵隊さんも帰ってこんのか。」と言って、班の人達は 大人も子供も泣きながら仕事をしたそうだよ。
>>396 良い話や〜
当時の軍の捕虜に対する対応は酷い話が多いけど
以外にこの手の話ってあるなー
400 :
名無し三等兵 :01/12/12 03:58
401 :
名無し三等兵 :01/12/12 15:06
冷戦時代となっても、神風特攻隊は日本を守ってくれていた。 ソ連の戦闘機乗りの話 「日本自衛隊パイロットは極めて練度が高く、 ファントム一機と互角に戦うには2機のMig25が必要だ。 彼らの先輩パイロットは第二次世界大戦で『特別攻撃隊』として死を恐れずに戦った。 燃料切れ、弾薬切れ、傷を負った自衛隊パイロットは死出の旅路に『体当たり戦法』を敢行する可能性が高い。」
402 :
名無し三等兵 :01/12/12 15:11
>>401 やっぱり強烈なイメージってのはずっと残るもんなんだね
歩兵のイメージも白兵戦に強くていきづまったら
バンザイアタックなんだろうか(w
>402 ご名答! 陸上自衛隊についても 「硫黄島や沖縄作戦における『玉砕戦法』も受け継いでいるであろう」 と評価されていました。
404 :
名無し三等兵 :01/12/12 16:03
玉砕はどうかなぁ・・ アメリカ軍も綺麗に死んでくれて喜んでたんじゃないの? それとも死を恐れないことを評価しているのかな?
405 :
名無し三等兵 :01/12/12 16:16
>>404 敵となって見れば死ぬのを恐れない軍隊ほど嫌なものはないと思う
基本的に全滅させないと安心できないわけだからね
バンザイアタック自体は一気に殲滅できる機会なので喜んだかもしれないけど
(前線兵士はたまったもんじゃないだろうが)
硫黄島や沖縄みたいなやりかたされると嫌だろうな
>404 「奇麗に死んでくれて」って意味不明だぞ。 ほんの少しでもマジメに軍事を勉強すれば、 「死ぬまで戦う」というのはいかに常識はずれなことかはわかる。 敵からしたらそれって一番恐ろしい。 こっちは「生き残って故郷に帰る」ことを目的にドンパチやってるのに、 相手がその最低限のお約束につきあってくれないのだから。 軍人としての最低の前提条件がかみ合わない以上、 その齟齬がどんな被害をもたらすかは誰にも予想できない。 軍事においてこういう不確定性こそが一番恐ろしいのです。 「相手を評価」とか、そんな寝ぼけた発想から言ってるのではありません。 圧倒的な数で取り囲んでも降伏もしない、砲撃加えても退かない。 攻めてるほうからしたらキモチワルイの極致です。
407 :
名無し三等兵 :01/12/12 17:37
あー万歳アタックのことをいってるんだけどねぇ・・・ 死ぬまで戦うというのと死ぬために戦うっていうのは違うと思うんだが・・・ 万歳アタックしたらそれこそ不確定要素が少なくなってしまう そういった場合、ゲリラ戦みたいなどで攪乱されることをもっとも恐れるんじゃないかな?
ああ 失礼・・ 泣ける話のスレッドでしたね
409 :
音速雷撃隊 :01/12/13 00:32
親のスネかじってる様な子供でもネットに入ってこれる時代になったからなあ。 厨を相手にする優しい人には感心します。
むしろ子供がネットできない時代がキモイし、子供が居ると何も出来ないオタが気持ち悪いが。 厨を何とかするのも大人の義務だと思うがなにか? 一々過敏反応する大人が居るこの国も、色んな意味で泣ける話やな。
超音速特攻の桜花に感動した過去を引きずっているくせに、なんと大上段な物言い(ボソ。
412 :
名無し三等兵 :01/12/13 01:53
昔の「タミヤニュース」にあったネタを、記憶で書くんで、 間違いがあったら、ご指摘を。 スミソニアン博物館で、ある日本軍の航空機を復元することになり、 まずは完全に分解して、状態を精密に調べることになったんだが、 作業中に田宮模型のスタッフがスミソニアン博物館を訪問し、 「丁度よかった、ここに刻んである、日本語なんだが、 日本軍のマニュアルにはない言葉だ、訳してみてくれないか?」 主翼内側、生産工程でしか書けないところに、とがったもので殴り書き、 「八重ちゃん、愛している。俺、やける」 国民総動員で、男も女も関係なく動員された軍需工場で、 工員のひとりが、動員された女学生あたりを見初めたのだろう、 しかし、戦時下で、ロマンスの生まれる余地もなく、 思いのたけを、思わず飛行機の内側に書いたにちがいない。 工員さんと、「八重ちゃん」が、大東亜戦争を生き抜き、 幸せになっていてくれれば、と思うのは私だけであろうか。
昔、父から聞いた話です。 近所に父の仲のよかった先輩がいたのですが、その人は海軍で 整備兵として航空母艦(名前失念 最終的に隼鷹に乗っていたようです)に乗り込んでいたのですが、 ある日同郷の方が南方前線に移送されるため乗り込んできたそうです。 早速その晩こっそりデッキで会って言葉を交わした二人。 その中で「あ〜 今日は郷里の祭の日だな」って二人で思い出して 楽しかったことを語り合ったそう。 しかし、その後すぐにその二人の乗った艦は潜水艦の攻撃を受けて沈没 整備兵をやっていた方は波間をさまよってなんとか助かったのですが、 乗り込んできた方は助からなかったそうです。 「毎年田舎で夏祭りがあるたびそのことを思い出す」と言っておられたそう。 郷里の夏祭りがあると毎年どこに住んでいても必ず帰りたくなるものです。 例え戦場においても思い出すのは郷里のことなんだとしみじみ感じます。 つまらない話でした 文章が下手糞でスマソ
414 :
名無し三等兵 :01/12/13 05:17
>>412 ,413
なんか胸に染み入る話ですね
やはり人間死地に赴く時に心にあるのは愛する故郷や人々なんでしょうね・・・
>>412 なんか凄いロマンスを感じるなぁ。こういう話には弱いです。
一方で
>スミソニアン博物館で、ある日本軍の航空機を復元することになり、
これが震電だったらなぁ、と思ったりして(っていうか、せめて今ダラス近郊に
作っている新しい博物館には入れて欲しいです。)そんなわけないか…ハァ。
ところでその八重ちゃんって下の名前は花桜…
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
通常は半分が戦闘不能になったら「全滅」と見なされるそうです
>>412 リアル厨房や工房の頃、授業中にノートの隅に好きな娘の名前を書いたりしたのを
思い出したよ。ドキュメンタリーや書物の中で、戦時中の日本人は現代人とは似ても
似つかぬ超人だけど、爺さん婆さんを身近に感じるいい話だね。
418 :
名無し三等兵 :01/12/14 06:42
秋山好古、弟真之の死後の追悼会の席上にて 「弟真之には、兄として誇るべきものは何もありません。が、しかし、 ただひとつ、わたくしから皆様に申し上げておきたいのは、真之はた とえ秒分の片時でも、『お国のため』という観念を捨てなかった。 四六時中この観念を頭からはなさなかったということです。このこと だけははっきりと、兄としていい得ることです。」 弟が『智謀湧くが如し』『日本海軍きっての天才参謀』といわれ 日本海海戦の大勝利の立役者の一人と世上評価されていたことに に触れず真之の愛国心だけを褒め称えている。 兄だけが、世上の虚名に惑わされず、一人の愛国者として生涯を 貫いた弟の真価を見抜いていたというお話ですね。 約二十年後、陸軍参謀本部にいたノモンハン大敗の立役者 「陸軍きっての天才」と呼ばれた某参謀に もし秋山兄弟の1/10ほどの純粋な愛国心があれば・・・と思うと別の意味で泣ける話であります。
>418 うーん、ノモンハンのあのヒトははたしてどうか。 「愛国」の前提条件がすべて間違ってるヒトでしたから、 たとえ純粋な愛国の情があったとしても 結局はよりアホな行動に出た可能性のほうが……(w
其れは、ラーゲリと言ふ強制收容所での話だつた。 當時其處には捕虜とて大茂名帝國軍の捕虜が 強制勞働に課せられてゐた地でもありしさうだ。 其處に1人の重病人が居たさうです。 ああ…も、もう家には帰れないんだろうなぁ 死ぬ前に1度…パイナップルが食べたい ___ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ___|_ /_了´Д`) ∧∧ ( ⊃ )⊃ (=Д= ) し__)) ⊆⊂´ ̄ ソ _∧__________ 弱音を吐くな!!!俺がパイナップルを手に入れてやる 絶対!!だからそれを食べて生きろ!!絶対だ!! (こいつはもう駄目だ…せめて死ぬ前には良い思い出を…)
さうして彼れは約束を果たす爲に 飯炊き等の手傳いに來てゐた、 ロシヤ人のお婆殿にパイナップルを呉れと頼むのでしたる バブーシュカ ヤー欲しいアナナース(片言ロシア語) __ _______ ∨ ___ /___|_ ?? /_了´Д`) ∩ ∩ ( )⊃ (´∀)` ) | || ( 彡 ( ) ) ( ( ) ※※※※※※※※※※※※ ______∧______ アナナース?難しいよ手に入らないよ 無理だと思うけど頑張ってみるよ(流暢なロシア語) 固より不可能なのは承知 然乍ら捕虜たる彼れは 此のお婆殿に望みをかけるのみなりき
さうして數日後お婆殿が遣つて來たるが やはり期待は出來ず ごめんよぉ頑張ったんだけど是しか ___  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /___|_ /_了´Д`) ∩ ∩ ( )⊃ (´Α)` ) | || ◯⊂( 彡 ( ) ) ( ( ) ※※※※※※※※※※※※ __Λ______ ヤープラカ?ニェットアナナース? 此のお婆殿が命がけで リンゴを探してきてくれたるは 痛いほど解る。 まして、お湯のしか思へぬ樣な ご飯しか食べれない自分逹から見たら リンゴなんて夢に見るほどのご馳走 なれど戰友が求めてをるのはパイナップル… 途方に呉るゝ男… 此のまゝ戰友を見殺しにせるは出來ぬ。 然乍ら手元に有るのはパイナップルとは程遠い リンゴ… 現實は悲しすぎた
ああ…うまい…うまいよ 有難う…死ぬ前に…本当に有難う ___ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ___|_ /_了´Д`) ∧∧ ( ⊃ )⊃◎ ◎(‐Д‐ ) し__)) ⊆⊂´ ̄ ソ _∧__________ そんなことは言うな、今はじっくり味わえ 2人で喜び、生きてゐる素晴らしさを理解したる時間だつた。 其の後、此の重病人は移送され別の場所へと移されていつた。 此の時、料理人は思つた。 「もう日本に彼れは歸れないならん。 せめて本物のパイナップルを食べせしめ 上げる事が出來れば…」
悲しきお話ですね  ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ┃ Λ_Λ 。 Λ Λ ┃ ( ´∀`) || (゚Д゚,,) ┃〇──‐ < ______y__ > ┌──┐ < y > ┃### し|__)_) (::::::::::::::::) ( /つ ) ┃###  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ____________Λ___ 此の話には後日談があつてな 其の料理人が、帝國ホテルの主任料理長だつた時の事 ある男が尋ねてきたのだよ。 さう、シベリヤでパイナップルを食べせしめやつた重病人だよ 貴方のお陰で生きて歸つて是れたる本當に有難うと 其時、確信したるさうな 料理で人の命を救ふ事が出來るのだと
425 :
名無し三等兵 :01/12/14 22:18
>420-424 ええ話や。
>>420-424 戦友のためにリンゴをなんとかパイナップルに作り変えようとしたって話だな
いい話だのぅ
>>421-422 60万もの壮丁を拉致りやがったロスケは憎んでも憎みきれん相手だが、
このお婆さんのような親切な人もいたんだよなあ。
ハルトマンらが捕虜収容所に押し込められていた時、
「彼らには罪は無い。祖国へ返してやるべきだ」
って収容所の近くの住民が詰め掛けたことがあった、って話を思い出したよ。
ロシア人は友人にするには最高だが、国家になると最悪ってどっかにあったな
渋谷健一陸軍少佐の遺書 昭和20年6月11日沖縄島付近にて戦死 山形県出身32歳 愛するわが子へ 父は死しても死するにあらず、悠久の大義に生くるなり 一、寂しがりやの子になるべからず、母あるに在らずや。父も又幼少に父母病に亡くなれど 決して明るさを失わずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死せりと聞かば、 日の本の子は喜ぶべきものなり。 二、素直に育て、戦い勝ても国難は去るにあらず世界に平和のおとづれて万民太平の幸を受ける迄 懸命の勉強をする事が大切なり。二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは 父に対しての最大の孝養なり。 父は飛行将校として栄えの任務を心から喜び神州に真の春を将来する神風たらんとす。 皇恩の有難さを常に感謝し世は変る共忠孝の心は片時も忘るべからず。 三、御身等の母は真に良き母にして父の在世中は飛行将校の妻は数多くあれ共、 母程日本婦人としての覚悟あるもの少なし。父は常に感謝しありたり。戦時多忙の身にして 真に母を幸福に在らしめる機会少なく父の心残りの一つなり。御身等成長せし時には 父の分迄母に孝養尽くせらるべし。之父の頼みなり。
あかん、一番肝心な箇所を入れ忘れてた・・・・・・鬱。 修正ついでにあげ。 愛するわが子へ 父は死しても死するにあらず、悠久の大義に生くるなり 一、寂しがりやの子になるべからず、母あるに在らずや。父も又幼少に父母病に亡くなれど 決して明るさを失わずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死せりと聞かば、 日の本の子は喜ぶべきものなり。 父恋しと思はば空を視よ。大空に浮かぶ白雲に乗りて父は常に微笑みて迎ふ。 二、素直に育て、戦い勝ても国難は去るにあらず世界に平和のおとづれて万民太平の幸を受ける迄 懸命の勉強をする事が大切なり。二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは 父に対しての最大の孝養なり。 父は飛行将校として栄えの任務を心から喜び神州に真の春を将来する神風たらんとす。 皇恩の有難さを常に感謝し世は変る共忠孝の心は片時も忘るべからず。 三、御身等の母は真に良き母にして父の在世中は飛行将校の妻は数多くあれ共、 母程日本婦人としての覚悟あるもの少なし。父は常に感謝しありたり。戦時多忙の身にして 真に母を幸福に在らしめる機会少なく父の心残りの一つなり。御身等成長せし時には 父の分迄母に孝養尽くせらるべし。之父の頼みなり。
431 :
名無し三等兵 :01/12/16 22:53
ロンメルはアフリカで捕虜になった英兵たちにも紳士的に接したため 敵からも賞賛されたのは有名すぎるかな その結果敵国の長、チャーチルからも演説で絶賛された〜
432 :
名無し三等兵 :01/12/16 22:55
>431 「物事を完璧にやってのける」ことが、英兵の間で、 「ロンメリング」と表現することが流行したほどですね。
433 :
名無し三等兵 :01/12/17 00:11
No room is allowed for knightship in this 20th century. この20世紀には、騎士道の成立する余地が無い チャーチル
434 :
名無し三等兵 :01/12/17 00:16
「紫電隊が増槽を捨てる、引き返すのかな?」 「ここで引き返さんと燃料切れになるからな。」 「・・・・いや、空になったんで捨てただけだ。」 「すまんのう・・・。」(松本零士) フィクションでごめん。
435 :
名無し三等兵 :01/12/17 00:20
>437 あったあった(藁 俺もそのシーンすきなんだよ。 「さようなら、君だけは未来に向かって飛べよ」ってのも あったね。
436 :
名無し三等兵 :01/12/17 01:51
泣けなる話ではないけど。 もう故人となった母方の祖母から聞いた話。 終戦後、米軍が進駐していた頃の函館。 食料事情の悪かった当時でも祖母は親戚の漁船から魚貝類を貰い 家の軒下で自家製の一夜干しを作っていた。 ところがある朝、乾物を取り込みに外に出るとあるはずの魚は 無くチョコとかクッキー、ガムなどの菓子類に変わっていた。 進駐軍が乾物を失敬した代わりに菓子類を置いていったらしい。 当時、祖母は一人で俺の母も含めて6人も子供を養っていたため、 夕食のおかずの喪失は手痛い事だったが貴重だった甘い菓子類に 子供たちは大喜びしたため、怒りはすぐに消えたらしい。 (もっとも当時は進駐軍に日本人は苦情を言えなかったらしい) その後も週に一度くらいの割合で朝になると乾物はお菓子に変わって その量も子供たちが1日で食べ切らない量に増えていった。 やがて祖母は早朝に通る米軍のジープを待ち伏せして、言葉は通じないが 礼を言い、ジープ一行の米兵とその中の指揮官とは顔見知りになった。 特に指揮官は度々、家を訪問してお菓子を置いてくれたらしい。 会話は出来ないが知り合いという奇妙な関係が続きながらも 朝の乾物と菓子の暗黙の交換も続いた。 冬が近づいたが日常の生活物資のために祖母は着物、衣類を売って しまい薄着で過ごすある日、その米軍指揮官が自宅を訪れて 菓子を置いて帰る時に、今まではしなかった子供たちに一人ずつ握手をしたので 祖母は「変だな?」と思った。 数日後の朝、祖母は干物を取り込みに外に出ると、お菓子ではなく コート、マフラー、毛布が家族7人分置いてあった。 サイズは合わずブカブカだったが冬を控えてとても助かったらしい。 その後、祖母は改めて礼を言おうとその米兵を待っていたが訪れることは 無く、乾物が朝にお菓子に変わっていることはなかった。 年月が経ち祖母はどうしても礼をしたく、50過ぎに渡米して通訳まで 雇ってその米兵を捜したが名前も分からず結局は探し出せなかった。 亡くなる直前まで祖母はその事が心残りだったとか。 長文、ごめん。
437 :
名無し三等兵 :01/12/17 01:54
でも最後まで生き残っていたらやっぱり「戦犯」になったかも・・・
439 :
お茶っぴき :01/12/17 02:04
干物好きの外人は珍しいな
>>436 いい話だなぁ。。
見つかればもっとよかったんだが
442 :
名無し三等兵 :01/12/18 00:29
小生が、部下にもっていた女の子の話。 彼氏が陸上自衛隊普通科隊員、デートは彼氏の外出日だけ、 こちらは土曜日曜が忙しい仕事だが、できるだけ希望に応えていた。 「今度の日曜、休みなんですか、ありがとうございます、デートですぅ」 ところが、その週末、台風が来て、 「チーフ、彼氏が災害出動なんです、会えません」 「う〜ん、こりゃ、どうしようもないなあ」 何となぐさめてよいか判らず、 「彼氏はみんなのために頑張ってるんだ、我慢をしなさい」・・・すると、 19歳の女の子なんだが、けなげにも、 「私、自衛官の彼女ですから・・・」 小生が転勤した後に、元・小生の部下、 彼氏が満期除隊後、結婚したという話を聞いて、心から祝福した。
436−いいはなしですなぁ・・・その米兵達は 朝鮮戦争に行ってしまったのでは?
444 :
名無し三等兵 :01/12/18 01:33
>443 私も、それを考えていました。 考えたくないですが、見つからなかったのは、もしや・・・。
445 :
211111 :01/12/18 01:48
回天発進の重本俊一氏より、ガ島への駆逐艦補給作戦中にしみじみ 感じた事は、美しい大自然の中を航海していると、一瞬戦争の事など 忘れてしまう・・・大自然は美しい楽園であり、あらゆる生物を過不足なく 生かしている。その中で人間だけが、不必要な自我を頑強にしてゆずらず 自ら地獄を創造するという理不尽な事を平気でやるーーーよく考えましょう皆さん
>>444 戦死したりしていたのなら記録に残っているのでは?
448 :
名無し三等兵 :01/12/18 02:03
>447 そう、戦死などされず、たまたま、運命の巡りあわせで会えなかった、と、 思いたいですね。
448−きっとそうですよ、世界は広いですからね 大丈夫、大丈夫
450 :
戦中の書籍より :01/12/22 23:21
「海の軍神 特別攻撃隊」(ハワイ沖九勇士の本) 大本営海軍報道部 海軍省嘱託 土屋賢一著 昭和十七年四月三日発行 大本営海軍報道部検閲済 第四章「軍神・岩佐直治中佐」より 土屋氏が、岩佐中佐の生家を訪れる場面 〜前略〜 と正面の障子を開いて老婆の姿が現れた。 「わざわざまあ、東京からお見えか、直治のことですか」 老婆はそう言って挨拶する。(中略)そして奥の間に向かって 「おぢいさん、お客さんだよ」 と声をかけた(中略) 軽い咳払ひとともに、土間の掘炬燵に臥せっていた老翁が床に起き直った。 「失礼ですが、中佐の御両親様で―」 問ふまでもない。この老夫婦こそ軍神岩佐中佐を生み、育んできた偉大な両親、厳父直吉翁と母堂のてるさんだった。 「お目出度う御座います」 「いやいや、かへって御足労をかけまして、どうも有難う御座います」 〜後略〜 泣けるかは微妙だけど、最後の受け答えには、正直鳥肌が立った。
451 :
名無し三等兵 :01/12/22 23:23
ダンナハイケナイ ワタシハテキズ
452 :
名無し三等兵 :01/12/24 10:57
あげ
454 :
名無し三等兵 :01/12/27 00:49
ロシアの原子力潜水艦クルスクの乗組員コレスニコフ海軍大尉、 メモに記された最後の一節 13:15 第6、7、8区画にいた全乗組員は第9区画に移った。ここ第9区画に 23人がいる。事故の結果、我々はこの決定をした。だれ1人、上に上がること はできない 15:15 ここは書くには暗い。しかし、手探りで書く。チャンスはないようだ。 10―20パーセント。だれかが読むことを期待しよう。第9区画に避難して 脱出を試みる乗組員のリストはここにある。みなさんによろしく。絶望しないで
sage
456 :
名無し三等兵 :01/12/28 12:56
微妙に(いや大分)趣旨が違いますが。 皇国骨髄の臣 「何もいふことはありません」 たださういって若き隊長は黙つてゐる。 録音放送が暫くとぎれる。 報道員がそれを埋めるやうに だが遠慮しがちに あれこれと何かを聞く。 答は率直で、ふだんの通りで、 至極あたりまへのやうに短い。 唯必ずやりとげる気魄だけがひびく。 必ずやりとげるためには技術がいる。 若き隊長らはひたすら地図を研究し、 コムパスや分度器に余念がない。 それ以前の心事については遂に触れない。 言ふもの行はず、行ふもの言わず、 大事なほ且つ当然事。 まこと極まりてあたりまへとなる時、 真に人源にかへり、 その時始めて皇国骨髄の臣民となる。
うちの祖父の話。終戦後日本に引き上げ、その直後病死。 看病していた祖母がふと「この国はどうなっていくんでしょうね」と漏らしたところ、 祖父は咳き込みながらもこう言ったという。 「大丈夫だ。俺は信じているからね。あの子(息子。我が父親)や、多くの子供達が やがて大きくなってこの国を支えてくれる。さらに、その子供達も。 俺は、今いる全ての子供達、孫達を信じている。大丈夫だ、あの子達ならこの国を 立派に背負っていってくれる。だから、俺の仲間達も安心して散っていけたんだ……」 父も、そして今は祖父と同じ墓の下で眠る祖母も、この話をよく聞かせてくれた。 今の自分より若くして逝った祖父よ、今の日本はあなたが望んでいた通りの国だろうか、 とふと思うことがある。祖父が「信じている」と言ってくれた中には自分も含まれている。 そんな祖父や、戦争で亡くなった人々の思いに恥じない生き方をしたいと、改めて思う。
458 :
名無し三等兵 :01/12/29 16:13
ドイツの「エルベ」は何度聞いても泣ける。
457−そこなんだよ! 俺は自信が無い・・・
うちの祖父は父方母方ともに物心つくまえから居ない 話を聞かせてもらえたというのは羨ましいです 彼らは自分の住む国にいる多くの人たちの為に命を捧げたと思ってます 今は戦争も無く、歳の順から死んでいく正常な世界に子孫がいることを喜んでいると思いますよ
あげ
あげ
463 :
名無し三等兵 :02/01/04 13:24
>>436 ひょっとするとそのコートおいて二度と訪れることのなかった
米兵たちの部隊は朝鮮戦争の戦場に向かったのでは・・・・
464 :
名無し三等兵 :02/01/04 14:19
どなたか「これでよし百万年の仮寝かな」の意味を教えてくだされ。 語感が好きなんだけど、意味がわかんないのです・・・。
465 :
名無し三等兵 :02/01/04 18:42
>464 いや、そのままだと思うんすけど・・・・・・。あえて意訳カードを付けるとしたら、 「これだけ死力を尽くした末に敗れたのだから、もはや悔いは無い。 俺もここで腹を切り、特攻隊の英霊を追う。が、日本国は滅びない。 だから俺の精神も、日本と共に永遠に生き続けるだろう。 わかったか、鬼畜米英どもよ! お前ら如きがどうしてこの俺に、日本に勝てるものか。 百万年の後の世が、どう評価するか見ているがいい。」 ・・・・・・勝手な解釈でスマソ。
>464 うまいな〜
467 :
お茶っぴき :02/01/05 02:32
>465 う〜ん、うまく云えないが、何か違うような気がする。
468 :
名無し三等兵 :02/01/05 03:49
オレ的には 「とりあえず今回はこのへんにしといたる。 ちょっとじっとしとくけど、また来るから そのつもりでいろや」 という池乃めだかチックな捨て台詞。
>468 つまり、戦前の日本軍は池乃めだかだったって事でしょ?
