22 :
1:2011/03/19(土) 23:24:33.02 0
Y 帝国と聖書 9
ここで更に、「ソドム」を見下ろしての「神」と「アブラハム」の「問答」の問題へと移るが、これも「意表」を突く。まったく、
それまでに無い展開である。ただ「ソドム」も「ゴモラ」も「以前」に一度「エピソード」が記述されているということがあるため
、その「発展形」が何かあるのではないかと考えられなくもない。次にこの「天罰」は「「ノア」の「天罰」」以来の「大天罰」であり、
且、「大洪水」、つまり「水」による「罰」とも異なるという事だ。あの「大いなる恐ろしい暗闇」は「出エジプト」の「先ぶれ」であろうが、
これも「出エジプト」の「先ぶれ」であろうか?「ロト」は逃げ延びたが妻は振り向いて「塩の柱」になってしまった。
(これは「サラ」が「神」に「偽った」ところに似ていなくもない)「ロト」は「死海」の最南端の「ツォアル」(「べラ」)に
着いたが住むのを恐れて、二人の娘と山の中に住んだ。彼は洞窟に二人の娘と一緒に住んだ。(とっても不便な環境に住むという点では
「ハガル」と「イシュマエル」に似ていなくもない)二人の娘は酒を父に飲ませて眠らせて近親相姦して子供を得た。姉の子の名前が
「モアブ」で「モアブ人」の「先祖」、妹の子が「ベン・アミ」で「アンモン人」の先祖であると記述されている。「アブラハム」はそこから
「ネゲブ」地方に移り、「カデシュ」と「シュル」の間に住み「ゲラル」に「滞在」していた時、「エジプト」に「滞在」した時とまったく同じことをした。
23 :
1:2011/03/19(土) 23:29:00.94 0
Y 帝国と聖書 10
さて、「イサク」については後で少し是正して書くつもりなので、荒削りに、つまり
荒っぽく書いてみよう。
「アブラハム」が「神」に従って「イサク」を生け贄にしようとしたのは、よく言われるとおり、「イエス」の「原型」のようである。
これと如何なる関係があるのかは知らないが彼の行動範囲は極端に狭い。「イサク」の「生け贄」が「回避」されてから、
「神」は「アブラハム」に「あなたの子孫を増やす」という類の「祝福」を与える。このあと、「アブラハム」は以前「アビメレク」と契約した
「ベエル・シェバ」(「一本のぎょりゅうの木」を植えた)へ行きそこに住んだ。(既に住んでいたかもしれない)このあと「ナホル」の
子達の小さな系図が書かれている。さて、「サラ」が127歳で「カナン地方」の「キルヤト・アルバ」つまり「へブロン」で死んで
「アブラハム」は彼女を「カナン地方」の「へブロン」にある「マムレ」の前の「「マクペラ」の畑の」の「洞窟」に葬った。
これは「ヘト人の地」を買い取ったものだった。もともと「アブラハム」と「ヘト人」は「友好的」であった。
(後に「エサウ」は「ヘト人」の二人の妻を持ち、これが、「イサク」と「リベカ」の悩みの種となる。)このあと「イサク」と「リベカ」の
結婚の話になるが、恐らく「ベエル・シェバ」に住んでいた「イサク」は後のヤコブとは違って「嫁探し」に行くことは禁じられ、
その「嫁探し」に行ったのは「アブラハム」が「「全財産」を任せている年寄りのしもべ」であった。(彼の「井戸」を巡っての話は
24 :
1:2011/03/19(土) 23:29:22.38 0
「ヤコブ」のときにも凄く似た話が繰り返される。)ここで初めて嫁になる「リベカ」の兄「ラバン」に出会うが、
「イサク」の子「ヤコブ」もそっくりな情況で嫁になる「ラケル」と「レア」の父である同一人物の「ラバン」に出会う。
(これは彼らの住んでいた東側であるが、彼らの住んでいた西側でも、それよりも以前に「アブラハム」と「イサク」が「ゲラル」で
「アビメレク」とその軍隊の長「ピコル」にそれぞれ出会っていることに似ていないともいえなくもない)「ベエル・ラハイ・ロイ」からの
帰りに嫁の「リベカ」に初めて出会う。その後「アブラハム」は再び妻「ケトラ」をめとり、多くの子を授かった。
(ある意味ここでは小さな「系図」が書かれているといって良い。)だが、「アブラハム」は全財産を「イサク」に譲り、「ケトラ」の
子供達には贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ「イサク」から遠ざけた。「アブラハム」は175歳で死に妻「サラ」と同じ「カナン地方」の「へブロン」にある「マムレ」の前の
「「マクペラ」の畑の」の「洞窟」に「イサク」と「イシュマエル」によって葬られた。この後「イサク」一家は「ベエル・シェバ」から
「ベエル・ラハイ・ロイに移った。「アブラハム」のとき登場した「ベエル・シェバ」という土地が、初めのときは「住んだ」
とは書かれずに、二度目に登場したときに「住んだ」と書かれたのと同様に、この「ベエル・シェバ」に住んでいた「イサク」
にとって初めて登場した「ベエル・ラハイ・ロイ」という土地は初めのときは「住んだ」とは書かれずに、二度目に登場したときに「住んだ」と書かれた。
この後、「イシュマエル」の息子達の系図が少し書かれ、その後、「イサク」の子達である「エサウ」と「ヤコブ」の誕生が書かれる。
「ヤコブ」が「エサウ」の「長子権」を奪ったあとで、彼らは「ベエル・ラハイ・ロイ」(「ハガル」と「イシュマエル」ゆかりの地)から
「ゲラル」へと向かうという筋道である。
25 :
1:2011/03/19(土) 23:31:07.21 0
Y 帝国と聖書 11
「ベエル・ラハイ・ロイ」の近くに移っていた「イサク」は、そこで「飢饉」があったために別の地へ行かねばならなかったが、
