1 :
夢見る名無しさん:
誰かテキトーにageといてください
気合で2げっと
3 :
夢見る名無しさん:2006/08/08(火) 21:04:34 O
やる気ないけど3はもらう
アゲーン
5 :
リリン ◆0xj0ybNQg2 :2006/08/08(火) 22:03:52 0 BE:549914797-2BP(110)
アゲチン
6 :
夢見る名無しさん:2006/08/09(水) 00:54:27 O
揚げ
ちー
ポン
9 :
夢見る名無しさん:2006/08/12(土) 23:50:28 O
きち
中吉
たぬきち君
12 :
夢見る名無しさん:2006/08/14(月) 21:31:08 0
普通機
13 :
夢見る名無しさん:2006/08/14(月) 22:10:21 O
大凶
天国モード
継続
確率変動
17 :
夢見る名無しさん:2006/08/18(金) 22:54:45 0
突確
18 :
夢見る名無しさん:2006/08/18(金) 23:04:53 0
WWWWWWWWWW
わかったー
19 :
夢見る名無しさん:2006/08/20(日) 19:41:25 0
キックの鬼
20 :
夢見る名無しさん:2006/08/20(日) 19:45:54 O
ジョンベネ
再抽選
メガ天モード
23 :
夢見る名無しさん:2006/08/25(金) 00:57:41 O
ラッセルクロウ
潜確
ランプ
26 :
ぐるぢい人だずげでだずげないでいいよ(うましか):2006/08/27(日) 13:34:58 0
「高校球児なんて絶対嫌」
高校球児なんて絶対嫌
高校球児なんて絶対嫌
高校球児なんて絶対嫌
どっかーん
どっかーん
どっかーんと
破滅するまで
突き進むのだ
27 :
夢見る名無しさん:2006/08/27(日) 13:47:58 O
あー
.r‐――¬'''''゙| .r‐――¬'''''゙| .r‐――¬'''''゙|
.し,,-, ,,/ .し,,-, ,,/ .し,,-, ,,/
_/`.,,/` .,........................、 _/`.,,/` .,........................、 _/`.,,/` .,........................、
.,/` .“゙ ̄ ゙̄'''-、 ;|,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,! .,/` .“゙ ̄ ゙̄'''-、 ;|,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,! .,/` .“゙ ̄ ゙̄'''-、 ;|,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,!
| .,,,-'ニ二 ゙゙゙̄'i、 ゙l | .,,,-'ニ二 ゙゙゙̄'i、 ゙l | .,,,-'ニ二 ゙゙゙̄'i、 ゙l
゙‐'゙,r'"`,,,, `ヽ 丿 .│ ゙‐'゙,r'"`,,,, `ヽ 丿 .│ ゙‐'゙,r'"`,,,, `ヽ 丿 .│
.| .!、,7 "′,,/ .| .!、,7 "′,,/ .| .!、,7 "′,,/
`'-、___,―'"` `'-、___,―'"` `'-、___,―'"`
29 :
ぐるぢい人だずげでだずげないでいいよ(うましか):2006/08/27(日) 23:32:11 0
「高校球児なんて絶対嫌」
高校球児なんて絶対嫌
高校球児なんて絶対嫌
高校球児なんて絶対嫌
どっかーん
どっかーん
どっかーんと
破滅するまで
突き進むのだあ
+.゚(*´∀`)b゚+.゚
天竺モード
花満開
33 :
主:2006/09/03(日) 22:27:30 O
誰かこのスレあげます
34 :
トレイダーG7:2006/09/03(日) 22:32:35 O
貰います
35 :
ゆいちゃん:2006/09/03(日) 22:34:11 O
36 :
夢見る名無しさん:2006/09/03(日) 22:37:02 O
_
/〜ヽ
(。・-・) プリン
゚し-J゚
嗚呼モード
38 :
夢見る名無しさん:2006/09/09(土) 22:42:01 0
ヽ( ^ω^)ノ きもちイ〜ィ♪
( η )
ノ ωヽ
39 :
夢見る名無しさん:2006/09/12(火) 23:35:41 0
キイタソ
40 :
ほたて姫:2006/09/14(木) 03:08:11 O
⊂(´・○・`´・○・`)つ
ほっただお
~~
密網
43 :
ほたて姫:2006/09/21(木) 06:48:20 O
§§§(´・○・`キ)§§§
ほった網に引っ掛かっただお
44 :
夢見る名無しさん:2006/09/25(月) 00:31:12 O
ヲタだを
45 :
夢見る名無しさん:2006/09/25(月) 03:24:28 0
3jijyann
neruzo!
46 :
夢見る名無しさん:2006/09/28(木) 17:27:45 0
ノシ
47 :
夢見る名無しさん:2006/09/29(金) 00:25:59 0
ニャン
49 :
夢見る名無しさん:2006/10/05(木) 03:49:44 O
ヲタだお
50 :
夢見る名無しさん:2006/10/05(木) 05:52:51 O
当たり前じゃん!
