1933年から1945年までの日本人の対ユダヤ政策

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1泣ける話スレ救済・・・:01/11/17 13:03 ID:QVpsyd55
「復刻:泣ける話」スレッドが
1933年から1945年までの日本人の対ユダヤ政策、
の話でつぶれそうなので、こちらに独立スレを立てます。
テーマとしてはおもしろい話ですし、ご意見の交換
こちらでよろしく御願い致します。
2承前1:01/11/17 13:06 ID:QVpsyd55
>206 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:44 ID:K50AmoSA
> http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html
>
> シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
> られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
> ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
> 命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
> 混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
> ド人がいたといわれる。
>
>  その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
> くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
> せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
> いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
> て、「ポーランド救済委員会」が組織された。
>
>  しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
> 戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
> 能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
> とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請すると
> を決定した。
>
>207 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:46 ID:K50AmoSA
> (206の続き)
>  救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
> し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
> した。
>
>  女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
> ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
> ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
> れば、驚くべき即断であった。
>
>  日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
> 決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
> トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
> 7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
> は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
> 日した。
>
>  合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
> や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
> り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
> たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
> 考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
> ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている
3承前2:01/11/17 13:08 ID:QVpsyd55
208 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:49 ID:K50AmoSA
> (207の続き)
>
>  日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
> 受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
> て以下を挙げている。
>
>  ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
> 消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
> れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
> の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
> たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
> って悔しかったこと、、、
>
>  到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
> 情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
> 楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
> 招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
> 絶たなかった。
>
>  腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
> い看護婦は、病の伝染から殉職している。
>
>  1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
> れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
> ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
> ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
> 度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。
>
>209 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:51 ID:K50AmoSA
> (208の続き)
>
>  このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
> 哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
> 戻した。
>
>  日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
> も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
> 々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。
>
>  横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
> 身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
> 船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
> ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
> 表した。
>
>  神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
> の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
> りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。
>
>  子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
> ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
> 頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
> その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。
4承前3:01/11/17 13:08 ID:QVpsyd55
>210 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:52 ID:K50AmoSA
> (209の続き)
>
>  こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ
> コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、
> シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ
> た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け
> られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
> いう。
>
>  極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問
> した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒
> 野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された
> 時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺
> 理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐
> 在代理公使となっていたのである。
>
>  これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な
> 交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全
> 館員が出席して応援し、また資金援助もした。
>
>211 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:55 ID:K50AmoSA
> (210の続き)
>
>  1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
> イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
> 動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
> 部隊と愛称された。
>
>  そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
> 児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
> し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。
>
>  ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
> イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
> キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
> のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
>
>  急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
> は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
> 兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
> ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
>
>  イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
> 大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
> した」といって直ちに引き上げた。
>
>  当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
> 本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
> この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
> 庇護したのである。
5承前3:01/11/17 13:10 ID:QVpsyd55
ありゃりゃ、ポーランド人の下りまでコピペしちゃった。・・・
ここまできたので最後まで行きます・・・

