【第三章】
朝もやの中から突如仕掛けられた奇襲。今やパーティーのリーダーは両腕を拘束され、
背後からは鉄串の雨、真正面からは今まさにAZマグナムの餌食になろうとしている。追
随してきた少年二人も依然、逆襲の好機を見失ったまま。
「蒼き瞳の魔女」エステルには大きな誤算があった。銃神ブロンコ以下狼機小隊の面々
は、彼女が持つ古代ゾイド人の超能力を相当に警戒していた。そこでギル達パーティーの
数百メートル先で完全に気配を消してみせ、まず先手を取った。そして彼女に実力を発揮
させる機会を与えぬための「主従分身の術」。…敵と人畜無害な野生ゾイドとを見極める
方法は簡単だ。人が搭乗しているゾイドは野生ゾイドより体温が高い。しばしば必要以上
の運動を主人に要求され、又頻繁に意思疎通を計るからだ。これを逆手に取って相棒達を
野生ゾイドに偽装。ゾイドに乗らない不利をマグネッサージャケットで埋め、遂に魔女の
拘束に成功したのである。
ブロンコはゆっくりと、だが無駄のない動作でAZマグナムを構えんとする。ゾイドを
も屠るこの武器最大の欠点は、破壊力がもたらす莫大な反動。だから仁王立ちし、深呼吸
と共に姿勢を整える。それで何の問題もない、惑星Ziの平和を脅かさんとする邪悪な魔
女の命運は彼と同志の手中にある。一方その姿を確認した四の牙マーガは鉄串の乱れ撃ち
を中止し、腰の筒に戻した。しかし気を抜いて手を離すような愚かな真似を見せる気配も
なく、右に数歩の摺り足はAZマグナムの射程から外れるため。
エステルは微笑み絶やさず、しかし凍てつく眼光も弱めず横目で周囲を伺う。
フェイはアイアンコング「ガイエン」の手中で一の牙デンガンの奇襲を凌いではいる。
しかしこの巨漢、美少年の相棒が何度残る左腕で払い除けようが蠅のごとく執拗にまとわ
りつき、スズメバチのごとく凶刃を振り翳す。間合いを確保すべく跳躍を試みたがそれは
すぐに不可能と悟った。相棒の手中で慌てて指にしがみつく美少年だが、それでも滅茶苦
茶に揺さぶられる。しかし頭部コクピットハッチを開こうとすれば、巨漢の凶刃に加えて
彼の相棒ソードウルフ「アルパ」が遠方から正確に砲撃。決断を渋る内にも砲撃の五月雨
は着々と彼らの動きを殺しに掛かっている。
不肖の弟子に至ってはどうにか胸部コクピット内に搭乗できたものの、二の牙クナイは
閉じ掛けのハッチに両腕をねじ込み潜り込まんとしている始末。内部に潜入されたら一巻
の終わりだろう。何しろかたや若いとは言えプロの暗殺者、かたや生身では完全な素人と
来た。そして浴びる砲撃はガイエン以上。二匹のコマンドウルフ「ゲムーメ」「ゼルタ」
の放つ砲弾が深紅の竜の背中を、足を嬲る。
その、不肖の弟子が血相変えて両足を踏み付けている。恐るべき刺客を追い出さんとせ
めてもの抵抗を試みるが、その内にふと、足に感じた鋭い痛み。…ざっくりと、両の脛か
ら開かれた傷口は暗い室内でも鮮やかな朱の色。声にもならぬ悲鳴を上げ、ギルは飛び退
く。クナイはしめたとばかりに両腕を室内に叩き付けた。あと数十センチ程も潜り込ませ
れば、彼の勝利はほぼ確定する。
恐怖に怯えるギル。迫り来る絶望に、堪え切れず両掌で視界を遮ろうとするが。
(落ち着きなさい、ギル!)
両掌の動きが止まった。指の隙間から現実を垣間見る。憧れる女教師が脳裏に響く。
(え、エステル先生!?)
