ピラミッドがロケットだという事実を隠し続ける考古学者

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、、、、止めよ、、このスレッド、、、。、、、ていうか、考古学の管轄だから、仕方ないか、、、。
http://science6.2ch.net/test/read.cgi/sky/1197883718/39-40
      じゃんじゃん投稿していこうか、、、
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26:2008/12/04(木) 09:14:09 ID:Tv9ANLO1
この考えは、ほとんどの考古学者を仰天させ、怒りまで買うことになった。20世紀初頭、
天文学者のノーマン・ロッキア卿が、ストーンヘンジは、太陽と月の位置を記録する、ある種の天文学計
算機である可能性があるとの意見を述べていたが、誰もこれをまじめに取ろうとはしなか
った。と言うのも、ほとんどの「専門家」は、ストーンヘンジを建設したものたちは迷信深い野
蛮人で、それを祭壇として使い、おそらくそのうえで人間の生贄の儀式をしていたのだろ
うかと考えていたからだ。トムはそんなことはなく、彼らは優れた天文学者だったと主張し
たのである。

それに、これらのストーンサークルのほとんどは円形ではなかった。卵型のものもあったし、アルファベ
ットのDのようなものもあった。だが、長年にわたるトムの調査と計算でわかったのは、その
形状は必ず精密なものだと言う事だった。トムは、これらの「円」は、「ピタゴラスの三角形」、
つまり3辺の比率が3対4対5である3角形(長編の二乗が、二つの短辺の2乗の和に等
しい)に基づいている事を遂に発見した。

では、なぜ彼らはこの円が必要だったのか。これらの疑問のほうが難しかった。おそらく、
月の満ち欠け、夏至、冬至、それに春分、秋分の間の太陽の動きを計算し、日食、月食を
予期するためだったと考えられる。しかし、なぜ日食・月食を予期したいと考えたのだろ
うか。トムもこれは解らないと認めているが、古代の中国で、食を予期できなかったために
斬首された2人の天文学者の話を記している。これは、古代人が、食にきわめて大きな重
要性を付していた事を意味している。

今ひとつ別の興味深い問題があった。彼ら古代人がそれほど幾何学に通じていたとしたら、
それを全部いったいどうやって記憶したのか。これらの巨石を建造したものたちからとさ
れる、幾何学の定理を記した石板、あるいは粘土などは私たちに伝わってきていない。が、
少なくとも解っているのは、古代ギリシア人が、ホメロスや他の詩人の作品を暗唱していたと
いうことだ。何十万行と言う詩をそらんじる事ができるまで、記憶力を鍛錬したのである。
私たちが本で読める「イリヤード」や「オデュッセイア」は、何世紀にもわたり、吟遊詩人たちの記
憶によって伝承されてきたものなのだ。彼らが大変な尊敬を集めていたのはこのためなの
である。
27:2008/12/04(木) 09:17:31 ID:Tv9ANLO1
1985年に、アレキサンダー・トムが81歳でこの世を去ったとき、彼はもはや狂信派の一端と
見られてはいなかった。数多くの高名な考古学者や、古代イギリスの専門家が、トムのもっとも
堅固な支持者となっていた。そればかりか、英国の天文学者ジェラルド・ホーキンスが、ストーンヘンジ
のような遺蹟からのデータをハーバード大学のコンピュータに入力し、そこに実際に天文学的な配置
があることを立証し、トムの最も重要な主張の正しさを確認したのである。

トムの支持者の中でも最も興味深い人物であるスコットランドの学者、アン・マコーレイは、やはり議論の
的となるような仮説を提唱し、トムの足跡をたどっている。「巨石時代のイギリスの科学と神々」
の中で、彼女はまず、最も初期の幾何学は、文字に書き留められなかった伝承であり、そ
れは天文学と繋がっていたとのトムの説から論を進める。そして、音を表記できる文字がな
いという状況下で(文字は紀元前2000年以降にギリシア人とフェニキア人の手で発明される)、
古代の天文学者たちがいったいどうやって知識を蓄積したのだろうかと自問してみた。も
ちろん、その答えは記憶、と言う事になる。しかしそれは、今日の私たちが口にする意味
での記憶ではない。古代人が、高度な記憶の技とも言うべきものを作り上げていたと言う
のはあまり知られていない事である。それは、他の芸術や科学と同等のものと考えられて
いた。学者のフランシス・イェイツは、これについて「記憶術」(邦訳、 水声社、1993年)と
言う著作を書いており、その起源は古代ギリシャ人までたどる事ができ、シェークスピアの時代
までそれが生き残っていたことを示している。

記憶の技は、単に脳の力に頼るのではなく、一連の入り組んだ記憶法(例えば虹の色をお
ぼえるのに、各色の頭文字ROYGBIVというように、記憶を助けるための手段)に頼って
いた。アン・マコーレイの見解では、表音アルファベットは、もともと北極の方向にある星の位
置を記す記憶法の一端として創り出されたもので、音楽の神であるアポロとは、まさに記憶
法で使う基本的な音列だったと言うのである。アルファベットのAからUの文字までは、ある幾
何学の定理、あるいは幾何学形を覚えるための記憶法として創り出されたものであり、そ
れぞれ特定の数とのつながりがあるという(実は、アン・マコーレイの研究は、古代ギリシャの音
階から始まっている)。
28:2008/12/04(木) 09:26:53 ID:Tv9ANLO1
古代史や巨石のサークルの幾何学に関する彼女の仮説は、ここで詳細を述べるには複雑すぎる。
しかし、彼女は、一つの刺激的結論に達しているのだ。それは、この「暗号」を使い、最
も南の月の出をとらえようとすると、天文台を作るのに一番理想的な位置と言うのが、ま
さにストーヘンジのある場所だと言うのである。もう一つが、これらの点をすべて総合すると、
古代ギリシャの科学(紀元前540年に生まれたピタゴラスを含め)は、おそらくヨーロッパにそ
の起源があったというのだ。これは、ストーンヘンジがケネアのギリシャ人によって建てられたとする、
19世紀に提唱された説とまったく逆のものだ。初期のギリシャ人とは、コーンウォルからやってき
た錫商人だった可能性があると彼女は示唆している。

ストーンヘンジの建設は紀元前3100年頃から始まった事は解っているが、彼女の仮説による
と、表音式の文字も、現在私たちが考えているよりはおよそ1500年前に発達していた
事になる。

ここでの私たちの視点から見たこの議論の重要性とは、高度に発達した幾何学と天文学の
形態が、それを正確に記録する方法が存在する以前に既にあったという点にある。アン・マコー
レイは、このことは巨石サークルや遺蹟の幾何学から読み取る事ができるし、これらを建設した
者たちは、あるメッセージを私たちに残したのだと考える。同じく、(これから述べていくよう
にm)ロバート・ボーヴァルとグラハム・ハンコックは、古代エジプト人はギザのピラミッドの幾何学を通し
て、やはりアルメッセージを残したと考えているのだ。

では、私たちの祖先は、いったいいつごろから、記憶法を使って太陽や月の動きを記録し
始めたのか。

信じがたい事に、その答えは、少なくとも3万5000年前であるようなのだ。

1960年代、アレキサンダー・アーシャックと言うビーボディ博物館の研究員が、文明史を研究してい
る過程で、彼が「一連の「突然」現象」とよぶものに頭を悩まされていた。科学は「突然」
ギリシャで始まり数学と天文学は「突然」エジプト人、メソポタミア人、中国の間に出現し、文明そ
れ自体も、中近東の肥沃な3日月地帯で「突然」始まっている。一言で言うと、マーシャックに
は、シュワレール・ド・リュビックやジョン・アンソニー・ウェストを悩ませたのと同じ疑問が沸き起こったの
である。そして、やはりシュワレールやウェストと同様に、マーシャックも、こういったものは「突然」で
はなく、何千年もの準備期間の後に現れたのだと言う結論に達したのだった。
29:2008/12/04(木) 09:30:00 ID:Tv9ANLO1
彼はまず、「文明以前」の人類が農業のような季節的(彼はこれを「時間的要因の」と呼ぶ)
活動に耽ったという考古学的証拠があるのかどうかという点に興味を惹かれた。

このとき、彼は、石器時代のものとされる骨に施されていた不思議なしるしに魅了された
のだ。顕微鏡で見ると、これらのしるしはさまざまな道具を使って施されている事が解っ
たが、それは全部が同時代につけられていたものではないことを示していた。そして彼は、
3万5000年前のあるひとつの骨につけられた、全体では一本の曲線を描く一円の印が、
月の満ち欠けを示す記録であると言う結論に達したのだ。これは、クロマニオン人が、ある意味
では「文字」を発明していた事を意味していた。

しかし、なぜだ?なぜ彼らは太陽や月の動きを気にしなければならなかったのか。それは
何よりもまず、彼らが現代人と同じように知性を持っていたからだ。彼らは、私たちとま
ったく同じように、自分の事を高度に発達した文明を持っていると考えたに違いない。そ
して、知的な人間は、時間、そして歴史の感覚を必要とする。マーシャックは、アメリカのビマ族インデ
ィアンの「暦の棒」のことを語るが、それは彼らの44年間の歴史を表している。これは、イン
ディアンの「語り部」がこの棒を手に取ると、いつか遠い時代の年を選び、点、らせん状の線
などのわずかなしるしで表されたその歴史を再現する事ができるということだ。3万50
00年前のクロマニオン人も、おおむねこれと同じことをしていたことだろう。

それに、暦はもちろん狩人たちにとって役立つものであり、鹿などの獲物がいつ戻ってく
るのかを教えてくれる。いつ出産をするのか知りたい妊婦にとって役立つものなのだ。実
のところ、暦と言うのは、文明が最も基本的に必要とするものの一つであり、言わば現代
人のデジタル時計に匹敵するものである。