>212 :名無し三等兵 :01/11/12 15:55 ID:e07aIGiq
> >>206-209
> 心温まる話だ。
>
> >特別に栄養剤
> 肝油ドロップかな?
>
>213 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 15:57 ID:K50AmoSA
> (212の続き)
>
>
>  95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に
> 招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激
> しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ
> いた。
>
>  私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢
> でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。し
> かしもうそれは叶えられません。
>
>  しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
> 這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小
> さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に
> 私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す
> ことはありません。
>
> と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日
> 本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき
> を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま
> で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。
>
>  同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ
> たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ
> あった。
>
6承前5:01/11/17 13:12 ID:QVpsyd55
>214 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 16:00 ID:K50AmoSA
> (213の続き)
>  シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹
> 介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。
> そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
> 「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題
> した礼状の中で次のように述べている。
>
>  日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ
> る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に
> 存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児
> 童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく
> れた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘
> れることはない。・・・
>
>  われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福
> な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自
> 分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
> 髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
> ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一
> 度や二度ではない。しばしばあった。・・・
>
>  ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ
> れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告
> げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ
> たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい
> る。・・・
>
>  ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
> 最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持
> っていることを伝えしたい。
7承前6:01/11/17 13:13 ID:QVpsyd55
>
>215 :<=゚ω゚>imachang ◆tjFCOGEI :01/11/12 16:03 ID:K50AmoSA
> (214の続き)
>
> 「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
> 災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
> 招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。
>
>  世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
> の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
> と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
> てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
> クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
> 不憫で涙が止まらなかった、という。
>
>  震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
> 児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
> 「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
> ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
> 済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。
>
>  4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
> 一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
> 前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
> を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
> しをしたのである。
>     
> (おしまい)
>219 :>>216 :01/11/12 18:03 ID:3mQTwfba
> ハングル板じゃなくて、↓からのコピペじゃねーか?
>
> http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
>
> ちゃんとネタ元は確認しようね。転載不許可の場合もあるんだから。
> Googleで調べれば1秒で見つかるのに、怠慢すな。
8承前7:01/11/17 13:13 ID:QVpsyd55
>233 :名無し三等兵 :01/11/13 23:54 ID:Kp9a52cT
> >216
> 泣いた。
> いい話だ。
> こういう話を読むと帝國時代の日本て捨てたものじゃないとおもう。
> ユダヤ人救済といい、アメリカへの最後通告のおくれはあるが、
> 旧外務省やるときゃやるじゃないか!
> 親ポーランド人ここに誕生。
>
>234 :ナナシニコフ47 :01/11/14 01:56 ID:zm3kSpBK
> >>233
> あのー。ユダヤ人救済は杉原千畝の独断ですよ。
> 杉原の「ビザ出していいですかね?」って電報に
> 「正規の手続きができない者にビザを出してはいけない」って返電したのが外務省です。
>
> 杉原は人として正しい選択をしましたが、彼が日本に帰国した後、外務省は彼を解職しました。
> ええい、善意の行いを非とするような人非人の集まりなんぞ氏んでしまえっ。
> (きっとこの体質は今でもずっと変わってないんだろうな…)
>
>235 :名無し三等兵 :01/11/14 02:16 ID:j73veJVl
> 杉原が解職されたのは、被占領国となった日本に大掛かりな
> 外務省が必要無くなったからリストラがあって、単にその対象になっただけ、
> という話を聞いた記憶があるが、どうなんだろう。
>
>236 :£@歴史抹消主義 :01/11/14 06:40 ID:4Cge+w70
> >>235さま
> >杉原はリストラ
>  ん〜 こんな話があります。
>  杉原が戦後帰国してから暫くの間、外務省省内へ出勤していると、省内で「杉原
> はユダヤ人を助けて、かなりの額のお金を貰った」と云うデマが流がれていたそ〜
> です。 で、解雇する時も、事務次官だかなんだかが杉原を呼び「もう庇えきれな
> くなっちゃったんだ」と云う事で、暗に辞表を出すよ〜にほのめかしたんだとか。
>  基本的に外務省的には杉原は本省の意向を無視した裏切り者だったようです。で
> なければ、90年代に入ってから『杉原の名誉回復』な〜んて事されませんわな。
>  んでもって当時の事務次官様は「官僚の無謬性を堅持すべきだ!」って事で猛反
> 対だったとか……
>
>  外務省って、外務省って……
>
>237 :£@歴史抹消主義 :01/11/14 06:45 ID:4Cge+w70
>  自分に追加!
>  杉原はノンキャリなんで、大量リストラの対象者になった ってのも
> 本当だと思う。
>  ノンキャリで、裏切り者だったから、解雇リストのかなり上位に居た
> んじゃないかな?
>
9承前8:01/11/17 13:14 ID:QVpsyd55
>238 :名無し三等兵 :01/11/14 06:50 ID:mQbC+uOT
> >>236
> ×「官僚の無謬性を堅持すべきだ!」
> ○「官僚は無責任を堅持すべきだ!」
>
> チャンチャン
>
>239 :名無し三等兵 :01/11/14 06:51 ID:HsitcT+F
> 官僚制の離れ小島。
> 今頃になって立て続けに捕まっているのも、
> 一般省庁と自分の所は違う、と思って甘く見ていた
> 結果ではないかな。
> 大蔵(財務ってか)省あたりが数年前にぶったたか
> れているのを見ても、なんとも思わなかったんでし
> ょう。最初から誰も、官僚が無謬だ、なんて思ってないん
> だけど、例えば外交上の失策があったとして「間違
> えてました」と認めても相手国が同意しなきゃ意味
> がない。賠償しない限り損害も帳消しには出来ない。
> だから、間違っていても無効には出来ないだろう。
> とはいえ、それは無謬とは違うはずなんだが。
>
>240 :名無し三等兵 :01/11/14 06:53 ID:HsitcT+F
> あ、今の外務省は外交官試験がないから普通の
> お役所と一緒ね。でも大半の役人は旧制度の出
> 身だし、どっちみち役人には変わりないな。
>
>241 :£@歴史抹消主義 :01/11/14 07:10 ID:SScZ7P77
> >>238さま
>  訂正、ど〜もすみません。
>
>242 :238 :01/11/14 07:35 ID:77xL8uj3
> 頼む!!
> 俺のレスがいくらつまらんネタだったからって
> わび入れるのだけは勘弁してくれ!!
> 泣けてくる!!
10承前9:01/11/17 13:15 ID:QVpsyd55
> ただね、杉原ビザもらってシベリア経由で日本にきたユダヤ人、
> 日本にちゃんと入国してるんだよね。
> まあ官僚の掟の落とし前はともかくとして、
> 杉原の不十分な手続きで逃れてきたユダヤ人を受け入れた日本政府、
> ていうのもまた見落とさないでほしいな。
> ユダヤ人、戦中も厳重監視のもとにおかれたとはいえ、
> 強制収容もされなきゃ国外退去もさせられていないらしいし。
>