(ギル、ナイフを使いなさい。一太刀受けたら大声上げて)
「流石に弟子の最期は気になるか」
ブロンコの低い声が、魔女のテレパシーに水を差した。…その効果に彼が気付いていた
ら、形勢は揺るがなかったに違いない。
「あの子は生き残るわ」
「ほざけ」
引き金に指を掛けた銃神。
ギルガメスは悲鳴を上げつつ、座席真下の蓋を開けて中をほじくる。何十枚もの着替え
やタオル、非常用のクッキーらの中に、それは隠されていた。ゾイド猟用のナイフ。少年
の、尊厳を証すもの。古びた鞘から引き抜かれた刀身は、暗いコクピット内をぼんやり照
らす程研ぎ澄まされている。写り込んだ己が身を睨み、整える呼吸。その間にも刺客の五
体は暗い室内にねじ込まれていく。完全に入り込んだ瞬間。
「死ねぇっ!」
(一太刀だ!)
目を細めたギル。彼にはそれで、十分だった。剣技は素人なれど、波の飛沫を斬る特訓
で必勝の技・魔装剣を会得した少年だ。
一呼吸も置かず振るわれた刺客の短刀。宿敵を惑わす考えなど微塵もない、クナイの狙
いは首筋一点。
だからこそ、暗い室内に谺した金属音。ギルの眼前で、見事に受け止められた刃。反動
は二人を襲ったが、ギルには次の一手が決まっている。
「今だ、ブレイカー!」
声を合図に、開かれたハッチ。放り込まれた鋼鉄の爪がよろめくクナイをむんずと掴む。
勝鬨上げる、深紅の竜。右腕を高々と翳せば、そこには捕縛されたクナイの姿が。
神機狼二匹の追撃が、止んだ。…止めるより他、ない。
「ば、馬鹿ぁっ! 砲撃、止めるな! 私が死んでも構わん、撃て、撃てぇっ!」
そんなことを言われても困るのが、主人の判断を仰げぬ今のコマンドウルフ達の心情だ。
止んだ砲声、飛び交う怒声。さしもの銃神もトリガーを引く指が止まる。
「何事…はっ!?」
怒鳴り付けんと横目で睨むブロンコだが、視界に飛び込んできたものは彼の想像を遥か
に越えていた。パイロットスーツを纏った少年が、唐突に朝もやをさえぎる。地べたに叩
き付けられる銃神。必殺の銃撃が虚しく天に放たれた時が反撃の合図。
「『ぶ、ブロンコ様!?』」
三人掛かりで魔女を拘束していた三人が素頓狂な声を上げる。驚愕は拘束を緩めさせた。
エステル、大喝。激しい息吹と共に、彼女の額に現われた刻印の輝き。空中より引っ張
り上げられていた両腕を伸ばせば、その方角に刺客二人が浮遊している。瞬時に放たれた
念力の標的は彼らの腹部。たちまち襲い来る激痛に、狂うバランス。ジャゼン、ザリグ、
墜落。川原に五体をしこたま叩き付ければ、刺客達も得物をその手から離さざるを得ない。
やはり必勝を帰していたはずのマーガも青ざめた。慌てて腰の筒から鉄串を放つがそれ
は無意味。既に身を捻り、両腕の拘束を解いたエステル。振り向きざま、後方の敵に向け
て両腕翳せば悪意の針、空中にて停止。もう一声、魔女が大喝すれば鉄串は押し返され、
本来の主人を襲う。これには乱れ撃ちの名手も即座に倒れ込んで回避するしかない。
エステルは返す刀で両腕を翳す。やはり危機の最中にあるフェイ達の方角だ。
ガイエンの指で組み上げられた壁に、依然斬り付けていたデンガン。その巨体がぐらり、
揺らいだ。魔女の念動力といえども遥か遠方の敵にそこまでの力を発揮はできないが、こ
のケースでは十分な援護射撃。小うるさい蠅を追い払うように、薙ぎ払われるガイエンの
左腕。どうにかかいくぐって姿勢を取り戻すデンガン。だが敵を守っていた筈の巨大なる
右拳も又、視界から消えている。…亀のように巨体を丸める鋼の猿(ましら)。遠方から
の砲撃には尻を向けて防ぎつつ、主人を頭部に近付ける。
(い、今のが…古代ゾイド人の念動力?)
