【知名度ゼロ】スレも立たないマイナーな地名in札幌【その九】
1 :
なまら名無し:
2 :
牛鍋蝸牛:2003/05/28(水) 06:41 ID:SWh31O6c
[ N045134.ppp.dion.ne.jp ] スレ立ては牛鍋蝸牛です。
また、書くのを忘れていました(w
【その八】を使い切ってからレスしてください。
3 :
西創成:2003/05/28(水) 23:12 ID:jwcz6lLU
[ i099014.ap.plala.or.jp ] 牛鍋さん、スレたてお疲れ様でした。
このスレは、マイナーな市内各地の地名とそれにまつわる歴史や人物、出来事、風物などをあらゆる観点から探る良スレであります。
もし、通り掛かりでここにお越しの方は、時間がございましたら、
>>1をクリック願います。
ココは、私も含めてコテハンの方の多いスレでは御座いますが、どなたさまもぜひ御参加願います。
4 :
菊水上町:2003/05/28(水) 23:22 ID:S2MbsTms
[ h054.p184.iij4u.or.jp ] >>1さん、新スレ立てZであります。
当スレッドも9本目、総計2400レスとなりましたが
新たなる地名・名所のデビューはあるのでしょうか
東区熱いなあ・・
市電がフカーツし、苗穂駅近辺にかつてあったという
賑わいが戻ることを祈っております。
5 :
牛鍋蝸牛:2003/05/29(木) 00:24 ID:x5wO0hx2
[ N044102.ppp.dion.ne.jp ] ということで、またもや潰れた…。
後は頼む!
6 :
18丁目:2003/05/29(木) 07:40 ID:YNwS6wJE
[ p15186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >4菊水上町様
苗穂駅は東区ですが苗穂駅前の苗穂地区は残念ながら中央区なんですよ。
札幌駅も駅は北区で、今まで繁栄していた南口は中央区ですが、最近の北口の開発
で、だいぶ賑わい度の均衡が取れてきました。
苗穂駅は北側がJR苗穂工場のため、変わりようが無いですね。
でも、苗穂町〜本町〜伏古10条3丁目までの苗穂通の賑わい方がなんとも好きです。
7 :
新川番地:2003/05/29(木) 16:45 ID:sXpdIuRs
[ p6001-ipad02sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ] 牛鍋さん スレ立てお疲れさまです。えー乙ということでわたくしめ入手いたしました「70年のあゆみ」byいく代を複写したものを近日中に例のところに預けておきます。所有する充実感はないでしょうけど、資料的価値はそれなりにあると思いますよ。
8 :
牛鍋蝸牛:2003/05/29(木) 21:19 ID:x5wO0hx2
[ N044102.ppp.dion.ne.jp ] ここ2、3日ちょいと大人しくしていましたワシです。
さて、スレの終り頃のレスというのは、なんとなく顧みられない傾向があります。
ということで、前スレの#298の件についてちょっとお返事を…。
直接のお答えにはならないでしょうが、「市街化調整区域」というのはなかなか厄介なものらしいです。
ワシの聞いた所によると、その設定には、今後最低でも20年間は宅地にはならないということが前提になっていると言うことです。
「有明」、「川下」はいつ市街化調整区域になったかは知りませんが、その解除はちっとやそっとじゃ無理だと思います。
土地でもお持ちですか?
そして、#299のとろんとろんさん。
「Sタウン」ですね。
ホップ園だった?
それは初耳です。
かなり前にもレスしましたが、ワシの知っている「Sタウン」情報としては、「サッポロビール」と「清水建設」の共同プロジェクトであったということ。
最多販売価格帯が、当初はたしか5千万円台であったということ。
A〜EかF棟まであること。(後半は賃貸であった)
インショップベーカリーなんぞがあったこと。(今もあるのかな)
居住者の駐車場が地下にあること。
エレベーター一基に各フロア二世帯であること。
内装も豪勢で、玄関ホールには大理石なんぞを使っていること。
それと、実は他にも知っていることがありますが、治安上の問題もありここでは述べますまい…。
9 :
牛鍋蝸牛:2003/05/29(木) 21:47 ID:x5wO0hx2
[ N044102.ppp.dion.ne.jp ] では新スレのレスへと…。
>>6実はワシ、先日の実地調査で「苗穂」というは一体全体どこまでを指すのか、調べてきました。
…ま、ホントウのところはそんなに高尚な調査では無かったのですけど、古くからの会社が「苗穂支店」や、「苗穂営業所」なんていう名称を結構中心部に近い場所でも使っていることを見つけただけなのですが。
「中央中学校」の近く「北5東3」には、「札幌第一興産 苗穂営業所」さんなんてあります。
ここも「苗穂」なのでしょうかねぇ。
ただ、同社のHPの住所自体、ちょっと変なんだよね(w
ttp://www.phoenix-c.or.jp/stove/s-di1/その他、「苗穂」関係の報告、まださせて頂きます。
ちょっとお待ちください。
月末上旬は忙しいんだよね。
>>7新川番地さん。
サンキューです!
チャーシューだけじゃ悪いっすねぇ。
なにか考えとこうっと。
それと、以前に物議を醸しました「サムライ部落」に関連した、往年の札幌の「細民街」の記述を二つばかり偶然にも発見してしまいました。
あくまで札幌の歴史として、正面から向い合う必要性があると、いまだに感じておるワシなのです。
10 :
18丁目:2003/05/29(木) 22:10 ID:YNwS6wJE
[ p15186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>9牛鍋さん!
札幌第一興産は最近ずっと私も気になっていたのですよ。
あすこが苗穂営業所とな?ってな感じで。
私のような東区側より苗穂を見ているものにとって、北陸銀行の苗穂支店も、最初は
「へー、こんなところまで苗穂なの?」なんて思っていました。
11 :
ヘリトンボ:2003/05/30(金) 00:31 ID:lHIOO26M
[ j174225.ap.plala.or.jp ] 札幌厚生病院のところの踏み切りについてなんですが、
あの踏切の南側に道路を埋め立てたような謎の跡があるんですけれど、わかります?
そこだけ線路と平行に白い舗装がされているんですが、あれって一体何なのでしょうねぇ?
昔あの部分も線路だった、とかかな?
いや、それならもうとっくに舗装されて埋められているだろうしなぁ。
う〜む・・・。
12 :
菊水上町:2003/05/30(金) 00:55 ID:0I3be/TA
[ h054.p184.iij4u.or.jp ] >>6げー。苗穂エリア=東区という先入観で、あのあたりは全部東区だと
決めつけちゃってました。勘違い訂正どうもありがとうございます。
オレも苗穂町から伏古エリアへ向かっていくあの通りの
独特の風情(昭和臭?)がだいすきです。
13 :
なまら名無し:2003/05/30(金) 01:41 ID:XSzp4Ipk
[ cm134.cavy29.catvnet.ne.jp ] >>11むかーし、苗穂駅の南側に貨物ホームがあって、夜行列車なんかも
入線して発着していました。
多分その引込み線のあとでは?
いまマンションになってるあたりに専用ホームがありました。
14 :
西創成:2003/05/30(金) 01:55 ID:2Ac3ZTfo
[ i105118.ap.plala.or.jp ] >>7いく代・70年の歩みのこと気になってました。ご購入されたのですね。よかった。
元いく代敷地のそばで売っているのも、なんだか不思議です。
>>11白い線=北ガスの専用線跡でないでしょうか。
通称苗穂地区の特定ですが、
東8丁目通から東側で、大通から北5条までくらいでないだろうか。
15 :
なまら名無し:2003/05/30(金) 07:50 ID:pwqHFowQ
[ YahooBB219041108113.bbtec.net ] >14
思ったより薄いんで見つからなくて困りましたが、内容は重かったです。
でも、「札幌案内」復刻版2,500円も気になる。石川書店恐るべし・・・
すぐ裏手だけにこういうものも入りやすいのでしょうかね。
私、定期的にチェックにいく古本屋が増えました。
16 :
牛鍋蝸牛:2003/05/30(金) 12:45 ID:dLjG.Vxg
[ N044102.ppp.dion.ne.jp ]
17 :
なまら名無し:2003/05/30(金) 12:50 ID:0LsFsMQ6
[ p3184-ipad01sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>14北ガスの専用線で合ってるよ。
北ガスの工場の線路側を見ると、貨車から荷受する施設らしきものが
今だ残ってる。
18 :
牛鍋蝸牛:2003/05/30(金) 13:10 ID:dLjG.Vxg
[ N044102.ppp.dion.ne.jp ] >>14やっぱり、北ガスの引込み線跡ですか。
う〜ん、現物を見ていないのでなんとも言えませんが、確かに本線跡ならもうちょっとちゃんと工事するかな?
19 :
m:2003/05/30(金) 14:20 ID:iKVVry3U
[ p1018-ipad12sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>16の地図を見て思ったんですが(前から不思議には思った)東8丁目通り(って言うのかな?)
を北側から走って来ると、3条通りから12号線まで道が斜めになってますよね?
これって元々は8丁目がまっすぐ1条橋まで通ってたのか、アンダーパスになるまでは
7丁目に踏み切りがあったのか。。。?
わかる方いますか?物心ついたときにはもうアンダーパスはあったし、斜め通りにもなってたんですよね。
それとも、元から斜めだったの?
20 :
m:2003/05/30(金) 14:23 ID:iKVVry3U
[ p1018-ipad12sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ] アンダーパスが東7丁目通りかな?
21 :
なまら名無し:2003/05/30(金) 17:55 ID:a2WzgZFk
[ U235219.ppp.dion.ne.jp ] >>16懐かしい写真ですね。私は(今はなき)東北小学校出身ですから、
あの道は通学路でした。それにしてもあの家がまだ残っていたとは。。。
あの家は、喧嘩が強かった同級生の女の子が住んでいました。
>>19あの斜め通りの三角地帯はたしか公園でしたよ。良く野球をした記憶がある。
小学生のころは北陸銀行から金寿司の表玄関の方に行く細い道路がメインで、
あんな広い斜め通りはなかったようにおもいますが、公園つぶして作った
のでしょうかね。今度金寿司に行ったら大将に聞いてみます。
22 :
牛鍋蝸牛:2003/05/30(金) 21:48 ID:7foAbO1Q
[ U123082.ppp.dion.ne.jp ] >>19−21
いやぁ〜、いいっすねぇ〜。
まさにツボにはまったレスです。
「東八丁目通り」と「金寿司」。
一遍にお答えしましょう。
では、「さっぽろ文庫78 老舗と界隈」(平成8年)から「東七丁目商店街・金寿司」。
「サッポロファクトリーを過ぎ、永山武四郎の旧邸を右手に見て、北三条通りをさらに東に歩くと、東八丁目通り、別名「篠路通り」に出る。この通りに鋭く斜めに切り込むように交差する商店街がある。八丁目通りが整備される前の旧道沿いの商店街である。
苗穂駅周辺が活況をきわめた頃、苗穂駅から東七丁目あたりまで、北三条通りはびっしりと商店が軒を並べる一大商店街だった。その通りから南側に折れたこの通りは、かつて「苗穂の狸小路」と称されるほどにぎわった。札幌オリンピック冬期大会開催にあたり、丘珠空港に到着した選手団を真駒内の宿泊施設に運ぶバイパスとして八丁目通りが整備された時、立ち退きを拒んだ商店街がそのまま残った形になっている。
食料品店、食堂、理容店、居酒屋、文房具店、電気屋、米屋などが並ぶこの商店街の中の老舗の一つが「金寿司」である。この店の主人、今井巌さんは二代目にあたる。
「金寿司」の創業は昭和九年。もともとは北三条東十丁目にあったが、昭和二十三年、現在の場所に移転した。(略)」
23 :
牛鍋蝸牛:2003/05/30(金) 21:57 ID:7foAbO1Q
[ U123082.ppp.dion.ne.jp ]
24 :
21:2003/05/31(土) 00:37 ID:Tx5FmTWY
[ U127127.ppp.dion.ne.jp ] 蝸牛さん
うーん、違いますね。「ジャイ子さん」ってなんですか?
まあ、あんまり詳しくレスするのもやめましょう。いくら遙か昔のこととはいえ、
下手すると個人のプライバシーに触れますから。
それから、私は苗穂地区に住んでいたので、よく「サムライ部落」に”探検”しに
行きましたよ。私にとっての「サムライ部落」とは、東橋下流の左岸のことでしたが。
私は、大学までずっと札幌でしたが、いまは札幌を離れています。
いつも楽しく読ませていただいているだけですが、懐かしくなって思わず書き込んでしまいました。
明日も仕事なんで、お休みなさい。
25 :
18丁目:2003/05/31(土) 01:35 ID:URSy/WU6
[ p15186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] うわーん乗り遅れたよー。
引き込み線にもある思い出がありますし、金寿司は超有名だし、ああ長谷川歯科
バージョンの看板、他にもあるところ知っているんですが、悲しいかな酔って眠い
ので、お休みなさーい!
26 :
ヘリトンボ:2003/05/31(土) 01:58 ID:aDoBhJO2
[ i109233.ap.plala.or.jp ]
27 :
西創成:2003/05/31(土) 02:02 ID:geWTMTL2
[ i097252.ap.plala.or.jp ] >>16函館本線の線路は、札幌駅高架化による変更でしょうね。
ガス会社の専用線はその後もあったから、白線は、北ガス専用線ではないかと判断しました。
それと、赤白の樹脂製住所表示板は、ライポン以外の病院・医院の広告は、手書き、赤部分手塗りで、色々な病院の広告があります。
28 :
牛鍋蝸牛:2003/05/31(土) 09:50 ID:MJZuueEs
[ U123082.ppp.dion.ne.jp ]
29 :
なまら名無し:2003/05/31(土) 11:27 ID:UrfraiTQ
[ Tb3.V9585d3.rppp.jp ] はじめまして。東8丁目の斜め通りのお話が出ていましたので、
懐かしくなって書き込みしてみました。
6〜7年程前、斜め通りにあった会社で働いていました。
ハンコ屋さんとクリーニング屋さんに挟まれた、
ほんと長屋みたいなトコでした。床も斜めってたなあ
今は建物自体なくなって空き地になってしまいましたが…。
あのあたりの飲み屋さんもおもしろかったですよ。
それからヒマワリというパチンコ屋さんが出来たので、
同僚のコと会社帰りに行くようになり、はまってしまい
何万もすってしまったのも、なんとなくいい思い出です。
30 :
m:2003/05/31(土) 11:51 ID:8EAz19fo
[ p1180-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
31 :
m:2003/05/31(土) 11:54 ID:8EAz19fo
[ p1180-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ] あ、麻生の斜めは新琴似方面からの続きなんですね(^^ゞ
32 :
上白石町:2003/05/31(土) 14:16 ID:kXrFb59k
[ DSLa154.e5.eacc.dti.ne.jp ] 北ガス専用線は、最近まで残ってましたね。
たしか、去年だかおととし廃止になったような。
(電車の中から撤去作業中の様子を見た記憶があります。)
33 :
牛鍋蝸牛:2003/05/31(土) 21:57 ID:6Qga9nzM
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ]
34 :
牛鍋蝸牛:2003/05/31(土) 22:03 ID:6Qga9nzM
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ]
35 :
m:2003/05/31(土) 22:40 ID:2V0nPMpo
[ p1172-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ] 牛鍋さん、ありがとうございます。
過去ログはちゃんと読まないとダメですね。。。(^^ゞ
36 :
18丁目:2003/05/31(土) 22:54 ID:URSy/WU6
[ p15186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>29ななめ通りのあの辺りですか。
むかーし、仕事でその並びの、あるIT関連企業の社長にお世話になったことがあります。
所謂、元村銀座だったところですね。
考えてみれば「元町」という地名もどこからどこまでが範囲なのか分かりづらいものが
ありますね。(まあ、現在の正式な地区割は区のHPで見れますが)
むかーしむかーし、“街”に出るときは「市営バス元町北環状線 元町団地〜北18条駅」
それから地下鉄で「大通駅」という経路をよく使っていました。
ですが、少し歩いて「市営バス丘珠線」に乗車すると、バスのみで“街”に直接行けるのです。
そうすると、この斜め通りを通るのですが、この通り沿いにもちらほら「元町」の名称
を使用した会社が見受けられたものです。
線路の向こうの人たちや、川の向こうの人たち、果ては他の地区から引越ししてきた人たち
には、全然分らない地名かも知れません。
37 :
牛鍋蝸牛:2003/05/31(土) 23:12 ID:6Qga9nzM
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ] 昨日の道新に、「麻生の五差路」にそれぞれ愛称を付けようと地元商店街がキャンペーンをしていると出ていました。
そして、今日の道新には東区の鉄東中央商店街振興会と元町通り商店会が両会でつくる「斜め通り商店街」の愛称を「ファイターズ通り商店街」に変更することを決めた、という記事が…。
なにやら、近くに日ハムの屋内練習場と合宿所が出来るのでチームを応援する意味だとか。
「麻生」の方は「新琴似駅前通り」や「西五丁目通り」など、現在でもちゃんと意味の通じる名前がついています。
商店街が「愛称」を募る必要、あるいは権利があるのでしょうかねぇ?
喩えば、「アイアイ通り」とか、「ロマンティック通り」とかぁ?
止めて欲しいなぁ。
それに「斜め通り」が「ファイターズ通り」とは…。
ファイターズを商売に利用するのは勝手だけど、地元の大事な地名をないがしろにするなんて!
「ファイターズ」を名乗りたいなら「通り」をはずして、「ファイターズ商店街」にでもしておけばいい。
「通り」の名前は商店街のものではありません。
38 :
西創成:2003/06/01(日) 01:43 ID:mFxwM9IM
[ m176019.ap.plala.or.jp ] >>30国道230川沿アンダーパス北入り口の山側交差点を、藻岩山観光道路の方へ行き、BOMという店の裏を通って、藻南交番近くのセブンイレブンの交差点で国道230と合流する道ですね。
あれは、旧道だそうです。(国道230号のか、道々札幌虻田線のものか、私は知らんのですが)
>>36地下鉄南北線から東方面への乗り換え駅だった北12条駅のバス待合やバスレーンが、今では完全に跡すら無くなくてしまいました。
あと、東・白石方面への大通の市バスの拠点だったバスセンターも風前の灯みたいになってます。
現在、乗り入れ路線は、6路線(苗穂線・札苗線〈市バス〉、北光線・北光美香保線〈中央バス〉、米里線〈JR〉、根室行夜行〈北都交通〉と旅館送迎バス〈道南バス〉が1便)のみです。いずれも地下ホームのみ利用で、1階ホームは閉鎖中。北側バスレーンは、セイコーマートになっているという情況です。
39 :
西創成:2003/06/01(日) 02:02 ID:mFxwM9IM
[ m176019.ap.plala.or.jp ] >>37狸小路が、戦前一時期「すずらん小路」と名乗ってみたものの定着せず、
道道札幌支笏湖線は、国道に昇格すれど「支笏湖線」などと市民に呼ばれ、
平岸商店街が、やっきになって、平岸通といっても、市民は「平岸街道」といい、
札幌西武は、五番舘で、ラルズプラザは、金市館。
札幌ドームは、愛称が定着しなかった。
所詮、市民に親しみのある名称や、ピンとこない様な名前は、残らない。
麻生五差路や斜め通りの商店街が、勝手な名称を付けても、ほっとけば消えて無くなるかも。
40 :
なまら名無し:2003/06/01(日) 07:18 ID:2GoPjPp6
[ i222153.ap.plala.or.jp ] ロサンゼルス通り。
41 :
18丁目:2003/06/01(日) 11:17 ID:3Msjz7R.
[ p2065-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>39創成川通も我々は大部分が石狩街道といいますね。
>札幌西武は、五番舘で、ラルズプラザは、金市館
ははは、さすがにもう金市館は通じなくなりつつありますけどね、bigoffのことを
ずっと長崎屋と言っていましたし、ロビンソンもしばらくはヨークって言ってますた。
42 :
なまら名無し:2003/06/01(日) 11:31 ID:6BkL.g.k
[ 203.14.169.19 ] ・・・私もさすがに金市館は(名前は聴いたことがある)イメージがないけど
札幌西武を五番舘、ロビンソンをヨーク(松坂屋)、いまはなきBIgOffを
長崎屋といってましたね。(今もたまに言う)
五番舘ってかつておニャンコクラブの河合その子が屋上でライブをしてましたね。
(ちょうどデビューしたての頃)当時は凄かった・・・
43 :
なまら名無し:2003/06/01(日) 11:39 ID:ukWz17Bo
[ p6fa72e.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp ] あ〜、やっと追い付いた〜。
仕事で調べものしてて、たまたまヒットして思わず読み込んだのが【その壱】で、
7時過ぎに帰宅してから、ぶっ通しで読みました。
いや〜、久々に知的興奮を味わわせていただきました。
読み終わって「あれ?やけに眠いのはなぜ?」と思ったら午前3時過ぎでした。
仕事柄、地名には詳しいほうだと思っておりましたが、トンでもございませんでした。
ん〜、奥が深い。ナニかあれば突っ込みでも入れようかと思いながら読んでたんですが、
こりゃ出る幕ないっす。
44 :
軽川の畔:2003/06/01(日) 11:52 ID:.wdgzo9U
[ r008213.ap.plala.or.jp ] >>40ロサンゼルス通り。
北1条通の中でも円山公園から西野の手前あたりまでの起伏が、
ロサンゼルスの絵葉書とかにありそうな路面電車のある風景の
地形のイメージに似ているから…と聞いたことがアリマス
(誰が名づけたかは不明であるが、誰が呼んでいるかも不明である。)
45 :
18丁目:2003/06/01(日) 11:54 ID:3Msjz7R.
[ p2065-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
46 :
18丁目:2003/06/01(日) 12:43 ID:3Msjz7R.
[ p2065-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] あ、話いきなり飛びますが、エルムトンネル北側のただ1軒立退きしていなかった
「居酒屋きよた」。
昨日とおったら、無くなっていました。とうとうあの道路も拡張できますね。
47 :
西創成:2003/06/01(日) 13:09 ID:eKb.Xbbc
[ i253130.ap.plala.or.jp ] この前、夕方のHTBの番組の三越前の中継をみたら、テロップが「3丁目スクランブル交差点」となっていたのです。
三越は南1西3なんだけれど、あの交差点は「4丁目交差点」じゃないですかねえ。
それと
金市館やサンデパート、丸実デパート、中心街デパート、松阪屋札幌店、エイト、ミドリヤなんてゆうのは、もう消えて無くなったものですな。
ただ、金市舘という人、70代以上の方で多少いるようだと思う。
48 :
なまら名無し:2003/06/01(日) 13:23 ID:YO8aPuEI
[ EATcf-519p128.ppp15.odn.ne.jp ] >46
移転。
49 :
牛鍋蝸牛:2003/06/02(月) 22:02 ID:0kC41Qfk
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ] あ〜、ちょっと仕事で疲れました。
>>43さんも、お疲れ様でした。
ワシも時折、最初から読み直したいな、とも思ったりするのですが、なにしろ膨大なレスなので…。
え〜、実は「南沢―南の沢問題」で「さっぽろ藻岩郷土史 八垂別」という本を見つけました。
やはり、現在は「南沢」が"正式"らしいですが、「三の沢」のうち、なぜ「南沢」だけがそうなのかの答えは見当たりませんでした。
既出のように昭和16年の町名改正の時、「八垂別」から現在の呼称になったのは間違いないのですがねぇ…。
「苗穂」に関しても、まだまだ書きたいことがあります。
でも今日はかなりしんどいので、これにてオヤスミなさい。
50 :
西創成:2003/06/03(火) 00:13 ID:nxCMvUtk
[ o052147.ap.plala.or.jp ] >>43過去レス読みおわりましたか。
全部読むのはさすがに大変ですね。
>>42倉沢厚美が、ファンに刺されたのは、須貝ビル(南3西1・札劇)2階卓球場でした。
51 :
牛鍋蝸牛:2003/06/03(火) 23:03 ID:l85Z2m6g
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ] 今話題沸騰(?)の、「北ガス引込み線跡」及び「日本ハムファイターズ屋内練習場と合宿所の建設現場」の写真、撮ってきました。
ホント、撮る写真まで「マイナー」になってきたよ。
ただし、今日は眠いので明日アップします。
暫し待たれよ。
新川番地さん、例のもの確かに受け取りました。
ありがとうございます。
まだ詳しくは読んでいませんが、「魔術を弄する」件は触れられていなかったようですね(w
冊子というほうが適当かもしれないくらいの本ですが、「非売品」ということで1200円もするのでしょうか。
とりあえず「あびマス」には、今度、新川番地さんが来店の折にはチャーシュー付けるよう言っておきました。
マスター忘れる可能性あるので、その際は言ってやって下さい。
じゃ、皆さん、おやすみなさい。
52 :
ヘリトンボ:2003/06/04(水) 01:49 ID:1mQqdLIQ
[ n129143.ap.plala.or.jp ] >>45 18丁目さん
通りですか〜。
苗穂続きで来ているので東区で例えますが、
東苗穂の「三角点通」は、タクシーの運ちゃんたちは確実に「札苗線」と呼びます。
で、地元商店街的には「モエレ沼公園通り」と呼びたいらしく、
街灯に沢山「モエレ沼公園通り」と書かれた札が貼られています。
去年、通り名青看板の<三角点通>の上に
「ここはモエレ沼公園通りです」という看板が重なっていたことがありましたが、
それはすぐ取りやめになったそうです (どっちやねんという声があったのだろう) 。
53 :
ヘリトンボ:2003/06/04(水) 01:52 ID:1mQqdLIQ
[ n129143.ap.plala.or.jp ] 更に地名とは関係ない話になりますが、
「北5条手稲通」 (旧5号線) は、道々的には「道々124号線・宮の沢北1条線」と言います。
で、その道の南を走る「南19条宮の沢線」は、「北1条宮の沢通」という別名を持っています。
「宮の沢北1条線」と、「北1条宮の沢通」。
ややこしすぎですって^^
地名とは関係ないので、sage。
54 :
牛鍋蝸牛:2003/06/04(水) 16:22 ID:xOUEK6Q6
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ]
55 :
西創成:2003/06/05(木) 01:22 ID:M0WhrV8.
