小説練習用スレッド α

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193JM


壊れた時計 〜 2 MINUTE WARNING 〜


プロローグ someone to watch over me/ 気配


私が、その少女に初めて出会ったのは、酷く暑かった夏が漸く終わりを
告げた頃だった。

今にして思う。

私の中から永遠に消える事がないであろう、その秋の記憶の始まりは、
唐突に訪れていた。

夏の盛りを終えたにも関らず、容赦ない冷気が吹き抜ける。私は温度
調節が壊れたかのように部屋の空気を冷やし続ける喫茶店の片隅で
二人の人物と対峙していた。

私の右斜め前方に座る、忙しなく喋り続ける中年の男性は、カラにな
りかけのコーヒーカップを惜しみそうに撫で回しながらチョビチョビと口
をつけている。喉を潤すというより渇きを断ち切るという表現が当て嵌
まるその男の様子を横目で眺めながら、私の意識はその隣に小さくな
りながら座っている儚げな少女に集中していた。

端正な顔付きに反比例して少し憂いを帯びた瞳が妖しく光る。少し茶
色がかった髪の毛を幾度が出て梳く仕草が私の眼に眩しく映えてい
た。年の頃は17,8だろうか?何れにせよ、こういう状況でなければ、
永遠に私とは交わる事のない煌きを持っている女性であるのは間違
いない。

ここに赴く前にスタッフから何かの参考にと渡された写真で見たとお
り、いやその写真以上に目の前に座る少女は、掛け値なしに美しか
った。

中年の男が私に向け話している最中、眼前の彼女は心ここにあら
ず、と言う表情で黄金色に染まり始めた大きく開いたウインドウの
外をやるせなく眺めている。彼女の瞳は幾分伏目がちに私の気配
を窺っているようでもあったが、私はそうした気配にわざと気付か
ぬ振りを決め込んだのも、彼女のそうしたやるせない立ち振る舞
いが心の奥底をやんわりと刺激してからに他ならない。

クーラーの冷気に乗って彼女の香りが鼻腔に伝わる。私は、久しく
鈍っていた「ある感覚」がホンの少しだけ胸の奥で目覚めていくのを
感じ始めていた。

それは、あくまでも心の奥底での一瞬の出来事ではあったが、私の
胸中は、まるで失っていた記憶の断片が繋ぎ合わさる様な奇妙な感
覚に囚われていた。
194JM:02/07/19 00:37 ID:???

「それで?」

空気を変えるかの様に、私は言葉を発してみた。勿論深い意味などは
ない。いつもの事だ。

「え?ハイ。それで、どうでしょうか?」

幾分が微笑を湛えた男性の顔が私の眼に飛び込んでくる。改めて考える
までもなく返事は決まっていた。

「いや、別に変わりませんよ、答えは」
「そう言わずに…」
「いえ、同じです」
「・・・大変な事をお願いしているのは承知していますが、そこを是非とも
お引き受け願いないでしょうか?折角こうしてお話を聴いていただけた
訳ですし」

「いや申し訳ないですがね」

私は一度言葉を切り、男性を見据えた。その顔にはそう簡単に納得
しませんよ、と言う強固な意志が刻み込まれていた、私は一つ咳き
込むと、その勢いにのせて言葉を繋いだ、

「まぁ…理由はともかくですが、残念ですけど、電話でもお話したとおり
やっぱりお断りさせて頂きます」
「いや、そこをなんとかですね・・・」
「申し訳ない。やはり無理です。お話はここまでに・・・」

男性の隣に座る少女の美しさが私の心を揺さぶった事と、話を受け入れる
とのは別な事だ。例えその少女が私の心を激しく乱そうとも、それとこれと
は何ら関係はない。

しかし男性の話はそこで終わる訳もないのも私は分かっているつもりだ。

「しかしですね・・・」
「とにかく、私は失礼します。それでは」

私は言葉を続ける男性の言葉を遮るように、こうした話に何ら無関心を決
め込んでいる彼女の表情を見遣りながら、複雑な思いを振り切るの様にや
や強い口調で男の申し入れを断ると、伝票を持って席を立ちレジに向かった。

こういう時は、しかも彼の様なかなり押しの強い相手との別れ方として、
後腐れのないほうがいい決まっている。極めて事務的な態度で接する
のもある意味では礼節だと私は勝手に解釈していた。

私は、レジの中でけだるそうに伝票を覗き込むバイトらしい女性の態度
に苛つきながら、釣銭を奪い取るように受け取ると、間髪を入れずにそ
の冷え切った喫茶店を辞した。

しかし男性の立場にしてみれば、そうはいかないのも、私なりの理解で
分かっているつもりだ。彼にしても縋る様な思いで私らの様な、いかが
わしいトコロにまで頼みに来たに違いない。先程来の話の内容から鑑
みても、相当な覚悟を決めて来たのは、容易に推測ができる。やはり当
然の如く、必死の形相で直後を追う様にして付いて来たのを、私は背中
越しに、そしてかすかによぎった左目で確認した。

しかし私は男が息を切らしながら背後に近寄ってくる気配を感じつつも、
振り返る事無く眼前に広がる大通りに出て、流しのタクシーが来るのを
待っていた。自分の車で来れば良かったなとほぞを噛みつつ、当然の
行為として、背後に近づきつつある男の存在には気付かぬ振りを決め
込んでいた。
195JM:02/07/19 00:40 ID:???

「ハァハァ…。ちょっと待ってください。もう少し、もう少しだけでイイです
から、私の話を聞いて頂けませんか」
「・・・」

一向に返事をせず、沈黙を保つ私に対し、それでも尚、男は私に縋って
きている。私は、男が放ち続ける重苦しい空気に押しつぶされる前に、
一刻も早くこの場から立ち去りたかった。

だがその中年男は、簡単にはそうさせてはくれない。それでも私は沈
黙を守り続けるしかなかった。

「・・・」
「お願いします。こうなった以上、最早アナタ方にしか頼めない訳でして」
「・・・」

明らかに私のほうが年下だと言うのに、その男は終始敬語で私に語り
掛けてくる。立場上とは言えその男の心中を慮れば、心苦しいのもま
た事実だ。

しかし男の頼みをそう簡単に素直に聞き入れる訳にはいかない事情
が私にもある。そうであるが故に、男の話は聞き流すより他がなかった。

「村岡から皆さんのご活躍のお話は聞いています。そこでアナタ方しか
いないと考えた訳でして・・・」
「・・・」
「あの先生が言うには、皆さんはこうした事のエキスパートということで
すから・・・」
「・・・」