猿(ましら)の指の隙間から一部始終を覗いていた美少年。だがそれに気を取られてい
る暇はない。転がるようにコクピット内へと乗り込む。
「よっしゃあ! ガイエン、たっぷりお返ししてやろうぜ!」
彼の檄に呼応して立ち上がる鋼の猿(ましら)。しかし今度は巨漢が姿を消す番。何処
にありやとキョロキョロ動く猿(ましら)の首。…それは隙だとばかりに乱射してきた遠
方からの砲撃で、巨漢の居場所は察知できた。腕を十字に構え受け止め、睨んだ方角には
赤い鎧を纏った狼が接近してくる。しかしながら一目散に猿(ましら)目掛けて襲い掛か
ったりはできないだろう。マグネッサージャケットで逃げ戻る主人の回収が先だ。
ならばと右肩の大砲を構えんとする猿(ましら)だが、闘志の爆発は中止と相成る。
「フェイ君、行くわよ!」
スピーカーから聞こえた声はエステルの、腕時計型端末から発せられたもの。一度は薙
ぎ払った刺客達に鋭い蒼き瞳を投げ掛け警戒しながら、後方のビークルまで急ぎ駆ける。
早速マーガが起き上がって鉄串を乱れ撃つが、それは魔女の予想通り。後方に手を翳し見
えない壁を作って弾き返すが、その最中に垣間見えた。…この刺客達の首領がよろめきな
がらも立ち上がる姿。鉄の意志で任務を遂行するブロンコならば、立ち上がるだけで済む
わけがない。両掌でAZマグナムを握り占め、問答無用に引いたトリガー。
ゾイドの装甲にさえダメージを与える兇弾と魔女の念動力のいずれが勝るか…興味深い
テーマは、しかしこの場で立証されることはなかった。澄んだ金属音と共に、二人の間に
割って入った果実のように赤い翼。
「ギル、ブレイカー、ありがとう」
深紅の竜が築き上げた文字通りの鉄壁は、魔女が余裕をもってビークルに搭乗するチャ
ンスを与えた。…それは彼ら主従の真価を導き出す上で格好の切っ掛けともなる。竜の胸
部コクピット内、全方位スクリーン上に突如映し出された魔女の…いや女教師の決意みな
ぎる表情、額にくっきり浮かんだ刻印の輝きは、不肖の弟子に奮起を促す。蒼き瞳と円ら
な瞳が視線を重ね合わせた時。
「例え、その行く先が!」
「いばらの道であっても!」
「『私は、戦う!』」
弟子の額にも浮かんだ刻印。全方位スクリーンを一層明るく照らす。
不完全な「刻印」を宿したZi人の少年・ギルガメスは、古代ゾイド人・エステルの
「詠唱」によって力を解放される。「刻印の力」を備えたギルは、魔装竜ブレイカーと限
り無く同調できるようになるのだ。
「ブレイカー、行くよ! 先生、しっかり掴まっていて!」
若き主人の声を合図にビークルを両腕に抱え、翼広げる深紅の竜。川原の砂利をぶちま
ける程の強い蹴り込みは憤激と、竜より小型ゾイド一匹分も離れた位置で昏倒から立ち上
がろうとする刺客の面々への追い討ちも兼ねた。
「ちょっとギル兄ぃ、待ってよ!」
遅れて鋼の猿(ましら)が続く。低く身を屈め、極端に長い両腕を後方に伸ばすその名
も「影走り」の姿勢に移行しつつ。
少年二人の脳裏には、既に奇襲に対する突破口は浮かんでいた。今まで彼らの後方に位
置付けていた二匹の狼…ジーニアスウルフ「ヴィッテ」とグラビティウルフ「プシロイ」
目掛けて突っ走る。ヴィッテは小柄な体格に相応しく竜の蹴り込みに反応、疾走の開始。
駿馬のごとく上体を持ち上げ、腹部から車輪を引き出したプシロイがあとに続く。
ばねのごとく跳躍したヴィッテ、腹部の車輪を猛回転させるプシロイ。天地双撃の猛攻
なれど、怯むことなく一層強く大地を蹴り込み、二手に別れる竜と猿(ましら)。弾ける
砂利をものともせず着地し、押し退けた狼二匹だが、着地点で後方を睨んだ時に後悔する
羽目となった。…一目散に駆け抜けていく深紅の竜。あとに続く鋼の猿(ましら)は疾走
しつつ半身を捻って左腕を伸ばしている。握られているのはいつもは右肩に載せた大砲だ。