ニャンニャン
ないね
53 :
ほたて姫:2006/10/11(水) 07:58:21 O
⊂(@´・∀・`@)つ
ほっただお
54 :
夢見る名無しさん:2006/10/13(金) 07:14:30 O
をたよくきた
55 :
夢見る名無しさん:2006/10/14(土) 20:56:48 0
ほ
とおるぜめんどくさ
玉玉
ほ
っと
檸檬
油
62 :
夢見る名無しさん:2006/10/24(火) 09:33:41 O
にきゅう
肉球
もふ
( ^ω^)ノぺんぺん
P18-
◆貧しい農村、リッチな都会
戦争中の食について知るためには、戦争になる前の食についても知っておく必要がある。
昭和初期の日本の家庭の食卓はどんなふうだったのだろう。
戦前の日本は、いまでは想像もつかないくらい、地域差や貧富の差が激しかった。
貧しかったのは農村だ。米どころでさえ、米だけを主食にしていた農家は少ない。
米は小作料として収穫の半分以上を物納させられたし、
それ以外の米は現金収入を得るための商品だったからである。
よって、大切にとっておいた白米は、年に二、三度、正月やお祭などの特別な日にだけ食べるもの。
ふだんの主食は売り物にならない「くず米」に丸麦や押し麦を混ぜた「麦飯」や、
野菜やいもや雑穀を混ぜた「かて飯」だった。
おかゆや雑炊をよく食べていた地方もあるし、農地の少ない山間部では、
あわ、きび、ひえなどの雑穀類や、いもが主食だった地域もある。
特に昭和の初期は、東北地方で冷害による米の凶作が続き、
栄養失調の子ども(欠食児童などとよばれた)がごまんと出た。
戦争中の食生活は悲惨だったというけれど、農村の食生活はもともと悲惨だったのだ。
いっぽう、都市では多彩な食文化が花開きつつあった。
主食はもちろん、お米屋さんが届けてくれる白米。
朝はパンとコーヒーでというご家庭もあり、ライスカレーはとっくに家庭の定番メニュー。
コロッケ、フライ、ハンバーグ、ロールキャベツ、シチュー、オムレツなども普及しはじめ、
町なかの洋食レストランやデパートの食堂が人気を集めていた。
下に示したのは一九三九(昭和一四)年、すでに戦争がはじまってからのレシピだが、
このころはまだ余裕があり、それまでと変わらず、バラエティに富んだメニューが婦人雑誌の誌面を飾っている。
日本料理の老舗・八百善と、帝国ホテルの料理長が指導する家庭料理。
なかなかの本格派だ。
豆知識としてつけ加えておくと、
すし、天ぷら、うなぎ、そば、うどんといった和食の定番メニューが確立したのは徳川時代の江戸。
西洋料理が日本に入ってきたのは明治だが、
それが「洋食」に化けて家庭に普及したのは大正から昭和の初期にかけてである。
「洋食」とは西洋料理を日本風に改造した和洋折衷料理のこと。
コロッケ、トンカツ、ライスカレー、すべて日本で生まれた「洋食」である。
日本人は外来の文化を自己流にアレンジするのが得意なのだ。
ぶるじょあ野菜通信か
P21-
◆改良こんろつきのシステムキッチン
台所の設備も都市と農村では隔たりがあった。
農村には台所という場所自体がなかった、と考えたほうがいい。
野菜や食器を洗うのは(ついでにいえば洗濯も)川で。
煮炊きは土間にしつらえたかまどか、一家団らんの場でもある囲炉裏でする。
飲用水は外の井戸からえっさえっさと運んできて、水がめで保存。
燃料はもちろん薪や炭である。
こんな状態では、料理に凝れというほうが無理な相談だ。
他方、都市では、一九二三(大正一一)年の関東大震災以降、ようやく台所らしい設備が整いはじめていた。
水道、電気、ガスといったインフラの設備は地域によってまちまちだったが、家庭にいちばん早く引かれたのは電灯で、
昭和初期には、地方都市から農山村まで光源のための電気がほぼ行きわたっている。
ガスと上水道の普及はその後だ。
東京の最新式の集合住宅なら、水道の蛇口のついた小さな流しに、ガスこんろが一個。
郊外地方都市の家庭では、水は井戸で(台所にひきこんで蛇口をつけたのもあったが)、煮炊きの器具は、
かまど、七輪、改良こんろ(炭や石油を燃料とするこんろがこうした名前で売られていた)などを併用していた。
それでも蛇口をひねれば水が出て、マッチ一本で火がつくこんろが出てきたことで、調理の幅は広がった。
かまどじゃさすがに、ケーキは焼けない。
キチガイ破産宣告だ
注意が要るのは、当時の台所には冷蔵庫がなかったことだ。
夏場には氷冷蔵庫を使う家庭もあったが、一年中ではない。
食品は必要な量をそのつど買うのが当時の生活だったといえるだろう。
もっとも下町では一歩外へ出ればお店があったし、山の手や郊外の家庭にはご用聞きや行商人が出入りして、
野菜や魚介を届けてくれる。
コンビニやデリバリーの発達した現代の生活に、その点は似ていたかもしれない。
米もまともに食べられない農村と、多彩な食品が手に入る都会。
戦争になってしばらくたつと形勢逆転。
都会からは食物が消え、自給自足の農村には食物が残っている、という皮肉な事態になるのだが、
戦争前にそんなことを予測していた人はだれもいなかった。
呆け老人の相手して面白いか?
