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名無しさん@お腹いっぱい。:
ヘブライの館2 6F WAR研究室 ホロコーストの舞台裏〜教皇ピオ12世の沈黙〜 PART-1「アヘン戦争」と「日中戦争」の舞台裏
■■第1章:はじめに
●1933年、ヒトラーが政権を取ったとき…
「ドイツ政府元首ヒトラーが共産主義ならびに虚無主義とあくまで戦う決意の人であることを認め、喜びにたえない」(ローマ教皇ピオ11世)
■■第3章:ナチスとバチカンの間に結ばれた「政教条約」
●…1931年にローマで出された回勅『クワドラジェシモ・アンノ』で説かれた職能団体の有機体国家思想がドイツに大きな影響を与えていた。
このナチスばりの国家論に感銘を受けたのはカトリック教徒で、1932年6月に首相になったフランツ・フォン・パーペンだった。
これを機にカトリックとナチズムは接近し始め、1933年1月にヒトラーが首相になった背景には、このパーペンの助けがあった…。
そして2ヶ月後の3月に、バチカンの教皇ピオ11世は枢機卿会議で、ヒトラー政権を認める見解を表明。
同じ日に、ドイツのカトック政党「ドイツ中央党」は、悪名高い「授権法法案」に賛成し、ワイマール憲法は無力化。
●こうして、カトリック教徒という最大の支持層を獲得したナチスは、労働組合禁止(5月)、社会民主党の活動禁止(6月)、
ナチスを除く全政党の解散(6月)、新政党禁止令(7月)と驚くべきスピードで独裁を完成させる。
…この年の7月20日、ナチスとバチカンの間に歴史的な「政教条約(コンコルダート)」が結ばれた。
これにより、…そしてバチカンは、ナチス政権をドイツのために祝福するとともに、聖職者たちにナチス政権に
忠誠を誓うことを命じたのである。…
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名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 03:12:40 ID:S2tyojv5
●条約成立2日後の7月22日、ヒトラーはナチ党宛の書簡において、次のように述べている。
「バチカンが新しいドイツ(ナチ体制)と条約を結ぶということは、カトリック教会による国家社会主義国家(ナチ政権)の承認を意味する。…」
■■第6章:戦後、ナチスの海外逃亡を助けたバチカン組織
ナチスの南米亡命のルートは、16世紀に結成されたカトリック組織「イエズス会」が切り拓いたものだった。
大航海時代、スペイン軍とともにインディアス(新世界=アメリカ大陸)にたどり着いたイエズス会士たちは、
教化・洗脳による勢力浸透を実行し、原住民たちとともにキリスト教信仰を実践するためにコミューンを次々と建設していった。
●1947年5月のアメリカ国務省の機密情報報告によれば、…
「教皇庁は、出国者の非合法な動きに関与する唯一最大の機関である。この非合法な通行に教会が関与したことを正当化するには、
布教活動と称するだけでよい。カトリック信徒であることを示しさえすれば、…いかなる人間でも助けるというのが教皇庁の希望なのだ。」
「カトリック教会が力を持っている南米諸国については、教皇庁がそれら諸国の公館に圧力をかけた結果、元ナチであれ、…
喜んで入国を受け入れるようになった。実際問題として、…教皇庁は、ローマ駐在の南米諸国の領事と領事館の業務を行なっている。」
●イギリス『ガーディアン』紙のアルゼンチン通信員…ウキ・ゴーニは、ナチ残党とカトリック…の関係について次のように述べている。
「のちに教皇パウロ6世となったジョバニ・バッティスタ・モンティーニ他多くの枢機卿が、その影響力を行使して
ナチ残党の逃亡支援に道を開き、ときには病的なまでの反共姿勢によって、少なくともそれを道徳的に正当化した。
<中略>フーダルやシリのような司教・大司教が最終的に必要な事柄を進めた。ドラゴノヴィッチ、ハイネマン、デメーテルといった神父が、
パスポートの申請に署名した。…」
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名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 03:14:41 ID:S2tyojv5