『この野郎が! 気持ち悪ぃんだよ!! んなもん引き千切ってやる!!』
キングゴジュラスは自分からメルプラントの蔓を掴み、次々に引き千切って行く。
しかもそれだけでは無く…
『伊達や酔狂でこんな頭してんじゃねーんだ! ブレードホーン!!』
頭部に輝くブレードホーンを赤熱させ、自身の体ごと振り回す気持ちでメルプラントの
茎を切り裂いて行く。切り開かれたメルプラントの茎から緑色の液体が噴出し、忽ち
キングゴジュラスの装甲を緑色に染めて行く。しかしキングゴジュラスはメルプラントを
切り裂く事を止めないのだ。
『植物の生命力の強さは承知! 何しろ中には切り株だけにしても、そこから新たな芽が
生える奴もいるんだからな!』
植物の再生力の高さは動物より強い。だからこそキングゴジュラスはそれを踏まえた上で
再生不可能な程にまで徹底的にメルプラントを破壊するつもりらしかった。
一方、メルプラントがキングゴジュラスに気を取られている隙にトモエはメルプラント
からやや離れた位置にある丘へ向けてバリゲーターを走らせていた。
「この嫌な気配…間違い無い。メルプラントの種を撒いた者はこの近くにおる…。」
既に説明している通りトモエは魔女である。だがそれは決して“魔性の女”としての
意味では無い。確かにトモエは魔性の女と言えない事も無いが、それ故に魔女と呼ばれて
いるワケでは無い。もっと単純な話である。彼女は普段の服装からして一般的に考えられ
ている黒衣の魔女スタイルに身を包んでいるし、何より科学では説明不能の魔術が使える。
その力を駆使し、トモエはメルプラントの種を撒いた者の居場所を突き止めていた。
トモエの目指す丘の上。そこには一人の農夫然とした格好の若い男が一人立っていた。
そこにトモエの乗るバリゲーターが現れ、コックピットからトモエが飛び出して来た。
「おい! 神様が生界への不必要な干渉するのはルール違反では無いのか!?」
トモエは有無を言わせず、己の掌から魔術的に発生させた火の玉を農夫然とした男へ
投げ付けていた。当然炎に包まれる農夫だが…炎が消えた時、そこから煌びやかな衣服に
身を包んだ一人の美男子が姿を現した。
「そちらこそ…魔女が人間に肩入れするのかな?」
「わらわとてこの世界に生きる者の一人じゃ。世界そのものの危機の際には協力するわ。
じゃが可笑しいのはそっちの方じゃ。神々が生界に対して不必要な干渉をする事は禁じ
られとるはず。精々個人が牛丼を半額で食べたい程度の願いまでしかダメなはずじゃ。
なのにお主は神のくせに樹神メルプラントなぞ持ち出して…一体何が狙いじゃ!?」
話が読めて来ないが…どうやらトモエと相対している煌びやかな衣服に身を包んだ美男子
は神々の領域の存在らしい。だとするならば…先の農夫然とした姿及び今の美男子の姿を
取っているは、もしかするならば人間社会に溶け込む為の擬態なのかもしれない。
「何って…神罰さ。」
「神罰…じゃと?」
神は笑みを浮かべた。
「本来数多くの緑に覆われていたこの世界の自然…植物を破壊したのは何者だ? 人類と
それに使役されるゾイドに他ならない。だからこそ私はこれより樹神メルプラントを
持って神罰を与える。分かったかな?」
「だからそういう生界への干渉は神々のルールに違反するでは無かったのか!?」
トモエはそう訴えかける。確かに神の言う通り、過去に様々な罪を重ねて来た人類は
罰せられて当然であろう。しかしトモエが言うには、神々の中にもルールがあり、不必要
に干渉する事はそのルールに違反する行為らしい。だが…神は聞く耳を持たなかった。
「それにじゃ…可笑しいとは思わぬか? ここ…ビューティフォレストには元々美しく
広大な大森林が存在したのじゃ。そこを不毛の地へ変えたのは人間では無い! お主と
お主の撒いたメルプラントじゃ! お主は自然を破壊する人類を罰すると言ったが…
お主こそこの世界の自然を破壊しておるでは無いか! 幾ら神と言えどもそんな事を
する様な奴は信用ならん! それにメルプラントとて…奴が…キングゴジュラスが
倒してくれるわ!」
「ああ…星の異邦人の技を持って作られた人造破壊神か…。君は随分とあれに肩入れ
している様だけど…果たしてメルプラントに勝てるかなぁ?」
神は不敵とも言える笑みを浮かべたまま…メルプラントへ目を向けるのみだった。
キングゴジュラスとメルプラントの戦いは続いていた。
『これで吹き飛べ! キングミサイル!』
キングゴジュラスの口腔内に装備されたTNT火薬数百トン分の威力を持つミサイルが
連続発射され、メルプラントの茎や枝…葉を爆風で吹飛ばし、焼き尽くして行く。しかし
それを持ってしてもメルプラントの生命力は途切れない。再生力が尋常では無いのだ。
メルプラントが種を撒かれたのはほんの数日前。その短期間の内にキングゴジュラス以上
の巨体に育ったメルプラントの凄まじい成長力は、同時に凄まじい再生力を与える。
恐るべきは植物。ここまでの強烈な生命力は動物には不可能な芸当であった。
『くそ! 後から後から!』
メルプラントの蔓は、例えキングゴジュラスのパワーを持って引き千切ろうとも、
赤熱したブレードホーンを持って切り裂こうとも、直ぐに再生し伸びて来る。
その異常な再生力にはウンザリ来ていたのだが…ここで油断大敵!
『うお! うわわわわわ!!』
メルプラントの蔓が次々にキングゴジュラスの腕や脚に巻き付き、動きを封じて行く。
キングゴジュラスの装甲を貫くには至らないが、それでもその辺のワイヤーを遥かに
超える強度を持つ。
『くそ! 俺の動きを封じようってか! ってうわぁ!!』
キングゴジュラスは慌てて自身の脚や腕に巻き付いたメルプラントの蔓を引き千切ろうと
するが…そこで突然メルプラント本体が丸ごとしなった。するとどうだろうか。キング
ゴジュラスの巨体が浮き上がり、振り回し始めたのだ!
『ウワワワワワワワ!!』
メルプラントは再生力のみならず、パワーまで凄まじい物を持っていた。何しろキング
ゴジュラスの四肢に蔓を巻き付けて動きを封じるのみならず、この様に派手に振り回して
見せていたからだ。
「きっ…キング!!」
メルプラントにキングゴジュラスが振り回される光景を見たトモエは思わず叫んでしまう
のだが…次の瞬間、神の平手打ちによって頬を打ち付けられていた。
「あれに気を取られて大丈夫なのかな?」
「くっ…。」
キングゴジュラスがメルプラントに苦戦を強いられている様に、トモエもまた神に苦戦を
強いられていた。何しろ相手は人間が神を自称するのとはワケが違う。正真正銘の神。
人類とゾイドに神罰を与えようとする神であった。流石のトモエでも相手が悪かった。
メルプラントはなおもキングゴジュラスを激しく振り回し、あろう事か硬い地面へと投げ
落とし、叩き付けて行った。頑強なキングゴジュラスがその位で潰れる事は無かったが、
ダメージは決してゼロでは無い。むしろ大だ。
『畜生…このままじゃ…このままじゃ…。』
キングゴジュラスは目が回りそうになるのを必死に耐えながら、何とか蔓を引き千切る
べく腕や脚に力を込める。だが、口で言う程上手く行かない。これが静止状態ならば
簡単に引き千切る事は可能だ。しかし、今は何度も何度も振り回されているのだ。
そしてついにキングゴジュラスの首下のライト部…ガンフラッシャーが点滅を始めた。
彼がキングゴジュラスとしての姿を維持出来る時間に限界が近付いてたのだ。
「馬鹿な!当らないだと!」
ライガーゼロイクスのパイロットは驚愕の声を隠せなかった。
光学迷彩で身を隠した後にエレクトロンドライバー。必中の筈であった。
しかし目の前に居るコマンドウルフACには掠りもしない。
「今度こそ…なんだって!?」
今度はエレクトロンドライバーの発射体制を執る前に…
アタックユニットからのキャノン砲の直撃を受けたのだ。
砲撃により右のスタンブレードが脱落する。
もう勝負は決していた。イクスには全くと言っていい程勝ちの目は無い。
イクス強盗犯は特に大きな被害を出すことなく御用となり事後処理が行なわれている。
イクスを強奪したまではよかったが取り押さえに来た相手が悪すぎたのだ。
「いやあ。またまた手伝わせて本当に悪かったと思っている。」
「…もういいですよその台詞。今後もきっと悪かったと思っていないでしょうし。」
「しかし消えっぱなしの奴の居場所なんて解るのかい?」
ジャックは眼鏡の男に尋ねる。
「ああ…昼間ですし。それに映像処理が難しい場所に逃げ込んだのが運の尽き。
リアルタイムでの投影映像の予想演算処理には限界もありますよ。」
ここはヘリックシティの旧市街。排ビル街に難民が作り上げたコロニーの一角。
縄に吊るされ、若しくは掛けられた洗濯物の林である。
動いてしまえばそこである程度の居場所が分かってしまう光学迷彩。
そこにこれだけの動きが不規則なものが大量に有れば無理も無いのである。
「カオス理論を知らない人には光学迷彩を使用した戦術は無理。
そう言う話ですよ〜。動いてはいけません。でも立ち位置を間違えても駄目。
昼夜や気象状況も確り把握して運用するからこそ暗黒の雷帝と呼ばれた訳ですから。」
「バウアー!」
先をいわせないように名字(偽名)で突っ込むが彼も同じ思いだった。
その間違えた運用が無ければきっと今の自分の職場は無かったのだから。
ー トンデモゾイドグラフティ ライガーゼロイクス篇 おしまい ー
カオス理論:数学の理論で予測できない複雑な様子を示す現象を扱う理論。
『くそ! もう時間だと!? 何とかしなければ! 何とかしなければぁぁ!!』
キングゴジュラスが真剣に焦り始めた時…奇跡は起こった。
「ん…雨?」
トモエは、自身の服に付いた水滴から雨が降り始めた事に気付いた。
「たかが雨程度で動きを止めて良いのかな!?」
この隙を突いてトモエを畳み掛けようとした神であったが…そこで彼もある事に気付いた。
「ん!? どうした!? どうしたメルプラント!?」
雨が降り出した途端…メルプラントは突然苦しみ始めた。それによりキングゴジュラスを
振り回す蔓の動きも鈍る。しかし一体何故…。そこでキングゴジュラスのコンピューター
が雨の成分に関して分析していた。
『こ…これは…酸性雨!?』
「そうか! 神界は生界と違い自然破壊や公害が無い! じゃから同時に酸性雨も存在
しない! そう言う意味ではメルプラントにとって酸の含んだ雨は初めてのはずじゃ!」
先程降り始めた雨が酸性雨だと悟ったトモエも思わずその様な事を叫んでいた。
樹神メルプラントと言えども…酸性雨は初めての経験だった。人類の科学文明の発展と
自然破壊によって発生した酸性の雨。これは公害の類の存在しない神界で誕生した樹神に
とって衝撃だった。元々惑星Ziに原生する植物ならば、既に酸性雨にある程度慣れて
いるが…メルプラントはそうは行かない。酸の含んだ雨を吸い込んだ事により、流石に
溶ける事は無いにせよ苦しみ始めていたのだ。自然環境を破壊する人類に神罰を与える為
に降臨した樹神メルプラントが、環境破壊によって発生した酸性雨によって苦しめられる
とはなんとも皮肉な話である。
『今だぁぁぁ!!』
メルプラントが苦しみ、動きが鈍った隙を突いてキングゴジュラスは両腕両脚に力を込め、
自身の動きを束縛していた蔓を引き千切り脱出した。
『よっしゃぁぁぁ!! こうなりゃこっちのもんだぜ!!』
自由の身となったキングゴジュラスはメルプラントへ肉薄し、両腕のビッグクローを
メルプラントの生える根元の地面へ突き刺した。そして…
『そぉりゃさぁぁ!!』
何と言う事か、キングゴジュラスはメルプラントの巨体を根っ子から丸ごと全てを地面
から引き抜いてしまったのだ。そしてそこで改めてメルプラントの巨体が分かった。
地面から見えているだけでもキングゴジュラスを超える体躯だったと言うのに、根っ子を
含めると…その二倍…いや三倍はあったのだ。真に恐ろしい話である。
『うわ…伊達にトモエに世界を滅ぼせると言わせてるワケじゃねーぜ…おっかね〜…。』
メルプラントのおぞましき根っ子にキングゴジュラスも恐れを抱いていたが、何時までも