争うように平らげてよ
さわってよ
本場の味を知るシェフの舌が合格のバロメーターです
P29-
◆雑誌が広めた栄養学の知識
食の近代化、すなわち婦人雑誌が広めた食にまつわる概念は、二つあったと思う。
ひとつは食についての科学的な知識である。簡単にいえば栄養やカロリーの問題だ。
日本の主食は米である。麦や雑穀を混ぜたご飯だったとしても、中心はまあ米である。
で、主食が米だということは「米ばっかり食べていた」のに等しい。
つまり庶民は「料理」なんか食べていなかったわけ。
一汁一菜あれば上等なほう。
おかずといえば、ちょっぴりの野菜の煮付け、漬け物、味噌汁、その程度。
有名な宮沢賢治の詩「雨ニモ負ケズ」に「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」という箇所があるけれど、
実際にも、よほどのお金持ち以外、日本の基本的な食事はそんなふうだったのである。
キチガイ既得権益層共が
壁面本棚に下層社会の収奪物件を綺麗に収納か
それではいかん、ということで、日本人の体位を向上させようと、
大正期になって、ようやく西洋式の栄養学がとりいれられる。
そして科学者の指導のもと、食生活改善運動というものが起こった。
これは「米ばっかり」の食習慣を徐々にだが変革した。
からだを健康に保つには、炭水化物、たんぱく質、脂肪という三大栄養素が必要なこと。
元気に活動するためには必要とされるカロリー値があること。
ビタミンや無機質が欠乏すると病気になること。
栄養のバランスをとるには一日の「献立」を考えなければいけないこと。
――栄養学の基礎の基礎ともいうべきこうした知識が広まったのは昭和初期。
家庭料理のメニューが豊富になった時期と重なっている。
女学校や婦人雑誌はだてに飽食をあおったわけではなく、栄養学の見地から料理指導に力を入れたのである。
ついでにいうと、カップ何杯、大さじ何杯というように、
材料を計量する習慣も、女学校の調理実習や婦人雑誌が定着させたものだ。
勘と経験に頼っていた調理法にも合理性が導入されたわけである。
517 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:24:20.19 ID:aO7yp4FV
どうも糸井がいると安っぽいサブカルに見える
料理にも大東亜共栄圏の影
P38-
◆戦争初期はイケイケ気分
戦争がいつはじまったかを特定するのは、むずかしい。
十五年戦争(一五年間続いた戦争の意味)という呼び方は、関東軍(中国に駐屯する日本陸軍)が満州鉄道を爆破し、
軍事行動を開始した一九三一(昭和六)年の柳条湖事件(満州事変)から戦争ははじまり、
一九四五(昭和二〇年)に終わったとする考え方にもとづいている。
しかし、満州事変のころは、物価の高騰で生活は苦しかったものの、戦争という自覚はあまりなかった。
人々の実感としては、一九三七(昭和一二)年七月七日の盧溝橋事件(北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した事件)
をきっかけにした日中戦争のはじまりが「戦争の時代のスタート」だったようである。
ただ、戦争といっても、このころはまだイベント気分。
一〇月の上海戦の勝利や一二月の南京陥落が報道されると、祝賀ムードに国じゅうがわいた。
この年に流行したのが、「千人針」である。
一〇〇〇個の印をつけた布に一人が一針通して糸を結ぶ。
これを腹に巻けば敵弾も避けて通るというジンクスがあり、道ゆく人に糸を結んでもらおうと、
出征兵士にもたせる布を手にした人が街角にあふれた。
プンタレッラ試験栽培
520 名前: 公共放送名無しさんi [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:24:30.27 ID:5UMB7ADB
だから出てくるなって糸井
あぼ〜ん機能テレビにもつけられねえかな
婦人雑誌にも、戦争気分を盛り上げる勇ましい記事が載った。
下は「銃後女性軍詩画行進」と題されたグラビアページに載った詩だ。
戦争が激しくなるのを待ち望んでいるかのような調子。
戦争は遠い中国でのできごとだったし、日本は勝っていたから、家族が戦死したような場合は別として、
ふつうの人の間には「イケイケ」の気分がまさっていたのだ。
この感覚を理解するには、二〇〇二年六月のサッカーの国際大会、
ワールドカップを思い浮かべてみるといいかもしれない。
たとえば日本軍が南京を占領した一九三七(昭和一二)年一二月一三日の翌日には各地で提灯行列が行われた。
それは、W杯で日本チームが勝利した日の「ニッポン、チャチャチャ」な雰囲気と似ていたのではなかったろうか。
戦争とスポーツはちがうといわれるかもしれないが、自分の国を応援し、勝てば国じゅう歓喜に沸く点は同じ。
というか、国をあげての命がけの真剣勝負なだけに、盛り上がり方はもっとすごかったかもしれないのだ。
だから戦争はこわいのである。
541 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:26:47.14 ID:43H/Mytf
>>520 糸井はユニクロと組んで失敗した野菜生産農家を自サイトで紹介してたりしたよ。
544 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:27:09.45 ID:85Tv0Xr1
ナレーション泣かせなプンタレッラ 元気のミナもとに出してみよう
なぜ米が足りなかったのか
P62-
◆米不足の原因は朝鮮の凶作だった
それにしても、なぜ日中戦争の時期に、急に節米が必要になったのだろうか。
もちろん米が不足していたからである。
しかし、なぜ米が不足したかまでは、知らない人も多いのではないだろうか。
意外なことに、米不足の原因は必ずしも戦争ではなかったのだ。
節米が必要になった第一の理由、それは日本が慢性的な米不足に陥っていたことだ。
明治以降、米の消費量は上がり続けてきた。
農業技術の進歩などで生産量も上がったために、なんとか生産と消費のバランスを保ってはいたものの、
二〇世紀に入ったころ(明治三〇年代)から、国内生産だけではおぼつかなくなり、米の輸入がはじまった。
