この度わたくしぴかぁ〜は新たな境地に至りましたので、お知らせ致します。
宿主の方は認知科学に転回してしまった為、ここで私主義を復興させませう。
3 :
考える名無しさん:03/09/05 08:43
いただきますよ
俺もまだまだだな...
>>2 ううむ。じゃあまず揚げ足取りになるが、「何かをいう」とはどういう意味でしょう?
意見を述べる、行動を指示する、感情を表現する、こういうポジティブな表明としては、
存在という言葉が無意味で有効でないことは十分分かります。
ええ、その点では私はソークラテスと酷似しているのでしょう。
彼が委曲を尽くして「いいたかった」のは、自分は何も分からない、
が、分からないということを自覚はしている、ということでした。
われわれは、自分の存在、他人の存在、社会、歴史、政治体制、人種、民族、
これらのカテゴリーに対して絶えず一般的で普遍的な仕方で関与することは――少なくとも出発点では――
できません。「私であること」これは取替えが効かないし、類型化しても無意味です。
けれども「私であること」このことを問うこと、自分の存在を自覚することは、普遍的に問うことができます。
「自分が何かわからない」この一見ナイーブに見える疑問が、「存在」の問題として普遍的な様相を見せること、
ここに存在論の不思議さがあります。
答えになっていませんが・・
それと存在論の言葉とは何でしょう?
7 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/09/05 09:08
乙〜!
@p vii,l 1-5
「ソシュールの一般言語学は個別言語の通時的変化を辿るものでもなければ、
その共時的分析・記述のみを目的とするものでもない。人間を他の動物から戴然と分ち、
これを一個の《文化的存在》たらしめているもの、すなわち人間の一切の文化的営為や
社会的諸制度の根底をなすものとして捉えたコトバの本質を探る事が目的とされるが故に、
これはひとり言語学にとどまらずすべての文化現象を対象とする人間科学にほかならぬ。
その意味で、ソシュールは言語学者であったというよりはむしろ現代的な意味での
文化学の創始者として位置づける方が正しいと言えるのである(*)。」
Ap vii, l 6-9
「歴史言語学(*1)の児として育ち、これを内から批判する事によって《コトバの原理論》
としての一般言語学理論を構築し、さらには神話・伝説とギリシア・ラテン詩を通じて
アナグラム研究へと歩を進めたソシュールは、よく「二人のソシュール(*2)」とか
「三人のソシュール」とも言われる事がある。しかしその出発点からいわば螺旋状の
上向・下向運動をくり返した思想の発展過程には、一貫して「認識主体と認識対象の
いずれに優位性を置くか」という古くて新しい哲学上の二律背反たる主観−客観の対立を、
コトバの本質への照射を通してのり超える事が目ざされていた。彼のシーニュ理論の
根底をなす《差異》の原理は主知主義と経験主義をともに批判し止揚する基盤となり、
これによって人間と世界の「意味づけ、意味づけられる相互性」という弁証法的認識に
到達したと言えるであろう。まさにソシュールは、「最初の哲学的行為は客体的世界の
手前にある生きられる世界に立ち戻ること」という意味での、真の哲学者でもあった。」
*1
19c当時、言語学者の仕事は歴史・比較言語学をすることでした。
これらは18c末にサンスクリット・ギリシャ・ラテン、ヨーロッパの大部分の言語
(ラング)の発生論的なつながりが発見されたことと19c初めに偉大な音韻法則が
発見された事から研究が飛躍的に開花しまし。その音韻法則っていうのはグリムの法則
(1822)のことで、日本にも証拠があるように時代が下るにしたがって音が「p→f→h」
の順に変化するっていうアレのことでし。
*2
「『講義』のソシュール」と、もう一人の詩学に没頭していた「アナグラムのソシュール」を
対立させた言い方でし。ソシュールの二重性を上手く言い当ててると思いまし。
『講義』の扱いについても言語学者としてのソシュールを継承したのはバンヴェニスト、
マルティネ、ヤーコブソン、チョムスキー、ラボフなど。言語学者の関心を超えて、
言語体系(ラング)と言語現象(ランガージュ)に関するものとした哲学として読む『講義』を
継承したのがラカン、レヴィ=ストロース、バルト、マノーニ、ブルデュー、デリダらだったりしまし。
Bp vii,l 1-10
「本書は、ソシュールに導かれてその偉大な思想のまわりを、これも螺旋状にまわりながら行きつ戻りつ
してきた著者が、十余年の間に何とか捉えることができの出来たソシュール像を出来得る限りトータルな
形で示したものである。およそ言語研究に限らず、学問は畢竟自己充足的な至上価値をは思われない。