そうしているワケには行かない。キングゴジュラスは大急ぎでメルプラントの巨体を
天高くまで放り投げた。
『そりゃぁぁぁぁぁぁ!!』
キングゴジュラスの恐るべきパワーにより、メルプラントの巨体が数百メートル以上の
高さにまで舞い上がって行く。そしてキングゴジュラスは自身の胸部に装備された
スーパーガトリング砲の照準を上空のメルプラントへ向け…
『これでトドメだ!! スゥゥゥゥパァァァァガァァァァトリングゥゥゥ!!』
キングゴジュラスのスーパーガトリング砲から放たれた数千発の荷電粒子砲・超電磁砲・
レーザービーム砲の雨は…メルプラントの巨体を瞬く間に飲み込み…貫き…打ち砕いて
行った…………………。
「よし! 流石はキングゴジュラスじゃ!!」
「そ…そんな馬鹿な…樹神メルプラントが…人造物に敗れたと言うのか!?」
キングゴジュラスがメルプラントを倒した事により、トモエは思わずガッツポーズを
取り、逆に神は打って変わって弱気になっていた。だがここで…
「動くな! 我々は神界警察だ! 生界過剰干渉の罪により貴様を逮捕する!」
「な!? そ…そんな〜…。」
突然現れた警官っぽい格好をした男達に神は取り押さえられてしまった。どうやら彼等も
神々の一員で、また神々の世界にもルールと言う物があり、メルプラントの種を撒いて
惑星Ziを滅ぼそうとしたのは結局彼の独断かつ違法行為だったと思われる。
「ども! ご迷惑おかけしましたー!」
「そ…それはどうも…。」
神々の世界の警察と思しき男達はトモエに対して軽くお辞儀をすると共に、拘束した神を
引き連れ、天へ登って行った。その光景は流石のトモエも呆然と見送るしか出来なかった。
メルプラントは消滅したが…メルプラントによって失われたビューティフォレストの
自然は元には戻らない。神が生界に対し干渉しない事は、同時に救いも差し伸べない事を
意味する。しかし、それは生界に生きる者の可能性を信じての事だろう。人類は幾多の
戦乱や災害を受けながらもその都度復興を果たして来た。現にメルプラントの消滅した
ビューティフォレストの地面から一本の植物の芽が伸びていたし、生き残った人々が率先
して植林を開始していた。そしてキングゴジュラスに破壊され、飛び散ったメルプラント
の破片が新たな肥料として土地の養分となる。この調子ならば、後数十年を待たずして
ビューティフォレストの地は元の様な美しい森林を取り戻すに違い無い。
おしまい
定期age
☆☆ 魔装竜外伝第十九話「絶望の惑星Zi」 ☆☆
【前回まで】
不可解な理由でゾイドウォリアーへの道を閉ざされた少年、ギルガメス(ギル)。再起
の旅の途中、伝説の魔装竜ジェノブレイカーと一太刀交えたことが切っ掛けで、額に得体
の知れぬ「刻印」が浮かぶようになった。謎の美女エステルを加え、二人と一匹で旅を再
開する。
エステルの記憶に眠る人物のことなど、ギルガメスが知る由もない。ドクター・ビヨー
の卑劣な追っ手に心をかき乱されながらも、弾き返す強さは着々と身につけていた。ヒム
ニーザらガイロス公国の援軍に、見え隠れする思惑を受け入れる余裕もある。
夢破れた少年がいた。
愛を亡くした魔女がいた。
友に飢えた竜がいた。
大事なものを取り戻すため、結集した彼らの名はチーム・ギルガメス!
【第一章】
のたうつ群雲に絞り汁のような夕陽が溶け込み、今日の終わりを告げた。
地上では、命の営みがまだ続いている。夕陽と同じ橙色の焚き火が煌煌と辺りを照らす。
やがて灰に染まり、闇夜に溶け込んだ時、ここでも一日が終わる。
焚き火の上には、ポットハンガーに吊るされ吹き零れる飯ごうが三つ。湯気立てて泡が
滴る表面は、黒の塗装などとうの昔に剥げ落ちている。
男が二人、左右に立って鉄の吊るし棒を引き上げた。呼吸合わせつつ、思いのほか慎重
な手並み。
一人は卸し立てかと見紛う地味なカーキ色のパイロットスーツの上に、更に地味な濃緑
色のジャンバーを着込んでいる。
顔立ちは精悍、金色の頭髪は刈り込まれてこざっぱり。日中よりは伸びてきた頬や顎の
髭も、眩しい焚き火の炎に照らされたら全く目立たない。
もう一人は骨張らず線の細い顔立ち故、美少年と形容するのが相応しかろう。
派手なTシャツの上には黒の革ジャンバーを引っ掛けた。前方に投げ出した両足に合わ
せて、伸びるジーパンの細さが足の長さを一層際立たせる。
赤茶けた頭髪は掻き上げられる程度に伸びているため、整った目鼻立ちは髪をかき分け
決して自己主張を止めようとはしない。
男が飯ごうの弦から金属の棒を引き抜いている間に、美少年は地べたにしゃがみ込んだ。
ジーパンのポケットからハンカチを取り出し、飯ごうの蓋を開ける。
飯ごうの中身はよく透き通った金色のスープ。だが美少年はこれに手をつけず、飯ごう
の縁を鷲掴み。
縁を持ち上げれば、勢い良く吹き出す水蒸気。それと共に炊き立ての米飯の臭いが充満
する。美少年は胸一杯に吸い込み、それだけでご満悦だ。
気が早い美少年の行動に、男の方は呆れ顔だ。
「まだ蒸れてないだろう。焦ってんな」
「匂いだけだよ、に、お、い、だ、け」
一方、残る焚き火の上には三脚と山折型のパン焼き網が組み上げられた。三脚にはやか
んが、輪切りのバゲットが斜めに立て掛けられる。
男衆とは焚き火とパン焼き網を挟んで反対側には、折り畳み式の小さな椅子が三つ。
うち、一番左に座るのは彫り深き美女。白い肌が焚き火に照らされ眩しい。じっと焚き
火の向こうを見据える扁桃型の瞳は黒真珠色。
彼女の黒髪は、天辺で簡素に結い上げ残り髪を背中に垂らす。東方大陸伝来の白い着流
しをまとい、まさしく質素を旨とした女剣客の風貌。先程の男と揃いの濃緑色のジャンバ
ーを羽織ること自体は結構なミスマッチだが、それだけで彼女の清潔な雰囲気が薄まるこ
とはない。
着流しの美女は焚き火の向こうで繰り広げられるやり取りに目を細めていたが、一転、
焚き火を挟んですぐ手前に目を遣った。
そこには、やはり折り畳み式の小さな椅子が二つ。右は空席。左の者に視線が止まると
彼女は深々と一礼する。
「エステル、先に支度させてくれて申し訳ない。礼を言うぞ」
今まさに金属のコップにスープの粉末を振りまいていた目前の者。凡そ砂臭い野外には
相応しくない紺の背広を隙なく着こなすから、遠目には男性のように見えなくもない。
だがそれは思い込みも甚だしい。すらりと組んだ長い足は、それだけで浮かび上がるし
なやかな曲線が周囲に色気を充満させる。足から胸へと視線を移しても、曲線は伸び切る
ことなく絶妙な緊張感を維持し続けた。
緊張は面長の端正な顔立ちにまで登り詰めるに至り、最高潮に達する。切れ長の鋭い蒼
き瞳はサングラスの下に隠れてはいるものの、焚き火が黒いレンズの下からでも涼しげな
魔性を浮かび上がらせて止まない。肩にも届かぬ黒の短髪が時折のそよ風で微かに揺れて、
どうにか張りつめた空気を解きほどくのが救いか。
名前を呼ばれたこの女性は微笑みをたたえた。思いのほか容姿と声質には温度差がある。
「気にしないで。ご飯は蒸らす時間があるからね。
それにあの子もほら、時間掛かってるでしょう?」
彼女の向かい、着流しの美女を飛び越えざっと十数メートル程、先。
その方角は、林檎よりも赤いカーテンが完全に視界を遮断している。カーテンは勿論、
鋼鉄製。距離を離して目を凝らさないと、それが金属生命体ゾイドの畏まる姿だとは気付
くまい。
そのゾイドは言わずもがな、深紅の竜。腹這いの胴体だけでちっぽけな一軒家程、もた
げる頭と猫のように丸くなった尻尾を伸ばせば二軒分には容易に達する。
背中には胴体よりも広く嵐も凌げそうな桜花の花弁状した翼が二枚。それらの付け根に
割り込むように、煙突のような鶏冠が六本伸びる。
人呼んで魔装竜ジェノブレイカー。金属生命体ゾイドの中でも極めて荒々しい深紅の竜
は、この場ではやけにおとなしい。だが胴体に比べれば小顔の頭部を、決して地に伏せよ
うとはしなかった。レンズで覆われた赤く細長い瞳は、黒の短髪なびかせる男装の麗人と
その周辺にずっと釘付け。
一方、腹這う竜の胸元に抱え込んだ両腕付近では、何やらもぞもぞと灰色の布切れがう
ごめいていた。
布切れはパーカー。まとうのは小柄な少年だ。フードは被らないからボサボサの黒髪が
あらわ。円らな瞳はくるくると、ある時は目前に立ちはだかる赤い鎧に、ある時は頭上で
凛々しく伸ばす首へと向く。
彼ことギルガメスは、竜と比べるのが馬鹿げている位小さななりだが立派な主である。
少年は、自らの胴体程もある布袋を両肩にそれぞれ引っ掛けている。右は大分膨らんで
いるが、左は大分少ない様子。それでも彼が左の袋に手を突っ込めば、ジャラジャラと音
がした。
中から取り出したるは金属製の筒。陸上競技のバトン位はあるだろう。ゾイドの大好き
な油が詰まったカートリッジだ。
赤い鎧の隙間には、濃緑色の皮膚が見える(勿論身を守る上では十分硬い金属質だ)。
少年が適当な辺りで撫でてやると、ポロリと筒が出てくる。そこに少年が手持ちの分を挿
してやるのだ。 これだけ巨大なゾイドだ、油をがぶ飲みしたところで簡単には全身に行
き届かない。だからゾイドの全身には油を吸収する穴が隠れている。野生のゾイドは油の
溜まりに浸かって吸収するが、この竜の場合、しばしばその役目は主人である少年が負う
ところとなる。
少年は肩を鳴らすような仕草で、両肩のバランスを確認していた。もう大分、この巨大
だが可愛げのある相棒に油を与えてあげた筈だ。
何しろつい先程の激闘で、自分も相棒も大いに渇いた。腹が減った。……ドクター・ビ
ヨーの送り込んだ刺客はムラサメライガーら三匹の獅子。運動能力で競り合うゾイド三匹
を同時に相手にしては、消耗も又相当なもの。彼もどうにか生き延びた後の蒸留水たった
数百mlが、又しても美味しかった。
同じことは相棒にも言える筈だ。実際、いつもなら一本挿してやるごとにだらしない位
の鳴き声を上げるところ。
ところが今日の竜は、驚く程おとなしい。本心の告白は、丸めた長い尻尾の先のみを立
て、上品に振るだけに留めた。
健気な竜の仕草が少年にはいじらしく見える。だが苦笑を禁じ得ないのも確かだ。
何しろ竜達の十数メートル程先で焚き火に当たる者の内三人は、かの深紅の竜とその主
人らを一度は倒した手練の者。
金髪の男は「風斬りのヒムニーザ」と名乗る。元は宿敵水の軍団が雇った傭兵であり、
一時はギルガメスとブレイカーを死の淵にまで追い込んだ恐るべき実力者。
着流しの美女はスズカ。自身はゾイドに搭乗しないが剣の名手であり、常にヒムニーザ
の傍らに寄り添い彼を手助けする。彼女の剣技には体術自慢のエステルも相当な苦戦を強
いられたものだ。
そして赤茶けた髪の美少年はフェイ・ルッサ。ガイロス公国率いる特殊部隊シュバルツ
セイバーの一員である。ギルガメスらに近付き魔装竜ジェノブレイカー共々、祖国への拉
致を計った。やはりギルガメスに一度は苦杯を喫させた恐るべき若者である。
ヒムニーザとスズカはチーム・ギルガメスに敗れて後、投獄と引き換えにシュバルツセ
イバーに入隊した。フェイを加えた彼ら三人は公国の名門シュバルツ家の三男ヴォルケン
より密命を受けたのである。任務はチーム・ギルガメスの警護。
魔装竜ジェノブレイカーこそは旧ガイロス帝国が生んだ技術の結晶。即ち落ちぶれた同
国再生の手掛かりと言って良い。それ故にかつては拉致を企み、今度はヒムニーザらを派
遣した。
強敵による警護は、結局のところギルガメスらの拉致を全く諦めていないことを意味す
る。この深紅の竜が警戒を解こうなどという気持ちにならないのは当然だ。
……当然ではあるが、それにしてもこの竜が選んだいくつかの行動は神経質に過ぎた。
ギルガメスは餌を獲ってくるよう促したが、テコでも動こうとはしない。監視の手を緩
めるつもりはなさそうだ。
いつもなら竜を叱る女教師エステルも、今回ばかりは流石にすぐ諦めた。竜の態度は純
然たる忠誠心から来る。ここで安易に注意しては竜のやる気が削がれるというもの。
だから代わりに、すっくと立ち上がって手を振った。
「ギル、そろそろ!