インドやタイから輸入した外米(南京米)に頼ることになったのである。
南京米は貧しい農民や労働者の主食になった(なんと米の生産者である農民は、
しばしば米を売った金で自分たちは安い南京米を買い、それに麦やいもや雑穀を混ぜて食べていたのだ!)。
鮮度が鮮度が
544 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:27:09.45 ID:85Tv0Xr1
ナレーション泣かせなプンタレッラ 元気のミナもとに出してみよう
大正期からは、日清・日露戦争で日本の植民地下に入った台湾や朝鮮で米の増産が進められ、
移入米(植民地の場合は輸入ではなく移入という)で不足分を埋めるようになる。
一九三九(昭和一四)年前後を例にとると、国内消費量の約二〇パーセントが、
台湾と朝鮮からの移入米でまかなわれている。
こちらのほうは国産のうるち米に近い品種で、しかも価格は国内産より二−三割安かった。
大正末期から昭和初期にかけて、都市の住民に白米が広くいきわたったのは、台湾と朝鮮から入る米のおかげだったのだ。
しかし、国内の米の生産は伸び悩んでいた。
昭和初期の恐慌と厳しい小作料で、農民がどんどん都市に流れていたところへもってきて、
台湾や朝鮮から来る安い移入米も農民の生産意欲を失わせた。
節米が必要になった直接の原因は、一九三九(昭和一四)年の旱ばつで、朝鮮が空前の凶作に見舞われたことだった。
それで頼みの綱の移入米が、あてにできなくなったのである。
しかも、このころには台湾でも朝鮮でも米の現地消費量が上がっていたから、いままで通りの移入量は期待できなくなった。
そこで政府は、東南アジアからの輸入米に再び頼ることにした。
一九四〇(昭和一五)年に外米を混ぜた米が販売されたのは、そのためだったのである。
516 名前: T.O.L.A. ◆MYWAY4076w 投稿日: 2006/10/29(日) 06:24:07.33 ID:awCKGytH
野菜といえば、飯島愛だな。
519 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:24:28.94 ID:fG5HH0eB
>>516 kwsk
530 名前: T.O.L.A. ◆MYWAY4076w 投稿日: 2006/10/29(日) 06:25:16.29 ID:awCKGytH
>>519 飯島愛がマ○コにナス入れるヴィデオがある。
539 名前: 公共放送名無しさん ◆hem/I3tSdk [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:26:39.16 ID:JqEthX8v
>>530 あういうのどうも苦手
食べ物を粗末にしちゃいけないってのもあるけど、なんかね
548 名前: ナトリウム灯 ◆Na10WtoPEc [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:27:35.67 ID:NuXPoooK
>>539 ※スタッフが美味しく頂きました
投稿日: 2006/10/29(日) 06:30:07.51 ID:SDWH1uQn
>>548 フジテレビ批評で ダイバスターで使った掃除機で柿の種を吸い込んだモノを本当に食べたのかって投書きてきた 視聴者バカにするなって書いてあった
P71-
◆米の配給制度がはじまった
米の本格的な統制がはじまったのは、日中戦争が泥沼化した一九四一(昭和一六)年ごろからだ。
一九三九(昭和一四)年から、米の直接統制はすでにはじまっていた。
米不足になれば、米の価格はどんどん釣り上がる。
そこで政府は、米の買い占めや売り惜しみを防ぐため、
この年の一一月から、決まった価格で農家から米を強制的に買い上げ(供出という)、
決まった価格で国民に払い下げることにした。
以来、米は自由に売買できる商品ではなくなった
(政府は統制の強化と徹底をはかって一九四二年に食糧管理法を定め、この法律は一九九五年に廃止されるまでつづいた)。
一九四一(昭和一六)年四月には、限られた量の米を平等に分配するため、
六大都市(東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜)で米の配給通帳制度がはじまった。
やがてこの制度は全国にひろがる。
配給通帳制の下では、一人あたり決まった量の米しか手に入らない。
一一歳から六〇歳までの一人一日あたりの配給量は二合三勺(三三〇グラム)。
それまでの平均消費量が一人一日三合(四五〇グラム)だったことを思うと、二割五分も減らされたことになる。
しかし、配給制度にはいい面もあった。それまで米をまともに食べられなかった貧しい農民や労働者にも、
米が平等に分配されるようになったのだ。
都市と農村の間に見られる食事の格差、とりわけ農村に栄養が不足していることを、政府も自覚していたのである。
そのため国の栄養指導者は、節米運動と平行して、国民の意識改革にもじつは乗り出していた。
589 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:32:43.38 ID:43H/Mytf
糸井推薦ユニクロ大失敗の永田農法キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
栄養基準という皮肉
P73-
◆一日に必要な栄養素が決められた
国民が健康を維持するために、一日にどのくらいのエネルギーと栄養素をとったらいいか、
その目標となる数値を「栄養所要量」という。
この栄養所要量の元祖ともいえる「国民食栄養基準」が日本ではじめて決められたのは、
戦時中、一九四〇(昭和一五)年一一月のことだった。
国民が健康でなければ総力戦は戦えないという判断だったのだろう。
具体的な数値は、中程度の労働をする成人男子(三一〜六〇歳)の場合で、
一日二四〇〇キロカロリー(女子は男子の八〇パーセントで一日二〇〇〇キロカロリー)。
たんぱく質が一日八〇グラム。
ちなみに現在の栄養所要量の数値は二三〇〇〜二六五〇キロカロリー、たんぱく質七〇〜八五グラム
(「適度な生活活動強度」の一八〜六九歳の男子の場合。数値の幅は年齢によって数値が異なるため。
