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330夢見る名無しさん
 「涼宮ハルヒの憂鬱」論

0.序論
 この論考は、「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品がかくも高い評価を得、その魅力を認知された核心的素因についての分析を目的とする。
 京都アニメーションの為した驚異的な映像技術的創作活動は無論、そこに飛躍的な付加価値を与え、世間に名を知らしめる一因となった。
 しかし、ここでは考察の焦点を物語それ自体が孕む本質に絞り込み、より根源的なハルヒの構造分析を試みることとする。
 それも偏に、映像的価値の消費の陰に潜み、かつその背後から真に人々を惹きつけたハルヒという物語の正体を解き明かし、
 その実体を明示化し得るということ、そしてこの作業に幾分かの発展的意義が結実することを確信するからに他ならない。

1.原初的体験の共有
 世界にはこんなにも数多くの人間が存在し、自分はその何十億分の一という「その他大勢」の脇役に過ぎず、
 物語の主人公のような面白おかしい人生が自分に与えられる必然性はどこにも無かったという気付き、
 そうした体験に伴う世界の色褪せが極限に達したところで、それがトリガーとなって長門の言う「情報爆発」が起こり、
 ビッグバンのように一人の少女を中心とした宇宙が開闢し、一つの物語が創生された、これがハルヒの基礎的な設定である。
 これは、幼児期か学童期、思春期かにより色合いは違えど、例えば「自分もただの人間であるがゆえにいつかは死ぬ」
 といった人生の有限性の認識など、様々な契機によって自己の幼児的全能感が否定されるという誰もが共有する体験の変奏であり、
 SFライトノベル風に戯画化されてはいても、このように琴線に触れ、意識の深層へ響く内容を含んだ作品は時に高い評価を受ける。
331夢見る名無しさん:2008/06/22(日) 16:38:56 0
2.ハルヒと人間一般との相似性
 しかし更に考究すれば、「環境情報を意のままに改変する」というハルヒの能力は、実は誰もが具備したものであることが分かる。
 例えば自由意思。これは、物理的領域の因果的閉鎖性を基礎的な前提とする現代の科学的世界観からすれば、人間の意識が、
 無から一つの因果関係を創出して物理的領域に介入し、環境情報に意図的な操作を加え得るという一種の超自然的能力に他ならない。
 刑法199条が殺人の処罰規定を置く前提は、故意の存在、即ち人が自由な選択において客体の死亡という結果を惹起し得ることである。
 しかしこれは、ラプラスの魔物に象徴される機械論的決定論を採用した場合、矛盾に陥るという問題が以前から法学上も言及されており、
 つまり、犯人が殺人を為したのは物理法則上の必然であるということになれば、結果回避可能性が失われ、有責性が阻却される以上、
 通常挙げられる幼児や心神喪失者といった責任無能力者に限らず、あらゆる殺人犯は不可罰という帰結が導かれるのだが、
 現実にあらゆる文明社会において殺人犯が処罰されていることから明らかな通り、人間に自由意思が存するという事実は、
 国民の常識や平衡感覚の体現者ともいえる最高裁判所長官さえもが公認を与えている、数学上の公理の如き証明不要の前提である。
 このように、「自由意思に基づく行為」とは、その実在自体が自然科学的な説明の埒外にある一種の超自然的現象なのであるが、
 その真理性は例えば血を流した人間を目にした時、そこに「他人の痛み」という非物理的対象が実在することを直ちに認めるのと同様、
 独我論者のような極端な哲学的懐疑を(建前として)主張する者以外ならば科学者でさえ素朴に認める常識によって担保されており、
 なおかつその規模も通常は人間の身体の物理的運動の枠内に限定されるという外観から、超常現象として扱われていないに過ぎない。
 つまりハルヒの超自然的能力は、誰もが本来的に備えると信じられている能力の拡大版に過ぎず、それゆえ暗黙裡の共感を呼ぶのである。
332夢見る名無しさん:2008/06/22(日) 16:43:34 0
3.物語内世界と現実世界とのリンク
 宇宙の物理法則がよく出来ているせいで、SFのような刺激的事件に遭遇することがないというキョンの諦観に呼応するように、
 全能であるはずのハルヒがなぜ宇宙人や未来人、超能力者の存在を望みながら、それに出会えず退屈に甘んじているのかという矛盾は、