「神」が「イサク」に現れて「エジプト」行きを禁じられ、指定された「ゲラル」に行くが、そこで「アブラハム」同様の「「自分の妻」を
「妹」だ」と言う「エピソード」を起こす。(つまり、「アブラハム」と同様「イサク」も「アビメレク」に出会う。つまり、
「アビメレク」の二度目の登場である。)ここで、「イサク」は「穀物」の「収穫」が百倍あり、ぺリシテ人の妬みを買うようになる。
ここでぺリシテ人は「アブラハム」がしもべ達に掘らせた井戸をことごく塞ぎ土で埋めた。「アビメレク」は言った。
「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい」「イサク」はそこを去って「ゲラルの谷」
に天幕を張って住んだ。(「ロト」が「死海」西岸の谷に住んだことや、その後の「ソドム王」と「アブラハム」の「会話」と何らかの
関係を持たせたがっているのかもしれない)そこにも父「アブラハム」の時代に掘った井戸が幾つかあったが、「アブラハム」の死後
「ペリシテ人」がそれらをふさいでしまっていた。「イサク」はそれらの井戸を掘り直し、父が付けた通りの名前を付けた。
「ゲラル」の羊飼い達は「この水は我々のものだ」と「イサク」の羊飼い達と争った。(「アブラハム」の「羊飼い」と「ロト」の
「羊飼い」の間の争いと何か関係があるか、もしくは関係がなくとも、文章の構成上何か関係を持たせようとしているかもしれない)
「イサク」はその「井戸」を「エセク」(「争い」)と名付けた。次に掘り当てた井戸でも「争い」が起き、「シトナ」(「敵意」)と名付けた。
そこから移って次に掘り当てた井戸では「争い」は起きなかったので、「レホボト」(「広い場所」)と名付けた。
(この話は後に「ヤコブ」の「ラバン」の元での「家畜増やし」の話と関連を持っているかもしれない。「ラバン」と「ラバン」の
「息子」達と比べて「ヤコブ」は余りにも「神」の恵みにより「大富豪」となった。)
「イサク」は更にそこから「ベエル・シェバ」に上った。
26 :
1:2011/03/19(土) 23:34:03.71 0
Y 帝国と聖書 12
「ベエル・シェバ」に上った「イサク」はその夜に現れた「神」に言われる。
「あなたの子孫を増やす」という類の「祝福」を。
そこで、「イサク」は「祭壇」を築き、「神」の名を呼び、且つ「井戸」を掘った。
このあと、「ゲラル」から「アビメレク」と
参謀の「アフザト」と軍隊の長「ピコル」とがやってきて互いに危害をを加えない契約を結ぶ。そのあと祝宴を催し、互いに飲み食いし、
安らかに別れたその日に井戸を掘っていたイサクのしもべ達が帰って来て「水が出ました」と報告した。そこで「イサク」はその井戸を
「シブア」(「誓い」)と名付けた。それが「ベエル・シェバ」(「誓いの井戸」)の由縁であると書かれている。が、「アブラハム」の
時代に既に「ベエル・シェバ」の名の由縁は書かれている。そこでは「誓い」(「シブア」)、「誓って」(「シャバ」)、
「井戸」(「ベエル」)だけではなく「7匹の雌の子羊」の「7匹」(「シェバ」)も掛けている。このあと「エサウ」の二人の
ヘト人(「ヒッタイト人)の妻、「ベエリ」の娘「ユディト」と「エロン」の娘「バセマト」の話になり、それが「イサク」と
「リベカ」の悩みの種となる。これが、「リベカ」が計略を起こして、「祝福」をすべて「ヤコブ」に与えるきっかけになった。
「エサウ」は「ヤコブ」にすべて奪われたあと、「カナンの娘」が父「イサク」の気に入らないことを知って「イシュマエル」のところへ行き、
既にいる妻のほかにもう一人、「アブラハム」の息子「イシュマエル」の娘で「ネバヨト」の妹に当たる「マハラト」を妻とした。
(「ヨセフ」の妻「アセナト」もそうだが、なぜか、「カナン人」の妻にしても「エジプト人」の妻にしてもその「名」の語尾が
「ト」もしくは「ato」が多い気がするが意図的であろうか)
27 :
1:2011/03/19(土) 23:40:34.31 0
Y 帝国と聖書 13
「ヤコブ」(「イスラエル」)の妻は二人であり、姉妹である。姉は「レア」、妹は「ラケル」といい、「ヤコブ」は「妹」の
「ラケル」の方をより愛した。その他に、子供を産む競争の様な気持ちから、レアとラケルはそれぞれの側女を「ヤコブ」に「妾」
として与えた。「ラケル」の側女が「ビルハ」といい「レア」の側女が「ジルパ」といった。子供は順番から述べると、「レア」から
「ルベン」、「シメオン」、「レヴィ」、「ユダ」が産まれ、「ビルハ」から「ダン」、「ナフタリ」が産まれ「ジルパ」から「ガド」、
「アシェル」が産まれ、再びレアから「イッサカル」、「ゼブルン」が産まれ、それまで産気付かなかった「ラケル」が最後に「ヨゼフ」、「ベニヤミン」を産んだ。
それぞれ、その名には意味があり、大雑把に言えば、
順に「見る」、「聞く」、「結ぶ」、「賛美」、「争う」、「裁く」、「幸せ」、「幸運」、「報い」、「報酬物」、「加える/除く」、「右手の子/幸せな子/苦しみ」
という意味(間違っている可能性があるのであとで訂正するはずである)である。これは四方向、十字に対面させると考えるのに便利であり、
28 :
1:2011/03/19(土) 23:41:16.25 0
「「ルベン」、「シメオン」」と「「イッサカル」、「ゼブルン」」の間に「「レヴィ」、「ユダ」」が納まり、それと直角に交わる様に
「「ダン」、「ガド」」と「「アシェル」、「ナフタリ」」を対置させ、「ルベン」から「ゼブルン」の延長上に「「ヨセフ」、