「第六次改定日本人の栄養所要量」による)だから、いまとほとんど変わりない。
かくて食糧報国連盟の指導の下、「国民食運動」がはじまった。
「国民食」の基準に沿った一日の献立を考えようとの趣旨である。
特に動物性たんぱく質が足りない農村での指導に力が入れられた。
下に紹介したのは婦人雑誌に載った「国民食」の献立の一例だ。
一汁一菜を基本とした簡素な献立ではあるものの、必要な栄養素がとれるよう考えられている。
ただし、国民食は皮肉な結果を招くことになった。
発想は悪くなかったが、時期が悪すぎたのである。
P76−
現実とかけ離れた理想論
国民食では、一日に必要な食品の種類別の量も提示されていた。
主食は一日五〇〇グラム(米が四〇〇グラム、麦と雑穀類が一〇〇グラム)、
肉や魚などの動物性たんぱく源は一日一〇〇グラムといったようにだ。
しかし、さっきも述べたように、当時の日本は米不足。
国民全員が一日四〇〇グラムの米を食べることなど、実際には不可能だった。
だからこの半年後に実施された配給でも、米は三三〇グラムに抑えられたのである。
米だけではない。
ありとあらゆる食品が、まもなく不足しはじめる。
国民食は一日に必要な栄養素という概念を植えつけただけ。
現実とかけ離れた単なる理想にすぎなかった。
そして日本の食生活は、このころから破滅への道を歩みはじめるのである。
613 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:35:15.01 ID:Jym1tRyn
インゲンが育ったのがそら豆
617 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:35:20.75 ID:pVxahtd4
親がお肉ばっかり買ってくる。
3 お台所の戦闘配置 ――太平洋戦争下のレシピ
配給時代の食生活戦争
P78-
◆太平洋戦争がはじまった
節米料理が流行し、米の配給通帳制がはじまったとはいっても、
一九四一(昭和一六)年までの料理ページにさほど大きな動揺や変化はない。
〈いよいよ時局の重大さの加わるにつれ、毎日のお惣菜も今までとはぐっと心構えを変えて、
何でも手に入る材料を工夫して、できるだけ栄養本位に、しかも美味しく簡単にできるものでなくてはなりません〉
(『主婦之友』 昭和一六年九月号)
といった心構えこそ繰り返し述べられてはいたものの、肉も魚も野菜も当たり前に登場し、
バラエティに富んだ料理が以前と変わらず誌面を飾っていた。
婦人雑誌の料理記事ががぜん緊張感を増すのは一九四二(昭和一七)年、
戦争が第二の局面(満州事変から数えれば第三の局面)に突入したころからだ。
一九四一(昭和一六)年一二月八日、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し(日米開戦)、
太平洋戦争(日中戦争とあわせて大東亜戦争と呼ばれた)がはじまったのである。
626 名前: 公共放送名無しさん ◆hem/I3tSdk [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:37:17.42 ID:JqEthX8v
内村の番組は、おもしろいのに消える
上々とか、内Pとか
あと、南原が入るとつまらなくなる
銃後を守る人々にも、いっそうの戦争協力と耐久生活が求められた。
軍需に回す金属を集めるために「金属類回収令」が出て、
子どものおもちゃからお寺の鐘までの金属製品が供出させられたりもした。
日本政府は太平洋戦争を「自存自衛(列強の支配を退けて国が自立すること)」「大東亜共栄圏建設」と位置づけていたが、
実際には日中戦争が泥沼化し、軍需物資の枯渇を補うために、
石油、鉄鉱石、ゴム、ボーキサイト(アルミニウムの原料)などの資源を南方に求めたことが大きかったともいわれる。
真珠湾攻撃とその二日後のマレー沖海戦で米英に打撃を与えた後、日本軍はしばらく快進撃を続け、開戦から半年ほどの間に、
フィリピン、インドネシア、マレーシア、ビルマといった東南アジア一帯から南太平洋の群島にいたる広い地域を占領した。
国民がこれを歓迎したのは、日中開戦(盧溝橋事件)のときと同じである。
一月のマニラ陥落、二月のシンガポール陥落、三月のラングーン陥落。
いずれのときも、国内では戦勝を祝う提灯行列が行われた。
内心、生活の不安がなかったはずはない。
しかし、このときもまだ、人々はことの重大さに本当には気づいていなかったのである。
夜盗虫被害
632 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:38:11.81 ID:wXm47CBU
おいらは所点見てから寝るよ・・・
じゃおまいら又ね
おやすみ・・・・・・・・・・
P97-
◆生大豆粉と卯の花
魚介以外のたんぱく源として早くから注目されていたのは大豆である。
といっても豆腐や納豆のような伝統的な大豆食品ばかりではない。
戦時レシピによく出てくるのは「生大豆粉」「大豆粉」などと記された謎の粉と、
豆腐の絞りかすの「卯の花(おから)」である。
生大豆粉は、炒った大豆を粉にした「きな粉」ではなく、文字通り「生大豆」の粉だ。
〈戦時下の家庭食品として、生大豆粉という経済と栄養と美味を兼ねた新食品が現れました。
大豆が栄養に富んで居ることは誰方も御存じのことですが、この大豆粉はいろいろの料理に応用が出来、
肉や玉子の代用として充分栄養が摂れる便利なもので、陸軍糧秣廠などでも非常に推奨しております〉
(白井鶴子『婦人倶楽部』昭和一四年一二月号)
といった記述を見ると、代用肉として開発された新式の植物たんぱく食品みたいだが、
大豆の最大の用途はもともと食用油である。
生大豆粉の正体は、脱脂大豆(油を絞った後の大豆かす)を乾燥させた粉
(大豆フラワーまたは大豆ミール)だったのではないかと思われる。
平時には飼料用か、せいぜいソーセージのつなぎに用いるくらいのもので、
「経済と栄養」はともかく、味の点ではかなりあやしい。
実際、〈生大豆粉のままでは、非常に青臭くて食べられませんから、一旦火に通して用います〉
(『婦人倶楽部昭和一七年一二月号)というような指導もあり、ほうろくで炒ってきな粉のようにしてから使うか、