>>464 「見るべきほどのものは見つ」(平知盛)ってとこじゃん?
あるいはレプリカント・ネクサス6型の
「お前ら人間には信じられぬものを、俺は見てきた……
オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ…
そういう思い出もやがて消える。時がくれば……涙のように…雨のよう
に…その時が、来た……」
という述懐に近いかも。
471 :
お茶っぴき :02/01/05 04:48
大西さんは、死ぬべき時が 来たから死んだんだと思うよ。 たとえ、勝ったとしてもね。 こないだの文藝春秋に遺書の全文が出てたけど、 あれを見ると激情で死んだ訳では決して無いと思うね。 傍で見るより理性の人だったような気がする。
>>457 正月早々泣かすなよ。俺も叔父貴がビルマで戦死した。
コギャルが跋扈しようが、援交しようがしたい事ができる平和な社会を喜ぼう。
せめて戦禍に散った方達への、敬意だけは忘れずに生きていきたいね。
473 :
お茶っぴき :02/01/05 04:55
>>471 すまそ、激情と理性の葛藤の末に訂正します。
464,468,470氏、レスありがとうございます。 でもまだ「百万年の仮寝」の解釈がいまいちわかりません・・・。 「この後百万年経っても日本は残る」的な解釈でいいんでしょうか?
>474 海の人的には、楠木の「今はこれまでなり」と同じなんじゃないのかなぁ、と思いますが。 ただ、大西さんについては「てめ、勝手に自殺してんじゃねーよ、ゴルァ」と思うので評価は 低いのですが。
476 :
名無し三等兵 :02/01/05 10:52
>>474 百万年というのは文字通り百万年というよりも、永遠という意味なんではないでしょうか?
要するに、百万年の仮寝は「死ぬ」という意味では?
だから僕は、「自分は沢山の人を死なせた責任を取って死ぬ。これで良かったんだ。」
と解釈しています。
>>476 たしかに「百万年の仮寝」は死を表現しているんだけど、むしろ「死ぬことは
たいしたことではない」というくらいの意味合いだと思う。
>>475-477 氏
あれは「死ぬ」という意味でとればいいんですか・・・。
つまりあの歌は満足して死んだ、という意味だってことなんですね、なんとなくわかりました。
479 :
名無し三等兵 :02/01/05 13:22
>ただ、大西さんについては「てめ、勝手に自殺してんじゃねーよ、ゴルァ」と思うので評価は >低いのですが。 あ〜あ (;´Д`)泣けてくる。 しなないでこうしてほしかったのに、というのはわかるが、 どうして「評価が低い」になるんだろうな。
480 :
お茶っぴき :02/01/05 19:14
>>480 様
いや、その時々こんな調子でちゃぶ台ひっくり返すんで泣けるんですよ、もう・・・
でも引っ張ってもしょうがないんで
お茶っぴきさまの御解釈の通りなんだろうと思うことにします。
>479 宇垣・大西コンビは、どうにも評価できないんですよ、すいませんです。 別スレで、81式さんが論理的一貫性のない人に憤ってますが、あれと同じで指揮官と しての任務以前に、自分のわがままを優先したこと、それ自体が海の人の中で消化でき 得ないのでありました。 本人は死んでしまえば、そりゃ目前に迫った敗戦と、その中で泥土にまみれてのたうつ 日本を見なくても済むでしょうが、じゃそこでハラキリで死んじまうことが、果たして彼らが それまで散々口にしてきた「愛国心」、そして「日本国」に一体どんな答えとなるのか、と いう点で、そりゃ単なる個人のわがまま、いってみれば自衛隊の迷惑も顧みずに市ヶ谷 でハラキリした三島と大した相違はないように思えるのでありました。 本人達を敬愛して尊敬し、あるいは親族にとっては、そう思ってる人間がいること自体 許せないことでしょうし、あるいは海の人という典型的に戦後生まれで先の大戦には 叔父らが関わっただけ(ベラ・ラ・ベラで戦死)な人間が、彼らを断じるのはどうかという こともありますが、海の人の思いとしては国賊とまではいわないまでも、これらの人たち に代表されるような、任務放棄・職務放棄は帝国陸海軍軍人の汚点の一つであると 思うのでありました。
483 :
お茶っぴき :02/01/05 20:56
海の人殿 私的には、宇垣・大西コンビって云う言い方は、 違うような気がします。 確かに、同期だし、ともにあの日死んだ訳ですが、 思想・行動、必ずしも一致している訳ではないと思うのです。 と云うか違っていると思います。 従って、俎上にあげるのなら別々にして頂きたいのですが・・・。
>483 荒っぽい言い方で悪いがどっちも似た様なもんだよ。 特攻の発案者としての責任を放棄して逃げた(敢えてこう書かしてもらう) 大西も、自分の自殺に未来のある他人を巻き込んだ宇垣も。 自殺するのも責任の取り方のひとつだし、本人達もそのつもり だった事も否定しないが、命令者としての責任の取り方では無い 、と思う。横レスいれてゴメン。
>483 仰ることごもっともで、また>480でのフォローありがとうございましたです:-) >484さんの仰るような、かなり乱暴な評価の仕方ですし、個人の人格と軍人としての 評価の分化がしにくい帝国陸海軍軍人では、ともすれば個人の人格に対する攻撃に なってしまいがちなので、このあたり表現を苦慮するところではあるのですが。
勿論、自分では個人の人格では無く、海軍の上級幹部としての
評価を書いたつもりだ。ただ、484の文章では個人攻撃にしか
見えない。
>>483 、すまない。
487 :
お茶っぴき :02/01/05 23:12
>>484 殿
いえいえ、気にはしておりません。
海の人、484殿ともに、軍人としての評価と
個人としての評価についてかなり気を
使われているのはよく判ります。
また、2人の行動は484殿のレスにもあるように、
命令者としての責任の取り方では絶対無いと思います。
(個人的感想としては、遺書に若い人の自決を戒める一文をしたためた大西さんより
玉音放送後に部下を巻き込んでの自決行を行った宇垣さんの方が問題だとは思っております。
その辺の所も含めて483のレスを書きました。)
ただ、敢えて云うなら、2人ともあのタイミングだから死ねたと言えるような気もするのです。
後の世に自分がどのように評価されても・・・。
488 :
名無し三等兵 :02/01/05 23:24
>>487 大西さんは「宇垣め。死ぬのなら独りで死ね」と言ったそうだ。
そして「なるべく苦しんで死んでやる」と割腹したとか。
軍人としての責任の取り方云々については、大西さんも宇垣さんも五十歩百歩
と言う人もいるだろうが、少なくとも大西中将の死に様にはニヒルを感じて好きです。
「大西は戦争に勝っても負けても腹を切っただろうな」と周囲は思ったそうです。
>487 ありがとう、気が楽になったよ。 実は大西中将の自決に関しては理解出来ない事もない。 ただ、死ぬ前に自分の口で説明すべきことが沢山あった筈だ。うまくは書けないが。
490 :
名無し三等兵 :02/01/05 23:40
>大西、宇垣中将 ある意味、良くも悪くも日本人だったのでしょうね。 当時と今では全く価値観が違うので、一概に 評価は下せませんが。 ある意味、負けた事の無い軍隊では仕方の無い話か、 と思うのは甘いでしょうか。
491 :
お茶っぴき :02/01/05 23:51
>486殿 敗軍の将、兵を語らずと言う考えでしょう。 ただ、将を語って欲しかったとは思います。 これを行ったのは、井上成美大将、高木惣吉少将くらいではないでしょうか? (もっとも、四方から矢が飛んできたそうですが。これも敗因でしょう。) 責任転嫁ということではなく、責任を取ると言う意味でもやって欲しかったです。 >488殿 やはりそうでしたか。納得です。 >490殿 負けた事が無かったのも敗因でしょうね。
>お茶っぴきさん 同意。少なくとも自分くらいは語って欲しかった。 大西中将なら、単なる自己弁護にならずに特攻隊の発案について語れたと 思うのだけど。
大西自身特攻の発案には自分自身を納得させることのできない 倫理的、道義的な呵責があったのだろう。 だから腹を割いた。
とても興味のある議論がなされているので僕も参加させていただきます。 何もしらないリア厨ですが、宜しくお願いします 基本的には宇垣中将・大西中将、共に軍人としても人間としても立派な人物だったと思います お二人とも最後まで責任を取ろうと考え自決なされた。 この責任感の強さは全ての人が備えているものではないし、素晴らしい事だろう ただ、どうしても納得がいかないのは特攻についてです たしかに部下に特攻を命じておきながら戦後何十年も生き残った軍人がいた中で この両中将のとった行動は自らも同じ行動を行った しかし宇垣中将は中津留大尉以下22名を道づれにしていますし(後に3機不時着) 大西中将の方は初めに反対はしていたとはいえ初めに特攻隊を送り出したのは中将自身です そのため個人的に両中将を褒め称えたい一方で心の中で何か引っかかります
495 :
名無し三等兵 :02/01/06 00:49
自決して責任と言うのは解らなくはないが、それってただの逃避だよね、 自決するならするで、裁判受けてからにして欲しかった。 どういう判決が出ようとも(おそらくは巣鴨で絞首刑だろうが)それを聞き届けてからでも良かった、 こういう日本的責任の取りかたというのは責任の所在を果てしなく曖昧にさせるので、 個人的には好きではない。
う〜ん、大西中将の歌の解釈は、私は違うようにとったけど・・・ 私の解釈は以下のとおり。 「軍事常識から見て、特攻隊は邪道であるのは明らかである。 しかし、この兵法により、アメリカの心魂を寒からしめることができた。 このことが、日本を今後の侵略から護ってくれるであろうし、日本再建の糧となるであろう。 しかしながら、この兵法を採用した私は、あるいは採用した前線に立っていた私は 100万年の間(永遠に)、理解されないだろう」
>496 米軍側は「crazy」であるとは思ったけれど、別に心胆を寒くしたりはしてないです。 そもそも、まともな帝国陸海軍軍人はみんな特攻戦術なんてモノが実効性もなく 単なる組織の肥大した自己を正当化のために「思いつき」で行われた「戦術」など と呼ぶのはおこがましい程度のものでしかないのは知ってました。 (大西さん本人だって、そんなことは百も承知だったでしょう) 特攻攻撃をいたづらに賛美するのは、特別攻撃隊として出撃していた人々を 逆に貶めバカにする行為に等しいのではないかと思いますが。 特別攻撃隊、あるいは何の護衛もなく送り出されて海の藻屑となった徴用船の 船員達や、弾薬も食糧もなく野山に朽ち果てた将兵達一人一人によって今の日本が あるのであれば、その意味を、いたづらな戦争賛美や国粋主義ですりかえるべきでは 無いと思います。
498 :
お茶っぴき :02/01/06 01:08
>46式中学生殿 「わが声価は、棺を覆うて定まらず、百年ののちにも知己がないかもしれん。」 大西さんの残した言葉です。 軍人としての職務、作戦ミス、作戦の外道である特攻、自己の心情。 これらが入り乱れているのです。 >褒め称えたい一方で心の中で何か引っかかります というのは、実に妥当な意見だと思います。
うーむ。よく判らないけど大西の自決って逃避しているのか? 俺には明らかに特攻発案の責任をすべて被って自決しているよ うに思えるんだが。 極東軍事裁判においての戦争犯罪に対しての追及は あくまで連合国軍兵士及び国民に対しての罪科の追求だと 解釈している。たとえ大西が特攻の発案者だからといって極刑 になるだろうか?
500 :
お茶っぴき :02/01/06 01:15
インパールの牟田口が、大した罪に問われていないのだから、 大西さんは死刑にはならなかったと思います。 ただ、宇垣さんは真珠湾攻撃時のGF参謀長だからどうだろう? 黒島先任参謀が問われていないから大丈夫なんだろうか? >海の人殿 そうですね。 心情というものを、利用しない事、利用させない事が重要だと思います。
>487 何というか、もう少し大西さんが特別攻撃編成にいたった経緯というモノが明らかに なってほしいなぁ、という気もするんですよね。 宇垣くんという「人となり」に関しては、まぁあの調子ですから、陸軍というものと自分の 存在意義というモノのあいだの境界線が曖昧になってしまったのだろうなぁ、とは思い ますが(そういう人間が出した命令で特別攻撃に赴いた人たちはたまったものでは 無かったろうと思います) 何しろ陸軍大臣の阿南までハラキリしてるくらいですから、上から下までということ なのでしょうが。 ただ、大西さんに関しては帝国海軍部内の人格的な評価を聞いても、そういった過剰な 組織との一体化や、何かの理想に目がくらんでということでもなく、実に淡々としているのが 印象的で、それがまた「なぜ?」というのが、本当に不思議なのでありました。 たとえば、これが大西さんしか航空の大家がおらず、かつまた組織としての帝国海軍の 中で、やたらと体当たり特別攻撃の機運が高まって、已むにやまれずということであれば 非常にわかりやすく、理解しやすいのですが・・・。 大井篤氏著「海上護衛戦」などを読んでいると、むしろ、そういう「機運」よりも海軍では 上から下まで「どうしよう、どうしよう」とオロオロしているうちに、あっという間に戦況が悪化 右往左往しているうちに内南洋は次々に失陥して敗戦という印象で、一部に「海軍歩兵 将校」と呼ばれるような先鋭な人はいたようですが、大西さんがそういう人間だったとも 思えず、かつまた帝国海軍全体として、特別攻撃を編成すべし、というような機運があった とも思えないのでありました。 もはや60年以上も経った上に、当時の資料も散逸し、本人も死亡してしまった今となって は、その心中を推し量るのも単なる推測の域を出ることが無く、そんなわけで海の人は 疑問を持ち続けているのでありました。
>>497 右翼やウヨの常套手段ですね
僕もそう重います
>>498 えぇ、僕も大西中将が一番矛盾・やり切れぬ思いを感じていたと思います
ただそれでも実行せねばならなかったということが真の戦争の悲劇かもしれません
お願いですからウヨ・サヨ言わんで下さい。 スレが荒れます。
504 :
お茶っぴき :02/01/06 01:26
>海の人殿 確かに、後知恵と推測を避けなければならないので難しいのですが、 これより前に、城英一郎大佐とかが特攻について意見具申を行ってますよね。 それに比島では大西さんの着任直前、有馬正文少将の突撃があった・・・。 そのあたりも関係していると思うのですが・・・。
505 :
通りすがり :02/01/06 01:40
軍事のことはここの住人みたいに詳しくはないし、 日ごろ、自分でも空恐ろしく思えるほど怠惰に生きてる。 でも、このスレを読んで、明日から、もう少しまじめに生きてみようと思った。 英霊の皆さん、そして彼らの話を教えてくれたこのスレの皆さん、 どうもありがとう。 ちょっと酔っ払ってるってこともあるけど、1からずっと読んできて、 まじめな話、久しぶりに涙を流してしまいました。
506 :
名無し三等兵 :02/01/06 01:59
507 :
名無し三等兵 :02/01/06 02:09
>米軍側は「crazy」であるとは思ったけれど、 >別に心胆を寒くしたりはしてないです そうなのですか?私も徒な戦争賛美や国粋主義は 好きではないですし、戦術と呼べるか怪しいと思いますが、 よく、連合国軍側にかなりの恐怖を与えた、と言う のを聞くのですが・・・・ ただ、(ソースを思い出せなくて申し訳無いですが)、 戦後ソ連空軍が航空自衛隊のパイロットは錬度が 高く、機体が損傷したり弾薬燃料が尽きても 体当たりしてくる、と恐れた話なんかを聞きますと、 彼等の死其の物は決して無駄にならなかったんだな、 と思っています。
508 :
お茶っぴき :02/01/06 02:09
>>506 殿
ありがとう。
実は俺は後半のほうが泣けてくるのよ。
後半部分を見ると、理性の人なんだよね。
でも後半ってあまり知られていないんだよね。
509 :
お茶っぴき :02/01/06 02:10
自己レス ただ、特攻精神って言う部分の解釈は我田引水なんだけどね。
>>502 ウヨ、右翼をそういった特攻賛美の人間ばかりだと思わせるにも左翼の常套手段・・・。
といいたくなってしまうやつ(含む俺)がいるのでウヨサヨは良スレには禁句ですな。
次スレができるときは1のテンプレにでもそれを書いておいては?w
「現状」と言うだけで 有る意味泣ける話だなあ
>海の人さんへ 賛美しているつもりはなく、タンタンと書いたつもりなのですが、 賛美しているように解釈されるとは・・・。 「有効性はともかく、特攻も戦術的にはとりうる」 などと、心の奥底で考えていた自分が怖い。 逝ってきます。
513 :
名無し三等兵 :02/01/06 13:44
せんかんやまとは、いちばんつよくてでっかいふねだったです。 たいほうのたまは、ふじさんのにばいのたかさをとんで、こうきょからはちおうじまでとどきます。 いっぱつあたれば、どんなぐんかんもひをふいてげきちんします。 また、はずれたたまは、すいちゅうでぎょらいになって、せんたいをぶちやぶります。 9ほんのたいほうを12かいうてば、108せきのぐんかんがしずみます。 また、ひこうきようのたいほうのたまは、いっぱつが1500ぱつのこまかいたまにわれて ひこうきにおそいかかります。 9ほんのたいほうを12かいうてば、こうげききはみんなばらばらになってしまいます。 また、ぼうぎょもせかいいちでした。 いっぱつでふねがまっぷたつになってしずむひこうきのぎょらいを 20ぱつうけるまでしずみませんでした。 おおきなばくだんもかぞえきれないほどうけましたが、 さいごまでたたかってしずみました。 むかし、あじあのちいさいびんぼうなくにだったにほんは くふうしてせんかんやまとをつくりました。それは、せかいいちのぐんかんでした
514 :
名無し三等兵 :02/01/06 13:45
せんかんやまとは、いちばんつよくてでっかいふねだったです。 でも、せんそうがおわるころには、でっかいせんかん1せきより、ちいさいひこうき千きのほうが、だいじでした。 さいごのたたかいで、うみにはむすうのぎょらいがおそいかかり やまとはもうどこにしんろをとってよいか、わかりません。 ひこうきのみはりは、そらをあおいでなげきます。 「ああ、てんきがかいせいだったら、ひこうきようのたいほうのたまで、ちかよらせないものを」 かんきょうのわかいさんぼうは、おおごえでさけびます。 「ばかばかしい、こんなたたかいがあるものか」 そしてせんかんやまとは、だいばくはつをおこしてしずみました。 くちくかんにたすけられた、わずかのせいぞんしゃのなかには あのみはりも、わかいさんぼうのすがたも、ありませんでした. コピペです。なんか泣ける。
小学生向けの絵本でしょうか? 良ければどんな本か教えてください
516 :
513@帰宅 :02/01/06 18:40
コピペなので何が元なのか分かりません。 スミマセン。
>516 昔スレッドたってたネタスレ、「母と子の“軍事”絵本」からでは? 何となくそんな気がします。
518 :
名無し三等兵 :02/01/06 19:45
どうも特攻をこざかしい理屈でまとめてポイするのがcoolみたいな傾向があるなあ。 カミカゼを戦場にいた米軍人たちがどう見ていたか、 そりゃ軍事的に言えば海の人のように言うのが正しいだろうよ。 でもなあ・・・ アメリカ軍はむやみに怖がったり、それに対して無策ではなかったりしたことを 「だからへっちゃらだよ〜ん」とイージーに特攻のことをおもっていたことにはならんだろう? それに特攻を海の人のように語るのは、 すでにしてもう我々が1945年以前の「日本人」とは もう違う国の人間だ、ということなのでは、と思うんだが・・・ まあたぶんそれでいいんだろう。 それでいいんだろうな。 まあそれでいいんだろう・・・。
せんかんやまとは、いちばんつよくてでっかいふねだったです。 でも、せんそうのしゅやくは、ひこうきにかわってしまいました。 せんそうがおわる、てんのうへいかの、らじおほうそうのあと、 せんかんやまとのせっけいしゃに、けんぺいがやってきます。 はいせんで、もうぐんかんはつくれないから、しりょうしゃしんをぜんぶやいてしまえといいます。 せっけいしゃはおどろきます。 そんなことをしてしまったら、さいごのたたかいから、とうとうかえってこなかった ひこうきのみはりや、わかいさんぼうの「いきたあかし」が、なくなってしまいます。 でも、けんぺいのめいれいにはさからえません。 ずめんや、しゃしんは、みんなほのおのなかになげこまれました。 せっけいしゃはなきました。はいせんのらじおのときより、ふかくなきました。 続きです。これまたコピペ
>海の人さん 「日本海軍の爆弾」は読まれました? 大西中将が特攻に踏み切らざるを得なかった背景が、軍事技術的な側面から考察されていて 興味深いですよ。例えば、 「何故特攻ではなくて、スキップ・ボミング(反跳爆撃)にしなかったのか?」 とか。まあ、特攻隊のニュースが出た途端に士気がみるみる落ちてしまった、 なんて証言(岩本中尉)もあるし、おそらく永遠に結論は出ない問題でしょうが・・・・・・。
激しく概出なんだが 「大西は、たとえ戦争に勝ったとしても腹を切っただろう。」 彼を良く知る海軍関係者はそう言っていたようです。 玉音後、自ら腹を切った大西を見つけた朋友(スマン名前ド忘れ) が軍医を呼ぼうとするのを断り、介錯すら拒絶し、一昼夜血の海の中をのたうち、絶命しました。 追記 昭和20年5月、大西は軍令部次長として内地に帰還した。 官舎に独居して妻とは一緒に住まなかった。それを聞いた者が 「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めた。 大西は 「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。 614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」 と答えた。 大西の目には涙がいっぱい溜まっていたという。 大西には、最期には必ず自分も特攻隊員の後を追うという覚悟ができあがっていたのであろう。 しかし、自らにそのような覚悟があるからといって、 特攻が正当化されることはないということを彼は次のように語っていたようである。 「特攻は統率の外道である」 「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」 私は彼の生き様を肯定する気は無いけれど、少なくとも侮蔑する気には決してなれない。 彼の苦悩は平時の(平和ボケ)今、恐らく誰にも推し量ることは出来ないと思う。
522 :
名無し三等兵 :02/01/06 22:22
>>521 今の感覚ではおのれ1人の命なぞ
無駄に散らされた614人の命と釣り合わんわ!ボケ!
