明日の朝まで!

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人種・宗教・習慣がちがう他民族国家アメリカでは、全体を統一するのに有効な「常識」が、
いわゆる「自由の国アメリカ!」くらいしかありません。
個人の自由と権利を守るのが第一とする国家では、当然個人間の競争と対立は激化するので、
「いかに強く自己主張するか、どれだけ有効な自己表現ができるかが正義を決める」方式とも
言えます。

一方、ほぼ単一民族国家の日本は、狭い国土の中さらに狭い居住・耕作可能な土地で、
集団が一致団結して可能な限りの生産性を追求しないと即座に総員餓死の危機に直面したため、
一般国民(人口の大多数を占めていた農村民)には、有無を言わさず「他者との協調性を第一に
要求され、相互監視が行き届いた村社会」が歴史的に非常に長く続いた国家です。
個人の自由という概念が導入され、個性を大事にという方式が一応社会的に認知されてから
さほど経っておらず、国家の精神的基盤とは言えません。
一方、ほぼ単一民族国家の日本は、狭い国土の中さらに狭い居住・耕作可能な土地で、
集団が一致団結して可能な限りの生産性を追求しないと即座に総員餓死の危機に直面したため、
一般国民(人口の大多数を占めていた農村民)には、有無を言わさず「他者との協調性を第一に
要求され、相互監視が行き届いた村社会」が歴史的に非常に長く続いた国家です。
個人の自由という概念が導入され、個性を大事にという方式が一応社会的に認知されてから
さほど経っておらず、国家の精神的基盤とは言えません。

日本においては、「周囲の欲求をいかに素早く察知し、うまく対応できるか」が最も重要であり、
KYなどという言葉が流行るのも、「対立を避ける方向での流動的な自己主張が有効」だと、
誰もが肌で感じて育つ社会、だからでしょう。
こうした社会では、良識とは個人が声高に主張するものでなく、周囲の大多数が良し、と
定めたものを感じ取るもの、大げさな言い方をすれば、日本における正義の追求の収束点は、
個人の権利ではなく、集団の義務なのです。
広大な国土に複数の州があり、知る人のない他州に移動して名を変え、経歴も偽造してしまえば
別の人間としてやり直すことも(犯罪者が巧妙で慎重であれば)比較的簡単なアメリカ。
それにくらべて、狭い国土で求人が豊富な暮らしやすい都市はある程度限定され、よそものへの
警戒心が強く異分子の個人特定もされやすい日本では、一度犯罪者となると、非常にやり直しにくい、
いや、事件次第では一生、犯罪者本人もその身内も異端視されることになるでしょう。

そういった背景があるので、こうした匿名掲示板がにぎわいはしても、現実生活の中で一般市民が
一個人の権利として周りの目を気にせず大々的に問題提起発言することはあまりなく、
身内の問題を警察などの公的機関に持ち込むことで、周囲から異端視され排除される危険をおかす
ことも、滅多にないのです。
どちらがいい、悪いではなく、歴史や文化の違いですね。双方に長所と欠点があり、どちらも
完璧ではないし、改善の余地がある。とはいえ、長い年月をかけて作り上げられて来た社会と
それが内包する潜在意識とが、簡単に変わることはありえません。

ただ日本は、独自の価値観と自己主張を持っているアスペルガー傾向者には、非常に生きにくい、
誤解されやすい社会であるのは間違いないでしょう。
ちなみに、貴方が実際にはアスペルガー傾向があるにせよないにせよ、とりあえず
「相手が何を考えているのか判らないうちに、自己防御のために先手を打つのはやめる」
のも、誤解を避けるためには必要な処世術、かもしれませんよ。
アメリカでは有効な手法でも、日本では逆に不利になることもあるものなのです。