★★問答無用でレス代行します234★★

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704 [´・ω・`] KD111100191186.ppp-bb.dion.ne.jp
スレのURL】http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1334507963/l50
【名前欄】 473
生命のエネルギーの広がり、愛にあふれた平穏な日常もあれば、
苦しみと対峙せず、生も愛も殺してしまった死んだ平穏な日常もある。
と、祖師の言葉だけがまねされ、指し示すすものが異なるとこのスレ的に気になる。

>>214 バカ女さん
というように思想の問題じゃないんです。思想は同じ?です。
異なるのはその前提となる、主観、経験の蓄積、感情の型ではないでしょうか。
人は経験の蓄積、主観ゆえに、思想だけではなく、思想以前のレベルで、
世界もしくは異なる経験を蓄積した異なる感情の型を持つ他者との葛藤があるようです。
(世でいうそりが合わない。)

経験する主体から、経験を蓄積する主体から自由にならないとこの嘆きは消えそうにありません。
その経験も思想が作ったといえなくもないですが、それは無意識的なコントロール不能のものであり、
またこうこうこういう思想だと明文化できる代物でもないでしょう。(生まれてからの経験の蓄積を全部明文化しますか?)
明文化できても、それを唱えるのが今までの主体では役に立ちそうにありません。

今の私の主体から認識される客体である世界、他者がすでに平穏でない。
はじめがこれではどうしようもない。
普通主体に気づくことは不可能です。思索は主体が思い描く世界を絶対の前提としてそこから始まるから。
気づくといいましても客体として主体に気づくわけではありません。
このあたりに宗教の実践があります。不自由だと知る人は自由であり、不自由だと知らない人は不自由である。パターンの中で生きる動物がそれを知らないように。