「ベニヤミン」」を置くのが便利である。「ベニヤミン」より前の11人はメソポタミアで生まれたがベニヤミンだけは「カナン」の
「エフラタ」つまり、「ベツレヘム」の辺りで産まれた。「ベニヤミン」が産まれる前に「ヤコブ」は「エサウ」と壮大な「再会」を果たす。
「ラケル」は「ベニヤミン」を産むときの苦しみによって死に、その「ベツレヘム」(「エフラタ」)で葬られ、その近くの町
「ミグダル・エデル」に移ったとき、長男「ルベン」は「ビルハ」と姦淫し、(イブやアダムを思わせる)結果「長子権」が無くなったと言ってよい。
この他に「レア」の娘で「ディナ」がいたが、「シケム」という土地(「アブラハム」が祭壇を築いた「マムレの樫の木」があるところ)
に来た時に町の有力者の息子にレイプされてしまい(これは「ルベン」の姦淫への応報かもしれない)、それに怒った「シメオン」と
「レヴィ」は「シケム」の住人を皆殺しにした。それによって、「シメオン」も「レヴィ」も「長子権」が無くなり、「長子権」は「ユダ」へと移る。
このあと、「ヤコブ」は「キルヤト・アルバ」つまり、「へブロン」の「マムレ」にいる父「イサク」のところへ行った。
「イサク」は180歳で死に、「エサウ」と「ヤコブ」によって葬られた。しかし、それにしても、「イサク」の「行動範囲」の「狭さ」は
「特別」であり、何か「意味」があるに違いない。ある意味「エジプト」に行く前までの「ベニヤミン」の「行動範囲」の「狭さ」もこれに似ている。
「ベニヤミン」は産まれたときは既に「エクロン」つまり「ベツレヘム」であったし、
29 :
1:2011/03/19(土) 23:43:01.09 0
「ヨゼフ」が10人の兄達にひどい目に遭わされて、
エジプト行きの隊商に売り飛ばされた時、「ベニヤミン」だけは父「ヤコブ」と共に、その兄達のもとまで行っていなかった。
さて、「長子権」を持つ「ユダ」はその「タマル」との情話の中で「印鑑」を「タマル」に与えるが、これは、後に「ユダ」から「王」が
出ることの布石として書かれたかの様である。(それは後の「ヤコブ」の「ユダ」への「予言的言葉」で、「「ユダ」から「印鑑」は奪われず獅子は
「ユダ」から出る」という様な言葉からいえる)「ヨゼフ」が「エジプト」のリーダーになってから、「ヨゼフ」の元に
(「ヨゼフ」とは知らずに)訪れたのも「ベニヤミン」を除く10人の兄達であった。ここでは、「ユダ」が皆の纏め役の様に見えなくもない。
ここで「シメオン」が「ヨゼフ」に「人質」として取られて残りの9人がカナンの地で彼らの帰りを待っている「ヤコブ」と「ベニヤミン」の
元へ戻って、「ベニヤミン」を連れて来ることになり、「ベニヤミン」に何か有れば「ユダ」が責任を取るということにして何とか
「ヤコブ」の了解を取り付けて、「ベニヤミン」を「ヨゼフ」の元に連れて行った。ところが今度はそこで、「ベニヤミン」が「泥棒」
の容疑を「ヨゼフ」によって掛けられ(「ラバン」と「ラケル」を思わせる)、その事で「ユダ」が自分が「責任」を取ると老いた父に言って、
やっとのことで連れて来た末の子なので、自分の身と引き換えに許してほしいと「ヨゼフ」に懇願する。そこで初めて「ヨゼフ」
30 :
1:2011/03/19(土) 23:43:33.17 0
が自分が「ヨゼフ」であるという事を告白し、感極まって泣きながら抱き合い、和解する。それから「ヤコブ」も「ヨゼフ」から「エジプト」に
招かれて「エジプト」に行き、そこで、「ヨゼフ」を兄弟の中一番の者として祝福する。(ひょっとすれば、他の兄弟よりも一段高く、
つまり「ヤコブ」と「同列」としたかもしれない。)このとき、「ヨゼフ」の二人の息子(母親はエジプト人オンの祭司「ポティ・フェラ」
の娘「アセナト」)の「マナセ」と「エフライム」を「格上げ」させて、「ヨゼフ」の他の兄弟と「同列」にさせた。
(「マナセ」は「(苦しみを)忘れる」、「エフライム」は「実り多き地」という意味)このとき、ヤコブは腕をクロスさせて、
「右手」を弟の「エフライム」の頭に「左手」を兄の「マナセ」の頭に当てて、弟の「エフライム」の(子孫の)方が偉大になると祝福した。
(「カイン」と「アべル」、「エザウ」と「ヤコブ」、「レア」と「ヤコブ」でいえば、いずれもその弟及び妹の方が優位に置かれている)
31 :
1:2011/03/19(土) 23:51:21.60 0
Y 帝国と聖書 14
「モーセ」(因みにその姉が「ミリアム」=「マリア」)が兄「アロン」」(共に「レヴィ族」の兄弟)と共に「イスラエル民族」を「エジプト」から
「脱出」させてから、長いこと荒野を彷徨う。(40年)これは「カナン」移住(征服)と「それ以前」の「プロセス」を際立たせるために
あったのだろうか?だが、それ以上に、ここには後の「ヨーロッパ」の「重厚さ」に対抗できるだけの、耐えられるだけの、支えられるだけの、
「重いしがみつき」があるのではないだろうか?「エジプト」も「カナンの地」も一つの「現実の地」であるとすると、「荒れ野」も
一つの「現実の地」であることには変わりはないが、「一つの非現実の地」を「象徴」しているかのようには思えないだろうか?つまり、
あまりもの「しがみつきの強さ」によって「現実」が「切り裂かれた」かのように。
「ヨシュア」(「エーシュアー」=「イエス」。
つまり、「エフライム」の父と何代か後の孫とが、「ヨセフ」と(「ヨシュア」)「イエス」である。)は「エフライム族」出身で、
「カナン」を征服するに至るが、話は飛ぶが、「聖櫃」はどうだったかというと、その「モーセ」が海を二つに割って海底を通ったのと