豆乳状に絞って使うのが一般的だった。
パン生地に混ぜる、コロッケやメンチボールのつなぎにする、揚げ物の衣にするなど、用途は主として小麦粉の代用品である。
649 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:40:06.47 ID:43H/Mytf
警察に職務質問されそうだなw
得体の知れない生大豆粉に比べると、重宝されたのが卯の花だ。
ご飯に炊き込む、そぼろにして丼にする、ハンバーグのつなぎにするなど用途も豊富。
豆腐の配給日にはいっしょに手に入った地域もあり、戦時レシピのスーパースターのひとつである。
〈卯の花は動物の飼料などと、とかくなおざりにされ易いものですが、これほど安価で栄養の多い食品はございません。
時節柄大いにこれをお惣菜に利用して国策にそうことにいたしましょう〉
(『婦人倶楽部』昭和一五年三月号)
なんていっていたのは過去の話。卯の花もこのころには、単なる増量材以上のものに昇格していた。
こうしてみると、戦時中のたんぱく源は、平時には飼料用や肥料用だった素材までかき集め、
やっと配給に回していたという気配が強い。
国民食栄養基準が決められ、米だけでなく動物性たんぱく質を積極的に摂ろうという気運が
浸透しはじめた矢先のたんぱく質不足はきわめて深刻なものだったといえるだろう。
しかし、貝や魚で盛り上がっていられたのもここまでだった。
翌年になると、配給のようすが変わり、副食のレシピ自体が減ってしまうのである。
608 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:34:52.61 ID:ISlV9mNK
そういや最近はコピー書いたりしてるのかな糸井さんは
618 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:35:34.99 ID:aO7yp4FV
>>608 ジブリはほとんど手がけてるな。ゲドは違うらしいが。
628 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:37:31.69 ID:ISlV9mNK
>>618 へえージブリのアニメのコピーて糸井さんだったんだ
知らなかったよ
ちゃんとコピーライターなんだな
640 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:39:03.78 ID:ipo3wxxf
>>628 結構付き合いは古いだろ
トトロで父親役をやる前からの付き合いらしいし
食糧戦を勝ち抜こう
P102-
◆戦局の悪化と配給の悪化
婦人雑誌のレシピは、そのときそのときの食糧事情を如実に反映する。
一九四三(昭和一八)年に入るころになると、再び「節米時代」がやってきた。
婦人雑誌そのものの雰囲気も大きく変わった。ページ数が大幅に減り、カラーページも消え、料理記事も激減したのだ。
そのかわり、以前にもまして誌面には精神主義的なお説教が多くなる。
料理ページには「食糧戦」ということばまで登場した。
背景には戦況の悪化があった。四三年二月、日本軍は連合軍との消耗戦の末、ガダルカナル島を放棄。
五月にはアッツ島で玉砕(全員戦死または自決)。以後、各地での玉砕が続いた。
要するに負けがひどく込んできたのである。
太平洋での制空権と制海権を失った日本は孤立し、国外から入ってくる物資はあてにできなくなった。
戦地に食糧を送る船は次々に沈められ、補給を断たれた前線でも飢餓状態に陥るありさま。
政府は「食糧増産」「自給自足」を叫ぶようになるが、男性は戦地へ、
女性は軍需産業へと駆り出されている以上、国内の食糧生産力も落ちていた。
634 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:38:38.00 ID:fG5HH0eB
>>632 おやしみー
銃後の食生活に目を転じると、まず配給が滞るようになった。
遅配(配給が遅れること)や欠配(配給そのものが途絶えること)が日常茶飯事になり、
もはや配給だけで暮らすことは不可能になる。
では、人々はどうやって食材を確保していたのだろう。
ひとつの方法は、汽車に乗って郊外の農家に買い出しに出かけること。
もうひとつは「闇」と呼ばれる非合法なルートに頼る方法だ。
一九三九(昭和一四)年一〇月に価格等統制令が施行されて以来、
すべての物資は政府が決めた値段(公定価格)で取り引きすることになっていた。
「闇」というのは、この公定価格に違反した価格でモノを売買することをいう。
もちろん法律違反だし、闇取り引きの場では、公定価格の何倍、ときには何十倍もの値がつく。
警察は取り締まりにやっきになったが、それなしで暮らせた人はほとんどいなかった。
P102
戦地の苦労を思い起こせ
■お台所の頑張り戦
長期戦になって、国と国との総力をあげての戦争だということが、
私達の日常生活にもヒシヒシと感じられて来ました。
鍋一個、大根一本が直接戦争と連り、国家と連っていることを、
今度ほどはっきり感じたことはありません。
国民と国民の頑張り戦、それで勝った方がこの戦争に勝つ――今では敵もそれを充分に考えています。
その国民生活の頑張り戦の中心は、何と云ってもお台所です。
その大切なお台所を預かる私達が、不平を鳴らしたり、悲鳴をあげたりしてしまったら、もう戦争は負けになります。
(『婦人倶楽部』昭和一八年一月号)
684 名前: 公共放送名無しさん ◆hem/I3tSdk [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:44:05.96 ID:JqEthX8v
夜、日本語ではない言葉を交わしながら土を掘る数人の男が・・・
685 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:44:24.50 ID:jR763kwO
この保存した野菜が猛吹雪の際の非常食に
P103
■お台所の増産計画
南太平洋の基地では、食糧を運ぶ船舶を一隻でも兵器輸送に回そうと、
雨霰と降る弾丸の中で畠を作り、食糧の自給自足に努めておられると聞きます。