数発の砲撃に足下をすくわれ、転倒する狼二匹。
さて狼機小隊の面々で最初に立ち上がったのは、ギルをあと一歩のところまで追い込ん
だ狂い眼の少年だ。瞳に映り込んだのは不甲斐無くも宿敵の放った牽制に這いつくばった
相棒らの姿。頬を烈火のごとく染め上げると、早速ゾイドに負けじと砂利を蹴り込む。
「おのれ、ギルガメス!」
「馬鹿者! クナイ、今その武装で追撃できるか!」
蹴り込みと共に腰のベルトに手を当てる。マグネッサージャケットを起動させんとする
クナイだったが、一時中断を余儀無くされた。傍らで膝をついたブロンコにむんずと掴ま
れた足首。AZマグナムを使いこなす握力にはさしもの向こう見ずな少年も抗い切れない。
「ならばヴィッテで、追います!」
「ブロンコ様、私も行きましょう」
傍らより届いたスピーカー越しの音声は赤い鎧の狼ソードウルフ「アルパ」から。巨漢
デンガンはどうにか相棒への搭乗を済ませ、追撃できる態勢にある。
「頼んだぞ、デンガン。我らも、すぐにあとを追う」
アルパの額・橙色したキャノピー越しに、敬礼を返す巨漢。早速の追撃開始だが、彼の
一番手は早々に奪われた。狂い眼の少年がマグネッサージャケットを使って向かったのは
相棒ジーニアスウルフ「ヴィッテ」の方角。早々に背中のキャノピーを開き、コクピット
に搭乗すると勇気百倍とばかりに遠吠えする緑色の忍狼。パイロットの存在がゾイドの精
神的支柱になるのはブロックスでも同様だ。たちまち開始した疾駆は先程までとは打って
変わった怒濤の勢い。先を行くアルパを早々に追い抜く始末。目を丸くする巨漢デンガン
だが、頼もしげに笑みを浮かべると自らも一層強く操縦桿を握り締める。
「全く、呆れたものだ。根性は大いに評価するが…」
両手をついて、立ち上がるブロンコ。たちまち視界から遠ざかった狼二匹の有り様に口
元が微妙な緩み方をする。
「あの坊主、いつもあんな感じか?」
「左様、生来の向こう見ず故、我らの手を焼かせることもしばしばでございます」
ブロンコに引き続き立ち上がったジャゼンの相槌。そこに割込んだのはザリグだ。
「しかしブロンコ様、彼奴の場合やむを得ぬ理由がございますれば…」
「ほう、理由とは?」
ザリグの話しに耳を傾けるブロンコら一同。
「面白い、チーム・ギルガメスを叩き潰すにはそれなりの動機がなければ勤まるまい。
彼奴の奮戦に期待しよう。我らもすぐに追うぞ! 惑星Ziの!」
「平和のために!」
砂利の飛沫を巻き上げながら、竜と猿(ましら)は緩やかな坂道を駆け抜けていく。左
右には防風林が延々広がり、そこに朝もやが絡み付き、かくて築き上げるは夢幻の隧道
(すいどう)。しかし山神の悪戯が潰えるのも時間の問題だ。空を見上げるまでもなく、
着々と周囲が明るくなっている。陽が昇った時にはこの鬱陶しい霞も晴れよう。
だが、心中に掛かった霞が全く晴れそうにない者も一名。
(これで…二度目だ)
右の親指の爪を噛むギルガメス。もし周囲が全方位スクリーンとコントロールパネルで
囲まれていなかったら容赦なく怒鳴り散らし、物でも投げ付けて八つ当たりしていた…そ
う考える程度には冷静だが、それで頭が一杯でもある。
狼機小隊の面々は、二度に渡ってギル達主従を完全に包囲し、奇襲を成功せしめたのだ。
何故そんな真似ができるのか。そう考えた時、疑わずにはおれない人物が一名いる。しか
もその者は、よりにもよって彼ら主従の背後を懸命についてきているのだ。
「…ギル兄ぃ、何か言った?」
全方位スクリーンに開かれた小さなウインドウ。疑われた本人の呼び掛けからは全く他
意を感じられない。が、ギルは声を鼓膜に届けるのを拒絶した。嘆息するフェイだが、相
手の気難しい反応が何を原因としているのか依然として思い当たらず首を捻ることしきり。
(出来過ぎだ! なんでこんなにあっさり追いつかれる? 包囲される?)