> それとね、最近のhttp://www1.harenet.ne.jp/~sugi/sugihara/tiune2.htm というような本もあるけど
> (個人的にはやたらに世界だの松岡だのが担いでいる本だから何ともいえないんだが)
>
> >たまたま図書館で手にした The Holocaust Oral History Project & The Unlikely Liberators Project 編
> >『意外な解放者』(情報センター出版局、1995) の、
> >杉原問題研究の第一人者と言われる篠輝久氏による解説の中に、次の一節を見つけることができました。
> >
> >「外務省は彼の退職について、
> > 『一九四六年から一九四七年にかけて行なわれた<行政整理及び、臨時職員令>に基づく機構の縮小の結果
> > であり、杉原氏だけでなく当時の外務省職員の三分の一が退職した』と説明している。
> >「また、その言葉を裏づけるように、杉原氏は一九四四年にルーマニア公使館で勤務中に勲五等瑞宝章を受賞し、
> > 退職までの間、昇給、昇進も順調に得ていた。
> > また、退職金、年金についても、不利な扱いはいっさい受けていなかったようである」
> >
> > 加瀬氏の言われるように“命のビザ”を発給した「直後」でこそなかったものの、たしかに杉原氏は叙勲していたのである。
> > こんなこと『知ってるつもり』でも『世界ふしぎ発見』でも言ってなかったゾ。
> >
> > これからすべてのテレビ番組は、矢追さんがディレクターしていると思って見なくちゃ
>
> てな話もある。 なんともいえんな。
>
> まあこんな話書いても誰も泣いてくれないだろうからsage
>
11承前10:01/11/17 13:22 ID:dekrcvHF
>246 :£@歴史抹消主義 :01/11/15 07:40 ID:aBPxer7d
> >>244さま
> >強制収容もされなきゃ
>  ん〜 どうでしょう? 1942年二月に上海の虹口地区にユダヤ人用隔離地区が作
> られ8000人が収容されたって話があるんですが……
>249 :名無し三等兵 :01/11/15 12:36 ID:AJ9FwUAP
> >>246
> 強制収容所(日系人とか、ドイツ支配下のちのユダヤ人)とはでも、あきらかにちがいますね。
> それと私が言っているのは日本国内在住のユダヤ人。
>
>250 :名無し三等兵 :01/11/15 12:40 ID:+/UHFPOu
> >246
> ん?
> あれっていわゆる「強制収容所」だったの?
>
>251 :244 :01/11/15 12:58 ID:AJ9FwUAP
> >>266
> ごめん、よくしらべたら 神戸→上海に移送されたみたいなこと書いてんのもあるのね。
> 不勉強でスマソ
> ゲットーが不愉快でないわけがない。が・・・しかし強制収容所とはまたあきらかにちがうね。
> 扱いがいい加減だったかもしれないけど、別に民族絶滅政策をとっていたわけでもないし。
> ここはきっちりおさえとかないと・・・
> どっちつかずの戦争が終わるまでの不決断、の所産のようなとこもあるのかなあ・・・
> 満州ではユダヤ系の人間が結構いたような記憶もあるし・・・
> いずれにせよ関係ないからsage
12承前11:01/11/17 13:23 ID:dekrcvHF
>252 :名無し三等兵 :01/11/15 18:13 ID:Jg5dZLpf
> >「外務省は彼の退職について、
> > 『一九四六年から一九四七年にかけて行なわれた<行政整理及び、臨時職員令>に基づく機構の縮小の結果
> > であり、杉原氏だけでなく当時の外務省職員の三分の一が退職した』と説明している。
>
> まぁノンキャリアだったというのが、大きいと思うなぁ。
> だって、真珠湾攻撃の通告おくれをやらかしたやからが、戦後も外務省に残っていたって話だぜ。
> しっかり出世してさ。
> 日本の名誉を守ったともいえる英雄が辞めさせられ。
> 未来永劫国賊ともいうやつが居座った外務省って・・・・
> 真紀子、あんた外交音痴だが、外務省を改革してくれるなら俺は支持するぞ!
>258 :名無し三等兵 :01/11/16 00:11 ID:aaRoNNe5
> >244
> 「(杉原氏発行のビザを持った)ユダヤ人がウラジオストックに大量に
> きているが、説明せよ」
> というような本省からの問い合わせに対して、杉原氏は
> 「不備ならば乗船を拒否するよう指示されたい」
> というような返答をしているらしい。
> 無論、拒否できるわけがないのを見越してのことで、本省からも、
> 「日本の代理公使が発行した正規のビザを持った者の入国を拒否
> したのでは、ソ連に対する日本の面目がまるつぶれで、できるわ
> けがない」
> という返事がきたらしい。
13承前12:01/11/17 13:25 ID:dekrcvHF
>259 :258 :01/11/16 00:57 ID:aaRoNNe5
> 基本的には、外務省逝ってよしと常々思ってるんだが…。
> >252
>
> >未来永劫国賊ともいうやつ
>
> には不賛成だな。その言葉は、外交ということを何も考えていな
> かった軍幹部にこそふさわしい。
> (もっとも、「国賊」は言い過ぎだろうというだけで、彼等に責
> 任がないとか、ましてや外務次官になっても納得できるという意
> 味では全くない。)
>
> 当時の大使館は、単に時間稼ぎの交渉というだけの方針を伝えら
> れて、いつ交渉を打ち切るとも、ましてや通告の手交と同時に
> (30分というのは、ないも同然の余裕だろう)攻撃をするなんて伝
> えられていた訳ではなかろう。
> 事情を知った現在の目で見れば、「あの非常時にふざけている」
> という以外の評価はあり得ないと思うが、状況を知るすべのない
> 連中が通常勤務をしていたとしても、「国賊」とまで言う気はし
> ない。
>
> そもそも政府/軍の一部では、通告無しで攻撃する予定だったの
> を、天皇に(だったと思う)くぎを刺されていやいや方針を変え
> たという話も聞く。
> 当初は数時間の余裕があったのを、攻撃30分前まで手交時間を遅
> らせているなんていうことも考えあわせると、少なくとも政府/
> 軍の一部幹部は、通告が間に合うように手を打つ(事前に現地に、
> 開戦が間近いことを知らせておくなど)気がないどころか、むしろ
> 間に合わない方が好都合と考えていたんだろうと思われる。
>
> いずれにせよ、手交の場でハルが野村大使を責め立てたときにも、
> 大使ですら何を言われているかわからなかったというくらいに、
> 現地職員を情報から切り離していたんじゃ、まともな外交ができる
> わけがないと思う。
1412(前の続き):01/11/17 13:27 ID:dekrcvHF
承前←ひょっとして誤用かな (..;)・・・