同様のことを、その「聖櫃」が先頭に立ってこのとき行っている。このあとのこの土地の配分も意味有り気である。その征服するに当たって、
12支族あるうち、「ユダ族」と「エフライム族」の中で選ばれた勇士だけが、勇敢であった。このことが、後の土地分配で大きなポイントになる。
さて、「征服」後の「土地分配」についてだが、まず、「死海」の北東を「ルベン族」と「ガド族」と「「マナセ族」の半分」とが、
その「フライング」的反則に似たやり方で「要求」し、(結果、その豊かさとは別に「死海」の土地の断絶的地形が、
後のイスラエルの主要部へ行き来するのに不便であることに帰結したため必ずしも良い環境とはいえない)「死海」以西では、
その偵察時の活躍の報いが約束されていたが故の当然さで、「ユダ族」が南の大量の土地を要求した。このあと籤引きの結果、
32 :
1:2011/03/19(土) 23:51:45.93 0
「ユダ族」の南側が「シメオン族」となり、「ユダ族」の北が「ベニヤミン族」、その北が「エフライム族」その北が「「マナセ族」の
「残りの半分」」となり、その北が「アシェル族」、「ナフタリ族」、「ゼブルン族」、「イッサカル族」、「ダン族」となった。
(「レヴィ族」は「祭司族」のため、受ける地は神自身とされたため、与えられなかったが、各地に分散された。
(各地に存在する必要があるため)このあと「ダン族」はワケがあって、その場所を移動した。
さて、この配置を見て思うのは、まず、あの十字架上の「「レヴィ族」、「ユダ族」」あるいは入れ替わって「「ユダ族」、「レヴィ族」」の
「ユダ族」が、「南」に位置し、「「ヨゼフ族」、「ベニヤミン族」」つまり、「「マナセ族」、「エフライム族」」、「ベニヤミン族」」
というか、これは更に入れ替わって「「エフライム族」、「マナセ族」」、「ベニヤミン族」」となっているが、この「「エフライム族」、「マナセ族」」が
「ユダ族」に向き合う様に「北」に位置し、この「ユダ族」と「エフライム族」、「マナセ族」の「間」に「ベニヤミン族」が納まっているのである。
私が思うに、あの十字架上で、「「レヴィ族」、「ユダ族」」もしくは「「ユダ族」、「レヴィ族」」が「「エフライム族」、「マナセ族」」
と入れ替わったかの観を呈している様に見える。更に「ヨゼフ」が半分もしくは2倍されて「「エフライム」、「マナセ」」となったが、
その「マナセ」は「死海」を挟んで「半分」、「半分」に分かれた。(更に「ギレアド」と「バシャン」と10個の街とで構成されるのを見ると、
イスラエル全体のフラクタル構造の様に見えなくもない)また、「レヴィ」を除いた「ユダ」よりも上の二人の同じ「レア」から産まれた兄、
「ルベン」と「シメオン」は「死海」を挟んで分かれて立っている様に見えなくもない。また「ユダ」の「南」はその「シメオン」の族
だけというのも意味が無いとは言い切れないような気がする。(「シメオン」は「ヨセフ」の人質になっていたが、その件で最悪の結果に
なれば責任は「ユダ」が取ると自ら申し出たため、何らかの優位がここで生じているのかもしれない)
33 :
1:2011/03/19(土) 23:56:18.95 0
Y 帝国と聖書 15
さて、その後「士師」が「イスラエル」に出現するが、それは「王」ではないし、「王」の様に「世襲制」でもなく、また、
存在するときと存在しないときとがあった。「士師」は12支族から一人づつ計12人であった。(『マクシミラン聖書歴史地図』によるが、
確認はしていない。疑わしいので後に確かめようと思う)この時期に、不当ではあったが最初に「王」を名乗った人物がいた。
それは、「エルバアル」とも呼ばれた「ギデオン」の息子の「アビメレク」である。彼は「ハラン」における母方の親戚連中
(「イスラエル人」ではない)70人の支持を得て神の命でもなく、「王」を名乗った。同名の人物が「アブラハム」と
「イサク」の時代の「ゲラルの王」として記述されている。また。ダビデの時代には、一字違いで「アヒメレク」がおり、
この「メレク」という言葉は「王」という意味があり、「アブラハム」の時代の「サレム」(おそらく「エルサレム」)の
「いと高き神の祭司「メルキゼデク」」もそれに当たる。しかし、その父である「エルバアル」と呼ばれた「ギデオン」は全国民から」
「王になってほしい」と言われながら「断った」ということも忘れるべきではないだろう。さて、「ベニヤミン族」はかつての「ソドム」とそっくりな罪を犯し、犯罪者を突き出すどころか、「イスラエル全軍」に立ち向かい、
最初の何戦かを勝利した。その後、「イスラエル」に滅ぼされた「アイ」とそっくりに、その主要都市「ギブア」
(「レヴィ」の息子の「エレアザル」の墓がある、その近くの「ベツレヘム」(「エクロン」)は、その「ベニヤミン族」の元である
34 :
1:2011/03/19(土) 23:56:35.86 0
「ベニヤミン」の誕生と母ラケルの死及び埋葬の地である。)から全軍おびき出されて、空いた「ギブア」に火が点けられて、
且つ挟み撃ちによって絶滅寸前にまでされた。女は一人もいなくなった。ここで出て採用された案は「エフライム族」の「シロ」という
地の祭りの時にぶどう畑で待ち伏せにして揃って踊りに出てくるのが見えたら奪い取れというものだった。
(これはひどい解決策だが、「ソドム」的な残虐非道さと比べ、映画「卒業」の「花嫁」を奪うというような「ドラマティックさ」を
もたらそうと思ってのものだろうか?)恐らく「エフタ」の「娘」と「ベニヤミン族」の一部の犯罪の被害にあった「女奴隷」とこの