マックス・ウェーバーの言に俟つまでもなく、学問とは、現実との緊張関係において責任倫理的に
生きようとする人間主体が、現実との的確な把握のために駆使する道具でなければならないはずである。
ところが、はっきりした一つの問題意識から出発すべき研究が、ともすれば私たちの日々の生活営為とは
無関係に、ただその客観化された業績を体系的・整合的に解釈できればよいというような「没意味的」
文献考証主義に陥ったり、こと言語に関してのみ言えば、音声学的微視症に陥ったり記号シンボル操作の
遊戯にふけったりする危険性がまったくないとは言い切れないのではあるまいか。それだけに、著者を
ソシュール研究に駈りたてた動機の一つは、人間の文化的営為の根底たるコトバがもつ不思議さというよりは、
むしろその名状し難い恐ろしさであるということだけは書きとめておきたい。」
超弱肉強食(((( ;゚Д゚)))ガクガク
over
筆者は丸山氏の現代文化批判の構えには多大の共感を覚えながらも、
彼の理論的基礎にはずっと疑問を抱きつづけてきた。
丸山記号学の一つの礎石は、ソシュールの言う「言語記号の恣意性」にあるが、
それにはほとんど説得性がない(詳しくは、拙書『恣意性の神話』参照)。
文学テクスト、儀礼的所作、衣裳等の記号論的分析や、
記号論の諸カテゴリーの吟味などが問題なのではない。
本書の眼目は、われわれ人間が蒙るざるを得ぬ「制約」としての文化を総体として対象化し、
この蒙られた制約を少なくとも自覚化するための確実な手立てを、この手に掴むことなのだ。
まず明言しておかなくてはならないが、筆者は、こうした企図を双手をあげて歓迎する。
同時に、丸山記号学のもたらしたいくつかの知見に敬意を払うものである。
現代文化の批判は文化産出の根もとを押え込む仕方で行われるべきであるし、
また本書の理論的中核とも言うべき第三章(「現前の記号学の解体」)でとりわけ鮮やかに描写された、
その「根もと」が、何ほどか真実に的中している点も確かだと思える。
しかしアホにはアホなりの哲学がある。
さあ、みんなもアホをアホと形容してそれで安心してしまうのではなしに、
アホとの対話を通じて真のアホ道を体得し、もって太平の道を拓かんと欲す。
14 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/09/05 09:59
そろそろ新たな境地語れやごらぁ〜
わかった。わしも恒例の手記をあとで書いて あげよう。
「私主義の誤謬、ソクラテスは生きている」
もう一度、「生命思想」にもどると、結果論であるが、
進化は、
第一定理 境界を想定し、個体として認識する。
を、思考したのです。
すなわち、人が第一定理の思想を指向するのは、
生命の進化の過程に思想があるということです。
人は人としても高度な知能を持つ前に、その根底には、
「生命思想」をもち生まれてくるのです。
生まれたばかりの人は、真っ白でなく、すでに
思想をもった存在なのです。「生命思想」をです。
自分の見た真実を伝えようと努力してるんであって、
他者との共同作業で、ある疎定事実Aの真理性を得ようとしてるわけじゃない。
多くの哲学家は(多くは知らないんだけど)、「私」はなにと思考したとき、
人の内面、自我を掘り下げつづけ、そして意識や心の壁にぶつかる。
しかしわしは人の内面でも、そこに進化という時間軸を掘り下げる必要が
あるのでは、「生命思想」を疑うべきでないかというところに到達したわけです。
成人は成長過程で様々な知識を身につける。そしてその中に自分なりの「思想」を確立し社会生活を起こる。
ことばそのものにも「思想」があるし、教育には当然「思想」があり、現代では科学思想、民主主義、資本主義、
などなど多くの思想の中で自我を確立する。
しかし、わしが考えたのは、人が生まれた時点でもっとも根本的な「思想」を身につけていると考えたのだ。
人が生まれた時点で獲得している特性、本能等があるが、この特性は実はその後人が成長過程で身につける
「思想」と同次元で語ることができるのではないか。
「私」とはなにか、と考えた場合には、この「生命思想」をも疑うべきであり、
境界も個体も進化の中で獲得した幻想であり、
「私」とは、境界をもちえず、「私」は「あなた」であり、「私」は「この世界」となるということです。
それとその展開は、わしの考えを「知覚」と言い換えたといえるんじゃない。
展開すれば当たり前でも、最初に展開したのはわしだから。
コロンブスの卵とはいいたくないけど。
「生命思想」論
・生命の進化そのものが、思想を宿している。それを「生命思想」と呼ぶ。
・人は生まれたときから、「生命思想」をもっている。
「私はあなたであり、私はこの世界であり、私は死なない。」
すげ天才やな
かいたんわしかいな
わし天才?