>
> (泣ける話じゃないんでsage)
>263 :£@歴史抹消主義 :01/11/16 17:34 ID:JtB+SjUr
>  ちょっと時間がないんで、手短に上海ユダヤ人用隔離地区が出きるまでの経緯をお話
> をしときます。
>
> 1941年12月の日米開戦まで、日本政府内部には、ユダヤ勢力を利用して対米関係
> の好転を謀ろうとしたり、経済の行き詰まりをユダヤ資本の導入で打開しようとす
> る勢力が存在していたそうです。
>  しかし、日米開戦により、事態は急転します。開戦により、ユダヤ勢力を使った
> 時局打開論はその論拠を失い、42年3月のユダヤ人問題に関する会議において
> 「我方が利用中のもの又は将来利用せんとするものは好意的に扱う」 が、それ以
> 外のユダヤ人は厳重な監視下におくという主旨の決議がなされました。また相前後
> して、それまでの日本の生温いユダヤ人対策に不満を持っていたドイツからの強い
> 要請もあり、43年2月、上海の虹口地区にユダヤ人、8000人を収容する隔離地区が
> 出来ます。住民は『J』とスタンプされた、黄色のストリップ入りの出入パスを持
> たされ、隔離地区外で住むユダヤ人には、ダビデの星入りのマークをつける事が強
> 制されたそうです。
> また、世界各地から送られていた救済基金が途切れた為、上海のユダヤ人達の生
> 活は苦しくなり、一日分の食事量が、1300キロカロリーまで落ち込みましたが、ユ
> ダヤ人達は結束して大戦を乗り切ったそうです。
>
>264 :名無し三等兵 :01/11/16 18:12 ID:JBJ9cqGt
> >>263
> ソースきぼん
>
>265 :£@歴史抹消主義 :01/11/16 20:39 ID:KG5gQ6Fc
> >>264さま
> 『昭和史の謎を追う 上』(文春文庫)
> 秦 郁彦 著 本体価格(税別) 705円
>  ISBN 4-16-745304-5
>  出版社のPRページ
> >http://www.bunshun.co.jp/search/html/7/45/30/4167453045.html
>
>  第11章 河豚プランと日本 ーユダヤ論の系譜
>  が元ネタになってます。 大き目の本屋なら大概置いてあるよ〜なので、一度
> 手にしてみてはいかがでしょうか? 対米最終通知の話しなんかも収録されてて
> 面白かったですよ。
1513(前の続き・・終わり):01/11/17 13:28 ID:dekrcvHF
>267 :£@歴史抹消主義 :01/11/16 21:30 ID:RMWsA/aR
> >>244さま
> >ttp://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6tiune.htm
>  上記のHPで見つけてきた話しなんですが、ど〜でしょう?
>
>  杉原氏は、外務省の人員削減の一環で免職になったのであって、訓令違反の
> ために免職になったわけではないと主張する方もいますが、これでは杉原氏が
> 辞職した理由が判らなくなります。
>  なぜなら、人員削減が理由の免職であれば、退職金が全額支払われるのに、
> 辞職した場合は、退職金は削減され、不利になるからです。
>  従って、これは、杉原氏が言うように、訓令違反による免職を言い渡された
> と見て間違いないでしょう。訓令違反は懲戒免職の対象となり、懲戒免職の場
> 合は、退職金は出ませんから、杉原氏が辞職した理由が明確になります。
>
>268 :名無し三等兵 :01/11/16 22:08 ID:oNUm6PqM
> >261
> >このスレ立てた人、軍事板で立てれば良かったのに。
> 軍事板にも以前ありませんでしたっけ?
>
>269 :名無し三等兵 :01/11/16 22:10 ID:oNUm6PqM
> >267
> 人員削減が理由の免職の場合、退職金は少しだけ多く支払われます。
> 辞職の場合は全額支払われます。
> 細かいことですが。
>
>270 :£@歴史抹消主義 :01/11/17 06:47 ID:T+dV5IVH
> >>269さま
>  あ、そうなんえすか。 いや、知りませんでしたわ。
>  教えて頂き、ありがとうございました。
>
>271 :269 :01/11/17 06:56 ID:7rTBfIhc
> >270
> 更に言えば、訓令違反(だけ)程度で懲戒免職の処分が出ることは考えられません。
> 「民間ではあるじゃないか」という意見もあろうかと思いますが、それは懲戒権の濫用
> にあたるので(実際には泣き寝入りしているであろう)労働者が訴訟にすれば大抵の
> 場合勝つ筈です。
> 全く泣ける話と離れてしまったんでsageまくり(汗
16転載君 :01/11/17 13:45 ID:dekrcvHF
>>10 は 「復刻 泣ける話スレッド」の 244 です。
17名無し三等兵:01/11/17 14:04 ID:bSfoYxt5
>前スレの271