私のいけないところは、今の自分を正当化する為に「多くの貸し」を見境
なく赤の他人へ作ることにある。それも短時間には返せない位の大きな
貸しを。

今の私にとって村岡という名前を出される事以上の免罪符は存在しな
い。この男性がそれを見越した上で意識的なのか、そうでなく単純に
無意識なのかは知らないが、その名を口にしてきた。

村岡は私の会社の顧問弁護士であると言うよりも、後見人、いや保証
人、いや監視人という表現があっているかもしれない。村岡を通じての
依頼であるが故に、こうして役不足は十分承知の内容でありながらも、
この男性に会う事になった訳でもある。

私としては、とにかく会う事の義務を果たしただけで、今日の役目は十
分だと理解していたが、男は全く納得はしていないようだ。この程度の
私の拒否反応では当然ながら男の気持ちを揺るがすには、程遠いの
は自分でも分かっている。

男の必死の粘りつく様な反駁が私の背後で続いている。私は次第に壁
際に追い込まれている気分になっていた。
196JM:02/07/19 00:47 ID:???

「スタッフの方も精鋭だそうで何でも大手のそうした類の会社よりも実
績も能力もおありになるというお話だそうですから・・・」

「いや。先生のお話は、腹8分で聞かれたほうが賢明ですよ。元々相
場を張っているのが専門なんですから、第一オーバーな事を言うのが
商売みたいなところもありましてね…」

「それはご謙遜ですよ。実際、こなされたお仕事お見受けしましたが、
完璧じゃないですか」

男の言い放つ大仰なお世辞に辟易しながらも、私は自分の気持ちを
無視しつづけながら、断る術を私の持つ少ないボキャブラリーの中か
ら手繰りよせていた

「まぁ確かにそう言って頂けると嬉しいですが・・・。ただ今までの仕事内
容と今回のご依頼の件は余りにもかけ離れていますし、何の参考にも
なりませんよ。それにですね・・・

謙遜は美徳ではなく単なる自己満足だというのは良く分かっているが
事の流れでせざるを得ない自分自身に腹を立てながら、言葉を繋ぐ。

「あのですね、先生を含めて、あそこの事務所の人間は私らを少し見
込み過ぎではないですかね」

「そんな事はありません。失礼ながらこうしたお話をお頼みする以上、
皆さんの事は私らでも調べさせて頂いています。実績は申し分ござい
ませんし、関係者のどこで聞いても、いいお話しか返ってきませんよ。
ですからこそ、そこを見込んでお願いをした訳なんですから。」

必死で探した言葉の倍の数が返ってくる不条理さ。自分の情けなさが
身に染みる。

「あのですね。でしたらお分かりだと思いますが、まぁ正直言いますと、
今は、少し休みたい気分というのもありまして」
「勿論その事は・・・、重々承知しております。ですからその代わりと言
っては何ですが、報酬の方は弾みますので」
「しかしそのお金につられて、しくじったばかりですから・・・。 とにかく
今日はこの辺で許して貰えませんかね」
「しかし…」

「それにチームでの仕事となれば私だけとはいきませんし、当方の事情
も慮っていただければと…」
「そうですか、残念ですね…。ですがね、しかし、そこを何とか、今回だけ
でも曲げていただく訳にはいきませんでしょうか?皆さん、というより、あ
なたを見込んでお頼みしたいんです」

「ですから・・・その…なんと説明すればよいのか・・・」

中年男の食い下がり方は、さすがああした業界で長い間培ってきた事は
あると感心せざるを得ない程、しつこくそれでいて丹念であった。

私は断る言葉が少なくなっているのを感じながらも、拒否を続ける。そう
するよりも道がないからだからだ。とにかく今の私達には、こんな複雑な
仕事を引き受けきれるほどの余裕が、物理的にも、そして精神的にも一
分の余地もないのは明白だった。

「申し訳ないですが・・・。しかし今日は、私も悪かったですね。最初から
お引き受けするつもりもないのに、来てしまって・・・」
「謝らないでいただきたい。無理を承知できて頂けただけでも有り難いの
ですから…」
197JM:02/07/19 00:51 ID:???

年下の私が年配の人間にエラソウに振るのは、正直本意ではない。
それにあくまでも個人的ではあるが依頼内容が些かの興味を引いて
いたのも事実だ。

だが、「前回」から日の浅い我々としては、リハビリがてらに引き受ける
仕事としては少々荷が重そうである状況から目を逸らす訳にはいかな
い。ただ・・・先程から喉元に引っ掛かる小魚の小骨のような現実を覗
いていなければ、の前提がつくが。

「・・・」

いやはや職業柄の感と言うのは詰まらない物だとつくづく思う。中年男
の申し出を断り続ける私の眼は、先程から通りの向こうでエンジンを架
けたまま停車しているスポーツカーの姿を無意識の内に捉えていた。

オフィス街、午後3時、公用車が数多く行き過ぎる国道。その街道の左
右には、規則的に立ち並ぶ桜の木々が緑に染まり、人影もまばらなそ
の歩道にハラハラと緑の葉が落ちている。取り立てて見るべき物のな
い無機質な高層ビル群のど真ん中、対向車線の向こう側の路肩にポツ
ンと停まる真っ赤に彩られたその車は、全てのウインドウにスモークが
張られて中の様子を窺い知る事は出来ない。

だが今のこの状況において、その存在が浮いているのは明らかだ。少
なくても私の感覚はそう読み取っていた。

私の大して当てにならないが唯一の頼りでもある「職業的直感」が、既
に頭の中で大音量の警告音を発し始めている。私は中年男との会話
を一端切ると、その車に向け厳しい視線を放ってみた。高級車は相変
わらずエンジンを吹かし続けている。

私は視線を逸らさずに、その車に向かい歩を進めようとガードレール
を跨ぎ掛けた、その瞬間、まるで何事もなかったかのように、その赤い
高級スポーツカーは突如、エンジンの音量を上げウインカーも出さず
に走り出した。

その高級スポーツカーの存在に気づかず道路の左側一杯に走行して
いたバイク便が慌ててハンドルを切る。しかしそのスポーツカーは驚く
バイクに一瞥もくれず、あっという間に、遥か前方を横切る幹線道路へ
と姿を消した。

「どうしました?何かありましたか」
「いや、別に」

私の行動と不可解な高級車の動きを見て中年男が、訝しそうに語りか
ける。私は敢えて平静を装うように、努めて事務的に応対した。

「あの車、誰かお知り合いで」
「いえ、別に。何でもありません。」
「そうですか…」

スタッフが調べ上げたプロフィールを読んだ限り、言外の言葉の意味を
汲み取るのは、この私の背後にいる中年男の主たる仕事といっても過
言ではないかもしれない。当然ながら、今の茶番じみた寸劇を何でもな
いとは思っていないだろう。

それとこれとは別だと割り切っても、非常に嫌な胸騒ぎが私の心に鳴り
響き始め出した。状況と場面の連鎖が、私を逡巡させる。中年男は、私
のそうした気持ちを見透かしたかのように、巧みに言葉を掛けてきた。
198JM:02/07/19 00:57 ID:???