[ m174065.ap.plala.or.jp ] 前のスレで、「日発=日本発送電」についてのレスがあったのですが、今日は、電気会社のお話。
《配電会社の年表》
昭和13年 電力管理法、日本発送電株式会社法公布。
昭和14年 日本発送電株式会社設立。
昭和17年 各社統合して、日発札幌支店・北海道配電設立。
昭和23年 日発ほか9配電会社GHOより、過度経済力集中排除法の指定を受ける。
昭和25年 電気事業再編成令・公益事業令公布。
昭和26年 日発ほか9配電会社解散。北海道電力ほか9電力会社設立。
昭和28年 北電より、利尻郡町村電気利用組合に利尻島の部分譲渡される。(昭40北電に再譲渡)
前のスレで、出てきた苗穂の日発は、昭和2年運転開始の札幌火力発電所(札幌送電→日発支店)ではないかと思う。
56 :
西創成:2003/06/05(木) 01:57 ID:M0WhrV8.
[ m174065.ap.plala.or.jp ] それでついでに、昭和17年に「日発」と「北海道配電」に譲渡又は出資した電気事業者は次の通り。
「日発札幌支店」
北海水力電気、雨竜電力、大日本電力、札幌送電
「北海道配電」
羽幌電気、利尻水力電気、日高電燈、標津電燈、落合電気、鬼脇村、根室町、室蘭電燈、雄武水力電気、苫小牧町、苫前電気、秋田木材(稚内)、白老村、木古内外2村水力電気組合、小樽水力電気、羅臼水力電気。
(一部出資)北海水力電気、大日本電力、札幌送電
上に書いた会社団体名は、昭和17年当時。
57 :
牛鍋蝸牛:2003/06/05(木) 11:41 ID:ZT9nALkQ
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ] え〜っと、「苗穂、苗穂」といっていますが、JR北海道苗穂工場のような所謂「苗穂地区」が今までの調査主体でした。
「苗穂町」ってぇのもありますが、ここは未だに手付かずです。
あと、「東苗穂」なんてぇのもあります。
ここはまた別の機会に取上げることになるでしょうねぇ〜。
…な〜んて思っていたら、「東苗穂」に行かなければならない用事が出来てしまいました。
先ほどPC立ち上げたら、画面中央のやや下に黒い横線が走っておるのです…。
いや、走っているといっても、駆け足しているわけではなく、右からすーっと出て、途中で消えている(でも良く見るとうっすら白く見える)のです。
ここで実に耳寄りな情報を…。
今は無き、「YESそうご電器」から電気製品を御買い上げになって、別料金をお支払いの上「YES・長期保証」を付けられた方いらっしゃるでしょう?
すでに「そうご電器」は無く、「この契約あぽ〜んかよ!」と泣く泣くこの保証を諦めた人、いらっしゃると思いますが、実は「東苗穂」に、この「YES・長期保証」を引き継いで修理を請け負ってくれるありがたい会社(ま、保証期間は保証するのが当たり前だけど)があるのです。
ワシのPC(VAIO)は「YES」で2年半ほど前に購入しましたので、3年の保障期間内のため、近々ここ「アールエス・ネットサービス」様へ持ち込み修理をお願いすることにしました。
でも、ワシのPC、去年の冬にもモニターいかれて、無償でLCDパネル交換してもらったばかりなんだよね。
酷使しすぎか?
以上、"生きた東苗穂情報"でした。
追伸。
修理期間中はレスはちょっと難しくなりますが、ヨロシクお願いします。
予定としては来週の月曜日くらいからです。
58 :
牛鍋蝸牛:2003/06/06(金) 07:46 ID:goLv3oCA
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ] 「苗穂」からはちょっと外れますが、気になったので調べました、「日本発送電株式会社」。
特需に沸いた第一次世界大戦後、過剰設備に陥った民間の電力会社間の過当競争が激化し、「電力事業の統合」が電力業界では課題になった。
しかし、発電協会、東京商工会議所、日本商工会議所など民間の団体の反対にもかかわらず、満州事変以来発言力を強めた軍部と新閣僚により、国家による電力事業の統合が行われることになった。
これが「電力管理法」と「日本発送電株式会社法」であり、全国の各発電会社は設備を現物供出の形で取上げられ、吸収された。
ところが国家統制により効率的に行われるはずだった「日発」の電力事業は、官営管理のまずさとその後の渇水、火力発電用石炭の手当ての失敗により深刻な電力不足をもたらした。
昭和17年、政府は配電事業の国家管理にも乗り出し、国家総動員法を適用して国会に上程せずに実施、全国を9分割して9つの配電会社を作り、電力の民営時代は終わった。
これが
>>55の、
「日発札幌支店・北海道配電設立」てわけですな。
59 :
牛鍋蝸牛:2003/06/06(金) 09:22 ID:goLv3oCA
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ]
60 :
駅前`03:2003/06/06(金) 21:10 ID:z61P5j4I
[ YahooBB219168196077.bbtec.net ] 初書き込みです。どうも。
あまり関係ないかもしれないけど、
苗穂には松前藩の時代に
豊平川をのぼるサケを取る番屋があり、
和人は「ナエボ場所」と呼んでいたそうです。
61 :
牛鍋蝸牛:2003/06/06(金) 21:43 ID:goLv3oCA
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ] あちこちはなしがとんで申し訳ありませんが、
>>30および
>>33で出ました、「御幸通り」に関して新たな資料を発見しました。
既出のように、明治天皇が北海道開拓の視察として来道した際に立ち寄られたことを記念して、この道は「御幸通り」と名付けられたと認識しておったのですが、どうやら実際に命名されたのはず〜〜っと、後年のことらしいのです。
よく紹介しております、「さっぽろの昔話 大正編上」の「遊園地、山鼻 雄大な軍艦岬の景」にその記述はあったのでした。
「石山道路、又の名を馬鉄通りを、更に山鼻の人達はミユキ道路と改めたいといっているが、由来はいうまでもない。明治十四年九月の一日明治大帝が本道御巡幸のみぎり、真駒内種畜場へ臨御遊ばされた。往路は豊平、平岸を御通りになったがその御還りの際、親しく山鼻屯田兵村の耕作の模様を御視察になるという。屯田兵村にとってはこの上もない有難き思召しであったので、にわかに石山から山鼻へ越える豊平川には仮橋を設け、新道路を開いた。
そうして今の山鼻小学校へ大帝を御迎え申した。行啓道路に在る『御声がかりの柏』というのは、即ちその際、大帝から御ほめの御言葉があり、かつ木の名について御下問があったというので、今に記念の名木となっているのだが、その節御通りの御道筋だけが、名もなく、人々の記憶にも留まらないようでは遺憾であるからというので、近頃『御幸道路』に改めようじゃないかという事になっているそうだ」
この文章が書かれたのは昭和2年から10年の間ですから、「御幸通り」と命名されたのは明治天皇が実際に来道してから50年程経ってからということになりますね。
>>33で、自分で書いておいて不審に思っておったのですが、
「これを記念して昭和十一年(1936)に藻岩村では石山通の南三十三条西十丁目の三差路に元北大総長、男爵佐藤昌介の揮毫による明治大帝御巡幸之碑を建立した」の謎が解けましたです。
で、書き込もうとしたら
>>60駅前'03さんからのレス。
いらっしゃい!
62 :
北野平:2003/06/07(土) 09:03 ID:9vQISy82
[ K137147.ppp.dion.ne.jp ] はじめまして、「北野平(きたのだいら)」です。清田区北野出身、今はわけあって、札幌を離れています。嵐のないこの良スレをみて、札幌を懐かしく思っています。
ま、最近北野通-清田通交差点を中心にずいぶんお店が増えて、賑わってきている割に、地名的には大したネタのない北野ですが、ちょこっと、小ネタを。
北野地区の地形に合わせてか、小学校の名称が「北野」、「北野台」、「北野平」となっています。「北野台」は北野の中央を流れる厚別川から平岡寄りの高台、「北野平」は厚別川上流側(清田寄り)のおそらく川の流れで低くなった土地にあることから、そう名称がついたのだと、勝手に思っているのですがいかがでしょうか?。
あと「北野台」の校区内にある町内会に「八望台」なんていう小洒落た名前のところもあります。北野通を平岡方面に行ったところがそうなのですが、確かに眺めはいいですね。
「苗穂」のお話の途中に邪魔して、すみませんでした。
63 :
ひんかも:2003/06/07(土) 15:33 ID:VKMXR.OE
[ ab219.ade.ttcn.ne.jp ] >>55 >>56 >>58西創成さん、牛鍋蝸牛さん、う〜むなるほどですな。
日発のナゾ(ナゾというべきなのか、無精で調べきっていなかったのかヨクわかりませんガ)
がわかりかけてきました、ありがとうございました、それとご苦労様でした。
苗穂の四方山話が結構な盛り上がりを見せつつこのごろですね。
ひんかもはというと、再度丘珠のことを調査中ですが、なかなか手元に資料がないということもあり
難儀しています。
土地の問題と伏古川に関することを、記憶と拙い情報を元に調べています。
実家のあるあたりに伏古川の伏流水があるとオヤジから昔聞いた記憶あり。
そこで、どのあたりに流れていたのか航空写真などを見ながらその跡を探しているわけで。
というのも、札幌村史に「無名川」という記述があり、「それがもしかしたらそうなのか」
とわけもなくチェックしてみたくなったりしているようで。
当然ながら今は影も形もない状態。ま、伏古川そのものも埋め立てられたり暗渠になって
しまっているので、現在、「ここに川があった」と言ったってなかなか信じられないのと
同じでありんす。
北丘珠、モエレ沼方面に向かっている2車線の道路のあたりは一面のたまねぎ畑だったのに
今じゃカンペキな住宅地と化していますし・・・時代の流れは早いですな。
すんません、今日はちょと戯言でした。
最近ROMってばかりなので、たまにはカキコしようかと思ったのが間違いだったりして。
>>62 北野平さん、ようこそ、管理人でもないひんかもが歓迎いたします(w
私もわけあって(訳などナイナイ)東京在住です。スレ違いだけど「あ〜札幌帰りてぇ」
と言いたくなります。特にこのようなBBSを見つけたから、尚のことです。
64 :
元村の村民:2003/06/07(土) 16:54 ID:4vE2/N76
[ N019159.ppp.dion.ne.jp ] はじめまして。
>>63>伏古川に関することを、記憶と拙い情報を元に調べています。
>実家のあるあたりに伏古川の伏流水があるとオヤジから昔聞いた記憶あり。
>そこで、どのあたりに流れていたのか
明治29年の陸地測量部の地図や、道庁切図にはかつての姿が記載されています。
また、札幌の川については榊原正文氏の
「データーベース アイヌ語地名」の2と3が詳細です。
65 :
新住人:2003/06/08(日) 19:36 ID:lazba.GE
[ pl481.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ] 地名は伏古なのに川の名前はなぜ伏籠川なんだろう?
66 :
元村の村民:2003/06/08(日) 21:00 ID:gFQFT4VQ
[ N020065.ppp.dion.ne.jp ] >>65明治29年の地図では、「伏戸札幌川」になっています。
大正5年の地図では、「伏籠札幌川」となってます。
昭和25年の地図では、「伏籠川」となっています。
なお、昭和25年の地図では、現在の伏古には「札幌村」と記載され、
人家はほとんどありません。また、伏籠川の西側は「元村」と記載されています。
昭和50年の地図では、「伏籠川」であり、伏古地名が記載されて人家もあり、
「元村」が「元町」となっています。
以上のことから、「伏古」は以外と新しい地名のようです。これぐらいしか、
わかりません。
わたくしは、「元村」が大好きで、「元町」と聞くと違和感があります。
67 :
匿名ですが:2003/06/08(日) 22:10 ID:FjsMrHvo
[ zaqd37ca442.zaq.ne.jp ] >>64-66伏古
堀淳一氏によると、伏古川はもともと豊平川の流路であり、
“古い”“札幌の”川という意味でフシコサッポロ川と呼ばれていたと。
そのうちサッポロが省略されて伏古川になったと。
文字を持たないアイヌ語に和文をあてはめたので、漢字の変遷に大きな意味合いはないらしい。
大正時代はかなり上流まで水が流れていたらしい。
出展は彼の著書だが、読んだのが30年近く前なので具体的な書名はいずれ
68 :
牛鍋蝸牛:2003/06/08(日) 22:33 ID:QTzmLqF6
[ N044179.ppp.dion.ne.jp ] 北野平さん、こんばんは。
「北野」、「北野台」、「北野平」…。
次が「北野平林小学校」とかだったらオモチロイ。
「たいらばやしかひらりんか、いちはちじゅうのもくもく、ひとつとやっつにとうきっき…」なんちゃって。
あ、訳わかんなくってすみません。
古典落語好きな方はお分かりでしょうが。
元村の村民さん、初めまして。
どうやら、ワシと同じ「地図で見る札幌の変遷」(財団法人日本地図センター)をお持ちのようですね。
(そう言えば、遥さんもこの地図セットを持ってらっしゃるはずですが、最近お見限りで淋しい…)
で、「伏籠川」と「伏古」ですよね。
今、ちょっと調べて書こうと思ったら、
>>67匿名ですがさんからレスがありました。
(ま、ワシも"仮名"でお願いしていますがw)
誠に僭越ではありますが、補足をさせて頂きます。
「東区今昔」(昭和54年1月「広報さっぽろ東区版」掲載)には次のような記述が…。
「時代の流れとともに 伏古川 <上> かつては豊平川の本流」
「伏古川の原名は、アイヌ語の「フシコ・サッポロ・ベツ」といい、音訳によっては、伏籠川、藤古川などとも書かれた。古い札幌川という意味で、かつてはその名のとおり、伏古川は豊平川本流の下流部分として流れ、肥よくな沖積地帯をつくりあげた。現在の元町や丘珠などのタマネギ畑一帯は、沖積土によっておおわれている。
今から約百七十五年前、いくつかの洪水重ね、豊平川の本流は厚別川、野津幌川と合わせ、対雁の方に流れを変えた、そして、伏古川も、豊平川扇状地の扇端からわき出る水がたまった池「メム」を水源として北へ流れるようになった」
これによると、呼び名はゆうにおよばず、「伏籠川」の流れ自体も割と新しいようですねぇ。
そうそう、表記では「伏篭川」という書き方をしている場合もありますなぁ…。
69 :
元村の村民:2003/06/08(日) 22:45 ID:0wanZXHs
[ N019084.ppp.dion.ne.jp ] >>67>堀淳一氏によると、伏古川はもともと豊平川の流路であり、
>“古い”“札幌の”川という意味でフシコサッポロ川と呼ばれていたと。
そうですね、確か「遠山の金さんの」の父親の記録で、大水害により現在の豊平川
の流れができたことが年代までわかっていますね。これは有名なことで、色々な書籍
に記載されていますね。
札幌ファクトリー近くでの低地や、道路の整列していないことからかつての川の
流れが推定できます。
また、「札幌沿革史」には、札幌農学校演舞場の後ろに豊平川の昔の川跡が僅かな
凹みになって残っているとの記載もあります。
このように伏籠川の記録は多量にあり、誰もが知っていることです。
でも、川の名としては「伏古川」は一度も使用されていないのではと思うのですが。
70 :
元村の村民:2003/06/08(日) 23:03 ID:BfauqN/2
[ K097210.ppp.dion.ne.jp ] 牛鍋蝸牛 さん こんばんは。
ゆっくりと、書いて、アップしたところ、68があり、慌ててしまいました。
>どうやら、ワシと同じ「地図で見る札幌の変遷」(財団法人日本地図センター)をお持ちのようですね。
そうです。ただ、明治の陸測図は、以前から持っていました。また、道庁切図も重宝しています。
江戸期の地図は、北大の図書館蔵のを写真撮影して検討しています。
シーボルトが持ち出そうとして失敗した「蝦夷全図」は驚く程素晴らしい地図です。
松浦武四郎の地図は、いつも眺めています。
また、道立図書館蔵の物の幾つかは写真撮影したり、コピーしています。
伏籠川の跡については、何回か現地調査はしました。面白いのですが、既に他の人が調査
済みで、新たな発見につながる物を見つけるのは困難ですね。
71 :
ヘリトンボ:2003/06/08(日) 23:11 ID:k2C2fyDw
[ n131009.ap.plala.or.jp ] 「伏古川下水処理場」なるものもありますね。
「伏籠」じゃないのか、と問い詰めたい。
72 :
18丁目:2003/06/09(月) 02:43 ID:tawPYCH.
[ p21009-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 元村の村民様初めまして(ですよね?)
私の現住所(=本籍)は、所謂札幌村でいうと新村にあたると思うのですが、
元村の村民様は札幌村元村にお住まいでしょうか?
いずれにせよ、札幌村は明治・大正・昭和と、頑ななまでに都市化を嫌った自治体
にして純農村として発展してきていますので、先祖代々の農家以外は少数の職人
や商店、一握りの官吏等で成立していた村ですね。
私のようなサラリーマン一家の場合、昭和30年の合併後の住人がほとんどでしょう。
おそらく私の現住所は、記録や古老の証言などから、元村墓地北端の火葬場近辺の沼地
に程近い農地跡と思っています。
墓地・火葬場・沼地と住民の嫌う傾向にあるキーワードがたくさん出てきてしまいますが、
それでも、住んでいる場所の歴史に思いを馳せる縁となることには変わりありません。
元村の村民様のすばらしいお手持ちの資料と、現地調査によって面白い題材が出てくること
を期待しています。
73 :
牛鍋蝸牛:2003/06/09(月) 11:26 ID:OE7Vo656
[ N044179.ppp.dion.ne.jp ] これよりPCを修理に出しますので、しばらくお休みすることになると思います。
新しいパソコン欲しいなぁ〜。
74 :
元村の村民:2003/06/09(月) 15:58 ID:qgeEZXFk
[ H016241.ppp.dion.ne.jp ] 牛鍋蝸牛 さん、しばらくお休みなのですか。残念です。
>伏古川の原名は、アイヌ語の「フシコ・サッポロ・ベツ」
わたくしの持っている文献では「フシコ・サッポロ」となっており、ペツが付いていません。
古い文献ではサツポロにペツがついているのを確認しておりません。
18丁目 さん、初めまして。この掲示板は最近、知ったばかりですので、書き込みは、初めてです。
>元村の村民様は札幌村元村にお住まいでしょうか?
わたくしの曾祖父が元村に明治の初め頃に、本州の某県より入植しました。
3代目、4代目が多数住んでいますが、私は・・・・。
「18丁目」さんのキーワードに対する姿勢は正しいと思います。
75 :
ひんかも:2003/06/09(月) 21:11 ID:D4bXgXII
[ ab219.ade.ttcn.ne.jp ] 牛鍋蝸牛さん、早く戻って来。
76 :
18丁目:2003/06/10(火) 22:35 ID:t.rvW.hc
[ p9186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] フシコは
伏古
伏籠
伏篭
藤古
ふじこ
と、色々な字がありますね。
77 :
西創成:2003/06/10(火) 23:00 ID:JxR0KHPI
[ i104021.ap.plala.or.jp ] 私が遠方へ法事に出掛けてる間に、新しい方の書き込みがされていますね。とても嬉しいです。改めまして、はじめまして。新情報、ご意見など楽しみにさせていただきます。
それと、牛鍋さん「日発」の補足ありがとうございました。
78 :
新住人:2003/06/11(水) 15:57 ID:fvrRGS5I
[ pl838.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ] 伏古関係、いろいろとありがとうございました。
苗穂の話から曲げてしまいましてすいません。
また、何か疑問があったら書き込みします。
79 :
元村の村民:2003/06/11(水) 22:30 ID:TZTBCtRY
[ H017148.ppp.dion.ne.jp ] 西創成さん、はじめまして。
>>78 伏籠と苗穂は関係があります。
苗穂は、伏籠川東支流のナイポが語源です。
ですから、苗穂のことを調べると最終的には、伏籠川にたどり着きます。
80 :
ヘリトンボ:2003/06/12(木) 01:24 ID:6/AgUxLY
[ o132055.ap.plala.or.jp ] 伏古といえば、伏古にも欠番住所があるようですね。
「欠番がある」というよりは「欠番だらけ」という方がふさわしいのかもしれませんが・・・。
基本的に、伏古は1丁目から5丁目までありますが、
伏古1条〜7条と伏古12条には1丁目がありません。
更に伏古13条と14条には2丁目までもが存在しないようです。
これらは全て伏籠川のあのウニョウニョした地形にやられた痕跡でしょうね。
伏籠川パワー恐るべし。
81 :
元村の村民:2003/06/12(木) 08:40 ID:6wdkXhS2
[ N020093.ppp.dion.ne.jp ] >>80 面白いですね。
札幌ファクトリー近くの北1条東4丁目の交差点は少しずれていて、南側の「株式会社カナモト」前の道路は少し盛り上がっています。
これは、伏籠川上流の一部の跡です。
他にも、この近くで伏籠川の跡を確認できます。散歩がてら見に行ってみませんか。
82 :
西創成:2003/06/13(金) 00:09 ID:hckDMU/s
[ i104074.ap.plala.or.jp ] >>81ああなるほど。
北1東4の交差点ですか。
ところで、伏籠川の一番上流ってどの辺なんですかね。
83 :
元村の村民:2003/06/13(金) 07:56 ID:g28xAaFg
[ H016138.ppp.dion.ne.jp ] >伏籠川の一番上流ってどの辺
公式には、札幌土木現業所の地図によります。
でも、そんなのはつまりません。豊平川のどこから流れてきたのかの跡を探すのが楽しいのです。
少々わかりづらい場所ですが、伏籠川がサッポロであったときの場所が確認できます。
これは既に他の人が調査済みです。
84 :
匿ちゃん:2003/06/13(金) 12:04 ID:HamFLN9k
[ 61-21-165-192.home.ne.jp ] 話が戻ってしまってすみません。以前こちらで話題になっていた
苗穂の北ガス専用線の話(厚生病院のそばの踏切埋め込み跡)です
調査したところ、あれは本輪西駅からLPGをタンク車で苗穂まで運んでいたもので、
平成13年を持って北ガスが天然ガスに切り替えたため輸送廃止になったそうです。
伏籠の流れを中断して失礼しました
85 :
西創成:2003/06/14(土) 00:02 ID:WWE9P6Lw
[ i098238.ap.plala.or.jp ] >>83『伏籠川がサッポロであったときの場所』ですか…
なにかロマンを感じます。
>>84匿ちゃんさんこんばんわ。(なんか”アグネス・チャンさんみたいですが)
なるほど、室蘭の本輪西からガスを運んでいたのですか。
本輪西駅といえば、大昭和製紙のチップ材輸送というイメージが私はあったのですが、よく考えてみると、チップ材は陣屋町駅でしたか。
86 :
ひんかも:2003/06/14(土) 16:33 ID:3kAIIYX2
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] 伏籠川は、売れなくなったタマネギのゴミ捨て場でした(爆
丘珠といえば今ではあまり見かけなくなったタマネギ畑が一面でした。
私はアキのころよくその畑のど真ん中で遊び呆けていたものです。
秋口になると「売れそうもない」タマネギは全て伏籠川に捨てられていました。
おかげで臭いの臭くないのといったら・・・
丘珠小学校時代の「上田」さんの家がそうでした(超マイナー)
今やそこは見る影もなく、モエレ沼に通じる大きな道が伏籠川の暗渠と共に出来上がり、時代の変遷を感じます。
管制センターから札苗に抜ける交差点あたりです。ローソンがあると思いますが、そこには
中居橋という橋がかかっていて、昔の面影を残す伏籠川が悠々と流れていました。
臭かった・・・
といったら、私の実家の大体の場所はおわかりになると思います。
札幌の中でもピカイチの田舎、ということです。
北海道新聞社から刊行されている「札幌 街並み 今・昔」という本の中に
著者の朝倉さんも書いていますが、丘珠といえばタマネギ、しかも終戦当時は
生きるための菜園を作る場所だったようでして。
あとは飛行場ですか?最近は自衛隊の航空ページェントは開催されているのでしょうか?
タマネギ畑の真ん中で見る航空機のアクロバット飛行は見ものでした(遠い過去)
ちょとした思い出
87 :
西創成:2003/06/15(日) 01:35 ID:9618FFws
[ i098080.ap.plala.or.jp ] 札幌の玉葱といえば、代表品種「札幌黄」ですな。
岩波写真文庫67「札幌1957」には、
『丘珠飛行場付近〜殆ど玉葱畑と牧草地』と題した写真や、『タマネギの収穫時には農家では出面(日雇)の女子供を傭う』、『タマネギは頭にのせて運ぶ』『タマネギの乾燥箱』『タマネギ畑』という注釈のついた写真と次のような文章があります。
「札幌郊外の名物はタマネギである。明治のはじめ札幌官園で試作し、明治中期には販売も成功するようになった。札幌黄とよばれ、内地のタマネギと収穫期が異なり、秋口にとり入れる。戦前にはフィリッピン、満州、シベリヤなどへ大量に輸出された。よく肥えた畑地での反当収入は米作の数十倍もあるという。丘珠付近での農作物の70%がタマネギである。〜以下略」と紹介されています。
そいで、この岩波写真文庫・札幌1957には、現在札幌写真ギャラリー(ファクトリー内)に所蔵されている写真が沢山掲載されているようです。
1957年初版発行ですが、1988年に復刻ワイド版として再発売されています。
岩波さんの本なのでもしかしたら、いまでも在庫があるかも知れません。¥600なので、興味のある方は手に入れてみてはいかがでしょうか。
88 :
札苗線:2003/06/15(日) 02:12 ID:2KL9e74I
[ sapporokita1-79.ppp-1.dion.ne.jp ] はじめまして。札苗(東苗穂)住民の者です。
ふらふらここにたどり着いたら、思わず過去ログこんな時間までかかって読みきってしまいました。いい感じのスレですね。
私も私の親も大体タクシーを利用する時「札苗線へ」と言います。「三角点通」でも当然通用します。「モエレ公園通」という呼び名は正直、あまり好きじゃありません。
何か後付けみたいで、愛着が湧きません。ただ、三角点の意味は知らないです。
また、この町は哀しいかな私が思うに札幌の発展から取り残されています。ひどい事に「シャッター通り(シャッターがしまっている=つぶれた店が多い)」なんて呼ばれているらしいので。
私は学生ですが、最近の地名や道の安易な名づけ方は正直悲しいです。昔の地名の方が味があっていいと思うんですけど。
>>80現在の「伏古」の地名は他の地域より相当新しいようです。ひょっとすると政令指定都市になってからかもしれません。
昔(30年程前?)の地図を見た覚えでは、現「伏古」の地域はほぼ全て「東苗穂町」となっており、おそらく後からつけたものと思われます。
もっとも、今も持っているわけではないので確認は出来ませんが。
なので新道以南を区画整理したときにいっぺんに条丁目にしたので結果1〜7条の1丁目がなくなったと思われます。
近くの伏古1○条は確か昔丘珠町だった地域も含まれると思われます。
おそらく、伏籠川に沿った地域という事で後から「伏古」と名づけたのでしょう(字が違いますが)。
以上、推測ですが。それにしても、苗穂ってとてつもなく広かったんですね。
あと質問ですが、誰か「琴似川」について知っている方いらっしゃらないでしょうか。新川から百合が原まで、途切れてますよね?