なのですが・・・・
>>523 全くその通りなのだが、時代と彼の立場を考えると
自己陶酔の無責任野郎とは犠牲者の家族でも言えないと思われ
組織と人情の板ばさみは経験してみないと解らんか…
\|/
/⌒ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ゜Θ゜)<
>>523 そうでもないよ。
| ∵ つ \___________
| ∵ |
\_/
情に流されてちゃダメ とはいえ… 泣けるなあ
527 :
>>521 :02/01/06 23:20
>私は彼の生き様を肯定する気は無いけれど、 >「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」 彼自身、己の生き様を否定していたのですね。 ああ、うるうる。
528 :
名無し三等兵 :02/01/06 23:29
>>521 深く思索しておられるようで・・・。
私は大西中将に対しての感慨を、ほぼ同じく関行男大尉にも感じます。
「ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて、日本もおしまいだよ」
という気持ちを持ちながらも出撃要請時 以下
「関、きょう長官がじきじき当隊にこられたのは、『捷号』作戦を成功させるために、
零戦に250キロの爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい、
という計画をはかられるためだったのだ。
これは貴様もうすうす知っていることだろうとは思うが、
・・・・・ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」
と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。
両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でおさえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。
身動きもしない。−−−−1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・・・・・・・
と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。
「ぜひ、私にやらせてください」
しんぷう特別攻撃隊作戦が成立した返事である。
ああ、鬱駄 530のカキコは527宛ネ
532 :
スレ違いだが :02/01/07 00:51
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html おまえら泣けるぞ
大和心とポーランド魂■
「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。
世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
不憫で涙が止まらなかった、という。
震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。
4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
しをしたのである。
大西中将はあの世で614人と向かい合って敬礼をしたのでしょうか。
534 :
名無し三等兵 :02/01/07 00:59
>529 母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に 立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。 愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか? 今の自分にできるかどうか考えると鬱堕。
535 :
名無し三等兵 :02/01/07 01:00
軍医はともかく、介錯を拒絶する覚悟に絶句・・・
536 :
名無し三等兵 :02/01/07 01:14
50年ほど前、一億総特攻とわめいていた連中が 手のひら返すようにアメリカ賞賛した。 良くも悪くも我々は彼らの子孫だよ。 今の日本人はダメだとか堕落したとか言っても、 実は根っこは変わっちゃいないのかもな。
537 :
名無し三等兵 :02/01/07 04:38
当時の帝国軍人の作法としては、やはり拳銃での自決がスマート。 簡潔だしまず失敗が無い。(ヒデーキはビビッて失敗したが) 脳漿が飛び散る見苦しさを除けばベストか。 それをあえて割腹。(しかも介錯拒絶)まさに「苦しんで死ぬ」のを選んだんだ。
538 :
名無し三等兵 :02/01/07 04:43
>>528 中の資料から転載
大西は 海軍次官の多田武雄中將と親交があった。 大西には子種がなく、
しばしば周囲のものに、「俺の家は二重の無産階級だ。」と、冗談を飛ばしている。
それだけに、多田の息子の圭太を赤ん坊のときから可愛がり、「ちょっと抱かせろ」
と松の枝のような腕の中で圭太を眠らせた。 その多田圭太が海兵を卒業し、
(兵科72期 昭和18年卒業)海軍航空隊員として比島に出陣した。大西の發令で、
彼も特別攻撃隊に編入され、「神風特別攻撃隊第二朱雀隊」の隊長機に乘った。
出發に先立ち、多田圭太海軍中尉は大西を長官室に訪れている。十月二十六日
の夜のことで、大西はそのときの模様を、かなりくわしく矢次一夫に語っている。
ー ある夜、外から俺の部屋をノックし、「オッチャーン」と飛び込んできたやつがいる。
ハッとしてみると、多田の息子の圭太で海軍中尉だ。 ベッドの前で擧手の禮をすると、
「これから行って參ります」といった。 俺がおどろいて「元氣でやれよ」といってやると、
圭太はすぐ部屋を飛び出していった。 俺も思わず圭太のあとから飛び出すと、圭太の影が
月明の中を走ってゆくんだ。 それからまもなくして(十一月十九日)「多田中尉、
いまより敵艦に突入す」という無電が入った。 俺は、多田とは親友だし、圭太は子どもの
ときから寢かせつけたり、相撲をとってやったりした仲なんだ。 だから、このときは、
じつに熱鐵を飲む思いがしたよ。
それから、俺は軍令部次長になって多田といっしょに仕事をしてきたが、多田のやつは
圭太のことを俺にひと言もきかないんだ。
俺も、ついに口に出せなかったが、ずいぶん辛かったよ ・・・ 。 ー
矢次は大西の話を聞きながら、「ああ、大西は死んだら自分に代って多田中將に話してくれ
といっているんだな」、と思った。 大西自刃の日、枕頭にかけつけた多田夫妻にそのことを
話すと、多田は瞑目し、夫人は泣き崩れた。
539 :
クジンシー :02/01/07 04:44
仮に大西さんがなにかの理由で生き長らえていたとしても、 裁判で死刑になりそうな事を確実に自分で言ったと思われ
>529 米軍人の心胆を寒からしめたという印象はあるが、 米軍そのものに対しての戦略的影響は無かったというのが妥当な評価だな 軍事ってのは言っちゃなんだが組織と組織の争いだ。 相互に相手の組織を崩壊させるために戦いを行なうわけで、 特攻という自分の足を食う行為がそれからはずれてることは認めるしかなかろ。 隊員を個人として賞揚すんのはそりゃ自由だし否定する気もないけど、 それを「組織として」行なったということには憤りを覚えざるをえんよ。 特に海の人氏の経歴からすれば、 そういう決定を責任者として行なってしまった人物が そうした決定を下した内情を語らないままに自害してしまったことで、 後世の人間が安易なロマンチズムに目をくらまされて またぞろ同じあやまちを繰り返す可能性を残してしまったことに 怒りを覚えてるんじゃあないかね? 先人の評価をやるときに、 「個人として」と「組織として」をごっちゃにするのはこの国の悪癖だと思う。 そんなことしたら過去の評価が全肯定か全否定のどちらかしか許されなくなるから。
542 :
名無し三等兵 :02/01/07 09:58
特攻については激しくスレ違い。 人格攻撃も他でやって欲しい。 折角の良スレなんだしね
「いくさに破れれば自分の命と引き換えに配下の命乞いをするのが武将であろう」 これを現代風に置き換えれば、敗戦後の指揮官責任になるかと。
544 :
名無し三等兵 :02/01/07 22:11
だから(゚Д゚;)、賢しらな理屈はいいからさっさと泣ける話を書けよ〜〜 ほんまになけてくるわいなあ〜〜( TдT)
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE-----
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一連の大西さんの人となり及び、特別攻撃に関する指摘及び、ご意見の数々
本当にありがとうございました:-)
特別攻撃及び、その指揮官に関しては、今までは部隊運用及び帝国海軍という
組織の命令系統に注目して考え検討していたため、ここで挙げられたような大西
さんを一個の人間として評価・検討する内容に関しては、正直言って大きく蒙を
開かれたような気がします。
戦争には、「魔の一瞬」あるいは「奇跡の一瞬」のようなものがありますが
別に誰というわけでもなく、ただ大西さんが「そこにいた」という「巡り合わせ」
によって、このような言い方は酷ですが、大西さんに指揮官として、また人間
としての地獄を見せたことを考えると、数多の攻撃隊員を送り出すたびに大西さん
は一緒に「死んで」いたのであって、その数、実に600有余回にわたって死の苦痛
を味わっていたのであろうと思います。
逆の見方から、結局のところ大西さん一人にその苦痛をすべて背負わせて
しまった帝国海軍という組織には、言葉もありません。
指揮官として「なすべきであった」こと、それとは全く別な人間個人としての
行動を理解することができたと思います。
もちろん海の人の「特別攻撃」に対する態度は元より変わりありませんが
これからは大西さんという人が、逍遙として背負った「重み」を理解し、念頭
においた上で、さらに奥深いところで、「特別攻撃」そのものの否定と、望むと
望まないとに関わらず、それに携わった人々への理解が得られたように思います。
繰り返しではありますが、どうもありがとうございました:-)
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=u+JG
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コピペで申し訳無いが・・・。 「今日われ生きてあり」は、平成3年、平成4年、そして平成7年に演劇として上演されていた。 原作者の神坂次郎氏にとって印象深かったのは沖縄の公演であった。 以下にその部分を参考文献より引用する。 公演で印象ぶかかったのは、四月の沖縄であった。 五十年前の沖縄戦で約二十三万人の犠牲者を出したこの地では、 住民に集団自殺を強制したと伝えられる旧軍への憎しみは深い。 その沖縄で旧軍の特攻のドラマがどう迎えられるのか、一抹の不安があった。 しかし、沖縄島を救うため死の飛行を断行した特攻兵たちに、沖縄の人びとの眼はあたたかい。 那覇から沖縄市へとつづいた公演は、全席売り切れという大成功であった。 その沖縄公演で、うれしい言葉をきいた。 当時、高女生であったというその女性は、 「特攻隊の突入のおかげで救われました」 という。 鉄の暴風と称われた米軍の間断ない艦砲射撃も、特攻突入のその時だけは、砲撃はすべて特攻機に向けられる。 女学生たちは、その隙を狙って洞窟から飛びだし、いのちの水を汲みに走った。 「いまでも、特攻の人たちには感謝しています」 と、その老女は涙をにじませる。 沖縄まできて、よかった。
おっと、足りなかった。結びの文は 「十八歳の敗戦のあの日から、五十年目の夏。 わたしの”戦後”は、まだ終わってはいないようだ」です。
548 :
名無し三等兵 :02/01/09 11:27
ヤマトさん、いつもありがとう。
57年前、昭和20年1月。比島・マバラカット基地。 前年10月以来特攻作戦を展開してきた第一航空艦隊も、圧倒的な米軍の前には 如何ともし難く、遂に1月5日、残存の零戦5機を以って最後の特攻攻撃を 行うこととなった。 この5機が出撃してしまえば、残った搭乗員達は陸戦隊となって玉砕する他無い。 誰もが出撃を熱望し、飛行長中島少佐の元に押しかけた。中島少佐は熟慮の末、 中野勇三中尉はじめ5名を選出した。 16時45分。猛烈な空襲の合間を縫って、発進が始まった。中島少佐は自ら特攻機を誘導し、 滑走路へと導いた。と、一番機の中野中尉が突然座席から立ち上がり、大声で叫んだ。 「飛行長、飛行長っ!!」 驚いて駆け寄った少佐に、中尉は満面の笑みを浮かべて、 「飛行長、ありがとうございましたっ!!」 夢中で手を振る少佐の前を、一番機が轟音と共に進発していった。 続く二番機も、 「飛行長、ありがとうございました!私を選んでくださって・・・・・・!」 三番機も、四番機も五番機も、みな同様であった・・・・・・。 たった5機の攻撃隊は、基地の上空を一度旋回して編隊を組むと、 夕陽に銀翼を輝かせながら、北方の空へと消えていった・・・・・・。 ・・・・・・ずっと昔に読んだ「神風特別攻撃隊」で、とりわけ印象に残っているシーンです。
>548殿 恐縮に至る次第であります。 この板の各スレを青眼するなれば 海の人殿、平八殿、他、古参コテハン諸氏に比して まだまだ己の見聞と思索、「狭し」と思っております。 拙者の紹介する話が諸氏の琴線に触れるものであれば幸いです。 が、的外れで独り善がりのカキコと感ずれば遠慮無く叩いて下さい。 それは己に提示された勉強だと受け止める姿勢を持とうと思っておりますので。 これからも感ずる話があれば紹介しようかと思います。 僭越ながら。
>>549 ♪や・い・ば〜もこおるう、ほおっかあ〜いのお〜。みいたあてと、たちて、にせんよおし〜。
アッツだのアンガウルだのこの世の果てのような孤島で、食も水も無く玉砕に追い込まれた
兵士達の運命を考えると、特攻隊員はまだ恵まれていたのかな・・・・・・と思わんでもありません。
水をさして悪いが、中島氏とある搭乗員の会話 搭ー飛行長!いくらなんでも桟橋に突っ込むのは残念です せめて、輸送艦に目標を変更してくれませんか? 中島ー黙れ!特攻の目標は戦果じゃあない!死ぬ事にあるんだ! 桟橋ならば爆撃でよい筈、この辺が中島氏が、戦後生き残りの搭乗員 から批判を浴びまくった原因だと思われる・・・正気を失っていた時期があった と思われる 硫黄島あたりの指揮、指示もかなりめちゃくちゃだったらしい 坂井さん位しか褒めませんぜ
まあ、中島氏の著述も自分に都合の悪い箇所は隠して、 相当美化されてはいるのでしょうね。 坂井さんも批判してませんでした? 「中島のところには行くな、行ったら最後、特攻にやられるぞ」 っつー噂が比島の搭乗員の中で囁かれていた、って。 一応そこら辺は割り引いて考えてるつもりなので、ご容赦を。
555 :
大西瀧次郎(意訳) :02/01/10 02:25
やるだけやった やれるだけやった 沢山部下も死なせてしまった 当然指揮官の漏れも死ぬのが道理だろう これしかなかったと言っても誰にもわかるまい ただ我々の死を見届けたものたちが もう一度日本を作り直していくのだろう 百万年も地獄にいれば 一度くらいは生まれ変われるだろう その機会が来たら 君たちの作った日本で 少し楽をさせてもらうよ
556 :
名無し三等兵 :02/01/10 22:03
大西中将と宇垣長官は、責任をとっただけでも立派です。 かならずあとからいくと言っておきながら、戦後のうのうと生き延びた輩のいかに多かったことか。
>>556 >宇垣長官は、責任をとった
1人で、逝け。
558 :
名無し三等兵 :02/01/10 22:13
>557 でた、あおりが! 左翼だ!朝日の手先だ!
>558 >でた、あおりが! 自覚はあるみたいですね。
つーかさ 生き延びて無罪の人間の盾になって欲しかったと思うのは俺だけ?
どうでもいいがもう泣けない話になってきてるのでよそでやってくれ。
☆ チン マチクタビレタ〜 マチクタビレタ〜 ☆ チン 〃 Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ ___\(\・∀・) < 泣ける話まだ〜? \_/⊂ ⊂_ ) \_____________ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | | .蒲郡みかん. |/
563 :
名無しさん :02/01/11 12:16
『私は、もうこれ以上なにもできない。
われわれの食糧も、撃つ弾も、なにもかもなくなった。
五百メートル前方には敵がいる。
母よ、妻よ、そして子供たちよ。
私はいま、この手記をうす暗いローソクの光のもとで書いている。
われわれの最後はもう近い。
この島が敵手におちたなら、日本の将来はどうなるんだろう。
山下将軍は、ついにレイテに来なかった。
青白い顔色をしたわれわれは、ただ日本の勝利を祈るのみだ。』
この手記は、リモン戦場で米軍の手にひろわれた、一無名兵士の
書き残したものであるが、このような悲痛な叫びを残して死んで
いった兵隊たちは、このほかにも数限りなく多い。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7954/
>>562 旧スレでも同じだったがキミの様なカキコが一番顰蹙を買うと自覚されたし。
自分が何も提示出来ない「クレクレ君」なら単に「age」だけにされるが良かろうと思われ。
理解される事を期待す。
565 :
名無し三等兵 :02/01/13 20:18
小野田寛郎少尉の話。 昭和49年、小野田少尉は上官谷口少佐の命令により投降した。 少尉は降伏の式典で、ルパング島の米軍司令官に降伏の印として自らの軍刀を差し出したが、 司令官はそれを受け取らなかった。 フィリピンのマルコス大統領は、少尉の肩を抱いて 「あなたは立派な軍人だ。私も嘗てゲリラとして戦ったが、ジャングルの中で30年も生き抜いた 強靭な精神は賞賛に値する。我々は敵味方として戦ったが、私はこの国の大統領として、 これまでの貴方の行為の全てを許します」 と語り、小塚上等兵(小野田少尉投降の直前に戦死)の形見の三八式歩兵銃を、 日本の遺族に持ち帰ることを許してくれた。
日本の大使が、小野田少尉を無事帰国させてくれたお礼として、 3億円のお金をマルコス大統領のもとに持参した。 しかし大統領は、 「私はオノダを尊敬しているし、日本の人々が彼を暖かく迎え入れてくれたことに 感謝している。だからこのお金は無用です」 といって、受け取らなかった。
567 :
名無し三等兵 :02/01/13 20:34
>565 その三八式歩兵銃はどうなったんだろう? 銃刀法の関係上、遺族の方のお手元に置けないのは致し方なし、 けれども、もののわからぬ警察の担当部署あたりが、 粗末に扱ってはいないか、と、心配になる。 警察でも自衛隊でもよい、然るべき場所に然るべき者の手で、 大切に保存されていることを切に願う。
>>566 しかしその後、日本のODA援助をガッポリせしめ、そのうちの幾らかは
マルコス・イメルダの私腹を肥やすことになる。
ODA要求のネタに、小野田氏の恩を利用したかどうかまでは定かでない。
>568 そういう皮相的かつ短絡的な「マルコス=独裁者=極悪人」イメージが世間に充満してるからこそ、 >565-566の話に意味があると思うのは俺だけかね? ODAが反共政策の一環として位置づけられてたことも考えれば、 君みたいな一面的なモノの見方はできないと思うのだがね。
>>569 >君みたいな一面的なモノの見方はできないと思うのだがね。
566みたいな話を知っていた上で568な話をするというのは、モノを両面から見ていると言ってもいいんじゃないかと思うのだけど。
>568〜570 やめれ。激しくスレ違いだ。
>>568-570 やはりそういう話になったか。
しかし俺は、この話を知って、マルコスの悪行の全てを許す気になった。
俺も、マルコスってのは独裁者で悪人だと思ってたけどね。
>>572 「全て」かどうかは分からないけど、人間そう単純な生き物じゃないからね。
俺もちょっとイメージ変わったな。スレ違いスマソ
こういうのでもいいのか? 戦争体験記より 「○○ちゃん、来るな。帰れ!」と言いながら兄は何度も何度も石を投げました。 いつも優しかった兄が、それでも五百メートル程ついてくる私に今度は私めがけて投げつけたのです。 命中したあまりの痛さにうずくまる私に、悲しそうな表情をしながら 「帰るんだぞ。」そう一言残して、暗闇に消えていきました。 (中略) 伯母の話しを元に坂を下ると、三つの土盛りがありました。その一つを母は掘り出し兄を見つけだしたのです。 (中略) ただひたすら生きたかった、今日1日生きているだけでもありがたかったあの日。 油味噌を入れたおにぎり、米ぬかに砂糖を入れただけの食料、それ以上の欲を出さなければ。 お菓子も缶詰めも食べたいと言わなければ、兄も死ぬことがなかったんでは…と今でも悔やみます。 とても兄弟思いで、いつも私の事を守ってくれた兄、とても痩せっぽっちで 学校でも栄養下と認められ給食まで与えられていた私を 毎日毎日、背負い学校まで連れて行ってくれました。 大好きで大好きで、いつも兄の後をついて歩いていた私に、 兄の私に投げた最初で最後の石は、最愛の兄との永遠の別離と共に、私の命をつなぐ希望の宝石となりました。 息子や娘、孫の時代に二度とこういう想いはさせたくないと思いながら 私も兄の面影をかみしめ、今のこの時代を生きていくことでしょう。 「星になった にぃにぃ ごめんなさい そして ありがとう」
460さんじゃ無いけど、儂も祖父母に戦争の話を聞ける人は羨ましいと思う。 正月に帰省したときに聞いてみたんだけど、父方の祖父(祖母共々大戦中死去)は 日清戦争に出征していたそうだ。(話からすると尉官クラス) 母方の祖父(数年前死去)は国鉄の整備部に居て、戦時中はあちこちにたらい回し にされていたよう(疎開等含む)。 せめて10年位前にこの手の事に興味を持っていたらなあ・・・・と思った。 自分以外泣けないんでsage
>>574 今ひとつよくわからないのだが・・・
お兄さんは何をしに行ってどうして死んだんだろう?
祖母から聞いた話 第二次大戦中、祖母の住んでいた地区にも(戦闘機編隊による)機銃掃射と爆撃が 行われた。結構凄かったらしい。 そんなある日、1機の米戦闘機が撃墜され、田んぼに落ちた。 気になったので、戦闘機の編隊が去ってから見に行った。 すると、人だかりが出来ていて、真ん中に丸々太った米兵(既に死亡)が何かの柱 にくくりつけられて、晒し物にされている。 そして、周りにいた人たちが次々石をぶつけていた。 「馬鹿野郎、お前らのせいで息子が、、、」 「婚約相手がいたんだぞ」 などなど、やりきれない思いをぶつけていたらしい。 そして、その米兵の死体を町内中引きずりまわした挙句、近くの 山の上に埋めてしまった。 そのときは祖母も 「因果応報、自業自得」 等と思っていたが、帰り道に写真を見つけた。 そこには、先ほどの米兵と恋人が笑顔で写っていた。 祖母はそれを見て、やりきれない思いに囚われたそうだ。 この話をしている時の祖母は、本当に悲しそうな表情をしていた。
先週の西日本新聞のコラムに載っていた話・・・ 台湾の高雄に昭和の初め頃に生まれた少年がいました。 まだ太平洋戦争が始まっていなかった頃の高雄に日本海軍の空母が入港し、その雄々しさに魅せられた彼は、 「よし!、僕も大きくなったら水兵になってあの空母に乗ってやるぞ!。」 と、誓ったのでした。 それから数年後。 少年から青年となった彼は、少年の日の誓いを果たすべく海軍に志願して水兵となったのですが、その頃の海軍には既に満足に動ける空母など残っておらず、それどころか数ヶ月後には海軍そのものが無くなり、台湾も日本では無くなってしまいました。 そして国共内戦に敗れた中華民国が台湾に押し込められた後も、彼は将校として台湾海軍に残り、台湾が国際的に孤立した苦しい状況下にありながらも、ねばり強く海軍の錬成に努めつつ昇進を重ねました。 そうした地道な努力が実を結び、台湾海軍はアジアでも有数の戦力を持つ海軍となり、彼自身も台湾海軍の総司令官にまで昇進した後退役しました。 そして退役後は日台友好協会の会長を長く務めましたが、数ヶ月前に病気で亡くなったそうです・・・。 少年の日に出会った空母が彼のその後の人生を定め、そして彼と祖国と日本と海軍を強く結び続けていったのでしょう。
>578 きっと、こういう人たちが雪風(丹陽)を大切に使ってくれたんでしょうなぁ。
と、本当そうならいいけど 実は日本軍の武器を晒しageしたいからわざと使っただけだったら それはそれで泣ける話。
581 :
名無し三等兵 :02/01/16 22:16
さらすために、雪風を台湾海軍の旗艦にするとは思えんが? もっとも、雪風がもっとも優秀な艦艇だからなぁ。
>580 うはは、おっしゃるとおりで(笑) ま、今となっては関係者に聞いて回ることができるわけでもなし、聞いて回ったとしても 真実が手に入るかどうかは判らないとなれば、雪風は座礁して失われ舵輪と錨が帰って 来たという事実を、良い方に解釈しておきましょう:-)
>>578 こういう話を聞くと「具体的に誰か?」を知りたくなるのは俺だけ?
これだけの状況が揃ってるとなれば(話が作り話でない限り)個人を
特定できそう
(台湾海軍総司令官で,昭和初期に高雄に生まれ,日台友好協会の会長
を長く務め,数ヶ月前に死去)
さぁ誰だろう(藁
どうやら「台日友好協会(昨年8月に設立)」ではなくて「亜東関係協会(事実上の対日
外務機関)」会長を務めてこられた「荘銘耀」氏のようですね。
略歴と訃報がありました。
西日本新聞:おくやみ九州
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/99okuyami/99okuyami.html > ◎【死去】台日交流に尽力 荘銘耀氏 20020107付朝刊
> 荘 銘耀氏(そう・めいよう=台湾の対日交流機関、亜東関係協会会長)6日、
> 肝臓がんのため台北市内の病院で死去、72歳。
> 高雄市に生まれ、台湾海軍入りし、国防部副部長、海軍総司令官などを歴任。
> 対日交流を重視した李登輝前総統から重用され、1996年から約5年間、
> 台北駐日経済文化代表処長(駐日大使に相当)を務めた。
> 日本語が堪能で日本の政財界や自衛隊に幅広い人脈を築いた。陳水扁政権の
> 発足後も国家安全会議秘書長に起用され、昨年8月、亜東関係協会会長に就任
> した。 (台北・上別府保慶)
>579〜583 皆さんフォローありがとうございます。 手元にその日の西日本新聞が無かったもので、多少不正確な部分(特に命日)はありましたが、なるだけ元のコラムの内容に沿った形で書いたつもりでした。 出来ればこういう人にはもう少し長生きして欲しかったですね。
台湾といえば世界の艦船2月号に台湾で「日本軍艦38号」が祀られているという記事がありましたが、 あの記事を読んでその心意気に感動し、同時に感謝の気持ちをおぼえました。
587 :
名無し三等兵 :02/01/16 23:18
私は、トルーマンから解任され羽田から帰国の途に着く彼を 沿道を警備するMPの予想に反し、 熱烈な送別する日本国民の姿と、それに応えるマッカーサーに涙します。 彼は、羽田からバターン号に乗る時に、最上段のタラップで振り返ったみたいですが、 果たして「I shall return」と呟いたのでしょうか?
