小説練習用スレッド α

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69第3章

第3章 序編

もしも今夜、あの冷たい雨が降ってくれれば、僕らを過去に
誘ってくれるのに…

― カンザス ―


「この曲、いいな」
「でしょ?なんだかんだ言って、サイモン&ガーファンクル
を聞くと心が落ち着くもの」

「これ最近出たベストですか?」
「ウウン、MDよ。自分で編集したの。」

「そうですか。…そうだ、今度アート・ガーファンクルの
ソロアルバム持ってきましょうか?なかなかいいんですよ」
「ホントに?楽しみだなぁ」

レコーディングスタジオの地下にあるメニューの少ない
この喫茶店は、関係者以外に入れないある種の隠れ家の
ような存在だった。最近の彼は、この場所で仕事帰りの
真希たちを待っている事が多くなっている。

彼はお気に入りのウィリアム・メリット・チェイスの絵
画集を読みながら、いつものようにマズイ紅茶を飲んで
いた。また最近親しくなったウエイトレス兼店長でもあ
る快活なこの若い女性との会話も彼の楽しみの一つに増
えつつあった。

そうした時間を楽しんでいた彼の眼の片隅には、先程か
ら先日の雨の中、救い出した少女の姿が入っていた。
  
  少女が自分に何か言いたそうな気配を醸し出している
  のは分かっていたが、こちらから声を掛ける義理もなけ
  れば、そうした仲でもないだろう。彼はそう決め込んで、
  その気配を無視して、音楽と彼女との会話を続けてい
  た。
70第3章:02/01/28 04:32 ID:???

暫くするとその少女の直ぐ隣の席に、だらしなく
Tシャツを外にだし、一見して直ぐ分かるように
如何にも業界人の気配を漂わせている干からびた
中年男が腰掛けようと近づいた。

その瞬間、少女は突如立ち上がり、その男との距
離を開けるように遠くの席に移動した。彼は眼の
片隅でそうした少女の行動を捉え続けていた。

ある種の感慨が彼の胸の中を去来したが、その想
いは心の中に閉じ込めた。彼は何事も見なかった
かのように、ウエイトレスとの会話を続けていた。

そうしている内に彼女の元には、上のスタジオか
らの注文が来たようだった。彼との会話と中断し、
忙しなくカウンターの中を動き回る。彼も会話を
止めると、心地よい音楽に身を沈めながら、再び
手元にある絵画集を読み耽っていた。

「すいません、ちょっと上に行ってきますから」
「わかりました」
「お客さん来たら、よろしくね!」

「え?チョット、よろしくって困りますよ。いったい、
私は、どうすれば?」
「どうにかして、お願いね!」
「お願いって・・・」

そういうと彼女は幾分速足で店を出て行ってしまった。
彼は途方に暮れてその場に立ち竦んでいた。そして不安
そうに辺りを見回すと、喫茶店の奥で小さく身を丸めて
いる梨華と眼が合った。するとどちらともなく互いに目
を逸らす。梨華の小さなため息が彼の耳に届いた。

梨華はずっと趣味の音楽の話ですっかり意気投合してい
た彼とウエイトレスの会話を喫茶店の片隅で耳を済まし
て聞いていた。先程梨華に対し嫌悪感を漂わせていたあ
の中年男の姿も今はもうない。

梨華はこの少し狭苦しい一室に二人きりとなった事を認
識した。すっかり挨拶をするタイミングを無くして、ど
うしていいか困っていた梨華とって、絶好のチャンスが
訪れていた。
71第3章:02/01/28 04:35 ID:???