「無理に、とは言いませんし、長期とも言いません。実際、警察にも相
談しているんです。ですから、それまでの繋ぎで構いませんから、お願
いできませんでしょうか?10日間、いやコンサートまでの1週間で構わ
ないですから」
「…」

事務所で待っているスタッフの顔が浮かんでは消える。しかし今の立場
は、引くに引けない状況であるのも事実だ。村岡の顔を立てて、礼を尽
くしたのが運の尽きだったのかもしれない。私は自分の愚かさを呪いな
がら、止むを得ない決断を下さざるを得なかった。

「…1週間ですか」
「そうです。たった7日間です。取り合えずそれだけでもいいですから」
「1週間か…念を押しますが。本当にそれまでの繋ぎで構わないんですね?」
「ハイ、勿論です。どうでしょう?」
「そうですね・・・。根負けですよ、貴方の勝ちだ。分りました、お話の続き、
お伺いしましょうか」

「ホントですか!助かりました。ありがたい。それじゃ…別のところでどう
ですか?」

「いえ、ここで構いませんよ。それに彼女はまだ店の中じゃないですか」
「ああそうだった。それじゃあ中で・・・」

私らは、一度は辞した喫茶店の中に再び舞い戻った。未だに俯きうな
垂れる彼女の前に座り直し、ウエイトレスにマズいストレートティーを再
び注文する。私は胸ポケットから旧式のやや大きめな携帯電話を取り出
し事務所に掛けた。

「あぁ・・・とにかく、そう言うことになったから・・・。文句は、後で聞く。いい
から準備整えて早く来い。時間がないんだ・・・」

明らかに電話の先のスタッフは、苛立ちと怒りを隠していなかった。それ
は私も同じであったが。
中年男の方も化粧室傍の踊り場で忙しなく電話をしている。多分会社の
上司か何かなのだろう。私はウエイトレスがぶっきらぼうに置いていった
お冷やに口を付け、喉を潤す。やや重苦しい空気がテーブルの上に流
れ始めている。

私はそうした空気を打ち消すかの様に軽く息を整えると、目の前に座る
美しい少女に話し掛けてみる事にした。思い返せば、それが彼女との
最初の会話だった事になる。

「あなた注文は?」
「わたしは、いいです」
「あ、そう・・・。貴方おいくつ?」
「・・・17歳です」
「あ、そう・・・」

「・・・」
「・・・」

情けない。それ以上の会話が何一つ広がらない。私はいつもの如く
情けない姿をかなり年下の少女の前で晒している。ただでさえ、見知
らぬ人との会話に難のある私には、ある意味この瞬間は苦痛以外の
何物でもなかった。

それでもどうにかして、上手い話をしようとは思うのだが、彼女の美し
い瞳が私の口をさらに重くさせる。悲しいかな、頭の中はカラカラと虚
しく回転するだけで、何一つ気の効いた言葉すら出て来なかった。私
は冷えすぎた喫茶店の片隅で違った意味での自分の情けなさに自分
自身で打ちのめされていた。

すると満足そうな笑みを湛えながら、電話を終えた中年男が席に戻っ
てきた。彼にとって十分に納得出来る報告が出来たようだ。徐に席へ
付くと大きく息を吐きながらウェットティッシュで顔を拭き出す。そして
横にいる少女に向け言葉を投げた。

「石川、お前は、なんか飲むか?」
「いえ、いいです。」
「そうか、それじゃあ、俺は何か飲もうかな?・・・すいません、コーヒーを
もう一杯追加で」
「…ハーイ」

ウエイトレスの気の抜けた返事が空しく店の中に響き渡る。石川梨華。
彼女との邂逅から始まった鮮烈な秋の記憶は、ここから続く事になる。

<序章 了/ 第1章、今週中掲載予定>
199JM:02/07/21 03:29 ID:???


第1章 In A Silent Way / 不穏


簡単に言えばストーカーを処理してくれ。クドクドと小1時間余りを費や
して中年男が私に語った話の内容は、その一言に尽きた。
偏執的な手紙に始まり、付き纏い、尾行、監視、更には盗聴。良く耳に
するストーカーと呼ばれる種の行為をこの「対象者」もご多分に漏れず
繰り返し受けていた様だ。参考の資料として提出された様々な証拠品
の数々は、私に不快な思いしか、させてくれなかった。

「しかしまぁ…。気持ち悪いもんですね。こうやって改めて見せられますと・・・」
「これはホンの一部ですよ。今日はこの子の手前もありますので」

「分かってます。それは後で見させてもらいますか。今の所は、これで
結構です」
「まぁタレントですから程度の問題はありますし、こうした事は多々ある
んですが、今回はちょっと質が違うと…」

「ナルホドねぇ。こういう事は日常茶飯事なんですか。ただ・・・」
「ただ何でしょう?」
「・・・」

言葉尻を捉えて男は直ぐに言葉を返してくる。彼が俊敏な言葉の反射
神経の持ち主であるというのを改めて思い直すが、私は空になったテ
ィーカップをスプーンで撹拌させながら、懸命に言葉を選んでいた。

状況は分かった。

しかしこれから引き受け様としている事は私達には未経験の領域であ
る。状況が分かったからと言って物事が前進しないのは明らかだ。しか
し眼の前に広がる現実が、そうした感覚をどこかに消し去ろうとしてい
る事実が重かった。

そういう自分の曖昧さに私自身辟易しながら、とりあえず今は動揺する
心を抑えながら話を続けるしかなかった。

「さてと。…どこまで具体的にというか、あなたが先程から言い続けている
差し迫っている状況というのは、どういう事なんでしょう?」
「来るところまでです。今、目の前まで来ています」
「う〜ん。ですから、そういう抽象的な話ではなくてですね、もっと具現的と
いいますか」

「わかってます。実は・・・彼女には黙っていたんですが、これが届きまして」

そういうと中年男は胸ポケットから一枚の紙切れを差し出した。可愛らしい
キャラクターが薄く刷り込まれている便箋には、それと対照的な汚らしい字
で、薄汚い言葉が書き連ねられていた。

「その手紙と共に…少しシャレにならない物も同封されていまして」
「・・・」

珍しく男はやや伏目がちに言葉を言い淀む。横にいる彼女の表情が更に
曇り始める。その表情が一瞬だけ冷徹に歪んだのを私は見逃さなかった。
200JM:02/07/21 03:48 ID:???

