新場 (´Θ`) アラバマ州。
2 :
夢見る名無しさん:2006/03/02(木) 00:05:43 O
オモロイスレタイだね
書く時いつもバランス狂うよ、潟は
3 :
夢見る名無しさん:2006/03/02(木) 00:09:23 0
臼(うす)は?
4 :
夢見る名無しさん:2006/03/02(木) 00:32:53 O
うわあい!うわあい!石原先生の男恨祭りだ!!!!
ワッショイ!ワッショイ!
5 :
夢見る名無しさん:2006/03/02(木) 00:40:37 O
俺もあれは何か嫌だ!
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 先生!また石原です!
\__ _______________
∨┌─────── / /|
| ギコネコ __ | ̄ ̄| ̄ ̄| ̄ ̄| |
| 終了事務所. / \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | ∧∧ | < ふざけやがって!終了だ!ゴルァ!
(゚Д゚,,)| \________________
∧∧ .※ ⊂ ⊂|. |〓_ |,[][][]|,[][][]| ..| |
(,, ) / U ̄ ̄ ̄ ̄ 〓/| |,[][][]|,[][][]|,[][][]|/
/ つ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜( ) | | /ノ~ゝヾ
(’ヮ’ン ∩∩
( ) (´Д`)  ̄ ̄ 〜 ゴラァ
∪∪ U U ̄ ̄UU 【完】
7 :
夢見る名無しさん:2006/03/02(木) 00:42:55 0
潟とか臼とか
なんなのよいったい
(´・д・`){書きづらいんだよ。
新潟を新渇に変えればいいんじゃね?
水の都新潟が渇水しそうだな
11 :
夢見る名無しさん:2006/03/03(金) 19:57:36 O
━━━石原 ◆NnJYjkBPPk は生きる資格無し━━━
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40万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
意外とおもしれーぞ
石原応援
石原スレ立て杉
16 :
夢見る名無しさん:2006/03/14(火) 00:54:37 0
17 :
夢見る名無しさん:2006/03/14(火) 02:08:57 0
21 :
夢見る名無しさん:2006/03/26(日) 08:56:35 0
22 :
夢見る名無しさん:2006/03/28(火) 21:32:06 0
25 :
夢見る名無しさん:2006/04/07(金) 14:51:59 0
潟は覚えにくい
26 :
夢見る名無しさん:2006/04/10(月) 20:48:16 0
27 :
夢見る名無しさん:2006/04/13(木) 20:06:56 0
28 :
夢見る名無しさん:2006/04/15(土) 18:38:40 O
浮上
29 :
夢見る名無しさん:2006/04/17(月) 01:36:10 0
30 :
夢見る名無しさん:2006/04/20(木) 10:02:02 0
31 :
夢見る名無しさん:2006/04/23(日) 19:30:22 0
32 :
夢見る名無しさん:2006/04/23(日) 19:30:52 0
34 :
夢見る名無しさん:2006/05/01(月) 19:47:18 0
35 :
夢見る名無しさん:2006/05/04(木) 10:46:14 0
36 :
夢見る名無しさん:2006/05/06(土) 06:44:36 0
37 :
夢見る名無しさん:2006/05/08(月) 20:56:21 0
38 :
夢見る名無しさん:2006/05/09(火) 00:52:59 0
>1 なんで、アラバマ州なの? 赤首コンプレックスだから?
39 :
夢見る名無しさん:2006/05/09(火) 01:33:32 0
>>2 オモロイじゃなくって「面白い」って書くべきだっきゃ。
40 :
夢見る名無しさん:2006/05/09(火) 07:04:34 0
さすが
age
ちょっと目を離したら落ちてやんの。
オレviewer?とか入ってないんで読めねー!
でも実はちゃんとプリントアウトしてた律儀なオレ。
まず、小丸の経歴知らんから、身体感覚を「戦略的」に追求してる理由がいまいちわからんけど、
とりあえずそこはおいておくわ。
あと、なにをもってリアリティーとするかを定義し出すとえらいことになるのでそれもおいておく。
まあ、ワークショップ(懐かしい響き・・・)でもやるのがてっとり早いんだろうけど、
自分の首を絞めることになりそうなのでそれもおいておく。
>リアリティーを感じるところっていうのは、認識したときに面が合わさるような感じで、その面が網膜ほどの潤いを持つ肉といっ
>た質感がある。認識のスクリーンに映るものとスクリーンの肌理とが同時に感受されるみたいなところだね。自意識と身体的な
>認識の面がくっついてることへの違和感というか、気持ち悪さがあるってところが目下の自分の疑問点。
上記が小丸のいうところの、身体感覚=リアリティー(←ここが本当はオレの生涯最大にして最後のツっこみどころなんだが、
それは上述のとおり、複雑になりすぎるのでおいておく。)の発生する場を「戦略的に」微分していったところで感受しうる
「かなり強い意識がないと弱まってしまう勘のようなもの」を無理矢理言葉にしたものであるわけだね。
面があわさる感覚というのは、よくわかる。主体である自分が能動的に見ようとしないで目には対象物の全体がただ映っており、
目は見開いているんだけど眼窩の裏側は内側に引かれていて、同時に丹田が無限に広がっていかないか?
一体化している間は眼球はまったく動かすことができないはずだ。(視覚に特化した場合)
しかし、そこでつっこみたいのは、その面の質感を感受しているのは何者なのか、
あるいは、身体のどの機能なのか、ということだ。
そもそも、それをなぜ「質感」としてとらえることができるのか?
>面が潤いを持つ肉といった質感
というのは、どこで感じている?「肉」と感じるときには、すでに認識のシステムが次々に反応して、
明らかに身体のどこかの部位の認識と、かつて感じたことのある「肉」の質感の記憶が瞬時にくっついてしまっているよね。
小丸の身体は具体的には、肉と感じた瞬間に、どの部位が反応してるかな?眼窩か?喉か?鳩尾のあたりか?
まあ、オレは経験上、もうちょっと、解剖学的にも分析できるんだが。
自分の認識にのぼるかのぼらないところで、対象物をみた瞬間に、身体の記憶が否応なしに介入してくる。
それは、記憶という非常に曖昧なものだから、万人に共通の感覚ではないが、
人体の構造的には感受のデフォルトというものはある。
(ちなみにオレは若干、共感覚の気があって、質感がダイレクトに食感に転化するんだけどね。
まあ、そんな個人的であいまいな感覚など、とるにたらないイメージにすぎないが。)
このことがまさに、小丸のいう
、
>自意識と身体的な認識の面がくっついていることへの違和感というか、
>気持ち悪さがあるってところが目下の自分の疑問点。
なんだな。
小丸はなぜそこに疑問をもつ必要があった?だって、小丸は、身体感覚のリアリティー自体は
否定していなかったじゃないか。
なのに、なぜ違和感を感じる?
核心にせまってきたかもしれない。
「自意識と身体的な認識の面がくっついていること」は、超えられると思うか?
それとも、認識のシステムをいくら微分化したところで、この呪われた束縛は絶対に超えられないと思うか?
だって、ここを超越する、あるいは脱落しないかぎりは、認識するものと認識されるものは絶対に一体化しないじゃないか。
一体化しないとどうなると思う?これは、冗談抜きで宇宙規模の公案だよ!
「認識の分離のプロセスが、世界の差異=現象を爆発的に生成しつづける」んだからな!
差異の戯れの中で何劫年呆けてるってんだよ。
時間は有為。有為は差異。差異は世界。世界は自分。すべてが、気づいたときには遅い、遅い、遅すぎる。
永久に0.2秒前の自分しか振り返れない、呪われた世界。
小丸も言ってるじゃねえか。
>痛みを感じて、「痛い」と言った瞬間にはもう感じた痛みは歪んでる。
どうして痛みそのものに、なれないんだ?
話が飛びすぎた。
もっと卑近なところでは、一体化ってのは、武道しかり、ダンスしかり、より粗雑なレベルにおいても必ずつきあたる壁だ。
(浅田御用達フォーサイス?なんだよ、あの大雑把さは!あれを戦略というかね?エイドス・テロスでは別の意味で不覚にも泣いたけどさ。)
小丸は、その違和感をどうしたい?もし、それが気持ちいいものであれば、受け入れるのか?
なぜ、そこを戦略的に追求するのか、そこが不思議だな。
「探求することそのものが楽しい」とかいわないでくれよ。あるいは、それをなにかの表現に生かすとかな。
虫酸が走るぜ。まあ、オレの知り合いそんなんばっかだけどな。
>リンゴが判断する→リンゴと俺の関係からリンゴと俺を引いて残った
>関係の残像がリンゴと俺両方を把握したその手触りが、
>感触として残る。
哲学的なニュアンスはわかるんだけど、曖昧だな・・・・。リンゴと俺を引いて残った関係って、
具体的にはなんのことをいってる?
リンゴと俺両方を把握した手触りって、なんのことをいってる?