もちろん、私たちはここで今ひとつの重要な要素をなおざりにしている。もしシュワレールが正
しければ、クロマニオン人は別の理由からも太陽と月に関心をもっていたことになる。自分自身
のリズムに敏感であり、それを生きた力として感じていたと言う理由からだ。今日では、最
も懐疑的な科学者でさえ、月が精神病の患者に与える影響を認めている。病院で働いた事
のある医師ならば、満月の影響を受ける患者がいると言うのが本当であるのを教えてくれ
るはずだ。だが、先住民の人たちに比べれば、文明人は自然に対する感性をほとんど失っ
てしまったと言えるだろう。
30:2008/12/04(木) 09:36:38 ID:Tv9ANLO1
私たちの祖先であるクロマニオン人を理解しようと思えば、精神病患者が満月に敏感なように、
太陽、月、それに他の自然に力(地磁気など)に敏感な人間を想像しなくてはならない。

「文明ルーツ」(The Roots of Civilisation)で、マーシャックはこう述べる。「旧石器時代には、
物事の説明は物語やイメージ、シンボルを通じて行われていたが、既にそこには高度な知性、認
識、理性、知識、それに技術が関わっていたのである。」言い換えれば、石器時代の人間は、
文明を作り出すための力をすべてそなえていたのだ。

しかし、3万5000年前に人類は既に文明の発生の瀬戸際に立ち、天文学の知識を必要
とするほど発達した共同体に生きていたにもかかわらず、最初の都市を建設する一歩をた
めらいながら踏み出すのには、それからさらに2万5000年もかかったと言う説を信じ
るよう私たちは言われているのである。どう考えても、これは可能性が低いように聞こえ
るのだ。

驚くほど解りにくい著作、「白き女神」の中で、詩人のロバート・グレイブズは、マーシャックの到達
した結論とぴったり合った見解を提供している。彼は、月の女神(「白き女神」)の崇拝が、
人間の最初の普遍的な宗教であり、それより比較的後の段階で、太陽神アポロの崇拝がこれ
にとってかわったと論じている。

女神を表すと彼が考えている右脳の直感に対し、太陽神とは、科学と理性の象徴、つまり、
左脳の知識であると言う事なのだ。

グレイブズは、レディ・シャーロット・ゲストが英訳したウェールズ語の叙事詩、「マビノギオン」を読んでいて、
「タリエスンの詩」という、理解できない詩に出会ったときのことを説明している。突如として
(「なぜかと訊かれても困るのだが、、、」と彼は言う)、その一行一行が、中世の謎かけの連
作であり、自分はその答えを知っていると言う事に彼は気付いたのだ。また、その謎かけ
とは、「木々の戦い」というウェールズの伝承に繋がっている事も解った(これは「ひらめきに
よって」だそうだ)。この戦いとは、実は学問の支配をめぐる2つのドルオド教の宗派の相克
についてのものだった。

ドルイドのアルファベットは、堅く守られた秘密だったが、その18の文字は気の名前を表してお
り、それぞれの子音がその木が繁茂する季節を、母音がそのときの太陽の位置(春分、秋
分、夏至、冬至を含む)を示していた。この「木の暦」は、青銅時代にはヨーロッパや中近東
全域で使われ、それは3つの月の女神を象徴していたと言う。
31:2008/12/04(木) 19:31:22 ID:Tv9ANLO1
グレイブスによると、このカルトは、「太陽神アポロを崇める、せかせかした理性のカルトによって徐々
に抑圧されるようになり、それが美しい音調の木の名前を表すアルファベットを否定し、商業で
使われていたフェニキアのアルファベット(おなじみのABCだ)を優先して、これをヨーロッパの文学、
科学の始まりとなった。」

グレイブズのこの考えは、現代のアルファベットがアポロと関連があると言うアン・マコーレイの考えを裏付
けるものだ。さらに、クロマニオン人の「魔術的」精神構造や、それがいかにして徐々に今日の
「双脳的」知性に変わっていったかについて前章でおおくのべた考えをも裏付けている。

グレイブズによれば、「白き女神」を書くにあたり、通常の意味での「調査」は必要なかった
という。それは彼の元に「押し寄せて」来たのだった。「押し寄せてきた」のは、私たちの
ものとはまったく異なる精神構造に基づいた「一つの知識体系すべて」だったのである。
その違いとは、それが太陽的な前提条件のものではなく、月的なものに基づいているとい
うことだった。

そしてこれこそが、明らかにシュワレールが「聖なる科学」でまとめようと試みているものであ
り、なぜそれがあれほど解りにくいのかもこれで説明がつく。彼は、遠い過去の忘れ去ら
れた現実観を、それにまったく適していない言語で記述しようとしているのだ。

暦と言えば、やはりあの有名なマヤ暦の事を思い出さずに入られない。グラハム・ハンコックも指
摘するように、それは現代のグレゴリオ暦よりもずっと正確なのだ。ハンコックは、マヤ人たちがあ
れほど正確な暦を作りながら、いったいどうして車輪の原理を把握できたのかと問いかけ
た、ある考古学者を引用している。むろん私たちは、マヤ人はその暦を、彼らよりも100
0年さかのぼるアルメカ人から受け継いだ事を知っているが、そうはいってもそれは問題の対
象が変わるだけで、なぜオルメカ人は車輪の原理が解らなかったのか、となるにすぎない。
32:2008/12/04(木) 19:33:54 ID:Tv9ANLO1
ハンコックは、マヤ人、オルメカ人のどちらもこの暦を発明したわけではない、というのが答えではな
いかと提唱している。つまり、彼らもやはりこれを受け継いだに過ぎないと言うのだ。こ
れはとりもなおさず、エジプトにあれだけ高度に発達した科学があった理由を説明するのに
シュワレール・ド・リュビックが提唱している事とまったく同じである。これまで私たちが考慮して
きた証拠は、すべて彼らが正しい事を示している。

それでもまだ疑問は残ったままだ。そんなに正確な暦を、いったいなぜ欲しがるのか?

ひとつ大変興味深い可能性が、モーリス・コテレルという現代の研究者によって、その著書「マヤ
の予言」(「オリオン・ミステリー」でロバート・ボーヴァルの共著者だった、エイドリアン・ギルバートとの共著)
の中で示されている。

コテレルはもともとエンジニア、コンピュータ科学者だが、占星術の科学的側面に関心を抱くようになっ
た。南船海軍に籍を置いていた彼は、船上の同僚たちの挙動が、彼らの星座が示すとおり
であった事に気付いたのである。「火」の星座の人間は「水」の星座の人間よりも攻撃的で
ある、などだ。

さて、このときすでに、ミッシェル・ゴークリンという統計学者がこの問題に関心を持ち、占星術の
唱える定理の一部については、それが正しい事を示す純粋に統計学的な証拠があると示唆
したのだった。つまり、科学者や医師は火星の司る星座に多く、政治家や俳優は木星の下
に生まれた人間が多い、と言ったような事だ。これに懐疑的だった心理学者、ハンス・アイゼンク
博士は、少なくともこれらの結果を詳しくのべようと思うだけの開かれた心を持っていた
が、それがしっかりした基盤に基づいたものであるようだと公に認め、他の学者をあわて
させた。アイゼンクはこの調査をさらに一歩進め、ジェフ・メイヨーという占星術者と協力して、無
作為に選ばれた膨大な数のグループ二つを対象に、「火」の星座(おひつじ座、しし座、いて
座)と「空気」の星座(ふたご座、てんびん座、みずがめ座)のもとに生まれた人たちの
ほうが、「地」の星座(おうし座、おとめ座、山羊座)や「水」の星座(かに座、さそり座、
うお座)の人たちよりも外交的なのかどうかを調べてみた。そして、そういう結果が出る
可能性は1万分の一しかなかったにもかかわらず、4000人を対象としたこの統計調査
では、まさにこれが正しい事が示されたのである。
33:2008/12/04(木) 19:35:42 ID:Tv9ANLO1
コテレルはそのわけを知りたかった。この当惑するような結果を説明できるような、月ごとに
変わっていく宇宙的要素でもあるのだろうか。天空の星座(おひつじ座、おうし座など)
は、「太陽宮」の星座とも呼ばれているが、それは、太陽が毎月異なる星座を背景に昇って
くるからだ。だが、星座そのものが個人個人に影響を与える事はできないのは明らかだ。
何と言っても地球から何光年も離れているのである。私たちの運命が干し母子に書き込ま
れているというのは、一つの言い回しに過ぎない。星は私たちに時間を教えてくれる時計
の文字に過ぎないからだ。

これに対し、太陽は地球にかなりの影響を与えるものを持つ。この巨大な燃え盛る炉は、
膨大なエネルギーを送りつけ、それは彗星の尾を風になびく旗のように引き伸ばす。、また、太
陽の黒点とも呼ばれる変異現象があるが、それは巨大な磁気の炎で、地球上の無線への干
渉さえ引き起こす事ができる。黒点は、オーロラを起す原因となる、磁気を帯びた分子の「太
陽風」を送り出しもする。

コテレルは、人間の退治に影響を及ぼすのは、太陽の磁気、特に黒点の活動ではないかという
妥当な仮定から考察を始めた。

太陽はプラズマ(超高温に加熱された気体)からできていることから、地球のように一定の
周期では回転していない。赤道部分は、南北の極より3分の一近くも早く回転している(3
7日に対して26日)。このために、磁極の線が曲げられ、壊れたマットレスのスプリングのように
外に飛び出す事がある。これが「黒点」だ。

コテレルは、太陽が発する放射線が、月ごとに変わるのみならず、4種あって、それが順に放
射されると知って興奮した。つまり、太陽の活動は、「太陽宮」として知られている毎月の
星座の変化と対応するばかりか、4つの組織の星座(火、地、空気、水)にも対応してい
るのである。
34:2008/12/04(木) 19:47:35 ID:Tv9ANLO1
地球もまた太陽の周りを回っているため、26日間と言う太陽の周期は、地球から見ると
26日に見える。地球は7日ごとに、マイナスとプラスに帯電した分子をシャワーのように浴びる。
生物学者によると、地球の弱い磁場が生き物の細胞に影響し、細胞内のDNAの合成に影
響を及ぼす事が解っている。このため、受胎の瞬間の胎児に太陽の磁場の変化が影響する
確率は、きわめて高いとコテレルには思われた。もしそうだとするなら、彼は占星術の科学的
基盤を発見した事になる。