敵米英を叩き潰すためならば、どんな困難も頑張り抜く覚悟は、
私達主婦にももう充分にできているはずですけれど、ただ不自由に耐えるというだけでなく、
もう一歩進めて家庭内の食糧増産まで考えてゆかなければならぬと思います。
空地を耕して野菜を作るばかりでなく、今の場合、与えられた材料を一つの無駄もなく、
それを五倍にも十倍にも効果的に使ってゆくことも、大切なお台所の増産と言えるのではないでしょうか。
(『主婦之友』昭和一八年一二月号)
691 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:45:10.95 ID:43H/Mytf
またルソーか
戦争末期はサバイバル
P126-
◆灯火管制・学童疎開・防空壕
戦争中に空腹で苦しんだという話は、ほとんどが太平洋戦争末期の一九四四―四五(昭和一九―二〇)年に集中している。
この二年間は、前線の兵士はもちろん、銃後の人々にとっても、人間性を剥奪された魔の期間だった。
食べ物の決定的な不足に加え、生命の危険にも日々さらされるようになったのだ。
一九四四(昭和一九)年一〇月、レイテ沖海戦で日本の連合艦隊は壊滅する。
それと同時に特攻隊(敵艦に飛行機ごと体当たりする部隊)が初出撃。
戦争は末期状態になっていた。日本の船舶の四〇パーセント以上が撃沈され、物資の輸送は完全に滞った。
それでもいっこうに降服する気配のない日本に打撃を与えるため、アメリカは日本本土を空襲する作戦に出た。
初の本土空襲は日米開戦の四か月後、一九四二(昭和一七)年四月のことだったが、
これはB25という中型爆撃機によるもので、人々の危機感は薄かったようだ。
本格的な本土空襲は、一九四四(昭和十九)年一一月二四日が最初だった。
B29という大型長距離爆撃機が、この日東京を空襲。
以来、B29が日本中の都市に爆弾を投下することになる。
695 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:45:41.15 ID:85Tv0Xr1
ジミーちゃんみたいなもんか
697 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:45:45.36 ID:Ae6PdUNL
これ見るの3回目だ
698 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:45:55.68 ID:EcJ++4ME
さすがにルソーちょっと飽きてきた
その直前くらいから、都市の暮らしも破壊された。
窓からもれるあかりが敵機への目印になるとして「灯火管制」が敷かれ、
夜は電灯に黒い布をかぶせなければならなくなった。
空襲に備えて外に「防空壕」を掘り、空襲警報が鳴るたびに、身の回りのものを持って壕に逃げこまなければならなかった。
こんな状態では、おちおち夜も眠れない。都市の住民の多くは親類縁者を頼って安全な土地に疎開(田舎に避難すること)。
一九四四(昭和一九)年の夏からは「学童疎開(集団疎開)」もはじまって、
都市の国民学校(当時は小学校をこう呼んだ)の子どもたちは全員親元を離れ、慣れない農村で集団生活をすることになった。
当時子どもだった人々にとって、戦争の記憶は空腹と疎開の記憶に結びついていることが多い。
699 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:46:04.32 ID:fG5HH0eB
むう、呑みすぎた
寝る
おやしみー
702 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:46:21.01 ID:XOYMUmkH
>>699 ノシ おやすみー。
703 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:46:32.38 ID:wsRvLzEh
ヘタウマなルソーキタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━!!!!
706 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:46:49.49 ID:ISlV9mNK
怒ったモデルが絵に銃弾を撃ち込むんだよね
って覚えるくらい見た・・・
P126-
精神の力で乗り切れ
■足りないのは食糧ではなく反省
この頃の都市の野菜の配給は、従来から見れば多少窮屈になっていることは事実です。
それでも欧州の国々の現状から見れば、想像もつかぬほど潤沢で余裕があるのです。
わが国は地域は狭いが、陽の恵み、地の慈しみに溢れて山の幸、海の幸に満ちています。
米のほかに麦があり、雑穀があります。
肉は乏しくとも魚や貝があります。
芋も大豆も野菜もあります。
立派に食用になる無数の植物が生い茂っています。
前大戦でドイツが敗れた時、ベルリンの郊外は数里にわたって樹木の葉まで、
青いものはすべて食いつくしたといわれています。
それに比べてわが国の現状はどうでしょうか。
足りないのは実は食糧でなくて、食糧に対する反省です。
食事に対する工夫です。
戦時生活を実践する決意と労力です。
(教学練成所練成官・医学博士・杉靖三郎/『婦人倶楽部』昭和一九年六月号)
718 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:48:12.04 ID:NkLmYIzL
ルソーは人間描かなきゃいいんだけどな
焼け跡での非常炊事
料理道具は何一つ持ち出せなかったとしても、バケツで結構御飯が炊けます。
洗面器で汁もできれば煮物もできます。退避壕の入口にあるシャベル、これは立派なフライ鍋。
もし油があればこれで非常袋の中の乾燥野菜を炒める。
こうした機転で同じものも美味しく食べられるのです。
爆風で落ちた瓦、これも重宝な調理器具、お米やお豆が即座に炒れます。
干魚も焼けます。
(川島四郎大佐/『主婦之友』昭和一九年一〇月号)
721 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:48:31.85 ID:wsRvLzEh
いやうまいのか?