「ここで見せるのは、忍びないのですが…」
「いや!いいです。今見なくても」

男が古びた鞄から何やら取り出そうとするのを私は慌てて制止した。
彼女の瞳に淀む霞が私には気になって仕方がなかった。

「?」
「別にいいですよ。ここで見なくても。後で構いません」
「そうですか」
「いえ、何となくは分かりますから。いいですよ」

男に向けて差し出して手が宙に浮く。仕方ないので制したその手をその
まま伸ばし、テーブルの上に置かれた温くなり始めた紅茶で喉を潤した。
そして改めて手紙を読み返す。PCで打ち込んだと思われるその文章は
小さなフォントで便箋3枚にびっしりと書き込まれている。そこには同じ言
葉がイヤになる位繰り返し繰り返し並べられ、いんぎん丁寧に粘り付く様
な表現で、下世話なそして卑劣な言葉が刻まれていた。

私は読み終えた便箋を手繰りながら、ふと息を漏らした。同封されていた
物を見なくても、明らかに相手が「ある一線」を超え始めているのが、こう
したケースを始めて経験する私にも分かった。私はうめく様に言葉を発し
た。

「何と言うか…。つまり・・・その・・・コイツが言うのは、その少年と別れない
と、彼女を殺すという訳ですか?」
「ええ。つまりは、そういう事です」
「相手の少年でなく、彼女をですか・・・」
「実際、一昨日この子が不審者に尾行されたフシがありまして・・・ウチの
会社のものが気付いて事無きを得たのですが・・・」
「その話は村岡さんから聞きましたよ。それで私らに頼まれた訳でしょう?」
「ハイ。常識的な手段では対処できないと感じまして」

私は冷静に応対する男の表情を窺う。先程歩道で感じた感覚とは別な
意味での嫌な胸騒ぎが何故か心の奥底で生じたのを確認する。奇妙な
空気が私の心の中を蠢いていた。その正体が何なのか、勿論私自身に
わかるはずもない。今はただ、男との話しに没頭するより他になかった。

「ナルホド。・・・それで、その実在するんですか、この手紙で名指しされ
ている男というのは?」
「ええ。ウチのではないんですが、あるタレントスクールにいる学生らし
いんです」
「ほう・・・実際にいるのか・・・。それは意外だったなぁ」

男はやや斜に構えた風に私の様子を窺っている様だった。お互いに
テーブルを挟んで疑心暗鬼の暗中模索をしている。まるでチェスでも
打っているような感覚に囚われていた。私は一つ息をつき、徐に事の
核心に触れてみる。

「それでは、つかぬ事をお伺いしますが、実際には・・・どうなんでしょう、
そのお付き合いをされているんですか?彼女とその彼は?」

私が投げかけた問いは、予想もしない方向から、瞬間にして跳ね返って
きた。私の前方にいる美しい少女の口からであった。

「いません!そんな人いません!」

彼女の意思が強い口調で放たれる。思わず彼女の顔を見直すと鋭い
眼差しで私を見つめ返している。私は眼でその旨を了解した意向を示
すと、汚い言葉で埋め尽くされたその手紙を男に返した。男は黙って
頷くと、珍しく俯いて、言葉を飲み込んでいるようだった。微かながら気
まずい空気がテーブルの上を支配し始めていた。

彼女の強い口調が逆に事の深刻さを感じさせる。私には付き合いが
あろうとなかろうと知る由もない話だが、それとこれとは別に、先程揺
らいだ自分自身の気持ちを悔やみ始めていた。やはりこの仕事は、
引き受けるべきではない。私の本能がそう叫んでいた。
201JM:02/07/21 03:57 ID:???

「どうですか・・・状況は切羽詰っているようですし、ここは筋通りに警察
に頼むべきではないですかね?ここまで証拠もありますし、最近の世
の中の流れを見ていても、さすがに警察もシッカリと動くと思いますよ。
それに・・・余りこういう事を言うのも何ですが、芸能プロならそれなりの
ルートもおありでしょう?プロに任せた方が・・・」

男は苛立ちを隠さずにやや強い視線を私に投げかけながら、強い口
調で言葉を返してきた。

「何度も同じ事を言わせないで下さい。それは分かった上でお話をして
いるんです。警察の力を借りる時は、当然マスコミにこの事が全部出る
んですよ。もしそうなったら、イメージダウンどころじゃないんです。御終
いなんです。こういう商売は!それに・・・、あなたの言うとおり、「ある筋」
には話しましたが、こういうの相手では彼らの力のなんか、何の役にも
立ちやしないんです。だから・・・貴方達にお頼みしているんじゃないですか。・・・正直、私も手詰まりなんですよ。実を言いますと、会長や社長に
は黙ってあなたにお会いしています。他のトップ連中は事の深刻さが分
かっていないんだ・・・」

強い口調の裏に潜む何かを感じる。私には伝え切れていない何らかの
出来事が明らかにあるようだ。この期に及んでも、話さないような出来事
とは一体なんなのか?