89 :
北海道もりあがってないぞ:2003/06/15(日) 02:13 ID:/W/6gY8U
[ 203-165-37-150.home.ne.jp ]
90 :
18丁目:2003/06/15(日) 07:44 ID:S2i1B.mg
[ p9186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>88札苗様はじめまして
琴似川ですが、確かに新川上流に一部と伏籠川に接続する形で、篠路・百合が原
付近に残っていますね。
明治の地図を見ると、琴似川は円山界川付近より流れ出て、北大付近を北上し、
新琴似(新琴似屯田)と屯田(篠路屯田)の堺あたりで、創成川に分断されつつも、
北東方面に流れ、篠路で伏古札幌川に落ちていますね。
北大付近で新川に流れを変えられ、篠路付近では創成川に流れを変えられ、流れの
ほとんどの姿を変えられているのが現状の姿のようです。
ただし、「メム」「伏流水」をキーワードに、北大構内での「旧琴似川」の復元の
プロジェクトもあるようです。
91 :
18丁目:2003/06/15(日) 08:05 ID:S2i1B.mg
[ p9186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 札幌黄には私も大いに思い出があります。
私の場合は元町で、以前にも書いたかも知れませんが、今や有名な「西友元町店」より
北側の「元町中学校」付近までは玉ねぎ畑と数件の農家しかありませんでした。
その農家に友人がいたので、よく「かくれんぼ」や「玉ねぎ投げ合戦」をして遊んで
いました。
>『タマネギの収穫時には農家では出面(日雇)の女子供を傭う』
友人の中には、アルバイトで収穫の手伝いをしていた者もいました。
元町は昭和40〜50年代急速に宅地化が進んで、「元町商店街」付近は賑わっていました。
しかし、親友が「庚申塚」の手前に住んでいて、そこまで行くともうその先は「丘珠」
で、はるばる来たな〜と言う感じでした。
「札幌新道」が完成して、親友と「生協新道店」まで行ったのが最長不倒です。
92 :
新川番地:2003/06/15(日) 08:18 ID:PJaxZ0GA
[ YahooBB219041108253.bbtec.net ] >86 ひんかもさん 新川番地と申します
中居橋でますかー ローソンの中居さんは知り合いでしてねー
昔はあすこん家のおばさんがフォード・タウヌスという外車にのって店に通ってたものです
確かに昔のあの辺りは臭いが強烈でしたね。黒いタール状のヘドロに泡がぷくぷくと・・・
タマネギの投棄の実態は知りませんでしたが、あの臭いと肥料撒き時期は相当辛かったです。
私が小学校の頃は札幌小学校くらいまで伏古川を辿れたと思うのですが、札中に入ったころには処理場がすでにあったし、
変遷が良く分かりません。
ちなみに私は教職員団地に昭和44年から48年頃までおりました。ちなみに丘珠小学校は77回卒です。と言えばネイティブ丘珠の方なら自分よりいくつ上下なのか分かりますよね。
93 :
元村の村民:2003/06/15(日) 12:22 ID:5pyJIegs
[ N018002.ppp.dion.ne.jp ] >>87>明治のはじめ札幌官園で試作し、明治中期には販売も成功するようになった。札幌黄とよばれ、内地のタマネギと収穫期が異なり、秋口にとり入
これは、元村でのタマネギ栽培のことですね。元村こそが、タマネギ栽培の元祖です。
北海道の他の地域のタマネギ栽培も、元村の農家の指導のもとに発展しました。
このため、元村のT氏が長らくタマネギ組合の理事長をしていました。
>>90>「メム」「伏流水」をキーワードに、北大構内での「旧琴似川」の復元の
プロジェクトもあるようです。
北大に流れているのは、琴似川の支流「サクシュ琴似川」ですね。
植物園の入り口が少し凹んでいますが、これがメムの跡です。
さらに伊藤邸の横をいくと玄関から内部が見えます。庭の一部が凹んでいます。
これも、サクシュ琴似川の一部です。更に行くと、清華亭の近くに丸く凹条の場所があります。
これも、メムの跡です。
更に、北大の中央ローンの中にある、サクシュ琴似川へと続きます。
ここから、北大の図書館の横の道がサクシュ琴似川のあとです。テニスコートを眺めながら、弓道場の場所へと続きます。
工学部の横の「ひょうたん池」もサクシュ琴似川のあとです。
中央食堂の前の道路で遺跡が発掘されていますので、過去においては、サクシュ琴似川が、重要であったようです。
ひょうたん池から先に河川跡があります。さらに、この先には、遺跡があります。
札幌の町の中で、これらの跡をたどると、探検家気分に浸れます。
北大植物園のメム、道庁の池も、元はメムです。さらに、サツポロビール等。
これらは、北1条が札幌において素晴らしい水を得ることができる場所であることを示しています。
94 :
m:2003/06/15(日) 12:38 ID:VOKBY81Y
[ p1098-ipad27sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
95 :
牛鍋蝸牛:2003/06/15(日) 14:35 ID:BFegZJPM
[ pc4.ishikari-lib-unet.ocn.ne.jp ] まだpc修理中です。
待っててね。
96 :
なまら名無し:2003/06/15(日) 15:06 ID:fqfn.7/6
[ 195.25.73.245 ] もう待てない♥
97 :
ひんかも:2003/06/16(月) 00:47 ID:rDy4E3Ro
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] >92 新川番地さんへ
ご同郷とは嬉しい限りです。丘珠小学校卒業でしたか。私もです。何回目の卒業なのか
は、記憶の隅っこに片付けてしまったので憶えていません(笑
私が卒業したのは、確か・・・学校が99周年だったような気がします。
学校のバス停は、廃棄処分になった市営バスだったような気がします。
アイディア斬新なオープン教室の卒業生でした。校長先生は坪谷京子センセでした。
余談ですが、坪谷先生の書かれた「さっぽろむかしあったとさ」「ほっかいどうむかしあったとさ」
という本を読んだことはありますでしょうか。
札幌、北海道の民話などを集めた本です。
ココのスレでも使えそうです。一読をお薦めします。
さて、どちらの話が余談なのかわからなくなりつつあります。
伏古川ですが、小学生の頃(昭和40年代)は現在の札幌小学校のところ、いまだと環状
通りのところまで川が見えていました。今やサイクリングロードと化している
ところです。札幌中学校のあたりに汚い木製の橋が架かっていたのを憶えています。
「よく通れるなぁ、この橋」
てなもんでした。子供心に通るのをためらった記憶があります。
だからあのあたりまでは「ヘドロ川」だったわけで。
「札幌村史」の中に書かれていた”べにひわ”という鳥は知りませんが、
あんなヘドロ川(伏古川)でも川は川だったらしく、いろいろな鳥がいたようにも
思います。そういう意味では伏古川も環境生態系を維持していたのでしょうね。
今じゃ「どこにそんな川があったの」感覚ですが。
他にも小さな川が現在の伏古*条(どこだか忘れた)にも流れていたようにも思うのですが
誰か知りませんか(伏古川の支流みたいなものだった、と、人から聞いた)
>>88 札苗線さん
伏古11条とか12条とかは昔「東苗穂町」でした。一応『転んだら苗穂』の丘珠育ち
なので、100メートル住む所が違ったら学区が変わって札苗小学校に行くハメに
なっていたので、結構記憶してます。
だから、よく考えたら「苗穂」地域は相当な広がりがあったんだと改めて思います。
98 :
ヘリトンボ:2003/06/16(月) 11:44 ID:uwaaPhe6
[ i139106.ap.plala.or.jp ] >>88 札苗線さん
あ、「モエレ公園通」でしたね。
>>52の「モエレ沼公園通り」は誤りでした。
私も札苗人ですが、「シャッター通り」は初めて聞きました。
どの道を指すんですか?
本町の商店街あたりのことでしょうか?
99 :
元村の村民:2003/06/16(月) 13:24 ID:OxNxcM9c
[ H016223.ppp.dion.ne.jp ] >>97>小さな川が現在の伏古*条(どこだか忘れた)にも流れていたようにも思うのですが
>誰か知りませんか(伏古川の支流みたいなものだった
伏古9条であれば、「丘珠排水川」ですが、他の条であれば、不明です。
100 :
k:2003/06/16(月) 14:11 ID:SkgJYFtA
[ customer72-81.mni.ne.jp ] はじめまして、もと札幌人ですが、今は内地に住んでいます。
これまでの記載をすべて精読したわけではないので、重複したりすることもあるやもしれませんが、それはご容赦ください。
二、三気のついた点について。
@苗穂の件 私が住んでいたのは桑園地区でしたが、その視点でいえば、「苗穂」とは創成川の東側で北2条あたりから北側はみんな「苗穂」でした。
だから「ビール工場」も「ガス会社」も「鉄道病院」も「苗穂」という認識です。
そしてそのさらに先、「苗穂」と「丘珠」や「雁来」の境などとなるともはや、はっきりしていません。
Aメムの件 メムの例として植物園内、伊藤邸の庭、道庁の池などが記載されていますが、桑園地区にはもっとたくさん
ありました。北6西13、北7西13、北5西16、さらに知事公館の庭や桑園駅の周辺などを
おぼえています。これらの沼地はいずれも付近に住む子供たちに格好の遊び場を提供してくれました。
まだいくつかありましたが、長くなりますので、この辺で。
101 :
ひんかも:2003/06/16(月) 20:45 ID:rDy4E3Ro
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] >>99 元村の村民さま
貴重な情報ありがとうございます。
名前がわかれば調べはつくものです、ちょっとチェックしてみます。
>>87 西創成さま
スレを読んで思い出しました。
数年前に早稲田の古本屋に行ったときに見つけた本「札幌」岩波写真文庫を。
皆さんの資料になるかと思い、本棚の奥から引っ張り出してスキャンしました
ので、ご参考に。
場所は「札幌村史」ページの下のほうにあります。
http://sapporo.cool.ne.jp/hinkamo/ヨロシクです。
102 :
k:2003/06/17(火) 09:31 ID:FcMFwuUY
[ customer66-69.mni.ne.jp ] メムの件続き
北5西9。ここにはかって、メムの湧き水を利用した養魚場がありました。札幌市内を呼び売り歩いていた
金魚屋の金魚はここから供給されていたかも。水系は一丁東側の伊藤邸内の池とは異なり、鉄道に沿って西
北に流れていました。
ここの鉄道をはさんだ北側も沼地でした。
サクシュコトニ川の件
かって桑園駅から北大工学部の北側まで引き込み線があり、この線がどこかでこの川を渡っていたはずです。
先年、札幌へ行ったとき、それと思われる場所を探してみたのですが、時間的な制約もあり、確認できません
でした。もしご存知のかたがあれば、ご教示ください。この引き込み線についても種々書きたいことはありま
すが、このスレの本来の趣旨からずれてくるのでここではやめます。
以上、とりあえず。
103 :
k:2003/06/17(火) 20:59 ID:FcMFwuUY
[ customer66-69.mni.ne.jp ] 伏古か伏籠かについて
おそらくは昭和20年以後、行政側が「籠」の字が当用漢字表にないという理由で、書き換えたものと推測されます。
札幌市だけでなく、このような理由で勝手に地名を改変することは、全国いたるところの自治体がやっているからです。
ですから、「伏古」は意外に新しいという意見には私も賛成です。
104 :
牛鍋蝸牛:2003/06/17(火) 22:22 ID:lNNheum6
[ N044195.ppp.dion.ne.jp ] や〜、ご無沙汰でっす!
PC、直ってきました。(ちょっとドット抜けあるけど、しょうがないか)
回るメリーゴーラウンドから一旦降りましたワシですが、再度飛び乗るには同じ速度まで加速する必要があります。
どのタイミングで、どの馬に乗りましょう?
さて、ワシのアルバム、【知名度】スレも立たないマイナーな地名in札幌【ゼロ】
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw に、貫太郎さんと東区在住さんがメンバーになられました。
本家のスレにも、ぜひレスをお願いします。
それと、この一週間にレスに新しく参加された方々、まとめて失礼ですが、ヨロシクお願いします。
じゃ、徐々に加速しますので…。
105 :
なまら名無し:2003/06/17(火) 22:58 ID:AsLVMzfw
[ nthkid025075.hkid.nt.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ] [手稲東」かな 今は西町北20丁目 といってますが
あと「手稲梅園」という停留所があったな
106 :
ひんかも:2003/06/17(火) 23:59 ID:Iy9q.Y/Y
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] 牛鍋蝸牛さん、祝復活!
107 :
なまら名無し:2003/06/18(水) 00:21 ID:qyAeS3Co
[ recetzao.bizao.net ]
108 :
なまら名無し:2003/06/18(水) 00:31 ID:qyAeS3Co
[ recetzao.bizao.net ]
109 :
札苗線:2003/06/18(水) 13:33 ID:/kF5kmC6
[ sapporokita3-49.ppp-1.dion.ne.jp ] >>98 ヘリトンボさん
札苗線そのものです。聞いたのは母から。母は近所から聞いたそうです。
フードセンターも潰れたし、住んでいる土地の寂れ方に対する自虐的な意味を
多大に含むと思われますが。先日大学で友人にフードセンターの事を話したら
「何それ!?そしたらあのあたり何にも無いじゃん」と言われ。なんとかならない
物ですかね・・・ひょっとすると札苗自体がマイナー地名化する可能性が。
110 :
k:2003/06/18(水) 17:12 ID:euBwaZ5Y
[ customer74-25.mni.ne.jp ] 東8丁目通りに関連して、
昭和20年代頃、市電苗穂線に元村通という停留所がありました。多分東8丁目だったと思います。
ななめ道について、
東西南北、格子状の街で育ってきた私にとっても、斜め道はすごく関心があります。私のななめ道
初体験はやはり「偕楽園かいわい」でした。本当に一時期は「魔境」のようにさえ、感じられたも
のです。
ところで、話は全然かわりますが、円山の裏参道と西25丁目との交差点近くから、南東
方向へうねうねと延びている斜め道、あの道についてその由来などについて御存知のかたはいらっ
しゃらないでしょうか。私はかつて裏参道の西24丁目にあった、旧円山村役場の存在と関係があ
るのではないかとかんがえたりしています。いずれにせよ、大正の末年ころ市電が延びてきて、こ
のあたりの宅地化が進み、札幌の中心部の街割りを延長したかたちで、道路がつくられるよりも前
からあった道であろうと思われます。
なお、この道のもうひとつ西側の斜め道は昭和30年代以降につくられた道であり、あまり関心は
ありません。
111 :
牛鍋蝸牛:2003/06/18(水) 21:58 ID:B43/YBas
[ N044195.ppp.dion.ne.jp ] ハアハア…(汗
皆さんに追いつくため、頑張っています。
で、遅レスをご容赦を…。
>>88札苗線さん、初めまして。
>ただ、三角点の意味は知らないです。
「三角点通」は何度か本スレに登場しています。
「三角点」とは、測量に必要な基準点をいいます。
地図を見ているといたるところに出てきます。
札苗方面の「三角点通」は「さっぽろ文庫1 札幌地名考」の「三角街道」によりますと、
「この三角街道の名称は、昭和の初期に現豊畑附近よりわずかに北側の地点に、篠路、丘珠、雁来の測量のための三角点が設置されたが、この三角点から三角街道の三角の名称をとったものであるという。また一説には、この街道によって三角形の地域が出来たので、三角街道をいうようになったと言う古老もいる」とあります。
それと「琴似川」に関しまして、以前にほんのちょっと出てきてますね。
「界川」(札幌温泉の裏の川)と「円山川」が「琴似川」の支流であったとの書き込み…。
ま、これワシが書いたんですが。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/4_log.html#15 (直で飛ばないようですので、レス【その四の#15をご覧ください】
>>97ひんかもさんのレス、
>「札幌村史」の中に書かれていた"べにひわ"という鳥は知りませんが
の「べにひわ」ですが、調べました。
ま、ただ単に加速度をつけるため。
直接地名とは関係ありません。
リハビリ…。
「世界代博物図鑑4 鳥類」(荒俣宏著 平凡社刊)によりますと、
「ヒワ スズメ目アトリ科のうち、アトリ属を除く鳥の総称。カナリアをはじめ、古来、飼い鳥としてさかんに用いられている。
ベニヒワ 英名 REDPOLL 和名の由来は明確でない。アワやヒエを食べることからこれらの植物名と関係するかもしれない。しかしヒワを冠した鳥名はきわめて多く混同をきたしやすい」
分かりづらいですねぇ〜。
じゃ、これ。
「ベニヒワ 分布 冬鳥としておもに北海道に渡来し、渡来数が多い年には東北や本州中部でも見られるが、数は多くない。(略)
サイズ 全長約14cm 翼長7〜8cm、体重12〜15g。
特徴 雌雄とも額が紅色をしている。オスは頬と胸も紅色。体の上面は灰褐色で多数の縦斑がある。大きさはカワラヒワよりやや小さい。
生態 日本では冬季、ダケカンバやミヤマハンノキなど山地の林でよく見かけるが、平地では少ない。草原で枯れ草に止まり、草の種子も食べる。渡りの時期には、数十羽の群を見かけるが、それ以外の時は少数で生活する」「日本動物大百科4 鳥類U」(平凡社)より。
112 :
◆X5qpkgXcJk:2003/06/18(水) 21:59 ID:UORg3aPI
[ 61-27-19-177.home.ne.jp ] test
113 :
牛鍋蝸牛:2003/06/18(水) 22:26 ID:B43/YBas
[ N044195.ppp.dion.ne.jp ] >>103Kさん、こんばんは。
>おそらくは昭和20年以後、行政側が「籠」の字が当用漢字表にないという理由で、書き換えたものと推測されます。
…これなのですけど、「さっぽろ文庫」に「川の風景」ってのがあるんですが、そこの190ページに明治時代にも「伏古川」と表記されていた時期があった、と書かれています。
今、手元に同書がないもので詳しくは書けないのが残念です。
なにはともあれ、「伏古」は案外古いようです。
斜め通りフェチのmさんへ。
今日はちょっと疲れたので、さらっと書きますが、「東区北8条東7」の「斜め通り」は明治の初めの「さっぽろ牧場」跡だそうです。
詳しくは日を改めて。
久々のレスのため、非常に疲れた…。
114 :
k:2003/06/19(木) 10:09 ID:lPc6Yn1M
[ customer74-25.mni.ne.jp ] >>113牛鍋蝸牛様、伏古川の件、早速ご指摘いただきありがとうございました。
旭町、水車町について
私、以前旭町二丁目に住んでいたことがあり、もう終わったことを蒸し返すようで恐縮ですが若干書かせて下さい。
この地名が生まれたのは、既に記載されているかも知れませんが、昭和25年であったと記憶しております。それまでは
豊平〇条〇丁目または豊平川岸〇丁目と呼ばれていました。ちなみに、私が住んでいたところは豊平6条4丁目でした。
このあたりは、地図をみてもわかるようにこのようにすると道路と番地がまったく一致せず、そのために特に郵便局方面
などから強いプレッシャがあったといわれています。「水車町」の名が、水車通りに由来するものであることは明らかで
すが、「旭町」の名の由来については聞いた覚えがありません。多分行政側があたりさわりのなさそうな名をつけたもの
と考えられます。
へび神社について
ここは高校時代の通学路でした。旭町二丁目の我が家から水車町をぬけ、この神社の裏手から堤防にのぼり、幌平橋をわ
たっていました。とてもなつかしく、書いた次第です。その頃「難得神社」などという名は全く知りませんでした。
115 :
なまら名無し:2003/06/19(木) 11:18 ID:9gbUEqgE
[ K098187.ppp.dion.ne.jp ] 裏参道交差点からの斜め通り。入り口のところに「旧藻岩街道跡」?だったか、
小さな碑が立っている。あれは何か関係あるのかなあ。
でも、碑の文句もうろ覚え。今度良く見てみますね。
もうひとつ西側の斜め通りって、界川あとのことかな。
116 :
牛鍋蝸牛:2003/06/20(金) 08:14 ID:5Dt1rQKc
[ N046229.ppp.dion.ne.jp ] >>114kさんへ。
本スレでの「水車町研究」は結構燃えました。
>「旭町」の名の由来については聞いた覚えがありません。多分行政側があたりさわりのなさそうな名をつけたものと考えられます。
「さっぽろ文庫1 札幌地名考」で「旭町」を見てみました。
「昭和二十五年までは「豊平○条○丁目」と呼んでいたが、住宅地化してきたので豊平町から分かれて、「旭町」と改めた。地区内に果樹園があったところから、リンゴの品種名にちなむとともに、町の発展を期待してこの呼び名にしたという」
う〜む…。
まんざらテキトーに付けた地名ではないとのことらしいですよ。
「旭」というりんごの品種は、最近ほとんど見なくなりました。
で、改めて調べてみましたら、意外な事実が出てきたのです。
既にご承知の方は方は「なんだそんなことか」とおっしゃるやも知れませんけど、前スレの「啄木の林檎の歌」からのつながりもありますのでご紹介いたします。(つながらないけど…)
実はりんごの品種としての「旭」は和名でありまして、英名は「Macintosh」だそうです。
そう、あの「Apple社」のあの「マッキントッシュ」ですがな。
リーダーズ英和CD-ROM版によると、
「【商標】マッキントッシュ 米国 Apple Computer社製のパーソナルコンピュータ。(Macintosh) は米国でよくみられるまっ赤なリンゴの品種名 McIntosh (旭) のつづり変え」
とあります。
ワシ、以前から「マッキントッシュ」ってなんだろう?と思っていたのです。
チョコレートの商品名にもあるしね。
なのに意味が分からない…。
でね、調べたことがあったのですが、「Macintosh」は「Macintosh」としか分からなかったのです。
そういうことだったんですねぇ〜。
いや〜、このスレ、ホントに勉強になりますねぇ…。
このように、「豊平区旭町」で「Apple社」の「Macintosh」を使うってぇのんは、それはそれでなかなか意義のあることなのですよ。(…ないない)
117 :
牛鍋蝸牛:2003/06/20(金) 10:28 ID:5Dt1rQKc
[ N046229.ppp.dion.ne.jp ] >>113で書きました、「東区北8条東7」の「斜め通り」が「さっぽろ牧場の跡」であるという話なのですが、これは「東区今昔3 東区開拓史」の「農業のあけぼの さっぽろ牧場」の項にありました。
場所はこの地図の黄色の線内です。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=636「明治の初め、現在の鉄東地区に牧場があった。住宅地が密集する今となっては、まったく想像も出来ないが、確かにそこで馬が草を喰み、駆け回っていたのである。
牧場が設置されたのは、島判官の札幌本府建設着手と同時期であったと考えられるが、本格的な整備は明治四年。現在の東区北七条から八条、東五丁目から七丁目にかけての一帯である。
明治四年、岩村通俊判官指揮のもと札幌本府再経営は始まり、運送、乗用の馬の需要が急上昇し、その不足が切実な問題となった。
開拓使は現在の登別市あたりで仙台支藩の片倉小十郎が遊牧していた馬に目をつけ、百頭を札幌に送らせた。これが札幌牧場の始まりと考えられ、明治六年秋頃までは、旅行者への用立てなどに専らこの牧場が活躍する」 <長いので、つづく>
118 :
牛鍋蝸牛:2003/06/20(金) 10:34 ID:5Dt1rQKc
[ N046229.ppp.dion.ne.jp ] >>117のつづき。
「しかし、せまい牧場内の草は食べつくし、札幌市街を近くにひかえ、多数の牛馬がひしめく状態は好ましくない。このため牧場移転がなされる。場所は、苗穂と対雁村間の土地を選んだ。現在の伏古、東苗穂の全域と丘珠町の南半を含む広大な土地である。このあたりは、明治三年以来入植する者が点在しており、馬による農作物の被害防止に馬留境柵がつくられた。
しかし、ここを放牧地とすることは長く続かなかった。牧場のあり方が再検討され、馬、牛、豚、羊などバラバラに進められていた畜産政策を統括し、官園を整備する方向へむかっていったからだ。
明治七年、官園(現在の北海道大学構内)に仮牧場が開かれ、さらに、明治九年、真駒内牧牛場、手稲馬牧場、札幌牧羊場が一斉に開設されるに及んで、札幌村の牧場はその氏名を終え、閉鎖された。
この記念すべき"さっぽろ牧場"の官舎及び土地が民間に払い下げされたのは明治九年十一月から十二月にかけてのこと。以後、この一帯は農地化が進むのである」
ということで、「苗穂」、「伏古」へと話がつながって良かった。(ことにしよう)
119 :
k:2003/06/20(金) 11:37 ID:HJqSYsuo
[ customer74-25.mni.ne.jp ] >>115 旧藻岩街道でしたか。ありがとうございました。碑について何かわかりましたらぜひよろしくお願いいたします。
>>116牛鍋蝸牛様。 旭町がりんごの品種の「旭」がかかわっていたとは全く想像もしませんでした。しかし、あの頃
りんご園があったのは、むしろ水車町の方で旭町にはほとんどなかったと記憶しています。水車町のへび神社あた
りから南はずっーと当時の市境をこえて中ノ島の方までりんご園が続き、その間に民家が点在していました。
市内の地名で以前から疑問をもっているものに「曙」があります。引退した横綱のことではありません。
曙小学校は近くなくなるということですが、あの場所は昭和22〜23年頃は「曙グランド」という軟式野球場でした。
曙グランド→曙小学校となったことは容易に考えられますが、その前は墓地だったということであり、事実隣接
してお寺も現存しているようですが、その墓地がどうして「曙」となったのか。この点についてご存知の方が
いらっしゃいましたらご教示いただきたくお願いいたします。
120 :
牛鍋蝸牛:2003/06/20(金) 13:11 ID:5Dt1rQKc
[ N046229.ppp.dion.ne.jp ] <<119
「手稲区曙」ですね。
「裏参道」にも興味あるのですが、とりあえず分かる範囲で「曙」から…。
手稲区役所へ行くと、「手稲区ガイド」というパンフレットを頂くことが出来ます。
A0版ですので、結構でかいもんですが、そこの「曙」の記述を引用いたします。
Kさんのご質問とは趣旨が違いますので、ま、暇つぶしと思って読んでつかぁさい。
「曙は、いつごろから開けたのか定かではありませんが、地名は、将来ほのぼのと明けていくという願いを込めて付けられました。
面積約200ヘクタールの三浦農場があり、水はけの悪いこの地に土功排水という排水路を築きました。現在農場は幼稚園と住宅地に、排水路は環境護岸を施した手稲土功川に、それぞれ生まれ変わっています。
また、JR線沿線には手稲の発展を支えてきた「札幌手稲工業団地」があり、金属加工や機械製作など多くの工場が稼動しています。
手稲駅北口から樽川通にむけてのびる手稲緑道「ぷろむなーど・ていね」は、散策路として子供たちからお年寄りまで親しまれています」
いつも「さっぽろ文庫」からだと飽きるから、あえてはずしてみました。
じゃ、実地調査を兼ねて「らーめん あび」に行って来ま〜す!
