1 :
雪ん子:
数年前の「利家とまつ」の大河ドラマのおかげで金沢の歴史本が多く出版され、
今は古本屋などにも多く出回り手軽に前田家の歴史を知ることができる。
・・・しかし、出版されている本は前田家や武家を扱ったものがほとんど。
加賀藩領の町民や農民がどのような暮らしをしていたのかは、
なかなか知ることができませんねえ。
そこで、支藩の大聖寺藩、富山藩も含む、
加賀藩領の暮らしを町人や農民をメインに語ってみましょう。
もちろん、武士の暮らしもOKです。
2 :
雪ん子:2009/05/07(木) 23:04:10 ID:p6uYfz2M
[ lo242.045.geragera.co.jp ] 例えば、ですね、
テレビで時代劇を観ていますと、前科者が腕に約1センチ幅の刺青を2本彫られていますね。
子供のころは日本全国、江戸時代は前科者に目印として刺青を入れると思ってたんですが違うんですね。
考えてみれば当然ですか。地方地方で法律は違うわけですもんね。
あとは江戸の場合は町人が刀剣を盗むと島流し程度ですが、
武士が刀剣を盗むと一発死罪だったそうですよ。
じゃあ、加賀藩の法律ってどうだったんですかね。かなり江戸と違ったんですかね。
あとはまあ、加賀藩領の町人、農民の食事ですとかライフスタイルなんかを知りたいですね。
江戸だと握り鮨や天ぷら、うなぎなどが良く語られますが。
詳しい人は書き込みをよろしく。
3 :
雪ん子:2009/05/08(金) 01:13:26 ID:f4EMWcoA
[ i125-202-144-122.s10.a016.ap.plala.or.jp ] 書き込みがないからといって「ああ、くわしい人がいないんだな。」なんて思わないでください。
あなたのレベルに合わせられる奇特人がいないだけですら。
4 :
雪ん子:2009/05/11(月) 03:31:32 ID:mO87JoW2
[ i58-95-168-62.s10.a017.ap.plala.or.jp ] 街並みとか在町とか研究されてるし結構その手の本出てないか?
とくに金沢は城下の地割が独特なので
武士階級以外となると、金沢の足軽は30〜90石とっていた。
足軽なのに他藩の下級武士とか貧乏旗本より高級取り。
長屋じゃなくて組屋敷に住んでいて農家と同じように茅葺き、
宅地面積は平足軽で50坪、組頭で120坪も与えられていた。
室生犀星の自伝小説には次の一文がある。
「僕の父は加賀藩の足軽組頭であって百五十石の禄高をとっていた。
足軽というものは平屋住六十坪の地割に住んでいたが父は総坪三百坪くらいを領していた。」
また「幼年時代」という小説には当時の暮らし振りが描写されているらしいので読んでみては。
5 :
雪ん子:2009/05/11(月) 03:38:51 ID:mO87JoW2
[ i58-95-168-62.s10.a017.ap.plala.or.jp ] また山間部はすごく豊かだったらしく明治入っての資料で白峰は勝山から米を数千石運んできていた。
これは当時のほぼ全人口に米が行き渡る量。おそらくみんな白米を食べていたんだろうね。
養蚕と焼畑で潤ってたらしい。
数カ月前の読売新聞に焼畑のことがちょろっと出ていた。
白水社から「白山麓の焼畑農耕」という本が出ているとか。
6 :
雪ん子:2009/05/11(月) 03:40:10 ID:RYxne0Ec
[ i125-202-17-64.s02.a026.ap.plala.or.jp ] >>4結果、加賀藩では全国的にも珍しい”町人階級じゃない階級による文化発展”が行われた。
(名物のほとんどは、比較的裕福な足軽たちのもの)
7 :
雪ん子:2009/05/11(月) 18:15:10 ID:mO87JoW2
[ i58-95-168-62.s10.a017.ap.plala.or.jp ] 金沢には総鎮守のお祭りがない。
その代わりに前田家に慶事があるときに藩の指示という形で祭りが行われた。
その様子は数日仕事を休み獅子舞や祇園囃子などの祭礼行列を行って藩主が見物したという。
のぼり、行灯、提灯などが出、各町の催し物がしるされたプログラムも発行されあたかも
盆と正月が一緒に来たようなにぎやかさだったため「盆正月」と呼ばれた。