「「シロ」の奪われる娘達」は関連しているように思える。さて、それまでの、「イスラエル」全体の「宗教的中心地」は「シロ」であった。
神はイスラエルの罪により、「ぺリシテ人」を「イスラエル」にぶつけて「シロ」を破壊し、「聖櫃」を奪った。
「聖櫃」は聖なるものであるので、適した者以外が触れれば、死及び災いをもたらす。
(この場合、「ぺリシテ人」の偶像を打ち砕き、
疫病を流行らせた)それによってその「聖櫃」は、イスラエルに戻されて、「シロ」が消滅したために、「キルヤト・エアリム」という地の
「アビナダブ」という人の家に運ばれ、その「アビナダブ」の息子の「エレアザル」を聖別して「聖櫃」を守らせた。
「サムエル」は「エフライム族」「サウル」は「ベニヤミン族」の出である。(「サムエル」は「ラマ」、「サウル」は「ギブア」)つまり、
まさかの「ベニヤミン族」なのだ。「サムエル」の父の「エルカナ」(「エフライム族」)と母の「ハンナ」と祭司の「エリ」の
話は新約の「洗礼者ヨハネ」の話を彷彿させる。「サムエル」は「預言者」とは呼ばれず、「予見者」と呼ばれていた。
(だが「聖書」では、そう言いつつ「預言者」とも書いていたような気がする。
また、「神の人」とも書いていたかもしれない。
ある意味「予見者」が「王より前」に類似するとすると、「預言者」とは「王」に類似するかもしれない。
35 :
1:2011/03/20(日) 00:00:02.07 0
Y 帝国と聖書 16
さて「ギルガル」、「シロ」、○○と来て「ギブア」と主要都市が移ったが、これがはじめての「首都」である。そのあとが「エルサレム」である。
(ここは長い事そこだけが、ぽつりと「エブス人」によって支配されていた。)(なぜか「ユダ族」がではなく「ベニヤミン族」
が追い出せなかったためにと記述されている)これは、「国を代表する都市」の中の「永遠の都市」としての「都市の王」ともいう
べきものとして「神」によって「選択」されたと考えられる。「「エルサレム」よりも前の「主要都市」」が「王よりも前」に類似するとすると、
「エルサレム」が「王」に「類似」するといえるかもしれない。「ダビデ」が「キルヤト・エアリム」から「聖櫃」を移すに至ったとき、
聖櫃が傾いたことに気を利かせて支えた「ウザ」は神によって打たれて死に、「ダビデ」もこの事に関しては怒った。
そして、「エルサレム」に迎える前にあたかも「毒見」でもさせるかの様にして、「ガト人」の「オベド・エドム」の家に聖櫃を移した。
36 :
1:2011/03/20(日) 00:02:32.96 0
Y 帝国と聖書 17
「ソロモン」の罪のあと王国は北と南に分断するが、(それは以前からも分断されていたのだったが、「ダビデ」と「ソロモン」
によって統一されていたのだった)ここで、「ヤロブアム」は「ソロモン王」が死ぬまで「エジプト」に逃亡しているが、後の新約のイエスを彷彿させる。
またそれまで、北側の「10支族側」に付いていた「ベニヤミン族」が南側の「ユダ族」に付く様になった。
「王」を制定するということは「刻印」、つまり「彫り付ける」様なものだ。
それはもう「現実の土地」というものを用いての
催しの「最終章」に値し、ここでは、それまで用心深く試練に遭わせ鍛錬して、神に対して申し分のない人達のみにしようとしていて
またその人達の一生においても決して罪を犯さないような人々にしようとしていたのではないだろうか?「王」を制定する前にこの
民が致命的に罪を犯したなら絶滅させても良かった。その前ならば「やり直し」も出来た。だが、「王」を制定してしまったならばそうはいかない。
何故ならば、「いい思いをさせてから絶滅させた」ことになり、それは「食い逃げ」同様なものだからだ。「覆水盆に返らず」で
「食ったものを吐き出せ」といってもどうにもならないものなのだ。「カナンの土地」を征服する前に「十二支族」の「土地配分」を行うと同時に、
「王」を「制定」したりするのは、「重要な制定」が一度に重なって二つもしくは三つ、四つあった「セレモニー」にとってもったいないことをすることだ。
その「重要な制定」のひとつひとつをじっくり味わってゆくのが王道である。それは、じっくり、じっくりと「現実の土地」の可能性を尽くしてゆく。
それはまた、「王」と「王よりも前」、「12支族の土地分配後」と「12支族の土地分配前」、「カナン征服(だいたい)」と「カナン征服前」、
「荒れ野」と「エジプト」、「民族」と「その前のつまり、その先祖の家族」とをじっくりと、その「過程」(「プロセス」)を分かり易く、
もしくは、「スローモーション」の様にして「見せる」ためなのだ。
37 :
1:2011/03/20(日) 00:04:50.09 0
Y 帝国と聖書 17
「ソロモン」の罪のあと王国は北と南に分断するが、(それは以前からも分断されていたのだったが、「ダビデ」と「ソロモン」に
よって統一されていたのだった)ここで、「ヤロブアム」は「ソロモン王」が死ぬまで「エジプト」に逃亡しているが、後の新約の
イエスを彷彿させる。またそれまで、北側の「10支族側」に付いていた「ベニヤミン族」が南側の「ユダ族」に付く様になった。
「王」を制定するということは「刻印」、つまり「彫り付ける」様なものだ。それはもう「現実の土地」というものを用いての催しの
「最終章」に値し、ここでは、それまで用心深く試練に遭わせ鍛錬して、神に対して申し分のない人達のみにしようとしていてまたその
人達の一生においても決して罪を犯さないような人々にしようとしていたのではないだろうか?「王」を制定する前にこの民が致命的に