男の感情そっちのけで私の頭の中はその疑問で一杯になっていた。目
の前に座る少女の悲しげな表情も何か示唆させるに十分であったが、
今の私には知る術はない。

「♪♪♪」

突然、中年男の胸ポケットから携帯電話の鳴る音が響いた。無機質
な電子音に顔を顰めながら、男は電話を取り出し、声の調子を落とし
ながら話している。

手持ち無沙汰の私は目の前に散らばったままになっている数々の証
拠品をかたし始めた。考えてみれば、これらの代物は少女にとって不
快な事この上ないに違いない。
私はかたしながら、時折少女の顔色を窺ってみる。彼女は俯きながら、
窓の外の景色を眺めこれらの品物へ無関心を装っていた。

「すいません。少し席を外させて貰っても良いですか?」
「え?ああ、構いませんよ」
「少し現場でトラブルがあったみたいで。ちょっと込み入った話になり
そうなので、あちらで話してきます」
「どうぞ。そうして下さい」

男は慌てて席を立ち、一旦喫茶店を出ると店の前に置いてあった社
用車に乗り込んだ。忙しなく会話している様子が、ウインドウ越しに
見える。私は息を整えると、改めて目の前に座る少女を見つめた。
彼女も私の気配を感じたらしく、一度座り直す素振りを見せつつ私に
対峙した。暫くの沈黙の内、漸く彼女の重い口が開いた。

「すいません。ご迷惑をおかけしてしまって。別に私はいいんですよ。
無理をなさらないで下さい」

今にも消え入るような声で少女は私に語りかけてきた。私は返す言葉
もなくただ自分の手元を見つめるしかなかった。そこには先程片付けた
数々の悪意の証明が山積みされている。

私の眼に卑猥な言葉が羅列された忌々しい文章が容赦なく飛び込んで
くる。知らぬ間に私は無意識の内に言葉を発していた。

「大丈夫ですよ、ご安心ください」

今、私は余計な事をいっている大概において状況が悪化する時という
のはこんなものだろう。

「まぁ・・・大丈夫ですよ。そんなに大変な事でもないですから」
「でも・・・」
「お任せください。我々も一応はプロですから。どうにかなりますよ、
きっと・・・」

思いもしない様な、浮ついたウソ臭い言葉が自分の口から止め処なく
流れ出る。偉そうな事を少女に言いながら、心の中で私は自分自身へ
の嫌悪感でイヤになった。秋の夕陽が傾きかけてくる昼下がり。私の
つまらぬ偽りの正義感が引き金となり悪夢の日々は静かに幕をあける。
もう後戻りは出来なかった。その引き金を引いたのは、紛れもない私自
身であったのだ。
202JM:02/07/21 04:12 ID:???

「チーフ、どうして受けたのですか。第一、芸能人をストーカーから守る何て、
我々の専門外の仕事じゃないですか。それなのに・・・」
「まぁ、そういうなよ。行きがかり上なんだからさ。それに報酬は、破格だぞ」

「ったく、まだ懲りてないんですか?この間もそんな事言って、エライ目に
あったばかりじゃないですか」
「まぁそりゃそうなんだが、止むに止まれぬ事情もあったんでね」

高速道路の上を激しく揺れるワゴン車の後部座席で、私は部下の山岡
から叱責を受け続けていた。彼の言い分もよくわかる。ついこの間も50
0万という金額に目が眩んで、暴力団が経営している地下カジノクラブ
のセキュリティ調査を引き受けて、ドエライ目にあったばかりだった。

後部座席といってもモニターやら無線機やら我々の仕事に欠かせない
様々な機器が、所狭く居並んでいるその場所は、男二人が席を同じく
するだけで空間は一杯だった。狭苦しく息苦しいその場所で、5つ以上
も年下の少年に私は責められていた。

「チーフ、それってこの間と同じ台詞じゃないですか。お金に釣られるのは
やめましょうよ」
「いや、お前そう言うけどな。それに今回だけちょっと事情が違うんだ。金
の事よりも問題が・・・」

「何、言ってるの。お金はとても大事な話よ。それが一番。それで幾らなん
ですか」

助手席に座る我がチーム唯一の女性スタッフである、川上の声が飛んで
くる。山岡とさして年齢の変わらないのに、その口振りも、そして行動も、
私よりずっと大人の雰囲気を醸し出している。矢の様な鋭さで、彼女の声
が私の耳に突き刺さる。

「お金の問題じゃないですよ、これは、マズイッすよ、マジで」
「ホントに山岡君も甘いわ。今期の決算みてないの?」
「え?そんなに厳しいの。社長、どうなっているんですか?あんなに仕事
してきたのに・・・」
「わかった、わかったよ。心配するな、大丈夫だから。」

「社長、そんな事言って、何か根拠はあるのですか?支払いこれ以上、
待たせられませんよ。」
「わかってるよ。だから、この仕事を受けるんだよ。成功すれば400万。
受けただけでも100万だぞ。こんな割のいい仕事、滅多にあるか」

「なんだ、やっぱりお金じゃないですか。割りなんて全然良くないですよ。
ああいうアイドルに絡んでくる奴等は危ないですよ。止めときましょうよ。
怪我するだけですし。」

「でも400万は魅力ね。失敗しても100万でしょ?私は引き受けるべき
だとおもいます」
「オイオイ、川上さんこそ甘いっすよ。ああいう連中の怖さ知らないんだよ」
「なんだ、お前そんなに詳しいのか、そういう連中の事?」

「別に詳しくはないですよ。常識ですよ、そんなの。ヤバイですよ、ホントに。」
「常識ねぇ・・・。まぁ、とにかく詳しい話を聞いいてからだよ。彼女の家に
いってから、聞こうじゃないか。」


「・・・400万ね。すこし多くないか?」

今まで運転席で沈黙を守りながらハンドルを握り締めていた、高木が口
を開いた。私の様な何の財産もコネもない男がこうしてこの仕事を続け
られるのも、高木さんのお陰だった。私よりも一回り上の年齢であるにも
拘らず、常に陰となり日向となって我等の仕事を支えてくれている。複雑
な交渉や難しい揉め事の解決に高木の手腕は、なくてはならない。逆に
言えば、私はそうした揉め事への対応が全くの不得手であるのを証明し
ているのだ。

白髪交じりの高木を若い二人は愛情を込めて「ギッさん」と呼んでいる。
しかしその若い二人はいざ知らず、当の私ですら高木の詳しい素性は
知らなかった。元警察官という事くらいしか分らないが、別に今更その
過去を知った所でどうなる物でもないだろう。そんな高木と私のなり染め
は、何れ機会があった時に話すとしよう。

とにもかくにも普段から口数少ないギッさんの一言はとてつもなく重い。
私は直ぐ高木に聞き返した。
203JM:02/07/21 04:13 ID:???

