●宇喜多秀家について語りましょう

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1名無しなんじゃ
岡山が誇る戦国の雄、悲運の将、
宇喜多秀家公をマターリ語りましょう。
2名無しなんじゃ:2002/12/14(土) 22:02 ID:2rkD0RmI
所詮は騙しと裏切りでのしあがった小心な詐欺師。
3名無しなんじゃ:2002/12/14(土) 22:26 ID:vT9Ohj7A
>>2
そりゃ親父の方だろ。
秀家公は、島流しにあった後も、島民たちから慕われた生涯を送ったそうだよ。
4名無しなんじゃ:2002/12/14(土) 22:31 ID:v/kHB9Ag
板違い
5名無しなんじゃ:2002/12/14(土) 22:53 ID:Quj3nAz2
 豪姫の散財にも口出せず、法華宗系の家臣(花房・戸川のみならず従兄弟・あき家)と前田家臣団の軋轢も解消出来なかったのは、あほ過ぎる。
 関が原では、追放した家臣にやられ、大阪の陣で千姫を救出した坂崎直盛は、従兄弟・あき家だし
 人を見る目無さ過ぎ
6名無しなんじゃ:2002/12/14(土) 23:18 ID:XogjYm/2
世間知らずだったと思うよ。
宇喜田家はそもそも「国人」の集合体で成り立っていた家柄。
家臣団の統率は、余程注意しなければならなかったのに、秀吉の寵愛を受け、居城岡山より大坂に長く居たといった事情はあるにせよ、統率をおろそかにしてしまった点が崩壊に繋がった遠因と考えている。

ただし、彼は「内政手腕」はあったようで、短い岡山城主期間ではあったが、商都岡山の原型を作り出してた点は評価できる。