占星術者たちにこの仮説を説明してみたが、あまりいい反応は示さなかった。占星術によ
れば、私たちに影響するのは受胎の瞬間ではなく、出産の瞬間なのである。だがこれはや
はりおかしい。結局のところ、出産の瞬間とはいっても、赤ちゃんは既に9ヶ月も生きて
いるのである。実はもう一人の別の科学者がやはりこれと似た仮設をまとめていた。「超常
現象――5感の科学を超えて」(1992)の中で、物理学者のパーシー・シーモアは、新しく形
成された胎児は、太陽、月、そして地球の間に、まるで綾取り糸のようにのびる、太陽系
の「磁場の網」の影響を受ける、と提唱する。コテレルは、月と他の惑星を、それほど重要で
ないとして無視していただけなのだ。

コテレルは、クランフィールド工科大学での職につくと、直ちにそこの強力なコンピュータにこのデータを入
力して見た。極と赤道での異なる回転速度によって起きる、太陽の二つの磁場と、太陽の
周りを回る地球の動きの相対関係をグラフに示してみたかったのだ。

コンピュータから出てきたのは、11年半の周期が繰り返される事をはっきりと示しているグラフ
だった。天文学者は、黒点活動の周期を11・1年と計算しているから、コテレルはだいぶ近い
ところまできたことになる。

互いに影響しあう太陽の二つの磁場は、87・45日ごとに、再び最初の状態に戻るが、
この一つの周期をコテレルは「ビット」と読んだ。グラフを見ると、黒点の周期もやはり繰り返さ
れており、187年ごとに最初の状態に戻り、そこからまた同じ周期が始まる事が、見て取れ
た。しかし、ややこしいことに、これに加えて、北と南が完璧なバランスを保つ、中立そ
うと呼ばれる赤道周辺の地域がある。この層は、太陽の磁場によってゆがめられるので、
187年に1回、1「ビット」だけ移動していく。このため、一つの球全体(つまり、最初の状
態に戻るまで)が1万8139年となる。そして、同じく1万8139年ごとに、太陽の磁極は
逆転する。
35出土地不明:2008/12/04(木) 19:49:31 ID:Tv9ANLO1
コテレルにわかったのはこういうことだった-―この周期は、187年からなる周期97回に分けら
れ、この後者の周期は、さらに5つの大きな周期から成り立っている。その5つとは、1
9×187が3回、20×187が2回だ。

この20×187が、136万6040日になるとわかったとき、コテレルはにわかに興奮してきた。
それまでに彼は、「ドレスデン写本」としてしられているマヤの天文学の文献に関心を持つよう
になっていた。これは、マヤ人が夏至、冬至がいつかを計算したり、きわめて重要視してい
た惑星である金星の公転周期を理解するのに使っていたものだ。マヤ人は、金星は紀元前3114
年8月12日に「生まれた」惑星であり、現在の位置に移動する途中、地球のかなり近くま
でやってきたと考えていた事を思い出されるかもしれない)。マヤ人は、「ツォルキン」と呼ばれる
ややこしい周期(260日からなる)を使って計算をしたが、彼らによれば、金星の公転周期
は136万6560日になるという。コテレルが気付いたのは、これが彼のはじき出した数字である
136万6040日プラス2ツォルキンであるということだった。

彼は考えた。マヤ人は、彼も気付いた太陽黒点の活動周期にどうにかして出くわしたのであ
り、彼の高度に発達した暦もそれに基づいていると言う事はありえるだろうか?

自分が正しい方向に向かっているかもしれないと感じさせてくれた事がもうひとつあった。
彼はとても興味深い事実に注目したのだ。太陽の磁力線の放射は、黒点の活動が減少する
時期に高まるのである。これは逆のように思える。それは弱まるはずではないのか?彼が
到達した結論は、これはヴァン・アレン帯として知られる(1958年に宇宙科学者のジェームス・ヴァ
ン・アレンによって発見された)、地球の周囲を取り巻く放射線の層に関係があると言う事だっ
た。それは、地球の磁場が原因で起きるもので、そのまま地表に到達すると地球の生命を
破壊する太陽の放射線の侵入を防ぐ。

ヴァン・アレン帯は、黒点の活動が活発な時期には、磁気分子で超飽和状態となり、地球表面に
到達する放射線の量を減らすのだろうとコテレルは推測した。黒点活動が減少する時期には、
放射線を通す。そして、これが不妊その他の問題の原因となるとコテレルは考えた。
36:2008/12/04(木) 19:50:08 ID:Tv9ANLO1
、、、、それでは、又明日、、、
37:2008/12/05(金) 09:38:49 ID:7JQOxInH
コテレルは、マヤの衰退は、地球が最大量の太陽磁気を帯びていた西暦627年から始まったと考
えていた。そして、西暦627年と言うのは、紀元前3114年の金星の「誕生」に始まったマ
ヤ暦の一周期(136万6560日)の終焉でもあったことに彼は気付いた。これはまた、太陽
の磁場が逆転した時期でもあった。その前の逆転は、金星が誕生したとされる年におきて
いた。これがすべて偶然と言う事はあり得ないのではなかろうか。

それよりも心配なのは、2012年12月22日、太陽の磁場が再び逆転する日に、次のマヤ暦
の一周期が終焉を迎えると言う事だ。現在、先進国で不妊が増加している事、これがこの
黒点の活動周期の変化に起因するものである可能性があることをコテレルは指摘する。

グラハム・ハンコックは、地球の磁極の逆転が起きることが予想され、広範囲な天変地異を引き起
こす年として、2030年をあげていることを覚えている読者もいることだろう。もしコテレルが
正しいとすれば、地球ではそれより18年前から問題が始まる可能性があることになる。

しかし、そうはいっても、ハンコック、コテレルのどちらにも間違っている可能性もあるのだ。地球
は、西暦627年に起きた前回の太陽の磁場の変化を、特に目立った天変地異もなく生き延
びている。その年、ローマ皇帝ヘラクリトスはアッシリアとメソポタミアを侵略し、ニネヴェ均衡でペルシャ軍を破っ
ている。預言者のマホメットはメディナからメッカ人に攻撃を仕掛け、日本では遣唐使が派遣された。
このどれを見ても、太陽の磁場の逆転に気付いていた様子は無い。

地球の磁場の逆転に関しては、現代の科学者は、何がそれを引き起こすのかまったくわか
らないのはもちろん、なぜそれが時として逆転するのかなど見当さえついていない。した
がって、1000年先ではなく、2030年に起きると言う、かがク的な理由は明らかに存在して
いないのである。

それはそれとして、コテレルの見解は、古代文明の研究に大事な貢献をした。マヤの暦がしっ
かりした科学的基盤に基づいている事、そして、古代人は、天空について、現代の天文学
者が認めるよりもはるかに多くを知っていたと言うことを彼は改めて立証したと思われる
のだ。
38:2008/12/05(金) 09:40:36 ID:7JQOxInH
それだけではなく、もしもマヤ暦が太陽の黒点の活動の周期に基づいていたのだとしたら、
この知識は、純粋に科学的な関心というより、直感に基づいていたと私たちは考えざるを
得ない。シュワレール・ド・リュビックは、ひとつひとつの生命がウチュウノエネルギーと繋がっており、一日
の一刻一刻には独自のネテル、あるいは波動があると言っている。もしアレキサンダー・マーシャックが正
しいなら、クロマニオン人が天空の事を学ぼうとしたのは、こういうエネルギー、波動に気付いてい
たからであり、同じことがインカ人やマヤ人について言えることにはまったく疑いの余地はない
のである。

実は、この天文台と古代人と言うテーマについて書かれた本の中でも、おそらく最も解りにく
く、読みづらいと思われる一冊の本のことについて述べるのは、このあたりがふさわしい
と思い、これまで私はわざとそれにふれずにきた。その本とは、ジョルジオ・デ・サンティリャーナと
ヘルタ・フォン・デヒェントの共著、「ハムレットの白」(1960)である。これに比べると、グレイブスの
「白き女神」は、明快さの手本のように思えるくらいだ。

サンティリャーナは、尊敬を集める歴史と科学の教授だったが、「ハムレットの日」は、学術出版社の数
社からは断られ、それほど知られていない一般書の出版社からやっと上梓された。このた
め、学会の同僚たちは、これを無視する理由が二つあったことになる。それが信じられな
いほど難解であったばかりか、学術書専門ではない出版社から出されたと言う事実は、そ
れは学問書としても受容の基準に満たないものに堕していることを認めるのと変わり無か
ったからだ。現実には、サンティリャーナが、空想じみた妄想を信じる狂った連中の仲間入りした
ことを証明していると言うのが、学会一般の意見であったようだ。

にもかかわらず、この本は徐々に知れ渡るようになった。というのも、ほんの数ページ読
んだだけで、これは何か極めて重要なことについて語っていると言う事、それにサンティリャーナ
は自分の語っているテーマを知り尽くしていると言う事に気付かぬわけにはいかない本だか
らだ。

もうずいぶんながいあいだ、サンティリャーナは、歴史上のある時代に、かがクが神話に溶け込んで
言った時点があると言う事に気付いていた。そして、「ハムレットの白」にもはっきり記されて
いるが、あるとき彼は、それを任されたのだという。圧倒されるような確信を彼に残した
のである。
39:2008/12/05(金) 09:42:22 ID:7JQOxInH
共著書であるヘルタ・フォン・デヒェントは、人類学者で、ピグミーたちがカモシカの絵に矢を射るところ
を見たあのフロベニウスの門下生だった。彼女もまた、神話と言うのは原始的なナンセンス以上のも
のだと考えていた。この点について、彼女が「金脈を掘り当てた」(サンティリャーナの言い方)の
は、とにかく神聖な場が異様に多い事以外、これと言った特徴の無い、太平洋にある二つ
の小さな島が、それぞれ南北の回帰線上にあることに気付いたときだった。夏至、冬至の
時に太陽が「静止」し、そしてこれまで来た道を戻っていくと言う位置である。これは、「原
始人」が天文学に深い関心を寄せていた事、したがってこれまで皆が考えてきたほど「原
始的」ではないという確証を与えていた。