「二人とも、ごめんね」
ギルの思考を遮るかのように映し出された女教師の表情は、思い掛けず暗い。しかしそ
れは、生徒の苛立ちを一層かき立てるものだ。
「私の考えが甘かったわ」
「そ、そんなことないですよ、エステルさん! きっと悪い偶然ですよ…」
(君が言うか、君が!)
フェイの朗らかな声とは裏腹に、ギルの心の叫びがそのままエステルに伝わりはしない。
彼の刻印は不完全だ。
「アンチブルまであと三、四時間は掛かるでしょう。小休止する唯一の機会を失った以上、
もう到着まで走り続けるしかなくなった」
空のキャンパスに水色の絵の具が徐々に加えられていく。しかし皆の心を晴らすには至
らない。竜が、続いて猿(ましら)が土煙上げて急停止。足下を見下ろした二匹が唸る。
切り拓かれた防風林の向こうには、一面に広がる急傾斜。角度を目測しようとしたギル
はすぐに断念した。この頂上部から見ると辺り一面に森が生い茂り、その合間をぬって岩
山が不規則に点在している。複雑な地形に腹を立てる位ならさっさと下った方がましだ。
コントロールパネルを睨む女教師が安堵の溜め息をつき、しかしすぐ表情を引き締める。
「この辺一帯がリゼリアとアンチブルの国境よ。一気に下っていけば、遠からずアンチブ
ル国境警備隊の駐屯地に到着する。…もう一息だからね」
「は、はい!」
「はい…いや」
若き主人が返事するや否や、深紅の竜が身震いした。振動は竜が抱えるビークルにも伝
わり、女教師は慌てて操縦桿を握る。
たちの悪い悪寒の発信源は胸部ハッチ。竜は胸元を、女教師は頭上を覗き込む。
「先生は、先に行って下さい…」
全方位スクリーンの光源に照らされた少年の表情は険しい。が、一歩も後ろには引かぬ
強い決意を眉間の皺に滲ませてもいる。
「…ギル?」
「ギル兄ぃ、どうしたの…?」
「君は黙ってろ!」
不意の罵声に耳を塞ぐフェイ。怒りの振動はスピーカーを介して鋼の猿(ましら)の広
々としたコクピット内を反響させるに至り、この背の高き美少年はようやく目前の兄貴分
が見せる心の変調に気付いた。しかし彼も若者とすら言えぬ年齢だ。
「い、いきなり頭ごなしになんだよ! ひどいじゃないか!」
精一杯怒鳴り返すが、最初に怒鳴った方は寧ろ冷静だ。スクリーン上のウインドウに美
少年の表情を確認しても、表情を変えずにそれを消し、別のウインドウを開かせる。
「エステル先生、お願いです」
女教師は生徒が抱えた心の闇を察知した。しかしあっさり聞き入れる彼女でもない。
「理由、聞かせてくれないかしら?」
溜め息は流石に漏れた。しかしそれ以上は努めて表情を変えず、極力穏やかに問い掛け
てみる。生徒にはそれが悔しい。舌打ちしつつレバーを握り締め、相棒に気持ちを伝える。
竜のか細い鳴き声からは困惑の表情がありありと伺えたが、しかしこの相棒も又意を決し
た。ゾイドにとって、主人こそが世界の全てだ。
左の翼を広げる深紅の竜。内側から双剣を前方に展開させるとそれを翻すように伸ばし
てみせる。その先に見えるのは…。
「な、なんだよ兄ぃ!? 何の冗談だよ!」
竜の翼は後方に向いた。刃の切っ先は猿(ましら)の鼻先に突き付けられている。
「いい加減正体を表せよ、水の軍団」