「多いって、どういう事ですか?」
「ストーカーの処理だけにしては400万というのは払いすぎだよ。」
「裏があるかも、と思います?」
「さぁ、表も未だ見えないのに、裏の話をしても仕方がないだろう。お前の
言う通り、ここは少し様子を見ようじゃないか。」

「あれっすか、やっぱギッさんも何か嫌な予感がしますでしょ?」

相変わらず山岡は、高木や私との話になると敬語と日常語がごっちゃに
なる。しかし高木も私も、別に不快な思いはしなかった。逆にいえば、少し
でも会話の中に敬語を混ぜようとするヤツの気持ちが面白かった。私は
高木の忠告を聞き、思いを新たに引き締め直す。

「そうだね。まぁ確かに村岡先生の紹介だからといって、信じ切るのも危な
いな。ここは冷静になろうか。」
「そうですよ。無理してヤバイ橋渡らなくても良いですよ。そうしましょう」

結局私は、仲間にこの仕事を引き受けた「本当の理由」を言えずにいた。
言ったら何と言われただろうか?今となっては想像するしかないが、いえ
なかったということ自体が、その返ってくるべき反応を自身で感じていた
に他ならない。いつの間にか車は高速を降りて、彼女の家に近づいていた。
204JM:02/07/21 04:25 ID:???

「電話はここだけですか?」
「ハイ」
「ジャックもここだけ」
「ジャックですか?」
「そう、電話の線がある所。ここだけかな?」
「ハイ」

挨拶も程ほどに我々は準備に取り掛かった。戸惑う彼女と例の依頼人
である男性役員をよそに支度を続ける。

「異常なしだ。盗聴器はないな。」
「そうですか。高木さん、周波数変えました?一応、旧タイプという可能性
もありますから。」
「そうだな、その可能性もあるか。やってみるか・・・。それからあなた、あ
そこの収納の中に電化製品は、入ってないですか」
「ハイ・・・、入っていないと思います」
「時計とかは」
「多分ないと・・・」
「多分?」
「あの・・・引っ越してからあんまり見ていないんで」
「そうですか。一回全部出してもいいですか?」
「エッ?・・・ハイ、いいですけど」
「ありがとう。片付けますから、ご安心ください」

「社長、セッティング終わりました。このマンションは7階より上って何故か
電力の負荷への許容が少し弱いみたいなので、補助バッテリー持ってき
ます。」

川上のやや甲高い声が玄関先から聞こえる。私はいつもの様に冷静な
川上の手際に感心しつつ指示を与えた。

「分かった。それから自家発電機も手配しようか。電源ラインが集中して
いるようだからな。篠宮のトコに頼んでおいてくれ。」
「わかりました」

「ところで専務さん、このマンション全体の設計図は用意できませんかね」
「えっ?この部屋のモノだけじゃダメかね。それに自家発電って」
「電源の大元切られて、入ってこられたらどうします?それに水道管の配
置から、ダクトの数まで、正確な事を掴んで置きたいのでね」
「何もそこまで・・・」
「我々の仕事は石川さんを守る事ですよね?我々としては万全を期したい
それだけです。用意の方は?」
「わかった。管理人にもう一回聞いてくるよ」

依頼人である男は彼女の所属する会社の専務取締役という大職に
ついているのを高木から改めて聞かされていた。貰った名刺には、
そのような事なぞ一言も触れていなかったのが少々気になっていたが
大勢に影響はないだろう、とこの時は思っていた。

川上と入れ替わりに、山岡が帰ってくる。相変わらずの減らず口だが、
ヤツの能力は確かである。特にこういう「篭城戦」には打ってつけの存
在であった。
205JM:02/07/21 04:27 ID:???

「今帰ってきましたよ。しかしマズイッスね。」
「お帰り、で、どうだった?」
「チーフ、状況は良くないですよ。四方八方がマンションとか雑居ビルばかり
で、この部屋はある意味半径500mから見え放題ですわ。」
「それはオーバーだろ。そうでもないだろ。第一、屋上開放してあるマンショ
ンなんかないだろ?」

「いやいや〜どこもかしこもセキュリティが大甘ですよ。オートロックに
かこつけて、隙間だらけです。ちょっと俊敏なヤツなら、簡単に突破し
ますね。監視されていると考えてるべきです」
「そうか。それじゃ一応念のため各窓に反射シートを貼るかな。ワゴン
車にあるからとって来いや」

「わかりました。あと、それからここのエレベーター良くないですね。監視
カメラの位置が悪いですし、玄関からエレベーターまでの距離が有りすぎで。
あれじゃ・・・」

「それは分かっている。さっき管理人に話して、こちらで用意したタイプ4の
カメラを付け直す事にしたから。それから正面ロビーにもカメラをつけること
にした。」
「そうですか。それならいいか。わかりました」

先程から我々の行動の一部始終を見ていた彼女の姿が、私の横目に入っ
ていた。戸惑いながら、部屋の片隅で小さくなって佇んでいる彼女の姿は切
ない。感情に流されて引き受けた仕事であるが故に、私は感傷的な感情を
押し殺し仕事は仕事と自分自身に言い聞かせ、準備を続けていた。

「あの・・・」

彼女の声を聞く。何かを懇願するような口調が伝わる。私はテーブルの
上に広げた周辺地図やこの部屋の見取り図を見るのを止め、彼女のほ
うに向き直した。

「どうしました?」
「私が手伝う事ありますか?」
「別に、大丈夫ですよ」
「何かお飲み物でも…」
「お気持ちは有難いですが、御気を使わないで下さい。我々はあなたの
会社から高額な報酬で請け負って仕事をしているに過ぎません。確かに
これだけの機材やらに囲まれて普通にしている事も今後は難しいかもし
れませんが、出来うる限り自然でいて下さい。その方が我々も助かりま
すので」
「ハイ…、でも…」

私は彼女が何やら言いたそうにしていたのは分かっていたが、一方的
に話を打ち切り、再びテーブルに広がる各種の地図へ目を落とした。暫
くすると息を切らせながら、男が部屋に入ってきた。

「管理人から預かってきたよ。これで一式だそうだ」
「そうですか。ありがとうございます。…配電盤3つもあるのか。」
「周波数替えても大丈夫だったよ、異常なしだ。あなた、安心していいよ。
盗聴器は無かったから」
「ハイ、アリガトウございます」

「サンキューです。それよりこれ見てくれませんか。配電盤が3つある。主
電源と補助電源というのは分かるが、この裏手にあるのは何ですかね?」
「どれ…。エレベーター用のじゃないのか。」
「いや、それはメインパネルの横に…」

我々の会話を聞きながら、彼女は何を思っていたのだろう。今にして思えば、
我々のこうした備えは一方で的確に効果を発揮したが、その一方では何の
役にも立たなかった。我々の「無駄な抵抗」は、夜遅くまで続いていた。
206JM:02/07/21 04:35 ID:???