罪を犯したなら絶滅させても良かった。その前ならば「やり直し」も出来た。だが、「王」を制定してしまったならばそうはいかない。
何故ならば、「いい思いをさせてから絶滅させた」ことになり、それは「食い逃げ」同様なものだからだ。「覆水盆に返らず」で
「食ったものを吐き出せ」といってもどうにもならないものなのだ。「カナンの土地」を征服する前に「十二支族」の「土地配分」を行うと同時に、
「王」を「制定」したりするのは、「重要な制定」が一度に重なって二つもしくは三つ、四つあった「セレモニー」にとってもったいないことをすることだ。
その「重要な制定」のひとつひとつをじっくり味わってゆくのが王道である。それは、じっくり、じっくりと「現実の土地」の可能性を尽くしてゆく。
それはまた、「王」と「王よりも前」、「12支族の土地分配後」と「12支族の土地分配前」、「カナン征服(だいたい)」と「カナン征服前」、
「荒れ野」と「エジプト」、「民族」と「その前のつまり、その先祖の家族」とをじっくりと、その「過程」(「プロセス」)を分かり易く、
もしくは、「スローモーション」の様にして「見せる」ためなのだ。
38 :
1:2011/03/20(日) 00:07:08.64 0
Y 帝国と聖書 18
先にも述べたとおり、その「王制定」があってからは、「民」が罪を犯しても、もう「絶滅」させたり、「やり直したり」することはできない。
大きな罰を与えるにしても。だが、それは、「王制定」をしたことへの、「帳消し」にはならない。だが、「王制定」をしたことへの、
「帳消し」をどうしてもしないではいられない。そこで、「現実そのもの」に「無理」な「力」、「負荷」を掛けて、「次元」を引き裂き、
「現実とはまた別の土地」を切り開かないではいられない。ここで「やり直し」に値するものであり、「帳消し」つまり、その「王制定」を
「帳消し」に出来るということなのだ。それが、後に「預言者」と呼ばれる人達に「聖書」本文とはまた別に「「聖書」の「一部」」としての
「別の書」を「平行」させることで、その内容が「「神の姿の幻視」を書かせること。そして「幻視」した「未来」を書かせること。
そして、「これまでとは比べ物にならない広範囲に及ぶ強国」を引き起こして、それの支配を東西何カ国による攻防によるものとし、
一回の占領が果てから果てに及ぶ「大波」とし、それによって、「世界」中に散らしてしまうということ。そして、その「強国」は
「マンネリ」で同じような国ではないということと、また後に出てくる国であればあるほどに強力な国であるということ。これの「幻視」が
「王制定」を「帳消し」にして、再び「王制定」する「現実を切り開いて示した新しい土地」なのではないか?そして、これは見方によるが、
「マクロ」的な進行から苦肉の策によって「ミクロ」的な「進行」を見出し(つまり「発見」)たか編み出したか(つまり「創見」)
という様なことでもあるのではないだろうか?また、それは、それだけ、繊細に神自らが神自身について思いを巡らせることに帰結させ、
「新たな「繊細さ」による「ノアの大洪水」による「清め」」に思い至らせはしなかっただろうか?そして、これは「ヨブ」とも「関連」することであろう。
39 :
1:2011/03/20(日) 00:09:31.68 0
Y 帝国と聖書 19
当時、「神の人」と記述されはしたがその固有なる名が記されていない人がおり、「預言者」の「「ベテル」の一人の「老預言者」」
(彼にも固有なる名が記されていない)が良かれと思ってであろうが、この人に反する預言(具体的に言うと「「この預言者にその
「神の人」を付いて行かせよ」と「神」から命じられた」という様な内容)を自分が受けたとその「神の人」を欺いて、
引き止めてその場所に連れて行った結果、その「神の人」は「神の人」でありながら、神の罰を受け、殺された。その「老預言者」
は罰を受けなかった。このあと「神の人」と記述された「エリヤ」は諸々の大奇跡を起こしてから最後に生きたまま天に挙げられた。
この「エリヤ」は彼に付き従った「エリシャ」と二人して、「新約」の「イエス」と「ペテロ」に共通するものがあるように感じる。
ここら辺で「ちゃんとしたアラム語を話せば理解する」という様な文章があった様な気がする。(「方言」のエピソードは「ヨシュア記」か
「士師記」にもあった気がするが、それくらいしかない)先に述べた名の無い「神の人」は「エリヤ」の様な「神の人」になれなかった、
「試し金」の様なものに感じる。それは「カナン征服」以前の「荒れ野」のようなものでもあり、それは「エルサレム」になれなかった
「シロ」のようなものの様でもあり、「ダビデ」になれなかった「サウル」の様でもある。つまり、「エリヤ」が「王」に類似するとすると
「その前の「神の人」」は「王よりも前」に類似するのではないかと。そのような「エリヤ」や「エリシャ」にしても、「聖書正典」としては
「エリヤ記」とか「エリシャ記」という類のものは書かなかったもしくは書いたとしても残されてはいない。「イザヤ」がそれの最初の様であり、
以後、「「バビロン捕囚」後」辺りまでで、その「諸預言者」は出尽くしてしまう(「新約」では、何人か出てくるものの、
イエスの子供の時だけのわずかで、又奇跡関係もなく、又その人達の書物もない)し、それだけではなく、イスラエルの歴史に関しての記述も
「正典」としてはそこで途絶え、「アレクサンドロス」や「ローマ」の支配に関しての「正典」が欠如している。
40 :
1:2011/03/20(日) 00:12:33.74 0
Y 帝国と聖書 20
これは一体何故か?