その関係は、実存か?感覚か?手触りっていうのは、どこで感じてる?
感触として残るのは、どこに残る?
どうも、哲学的知識と身体レベルの話の次元をごっちゃに語っているように思えるな。
そこらへんを徹底的に、哲学的見地と身体的感覚とを切り離して分析していくと、何が残ると思う?
オレは、そのへんの曖昧さは自分自身に対しては徹底的に糾弾するね。
>修練して認識・確定・命令を繰り返して身体に与えてると、意識が高速で半自動的に走るようになる。
>身体がくっついてくる。
>内部観測モニターでそれを遠隔操作する。
おいおい、命令と遠隔操作って、某キモカワダンサーT・Nさん知り合いじゃないだろうな?
まず、修練っていうのはなんの修練?メソッド聞いちゃうと特定されちゃうか。
もともと修練が先にあったのか、それともある目的のためにその修練を編み出したのか?
内部観測モニターってのは、禅なんかでいうところの観照者なんだろうけど、
意識とモニターの主体を別モノとして扱ってる?
まあ、自動化すれば逆に観測モニターが身体とくっつかずに並列に進んでいくような感覚はあるものだが。
何年か前にそういう観測みたいなのを徹底的にやってて、例えば、自動化してる状態でコーヒーを飲んだり
すると自分が飲んでるというより、他人が他人の口にカップを運んで自分とは異次元の世界にある管に液体
を流し込んでるみたいな感覚だったな。
完全に意識は冷めていて、身体はこの上なく優雅になめらかに動く。
ダンスでもなんでも、そっから先を扱えてやっとホンモノなわけだけど。
最大の疑問は、遠隔操作するのはなんのためか、ということだな。
なんで命令する必要がある?それが戦略か?
ただ、観測してればいいじゃん、と思うんだけど。
意識が高速で半自動化してるときに、意識に言葉や思考は上ってくるか?
身体の動作を観測しながら、それを実況してるみたいな感じか?
それとも、完全に身体の動作を見守っていて、意識が見守っている「手触り」みたいな
ものがぽつりぽつりと浮かぶのか?命令する能動的な意識はどこからやってくる?
命令する瞬間は身体はどうなってる?命令する瞬間は、意識化されてるはずなのに、
身体は連続して自動化され続けていると感じられるのは、身体の物理的な惰性運動や反射運動に
よってその瞬間が補われていることによる錯覚なのではないか?
完全に目覚め続けていることなんてできるか?
>遠隔操作の感覚ってのは丹田が緩衝材、要になって脇腹から右腕、右手の指にかけてやわらかく意識と切り離してくと右手
>の指がランダムに動いていくようになる。
感覚的にはわかるんだけど、「やわらかく意識と切り離して」っていうときの、やわらかく、
っていうのはどういう意味?
「やわらかく」切り離すっていうところに、意識のプロセスのカギがありそうだな。
自分の感覚で同じことをやろうとすれば、意識が右手の感覚にくっつく瞬間に眼窩の奥に隙間をつくる感じかな。
それと同時に「右手」と言語化されそうな瞬間に頚椎の間と喉の奥を開くようにする。
(する、というより、結果的にそうなる)。
ちなみに余談だけど、意識から切り離した動きってのは、自律神経が直に反応した動き
(たとえば、虫が目の前に飛んできてとっさに避ける、とか、朝目覚ましがなって飛び起きて
目覚まし止めるまでの超人的な速さとか)なんだけど、指ってのは、自律神経系の動きをするときに、
昆虫の触覚みたいに、第一関節から先がものすごく繊細に動く。よく観察してみれば、
手首の内部に空間ができて、肘の方向へひっぱられているような感覚があるはずだ。
そうすると、指の先は完全に脱力してものすごく微細な感覚まで体感できる。
一流のピアニストは鍵盤を押してるんじゃなくて、身体側に引いてるから超絶的な速さで指が動く。
音の強弱は、丹田と脊柱の角度でつける(のせる)。
この作業で、丹田を要にしてるのは何故だ?丹田も抜いてしまって、吹っ飛んでいっても別にいいじゃん。
多分、プロセスの最初の瞬間で吹っ飛ぶね。丹田は、自我を世界に繋ぎとめてる根っこのようなもんだからな。
吹っ飛んでいったら、自分の身体でエネルギーの流れの滞ってるところとかが、
おかしな軸となって奇妙なダンスが生まれるよ?
>右の指先までほどきつついろいろなパターンで動かしてき、あるところでリプレイプラス編集をしろ、
>という命令をだして、体の右っかわを切り離すと、指が勝手にいろいろ動き出す。
>脚とかのバネも使うんだけどさらに高速に意識が回ると寝転んでても跳ねるように別の生き物として指が動いてる。
>そういうZONEにいつでも入れる仕掛けを作ること、かな。
>それが観てる人が動かしてる、といったところまで行きたい。
リプレイプラス編集というのがイマイチわからん。脚のバネって意識的に使うのか?
バネって、大雑把だな。脚の筋肉の解体にはちとうるさいよ?股関節に空間があるかね?
これって、あれだな、野口整体の活元運動の、身体部位限定版じゃん。やったことあるか?
誰でもこれに近い状態にすぐなれるよ?まあ、意識のコントロールというか、
自動化と観測とのバランスをとるってとこにオリジナリティーらしきものがあるのかもしれんけど。
いつでも入れる仕掛けっていうなら、活元運動からいきなり入って、(簡単な導入で3分ぐらいですぐ自動的に動き出すから)
逆から攻めてみるのも手かもよ?
って、やっぱり人に見せるのかよーーーーーーーーーー!もう。
観てる人が動かしてる、ってとこに行くのは、あるところまで意識的に命令しておいて
最期に命令を放棄することだろうね。
失禁するまで逝ってくれ。
>この作業、とっかかって認識の時点では身体の色と外界の色が混ざりあったゾーンにいる。外に触れた効果としての内が
>超越論的にそこでゆっくりと知覚の遅れをもたらす。もたらされる。この効果が波及して無限が表象される。
>波及の初発とそれを感受するまでの遅れの時間は引き延ばされるのだけど、どうぞ引き伸ばしてくれと甘んじて身をひいた
>主体としての私は、遠くのほうでもう運動を半自動に切り替えているから述語だけが残る。すなわち運動が残る。
>半自動に切り替えると書いたけれども、遠隔操作する主体は命令している私(?)で、命令される私と分裂してるんだね。
超越論ってどういう意味でいってるのかわからんけど、知覚の遅れがもたらされるのは、遠隔操作する主体のほうだよな?
しかし、命令される私としての身体と知覚が別モノのように並行してあるように感じられるのはなぜだと思う?
無限が表象されるってどこに?
外界の対象を思考や判断なしに捉えたときに、それでもなお観照者(観測者)が残るのはなぜか?
そもそも、ソレが起こったときに、分裂した意識、という時間と空間の感覚が発生するのはなぜか?
それがあたかも実存するかのように。小丸は、この状態から、遠隔操作する主体(観測者)自体の内部に
飛び込んでみようと試みたことはあるか?
そうすると、観測者が観測者を無限に追いかけるように、ブラックホールに吸い込まれていく。
その先になにがあると思う?
死の直前にも同じような状態になるというね。たとえば事故にあったときに知覚がストップモーション
みたいになって「あー、今車にはねられて吹っ飛んでるなー」と、
客観的に観察してたり。
>前回、判断の手つきも身体感覚になってると書いた。判断というのはシャッターを切る判断のようなもの。
>半ば恣意的に、半ば「撮られたがってる私込みのこの様態」を感知してそれに委ねつつ切る。
>ピンホールカメラや日光写真、天体観測時のシャッターの開放にも似て残像が重なるのだけど、それは横滑りしていって
>引き延ばされる。で、実はシャッターは常にすでに非連続的に切られる仕掛けになっている。
>ではその仕掛けとはどういうものか、に焦点を当てるべきかな。
シャッターは、半自動化されたときの観測者の属性のようなもんで、無意識内(無意識があるかどうか、ってのもあやしいけど)
に刷り込まれたもんだな。
シャッターが切られた瞬間に「今、シャッターを切ったのはオレだ」という驕りというか錯覚が瞬間的におこる。
そこの仕掛けってのは、こういう作業にとりつかれた者は生まれ持ってその才能を持ってるか、もしくは、やむにやまれぬ
探究心から訓練によって習得されて自動化されるもんだろう。
ここではあまり詳しくのべないが、オレはこのシャッターの機能が、爆発的に暴走した体験がある。
そう、小丸のいうとおり、それは非連続的なシャッターの怒涛のような雪崩だよ。
人間の知覚のレベルでは、論理的には、一秒間を10〜15の断片にまで微分化できる。
その、10個の断片は、分裂された観測者がシャッターを切ったものでもあり、それを見ているのも観測者自身だ。
それは、理解を超えた体験だ。
小丸は、知覚が遅れるというけれど、本当は、知覚そのものは遅れないと思う。
知覚はあくまでも身体に付随した認識のシステムだから。でも、なにものかが無限に引き伸ばされて遅れていく感覚はある。
磁石のNとSを完全にくっつかないようにギリギリの距離だけ離した間の空間に、自己の分裂に耐えながら無限に後退していく
感覚だ。
>このズレの運動の時間というのは、見るもの/見られるものの分裂を生きる何者かが生きる時間とも言えて、高速の分裂に
>高速で同期をとらせて追いすがるので、分裂の逃走線「/」が≒、≒が=として安定するかに見える。
>利き手を介して作業を行った場合、私の意識はうまくのびちぢみして、筋組織との運動に相似した弾力のある力の複数の束
>が視覚や聴覚を強く補って、ものを「見る」「聴く」。
>この時の安定は負荷を知覚に強いるが、安定時(ぴたっと面としてくっつく)の瞬間、小宇宙の爆発ではないけれども、知覚の
>極小の弱まりに爆音が走る。
>おそらく象徴というのは固いんだね。多数の粒が連鎖反応ではじけるからだと思う。
>知覚するよりもより高次の高階知覚の領域の音だけど。音、光、くっつく食感はないまぜだが。
オレの爆発的な体験というのは、このへんに関連しているな。
高速の分裂に高速で同期をとらせて追いすがるときに、身体には実際に脊柱と頚椎に沿ってGがかかる。
F1ドライバーのように。
超えてはいけないところを超えようとするからか?