588 :
Mr.名無しさん :02/01/16 23:28
>>565 小さい頃見た、ずたぼろに汚れやつれた小野田少尉のあまりに立派な敬礼
と、自分の母が「あれが士官というものだよ」って言った言葉が印象に残っている。
たとえ、降伏することになっても矜持までは失わないような人になりたい。
>587 その後、彼が「日本人はスクールボーイだ」と言ったことで当時の日本人から総スカン食ったらしいが 仮に俺が彼と会うことがあったらそのことを詫びないといかんなあ。 現状の日本を見る限り、スクールボーイでもまだまだ遠慮した発言にしか思えないもん(w
590 :
名無し三等兵 :02/01/17 00:03
>>589 ようやく21世紀に入って、成人に達したってところだね
591 :
名無し三等兵 :02/01/17 00:16
>567 小野田少尉の38式歩兵銃は、確か陸上自衛隊の幹部学校に展示されていると 記憶しています。現在でも整備されてピカピカな状態らしいです。
592 :
名無し三等兵 :02/01/17 00:24
>>590 式典でクラッカー鳴らしちゃうような、ね。
593 :
名無し三等兵 :02/01/17 23:48
敗将はかたらず。 戦後、帝國海軍の将官たちの多くは沈黙を守った。 最後の聯合艦隊司令長官小澤冶三郎もそうであったが、 彼は後進たちに経験を伝えるために自衛隊の記録作成にだけに積極的に証言したそうだ。 ある時、マリアナ沖海戦の話になり、ある自衛隊員が 「ほかにやり方はなかったんですかね」 と、小ざかしくも小澤にいったのに対して、小澤は一言 「なら、どうすればよかったのかね」 と、静かに答え絶句させたそうだ。 あと知恵でこざかしいこというやつは、いつの時代でもいるなあとしみじみ思った。 なけないか・・
594 :
名無し屯田兵 :02/01/18 00:06
>>593 「ミッドウェーで空母4隻失っている。」
「これ以上空母は失いたくない。」
だからアウトレンジ攻撃に拘るのは当然の流れですね。
不幸は敵にVT信管があったこと。
残念なのはVT信管の存在を敗戦まで日本は知らなかった事。
>>590 悲観的な私には、日本人は12歳をすぎてから、
若年性痴呆症にかかったように思えます。
596 :
名無し三等兵 :02/01/18 00:13
>>593 当時の事全てにいえますな・・・
確かにやり方はまずかったがだが他にどうすればよかったというのか?みたいな事を
先の大戦について聞かれた時に
岸首相(だったと思う)かだれかが言ってましたよね
>>594 VT信管以前に大量の迎撃戦闘機が待ち受けるなかアウトレンジ戦法で無理に遠距離攻撃させたのがきいているとおもふ。
実際VT信管付き高角砲より対空機関砲の方が日本機を落としていたハズ。(記憶モード
関係ないんでsage
教えてほしい話あり。 以前TVで放送していたが、乃木さんの最後の話、誰かしらない? 彼が自決する直前に彼のところへ行った人の話。
600 :
名無し三等兵 :02/01/18 22:02
>599 >彼が自決する直前に彼のところへ行った人の話。 東郷さんのことですか? それとも、「この世のものとは思えないほど神々しかった」と語った、近所の人のこと?
>600 確か近所の方の話だったかな・・・ もし知ってらっしゃるんだったら教えてくださいまし。 ビデオに録画したんだが行方不明・・・(涙
602 :
名無し三等兵 :02/01/19 03:39
>593 つまり・・・後知恵による非難と 先達の失敗を教訓とする批判を 取り違えてはならない、と言う事なのでしょうか・・
既出かもしれないが、ペルーの日本大使公邸占拠事件の突入時に殉職した 特殊部隊隊員のバレル大佐の遺書(一部) この手紙が読まれると言う事は、私はもう生きていないということです。 私はペルーを愛し、この国のためならいかなる犠牲を払うことも辞しません。 私の使命は国を守ることであり、私達が築き上げた平和を傷つける好意に対しては いかなる措置をも取ります。 私は誇りを持って喜んで作戦に加わり死んでいきました。 彼の葬式では棺に幼い娘さんが取りすがって泣いていた。 もう一人殉職した若い隊員は結婚間近の婚約者を残し亡くなったらしく 号泣する婚約者を憔悴した隊員の父が支えているのが参列者の涙を誘ったとか・・・。
604 :
名無し三等兵 :02/01/19 11:29
あげ
>>603 でもさー、こういう女がさっさと別の男と結婚するんだよな(w
>605(・∀・)カエレ!
>>605 世界中の女がみんな君の彼女と同じメンタリティだと思ってはいかん。
え、彼女なぞいないって?そりゃ失礼。
>605 あんた彼女っていたことないだろ。俺がもし殉職したヒメネス大尉の立場なら 自分が死んだ後は、もっといい相手が見つかればよいと思う。特攻隊や日本兵 の手紙にも妻に宛ててほとんどが自分が死んだ後は義理立てせず再婚など妻自身 にとって最良の選択をせよ、と書いてあるぜ。若い身空で有髪の尼にするほうが 酷ってもんだよ。
609 :
名無し三等兵 :02/01/19 20:00
イスラエル情報機関・モサドのエース級スパイ、エリ・コーエンが、 シリアで逮捕、絞首刑になる寸前、妻に書き残した遺書に、 「私のためにいたずらに涙を流して、時を無駄にするな」とあった。 608氏の言うように、最後の、最大の愛の表現だと思う。
>>608 ごめん、私女だから彼女居たことないんだ〜
彼氏は居るけどねv
腹立たしい態度 私は「復刻★泣ける話」(軍事板@2ch)の>605が嫌いだ。 >>605がほとんど自分達の考えで世界を仕立て上げていく。 世界というのは慎重な調査と議論で明らかにしていくもので、 >>605が勝手に決めて良い物ではない。 俺様のえらそうな態度が腹立たしく感じるのだが、いかがなものか。 (埼玉県・沼田 ○・26歳)
>605 「女が思うほど男はドライでなく、男が思うほど女はウェットではない」と言った ところか・・・。 男と勘違いしてごめんね。
>605 てか空気読めよ・・・ そんなこと言ったら叩かれるの目に見えてるだろ それともそこまでして言いたかったのか? それとも叩かれたかったのか?(藁
泣ける話と少し違うが、台湾の空母話に、もうひとつ 以前、空母ミッドウェーが火災か何か起して、横須賀港に入港してきた時 学生だった私も安針塚の山上に見に行ったんだよ。 そしたら平日にも かかわらず、けっこう人人があつまっていた、みんなデケーとか、凄いとか 言って喜んでいたんだ。 そしたら双眼鏡で見ていた、初老の人が、何小さい 小さい、昔の空母はでっかすぎて、港外で待機していたよ。 と話かけてきた もしたしたら、信濃の事だったのかも知れん、もっと良く話せばよかったよ
615 :
Mr.名無しさん :02/01/19 21:12
赤穂浪士、大石蔵の介は討ち入る前に、累が及ばぬように 妻りくを離縁して実家に返したね。 死地におもむく男の心意気はペルーだろうが、日本だろうが 変わらないものと思ふ。
>615 で、>605みたいに言われる、と。
617 :
名無し三等兵 :02/01/19 21:30
>614 私が他のスレに書いたことのあるネタ。 佐世保市内を一望に見下ろす、「弓張岳」の山頂に、健康のため、 登るのを日課にしておられる地元のご老人の話。 「今で言う小学校の、遠足でここに登ったとですよ。 そうしたらです、山の上にずらっと憲兵ば、並んでですよ、 海の方ば見たらいかん、いわすとですね。 ばってんが、子供ですたい、見たらいけんば言われたら、そりゃあ、 見たくなるとです。 こっそり、憲兵の股の間から軍港ば見たら、ですよね、 それはそれはふとか軍艦、あがんふとか軍艦、ずうっとあとでアメさんの、 「エンタープライズ」ば見るまで、見たことなかったとですよ。 今考えればですね、あれ、戦艦武蔵だったとですね、長崎で進水して、 艤装工事ば、しとらしたとです・・・・」
618 :
名無し三等兵 :02/01/19 21:32
619 :
名無し三等兵 :02/01/19 21:36
>618 頭痛い。以上。
>618 ゴーマニズム板にでもはってやれ。 スレ違い。
突っ込むぞ!そもそも此処を見る人間に女性は少ない、書き込む者は更に少なく、 自己申告を検証する手段も無い。すぐに感動し或いは謝る、君らは少しばかり チェリー・ボーイに過ぎるぞ。
622 :
名無し三等兵 :02/01/19 23:22
感動したくて、泣きたくて立てられたスレだ。 それに茶々入れられて面白い訳が無い。 性別年齢性的嗜好は関係なく、605は躾のできていない下衆。 女に彼女がいて何が悪い。
623 :
名無し三等兵 :02/01/19 23:53
ヤレヤレ 阿呆が紛れ込んできたようだね。
624 :
名無し三等兵 :02/01/19 23:53
>618 電波入ってますなぁ。 でも、チョンでしょ。 論破できんよ。 だって、常識が通じないんだもん。
625 :
名無し三等兵 :02/01/20 00:48
>618 っていうか掲示板じゃないような気がする・・・ 壁新聞みたい
軍事板の「泣ける話」スレなんて女性が一番こないと思ったんだよ。戦争関係の泣ける 話なんて、「恋人同士の別れ」以外には女の入る余地がまったくないし、「女関係」以外 の「泣ける話」のほうが多かったじゃん。あえていえば体育会系が多い・・・。
あえて605女史に言うなら、靖国神社で売っている「英霊の言乃葉」という日本兵達 の遺書や手紙、日記や辞世の句を集めた本を読んでみて下さい。
628 :
名無し三等兵 :02/01/20 14:50
沖縄県民斯ク戦ヘリで有名な大田少将のお嬢さんは後年,アメリカ人の男性と結婚し渡米した が,沖縄戦で米軍を苦しめた日本軍幹部の娘というので,パンも売ってくれないとか,ひどい いじめに遭った。小渕恵三前総理が,お嬢さんに会ったとき『大変でしたね』と慰めると,彼 女は『父の苦労に比べたら,たいしたことはありません』と泣き崩れた」という (野中広務自民党幹事長談―2000年7月24日付『東京新聞』−「筆洗」)
629 :
名無し三等兵 :02/01/20 15:27
てか、女は(・∀・)カエレ!!
630 :
う、ごめん :02/01/20 15:52
女だけどこっそりROMってました。 オークションに米兵が持って帰った戦死者の写真とか出てるのを 見つけて、もどってきてしまいました。 女だからといって女がらみの話でないと読まないってことはないですよ。
まあ批判は有るだろうけど憶測は良くないって事で
私も女ですがROMしてます。
>>630 さん同様、女がらみでないと読まないことはありません。
このスレで何度も涙しました。決めつけは良くないですよ。
…そんだけ「読んでる」なら、 >>605みたいな煽りのことをどう思う?
>>633 踏み絵を強要するようなことはやめようよ
ココは泣ける話をするスレなので それ以外の方は雑談スレにでも行ってやってください ・・・オレモナー
初代「泣ける話」でも女性の方でROMしてた方は結構居た様です。 635氏に禿銅。 「煽り」と「脳厨」は放置しましょう。 って俺もちょっかいだしてるか…ウトゥ また何か琴線にクル話を探します。 「泣ける話」の頃はage進行のスレだったのにsageを入れなきゃならんとは・・・。
637 :
名無し三等兵 :02/01/21 07:02
歩兵第47連隊第2大隊第5中隊小隊長として北支へ出征した立山英夫中尉は、 昭和12年夏、河北省辛荘の戦闘で戦死されました。 中尉の軍服は血まみれでした。 そのポケットの中から中尉のお母さんの写真が見つかりました。 そして、その写真の裏面には母を想う中尉の言葉が記されていました。 ------ 若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見るまでは 出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず 己れ生あるその中は 子の身に代らんこと思ひ 己れ死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ あゝ有り難き母の恩 子は如何にして報ゆべき あはれ地上に数知らぬ 衆性の中に唯一人 母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む 母死に給ふそのきはに 泣きて念ずる声あらば 生きませるとき慰めの 言葉交はして頬笑めよ 母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば 生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん お母さん ----- (つづく)
638 :
名無し三等兵 :02/01/21 07:06
>>637 のつづき
この中尉の一文にいたく感銘を受けた大江少佐は、郷里で営まれた
葬儀の日に中尉のお母さん宛に弔電を発信しました。
その弔電には弔文と共に、和歌が一首したためられていました。
-----
靖国の 宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に
-----
その後、この和歌は有名になり、同じく戦地で息子を失った沢山の日本の
お母さん達の心を慰めたのでした。
639 :
名無し三等兵 :02/01/21 17:41
戦死したはずの夫が三日後、妻のもとに帰ってきたという話しって実話ですか? うろ覚えなんすけど・・。
640 :
名無し三等兵 :02/01/21 22:19
吉田満 「戦艦大和ノ最後」より −−−−−−−−−−−−−−−−−− 「大和」被弾モトヨリ夥シキモ、スデニ状況全ク不明 艦内通信機能寸断サル ・・・・・・・ 怱忙ノ間、第5波、前方ヨリ急襲 百機以上 時に「矢矧」、本艦前方三千米ニ停止シ、「磯風」ヲ横附ケセントシツツアリ ・・・・・・・・ 「矢矧」魚雷数本ノ巣ト化シ、タダ薄黒キ飛沫トナッテ四散 「磯風」モ停止、黒煙ヲ吐キツツアリ 辛ウジテ轟沈ヲ免レタルモ、爆弾数発命中セルカ 右ニ「冬月」、左ニ「雪風」、ソノ身ニ数倍スル水柱ノ幕帯ヲ突破疾走シツツ、 「大和」宛発信シキタル−−−「ワレ異常ナシ」 屈強ニ艦、ソノ名ヲ賭シテノ力闘ナリ
641 :
名無し三等兵 :02/01/22 17:05
↑頑張れ雪風!冬月!(T_T)
菊水一号作戦時の駆逐艦部隊の奮闘は胸が熱くなります。 この時の海戦で撃沈を免れ、結局、同日夜までに辛うじて浮き得ていたのは 「雪風」「冬月」「初霜」「涼月」これら四隻の駆逐艦のみであった。 「大和」乗組員をはじめとして特攻艦隊の戦死者総数三千七百二十一人。 敵軍に与えた損害わずかに「撃墜確認二十二機」のみ(防衛庁資料) 出撃前の連合艦隊司令長官のゲキ電にあった 「帝国海軍力ヲ此ノ一戦二結集シ」というには、余りにも無残な結果だった。 一方的な虐殺とも言うべき戦いであった。
泣けてくるなあ・・・ でもどうして4隻の駆逐艦は沈められなかったのだろう? いや、力の限り戦い生き残ったのだとは思うが・・・ 米軍が見逃した、ということはあるのだろうか? 大和の乗員を救助させるために、とか? ・・・すんません、電波な発言だったら、無視&罵倒してください。
; ,,.. -‐ ''' ‐--─‐-- 、
l| , -''" `"''‐、
ヾ,.‐''~ `ヽ,
,. -=彡 ,.彳 ,..,/i 、 ヽ,
/ /メ/ / i゙ || ゙i ヽ
>>642 | / /// | i | |; ヽ 単に日本軍がDQNなだけですわ!
ヽ / リ ヽ| ヽ i l i
ヽ,| i _ ヽ ヽi ヽ |
ノヽ、| 、、ミヽ ヽ、ヽ、 |
'i. ro`i 、、_ ヾ 、 ヽ,
/i ,i゚ | -ミ-、. | ``''ー ヽ,
// / `'/ ./o\ヽ ト、 `'‐、
! i. i < i.゚ >,= !, `ー- `"''‐-、_
ヾ ヽ , ``'ー'´ , :;='ヽ、 `'' 、
i.''´ ヽ ヾ; ‐ッ / / ,フ 、 \
` ヽ, `" | i 'i‐'" ヽ ヽ ヽ
ヽ __,,. -‐ ヽヽ | i i i
` '"~ `ヽ, / ヾ | |
__/`'ー‐/ ∫ | i
菊水作戦同日、やっとの思いで佐世保港へ向かう輸送船団があった。 輸送先の奄美大島の名を取り「大島輸送隊」と呼ばれた輸送艦と護衛艦の船団である。 出掛けるときは六隻だったが奄美大島での荷役中に米艦載機来襲に逢い、 僚艦三隻を失ったのちの帰航路であった。 午前十一時頃、信号員長・海軍一等兵曹、浜田秀美は「信号員長、あがれ。急げ」の切迫した報を受け、 艦橋に駆け上がって見ると、前方に「普通でないフネ」がかすかに遠望される、「確認せよ」との命令で 測距儀をのぞくと、なるほど「でかいマストのふつうでないフネ」である。 少しの間観察していた浜田だったが、すぐ大声で報告している。 「前方の艦は戦艦大和。間違いありません」 ベテラン乗組員が「戦艦大和」「間違い無し」と断定したものだから、艦橋では安心すると同時にどよめきが起きた。 「大和もついに特攻隊となって出撃したか」 もとより米軍偵察機がついてきているため、第十七号駆潜艇は「大和」と次のような信号を交わしている。 「敵機ワレニ接触シツツアリ、警戒ヲ厳二サレタシ」 「アリガトウ、貴艦の武運を祈ル」 又、列艦の第百四十六号二等輸送艦も「大和」の接近に気付いており、次のように交信している。 「御武運ノ長久ト御成功ヲ祈ル」 「アリガトウ、ワレ期待二応エントス」
646 :
名無し三等兵 :02/01/22 21:16
> 645 吉田満だとさいごは 期待ニソムカザルベシ になってましたNE.
戦後「大和」生き残りの副電測士・海軍少尉、吉田満(故人)は、この時の「大和」艦橋の 状況を次のように記している。(「戦艦大和の最期」) 以下 「日ノ丸ヲ掲ゲタル船団二遭遇ス、数隻の小輸送船団ナリ。何処ヨリ還リキタレルヤ、 ワガ編隊ノウチヲ縫ッテスレチガウ。霞ム船団、疲レ果テシ船脚。 痛マシキ彼等ガ苦労を想ウ。内地ヨウヤク間近シ。ココニ辿リ着クマデ二払ワレタル犠牲ヤ如何二。 「大和」二向イ発信シキタル「御成功ヲ祈ル」。微笑艦橋に溢ル。 カノ瀕死の老船団ヨリ餞別ノ辞ヲ受ケントハ。直チニ返信 「ワレ期待二背カザルベシ」
>>642 レイテ沖で狂気の転身さえ無ければ……武蔵を沈められながらも、
ようやく辿り着いたのに何でなの?。大和、武蔵、長門まで揃えて、
最初にして最後の活躍の機会だったろうに。
> 647 そうそう、そこですね。泣けます。
>643 米機動部隊は徹底して「大和」に集中砲火を浴びせ、駆逐艦部隊は正に「身を盾として」 戦いました。 私が所蔵している書物に、撃沈を免れた四隻の駆逐艦のうち「涼月」の話が記されてます。 それは想像を絶する凄まじい物です。 ここに紹介したいのですが、スレ古参には御解りのとうり、わたしの引用は長文になりがちなので 皆さんに御迷惑かと考えます。
(⌒Y⌒Y⌒) \ / \|/ ̄  ̄ ̄\ / ______| | / \ / | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | / / ̄\/ ̄ヽ| < セーラの方がDQNだよ! (⌒(⌒----| ・|| ・ || \________ ( | \_/(⌒)_/| ( | ______) \ /__ノノ \__ ̄ _/ -\/\ヘ`- 、 /ゞ o ヽ \
652 :
名無し三等兵 :02/01/22 21:42
再び 「戦艦大和ノ最後」より 九州最南端ノ陸岸スデニ艦尾方向ニ消ユ 再ビ肉眼ニ内地ノ山野ヲ見ルコトアラジ 刻々ニ遠ザカリ、限リナク離レ行カンノミ 今ヤ一点ノ島影ヲ見ズ ・・・・・・・・・ 日ノ丸ヲ掲ゲタル船団ニ遭遇ス 数隻ノ小輸送船団ナリ 何処ヨリ還リキタレルヤ ワガ編隊ノウチヲ縫ッテスレチガウ 霞ム船影、疲レ果テシ船脚 痛マシキ彼ラガ苦労ヲ想ウ 内地ヨウヤク間近シ ココニ辿リ着クマデニ払ワレタル犠牲ヤ、如何ニ 「大和」ニ向イ発信シキタル「御成功祈ル」 微笑、艦橋ニ溢ル カノ瀕死ノ老船団ヨリ、餞別ノ辞ヲ受ケントハ 直チニ返信「ワレ期待ニ背カザルベシ」
ごめん、二重カキコになった
>>645 泣けた。ソースきぼん。
では私も。
落伍セル「朝霜」全ク音信ナシ
時既ニ米機ノ重囲下、悪戦苦闘シテ相果テタルベシ
開戦後数分、「ワレ敵機約三十機ト交戦中」トノ無電ヲ最後ニ連絡ヲ絶テリトイウ
後一名ノ生存者モナキ事明ラカトナル
如何ニ激シキ轟沈ト云ヘドモ、タマタマ艦ノ外周ニ配置シテ跳ネ飛バサレ、ソノママ
海上ニ浮ブ幸運者、少ナクトモ十数名ニ達セザルコトナシ
爆死ヲ免レタル僅カナ生存者、恐ラクハ空シク海上ヲ漂流シ、島影ハオロカ僚艦ノ
姿スラ映ラヌニ絶望シツツ、遂ニ力尽キタルカ
やっぱり大和はひきあげちゃなんねーよ
NHKスペシャル(?特集だったか)の吉田満氏の特集を思い出した。 いい話だった。 NHKアーカイブでやってくれんかな。
流れをさえぎってスマン。 1939年11月から翌年3月にかけて第一次芬ソ戦争が行われた。 小国フィンランドは奇跡とも思えるような勇戦を各所で行ったが、 最終的には大国ソ連に押しきられてカレリヤ地方を失った。 その戦争の最中、ヤリセバ砲台の砲兵たちは、 120ミリ砲を己の手足のように操り、終戦の日まで戦い続けた。 砲台の砲兵たちは、照準器が壊れたら砲身を覗いて狙いをつけ、 尾栓が壊れたらハンマーで叩いて砲弾を発射するという具合に、 決して陣地を放棄しなかったのである。 終戦の前日、砲兵たちの即時撤退命令が出た。 このときすでに砲弾をすべて撃ち尽くし、 頼りの120ミリ砲は砲身に亀裂が入って使用不可能となっていた。 (つづく)
(つづき) 以下、梅本弘著『雪中の奇跡』(大日本絵画刊)から引用させていただく。 『三月十三日、休戦が成立した日、ヤリセバ砲台の砲兵は砲台に戻り 一番砲を回収して来た。明治三十一年呉海軍造兵廠で誕生した砲は もはやいかなる修理を施しても再び火を吹くことはできない状態だったが、 三十万発もの砲弾と三千発もの爆弾を浴びながらも戦い抜いた彼等の奮戦の証として、 どうしても敵の手に渡すには忍びなかったのである。 現在この砲はスオメンリンナ島にあるフィンランド海軍沿岸砲兵博物館の門前に 展示されている。砲尾に刻まれた「弐千百四拾参基、呉海軍造兵廠、明治参拾壱年」 の文字は今でもはっきり読み取ることができる』 「砲兵、砲側、即墓場」とは言うが、彼らは砲兵の鑑である。 フィンランド人の心の中には、武士の魂が宿っている。 こういう話は、我が国にもあると思うのだが、 誰も語ってくれないのが残念である。
659 :
へまむし入道 :02/01/23 14:15
大和と言えば数年前のTBSの特番といい、NHKの「そのとき歴史は動いた」と いい片道燃料での特攻命令のみを語り、その後の燃料かき集めてもらって満タンにした という話が出ていない。 まったく違う意味で泣けてくる。
660 :
名無し三等兵 :02/01/23 14:19
>659 その話よりもそのおかけで海上護衛隊の燃料を大幅に削減され 机を叩いて抗議した大井篤大佐の心情のほうが泣ける
661 :
へまむし入道 :02/01/23 14:37
たしかに
正確に言えば 「必死にアタマ絞って考えた輸送計画をわけわからん特攻作戦で台無しにされ、 おまけに戦争終わったあとになってこんな作戦に簿外燃料じゃんじゃか使ってたことを知って あまりのアホらしさにこの事実を記録に残さないとやりきれない気持ちになった大井元大佐の心情」だな。
663 :
へまむし入道 :02/01/23 15:20
664 :
名無し三等兵 :02/01/23 21:53
地元の人たちは「軍艦防波堤」と呼ぶ。洞海湾口の響町にある。 敗戦後間もない1948年、響灘の荒波を防ぐため「柳」「涼月」「冬月」の 駆逐艦3隻が沈められた。今姿を見せるのは柳だ。 形式上の種別で駆逐艦は戦艦のような「軍艦」ではないが、旧帝国海軍 の名残を伝える貴重な遺物である。当時全国5カ所で軍用艦船が防波堤 にされた。この若松の柳のみが、波状の陽光にさらされている。 海中に没した 涼月、冬月は大戦末期の春、戦艦大和と沖縄へ向け出撃 した。その途上、米軍機の猛攻に大和は爆沈するが、涼月、冬月など 駆逐艦4隻はかろうじて帰還する。「戦艦大和ノ最後」の著者・吉田満は 冬月に救出された。 本町に住む立石三郎さん(87)は元海軍少尉。戦時中は通信、電探などを 担当した。軍艦防波堤に眠る駆逐艦とは関係ないが、海軍OBの「若松 海友会」会長だった76年、高塔山に3隻の慰霊碑を建立した。 福岡・津屋崎出身で、戦後若松に来てから海運業を営んだ。今、軍艦 防波堤の後背地は埋め立てられ、その船体はもはや防波の役割を 果たしていないが、往時を知る立石さんは言う。 「あの防波堤のお陰で荷物が期日に入った。戦時に船隊を守った駆逐艦 が防波堤となって戦後の復興に尽くしたと思うと感慨深い」 当時は石炭積み出しの全盛期。非力な機帆船が多い中で、荒波を受け 止める軍艦防波堤は守り神だった。
665 :
名無し三等兵 :02/01/23 22:22
どっかのスレで自衛隊OBのおじいちゃんが一個中隊引き連れて チンピラ相手に快刀乱麻の白兵戦をやっちゃった話があったと思うんですけど。 もうなくなっちゃったかな? 泣ける話と言うよりは小気味いい話でした〜。
ミャンマーでも行こうかと思う今日この頃
>>662 たまらんなぁ…泣けるわ。
>>665 新スレ立ててみては? 「軍事板☆景気の良い話」とか。