121 :
牛鍋蝸牛:2003/06/20(金) 20:54 ID:5Dt1rQKc
[ N046229.ppp.dion.ne.jp ] うちの「アルバム」
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw のメンバーに、ひんかもさんが加われました。
で、メンバーになって何が徳かといいますと、春風亭柳昇といえばもはやわが国では、わたし一人でありまして…。
「旭りんご」(Macintosh)に関して、このような情報がもたらされました。
「"旭"は年配者には好まれたが、若い世代には受けが悪く生産量が落ちていった。
酸味が強かったためであり、"国光"、"インド"などの甘味の多い品種の人気が上がってきた。
"紅玉"も酸味が強かったが、その個性ゆえにアップルパイなど加工用としての用途があった。
それに引き換え、"旭"にはそこそこの糖度があったものの、傷みやすい、ボケるのが早いといった商品としての扱いづらさもあったため、徐々にその姿を消していった。
また、その樹齢も限界にきており、新たな生産者が現れなかったのも無理はなかったのである」
これは今日の聞き込みの成果です。
ん?…。
どこで仕入れたのかと?
誰が言ったのか、と?
あ〜!キミら!
ワシが何で今日、洗顔してまで…じゃない、宣言してまで「あび」に行ったと思うとるのだ!
ただ単に、ラーメン喰いにいったんやろ、と思っとりはせんかいな?
あまい!まったくもって、アマイッ!
何を隠そう、あの「あび」のマスターは、若かりし頃、彼の「万惣」ちゅ〜果物屋さんに勤めていたわけで、なんと札幌東急デパートの「フルーツパーラー」なんぞにもいたのである。
(注・「人は見かけによらん」とは、あの人を見て福沢諭吉が言った言葉である)
だから、ワシは"旭りんご"の聞き取り調査には他を於て、適任者はおらんだろー、と狙いをつけてワザワザ行ったわけだ、これが。(ホントか?)
122 :
18丁目@本村:2003/06/20(金) 21:53 ID:rdmBLT/s
[ p9186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] ふーむ、旭町の名は旭りんごが由来とは、かなり勉強になりました。
さっぽろ牧場の北西の端は、今の「かねや今井」さんところだそうな。
牧場がなくなり、斜め通りは「元村銀座」として賑わいを見せたのですね。
123 :
牛鍋蝸牛:2003/06/20(金) 22:10 ID:5Dt1rQKc
[ N046229.ppp.dion.ne.jp ] >>122「さっぽろ牧場」の実地調査行ってきました。
124 :
牛鍋蝸牛:2003/06/21(土) 10:55 ID:7QZ/1Hj2
[ N046229.ppp.dion.ne.jp ] 「さっぽろ牧場」跡を訪ねました。
もちろん明治の初期に無くなった、それも「牧場」という言ってみれば"ただの野原"が調査対象のため、そう大きな収穫は期待しませんでした。
また、途中ちょっと雨が強くなり、デジカメさんはカメと名前がつく割には水濡れに弱いので、面積的には約半分程度の調査しか出来ませんでした。
それでも独特な区割りが面白く、高層マンションもあるのですが、古い民家や商店、アパートや空地も残っており、独特な雰囲気の地域であります。
このスレをやっていなければ、絶対に訪ねることの無い場所だなぁ〜と思いつつ、そぼ降る雨のせいか、柄にも無くしっとりした心持でふらふらと散策してまいりました。
ここには路地も残っております。
道端に生えている名も知れぬ草なんかを見ても、130年前の牛馬はこんなのを食んだのかな?なんて思いにもふけることが出来るのです。
実地調査っていいもんなんですよ。
本スレをご覧の札幌あるいは近郊にお住まいの方、たまには書を捨て、街に出ることをお勧めします。
あと半分調査を残していますが、雰囲気を味わっていただきたいのでとりあえず画像をアップしておきます。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=641 よりスタート。
125 :
ヘリトンボ:2003/06/21(土) 19:52 ID:GZMF8YsA
[ m199248.ap.plala.or.jp ] >>109 札苗線さん
おおっ、札苗線がシャッター通なのですか!
知りませんでしたー。
今日プレオープンのジャスコに行くため札苗線を利用しましたが、
あのカスタム跡に本屋ができるそうですね。
126 :
k:2003/06/21(土) 21:48 ID:kaoyTFb6
[ customer74-25.mni.ne.jp ] >>120牛鍋蝸牛様。そういえば手稲区にも曙がありましたね。あと、真駒内にも曙町があったと思います。
さて、話をあっちこっちへ飛ばして恐縮ですが、豊平三丁目通り(こう呼んでいいのかな)は、なかなかの曲者です。
今は、米里旭山公園線というそうですが、(この名称は南大橋ができた昭和30年代以降についたものとみられます。)
この道にはかつて用水路がついていました。平岸本通のまん中を流れていた用水路は、旧市界の近くで豊平五丁目へ直
進する「平岸街道」と北海高校の前を通る道とに分岐しますが、この用水路はこの北海高校前を通る道の方に平行し、
この道が「豊平三丁目」線に突き当たると今度はこの「豊平三丁目」線に合流していました。
そしてこの道は豊平一条までは、R36に直交して進んでいますが、菊水地区に入ると右に屈折し、延々とのびて東高
前を通り、R12を横断し、用水路とともにそれこそ米里の方までのびています。大正5年測図という五万分の一図で
は、菊水地区に遊郭はもちろん道路らしきものがほとんどない中で、この道だけは鮮明に記載されています。
さらに、まだありますが、長くなるのでこの辺で。
127 :
ヘリトンボ:2003/06/22(日) 12:51 ID:IK4zHZpQ
[ n128128.ap.plala.or.jp ] >>124 牛鍋蝸牛さん
> このスレをやっていなければ、絶対に訪ねることの無い場所だなぁ〜
この斜め通りは東区民は結構愛用しています。
何せ、普通は縦横縦横・・・と行かなくてはならない道も、
この斜め通りを通れば斜めに突っ切れますからねー。
以前本村@18丁目さんも仰っていましたが、
タクシーの運ちゃんは必ずこの道を使いますね。
ちなみに、そこより更に先に行くと、
ちょっとした飲み屋が連ねる繁華街 (?) に出ることができますね。
ここもまた味がありますよー。
128 :
ヘリトンボ:2003/06/22(日) 13:04 ID:IK4zHZpQ
[ n128128.ap.plala.or.jp ]
129 :
k:2003/06/22(日) 15:36 ID:pesO7WHk
[ customer74-25.mni.ne.jp ] >>126の続き
さきに記した米里旭山公園線が右の方へずれはじめるあたりで、もうひとつ右、ほぼま東の方向に向かって分岐
している斜め道があります。この道もその存在は前から承知しており、まっすぐ旧東札幌の駅前に出るので、定山渓
鉄道が開通した大正7年以後にできたものと思っていたのですが、なんと大正5年版の地図にも記載されています。
その辺にはほかにほとんど道路もないというのに、・・・・・
しかも、この道路に近く、今の幌東中に辺りに「山道」という地名注記があります。いったいこれは何だ。こんな
地名は今まで全く聞いたことがなく、またそのあたりに山らしきものも何もありません。さすがに次の改版では消え
ていますが、こんな地名はみなさん、お聞きになったことがありますか。
なお、この元になっている地図は私が所持しているわけではありません。堀淳一先生の「地図のたのしみ」」の中に
縮小されたものが掲載されいるのを、見ての話です。
以上、またも雑駁な話で甚だ恐縮ながら。
130 :
なまら名無し:2003/06/22(日) 16:37 ID:sKmR/CL6
[ k121006.ap.plala.or.jp ] 斜めどおりは帯広では計画的に作られていますね。たしかワシントンを模して
都市計画されたと聞いたことが。火災発生時に消防車がいち早く現場に
急行できるためだそう。地元では火防線とよばれているそう。
131 :
ヘリトンボ:2003/06/22(日) 17:32 ID:IK4zHZpQ
[ n128128.ap.plala.or.jp ]
132 :
牛鍋蝸牛:2003/06/22(日) 22:14 ID:AqNiQKPc
[ N045172.ppp.dion.ne.jp ]
133 :
ヘリトンボ:2003/06/23(月) 10:25 ID:tNb5hBVg
[ i223177.ap.plala.or.jp ] >>132 牛鍋蝸牛さん
はうわー! また既出情報を盛り返してしまいました・・・。
どうもすみません。逝って来ます。
134 :
k:2003/06/23(月) 14:12 ID:4Bm5dZNM
[ customer78-68.mni.ne.jp ] >>131 ヘリトンボ様
「山道」の件で白石区のHPをご紹介いただき、ありがとうございました。これは地名というよりむしろ通りの名前ですね。
友人に幌東中のOBがいるので聞いてみようかと思っていたところですが、白石の方にご存知の方がいるかも知れませんね。
ところで、この「山道」ですが、終点の方は豊平橋ということで一応は理解できるのですが、起点はどこだったのでしょう
か。これは白石の開墾が今のR12を基線として始まったとすれば、そこまでは延びているはずです。地図はあいにくその
手前で切れています。最近の状況については現地調査が一番ということでしょうが、なにしろそうもいかないので、mapion
だけでなく、国土地理院のHPにあたってみたいと思っているところです。
以上、とりあえず御礼まで。
135 :
牛鍋蝸牛:2003/06/23(月) 21:26 ID:aFBJG4Wc
[ N045172.ppp.dion.ne.jp ] >>133うんにゃ、いいんですよ。
昨日言いましたように、ワシも最近、
「このこと書いたかなぁ〜? 書いたような気もするけどなぁ〜。書いていなったかなぁ〜」ってことだらけなのです。
でさ、今日も(いや、毎日)ちょっと(いや、そこそこ)酒飲んで、もう眠気がひどくってさ。
このへんで、ごめんなさいします。
まっこと、ネタは沢山あるのだが、つくづく無念じゃ…。
136 :
とろんとろん:2003/06/24(火) 22:30 ID:Gz7fJz8I
[ 211.121.159.96 ] >>8牛鍋蝸牛さんが戻ってきていることを前提としつつ、
前スレでも少し書きましたが、私もログを消失して
観れない「新琴似スレ」の中で「Sタウン」関連の
話が出ていました。頼りない記憶をたどると、
確かそこには、はじめサッポロビールのホップ畑が
あのあたり一帯にあったが、そこが潰された後に
一度野球のできるグラウンドになり、その後に
「サッポロビール」と建設会社によって「Sタウン」
ができたのだとか言う話が出ていたかと思います。
(なので「Sタウン」のSはサッポロビールのSに
あたるそうな。半ば社宅的な部分もあった様子)
まあ私が新琴似に来たのは6年ほど前のことですから、
そのあたりの詳しい事情は当時「新琴似スレ」に
よく来ていたコテハンの「打倒Sタウン」氏あたりを
召喚できれば面白いところですが……。
なおベーカリーは紆余曲折ありながらもなんとか
現在も営業しているようです。なんかいろいろあった
ようなのだけど。
137 :
とろんとろん:2003/06/24(火) 22:31 ID:Gz7fJz8I
[ 211.121.159.96 ] >>39>>47西創成さん
ちょっとスレ違い気味ですが、金市館は南2条にある
現ラルズの建物の管理会社になりました。
なので今も狸小路2丁目沿いのラルズの1階には
金市館のプレートが残っています。
ちなみにラルズの母胎は大丸スーパーになります。
現在は、福原、ホームストアなどとも(主に流通仕入れ
等で)連携し、2002年11月からはアークス
グループを形成しているようです。
あとうちの親は50代くらいですが、普通に金市館で
会話を通したりするので、その世代くらいまでは
結構いると思う。
それから、こうなれば、蛇足ついでに。
>>42氏の>ロビンソンをヨーク(松坂屋)
について、語っておかにやあならん部分があるかと。
すすきの地区に松坂屋が進出するも、業績不振で
イトーヨーカドーの資本が入り、ヨークマツザカヤに。
(なのでヨークとはヨーカドーのヨークに近いもの、
だったんだよね)その後、すすきの随一の書店だった
東京堂書店なども撤退し、現在のロビンソン札幌店に
相成る、といったところか。何か間違っていたり、
補足するところがあればよろしゅう。
138 :
なまら名無し:2003/06/25(水) 00:28 ID:3WhuC4Ok
[ J016107.ppp.dion.ne.jp ] 伊藤洋貨堂ね
139 :
k:2003/06/25(水) 16:13 ID:sFSzCwmk
[ customer79-53.mni.ne.jp ] 134の続き
ヘリトンボ様からご紹介いただいた白石区のHP、中に「白石歴しるべ」という項目があり、これはPDFファイルで94ページ
にも及ぶ大作です。おそらく印刷物があることと思います。その内容については#132で牛鍋蝸牛様がご指摘されているよう
に、さらに検証を加える必要があるものも含まれていますが、巻末近くに収録されている地形図はなかなか興味のあるもの
でした。大正5年版以降のものはともかく、明治29年版は、特におもしろい内容でした。ここで記載されている道路は白
石地区では、現在のR12のほかは、例の「米里旭山公園線」の前身となった道路、「山道」、横丁通りだけです。
140 :
西創成:2003/06/25(水) 23:55:39 ID:sBPrLQvM
[ i102026.ap.plala.or.jp ] 皆さんしばらくでございました。
親戚の葬儀がつづきまして、おやすみしておりました。
お初の皆様、失礼ながらまとめて、ようこそはじめまして。
>>101 ひんかもさん
岩波写真文庫お持ちですか。
写真の注釈がおかしいですね。
>>119 kさん
その「曙」は、山鼻・曙地区ですか。
牛鍋さんのマネして、さっぽろ文庫1・札幌地名孝から抜粋します。
『もとは、東本願寺以南(現・南7条)一帯の野原、わけても柏樹林の地帯を、薄野の地続きであるところから明篠(あけしの)と呼び、更に暁野と改めたものである。
この地に札幌で初めて共同墓地が設けられたのは明治4年(1871)の春であり、それは現在曙小学校の建っている所で、暁野墓地と称していた。
この墓地設定以前では死者を葬るのに定所がなく、多くはその住居のかたわらに埋葬したのである。暁野墓地に初めて埋葬されたのは開拓使官吏の竹田某で、続いてオランダ人のヨハンゴタルト・ファンケット(開拓使御雇石狩川改良水利工師長)など国際色豊かな墓地であった。市街地、住宅地化の進展に伴い大正15年(1926)に墓地を移転後暁野を曙と当て字し、永い間、曙グランドとなっていた。
古老の話によると、このグランドで遊んでいて転ぶと、ほとんどが骨折などのけがをするので、地区住民がしばしば僧侶におはらいをしてもらったという。今では、この墓地あとに曙小学校が建てられ、この辺り一帯を曙地区と称している。』
今日はこの辺にさせていただきます。
141 :
ひんかも:2003/06/26(木) 00:25:09 ID:IOu1na/.
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] >>140 西創成さん
写真文庫の説明文は結構楽しめます。50年前ですから@出版。
時代を感じさせます。つか、「よくそんなものが書店にあったな」と古本屋の偉大さを
改めて感じました。
探せば他にも垂涎モノが掘り出せるのでは、とあらぬ期待を持ちつつも来月また
札幌関連の古本を探しに行って見ます。
札幌に住んでない(住めない)さみしさか・・・
142 :
牛鍋蝸牛:2003/06/26(木) 06:39:26 ID:6M39jdiQ
[ N045172.ppp.dion.ne.jp ] >>139確かに「白石歴しるべ」は出版されています。
ワシの最寄の図書館にもありますよ。
で、ここに出てきます地図ですが、この元の地図(札幌全図)は手に入りますよ。
以前にも書きましたが、「財団法人 日本地図センター」より出ています、「地図で見る札幌の変遷」。
本スレの住民の方でもお持ちのかたが多いようですが、明治元年・明治28・年大正5年・昭和25年・昭和50年・平成4年の地図がセットになっているものです。
ワシがよく引用しているのはコイツです。
定価3,500円。
それと、
>>140でも西創成さんが触れられています、「曙」の件。
ワシはてっきり「手稲区」の「曙」だとばっかり思っておりました。
「曙」ってこうして見るとあちこちにありますなぁ。
で、改めて「手稲区曙」を「さっぽろ文庫1 札幌地名考」で探してみましたら、こちらは載っておりません!
「手稲」の「曙」っていつ付けられたのかと上記の昭和50年の地図を見ましたが、この時点ではまだ「手稲前田」となっています。
新しい地名だったんですね。
>>136とろんとろんさん。
前にも書いたかもしれませんが、「Sタウン」の建設会社は「清水建設」でした。
「S」は「サッポロビール」と「清水建設」の頭文字なんでしょう。
「ホップ園」は昔、札幌市内のあちこちにあったようです。
ワシの死んだ母(ウソ。生きている)がいっておりましたが、昔ワシが生まれる前に、亭主(どうやらワシの父親らしい…)と「豊平」に住んでいたそうで、近所にやはり「ホップ園」があったそうです。
他には11丁目通りの「北部方面総監部」あたりもそうだったらしいです。
ただ、こっちも「旧教育大」付近との説もあり、はっきりしません。
一面、ホップだらけだったのかもしれないし…。
不確かな情報でど〜も、すいません。
143 :
新川番地:2003/06/26(木) 10:50:30 ID:IU7CkCts
[ p4254-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ] 札大辺りもホップ畑じゃありませんでしたっけ
豊平町に入るのかな
144 :
元村の村民:2003/06/26(木) 11:48:53 ID:2w2ilmqg
[ N018224.ppp.dion.ne.jp ] >>140>さっぽろ文庫1・札幌地名孝
この本は、信頼できる物でしょうか。読んでみると「?」と思えるのですが。
145 :
牛鍋蝸牛:2003/06/26(木) 12:31:19 ID:6M39jdiQ
[ N045172.ppp.dion.ne.jp ] え〜っと、このところいろいろな地名が出ておりまして、さしずめ「スレも立たないマイナーな地名"たち"in札幌」ってな具合なのではありますが…(w
まずは中央区の「曙地区」に関して補足。
考えてみればこの「曙地区」ってワシ、子供の頃ホームグラウンドにしていたんだよね。
「啓明地区」のがきんちょであったワシは、歩いて「中島公園」まで出張っていって遊んだりしてたものです。
しかし、あの辺りが「曙地区」っていうとは知りませんでした。
あそこは「中島」(辺り)と呼んでいたような気がします。
やはり、「中島公園」の印象のほうが強いですもんね。
あっちまで行くと、「啓明地区」の完全な住宅街としての落ち着いた雰囲気とは、またちょっと違った"街中"の雰囲気が楽しめたものです。
「幌西小学校」は母校の「緑丘小」とは兄弟校ということでとてもなじみ深い学校でしたが、そのとなりの「曙小学校」となると、もうピンときません。
ま、鼻たれボンズのことですんで、そんなもんだと思いますけど。
146 :
牛鍋蝸牛:2003/06/26(木) 12:33:30 ID:6M39jdiQ
[ N045172.ppp.dion.ne.jp ] で、釣られて、
>>140の西創成さんのレスに関連の補足をいたします。
そして奇しくも、「ホップ畑」で登場の「陸上自衛隊札幌駐屯地(北部方面総監部)」のご近所ネタなのです。
「曙小学校」があるところは「暁野墓地」の跡地とのこと。
では、「暁野墓地」が移転した先はどこかと言うと、現在の「札幌南警察署」および「山鼻南小学校」だそうです。
「駐屯地」の真向かいですわな。
「さっぽろ歴史散歩 山辺の道―定山渓紀行」(山崎長吉著 北海道出版企画センター)から引用します。
「札幌南警察署の北隣に屯田兵の像がある。この一帯は山鼻墓地、正式には山鼻屯田兵村共同墓地の跡地で、明治二十九年に設定された。ここは前年区民共葬墓地(東本願寺北側)と兵村専用の暁野墓地(現、曙小学校の地)の使用禁止の跡対策、さらに大正十五年暁野墓地の全面改葬を合わせた。昭和三十五年平岸霊園の開放と山鼻墓地の全面移転により昭和四十三年平地として再利用することになり警察署、さらに学校用地になった。
平岸霊園に山鼻墓地移転改葬に伴う無縁骨の安置場所が必要になり昭和四十一年納骨堂を建立した。これには暁野墓地無縁諸霊合葬墓も移転した。山鼻墓地跡は、平成五年三月山鼻南小学校の設置により、これまで南警察署裏手の広場は一変した。
南二十九条西十丁目に玄松寺がある。これは、明治三十八年に平井信燈が、山鼻墓地の管理と供養のため山鼻墓地法務所として建立したもので、昭和三十年に寺号を得、昭和四十二年に山鼻墓地移転のため浄土宗寺院となった。古老のいう「山鼻墓地の寺」というのはこの寺のことである」 (日本語変なところあるけど、原文のまま)
さて、「山鼻南小学校」のグラウンドで遊んで転んだ場合、やはり骨折とかしたのでしょうか?
どう考えても、「暁野墓地」より強力な墓地だったはずでっせ(w
147 :
牛鍋蝸牛:2003/06/26(木) 12:44:56 ID:6M39jdiQ
[ N045172.ppp.dion.ne.jp ] >>144元村の村民さん。
>さっぽろ文庫1・札幌地名孝
>この本は、信頼できる物でしょうか。読んでみると「?」と思えるのですが。
そう思えること、あるでしょうね。
で、「さっぽろ文庫」に限らないのですが、どんな資料もあくまで"参考"として取り上げて皆で、ワイワイとやっております。
変なところにお気づきでしたら、挙げてくださいね。
ワシも自らを顧みず、あっちこっちに疑問、難癖を付けております。
「あび」のマスターなんか、ワシのことクレーマー呼ばわりですぜ。
まったく、どこがクレーマーなんだよ〜!
…で、西創成さん、元村の村民さん、「地名孝」じゃなくって「地名考」です。
あ!
またクレームをつけてしまった!
148 :
なまら名無し:2003/06/26(木) 13:08:29 ID:bjUmtu2Q
[ K098187.ppp.dion.ne.jp ] 裏参道斜め通りの碑ですが、「藻岩村道元票」でした。
間違っててすみません。
149 :
k:2003/06/26(木) 21:03:47 ID:GMo9fo2g
[ customer69-233.mni.ne.jp ] >>142&146
ホツプ園及び山鼻墓地
昭和25年頃まで、市電を石山通でおりて少し行くと左側(東側)は、ずっーとホップ園が続いていました。今、自衛隊のあるところは
ほとんどがホップ園と考えてよいと思います。私の親戚の墓がこの山鼻墓地にあり、毎夏お盆のたびに通っていました。ちょうどその頃
ホップの収穫期にあたっていました。
それから山鼻墓地、場所は#146で牛鍋蝸牛様がお書きになっているとおりであり、ここは山鼻屯田兵村の共同墓地でした。今は平岸に
移転しています。
それからホップ園、平岸の現在幌南病院のあるあたりから、木の花団地にかけてもホップ園でした。ここは高校の夏休みにバイトに行っ
たことがあります。
>>142白石歴しるべの件 図書館にもあるとの由、さすがに地元の強みですね。当方は現在宮城県在住、とても望むべくもありません。
150 :
西創成:2003/06/27(金) 00:54:08 ID:GNWGluCM
[ i220059.ap.plala.or.jp ] 牛鍋さん有難うございます。「地名孝」じゃないです。「地名考」です。
失礼。
>>137とろんとろんさん
そうですね。ビル名は「金市館ビル」です。
ちなみにドンキホーテさんのビルも「サンデパートビル」のままですね。
>>141ひんかもさん
あの本のトウキビ売りの屋台の写真見て、思い出しましたが、あの黄色が強い細いトウキビの名前って「札幌八行」でしたか「札幌八桁」でしたか‥どっちでしたか。
あのキビ、軽味で私は好きなのですが、最近見ませんね。
十数年前にかいらくえん公園の横の八百屋さんで買って食べたのが最後なんです。
151 :
ひんかも:2003/06/28(土) 01:53:02 ID:WYboON7A
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] >>150 西創成さん
私もよくわかりません(大笑いだねこりゃ)
そう、昔はよくあちこちで行商のおばちゃんが売りに来ていました。
ガキの時分はよくわからずに親にねだって買ってもらった記憶も少しはあります
(ほんの少しね)
あと、行商といえば(話、脱線気味です、誰か元に戻して)丘珠地域だけかもしれません
が、ヘンな行商のオバちゃん(おばぁちゃんかもしれない)が「ごはんですよ」まがいの
「アラ!ゴールド」というのを売りに来ていたような気がする。
この商品、誰か知りませんか?