サンティリャーナは、その頃には既にこれと同じ結論に達していた。それより何年も前に、古代人
の根本的な特徴の一つが、「季節に対し、不安で限りない関心と細心の注意を払っていた」
と言う事であるのに彼は気付いていたのだ。「夏至や冬至、あるいは春分、秋分とはいった
い何なのか?それは、結合する力、推理する力、そして想像力のあふれる意思、再現の力
を現しているが、私たちはそれを祖先が待ち合わせていた事はほとんど考えていない。し
かし、そこにそれはあったのだ。私はそれを見たのである。」

サンティリャーナは言う。文字が発明されるか以前に、人間は測ること、教える事のとりこなって
いた。文字と天文学を使って、である。さらに彼は、アレキサンダー・トムを彷彿とされるような
言葉で、彼ら「忘れ去られた古代のアインシュタインやニュートンたち」について語るのだ。

この古代の知識は、時間に基づいていた、とサンティリャーナは考えた。「音楽の時間」だ(これに
ついては後ほどさらに詳しく述べる)。

この本の基本的な論点は、きわめて簡単に表すことができる。古代人は、歳差運動につい
てしっていただけでなく(これは、紀元前134年にギリシアのヒパルコスによって発見された事に
なっている)、それを何十と言う神話に暗号化して織込んだ、というものだ。これは面白い
仮説だが、そう画期的な的とは言えるものでもない。だが、これだけではまだ話が半分し
か終わっていないのだ。
サンティリャーナは言う。

この本はきわめて型破りである、、、。まず第一に、この中には近代の分析的な枠組みで提示
できるような「体系」はない。用語解説があるわけでもなく、ひとつにまとまった形を作
り上げる基盤となるべき原理も無い。この本が組み立てられている形は、私たちの言うシステ
ムというものが存在していなかった時代のものなのであり、そこにシステムを求める事自体がも
ともと無理な話なのである。自分達の考えを、すべて記憶に記していた人たちには、その
ようなものは存在しなかったのだ。
40:2008/12/05(金) 09:44:00 ID:7JQOxInH
つまりこういうことだ。通常の読者が期待するのは、彼がまず古代の神話について語り、
そのあとに歳差運動と言う観点からそれを「説明」する事であろう。彼が言わんとしてい
るのは、話はそう簡単ではない、ということだ。「このテーマは、ホログラムとしての本質を持っ
ている。知性に対して、一つの全体として存在しなければいけないものなのである。」

サンティリャーナがいわんとしていることをもうすこしわかりやすく表すこともできる。世界中に
散らばる何十と言う異なった文化に、明らかに同じ物語の表現である伝説がある。ジェーム
ズ・フレイザー卿は、これをその有名な著作「金枝篇」の議論の出発点としている。フレイザーは、
謎をとく鍵は、大地の肥沃と言う考え、つまり言い収穫を上げる必要性にあると判断した。
王とは、その力を持って雨を確実に降らせた魔術師でもあった。もしもれに失敗すると、
その人間は神々に生贄として捧げられたのだ。生贄はだんだんと象徴的なものとなり、最
終的には、神が埋葬され、春にまた生まれかわってくる儀式にその姿を変えたのである。

むろん、ここでの問題は、神話というものが、人間が農耕を始めたあとに発達したと言う
前提で話をしていることである。「ハムレットの日」の前面に出てくるのは、神話はそれよりも、
ずっとずっと古いものであると言う、サンティリャーナの強力な直感である。それは何千万もさか
のぼるとさえ暗示しているのではないかと思わせる箇所もある。

つまるところ、サンティリャーナは、エスキモー(イヌイット)、アイスランド、古代スカンジナビア、アメリカ・インディアン、
フィンランド、ハワイ、日本、中国、ヒンドゥー、ペルシャ、ローマ、古代ギリシャ、古代ヒンドゥー、古代エジプ
ト、そしてさらに何十と言う文化、民族からの神話伝説を、あざやかな綴れ織りのように見
せたのちに、こう問いかけるのである。これらの文化の神話に共通の起源が無ければ、い
ったいどうしてこれだけの類似性ができたのかと。そしてこの起源とは、天文学にあるの
ではないかと彼は考えているのだ。

その議論の起点は、アイスランド神話の英雄アムロディ(これが変化したのが、ハムレットという名だ)
のものである、トウモロコシを挽く臼だ。この白は、最初は平和と豊穣を生み出していた。それ
は「黄金時代」に存在していたのだ。これが終わりを告げ、臼は塩を挽き始める。ついに
それは海のそこにたどりつき、砂を挽き、マエルストロムという渦巻きを作り出すのだ。エドガー・
アラン・ポーはこれを最大限に利用した(「マラ」とは、挽くということを意味している)。
41:2008/12/05(金) 09:45:16 ID:7JQOxInH
ではなぜ挽き臼なのか?おそらくそれは、挽くほうの輪、つまり太陽が星座の間をひとつ
の方角(おひつじ座、つぎにおうし座、ふたご座など)に動くが、春分点/秋分点は逆の
方向(ふたご座、おうし座、おひつじ座のじゅん)に動くからだと考えている。

挽き臼が体現していたのは、「天変地異と、周期的に起こる世界の再建」という概念だった。
つまり、古代の神話は、大洪水などの天変地異について語っていたのだ。しかし、ある天
変地異で終わりを告げる「時代」のほうは、歳差運動が作り出すものであり、それは私た
ちがある時代から次の時代へと移行していくことを意味している。紀元前1万年のしし座
の時代から、現在のうお座の時代へと続き、そして来たるべきみずがめ座の時代になる。

歳差運動は、人類の大部分に破壊をもたらすような、周期的に起こる大規模な天変地異と
つながりがあると、もしも古代人が考えたとしたら、これをきわめて重要なものととらえ、
妙に入り細にわたり研究することであろう。サンティリャーナによれば、アムロディの臼は、歳差運動
のイメージを表したものなのである。

今日の私たちの時代、フォン・デニケンなどの「古代宇宙飛行士」論者は、古代人の高度な知識
を示す証拠を指摘して、それがこの知識が宇宙からの訪問者たちによってもたらされたこ
とを証明していると論じた。だが、サンティリャーナが押している歳差運動仮説は、そのような訪
問者が無かった事を証明するほぼ決定的な証拠なのだ。もし訪問者があったとしたなら、
彼らは古代の天文学者たちに、歳差は単に地球の地軸の傾斜が原因で起きるに過ぎず、そ
れは地球をコマやジャイロスコープのようにぐらつかせるだけであって、別に宇宙的な意義がある
わけではないことを説明してくれた事だろう。もしそうなら、「ハムレットの臼」でサンティリャーナが
探求している豊かな神話の数々も、決して生まれてくることは無かったはずである。

サンティリャーナのきわめてややこしい議論の進め方の例をあげてみよう。「偉大な神、パンは死す」
と題された第21章は、ブルタークの語る物語から始まっている。そこでは、ギリシャのある島か
ら響いてくる声がエジプト人のタムスと言う船長に、こう叫ぶ。「パロデス島の正面に来たなら、
偉大なるパンは死す、と伝えよ。」パロデス島を通過したときは、海も凪ぎ、静かだったので、
タムスは言われたとおりにした。すると、岸辺からは悲しみに無く大きな叫びが聞こえてきた
のだった。神話に関心を持っていた皇帝ティベリウスは、タムスをよんで、彼自身の口からこの話
を聞こうとした。
42:2008/12/05(金) 09:47:35 ID:7JQOxInH
キリスト教徒は、この物語を、キリストが死んだ(イエスがティベリウスの在位中に磔になったため)とい
う意味であると解釈する傾向にあった。しかし、サンティリャーナは論をさらに進め、これと奇妙
に似通った神話の例をあげるのだ。チロルには、召使の姿になって人間の家庭に入り込むとい
う木の精霊、「ファンゲン」の伝説がある。グリムが集めた話の中に、家に帰る途中の男が、「か
つぎ棒を持つものよ、故郷に戻ったら、ギキ・ガキは死すと伝えよ」という声を聞く、とい
おうのがある。この言葉を繰り返すと、女中は突然涙を流し、走り去ってしまう。サンティリャー
ナによると、この「担ぎ棒」というのは、アムロディの挽き臼の軸棒を表すという。

これの変形がたくさんある。ある男が猫が集まっているところを見ていると、その一匹が
壁に駆け上り、こう叫ぶ。「ディドラムに、ダドラムは死すと伝えよ。」男が家に戻り、妻にこの
話をすると、彼の飼いネコが、「ならば我こそが猫の王なり」と叫び、煙突の中を昇って消え
てしまう。

サンティリャーナは問いかける。プルタークの「船」とは、星座のアルゴーであり、オリシスの死体を船内にか
かえていると言う事は考えられるだろうか、と。そして、船長の名はタムスだが、その名前が、
「文字」を発明した事で人間を精神的に怠惰にしてしまい、宇宙についての「統合された
知識」があった時代に終焉をもたらしたとして、トト(マーキュリー神)をなじったと言う、プラ
トンのあげる名前と同じであるのは、はたして偶然なのであろうか。

彼はまた、ある別の神の死を嘆く女性たちの話について述べているが、この神とはタンムスで、
フレイザーによると、穀物の神で、季節とともに死ぬのだと言う。しかしこの場合には、タンムス
は、多くの重要な神々と同じ文脈で登場する。なぜそのようなくらいの高い神々の間にタンム
スがいるのか。

サンティリャーナによれば、その答えは、タンムスの祭りの日付を知ると分かると言う。それは、6月
19日と20日の夜に行われたが、それはエジプトの新年の始まる日でもある。その日、天
狼星シリウスは、日の出直前に地平線から昇る。さて、エジプト人がシリウスを崇拝したのは、も
う3000年以上もの間、歳差運動があるにもかかわらず、それに逆らう形で、この日の
日の出前に昇りつけていたからだった。