 彼女がそうした願望を抱く反面、世界に秩序を求める常識、理性が意識内で鬩ぎ合っているからだとする古泉の解釈によって止揚される。
 自覚的に全能の力を行使し得る者がいたと想定してみれば、人生におけるあらゆる出来事が退屈極まりないものとなるのは必至であろう。
 どんなゲームに勝利しようと嬉しくもなく、どんなに荒唐無稽、驚天動地の事件も最早当たり前となり、全てが自慰行為と成り果てる。
 ある意味では、この世界が面白く在るためには、物理法則等をそう容易く改変できないといった自己の能力に対する制限が要請され、
 新鮮な出会いの驚きや喜びを味わうためにも、キョンのように自分に抵抗する、思いもかけぬ意思を有した他者の存在が不可欠となる。
 ここから、神が最終的に望むであろう世界の在り方、生の形態を追求した結果とは、正に平凡な人間ではないかという推論も成り立ち、
 この面白く、「大いに盛り上げる」うえで都合のいい世界が誂えられている点に着目すると、古泉の言う人間原理ともリンクしてくる。
 そしてもはやここに至って、ハルヒという物語は物語の枠を超え、ある視角から捉えたこの現実に対する一つの写生という姿を露にする。
 ハルヒは架空の物語の体裁をとりながら、本質的には我々の生きる現実世界の記述へも転化し得るということが、真に深い共感に繋がる。
333夢見る名無しさん:2008/06/22(日) 16:48:01 0
4.人生、或いは宇宙の実相への問い
 なお、自然界は物理定数をはじめあらゆる環境条件が出来過ぎと言える程に人間にとって好適に構成されており、
 それは即ち人間が認識することにおいて世界のあり方を必然的に決定しているとする、古泉の触れた一つの哲学的宇宙論に対しては、
 生物学的合目的性を説明したダーウィンの進化論における自然淘汰の原理を敷衍し、量子力学をはじめとする物理学的領域に援用すること、
 その一例として、シュレーディンガーの猫において劇的に示された、状態の重ね合わせと収束というパラドキシカルな現象の理解にあたり、
 とりわけ平行宇宙の存在を導入したエヴェレット解釈等と結びつけることで、仮説的に一つの解釈を与えることができる。
334夢見る名無しさん:2008/06/22(日) 16:49:47 0
 もとより宇宙の創成に遡れば、物理学者もこの宇宙と物理法則・定数の異なる別の宇宙が存在し得た可能性を否定してはいない。
 一瞬にして崩壊するものも含め、あらゆる宇宙は誕生していた。そして確率的にのみ記述された量子の状態が観測によって確定する各瞬間、
 そのプランク時間ごとにあり得た全ての可能的な宇宙は分岐し、自分は偶然にしろ必然にしろ、その中のただ一つの宇宙に生きるのである。 
 それは純然たる偶然なのか、或いはある意思を持った存在が現実化する宇宙を決定しているのか、それは正にこの世の永遠の神秘であるが、
 もしかするとそれは、面白い出来事を求め、「世界を大いに盛り上げる」ことを志向する何者かの力に由来するのかもしれない。
 ともかくも、あらゆる世界はあり得たのであり、ただ、より面白みのある人生を選択し、実現していくというベクトルにおいて、
 他の全ての可能世界は不適格として淘汰され、視界から葬り去られたに過ぎないのではないか。
 そしてこうした思索は必然的に次のような問いへと辿り着く。環境情報の自在な改変という能力を平行宇宙の恣意的選択と解釈するならば、
 その、宇宙を選択する能力は、ハルヒのような特別な存在に限って付与されているのか、それとも自分もまたもう一人のハルヒだったのか。
 単に意識の表層において望んだことが短絡的に現実化しないことをもってそれを否定することができないことは、前述3の通りである。
 世界は実は自己の創造的な意思の力によって面白い方向へと動きはじめているのかもしれず、しかし未だ決定的な瞬間は到来していない、
 この宙吊りになったような状況は、ハルヒに限らず、大抵の人間がどんな人生の局面においても置かれている境遇に他ならず、
 そしてこの人生の真相をハルヒの物語は鮮明な形で描いている。これもまた、ある種の直感を持つ者にとっては共感を禁じえないであろう。

5.結論
 以上、1から4までの段階を経たここまでの考察から一つの結論を集約するならば、
 ハルヒという物語に魅力を齎した核心とは、このような多様にしていずれも人生の根本に触れる深度における、一種の共感可能性である。