それはまさに多数の粒(それも、鮮明なフラッシュ画像)の連鎖反応だ。
外界と接触した知覚が概念を形作るか作らないかの瞬間の、ランダムな切れ端が脳に直接投影される。
なぜ、非連続的にシャッターが切られているように感じるのか、わかるか?
それは、1秒間の連鎖反応のなかに、知覚された対象がくっつく瞬間と、観測しているまさにその瞬間が恐ろしい勢いで
交互に明滅しているからだ。観測した瞬間は、自我のシステムのブラックボックスというべき、暗闇なんだ。
その暗黒の闇の何者かが、シャッターを切り、次の瞬間、突如としてフラッシュがたかれ、対象物が脳に映る。
キチガイ沙汰だと思うかもしれないけど、認識をメタレベルで根気強くたどっていくと、そういう状態は誰にでも訪れる。
>この時間には遠隔操作の主体が同居しているのだけど、それはどこにいるのか?
>おそらく知覚の盲点となる空隙に。離見の見を可能にするスペース。
この、空隙が、オレのいうところの暗闇だな・・・
知覚の盲点となる、っていうのはどういう意味だ?
知覚でとらえようとする瞬間にするりと逃げられてしまうのはわかるが。
スペースというと、なにか空間的な位置をイメージしてしまうが、むしろ、時間の連続性という錯覚の虚点のような
ところに立ち現れる幽霊じゃないか?
>論理の速さは音速である。身体に指定する命令文が抹消神経に届き、命令実行を確認してフィードバックする往復の分
>だけ、倍の時間がかかるのだけど戻りの分だけ時間が遅れるように錯覚する。錯覚の知覚。
>意識的につねにすでに錯覚である知覚の構造は、盲点の空隙から球体のように内包されてゆっくりとまわして確かめられ、
>テキストの上演といった地平での、意図的に再構成された運動を思考する。
>「このりんごはこのくらいの固さ・・」
>「このりんごのここの赤みはこれくらい・・」
>「大きさは〜くらい」
>以下略
このへんはわるいけどちょっと食傷気味。
こっから以下の作業の具体例(利き手で持って云々)がいきなり初心者向けワークショップみたいになっちゃっててアレ?
って感じ。あとは、身体と意識の感度がどのレベルにあるかによる。呼吸の調節、筋肉の動き、緊張度、っていうのが、
どの次元の話なのか?
オレが今まで出会った人の中では3人ほど突出したのがいたな。
小丸は、意識を言語化する回路ができてるから、そこを頼りにやってくといいんだろうね。
特に、文章化したときに曖昧な比喩的イメージになってるところを再度身体に潜り込んで突き詰めていくとか。
>盲点の空隙から球体のように内包されてゆっくりとまわして確かめられ
こういうところとかね。
あー、時間軸に従ってレスしてったら、前後で矛盾してるとこもあってすまんな。
それにしても、あんたもすごいエネルギー放出してんなぁ
55 :
夢見る名無しさん:2006/05/14(日) 12:02:00 0
>>43>>44 >主体である自分が能動的に見ようとしないで目には対象物の全体がただ映っており、
>目は見開いているんだけど眼窩の裏側は内側に引かれていて、同時に丹田が無限に広がっていかないか?
これはそうだね。で、そういう状態のときってのは、頚椎から脊柱にかけてがぐっと押し込まれるようにスタンバイしかかってる。
>>面が潤いを持つ肉といった質感
>というのは、どこで感じている?「肉」と感じるときには、すでに認識のシステムが次々に反応して、
>明らかに身体のどこかの部位の認識と、かつて感じたことのある「肉」の質感の記憶が瞬時にくっついてしまっているよね。
そう。ある時、「肉」の質感の記憶が呼び出されて、面というのは肉質なんだなと思い至ったことがあった。
アロエの葉肉の記憶やら、食感、眼球の潤い、掌を正面に向けたときに手根から手掌にかけて外界の正面が当たるような感じ、
などなどが編集されてそう思い至った。
体がまるごと形、重力として感知される状態でバランスをとってるときは頭頂が上に引っ張られる。
地面と一体化したときには地面とともにスライドしていってる面の部位になってる。
眼を瞑ったときの残像が重なり、その保存場所でまた重なってく感じは眼窩の真裏少し斜め上。
その記憶と、手根から手掌にかけての正面に当てる感じをミックスする。
ここで出来たフィルムを、無限に広がる感じの丹田を通して外界に投射してみるのだけど、
その投射が押し返されて広がりながら逆に外界にシャッターを切られる。
今度は地面と垂直な正面と真後ろの正面から弾き飛ばされる面として自分がいるような錯覚が生まれる。
面は自分サイズよりも大きいスクリーンなんだが、前述の眼窩の真裏少し斜め上のネガフィルムが、
圧を感じた頭頂から足の裏までの自分の面の肉質と、いろんな記憶とが複合され、
今度は眼窩の大きく斜め下、頚椎手前のあたりでプリントサイズとして格納されてゆく。
、と今書いてった箇所の複合じゃないかと思うんだけど。
>そもそも、それをなぜ「質感」としてとらえることができるのか?
体験の記憶を呼び出しつつ事後的に判断されるから。
>>45 >なぜ違和感を感じる?
後述。
>「自意識と身体的な認識の面がくっついていること」は、超えられると思うか?
超えられないでしょ。
>それとも、認識のシステムをいくら微分化したところで、この呪われた束縛は絶対に超えられないと思うか?
超えられないって書いたけど、かなり自意識から遠ざけるようにはできるんじゃないかと思う。
>一体化しないとどうなると思う?これは、冗談抜きで宇宙規模の公案だよ!
>「認識の分離のプロセスが、世界の差異=現象を爆発的に生成しつづける」んだからな!
>差異の戯れの中で何劫年呆けてるってんだよ。
で、ちょっと待ってくれ。「認識の分離のプロセスが、世界の差異=現象を爆発的に生成しつづける」というのは、
いわゆる没入とはどう区別されるもの?
>どうして痛みそのものに、なれないんだ?
保留、って書いたけどあとで見直したらそちらが0.2秒遅れって書いてるね。
しかし痛みの流れに乗っていればそれが遅れとはならない気にはなるかも。
>>46 >小丸は、その違和感をどうしたい?もし、それが気持ちいいものであれば、受け入れるのか?
>なぜ、そこを戦略的に追求するのか、そこが不思議だな。
進化への意思みたいなものが生体には備わってるよね。
そこと関係ある気がしてるんだけど。
戦略的な追求というより、随所で感知することを意識的にしておくといった方がよかったかな。
身体について実践を通して熟知してる人の絶対数が少ないてという相対的な理由も加味されてるかも。
手放せないと思ったことと違和感も手放せないと思ったことが同居してる。
この矛盾の同居の状態でしばらくはある程度放って泳がしとくほうがいいかなという感じ。
偏るとヒステリックになりそうな気がして。
>「探求することそのものが楽しい」とかいわないでくれよ。あるいは、それをなにかの表現に生かすとかな。
>虫酸が走るぜ。まあ、オレの知り合いそんなんばっかだけどな。
楽しくないとはいわないけど、受け入れに関しても慎重。
そんな嬉々としたもんじゃないよ。切羽詰ったやむにやまれぬものじゃん。
これより他にやることがあるか?と思う。
表現に生かすという人は表現する意味ないじゃん。その人はあるかもしれないけど。
表現てのは生きることじゃないのかと思うからさ。
>リンゴと俺を引いて残った関係って、具体的にはなんのことをいってる?
