小説練習用スレッド α

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104第3章

若く青く、そして苦々しいスペルマの匂いが充満している
部屋の中で、真希はこの本をくれた「あの人」の事を思っ
ていた。 真希は体勢を横に崩し、ベットの横においてある
絵本を手にとり、眺めた。

(・・・あの人が私にくれた本)

先日「彼」が再びくれたこの日記帳タイプの絵本は、真希
のお気に入りになっていた。

一人ぼっちの捨て猫が、心優しい人に拾われる。やっと安
住の地を得たのに、今度はその飼い主が死んでしまう。そ
れに気づかない猫は、ひたすらと飼い主を待ち続ける。餌
もなくなり、ひもじさと寂しさに耐えながら優しくしてく
れたその飼い主の思い出を一生懸命頭の中で紡ぎながら、
その猫は死んでいく・・・。

救いのない哀しい話だが、それでも真希はこの本が好きだ
った。真希は虚しい気持ちを紛らわすかの様に、パラパラ
とページを捲るが、ただ虚しさが増すだけだった。

真希はその絵本をベッドの横に置き直すと、再び天井を眺
めた。その刹那、急に何故か悲しみが押し寄せ、涙が零れ
そうになる。心の奥底が叫んでいた。

(あの人・・・今・・・どこに・・・いるのかな?)
105第3章:02/02/26 17:22 ID:???

「これは、何に使うんだい?」
「・・・」
「答えなきゃ、売らないとは言わないけど・・・」
「・・・」

「それにしても・・・」
「あなたは、それをホントに知りたいのかい?」

若からず、それでいて老いてもなく、年齢不詳のその男は、
商売相手となる細身でありながら上背のある青年から鋭く
返された言葉の勢いに完璧に飲み込まれていた。

窓の外には、幾重にも重なり、網の目のよう道標が張り巡
らされている日本最大の首都高速のジャンクションが見え
る。暗闇の中に、時折光る車のライトと規則正しく並んで
いる街灯の明かりが、儚くも美しかった。

時折、そばを走り抜ける大型トラックの騒音に邪魔をされ
ながらも、男達の相談は極めて静かに進んでいた
106第3章:02/02/26 17:24 ID:???

「いや、別に。・・・ただ、」
「ただ、何だ?」
「いや・・・、でも、まぁいいか・・・」
「それが互いのために賢明だよ」

「・・・それにしても金のほうは、ホントにあれでいいのか?」
「昨日、指定の当座口座に外貨預金で振り込んでおいたが・・・。
何か問題でも」
「いやいや、とんでもない。その逆だよ。あんなにいいのかい?
かなり多かったが・・・」

「あれは、ボーナスだよ。随分とあなたには迷惑を掛けた
訳だしね。それに、もう今の俺には、そんなに金は必要ないしね」
「それならいいんだが・・・。それにしても金に用がないなんて
羨ましい限りだね。、しかしこれだけのものを一体に何に…」

売る側の男は、少し言葉が淀んだ。それは、得も知れぬ
恐怖がそうさせたのかもしれない。長身の男は冷たい笑
いを浮かべ、その男の質問を制した。
107第3章:02/02/26 17:25 ID:???

「興味はないんだろ。何でもないさ。そうだろ?」
「ああ・・・そうだな。」

怯え切った返事をするその男の振る舞いに、細身の男は
少しだけ頬を緩めた。そして徐に足元に置かれた桐製の
大きなケースの一つに打ち込まれていた杭をレンチで引
っこ抜く。その中には、新聞紙と細かく切り刻まれた木
片に塗れて透明な液の入ったボトルが何本も入っていた。

「これで全部かい?」
「そうだよ。おまけつきさ」
「おまけ?」
「そっちの箱がね。おまけ。」

売人は少し茶目っ気を帯びた感じに言葉を放った。そして、
アルミ製の大きなケースを指差し、注意した。
108第3章:02/02/26 17:38 ID:???

「信管は抜いているけどね。気を付けてくれよ」
「分かっている」
「それから・・・」
「それから?」

売人はやや声のトーンを落として囁くように話し掛ける。
細身の男は、売人の顔に浮かぶ険しい表情を凝視した。

「くれぐれも、取り扱いには注意してくれ。足がついたら
シャレにならなくなるから」
「ああ」

「本当に頼むよ。あんたがこれで何をするかは知らないが
・・・いや知りたくもないが、騒ぎに巻き込まれるのだけは
ご免だ。それに・・・金の為とはいえ俺としても・・・ね。なる
べく穏便にしてくれないか?」

「これ使って、穏便に済むのかな?」
「まぁそれはそうだが・・・とにかく俺は関係ないから」

売人の無関心さを熱心に訴える姿を見て彼は苦笑を浮か
べた。そして俯きながら、ため息を吐く。誰に言うとで
もなく、言葉を投げる。少しだけ鋭利さを感じさせる物
言いは、その場で滞る空気を更に重くさせた。

「あんたは、心の中にくすんでいる物はあるかい?」
「くすんでいるもの?」
「そう燃え切れず、そして吹き飛ばされもせずに、心の奥底で
燻り続ける様な深い想いを持った経験はないかい?」
「いや、そんな深い経験はないよ。こんな時代でさ、それに…
と言うよりも、それじゃあ、あんたの胸にはあるのか、そういう
重たく燻っている物がさ?」

男は訝しげに聞く売人を沈みがちの瞳で斜に見つめながら、
冷笑を浮かべつつ言葉を返した。

「消したくても消せない、そういう焔みたいな芯がね・・・。
ナカナカ消えなくて困っているんだ」
「・・・」

いつの間にか窓の外からは、車の走る音が消え、この夜に
再び静寂が訪れようとしている。

先程まで会話を交わし、忙しなく動いていた売り手の男の
姿も消えていた。長身の男性は、自らが運転してきた小型
トラックに荷物の全てを載せ終わると、荷台の上でそのケ
ースを布団にして大の字に寝転び、満天の夜空に広がる星
屑を漫然とただ眺めていた。

「来るべき時が来たな」

長身の青年は、謎めいた言葉を一人呟き、相変わらず夜空
を眺めている。川の上を走ってきた少しだけ温い風が優し
く吹き抜けた。これで今日を以って全ての手筈が済んだ事
を静かに喜んでいた。

しかし、時間がない事も急がなければならない事に変わり
はない。心の奥に静かに眠る焔を消す為に、一刻の猶予も
許されない。それは自らに残された時間の少なさを確認す
る作業でもあった。

青年は大きく背伸びをし、真一文字に口を噤むと、運転席
に戻りエンジンを架けた。その車は、止まる位慎重にユッ
クリと真っ暗な砂利道を走り抜けると、シフトを変えスピ
ードを上げた。

車は闇から一転して眩しく光るその集団の中へと溶け込み
消えていく。纏わりつく様な夏の熱気を帯びた川面にその
影を残しながら。


<続>