事務所の屋上のドアを開けると雲ひとつない空が強い風と一緒に飛び込んで来
た。
連れてきた彼女はすでにそこにいる。仁王立ちの愛ちゃんは風に髪をなびかれ、
邪魔くさそうに頭に押さえつけながら振り返った。
「お待たせ」
「なんでこんなとこに用事なん? ウチ帰りたい。ああそうか、亜弥ちゃんここ
からウチを突き落とす気なんや」
「かもね。イヤホンしてる?」
わたしが聞くと愛ちゃんは耳を見せて、装着している事を示した。
「言ってみて」
「素晴らしきマリンよ永遠なれ」
わたしが笑顔を見せると愛ちゃんもにいっと歯を見せた。
親指を立てると彼女も立てる。
「ほんで、なんやの?」
「要するに後藤さんの持ってるキーカードが必要なんでしょ」
「あい」
わたしは下から運んできた後藤さんの等身大パネルを出入口から引きずり出し
て、愛ちゃんに向けて立てた。発声練習の次は、本人を目の前にしてのシュミ
レーション。その為に。
「愛ちゃんのその言葉に後藤さんがどう反応するのか、愛ちゃん自身はどうなる
のか、そのへんは聞かされてないし知らない。どうやら先生が言うには、『殺さ
ない為の言葉』、そうわたしは受け取った。とにかく、前から言ってるように妙
な気起こしたらとんでもない事になるんだから、絶対」
話をさえぎるように耳をつんざく破裂音が二回して、すぐ横の後藤さんの顔に穴
が二つ開いた。
わたしの顔からパネルの顔まで距離にして30センチ。
紙の破片が勢い良く風に舞う。
腰を抜かしたわたしなんか目に入らないかのように、愛ちゃんは仁王立ちのま
ま、リボルバーからあっというまに全弾撃ち尽くして、後藤さんのパネルを倒し
た。
大急ぎで愛ちゃんを連れ、なぜか後藤さんのパネルも抱えてその場から逃げた。
必死に愛ちゃんの手からもぎ取ってお尻のポケットにねじこんだ拳銃から熱を感
じる。
人通りの多い街中を走る途中、交番を横切るはめになってしまい、そのときはな
ぜかとっさに走るのをやめた。余計不自然だったかもしれない。お尻の拳銃を隠
すように手で覆ったのも不自然だったけど、おもてに立っていた警官はこっちを
見るだけで特に何の興味も示さなかった。
人気のない橋の上。その冊につかまって目を閉じて、ひどい呼吸を整えようと必
死になった。
横に置いた後藤さんパネルがふと目に入った。顔を重点的にやられてる。――顔
がない。おもわず寒気に震えた。
ようやく落ち着いて愛ちゃんを見ると、隣で四つん這いになってるものの、別段
苦しそうでもなく、ただ地面をみつめているだけだった。
――やってしまった。
たぶん、心境はそんなとこだろうか。わたしは冊の向かったまま腰をおろした。
「やっぢまった」
「………」
怒る事も出来ない。慰めの言葉もみつからない。こんな時は、何を言えばいい
の?
「やっぱりやっちまうんだな。ウチは……あたしは」
「………」
「あたしはあかんのやろか」
ただ意志は、愛ちゃんの意志は確実にこっち側に来てる。そう、わたしの方へ。
味方だよ。
そう思うと嬉しかった。意志があっても身体が言う事をきかないだけ。
だけ、ってのは目の前でおろおろしてる彼女には、実に失礼な話だけども。
「帰ろう」
そう言ってわたしは腰を上げた。
「軽蔑してるんでしょ」
パネルを拾いあげると同時に言われた。
「え?」
「あたしの事」
「……どうして?」
「だって――」
わたしは、今はただ
「だって、亜弥ちゃんいつも何も言ってくれないし、あたしの事なんて無関心だ
もの」
「へえ?」
今は言ってあげられる言葉が思いつかなかっただけだ。なのに。
「今は……何言っていいかわかんなかったんだよ」
「今だけじゃなく、前から」
「前から?」
「なんでいっつも無関心な振りすんのかなって、だからそう思ってあたしへんな
事ばっかりやって、ほとんどわざとじゃないけど、それでも亜弥ちゃんあたしの
方向いてくんなかった」
わざと? 何がわざとで、何が事故? いろんな愛ちゃんのやってきた事思い出
して。
だけど、今となってはもう、ごっちゃごちゃ。記憶の整理がつくはずもなかっ
た。
――そんなにわたしは、愛ちゃんを見てなかったのかな。
言われてみれば、そうかもしれない。
「じゃあどう言ってほしい?」
しまったと思った。
ここはおそらく何も言い返さず、受け止めとくのが大人なんだろうなと思った。
でも、もう遅い。思わず口をついて出た言葉がこれだった。もう遅いよ。
「今の場合なんてどう言えばいい? 思い通りにいかなかったのは例の教育って
やつでしょ。それにはやっぱり逆らえないんだよ。あきらめよう。これでいい
の?」
愛ちゃんは、例によってうつむきはじめる。
「わたしだってわかんなかったもん。愛ちゃんが何考えてたか。わかったのなん
て、最近だよ?」
嘘。最近じゃなくて、たった今だ。
要するにお互い、全然わかってなかったってわけだ。
わたしの言葉に愛ちゃんは顔を上げた。
「軽蔑なんてしてないよ」
わたしは落とした後藤さんを拾い上げると、彼女を通り過ぎた。
前より鮮明な愛ちゃんの思い。
しかし愛ちゃん、思った事口に出してぶちまけたのなんて、今がはじめてで
しょ。
しばらく歩くうちに愛ちゃんのついてくる音が聞こえてきた。
ごめんね。
そう呟いた。