習志野空挺の益荒男どもが、地元893をケチョンケチョンにのした話とか、もう一度読みたい。
668 :
名無し三等兵 :02/01/24 00:15
>>664 割と有名だけどいい話ですよね。
戦い終わってなお祖国の海を守りつづけ、役割終わった今も文字通り祖国の礎となっている彼女らに敬礼。
670 :
名無し三等兵 :02/01/24 01:30
ジャングル戦に、台湾の先住民が志願した「高砂義勇兵」は、驚くほどの力を発揮した。
ラバウル島の第八方面軍司令部に勤務していた中尉の小俣洋三氏(八一)は第二義勇隊長としてニューギニアで高砂義勇兵を指揮した一人だ。
「ジャングルでの方向感覚や夜目が利く視力、食糧となる動植物の知識や敵に立ち向かう勇敢さ、そして彼らの徹底した忠誠心にだれもが舌を巻きました」
小俣氏はニューギニアで負傷し、後に病院船で帰国した。
「四人の高砂義勇兵が木を切って担架を作り、意識不明だった私をジャングルの中から何週間もかついで港まで連れてきてくれた。今こうして生きているのは、義勇兵のおかげです」
こう言って言葉を詰まらせた。
戦友に食べさせる食糧を探しに出たまま所在不明になった高砂義勇兵が、
後にジャングルで遺体で発見されたとき、両手に食糧を抱えたまま「餓死」していた、
という逸話も伝えられている。どんなに腹が減っても戦友の食糧には手をつけず、
帰り道を見失う中で餓死してしまったというのだ。
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/0109/10/paper/today/year/year.htm
671 :
名無し三等兵 :02/01/24 21:47
その柳に意外な話がある。 高塔山の碑は、柳は45年7月に米軍の攻撃を受け青森県沖で座礁した、 と記している。だが、沈船防波堤を研究する東洋大学文学部講師、中川 洋さんは「軍艦防波堤の船は、退役して終戦当時佐世保に係留していた 先代の柳」という。実際防衛庁の防衛研究所図書館には、佐世保に あった「先代柳」を戦後に若松に沈めたという記録が残る。 柳は2代あり、先代は第一次大戦中の16年に就役、地中海遠征に参加 して独軍と交戦し、40年に退役した。2代目は第二次大戦中の44年に 就役し、青森で米軍攻撃に座礁した。 どこで誤解が生じたか、若松の柳は、この2代目と思われてしまった。 しかし、である。慰霊碑除幕に参列した2代目柳の大熊安之助艦長(故人) は洞海湾の波に洗われる船体を見て、米軍攻撃で戦死した部下を思い、 泣いたという。その悲涙の意味するものに、変わりはない。 錆ついた柳は、今日も無言で釣り人を載せている。
672 :
名無し三等兵 :02/01/25 03:59
昭和54年11月11日、重巡「利根」「筑摩」記念碑除幕式が舞鶴軍港を見おろす 小高い丘の中腹で行われた。 海上自衛隊音楽隊の演奏と儀仗兵の弔銃に合わせたかのように、夜来の雨雲にポカリ と円筒の青空が顔を見せた。比島沖海戦で全員戦死の「筑摩」千数百の英霊たちが 懐かしの母港にもどったのであろうか。 〜海軍おもしろ話・戦中編 生出寿 徳間文庫より〜 信濃の慰霊祭でもこういうことがあったと思ったけど・・・(うろ覚えスマソ) なんつーか・・・英霊に申し訳ない昨今の日本。
>>672 気持ちは分かるがそんな事言うなよ
こんな世の中でもあの時代にくらべればずっといいよ
きっと英霊も喜んでくれているはずだよ
674 :
名無し三等兵 :02/01/25 07:42
>672−673 彼らを忘れないでいることが第一の供養だと思います。 国を分割されたでもなく、軍事衝突を繰り返すでもなく、 こうやってマターリしていられることを感謝したい。
676 :
名無し三等兵 :02/01/25 13:17
故吉田満氏「戦艦大和の最期」より 兵学校出身の少尉「国のため、君のために死ぬ。それでいいじゃないか。それ以上に何が必要なのだ。もって瞑すべきじゃないか」 学徒出身士官 「君国のために散る。それは分かる。だが一体それは、どういうこととつながっているのだ。俺の死、俺の生命、 また日本全体の敗北、それを更に一般的な、普遍的な、何か価値というようなものに結びつけたいのだ。これら一切のことは、一体 なんのためにあるのだ」 兵学校出身の少尉「それは理屈だ。無用な、むしろ有害な屁理屈だ。貴様は特攻隊の菊水のマークを胸に付けて、天皇陛下万歳と死 ねてそれで嬉しくないのか」 学徒出身士官「それだけじゃ嫌だ。もっと、何かが必要なのだ」 ついには、鉄拳の嵐、乱闘となった。 ここで、臼淵大尉「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的 な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救 われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る、まさに本望じゃないか」
677 :
名無し三等兵 :02/01/26 00:10
>1から拝読致しました。 旧軍の方々の並ならぬ度量と覚悟には、最近陸の隊員として些かたるんでいた所に喝を入れられた思いがします。
お。陸の方ですか。寒いけどお仕事頑張ってくださいね。
677−本物け? ゴタゴタ言う奴はほっときなさい 私は全面的にあんた達を支持します。
>>677 がんばれ。あんた達がいなけりゃ日本は成り立たない。
日本を宜しく頼む。
681 :
名無し三等兵 :02/01/27 03:02
>>677 神戸在住のものです。
震災の時はお世話になりました。
お仕事頑張ってください。
>677 激しすぎるほどガイシュツだが、 「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。 きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。 しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、 災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。 言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。 どうか、耐えてもらいたい」 (吉田茂、昭和32年2月、防衛大学第1回卒業式にて) という言葉がある。 なんだかんだ言ってまだまだ自衛隊に対する風当たりは強いけど 少なくとも(一部を除く)ここの住人は応援してるからガムバレぃ
>>682 たしかにガイシュツだがとやかく言う気にはならないな。むしろお礼を言いたい
くらいだ。
685 :
名無し三等兵 :02/01/27 17:00
日本海軍一の歴戦正規空母の偉大なる最後ですね。 最後に総員で万歳をしますね。
686 :
名無し三等兵 :02/01/27 17:02
2枚目がそうでしたね。スマソ。 硫黄島の栗原中将もそうですが、何事も最後の散り様が大切ですね。 まさに後世に、歴史に名を留めているわけですね。
栗原って誰じゃーいッ!?
>>686 ーッ、足を開け歯を食いしばれーッ!! BRAM!!
この写真みりゃー命って奴は大事だなぁーって つくづく思うよ、人の上にたつ人ってのは、人命第一で 指示、指導となきゃならんよ。
689 :
名無し三等兵 :02/01/27 21:00
無電封止などどこ吹く風、平電をぼんぼん打ちまくってハルゼーに発見されようと した小沢提督…泣けます。
>>684 俺はこの写真撮ったやつがいちばんエラいとおもうなあ。
691 :
名無し三等兵 :02/01/27 21:48
海軍の歴史サイトに載せているということは、米海軍もこの写真は印象深かったんだろうなぁ。 で、そのサイトに載ってた「アメリカ海軍今日の出来事」(w TODAY IN U.S. NAVAL HISTORY: January 27 1942 - USS Gudgeon is first US sub to sink enemy submarine, Japanese I-173. やるな、帝国海軍。
厨房質問でスマソ。 「総員整列軍艦旗降ろせ」の時、日本海軍は「君が代」を吹奏するけど、 米海軍はやはり「星条旗よ永遠なれ」なのですか?
693 :
名無し三等兵 :02/01/27 22:02
「星条旗よ永遠なれ」は国歌じゃないよ。国歌の名称は単に「星条旗」
694 :
名無し三等兵 :02/01/27 22:09
695 :
名無し三等兵 :02/01/27 22:35
宇宙船艦ヤマト 第一話より (記憶のみなので内容に自信なし) 沖田艦長 「・・・わが艦隊はあと何隻残っている?」 レーダー係員 「・・・本艦とあと1隻だけです」 沖田 「・・・だれの船か?」 レーダー係員 「護衛艦隊隊長 古代守の船であります!」 フイイーン フイイーン フイイーン・・・(艦内になり響く警報音) 沖田 「・・・我々の負けだ・・・」 沖田 「進路変更180度」 航海士 「艦長! 逃げるんですか!?」 沖田 「このままでは全滅するだけだ! 撤退する!」 航海士 「進路変更180度ー。 よーそろー」 レーダー係員 「艦長! 古代の船がついてきません!」
696 :
名無し三等兵 :02/01/27 22:43
>>691 「やるな、帝国海軍」って、
>1942 - USS Gudgeon is first US sub to sink enemy submarine, Japanese I-173.
は「USSガッジョンは、米軍潜水艦で最初に敵の潜水艦を撃沈した。
日本海軍のイ−173であった。」って書いてあるような・・・・
697 :
名無し三等兵 :02/01/27 22:44
古代「やられた艦の艦長には同期もいる!明日の地球は沖田さんが 護ってください。私はおめおめと引き下がれません!」
699 :
名無し三等兵 :02/01/27 23:11
上の方の「沖縄特攻 戦艦大和」と「冥王星海戦 宇宙戦艦ヤマト」は たしかにイメージがダブルな ユキカゼ型突撃駆逐艦だっけ? 古代守の船
>>696 いや、カキコした直後に漏れも気付いたんだよ。
誰も指摘しなかったから、このままスルーされるといいなぁと思ってたのに・・・ (;´Д`)
701 :
名無し三等兵 :02/01/27 23:27
沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを・・ 沖縄の悲惨な現状を見るにつれ、この言葉を思い出し胸が締め付けられるようです。 アメリカの占領下から沖縄を解放し、日本の自由独立の為に何かしなければと思って ます。
宇宙戦艦ヤマトで「自己犠牲の精神」とか「不屈の精神」とか学んだ人は多いのでは? 核戦争も有り得たしね、あのような終末思想も現実味があった。
>703 しかし「さらば」は明らかにヤバいアニメだったがな。
自爆テロのススメだしなあ<さらば
>>705 新宿のミラノ座で観て、泣いてしまいました。
殆どの人が、落涙してました。
私は利己主義者なのに、何故涙が...と言う感じでした。
>704 これだったでしょうか? 水星帝国に被弾しつつ特攻するコスモタイガー隊「加藤」機。 「コクピット」にうつる加藤は古代に敬礼しつつ静かに機位を・・・涙 時はからずも、古代もまた激しく損傷したヤマトを敵水星帝国に体当たり させんと・・・と、そこに (続)
なんだかんだいったって島は死なないんだよなー 奴ってシアワセな奴だって、子供ながらに思った 松本氏のかくスレンダー、さらさら長髪は、私の好みです 結局、10歳位だった私に、強烈な性的印象を与えやがったのは 悔しいが否定できない・・・助けて・・・
かつて古代兄が特攻をしようとしたときに 沖田は止めようとしていたのに 古代弟には特攻すべしと言うのに違和感が おれの中ではあの沖田は古代の脳内妄想ということで片付いている
っていうか、死んでるはずの沖田(&皆さんズ)が、「こっちにおいでヨ!」って 呼びかけて来る絵ズラは、なんか騙されてるような気がした。 劇場で観た当時はリアル消防でしたから、そりゃ泣きもしましたが。 この反動で、以後のヤマトでは人の命が随分安くなったなと思う。
しかし同じヤマトでも大和とは異質なモノですね。
俺たちゃ、小中高と日教組マンセーな先公に 「戦争はダメよん」 と耳にタコが出来るほど聞かされて育ったけど、どっこい、 「戦友愛」とか「自己犠牲の尊さ」「男らしく死ぬこと」なんて価値観は、 ヤマトだのガンダムだのでしっかり学習してきたんだよな、考えてみると。
やっぱり森雪で欲情してしまうんだよ・・・情け無い。 すいません英霊さん・・・
>>712 「戦争はやっぱりしちゃいけない」ってのもガンダムで学んだヨ。
715 :
名無し三等兵 :02/01/29 03:13
>707 あれは加藤じゃなくて「山本」。 加藤はヤマトに帰り着いた時に息絶えるんだYo・・・安らかな顔で(泣
「ヤマトよ永遠に」からデザリアム本星内にて 古代「(波動砲)発射5秒前・・・4・・・・3・・・・・2・・・・ウウサーシャ・・・・・」 真田「俺が撃つ!退け!古代!!!!」 古代「・・・(号泣)」 真田「古代・・・お前はいい奴だよ・・・でも一年とはいえ親として(サーシャ) 育てた俺だって・・・わかってくれ・・・古代・・・」 古代「・・・(号泣)」 (本星に残っているサーシャから通信。しかしサーシャ射殺される。それを見せられた古代) 古代「ちくしょうーーー!サーーシャーーーーー!!!(絶叫)」 ゴーグルもベルトも無しにいきなり波動砲をぶっ放すシーンは 7作中あれだけだったが。声優さんたちは実際に泣きながら収録したそうだ 激しく板違いっぽいんでsage
そうしてこのスレはヤマトに占領されてしまいましたとさ。 めでたしめでたし。
718 :
名無し三等兵 :02/01/29 12:33
すません・・・
720 :
名無し三等兵 :02/01/29 14:05
>>714 オレはザンボット3で学んだ。
同時に、人間爆弾でテロというものがいかに有効な戦術であるかも・・・
>720 萌えるキャラが一人しかいないので下げ。
722 :
名無し三等兵 :02/01/29 17:33
このスレの人は「歴史群像」って雑誌読んでる人は多いと思いますが、 第42号のパラグアイ戦争には泣いたね。 日本人にとっては138年も前の、遙か地球の裏側で起きた戦争であり、知る人 も少ないが、その実態を知れば身につまされるであろう。戦争への経緯があまり にも我が大東亜戦争と似ているからである。しかもそれだけではない。 戦争の背後にある歴史でも、日本とパラグアイは似たものを持っている。 パラグアイにも鎖国時代があった。そして開国後は文明開化と富国強兵政策に 邁進した。軍備強化の余勢を駆って、三カ国を相手に大戦に突入した。 それは、鎖国、開国、明治維新、近代化と富国強兵政策を経て戦争への道を たどった日本に良く似ている。そしてその戦いの様相もまた、大東亜戦争中の 日本と酷似している。パラグアイ軍は時に日本軍以上に日本的ともいえる戦い ぶりを見せ、そして敗北した・・・ ただ日本と大きく違うところは、日本はポツダム宣言を受諾して降伏したが、 パラグアイは徹底抗戦をしたことである。そして最後には戦場にただ一人と なった大統領兼国軍最高司令官のロペスが、なお単身戦って戦死することで、 戦争に幕が引かれたのである。戦後ロペスとエリサ夫人に対する評価は、 極めて厳しかった。だが時と共に変わり、今では恐らく世界史上例のない、 現職の国家元首としてただ一人になってまで戦い、死んだ愛国者として尊敬 されている。また降伏を拒否して吐いた彼の最後の言葉「祖国の為に死ぬ」は パラグアイ国民の心に焼きついている。今、ロペス大統領とエリサ夫人は パラグアイの国民英雄廟に祠られている。 長々と書き込み申し訳無く思いますが、1度読んで見てください。
723 :
名無し三等兵 :02/01/29 17:48
>722 大橋虚銭に聞かせたい話だ(涙
724 :
名無し三等兵 :02/01/29 17:51
>721 国民の6分の5を殺してしまう元首は例え最後の一人と して死んだところで決して誉められない。 同じ死ぬなら自分の身一つをもって残っている国民の命を救おうとした (結果的には殺されることはなかったが)昭和天皇の方が遥かに 元首として尊敬できる。
725 :
名無し三等兵 :02/01/29 18:11
>722 パラグアイと大日本帝国を同一視はできんと思うがね…… たまたま似ている部分だけをとりあげて誇張してるように思えるよ、俺には。
あの話考えてみると本土決戦だよね。
旧スレを読んでた。 始めはああ、いい話だな、と思った。 ただ・・・ 348 名前:名無し三等兵 投稿日:2001/05/02(水) 10:01 「本当の戦争の話というのは全然教訓的ではない。それは人間の徳性を良い方向に導かないし、 高めもしない。かくあるべしという行動規範を示唆したりもしない。また人がそれまでやって きた行いをやめさせたりするようなこともない。もし教訓的に思える戦争の話があったら、 それは信じないほうがいい。もしその話が終わったときに君の気分が高揚していたり、 廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を拾ったような気がしたりしたら、 君は昔からあいも変わらず繰り返されている酷い大嘘の犠牲者になっているのである」 ――『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン(文春文庫) この投稿が叩かれているのを見て絶望した。
728 :
名無し三等兵 :02/01/29 21:38
>727 俺頭わりいから解説キボンヌ
チガワイ!ウワァァァァァァン!
731 :
名無し三等兵 :02/01/29 22:33
>727 極めてまっとうな物言いとおもわれ
732 :
名無し三等兵 :02/01/29 22:35
極めてまっとうな物言いだが、現実的じゃない。 だから反発を招いているんだろう。 今日の虚銭の言い訳と一緒
733 :
名無し三等兵 :02/01/29 22:35
ゾンビ・コップのラストから。 「なぁ。お前、今度生まれ変わるなら何になりたい?」 「そうだなぁ。俺は、女の自転車のサドルがいいなぁ」 これから死ぬと言う所でこの台詞に漢を感じたバカ映画ファンは多いはず。
734 :
名無し三等兵 :02/01/29 22:36
>733 死にたくないよヽ(`Д´)ノウワワワーン だったらしらけるもんね
すまん。誤爆。 でもティム・オブライエンのいいたいことはわかるぞ。 だいたい「映像の世紀20世紀」だって、おれは個人的に音楽付の壮大なプロパガンダ映画だと思ってるぞ
>724禿銅
私の身はどうなろうとかまわない。しかし私の国民はどうか飢えさせないでやって頂きたい。
戦後色々な中傷を受けた昭和天皇だったが、
呼び出しが来るであろうはずのGHQから何の音沙汰も無い。そこで自らアポをとって
自分の命はどうなってもいいと陳情した昭和天皇の民に対する慈愛は偽りの無いものだったと思う。
>>654 兵八殿 返信遅くなって申し訳ありません。小生出張続きだったもので・・・。
御尋ねのソースは 株式会社 光人社 から発刊されている
「歴史から消された兵士の記録」 土井全二郎著 です。
激烈な最前線で戦い、そして生還することが出来た兵士達の消息を訪ね歩き、
戦前全否定の風潮の時代に口を重く閉ざす彼等からの証言を取り纏め、
発刊に至るまでは並々ならぬ苦労があったと思われます。必読の書と私は思います。
菊水作戦や私が先に上げた駆逐艦「涼月」の話も詳細に記されています。
海戦終結後、佐世保に帰港した「冬月」「雪風」「初霜」の三艦以外は絶望視されていた中、
翌日になってかろうじて母港に帰還した「涼月」の苦闘には読んでいて涙を押さえる事が出来ませんでした。
機会あれば一読お勧めします。
>732 どのへんが現実的でないの? もしかしてこのスレの話を読んで本気で日本を 守ろうとか思ったりしてない。 感動はするだろうけどあくまで美化された主観に過ぎないんだしさ。 戦争であろうとなんであろうと現実には一グラムのロマンも存在 しない事はあなたも現実を生きていればわかるでしょう。 すれちがいだからやめましょう。もっと泣ける話キボン
738 :
名無し三等兵 :02/01/29 22:57
>737 あんたの言っていること矛盾ばっか。
まあ、戦場に行ったことも無い人間が戦場に行ったことのある人間の戦場体験を否定するのは愚かだってこと 本編に戻ろうよ?
>>727 それ、私も読みました。一兵卒の等身大の姿とはそうした物でしょうが、
このスレはそうした数多の「廃物の山の中からちょっとしたまっとうな部品を」
拾って磨き上げる所ですから、大目に見て下さい。
婆ちゃんから聞いた話によると、爺ちゃんは 空襲で家に焼夷弾が落ち炎上している時、 「自分の土地を財産を手放して逃げれるか!」と言って 1人残ったらしい。勿論亡くなったが、漢を感じた
>727 前スレ読んだんだったらその文章がどういう文脈で出てきたのか知ってるでしょ。 「個人」の評価と「組織」の評価をごっちゃにする文脈で出れば叩かれて当然。 このスレは基本的に「個人」の線で話が進んでる場所だから、 そこんとこ踏まえて読まないとおかしなことになる。
743 :
名無し三等兵 :02/01/30 14:37
>>736 ヤマト様
今までROMしてました。泣ける話有り難う御座います。
昔読んだ本の中で、涼月の佐世保入港の際に艦首破損の浸水を止める為に
命懸けで防水を行って死んだ将兵の話が有りました。小学生の頃ですが
やたら泣いたのを覚えています。原典も引越しの際に処分されてしまったので
判りませんがご存知無いですか。私用でのスレ使用スマソ
744 :
名無し三等兵 :02/01/30 23:59
海軍の合言葉。 スマートで 目先が利いて几帳面。 負けじ魂 これぞ船乗り。 会社の防大卒の海自出身者の上司が云っているから、海自でも使われていると思われ。 仕事でミスるとよく云われしまう。
>743 ヤマトさんではありませんが、おそらくその本は 倉橋友二郎、著 「第41防空駆逐隊戦記」 鱒書房 昭和31年7月 ではないでしょうか。 「激闘駆逐艦隊」のタイトルで朝日ソノラマ文庫版航空戦史シリーズ95巻 にも収録されています。 著者は「萩風」及び「涼月」砲術長としてミッドウェーから菊水作戦までを記録しています。
746 :
名無し三等兵 :02/01/31 06:06
>>745 有り難う御座います。早速探してみます。
人知れず、防水の為に力を尽くし亡くなった
3人(うろ覚え)の水兵の話を思い出したらまた泣けた。
747 :
名無し三等兵 :02/01/31 07:40
戦争ってすばらしいよね。私も次の戦いを楽しみにしています。
どうも、宇垣長官というと、最後の特攻の話ばかりになってしまうので、別の話を。 記憶で書いてるので、ちょっとした間違いはお許しを。 あるとき、補給艦が砂糖を満載して本土に入港した。 とーぜん主計課は大喜びしたが、当時、聯合艦隊参謀長だった宇垣長官は一言言った。 「聯合艦隊には砂糖はもう、たくさんあるじゃないか! この砂糖は子供たちにわけてやるべきだ!」 鉄仮面などと言われて、感情の起伏がないようなイメージをうける宇垣長官だが、 このエピソードを読んで、その思いやりのある人となりに、当時、私は非常に感動した。
>>736 ヤマトさん、ありがとう。早速本屋に行ってみます。
>>745 涼月のそのエピソード、「壮烈!水雷戦隊」って子供向け本に載っていましたよね。
ガキの頃読んだけど、泣きじゃくっちゃったなあ・・・・・・。
>>750 兵八様
あっ、それです思い出しました。確か最後の方の話に載っていたものですね。
昔はこうした子供用の本があったのですが今は無いですね
つくづく今を思うとあの頃の環境(藁)が良かったと思います。
近所には小さな本屋しかなかったけど必ずあったし。
今は大きい本屋に言っても仮想戦記しかない・・・。
すまぬ泣けてきた(オチ
752 :
名無し三等兵 :02/02/01 22:32
>749 久しぶりに泣ける話だ。 いい人に思えてきた。
753 :
名無し三等兵 :02/02/01 22:48
>749 つまらぬノリツッコミなんだが。 ある航空機関士が、内地と南方戦場を行き来するたび、 戦況がまだマシだったころ、内地では枯渇していたウイスキーを、 シンガポールあたりにはまだあった関係で買って帰り、 大酒飲みだった親父に喜ばれた、というか、 裕福ではない家庭だったため、親父さんが生涯、一番上等な酒が飲めたのが、 戦時中であったそうな。 その航空機関士、戦後、航空機のエンジンからすればオモチャのような、 オートバイ・エンジンのチューニングに手を染め、 「ポップ吉村」として名をはせ、戦場をサーキットに替えて、 ”連合国”相手に大暴れしたという。
754 :
名無し三等兵 :02/02/01 23:08
>753 それはいい話だ。 惜しむらくはここが泣ける話スレだということだが。 人は資源であります。 「涼月」が眠る軍艦防波堤が、地元のテレビの五分くらいの小さいコラム で紹介されました。去年の夏。現在防波堤に姿を見せているのは「柳」なの ですが、番組では「涼月」とされてしまっていました……オイオイ(笑)。 まあ、仕方ないんですが。「涼月」といえばちょっとは有名ですし。これが 「これは柳という駆逐艦の……」なんてやってたら、五分なんてアッという間 ですから……。これって泣ける話?