これは不可能事のように思える。とにかくあらゆる星は歳差運動による影響を受けるはず
なのだから。相対的に言って、シリウスは地球に極めて近いところにアリ(二番目に近い星だ)、
かなりの「固有運動」があるため、それが(表面的には)歳差運動に逆らう事を可能にす
る。
43:2008/12/05(金) 09:49:12 ID:7JQOxInH
れとは別に、今ひとつの理由があり、それは古代エジプト人が使用していた暦では、ローマ
のユリウス暦と同様、1年は365・25日ではなく、365日しかなかった事に関係して
いる。このわずかな誤差が、表面上は歳差運動に影響されないような動きをシリウスがするの
を可能にしたのだった。

このため、シリウスも遂に歳差運動に屈したとき(最終的にはそうなった)、偉大なる神、パン
は死んだのである。

サンティリャーナのこういった論法が、学者たちが戸惑わせたのもよくわかるだろう。偉大なる神、
パンから、召使の女へ、まだらの猫、プラトン、それにここにあげるのを控えた何十というほ
かの例に飛んだかと思うと、歳差運動とシリウスに話が落ち着くのである。

だが、再び繰り返しになるが、「ハムレットの臼」は、単に古代の神話は歳差運動の知識を反映
しているときだけ論じる試みなのではない事を私たちが把握しない限り、それを理解する
事は不可能なのだ。もしそれだけの事であれば、サンティリャーナは短いエッセイを書けば事足りた事
だろう。彼が私たちの目を向けさせたかった事を表現するには、きわめて厚く、中身の濃
い本が必要だったのだ。つまり、神話の世界の信じがたいほどの豊かさ、そして、今日の
文字情報や音声で伝達されるビットの情報の世界では、もう長い間忘れ去られたままの、あ
る種の宇宙の捉え方を、これらの神話が示しているという事を彼は言いたかったのである。
彼は、神話研究の徒として最も偉大な一人と考えられているエルンスト・キャシレールを、「還元主義
者」に過ぎるとして、わざわざ批判さえしている。論理的な形で、しかも限られた行数で
は、自分追いいたいことはとても納まりきれないと彼は感じているようだ。これこれのつ
ながりを論じるには、それだけで一冊の本が必要だ、と彼はよく書いている。もし彼がま
だ生きていて、ハンコックの「神々の指紋」やボーヴァルの「オリオン・ミステリー」を読むことができたと
したら、自分の言わんとすることがわかり始めた人間がやっと出てきたと少しは感じるこ
とができたのかもしれない。

これまでのところ、「文明のゆりかご」であると主張する権利があるもう一つ別の文化、古
代インドのことについてはまだ何も書いていない。
44:2008/12/05(金) 15:50:36 ID:7JQOxInH
>>43 れとは別に、、、、これとは別に、、、

インドについて広く受け入れられている見解は、当初ドラヴィーダ人と呼ばれる原始的な人々が
住んでいたが、紀元前1500年から1200年の間のいくつかの時点に、青い目をした
アーリア人がアフガニスタンからやってきて彼らを南部へ追いやった。アーリア人は独自
の「ヴェーダ」文化を興し、その最高峰の文学がヴェーダ賛歌である、というものだ。

現在ではパキスタン領にあるパラパでは、巨大な塚が古代の町の遺蹟を覆っている事が知ら
れており、1921年、インド考古学者、ダラ・ヤム・サーニは、これがアレキサンダー大王(紀元前3
65年に生まれた)の時代にチャンドラグプタによって起こされたマウリヤ帝国より以前
のものではないかと提唱した。実際に、ハラパでの発掘で、これがチャンドラグプタよりも250
0年前のものである事が解った。

1922年、インダス川流域、ハラパの南西640キロにあるモヘンジョ・ダロ(「死者のオ化」
の意)での発掘が始まり、誰も想像だにしなかったようなのどかな文明が姿を現した。信
じがたいことに、モヘンジョ・ダロは、ギリシャ後期、あるいはローマ文明の都市と同程度の高度な発
達をみせ、洪水から保護するため、泥の煉瓦で作られた大地の上に建造されていた。ニューヨー
クを思わせるような碁盤目状の通りの設計、それにすばらしい下水設備(それに座るタイプの
トイレまで)があった。都市の規模は、4万人の人工を擁していた事を示していた。女性の小
像が多数合ったことから、女性性の神、おそらくは月の女神が崇拝されていたらしい。そ
こにある刻印は、彼らが何らかの文字を持っていたことを裏付けていた。

インダス川流域の3000キロ近くにわたる地域の発掘で、150箇所以上の遺蹟が見つ
かり、それのうち5、6か所が都市とわかった。アラビア海からヒマラヤの丘陵地帯までの地
域全体が、かつてはエジプトやギリシャに匹敵するほどの文明の棲家となっていたのである。こ
の失われた文明は、インダス文明と呼ばれるようになった。

インダス東側にはタール砂漠が広がる。この砂漠で町の遺蹟が発見されると、そのような乾き

きった環境でどうして生き延びる事ができたのかについて、戸惑いがあった。だが、衛星
写真がその疑問に答えてくれた。タール砂漠は、かつては大きな川が横切る肥沃な平野で、運
河だった事は間違いない後さえあったのだ。この川、ガカール川も、現在ではその本の一部が
存在するだけだ。学者たちは、この消滅してしまった川が、ベーダ賛歌に登場するサラヴァステ
ィ川であるとの結論を下している。
45:2008/12/05(金) 15:51:55 ID:7JQOxInH
モヘンジョ・ダロやハラパの文明がその頂点にあった頃は、この兵や全体が世界で最ものどかな場
所のひとつであったようだ。古代ブリトン人が、青銅器時代の農民であった時代、ギリシャがま
だ未ケニアの戦士の部族の寄せ集めであった時代に、世界で最も偉大な文明がインダス、サラヴ
ァスティの地に栄えていたのである。

紀元前1900年以降のある時期に、何らかの天変地異がこの文明を壊滅させたようだ。
証拠を見ると、ヒマラヤを押し上げた地殻プレートの圧力によって、大地が歪み、その結果一
連の地震や火山の噴火が起きて、これが川を文字通り地中に沈めてしまったのである。人
名の犠牲は恐ろしい数に達したに違いない。

ヴェーダ文学が書かれているサンスクリット語は複雑な言語で、1786年にウィリアム・ジョーンズ
卿が、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、ケルト語との関係を立証している(インド=ヨーロッパ
言語という名前が起こったのもここからだ)。そして、もしヴェーダがサラヴィスティ川のことを語
っているのなら、それが書かれたのは紀元前2000年頃より前になるはずで、学者が当
初考えていた紀元前1500年以降ではない。それに、アーリア人の言語は、サンスクリット
語であった可能性が高いようなのだが、もしそうだとすれば、彼らの侵入が紀元前150
0年になるほど後期におきていたことはあり得ないのも明らかである。

ヴェーダ賛歌には4つの主要な歌集があり、それぞれリグ・ヴェーダ、サマ・ヴィーダ、ヤジュール・ヴ
ェーダ、アタルヴァ・ヴェーダとよばれ、その中ではリグ・ヴェーダが最古のもので、最も重要とされ
ている。

1980年代、ヴェーダ文学者のディヴィッド・フローリーは、リグ・ヴェーダにある賛歌に海を象徴し
ている文が多数登場しているのに気付いた。どうもこれはその起源が海洋文化にあること
を示していると思えたが、これはアーリア人がもともと中央ヨーロッパからやってきたという
仮説と明らかに矛盾する。また彼は、大規模な洪水を逃れ、海を越えてやってきた「祖先」
について語っている賛歌の存在にも気がついた。

ヴェーダ賛歌の中で天文学に触れている部分を研究したフローリーは、おとめ座を背景に陽が昇る
夏至に言及しているのは紀元前4000年前後である事を示し、同じくてんびん座の夏至
について語っている箇所は紀元前6000年頃の時代を指し示しているとの結論を下した。
また、ヴェーダの作者たちは、歳差運動の事もよく知っていたという結論を下している。こ
れらの革命的な考えは、「神々、賢者と王たち」(1991)と題された本に提唱されてい
る。
46、何か、台風と言うか、スコールだな、、スゲ:2008/12/05(金) 15:53:34 ID:7JQOxInH
たとえば、ヴェーダの天文学を論じた部分で、フォローリーは、その年の神であるプラジャパティが
自分の娘、ロヒニと恋に落ちたために、ルドラという名の神に罰せられ、ルドラが3本の矢じりの
ある矢でプラジャパティを突き刺すという神話について論じている。彼が指摘するのは、ルド
ラとはヴェーダ天文学でシリウス星の名であり、3本の矢じりの矢はオリオン座、ロヒニはおうし座
のアルデバラン星を表すということだ。湖の神話は、

春分がふたご座からおうし座に移っていた時代、つまり紀元前4000年頃の事を示して
いる(B・G・ティラクという学者が、ヴェーダの天文学について調べた最初の一人だったが、
彼は丸々一章をオリオン座についての考察にあてている)。「ハムレットの臼」をよく知っている
ものにとっては、こういったことは別に議論を呼ぶようなテーマでもなんでもないだろう。
ヴェーダ・ヒンドゥー文化の人々は、エジプト人が最も重要と考えていたのとまったく同じ星座
に対する執着を見せていたことも覚えておく必要があるだろう。フローリーは、エジプトのオリシス神、
ウーのヴァルナ神も、スベテオリオン座で象徴され、その神話は、紀元前6000年頃のオリオン座で
の春分について語っているように思える事を指摘する。

フロリーには、紀元前6000年以前にさかのぼる海洋文化などという概念は、相当な議論を
呼ぶものであり、直ちに否定されてしまうだろうという事がよくわかった。だが、これま
で見てきたように、チャールズ・ハプグッドであれば、これも完璧に信憑性あるものと考えた事
であろう。むろん、同じことが、あの驚異的なマヤ文化研究の徒、アウグストス・ル・プロンジェオン
にもいえたはずだ。ご記憶と思うが、彼は、マヤの力の植民者たちが、キリストの時代の何千
年も前に、帆船でヨーロッパやインドまで公開していたと示唆し、インドや中国が、偉大なる航
海者、建築者として知られるものたちによって侵略され、征服されたという趣旨で、「ラーマヤ
ーナ」を引用している。ジョン・ウェストとグラハム・ハンコックならば、おそらくル・プロンジェオンの議論を修
正し、南アメリカ、エジプト、それにインドのどれもが、紀元前6000年のずっと依然に、何ら
かの大規模な天変地異の生存者たちの住処となったと提唱する事だろう。