「随分と物々しかったですね。これで準備は終わったわけですか?」
「ええ。不審者の不法侵入は、かなり高い確率で防げると思います。
それから石川さん。プライバシーに関しては、最大限考慮したつもり
です。室内に監視カメラや盗聴用マイク等は設置していませんから
それだけは安心して下さい」

「ハイ。アリガトウございます」

明らかに彼女の顔色は悪かった。只でさえ苦しい筈の彼女の立場を
更に追い込む様な真似をしているのではないか、という申し訳ない
気持ちが私の心を覆い尽くすが、敢えて感情は表に出さなかった。
思案を続ける私に男が話し掛けてくる。

「それで、この次はどうするのですか?」
「先程頂いた証拠品を我々のチームで解析させてもらいます。そこから
犯人を推定できれば幸いですが、さすがに断定を期待されても困ります。
もちろん最善は尽くしますが」

「えっ?分かるのですか、その、犯人というのが」
「ある程度までですよ。ただこれだけの大量消費の時代に品物から
探っていくのは大変ですがね。ただ相手が行動を起こすのを待っている
だけでは、埒があきませんし。それにこんな状況が長く続けば、石川さん
も疲れてしまいますから。ね?」
「ハイ…」

「取り敢えず、あの写真をコラージュしたヤツは、足が付きそうですよ」
「本当にですか、もう?」
「ええ。ここに来るまでの間、スタッフが調べたんですが、あれはソニー
の純正プリンターで印刷されていましたね。そのソニーの純正プリンター
というのはなかなか流通していないらしいんですよ。ただそこから調べる
のは、ソニーに内通者でもいない限り民間の我々には無理筋ですが、
インクがね、ちょっと変わってましてね。昇華型というちょいとレアモノでして。
そこから探ろうかと」
「インク、ですか?」

「ええ、インクです。どうやら使われているのがそのプリンターの純正インク
じゃないらしいんですね。これが特殊でしてね。中国製の変わったモノという
か、早く言えばバッタもんらしいんです。
とにかく取り扱っている店が国内でも大阪の日本橋か秋葉原の数店しかな
いらしい代物なんですよ。まぁ今日は時間もあれなんで、そこまでにしました
が、数日中には目ぼしい店を洗い出しますよ」

「そうですか。いや、驚いたな。こんなに早く、そこまでして頂けるとは、
思っていなかったですから。嬉しい誤算ですよ」
「誤算ですか?」
「いやいや、そういうつもりではなくて…。とにかくお願いします」
「今の程度の事はちょいと見れば我々でも分かるんですけどね、そこから
個人を特定するのは困難だと思います。それからスケジュールの変更が
ある時は、必ず私らへ早めに連絡を下さい。先程1週間分のスケジュール
を頂きましたが、あれの変更点はありませんね?」

「ええ。今のところは大丈夫です。今週は収録とロケが続きます。それ
から週末にライブがあるので…その準備があるのかな、梨華?」
「ハイ。リハーサルがあります」
「そうですか。それで確認なんですが、我々の事は何処までの人が知って
いるのでしょう?」

「担当マネージャーには、私のほうからそれとなく伝えておきました。マネー
ジャーのルートである程度のスタッフには言っておくと思います。ですから
現場サイドでの各種の判断はマネージャーに一任させますので、彼女の
指示に従ってください。」

「わかりました。取り合えず、私と川上、あの女性ですが、暫くの間は彼女
と2人で身辺警護をさせて貰います。よろしいでしょうか」
「分かりました。伝えておきます。…とにかく梨華の事は貴方方にお任せ
します。お願いします」

男は深々と頭を下げたので私もそれにつられて頭を下げた。男の隣に
かしこまって座る彼女も頭を下げている。そうした甲斐甲斐しい様子を
見るにつけ私の心は少なからず動揺していた。

「それでは…、そうだ先ほど貴方に頼まれたカメラの件、管理人の所に
頼んでおきますので、行って来ます。ここで待っていて貰えますか」
「分かりました。待ってましょう」

足早に男は部屋を辞した。私はダダ広いマンションの一室に彼女と二人
きりにさせられた。話す言葉は当然の如く見つからないので、止むを得ず
窓際に行き、外の様子を眺めていた。しかし私は引き続く沈黙の時間に
耐え切れず、性に合わないのを承知の上で取り止めの無い話をする事に
した。
207JM:02/07/21 04:41 ID:???

「綺麗ですね。こうして高いところから見ると。東京も悪くない」
「…」

案の定、何の返事も返ってこなかった。心の奥底では、無理して失敗
したという敗北感が漂う。しかし私はここで話を止めれば更に惨めに
なるだけだと腹を括り、返事の無いのを承知の上で話を続けた。

「ご安心ください。このフィルムは向こう側からは見えませんから。例え
裸で歩いていても大丈夫ですよ」
「…」

つまらない冗談だった。大抵、つまらない冗談というのは言ってから気
付くのが常なのだが、ご多分に漏れず、今のもそうだった。更に深い
寂寥感が私の心を支配する。私の口は一層重くなっていた。

「えっと…、まぁ、明日から…、よろしくお願いします」
「…いつまでなんですか?」

漸く口を開いた彼女の言葉は、やや刺々しさを漂わせていた。彼女は
椅子に座り続けたまま、まるで私を睨み付けるような眼差しで見据え、
声を荒げながら問い掛けを続けてきた。

「わたし、何も悪い事なんかしてません。それに、…頼んだわけでもない
のに、こんな事になって。貴方達は私の事をずっと監視するのですか」
「…基本的にはそうなりますが」
「オフの時間もですか?」
「勿論です。逆にその時間のほうが危ない訳でして…」
「ただでさえ、息苦しいのに。電話も出来なくて、何処にも行けなくて、誰
にも会えなくて…。バカみたい!」

テーブルに置かれていた様々な書類の束が彼女の手によって空に飛ん
だ。辺り一面に散乱した書類に一瞥もくれず、彼女は私に最後の通告を
した。

「わたし、もう寝ます。はやくこの部屋から出ていって下さい。もう用は済ん
だのでしょう?はやく出て行って下さい!」

木製の大きな引き戸を叩き付ける様に閉めると彼女は隣の部屋に閉じこ
もった。私は一人残され所在無く立ち尽くしていたが、取りあえず状況を
認識した後、散らばった書類を拾い集め無言で部屋を辞した。