755 :
名無し三等兵 :02/02/01 23:31
>754 753です、恐縮です。 では、このような話を補足致しますが、いかがでしょうか? ポップ吉村氏、鈴鹿8時間耐久レースの、真夏の焼け付くようなピットに、 仁王立ちで”戦況”を注視しておられたそうです。 かって予科練でパイロットを目指し、墜落事故で断念した吉村氏に、 「おい吉村、貴様、オートバイレースをやってるんだってな。 アメリカ相手に戦ってるんだってな、ならば勝ってくれ。 俺たちの分まで勝ってくれ・・・・」と、声援を送る、 かっての戦友の声を聞きつつ・・・・。 「今、オートバイに乗る若者に、これが理解できるだろうか。 理解を無理強いはしない、だが、あの時代に青春を送った私にとって、 あの戦争はけして、遠い時代のことではないのである」 今は亡きポップ吉村氏の、著書に書かれたところです。 そう、遠い、忘れてよい時代の話ではありません、754氏もそうお思いでは?
言葉もありません。
757 :
名無し三等兵 :02/02/02 00:38
>754(756)氏 753(755)です。 いえいえ、どうか、お気をお楽にお持ちください。 こんな話もありますよ、と、ご紹介申し上げたまでです。 ポップ吉村氏の話で言えば、娘さんに「南海子」と命名されたそうですが、 これは戦いの場所ではありながら、美しかった南方の海が忘れられず、 あの海のように、身も心も美しい娘であれ、と、名付けたそうです。 息抜きに微笑ましい話を、またもやではありますが、 ご紹介申し上げます。
ポップ吉村、彼ほど侍の名に相応しい人はいないと・・。 職人の技が生み出したマシンがワークスマシンを打ち負かす、 その光景は雄々しく戦う零戦を思い出させました。
誰か涼月の話UPしてくれんかのぉ。 読んだ事無いものにはちょっと辛い。 泣きたいんじゃ
一番砲塔の弾薬通路の左舷側の下にある居住区の扉を開いてみた。 この甲板だけは、さほどの影響がなかったとみえて、この区画だけは 原形のままになっている。階段を降りようとして、ハッとした。 なかには三人の屍があった。しかも、隔壁には丸太のつっかい棒が してあって、くさびでとめてある。かすがいもみごとに打ってあるではないか。 主計兵の貫一(江藤虎蔵主計兵曹)は、このなかの1人だった。 彼は、短刀でノドを突きさし、見るも無残な自害を遂げていた。ガスマスク は顔につけてはいなかったが、腰に下げたままになっている。 背中にサッと冷たいものが流れた。 申し訳ないが私は正視するに忍びず、その場を離れて、後部士官室に うつ伏してしまった。貫一たちは全部応急員という戦闘任務もあり、防火や 防水の応急作業を教えられていた。防火では、弾火薬に対する引火、爆発 を防ぐことが大事であることや、扉を厳重に閉鎖すれば、区画ごとには 被害を食いとめることがでえきることを、何回となくくり返し説明を受けていた。 また、煙のなかでは、ガスマスクはなくてはならない、必ず腰につけるように といわれていた。
防水では、被害を極限することが大事で、隣の区画に浸水があれば、隔壁 を補強するために、丸太のつっかい棒をして、くさびやかすがいで、はずれない ように固定することも、とっさの間に合うようにと、何回も訓練されたものだった。 魚を焼いたり、めしを炊いたりするのとは勝手がだいぶ違う。丸太をかかえて の作業や、弾丸を運ぶ彼の格好は、スマートさなどはさらさらない。厄介な 仕事だ―と彼は内心思っていたに違いない。 スローだったが、またユーモアの持ち主であった弾庫長も、供に倒れていた。 この一室を最後まで―火災から守り、また浸水からも守って倒れている。 この三人はいつごろまで生きていたのだろうか。 艦の戦死者のうち、被爆の瞬間に死んだ者が多い。また重症を受け、やがて 倒れた者もある。 ところがこの三人の場合は怪我はしていないのだ。生きようとすれば脱出 できたのである。 この室か、あるいはこの上か下かにいて、揚弾を一生懸命やっていたときに、 爆弾が命中した。
一番弾庫の誘爆を防ぐために、上下の入り口の扉を固く閉鎖した。そのうち に、前の区画にも後ろの区画にも浸水してきたことが、水の音で察しがついた。 三人は丸太をあてがい、くさびを打って、隔壁の補強にかかった。 呼吸困難と戦いながら、電灯の消えた暗いなかで、懐中電灯一つを頼りにして、 丸太の作業を完成した。「厄介な仕事だ」と内心思ったことも今は忘れて、 だれの指導も受けずにやり通している。 火災と浸水からこの一室を守ろうとする、三人の固い決心は、ついに自分たち の出る道をも固くしめつけてしまった。 長時間の複雑な仕事を完了して、最後の息を引き取るまでの苦労を、我々は わずかに想像し、一同襟を正した。 この一室が浸水していたならば、涼月は沈没、全員戦死となっていたのだ。 三名の死が、よく涼月一艦と多くの生命に、沈没の間の一線を画してくれた のである。 演芸大会では期待もせず、望みもせず、はからずも商品を授与されたが、今度 は期待して死んだのであろうか、図らずも賞められたのだろうか。 ----- 以上、駆逐艦涼月砲術長 倉橋友二郎少佐の「激闘駆逐艦隊」より (原書は「第41防空駆逐隊戦記」)
追記ー (帰投後)二、三日してから、ドックの外の兵舎一室を借り、演芸大会を開いて慰霊祭に 代えることになった。 トックリを股にはさんで、安来節はまた元気一杯続いたが、(前部員の)浪花節と(主計課の)"貫一お宮"の 幕はない。 笑ってはいたが、何かこみ上げてくるものを、だれもが押さえ切れなかった。 近代戦はセンチメンタリズムを超越する。大体、戦争というものは血も涙もないのだ。
--涼月も深手を負った。 右舷上部甲板に直撃弾一発を受けた。爆弾は甲板を貫通して艦内で爆発した。 このため、破壊力が倍増し、艦橋のすぐ右前部分に大破口を開けられた。 艦橋真下にあった重油タンクもやられたらしく、ここから火炎が激しく立ち昇って来た。 電気系統もまた破壊され、艦内機能がすべてマヒした。 通信装置、消火設備、航海機器。すべてが使用できなくなってしまっている。 中央から後部甲板上も惨憺たるありさまだった。 信号マストのロープにからまってぶら下がる下半身だけの死体があった。 甲板から吹き飛ばされた水兵が、なにごとか叫びながら、航跡の波間に消えていっている。
主計科・海軍水兵長、内田正史は非常配置についていた。機銃群のための弾薬運びである。 見ると、若い射撃手がもたもたしている。 「代わろうか」 「願います」 位置を入れ替えたとたん、敵機の機銃掃射がきた。 そして、いままで内田がいた場所に移ったばかりの射撃手の体を、 だっ、だっ、だっ、と三発貫いていっている。 カタキは取ってやる、と内田が夢中で撃っている所へ、軍医(海軍少尉)が這ってきた。 腹部をやられていた。 「もう何も出来ない」 「みなの邪魔になるばかりだから、俺を海に捨てろ」 そんなことを、苦しい息をしながら、頼むのだ。 それが、この軍医学校を出たばかりの若い軍医の最期の言葉であった。
艦内の火災はますます広がってきている。 乗組員達は、後部にある機銃で対空戦闘に当たる組と艦内消火組の二班に分かれ、 懸命に艦を守ろうとしている。だが艦は前進不可能であった。 前に進めば、もぎ取られた前部艦首からの浸水が激しく、 わずかに保っている隔壁が破れる恐れがあった。 「カチカチ山のよう」に火に包まれながら、「涼月」はエンジンを後進とし、 艦尾を先にし、ゆるゆると戦場からの離脱を図っている。 ---以降、その消息は途絶えたのだった。 株式会社 光人社刊「歴史から消された兵士の記録」土井全二郎著 ヨリ
>743 亀レス申し訳無い。 お尋ねのソースは私は残念ながら知らなかった。が 兵八殿が提示されたようで有り難いです。 他に 今日の話題社刊 造船会著 「造船官の記録(正・続)」にも話が 詳しく載っています。
770 :
お茶っぴき :02/02/04 05:51
わが身の不明だが、 「涼月」の事は、大破したが沈まなかったと云う認識しかなかった。 このような状態であったとは...。 また、沈まなかったのは、倉橋砲術長の挙げた3人のお陰だったのか・・・。 私も黙祷したい。
771 :
名無し三等兵 :02/02/04 21:13
このスレ泣ける
772 :
名無し主計兵 :02/02/04 22:47
貞子さんのお話でもいいですか?
773 :
名無し三等兵 :02/02/04 23:28
涼月はドックの中で沈まなかったっけ?その場合、沈没艦にカウントされるの?
米軍の重巡艦隊と撃ち合いして撃沈された空母「千代田」の話なんか泣ける。 しかも、生存者無しというところがもっと泣ける… 乗組員はいかなる気持ちだったのだろうか。
775 :
名無し三等兵 :02/02/06 16:37
神雷部隊 野中五郎大佐の愛児への手紙 ぼ− まいにちおとなち朽ちているか おばあちゃま おじちゃまがいらっちゃるから うれちいだろう おたんぢょうびみんかにかわいがられてよかったね おめでとう おめでとう おとうちゃまはまいにちあぶ−にのってはたらいている ぼ−がおとなちくちてみんなにかわいがられているときいてうれちい もうちょろちょろ あるかなくてはいけない はやくあるくなちゃい おかあちゃまにいうことをよくきいて うんとえいようをとってぢょうぶなこどもにならなくてはいけない ちゅききらいの ないようになんでもおいちいおいちいといってたべなちゃい ではさようなら おとうちゃまより ぼ−へ 昭和20年3月21日 おとうちゃまはぼ−に乗って出撃し還らなかった
776 :
名無し三等兵 :02/02/06 17:11
神雷部隊の野中五郎大佐の愛児への手紙 泣けます 「殉国の碑」というHPにてでおります
777 :
ソルジャー陸介 :02/02/06 17:31
終戦後の内蒙古方面。ソ蒙軍機械化部隊の侵攻が間近に迫った。 4万の在留邦人の生命が危険に曝されたが、日本現地領事はなす所を知らなかった。 軍司令官根本中将は、自らラジオ局に赴き「軍を信頼せよ。直ちに撤退準備を」と呼びかけた。 現地軍は一週間の激戦を展開して、ソ蒙軍を食い止め、その間鉄道は片道運転で邦人を一人残らず安全地帯の天津まで輸送した。 邦人の撤退を確認した軍は、夜闇に紛れ撤退。遂に邦人を守り通した。 軍参謀は「兵団は最北の野に消えゆとも敵に渡せじ四万の同朋」と詠んだ。
778 :
名無し三等兵 :02/02/06 17:38
>涼月はドックの中で沈まなかったっけ?その場合、沈没艦にカウントされるの? 修理されて復帰したならカウントされないんじゃない。
コピペ 重複したらごめんなさい。 第二航空戦隊がウェーキ攻略作戦のため分離行動中、 捜索に出た飛行機一機が航法を間違えて帰路に迷った。 行けども行けども母艦が見えない。燃料はあと十分と言う瀬戸際になった。 搭乗していたのは若い二人の航空兵であった。このまま着水して死んだ場合 はたして戦死と認定されて靖国神社に祀られるだろうかと考えた。そこで 二人は相談してこのまま死んで戦死となるか機上から無線で訊ねてきた。 艦長は気をきかして 「もちろん戦死である。しかし艦の位置はどこどこである。気を落とさず 帰投努力せよ」と言う意味の返電を送った。しばらくすると機上から 「辱けなし」 といってきた。
「ドイッチュラント イーバー アルレス」 各機のラジオが荘重なドイツ国歌をかなでている。Bf109のがっちり組んだ一編隊は それまで背に負ってひそみ隠れていた太陽から離れ出ると降下を開始した。 1945年4月のある日の午前である。ラジオは女性アナウンサーの声に変わった。 「私達は決して忘れてはなりません。アメリカの空の盗賊どもの手にかかって死んだ 婦人や子供達のことを」 耳にしつつドイツのパイロットたちは、眼下に接近してくる空の要塞の大群を まばたきもせずに見守っていた。 それは無数の点から、みるみる四発重爆の形となり迫ってきた。
(中略)先頭切ったBf109の機関砲は、この外れようもない至近距離で一機のB17の 尾部銃座に射弾を叩き込み続ける。そのB17からは大きな破片が次々と舞い散っている。 と見る次の瞬間には、その二機は一つに合し、巨大な火のかたまりとなった。 過失による空中衝突であろうか?違う。すぐに続いてまた別のBf109一機がB17に体当たりし またも大爆発が生じる。
(中略)渦巻く戦闘の中で傷ついたBf109の一機が煙を引きつつもがくように泳ぎよる。 すると三機目のB17が体当たりを受けた。からみ合った二機は破片をまき散らしつつ, 三万フィート下方の大地に舞い落ちていく。 それでもなおドイツのラジオが語り続けている。 「廃墟の下に生き埋めにされたご婦人達のことを、決して忘れないようにいたしましょう。」 「ドイツ空軍、全機発進せよ」ジョン・キレン/内藤一郎訳
783 :
小瀬ヤン さらば :02/02/07 01:04
たぶんガイシュツとはおもうが。何度よんでも涙を禁じえないので。 ダッチハーバー攻撃時、一機の艦爆が機位を失った。しかも 不運にも同機は電信機の受信装置に敵弾を受けたため受信不能となっていた。 母艦より打電 燃料はどうか?長波をだせ、方位を測定する。 しかしこれに応える返信はない。 われ予想地点にきたるも、母艦を発見し得ず。雲量10、視界0、反転す。 そのときかすかに爆音が聞こえてきた。しかし艦の上空は相変わらず濃霧に 覆われ、洋上はすっかり暗くなっている。 すると同機から 艦影を見ず、探照灯を店ぜられたし と いってきた。 それに応え探照灯を照射しようとした時、突如敵機の重爆撃機の爆音がきこえてきた のである。なんという不運であろうか、戦場は非常である、艦は灯火管制された。 他に帰らざる機ありや 燃料あと五分、陛下の着を失い真に申し訳なし 我自爆す、皆様のご好意を深謝す。天皇陛下万歳 と打電し、ついに永遠に連絡をたった。。。。
784 :
名無し三等兵 :02/02/07 01:10
漢字直せ。
785 :
小瀬ヤン さらば :02/02/07 01:17
スマン 涙目でよくみえんのよ^^;
786 :
小瀬ヤン さらば :02/02/07 01:27
ダッチハーバー攻撃時、一機の艦爆が機位を失った。しかも 不運にも同機は電信機の受信装置に敵弾を受けたため受信不能となっていた。 母艦より打電 燃料はどうか?長波をだせ、方位を測定する。 しかしこれに応える返信はない。 われ予想地点にきたるも、母艦を発見し得ず。雲量10、視界0、反転す。 そのときかすかに爆音が聞こえてきた。しかし艦の上空は相変わらず濃霧に 覆われ、洋上はすっかり暗くなっている。 すると同機から 艦影を見ず、探照灯を点ぜられたし と いってきた。 それに応え探照灯を照射しようとした時、突如敵機の重爆撃機の爆音がきこえてきた のである。なんという不運であろうか、戦場は非情である、艦は灯火管制された。 他に帰らざる機ありや 燃料あと五分、陛下の機を失い真に申し訳なし 我自爆す、皆様のご好意を深謝す。天皇陛下万歳 と打電し、ついに永遠に連絡をたったのである。。。。
787 :
名無し三等兵 :02/02/07 01:29
小の虫を殺して大の虫を生かす、か・・・ ・・・涙・・・
788 :
名無し三等兵 :02/02/08 22:47
「いま、日本に生まれ育ってきた者の回り合わせです。だれかがやらねばなりません。 だれかがやらねばならないのだったら、私がやります」 「そりゃあ、死にたくはありません。でも、私が居なかったら『大和』は動きません。 私が行きます。私は『大和』が自慢です」 沖縄水上特攻時、大和乗り組みの下士官、兵の言葉 (吉田俊雄元海軍中佐の回想。同著「良い指揮官良くない指揮官(光人社)」214頁より)
このスレッドの外にいる人たちには、 パールハーバーを見た後、戦場まんがシリーズを読んでほしい。 多分バランスが取れるだろう。
パァールハバは泣ける話や あの映画がトラトラトラより後に制作されたなんて、とてもとても哀しい 涙が出る、彼の国の歴史考証家・軍ヲタの地位の低さに、涙が出る
貞子と折り鶴
792 :
名無し三等兵 :02/02/10 04:54
>790 そいつを言えばあの国の戦争映画は大なり小なりそうだよ。 自らの正義と言う狂気を信じ、紛いなりにも それを実現し続けてきたんだから。 大体戦争映画じゃないけど、インディペンデスデイみたいな 愛国映画、アメ公以外が作ったら間違い無くキティ確定だな。 あの国の戦争映画はリアルさより、楽しめるか否かを 気にした方が精神的に楽だよ。
確かディズニーの映画配給関係の総責任者が「パールハーバー」のあまりの無残で御粗末な 結果に首が飛んだという話をどこかで読んだな。(確かにあった) ソースも責任者の名前も思い出せんが。 映画監督なんてのはスポンサーが付かなけりゃあゴミだからなあ。 もう日の目は見ないんじゃないか? 自業自得と言えばそれまでだが・・・。
ハリウッドで本当に偉いのはカントクじゃなくてプロデューサー連中。 並み居るカントクの中でも、特にマイケル・ベイはジェリー・ブラッカイマーの ためにイケイケ爆発映画を撮る現場責任者に過ぎないよ。 日本じゃカントクこそが映画の中心にいるように思われてるけど、ハリウッド は違う。お金と支配権を握るプロデューサーこそが神様。 スピルバーグがカントクからプロデュースに足場を写したのも、本当に撮りた い映画があったら、所詮は雇われ現場責任者に過ぎない監督より、支配権を もつプロデューサーであった方がやりやすいからだし。 爆発大好きなブラッカイマーが見限らない限りは、マイケル・ベイはお手軽に 使える配下としてこの先も使われると思うよ。
地雷だってのがばれちまったんだからいつまでも抱えちゃあいないと思うが。
797 :
名無し三等兵 :02/02/12 01:26
軍板にアニオタが増え続ける・・・嘆かわしい・・・
笑わせようとしてるのか?>797
>>796 すでにアルマゲドンで地雷だってバレてるじゃん・・・。
それはともかく、この場合問題なのは企画してスポンサーや映画会社から資金集めて
おいて、興行的に失敗させたプロデューサーがやはり問題になるよ。おまけに脚本家が
製作総指揮も兼ねてたし。
上で「ID4」を挙げてる人がいたけど、アレ、監督はドイツ人。「エアフォース・ワン」もドイ
ツ人だYo。「スターシップ・トルーパーズ」ではオランダ人。
実際撮る人間じゃなくて、「製作」する方が問題っていい例でしょ。
いや、「スター湿布」はバーホーベンの趣味全開だったっけ(w 激しくスレ違いスマソ。
漏れ的にはランボー1はなかなか良い作品だと思ってみるTEST(2,3は却下) 自国民に虐げられるベトナム帰還兵(・∀・)イイ
>>799 マイケル・ベイはアルマゲドンをヒットさせたから、それなりに信任は厚いはず。
その前のザ・ロックもあるしな。
ジェリー・ブラッカイマーが見限らない限り干されることはないだろ。
映画的な価値は全然関係ないよ、首云々に。
>794 出来の悪さは事実だしアメリカ国内でも酷評されていたけれど(あれでもマコが 日本の描写に付いて口を出し手直しさせていたらしい)、首になった直接の原因は 制作費に対する興行収入の低さだったと言うのが真相。つまり興行的に失敗だった って事。
804 :
名無し三等兵 :02/02/12 22:12
いつから映画スレになったんだ? いいスレだったのに… 俺はネタが打ち止めなんで、誰か軌道修正してくれ。
自分の母上の話ですが―― 太平洋戦争末期、母がまだ幼かった頃。田舎だったが食うものも満足に なくて、いつも妹たちとお腹を空かせて泣いていたという。 そうしたらある日、工場で働いていた父親(自分の爺様)が出かけ際に 「今日は、“たまご”の配給の日だったな」 と言って出かけた。 玉子。滅多に食べられないご馳走だ。幼かった母は、もうそれだけで うれしくなって、学校に行っても上の空で、早く家に帰って、そうして 父親が玉子をもって帰ってきてくれないかと、そればかり考えていた。 生に醤油を垂らして食べようか、茹でてもらおうか、それとも雑炊に 入れてもらおうかと、ずっと玉子のことばかり考えていたそうだ。 そうして夕方―― 父は中々帰ってこない。夕食の時間を過ぎても帰らない。 そして夜中になって、ようやく、酔っぱらった父親が帰ってきた。 ずっと眠いのも我慢して起きていた幼い母は、さっそく父を迎えに 出たが、その手には玉子らしきものは、無い。 訳が分からず、半泣きで母は玉子の配給は?と父親に尋ねた。 すると父親は、 「玉子? あほう、今日は“煙草”の配給があったんだ」 と一言。幼かった母は火がついたように泣いてしまったそうだ。 …しょうもないオチと長文、すんません…… でも自分が聴いたときは、玉子一個で、子供がそこまでわくわく 出来る時代、というのが何だか泣けてきてしまったので……
一緒に泣きたい気分
807 :
名無し三等兵 :02/02/13 12:51
>805 今の飽食の時代。だからこそ忘れてはならない話だ。 俺はおっかなかった父から教えられた食事の前の手を合わせる 「頂きます・御馳走様」を3歳の息子にやらせている。そのうち 意味も教えてやろうと思っている。
808 :
既出かも? :02/02/13 21:37
某板よりコピペ
192 名前: 投稿日: 01/11/19 04:30 ID:GoiVDvqh
元クルガ兵(ネパール人)の証言。
我々は世界最強の傭兵だ。
第二次大戦で英軍の傭兵の時、マレー軍を3時間で撃破した。
インド軍は1日で降参させた。
だが、日本の正規軍との戦いは過酷で一週間不眠不休で戦わされ、我々も
半数以上が戦死した。
これだけの死闘は初めてで、勇敢な敵軍を尊敬したのはこの時だけだった。
玉砕した日本軍の所に行ってさらに驚いた、日本軍は貧弱な武器なうえ
食料も、わずかな米しかなく、日本軍の死体はみんなやせ細っていた。
戦友が死んだ時には泣かなかったが、敵である死んだ日本人を見て皆泣いた。
302 名前: 株式会社韓国 投稿日: 01/11/21 02:49 ID:5melbiAf
>>301 の続きも凄い…
英霊に捧げる
南海の荒海に屍されし英霊よ、故国台湾台北州烏来の聖地に立つ、忠魂碑に降臨して、
日台青年交流団の捧げる、感謝と哀悼の誠を受けられよ。
顧みれば五十数年前、英霊各位は、白色人種の植民地政策から、黄色人種と偉大なる
理想実現のため、第二次世界大戦に従事なされた。抑々東洋平和の安定を確保し、
以て世界平和に寄与するのは、日本建国の精神であった。しかし黄色人種と黒色人種は、
白色人種の植民地政策の迫害を被り、教育を受けられず、殆ど未開発の原始生活に
留まって居た。これらの諸民族を開放し、自主独立の国家を建て、平和且つ平等に
生活ができるよう指導するのも、又日本に課せられた重大使命であった。
昭和十六年十二月八日、日本は破邪顕正の旗を押し立て、国運と国力を傾注して、
白色人種追放のため、東南アジアに進出した。正に青天の霹靂である。白色人種の
数世紀に亘る、世界制覇の夢は醒め、難攻不破の厚い壁は遂に崩潰した。英霊各位
は赤道直下の炎熱焼くが如き猛暑と、悪性伝染病を克服なされ、強敵白色人種と、
勇猛果敢に激闘なされ、これらを追放し、新生国家の基礎を確立された。殊に高砂
義勇隊は、ジャングル伐採の先頭に勇み立ち、我が軍が苦戦に陥るや、高砂挺身隊は
ジャングルを利用して、敵陣に神出鬼没して、敵の軍心を攪乱し、勇敢に敵陣に切り込み、
華々しく戦い、遂に護国の英霊となられた。英霊各位は尊い命を犠牲になされ、世界人類の
自由平等のため、多大の貢献をなされた。其の偉大なる理想は、花を咲かせ実を結んだ。終戦
後、小民族は開放され、相次いで独立した。今、全世界の独立国家は、合計百八十五カ 国となった。
各民族は、共存共栄の信条の下、自由平等且つ幸福に暮らせるようになった。此の偉業は、世界の
一頁に刻まれ、太陽の光と共に、天攘無窮に照り輝きます。そして英霊各位は平和の神として、
全人類から敬愛尊敬されます。
本日、日台青年交流団は日本青年を代表し、感謝と哀悼の誠を以て、英霊各位を慰う目的であります。
尚、一九八九年日本政府は台湾人元日本兵、戦没者遺族補償費と、戦傷者の慰問金交付を発表した。
一人当たり日幣二百万円です。台幣に換算すると約四十万元です。金額は微々たるものですが、日本国の
誠意として受け取れます。遺族の生計に多少役立つと思います。
英霊各位本当にご苦労様でした。何卒、安らかに御安息ください。
最後に御冥福をお祈り申し上げます。
一九九六年五月十二日
台湾中日海交会 呉 宗姓
>808 速報板だね。今、あのスレはイイ感じだね。
811 :
名無し三等兵 :02/02/14 23:16
これ良いスレだね。小ネタあげ。 大戦中、父親の家は炭焼きで生計を立てていた。 山の中で炭を焼き、馬の背に乗せて運んでいたそうだ。 馬は大事にされていたので、玄関の中で飼われていた。 戦争が激しくなり、馬も徴用されることになった。徴用前日、家族総出で 馬を川原に連れて行き、きれいに体を洗ってやり、徴用当日は、出征兵士と 同様に日の丸の小旗で送った。 戦争が終わっても馬は戻ってこなかった。 親父は時々、あの馬はどこまで行ったのかなとか話す。
812 :
nanasi :02/02/14 23:24
米国日系人だけで編成された部隊がWWU欧州戦線で勇猛をはせた という話を聞いたことがあるのですが、実話なのですか?