ブレイカー、彼もお腹ペコペコよ?」
その名を呼ばれた深紅の竜は少々不満げに低く鳴いたが、納得はしている様子だ。
少年は竜の左腕、指の付け根辺りで油のカートリッジを交換している。これで全て終わ
りだ。それを見計らって竜は鼻先を胸元付近にまで近付けてきた。指関節を開閉して滑り
良さを確認すると、指先で鼻をこすり、両肩の布袋を掛け直した少年に近付けてくる。
感謝と少々ヒステリックな不安が入り交じったキスに、少年は快く応じてやった。
深紅の竜はZi人達の食事風景を始終、注視していた。
だが、監視の目はそれだけでは足りない。焚き火を飛び越えてずっと先にはかつて竜に
手傷を負わせた憎き強敵が二匹、控えている。黒衣の悪魔ロードゲイル、そして鋼の猿
(ましら)アイアンコングだ。
前者は茶色の羽を畳み、おとなしく腰掛けている。人造ゾイド「ブロックス」である以
上、感情に乏しい筈だがやけに風格のある佇まいが空恐ろしいものを感じさせる。
後者はごろりと横たわり、左腕を立てて枕にしている。竜と視線が重なっても勝手にし
ろと言わんばかりにそっぽを向いた。ふてぶてしい態度に竜はかすかに歯を噛み鳴らす。
そんなゾイドの思惑とは裏腹に、食卓は静かに時を刻んでいた。
師弟と三人は焚き火を挟んで黙々とパンをかじり、スプーンでかき込む。
ギルガメスは一口運ぶたびに周囲を見渡さざるを得ない。かつての強敵が援軍となって
現れたのさえにわかには信じがたいこと。当然ながら共に食卓を囲むなど想定できる筈が
ない。パンをちぎる自分の右手がかすかに震えていることに気付けただけマシか。
それに比べれば、左に座るエステルは何とも堂々としたものだ。平然とパンをちぎり、
かじり、プラスチックのコップに口をつける。その間に周囲を見渡す素振りさえ見せない。
これがきっと、場数と言う奴なのだろう。少年は、結局彼女に膠着した雰囲気の打開を願
うより他なかった。
皆の腹ごしらえが済んだ後、話しを切り出したのはやはり彼女である。
「まず改めて、ここまで……『忘れられた村』の近くまで来ることができたのはみんなの
おかげです。慎んで、お礼を言わせて下さい。ありがとう」
すっくと立ち上がった彼女。少年は慌てたが、真意はすぐに理解できた。すぐに追随す
ると二人並んで、深々とお辞儀する。
意外な丁重振りに、まあまあと金髪の男が手を上げた。
「まあ座ってくれ。俺達もエラい連中の命令で動いただけだ、気にすることはない。
それより、『忘れられた村』には具体的に何をしにいく?」
もっともな質問だ。一同は頷く。特に少年は円らな瞳を凝らして、この頭一つ高い女教
師の端正な顔を覗き込んだ。
周囲をちらりと見渡した女教師。おもむろに腰を下ろす。少年が慌てて追随する間に、
彼女は呟いた。
「リーダーに会いにいきます」
少年が座り終えるのと凝視を再会するのはほぼ同時だ。女教師エステルの蒼き眼差しは
力強い。サングラスの上から見てもはっきりと確認できる。
数秒の間を置いて、ちょこんと右手を上げた者がいる。フェイだ。
「エステルさん、それって……村に協力を仰ぐとか、そういうことですか?」
「協力を仰いで、匿ってもらったりというのはガイロスとしては都合が悪いんでしょう?」
女教師の逆質問。赤茶けた髪の美少年は図星の様子で頭を掻いた。
彼女は微笑みながらも首を左右に振った。
「いいえ。村が組織としてどの程度のものかわからないけれど、そういう目的ではないわ。
多分……この村のリーダーはかなり重大な秘密を握っている」
彼女の考えはこうだ。
タリフド界隈でのいくつかの証言から、村人はギルガメスのように額に刻印が浮かび上
がると見て間違いない。それ故に彼らは言われのない差別・虐待を受けた経験があると思
われる。
だが一方で、刻印が持つゾイドとのシンクロ能力は強大な軍事力たり得る。ゾイドなし
には暮らしてはいけないZi人であればすぐに気付く筈だ。
では何故、彼らが「村」と称される位に寄り集まったのに武装蜂起も何もしないのか。
「……刻印にはシンクロだけではない、何かもっと重大な秘密があるのかもしれないわ。
わざわざレアヘルツで覆われたタリフド山脈の向こうに、大挙して住み着いているのは
それを何とかして隠し通したいからなのでしょう」
エステルが一息ついたところでヒムニーザが口を開いた。
「つまりこういうことか? 村の連中は真実から目を背けたおかげで生き長らえた。
ギルガメス君は真実に近付いているから命を狙われる、と」
我が意を得たりとでも言いたげに、女教師は頷いた。
皆が会話している間に焦げ付いた薪が何本か、折れた。火の粉がその都度、ふわりふわ
りと舞い上がる。だが皆、それに視線を投げ掛けこそすれ、過敏に反応する者はいない。
着々と夜は更けていく。
ヒムニーザは立ち上がると元々高い背を一層伸びした。フェイも追随し、一斉にあくび
をする。この二人、容姿どころか髪の色さえも全く違うのに、だらしない仕草は兄弟のよ
うに瓜二つだ。
「明日も早い。さっさと寝るとするか……」
「エステルさーん、おやすみなさーい!」
この美少年、無闇に爽やかな笑顔は相変わらずといったところ。それに釣られてむっと
するギルガメスも相変わらずだ。しばし睨みつけると相棒のもとへと向かう。
最後に立ち上がったスズカ。太刀を小脇に抱え直すとエステルに問いかけた。
「お主ら、寝床は?」
「テントを張るわ」
「そうか。我らもだ、あの坊主を除いてな。
『ジンプゥ』は優れたブロックスだが、旅するにはコクピットが狭過ぎる」
ぼやく着流しの美女。成る程と、二人して微笑んだ。何日にも渡る持久戦の末、居住性
の悪さ故にパイロット自身が参ってしまった例は枚挙に暇がない。ロードゲイルは強いが
その辺は決して優秀ではないと言える。
二人が会話している最中、少年の声が聞こえた。女教師は立ち上がり、着流しの袖の向
こうを覗き込む。
深紅の竜は首のみ立てて腹這いのまま。只、両手で何かを囲んでいる。
よく見れば、エステルが搭乗する年代物のビークルを鷲掴みにしている。
その目の前で、ギルガメスは途方に暮れていた。
「ブレイカー、頼むから手をどけてよ……」
両手を合わせて頼み込む少年。
深紅の竜は首を左右に振って拒絶。
そこにエステルがやって来た。
「どうしたの、ギル?」
ようやくの助け舟だ。少年は口元をほころばせはしたが、しかしすぐに歪んだ。
「テントをビークルから出そうとしたんですけど、ブレイカーがビークルを……」
サングラスを掛けたまま、女教師はじろりと睨む。すると深紅の竜は、首を下げて丸ま
った。ビークルを抱え込んだ姿は大切な玩具を隠そうとする子供のようにいじらしい。
成る程と、女教師は何度か頷いた。
「ブレイカー、私達の寝床は?」
彼女の問い掛けを聞きつけるや、深紅の竜はすかさず首を起こし、右手をビークルから
離した。コンコンと、胸元のハッチを小突く。
女教師は吹き出しそうになった口元を押さえ、少年は見る間に顔を引きつらせた。
「成る程、彼ら(※ヒムニーザ達)に寝首を掻かれるのは御免だと。そういうことね?」
深紅の竜は甲高く鳴きつつ、首を大きく縦に振った。血相を変えたのは少年の方だ。
「ちょっと! ブレイカーの言いたいこともわかるけれど……」
女教師はニコニコ微笑みながら呟いた。
「代案は? ブレイカーが安心できるものを挙げてね」
少年は深々と溜め息をついた。深紅の竜が師弟を案ずる気持ちはよくわかる。大体、向
こうでそれぞれのゾイドの近くへ戻っていった連中は、かつて深紅の竜とその主人らを壊
滅の危機に追い込んだ奴らなのだ。竜が主人を目の届くところに確保しておきたいのは当
然と言えば当然である。
だから渋々と、少年は呟いた。
「消臭剤、撒いてきます。時間を下さい」
鋼の猿(ましら)アイアンコングは主人の帰還を目にすると早速尻餅をつき、右手を伸
ばした。
人が何十人も乗れる手の平に、飛び乗ったフェイ。頭部は手の平が近付くと頭蓋の上半
分が前からぱっくり割れた。単座を中心とした空間は美少年が長い両腕を広げても届かな
い位、だだっ広い。もともとこのゾイド、性能を存分に発揮するためには操縦者が二人は
必要とされる。それを敢えて端座で乗りこなす辺りが彼の力量だ。
長い足を伸ばした美少年。着席する。頭蓋が閉じる。暗い室内には電灯がともり、目前
には横に長いスクリーンが広がっている。と、画面上に開いたウインドウは瞬く間に映像
を拡大。
映し出されたのは依然腹這う深紅の竜の姿だ。その胸元で、ハッチの中から首を伸ばす
ギルガメス。するとエステルが近付き、中に入ろうとしているではないか。美少年は座席
より立ち上がり、ウインドウを指差した。
「あーっ!? 何だよそれ! ギル兄ぃのスケベ! 変態! ひょっとして二人はもう……」
わざわざスピーカー伝いで聞こえるように言うものだから少年は飛び出して怒鳴り返す。
「うるさいよ! 何でも下ネタに結び付けるな!」
すぐ隣でしゃがみ込む黒衣の悪魔ロードゲイルの足下では、この相棒の眼光を明かりに
テントを張る男女がやれやれとでも言いたげに見上げていた。
「お邪魔しまーす」
嬉々とした表情で乗り込んでくる女教師。背広のまま、小脇には寝袋とパジャマ代わり
の紺のジャージ、それに替えの下着や靴下を入れたビニール袋を抱えている。
魔装竜ジェノブレイカーのコクピットは単座式としては極めて優秀で贅沢な作りだ。室
内は全方位スクリーンを採用している関係上、半球に近い作り。しかも思いのほか広く、
両腕を広げてどうにか届く位。天井はエステル程の長身になると屈まなければ厳しいが、
平均的な体格の持ち主には全く問題にならない。
その上、操縦に直接関係ない部分で非常に装備が充実している。中央の座席下部には棚
が隠され、着替えや食料などを収納できる。短期間のキャンプ生活も決して不可能ではあ
るまい。
さてギルガメスは背筋がむず痒く、何とも落ち着かない。
コクピット内は彼が降りた状態で、洗浄液らしきものが噴出して汗や流血を洗い流しだ
か分解だかしてくれているらしい(その辺のテクノロジーは彼にもわからない)。今日も
入ってみればさっきの戦闘で滴った流血は雲散霧消しているが、そうは言っても所詮は男
の部屋である。
ハッチが閉まる。密閉するとハッチの内壁が全方位スクリーンの一部となって映像を描
画するが、少年はその目の前で消臭剤の噴霧器を後ろ手に突っ立っていた。
エステルは座席を挟んで左手に回ると靴を脱ぎ揃え、ゆっくり腰を下ろして正座を組ん
だ。その姿だけで、少年はハッと息を呑んでしまう。ピンと伸びた背筋に柔らかな腰つき
が被せられた姿は、妖艶な名刀の佇まい。ますますばつが悪そうにする彼に向かって。
「ギル、貴方も座って?」
少年は頭を掻くと、座席の右側に回って胡座となった。彼女の視線を避けるように身を
屈めると、座席の下の棚を開け、寝袋とおしぼり入れを取り出す。旅の前には事前に何本
か用意しておき、こういう水回りの不便な局面で使うのである。
「……先生、これ」
「ありがとう」
少年は座席の上におしぼり入れを置いた。銭湯の壁越しに石鹸でも渡すように。だが湯
煙もなく、武骨ながら特別高くもない座席を介したものだから、少年はつい魅入ってしま
った。
肌白き背中、肩、そしてうなじ。抱き締めれば両断を覚悟すべき名刀の曲線を帯び、切
先には面長な横顔が待ち構えていた。サングラスは既に外していたから、端正な造作が計