「神々、賢者と王たち」でフローリーが提訴した問題は、ゲオルグ・フォイエルシュタイン、スブナシュ・カク、そ
れにディヴィッド・フローリーの共著、「文明のゆりかごを求めて」(1995)でさらに詳しく検
討されている。本の表題からも解るように、3人はインドが「文明のゆりかご」であり、
紀元前7000年までさかのぼってヴェーダ文化が存在していた証拠があると論じている。
彼らが指摘するのは、乳の海をかき回す事から天地創造が起こったという神話は、天の川
(英語では乳の海)のことを言っているようであり、そのかき回す動作は、サンティリャーナと同
様、ハムレットの臼、つまり歳差運動の事であり、古代ヒンドゥーの文化に属していた人々は、春分
点が一つの星座からの別の星座に変化すること(つまり、一つの時代の終焉)を、きわめ
て注目すべき出来事と考えたいということである。

「文明のゆりかごを求めて」の主張を見ると、どうしてもジョン・アンソニー・ウェスト、ロバート・ボー
ヴァル、それにグラハム・ハンコックの考えを思い出さずに入られない。実は、同書の著者たちは、
スフィンクスが紀元前7000年までさかのぼる可能性があるとのロバート・ショックの意見にふれてい
る。だが、それより後に、ウェスト、そしてハンコックやボーヴァルを、スフィンクスは紀元前1万500年
までさかのぼるという見解に導いた、天文学の見地からぎろんについてしらなかった。も
しウェストらの議論が確固たるものであるならば、ヴェーダ文学が紀元前6000年という、遠
い昔について語っているからという理由で、インドが文明のゆりかごであるとする仮説は、
説得力を失ってしまう。
47:2008/12/07(日) 22:11:38 ID:jJMoUQTy
しかし一方では、フォイエルシュタイン、カク、それにフローリーが提示している天文学がらみの証拠が、
古代ヒンドゥー文化も、エジプト人と同じように星の観察と歳差運動に執心していたことを立
証している、と論ずる事も可能だ。だとすれば、古代エジプト人について言えるのと同じ
ことが古代インド人にも当てはまる事になる。エジプト関しては、紀元前3千年(ニレミアム)の
王朝文明に先立ち、大規模な洪水を生きながらえたものたちによって興された、はるかに
古い文明が存在し、彼らこそがピラミッドを計画し、紀元前1万500年にスフィンクスを建造した
のだとの仮説がある。インドでは、インダスとサラヴァスティ川流域の平野にあった偉大な文明には、
やはりそれに先達先駆的な文明があり、その偉大なる業績が「リグ・ヴェーダ」であるように
思われる。フローリーは、この「先駆者」の文明は、紀元前7000年頃のものである可能性が
あると示唆しているが、これはショックがスフィンクスの建造された時代として示しているものでも
ある。ヴェーダ・ヒンドゥー文明が、さらに3000年ほど前の時代までさかのぼる事も、決し
てあり得ない事ではないのだ。

この2つの章でまとめられてきた概念を軸に、新しい洞察の一部を記してみよう。

古代人の「知識」は、私達現代人の言う意味での知識、つまり百科事典に分類されるよう
な知識ではなかった。それは、直感を媒体とした宇宙とのかかわりがだんだんと増してい
く事であったのだ。サンティリャーナは言う。「古代人の思考とは、徹頭徹尾、優れて宇宙的なもの
だ。それは、一つの宇宙に隠されている最も重大な意味を直視するもので、その関わりの
形態が、その後の古典的な哲学の中に鳴り響いているのである、、、。それを何か具体的なこ
とに要約・還元するのは不可能なのだ。」

動物は、自身のことを一つの生き物だと感じており、その本質は、まわりの世界に対して
基本的に受身の形で適応していく事である。単なる動物の存在でなくなるに従い、人間は
もはや受動的ではなくなっていた。何かの手段を通して、自分が存在する世界に影響を及
ぼす事ができると感じ始めたのである。最初は、世界に影響を与えるという試みは、(喰人
を含む)さまざまな儀式を通して行われた。「真の人間」は宗教的な動物としてその期限を
迎えたのである。
48出土地不明:2008/12/07(日) 22:13:05 ID:jJMoUQTy
数十万年後、ネアンデルタール人は大きく進化し、能の大きさも現代人より3分の1ほど大きくな
っていたほどだった。動物学者のニコラス・ハンフリーは、ゴリラの脳が必要以上に大きい
事に当惑したが、それがゴリラのきわめて豊かな社会生活に対する反応であるという事に気
付いた。ゴリラの赤ちゃんは、いわば高度に複雑化した社会的行動を学ぶための大学に入る
ようなものなのだ。これと同じことがネアンデルタール人にもいえたことはほぼ間違いなかろう。

だが、狩猟の魔術という、次の巨大な一歩を踏み出したのはクロマニオン人であった。これが宇
宙に対する新たな影響力をもたらしたと彼らは感じたのだ。そして、クロマニオン人は月の動き
も観察していた。これは、単に動物の移動について教えてくれる何らかの暦が必要だった
だけだと私たちは思っているが、グレイブズ、シュワレールは、どちらもまったく違う見方をする
だろう。それは豊かで、高度な知識体系の一部であり、私たちの「太陽的」知識とはまっ
たく違う、「月的」知識だったのだ。サンティリャーナが言い表そうとしているのも、明らかにこの
ことなのである。

ある時点(ジェインズが示唆しているように、紀元前1250年という、かなり最近の事なの
かもしれない)において、人間は「太陽的な」知識を発達させ始めた。百科事典や、辞書、
あるいは数式に記す事のできる種類の知識だ。二つの種類の知識の違いを表すのはやさし
い。それは、洞察と、単なる情報の違いなのである。アルキメディスが「ユーレカ!」と叫んで風呂
から飛び出したとき、彼は物体の浮力について突然ある洞察を得たのだった。この洞察を
彼は一つの「法則」の形に表したが、その法則とは、どんな学生でも丸暗記できるものだ。
つまり、水に浮かんでいる物体の重さは、それが溢れ出させた水の重さに等しいというも
のだ。これは簡単な事のように聞こえる。だが、もしアルキメデスのように、金職人が、
王冠の金に、同や錫などの安物の金属の混ぜ物をしていないかどうか知る手立てを見つけ
なければならなかったとしたら、私たちはどうするだろう。この問題を何とか解決するた
めには、浮力の法則についての洞察が必要になるのである。
49:2008/12/07(日) 22:14:16 ID:jJMoUQTy
だからこそ、プラトンの「パイドロス」では、自分の発明した文字というものが、人類にとって
偉大なる進歩の一歩となるトト神が熱弁をふるっても、タムス王はそれに疑いをかけたのである。
それは人間を精神的に怠惰にするだけであり、精神の持つさまざまな力を撃滅させてしま
うだろうと王は答えたのだった。

百科事典に蓄積できる太陽的な知識は、非常に役だつものだ。だがそれは、宇宙、世界に
対して私たちが持つ、近しい直接的な触感、それとの実際のかかわり――遠い過去に生き
ていた私たちの祖先である、星を眺める者たちが最初に発達させた、こういう体験に変わ
るものとはなり得ないのである。

ここで私は、星を眺めていた私たちの祖先について最近出てきた仮説の中でも、最も興味
深いものへと繋がっていく。

第3章で私は、エジプト人はなぜスフィンクスを紀元前1万500年に建造し、大ピラミッドをその
8000年後に建造したのかについて、ロバート・ボーヴァルとグラハム・ハンコックが極めて精密な議
論を展開し、この分野に重要な一歩を記した事にふれた。「創世の守護神」(邦訳、翔泳社、
1996)は、コンピュータによる古代エジプトの空のシュミレーションに基づいた、注目すべ
き調査研究である。この本のエッセンスは、次の文章に表されている。「、、、、ギザの遺蹟、
過去、現在、そして未来を通してその上空に広がる星の配置、それにそれらを互いにつが
具役割をする古代の葬礼に関する文献は、すべて一つのメッセージの姿を見せているというの
が、私たちの仮説だ。このメッセージを解読しようとするに当たり、私たちがした事といえば、
ただエジプトのホルス王が天界の一員となる「旅」の軌跡をたどってみただけの事なのであ
る、、、。」

ボヴァルが紀元前2500年の星の配置を再現し、王の間の南側から出ている「通気孔」が、
当時はオリオン座のベルトの方向を指し、王妃の間から出ている同様の通気孔がシリウス星の
方向を指していたのを発見した事は既に見てきたとおりだ。エジプト人にとって、シリウス星
はイシス神を象徴し、オリオン座はオリシス神を表していた。これらの星座の配置を見て、大ピラミ
ッドは、なるほどエジプト学者がこれまで考えてきたとおり、この時代に建造されたとボーヴァ
ルは納得したのである。
50:2008/12/07(日) 22:15:40 ID:jJMoUQTy
また、地上の3つのピラミッドがオリオン座のベルトの3つ星の位置をそのまま映し出す
のは、一周に2万5920年かかる「歳差周期」の中で、オリオン座が南側の地平線に最
も近づく紀元前1万500年の時点だけだった。という事も思い出されるだろう。その後、
オリオン座はきわめてゆっくりと天界を上昇していくように見え、西暦2500年に最高
点に達すると、また下降を始める。

エジプト人はこの初期の時代を「ゼブ・デビ」(始めの時代)と呼び、一種の黄金時代、新
しい時代の始まりであると考えていた。サンティリャーナの言葉で言えば、それは「挽き臼」が平
和と豊穣を生み出していた時代だった。

むろんのこと、もし星座の位置が、ピラミッドが紀元前1万500年に建造された事を示
唆していれば、これは非常にわかりやすくなっていたことだろう。もしそうならば、スフィンク
スとピラミッド群は、ある天変地異を生き延びた、高度に発達した文明の人間、つまりアトランティス
人によって建造されたという、シュワレールの確信していた仮説を、かなりの部分、立証できる
からだ。

ボーヴァルとハンコックは、スフィンクスは紀元前1万500年に造られたと言う、相当説得力のある理
由があると指摘する。紀元前1万500年の春分の日の夜明け、スフィンクスの前足の間に立っ
ていると想像して欲しい。スフィンクスは東を向いており、夜明けの少し前、私たちが目にする
のは、獅子座が地平線から戻ってくるところだ。もちろん、ライオンを表す獅子座である。こ
こから直角に右を向くと、南向きとなり、空に見えるのは、オリオン座の姿であり、その
ベルトにある3つの星は、後年のピラミッドの配置をそのまま映し出しているのだ。それはま
るで、ピラミッドの建造者たちが私たちにメッセージを残し、大ピラミッドの建造時期を知らせてく
れているだけでなく、そのウラに隠された意味によって、彼らの祖先がいつスフィンクスを建造し
たのかを暗に示しているようでもある。南側の「通気孔」は、ピラミッドがいつ建造されたの
かを教え、オリオン座のベルトを映し出すピラミッド群の配置は、紀元前1万5000年、獅
子座の時代に私たちが注目するように仕向けているのだ。
51:2008/12/07(日) 22:17:52 ID:jJMoUQTy
しかし、これでもまだ、一番よくわからない疑問が残されている。もしそうだとしたら、
なぜエジプト人はスフィンクスを紀元前1万500年に建造し、ピラミッドをその8000年後に建
造したのか?