哲学とはソクラテスの亡霊である。
これはなぜ哲学は人間主義から抜けられないのかの答えである。
ソクラテスそのひとは賢人、信仰者であったかもしれないが、探求者ではなかった。
彼は倫理を追究したのであり、そこに神への道を目指し人を信じたのである。
しかし彼は裏切られた。その怨念はプラトン、アリストテレスを経て、いまも哲学としてさ迷っている。
29 :
考える名無しさん:03/09/05 12:05
怨念を抱いていたとしたら、それはソクラテスじゃなくて
プラトンだとおもうな。まず、第一にソクラテスを
殺された恨み、次に政治的に挫折した恨みとかさ。
ガリレオはしななければならなかったのか?
それはキリストの亡霊へのいけにえかも知れないが
ソクラテスの亡霊へのいけにえでもあった。
ソクラテスの死により哲学は人の理性を疑いつづけることを宿命ずけられなのである。
中世をへて探求者たちが再び本来の哲学である科学を勧めようとしたとき
ソクラテスの亡霊はガリレオといういけにえをのぞんだのである。
それが科学者が理性の呪縛から離れ探求をゆるされる第一条件であったのだ
32 :
考える名無しさん:03/09/05 12:35
ガリレオが死んだってどういう意味? 誰だって死ぬじゃない?
科学者たちはガリレオの死により、理性との決別の道を歩むことがゆるされた。
しかしソクラテスの亡霊は理性を疑うことやめない。
宗教を媒体とした理性への懐疑は、デカルトが示した、我思う故に我ありにより、人間原理主義の新たなるスローガンとなった。
現代においてもこの呪縛はとかれていない。
ソクラテスはまだ生きている。
哲学と言われるものに多くの人が興味が失ったとしても、
へーゲルをとうしてナチを産み、マルクスをとうして共産主義を産み、まだまだ多くの血を欲している。
理性などあるのか、問い続けることをしいているので
34 :
考える名無しさん:03/09/05 12:46
皆が神である。
誰だ?
36 :
考える名無しさん:03/09/05 12:48
神だ。今は御身の身体を借りている。
37 :
考える名無しさん:03/09/05 12:48
何故に?
38 :
考える名無しさん:03/09/05 12:49
簡単にいえば、哲学は悪玉で、科学は善玉ってことね。
カール・ポパーの考えに似てるのかな? でも、そんなに
哲学を悪玉視するのは、無理があると思うな。卑怯な例かも
しれんけど、原爆は科学の最高の結実のひとつじゃない?
39 :
考える名無しさん:03/09/05 12:49
皆の心の神を目覚ます為だ。
40 :
考える名無しさん:03/09/05 12:49
囚われるな。
41 :
考える名無しさん:03/09/05 12:50
既成概念に囚われるな。
また、お話ししましょう。落ちます。
科学は自然の一部としと成長しているから、
それ自体方向性をもたず、絶えず悲劇的なんだヨ
>1
いまさらだがせめて「ソフィーの世界」読んでから出直せ。
もはや手後れかもしれんが、それしか救済の道の可能性はない!
ではこのような空虚な人間原理主義からどのようにぬけだせばいいのだろうか
答えは簡単である。
自然にすればいいのである。普通に。
ソクラテスの亡霊は、恣意的な心の隙間に巣くうのである。
私とは何だろう、何のためにいきているのか、みなが幸福な社会制度とは?
これらは語られるべきでないなどとは言わないが、
自然であることを忘れてはいけない。
、すなわち心理を論理にすり替えごまかす行為は不自然であるということだ
たとえば、私は疑えないなどという戯言や、
資本主義の対極に共産主義があり、まるで選択されるべきことのようなことである。
理性、正義、善などソクラテスの亡霊はささやくのである。
ソクラテス以前の方が人はながく生きているのであり、自然に生きて来たのだ。
理性を提示しなければ、管理されなければ、人は堕落し、社会はみだれる。
笑わせるな!