器類の輝きに照らされくっきりとシルエットを浮かび上がらせる。
黙々とワイシャツを、ズボンを脱ぎ、畳む横顔。
少年は吸い込まれるように蒼き眼差しを見つめていた。瞳には半ば惚けた初心な表情が
映り込んでいる。……例えようのない衝動が、彼の心臓を何度も小突いた。
息を吸い込んだ少年。そうしなければ彼の心臓が押し潰されるか、衝動が心をも小突き
回していたことだろう。
どうにか視線を外した彼は、ぷいと背を向けた。そのまま、極力身を屈めつつ上着を脱
ぎ始める。
一方、女教師は既に全身を紺のジャージで固めていた。足下には手際よく畳まれた背広
とワイシャツ、それにおしぼり入れや着替え済みの下着や靴下を突っ込んだビニール袋が
置いてある。寝袋を広げるとスルスルと潜り込んだ彼女は酒に酔っているかのように上機
嫌だ。右方に寝返りを打つと笑みを浮かべ。
「ギル、お休みー」
ところが彼女の端正な顔は見る間に不機嫌そうに変わっていった。
それもその筈、座席を挟んだ右手には、本来ならば愛弟子の寝顔がなければいけない。
今、そこにあるのは寝袋の尻尾だ。彼女は寝袋から両腕を伸ばすと尻尾をつかみ、問答無
用で弄る。
「何これ? ちょっとどういうつもり? 説明しなさいよ」
少年の無言の抵抗は呆気無く崩壊した。合成繊維越しながら足の裏を徹底的にくすぐら
れ、やむなく彼は身体を彼女と同じ向きに直す。
天井から見れば、座席を介して左に少年、右に女教師が寝袋を並べる、さしづめ「川」
の字のような光景。
再び上機嫌で横になる女教師。少年は如何にも迷惑そうな表情で、只、視線だけは合わ
せまいと床に反らしていた。
女教師は目的の達成に満足したのか天井を見上げると、ぽつり、声を漏らす。
「ギル、昼間の戦い方は良かったわよ」
声を受けて、少年は視線を戻した。端正な横顔に釘付けとなる。
女教師の口元はほころんでいたが、眼差しは力強い。
前話にて,少年主従はドクター・ビヨーの刺客ムラサメライガーに対し、徹底的に間合
いを詰めて攻撃を迫った。苦し紛れの反撃はことごとく潰し続け,敵の援軍が来るまでは
優位を守ったのだ。
「……技に,自信が裏打ちされた。これなら、剣を練習して正解だったわね」
「先生より恐い敵なんてそうそういないですから。それは自信もつきます」
愛弟子の思わぬ反撃。二人は顔を見合わせ,くすくすと笑い合った。室内に朗らかな雰
囲気が宿ったところで女教師は会話を再開した。
「頑張って,私から一本取ってよね。
強い心と確かな技で,その場の空気を完全に支配できるなら、どんな敵にだって負けや
しないわ。
じゃあ,お休み……」
少年は感銘を受けた様子で深く頷いたが,それまでに女教師は寝返りを打って仰向けに
なっていた。
(そうか、強い心と確かな技……。そして,空気を支配……)
彼も又仰向けに寝返ると天井に向かって「ブレイカー,お休み」と告げた。それを合図
に室内の光源はごく僅かな計器類を除き,あらかた消灯した。
深紅の竜は、自信の胸元で繰り広げられたやり取りを確認すると,ようやく大事な宝物
を隠すように顔を伏せ,尻尾を丸めてうずくまったのである。
(第一章ここまで)
【第二章】
エステルは暗い天井をぼんやり眺めていた。
決して寝付けないわけではない。今日は敵の追撃もあれば、意外な人物との共闘も実現
した。疲労は十分蓄積した。これで寝るなと言う方に無理がある。
寝付くに至らない理由は彼女自身,薄々と自覚していた。寝袋にくるまったままちらり、
右隣を横目で見遣る。座席を隔てて横たわる寝袋がもう一枚。
ギルガメスは既に深い眠りに入っているようだ。相変わらずそっぽを向いてはいるが,
寝息は思いのほか深く,敢えて寝顔を確認するまでもあるまい。
年頃の少女だった頃,友達はゾイドしかいなかった。だからきっと、仲の良い友達の家
に止まりにでも行く時,こういうふわふわした気分になったに違いないと想像がついた。
そこに思い至った時,急に彼女は,胸を締め付けられるような感覚に襲われた。郷愁な
どどこかに吹き飛んでしまっていた。
今,彼女と少年との間にどれ程の隔たりがあるのだろうか。座席一つで事足りるのか。
性別は,年齢は,経験は。いや,そもそも自分は何故この坊やと共に旅をする気になった
のか。
締め付けられた胸が地響きのように揺れ軋み,彼女は唇を噛んだ。零れる涙は誤摩化せ
ても,嗚咽まで誤摩化すことはできそうになかったからだ。
懸命に堪えたのが功を奏したのか,ようやく眠気が激情を覆い隠した。……かと思えば、
脳裏にはすすけた映像が徐々に鮮明と化していった。昨日(前話参照)に続いて,又もか。
エステルは寝袋から両手を出し,頭を抱えた。懐かしいが,思い出すには辛い記憶の断片。
ヘリック共和国の施設を脱出したエステル、そして魔装竜ジェノブレイカー(彼女は
「ブレイカー」と命名していた)。だが最高級の生きた実験材料を、むざむざ野に放つ共
和国軍ではない。彼女と竜に追っ手が迫る。
しかし執拗な追っ手はたまたま居合わせた……居合わせはしたが,最凶の共和国軍ゾイ
ドにも恐れを知らない人物の助力により,振り切ることに成功した。出会いが,彼女に幸
運をもたらしたのである。
最初に出会った時,彼はボロ切れをまとい,顔はヘルメットとフェイスガード、ゴーグ
ルで覆っていた。寒い夜空も凌げる重装備。それらを外すとボサボサの黒髪とやや骨張っ
た容貌、そんな目鼻立ちには若干不相応な円らな瞳が現れた。全体的に精悍な出で立ちの
若者だ。
エステルは若者に対しは名乗りこそしたものの,流石に氏素性を語るのには強い自制心
が働いた。不思議なことに,警戒心は特に感じてはいなかった(味方に見せかけた敵なん
て,そんな手の込んだ罠を仕掛ける場面ではなかろう)。
それより恐れたのは、語ってしまえば秘密を共有したことになる点だ。それによって彼
女を表沙汰にはしたくない共和国軍に命を狙われる危険がある以上,本来無関係な人物を
言葉一つで巻き込むわけにはいかなかった。
口籠りうつむく彼女に対し,若者は思案を余儀なくされた。そもそも、年頃の女性にど
う話しかけるべきかわからぬようで,子供のように首を捻る。捻った末に,彼はぽつりと
呟いた。
「村に、来ないか?」
陽射しが乱反射する荒野の下で,若き男女と,彼らを乗せた大小のゾイドはとぼとぼと
歩いていた。
深紅の竜は尋常ならざる脚力の持ち主である。ひとたび野に放たれさえすれば,ヘリッ
ク共和国軍の精鋭ゾイドでも容易には追いつけない。手の平に透き通った青色の二足竜バ
トルローバーを抱えたまま、竜は山を幾つか越える程の距離を、いとも軽やかに滑走した。
十分な距離を取ったと確信したところで,朝焼けが彼方に見えた。彼らは消耗を押さえ
るべく徒歩での移動と相成ったのである。だが眩しい朝日は思いのほか,彼らを疲労させ
た。黄色い輝きが唐辛子のように目にしみる。
全方位スクリーンはパイロットに負担をかけさせぬよう映像を補正するが,それが追い
ついていない。やむを得ずの彼女がコクピット内で手をかざしている内に,スクリーンは
その長い指では流石に収まり切らないなだらかな丘陵を映し始めた。
丘陵には余り背丈の高くない広葉樹と古びた土塀の民家がまばらに立っている。当然の
ようにふもとにはゾイド溜まりと鎖につながれた小型ゾイドが、途中には幾重にも組み敷
かれた塹壕が見える。
村人の多くは貧しい農民だ……スクリーンに広がるウインドウ越しに,若者は説明した。
丘上のわずかな畑を耕しつつ,時折野生ゾイドを狩ってはそれを売って生活していたのだ。
彼はあの晩もご多分に漏れず,狩りに出ていた。
さて帰還した若者を待ち受けていたのは歓待と,猛烈な冷やかしであった。村人は彼が
自分たちが住む民家よりも余程大きな深紅の竜を引き連れてきたことに感嘆した。だがそ
の胸元から神々しいまでの美少女が現れるや、溜め息と少々下卑た視線が若者に集中した。
「彼奴はゾイドどころか嫁まで狩ってきた」
「狩ってきたってことは花嫁泥棒か、これはけしからん!」
氏素性の追及はさておいてやたらと二人を結び付けようとする住民の声にはさしものエ
ステルも若者も閉口した。特に彼女にとって、思い描ける未来など明日しかない。それも、
任務か,訓練か,それとも休息か。その程度である以上、冗談半分に花嫁など言われても
答えようがなかった。
一方若者は冷やかしなど適当に受け流し,早々にキャンプの中にエステルを引っ張って
いった。
この時,彼女は気が付いた。……若者は、自分より頭半分程も低い。
だが握り締める手の平は分厚い。肩も背中もがっしりとしている。いや骨格や皮膚・筋
肉以上に、掴んだり,掴まれたりしたらほっと落ち着いてしまいそうな不思議な雰囲気が
背中から滲み出ていた。彼女はいつしか,若者に負けじと早歩きでついていったのである。
さて村の中央、結局は深紅の竜の体格には及ばないが、それでも周囲に比べれば一番大
きな民家の門。中から顎ひげを蓄えた老人が現れた。エステルは一目見ただけで村長だと
理解できた。
若者は老人に,狩り場の向こうの森林に共和国軍の施設があることを伝えた。そしてエ
ステルを,共和国軍にかどわかされたのを抜け出してきたと紹介した。村長は若者の言葉
に一々首肯した上で,彼とエステルに告げた。
「お嬢さん,あんたさえ良ければこの村で暮らしてみては如何かね?」
鋭い眼差しを丸くしたエステル。共和国軍に追われる自分は疎んじられると思っていた
からだ。
「なあに,困ったときはお互い様じゃよ。
気が引けると言うなら,水汲みを手伝ってはくれんかのう。お嬢さんのゾイドならそれ
位,朝飯前じゃろう?」
エステルは数秒程沈黙したが,すぐに首を縦に振った。厚意を実感するのにそれだけの
時間が必要だった。
翌朝、深紅の竜は森林の上空すれすれを滑空していた。元々奇妙な格好で取沙汰されが
ちなこのゾイド,今日はとりわけおかしい。全身至る所にドラム缶が括り付けられている。
両腕は言うに及ばず,桜花の翼にも,頭や背中の鶏冠にもだ。
村のある丘陵を下り,もう一つ先の山を越えると大きな湖があるという。バトルローバ
ーのような小型の二足竜なら往復で半日は掛かる距離を,村人は毎日行き来して水を汲ん
でくるそうだ。
地球人が聞けば何とも馬鹿げた話しと思うだろうが,巨大な金属生命体ゾイドが跳梁跋
扈し、挙げ句に恒常的に戦乱に明け暮れていた惑星Ziでは、水道や道路などといったイ
ンフラが呆れる程育たなかった。この村にしても水を汲める場所を押さえてあるだけマシ
と言うべきだろう。
さていつしかエステルは、全方位スクリーンの中でさえ澄んだ水の香りとひんやりとし
た気候を感じ始めていた。相棒が備える様々なセンサーが反応し,それをシンクロによっ
て彼女に伝えているのだが、こうも爽やかな感覚はかつて感じた覚えがない。
そんな時,スクリーン越しに声が届いた。竜の両手の平に乗った若者からだ。彼の指差
す方角を見て,エステルは溜め息ともつかぬ声を漏らさざるを得ない。
森林の先に開けてきた湖は,そう呼ぶには余りに広過ぎた。昔演習で見た浜辺に印象が
近い。只,水面は波打たず、遠方の山が鏡のごとく映り込んでいる。海と比べれば余りに
静かで,彼女自身声を出すのをためらった。
深紅の竜はそんな主人の心情に配慮するように,砂利の水辺を踏みしめるようににそっ