「創世の守護神」によると、その答えは、天文学にあるという。彼らは、ある重要な出来
事が天空で起こるのを、さらに8000年間待たなければならなかったということだ。そ
れが何かということについては、すぐ後に詳しく述べる。

さて、ボーヴァルとハンコックの仮説はかなりの議論を呼ぶものである事ははっきりしている。二
人の見解によると、最初の「神官」たちは、紀元前1万500年よりある程度前にエジプト
にやってきたが、彼らは歳差運動についてはよく知っており、紀元前1万500年の時点
にオリオン座が天空の最も低い位置に来ることも解っていた。東側を向いたスフィンクスは、こ
の時代の幕開けを印すための記念碑として建てられたのだ。

こういうと、私が第3章で述べた反対意見が出てくるだろう。古代の神官たちが、800
0年も先のことを計画し、かつその計画を壮麗華美に実行したと私たちは本気で信じるよ
う求められているのか?どうもこれは可能性が低いように思われる。

ボーヴァルとハンコックがこれを立証する試みの第一歩は、まず古代エジプト人の精神構造につい
ての基本的な事実から始まる。つまり、彼らはエジプトの地を、地上で天空と対を成すもの
と考えていた。そこに流れる天の川は、天のナイル川であり、エジプトは展開の再現された像
であったのだ。

それでは、スフィンクスを建造した神官たちと彼らに秘伝を受けたものたちは、基本的に一体何
を目的としていたのか。それは、シュワレール・ド・リュビックが、なぜあれほど古代エジプトの精
神に精通していたのかを理解させてくれるものでもある。つまり、不死の探求である。錬
金術師たちが、「賢者の石」を作り出そうとする試みと同じ探求の道なのだ。
52:2008/12/07(日) 22:18:45 ID:jJMoUQTy
「創世の守護神」の見解は、かなりの部分、「死者の書」やピラミッド・テキスト、あるいは「ドゥ
アウトにあるものについての書」など、エジプトの文献をそのよりどころとしている。こういっ
た文献は、星座の配置から私たちが推論できるものを、しばしばきわめて正確に教えてく
れる。「ドゥアウト」はふつう「天界」と訳されているが、ボーヴァルとハンコックは、これが天空のと
くていの領域、紀元前2500年に、オリオンとシリウスが天の川の「右岸」に見られた部分
を指しているとする、きわめて説得力のある議論を展開している。そして、それが重要な
意味を持っていたのは、シリウス星が夜明けとともに地平線に昇り、ナイル川の氾濫の季節が
音連れタことを知らせる夏至のときだけであった。

彼らの議論の次の重要な一歩は、「ゼプ・テビ」と呼ばれる、始めの時代、あるいは、より
正確に言うと、この、言わば「エジプト版エデンの園」があったとされる場所に関すること
だ。さまざまな文献から、これが大ピラミッド群のある地域、それにナイル・デルタのすぐ南側
のメンフィス、ヘリオポリスという古代都市であったことは明らかになっている。そこは、オリシス
とイシスがともに治めていた場所であったが、オリシスの兄であるセト(闇の神)がオリシスを殺
害し、園身体を切断すると、異国の地にそれを撒き散らしてしまったのだ。イシスはこれ
を再び一つにすることに成功し、オリシスノペニスを自分に挿入する事で、妊娠する事もできた。
この二人の息子がホルスであり、の地に乳の敵を討つのである(ちょうどハムレットのように、、、)。
イシスとオリシスの父であるゲプは、最初セトと彫るスにエジプトの国を半分ずつ与えた。だがそ
の後考えを変えて、すべてをホルスに与え、エジプトを統一したのだった。北エジプトと南エジプ
トの統一が起きたのは、歴史学者によると、メネス王の時代、紀元前3000年頃だという。
しかし、エジプトの神話を読むと、それがこれとは別のときに起きたという事をはっきりと
示唆しているのだ。エジプトの南部にあったオリシスの身体は、ナイル川に浮かべられ、南のアビド
スにあった墓地から「ソカールの地」、つまりロスタウ(ギザの古代の名)の地域、そして北の
ヘリオポスへと移される。これでやっと、オリシスはオリオン座にある天の天国の故郷へと旅立つ
事ができるのだった。そして、園旅立ちはギザからとなる。
53:2008/12/07(日) 22:19:31 ID:jJMoUQTy
これは一体いつ起きた事なのだろうか。著者の二人は、天文学の証拠が紀元前2500年
を示していると論じている。

ではどこに向かってなのか。ハンコックによれば、ソカールの地を描いたあるピラミッド壁画があ
り、そこに描かれた回廊や通路は、大ピラミッドのものを思わせるという。そしてもちろん、
ボーヴァルは、「オリオン・ミステリー」で、オリシスと同一視されていた王は、「通気孔」がオリオン座に
向けられていたときに、大ピラミッドの王の間から旅立っていった、と論じているのだ。


さてこれをじっくり考えてみよう。ボーヴァルとハンコックによれば、オリオン星(オリシス)が歳差周期
の天底にあった、紀元前1万500年に一つの周期が始まっている。そして、もしハンコックが
正しいとしたら、大洪水の生存者である彼らは、この天変地異が、一つの時代の終わり(そ
してもちろん、別の時代の幕開け)を告げたと考えた。この次の周期は、2万5920年
間続き、一周期の半分(オリオン座が再び下降し始める時点)は、西暦2460年に起き
る。

かなり現実離れはしているという事を充分意識しながらも、紀元前1万500年にスフィンクス
を建造した天文学者/神官が、やはりピラミッドの建設も計画し、その配置にオリオン座のベ
ルトを正確に反映させ、それを通して、いつかの未来の時代に重要なメッセージを伝えたかっ
たと仮定してみよう。明らかに問題となるのは、園検察がいつ行われるべきかという事だ。

もうひとつ、これはもうほとんど確実ではあるが、彼ら神官たちは歳差運動のことを知っ
ていたと仮定してみよう。つまり、春分/秋分は、いつも同じ星座を背景に起きるわけで
はなく、時計の針のように、星座から星座へと動いていき、一つの星座から次に行くのに
2200年かかるというのを知っていたという事だ(ややこしいことに、この時計の針は
逆方向に動く)。最も重要と考えられてきたのは、やはりエジプト暦の都市発に起きる春分で
ある。そして、「春分点」とは、天空の黄道帯で、その「針」がさしている正確な位置のこ
とを言う。紀元前一万500年には、これはしし座であった。
54:2008/12/07(日) 22:21:00 ID:jJMoUQTy
レベルの高い天文学者であった彼ら神官たちは、その時点から先の1000年ほどの間に
何が起こるのかもわかっていた。まず第一に、春分点は逆方向に動き、しし座からかに座、
そしてふたご座、おうし座と続き、私たちの時代には魚座となり、それがみずがめ座に入
ろうとしているところとなる。

この間、オリシスの身体、つまりオリオン座は、天空を上昇して行き、天の川の「右岸」を北
に向かって漂っていくように見える。

さて、いずれは、オリシスが天空での「ソカールの地」に到達する時点がやってくるはずだ。
この地とは、地上ではスフィンクスが建造されている場所である。そして、正しい式典を行う事
によって、オリシスは遂に天空の主としてふさわしい場所に収まる事ができるのだ。

では、遂に園式典が最高潮に達するとき、偉大な星の神殿を建設するときが来たとしよう。
園時点での春分点はどこにあるのだろうか。歳差時計の針は、正確にどこを指しているの
か。

紀元前3000年から2500年の間、春分点は天の川の「西岸」にあり、おうし座の牛
の頭の部分をゆっくりと通過していた。この「頭」は冷でス性ダンと呼ばれる星星によって
形作られており、その中でも二つの星が特に明るい。

天から地上に目を転じると、ナイル川、それにメンフィス、ヘリオポス、ロスタウ(ギザ)を擁する「ソ
カールの地」がめにはいる。

そして、もし今日の私たちが、冷でス性ダンの二つの明るい星が地上に反映される位置を見
ると、そこにやはり2つのピラミッドを見ることができる。ケオプス王の父であるスネフェル王が建設
した、ダシュールにある、俗に「屈折ピラミッド」と「赤ピラミッド」と呼ばれるものだ。
55:2008/12/11(木) 16:38:06 ID:qYKpzo6m
ボーヴァルとハンコックは、スネフェルがその場所にピラミッドを建設したのは、ある目的があってのこと
だと論じているが、これはきわめて妥当な考えといえるだろう。つまり、ある遠大な計画
の始まりを知らせるためなのだ。

では、オリシス(オリオン座)は、この時点ではどこにいるのか。もうほぼ「ソカールの地」
に到達しようというところであり、シリウス星(イシス)も、天空の同じ領域にある。