>リンゴと俺両方を把握した手触りって、なんのことをいってる?
ここは難しいな。リンゴが俺を対象として見たと了解した瞬間、いままでの判断主体だった自分が
どっかに不意に消えた瞬間、この了解してるのは何者か?一人称から二人称になってるのかな。
実存的に把握されてたからこそこの疑問が遅れて浮かぶ。
すると判断する主体があるというより関係、としかいいようがなくなる。
関係という時、それは互いの意識が互いに向いているベクトルから編集された力のことなんだけど。力の作用が働いてる。
その感覚はたしかにあるというより残ってる。
だからどこで感じたかの感じた主体は不明になるからどこに残ってるかに焦点を当てるわけだけれども、
網膜が残像を残す場所と同じ場所に視覚の感触は残るし、関係の力は下顎の力加減あたりに強く感じる。
>そこらへんを徹底的に、哲学的見地と身体的感覚とを切り離して分析していくと、何が残ると思う?
いままで対象として扱っていたものを主体として認めるようになり、残像の記憶と関係の力が残る。
>>47 修練について。思い当たらないこともないけど、違うかも。
命令とか遠隔操作ってのは自分で当てはめたもんだよ。
メソッドっていうか、認識を丁寧にやるってくらいのことだよ。
で、あるとこのメソッドから、極端に言うと認識作業だけを取り出して丁寧にやってった方がいいなとなったわけ。
ここがベースにならないと何も生まれないから。
なめらか云々のとこはよくわかる。
で、遠隔操作の例に出したものってのは入り口ね。身体を具体的にそうやって使うと、前述した手根の感覚が鍛えられるから。
手根から指先にかけてが、自分と自分の見てる世界に切れ目をどんどん入れてく感じで、
平面的な空間把握の錯覚の隙間をどんどん顕在化させてくれる。起伏を作るというべきか。
利き手のように繊細な認識作業ができていく。把握するっていうときは必ず手の記憶を参照してるように。
で、ほとんど意識されない命令に影響を与えるでしょ。
デフォで画像を高画質にさせとく命令とか。
>意識が高速で半自動化してるときに、意識に言葉や思考は上ってくるか?
>身体の動作を観測しながら、それを実況してるみたいな感じか?
>それとも、完全に身体の動作を見守っていて、意識が見守っている「手触り」みたいな
>ものがぽつりぽつりと浮かぶのか?
一つは監督してなおかつプレイしてる感じか。エンドランの命令、走る野手の実況、球の行方、野手への命令が交互にくりかえす。
この作業に関して言うと、言葉や思考はどんどん上ってくる。
もう一つはじっと戦況を見守っててざわめきが聞こえる感じ。
命令をどんどん与えるときと、切り離すときでは感じが違う。だから両方だね。
>命令する能動的な意識はどこからやってくる?
>命令する瞬間は身体はどうなってる?命令する瞬間は、意識化されてるはずなのに、
>身体は連続して自動化され続けていると感じられるのは、身体の物理的な惰性運動や反射運動に
>よってその瞬間が補われていることによる錯覚なのではないか?
命令する意識は覚醒してる意識。監督側。
いや、命令を立て続けに行うときってのはかなり慣性によるものが多いよ。だから錯覚に近い部分が多々ある。
しかし手を切り離す、という命令を出してあとは手に任せたときは別。
手が手の思考をしてるのを眺めてる自分がいる。何分も手だけ勝手に動いてるよ。
マイムのように、補助する面を内在化して、その面を手が動く表面にすると、手が面に跳ね返されつづける。
その時、脳内での高階で知覚した面をマッサージしてるような感覚がある。
身体に意識が走るって感覚によって、りんごなどの対象に意識が走るって感覚が鋭敏になる。
あ、そうかごめん。意識して命令を次々出してく場合と、あるところで体を物として切り離す場合とを分けてなかった。
>>48 >感覚的にはわかるんだけど、「やわらかく意識と切り離して」っていうときの、やわらかく、
>っていうのはどういう意味?
そちらが結果的にそうなる過程を書いてるけど、だいたい同じだね。
喉は開くね、特に呼気のときにゆっくりと吐く調節に緊張が入らないようにするにはそうなる。
前述のように面と手との接触時を扱ってるから、この場合は面に触れた瞬間に余計な意識が入らないように。
この場合接触の瞬間は眉間の奥から眼窩の周りを和らげる感じっぽいけどどう?
>余談〜
ああ面白いね。引いてる。その通り。
>この作業で、丹田を要にしてるのは何故だ?
高速で命令を逐次するときはこっからとっかかる。丹田の話が通じるんなら、「まずとっかかりで丹田〜」て書くとこだよ。
手の意識を切り離してるときは、ほかのとこは力抜いちゃっていい。そうじゃないと自由に動かない。
太陽光を照り返す波のように角度が照応しあって乱反射する。妙な軸ってのは実はとっても面白いとこだけど。
自分の場合、後付だけど昔から体の向かう角度に心地よさを感じる癖があったらしく、不思議な居方をするという評をもらってた。
たとえばそれが特有の癖だとして、それが共有可能なとこに開かれてないって意識も、前述の違和感を産んでるのかもしれない。
>>49 >リプレイプラス編集というのがイマイチわからん。
この場合は、実際に視覚でとらえる面に触れていく指の動きがなめらかになってきたらその調子であとは自動化しろ、
ってことの比喩。こういう喩えになったのは、その面が脳内の高階の知覚域での面と対応してるから二次的な表現になったんだけど。
>脚のバネ・・
あーごめんそこまで具体的なとこ通過してる人だったらあれだね。
スポーツでよく使用する比喩だよねこれ。しまった。体の重さと反発を利用して手を引き上げるんだけど
これ脊椎の角度の話か。頚椎から順に脊椎を引き込む感じ。
>野口整体の活元運動の、身体部位限定版
いや、やったことない。ググッたけどこれはこっちの説明不足かな。
自分の場合は、実際に見える面や、それに順ずるマイムで仮構する面が対象になってるから違うんだと思う。
活元運動の場合はほとんど筋肉の連動からくる慣性とその軌跡を緩やかに見守る感じにならない?
これだと自分の体が相対化されないでしょ。
>観てる人が動かしてる〜
あれ、ちょっと逆に取られちゃってるよ!まるで観てる人が動かしてるように自分の体が勝手に動くんじゃなくて、
実際に観てる人が、演者を動かしてる錯覚にとらわれるように正確に舞台上の時間進行(ということは演者の身体の動きの進行)
管理をとってる場合のことよ。演者が身体をそこまで相対化し、観てる人の認識のスピードに合わせて動きを進行すると
そういう錯覚が生ずるのよ。
で、遠隔操作1(高速で命令を逐次下していく場合)、遠隔操作2(1の後、体を突き放した場合)と挙げたけど
2の場合は遠隔操作っていうほど能動的じゃない。
操作は、脳内の高階知覚上の面と、実際に知覚しているのと同じ状態に身体の一部が関わっている面との連動を調整する程度の役割。
ほとんどまっすぐの道でハンドルに軽く手をかけてるといったほどの。
最期に命令を放棄する、ってのはこの2の場合に当てはまるよ。
それに見せるために何かをするってのは本末転倒だからやんないよ。実際そういう活動はかなり断続的で今やってないし。
前後するけど
>>47 >意識とモニターの主体を別モノとして扱ってる?
命令を途中でやめたときは意識は切り離した身体と脳の連動のゾーンにある。
モニターの主体ってのはそこから自由。
命令を続けてるときは、モニターはぽっかり開いた穴の最後部のようなものに感じられる。
意識はその穴のような球体の内壁を囲んで、内側全体に波及してるかのよう。
>>50 超越論の意味は、限りなく外を志向しながら内にとどまる意識の中にいる自覚というほどの意味。
この場合、知覚の場所の脳が限定されてる意識と身体が離れてく意識の同居を指してる。
>無限が表象されるってどこに?
だから無限というのは、そちらが言ってた丹田が無限に広がっていく感覚のことかな。
>命令される私としての身体と知覚が別モノのように並行してあるように感じられるのはなぜだと思う?
アイデアみたいなことを書くと、身体が別の自律した意識(脳からは電気を補給するだけ)を持つことが一つあって、
>外界の対象を思考や判断なしに捉えたときに、それでもなお観照者(観測者)が残るのはなぜか?
脳は電気信号を出してるっていう物理的条件があって、
>そもそも、ソレが起こったときに、分裂した意識、という時間と空間の感覚が発生するのはなぜか?