さて、久しぶりの書き込みで「コレだけでは悲しいだろ」ということで少々、東京でマイナー
ブームを巻き起こしている「ホワイトストーンズ」を少々。
東京でもあのDVDが手に入るということで、某友人が買ってきましたので早速見せてもらいました。
感想は・・・
うーん
です。
面白いんですが、教育テレビにバラエティをくっつけた感じ。
内容はあってないような・・・でも面白かったのは確か。
今、ホワイトストーンズはどこに。
追記:
白石区域内を語るのはホワイトストーンズを見てからだ!
152 :
西創成:2003/06/28(土) 02:00:19 ID:urdAj5/.
[ i220185.ap.plala.or.jp ] 親戚の葬儀に行ったときに、はじめてお話した遠縁のお爺さんがいました。
そのお爺さんは、いま、昭和10年頃の利尻・沓形の各町の住宅地図を思い出しながら書くことをライフワークにされているとのことでした。
「緑町」というのを見せて頂きました。
一戸一戸、きちんと戸主の名前が書いてありました。
よく覚えているなと感心しました。(島を離れて40年目だという)
なにか配達関係の仕事をしていたから、沓形は全部覚えていると言っていました。
この人に会って、倉本聰の『幻の町』(HBC北海道放送制作)というドラマを思い出してしまいました。これは、樺太・真岡の住宅地図を老夫婦で作っていて、それに絡んだ話ですが、望郷の念で作っているという点で、共通するところがあるかと。
153 :
k:2003/06/28(土) 11:47:23 ID:JqjBJyig
[ customer69-233.mni.ne.jp ] >>148「藻岩村道元票」でしたか。わざわざご確認いただきありがとうございました。いずれにせよ、
明治までさかのぼることができる「斜め道」だったのですね。「これにて一件落着」というわ
けではないにせよ、ひとつ大きな収穫であったと思います。
とりあえず御礼まで。
154 :
なまら名無し:2003/06/28(土) 12:20:13 ID:eWv60J3I
[ p21164-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 「あいのり」っていう地名があるって知ってました?
155 :
154:2003/06/28(土) 12:21:15 ID:eWv60J3I
[ p21164-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
156 :
154:2003/06/28(土) 12:22:22 ID:eWv60J3I
[ p21164-adsao02sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 「あいのり」は「あいの里」です。「あいのさと」が正しい読み方だけど、
「あいのり」とも読めるっしょ?
157 :
牛鍋蝸牛:2003/06/28(土) 22:32:51 ID:/jGWCc2c
[ N045172.ppp.dion.ne.jp ]
158 :
西創成:2003/06/28(土) 23:24:01 ID:nK0yWMZc
[ m174192.ap.plala.or.jp ] そうしたら、どちらにしますか。
159 :
なまら名無し:2003/06/28(土) 23:29:11 ID:QT1WkuIA
[ JJ065141.ppp.dion.ne.jp ] とにかくバッタ塚に行け!
160 :
牛鍋蝸牛:2003/06/29(日) 08:07:11 ID:WhF97G92
[ N045242.ppp.dion.ne.jp ] 「バッタ塚」とのお声がかかりました。
これは地名ではありませんが、「手稲ネタ」ですね。
>>105でも「手稲東」、「手稲梅園」ってのが出ていました。
前に「手稲前田」をやった時、土地鑑のある住民の方は少なかったようですけど。
まずは、一つ目の候補ですね。
もし、決まったら言い出しっぺは率先して調査してね。
あ、そういえば、宿題があったんだ。
「水揚場」…。
前スレで「苗穂」終わったらやると、ワシ言ったんだっけ。
とりあえず、資料はありますので、後で紹介させていただきます。
その間、新テーマの選別よろしく。
それと、「旭りんご」に関して、補足します。
ワシも子供の頃、コイツはよく食べたもんですし、すっぱかったけどそれなりに美味しかった。
その後の調査によりますと実際の「完熟旭」は、「旭」という品種は本来とても甘いそうなんですよ。
しかし、木になった状態で完熟を待っていると、重みで枝が折れて実が落ちることが多かったそうです。
そのため農家は熟する前にもいでしまい、結局店頭にはすっぱい「旭」が並ぶことになったらしい。
以上!
161 :
牛鍋蝸牛:2003/06/29(日) 20:54:25 ID:IfACJJG2
[ N045173.ppp.dion.ne.jp ] う〜ん、今のところ次のテーマ地名は出ていません。
ワシはこの間を利用して、簡単に(ごめんね)「水揚場」をやらねばと思いつつ、「冷却シートダイエット」でもやろうかと…。
162 :
牛鍋蝸牛:2003/06/30(月) 21:32:01 ID:BpxuXt5A
[ U124200.ppp.dion.ne.jp ] 月末上旬は忙しい…。
このフレーズ、なんどこのスレに書いたことか。
ということで、ワシは個人的に「バッタ塚」に行ってみようと思っております。
北海道各地にあった「バッタ塚」。
ちょっと調べた所、「拓北」にもあったそうですが、現存するのは「手稲山口」だけとのことです。
その前に「水揚場」なんだけど、お酒(今日は日本酒)飲んでもう、眠いのだ。
ごめんしてケロ。
163 :
牛鍋蝸牛:2003/07/01(火) 21:59:53 ID:ihOt7HGE
[ N046003.ppp.dion.ne.jp ] 前スレに18丁目さんが書かれました、「水揚場」の解説は「東区今昔」の「蒸気機関の黒煙がたなびく 中沼農事振興組合」の前文からの引用です。
「市営バス丘珠線に乗り、広々とした玉ネギ畑の続く丘珠を過ぎる。そこからさらに東へ進むと、中沼小学校の手前に「水揚場」という停留所がある。現在は畑の広がるこの地区は、かつて中野と呼ばれ、蒸気機関でモエレ沼の水を揚げ、稲作が盛んに行われていたものである」
で、本文は次のように始まります。
「夢のような造田計画 富山県や福井県などの人々が、この地に入植したのは明治中期。アシやヨシが生え、手の付けようもなかった湿地帯や、うっそうとした原生林の中に開墾のクワをおろしたという。その後、中野四郎によって、中野開墾が開かれ、明治三十年ころには、本間國蔵の手で開墾が進められていた」
以後長文のため、要約。
本間國蔵の信念「百姓は自分の作った米を食べなければならん」に基き、豊平川の蛇行によって出来た三日月湖である、「モエレ沼」の灌漑事業が始まった。
大正三年、一日一トンの粉炭を燃やす蒸気機関によって、モエレ沼の水は汲み出された。
相次ぐ機械の故障と樋の水漏れで、わずか80fの造田しかできなかったが、それでも大正八年ころから、中野の稲作は軌道に乗り、蒸気機関に代わり昭和四年にはディーゼル発動機が導入され、東京の地主との農地解放交渉にも成功、昭和十四年には中野農事振興組合を結成するに至った。
これにより長年小作農として苦しんできた農民たちも自立の道を歩み始めることになる。
昭和十八年、電気動力の導入に成功。暗渠排水などの農地改良、ハウス育苗などによって、泥炭地帯としては他に類を見ない優良生産地帯に成長した。
その後、昭和三十年代に全盛期を迎えた中沼の水田も、モエレ沼の水不足、減反政策などで耕作面積は減少の一途をたどり、昭和四十八年には全面休耕、翌年には中沼農事振興組合が解散することになる。
現在、水田灌漑の原動力として使われた蒸気機関、ディーゼル、電動力と三代に渡る水揚場の基礎の上に、中沼農事振興組合の記念碑が建っている。
164 :
牛鍋蝸牛:2003/07/01(火) 22:01:23 ID:ihOt7HGE
[ N046003.ppp.dion.ne.jp ] >>163のつづきでおます。
う〜ん、「モエレ沼」かぁ〜。
二年ほど前に行ったっけ、「モエレ沼公園」。
まだ工事の途中なんでしょうね。
「水揚場」にも行きたくなってきた…。
この目で確かめたい。
あ、些細なことで恐縮ですが、この文章の書き出しに「アシやヨシ」とありますが、この二つは同じモノです。
試しにキーボードで「アシ」と「ヨシ」を打ってみて下さい。
両方とも「葦」になりませんか?
本来、植物の呼称としては「アシ」なのですが、「アシ」は「悪し」につながるので、縁起を担いで「ヨシ」(良し)と呼んだのです。
ちょっとした勘違いってやつですな。
そういえば、「人間は考える葦である」と「随想録(パンセ)」の中でパスカルは喝破しましたな。
しからば、「葦は考えない人間であるのか?」というお噂に関しては、明日のココロだ〜。
165 :
18丁目:2003/07/01(火) 22:12:42 ID:3Jzuf32c
[ p9186-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 素朴な疑問ですが、篠路付近に「ポンプ場入口」というバス停がありますが、
あれは「水揚場」とは無関係でしょうか?
位置的に少し離れていますかね?
とにかくあの辺一帯は、少し前までの牧歌的な風景が見る見る消失していっています。
ちょくちょくチェックしに行っておいたほうが良いかも。
166 :
牛鍋蝸牛:2003/07/01(火) 22:40:39 ID:ihOt7HGE
[ N046003.ppp.dion.ne.jp ] >>16518丁目さんの、"素朴な疑問"の答えをと思い、今度は「東区今昔3 東区拓殖史」を紐解いてみました。
今のところ、「ポンプ場入口」に関しての記述はないのですが、大元の「水揚場」に関しては、かなり詳しく書かれていることに気がつきましたゼ、だんな。
…とは申しましてもな、今日も今日とて酔っ払いのワシはもう、それを調べる気力もなく、だただた、ひたすら惰眠を貪るべく…。
(+.+)(-.-)(_ _) ..zzZZ
167 :
新住人:2003/07/02(水) 19:40:09 ID:sZZ.uGJQ
[ pl1780.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ] あの〜、茨戸って昔からあの区画だったんでしょうか?
なんか不思議な間取り(?)と感じます。
茨戸の土地に篠路が食い込んだんでしょうか・・・?
168 :
牛鍋蝸牛:2003/07/03(木) 22:40:29 ID:YUgRyhrs
[ L066142.ppp.dion.ne.jp ] 本日、「水揚場」に行ってきました。
検証がまだなので、画像はキャプションなし。
いつもの「アルバム」に追加しましたので、ま、今日のところは各々皆さんで探してみてください(w
だって、酔っ払って眠いのはいつものことだけど、思いがけなく日焼けしてしまって、疲れちゃったよ。
(腕痒い。顔赤い…)
で、その前に、また念写した画像があったりします。
土地の面積が、31,526u。そのお値段は、 638,364,000円。
建物の広さは、 1,592u。そのお値段は、 2,533,000円。
はたまた別の試算では、締めて1,501,682,000円…。
この物件、まだ払い下げにはなっていないようです。
169 :
西創成:2003/07/05(土) 04:01:21 ID:PZXy2/Ns
[ i100093.ap.plala.or.jp ] 新住人さんこんばんわ。
茨戸付近といえば耕北農場も思いだされますな。
170 :
牛鍋蝸牛:2003/07/05(土) 08:56:00 ID:n3jALyXg
[ N046176.ppp.dion.ne.jp ]
171 :
牛鍋蝸牛:2003/07/06(日) 10:34:51 ID:tPDxsizw
[ N046078.ppp.dion.ne.jp ]
172 :
新住人:2003/07/06(日) 10:56:28 ID:HmUp91VM
[ pl705.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ] 今月の広報さっぽろ東区版には、苗穂、丘珠、雁来の地名考が掲載されてます。
173 :
牛鍋蝸牛:2003/07/06(日) 20:25:36 ID:tPDxsizw
[ N046078.ppp.dion.ne.jp ] >>172新住人さんのレポートで、ぜひ「広報さっぽろ 東区版」を見てみたいと思いまして、
http://www.city.sapporo.jp/somu/koho-shi/ から「区民のページ」
http://www.city.sapporo.jp/somu/koho-shi/ku_index.html を探してみましたが、残念なことに今月号のPDFファイル化はまだのようでした。
あったのは6月号まで。
しかしながら、6月号でも「中央 思い出の市電写真帳」、「北 地名に残る、その地の歴史」、「豊平 豊平地名巡り」など地名・歴史関係の記事が盛り沢山!
これもひとえに、このスレの住民の方々の、努力の賜物であるとワシは思っておるのであります。
ま、冗談はその辺にしておきまして、実はまたまた重大なマチガイを発見してしまったのです!
(だからクレーマーと呼ばれる。いや、呼ばれてはいない)
問題は、「豊平 豊平地名巡り」の、「歴史ともに移り変わってきた地名―水車町」の記述。
「もともとは「豊平○番地といわれていたこ地域で、昭和になってからは、「豊平川岸○丁目」や「水車通り」と呼ばれていたこともあります」というところ。
これは「豊平区市民部総務企画課広聴係」が発行した「豊平区の歴史」からの引用と思われるのですが、「水車通り」の呼び名は昭和になってからのものではなく、大正からそう呼ばれていたものなのです。
この問題、今回取上げるのは二回目。
すでに、昨年の12月の初めにワシが豊平区市民部総務企画課へ"わざわざ"行ってマチガイをおせ〜てあげたのに…。
その顛末は「その五」の#85あたりからのレスをご覧頂きたい。
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#85今回また同じ過ちを犯した豊平区に「渇ッ!」
尚、札幌市の係りにメールしておきました。
あえて「クレーマー」の汚名を着て…。
平成十五年七月吉日 牛鍋蝸牛記
174 :
ひんかも:2003/07/07(月) 02:13:19 ID:Ko7hL1bs
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] 今回の「広報さっぽろ」の特集、いいですねぇ。見ましたよ。このスレッドにぴったりの
情報が沢山載ってましたね(6月号ですが)。
新住人さん、良質な情報をありがとうございました。
先日、早稲田通りの古本屋を巡ってきたのですが、さすがに札幌の本ともなると
なかなかお目にかかりませんことよ。
これからもドンドン探してみることにします。
よいソース(情報源)がありましたらここで紹介していきたいとおもっております。
でわ
175 :
新住人:2003/07/07(月) 20:13:25 ID:WTVY70SQ
[ pl613.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ]
176 :
新住人:2003/07/07(月) 20:14:53 ID:WTVY70SQ
[ pl613.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ] あっ、ちなみに、今月号はもう目を通しちゃったので、捨てちゃいました。
(怒られそう・・・)
177 :
牛鍋蝸牛:2003/07/07(月) 22:25:09 ID:4ZvF.Zc2
[ N046078.ppp.dion.ne.jp ] >>175新住人さん。
リンクはスレ番3桁…。
そうでしたね。
今月号の「広報さっぽろ 東区版」。
ま、東区役所に行けばもらえるんでしょうし、問題なしです。
ワシは寛大なのですよ、ほっほっほ!
そのうちPDF版も出るでしょうしね。
あ、まだ、札幌市(あるいは豊平区)から「水車通り」に関してのレスは来ておりません。
>>175ひんかもさん。
東京で札幌関係の資料を探す…。
なんとも大変そうな仕事ですね。
ワシもそうは古書店を廻っているほうでないので偉そうなことはいえませんが、「北海道」あるいは「北方関係」の本は多くとも、こと「札幌」に限った本というのはなかなかあるもんじゃないのです。
ネットで探すのも賢いやり方と思えますけど、現物を手に取って見るわけにはいきませんしね。
ワシは、図書館が車で10分程度の所に住んでおりますので、とっても重宝しています。
コイツはワシの「宝」ですね。(分かっているとは思うけど、焼酎のことではない)
178 :
元村の村民:2003/07/08(火) 20:05:21 ID:FtZPohkg
[ N017117.ppp.dion.ne.jp ] >>174国会図書館はどうですか。
>>177 弘南堂今年7月の目録を見ると、明治32年の「札幌案内」、明治43年「最近之札幌」、「札幌開始五十年記念写真帖」など11冊が載っています。
古書店は、店頭になくとも在庫がある場合があります。
また、在庫がなくとも頼んでおくと探してくれます。
サッポロ堂は、在庫がデーターペース化されていますが、奥の倉庫の何処にあるのか判らない場合があります。
でも、次回までには探してくれますよ。
ただ、札幌関係の古書は高価で、わたくしは、なかなか手が出ません。
179 :
牛鍋蝸牛:2003/07/09(水) 04:52:55 ID:OyNUzYzo
[ N046058.ppp.dion.ne.jp ] ひんかもさん。
札幌、北海道関係の本ということで、ワシのところにあるモノを紹介しましょう。
半分以上は現行本ですので、北海道以外でも手に入ると思います。
その前に…。
皆さんご存知かもしれませんが、書店の店頭にない本を買うなら、「Amazon.co.jp」が便利〜!
もちろん検索出来るし、配達料も1,500円以上の本ならただだし、一旦登録すれば繋げるだけで「こんにちは、牛鍋蝸牛さん」てな具合でクレジットカード決済が出来、話が早い。
なんと言ってもネット発注してから2〜3日で届くのが嬉しいです。
街の本屋じゃ、こうはいかまい。
(本屋さん、ごめんなさい)
では、順不同ではありますが、リストを。
「さっぽろ文庫1 札幌地名考」 (北海道新聞社)
「さっぽろ文庫66 札幌人名事典」 (〃)
「北緯43度札幌というまち…」 (清水書院)
「豊平区の歴史」 (札幌市豊平区)
「年表でみる北海道の歴史」 (北海道新聞社)
「新北海道史年表」 (北海道出版企画センター)
「札幌百年の人」 (北苑社)
「札幌・市電の走る街」 (トンボ出版)
「札幌市電が走った街 今昔」 (JTB)
「さっぽろ歴史散歩 山辺の道−定山渓紀行」 (北海道出版企画センター)
「北海道ひと紀行」 (北海道新聞社)
「札幌の建築探訪」 (北海道新聞社)
「星霜 北海道史 1〜6」 (北海道新聞社)
「新聞と写真に見る−北海道昭和史」 (北海道新聞社)
「地図で見る札幌の変遷」 (財団法人 日本地図センター)
「札幌街並今・昔」 (北海道新聞社)
「札幌案内」復刻版 (みやま書房)
180 :
元村の村民:2003/07/09(水) 07:57:22 ID:TVenLHpY
[ K098102.ppp.dion.ne.jp ] 札幌の書籍で盛り上がってきたようですので、・・・・。
江南堂の目録で、目に付くのが
「開道五十年記念 札幌全図」大正7年 15000円
「札幌市街全図」明治43年 60000円
「最新札幌市街案内図」昭和17年 4500円
「北海道石狩国札幌郡琴似発寒村是調査」明治37年 35000円
他に琴似村関連が数冊、豊平町史等々。
今月の目録は、「宮部金吾白紙旧蔵書」が載っています。このため札幌農学校関係の書籍が多数記載されています。
これらを精読すれば、重要な知見を得ることが出きるかも知れません。
181 :
牛鍋蝸牛:2003/07/09(水) 09:06:14 ID:LQv20sFs
[ U121254.ppp.dion.ne.jp ] ネット検索で改めて気が付きました。
いえ、普段使っている図書館のことなんですけど、歴代の札幌の地図ってのが結構あるんですよ。
しょっちゅう行っているのに見たことない…。
こんど探してみよう。
>>180元村の村民さん。
専門的な古書って、確かに高いっすね。
買って買えない値段ではありませんけど、こちとら専門家ではないのでなかなか手を出す気にはなりませんです。
ま、ワシとしては、「新札幌市史」の「通史」だけでも揃えたいなぁ…、と。
さて、シコシコやっております「水揚場」の詳細ですが、「東区今昔3 東区拓殖史」(昭和58年初版 札幌村郷土記念館編)から「中野」。
同書では、
「現在でも水辺にキタヨシなどが生い茂る、モエレ沼。かつては中野地区そして沼の端地区をもその沼底にしていたのかもしれない」
で始まります。
長文ため抜粋します。
「泥炭地層であるこの地区が開拓され始めたのは元村、丘珠村の開拓に遅れること二十年余りの明治二十四年(1891)。
明治十九年に未開拓地の開墾を目的にした「北海道土地払下規則」が制定され、永山盛繁他数名が払い下げを受けてからである。しかし、永山はこの土地を遊ばせていたようで、本格的な開拓は明治二十七年(1894)に中野四郎の手に移ってからである。
中野は越後の生まれで、明治十七年(1884)新潟県より現在の中央区南一条西三丁目に転住し、その後、南一西二に貴金属商を営んでいた。(二代目の中野四郎は北海道のスキー作りのパイオニア。『つばめスキー』のブランドで、軍需用などで売上を伸ばす)
中野は個人で小作人を募集、その条件が、
『小作人になって開拓に従事すれば一年分の食料は保証する。さらに種も配布する』というもの。
小作人二十戸が入植した地は"中野開墾"と呼ばれ、現在この地が「中野」と呼ばれる起源である。
ただ、中野地区の土地の所有関係は登記簿上では、板谷宮吉(当時の小樽商船社長)他二名となっているので、中野がこの他二名のうちの一人であろう。『中野開墾』と呼ばれたのは現地管理人の役割を果たしていたためと思われる」 <つづく>
182 :
新住人:2003/07/09(水) 20:38:20 ID:ugo3fXag
[ pl1476.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ] 広報さっぽろが、今月号に更新されました。
東区版の地名考が載っているのは、4ページ目です。
>>181シコシコやっております
と書かれると違うことを考えてしまうのはオレだけでしょうか??
183 :
元村の村民:2003/07/09(水) 21:28:40 ID:FgHpXPTc
[ H016149.ppp.dion.ne.jp ] >182
地名考(二)を読みました。これが、札幌市が出している内容とは悲しくなります。
とはいえ、このような誤りがあるものでも、誰も指摘しないのでしょうね。
言っても理解出きる人もいないでしょうし。残念です。
184 :
18丁目:2003/07/09(水) 22:09:38 ID:UwK4Jve.
[ p7131-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>183えっ?地名考(二)とは、広報さっぽろ7月東区版ですか?
どのような間違いでしょう、お教えください。
185 :
牛鍋蝸牛:2003/07/09(水) 22:18:55 ID:LQv20sFs
[ U121254.ppp.dion.ne.jp ] 新住人さん。
「シコシコ」で反応しているようでは、
http://www.city.sapporo.jp/somu/koho-shi/ku_index.html 「手稲歴史探検隊」で「手稲」の元になったと書かれている、アイヌ語の「テイネ・イ」の意味を知ったら、大変なコトになりそうです(w
えっと、「水揚場」関連の「東区今昔3 東区開拓史」の続きを書きたいのですが、本日「らーめん あび」にて偶然にも新川番地さんとお会いしましたので、そっちのことを書いちゃいます。
報告させていただきましたように、新川番地さんからは「割烹 いく代 七十年のあゆみ」のコピーを頂きました。
お礼に「あび」には、新川番地さんがいらしたら、ラーメン一杯ご馳走してあげて欲しいと伝えておったのです。
「彼、最近忙しそうだよ」とマスターから聞いていたのですが、「あび」に向かう途中、新川番地さんそろそろ今日あたり来るんじゃないかな?と思ってはいたのですが。
新川番地さんは、なかなか風格のある方でして、マスターが、
「あの人が言うならそうかな、と思わせるものがある」と言っていたのが、これまたなるほどと…。
ま、こういうのっては本来照れくさいものなんでしょうが、今ままでにも啓タさんと18丁目さんに偶然お会いしてるせいか、すっかり慣れちゃっている自分にびっくり。
主に「いく代」関連の話をさせて頂きました。
先日、たまたま「行啓通り」で「居酒屋 いく代」って看板を見つけて写真を撮ってあったのですが、その店のことも出ました。
「割烹 いく代」の流れを組む方がやってらっしゃるようだとのことでしたね。
ということで、撮っておいてまだアップしていなかった画像です。
新川番地さん知らないだろうと思っていたのですが、ご存知だったのねぇ〜。
http://groups.msn.com/mle7qlifk9homg4ge6fkail261/in.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=656
186 :
牛鍋蝸牛:2003/07/09(水) 22:24:54 ID:LQv20sFs
[ U121254.ppp.dion.ne.jp ] >>184あ、そうそう、ワシも「広報さっぽろ7月東区版 地名考(二)」の決定的な間違いというものに気が付きませんでした。
諸説・異説があるのは分かるのですが…。
どこが間違っているのでしょうか。
お教えていただけたら幸いです。
187 :
元村の村民:2003/07/09(水) 22:41:54 ID:mfsKd81.
[ N017101.ppp.dion.ne.jp ] >185
「手稲の歴史探検隊」を読みましたが、ヒドイ物ですね。
札幌市は子供達に何を伝えたいのでしょうか。この状況を、諦めるしかないのでしょうか。
188 :
元村の村民:2003/07/09(水) 22:45:40 ID:w0owoBjY
[ H016107.ppp.dion.ne.jp ] >186
諸説・異説のものではありません。基本的な誤りです。
「ミンダラ」と書いてはアウトです。
189 :
とろんとろん:2003/07/09(水) 22:48:03 ID:ppPWTBSg
[ p2138-ipbf05sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>150 西創成さん
>あの黄色が強い細いトウキビの名前って
>「札幌八行」でしたか「札幌八桁」でしたか‥
>どっちでしたか。
たぶんそれは「八列トウキビ」のことではないかと。
ピーターコーンが出てくるまでは札幌でも主流の
トウキビで、結構作り方の難儀な品種では
あったらしい。
母親の話によると、今も石狩市の方で一部
作っている農家があるらしい。
あとは去年あたりのSTVのニュース
(CSのNNN24なんかでも流れる
ような地域ニュース)で「八列トウキビ」を
時期になると「ゆでトウキビ」にして
売る豊平の方の八百屋に関してニュースで
取り挙げていたこともあったからSTV
あたりに問い合わせて観るのも手かもしれない。
…で、牛鍋蝸牛さん、新川番地さんはじめ
「ホップ畑」情報、ありがとうございます。
でもこのあたりを考えると水利の関係から
苗穂に構えていたサッポロビール関連の
土地情報云々が結構見えてくる感じがして
面白いところですねえ。
それと
>>145 牛鍋蝸牛さん
そうか!私も一応「緑丘小」が母校になります。
まあ病気と転校の関係で実際通ったのは
1ヶ月と少しだけでしたが。
190 :
牛鍋蝸牛:2003/07/09(水) 23:13:33 ID:LQv20sFs
[ U121254.ppp.dion.ne.jp ] >>188あ、「ミンダラ」か!