猿がにもできることが出来ないソクラテス主義者は滅んでください。
などとは言わないが、もう少し人を信じて見てはいかがかな。といいたい、
というか、信じているわけなのだか。
なぜ人は排便するのだろう。これが問えないなど何の意味があるだろうか。
シェリングの「神さえ放棄しなければならない」という言葉についてですが、
この言葉は、それが発言されたところの、文脈の中に置き入れて考えて見なければ
なりません。シェリングは人間的自由というものを、人間的存在の根拠であるところの、
神からの独立の中に認めなければなりません。この独立はしかし、神の絶対的権威の
否定の上に成り立つものです。換言すれば、人間的自由は、人間的存在の根拠としての、
神の否定の上に成り立つという訳です。もしそうだとすれば、我々が本当の意味での、
自由を勝ち取るためには、我々の存在の根拠であるところの、神そのものさえ否定しなければ
ならないという主張になるわけです。
それから、無神論というのは、神の存在を否定する立場をいうのですが、
これはシェリングやハイデッガーに簡単に適用できるものではありません。
無神論は、「存在」の本質に関して何ら思惟しないのであり、その意味において、
「神は存在しない」と主張する権利すら有していないのです。
これは、何ら無神論という浅薄な思想とは関係ありません。
ハイデッガー自身は、「神について何も語っていないのに、どうして人は自分の
事を無神論者などと呼べるのだろう」と述べております。
私の言い方は、「事実存在」は
「本質存在」に先行するという、実存主義の主張のように受け取られ兼ねません。
しかし私の真意は、両者を同列に並べ、二種類の存在概念が存するということではなく、
ましてや、ここから二種類の認識概念が導かれるということではなく、「存在」という
概念は、シェリングが『自由論』の中で示しておりますように、より根源的な可能性を
秘めたものだということです。
哲学では、兎に角「超越論的」観点が要求されますが、これは、存在者と存在とを、
同列の次元で考えない事を言います。フッサールの場合は、超越論的自我は、自我以外の
存在者が、何らかの存在者としてそこで構成されるところの場のようなものを表しております。
ハイデッガーの場合は、この「場」を世界内存在として存在する現存在の構造として捉え、
そこから存在者の存在が先行的に了解される「そこ」Da として人間存在を分析する訳であります。
ですから、存在者の次元(これは結局、存在者の認識にかかわりますが)と、存在の次元とを、
二種類の異なるものとして把握する事は出来ないのです。だから私は、哲学と科学とは、根本的に
接点がないという趣旨の事を述べたわけです。勿論、この接点を見出す事は重要です。
しかし、それは哲学の課題というよりも、哲学の方法論を語ることになりましょう。
つまり、「超越論的」という概念を検討する事に繋がるでしょう。
sage
52 :
考える名無しさん:03/09/05 19:13
これ全部、チンポ太郎他のコピペだろ?
勝手にパクんなや! >pika9
53 :
考える名無しさん:03/09/05 19:24
パクリはいくない。ひと、惑わす。>pika9
安心してください、100パーパクリです。
55 :
考える名無しさん:03/09/05 19:31
さすが兄ちゃん、今日も余裕の煽り勝ちだね
『実存するかぎりの存在者と、たんに実存の根拠であるかぎりの存在者との区別』(『名著』p427)
自然哲学は、次のように存在者を区別する。
23-1.実存する存在者(実存)
23-2.実存の根底である存在者(根底)
この区別こそが、存在論的に自然と神との明確な区分に結びつく。
その時「精神」が立ち現れる。
精神とは二つの原理の分離不可能な統一である。それは神のうちに存在する。しかし、人間の精神の
それらは分離可能である。もし分離不可能なら、人間も神と同じく完全な存在者となってしまうからである。
そして、この分離可能性こそが、「善と悪への可能性」なのである。
(故に、分離不可能な神には悪はあり得ない)
パクリ王
ちゃんと引用元、引用者を指示しな
シェリング関係は吉田松陰スレだな
リクエストあるならどぞ。
.
>>1 A B C D E F G H I
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
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┃ ┣━┫ ┃ ┣━┫ ┣━┫ ┣━┫
┃ ┃ ┣━┫ ┃ ┣━┫ ┣━┫ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
死 神 神 神 神 神 神 神 神 神
ね
さすがにここまで露骨なパクリはマズイだろ
このスレタイ、1の文章で、引用元無しで勝手にコピペするのはマズイ。
知らない奴は、pika9が考えた文章だと明らかに勘違いする。
無用な争いを避けるためにも、引用元を記しなさい。 >pika9
全く関係無い話題ですけど、これだけやっても
ぴかぁ〜の引用に関しては誰も咎めませんね。
どうこうという訳では無いですが。
固定さん偏差値ランキング
(83)蝉寝る、OFW、
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜プロとアマの境界線
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(25)pika9、かい=ネオ・クラムボン
ぴかぁの周りはアフォばっかw
一番下かよ。そりゃ当然だけど。
パクリ表でも作ろうか?
蝉寝るという固定は誰だ?