と着地した。まず爪先で砂利の表面に立て,徐々に足裏、踵を降ろしていく。石ころ同士
が擦れ、潰れる音が何秒も続いた後、竜は恭しく腹這いになった。
若者は一足先に竜の手の平から飛び降りた。続いて胸部ハッチが開く。本物の陽射しは
スクリーンよりも遥かに眩しく,エステルは溜まらず手をかざした。そのまま竜の手の平
に移り,砂利を踏みしめる。
ふと、そよ風がなびいた。彼女の長髪を揺らし,昨晩村人の厚意で譲り受けた男物のブ
ラウス,ジーパン(彼女の背丈に合う女物がなかった!)を突き抜けていく。
傍らでドラム缶を降ろしていた若者と竜は,不意に聞こえてきたすすり泣きにギョッと
なった。若者は慌ててエステルの真っ正面に回り込み,その様子を頭上から竜が見下ろそ
うとする。
エステルは長い指で顔を覆っていた。涙の脱出はそれでは収まらず,手の平から容赦な
くこぼれ落ちていく。若者は混乱の様相を隠せない。年頃の若い娘が流す涙にしどろもど
ろになりながらもひとまず深呼吸。彼なりに言葉を頭の中で選び,息継ぎして切り出した。
「ど、ど、どうしたんだ? 何か嫌なことでもあったのか?」
エステルは首を横に振ると覆っていた両手を外した。只,目許は何度も両手の甲でこす
りながら。
「嬉しかったの。外の世界がこんなに奇麗だったなんて……」
若者は何度も頷いた。彼女が受けた仕打ちはわからないが,それでも若者が日頃見慣れ
ているものにさえ心動かされてしまう程、閉じ切った世界で生きていただろうことは間違
いあるまい。
彼は深呼吸を繰り返し,掛けるべき言葉を一つ一つ選んでいった。
「奇麗なところは他にも一杯あるさ。今度,俺が色々なところに連れていってやるよ」
エステルも又,何度も頷きを返す。若者はほっと胸を撫で下ろすと彼女の両肩をポンと
叩いた。
「そういえば水浴び、していくんだろ? 俺はブレイカーと一緒に水を汲んでいるから、
そっちで……」
左に首を向けて促した。ふと額に手の甲を当てるとじんわり汗ばんでいることがわかる。
彼にとって異性との会話は難易度においてゾイド猟を遥かに上回った。だが異様なスリル
はここで終わらなかったのである。
若者は,エステルが左方に向かってそちらで服を脱ぐとばかり思っていた。深紅の竜が
間に入って衝立てとなればこちらからは何も見えない。それで全て事足りると思っていた
から,次に彼女がとった行動に仰天した。
彼女は,何ら躊躇することなく身にまとうブラウスのボタンを外している。目の前に起
きた出来事は余りに唐突で、若者は声も,我も見失った。……彼女の胸がはだけたかと思
うと早々にブラウスが翻る。真っ白な肌と年齢以上に発達した乳房が露になったところで、
若者は両腕をかざしたまま,素っ頓狂な声を上げた。
「ば、馬鹿馬鹿馬鹿! 何やってるんだよ!」
エステルは急に大声を上げた若者の真意がまるで理解できないらしく,不審げに首を傾
げた。
「何って……服を脱いでるのだけど」
「そ、そういうのって、好きな人の前でしか見せちゃあいけないものだろう!?
彼氏とか彼女とか,親兄弟とか……」
彼女は切れ長の瞳を大きく見開いた。
「……そういうものなの?」
「そういうものなの!」
若者が言い放つと,彼女は何やらひどくしょぼくれた様子でうつむいた。雰囲気の変化
に気付いた若者は,ようやくかざした手の平の隙間から彼女の面長な顔立ちを見つめる余
裕を得た。依然,それより下に視線が流れる誘惑から懸命に耐えながらではあるが。
彼女はうつむいたまま呟きを続けた。
「ごめんなさい,迷惑だった?
施設では,毎日の身体検査の時も見張られていたから……」
ああ成る程と,若者は珍妙な格好のままどうにか合点がいった。だが、ふと気が付いた
ことがあって,にわかに後悔の念もこみ上げてきた。……もしかして,自分が「お前は大
事な奴じゃあない」と言っているように聞こえてはいまいか。若者は慌ててフォロー。
「め、迷惑だなんて,そんな! そうじゃない、そうじゃなくって……。
俺達、出会ったばかりだろう? 好きとか嫌いとか,まだ全然わからないよ。
そういうのはもう何年かしてから決めても遅くはないだろう?」
目隠ししながら,一気にまくしたてる。
彼女は若者の懸命な語り口を聞くに及び,再び瞳を大きく見開き,やがて優美なつり目
を作り上げた。
「わかったわ。今は,隠すようにするわね」
そう告げるなり,彼女はブラウスを右手に引っさげ踵を返し、すたすたと竜の首の下を
くぐり抜けていった。黒の長髪がそよぎながら後に続く。やけに気分良さげなステップを
背後から見つめ,やれやれと若者は尻餅をついた。
一方,深紅の竜は自分の首の下をくぐり抜けていく美少女を見送ると、若者に鼻先を近
付けてきた。気遣うように,ピィピィと小さく鳴いてみせる。若者は疲れ切った表情のま
ま気丈に微笑んだが、少々口元が引きつり気味だ。
(『今は,隠す』ってどういう意味で言ってるんだ……)
エステルにもこの若者にも想像のつかない未来が開けてきたのは間違いない。
こうしてエステルと深紅の竜ブレイカーは村の水汲みを任されるようになった。もっと
もこのゾイド程の体躯では余りに容易く,数日おきにやれば事足りる仕事だ。そこで暇な
時には買い出しや届け物の手伝い,それに畑を耕したりと様々な仕事に狩り出された。そ
のいずれもがこの竜には簡単で……なのに,村人達は必ず感謝の言葉をかけてくる。
深紅の竜はこんなにも沢山感謝の言葉をもらった記憶はなかった(かつては敵からも味
方からも憎まれ口ばかりを叩かれたゾイドだ)。だからそのたびに尻尾を振り,時には村
人達にまで鼻先を近付けてきた。
そんな竜の愛嬌を傍らで眺め,エステルは微笑んだ。こんなにご機嫌な相棒の姿にはお
目にかかった覚えがなかったからだ。
穏やかな日々はエステルにも訪れた。この日を境に,何も仕事がない時は若者と二人で
遠出するようになった。山を,川を,付近の村を見て回ること。それだけで彼女は幸福な
気分になれた。広がる世界に感動し,それを手伝ってくれた若者に感謝した。彼の前では
彼女の鋭い眼差しも穏やかになれたのだ。お互いがお互いを意識し合うのは時間の問題で
あった。
エステルは頭に添えた両手をそっと外した。頭痛は少し落ち着いたようだ。
(あの人は,私に外の世界を見せてくれた。未来を,与えてくれた……)
寝袋に入ったままごろりと右を向き,隣を伺う。相変わらずそっぽを向いたまま寝入る
愛弟子。彼が立てる深い寝息には聞き覚えがあった。……それだけではない。
(顔つきも,体つきも,あの人に似てきている。赤の他人の筈なのに……)
頭痛と睡魔の相乗効果でぼんやりした蒼き瞳。幻影を,追いかけるように左手を右に伸
ばす。座席が邪魔だが,それさえ越えてしまえばあの人は目の前だ。
長い指がギルガメスの方に触れようとした時,熟睡していた筈の少年は軽いくしゃみを
した。エステルの背筋は凍り付いた。慌てて左手を引っ込める。
やがて暗いコクピット内に再び寝息が聞こえ始め,彼女はほっと一息ついた。と同時に,
寂しげな微笑みを隠せない。……かつて若者がしてくれたように愛弟子の未来を切り開い
てやった時,その先には何が待っているのだろう。暗いコクピット内に慣れてしまった眼
差しと同様に,彼女にはよく見えているのかもしれない。
さて翌朝,清々しい青空の下でエステルは生あくびをした。口は押さえても間抜けな吐
息はよく聞こえる。
深紅の竜は恭しくビークルを両腕で抱えている。その機上で彼女は腕組みし,右手を頬
に添え、自嘲気味の溜め息をついた。背広の内ポケットをまさぐって,折り畳み式の手鏡
を取り出す。……少々,瞼が腫れぼったい。年甲斐もなくはしゃいだ結果がこれだ。
さて深紅の竜と残り二匹は黙々と,迷路のような岩山の連なりを縫うように歩いていた。
大体ゾイドのスペックを額面通りに受け取ると馬鹿を見るものであり、この場面でもそれ
は言えた。これだけ入り組んでいると竜の脚力は無意味だし,黒衣の悪魔ロードゲイルが
得意な飛行しての移動などは目立ち過ぎる。のんびりとした徒歩での移動は半ば必然では
あった。
どのゾイドも,どことなくそわそわしている。エステルの頭上は影が被ったり陽射しが
入り込んだりと落ち着かない。これは単に入り組んだ地形だけが理由ではなかった。
「レアヘルツが近いようね……」
如何なるゾイドも浴びれば発狂する、それがレアヘルツだ。次元の異なる脅威を恐れる
のは当然と言えた。
不意に,コントロールパネルがアラームを鳴らす。発信源は彼女のすぐ後ろ。エステル
は首を傾げながら端末に触れる。
埋め込まれたモニターに映し出された愛弟子の表情は冴えない。眉間に皺を寄せ,額に
手を当てている。昨晩はなんだかんだと不平を漏らしつつも熟睡していた筈だが……。
「どうしたの、ギル?」
「頭が,重いんです」
エステルは目を見張った。愛弟子は小さななりだが頑健だ。それに仮病の類いは一切使
ったことがない(大体,家出までしてゾイドウォリアーを目指した少年が自分の選んだ道
に背を向けたりはしないものだ)。
「風邪でも引いたのかしら?」
「わかりません。熱も測ってみたけれど平熱だったし……」
ちょっと待っててとエステルは声を掛け,立ち上がる。背後を向くのと竜の胸部ハッチ
が開くのはほぼ同時だ。竜の腕伝いにハッチへ乗り込む。
内部のギルガメスは侵入者の顔を見て心なしか表情が緩んだ。エステルは愛弟子を座席
に固定する拘束具を持ち上げると、額や頬,首筋の辺りを入念に撫でる。手触りに,彼女
はますます首を捻った。体温も平熱,腫れている風でもなく、冷えていたりひどく汗をか
いていたりという風でもない。
「レアヘルツの危険区域までもうすぐよ。それまで操縦はブレイカーに任せなさい。
着いたら『ゆりかご機能』。消耗は押さえた方が……」
言い掛けた時,警告音が鳴り響いた。全方位スクリーンの左方にウインドウが開く。
師弟の視線は釘付けとなった。鳥瞰図には無数の光点が,深紅の竜達を示す白い光点を
包囲しつつある(恐らく百以上はある)。だが光点はいずれも奇妙に小さい。顔を見合わ
せた師弟。
今度は右方よりウインドウが開かれた。ヒムニーザだ。
「気付いてるよな? 熱源は人ばかりだ。どうやら……」
師弟は頷いた。辺り一帯の地勢に詳しい連中だろう(この時点で「忘れられた村」の住
人なのか断定しかねるが)。レアヘルツ発生地帯が控えている以上,迂闊にゾイドを起用
すれば巻き添えを受けるかもしれないからこその作戦であろう。
ならばと、ギルガメスはしかめっ面ながらも姿勢を正す。
「エステル先生,会って話してみますか? それとも……」
そう言い掛けた時,破裂音が数度、谺した。竜は透かさず胸部を覆う。短めだが頑丈な
竜の腕は金属音など反響させなかったが,辺りの岩だか土だかが鈍い音を立てているのは
容易に聞こえた。
やれやれとでも言いたげに,エステルは両手を上げた。
「一応,話し掛けてはみるけれど……強行突破の時間稼ぎにしかならないかもね?」
半開きとなった胸部ハッチ。中からそろり,抜け出したエステル。竜もそれに呼応し右
の前腕を伸ばし,架け橋を作る。
銀の爪の隙間からビークルに乗り移ると,つぼんだ爪は花咲くように開いた。
すっくと立ち上がったエステル。腕を組み,片膝立てて。
「いきなり威嚇射撃なんて,それが遠方よりやってきた者に対する挨拶の仕方なわけ?