だが、紀元前1万500年にはこうではなかった。しし座に向かって、東、つまり、春分
点のある位置を向くと、オリオン座を見るためには、きっかり90どかいてんしなくてはなら
なかった。8000年後のこの時点で、その二つの星が一緒になってきたのだ。

これこそ、大ピラミッドがなぜスフィンクスの8000年後に建造されたかの理由である、とボーヴァ
ルとハンコックは言う。「天界」で、遂にその準備態勢が整ったのだ。

二人のこの説明を論破するのは不可能なように思える。古代エジプト人が歳差運動につい
てすべて知っており(今ではこれを疑うものはまずいないが、、、、)そしてオリオン座が彼
らにとって最も重要な星であったと思うのならば、春分点がオリオン座と同じ領域に入っ
た辞典こそが、おそらくエジプト史上最も重要な瞬間であったはずだという見方に異議を唱
える事は不可能である。

その後に続いたのは、ロスタウにピラミッド群を建造する事であり、その位置が、「始めの時代」
である紀元前1万500年をはっきりと指し示すようにすることだ。

そしてこんどは、王がオリシスをその本来の故郷に送り帰す儀式を執り行う事であり、それは
同時に、彼とその臣民を付し不滅の存在としてくれるのである。

この儀式は、シリウスが夜明けとともに地平線から昇るときに行われた。しかし、実際にそれ
は10週間前に始まっていた。シリウスは、70日間、地平線の下に隠れていたのだ(もちろ
ん、これは地軸が傾いているためである)。もちろん、園近くに位置するオリオン座―オリシス
も同じであった。
56:2008/12/11(木) 16:38:56 ID:qYKpzo6m
オリシスを「救う」儀式が毎年行われていたのはおそらく間違いないだろう。しかし、ナイル川の
氾濫を知らせる出来事である夏至、それも大ピラミッドの完成後に行われた儀式は、絶頂を極
めるものであった事だろう。

ホルス王(ケオプスが園役割を演じたとかんがえられる)は、父オリシスの生命をよみがえらせるた
びに出なくてはならなかった。太陽という姿で、ホルス王は太陽船に乗り、偉大なる川、天の
川を渡り、オリシスが幽閉されている東の地平線へと旅たたなくてはならなかった。園地上で
の追うという姿では、海に乗ってナイル船を渡り、ギザに旅して、スフィンクスの面前に立たなくて
はならなかったのだ。

ボーヴァルとハンコックは語る。

「オリシスの息子」として、彼は、イシスの子宮、つまりシリウス星から、夏至の夜明けに生まれ
出てこなくてはならなかった、、、。その瞬間、そしてその位置で、天の地平、そして地上の
「地平線」の両方で、ホルス王がロスタウの入り口に立つよう定められていたのである。地上の地
平線では、入り口を守っているライオンの像、偉大なるスフィンクスに彼は遭遇する。そして、
これと対を成す、天空の地平を守っているのは、一体何か?

答えはもちろん、しし座である。

ピラミッドテキストは、ホルスの地下世界へのたびの始まりは、偉大な儀式の70日前に起こる
と説明している。その25日後、太陽は既に「川」、つまり天の川を渡り、東のしし座のほ
うへと向かっている。そして45日後、つまり70日の期間の終わりに、太陽はししの前
足の間に来る。

地上では、王がナイル川の東岸に立ち、太陽の船(1954年に大ピラミッドの近くで発見され
た船だった可能性もある)で川を渡り、ダシュ―ルの2つのピラミッドを通り、スフィンクスの面前に
立つ。
57:2008/12/11(木) 16:40:40 ID:qYKpzo6m
文献によれば、この時点で、王は儀式的な試練に直面しなければならない。それは、モーツァル
トの「魔笛」に登場するフリーメーソンのようでもある。父を救うために地下世界に旅立つのに、
陸上か、あるいは水上の道筋かの二つの選択を与えられるのだ。陸の道とは、海岸神殿と
大ピラミッドを繋げている大規模な通路(その一部が現在も残っている)であると著者の二人
は考える。かつてそれは、石灰岩の石板の屋根が付けられており、天井には星が描かれて
いたという。

「水上の道」のほうは、まだ未発見だが、ナイル川の流れを利用して引き込まれた水で、常に
半分(あるいはそれ以上)満たされていた地下水路だったと二人は考えている(スフィンクスは、
大ピラミッドに繋がっている700メートルを越える長さのトンネルの上に建てられているとす
る、フランス人のエンジニア、ジャン・ケリセルを引用している)。

それから何が起きるかは、まったくの推測となる。ただ、その儀式が、オリオン座とシリウス
星が東の地平に再び登場する事で終わったことは間違いないだろう。ボーヴァルとハンコックは、
この儀式は来たエジプトと南エジプトの象徴的な統一、つまりは天と地の統一であると考える。
はっきりしているのは、神官たちが、これを、エジプト史の中で、「始めの時代」以降、最
も重要な催し事と見ていたことだ。

では、彼ら神官たちとは、一体誰だったのか?ボーヴァルとハンコックはこう書いている。

私たちが主張したいのは、「真剣で知性の高い男たち」、それに女たちが、有史以前のエジプ
トの舞台裏で活躍していたという事だ。そして、彼らが呼ばれていた多くの名前の一つが、
「ホルスに従うものたち」というものだったと提唱したい。また、その後何千年にもわたり、
数多くの世代を経ながらも、救世主の再来を信じるカルトのごとき厳しさで守ろうとした彼ら
の目的とは、ある遠大な宇宙的規模の青写真の完遂であった可能性があるとも提唱したい
と思う.
58:2008/12/11(木) 16:41:20 ID:qYKpzo6m
二人はさらに論を進め、現在残っている形では紀元前237年から57年の間に建造され
てはいるが、その一部はピラミッド時代までさかのぼるという、エドフの神殿について述べてい
る。その「建造文書」は、「始めの時代」までさかのぼる昔について語っており、当時の賢
者の語る言葉は、トト神によって文字に記録され、奇妙なほど現代的なだいの「原初の時代
の塚に関する詳細」という本にまとめられている。その中には、そこで世界が創造された
という「偉大なる原初の塚」についてふれてある。イオデン・エドワーズ教授は、この丘の上に
大ピラミッドが建てられたと考えている。

この建造文書によると、各神殿や塚は、すべて「7人の賢者たち」によって設計されたも
のであり、その中には「神の館」(大ピラミッドのことと考えられる)もあるが、これは、大
ピラミッドがスフィンクスと同じ時期に計画されていた(そしてひょっとすると建設作業の一部が行
われていた)とする、ボーヴァルの考えが正しい事を示しているようにも思える。7人の賢者
は、天変地異に伴う大洪水の生存者たちで、ある島からやってきたという。彼ら7人は、
ピラミッド・テキストなど、他の文献で「建造神」「目上の人たち」あるいは「ホルスに従う者たち」
(シェムス・ホル)などと呼ばれているのと同一の人物であるように思われる。ホルスに従うものた
ちは神ではなく、大規模な天変地異の後、世界を再建した人間であり、これに先立って神々
の時代があったのである。

つまり、「創世の守護神」の基本的な仮説はこういうことだ。私たちの知る古代エジプトは、
何らかの天変地異を生き延びた神官の一段によって実質的には想像されたのである。この
本は、「ハムレットの臼」や、ジェーン・B・セラーズの「古代エジプトの神々の死」の続編とも言える。
後者は、古代エジプト人は、やはり歳差運動についてよく知っていたという強力な議論を
展開している。しかし、「創世の守護神」は、数学と天文学による議論において、これらの
本よりもさらに進んでいる(それについては、ここではお粗末な概略だけを紹介できる紙
数しかない)。スフィンクスとピラミッド郡の天文学的な配置についての議論は、まさに力作そのも
のだ。ジェーン・セラーズが既に数字の「歳差暗号」について論じており、グラハム・ハンコックがかの
じょの研究成果を「神々の指紋」で要約している。しかし、ボーヴァルによるコンピュータ・シュミレー
ションは、これらをすべてさらに精度の高いレベルにまであげ、その結果、たとえば何千年と続
く神官の系譜という考えに疑いを持つものでさえも、数学的にはこれに反論の余地がない
ことを認めざるをえないほどなのだ。
59:2008/12/11(木) 16:41:56 ID:qYKpzo6m
著者の二人は、今ひとつ興味深い結論に達している。2人は、コンピュータに、紀元前1万50
0年には、春分点が一体どこにあったのかを訊ねたのだ。答えは次のようなものだった。「そ
れは、紀元前2500年の位置よりも、111・11度東の位置にあった。紀元前250
0年には、天の川の右岸に近い位置、おうし座とヒヤデス星団の頭の部分にあったが、その8
000年前には、しし座の後ろ足の真下にあった。」

もしも、これに相当する「地上の存在」があるとしたら、スフィンクスの後ろ足の地下に何か未
発見の秘密があることを暗示しているようには思えないだろうか。棺文書には、「封印され
たルもの、暗闇にあり。周りを日が囲むその物は、オリシスよりの流れを内包し、それはロスタウに
措かれたり」とある。スフィンクスの後ろ足にある地下室に置かれているというその「隠された
る物」とは、古代エジプト人に関する私たちの知識を根底から変えてしまうような「宝物」
であるという可能性はあるだろうか。エドガー・ケーシーは、20世紀が終わりに近づく頃、スフィ
ンクスの地下に「記録の殿堂」が発見されると予言した。ハンコックとボーヴァルは、スフィンクスに近づく
ことができるのは「正規のエジプト学者」たちだけが、彼らは今これを調査する事さえして
いないのではないかと推測している。

このため、無理からぬ事なのかもしれないが、「創世の守護神」は疑問符で終わる。という
のも、コの遠い過去の探求の裏にある真の疑問とは、ただひとつ、それは一体どういう意味
があるのか、ということだからだ。私たちが認識しなければならないのは、エジプト人の
歳差運動に関する暗号についてのきわめて正確な知識をもってしても、私たちは彼らの偉
業に関する最も単純な疑問に対する答えにさえ、少しも近づきはしないということだ。彼
らが一体どうやって200トンもの重さの石を持ち上げたのかという、これ以上単純なも
のはないという疑問さえもである、、、、。