75 :
考える名無しさん:03/09/05 20:41
良スレ上げ
77 :
考える名無しさん:03/09/05 20:43
ぴかぁ〜改め二重丸さん。
あなたはやはり、すごいわ。
ソクラテスの亡霊ですか、説得力がありました。
78 :
考える名無しさん:03/09/05 20:44
>>76 あなたもパクリにしても、
言ってることはよかった。
久しぶりにいいスレだった。
79 :
考える名無しさん:03/09/05 20:47
>>76 これからもこの問題について書き続けてください。
私にとっても最も興味がある分野ですので。
応援してます。
バレバレやん >P
>>78 正直なところ、
そういう反応は予想外でした。
82 :
考える名無しさん:03/09/05 20:50
>>81 それを世論としては受け取らないでくれ。
どちらかというと、俺も変わり者の部類だから。
>>79 書くのはどうか、パクリですから。
>>80 バレバレですが、最初の内は誰も気付きませんでしたね。
>>82 はい、分かりました。
でも、このスレにも意図はありますから大丈夫です。
続きを再開。
まあ、パクリはよくない。
引用元記せ。それなら良スレになる確率がある。
87 :
考える名無しさん:03/09/05 20:54
>蝉寝るという固定は誰だ?
精神科医の斉藤環。
88 :
考える名無しさん:03/09/05 20:56
>>87 へーへーへーへー・・・・・へー ・・20ヘー、いきますた。
>>86 分かった、ここまでのパクリ表を作成する。
>>87 ラカンセミナールかなと思っていたけど、そうなんだ。
今回のパクリ表 pika9
1 ぴかぁ〜
2 チーズ
5 レベル向上
6 ハイデガー
8-10 二酉
12 菅野盾樹
13 吉田松陰
17-24 ぴかぁ〜
48-56 吉田松陰
91 :
考える名無しさん:03/09/05 21:01
>一番下かよ。そりゃ当然だけど。
まだわかってないようだな、この馬鹿は
埋もれた良スレを発掘するという意味なら、このスレも
意義があるだろうけど、アドレスも無しにそれ(
>>90)じゃあ
そういう気もないみたいだね。
このスレの目的って何?
我生きたい故に我有り。
95 :
考える名無しさん:03/09/05 21:56
蝉寝るって十皮とかいう低脳だろ
lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll
llllllllllllllllllllllllll/ ̄ ̄ヽlllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll
lllllllllllllllllllll / ヽllllllllllllllllllllllllllllllllllllll
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 糞 そ あ .iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiii| ス こ き |iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| レ で ら |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| 終 め |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;
;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;| 了 .た |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:
;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;| だ ら |:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:
:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:ヽ、よ /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:
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廴ミノ
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クュ二二`Lっ) `==='
ライプニッツは個々のモナドの表出する世界を「凝縮された世界」と呼び、
これがニーチェに「遠近法」という表現を用いさせるきっかけとなったのですが、
ライプニッツは飽く迄、個々のモナドは、個々の観点から、一つの世界を表出する
ものだと考えています。個々のモナドに固有の世界が、互いに関係を持ち得るのは、
この一つの世界という概念を通じてのみであり、それは神の予定調和を通じてのみ、
可能となるのです。
ライプニッツの場合、神は絶対的なものであり、すべてのモナドとしての存在者の
存在を可能にするものです。「神=体系」という等式は前に述べたように危険ですが、
両者はある種の連関を有しております。
ハイデガーは、ライプニッツ−カントーショーペンハウアーーニーチェという4人の
ドイツ哲学者の間には一つの思想的系譜が成り立つと指摘しています。彼らの元では、
表象能力(認識能力)よりも、生命衝動(意志・意欲・欲求)が優位に立ちます。
ハイデガーは、この系譜を「ドイツ形而上学」と呼びます。
L ー K ー S − N
欲求 実践理性(物自体界) 意志としての世界 ディオニュソス的 (生命衝動)
表象 理論理性(現象界) 表象としての世界 アポロン的 (認識能力)
これは、「意欲こそ根源存在である」と見るシェリングや、「存在の本質を知と捉え、
その知とは意欲と同じものだ」とするヘーゲルにも受け継がれています。
プラトンに始まる伝統的な形而上学は、自然の外に「超自然的原理」を設定し、自然を
