元大坂城代 間部詮勝

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1鯖江藩 間部下総守
どうよ?
2ななしやねん:2003/01/18(土) 22:42 ID:F1i8HERs
あらよ!
3鯖江藩 間部下総守:2003/01/19(日) 14:54 ID:rp6PrOUQ
直弼は、日米修好通商条約が締結された翌日、違勅条約締結の責任を捉えて、老中堀田
正睦(備中守・下総佐倉藩主)を、また朝廷軽視の責めにより同松平忠固(伊賀守・信濃
上田藩主)の登城を差しとめ、ついで一片の命令書を以って罷免し、かわって、隠居し
ていた元老中太田入道道醇(資始。備後守・前遠江掛川藩主)、元老中松平乗全(和泉守
・三河西尾藩主)、元老中間部詮勝(下総守・越前鯖江藩)を再任した。
三名はいずれも老中経験者であったことから、留任の老中久世広周(大和守・下総関宿
藩主)、内藤信親(紀伊守・越後村上藩主)、脇坂安宅(淡路守・播磨竜野藩主)の上席と
され、太田が海防掛、松平が勝手掛、間部が朝廷対策を担当することになったのであ
る。一方、大廊下下之御部屋席の松平慶永(越前守・越前福井藩主)、松平(池田)慶徳
(相模守・因州鳥取藩主)、松平(蜂須賀)斉裕(阿波守・阿波徳島藩主)、松平(結城)慶
憲(兵部大輔・播磨明石藩主)、松平(結城)慶倫(三河守・美作津山藩主)は談合し、
一橋家当主一橋慶喜を将軍に推挙すべく、慶永が登城すべきことを決定し、慶永は、
前水戸藩主徳川斉昭、尾張藩主徳川慶勝、水戸藩主徳川慶篤とともに登城し、違勅、
ならびに将軍後継について大老・老中らに面詰すべく、決定したのである。
一方、直弼、太田、間部、松平、脇坂らは、御用部屋で談合し、斉昭らの登城に対して
の対抗策を談合し、怒らせる議論は直弼に任せ、収拾は老獪な太田と間部、脇坂が
担当するということで一致したのである。