オートロックが閉まる音を聞きながら何となく不可解な気持ちを携えたま
ま、エレベーターに乗る。彼女の気持ちは分らないでもないが、あれほど
激するようなタイプには思えなかったので、その意外な反応に少なからず
驚いたのも事実だ。何はともあれ1階につくと、ホールで男がエレベーター
を待っていた。

「どうしました?梨華は?」
「ああ、疲れたから寝るそうですよ。私はお邪魔な様なので、退散してき
ました」
「そうですか。それじゃあ私も帰るかな、地下まで行きますか?」

私と男は開かれたままのエレベータに乗り込むとそのまま地下駐車場
のあるB2まで下った。このマンションの大きな特徴はB1に大きな娯楽
室があることだ。地下2階、地上33階立てのそのマンションは売り込み
の言葉どおり、高層高級マンションらしい風体を漂わせていた。

「専務さん、ところで彼女は、どういうタイプの子なんですか?」
「タイプ?それってどういう意味で?」
「え、性格ですよ。どんな感じですか、専務さんから見て」
「私は普段の梨華を知らんからね。まぁ素直で、優しい子だと思いますよ。
ただ・・・」
「ただ?」

「ただ少し思い詰めるところがあるらしいけどね。この間、担当マネー
ジャーと話した時に、ちょっとした事で不安定な精神的に脆い所がある
って。完璧主義なのに不器用だから時折空回るそうだよ。」
「ふ〜ん、そうですか。それからさっきは彼女がいてあれ以上話を出来
ませんでしたが、本当に男というのは、いないんですか」

「大丈夫だと思いたいですね。多分。」
「思いたい?多分?」
「そりゃあねぇ、幾らなんでも我々も完璧にメンバー全員の私生活までは
コントロールは出来ませんよ。一応彼女は16ですし、今は大切な時期だ
から男なんかとは付き合うな!とは表向きは言ってますが、こういう業界
ですから言い寄ってくる男も多いでしょうし、なんとも言えんですわ。ただ
今の所我々サイドには、そうした男の影は微塵も見えませんがね」
「そうですか。それならそれでいいのですが」

今の会話で少しは胸のつかえが取れた気もするが、これから続くであろう
仕事の大変さを思うと、気分爽快というわけにもならない、いやなる訳がな
い。

深い溜め息を吐き天井を見詰める。無駄に豪華な装飾が施されるそのエ
レベーターがB2につく。するとだだっ広い駐車場に高級外車が所狭しと並
んでいるのが眼に入る。そのなかで我々チームの古ぼけたワゴン車が一
際目立って中央に止まっていた。
208JM:02/07/21 04:44 ID:???

「しかし、高級車ばかりですね。」
「まぁね。入居するには年収条件があるくらいだからな。止むを得まい」
「らしいですね。確か3000万でしたっけ?」
「みたいだね。私も詳細は知らないが。ところで今、管理人にあった時に
思い出したんだが・・・」

そういうと男は徐に手に携えていたハンドバッグから一枚の手紙を取り
出した。

「これなんだがね。今日の朝、ポストに入っていたんだ。見てもらうのを
忘れていたよ」
「なんでしょう?また脅迫状みたいなもんですか?」
「それがね、訳がわからないんだ。見てもらえるかね?」

男から差し出された手紙は、無機質な茶封筒に細い芯の鉛筆で書いた
と思われる右上がりの特徴的な文字で 石川梨華様 御中と書かれてあ
った。切手はあるが消印はない。私はまずそこに注目すると、ハンカチを
取り出して指紋を残さぬ様にその中を取り出した。そこには男の言う通り
ワープロで書かれた要領を得ない文字列が、バラバラに並んでいた。


<168時間、数的優位は確保した。皇帝は8月と共に北へ向う。>


「168時間?数的優位?皇帝?なんだコリャ?」
「例の件とは違うかなとも思ったんですが、念のために」
「そうですね。今日届いたんですか?」
「ハイ。そうみたいだね」
「そうですか。しかしもしもこれが一連の犯人の物とすると、厄介ですね」
「え?どうしてですか」
「消印がない。と言う事は、当人が直接ここにきたという事になる」

俄かに男の顔色が蒼白になっていくのが見て取れた。私はその手紙を
ハンカチに包んで胸ポケットにしまい込んだ。

「これ預からせてください。指紋が取れるかもしれないので」
「指紋ですか?」
「ええ。ウチのチームでもその程度の事までなら出来るんですよ。まぁ
実際はあるトコロに頼むんですが・・・。それに例のコラージュ写真にも、
犯人の指紋と思われるものが数点ありましたから、それと照合してみ
たいのでね」
「そうですか・・・。犯人はここに来ているのか・・・」

指紋云々と言うより、犯人がここに来たかもしれないと言う事実が男の
気持ちを大きく揺らいでいるようだ。私は当然だと思っていたが、彼に
はそこまでの考えは至らなかったのであろうか?ややその男の浅はか
さに呆れながらも、余りの憔悴振りにいたたまれずに慰めの言葉を掛
けた。

「明日からはご安心ください。我々が監視しますから。そうですね、一応
郵便ポストにも監視用のCCDカメラもう一台付け加えましょう。」
「・・・そうですね。お願いします」

男の不可解なほどまでのヘコミ具合に私はやや嫌気が差したものの、
立場上を慮り取り敢えずその男を運転手の待つ黒塗りのベンツの前
まで見送った。漸く動転していたように見えた気持ちの整理も付いた
様で、先程来の落ち着いた口調で私に話し掛けてきた。

「それでは・・・、明日からお願いします。スケジュール確認しますが明日は、
朝9時に渋谷集合です。いつも通り会社からハイヤーが8時30分には来
ると思いますので、」
「その車のナンバーと、ここから渋谷までの道筋は、先程頂いた書類に書
いてある通りですか?」
「ええ。再度確認済みです」
「分りました。それでは、」
「お願いします」

私は男の差し出した手を握り返す。気持ち強めに握ってくるその男の眼
差しの強さに少し驚きを感じつつも、請け負った仕事の大きさを改めて実
感していた。セキュリティーチェックが主たる我々の仕事の中で、久方に
身辺警護、しかも著名人のというのは、異例中の異例であった。

収まらない胸騒ぎを抱えたまま、その男を乗せたベンツが静かに走り出す。
いよいよ、サイは投げられた。私は幾分重い足取りで、高木の待つワゴン
車に向った。



<了/書き換え分ここまで>