>それがあたかも実存するかのように。
完全な無音がないように、記憶された認識パターンが消え去ることはない。
体系だった時間感覚は空間感覚をもとに構築されてるはず。
物がAからBに移ったことを認識するという素朴な時間感覚でも、
空間に携わり、空間でモノが動いたときにはそれは空間認識のモデルとなる記憶(面に還元される)に影響されて
取り込まれる。面の記憶の残像がぐらぐら動くことは逃れ得ない。
前述した内在する面はぐらぐらゆれる。そこに外界の方があてはまるべく圧迫してくる面となる。
そこがバチっと合わさった時のことを前回書いたけど、それは断続的に合わさり続けてくるもの。
内在する平面に対して他者的な何者かとしてある外部の刺激は連動する。
断続的に合わさり続けるってことは絶えずそれが、離れてく他者として断続的に迫り続けるってことであって、
=の前の / の話で、つねについたてが現前し続けるってことでもある。
このついたての存在が消しえないものだから、そこを介して分裂が感知されるんじゃないかな。
内外っていうベクトルの差異が感知され、観照者は内向きのベクトルの束が集まる場所として残ってしまう。
>小丸は、この状態から、遠隔操作する主体(観測者)自体の内部に
>飛び込んでみようと試みたことはあるか?
>そうすると、観測者が観測者を無限に追いかけるように、ブラックホールに吸い込まれていく。
>その先になにがあると思う?
これがフラッシュバックなんかを生み出す「ZONE」だよね。
僕が言ってたのはこの 「ZONE」にいつでも入れる仕掛けのこと。
これについては最も厄介そうだからまた後で。
>>51 なるほど、やっぱ属性なのかな。
>小丸は、知覚が遅れるというけれど、本当は、知覚そのものは遅れないと思う。
まあ錯覚なんだけどね。
>>52 >キチガイ沙汰だと思うかもしれないけど、認識をメタレベルで根気強くたどっていくと、そういう状態は誰にでも訪れる。
いやキチガイ沙汰じゃない。認識も作られたシステムだからメタで辿るとそうなるよね。
>>53 視覚には盲点があるし、左右の視差の調整を行ってることを意識しながらいると、
眼窩の裏へ意識が向く。時間の連続性という錯覚の虚点に結ばれる虚像のようなものでもあるし、
時間の連続性のモデルになってる空間の連続性の虚点に結ばれる仮の像でもある。
>>54 あーこっちの勉強不足かそちらのスキルが推し量れなかった。
ここまで話が通じるとは思わなかったわ。
>小丸は、意識を言語化する回路ができてるから、そこを頼りにやってくといいんだろうね。
>特に、文章化したときに曖昧な比喩的イメージになってるところを再度身体に潜り込んで突き詰めていくとか。
比喩は多分言葉を詩的に使用する癖みたいなもんかな。
昔から白を乾電池の形に見てしまうような癖があって、本がいつまでたっても読み通せない原因にもなっとる。
突込みがあれば詳述する形がまた出てきてるかもしれないけど勘弁。
イメージ化、音声化された言葉を即物的な描写に解体してく手続きね。頑張ってみる。
しっかしアレ体験してたのかあ、こりゃ「なにものか」についてかなりの文章量要していくことになるな。
てっきり最初はこっちが巷のワークショップなるものとかではどういう作業をしてるかを一から説明せないかんことになるかなと
思ってたもんだけど。保留したとこは回答を受けてまた。
68 :
夢見る名無しさん:2006/05/17(水) 01:34:01 0
ぐげっ!!!
レスの中身まだ読んでないけど、どでかい生肉の塊を真正面からぶつけられた
みたいな質量感だな!
・・・・さー、どうしたものか。
あー、小丸さん忙しいんじゃないの?大丈夫っすか?
まー、こういうことに関してはどんどんエネルギー沸いてくる人なんだろーけど。
正直いうと、自分は今現在、こういう話からはちょっと違うところに来ている。
なにかをあえて意識的にやろうということはなくなってしまった。
ただ、2年ほど前までの心身の乱痴気騒ぎみたいなものを、一度、前頭葉で整理しなお
す必要があると感じていたんだ。
自分は、もう言葉とか価値観とかわからなくなってしまって心身ともに元素崩壊を甘んじて
待つ身なんだが、小丸が物好きにも相手してくれるんで、意識の辺縁から言語転換装置を
ひっぱり出してみるわ。
なんの縁かねー
こりゃー、文字通り心身清めて正座してとりかからんとならんなーふえー
レスは必ずしますんでどうぞ温かく見守っていてください
忙しいときはそれなりに
時間あるときに書けるものは書いとこうと。
こっちも二年くらい無為がつづいてるな・・
いやまあごゆっくりと
70 :
夢見る名無しさん:2006/05/19(金) 20:12:02 0
71 :
夢見る名無しさん:2006/05/21(日) 10:26:57 0
72 :
夢見る名無しさん:2006/05/23(火) 03:32:50 0
俺と名乗っていると、どうも鳩尾が固まってくるので、生物学上の性に戻ります。
今、このやりとりの中で進行していることを自分の理解からまとめると、
1.主に小丸さんの「作業」の方法を、身体の大まかな部位による説明と、そこに発生する主観的な感覚
を言語化することによって、お互いの共有部分を探っている
2.1の流れの中で、認識のシステムにおいて、
A:身体を切り離したときに起きる自動化
B:主客未分(ex.リンゴと俺)の意識状態
A/B2つの場合に共通する「その状態を観測(了解)しているのはなにか」という問題の浮上
(小丸さんの現在の意見ではそれは「力の作用=関係」としている)
3. これらの作業や問題に取り組む個人的動機と切実さの確認(主に私の側から)
4.小丸さんのいう「内在する『面』と外部との断続的な関係」における「ついたての現前」と観照者の分裂の関係
(この「面」については共有言語とするにあたって、もう少し具体的な定義が必要でしょう)
5.私の「ソレ=瞬間定」(とりあえずそう呼んでおく)の体験から4.の関係をより緻密に考察しうる予感
(小丸さんは「ソレ」を「アレ」といっているからには、類似の体験があるものと考えてよろしいですか)
こんなところでしょうか。
以上をふまえて、ひとまず私自身の現時点での関心はどこにあるかというと、
@上記の4.の分裂は逃れ得ないものであるのか、また、逃れ得るものだとすれば、方法論はあるのか
(これは小丸さんのいう、通常ぐらぐらし続けている内在する「面」が外界=他者という名の「なにものか」とバチっと
合わさった状態に恒常的にとどまる、という意味でしょうか。何故、ぐらぐらしてしまうか、という問題も考察の必要がある
でしょう。それはおそらく認識の構造上の問題を超えた、存在の本質に関わることです。)
A もし、@を逃れ得たとしたら、空間と時間の認識はどうなるのか(興味深い例として、ヨーロッパのある実在の人物は、
あるときから主客未分の状態にとどまり続けており、例えばむこうから車が自分に向ってきたとしても、車と自分を分け隔てることができず、
轢かれそうになったりするという)
B 方法論があるとして、それにたよるべきか否か。それが本心から自分にとって切実な問題なのかどうか。
(例えば、上記の例のような人物に突発的になりうる可能性があるとして、それに「なる」必然性が本当にあるのかどうか)
C @の具体的な実践として、「ソレ=瞬間定」を極限まで突き詰めるとどこへ行くのか
(定とは一点集中のサマーディというような意味です。瞬間定というのは、瞬間的で断続的なサマーディ
の連続の集合体を直視するようなものとでもいいますか。相矛盾する拡散と集中の両極の中に同時に身
をおくということです。この体験については、いずれ考察とともに詳細に述べます。
方法論も非常に具体的です。ちなみに、これはかなり運動神経とか動体視力のようなものが関係しているようで、
一度回路がつながってしまえば、かなりの確立でその状態にすぐ入れる)
D Cから派生した問題で、私が前回のレスでいっていたところの「ブラックボックス」の部分、すなわち、
断続的なフラッシュバックの間に挟まった、観照者さえも不在の「無」としかいいようのない部分とはなにか、
という問い。
こんなところです。
といいつつ、ここ2〜3年の経緯から、@〜Dまでの問い自体が結局のところ無意味である、という諦念が9割
ぐらいというのが現在の心境です。
正直なところ、こういう場で(いや、こういう場でなくても)他人とのやりとりにあたってどこまで踏み込んで
いいものか悩むところです。結局、こういうことというのは、最期には独りで取り組むしかないですから。
一歩間違うと狂う危険だってあるし、自分のことしか責任もてませんからね。
ただ、小丸さんのレスを読んで、かなり私にとっての核心に近い部分というのを独力で体験、考察されてきているのに驚き、
「この人だったら、次にこういう指示を提案したら、別の段階に飛びうるかもしれないな」という個人的な興味
のようなものが沸いてきたというのも本音です。
小丸さんの作業における「手」ですが、あれは最終的にはどこへ向うのでしょうか。
現時点では意識的にストップをかけるか、フェードアウトするにまかせているのですか?