この原理によって形成される無機的な素材と見ます。ハイデガーは、この「(物質的自然観の)形而上学」
との対決のため、自然を生きたものとみる「ドイツ形而上学」の復権を企てています。
「観念論」「実在論」について
ハイデガーは、この両者には「認識論」「存在論」の立場から二通りの解釈があると
述べています。
認識論的立場・・・「観念論」は外界の実在を否定する立場で、「実在論」は外界の
実在を主張する立場。
存在論的立場・・・「観念論」は、存在者の存在を自我(精神)的なものと見、
「実在論」は、それを機械的、物質的なものと見る立場。
ハイデガーにとって、真の「観念論」「実在論」とは、「存在論的」なそれであり、『自由論』
で述べられているそれらも同様です。
故に、存在者の「自由」を肯定するには、(存在論的な)観念論でなければなりません。
20-1.内在説
a.神の中に悪の根拠を求める
b.故に悪を否定する
20-2.連関説(神と人間の随伴)
a-1.人間の行為を神の協働に局限する
a-2.a-1でない
b-1.神から来るものは全て積極的であり、悪も積極的なものである。故に
悪も善いものである
b-2.悪に積極的なものはない。善が多いか少ないかである(悪は存在しない)
b-3.神から来る積極的なものは自由であり、それ自体は善でも悪でもない
c-1.二元論的体系を求める
c-2.(一元論的に)悪なる根本存在者は、善なる根本存在者に依存しているとする
20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
a.神の側から意図されて流離された
b.神、人間の両者あずかり知らぬところで起こった
c.人間の側から意図されて流離した
101 :
考える名無しさん:03/09/05 23:03
引用先とリンクもしてくれ
しかし、以上の可能性は全て否定される。その理由。
20-1.内在説
a.神の内に悪が含まれると、完全なる存在者という概念と矛盾する。
b.自由の実在的概念が消滅してしまう。
20-2.連関説(神と人間の随伴)
a-1.人間が神に依存する以上、悪の行為は神も共同責任をもつ。
a-2.悪の実在性が否定されてしまう。
b-1.本来的に悪をなす基底の由来がどこにあるのか疑点に残る。
b-2.確かに、悪は善よりも不完全ではあるが、比較を離れて悪自体を考察
すれば完全性を持つ。その悪の完全性はどこから来るのか。
b-3.自由が悪へ向かいうる一能力なら、自由は神から独立した根拠を
持たねばならない。
c-1.理性とは統一の能力であるので、二元論は理性の絶望に行き着く。
c-2.悪なる根本存在者どうやって存在できるのか。
20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
a.人間を悪へと放逐した神に責任があることになる
b.誰が流離させたのか疑点が残る。
c.人間の咎の結果流離が起こるとすれば、その咎自体が悪である。
わたしは、およそ「納得」「理解」といったような知的快楽の領域には
真理、つまりわたしが目指す地平には辿りつく事ができないことを直観した。
解体と結合が、爆発と収縮が、無と有が並存する不可思議な領域。
可視的空間と不可視な空間とが重なり合い、くっ付いていると思っていたものが離れていて
澄んだ淀みの流れが果てもなく停滞し、まるで何ものも存在できないかのようにある
不思議な領域。
軋轢。肉欲や崇高さは、えてして倫理と齟齬を来しますよね。調停する
場合ばかりでなく、破綻するまで両者を貫き通す、その過程においてさ
え、自分を絡め、相手を絡める、一時の欺瞞があるはずです。そして、
どの原理にも隷属しない「恣意」が人間関係を形作るときにこそ、実践
を実感できる。あなたの恣意が、崇高さと肉欲と倫理とを欺瞞の糸でつ
なぐ様を、たしかに私は見てみたいと感じます。
理念的諸対象は、「歴史性の可能性」を保証するもの、換言すれば「歴史についての常に
相互主観的な意識」です。別の表現をすれば、歴史性は常にある「意味-歴史」であります。
そしてその「意味-歴史」としての歴史性は、言語・理念性・真理・生き生きした
現在にある人間存在、こうした諸問題に連関してきます。
実際、『序文』の中では、エクリチュールに関する問題が、それ以上
単純化できない differer の構造と関連して論じられています。
デリダ哲学の根本概念である「差異延期」は、ここに端緒があるんです。
106 :
考える名無しさん:03/09/05 23:08
先に引用元を明示しろや
数学的諸学科に対して「危機」を見ていたのですね。
例えば前世紀初頭の「数学基礎論の危機」。形式主義の数学やら直観主義の数学やら、
フレーゲ-ラッセル流の数学やら、数学は基本的に「理念的」でなければならないのに、
それがいろいろな分派を生んで一つの「理念」を目指すものではなくなってきている。
危機も起源も現象学者にとっての都合の良い理念の独善性を不可避的にどうしても
はらんでしまう。
避けられないからこそ成立した書物であり、またそういう理念全く抜きでかかれた
として想像するに読めたものではないんじゃないでしょうか。
108 :
考える名無しさん:03/09/05 23:15
先に引用元を明示しろや
どうしようもないクズだな >pika9
112 :
考える名無しさん:03/09/05 23:33
根本的にして唯一かつ真正なる問いというものが有って、その問い以外の
問いはカスに過ぎない。
残念だが俺はまだそれを語る力が無いのだが・・・
一先ずはこれで参考にできるな。
>>112 >根本的にして唯一かつ真正なる問い
何かしらの具体的問題という形をとっているんですか?
できれば、引用した時点でそのレスの終わりか最初につけてくれ。
まとめてリンクされても見にくいだろ。>111
どのレスがどのリンクかわからん
117 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/09/05 23:40
>pika9
結局、なにがしたいの?
ぴかぁ軍団は駄目人間ばっか!!