なるほど、それでしたか…。
こりゃ、歌うしかないな。
♪ ぼく等はミンダラ生きている〜
…失礼しました。
「手稲区版」は確かにね、おちゃらけすぎ。
人のことは言えませんけど(w
子供に迎合してはいけません。
子供はそういう大人をバカにしますから。
191 :
牛鍋蝸牛:2003/07/09(水) 23:14:21 ID:LQv20sFs
[ U121254.ppp.dion.ne.jp ] ということで、「広報 さっぽろ」のクレーム関係のお話を引き続き…。
さきほどメールチェックしましたら、豊平区市民部総務企画課公聴係様よりお便りが届いておりました。
>>173の「水車町(水車通り)」の間違いの件です。
「豊平区の歴史」の改訂版が出来たそうで、それでは去年ワシが指摘した間違いを訂正したそうなのですが、先月号の「広報 さっぽろ豊平版」では、訂正前のものを原稿にしてしまったそうです。
それで、8月号で訂正をするとのこと。
ま、こういうことってありがちなのかもしれないけど、地名などに関しては行政機関が一度しょうもない間違いを犯すと、それがまかりとおってしまう危険性がありますから事は重大だと、ワシは思うのです。
豊平区が豊平区の地名に関して発言すれば、それはもう完全なる「権威」ですからね。
おとろしい…。
ワシ等、権威ないけど、それでも気をつけているよね。
ところで皆さん。
明日は本スレのアニバーサリーですね!
192 :
18丁目:2003/07/09(水) 23:23:04 ID:UwK4Jve.
[ p7131-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] なんと!明日で一周年?
もっとながーくやってきたような気もするけど、1年か・・・。
感慨深いものがありますね。
193 :
元村の村民:2003/07/09(水) 23:39:59 ID:lj0qKFC6
[ H016164.ppp.dion.ne.jp ] 「手稲の歴史」で気になったこと
「テイネ・イ ぬれているところ」は明治の永田方正の説です。いまどきこの説が正しいとすることに疑問です。
「タンネ(長い)ウェン(悪い)シリ(その山)」で、なぜ「シリ」を「その山」と所属形で解釈するのか不思議です。
「ウェン・シリ」は熟語で「ウェイシリ 崖」となることは、最近では手稲の解釈では当然のこととされています。
せめて、山田秀三氏の説を引用して頂きたかったですね。
194 :
新川番地:2003/07/10(木) 01:30:29 ID:4tSRp6eY
[ YahooBB219041108253.bbtec.net ] 1年経ちましたか・・・ 感慨深いですね
感激でお腹もいっぱい・・・あ、これは牛鍋さんにごちそうになった感激だ
何か颯爽とした合いの手を考えようと思ったのですが、疲労がたまっておりまして
もー寝ます
おめでとう そして牛さんごちそうさま
195 :
牛鍋蝸牛:2003/07/10(木) 08:46:56 ID:5RcaCGXg
[ L066084.ppp.dion.ne.jp ] おめでとうございます!
一年経ったからどうだってのもあるかもしれませんけど、文字通り浮き沈みの激しいネット掲示板でこれだけ続いたというのはそれはそれでおめでたいと、素直に喜びたいと思います。
>>193アイヌ語地名に関しては専門家でも諸説紛々ですね。
すでにアイヌ語が話せる人が少ないから、あるいは文字として残っていない言語であるからなのでしょうか。
日本語の地名でもはっきりしないものが多いのだから当たり前といえば、当たり前かもしれませんけど、そのわりには(だからかな?)書店に行くと「アイヌ語地名本」ってかなり出回っているんだよね。
そうそう、書き忘れました。
昨日書いた件で、豊平区様より「豊平区の歴史 改訂版」、送っていただけるそうです。
196 :
元村の村民:2003/07/10(木) 08:56:46 ID:PW/mf0p6
[ N019129.ppp.dion.ne.jp ] >>195>アイヌ語地名に関しては専門家でも諸説紛々ですね。
現在は、アイヌ語地名の専門家と言える人は、数名しかいません。
それらの人の間では、ある程度の合意があります。ですから、諸説紛々ということはありません。
ただ、専門家と勘違いされているかたが、妙なことを書いています。
現時点で、ある程度正しいと言われているのは山田秀三氏の著作です。
197 :
なまら名無し:2003/07/10(木) 20:13:36 ID:glDXCso6
[ o051127.ap.plala.or.jp ] 亀レス。。。
北海学園大学の3階の図書館には札幌の本結構ありますよ。
まぁ、ほとんどが札幌文庫だけど。。。
198 :
新住人:2003/07/10(木) 20:40:55 ID:aXmTlxug
[ pl939.nas921.sapporo.nttpc.ne.jp ] 一周年おめでとうございます。
1年でかなりの地名の由来がわかったり、不明な部分が鮮明になったりと
すばらしいスレですね。
これを機会にオフ会・・・なんてね。
199 :
殺人予備軍の来る危険な店!!!!:2003/07/10(木) 22:59:04 ID:/Fz.M0mI
[ q103-dna08iwamizawa.hokkaido.ocn.ne.jp ] 札駅北口のヨド*シカメラの近くの
100円の讃岐*どん店友達といったら、全然しらないホームレスみたいな
天然パ〜マ(アフロなみ)の出目金みたいな浅黒い中年男に
突然『いま俺の顔みてわらっただろ!!』って怒鳴ってきて
暴力振るってきた!ほんとこわかった。
しかもソコの男の店長、助けにもこないべや!!!!しらないふり。
だれかコノ男について知ってる人いませんか?
こんど警察にいいます。
あそこ行かない方がいいよ、治安わるいべや、変な客いるよ。
まじ殺されるかとおもった。追い掛けてきたし。みなさん注意してね。
あの店超危険!!!!もしそいついたら警察呼んだ方が身のためですよ。
注意してね!!!!
200 :
ひんかも:2003/07/11(金) 01:17:15 ID:DYmGJ61A
[ ad216.ade.ttcn.ne.jp ] 最近仕事の帰りが遅くてROMってばかりです、スイマセン・・・
ところで
一周年おめでとうございました!
これからもますます成長させてみようではありませんか!
でわおやすみなさい(土曜日まで何も出来ません・・・トホホ)
201 :
牛鍋蝸牛:2003/07/11(金) 21:50:08 ID:DmHsNZtc
[ L066084.ppp.dion.ne.jp ] >>196つまりはアイヌ語地名にも「トンデモ本」があると言うわけですね。
このスレではあまりアイヌ語地名に重きを置いていませんけど、そのスタンスは正しいのかも…。
言語学もからんでは素人では手が出せません。
ま、ワシとしてはあくまで地名に、歴史、エピソード等をからめ、その土地の現在の姿を見据えつつ、「実地調査は楽しいなぁ〜♪」をモットーに楽しんでいこうと、こう思うとりますんで。
ちゅ〜ことで、みなさんも是非、実地調査に行って見てね。
地理的条件等で、実地調査できない方は、リクエストってのも手でしょうかね?
でも、到底ワシだけでは処理し切れませんので、一つ自己犠牲の精神(俺が!俺が!)でよろしく。
>>189とろんとろんさんへ。
ワシの啓明中学校の後輩とのこと。
かなり年代は隔てておるのでしょうが、今後ともよろぴく。
では、一言…。
「頑張っているかッ!」
…尚、18丁目さんは大学の後輩に当たるそうです。
あまり無駄話をするとANNEXへ行けと言われかねません。
そろそろ、真面目にやるぞ。
ということで、
>>181の続き、忘れたわけではありません。
202 :
なまら名無し:2003/07/11(金) 22:09:22 ID:tCA6e18M
[ 203.14.169.18 ] そろそろ、ANNEXへ行け
203 :
牛鍋蝸牛:2003/07/12(土) 09:57:49 ID:zLrTHgtI
[ L066084.ppp.dion.ne.jp ] >>181「水揚場」の続きです。
「東区今昔3 東区開拓史」より要約します。
「中野開墾は明治三十八年には、中野と本間国蔵の所有となった。本間も当時、雑貨商を営む商人だった。
中野開墾で僅かの間、小川二郎が牧草地経営を試みたという古老がいる
小川は札幌興農園、五番舘の創始者であり、牧草地経営にかけては順風満帆であったものの、日露戦争後の不況により五番舘を手放すことになる。推論として、中野の牧草地経営から手を引く要因もここにあったのではないだろうか」
小川二郎氏といえば、「その五」の#297
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/5_log.html#297 からを参照いただきたい。
親友の小川氏の「興農園五番舘」に資金援助をしていた小田良治氏は、明治四十三年に経営を引き継いだ際に、形態を百貨店にし、豊かな国際経験を生かし、国内外の優良品を取り揃えたのでありました。
また、「札幌トヨタ自動車」は五番舘の自動車部を母体にしているのでありました。
さて、本間国蔵さんが、モエレ沼の水を蒸気機関で揚水する造田開拓を始めるのはこの後のことだそうで。
204 :
牛鍋蝸牛:2003/07/12(土) 15:10:16 ID:zLrTHgtI
[ L066084.ppp.dion.ne.jp ] 「水揚場」の続き。
「本間国蔵はモエレ沼の水をくみ上げ、造田する計画を立てる。同時期、伏古川、烈々布でも灌漑が進み、現・東区の造田の黎明期といえる。
大正二年、道から許可を得、翌年には蒸気機関揚水機が完成する。機械の故障、樋の水漏れなどで80町歩ほどの実績しか残せなかったが、粉炭を燃やし、煙突からたなびく黒い煙に農民は勇気付けられた。
大正七年、本間は造田の目的を果たしたのと、度重なる設備故障のための資金状態の悪化により、灌漑設備水利権、所有地を東京、太田商事株式会社に譲渡してしまう。
社長の太田清蔵は太田農場と名付け、管理人として田中信吉をあてた。
昭和四年、灌漑設備はディーゼルエンジンに代わり、木樋はヒューム管へと改良された。
しかし、小作年貢の重圧に耐えかね離農する農家もあり、部落民は昭和十二年、農地解放運動に立ち上がる。東京の地主と折衝を繰り返し、昭和十三年、四十六戸の自作農が創設され、中野農事振興組合が組織されるに至った。
中野の農民の造田意識は高まり、昭和三十年代には美田が広がる篠路町一の米どころと、名をはせるようになった」
205 :
牛鍋蝸牛:2003/07/12(土) 15:23:51 ID:zLrTHgtI
[ L066084.ppp.dion.ne.jp ]
206 :
牛鍋蝸牛:2003/07/12(土) 22:00:53 ID:zLrTHgtI
[ L066084.ppp.dion.ne.jp ] う〜ん、今まで色んなとこを調査してきましたが、どこを調べても、それはそれなりに気がつかされることがあるものです。
今回の「水揚場」では、封建主義がはびこっていたであろうと思われる昭和十二年に、すでに農地解放運動があったことを知りました。
農地解放(改革)といえば、戦後にGHQの指導の下に行われたとばっかり思っていたもんですから、目からウロコ…。
小ネタの割にはなかなか勉強になったな〜。
昭和十二年といえば二・二六事件の翌年です。
青年将校らによる軍事クーデターは失敗したものの、事件の影響で軍部に物が言いにくい雰囲気が漂い始めた時期。
まぁ、そう考えると小作農が自立運動をするには、ギリギリいい時期だったのかもしれませんねぇ。
207 :
k:2003/07/13(日) 10:38:14 ID:8r7Dql1c
[ customer79-110.mni.ne.jp ] しばらくご無沙汰しておりました。話題が私にはなじみの薄い地区だったので、もっぱらROMっておりました。
しかし、昭和12-13年頃の農地解放運動には驚きました。もう少し、掘り下げて検討したい課題ですね。
さて、資料の誤記についていろいろ話題になっているようですが、先日「白石歴しるべ」を見ていたところ、
「鉄のはしくれ」としては、見のがし難い記載がありましたので、書き込ませてください。それは56-57ページ
の旧国鉄千歳線についてのところですが、8100型機関車が使用されていた旨の記載です。
当時、(1926年頃)8100はれっきとした国鉄の現役機関車であり、私鉄である「北海道鉄道」に使用されるはず
はありません。旧北海道鉄道の主力機関車は同社の7,8,9の3両の機関車であり、8100とは似ていますが、全く
別の機関車です。例えば同社が開業当時に発注中の機関車が間に合わなかったために、一時的に国鉄から借用
したとか、そういった特殊な場合にはありえないことではないとはことではないのですが。
少しあとの資料ですが、1931年には8100が札幌機関区に8両配置されており、主として入れ替え用に使用されて
たようであり、これが短期的に北海道鉄道に貸し出された可能性はなくもありません。
白石歴しるべの57ページに写真がありますが、この写真は不鮮明でよくわからない上に、撮影月日、撮影場所
および撮影者のいずれもが記載されておらず、これをもって証拠とすることは難しいと思います。
以上、長くなりましたが、この点ははっきりさせていただきたく、書き込んだ次第です。
208 :
18丁目:2003/07/13(日) 13:21:35 ID:6mbS0pXk
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] モエレ沼はいまや整備された公園として、市民にも名の知れた存在になりつつあります。
しかし、その歴史については中野も含めマイナーであったのは否めません。
牛鍋さんの調査に若干の補足をさせてください。
「篠路村の場合」
戦前から札幌等の都市在住地主が多かった。小作契約は三〜五年と比較的短期契約が多く、
小作人は常に契約更新を迫られ、営農も不安定な状態に置かれていた。
昭和二十年まで村内の約八五lを小作地が占めていたが、その大半は北海道拓殖銀行所有地
であった。また農地改革に先んじて旧法による自作農創設と村有地の開放が行われていたた
め、他町村と異なって大地主所有地はなく、村内地主が子弟の分家用として他人に貸付けた
り、戦争のため一時疎開したといったケースがあった。在村地主の中には明治期に入植した
開拓功労者もいたが、農地改革の趣旨に沿って率先して政府買上げを申し込む地主が多数あ
った。この結果、当初の買収予定面積は六三〇町歩に上り予定面積を超える結果となった。
昭和八年頃から自作農創設事業が実施されていたようです。
「新札幌市史 第五巻 通史五(上)」より抜粋です
209 :
18丁目:2003/07/13(日) 13:42:00 ID:6mbS0pXk
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] しつこくモエレですが
モエレ沼の豊富な魚介類と雄大な水景色を観光資源として生かし、郷土の発展を図りたい−。
そんな希望を抱いた地元の有志六人が、昭和二十八(一九五三)年に会社設立を計画。
モエレ沼での漁業権を得て、昭和三十一(一九五六)年に「札幌モエレ観光株式会社」を
設立しました。会社は、観光事業や養殖漁業に加えて、農園の経営、家畜の飼育なども
計画していました。
モエレ沼はもともと釣りの名所だったので、会社設立後も多数の釣り人が集まりました。
しかし、多くの人にモエレ沼を知ってもらおうという方針から、会社は沼を無料で開放。
また、船を出して網を入れ、獲った魚を食べてもらうサービスも実施しました。
昭和三十三(一九五八)年には札幌の飲食店従業員三百人を招いて、野外会食を開催。
当時のキャッチフレーズは「一万畳の青畳」という壮大なスケールのものでした。
会社は自己資金と周辺の牧草を売って得た収入をもとに経営を続けました。しかし、沼を
無料で開放していたので、利益が上がらず、昭和四十二(一九六七)年に解散しました。
モエレ沼が広く市民に親しまれる場所として再登場するには、平成十年に公園として生まれ
変わるまで待たなければならなかったのです。
「ひがしくすとーりー第5回水辺の記憶〜モエレ沼(二)」より抜粋
210 :
18丁目:2003/07/13(日) 20:26:01 ID:6mbS0pXk
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] と、ここまで書いてモエレ沼の名の由来を語っていないですね。
「モエレ沼」という名前は、一説によるとアイヌ語の「モイレ」(@静かである
A流れの遅い)に由来すると言われています。また、もう一つ別の説によると、
「モイレ・ペッ」で川の曲がった所など、水がゆっくり流れている川のことを意味
するそうです。
モエレ沼は豊平川の度重なる洪水やはんらんでできた三日月湖と推定されています。
今は馬蹄形ですが、明治時代以前は周囲十二`、卵型の大きな沼でした。明治時代
にはS字に近い形変わっていき、大正時代に現在のような形になりました。モエレ沼
の名前が定着したのもそのころです。
「ひがしくすとーりー第4回水辺の記憶〜モエレ沼(二)」より抜粋
さあアイヌ語が出てきました、これはどちらの説が正しいのですか?
211 :
牛鍋蝸牛:2003/07/13(日) 21:28:24 ID:pAJg93hQ
[ N045125.ppp.dion.ne.jp ]
212 :
18丁目:2003/07/13(日) 21:34:30 ID:6mbS0pXk
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] >>211うほー!赤坊川ですか。
なるほどー、今や地図にも載らないような小さな赤坊川がね、感慨深いですね。
古くからの篠路住民は知っていましたけど、探すのは苦労した記憶が残っています。
213 :
牛鍋蝸牛:2003/07/13(日) 21:47:32 ID:pAJg93hQ
[ N045125.ppp.dion.ne.jp ] 「赤坊川」。
18丁目さん、実地調査へ行ったんですよね。
実は、そろそろ一度、「東区ネタ」を離れたいと思っておる、ワシなんですけんど、乗りかかった舟。
「東区今昔3 東区開拓史」より超要約。
「モエレ沼が現在の形になったのは、アカンボ川の完成によるものであった。
アカンボ川はモエレ沼の水量を減じて湿地を乾燥させるために、モエレ沼から伏籠川に向けて掘った大排水溝。「札幌刑務所抄史」(札幌刑務所刊)によると、この工事は明治二十二年、「藻入沼尻新川開さく工事」として着手、翌年完成。
使役された囚人の服が赤かったため"アカンボ川"の俗称が生まれ、現在は「赤坊川」とかいて"アカボウガワ"と呼ぶ」
214 :
k:2003/07/13(日) 21:50:39 ID:spOh3PmY
[ customer79-173.mni.ne.jp ] >>211牛鍋蝸牛様
寿都鉄道の蒸気機関車の件
同鉄道が開業時に国鉄から譲渡を受けた機関車は7170型であって、8100型ではありません。
8100型は20両あり、これらは全部戦後まで国鉄に在籍していました。そして1947年頃から
国鉄での廃車がはじまり、一部は私鉄などへ譲渡されました。寿都へ行った8100は定山渓
鉄道から再譲渡された機関車と、そのあとで茅沼炭鉱から転じた機関車であり、寿都では
最後の蒸気機関車となったために有名ですが、開業当時には寿都には在籍していません。
7170,8100,北海道鉄道/7-9は、いずれも米国Baldwin製の類似した外観を有する機関車で
すので、その辺に混同があったものと考えられます。
この辺、話を始めると長くなり、「鉄オタ」は別のスレでやれといわれそうなのでここで
やめておきます。
215 :
なまら名無し:2003/07/13(日) 22:15:58 ID:GqDRcblI
[ www5.ndl.go.jp ] >>207k様、よく気付かれましたね。
8100というと、すぐ寿都鉄道を思い出してしまいますが、
あれは8100解体前の最後の奉公先でしたね。
白石区歴しるべp57の写真は当時ではなく、後年のものみたいですから
黒松内駅構内の撮影かも知れないですね。
どなたかわかる方がいらっしゃいませんでしょうか?
216 :
牛鍋蝸牛:2003/07/13(日) 22:16:17 ID:pAJg93hQ
[ N045125.ppp.dion.ne.jp ] kさんへ。
なるほど〜。
…などと言うと、適当に話を合わせているのだろうと言われるかもしれませんが、ま、全くもっての門外漢のためご容赦願いたい。
これは是非、「白石区」と「寿都町」へ誤りの指摘と訂正のメールなりをお送りすることをお勧めします。
この前も書きましたが、所謂、権威機関の言ったこと書いたことはそれが間違いでも後生に残り、正論、定説になってしまう危険性があります。
あえてクレーマーの汚名を着る。
これも、我々の使命かもしれません。
死して屍、拾う者なし…、死して屍、拾う者なし…。
217 :
なまら名無し:2003/07/13(日) 22:21:36 ID:GqDRcblI
[ www5.ndl.go.jp ] ↑k様
>>214までの記述を見ずに書いてしまいました。すみません。
鉄ヲタ云々ではなく、歴史的に間違った記述は他の人もそうですが
きっちり指摘しておいたほうがいいのではないでしょうか。
218 :
牛鍋蝸牛:2003/07/14(月) 09:11:27 ID:9nOc1M2g
[ N045125.ppp.dion.ne.jp ]
219 :
牛鍋蝸牛:2003/07/15(火) 19:19:09 ID:DQsG5rZs
[ N045117.ppp.dion.ne.jp ]
220 :
牛鍋蝸牛:2003/07/17(木) 07:49:34 ID:r.Duqy6Q
[ N045251.ppp.dion.ne.jp ] いや〜、落ちましたなぁ(w
黙ってどこまで落ちるか見てみたかったけど、書き込みます。
一年経ったのを契機に、今まで出たネタの補足をしつつ、新ネタに挑戦していきます。
故あって"復習"する必要が出てきちゃったのでついでにね。
ちょっと忙しくなりそう。
新ネタは「手稲山口」(バッタ塚)…、とも思ったのですが、「円山」にします。
前からやりたかったネタだったのですが、そろそろいいかな?と。
221 :
東区在住:2003/07/18(金) 10:08:09 ID:qrKUp77A
[ m61-125-18-116.megafit.me-h.ne.jp ] 牛鍋蝸牛様
啓明中学卒?とあるので雑談ですが書き込ませてくださいませ。
私も啓明中学卒です。先輩、よろしくです。
話を差し戻すようで恐縮ですが、
バッタ塚、なにもなかった覚えがあります。
石碑だけ・・・じゃなかったかな。
細い道を進むとちょっとした広場(舗装)になっていて、
ほんとに何も無いです。
石碑は詳しく見たことがないので何ともいえません。
中途半端ですみません・・・
円山地区、実家が中央区なので楽しみです。
雑談失礼しましたm(__)m
222 :
牛鍋蝸牛:2003/07/18(金) 12:58:24 ID:KB4LvsrU
[ L066040.ppp.dion.ne.jp ] >>221東区在住さん、こんにちは。
書き込みなくって淋しい思いをしていましたので、素直に嬉しい!
やる気出てきました。
「バッタ塚」、何もありませんか…(w
何もなくても行って見るのがモットーなので、そのうちに…。
「円山」は歴史が古いのでどういう切り口でやるか、かえって悩むところです。
経験上、資料の少ない地域はもちろん大変なのですが、それはそれ、一本道を行くが如くでやり易いと言えばやり易い。
資料が多いと、あっち書いてこっちやってとなり、散漫になる傾向があります。
これはワシの力量の問題なのかもしれませんけど。
今までに、広義の「円山界隈」に関しては「札幌温泉」なども出ましたが、狭義の「円山地区」となると、「裏参道」が出たくらいかな?
と思いつつ、過去ログに検索をかけてみましたら…。
「その弐」の#007
http://www9.plala.or.jp/xapy/chimei/2_log.html#007 で「本籍水車町」さんがこう仰っておられました。
「個人的には円山を調べたいんだが。本来「モイワ山」と呼ばれていたのに、なぜ変わったのか。どうしてあの場所に神社を設置したのか。「国造の神の墓」といわれる丸山(手稲にあるらしい)はどこか、などなど」
「手稲」関連でしょうが、「国造の神の墓」?(本籍水車町さん、またこないかな?)
223 :
なまら名無し:2003/07/18(金) 13:19:55 ID:P7jJP76E
[ o073074.ap.plala.or.jp ] 円山小学校卒です。
円山のことは円山小に昔からある円山小学校の歴史の本はいいと思いますよ。
円山小学校の校庭には川が流れていて鮭も上っていたこともあったそうです。
尋常小学校のときで今の場所じゃなかったかもしれませんが。
図書館に今でもあるはずです。参考にしてはいかがでしょうか。
224 :
牛鍋蝸牛:2003/07/18(金) 14:54:47 ID:RtoFxoqU
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ] >>223円山小学校卒さん、どうもありがとう。(勝手に命名。失礼)
学校の記録というのは、なかなか参考になります。
地元の記事が細かく掲載されていることが多いですね。
今度、探してみます。
で、ついでと言っちゃなんなのですが、啓明中出身のワシと東区在住さんと円山小学校卒さんに関連させて、「さっぽろ歴史散歩 山辺の道 定山渓紀行」(山崎長吉 北海道出版企画センター)を参考にして、要約させていただきました。
「児童の増加から、昭和9年に円山町の「円山尋常高等小学校」から「円山第二尋常高等小学校」が分かれた。四丁しか離れていない場所にあった札幌市の「幌西尋常高等小学校」と、お互いに窓から見える位置であった。
昭和16年、札幌市と円山町の合併により、円山第二尋常小学校の児童の大部分を幌西尋常高等小学校に移し、円山第二尋常高等小学校を廃校にした。
かねてより中等学校の設置が懸案だった札幌市は、円山第二尋常高等小学校の旧校舎を中学校に転用した。
「札幌立中学校」設置の年、太平洋戦争が勃発、学校の運命を決定付けることになった。
円山第二尋常高等小学校の旧校舎の東向きには新校舎が建築されたが、予定通りにすすまなかった。
昭和19年になると勤労動員が多くなり、翌年には授業停止、通年動員が実施され、新校舎は「陸軍被服廠札幌支廠」に接収され、終戦をむかえた。
戦後、昭和22年5月市立中学校に新制の「第六中学校」を併置、翌年4月市立中学校は「市立第二高等学校」に改組した。
しかし学制改革により1年で廃止、第六中学校は「啓明中学校」になった。
こうした悲運のあかしとして啓明中学校校門のわきに、昭和60年4月、札幌市立中学校跡碑を建立、また、昭和62年円山第二尋常高等小学校跡碑も建立された。
現在の啓明中学校の校舎は昭和37年から42年までに完成、昭和35年1月には伏見中学校を分離している。
また、円山第二小、市中建設が傾斜地を削るため大量の土砂がでたので、南側の畑地に運んだ。
昭和30年8月、校舎を四期に分けて建設、「緑丘小学校」を設置、幌西小学校の一部の児童を収容した」
225 :
牛鍋蝸牛:2003/07/18(金) 21:45:16 ID:RtoFxoqU
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ] 今日の道新夕刊をご覧になった方もいらっしゃると思いますが、奇しくも「円山」関係の記事が出ていました。
詳しくは同紙をごらん頂くとして、見出しと最初の文章は、
「札幌市、界川貯留池の着工延期 住民が反発、計画の見直しも
札幌市は中央区旭ケ丘地区で十月に予定していた「界川(さかいがわ)地下貯留池」の着工を延期することを十八日までに決めた」と言うものです。
ご覧のように紙面で、「界川」に振り仮名を振っています。
マイナーな地名の面目躍如ですね。
札幌市内の地名に、「北海道新聞」が振り仮名を振るというのですから。
しかし同紙は大きな過ちを犯しています。
我母校「緑丘小学校」を「緑ヶ丘」と書いている!