私が思うに、「死海」の東南には「イスラエル」の「近縁国」が有ったために、
そこへの征服は神によって禁止された。
これによって、「死海」の「周囲」という「リング」が切断されている様なものであり、途絶え、断絶しているようなものである。
これと同様に「ギリシャ」や「ローマ」は別の意味での「真理」上の「近縁性」が有ったために、何らかの仕組みの関係上、
「正典の断絶」が起きたのではないだろうか?それは、「死海」周囲が地上で最も標高が低いということや標高差が最も激しいということや、
「死海」の浮力が最も大きいということとも何らかの関係があるかもしれない。「マケドニア」と「ローマ」の相違点は、「マケドニア」が
「「「アテネ」の「民主主義」」が成立している元で「大王」が「世界」を「征服」した」、つまり、「「民主主義」から認定された「皇帝」ではない」のに対して、
「ローマ」は「「元老院」によって認定された「皇帝」による「世界征服」である」ということである。これと、単に巨大国家と接触しただけではなく、「ギリシャ哲学」と接触したということ。それによって、
「「神」の理路整然とした「論証」」という「「新ジャンル」の「創造」」というものが当然予感される。パウロは、この
「論証」というものを初めて後に「新約聖書」と呼ばれるようになる書類に取り入れた。(しかし、「論証」という体裁はあるが、
プラトン程の厳密性は残念ながらない。)これの流れによって、自然と「知」=「単なる「言語」ではない「言語」」、それも
「神のごとき言語」が「「「ノアの大洪水」のごとき、「人間」を洗い清める天変地異」のごときものを発生させる」という流れになってゆく。
「ローマ」も「神学」も「「聖書」の「一部」」となった。これが「稚拙」であろうとあるまいと、「それ以降の他の国」や「他の神学」とは
「「一線」を「画す」」のだ。何故なら、それらを読んでも「聖書を読んだ」ことにはならないからである。
一方で「グノーシス主義」の様なものも大量に発生する。これも又、神の多産性であり、又大いなる収穫、つまり、「大漁」なのだ。
41 :
1:2011/03/20(日) 00:15:04.17 0
Y 帝国と聖書 21
「福音書」、「使徒言行録」、「手紙類」、「黙示録」という順番に進むが、
「反キリスト」という「概念」が少しずつ、
頻繁にそして増幅されて行くようになっていっているように見える。「黙示録」は「諸預言者の書」をそれぞれ引用し、
更に「新約」のところどころで書かれながら「増幅」していった「新約」の「独創」としての「反キリスト」をそこに「結合」させる。
つまり「旧約聖書」の「総決算」+「「新約」の「独創」」で幕を閉じるのだ。
「独創」である分、「新約」は「旧約」の
「範囲」を飛び出ている。「黙示録」では「反キリスト」だけではなく「人類滅亡」や「超絶技巧」による「ロボット」のようなものや、
「超絶技巧」による「経済」の「許可」と「禁止」が描かれており、これは、「旧約」にはなく、それどころか、「現代」を待たなければ、
それは生じなかった。つまり、当時のローマの技術などというものとは関係無かった。
ここで重要なことを言っておこう。
ここで言う「帝国」とは実際の「帝国」のことではなく、「地図」を「精神」の「カウンセリング」のなんらかの「便宜」、「道具」
として見る「現代人」の「視点」によるものであるということ。それは、「小規模」な「地域」としての「パレスティナ」で「訓練」された上で、
その「周囲」の「巨大」な「空間」に「免許皆伝」して乗り出して、又組み込まれて、「有機的共同性」を持つに至り、「断絶」から
「這い上がる」ことを「成功」させること、そして、「太い肉付き」、「弾力性」を手に入れることで、「「実際」の「歴史」」がどうであったかは関係がない。
42 :
1:2011/03/20(日) 00:28:59.23 0
>>41の最後ら辺は今読んでも何のことかよくわからない。
>>40に付け加える。
「新約聖書は二人の「現人神」がいた。それはイエス・キリストとローマ皇帝である。
この、「ローマ皇帝」は「反キリスト」の大きなモデルであるかもしれない。
ギリシャ人達はギリシャ哲学を有し、そして民主主義だった。そのあとに出てきたのが、
アレクサンドロスだが、ある意味その後の「皇帝」の方が、オリエント的専制君主的である。
ここに「聖なるもの」→「ギリシャ哲学」を「豚」→「皇帝」に与えることになった。
43 :
1:2011/03/20(日) 00:44:25.90 0
エリヤは多くの人々を寄せ付けたわけではない。エリヤは多くの敵を寄せ付けた。
エリヤとエリシャの関係はイエスとペテロの関係に似ている。
イエスには敵も寄って来るが、多くの一般人も寄って来る。
エリヤはモーセと同様、多くの人を殺す奇跡を行なった。又、人を蘇らせる奇跡をも
行った。又、一方で「誰が子供がほしいなどと言いましたか?」とも言われた。
(これはアブラハムとサラのところとも関わっているようである)
イエスに人を殺す奇跡はない。人を蘇らせる奇跡はある。
又イエスは道徳的な話が多い。
44 :
1:2011/03/20(日) 10:39:52.46 0
たまたま、俺はある会社を辞めた。最初、3/10に辞めることに決まっていたが、
急遽もう一仕事に出てくれと言われて一日だけ伸ばした。その日に地震があり、
次の日に寮を出た。すぐに計画していたとおりに新しい眼鏡を買いに行った。それが出来る
までの間、読みたかった本があったので、その辺に本屋があるかどうか見てみた。
気付いていなかったが、その眼鏡屋の隣の隣が本の看板が立っていた。
俺がそこに入るとそこはアダルトDVDだけでなく、大人のオモチャを売る店だった。
俺は特にそのときまで、そのような店には否定的ではなかった。だが、そういう店に
入ることはそうそうない。俺はその店の中を見て回った。
47 :
1:2011/03/21(月) 10:13:21.29 0
>>45>>46は俺
俺も無修正のアダルトDVDを数十本持っていた。(厳密に言うと今朝までだ)
だが、このように、インターネットをやっていなくても誰でも入れる店で、それらが
陳列されている様をみたとき、俺にはそれが昆虫の標本に似たようなものを感じた。
「もはやこのようなものに嵌まっている日本人は人間ではないのではないか?」そう思った。
俺は在日韓国人でもないし中国人でもないし、売国奴でもない。だが、これは
本当に国を滅ぼすかもしれないという気持ちがした。
48 :
1:2011/03/21(月) 10:24:04.79 0
聖書を信じる人または知っている人がまずは思い浮かべるのはソドムとゴモラだ。
これは、どういう罪で滅ぼされたのかというと、それは性の退廃によるものである。
俺が
>>10で書いてあることが正しいとすれば、アダルトDVD及び諸々のものを持ち、
鑑賞しているだけでも、それは、その様な現実を更に呼び寄せているということになる
だろう。それは、完全に女を人間扱いしないことだ。この情報が世界に瞬時に伝えれるとき、
これを災害と言わずに何というべきか。それこそ、それは隔離して絶滅させようという
気持ちが起きるのではないか?