813 :
名無し三等兵 :02/02/14 23:27
事実でしょうね。 彼らは最前線の部隊です。最前線=勇猛というパターンでしょう。
>>811 いい話です。最後の一行で、ほろりと来てしまいました。
今日という日で闇が深くなった私の心が洗われました・・・・
815 :
名無し三等兵 :02/02/14 23:33
戦時中、日本各地から出征して行った馬は数万頭。 日本軍が進出した各地で黙々と任務をこなし、1頭も復員することはありませんでした。
>>814 第100大隊とテキサス14連隊だっけ?
>812-813 仮にも軍事板の住人だろ?442部隊の話ぐらい知っててくれよ。 いつぞやのキスカの時と同じぐらいにホントに泣ける話だな。
818 :
名無し三等兵 :02/02/14 23:41
>>812 戦時中、日系米国人が強制収容所に囚われていたのはご存知か?
ドイツ系米国人は同じ敵性外国人でも強制収容されなかったが、日系米国人は
囚人としての辱めを受けた。日系米国人部隊が勇猛果敢に戦ったのは、本国で
囚われている家族が無実であることを証明する為に死に物狂いで戦ったのです。
米国内での日系人の名誉を挽回する為に・・
>812 事実も何も、アメリカではそれこそ教科書に載るほど有名な話です。 >815 他にも犬や鳩など、戦争に動員された動物はいろいろいます。 靖国神社の片隅にはそうした動物たちへの慰霊碑が密かに建っています。 木々の間で足を止めるひとも少ないですが……
820 :
名無し三等兵 :02/02/15 00:48
>>815 揚げ足とってるわけじゃないんだけど
実は1頭だけ復員してます。そういう記事をよんだよ。なんかの記念でだったかな。
821 :
名無し三等兵 :02/02/15 01:16
>819 現在改修工事中の遊就館前にありますね。そういえば遊就館は 7月13日に新装オープンだそうです
822 :
名無し三等兵 :02/02/15 01:58
>821 何処の機体かは知りませんが、今度は零戦も展示される みたいですね。今年の夏も、参拝ついでに見て行こうかな・・・。 余談ですが、去年の終戦記念日に参拝に行った際、 石原都知事が車で乗りつけた所に出くわしましてね。 その時当然記者が一斉に取材に来るんですが、 周りにいた人間から「朝日は帰れ!」「朝日は中国へ帰れ!」 と言う叫びが一斉に上がったのを思い出しましたよ。 まあ関係の無い話ですが・・
はっきりいってあんまり泣けませんな。 その辺りの話はどこぞでやって頂きたい。
822さん その場で「○○は○○○のケツでも舐めてろ!」 と言ったのは私です。 ドッと受けました。 一昨年は人員整理のロープは張られていませんでした。
コピペです 泣けませんが 「呉と言う町」 獅子文六 広島附近は芳醸の産地だから、東京よりは酒の自由が利くと 考えたが事実は反対だった。旅館は酒を惜しむに非ずして 配給なきが故に出さぬらしい。女中の話では艦隊入港のときに、 上陸した下士官などが細君を呼び寄せてこの旅館に滞在する ことがあるが そういう場合に酒がないのが一番気の毒だと いうのである。細君から手を合わせるようにして頼まれる。 出港すれば戦死なさる人かも知れずなんとかして、一本でも 都合してあげたいと思ってもない袖は振られない。 そういうときが一番つらいと言うのである。 そんな話を聞くと酒を飲みたい気持ちなど忽ち喉へ引っ込んで、 では飯にしようと茶碗をだせば、これも二杯以上はいけませんと 念を押された。 うちの爺さんも横須賀へ婆さんを呼んで、近くの農家に泊めて いただいたようだ。その節はありがとうございます。
アメリカのTV局が、442部隊の同窓会を企画した。 内容は、当時最大の激戦地となった街に、戦闘に参加していた兵隊たちを集めて その時の状況を語ってもらおうというもの。 テレビ局が用意したバスの中で、ひさしぶりにあった戦友たちと肩を叩きあい旧 交を温める442の勇士たち。だがその街が近づくにつれ彼らの表情は曇り、そ して街が見える小道まで来た時には、みな黙りこんでしまった。 バスから降りた彼らは、一人また一人と道端に座りこみ、あちこち指差して泣き 出した。 「ここで、あいつが死んだんだ。あそこでは、あいつが・・・」
827 :
名無し三等兵 :02/02/16 02:09
泣ける話ではないかもしれませんが… 私がホテル勤めをしていた頃の話。 ある披露宴、新郎が海自の方でした。同僚上司達は制服で出席。 披露宴も御披楽喜に近づき、新郎のおじいさんの挨拶がありました。 一通りの祝いの言葉の後に、 自分が海軍にいた事。孫が艦に乗っている事を誇りに思う事。 自分達の世代の不甲斐なさのせいで今の海上勤務の方達には苦労を 掛けていると思う事。 たとたどしくですが話されました。 同僚達は知らなかったらしく酔っ払っていたのが、段々背筋が伸びていき 神妙に聞き入っていました。挨拶が終わり高砂の席の一人が「何に乗っておられたのだ」 と尋ねると、新郎は小声で「大和です」 それを聞いた海自組一同すっ転ぶような勢いで立ち上がり直立不動で敬礼を送りました。 おじいさんも見事な答礼を返されました。 私はその後は仕事になりませんでした。 ウェイトレスの女の子達は不思議そうな顔をしておりましたが。
>827 どういうふうに仕事にならなかったのか少し気になる。
829 :
名無し三等兵 :02/02/16 02:13
>>827 >仕事にならなかった
すげぇよく分かる・・・だって今この話読んでディスプレイがにじんで見えるくらいだもの
>829 アンタ、タイミング良すぎ・・・すっかり俺が駄目な奴だ。
>828 なんかね、良い現場に出くわすと御客の前に出れなくなってしまうんですよ。 見直すと変ですね。高砂の席→松の席
>831 ワシは冷徹な男ですけん・・・。
833 :
名無し三等兵 :02/02/16 02:40
>>827 ・・・ほんとに泣いてもいい?
つか、なんかもう・・・
>>828 スマソ・・・いやホントにポロポロ泣いちまってさ
835 :
名無し三等兵 :02/02/16 03:57
>815 たしか水沢市あたりの馬でランタン号とかいうんじゃなかったですか? 戦前の朝日新聞で報道されていたような・・。
>827 水上特攻とそれを生き残った方から、そういうセリフが出るって のは・・・・泣けた。
>827のかげになっちゃってるけど>826も泣けるよな、俺は連続で泣いちゃったよ。
>>827 素晴らしいよ、泣けた。あれほどの勇士が訥々と
今の人たちへの言葉が掛けられているのが
何とも素晴らしい。それを聞いた海自の方々
の敬礼が泣ける。まだ日本にも漢が居るんだな
書いてよかったです。当時の同僚たちには話しても理解されない事でしたから。 ここならその場の雰囲気を感じ取ってもらえるかなと思い… 実は私は事前に知っておりました。新郎から司会者に「御じいさんに華をを持たせるために 為に挨拶が終わったら大和に乗っていた事を上手く聞き出すか、コメントしてして欲しい」と 希望が有ったのです。 ええ、御じい様には陛下、殿下、各国王族元首、マイケルの連れてきたバブルスの椅子まで 引いた私が手厚くサービスをさせていただきました。
840 :
名無し三等兵 :02/02/16 14:22
自称大和乗りは何人いるのだ。
841 :
名無し三等兵 :02/02/16 14:35
>>169 日本の古書店とかで探せばあると思いますよ
なんのこっちゃ
843 :
名無し三等兵 :02/02/16 21:40
>827 泣けた。ひさびさに泣ける話だ。 できたら、何年くらい前のお話か教えていただきたい。 感動で思わず涙腺が緩んじまった。 >840 自分の書いた文章をよく読んで見ましょうね。 煽って楽しいの? 友達いないのね。かわいそうに。 君の境遇に泣けるよ。
雪風の生き残りならこの前発見した。 つーか雪風だから生き残ったと。生き残りも多いと考えるべきか。
駆逐艦なら200人前後か・・・
846 :
名無し三等兵 :02/02/17 21:23
>>827 漏れみたいな堅気の厨房には想像するしかないが、
有事には家族を置いて戦闘水域に馳せ参じる海自の艦乗りにしてみれば、
御国のため、生きて帰れぬ水上特攻に参加した大和の乗組員というのは、
決して過ぎ去った歴史上の英雄でもなければ、
ましてや他人事でもないんでしょうなあ。
そういう歴戦の勇士に臆面もなく心からの敬意を表することのできる海自の人たちにちょっとあこがれてみたり
元大和乗りなんて海自の人間にとっては生ける伝説に近いだろうしなぁ、 さだめし空自にとっての元エースに近い感覚、さぞ驚いた事だろう。
>827 ;;)イイ話だ、心温まって泣ける話だ >826 TT)ホントに辛くて泣ける話だ 消防6年の遠足の時、たまたま校長先生の隣を歩いて、話させてもらってた 「昔、ここに松林があってね・・・・」って言われた後、旧に寡黙になって、 何か声が書け難いなったの憶えていた その後、校長が母校の卒業生で、松林で機銃掃射で亡くなった小学生がいたのを知った
>848 そういう話を聞くと、国民総PTSDという感じがするね。
>849 君はPTSDという言葉の意味を調べなさい。 感傷とPTSDとの間にはちゃんと線引きがあるのよ。
>>851 別の人間だが
>>848 > 感傷
PTSD > 病気
848の校長が空襲が怖くて夜眠れないとか、いつ空襲が来るかびくびくして歩道を渡れないっていうなら別だけどね
849>852 そうだね。 僕は広島出身で、PTSDとしか思えないような症状を持つお年寄りを結構多く知っているので、 そう解釈してしまった。
ウザイ>849
ヤマトさん、コテハンなら荒らしまがいのレスは自重なさるべきでは? 校長先生は、少なくとも学校では、普通にしておられたように記憶してます ↓の御仁、泣ける話キボンヌ
856 :
名無し三等兵 :02/02/19 12:36
泣ける話ではないかもしれませんが おじは海軍少尉だった。戦友が特攻に出撃するとき、発進間際に 南部14年式拳銃を形見にくれたそうだ。それを弟である父(民間人) になぜか預けた。やがて終戦になり、MPに見つかるといかんので ある大きな河へ捨てた。あとでおじが帰還してその話を聞き何で 俺の戦友の形見を・・と泣いたらしいが、別のものなら保管できたのに ねえ・・・ そうだが、
泣ける話です。この前の込み毛で売り子をしていると見るからにオタクという 風貌のデブがやってきました。しかもうちのブースで止まりやがんの。止まった とたん、鯖缶の腐ったような臭いがする・・・どうもそいつの体臭・・・・・ 徐に第二次大戦の軍艦だかナンカの同人誌を取り出し「おまえらにこんな高尚 な趣味はないだろ・・・・etc」な独り言をひとりで延々つぶやいてやがるんだ。 うわ〜と思いながら見てたら、隣の奴がマジ切れしちゃって顔面に込み毛カタログ 投げつけたんだ。そしたらものの見事に顔面ヒットして鼻血垂れ流し・・・・・・ 見てて涙出るくらい笑いが止まらなかったよ。
>857 悪いがアニヲタの専門用語の羅列でブースだのカタログだのわがんねよ。 そんなコミケだのなんだの言葉は知ってても行った事なぞないからさ。 そういう場所に行ってること自体が十分にイタイ。近親憎悪は醜いよ。 醜さのあまり、確かに泣ける話だ。軍板で板違いなレスということが 悔やまれる。泣けて泣けて涙でディスプレイが滲んでるよ。
859 :
ネオ麦芽・・・ :02/02/19 15:12
860 :
名無し三等兵 :02/02/19 15:32
>857 軍オタの一人として、コミケの皆さんに謝罪します。 やっぱ「ここなら軍事の話を思う存分できる」って考えてたのかな。
>>857 うい、板違いは承知でマヂレス。下っ端ですが一応スタッフなんで。
そういう性質が悪いのみつけたらスタッフ召還んじゃって下さい。
変な人に対する対処って言うのもスタッフの仕事の一つですから。
自分で手を出しちゃうと、下手するとポリスメンに連れて行かれちゃったり、
スタッフにとっ捕まってホール長や地区長のお小言を聞く羽目になります。
ええい、コミケの話はもういいんじゃ。同人板があろうが。 ↓の御仁、軍事にまつわる泣ける話キボンヌ
ここで彼の有名な、紀宮様の「有明の休日」の逸話出したら砂にされますか。
イスラエル、レバノン進攻の時のこと・・・ 非武装地帯のイスラエル側ゲートの警備は、サモア共和国軍が国連平和維持部隊 としてブルーヘルメットを被ってあたっていた。 殺到する世界最強のイスラエル機甲軍に対し、南の島から来たわずか一コ小隊の 彼らはその任務を遂行した。 ゲートの前にトラックを停め、その中に立て篭もったのだ。人間の壁である。 しかし、イスラエル軍MTBの体当たりにトラックは紙くずのように飛ばされた。 乗車していた兵士たちは重傷をおい、うち二名が重体となった。 彼らは逃げなかったのだ。
867 :
名無し三等兵 :02/02/19 20:53
>>866 知らなかったな、この話。
最近、感じていたイスラエルへの嫌悪感が増幅されたな。
マウンテンバイクはイヤソ。
870 :
名無し三等兵 :02/02/19 21:10
548 名前:名無し三等兵 投稿日:02/01/25 23:25 じっちゃんばっちゃん世代にだけ体験させるのもなんだか。 あの時代に生まれたこと自体、貧乏くじを引いたみたいで 実にかわいそうだ。 今こそ第三次世界大戦やれ! イラクと北チョンとイラン、ロシアあたりで手を組んでアメリカに戦争しかけ、 世界に大々的に飛び火。 俺はムカツク人間さえ殺せばそれでいいので その後でなら歩でも特攻隊員でもOK。玉砕してもいいよ。 ああ、でもイラクもイランもヨーロッパとはあんまり仲悪くないから飛び火はしねえか。
871 :
名無し三等兵 :02/02/19 21:43
>>870 もしネタじゃなければ絵に描いたようなデムパだ(藁
そこの548は核って言葉を知ってるのかな。
核で一発終了でも"ムカツク人間"も死ぬのでそれでいいということか。
>>865 スレ違いだが感動。
軍事板、あの時最後まで良く生き残ったよなぁ。
>866 MTB→MBT
イスラエル軍のマウンテンバイクの体当たりにトラックは紙くずのように飛ばされた・・・
悪かった、逝ってくる。 ↓次の奴、泣ける話頼むぜ。俺が芯でもおまえは伊岐路・・・
>>875 イスラエルの科学力は世界一ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!
スマヌが、私もスレ違い
>>865 D-bone対策が2ch内のとある場所で現在進行中。
まだ伝説は終わってはいない...
879 :
名無し三等兵 :02/02/21 18:51
昭和55年が初版だったと思うが、「海軍よもやま話」という本があった 泣けました 笑える、面白い話も多いのだが
880 :
名無し三等兵 :02/02/22 00:47
今から十五年ほど前、アジア各国の軍部代表がマニラに集ったときのこと だ。例によって韓国軍の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在 の日本企業を罵倒する演説を打った。列席のアジアの親日家たちは「韓国代表 の演説は痛烈無残で聞くに耐えなかった。だが列席の日本の自衛官はひと言も 発しなかった。」 そこで、列席していたインドネシアのアリ・ムルトブ准将は韓国の軍人に 向かって次のように日本を擁護した。彼はASEAN結成の仕掛け人である。 <日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示した もので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。/ここで、インド ネシアの日本民族の価値について申し上げる。今、忽然として日本民族がこの 地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。その時に韓国が一番 困ると思う。韓国は工業大国の日本と競争したから、立派な工業国になれたので ある。近くに強力な競争相手がいることは素晴らしいことだ。/つまり日本の近く に位置していることは幸運なのだ。経済的支援を連続的に受けているといってよい くらいだ。インドネシアが日本に近ければ今のような貧弱なインドネシアではない。 つまり、我々インドネシア人は「日本はなにもしてくれなくてもよい。」と考え ている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分アジア・アフリカに尽くして いる。 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。日本から援助 をもらうだけで応援しないのでは運命共同体の一員とは言えないし、対等のパートナー とも言えないのではないか。> 「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著 国際企画より
881 :
名無し三等兵 :02/02/22 01:00
>>863 >ここで彼の有名な、紀宮様の「有明の休日」の逸話出したら砂にされますか。
知らないのでとりあえずきぼんぬ。
882 :
名無し三等兵 :02/02/22 01:06
>>882 ありゃりゃ、カキコしている間に、、、ありがとう。
初めて読んだ時は「園遊会に呼ばれた同人作家」で大笑いしたような記憶が。
>>880 感動。へたれな日本の政治家どもに言ってやって欲しい…。
日本の資本がどれほどインドネシアに浸透し、そしてどれほど影響力持ってるか知っての発言かね? まあおれもインドネシアから来た留学生と知り合うまで知る由も無かったが、間違って親日とかそれが 東南アジアの常識と勘違いしないように。
>887 言いたいことはワカル。 が、資本を通じた影響力をまったく排除したところに 政治が存在しうるのかな? 人間の常識というのも結局はそうした政治によって作られる教育が 大きく左右するものでしょ。 親日、反日、どちらもそうした教育の枠組みによって人工的に作り出された概念に過ぎない。
>887 それも一面的だなぁ。はっきりいってあまり資本とは関係ない世界の 学者の中にもインドネシアで親日家はいるよ。なんだかんだで、 一般的には東南アジアで親日家は多い。資本の影響があるから 信用できんというのも乱暴な話だ。 もっとも、日本嫌いの方もかなり多いのも事実だけどね。でも、 それは企業嫌いと言い換えうるものも多く、資本影響下にあるから 逆に嫌われているケースも多いんだよ。 (特に、調味料の某企業がなぜか嫌われてるらしいね。)
>890 >調味料の某企業 なぜか、どころじゃなくてあちらの人間にしてみれば雪印と同じことやったんだからねえ…… 嫌われる程度で済めば御の字、だと思うぞ、アレは。
>891 まぁ、ね(藁 日本人というだけで、空港につくなり「○×△○◆!」って 拳を突き上げながら凄い形相で企業名を叫ばれたよ(藁
とりあえず確実なのは、チョンは氏ねってことだ
893タン アンタが「韓国の軍人」と同レベルに堕ちてどうする(藁 某調味料メーカー:思想的な粘着叩きがいて、地方とかだとシュア回復出来ないそうですが ジャカルタの屋台とかは 使い慣れた「○の素」ブランドに回帰してるそうな ソース:ウチの教授さんの知り合いの国会議員センセェ(ゴルカル)
895 :
名無し三等兵 :02/02/24 10:41
俺の親父の実話 予科練入隊後、ゼロ戦=特攻隊に志願するも身長が高く不可。あえなく銀河乗員になるべく鹿屋基地に配属。 ミリ板の諸兄ならご存知だろうが昭和19年末には銀河特攻基地で沖縄上陸後は内地といえども地獄の最前線。 場所は特級機密で民間人との接触はゼロ。これが後の悲劇を生む。 当然新兵には乗る飛行機、ガソリンなどもあるはずもなく、ひたすら訓練と称する男塾真っ青の毎日。何人もの戦友が倒れていった。 このときの親父の本音は「(訓練で)本当に死ぬかと思った。しかし出撃のチャンスがいつか巡ってくる。それまで死ねるか!」と。 終戦後2週間(2ヶ月?だったか失念)近くたって、やっと敗戦の報せで除隊。上官は知っていたそう。 で、その間に「何人もの仲間が厳しい訓練で命を落としたことが何よりも悔しい。でもあいつらは靖国に行けたんだよなあ。俺は生き残ったから靖国には入れないんだ。」と晩酌で酔っ払うといつも同じ話で終わる。 幼い漏れは、酔っ払って予科練時代を話す親父が大嫌いだった。でもその後「酒はもういい。お茶入れてくれ。」この台詞の後に続く終戦直後の焼け野原の「東京復興編」からの「新宿愚連隊編」や「第三国人死闘編」なんかが下手な映画よりもずっと面白くて我慢して聞いていた。 ただ、お茶飲み始めると酔いが醒めてきて眠くなってくるらしく30分以上続かないし、まともな商売人になった現在では素面の時にはそんな話は絶対喋ってくれないんだ。 まだ生きている戦争の生き証人。未だに旧軍の話(銀河の操作、装備などや訓練内容)とか聞き出そうとして頑として喋らなかった。「軍の最高機密だ。」だって。忘れてんじゃねーか、ボケ親父。と突っ込みたいところだが年老いた英雄に敬礼!
敬礼!! 戦後、まさに特攻帰りを地で行かれた姿に燃えー その空白の2週間に靖国に逝かれた英霊に黙祷ー
その上官とやらは、腹を切ったんだろうな。 せめてそれくらいしなければ、まさに無駄に死んだ人たちに 申し訳がたたんだろう。 それでも、許し難いが。
サゲスレじゃなかろう。 ここ2年くらいの間は何でもカンでも下げるのが増えてきたな。 過去レスで洩れに「いいかげんsageを覚えてくれ>ヤマト」なんてのを入れてた奴も居たが、 若者が入ってきた最近の2チャンはサゲがトレンドなのか?