私は、手の動きそのものというよりも、そのときの意識の切り離された状態で、
小丸さんに次の命令を与えたらどうなるのかということに興味を持ちました。
まず、その意識の状態にもっていくのが普通の人は並大抵のことではないのですから。
それは、何度もいうように、切実な真剣さがないと至れない最初の壁なんです。
その壁を超えたところで、では次にどうするか。
私だったら知覚を一気に外へ開放して、瞬間瞬間に五感に入ってくるあらゆる対象物を、自動化されたブラックボックスのシステムが
それらを照射銃のように「打ち落とす」(ブラックボックスに触れた瞬間、対象の認識が瞬時に消える)のに任せますね。
そのときには身体が在るという感覚自体がなくなっているはずです。
瞬間瞬間の対象物とそれに触れるブラックボックスしか存在しないわけですから。
(対象物は、あらゆるすべてのもので、そこには観照者自身も含まれる。観照者というのは、
空間的な位相に位置する感覚があるものですが、空間の感覚も観照者の自覚も自覚自体もすべて等化に打ち落とされる)
その後、第二の壁である「瞬間定」と呼んでいるものが訪れるのです。
そこに至ってはじめて、認識とはなにか、という根本的な問題が語れるようになる。
瞬間定そのものは興味深い考察対象ではありますが、ぶっちゃけ、その状態自体は知覚のひとつの限界点にすぎないと思います。
自分なりに考察してみた結果、ある体験や現象を要素にかぎりなく分解(分析)していく作業というのは虚しいという結論に至りました。
その限界点が瞬間定だったんですが。分析していく作業というのは、どこかに、その結果を再構築して(たとえそれが高尚な目的や
無意識のものだとしても)なにかの目的のために利用してやろうという色目がある。
目的のある行為はすべて卑しい。
ただ、ソレについて語りあえた人が今までたった1人しかいなかったので、もし小丸さんの
体験が似たようなものであれば、改めて考察してみる価値はあるかもしれないと思いました。
前にもいいましたが、体験とか感覚をより身体の細かい部位に還元して語ることはいくらでもできるんです。
意識と感情と身体のインナーマッスル(大腰筋や肋間筋など)のどことどこが対応していて、肋骨の何番目が動いたときに
感情のどこが刺激されて、眼球の動きと筋肉の関係とか、頚椎の何番目が思考のどこに影響するかとか、
ニュートラルな状態で立つときに頭頂のどの部位をどの方向へひっぱるかとか、指ひとつにしても、
親指を外に開いたときと中に折ったときの体温の変化とか、全身のあらゆるバネの拮抗状態の関係とか、
口腔内の筋肉をどの方向へ使うと喉と鼻腔が開くとか、丹田の上中下のそれぞれの意味とかチャクラとか、
そういったすべての知識を総動員して意識の内部に深く潜りこんでいったときに断続的に後づけで感じられる
身体の変化を観察して言語化することはできるでしょう。
しかし、今やろうとしていることは、そういう身体の概念(身体が前提としてあるという感覚)
を超えたところの話です。
もちろん、共通の言語をみつけるためにそれらは時に有効でしょうけれど。
だとしたら、何を言語化するのか?そもそもなぜ言語化するのか?
難しいですね・・・・
自分でも今はちょっと探しあぐねている。
まあ、そういう感覚を共有できる人間が他にもいるんだという慰めが得たいだけなのかも。
多分、そうだな。
と、こういう自己紹介をしたところで、どうですかね。
小丸さん、かなり引いてませんかねえ。
小丸さんの作業というのは、他人と一緒に行うこともある(あった)んですか?
あるとしたら、その場合の共有言語というのはなんですか?
また、その成果はいかがですか。
あと、これはここでお答えにならなくても結構ですが、小丸さんはマイムのご経験があるんでしょうか。
本日は、前回の小丸さんのレスへの回答&質問ができませんでしたが、2〜3日待ってください。
いくつか「これは」という鋭い記述がありました。
いや、本当に鋭いですね。
私が感覚的に処理している部分を見事に考察されています。
それでは。
78 :
夢見る名無しさん:2006/05/25(木) 02:08:41 0
すみません、ちょっと頭の中になにも浮かんでこない状態になりました。
概念が像を結ばない。
とりあえず簡単に。
小丸さんのレスの中で最もひっかかったのは
>>65 の内容です。
もしよろしければ「面」についてのより具体的な説明をお願いしたい。
あと、
>>66 の
>視覚には盲点があるし、左右の視差の調整を行っていることを意識しながらいると、眼窩の裏へ意識が向く。
>時間の連続性という錯覚の虚点に結ばれる虚像のようなものでもあるし、時間の連続性のモデルになってる
>空間の連続性の虚点に結ばれる仮の像でもある。
このへんは、「面」と具体的にどのような関係がありますか?
また、
>>66 は
>>64 の
>命令を続けているときは、モニターはぽっかり開いた穴の最後部のようなものに感じられる。
>意識はその穴のような球体の内壁を囲んで、内側全体に波及してるかのよう。
と、どのような関係にありますか。
また、自己を自己であると認識する意識(=自己の内省機能)は、内在する「面」がぐらぐらゆれていることと
どのように関連していると思われますか?
「面」が生成する瞬間を果てしなく追いかけることをやったことがありますか?
前回の
>>57 >>「自意識と身体的な認識の面がくっついていること」は超えられると思うか?
という質問に対する
>超えられない
というお答えからすると、自己の内省機能が脱落する可能性というのは、現在のところ却下されているわけですね。
だとしたら、
>>どうして痛みそのものになれないんだ
という問いは、自分の中では最も重要なものではありますが、このやりとりの中ではあまり
深入りしないほうがよさそうですね。
>>57 このへんはちょっと保留にしてください。こういうふうに書くべきではなかった。
>>58 >進化への意思みたいなものが生体には備わってるよね。
>そこと関係ある気がしてるんだけど。
私は、まったく逆であると考えています。
生体にとってみたら、「生きてあること」のカラクリを見てしまうことは、進化の意思を放棄することです。
進化には常に時間が包括されている。なにかに向っている、という意思そのものがあらゆる断絶を生み出す。
あとは、小丸さんが「ZONE」と呼んでいるものについてもう少し説明願いたいのと、そこに入る仕掛けについて。
もうひとつ。作業にあたって、最低限ニュートラルな身体というのは必要になってくると思いますが、
小丸さんにとってニュートラルな身体とはどういうものですか。
>>56 >体が丸ごと形、重力として感知される状態でバランスをとってるときは頭頂が上に引っ張られてる。
このような状態ですか?
このときに五感の感覚や空間の感覚はどうなっていますか。身体の存在が先にある感じですか。
>>63 脳内の高階の知覚域
というのはなにを指していますか。作業のある段階でそれが現前してくることがありますか?
例えば、微細なバイブレーションのようなものとして。
また、高階の知覚域での「面」と、内在するぐらぐらする「面」と、
>>56 の
>地面と垂直な正面と真後ろの正面から弾き飛ばされる面として自分がいるような錯覚
というときの「面」とは、同じものが形を変えたものですか?
あとは、自分が重要だと思う質問は先日のレスの中にあるとおりです。
ところで小丸さんは今現在、この「作業」を続行されているのですか?
おっとっとごめんなさい。
ちょっとなかなか落ち着いた時間が取れないものでざっと読むだけしかできてません。
相当難しい問いなので落ち着いたらレスします。
引いてるとか特にないですよ。
どこまで理解できているものか心細いですが、かなり力技で強引に読んでいきました。
こちらも昔のハンドルと折衷した文体が書きやすい気がしますのでそうすることにします。
読み進む過程で気づいたんですが、付箋のようにしてセンテンスを要約したものを頭の中で貼り付けていってるような感じです。
図の中からどれをしまい込み、どれを取り出していくか。
コンピューターのメモリのようなものが機能しかかってるうちにレスできるところからしていきたいと思います。
>>72 >小丸さんは「ソレ」を「アレ」といっているからには、類似の体験があるものと考えてよろしいですか
ええ、おそらく類似の体験だと思いますが・・そういう前提でレスしていきます。
>>72-73を確認したうえで
>>74ですが迷いというのもかなり分かる気はするんです。
もっといけるかもしれないと思ったときでも身体のコントロールが利かなくなるかもしれない防衛心が働いて、
もっと身体に任せてみればどうなるだろう、というのを制御する強い意識で止めましたし、今も止めています。
私の言っていた「ソレ」というのは、制御しようと思った時点での、およそこちらの方へ向かってるな、という状態の記憶を元に、
身体を仕掛けに仕掛けた準備万端の状態でないときに記憶を呼び出してきて、あるときは外界に溶け込むように、あるときは
特定のスポットのみに集中していくうちに自我を飛ばしていくくらいの意識でいるときの体験を複合しています。
ですから、
>小丸さんの作業における「手」ですが、あれは最終的にはどこへ向うのでしょうか。
>現時点では意識的にストップをかけるか、フェードアウトするにまかせているのですか?