トンでもありませんね。
226 :
牛鍋蝸牛:2003/07/18(金) 22:13:00 ID:RtoFxoqU
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ]
227 :
牛鍋蝸牛:2003/07/18(金) 22:19:07 ID:RtoFxoqU
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ]
228 :
北栄:2003/07/18(金) 22:56:57 ID:zMaYle52
[ EATcf-430p141.ppp15.odn.ne.jp ] 丸山の話題が去年の秋の話でしたね。
かなり濃い密度の話題が流れていたのでしばらくROMってる間に
時間がたったもんですねぇ。
229 :
ヘリトンボ:2003/07/18(金) 23:21:58 ID:R8yKtTnc
[ m020188.ap.plala.or.jp ] 円山の最中申し訳ありませんが、モエレに関する疑問を・・・。
丘珠東通から突如現れ、さとらんどを貫通し、雁来新川に流れつくという
「丘珠藤木川」。
この「藤木」って何なのでしょうか?
やはり、昔のさとらんどあたりの地名だったのでしょうか?
230 :
18丁目:2003/07/19(土) 10:59:27 ID:2u.HsEcc
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 藤木=フシコですか?
バッタ塚のあたりは雰囲気が好きで通っていたことがあります。
小樽内橋が復旧されないかな、と思ってみたり。
円山か・・・というより、北栄さん地味にROMっていたんですね(w
231 :
西創成:2003/07/19(土) 16:58:56 ID:jOq7gyuk
[ i253187.ap.plala.or.jp ] しばらくさぼってました。すみません。
それと、スレ生誕一周年おめでとうございます。
取り急ぎ、kさんのお話から出ているところの寿都鉄道(のちに寿都鉄道バス→中央バス→ニセコバス)については、自社蒸気故障で、急遽、国鉄からC12型を借りたことがあります。(戦後)
また、終戦時には、傷痍軍人輸送用として、稚内桟橋〜苗穂〜定山渓間で国鉄車両の入線がありました。(定山渓ホテルを病院としたため)
232 :
18丁目:2003/07/19(土) 17:47:56 ID:2u.HsEcc
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 私、とある札幌市の下部組織のメンバーとなることが決定しました。
今後、何か面白い話がありましたら随時ご報告いたします。
これから千歳のログハウスで焼肉ですので、これにて失敬いたします。
233 :
元村の村民:2003/07/19(土) 20:57:56 ID:GQkBJynU
[ N017206.ppp.dion.ne.jp ] >札幌市の下部組織のメンバーとなることが決定しました。
それは、真実を述べることができ、かつ、うけいれられる機関でしょうか。
現時点で、札幌市になにが正しいのか理解できるかたがいるとは思えません。
234 :
牛鍋蝸牛:2003/07/19(土) 22:57:36 ID:MNYe/zIU
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ] >>233元村の村民さんへ。
「札幌市」に対するあなたのご見解は尊重します。
しかしながら、ここはそういうことを議題にする場ではありませんし、ましてやあなたの疑問は18丁目さん個人が答えるべきものでもないでしょう。
18丁目さんがどのような組織に入られるのも自由でしょうし、そのことを説明する義務もありません。
18丁目さんは、そこで面白い話を仕入れたらここで発表するとおっしゃておられるだけです。
な〜んも、問題ナシです。
ま、そう固いこと言わずに、さっぽろのマイナーな地名を楽しみましょうよ!
235 :
ヘリトンボ:2003/07/20(日) 00:43:09 ID:FlU22WJI
[ r016204.ap.plala.or.jp ] >>230の18丁目さん
なるほど、伏古でしたか!
>>232の18丁目さん
下部組織のメンバー!
何だか凄いですね〜。
236 :
東区在住:2003/07/20(日) 03:35:51 ID:uXULECTA
[ m61-125-18-116.megafit.me-h.ne.jp ] 牛鍋蝸牛さん。こんばんわ。
嬉しいと言って頂けて私も嬉しいです。
バッタ塚、学生時代によく車の練習に行きましたw
おまわりさんも来ない(当時)し、無免許での走行にはちょっと危険でしたが、
車がグルグル廻れるくらいのスペースはあったと思います。
多分、バッタが眠っている上(舗装)でグルグル・・・罰当たりです(反省
あまり有益な情報でなくてすみません。
あと、札幌温泉のお話ですが
実は友達が以前南藻園に住んでいて、
話を聞いてみました。
グラウンドか先生の家があった所に温泉があったのでは?との情報をいただきました(ガイシュツ?)
6年くらいしか営業してないなんてもったいないですよね。
というか定山渓から湯を引くという発想に頭が下がります。
旭山公園を登っていくと、池があったり寺か神社のようなものがあったり
いろいろあるらしいです。とても気になりますが、
私はカラスが怖くて調査を断念しました・・・ヘタレですみません。
裏参道にはBlueHouseがありましたよね。
あと、ちょっと外れてしまうかもしれませんが19丁目ショッピングセンターなど。
今は斉藤鮮魚店しか残っていません。
小林鮮魚店は円山公設市場(名称がちがうかも)に移動してました。
あまり古い情報ではないのですが、学生時代裏参道でうろついていたので
なんだか懐かしいです。
全然関係ない話ですが、
うちの主人は緑丘小学校卒→啓明中学校卒です。
同窓生です。(私は二条小学校です)
またまた雑談失礼しましたm(__)m
237 :
元村の村民:2003/07/20(日) 07:59:42 ID:LSGdwTgA
[ N017171.ppp.dion.ne.jp ] >>234>ここはそういうことを議題にする場ではありませんし、ましてやあなたの疑問は18丁目さん個人が答えるべきものでもないでしょう。
まったくそのとおりです。申し訳ありません。
以前、複数の行政機関に協力したとき、担当者の能力でまったく違う結果になりました。
意に反した書籍に、自分の名が載るのは辛い物です。
また、担当者の考えが自分と一致したときは、楽しい物です。
「18丁目」さんが、楽しく事業を行えることを、期待しております。
238 :
牛鍋蝸牛:2003/07/20(日) 10:02:45 ID:Q0UkXxpY
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ] 北栄さん、ROMっておられましたか。
お久しぶりです。
久々に賑やかになってきたようです。
「丘珠藤木川」ですが、ネットで調べてみました。
札幌市環境局などのサイトによりますと、北部地区河川の導水による水環境の整備の目標になっていますね。
「導水」って素人には聞きなれない言葉ですが、早い話、水源の枯渇によって水量の少なくなった川に、再び水源を確保して水を引き入れること、らしいです。
北部地区では他に、「雁来川」、「苗穂川」、「丘珠川」、「丘珠5号川」、「旧琴似川」、「旧琴似川方水路」、「伏籠川」が上げられています。
「丘珠藤木川」(読み方、わかりません。フジキ、フジコ?)は二万五千分の一の地図では名前を確認できませんが、昭和50年頃は本流である「篠路新川」とほぼ同じ太さで記されています。
それが、平成4年の地図では極端に細くなっており、この間に水量が落ちたことが想像できます。
遡りますが、昭和25年のものでは、「篠路新川」という名前もなく、「丘珠藤木川」は「水濠」であったことが分かります。
このあたりの川は治水や排水目的の人工の川が多いようですね。
で、「さとらんど」附近では「藤木」という地名は見当たりません。
かなり曖昧な記憶なので、はばかられるのですが、先日「伏籠川」のことを調べていた時、「藤木」とも呼ばれたと書いてあった本があったような気もしないでもないようなあるような…。(ゴメン)
現地へ行くかないっすね。
>>237元村の村民さん。
早朝よりレス、ありがとうございます。
ということで、ヨロシクおねがします!
そういえば、先日間違いを指摘しました「広報さっぽろ豊平区版」の件ですが、豊平区様より「改訂版 豊平区の歴史」が送られてまいりました。
問題の記述は訂正されておりましたことをお知らせいたします。
この本、「豊平区役所市民部総務企画課」でもらえますよ。
239 :
なまら名無し:2003/07/20(日) 10:52:01 ID:KpwmC0YI
[ PPPa485.hokkaido-ip.dti.ne.jp ] >>231>寿都鉄道(のちに寿都鉄道バス→中央バス→ニセコバス)
ちょっと誤解を招きそうな表現ですかね。
寿都鉄道バスは鉄道線を補完する目的で鉄道線の現役時代から並行して走っていました。
鉄道線が休止→廃止されたのちも会社は存続しバスを走らせていましたが、経営的にどうにもならなくなったためにバス事業を廃止し、もともと寿都に営業所を置いて周辺に路線を延ばしていた中央バスが寿都〜黒松内〜長万部間の路線を引き継いで運行することになったものです(1968年)。
その後中央バスは合理化のために後志地区の一部路線を系列のニセコバスに移管することになり、寿都〜長万部も含めて寿都営業所の全路線がニセコバスに移管されました(1978年)。
240 :
k:2003/07/20(日) 11:48:30 ID:lDCUXhLM
[ customer69-112.mni.ne.jp ] >231 西創成様
私鉄が国鉄から機関車を借りることはしばしばあったようです。寿都鉄道について
は、昭和25年に同社の2両の機関車が正面衝突して大破、修復不能となった事故が
ありました。これでは国鉄から機関車を借りないことには営業できません。
定山渓鉄道への国鉄客車の乗り入れについては、私は昭和32-33年頃、豊平駅横の
R36の踏み切りで定鉄の電気機関車がひく修学旅行団体の臨時列車を実見しています。
また、朝鮮戦争の頃には真駒内の米軍キャンプに出入りする兵員輸送の列車が国鉄の
C58の牽引で直接乗り入れていたようです。
241 :
牛鍋蝸牛:2003/07/20(日) 12:05:29 ID:Q0UkXxpY
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ]
242 :
白石開拓:2003/07/20(日) 14:30:38 ID:1U1.6oOw
[ N045046.ppp.dion.ne.jp ] みなさん初めまして。
わたしの祖先は、宮城の白石より来たそうです。
原野だった、ここ一帯を切り開き畑を作った・・いまのひとじゃ考えられないですね。
私の祖先は、熊と戦ったことがあると、うちのじいちゃんがいってました。
そろそろ、詳しい白石のことを聞きたいですね。。
243 :
牛鍋蝸牛:2003/07/20(日) 23:21:28 ID:Q0UkXxpY
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ] >>242白石開拓さん、こんばんは、初めまして。
「旧仙台藩白石」からの入植に関しては、「中央」なんかをやりましたね。
「佐藤孝郷」、「善俗堂」…。
あとは「白石遊廓」はかなり濃厚に調査しましたが、あれは場所的には「菊水」にあたりますか…。
まだまだ、「白石」の見所ってあるのでしょう。
ワシは今、「円山」の入口なので、「白石」ネタありましたらお願いします。
さて、ちょっと話は変わりますが、スレが立って1年も経つと過去ログも膨大になってきております。
本スレは他のスレッドから比較すると、同じ300のレス数でも容量が格段にでかい。
そんなこんなで、皆さんからの書き込みも、いや、自分で書いたものに関してさえも記憶がかなり曖昧になってきて、トホホ状態です。
ということで、本日「WideGrep」というテキスト検索ソフトを導入しました。
例えば、過去ログを「白石」で検索すると、「白石」について書かれた文章はもちろん、その前後の文章も表示されます。
また、大元のアプリケーションへもジャンプも出来るのです。
おかげで、過去ログからの検索がとっても楽になりました。
同じようなお悩みの方、使ってみてはいかがでしょう。
244 :
白石開拓:2003/07/21(月) 15:34:31 ID:ycfj5JvE
[ U122095.ppp.dion.ne.jp ] 牛鍋蝸牛さん、ありがとうございます。。
うちの実家は、白石100番の神社側のほうです。。
うちの本家は、市の区画整理の時にほとんど、畑を
うったそうです。昭和35年頃の話です。
245 :
北栄:2003/07/22(火) 00:25:35 ID:IYFiEmE6
[ EATcf-369p101.ppp15.odn.ne.jp ] >238
話は少々さかのぼって丘珠藤木川について
>平成4年の地図では極端に細くなっており、この間に水量が落ちたことが想像できます。
その後の丘珠藤木川はさとらんどの中を流れている部分は整備されていましたが、上流側の
整備が遅れており、半ばどぶ川と化していましたが、現在はさとらんどの拡大造成に伴い
上流側はさとらんどの新駐車場予定地の西側を流れるように立派に整備され、新しい橋もかけられています。
246 :
西創成:2003/07/22(火) 01:16:09 ID:OdXqduso
[ m175231.ap.plala.or.jp ] >>239さん、訂正・補足有難うございます。
さかのぼって
>>189とろんとろんさん。
8列トウキビ、時期になると、山鼻西線の八百屋に出るとの情報を人ずてに聞きました。捜してみます。
岩見沢の駅前通りに、このトウキビの類の大型種のようなものを売っている屋台があるのは知っていました。
数年前これに偶然出会い、焼きにしてもらいました。
塩砂糖水の味付けで、とてもおいしゅうございました。
247 :
西創成:2003/07/22(火) 01:30:08 ID:OdXqduso
[ m175231.ap.plala.or.jp ] 白石開拓さんはじめまして。
なにかご存じのことがありましたら、教えてください。
最近、札幌開拓始めから最近までの任侠・博徒・愚連隊の類の系譜というのを調べてみたいと思いました。
「雁来のバラ」さんや「血だるま三兄弟」さんなんて言う方のお名前しか知らんのですが。
札幌発展に裏社会や興行などの面から、ささえてきた人達だと思い、真面目に調べてみたいけれど、そちら方面に知り合いもいないから無理のようです。
248 :
牛鍋蝸牛:2003/07/22(火) 02:01:12 ID:BobXsFXw
[ N045104.ppp.dion.ne.jp ]
249 :
牛鍋蝸牛:2003/07/22(火) 21:26:37 ID:oQz5DbcM
[ N045089.ppp.dion.ne.jp ] ひゃ〜、源流レスまで遡るとめっちゃ亀レスですが、じみ〜に続いている「8列トウキビ」の件。
昨日、「円山」で入手しました「さっぽろ文庫40 札幌収穫物語」に出ていました。
「札幌八行」が正解だそうです。
別名、「うまきび」とも申したようです。
ん?
「うまきび」って、「馬黍」?
「美味黍」?
そうそう、この本では当時の板垣札幌市長が「収穫と私」と題して、序文を書いておられますが、そこにも「札幌八行」のことが出ていますので紹介いたします。
「(略)札幌八行という品種のトウキビも、収穫の季節を告げる使者でした。今にしてみれば、固くボソボソとして実の少ない品種でしたが、私たち子どものころは何にも替え難い味でした」
…ですと。
ということで、「円山」と「板垣武四市長」の思い出。
円山公園の北1条西28丁目の「円山公園」との境界に「市長公館」がありますね。
(今もあるんでしょうか? 新市長は「西野」から自転車通勤してるそうですし)
学生のころまでワシは「二十四軒」に住んでいまして、ジョギングなんぞでよく「円山公園」まで行ったもんです。
ある日、市長公館で板垣市長にそっくりなおじさんが庭掃除をされていました。
ワシはヒマな大学生だったので、その時間にうろちょろしていても何の不思議もありませんでしたが、天下の札幌市長が昼間っから庭掃除なんて!
…と思ったのですが、よ〜く見ると、似ているけど、市長より顔がちょっと長いような…。
のちほど、聞いた話によると、板垣武四市長のお兄さんが一緒に住んでおられたとか、なんとか…。
ま、風のウワサなんで確かな情報ではありませんが、「武四」ってことは「武一」、「武二」、「武三」、「武四」って考えられるわな〜。
ホントか!?
250 :
なまら名無し:2003/07/22(火) 22:34:26 ID:Mz51nOnM
[ o098184.ap.plala.or.jp ] まったくスレと関係ないはなしですが、その市長ご令嬢と
たしか同級生だったことがあります。遠い昔です。
251 :
西創成:2003/07/23(水) 05:28:59 ID:O6E/Ll.g
[ i107161.ap.plala.or.jp ] なんだか早く起きてしまいました。
>>240 牛鍋さん
「札幌八行」でしたか。
通称「馬キビ」なんだそうです。(母談)
板垣元市長がおっしゃる食感ですが、現在流通している「ピーターコーン」「ハニーバンタム」などよりは甘味がないのですが、かたさについては、遜色ないと思います。
一時期よくあった、通称「モチキビ」の類と比べると、「札幌八行」や現在よくあるキビは、バサバサで堅いので、
>>140のように言われたのではないでしょうか。
1980年代後半に「ネチョネチョとうきび」から「ややかため、甘味多いとうきび」に、劇的に転作されました。
この辺ちゃんと調べて置かないとないですな。
>>139 で教えて頂いた、博徒方面の本は中央図書館にあるのですか。捜してみます。
こうやって書いていると、「馬キビ」も「モチキミ」も食べたくなりました。
美食家の作家の方だったら、『ああ、しゃきしゃきの食感で黄色いウマキビも、ねちねちした食感で紫の粒が少しあるモチキビも今食してみたい。幼い頃の思い出とともに。』
なんて書くのかな。(あんぽんたん野郎。クレードルの缶詰でもなめってればいいんだ。)
252 :
k:2003/07/23(水) 10:47:09 ID:pE8a7qfM
[ customer77-4.mni.ne.jp ] 円山は私にとっては、かなりなじみの深い土地です。というのは、向陵中に三年
間お世話になり、そのうちの二年余りは豊平の平岸街道から三越前で乗り換えて
円山公園までえんえんといわば札幌市街を横断して、電車で通学していたもんで。
さて、円山に関連する地名としてまず宮ヶ丘、この地名は比較的新しいのではな
いでしょうか。少なくとも北一条通りの北側はかつては北1条西29,30丁目など
と呼ばれていたように思います。いつ頃このように呼ばれるようになったか。ご
教示いただきたいと存じます。
次に、宮の森、今日「宮の森〇条〇丁目」となっている地域は、以前の「宮の森」
よりも広くなっているように思われます。これは以前琴似町十二軒であった地域
が含まれているためではないかと考えられます。現在西高のあるあたりなどは、
明らかに琴似ですよね。とすると現在宮の森地区は全部中央区となっていますが、
十二軒は旧琴似町であり、現在の中央区と西区の境界線は、昭和30年以前の札幌
市と旧琴似町の境界線よりも西へ進んでいることになります。
このあたりについてご教示いただければと存じます。
253 :
牛鍋蝸牛:2003/07/23(水) 11:25:38 ID:lJVJ9Xjg
[ N047237.ppp.dion.ne.jp ] >>252いっや〜、待ってました!
「宮ヶ丘」から「宮の森」、「琴似村十二軒」!
これなんですよね、実はワシが今回、やりたかったのは。
kさんナイスです。
実は「宮ヶ丘」という地名は案外古くて、大正時代あたりからあるのです…。
あとは仕事の用意をしなければならないので、また夜にでも。
254 :
牛鍋蝸牛:2003/07/23(水) 12:17:07 ID:lJVJ9Xjg
[ N047237.ppp.dion.ne.jp ] まだ居たりして…。
>>251板垣元市長の「札幌八行」の感想ですが、新品種を使っている大通り公園のトウキビワゴンは札幌市の観光協会かどっかでやっているんでしょう?
板垣さん、口が腐っても、
「昔の札幌八行は美味かったな〜」とは言えませんもんね(w
255 :
牛鍋蝸牛:2003/07/23(水) 21:10:43 ID:lJVJ9Xjg
[ N047237.ppp.dion.ne.jp ] 「宮ヶ丘」。
かねてより賛否渦巻く「さっぽろ文庫1 札幌地名考」には、
「北海道神宮を中心とした一帯が小丘であるところから、この名が生まれた。昭和十六年(1941)七月である」とあります。
普段、かなりお世話になっています同書ですが、これはちょっと違うんだよなぁ。
「さっぽろの昔話 大正編上」(みやま書房 昭和53年)なのですが、なんども書くので恐縮しながらシツコク書いちゃいますね。
この本は昭和2年8月12日から同年10月28日にかけて「郊外繁盛記」として当時の「北海タイムス」紙(現・北海道新聞)に連載されたものです。
(注・数年前に潰れた"北海タイムス"は全くの別会社です)
「郊外繁盛記」はいくつかの札幌関係の書籍には、それなりの扱いで引用されています。
本と言うのは実際に出版された時期と、書かれた内容にいくらかのタイムラグあっても不思議ではありません。
しかしながら、新聞はその点に関しては、誤差は少ないと思います。
ま、長々と書きましたが、「宮ヶ丘」の名はその「さっぽろの昔話」(郊外繁盛記)にすでに出ていますので、昭和16年というのは住所表示として採用された年かもしれません。
これは今後の調査が必要ですね。
今日のものになるかはわかりませんが、その「さっぽろの昔話 大正編上」の「宮ヶ丘」の記述はこの後、書きます。
面白いことに「円山」の項じゃなく、「琴似」で出てくるんですよ。
ここもkさんの着眼点と一致しますね。
※ ところで、この本の「大正編下」あるいは「中」ってのは存在するのだろうか?
見たことないんだけど。
256 :
牛鍋蝸牛:2003/07/23(水) 22:15:35 ID:lJVJ9Xjg
[ N047237.ppp.dion.ne.jp ]
257 :
西創成:2003/07/23(水) 23:54:19 ID:jfMaVIyQ
[ i100035.ap.plala.or.jp ] >>256 さすが牛鍋さん!
三笠ですか。高いけど買っちゃおうかな。
まあ今のキビに慣れた方には、物足りない味かもしれません。
258 :
なまら名無し:2003/07/24(木) 07:16:35 ID:iUw8/ZEQ
[ o128222.ap.plala.or.jp ] 宮の丘とよむんですよね。たしか。
259 :
牛鍋蝸牛:2003/07/24(木) 22:06:21 ID:3.44ZnuI
[ N044116.ppp.dion.ne.jp ] いけません。
もう、眠くていけません…。
で、でも…。
>>258「宮ヶ丘」は「みやがおか」(名古屋人なら"みゃーがおか"…蛇足)と読みます。
もちろん、「宮の森」(名古屋人なら"みゃーのもり"重ね重ね、蛇足)ですが…。
「みやのおか」というのは、「西野」にある中学校の名前ですね。
これって、地名として扱われているのかは、不明ですが、情報ありましたらよろしく。
で、「さっぽろ文庫1 札幌地名考」にあります記述、
「宮ヶ丘昭和十六年起源説」の反論として、「さっぽろの昔話 大正編上」(みやま出版)を引用しようと思いましたが、
ttp://www5.ocn.ne.jp/~doshinmy/story/story.html の「 7 円山って」をご覧頂いたほうが早いようです。
明治に「宮ヶ丘」の名があったことを間接的ながら書いていますよね。
是非、ご確認いただきたい。
追伸。
「札幌八行」(八列トウキビ)、ネットで注文しちゃいました。
260 :
牛鍋蝸牛:2003/07/24(木) 22:24:22 ID:3.44ZnuI
[ N044116.ppp.dion.ne.jp ] >>259に意味不明の個所が…。
>もちろん、「宮の森」(名古屋人なら"みゃーのもり"重ね重ね、蛇足)ですが…。 は、
「もちろん、「宮の森」は、「みやのもり」(名古屋人なら"みゃーのもり"重ね重ね、蛇足)ですが…」の間違いです。
きょ、今日はモウ寝るゾ!(汗
261 :
18丁目:2003/07/24(木) 23:07:59 ID:f41lDwH2
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 牛鍋さんお休みなさーい
262 :
東区在住:2003/07/25(金) 00:26:59 ID:4cZ7/KRA
[ m61-125-18-116.megafit.me-h.ne.jp ] レスありがとうございます。
いやぁ。一応女性です(w
南藻園の先生の家、今は倉庫なのですね。
老朽化の所為でしょうか・・・
今度友達に会ったら聞いてみます>詳細
あと、実は私・・・南4条東近辺を毎週のように調査しています。
怪しい雑貨屋さん(失礼!)に始まり、古い薬局、古い豆腐屋さん、
古い旅館、古い・・・いろいろあります。
なぜか一時期放火の多い地域とも言われていたらしいです。
どんな歴史があるのか、調べようにもマイナーすぎて何も出てこないのです。
多分調べ方が悪いのだろうと思うのですが・・・
円山や宮の森、十二軒が終わったら宜しくお願いします。
十二軒といえば、既出ですが福寿稲荷が気になります。
どうしてなくなっちゃったのでしょう・・・
263 :
18丁目:2003/07/25(金) 07:30:07 ID:sk.7EA/Q
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 東区在住様どーも
>怪しい雑貨屋さん(失礼!)に始まり、古い薬局、古い豆腐屋さん、
>古い旅館、古い・・・いろいろあります。
南4条東・・・あと、古い駐車場、古い小料理屋。1丁目の36号線と創成川の
角にある小さな建物は、昔交番だったですね。古い寅さんの映画に出てきます。
36号線を南に渡ると南5条。ここも宝庫ですね。私は今年の札幌祭りを、この辺り
を練り歩く「第七東祭典区」の山車を追っかけまわしていました。
山車の上で芸者さんが演歌で踊るもので、なんともこの地区にマッチしていて、凄く
良い雰囲気でしたよ。昼間はどっからどう見ても小料理屋が夜になると”○o○の間”
になるのは有名ですよね。
264 :
東区在住:2003/07/25(金) 07:40:00 ID:4cZ7/KRA
[ m61-125-18-116.megafit.me-h.ne.jp ] 18丁目様おはようございますo( _ _ )o
南4条の角は交番だったのですね。知らなかったです。
古い小料理屋(入り口が透明ガラスの店)と古い旅館はまさに○o○の間です。
とある旅館の窓が開け放たれていて、
そこに・・・っていうのが1件だけあってびっくりでした。
小料理屋系、最近1件つぶれましたね。不動産屋の看板がありました。
祭りの時、南5条ではそんな山車があったのですね〜
見たかったです。今年は祭りに参加できなかったので・・・
古いだけなら南9〜14条西が結構きてます(石山通をはさんだ近辺)
先日ニュースになったアパートもこの辺でした。
東屯田通りもなかなか。
あと、狸小路1、2丁目と7丁目以西もかなりあります。
10丁目の古い飲み屋街で祖母が店をやってます。
やばいくらい古いです(40年以上店をやってる)
あの辺りの飲み屋街は古く、歴史もあるそうです。
今度調べご報告いたします。
265 :
18丁目:2003/07/25(金) 07:53:49 ID:sk.7EA/Q
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] おお!