今はそうでしょうけど、当時の日本でも同じなんでしょうか?

それはともかく、訓令違反による懲戒なら、違反したときに
処分があるはずなのに、杉原氏はベルリンかどこかへ異動に
なっていますよね?(公使館閉鎖に伴って。)
ただ、当時のように人の入れ替えがききにくい時期ならとも
かく、機構縮小/人員整理というような時に、訓令違反が不
利に作用した可能性はあるんじゃないかなと思いますが、ど
んなもんでしょう。
18転載君:WEBで見つけた記事1/3:01/11/17 15:30 ID:+sBIDVyQ

(1)たぶんカナダの新聞。 78年? ルドルフ・キルシュナー記者が取材・構成したもの
 ttp://chgs.hispeed.com/Histories__Narratives__Documen/From_Vienna_to_Shanghai/Shanghai__a_haven_for_Jews/shanghai__a_haven_for_jews.html
 記事の各列単位?でクリックすると、その列のスキャンが拡大されてでてくる。
 でも非常に読みにくい・・・

  これを読むと、ゲットー収容後も
 「日本人はユダヤ人だからといって特別にいじめたりはしなかった」
 「配給は中国人もユダヤ人も一緒だった」
 「中国人はmistreatされていたが、自分はあまりそうした覚えがない」」
  なんてことが書いてある。
  「困窮」はかいてあっても「迫害」は感じさせない構成。
19転載君:WEBで見つけた記事2/3:01/11/17 15:31 ID:+sBIDVyQ
(2)これは80年代後半?に NYのジャーナリスト券映画脚本家の
  フレデリカ・マイスターが取材・構成したもの
  これを読むと、「ニックいナチの同盟国め」という感じ。
         「小役人根性のいじめがあった」
         「野蛮な異邦人」
         「おれたちのことなんてお荷物程度にしか感じず放置だくそ」
         なんて感じでおどろおどろしい・・・
  困窮と脅威、戦争の陰が・・・
20転載君:WEBで見つけた記事3/3:01/11/17 15:31 ID:+sBIDVyQ

(3)これはAsia Week の97年の記事 Ron Gluckman取材構成
 ttp://www.asiaweek.com/asiaweek/97/0606/is1.html

  確かに厳しく閉じこめられ、いろいろな権利を奪われたかもしれないが
  ナチのキャンプに比べればピクニックみたいなもの、ともある。
  客観的、中立的、表面的?
It was a constant struggle, but the community took care of itself until Pearl
Harbor in 1941. Foreigners from Allied nations were sent to prison camps.
German and Austrian Jews, the largest group, were considered stateless
refugees, and were confined to Hongkou ghetto in 1943. "There was no barbed
wire and it wasn't heavily patrolled, but adults needed passes to go out," says
Hirsch, American director of a group called the Council on the Jewish Experience
in Shanghai. Yet, with all its deprivations, Hongkou was like summer camp
compared with ghettos in Europe, where Jews were penned in by the Nazis, who
eventually sent most to their deaths.