美少年、絶句。何かしら、疑われることはあると踏んでいたが、これは青天の霹靂に等
しい。そもそも彼が獣勇士筆頭レガック・ミステルより授かった任務はチーム・ギルガメ
スを護衛することにあるのだから、彼の使命感は根底から揺さぶられた。
「何で二度も、あっさり包囲される? 簡単な話しさ、手引きする奴がいるからだ。
さっさと蹴りをつけようじゃないか。三度も囲まれるのはごめんだ」
「ギル、ちょっと待ちなさい! 貴方、自分で何を言ってるのかわかってるの!?」
竜の掌中で発せられた女教師の怒鳴り声は打ち震えている。もし彼女が武芸百般など縁
のない只の女性ならば、きっと慟哭している。
フェイはモニター越しにまじまじと、刃の切っ先を見つめていた。だがふと、がっくり
項垂れ、寂しげな笑みを浮かべる。荼毘に付される肉親の亡骸に別れを告げるように。
鋼の猿(ましら)が真後ろに振り返った。さっきまで、駆け上がってきた川原の方角だ。
隙だらけの姿勢に、さしものギルも緊張がやや弛んだ。小首を傾げ、相手の次の一手を
予測しようとするが、それは全く無用だった。
鋼の猿(ましら)はそのまま右腕を持ち上げる。左右に振ったのは別れの合図。
「フェイ…?」
「さよなら、兄ぃ。短い間だけど、楽しかったよ」
もっさりした動作で踵を返す鋼の猿(ましら)。しかしそれは、後ろ足でのみ地面を踏
み締めているから。一転、両腕を足下に叩き付けるとたちまちできた砂利の噴水。それを
合図に、猿(ましら)は今来た道を下っていく。
ギルは心の準備が既にできていたつもりだ。相手とは至近距離だ、打ち合いより殴り合
いで戦闘開始だ、初手は右腕か、左腕か、こちらから先手を取れるか、取れるなら翼の刃
か、爪か、蹴りか、尻尾か…。しかし全く予想だにしていない一手を、今目の当たりにし
た。レバーを握る掌が汗で滲み、力んだ肩が心臓をも圧迫するが、緩めることができない。
「…ギル、先に行ってなさい。ブレイカー、離して」
少年の呪縛を解いた、女教師の一声。ハッと気が付いた深紅の竜。ビークルを握る爪の
握力を緩めようとするが、それは中途で停止。体内に走った微弱な電流が許さない。
「せ…先生!? 何処に行くんですか!」
竜の胸元が開く。中から現れた生徒の形相をまじまじと見つめた女教師。刻印輝く己が
額に指を当て、一際深く嘆息。
「決まってるでしょう? あの子を連れ戻しに行くわ」
「先生、彼奴は水の軍団の…!」
「証拠は?」
言い放った女教師の蒼き瞳が突き付けられた時、生徒は気付いた。微かに潤んだ瞳の輝
き。眼光で射抜かれると覚悟していた彼だが、罪悪感はその苦痛を遥かに上回る。
「でも…二回も、ですよ。こんなにあっさり襲撃されたら…」
「回数の問題なの? じゃあ私やブレイカーは当然、水の軍団ね?」
「そ、そんなこと…!」
「自分の顔を、鏡で見なさい」
竜に微笑む女教師。気付いた竜はハッとなって握力を解いた。
猿(ましら)のあとを疾駆するビークル。しかしギルはそれを目で追う余裕すらないま
ま暫し呆然。…ふと、雲間から差し込んできた暁。思わず手をかざしうつむいたが、その
時彼は見た。目前のコントロールパネルのメタリックな質感。そこに映り込んだ己が容貌