例えばカミュの「死」と似てなくも無いのですが、適切な仕方で
語ることが今のところ難しいのです。すみません。ノイズでした。
>>119 やりたいようにやっていいよ。
死などについて自由に語ってくれていいから、
ここはそれほど敷居が高いところでは無いし。
スレタイがマズイやろ。
どう見ても、パクリにしか見えん。
「埋もれた良スレの言葉をコピペしませんか?」
とかだったらいいんやけどな
>「私であること」これは取替えが効かないし、類型化しても無意味です。
>けれども「私であること」このことを問うこと、自分の存在を自覚することは、普遍的に問うことができます。
>「自分が何かわからない」この一見ナイーブに見える疑問が、「存在」の問題として普遍的な様相を見せること
★★★私がハイデガーだが何か質問ある?★★★
>「私」とはなにか、と考えた場合には、この「生命思想」をも疑うべきであり、
>境界も個体も進化の中で獲得した幻想であり、
>「私」とは、境界をもちえず、「私」は「あなた」であり、「私」は「この世界」となるということです。
>>それとその展開は、わしの考えを「知覚」と言い換えたといえるんじゃない。
>展開すれば当たり前でも、最初に展開したのはわしだから。
>コロンブスの卵とはいいたくないけど。
「生命思想」論
新私主義ではここから問題を掘り下げていけば、
かなり究極的な答えが出るに違いない。
>>122 >スレタイがマズイやろ。
>どう見ても、パクリにしか見えん。
埋もれた良スレの言葉をコピペでも構わんのだけど、
それだと各自バラバラになる確率が高そうなんで、
なるべく一個のモチーフに沿って進めた方が良いかなと。
「私」とは問題性なのです。
語るほど不正確になりそうなので・・・ハイデガーでは無いけど「問いを正しく
立てる」必要がありますので・・
128 :
考える名無しさん:03/09/06 00:09
あるという事の本質が欠如しているのです。
129 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/09/06 00:10
今ひとつわかりにく。
>シェリングは人間的自由というものを、人間的存在の根拠であるところの、
>神からの独立の中に認めなければなりません。この独立はしかし、神の絶対的権威の
>否定の上に成り立つものです。
>無神論というのは、神の存在を否定する立場をいうのですが、
>これはシェリングやハイデッガーに簡単に適用できるものではありません。
>無神論は、「存在」の本質に関して何ら思惟しないのであり、その意味において、
>「神は存在しない」と主張する権利すら有していないのです。
>ハイデッガー自身は、「神について何も語っていないのに、どうして人は自分の
>事を無神論者などと呼べるのだろう」と述べております。
◆◇吉田松陰シンガポールに着く◆◇
>「神」とは、その概念そのものが「私」の境界の想定に依存している。
>すなわち、「神」とは、「私」達の枠の中の問題。
>「神」は人が境界を想定する極地とも言える。特に科学技術が発達する前までが「神」のピークであった。
>そこで境界を規定しているのは、人類の力では及ばない力の存在である。
>例えば地震が起これば、その力に対して境界を想定し、それを「神の力」と呼んだ。
>この世界の不思議、たとえば人という構造物の製造に対して、人はその力に対して境界を想定し、
>それも「神の力」と呼んだ。
曖昧な境界想定記号化論
私主義を仮定するには、神という概念は不用だとする方針で一致している。
しかしこの事は同時に神に対する存在の否定には直ちにには結びつかない。
存在がどのような意味を保持するかという事の境界想定が出来る範囲のみに
存在の知を得る事は限られている上に、これらは想定の裁量に委ねられている。
132 :
考える名無しさん:03/09/06 00:14
行動とは、無限の可能性のなかのひとつではないでしょうか?
わたしがどのように自分を規定しようとも、それは本質にねざした
ものではありません。わたしは自由だからです。いかなる必然性も
ないのです。したがって、あるという事の本質が欠如しているのです。
133 :
考える名無しさん:03/09/06 00:15
>>112 その通りですね。今夜はおやすみなさい。
>>127 そっか、じゃあ問いが立てられるまで考えてもらいましょう。
>>128 あるという事の本質の欠如とは、
本質は何を指して言っているんですか?
>>130 吉田松陰スレの寅って現象学スレのポールやろ?
もしポール=初心者なら。
本人も呼んでみたらおもしろいんちゃう?