ええ、およそそのように捕らえていただいて差し支えないと思います。
そちらのおっしゃっている「瞬間定」のその先へ至る際の防衛心が働いたところに留まっていると言った方がいいかもしれません。
で、
>>75なんですが、どうですかねえ。利き手でない部分は乱暴に日常の居方に近くなったりしてるのですが。
時系列では完全に手が自動的に動く状態に仕掛けたときと、主客未分の状態とは隔たりがあります。
身体のどの部分でもいつでも不意に自動化しだすような仕掛けをしてるときは、その二つの状態の構造を一気に内部サーチして
検証していく感じです。
次の命令というのが、私の場合はどの段階で下されるべきものなのか、少し整理できてません。
>>77 マイムの経験は無いですが、面の仮構作業自体は同じだと思っています。
私が書いてきた作業は、他人とある部分は言語を共有したりしながらやってきましたが、
そうですね・・これもまた複雑なのですが、「この面は知覚できる面だよね」「意識して動かしてるのが見えたら面白くないよね」
「物に動かされる、という方が面白いよね」とか様々な言葉の中から、影響しあったりはしました。とお答えしておきましょう。
>>78 さて、>もしよろしければ「面」についてのより具体的な説明をお願いしたい。
これですね・・・
まず初めにいくつか。
幼児期に寸断されて感知される身体が、鏡に映る自分の姿や、見るものによって性的成熟が喚起されていったりする中で
自己像を結ぶに至るという話などは食傷気味でしょうか。
一応この話をとりあげたのは、自己像が虚像であるという確認みたいなものです。
このあたりのところから少し考察していきます。
横たわる身体をデフォルトとしますと、地面という面があります。
立つ身体を考えると、地面と垂直に立っているということは絶えず微調整を行いながらそれを保っているわけですが、
一応志向性としては「前」に向きますよね。この時に正面というのが決定されるのですが、
それは、横たわる身体によって呼び出された、かつては地面と水平にあった背面という面と合わさらないと
正面が決定しません。正面が決定してから事後的に地面が面として意識されていったのではないか。
>空間認識のモデルとなる記憶(面に還元される)
と書いたことの補足としてどうでしょうか。
地面とのバランスとしての関係 「正面/背面」の分裂が生成し、そのベクトルによって奥行きの調整が取られて
空間認識に至っていると思うのですが。一次元の線などは面のベクトルであり、三次元は面の組み合わせとしてある。
面というのは、空間認識のデフォルトとなる、事後的に見出された地面が無意識にベースとなった、具体的に
外界の正面をとらえる時に呼び出される原型の尺だと思っています。
自己像はそれを結ぶ土台の空間がこうしてできると、安定して像を結ぶようになる。
以下、私の使用した面のバリエーションについてのご質問がありましたので、それに答えることで回答とさせていただきます。
>
>>66 の
>>視覚には盲点があるし、左右の視差の調整を行っていることを意識しながらいると、眼窩の裏へ意識が向く。
>>時間の連続性という錯覚の虚点に結ばれる虚像のようなものでもあるし、時間の連続性のモデルになってる
>>空間の連続性の虚点に結ばれる仮の像でもある。
>このへんは、「面」と具体的にどのような関係がありますか?
のちにもご質問されていた高階の知覚についてここで答えておきますと、
私が使っている「高階の知覚」というのは、頭で思い浮かべた顔や、頭で流すメロディーなどです。
で、このへんは、実際は存在しないモデルとしての二次元(厚みをもたず、無限につづく)によって
遠近法的図式に窮屈に収まりそうになる「高階知覚上の面」「知覚上の面」を自由にするための客観図式の解体の入り口です。
外界との出会い、融和へ開く手続きと言いましょうか。
>また、
>
>>66 は
>>64 の
>>命令を続けているときは、モニターはぽっかり開いた穴の最後部のようなものに感じられる。
>>意識はその穴のような球体の内壁を囲んで、内側全体に波及してるかのよう。
>と、どのような関係にありますか。
上記の手続きを踏むと、身体の向く正面と同時に、地面も正面として感知されるようにもなります。
本来の正面と、地面という正面とに分裂することで、自分の身体がその差異の間を往還可能であり、かつ二つの正面を
決定するものとしているような感じになります。ここまで至ったときに初めて面が球体の内壁の面だと想起されてきます。
モニターの逃げ場所は、視覚の盲点の空隙でかつ地面と45度に近い場所へ後退しやすくなるのではないかと思います。
>また、自己を自己であると認識する意識(=自己の内省機能)は、内在する「面」がぐらぐらゆれていることと
>どのように関連していると思われますか?
自己を統御するために自動的に安定が志向されますから、内在する「面」の揺れがセンサーとして機能するのではないかと
思います。
>「面」が生成する瞬間を果てしなく追いかけることをやったことがありますか?
前述しましたが、統御できなくなるかもしれない手前でやめてます。
当たり前のようなことかもしれないですが、覚醒状態に入っていないときには
かなり緩やかな想像と高階知覚と知覚の関係の間では行われているかもしれないですが。
>>79前半
今は保留しときます。
>>79後半
>進化には常に時間が包括されている。なにかに向っている、という意思そのものがあらゆる断絶を生み出す。
ここのところが少しよくわからないので、補足願えないでしょうか。
あと、これはいずれにせよ、進化の意思にしろその逆にしろ関係はある、ということでよろしいですか。
>>80の前半についてですがこれは現時点では議論の流れ上、自分が混乱しそうなので保留させてください。
>脳内の高階の知覚域
>というのはなにを指していますか。作業のある段階でそれが現前してくることがありますか?
>例えば、微細なバイブレーションのようなものとして。
なにを指しているかは前述の通りです。
で、頭の中で厚みを持つ面として現前し、フィルターとして高感度になっていっているような感があります。
>また、高階の知覚域での「面」と、内在するぐらぐらする「面」と、
>>56 の
>>地面と垂直な正面と真後ろの正面から弾き飛ばされる面として自分がいるような錯覚
>というときの「面」とは、同じものが形を変えたものですか?
今日の始めに書いた尺としての原型の面が形を変えたものではあるのですが、
内在するぐらぐらする「面」は、普段はなかなか意識されない、自己統御のために自動的に働いているもので、
高階の知覚域での「面」は、意識的に参照できるメモリのようなものです。
地面と垂直な正面と真後ろの正面から弾き飛ばされる面として自分がいるような錯覚というときの「面」は、
統御された普段の正面の感覚が解体されていったときに、認識の最後のよすがとなるものですが、
これは高階の知覚域での「面」が身体を助けるようにして身体のサイズへ拡張された、
この段階で緊急に本来の自由な伸び縮みが可能になった、外界と脳内との中間に生成されたものだと思います。
・・とまあ、こんな感じですがどうでしょうか。整理下手なのでまとめやら、整理が促されるような質問には
ずいぶん助かってます。
忘れてました。
>>80 >ところで小丸さんは今現在、この「作業」を続行されているのですか?
>>82の最後で書いたような状態です。
こういう感じで日常生活の中でゆっくりとかなり長いスパンでしばらく
ちょっとずつ意識してて、ある時期不意になにか了解するか、まとめる必要に
出会うかに任せてます。いや、それにまあ求職中の身なので・・。
91 :
夢見る名無しさん:2006/05/28(日) 11:28:59 0
92 :
夢見る名無しさん:2006/05/28(日) 17:47:20 O
いーしはらー
93 :
夢見る名無しさん:2006/05/30(火) 04:08:56 0
えーと、たぶん明日ぐらいに来ますー
94 :
夢見る名無しさん:2006/05/30(火) 23:40:59 0
あまり論点を絞りすぎると行き詰まりそうなので、ちょっと雑談風に戻しますね。
例によって質問しつつ同時に自問していきたいと思います。
>>82 >もっといけるかもしれないと思ったときでも身体のコントロールが利かなくなるかもしれない
>防衛心が働いて、もっと身体に任せてみればどうなるだろう、というのを制御する強い意識
>で止めましたし、今もとめています。
防衛心が働くのはなぜだと思われますか?身体や意識のコントロールが利かなくなると「困る」の
はなぜでしょうか。自分を保っている何者かから逸脱してはならないという恐れはどこから生まれて
いると思いますか?
防衛心というのは自己保存の本能があるかぎり自分自身で外そうと思って外れるものではないですが、
私の場合は、防衛心が生まれる瞬間自体をひたすら見続けることによってあるとき不意に生命維持装置
のストッパーがぷつっと外れて雪崩が起きました。
それは、よくある「イっちゃってる状態」とは無縁の、非常に軽い、明晰な意識状態の後に起こります。
そのときになぜ身体がコントロールを失って吹っ飛んでいかないかというと、簡単にいってしまえば
やはり丹田が要になっているからでしょう。そもそも丹田がある程度できていないと身体と意識を切り離して
観測しつづけること自体不可能です。丹田が抜けていて眼圧が前方にかかってしまうと見る意識と身体の
意識は切り離せない。
ところで、小丸さんの作業において、手だけに限定せずに全身に波及させてみたことがありますか?