のぶざまなこと。目の下には隈ができ、常ならば輝きを失わぬ円らな瞳はどろりと濁って
いる。疲労、睡眠不足だけが原因ではない、これは…恐怖に怯える者の表情だ。安息の代
償になるなら何だってする、敗者の姿がそこにある。
目前に垣間見えた地獄からギルが目を背けた時、突如遠方より谺した。心臓の奥まで響
く重低音、鼓膜を破らんとする破裂音。
(作戦、失敗だ! これじゃあレガック兄ぃにあわせる顔がない…)
フェイの端正な顔が歪む。元々がエステルをも上回る身長ということもあって大人びて
見えるが、実際はギルよりも若いのだ。本人の予想だにしない喜怒哀楽が滲み出た時、化
けの皮は剥がれた。紅潮した頬に大粒の涙が彩りを添えると、顔がくしゃくしゃとなる。
いつしかコントロールパネルに覆い被さり、顔を埋めた美少年。呆れる程の大声で泣き
喚く姿は運命の場所で告白し見事失恋した男子生徒と何ら違いがない。
(何が黒騎士の再来だ! 何が英雄ギルガメスの誕生だ! あんなにちっぽけな度量で主
役どころか、「木」の役だって勤まるかよ! 全く、兄ぃの馬鹿、馬鹿、馬鹿!)
しかし少年が慟哭する権利は一瞬にして奪われた。己が相棒目掛けてたちまち降り掛か
る砲弾の雨に、さしもの獣勇士が気付かぬわけもない。透かさず放棄していたレバーを握
り直し、全体重を掛けて押し倒せば相棒は軽やかに地を蹴り、身を伏せる。透かさず砲撃
された正面を睨めば。
道を覆う左右の林から姿を現した狼二匹。左からは赤色の鎧を纏った巨大な狼。右から
は緑色の鎧を纏った小型の人造狼。
「おや、魔装竜ジェノブレイカーはどうした? シュバルツセイバーよ…」
無線を通じ、美少年に呼び掛けてきたのは弁髪の巨漢。デンガンは鎌を掛けた。
「ふ、ふん、知るかよ。
オッサン、人をシュバルツセイバーだなんて決めつけるのも大概にしな」
フェイの心に傷がなければここはしれっと言い放っていたに違いない。
「声がうわついてるぞ、坊主」
「な、なんだと…!」
(デンガン様、かような雑魚など放っておいてギルガメス一行を追い掛けては…)
同行するクナイの提案だが、それに応じるデンガンではない。何しろこの狂い眼の少年、
腕こそ立つものの苛立ちを声色から隠そうともしないようでは前方で立ち塞がる猿(まし
ら)の主人と何ら大差ない。
(なあに、ここは急くな。邪魔者は一人ずつ刈り取っていくが確実)
言うが早いか赤色狼、脚力一気の爆発。たちまち猿(ましら)の目前まで詰め寄ると頭
上への跳躍。全身弓なりに反り返りつつ、振り上げた左の爪。しかしこの狼の背中には分
類名や徒名にある通り、大剣を畳んであるのだ。爪は大剣を浴びせるためのフェイクか、
それとも大剣を警戒させて爪を突き刺す狙いか。
身構える鋼の猿(ましら)。敵の最終目標は彼ら主従の遥か後方。ならば神速の一撃で
仕留めようとする筈。
頭上で空振りする狼の爪。両腕振り上げた鋼の猿(ましら)。駆けに勝ったとフェイの
表情に宿る笑み。そのまま狼の背中から繰り出される大剣を白刃取りで受け止めに掛かる。
しかし、フェイの笑みが歪む。ゼロコンマゼロゼロ秒単位で敵の攻撃を見切る戦士だか
らこそ、彼には見えた。狼が、相棒の懐近くに落下。その間、瞠目して伺う必勝の機会。