……『忘れられた村』の方!」
朗々たる響き。もっとも内心、ビークル単騎でこっそり侵入しようとしている者が言う
台詞じゃあないけれどねと彼女は舌を出していたのだが、それも束の間。
再び響く破裂音。彼女は咄嗟にしゃがみ込んだ。後を追うように竜の爪が盾となって覆
い被さる。
岩と岩の隙間から,怒鳴り声が谺してきた。
「『ギルガメスよ! 成功者は,去れ! 災厄の源は,去れ!』」
前者はギルガメスが同じ刻印の持ち主ながら、ゾイドウォリアーにもなり結果を出した
ことに対する妬みの気持ち。後者は……少年らが水の軍団に追われているから、巻き込ま
れるのを恐れて言うのだろう。彼は溜め息をつきかけ,慌ててそれを呑み込むと頭を軽く
小突く。
(聞き流せ,ギル。聞き流して次に打つ手を考えよう)
鋼の猿(ましら)が,黒衣の悪魔が、竜と背中合わせになるように陣形を組んだ。きょ
ろきょろと周囲を見渡す。
アラームとともに,ビークルのコントロールパネルにはフェイが鼻を鳴らしたげな表情
で映し出された。
「エステルさん,どうします? こいつら、正気の沙汰じゃあない。
弾痕を確認した限り,連中が撃ってるのは只のライフル銃ですよ……」
彼の声とともに,映像が送られてきた。鋼の猿(ましら)が辺りの地面をひと睨みして
撮影したものだ。成る程,岩肌に彫り込まれた弾痕の大きさは握り拳程もなく,深く抉ら
れてもいない。
エステルは目を丸くした。ゾイドを銃で狙い撃つなら、最低でも対ゾイドライフルを使
わなければ話しにならない。威嚇とは言え,それすら使ってこないというのはセオリー無
視どころの話しではなかろう。連中は物資がないか,そうでなければどうしようもない只
の素人だ。
「……ギル,気分は?」
話しを振られた愛弟子の答えは一つしかない。
「大丈夫です。我慢できます」
エステルはギルガメスの表情をモニター越しに確認すると,一安心した様子で微笑んだ。
多少無理はしているようだが,今までの戦いと比べたら遥かに落ち着いている。
「このまま待機しましょう。あっちが本当に素人なら,調子に乗ってどんどん近付いてく
るわ。そうしたら……」
連中を岩山もろとも飛び越える。あとはレアヘルツの危険区域ギリギリまで一気に近付
いて,ビークルで侵入だ。そうなってしまえば機動力で劣る連中は簡単には引き返せまい。
果たして光点は、彼女が話している間にもふらふらと近付いてきた。皆がモニターを,
ウインドウを凝視し、レバーを握り始めたその時。
不意にぐらぐらと,地響きが聞こえてきた。
地震かとギルガメスは訝しんだが,そうでないことは鳥瞰図がはっきりと示していた。
竜達三匹と村人らしき歩兵との間に広がる平地の部分に,うっすらと浮かび上がった赤い
輝き。徐々に色濃くなると共に,平地にくっきりと地割れが走った。
「先生! これ、まさかゾイドの熱源……!?」
「そのようね。地中を掘り進んでるみたいよ」
めきめきと音を立て,岩盤が隆起。そして砕けた。揺れは激しく、さしもの三匹も身構
え、踏ん張って転倒を防ぐ。竜はビークルをがっちりと握り締めたが、その中でさえエス
テルの身体は派手に揺れた。……揺れながらも彼女はモニターを凝視し、この唐突な闖入
者の観察を止めない。
もうもうと撒き上がる埃。粉々になった岩盤が辺りに飛び散り、現れ出たのは漆黒で塗
り固められた竜の頭部だ。だがその大きさたるや、上下の顎だけで深紅の竜の胴体程はあ
るだろう。びっしりと並んだ牙に至っては一本一本が爪の長さに匹敵する。
ギルガメスは勿論、彼の味方達もこの竜の頭部に既視感を感じていた。真っ赤に輝く眼
差しを分厚いガラスが覆い隠した風貌たるや、かの深紅の竜にそっくりではないか。
深紅の竜にそっくりで且つ、胴体並みはある頭部。そんなゾイドがいるとするなら、ギ
ルガメスがハイスクールの授業で勉強した「あれ」しか考えられない。
「デスザウラー!? なんですか……?」
「デスザウラーよ。はったりでも何でもない、正真正銘。
何でこんなところにいるのかわからないけれど……」
漆黒の竜の頭部は両陣営に牽制でもするかのように、きょろきょろと周囲を見渡した。
丁度時を同じくして。
岩山の連なりだけを見ればギルガメス一行の現在位置と大差ない風景が、ここにも広が
っていた。
その隙間を縫うように,一匹の二足竜がトボトボと歩く。炎掌竜アロザウラーの白き装
甲は長旅故かすっかり薄汚れていた。
突如,銃声が鳴り響いた。薄汚れた二足竜はそれに反応することもできない。銃弾は対
人用だったようで,二足竜の鋼鉄の肉体は傷一つ着かない。だが甲高い金属音が反響する
と,二足竜はそれきりピタリと,歩行を止めてしまった。
二足竜はおもむろに腹這いになった。下顎まで地面に着けると上顎を覆う曇りが駆った
キャノピーが開く。中から現れた男も又いつも通り白い功夫服を身にまとってはいたが,
すっかりよれよれだ。上顎が左に傾き,それと共に男は飛び降りた。蒼白の頬には生気が
まるで感じられない。やがてふらふらとよろめき,倒れ込むように土下座した。
「盗賊の方,どうかご堪忍下さい! 私めは無一文の身。
既に食料も尽き,これなるゾイドまで奪われてはどうすることもできません……」
男の声が辺りに響き,静寂に呑み込まれた。しばしそれが続いた後,岩山の上から何人
か滑り降りてきた。十を構えたまま男の前に一斉に群がる。皆,ボロ切れをまとい顔や頭
をタオルで覆い隠している。
「盗賊ではない,安心なされよ。
それより、ここが何処か承知しているな?」
一人の問いかけを受けて,男は顔を見上げた。長い頭髪に隠れてはいるが,額には大き
な十字傷がついているのが確認できる。
「もしや……もしやここが『忘れられた村』への入り口……!?」
「そう、その『もしや』だ。
貴殿も刻印がもとで迫害を受けたようだな……」
男は感極まって泣き崩れた。
「はい……はい,左様でございます。
額に刻印が浮かび上がってからというもの,周囲は私を化け物扱い。
額を傷つけ掻き消しても化け物扱いは止まず,ここまで逃げてきた次第にございます……」
「あいわかった。表を上げられよ。
我らは刻印がきっかけで迫害を受けた者を受け入れる準備がある」
「ははっ、ありがとうございます……」
男は狂喜し,一目もはばからず泣き続けた。
向こうで,地響きが聞こえた。それと共に,とある岩山の壁面がふすまのように開かれ
ていく。中には,これが大自然の中に隠されていたとは到底考えにくい,金属の光沢で彩
られた床や壁が広がっている。この薄暗いが艶やかな地下道路はアロザウラー程度の体格
なら一度に二、三匹は侵入できる規模の代物だ。
数人が先導し,二足竜が後に続く。
上顎のキャノピー内では功夫服の男……水の軍団の刺客・拳聖パイロンが泣き顔のまま、
内心してやったりとほくそ笑んでいた。
(卑しいものだ,迫害された者のみを受け入れようとするから付け入る隙を与える)
男は足下を見遣る。……中身の詰まった麻袋が一枚。表面が脈動している。
(エクスグランチュラ72共よ,行け)
声は全く聞こえないが,麻袋の中身は十分,呼応した。拳程もある蜘蛛がたちまち数十
匹もワラワラと這い出してきた。キャノピーの隙間をくぐり抜け,二足竜の身体を伝って
地面に降り立っていく。
キャノピー内のモニターには無数の光点が散らばっていった。不思議なもので,鳥瞰図
は現在地点付近しか映し出さない。これもレアヘルツの効果か,それともこの薄暗い道路
の壁面を構成する金属故か。
(それもこれも,我々が出口に到着すれば解決することだがな)
蜘蛛のある一匹は,二足竜の後ろ姿を追いかけるように立ち止まった。他の数十匹は群
れと悟られぬように散開している。だが数百メートルも二足竜が進んだ頃には再び別の一
匹が立ち止まった。まるで、目印をつけるかのように。
奇妙な動きをする鋼鉄の蜘蛛達。拳聖パイロンの秘策は一体?
(第二章ここまで)
残り21kbか・・・
【第三章】
ギルガメス一行と謎の歩兵達との間に割って入るように、地の底から現れた漆黒の竜デ
スザウラー。かつてのゼネバス帝国、ガイロス帝国では聖獣として祀られたこのゾイド、
「最後の大戦」決着と共にヘリック共和国軍によってことごとく安楽死させられたとされ
ている。
だからこそ、何故こんなところに現れたのかがわからない。
ヒムニーザは金髪を掻いて唸った。
「フェイ、俺は外様だが一応はガイロス国籍ってことになってる。どういうことか説明し
てくれねえか」
質問された本人もお手上げの様子だ。
「馬鹿を言わないでくれよ。デスザウラー一匹確保できただけで、祖国の技術力はどれだ
け跳ね上がると思ってるんだ? そうなったらブレイカーを拉致しようなんて、考えもし
ないよ。
そんなことより、もっと大事なことがあるんじゃあないの?」
フェイの質問返しにヒムニーザは今一度、モニターの先にうごめくゾイドを睨まざるを
得ない。
「ああ、そうだな。こんな訳のわからんゾイド、一体誰が操ってるのか……
エステルさんよ、あんたの見解は?」
「今、連中が教えてくれるわよ」
彼女はそう呟きながらビークルの座席に深々と座り込んだ。両腕君で余裕綽々。只、眼
差しは厳しくモニターを見つめている。
(殺気が、感じられないわね……おや?)