>10丁目の古い飲み屋街で祖母が店をやってます。
あのあたりの飲み屋街には、今でも”流し”が演奏しに来るとか。
札幌の繁華街の原点ではなかったでしょうか?
御報告期待しています。
266 :
東区在住:2003/07/25(金) 07:59:00 ID:4cZ7/KRA
[ m61-125-18-116.megafit.me-h.ne.jp ] 数年前まで母も働いていたのですが、流しの人、来ていたみたいです。
結構昔の話らしいです。
あと、星野商店という酒屋さんが数年前に閉店して
みんな酒の仕入先に困ったと言っていました。
今は違う酒屋さんに頼んでいます。
詳しい歴史はきっとネット上じゃあ見つからないと思うので
現地の生き字引(失礼?)なおばちゃん、ばーちゃんたちに聞いてみます。
267 :
新川番地:2003/07/25(金) 19:49:12 ID:xIx6ElYI
[ p13147-ipad26sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ] すいません スレをメモがわりに使うつもりはないのですが
南区の九万坪って地名ですか
10年ほど前仕事の関係で調査した場所がそういう名前だったんですが
ゆとろぎの裏手です
だれか覚えておいてね
では業務に復帰します
268 :
牛鍋蝸牛:2003/07/25(金) 22:00:50 ID:4cZ7/KRA
[ N044116.ppp.dion.ne.jp ] いっぱい書きたいことあるんだけど、どこからどう書きゃいいんだよ〜、状態です。
もう! 順不同! 天地無用! フラジャイル!
>>267新川番地さん突然の御乱入で、なぜか話は「山鼻」に飛んでます。
「九万坪」。
>だれか覚えておいてね…、な〜んて、ここでは通じませんぜ(w
さて、「白髪三千畳」とか「百万ドルの夜景」とか、アルプスだって「一万尺」ですし、他には「海底二万マイル」とか、とかくキリの良い数字、語呂ってのはあるものですね。
(そういえば、「600万ドルの男」なんてのもあったな〜)
「狸の金玉、八畳敷き」てのもありますな。
なんとなく、びみょ〜な数字ですが、これにはこれで根拠があるのわけです。
金箔師が金箔を作るとき、狸の金玉ほどの小さな金塊をたたいてたたいて、たたいてたたいて、たたいてたたいて、畳八畳ほどまで大きく広げるというので、こういう言葉が生まれたわけです。
で、新川番地さんのおっしゃる「九万坪」ですが、ワシの持っている資料では「十万坪」となってますねぇ。
…と、今日の日記には書いておこう…。
269 :
牛鍋蝸牛:2003/07/25(金) 22:32:44 ID:4cZ7/KRA
[ N044116.ppp.dion.ne.jp ] う〜ん。
>>252のKさんのレスにお答えしようと踏ん張っておるのですが、なかなか本題にたどり着かないワシをお許し願いたい。
もう、話があちこちいってしまいまして、すまんこってす。
(「九万坪」、あるいは「十万坪」はまた日を新たにいたします)
「円山」関係。
「十二軒」は、今は「円山」と認知されていますが、その昔は「琴似町」でありました。
その辺りを資料から引用したいと思うのですが、今日も眠い…。(+.+)(-.-)(_ _) ..zzZZ
とにかく眠い。(+.+)(-.-)(_ _) ..zzZZ
Kさん、もうちょっと待っていてホスイ…。
ワシは自分で言うのもなんなのですが、今時珍しい、律儀な男ですよってに。
270 :
新川番地:2003/07/26(土) 07:53:58 ID:dltkhfhk
[ p4102-ipad13sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ] 夕べ帰宅してみたら一万坪増えてました。
えーそうなのか
いずれここに話題が回ってきたときのために自分でも調べます。
といいつつ、今日もまた業務に就く新川番地・・・
271 :
k:2003/07/26(土) 09:02:17 ID:XLCFZiTk
[ customer75-24.mni.ne.jp ] >>255 牛鍋蝸牛様
「宮ヶ丘」の件 昭和16年7月というのは、旧円山村が札幌市と合併したときで
す。つまり、このとき「宮ヶ丘」が札幌市の住所表示に入った時点ではないかと
思われます。
「十二軒」という地名、現在は住所表示からは消えてしまっていますが、現在
山の手〇条〇丁目となっている地域も含まれていたようです。このことは西区
のHPにも記載されています。
参照:
http://city.sapporo.jp/nishi/syoukai/rekisi/index.htmlそして、現在の宮の森地区の一部も十二軒だったわけです。さきに書きました
ように私、向陵中のOBなのですが、同級生に十二軒から通っていた子が何人か
いました。同期で10-20人程度ですから、これは「十二軒」の全部であったかど
うかはわかりません。このときはまだ琴似町が札幌市と合併する以前ですから
市界を超えて通学していたのです。しかし、ここは正規の通学区域であったと
思われます。はるばる豊平から越境して通っていた私とは違って。
いずれにせよ、札幌市域に接したこの旧琴似町の地域、なんだかあいまいな言
い方で申し訳ありませんが、「十二軒」であったと考えられます。このあたり
昭和30年以前のこのあたりの詳細な地図があれば、まず解決の糸口となるもの
と思われます。
272 :
牛鍋蝸牛:2003/07/26(土) 09:17:01 ID:amoGpxjc
[ x086082.ppp.dion.ne.jp ] >>268まちがっちゃった。
訂正します。
「白髪三千丈」が正しい。
で、余談ですが「狸の金玉」に関しては他にも説がありますことを付け加えておきます。
「宮ヶ丘」に関してですが、「さっぽろの昔話 大正編 上」の「琴似から軽川まで」の項に「宮ヶ丘文化住宅地」として出ています。
琴似に住んで一年足らずの、著者の北海タイムス記者は、
「札幌市が、琴似まで続くなどということは、まず当分ないことだと、最初は思っていたものだ。
ところが、今年の春、円山の花見の際、太鼓の音、囃しの音、酔客の陽気な騒ぎまでが手に取るように聞こえて来るので驚いた。見ると、札幌神社はすぐそこだ。直線にしたら七、八丁と離れていまいと思われる」と書いています。
「なるほど、琴似と札幌の接続はこの方面から来るなと、初めて気が付いて、それからこの方面に心をひかれるようになった。そうして調査を始めたのだが、図らずも札幌神社裏に、人に知られぬ別天地を発見したような気がした」
ほうほう、なんだか昭和の初めにワシらと同じようなことに関心を持っていた先人がおったわけで…。<つづく>
追伸。
レスしようと思ったらKさんからの
>>271が到着していました。
そろそろ仕事なので、夜にでも…。
273 :
18丁目:2003/07/26(土) 11:51:31 ID:Hj8UWjCY
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 九万坪やら十万坪なる地名は全国各地にあるようですね。
札幌のは何処でしょうか?
初めて聞いた地名です。
274 :
なまら名無し:2003/07/26(土) 22:14:36 ID:fYGeP.nc
[ YahooBB219041109038.bbtec.net ] あれは10年程前でしょうか
南区の土木事業所に砕石採取場所と思しき斜面があって、それを緑に包まれた景観にできないかどうか検討してみてくれとの依頼がありまして
私が調査に向かったんです。先日その資料がでてきましてタイトルが「南区九万坪」なんですよ。
なんですよ・・・って言っても自分で作ったんですけどね
その九〜十万坪は、国道230号石山通り「ゆとろぎ」から藻岩山側にはいってすぐの斜面あたりです。
275 :
西創成:2003/07/27(日) 01:57:51 ID:nkw.Y18s
[ i103150.ap.plala.or.jp ] >>267 新川番地さん
「九万坪」ありました。
みなみ区ふるさと小百科(平9・南区役所市民部総務課発行)によると
藻岩下の地名。山鼻川の右岸地区は、明治30年に払い下げられ、六万坪と呼ばれていた。昭和33年に市民スキー場が開設され、その隣接地区が九万坪と呼ばれ、桂の木が多かったことから桂ヶ岡とも呼ばれた。
と書いてありました。
だから、
>>274さんの書いているあたりのようです。
それで、この小百科の九万坪の欄には、『参>札幌地名孝・214P 山鼻川』とあったので、地名孝には賛否議論あるらしいが見てみると…みなみ区小百科と同じようなことが書いてありました。
そしたら、明治30年にどこから払い下げられたのか。
なんで、「六万坪」の隣接地区が「九万坪」なのか。
牛鍋さんが書いていた「十万坪」はどこいったのか。
さっぱりわからんけど、「九万坪」という地名はありました。
276 :
西創成:2003/07/27(日) 02:35:19 ID:nkw.Y18s
[ i103150.ap.plala.or.jp ] 元町在住さん。おばんでございました。
創成川の東側という所(線路から南。特に南4条辺りから南)は、不思議な所です。
流れる空気の感じが、西側とはちがうような気がします。
昼には、堤防下の酒屋の人位しか動いてないように見えるし。
夜になれば、やに暗がりで、通りの角では、客引きするおばさんがひそかに立っていたり、裸電球のような灯がともる一杯飲み屋があるかとおもえば、ラブホテルのネオンがあったりと不思議な場所です。
あの一角には、ガス湯沸かしばっかり集めている所とか、海産物惣菜を作っている工場だの色々あるんですよね。
ついでに書きます。
そういえば、
>>275書いていて思い出しましたが、手稲に「千尺スキー場」というバス停があります。
噂の札幌地名孝によれば、
『千尺高地』とあり、
『手稲山北西の中腹に位置する千尺(300メートル)の丘陵地帯で、このあたりの沢から軽川が発している。谷あいの起伏が格好のスキー・スロープを形成しており、古くから近郊のスキーヤーに親しまれてきた。地名はその標高からきている。〜以下略〜』
とありました。
ちなみに、手稲山には『八百高地』もある。
277 :
牛鍋蝸牛:2003/07/27(日) 03:33:38 ID:Lm5mcnQw
[ x086082.ppp.dion.ne.jp ] 「六万OR九万TO十万坪」に関して。
("長い夜"ならぬ、"広い土地"なんちって…。分かるかなぁ)
いまや少数派となりました「十万坪」(w
例の「さっぽろ歴史散歩」(山崎長吉著)の「藻岩下中継地」に出ていました。
「軍艦岬を過ぎるところは、藻岩山の裏手、すなわち南側の傾斜地で、栗割までの豊平川と藻岩山にはさまれた狭い地域である。藻岩下の地名が定着しているが、別に上山鼻と言った時期もあった。古くは十万坪と呼ばれていたこともある。(中略)
さて、藻岩下のこじんまりとしたところを区切って景観を考えると、ここは明治三年の南山鼻の入植で、世にいう十万坪の開墾が始められた。しかしそれは正確には場所を示すものがない。十万坪は広さをいうことから地名化したものである。つまり本願寺開墾のことである。開拓使当初から軍艦岬と称するのは、今の栗割の岬をさし、のちに現在の尾根の端しをいうように変わった。つまり砥石山の岬から藻岩山の岬に変わった」
「六万OR九万TO十万坪」は「藻岩下」附近の旧地名であると、こういうわけ。
そして、今まで「栗割岬」って名前知らなかったのですが、いわれて見れば、「ああ、あそこ」って感じ。
そして、実は昔そこが「軍艦岬」と呼ばれていたと。
いや、「軍艦岬」の場所ってちょっと人によって思い違いをしている場合があるような気がしていたのですが、そういう理由があったのかもしれません。
現在、車で「石山通り」を走ると「栗割岬」のほうが印象に残るんじゃないかな?
278 :
牛鍋蝸牛:2003/07/27(日) 03:34:57 ID:Lm5mcnQw
[ x086082.ppp.dion.ne.jp ] ついでに「割栗岬」をネット検索してみたら、
http://www.city.sapporo.jp/minami/01about/ab03tiku.htm 「みなみくってどんなとこ」がヒット。
「藻岩山を頂点に、北は軍艦岬、南は栗割岬、そして豊平川に囲まれた三角地帯。
明治4年、東本願寺により山鼻から八垂別間の新道が開削され、同13年には岩手県人の本宮要助が入植」と書かれていますね。
「さっぽろ文庫1 札幌地名考」では「北ノ沢」で出てきます。
「北ノ沢の割栗(ワレグレ・ワリグリ)も忘れられない地名である。この地名は融雪期になると崖から石が落ちてくるところからついたという。札幌方面から来て旧道に入り、観光道路入口附近の藻岩山下の峰の流れが豊平川に落ちるところの坂道は割栗道と呼ばれ、豊平川の深い淵になっていた。明治十二年に、「円山から割栗石を運搬した…」という記録や、同三十八年に「山鼻村の灌漑用水路の導入口として水門が設けられた」という記録が残っている。
>>276西創成さん!
「元町在住」じゃなく、「東区在住」さんでしょ(w
279 :
18丁目:2003/07/27(日) 09:34:40 ID:9mVTUKSk
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 栗割岬も初めて聞いたじゃー!
そして北が軍艦、南が栗割とな?
牛鍋さんのおっしゃるように、軍艦岬の場所事体勘違いしていたかも知れません。
新川さんもお仕事柄、地名にからむことが多くて良いですね。
牛鍋さんシカゴ好きですか?
280 :
牛鍋蝸牛:2003/07/27(日) 10:32:04 ID:Lm5mcnQw
[ x086082.ppp.dion.ne.jp ] >>279栗割じゃないよ。
「割栗岬」(ワレグレ・ワレグリ)
シカゴは政治色の強かった頃が好き。
でも、ピンク・フロイドがもっと好き。
ワレグレッシブ・ロック…。
いや、プログレッシブ・ロック。
281 :
牛鍋蝸牛:2003/07/27(日) 11:23:38 ID:Lm5mcnQw
[ x086082.ppp.dion.ne.jp ] …と書いたら、自分でも
>>277で「栗割」と書いていた。
ま、それだけ「マイナーな地名」ということだ。
ふ〜、うまくく言い逃れが出来た。
あ、まだいたの!
282 :
西創成:2003/07/27(日) 13:15:10 ID:qwvxueBo
[ i095138.ap.plala.or.jp ] ごめんなさい!
東区在住さん。私もとうとうこわれてしまったか!
「六・九・十万坪」牛鍋さんの解説でわかりました。
さすが!牛鍋さん。
283 :
牛鍋蝸牛:2003/07/27(日) 16:15:09 ID:ggIl9oQs
[ L066171.ppp.dion.ne.jp ] また寄り道しちゃった。
「円山」の「宮ヶ丘」、「十二軒」関係。
ま、「軍艦岬」だって「札幌市」と合併する前は「円山町」だったんだから「円山」ネタなんだけどね。
さて、Kさんのレスに本格的にお答えしなければ。
>>271昭和25年頃の地図ではすでに「十二軒」がありません。
で、その前に大正5年頃の円山辺りの地図をアップします。
地図のアップはいつものアルバムでは見づらいので、161さんのとこをお借りしましょう。
http://cgi28.plala.or.jp/~xapy/cgi-bin/source/up0044.jpgこの地図で「十二軒」と表示されているところは現在の「宮の森2条9丁目」と「2条10丁目」辺りです。
ただ、「十二軒」の正確な範囲となるとちょっと読みにくいですね。
あ、すでに「向陵中」も描かれています。
「十二軒」の下に一点差線が斜めに走っていますが、これが「札幌」と「琴似村」の境界線です。
その境界線上に池が見えますね。
「神社通」との交差するところ。
池、あったんだねぇ、こんな所に。
この池のことが「さっぽろの昔話」に書かれていますので、ちょい引用。
>>272の後に続く文章です。
「琴似村は、実に池一つをへだてて札幌神社の森と相対しているのだ。俗に十二軒と呼ばれている。あの神社裏が既に琴似である。あれから三角山まで、その内には立派な道路も出来るそうだが、あの一帯の地は、林檎園に蔬菜園、牧場等で、そこが宮ヶ丘文化住宅地とか呼びなされて、今では縦横に道路も出来ている。自動車も飛び廻っているのには全く驚いた」
ん?
ちょっと待った。
例の「札幌地名考」にあった「宮ヶ丘発祥 昭和16年説」なのですが、もしかして、現在の「宮ヶ丘」の名は元々「琴似村十二軒」の、分譲地としての「愛称」であったものを、昭和16年を契機に「札幌神社」と「円山公園」を中心にした丘に付けたのかもしれない…。
というか、きっとそうなんだ。
な〜るほど!
であるなら、「札幌地名考」の記述のつじつまは合うなぁ〜♪
素晴らしい!
284 :
東区在住:2003/07/28(月) 01:08:49 ID:KYMezAR.
[ m61-125-18-116.megafit.me-h.ne.jp ] こんばんわ。またまた創成川西側&ススキノ探検してきました。
西側の〇〇〇の間ですが、宿の窓から・・・というのを1件発見しました。
あと、古い豆腐屋さん、どうやら営業しているようです。
36号線に面した薬局は閉店してしまうようです。
南5条西9丁目くらいにある古いタバコ屋さんには
なぜかビニ本がたくさん。あとはタバコしか無かったような。
店内に入りタバコを買ってみましたが、あまり商品はありませんでした。
店先の柱に変わった看板がありました。(何が書いてあったのかは忘れちゃった)
今回はデジカメを持っていくのを忘れたので
次回は必ず画像を手に入れます。
>西創成さん、牛鍋蝸牛さん
実は元町に住んでます。
なぜばれたのかしら(^^;
285 :
18丁目:2003/07/28(月) 01:55:39 ID:pYYxt9Q2
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ] 只今、友人の結婚式帰りです。
また呑み疲れしてしまいました。
>>283>自動車も飛び廻っているのには全く驚いた」
そりゃ驚くわなあ(w
ほほー東区在住さん、お住まいの元町の探検はされたことございますでしょうか?
286 :
東区在住:2003/07/28(月) 09:04:43 ID:KYMezAR.
[ m61-125-18-116.megafit.me-h.ne.jp ] おはようございます。
今日はうちの乳児が熱を出して探索中止です・・・
でも北24条の小児科まで行くのでデジカメ持参で(w
>>28518丁目さんはもしかして東18丁目在住ですか?
それとも西18丁目(中央区)でしょうか。
興味津々w
元町は探索したことないです。
せいぜい近所を散歩程度です。
子が元気になったら探索してみます。
287 :
k:2003/07/28(月) 12:00:52 ID:M73HroWE
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >>283 牛鍋蝸牛様
ご丁寧なレスをいただきまことにありがとうございました。お蔭様で年来の疑問
が少しく解明されてきたようです。やはり、現在の中央区と西区の境界線は昭和
30年以前の札幌市と旧琴似町の境界線よりも西に進んだかたちとなっているので
すね。「十二軒」は宮の森地区と西区の山の手地区の一部に広がっていたものと
考えていいように思います。そういえば、盤渓地区も現在は中央区のようですが、
かつては琴似町でしたね。まずは御礼まで。
288 :
菊水上町:2003/07/28(月) 12:03:02 ID:ujWhJ3k.
[ h009.p184.iij4u.or.jp ] >創成川東側エリア
オレもあの近辺の風情だいすきです。
狸小路10丁目の飲み屋さんのあたりもいいですよねー。
ああいう比較的歴史の深いものが残っていると無性にうれしくなります。
狸小路3丁目の「ふる狸」が燃えてるときは足(チャリ)が止まりました。
年齢的に一度も入店したことがなかったので非常に残念に思った覚えがあります。
もの凄いログの量にたまげました。文字を追うのがせいいっぱい・・・・
289 :
西創成:2003/07/28(月) 22:57:24 ID:lPqfCY9.
[ i098126.ap.plala.or.jp ] 288>>菊水上町さん
しばらくでございました。
狸小路の「ふる狸」さんは、美園に移転されたそうですね。
>>284 東区在住さん
元町にお住まいなんですか。
適当に間違ったのに、本当ですか!
今日から霊能者を牛鍋さんに続いて、名乗ろうかな。
お子さんの具合は、少し良くなりましたか。
そういえば、
南4西6の「にひら小児科」も良い医者として前から有名ですね。
昔から、乳児は宇津救命丸飲ませてだめなら、さっさと医者行け!といいますから、早く医者に行くと安心です。
290 :
西創成:2003/07/28(月) 23:12:12 ID:lPqfCY9.
[ i098126.ap.plala.or.jp ] >>284あの辺(南5西9)には、旧ミトキ館の一帯です。
昨年火事で焼失した、この映画館の忘れ形見「ミトキ新道(しんみちと読むのが正しい)」という飲み屋街がありました。(南6西9・東屯田入口角一角)
ここは、戦後、八丁某という人が代表になって、満州引揚者を中心に出来た飲み屋街です。もとは東本願寺の古い墓地のあとだとか。
291 :
対山橋:2003/07/28(月) 23:49:18 ID:MkFTiiO6
[ hospro002100.adsl.ppp.infoweb.ne.jp ] こんばんは。
話の腰を折って申し訳ないのですが、どうしても気になることがあってお尋ねしたいのです。
中央区北5条西8丁目、京王プラザホテルの西隣の区画なんですが、区画が全部「森」みたくなっていますよね。ここって、一体何なのでしょうか?
北五条手稲通の南隣が北大付属植物園なので、てっきり北大の敷地なのかと思っていたら、どうも違うのです。
どなたかご存知の方、ご教授いただけませんでしょうか?
292 :
18丁目:2003/07/29(火) 00:10:03 ID:ZX2npRzo
[ p7254-adsao01sappo2-acca.hokkaido.ocn.ne.jp ]
293 :
牛鍋蝸牛:2003/07/29(火) 07:59:47 ID:C4VQqtjw
[ N044072.ppp.dion.ne.jp ] 新川番地さんにレス。
「いく代」関連、「黄金温泉」の「松の湯」の事故の詳細が「さっぽろ文庫37 札幌事件簿」に出ています。
既にご存知でしたらゴメンです。
「円山」(十二軒、宮の森、宮ヶ丘)じみ〜に進行中なわけでありますけど…。
「さっぽろの昔話」にちょっと面白い話が出ていましたので、「円山の将来」より引用。
「(円山村は)現在は札幌市に準じて何条何丁目といっているが、これは俗称であって、何れは正式に町名を命名する筈であるそうだ」
これってその後の、円山山麓周辺の地名命名のことを指すのでしょうかね?
で、そろそろ次のスレを立てる用意をしなければ…。
294 :
k:2003/07/29(火) 09:50:43 ID:UJTTXAUs
[ dhcp17.niche.tohoku.ac.jp ] >>290ミトキ館ですか。たいへん懐かしいですね。昔、モギリにとても可愛い子がいるとい
う噂が広まり、わざわざ見に行った思い出があります。今もお元気でしょうか。もう
還暦を過ぎ、孫の五人もいることと思います。
295 :
k:2003/07/29(火) 17:14:22 ID:dFod4t9E
[ customer71-242.mni.ne.jp ] >>293に関連して
旧円山村合併以前だと思いますが、市電の一条線の「西20丁目」と「琴似街道」
の間にに「円山三丁目」という停留所があったのを思い出しました。合併後ここ
は西23丁目となり、その後廃止されました。
さらにしつこく、「十二軒」関連で
山の上のほうは従来から「宮の森」と呼ばれていたように思います。従って、従来
の「宮の森」と「十二軒」の大部分が現在の「宮の森〇条〇丁目」となり、中央区
に入ったものと考えてよさそうですね。そして「十二軒」の西よりの一部が
西区山の手となった。ということですか。
296 :
なまら名無し:2003/07/29(火) 19:09:30 ID:a/.T7LwQ
[ 211.57.254.5 ] 296
297 :
伏古:2003/07/29(火) 19:26:53 ID:Wkn7Pl.2
[ m196094.ap.plala.or.jp ] 私のことを憶えている方はいらっしゃいますか?
来月上旬まで忙しいので、その後にゆっくり拝見します。
では、ひきつづきどうぞ。
298 :
牛鍋蝸牛:2003/07/29(火) 19:58:59 ID:C4VQqtjw
[ N044072.ppp.dion.ne.jp ]
299 :
なまら名無し:2003/07/29(火) 20:22:32 ID:FcPMq5lY
[ adsl-210-128.36-151.net24.it ]
300 :
なまら名無し:2003/07/29(火) 20:22:51 ID:XRRUCyyM
[ host134-116.pool80204.interbusiness.it ]