俺は心から神に謝罪し、
>>10に書いてあること、アダルトDVDを捨てるということを
今日の朝実行した。
49 :
1:2011/03/21(月) 10:29:45.64 0
それは、人に売られたり、譲渡されるべきではなく、捨てるにしても、
目に付かないように、捨てねばならない。まずパッケージの絵柄を剥がして、
見えないように折りたたみ、DVDは折り曲げて、破壊し、DVDに猥褻物が載っている
場合、特に粉々にして捨てた。パッケージはシュレッダーがあれば、それを
使ったことに越したことはない。
50 :
1:2011/03/21(月) 10:35:10.36 0
さて、そのようなことをして、本当に神が存在しないとすれば、人は何の意味も
無いだろうと言うかもしれない。又、神が存在したとして、そんなことで許して
くれるものかと。だが、もし、ある人があるいはある国が、もう滅びるまで、ほんの
数時間であると決まっている場合、そのアダルトDVDを粉々に処分することなど、
容易いことではないか?それが滅びの原因ではないとしても、それは容易く、そして、
誰にも被害を与えない。そしてその人を狂気に持ち込むこともないだろう。
51 :
1:2011/03/21(月) 10:42:24.89 0
だが、それは確かに答えになっていない。
神が存在するかどうかの話だ。
だが、証明など俺は出来ないと思う。
ただ、これだけは言っておこう。信じなくてもいいが、
俺は若いとき、神秘体験をしている。
まだ、未成年のとき、俺は神を信じ、禁欲した。
煙草はもともと吸っていなかったから、吸わないにしても、
アルコールはたまに飲んでいたので、それは絶った。
甘酒を勧められても断固として断った。
毎日風呂で冷水をかぶった。毎日自分のことよりも、人んもことを
祈った。眠るときにも息を整えて寝た。それが40日くらい途切れずに
行えた。人生においてこんなに完全なときはない。俺の心は浄化されていた。
52 :
1:2011/03/21(月) 10:43:56.05 0
そのとき、どんなことが起きたかは、悪いが言わないでおく。
俺にはこれを言っていいのかどうか、それさえ分からないのだ。
53 :
1:2011/03/21(月) 10:48:15.82 0
人は言うかもしれない。それは幻覚だと。
それでもいい。それは神を信じるとっかかりになるなるのだから。
54 :
1:2011/03/21(月) 10:56:39.27 0
さて、
>>11に関連するものと思われるものがある。
それは聖書の「ヨナ書」である。
神はヨナに対して大都市ニネべの罪があまりにも大きいので、滅ぼすことにしたと
ヨナに告げ、そのことをニネべの民に告げよと言う。
ところが、ヨナはそれをすることを拒み逃げた。
何故か?ヨナはそれをニネべに告げることによって、ニネべの民が悔い改めた場合、
神はニネべを滅ぼさず、その結果、ヨナは嘘つき呼ばわり、あるいは電波呼ばわり
されるかもしれないと思ったからだ。何とも聖書では異色な話である。
55 :
1:2011/03/21(月) 11:37:57.25 0
ここに、『聖書の集中構造 上 旧約篇』 森 彬著という本がある。
この森 彬の本は他に『聖書の集中構造 下 新約篇』、『新・聖書の集中構造』、
『ルカ福音書の集中構造』とあるが、似たようなことを書いた本がある中では、
俺は読んだわけではないが、この本が一番だと思う。この本はおすすめである。
この本にはヨナ書とエリヤ物語の対応が書かれている。しかし、俺には
これに対応するものが、新約聖書にもあると思う。
人を蘇らせたり、食べ物を何十、何百と増やすところは、はっきりと分かるところだ。
又、エリシャの物語(エリヤの後継者)もエリヤと似たところがいっぱいある。
はっきりとは分かりづらいようなところが考えどころである。
56 :
1:2011/03/21(月) 11:51:47.89 0
たとえば、船出したあとにイエスが寝ているところで、大波になり、船が沈むのでは、
というところは、まさに「ヨナ書」にあり、「使徒言行録」の終わり近くの
パウロ達のところにもある。そのヨナ書に対応するエリヤの話は海ではなく、ほら穴である。
また、ここには「眠る」というところが共通している。
そこで、他の「眠る」ところや、「ほら穴」なども、これらと関わるのか?
関わるとしたら、如何に関わるのか?という問題も設定できるかもしれない。
また、「船」と「荒波」と「ヨナ(鳩)」ということで、「ノアの箱舟」も大いに
関わっているかもしれないところである。
57 :
1:2011/03/21(月) 12:10:33.14 0
>>2Bでは、UFOは宇宙人の乗り物ではなくて未来人の乗り物であるという。
その可能性もある。しかし、俺は飽くまでも一つの可能性でしかない。
この現実が重複しているとしたら、その重複の一つに過ぎない。というのは、
>>2Aでリンクを貼った
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/philo/1245331664/ にも書いたとおり、
>現代、UFO目撃情報といえば、円盤や球形が主で、グレイタイプが主だが、
>実はそれはここ2、30年くらいに固まってきたもので、それ以前はもっと
>バリエーションに富んでいた。
>100年近く前は空飛ぶ未確認の飛行船の目撃が多く、
>もっと何世紀も前は空中で兵士達が戦争しているのが目撃されたという記録がある
ように、未来人にしても、宇宙人にしても、「空中での兵士が戦争」というのは
当て嵌まらないように思えるからである。
またファフロツキー現象などもどうやったら当て嵌るというのだろうか?
未来人にしても宇宙人にしても、存在するにしても、それは重複する現実のうちの
一つに過ぎないと俺は今のところそう考える。
58 :
1:2011/03/21(月) 12:27:36.18 0
あ、あと言っておくけども、俺そろそろ金銭面でやばくなってきたので、
いつ書けなくなるか分らない。
今の日本がソドムとゴモラか・・・
同性愛者の多さ・・・なる程・・・
ある教派は、今回の津波について予言成就かもと言っているようだが・・・
雨リアか中国の地震兵器
なんと
64 :
夢見る名無しさん:2011/09/28(水) 21:19:36.87 0
あ
い
ん
なんだか
68 :
夢見る名無しさん:2011/12/07(水) 16:03:03.97 O
寒いな
冷え込む
||ョ・д・。) 1さん、お金が尽きちゃったのかなぁ…?
71 :
夢見る名無しさん:
お金ない?