ビークルがブレイカーの巨大な爪で囲われているのにリアルタイムで映像を見ることが
できるのは、このゾイドが目にした映像を受信しているからである。映像はエステルに奇
妙な印象を与えた。乱れなどは特にないが、やけに左右に傾くのだ。
「ギル、画像がさっきからフラフラ傾いてるけれど大丈夫なの?」
「わかりません。只、さっきからシンクロが妙な感じで……」
こちらはちゃんと画面が動かずに表示されたギルガメスも、首を捻っている。
「妙な感じ?」
「はい、なんだか落ち着かないんです。ブレイカーが戦う気分じゃないみたいな……」
師弟が話し合っていると、不意に傾きっ放しの映像が固定された。視線は一歩下がり、
岩山の頂上付近を映し出した。
岩山ではボロ切れをまとった者達が何人か、身を乗り出してきた。エステルは首を捻っ
た。連中は、彼らにとって唯一に近い「地の利」を否定する行為を何故あっさりやっての
けてしまうのか。だがそんな疑問は連中の口走った言葉によってあっさり氷解した。
「デッちゃん! メナー先生! 邪魔するのは止めてくれ!」
漆黒の竜に与えられた愛称に、さしもの「蒼き瞳の魔女」も吹き出すのを余儀なくされ
た。デスザウラーだからデッちゃんなのか。随分と親しみ深い聖獣もいたものだ。
デッちゃんと呼ばれた漆黒の竜は岩山に向けて威嚇するように大きく顎を開くとひと咬
みした。それだけで、辺りの空気が痺れるように震えた。岩山の連中もギルガメス達も一
斉に耳を塞ぐ。
「馬鹿者、お主ら狭量にも限度というものがあるぞ」
音声は漆黒の竜の頭部から響いてきた。一喝を済ますと同時に、竜はゆっくりと、首よ
り舌を地面から引っ張り上げた。……その巨体とは裏腹に、まるで蛇のようにしなやかな
動き。全身を包み込む装甲も蛇やトカゲのようにウロコが幾重にも連なり、柔らかな印象
を与える。一方で手足の爪は金属の光沢で鈍く輝き、やはりこの竜も戦闘機械獣ゾイドの
一種だと伺い知れる。
やがて陽射しに晒された巨体。ギルガメスは溜息を漏らした。竜の頭部を目線で追って
いくうちに、全方位スクリーンの天井付近まで見上げていた。すぐに首を下げてみたら映
し出されたのは腹部辺り。どうやら竜の体格は相棒の倍程もある。
漆黒の竜は猫背気味の姿勢からおもむろに腹這いへとなった。それと共に頭部を覆う装
甲が鼻っ柱を起点に二枚貝のように開いた。
中からひょっこり顔を出したのは頬のこけた老人だ。毛糸の帽子を被り、地味だが清潔
な茶色のセーターを着用。膝上にはカーキ色のトレンチコートを被せて暖をとっている。
この老人の相棒が頭部の左側面に手を添えると、ゆっくりだが比較的しっかりとした動作
でコクピットを跨ぎ、乗り移った。
老人はコートを翻すと深紅の竜をじろりと見上げた。温和な表情だが、眼光の鋭さ加減
はかの女教師に勝るとも劣らない。少年は目を見張った。見るからに戦闘とは無縁な風体
でもこのような眼差しを放つことができるのか。
一転、老人はにっこり微笑むと言葉を紡いだ。
「魔装竜の主人よ、良かったら少しだけ、君の相棒のわがままを聞いてみては如何かね?」
話しかけられた当人は目を丸くした。会話を切り出されることも想定はしていたが、内
容はその範囲を越えていた。
「エステル先生、あのおじいさん、ああ言ってますけど……」
「殺気は感じられないわ。私が注意してるから……」
深紅の竜はビークルをそっと地面に置いた。機上のエステルは岩山の方をキッと睨みつ
ける。牽制の眼光は効果十分、ボロ切れをまとった連中はそれだけで足下がすくんだ。
ギルガメスは師の安全を確認してから、両手をレバーから離す。するとどうだ、相棒は
小走りに駆け出した。目標は腹這う漆黒の竜。岩山から聞こえるどよめきを余所にピタリ
と左側面に着けると、ピィピィと甲高く鳴いて、漆黒の竜の眼前に鼻先をしきりに近付け
てきたではないか。
二匹の竜はまるでつがいか親子であるかのように意気投合した。互いの鼻先を、頬をこ
すりつけ合う。しかし哺乳類なら仲睦まじい光景もやっているのは金属生命体だ。まるで
激しい格闘戦のような轟音が辺りに響き渡る。師弟も仲間も、岩山の連中も一斉に耳を塞
いだ。
只一人、漆黒の竜の主人らしき老人だけは手の平の上でからからと笑っている。
「姿かたちは違えどもゾイドじゃのお。遺伝子同士は惹かれ合うようじゃ」
エステルは轟音の中でも老人の言葉を聞き逃さなかった。ゾイドについて、それなり以
上に知っている。烏合の衆を一喝した人となりと言い,様々な話しを切り出すに値する相
手だ。
一行はこの不思議な老人と彼の相棒……「デッちゃん」こと漆黒の竜デスザウラーの後
に付き従うこととなった。
最初に案内された岩山の連なりは、一見して先程までと大差ない風景に見えた。ところ
が漆黒の竜が正面に立つと、突如鉱石を引きずる音と共に、岩肌がふすまのように切り開
かれたではないか。
ふすまの向こうはどっぷりと深い暗闇が広がっている。覗き込み目を凝らすと、壁も床
も鋼鉄で覆われた廊下が緩やかな下り坂となって、奥まで続いている。深紅の竜どころか
かの「デッちゃん」も背を屈めさえすれば楽々と進める廊下だ。Zi人如きが一目で視界
に収められる筈もない。
漆黒の竜は目を眩しく輝かせ、ゆったりとした調子で闇の奥を先導する。そのすぐ後を
深紅の竜が鴨の雛のように小走りで追随。珍妙な後ろ姿を、残るビークルと二匹の主人が
苦笑しながらついていく塩梅だ。スピーカーに届く笑い声にギルガメスは少々むっとした
が、この見かけによらずシャイな相棒の心情を考えたらやむを得ないと思っていた。
さて目前の光景に対して、ギルガメスは強い既視感を抱いていた。如何にも第二第三の
竜や魔女が眠っていそうな得体の知れない雰囲気が奥から伝わってくる。もう二年程も昔
のことだが、レヴニア山脈の地下深くに眠る遺跡での出来事が記憶の底から甦るようだ。
不意に全方位スクリーンの左下にウインドウが開いた。SOUND ONLYの表示と共に、
老人が話しかけてきた。
「タリフド山脈の地中深くには、この手の地下通路が幾重にも張り巡らされておる。壁面
はレアヘルツも完全遮断する未知の金属製じゃ。もっとも、全貌は儂とてまだまだわから
ぬことだらけじゃがのう」
ウインドウが開いていたもののすぐ右隣りにも追加された。エステルの表情が映し出さ
れる。
「村の人達は、自由に行き来しているのですか?」
「自由というわけにもいかんよ。これだけ広ければ簡単に迷う。
それに、ゾイドなしでの移動は厳しかろう?」
もっともな話しだ。だがと、エステルは思った。彼女が眠っていたレヴニア山脈の遺跡
には移動用のビークルを始め、様々な設備が整っていた。それらが動いていない(少なく
とも活用されていない)ということは、設備の大半が眠っているか死んでいるかといった
状態ではないだろうか。
ゾイドでの歩行とは言え一時間か、そこらか。それ位は歩いた末、ようやく登り坂を歩
き始めると、前方より扉を開く地響きと共に、太陽光の眩しい差し込みが届いてきた。
再び陽射しを浴びた一行は次々に溜息を漏らした。緩やかな斜面がふもとまで行き着く
と辺りには民家が密集しており、それを輪で囲むかのように麦畑が広がっている。その又
更に外周は一面の荒れ地だ。麦畑だけでも人よりは大きな3S級ゾイドが散見できるから
相当な規模だ。更に荒れ地を耕したら結構な農地に化けるであろう。惑星Ziにおいては
農地確保が深刻な問題であることを考えると、この辺り一帯は絶大な可能性を備えている。
何しろ邪魔となる野生ゾイドは、レアヘルツのおかげで一切侵入できないのだ。
老人の住居は集落から大きく外れた荒れ地に構えられていた。古びた木造の一軒家だ。
すぐ近くに漆黒の竜がうつ伏せに丸く寝そべった。それを見た深紅の竜も丸まり寄り添っ
たものだから、さしものギルガメスもコクピット内で溜め息をついた。ゾイド相手に嫉妬
するというのは余り覚えのない経験である。
住居内に案内された一行。玄関をくぐり抜けると応接間が広がっており、中央に長机と
ソファが設置されている。ソファには師弟が着席。残り三人はすぐ後ろで折り畳みの椅子
が用意された。鉄格子で覆われた窓の外にはすっかりおとなしくなった竜二匹が見える。
奥から出てきた老人は人数分のティーカップを盆に乗せてきた。立ち籠める湯気。女性
陣二人は匂いを嗅いで男性陣に安全を知らせる目配せをした。それ自体は誠にさり気ない
仕草であったが、老人は察しが良かった。
「さっきのようなことがあっては疑われてもやむを得まいな。申し訳ない。
自己紹介がまだじゃったな。メナーと申す。少しは、学問の心得があるつもりじゃ。
ギルガメス君、君の活躍は儂もテレビでよく見ておるよ」
それを聞いて、少年の表情は幾分晴れた。深々と頭を下げる。
「あ、ありがとうございます!」
「儂でも知っている上に将来有望な君が、こんな僻地の『忘れられた村』を訪れたという
のか……」
「それは……」
ちらり、左隣りに座るエステルの様子を伺う。彼女は力強く頷いた。メナーと名乗った
老人は察しも良ければ度量もある。様々な疑問をぶつけても問題はなかろう。それに、彼
女は愛弟子が自ら説明しようという意志を抱いていることが嬉しくもあった。
女教師の頷きを確認して、少年は改めて畏まる。
「メナーさん、僕は……『刻印』のことが知りたくて、ここまで来ました」
ギルガメスは過去の出来事を話し始めた。……ジュニアトライアウトを不合格になった
こと、家出してレヴニアまで辿り着いたこと。ブレイカーとエステルに出会ったこと、今
は追われている身であること。決してしゃべることの得意ではない少年が懸命に、言葉を
選んで語り続けた。ゾイドバトルのように体力を消耗するわけでもないのに、いつしか額
には汗を浮かべていた。
一部始終を聞いたメナー老人は腕を組み、考え込んだ。辺りに重苦しい雰囲気が漂う。
「……儂の、若い頃の話しを少ししよう。今から五十年以上も昔の話しじゃ」
老人はティーカップに手を触れた。濃い紅色の茶に映り込む眼差しに、遠い過去の記憶
が見えるのか。
「新米の科学者に過ぎなかった儂は、Zi人の進化について研究を続けておった。
儂らの先祖に当たる古代ゾイド人は、刻印を使ってゾイドとシンクロすることができた。
究極的にはコクピットなど使わず、思うがままにゾイドをコントロールできたのじゃ。
現在の我々Zi人は、刻印を持たない。何故かはわからぬが、退化してしまったような
のじゃ。
しかし、Zi人がゾイドとの共生なしに、ここまで文明を発達できなかっただろうこと
は間違いあるまい。そこで我々の体内に眠る刻印を呼び覚ますことができるなら、今まで
以上の発展が望めるのではないか……そう、儂は考えていた。
じゃが当時は『最後の大戦』の真っただ中にあった」
当時、民主主義による天下統一を目指すヘリック共和国と諸外国との戦争は激化の一途
を辿っていた。所謂「最後の大戦」である。
惑星Ziにおける戦争は、ゾイドの開発競争でもある。だが行き過ぎた開発は、しばし
ばZi人の手に余るゾイドを誕生させた。それが原因で多くの国家が滅亡した。共和国で
さえもそういう危機を何度も被ってきた。
「そこで誰かが考えたのじゃ。必要なのは最強のゾイドではなく、どんなゾイドでも完全
に制御し、極限まで能力を発揮できる『最強の兵士』ではないか、とな。
儂らは共和国軍に徴用された。一刻も早く刻印の力を呼び覚ます方法を見つけ出せ、見
つけ次第兵士に適用し、最強の兵士を作り上げろ。……それがお上の厳命じゃった。
お恥ずかしい話しじゃが、悪い気はしなかった。環境は良かったよ、予算など学府の何
倍も用意されたしの。それに、儂らが頑張って最強の兵士を作り上げることができたなら
戦争は早く終わるとさえ、考えていた。
……そちらの金髪の方。貴方、人造刻印が額に埋め込まれてるね?」