梨華は息を整えるかのように目の前に置かれている水に
口をつけて喉を適度に湿らすと、座りながらではあるも
のの心の底からの勇気を振り絞り、彼に話し掛けてみた。

「あのぉ・・・、こんばんは」
「こんばんは。確かあなたは・・・石川さんでしたっけ?」
「そうです。…この間の雨の日は、本当にありがとうございました」

「いえ、大した事をした訳ではないですから…。
そういえば…、あれから大丈夫ですか?」
「…ハイ。もう大丈夫です」
「そうですか、…それは良かった」

喫茶店の隅と隅で梨華と彼の言葉が飛んでいた。彼はなるべく
梨華の顔を見ない様に努めて話していたが、途切れ途切れの話
にぎこちなさは拭えない。梨華の眼差しをかわしながら、改め
て見るその彼女の顔は、彼の心の中に住み続けている、かの女
性に瓜二つであった。

彼は梨華との思わぬ邂逅に喜びを噛み締めていたが、かと
いってその気持ちを表に出すわけでなく、逆にそれを押し
隠すかの様に、極めて平坦な口調で語り続けた。

「今日は、もうお仕事、終わられたんですか?」
「ハイ・・・。」
「そうですか・・・」

彼は、どうしても梨華の顔を見つめ続ける事が出来なか
った。一つしゃべる度に俯いて梨華の顔から目を背けて
しまう。

しかしそうした態度とは裏腹に彼の本心は梨華の事を見
詰めていたくて仕方がなかった。しかしその先の言葉は
続かず、ただただ俯いて残り少ないティーカップをスプ
ーンで空しく撹拌させていた。

梨華も何となく二人の間に流れ始めてきた気まずい雰囲
気に少し飲み込まれ掛けている。何もいえずにピンク色
のカッターシャツの端をモジモジとさせながら、続ける べき
言葉を懸命に探す。

しかし頭の中には何一つ気の効いた言葉は浮かんでこな
かった。それでもこの沈黙を破るため、梨華は後先を考えず、
口を開いてみた。
72第3章:02/01/28 04:36 ID:???
「あの…」
「あの…」

彼の考えも同じだった様だ。後先を考えていない繋ぎの
言葉が口をつく。苦し紛れの同じ言葉が宙に浮く。する
と梨華と彼はお互いの顔を見合わせ、少し微笑んだ。

「石川さん、どうぞ。なんでしょう?」
「いいえ、どうぞ。そちらこそ…」
「いや、大した話じゃないですから」
「私の話も大した話じゃないですから…」

「…なんだ。それじゃあ、お互いに大した話じゃないんですね」
「フフフ。そうみたいですね」

今までの少し刺々しい空気が幾分和らいだ気がした。彼は
思い切って梨華に話し掛けた。

「今日はレコーディングですか?」
「ハイ。」
「大変ですね、こんな遅くまで」
「でも、私が悪いんです。私のパートだけ上手く取れて
いないみたいなんで…この後も居残りなんです」

「そうですか…頑張ってくださいね」
「…ありがとうございます」

彼は当然ながらこの間の「事件」については触れなかった。
触れたくもなかったし、触れるべきでもないだろう。全て
を忘れようと心の奥にあの時の記憶をしまい込んでいた。

しかし梨華の気持ちは違っていた。いや忘れたくても忘れ
られない「雨の記憶」の衝動を抑えきれないでいた。

「…この間は、アリガトウございました」
「いいえ。大した事していませんから…」
「そんな事ありません。ありがとうございました」

梨華は立ち上がると彼に対して深々とお辞儀をした。彼も
それにつられ、恐縮そうに大きな身体を丸めながら、梨華
の動きに呼応して頭を下げていた。

「そんなに御気になさらないで下さい。それよりも…」

彼は先程まで心の奥にしまいこむと決め込んでいた感情を
一時だけ解き放ち、気になっている事を問いただした。

「それよりも…あれからは大丈夫ですか?」
「ハイ…」
「とにかくあんなゴミ屑みたいな男には近づかない方が良いですよ」
「ハイ…」

梨華は明らかに毒々しくあの男の事を評する彼に対して喜
びと同時に少なからずの疑問がわいていた。

(あの人のこと、知っているみたい…でも、どうして)

梨華が言葉を掛け様とした瞬間、彼のほうからの問い掛
けが続いた。


<続>