136 :
考える名無しさん:03/09/06 00:17
とにかくピカの生命思想論、って、もちろん思想というほどじゃないけど、
誰かのパクリだよ、元ネタは少なくとも誰かの。
認識とは、カオスの世界から境界を設けることである、、
ってのは誰かのパクリやな。誰やったか思いだせんが。
りんごには、りんごの本質がある訳ですが、わたしには
そのような本質がない、という意味です。
139 :
考える名無しさん:03/09/06 00:22
140 :
考える名無しさん:03/09/06 00:23
あっ、そうなん >139
偏差値表はデマやな
142 :
考える名無しさん:03/09/06 00:24
内視鏡的に胆道造影を行ってから,乳頭部からカテーテルを胆道内に挿入し
ドレナージする(ENBD).胆嚢結石などによる黄疸では,つづけて
腹腔鏡的胆嚢摘出術(ラパコレ)を行う.総胆管結石では,ENBDにつづけて
内視鏡的に乳頭拡張術(EPD)あるいは,乳頭切開(EST)を行って,開腹手術を
しないで総胆管の結石の対応を行う.ただし,すでに胃切除などを行い
内視鏡的に胆道へのアプローチが出来ない場合は,他の治療法を採用する.
>>132 自由についてですか。
引用元のスレでは寅が自由という概念の対称は
必然性だと言ってたような気がします。
>>135 初心者というのは、現象学スレの事?
でもかなり立場が違う。
>>136 生物か認知科学からヒントを得たのでは。
>>136
間違えた。
>>138 人間は後から作られるってわけやな。
人生論にはいいけど、今考えたらおかしな説やな
146 :
考える名無しさん:03/09/06 00:33
私はサルトルぽい138さんではないですよ(失礼)念のため。
ええと、人間と「私」を混同してません? 145さんがこの
書き込みを書きこむとき、145さんはじぶんの自由意志で書き
込んだのだと思いませんか? それともなにかの機械的な必然に
従って書きこんだとそう思われますか?
(限定された)自由意思やろうな >148
そのことを指して、本質がないと言ったのですが・・。
なんで?
自由意思があったらなんで本質がないん? >150
わたしは、112さんと近い立場と思っていたのですが、違いますか?
自由意志があれば、自分の未来に関して、Aと非Aのどちらの可能性
も選び得ます。りんごには、そういう可能性はありません。
近いようにも思いますが、実存や自由とは違うところで「問い」を
考えています。
>>152 112のいうことはよくわからん。
おれは君の
>>138の本質をサルトル的に受け取ったんだが、違うん?
156 :
◎ ◆lk7eU.5KwI :03/09/06 00:45
>>1 パソコンのタイピングですら理解不能、精神的稚拙な文章を
打つという行為の異常性は精神異常者とはまた違った理由が考えられる。
一つは視力において不満足であること。
パソコンのキーボードの文字や画面の文字が見えない、といった場合がこれに該当。
二つは
自分が打った文字を、書き込み確認画面で再確認しないことの精神的怠慢性。
日常の所為、事象が自己の欲求にそぐわない場合、または書き込み自体になれてしまって
注意力が散漫になったという可能性。
三つ。
不確定多数の一部であり、更にネット上であるという当方に対して発言することへの絶対的
安心感を理由にし、普段言えない自分の言語の発言に対する欲求を満たす。
これは誰にでも内在する欲求である、ことに貴方は正常人である。
統計資料が少なすぎることから断定はできないが、
「こういった場に書き込むことが出来る立場・状況である」ことを想定して、
十中八九3のケースであるとアナロジーができる。
ええと、短過ぎてよくわからないのですが?
>>156
こっから先は道徳の問題になるか、
もしくは片方ずつの批判になります。
という訳で休憩。
ええと、サルトルと似た言葉使いをしていてもサルトルの哲学と
は違うと思いますので、とりあえずサルトルのことは忘れて下さい。
>>161 ほうかい。
じゃあ、も少しあんたの話を聞かにゃーな
今日は、この辺でおちますので、いずれまた。
(しばらく来れないかも知れません)
なんや、これからちゅう時に退出かい。
あんた大した役者やがな
ぼちぼち再開やな。
>>100>>102 > 20-1.内在説
> a.神の中に悪の根拠を求める
> b.故に悪を否定する
> 20-1.内在説
> a.神の内に悪が含まれると、完全なる存在者という概念と矛盾する。
> b.自由の実在的概念が消滅してしまう。
しかし、以上の可能性は全て否定される。その理由。
> 20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
> a.神の側から意図されて流離された
> b.神、人間の両者あずかり知らぬところで起こった
> c.人間の側から意図されて流離した
> 20-3.流出説(諸事物の神からの流出)
> a.人間を悪へと放逐した神に責任があることになる
> b.誰が流離させたのか疑点が残る。
> c.人間の咎の結果流離が起こるとすれば、その咎自体が悪である。
この2つの流れで分かるように、実在する悪を神の実在の概念に求める事はできずに、
逆にこれをつき合わせる事で互いに矛盾を引き起こす。
神の概念を無視して、自由を求める新私主義とこの場合での存在論は神の存在意義を
一方のものの性質や属性に帰さない。その事によって次の段階への問いが生まれる。
糞スレ