尋ねられたヒムニーザはハッとなって額に手を当てた。
「これがわかるのか、爺さん……」
「大体の理論はその頃出来上がっておったのじゃよ。手術痕に気付けば見ただけで、わか
る。こういう人工的な方法も多数、模索されておった。
しかし幸か不幸か、研究半ばというところで『最後の大戦』は終わった。
戦争が終わるとお上は手の平を返した。刻印に関する研究は隠匿された。儂らの生命こ
そ保証されたものの、研究は共和国政府の厳正な監視下に置かれることとなった。……何
故じゃと思う?」
ギルガメスは首を傾げつつ、呟いた。
「やっぱり……危険な力だと判断したからですか?」
「まあ誰もがそう考えるところじゃろうな。刻印を持つ戦士はそれだけで十分、脅威じゃ。
しかし実際はそれだけでは済む話しではなかった。
共和国政府は、民主主義が根本から揺らぐのを恐れていたんじゃ」
もしZi人に「ゾイドとシンクロできる者」と「できない者」の二種類が存在すること
を共和国政府が認めてしまったら、身体の特徴・能力などによる決定的な差異が存在する
ことを認めることになる。Zi人にとってゾイドは切っても切り離せない関係にある以上、
この差異を黙殺できる者はそう多くあるまい。
「連中は打てるだけの手を打った。
既に刻印の力を備えていると看做された者は幽閉され、極秘裏に始末されていった。
ゾイドウォリアーを志願する学生にジュニアトライアウトを課し、試験用のゾイドに封
印プログラムを仕込んだのもこの頃じゃよ。刻印が覚醒する可能性のある者は、大概ゾイ
ドを操るのにも手慣れておる。ウォリアーなど最高の職業じゃろう。そこで志願者の中で
引っかかった者を「不合格」に処した。一方、学生でなくとも受験できる通常のトライア
ウトは志願者にゾイド持参を義務づけさせる。こうすることで長期間、若者をゾイドから
遠ざけさせて覚醒を妨げたのじゃ」
師弟は顔を見合わせた。リガスの村で封印プログラムを施されたゾイドに出くわした時、
エステルが立てた仮説はこれではっきりと裏付けされたことになる(第十五話参照)。ギ
ルガメスがジュニアトライアウトを不合格に処されたのも共和国政府の仕組んだ段取り通
りに過ぎなかったのだ。
「流石に儂は行き過ぎを感じた。国民に何も知らせず、訳のわからない理由で始末された
り、将来を閉ざされたりしてしまうのじゃからのう。何か行動に打って出なければいけな
い、そう考えたのじゃが……決意は簡単に折れた」
そう呟くと、メナーは被っていた毛糸の帽子に手をかけた。
するりと降ろされた帽子の下には禿げ上がった頭頂と、額に巻かれた包帯が露になった。
メナーは更に包帯をほどいた。その下には鋭利な刃物で斬り付けたような傷が幾重にも刻
まれているではないか。
「何度傷をつけても、ゾイドに接すると浮かんでくるようになった。罰が当たったんじゃ
なぁ……」
一同は息を呑んだ。中でもギルガメスは素っ頓狂な声を上げた。
「浮かんだんですか!? 何故……」
「全てのZi人に刻印が覚醒する可能性があるかどうか……そこまではわからん。じゃが、
少なくとも儂には可能性があって、それが目覚めてしまった。
何しろ儂は研鑽を積んだ学問の性質上、沢山のゾイドを乗りこなしてきたからのう。ギ
ルガメス君、君のようにジュニアトライアウトを志願する学生とそう大差はないよ。後は
切っ掛けだけじゃ」
ギルガメスは嘆息を漏らした。……何故自分の額に刻印が浮かんだのか、全て理解した。
理解した上で、自分の思い描いた夢に、歩んできた道に掛けられた「業」の鎖が、今やも
がいても決して振りほどけぬ位に彼を雁字搦めにしている事実に対し、投げ掛けるべき視
線の種類がわからなかった。ジュニアトライアウト合格のために奮闘したこと、不合格に
諦め切れず家出したことは、かけがえのないゾイドと大切な女性に出会う切っ掛けとなっ
たが、同時に生涯決して終わらぬだろう修羅の道に足を踏み入れた挙げ句、とっくの昔に
後戻りできぬところまできてしまったのだ。
メナーは今一度ティーカップに口をつけ、喋るのを休めた。心なしか、カップの中を覗
き込む時間が長くなっている。
「逃げ出した儂は流れるまま流れてタリフドに辿り着いた。自暴自棄のままタリフド山脈
を徒歩で登り、遭難した儂を救ったのが『デッちゃん』じゃった。あの子は儂を古代ゾイ
ド人の遺跡に、そして山脈を越えたこの辺り一帯に案内してくれた。ここには儂同様に刻
印が覚醒してしまい、さまよった挙げ句ここに流れ着いた者がいたんじゃ。
それで儂は決心した。生きている限り、この地に留まって儂ら同様に政府から逃げてき
た者を受け入れていこうとな。
さて最初の十数年ばかりは辿り着いてきた者もそこそこ、おった。じゃが、それも徐々
に減っていった。幸か不幸か、政府が芽をことごとく潰したおかげで、刻印の覚醒した者
自体、減少していったようじゃ。いつしか刻印は架空のものと看做されるようになった。
……ギルガメス君、君が刻印を開けっぴろげにしても誰も問題にしないじゃろう? もっ
とも、先程の馬鹿者どもはそれが我慢ならなかったのじゃろうが……」
少年は頷いた。彼の刻印はファンの間ではちょっとしたはったりと認識されている。地
方によってはこれによってヒーローとも、又悪役とも扱われるわけである。裏を返せば
Zi人にとってそれだけ刻印が縁遠い存在になったのだ。迫害を知っている者からすれば
妬ましい話しかもしれない(何より、彼は成功者なのだ)。
メナーが一息入れたところで、挙手した者がいる。ヒムニーザだ。
「気になることがあるんだが、良いか?
爺さんの話しの中に、出てこなかった奴がいる。……ドクター・ビヨー、爺さんはこい
つについて何か知らないか?」
彼の言葉に、老人の眼差しは見開かれた。
「ビヨーは、儂の弟子じゃ」
老人を除く五名は一斉に互いの顔を見合わせた。騒然たる雰囲気は老人も容易に察した。
「有能じゃった。儂がこのようなことにならなければ後継を任せるつもりじゃったよ。
……成る程、ビヨーがお主の額に人造刻印を埋め込んだわけか」
「五年程前、俺は東方(大陸)の共和国軍で雇われていた。負傷した俺に、軍の研究者だ
った彼奴が話しを持ちかけてきたのさ。無料で、しかもブロックス一匹のおまけつきさ。
なあ、妙な話しじゃあないか? 爺さんの話しだと共和国は刻印の存在をこの世から抹
消したがっている。だが共和国内には、ビヨーみたいな奴も平然と活動しているんだぜ?」
応接間は再び静まり返った。……メナー老人の話しだけなら状況は案外シンプルだ。極
端な話し、共和国は「刻印が目覚めた者は皆殺し」を目指している。しかし共和国内では、
刻印絡みの研究を積極的に押し進めているドクター・ビヨーが暗躍しているのだ。相反す
る二つの思想が並立する理由は何なのか。
「ひょっとして……共和国の上層部は分裂状態にあるのかもしれないわね」
エステルがいつものように右手で頬杖をつきながら呟く。隣りのギルガメスは彼女の思
慮に期待した。
「どういうことなんですか?」
「簡単よ、連中は刻印の扱いを巡って二派が対立しているのよ。メナーさんの話しを念頭
に置くなら刻印『皆殺し』派と、ビヨーが属する刻印『利用』派ってところ……ああ、も
しかしたら!」
エステルは不意に頬から手を離した。
「『某国の』……」
「『B計画』!」
ギルガメスが、他の者が一斉に声をついた。「某国のB計画」かつて少年に立ちはだか
った水の軍団の刺客が皆、口にした言葉だ。連中は少年らを葬らなければ阻止できないと
言っていたではないか。
「つまり上層部の分裂を隠さなければいけないから『某国』と伏せられたわけですか……」
「そう。分裂が発覚したらそれだけでもまずいし、『何が原因?』という話しにも及ぶわ。
……刻印の話しは、ばらせないでしょう?」
ギルガメスは腕組みして頷いた。自分が何故ここまで追い立てられるのか、腑に落ちな
い部分が大分落ちた思いだ。追跡者は余りにも強大だったのだ。だがそうなると、ますま
すわからないことがある。
「じゃあ……B計画って一体何なんでしょうか。僕を捕まえて『B』みたいな変態女まで
駆り出してきて、おまけに水の軍団は何とかして阻止しようとしている。僕でなければい
けない理由って、一体……」
又、室内が静けさを取り戻した。面子は腕を組んだり頬杖をしたりして首を傾げる。そ
の間にメナーは目前のギルガメスに対しじっと視線を投げ掛けている様子だ。それに少年
自身が気付いた瞬間、老人は口を開いた。
「ところでギルガメス君。手洗いは、大丈夫か?」
「え? あ、あの……」
実のところ、全然問題はない。だがゾイドウォリアーが手洗いと言われて躊躇すること
はあり得ないだろう。試合中に催しでもしたら大変なことになるからだ。(もしかしたら
行った方が良いのかな?)そう、思案せぬわけがなかった。
「ギル、先に済ませておきなさい」
そこにエステルが追い討ちをかけた。それだけではない。
「フェイ、お前も大丈夫か?」
ヒムニーザが今まで話しの輪に入り辛くしていた弟分に切り出してきた。少年の背後で
はあからさまに目配せをしている。
「あ、ああ……ちょっと行きたいかなって考えていたところ。ギル兄ぃ、一緒に行こうぜ?」
「玄関を出て、ぐるりと一周すればあるからの。ゆっくり済ませてきなさい」
背丈の高いフェイに付き添われながら、ギルは玄関を出た。出ながら振り返り、エステ
ルに目配せする。女教師は笑顔で右手を振った。左手が背広のズボンを鷲掴みにしていた
のは少年には見えなかった。
足音を耳にした大人達は胸を撫で下ろす。やはり話しに入り辛かったスズカが(とは言
っても元々出しゃばるのを嫌う女性だ)耳を澄ませ、眉間に軽く皺を寄せる。
「大丈夫です。メナーさんの仰った方角へと向かってます」
「それは良かった。……エステルさん、すまなんだな」
メナーは軽く咳払いした。その僅かな時間の間にも、エステルは少々身を乗り出してい
た。両手で背広のズボンを鷲掴みにしながら懸命に自制しているのがはっきり見て取れる。
「お願いします。B計画とは、一体?」
「ビヨーが加担しているとするなら、B計画とは……」
手洗いはメナー宅の裏側、勝手口の隣りに設置されていた仮設トイレだ。ギルガメスも
遠征時にレンタルするので見覚えがある。「忘れられた村」と言われるだけあって、水道
などは引かれていないようだ。
そのすぐ近くで彼は背伸びをしていた。結構な時間、話しを聞いたから身体が凝った。
不意に手洗いの内側から、戸を叩く音が聞こえた。ギルガメスは早速寄ってみる。
「どうしたの、フェイ?」
「ごめん、もうちょっとだけ待っててくれよ。長旅のおかげで便秘気味でさー」
「構わない、ゆっくりでいいよ」
すぐに出て来れないとしたらどうせそんなところだろうと、ギルガメスは考えていた。
只、言い訳していた当の本人は便器(形状は地球の洋式便器とそう大差ない)に蓋をした
ままその上に腰掛け、じっと腕時計型の端末を睨んでいた。液晶画面には時刻が映ってい
る。五分か、十分か。それくらい引き延ばせば事足りるだろうか?
(悪いね、ギル兄ぃ。でも爺さんのあの様子じゃあ、結構厄介な話しみたいだぜ……)
まさか内緒で話しが進められているとも知らず、ギルガメスは小さな身体を持て余して
いた。ふと、今日はまだ剣の練習をしていないことに気が付いた(できる余裕はなかった
が)。彼は両手を握って柄を夢想し、縦に横にと振りかぶった。
そんな時、不意に額を衝撃が襲った。頭の奥で地響きするようだ。ギルガメスの足はも
つれた。
「何だこれ、朝の時より重いぞ……」
両手で頭を抑える。転倒しての強打は避けねばなるまい。片膝をつき、よろめきながら
うずくまった。
予定の時間を消化したフェイは慌てふためいた。トイレから出てみたらよもやギルガメ
スがうずくまっているなど、想像できる筈がない。