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利根っこ:2012/05/12(土) 12:55:34 ID:1pg/UOuA
●歴史の勉強?
★北本市・市名の由来と経緯
中山道の宿場・鴻巣宿が1602年(慶長7年)に市宿新田(現在の鴻巣市)に移転し、以後、本(元)鴻巣村と呼ばれるようになった。
それが転じて本(元)宿村となる。明治時代に入り、同一郡内に本(元)宿村がもう一つ存在(現・さいたま市桜区南元宿)したため、北・本宿村に改められた。
1889年(明治22年)に周辺村との合併により中丸村となり、旧北本宿村は中丸村大字北本宿となった。
その後、1928年(昭和3年)に高崎線の本宿信号場が駅に昇格した際に、所在地が大字北本宿であることから北本宿駅となり、1943年(昭和18年)に中丸村と石戸村が合併した際に、両村の最寄り駅である北本宿駅の名を採り、北本宿村が成立した。
1959年(昭和34年)の町制施行と同時に自治体名を改称し、北本宿の宿を抜いて北本とした。旧中山道本宿交差点にある北本宿の碑や一部の地名辞典などで江戸時代の宿場町と記されるなど、北本という宿場があったかのような誤解が生じる要因となっている
★鴻巣宿
鴻巣宿(こうのすしゅく)は、江戸時代に整備され、栄えていた宿場町である。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡鴻巣宿。現在の埼玉県鴻巣市に当たる。
★移転・整備に始まる
慶長7年(1602年)まで鴻巣宿は現在の北本市(きたもと-し)に位置していたが、江戸幕府の宿駅整備に伴い、それまでの鴻巣宿より北の、市宿新田(ししゅく-しんでん)に移設された。
これにより、それまでの鴻巣宿は「元の鴻巣」との意から「本鴻巣村(もと-こうのす-むら。元鴻巣村とも記)」と表されるようになり、元の宿場であることから「本宿村(もとしゅく-むら。元宿村とも記)」と表されるようになった。
なお、「本宿村」は1879年(明治12年)に「北本宿村」に改称された後、1889年(明治22年)に中丸村大字北本宿となった。
1928年(昭和3年)に国鉄高崎線(旧・日本鉄道、現・JR東日本高崎線)の駅が開設された際に駅名として採用され、1943年(昭和18年)に成立した新村の村名となった。
北本宿村は1959年(昭和34年)の町制施行の際に北本町に改称された。
★移設理由、追分の地勢
宿場移設の理由として桶川宿に近すぎたためとの説があるが、上尾宿と桶川宿は桶川宿と移設前の鴻巣宿より近いにもかかわらず宿場の移設が行われなかった点から、これが要因であるとは言えない。同様に熊谷宿から遠すぎたためとする説も、宿駅整備以前に宿場として機能し、
千人同心街道が交差する交通の要衝である吹上村(吹上宿)を正規の宿場とすれば問題とならなかったことから、これも決定的な要因とは成り得ない。
鴻巣御殿の建設や大間村(現・鴻巣市大間)の古刹、勝願寺が徳川家の庇護を受け、鴻巣宿に移ったこと、岩附城下の市宿から天文20年(1551年)に移って、市宿新田として開発をしていた有力武将・小池長門守久宗や地元の有力者等が積極的に移設を推進したことなど、
いくつかの要因が重なって移設が行われたと見るべきである。なお、孫の隼人助は鴻巣御殿用地を寄進し、子孫は宿役人となった。
この宿場の移設によって、それまで市宿新田と呼ばれていた場所が鴻巣宿となった。
鴻巣宿は、中山道の他にも、松山(現・東松山市)に至る吉見道、箕田追分を経て忍藩の居城・忍城(現・行田市)に至る忍道、及び、私市(現・加須市)に向かう道との間で宿継ぎが行われ、中山道の宿場町の中では比較的大きなものであった。
鴻巣宿周辺にはいくつかの立場(たてば・休憩所)が存在した、久下(現・熊谷市)、箕田(現・鴻巣市)、東間(現・北本市)、本鴻巣(後に本宿と改称。現・北本市)に立場が置かれていた。
中でも鴻巣宿と熊谷宿の間にあり、千人同心街道との交差点に位置していた吹上(現・鴻巣市)は上述の忍城へと至る中継地点としての地の利もあり、間の宿として発展した。
※尚、現桶川市北部〜北本市〜鴻巣市南部一帯は鴻巣郷という地域であった。