In Shanghai, the Jewish community quickly rebuilt itself after the war, but the
city would never be the same. The Japanese were defeated, yet fighting
continued in the civil war between the Nationalists and Communists. An exodus
of foreigners began immediately. Options were puzzling. Zoya Shlakis fled
Lithuania to escape the Nazis, only to find his nation occupied by the Soviets
after the war. "I was considered a Russian immigrant," he says, "but I wanted
nothing to do with the Communists. Shlakis went to Taiwan and later emigrated
to the U.S., "where I was termed a Chinese immigrant!"
21転載君:WEBで見つけた記事2/3のurl:01/11/17 15:32 ID:+sBIDVyQ
ttp://www.rickshaw.org/remembering_shanghai.htm

すみません・・・逝ってきます・・・
22転載君:WEBで見つけた記事:01/11/17 15:40 ID:+sBIDVyQ
WEB上では
どうもなんというか、
(1)や(3)のような
「たいへんだし、いやなこともいっぱいあったけどナチに比べたらずっとましだったよ」という実体験のレベルから
(2)の地の文や戦後50年近くたっての言葉は
「第二次大戦の同盟国としてナチと日本は同等!」その反作用としての「中国人への肩入れ」
 とかよけいなものが結びついた「政治的」な匂いのする記述がどんどん増えているような・・・
 勘ぐりすぎかね?
23転載君:WEBで見つけた記事:01/11/17 15:47 ID:+sBIDVyQ
それとか、上海にきたユダヤ系オーストリア人のうち8000人ぐらいが、
中華民国のウイーン領事?だか公使?だかにビザ出してもらってきてる人なんだって?
最近その人のことを称揚する記事がけっこう「ホロコースト」系の歴史ページに乗ってるのね、上海関連では。
杉原、とか、樋口、とか
>上海虹口地区への移住を強制された後も、文化活動等の制限をせず応対に当たった、
>真鍋良一上海領事館員などの現地関係者、
ttp://www.netlaputa.ne.jp/~house/nenpyo/taiheiyo/jikoh/jew~tais.htm
とかはあんまり上海関係ではふれられていないみたい・・・
ところで我らが杉原だけれど、 レビンの本がでたおかげで 松原が言うみたいな「下心」が云々されるようになって、コマッタもんだ
まあ、それでも下記のページのように「それでも感動的であるなあ」といってくれるのはまことにありがたい。
ttp://www.jewishworldreview.com/0298/sugihara.html
勘ぐりすぎかね?
24名無し三等兵:01/11/17 20:57 ID:3KfK+5mg
>>15
>>17

の杉原氏退職後の処遇については >>10 に関連したところがあります。

  > >たまたま図書館で手にした The Holocaust Oral History Project & The Unlikely Liberators Project 編
> >『意外な解放者』(情報センター出版局、1995) の、
> >杉原問題研究の第一人者と言われる篠輝久氏による解説の中に、次の一節を見つけることができました。
> >
> >「外務省は彼の退職について、
> > 『一九四六年から一九四七年にかけて行なわれた<行政整理及び、臨時職員令>に基づく機構の縮小の結果
> > であり、杉原氏だけでなく当時の外務省職員の三分の一が退職した』と説明している。
> >「また、その言葉を裏づけるように、杉原氏は一九四四年にルーマニア公使館で勤務中に勲五等瑞宝章を受賞し、
> > 退職までの間、昇給、昇進も順調に得ていた。
> > また、退職金、年金についても、不利な扱いはいっさい受けていなかったようである」
25名無し三等兵:01/11/17 21:37 ID:VvffiZ1H
政治の話は他所でやってくれ。
26888get:01/12/02 16:46
記念カキコしょい!

まんしょい!

冬だまんしょい

祭りだまんしょい

クリスマスなんかきらいだしょい!

半角にお世話になってネー奴なんかいないっちゅうの
        
27コヴァ的ウヨ
 第二次大戦前夜の、関東軍特務機関によるユダヤ難民保護。
 従来、相良俊輔『流氷の海』により、ハルビン特務機関長樋口少将が主体となっていた
ように語られて来た。樋口将軍の功績は疑いないが、背後にあってユダヤ人に関する知識
を啓蒙し、保護政策をプロデュースしたのは、大連特務機関長だった安江仙弘大佐だった
模様。大佐は第一次大戦当時からユダヤ問題を研究し、陸相の特命でパレスチナを視察し
たユダヤ通。戦後、シベリア抑留死。子孫が所沢に在住。