なんかピカソと違ってデッサンとかの基本技術とかおかしくないか?
725 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:49:14.57 ID:MXeFlspB
>>721 基礎が無いと言ってるやん
なぜ戦争は食糧難を招くのか
P174-
◆戦地に送るから食べ物がない?
根本的な問題に立ち返ってみよう。
戦争になると、なぜ食べ物が欠乏するのだろうか。
戦争体験者の答えは案外と心もとない。
「軍隊に食糧を供出させられるからでしょう?」
戦地の兵隊さんに送るから食糧がない――これは理屈にあっていない。
たしかに軍隊は兵士の食糧を大量に必要としたが、兵士が何人いようと、国民の総人口そのものは変わらないのだ。
まして旧日本軍は、食糧について甘く見ていた。
太平洋戦争がうまくいかなかった理由のひとつは、食糧の補給や現地調達に失敗したことだ。
補給船が次々に沈められ、南方の島では兵士たちが自ら土地を開墾し、いもやかぼちゃを育てた。
それでも大勢の餓死者が出たのである。戦地では内地よりいっそう食糧に窮していたのだ。
732 名前: 公共放送名無しさん [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:50:03.49 ID:CFfvKvO4
相変わらず死後だよな・・・貧乏芸術家が評価されるのって
735 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:50:15.70 ID:KuNWp6R3
元祖ヘタウマか
戦争になると、なぜ食べ物がなくなるか。
ひとつめの理由は、すべての産業に軍需が優先するからだ。
男たちは戦地に召集され、戦地に行かない男女は軍需産業に駆り出され、
繊維工場や食品工場など、日用品を作る工場もことごとく軍需工場に転業させられた。
農村の人手は手薄になり、それまで伸び続けていた米の生産量は、一九四〇(昭和一五)年をピークにとうとう減少に転じた。
もうひとつの理由、それは輸送の問題だ。
戦争になると、どこの国でも「食糧の国内自給」を呼びかける。
それは経済封鎖や海上封鎖などで輸送路が断たれ、外から物資が入ってこなくなるからだ。
食料品だけの話ではない。
石油であれゴムであれ、資源のどれかひとつが欠けても近代国家の機能は麻痺する。
一九四一(昭和十六)年に、アメリカが対日石油輸出を禁止したことで、日本は大打撃を受けた。
その穴を埋めるために東南アジアへの進出を企て、太平洋戦争をしかけたものの、
制空権も制海権も奪われて、資源の備蓄は減る一方。
燃料がなければ国内の輸送だって滞る。
どこかに食べ物があったとしても、家庭に届かなければないも同然なのである。
戦争は戦闘や空襲のことだと思ってしまいがちだ。
しかし、戦闘は戦争のほんの一部分でしかない。
戦争の大部分は、物資の調達、運搬、分配といったいわば「お役所仕事」である。
日本政府と旧日本軍はそこを甘く見ていたということだ。
737 名前: 公共放送名無しさん 投稿日: 2006/10/29(日) 06:50:17.35 ID:kfXsUT4w
美術っていい加減なんだな
P179-
◆まだまだ続いた食糧難
戦争は食物の地位を変える。戦争がはじまってしばらくの間、いもやかぼちゃは「代用食」「増量材」の地位にとどまっていた。
「あーあ、またかぼちゃ?」の世界である。ところが、さらに食糧難が進むと「せめてかぼちゃをお腹いっぱい食べたい」になる。
戦後の食糧難は、戦時中以上に悲惨だったといわれる。
主食はあいかわらずのさつまいも。
焼け跡のバラックで生活を再スタートさせた人々を待っていたのは「たけのこ生活」であった。
農家へ着物を持参し、食糧と交換してもらう。
着物を一枚一枚はがすような生活なので「たけのこ生活」。
買い出しの苦労も戦時中以上だった。
しかし、精神的な重圧感がとれたことの解放感は大きかったにちがいない。
食糧難はたしかに悲惨だ。
しかし、台湾、朝鮮、満州といった植民地や占領地の食生活はもっと苦しかったし、日本の農村も貧しかった。
食糧難はすぐれて政治的な問題である。
戦時中の食糧難は、いまなお世界中で起きている飢餓の一端を、日本の都市住民がたまたま経験した得がたい機会だったともいえる。
戦争になれば必ずまた同じことが起きる。戦争の影響で食糧がなくなるのではない。
食糧がなくなることが戦争なのだ。
その意味で、先の戦争下における人々の暮らしは「銃後」でも「戦時」でもなく「戦」そのものだった。
だから「戦時下」ではなく「戦下」のレシピなのである。
こんな状態からようやく日本が抜け出したのは一九四九(昭和二四)年ごろになってからだった。
722 名前: 公共放送名無しさん ◆hem/I3tSdk [sage] 投稿日: 2006/10/29(日) 06:48:39.11 ID:JqEthX8v
凄いよな、この情熱
しかもこの絵だし、たぶん変な人だったんだろうな