…しかし、外れた彼の読み。大剣は、目前で急な放物線が描かれるまでに少しも動かぬ。
そのまま赤色狼が懐に着地した時、変わって頭上に現れたのは緑色した人造狼。慌てて掴
み掛かった長い両腕をくぐり抜け、喉笛に喰らい付く。
猿(ましら)の悲鳴は金切り声。金属生命体にも色々あって、良く吠える獣もいれば声
帯自体が存在しない獣もいる。人に最も近いこのゾイドは元々寡黙。だからこそ、上げる
悲鳴に込められた苦しみは相当なもの。
五体を栓抜きのように捻り上げる人造狼。バランスを崩され、昏倒する鋼の猿(ましら)。
両腕を首筋に掛けようとするが、左腕は成功、右腕は阻止された。手首には赤色狼ががっ
ちり噛み付く。振り払おうにも、自らの半身以上に匹敵するゾイドの噛み付きだ。こうな
っては短い両足をばたつかせ、残る左腕で叩き、払って首筋に食い込む大過を取り除くの
み。しかし人造狼は自在に小柄なその身をくねらせ、反撃を躱し顎の力を強めていく。
レバーを何度も入れては戻す。しかし猿(ましら)の動きは、握力は反比例するかのよ
うに失われていく。美少年に人を喰った雰囲気は既にない。
(獣勇士フェイ・ルッサがこんなにもあっさりと土俵を割るのかよ…)
血の気が引いた頬は蝋燭のよう。全ての現実から逃避すべく両腕の握力を放棄し、その
まま顔に当てて視界を閉ざそうとした、その時。
数発の銃声。首筋付近、右手首付近を正確に捕捉、標的と化した狼二匹は彼らを上回る
理不尽な攻撃に身をくねらせる。続く音速の体当たりで地獄送りの連携攻撃も崩壊した。
(ましら)から吹き飛ばされる狼二匹。雷雲なくとも響く雷鳴、砂利の飛沫が防風林に叩
き付けられ、無数の木の葉が、枝が舞い落ちる。
「フェイ君、大丈夫?」
「フェイ、大丈夫か!?」
堂々、割って入った深紅の竜。両の翼を広げ、庇うは猿(ましら)の巨体。その傍らに、
寄り添うようにビークルが近付く。
「え…ぎ、ギル兄ぃ!? エステルさん!」
猿(ましら)は締め上げられた首筋に左腕を当て、右手首を何度も揺さぶる。一方、翼
を一層広げた深紅の竜。転倒から身をよじらせ、立ち上がる狼二匹を眼光で斬り付ける。
「おのれ、今一歩のところで!」
毒づく弁髪の巨漢だが、一方で狂い眼の少年は、意外にも不敵な笑みを浮かべている。
「しかしこれで望むべき展開となった。…デンガン様、ギルガメスめは私が殺します!」
折角掴みかけ、失った勝利を嘆く素振りも見せず、不敵に笑う二人。
「エステル先生、ひとまず戦うしかないのでしょうか」
「…振り切れる程度にはね。フェイ君は大丈夫?」
女教師の呼び掛けに美少年は凛々しき微笑みを返す。
「任せて下さい、エステルさん!」
二人のやり取りが無線を通じて飛び込んでくる。しかしギルは、多少意識的に深呼吸す
ると視線を全方位スクリーンに向けた。今はそれで十分だ、疑惑も嫉妬もあとでいい。…
あとでもきっと何とかしてくれる女性が、ゾイドが、彼の味方だ。
「ブレイカー、行くよ! フェイ、足引っ張るなよ?」
「言ったなギル兄ぃ!」
背負いし鶏冠を逆立て吠える深紅の竜。鋼の猿(ましら)は両腕で胸を乱打、乱打。向
かうは目前の狼二匹。
(第三章ここまで)