>>898 >>1 にある過去ログの、第1スレの終わりのほうと第2スレを読めば
わかると思うよ。
あがってるスレは荒らしにも見つかりやすいってことだね。
確かになんでもかんでも下げりゃいいってもんじゃないけどね。
>>898 当方、モナー板住人なんですが、
自動スクリプトによる荒らしはあがってると喰らうので
常にsageてます
それが習慣化しちゃって私はどこでもsageで書き込んでます
901 :
名無し三等兵 :02/02/25 15:45
>>895 >俺は生き残ったから靖国には入れないんだ。
キタ。
了解>899・900 しかしあまり下がりすぎるとトカゲのしっぽのように切り捨てられるから 上げすぎず下げすぎずというところか・・・。
>903 age-sageはDat落ちとは基本的に無関係。
>>904 スレッド圧縮では下から切られるとか聞いたけど?
>905 嘘。 最終書き込み日時が問題。
軍板はあまり落とされないけどヨソの板ではけっこう ガンガン落とされる所もあるもんなあ。 落とされやすい板じゃあ「保守age」なんてのがちょくちょく入るが 実際の所どうなんだろうねえ? 洩れは2ちゃん立ち上がった頃から遊んでるが どーもよく解らん。 下から切られると洩れも思ってたが最終か? しかしsageいれても板によって下がり具合が違うんだよなあ。 めちゃめちゃ下がる板もあればたいして下がらないところもあるし・・・。 で、どうなん? 詳しく解る奴いる?
少なくとも鉄板は恐ろしく下がりまくり、1日放置でdat落ちなんてざら、 圧縮の時は駄良関わらず下をばっさり・・・。 関係無い話なのでsage
>>907 下からDAT落ちだったらラウンジの潜水艦スレなんか
さっさと落ちてしまいますよ
スレの下がり具合は、他のスレがage進行かどうかの
相対的なものですから、一概には言えないかと
つーかsageの機能ってageないだけで、下げるわけじゃないですよ
24時間内に書き込みがあれば最下位にあるスレッドでも落ちない
911 :
名無し三等兵 :02/02/27 18:50
912 :
名無し三等兵 :02/02/27 19:09
軍と名の付くものを嫌うのが一種のステータスになってるというこの国の泣ける事実 一番泣いているのは・・ 英霊の方々かもしれないですね・・
>913 自分は近所に住んでいるんだけど。 子供の頃、「第三次世界大戦が起こったら小牧基地に核ミサイルが直撃する」と信じて、 基地なんかどっかに行ってしまえばいいのに、と思っていたよ。
http://www.yomiuri.co.jp/00/20020227i501.htm 第1次上海事変がぼっ発した1932年、旧日本軍史上初めて敵機を撃墜したパイロットが、97年の生涯を閉じた。
戦後は、幼児教育という道に進み、毎年、撃墜の日には線香を立てて相手の飛行士を供養していた。
亡くなった22日は、撃墜からちょうど70年がたっていた。
千葉県船橋市在住の生田乃木次(のぎじ)さんは、海軍大尉だった32年2月22日、上海の飛行場を発進し、「三式艦上戦闘機」3機の指揮をとった。まもなく蘇州上空でボーイング戦闘機1機と遭遇し、空中戦の末に撃墜した。
相手機の操縦者は、米国人義勇飛行士のロバート・ショート中尉。
旧日本軍による空中戦初の撃墜に、生田隊は英雄ともてはやされた。反面、海軍内で激しくねたまれ、嫌気がさした生田さんは同年12月に退役。太平洋戦争で再び軍に戻り、終戦時は少佐だった。
以後、「大切なのは教育」との信念から船橋市内に保育園を3つ開設。病気に倒れた昨年まで園長を務めた。「保育園では私が園児の父親」と語り、園児や職員からは「お父様先生」と呼ばれた。
戦後、撃墜されたショート中尉が出撃した事情を知った。中国側の避難列車を日本軍が爆撃に来たと思って、単身、迎撃に出たのだった。
以後、命日の供養を欠かさず、77年には、ハワイにあるショート中尉の墓を訪ね、中尉の弟、エドモンドさんと対面。観音像を手渡し、「勇敢な戦いぶりでした」とたたえた。エドモンドさんも来日するなど、交流が続いた。
今月22日、自宅で満開の梅を眺めるなどしていたが、心不全で急死した。26日の告別式には、卒園生が多数参列した。
916 :
名無し三等兵 :02/02/28 01:03
そろそろ新スレをー
917 :
お茶っぴき :02/02/28 01:22
新スレの前に・・・。
>>915 の話を聴いて泣けた。
この人、少佐で終わったのは前から知っていた
(乃木次って名前が乃木大将を連想させるんで覚えていた)
んだけど、こういう戦歴を持った人で、しかもそういう理由で
予備役編入していたことは知らなかった。
武功というより、武功を立てた後の生き方がいい、泣けるよ。
915どの貴重な情報サンクス。
戦前戦中を生き抜いた英傑がまた一人・・・。 泣けてきますな。
>>914 特に小牧基地って民間の名古屋空港と共有空港だから
あまり意識されてないけど、知られざる最前線(?)基地なんだよね。
カンボジアや中東、アフガニスタンにもここから飛んでったし。
でも、同じく市民だけど、あの申し入れは首をかしげたけどね。
920 :
名無し三等兵 :02/02/28 16:00
>915 情報ありがとう 英雄、というより「お父様先生」に敬礼
921 :
名無し三等兵 :02/02/28 16:14
>>912 名古屋といえば、パチンコ、
パチンコといえば、、、、
この「愛知県春日井市の鵜飼一郎市長」、そっちでつながっているのか?
>>パチンコといえば、、、、 ???
スレが荒れる原因になるのでそれ以上はストップ!
、、と言う事で意味を察してくれ
>>922
サァ皆さん御手を拝借! チョチョンガチョン♪
926 :
バーチャバカ一代 :02/03/08 23:09
この話、既出ですか?出てたらごめんなさい。 命かけ住民守った13秒 なぜ、航空自衛隊のパイロットは「ベイル・アウト(緊急脱出)」を二回叫んだのだろうか。 平成十一年十一月二十二日午後、航空自衛隊入間基地所属のT33ジェット練習機が 埼玉県入間川の河川敷に墜落した際、東京電力の高圧送電線を切断し、東京・埼玉の約八十万世帯で停電となった事故で死亡した二人の乗員と管制塔との交信記録が示す疑問である。 今年四月、空自の事故調査委員会が発表した調査結果によると、パイロットは「ベイル・アウト」を通報した後、十三秒後にもう一回、同じ言葉を叫んでいた。 航空自衛隊関係者は「いったん脱出しようとしたが、さらにもうちょっと頑張ろうとしたためではないか」とみる。 事故当時、私立狭山ケ丘高校(埼玉県入間市)の校長、小川義男さん(六七)は、国道16号を車で移動中、突然、停電で信号機が消え、白バイなどが大急ぎで走り去る中、立ち上る白煙を見た。 その後、校長仲間である私立西武文理高校の佐藤英樹校長が「あのジェット機は私の学校の上を飛んで河川敷に飛び込んでいった」と小川さんに語った。 おそらく、最初に「ベイル・アウト」を叫んだ後、航空総隊司令部所属、 門屋義広・三等空佐(四八)と航空幕僚監部人事教育部所属、中川尋史・二等空佐(四七) の目に映ったのは、住宅街、さらにはそこに点在する狭山市立柏原小、中学校、西武文理高だったのだろう。 事故機を十三秒間操縦し、住宅地を避けるように東側に進路をとり送電線に接触する直前、緊急脱出した経緯を事故調査結果はこう記述する。
927 :
バーチャバカ一代 :02/03/08 23:09
続き 「継続して操縦し続け、安全な脱出に必要な高度および速度の余裕を失った。 その結果、緊急脱出の際、機体が前のめりになり、適正な脱出姿勢がとれず、首の骨を折った」 墜落現場から住宅街までわずか五十メートル。 小川さんはパイロットの犠牲的精神をたたえずにはいられなかった。 昨年十二月一日号の生徒・父母向けの学校通信『藤棚』に思いをつづった。 「彼らは、助からないことを覚悟した上で高圧線にぶつかるような超低空で河川敷に接近しました。 そうして他人に被害が及ばないことが確実になった段階で、万一の可能性にかけて脱出装置を作動させたのです。 死の瞬間、彼らの脳裏をよぎったのは、家族の顔でしょうか。それとも民家や学校を巻き添えにせずにすんだという安堵感でしょうか。 他人の命と自分の命の二者択一を迫られたときに、迷わず他人を選ぶこの犠牲的精神のなんと崇高なことでしょう」 小川さんはさらにこうも訴えた。「愛の対象を家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を英雄と呼ぶのです」
928 :
名無し三等兵 :02/03/08 23:13
>愛の対象を家族から友人へ、友人から国家へと拡大していった人を英雄と呼ぶのです 名言だ・・・・今の日本にも、このような言葉を吐ける人達、そのように讃えられる 人達が居るのですね。
929 :
名無し三等兵 :02/03/08 23:16
日本の潜水艦がドイツの潜水艦と会合した時の話。 一刻も早くUボートと連絡をつけようと、せっせとゴムボートを膨らませかけた帝国海軍 であったが、ドイツ側がゴムボートを一瞬で膨らませたのを見て、 「早く隠せ!フイゴで膨らませてるのを見られたら恥ずかしい」 だって。 泣けるぜ!貧乏海軍。
>928 まったくだが、家族や友人への愛情を捨てて国家への愛のみを肥大させることを そうしたまっとうな英雄とごっちゃにする輩も多いからなあ。 歪んだ自己愛と、上のパイロットたちの英雄的行為とはちゃんと区別されねばならぬ。 ついでにあの事件、それぞれの新聞社によって取り上げ方が全然違うので 図書館あたりで縮刷版を読み比べてみると面白いよ。
>930 それは赤報隊に襲われた新聞とそれ以外の新聞のことですか?
何気に、ハン版とシンクロ率が高いのか、このスレは? まあ良いけど。
933 :
バーチャバカ一代 :02/03/08 23:32
当時の新聞、マスコミの報道で私が覚えているのは送電線がきられた事で停電が起きて市民が迷惑したとか 危険だから訓練飛行の禁止をもとめた市民団体とかの話しか知らない。 佐久間艇の義援金を募集していた朝日新聞はどこにいってしまったんだろうか・・・・
934 :
名無し三等兵 :02/03/08 23:32
>>926 ・927
二名の英霊とエアマン・シップに最敬礼。
935 :
バーチャバカ一代 :02/03/08 23:36
もうひとつ自衛隊の話、泣ける話までじゃないかもしれないけどイイ話。 2月末に戦争が終わると、アメリカはペルシャ湾の機雷の掃海艇の派遣を正式に 日本に要求してきた。ペルシャ湾に出入りする船は日本船か、日本が借りた船の 数が圧倒的に多く、また自衛隊の掃海技術は国際的な定評があった。本来なら 日本側が進んで掃海艇派遣を買って出てもおかしくない所である。しかし、社会、 公明両党など野党側は「自衛隊の海外派兵につながる」と強く反対した。掃海艇 派遣の決定をするのに1ヶ月以上を要し、さらに掃海作業に最も威力のあるヘリ コプターを積んでいく事を禁止された。 第一掃海艇群6隻が出発したのは4月26日。わずか400トンの掃海艇群は、 速度が遅く、35日から40日もかけてインド洋を渡った。しかしドバイの人々は 日の丸を振って、掃海艇群を歓迎し、現地の日本企業の売り上げは倍増したという。 その後、酷暑のペルシャ湾で、掃海艇群は一触即発の機雷に接近して、死と隣り 合わせの処分作業を続け、計34発の機雷を爆破処理した。航路の安全を確保した 後、呉市の基地に無事帰還したのは10月30日だった。広島県クウェートのアル シャリク駐日大使は呉まで出迎えて、こう述べた。 『機雷掃海の任務を終え、帰国されたことに感謝します。初めて日本が海外に自衛隊 を送ったことの意味は、湾岸各国だけでなく全世界が高く評価すると思います。』 130億ドルの拠出と在日米軍基地の提供とで、わが国は湾岸戦争の最大の貢献国 だったのに、"too little, too late(少なすぎ、遅すぎ)と酷評され、罵倒された。 しかし130億ドルの千分の1の費用で行われたこの掃海作業への感謝は心のこもった ものだった。
>933 あの名軍歌「アッツ島血戦勇士国民顕彰歌」も、朝日の公募で創られたんですよね、そういえば。 自分等の戦争責任には頬っかむりしたまま、「過去の日本の戦争責任」とやらを えっらそーに報道しつづける垢匪新聞、マジ逝ってよし!!! そんなに誤りたいんなら、社員役員の給料ボーナス全部返上して「謝罪と補償」にでも当てろや、ゴルァ!!!
>>935 その掃海部隊の指揮官の身上を思ってまた涙…(T-T)
938 :
名無し三等兵 :02/03/08 23:39
今回のテロ特措法に反対してた人間なぞこんな話なんか絶対しらないし、しろうともしないのだろう 折角の技術も能力も持った自衛隊を、兎も角海外に出したくない、その実績を作らせたくないと躍起になる。 金を出せば、物資を送ればいいわけじゃあるまい 『機雷掃海の任務を終え、帰国されたことに感謝します。初めて日本が海外に自衛隊 を送ったことの意味は、湾岸各国だけでなく全世界が高く評価すると思います。』 この言葉!辻元や、福島、朝日新聞記者に聞かせてやりたいもんだ。 スレ違いなのでさげます
941 :
名無し三等兵 :02/03/09 00:18
>>926 中川2佐には、サインもらったことあったから、思い出して涙がこぼれてきたっす。
彼らの国民を守るという責任感には頭が下がります。
942 :
名無し三等兵 :02/03/09 01:49
>>912 >米軍基地でもないのにこの嫌われぶり、どうなってんだかこの国は。
軍が嫌われてるのではなくて、民間空港でないと周りに金を
(タクシーとか周辺の民営パーキングとか)落としてってくれないからだと思われ。
943 :
名無し三等兵 :02/03/09 01:53
落ちるのは、機体ばっか。
>>937 、
>>940 落合さんか、
軍事版では常識だけど、あの大田中将のご子息なんだよね。
大田中将の子供たちの戦後を見ていると、
戦争というものを考えさせられてしまうよ。
これ以上云うと馬鹿が荒らすから、
皆さん、これでお察し下さい。
ちなみに俺は真ん中でいるよう努力しているよ。
945 :
名無し三等兵 :02/03/09 01:58
喜ぶのは軍ヲタばっか いえ、よろこびません。落ちてもsage
いつか書こうと思ったが、良い機会だ。 2名の空ジは本当に立派だと思う それに比べて、ハイジャックして無茶苦茶った西山とかいう奴は人命など 眼中に無く、本当に頭にくるよ、奴は、パイロットになれなかったのは 何て言うか、飛行機乗りとして、大事な物がかけていたからに思う
947 :
お茶っぴき :02/03/09 12:43
>>946 そうだとも。
それにしても思うのは、
所沢の二人や御巣鷹の機長、
この西沢にやられた機長とか
そういう責任感の強い飛行機乗りほど
こういう惨事に会う不条理さだね。
つか、空は誰にも責任を取ってもらえない世界。 自分の翼の責任を一身に背負うからこそ、飛行機乗りという人種はいつの時代もエリートなわけで。 乗機がぶじに再び滑走路に降り立つまで、独力であらゆる事態に最善をつくさなくちゃならん仕事。 それが飛行機乗り。 想像力と責任感の無い人間が選んではいけない道、だな。 ほとんどの飛行機乗りは毎日その重圧に耐えながら己の役割を果たしてるわけで、 死んだ人間のみが偉大だったわけではないよ、と。 ……言うまでもなく、 そんな世界に肥大した自意識を満たすことしか見ていなかったクズは逝って良し、だ。 (実は彼と母校が一緒なもんで、ときどき自戒する)
実はなぁー、俺は仕事場が川崎で、ちょうど首都高の大井の手前を走っていたんだ 奴の操縦するジャンボを見たよ、角度が異常に浅く、又、いつもとは全く違う 場所で最後のターンをしたから、???と思っていたら。ニュースでさぁ・・・ 奴に殺意すら感じたよ。 とくに、昔のパイロットの事なんか考えてしまうと 心底情け無いよ
緑区の米軍ファントムの墜落・・・
>950 「パパママバイバイ」な。 しょせん米の軍人は日本の軍人じゃないってこった。 それより腹立つのは事なかれで済まそうとした日本政府の対応。 沖縄の基地がらみの事件のときもそうだが、 こういうときに一番頼りにならないのが日本の司法と行政。
953 :
お茶っぴき :02/03/09 21:10
>>948 そうなのか。しろうとですまぬ。
というか、逆噴射の片桐の事が
頭に浮かんでしまったもんで、
あとネパール&中華航空が・・・。
ちなみになぁー片桐機長は超潔癖症なんだよ ああいう人が一番危ないー元教え子より聞いた話
片桐機長の事件のときは、墜落直後のニュースで流れてたスチュワーデスの誘導アナウンスが ちょっと泣けたなあ。半泣きなのに一所懸命脱出方法と経路を注意事項を説明してるの。 『外は・・・寒いですから・・』ってとこだけ妙に覚えてる。 だれかTVで流れたとこだけでもUPできる人居ないかねえ。
――――――――――― ジー・オー・グループは 直ちに映画を上映せよ ――――――――――― \●/ .. . ■ ||
957 :
名無し三党兵 :02/03/10 23:43
>955 『外は・・・寒いですから・・』 うわ……… 不謹慎だがめっちゃ萌える…
>>957 イヤ正直な話、当時俺も(中略)。だから覚えてるのよ。
元、片桐機長の教え子で現在、国内某社にて操縦桿をにぎる A氏は、かれは潔癖症だから、降着点がいつもと違ったので やり直しをしようとしたのでは? と本気で語っている。
>959 片桐くんって、離陸の時じゃなかった? 「機長、やめて下さい」という悲痛な叫びの方が印象に残ってるなぁ。 そんな非常事態に陥ってすら、階級を意識してしまう悲しいさがが。
>>956 「ブレイズ・オブ・ザ・サン」の事か?
ありゃ笑えるな。なんでも太平洋戦争当時、南方の島で
戦う日本兵が主役らしく、その役はグループ会長自らやってるらしい。
総費用5億円もかけてなにやってんだか・・・・
#スレ違いsage(つ〜か、新スレ立ってるし・・・・・
age
そろそろ次のスレを充填しときますか。
>>961 いちおう、その映画で200億儲けて、出資者に返金する予定だったとか
ほんとに成功してたら、奇跡の復活劇としてヒーローだったんだけどね
涙が止まらない… このスレを見つけることができてよかった。 私は高校卒業後アメリカで教育を受け、知り合った当時はグリーンベレーの 少佐で、現在は某大学で政治を教える夫と結婚して現在に至る。 私は戦争に関して、変にリベラルな意見を持っていたけれど、 このスレを一通り読んで私の"今"は数知れない尊い先人のお陰と知った。 戦争は決して美化してはいけない。 でも、先に散った方々が大切に思った日本。 彼らが守ろうとした私たちの今。 日本人である自分をとても誇りに思う。 アメリカ人の多くは「神風アタック(特攻)」を代表する 大儀のための自己犠牲を理解できない。 ゆえに、分かったような誤解がはびこっている。 自分でどうにもできなかった慟哭を、このスレで得た沢山のお話をもとに、 夫の担当する大学院のクラスでレクチャーする機会をもらった。 ものすごい反響で、先週のことだが大学側は私に2時間に渡る講堂での スピーチの機会を与えてくれた。300人もの生徒が集まり、 日本を理解してもらう良い機会だったと思う。 私たちの先人が守ろうとしたものを忘れてはいけない。 彼らの尊い死や犠牲を誤解されたままにしてはいけない。 そんな衝動に駆られて、私は執筆を始めました。出版する予定です。 ここでお話を聞かせてくださった方々、どうもありがとうございます。 長い独白ですが、お礼を申し上げたかったのです。ありがとう。
>>965 こんな事を言うのは気が重いのですが、2chで紹介された話は必ず裏をとりましょう。
ソースの不明な者は貴重な話としてあなたの胸にしまっておき、
本には載せない方がよろしいかと。
もちろんソースが不明だからといって話しの良さが左右されるわけではありません。
967 :
名無し三等兵 :02/04/17 11:22
保全
>960 着陸の時だYO 心身症という病名が世に知れ渡ったYO
969 :
名無し三等兵 :02/04/18 08:05
涙でモニタが見えなくなった・・・ こんな名スレ初めてだ。
古い方には本当の名スレもあったんだけどね。
>968 本当は心身症じゃなかった(っつーか、もし本当に心身症だったとしてもあの奇 行or兇行の原因じゃ無い)っていう話らしいですね。
>>965 アイリス=チャンのようにならないように気をつけてください。
973 :
名無し三等兵 :02/04/27 10:57
保全
974 :
名無し三等兵 :02/04/30 15:05
>>926-927 じつは俺当時その西武文理の在校生でした
あれは五時間目のことだったかな?
急に大きな音がして(確か、電気が消えたかな?)びっくりしたのを覚えている。
その後誰かが(教師かな?)飛行機が落ちたって言ってたのを覚えている。
俺は家が反対方向だったのでわざわざ見には行かなかったが、家でテレビで見た。
(正直、人だかりと、テレビ局がうざかったので)
そして後日(確か次の日)パイロットがわざわざ民家、そして俺らが勉強してた学校を避けるために
ぎりぎりまで操縦桿を握っていたためになくなられたのを知った。
(確かその日に)全校集会を開いて黙祷したのを覚えている。
あの時は体の内側から何か来るものがあったが、改めて読み直すと
涙無しには読めなくなってくる。
今度夏休みにでも、おはかまいりしてこようかと思ってきた。
せめて今モニタの前で敬礼。
__
/__|__
/_了TДT\
(| \|〆
〜|  ̄ |
∪ ∪
975 :
名無し三等兵 :02/05/01 08:31
>>971 日航の医療記録に「心身症」と書いてあったからそういう話が広がったんだけど、
K機長は実は「精神分裂病」。
心身症って、ストレス性の胃潰瘍とかの類(らしい)。
977 :
名無し三等兵 :02/05/09 13:25
一日でこのスレを読んでしまいました。 やはり涙が出てきてしまいました。 特に、元沖縄県知事の大田昌秀さんの話が印象的でした。 ありがとうございました。
978 :
名無し三等兵 :02/05/10 19:23
オオタ違い。
980 :
名無し三等兵 :02/05/10 21:59
123便のボイスレコーダー、一回は聞いたほうがいいよ。
>915 戦後、撃墜されたショート中尉が出撃した事情を知った。中国側の避難列車を日本軍が爆撃に来たと思って、単身、迎撃に出たのだった。 以後、命日の供養を欠かさず、77年には、ハワイにあるショート中尉の墓を訪ね、中尉の弟、エドモンドさんと対面。観音像を手渡し、「勇敢な戦いぶりでした」とたたえた。エドモンドさんも来日するなど、交流が続いた。 疑問1.1932年、何故太平洋戦争前に、米軍人が対日戦に参加していたのか。 真珠湾前だろう。米軍は前から参戦していたのだ。
982 :
名無し三等兵 :02/05/13 17:00
>>1 がまったく予想していない事態が発生したのはその直後だった。
背後から叫びが聞こえた。モナーだった。生徒ではなく、八頭身だった。彼は命じていた。
「総員、
>>1 さんを救え!突撃!」
莫迦野郎。どうしようもない大莫迦野郎。
>>1 は思った。この僕を救えだと?
畜生。あいつ、新刊を追い求めている。自分に続けば、半数は死んでしまいかねないことを
知りつつ、そう命じている。ええい、命令というものはもう少し厳格でなければいけないな。
まったく気に入らない。気に入らないぞ。2ちゃんねるとはもっと殺伐としていて、
救いのないものであるはずなのだ。
こんな2ちゃんねるは、大嫌いだ。
>981 君はフライングタイガースという単語を調べることをお勧めする。 軍が動くことと個人が動くこととはまったくの別問題。 そしてそれを後世の人間が政治的に無理やりいっしょくたにすることも別の問題。 戦後の残留日本兵がインドネシアで何をやろうが、 日本「軍」は1945年9月2日に降伏したことに変わりは無い。
>>974 俺も狭山市の人間だけど、あの事故の時は悲しかったなぁ。
あの時なぜか泣いたんだよね。
友達が「墜落現場を見に行こう」って誘ってきたけどとても行く気にはなれなかった。