また、逆に、手で起こっていることを身体のある一点に移行させて集中することはできますか?
(自動的に動き続けているエネルギーのようなものが、例えば丹田のごく小さな中心に集約されてものすごい
密度で回転し続けるような状態)
そのようにして、全身が見た目上動いていない状態になってから、観測の対象を意識の生成する瞬間そのもの
に移行させたらどうなるでしょう。
次に、これは、手だけに限定してもよいのですが、今現在、自動化した状態で観測しているときというのは、
手の動きを連続したある一塊の流れとして捉えているように思うのですが(動きをセンテンスで捉えている)、
意識の状態はそのままで、手の動きを時系列に細かく分断させて見ていったらどうなると思いますか。
(手というひとつの物体の動きではなく、例えば「床に触れた面の感触」→「離れた瞬間の皮膚の弾力」
→「手首が上に上がるときの折れ曲がった部分の皮膚の寄る感じ」→「視覚に入った瞬間の皮膚の色」→
「手根骨のわずかな軋み」というようなことを瞬間瞬間に矢継ぎ早にモニターしていくだけで、
「手」あるいは「物体の固まり」いう全体像のイメージを結ばないようにする)
また、上記のモニターの状態で、瞬間瞬間に意識に上ったことを、上った直後に言葉(単語)
を貼り付けていってみたらどうなるでしょう。
(例えば、上記の「床に触れた面の感触」が意識に上った瞬間に「感触」、「皮膚が視覚に入った」
ときには「見た」、など。なるべく概念を省いた言葉を瞬時に呼び出す。
単語が自動的に飛び出てくるのが理想。)
つまり、ここで私がいいたいのは、後にも述べますが、「寸断された身体」に
いったん戻るためにはどうしたらいいかということです。
自我が飛んでいる状態になっていたとしても、連続した自我としての身体の全体像は、
なかなか崩れないので、まずはそこを超厳密に見ていく必要があると思うのです。
上記のメソッドは厳密にやっていくと、身体の概念が崩れ落ちてバラバラになる瞬間が
(意識の自動化を経験している人であれば)確実に訪れる。
私は、この状態になってはじめて心身のニュートラルな状態と呼びます。
>>84 >幼児期に寸断されて感知される身体が、鏡に映る自分の姿や、見るものによって性的成熟が喚起されて
>いったりする中で自己像を結ぶに至る
ぜんぜん食傷気味ではないですが、小丸さんらしいなあと思いました。
上述のとおり、自己像が虚像であるというのは作業において大前提ですから、
共通の認識を確認するのにはわかりやすいです。
余談ですが、昔、学生の頃、とある大御所舞踏家O氏に「舞踏っていうのは、ラカンのいう鏡像段階以前の状態に戻した
バラバラな身体を、シュールレアリスティックに再構築しては破壊する瞬間を見せるということではないですか」
というようなことを問うたことがありましたが、ぽかんとした顔をされてがっかりした思い出があります。
まあ、踊る側はそんなことは後づけですからねえ。
しかし、ガキながら、わりといい線ついてたと思うわ。
今でも、土方巽だけは本当に、身体も意識も赤ん坊や動物のようにバラバラになることのできる人だったと思っている。
リアルタイムでは見てないけど。
>>85 素朴な疑問ですが、なぜ仰向けに横たわった状態をデフォルトと設定したんだろうと思いました。
このへんの空間認識の原型の尺の形成過程というのは、なにかソースがあるのですか?
とはいえ、小丸さんのいう「面」の説明としては、自分なりに身体的にある程度理解しました。
以下はただの雑談として流してください。
私自身の感覚からすると、デフォルトがうつ伏せです。進化の過程からしても、赤ん坊の立つ過程
にしても、四つんばいが基本だからです。人体工学を独自に研究しているおもしろい人がいまして、
昔、そこの指導で実際にその立つまでの過程を延々時間をかけてやってみたことがあるのですが、
四つんばいの動物は身体のハラの面が地面、背中の面が天井、顔(目)が前を向いている。
えー、となると、空間認識の形成過程はどうなるんだ?
で、四つんばいの状態から無理矢理ゴゴゴゴっと立ち上がった人間はベクトルとしてはつねに地面に
向って倒れ続けていている。まっすぐに立っているというのは、上昇を志向する進化の意思、精神性
そのものが形になって現れたものである。とかなんとか。
これも関係ない話、ドーマンという人は赤ん坊のハイハイが脳機能の発育に非常に重要であると
いっているけど、赤ん坊はこの段階でどのような空間認識をしているのだろうか。一般的にハイハイを
はじめる時期は7〜9ヶ月だという。ラカンにおける鏡像段階は前エディプス期(生後6〜18ヶ月)か・・・。
近々身内に子が生まれるので観察してみよう。
>>86 >このへんは、実際は存在しないモデルとしての二次元(厚みをもたず、無限につづく)によって
>遠近法的図式に窮屈に収まりそうになる「高階知覚上の面」「知覚上の面」を自由にするため
>の客観図式の解体への入り口です。
ここでいう遠近法的図式〜客観図式の解体という流れは、構造主義〜ポストモダンあたりを視座に
入れてらっしゃるんでしょうか?橋爪大三郎が構造主義のルーツとして遠近法をあげてたけど、
遠近法とは視る主体を固定した世界の見方であって、デカルト的近代自我が「視る技術」として後天的に
獲得したものですね。それで今まさにその主体自体を解体する必要性をいっているわけですが、
さてそこで、
>外界との出会い、融和へ開く手続き
というときの小丸さんにとっての「外界」とはどこですか。
現象学ではないですが、世界の事象の直接の経験というのはなんだと思われますか。
あ、現象学で思い出したけど、以前小丸さんが超越論的といった超越論て現象学の用語として使ってたのかな?
フッサールにおける超越論的主観性においては遠近法的パースペクティブが突破されたところの現出者が
直接経験であるといってるけど・・・・それはさておき、本当のところ「直接」ってなんだろう・・・・
これも余談ですが、視るものが視られるものになってしまった人に映る世界はすべてが「一(いつ)なるもの」
であって、特定のものに焦点があてられないという。主体がなくなってしまうと、遠近法的なパースペクティブ
が実際に失われてしまうものらしい。
赤ん坊の見てる世界もこんな感じなんだろうか。
さらに余談。
私のいうところの「ソレ」というのは、目をとじた状態における、小丸さんいうところの「高階知覚上の面」が
像を生成する瞬間の高速ラッシュなのですが、象徴的だったのは、集合無意識的な形である縄文土器のようなものの
射影変換のスライドショーみたいなのとか、父親の顔(写真のようにべったりすべてが写った面ではなく、
おそらく通常高階の知覚で行っている処理のように、誰かの顔のある面や線を部分的に組み合わせて個人を特定している、
「印象」としての顔)とかがでてきてましたよ。
それらが眩しいほどの鮮明な像を結ぶやいなや消えさっていく。
それは目を裏返して頭の中を直接見ている感じです。通常の意識では、知覚に入ってくる外界の刺激と記憶や
ランダムな意識下の流れが瞬時に結びついて概念を生み出しそれがあたかもパラパラ漫画のように
連続する思考として錯覚されるわけですが、それにおいては、概念や遠近法的図式を形作る前にどんどん
小丸さんいうところのZONEに吸い込まれてしまうのです。
>>87 >本来の正面と、地面という正面とに分裂することで、自分の身体がその差異の間を往還可能であり、かつ
>二つの正面を決定するものとしているような感じになります。
この差異の間を高速で際限なく往還し続けると(だまし絵のコップと人の横顔を同時に捉えようと試みるのと
にている感覚?)クラシックバレエの立ち方に近くなるように感じました。頭上と尾てい骨が上下に拮抗して
無限に引き伸ばされる感じです。
身体の軸というのは、通常の日常の身体感覚からするとかなり後方にあって、
正しく立てば地面に対して垂直ではなくかなり後ろに傾いた角度で立ってるように
感じるはずですが、それはモニターの逃げ場所が地面と45度に近い
場所へ後退しやすくなることと関係がありますかね?
ただ、>面が球体の内壁の面だと想起されてきます。
というのが、今ひとつ身体で体現できない。
正面決定と同じ作業を側面でもやってみたらいいんでしょうか。
もしかしたら小丸さんの説明を表面的にとらえて勘違いしているかもしれないので、
どうぞご指摘ください。
>>自己を自己であると認識する意識(=自己の内省機能)は、内在する「面」がぐらぐらゆれていることと
>>どのように関連していると思われますか?
>自己を統御するために自動的に安定が志向されますから、内在する「面」の揺れがセンサーとして機能する
>のではないかと思います。
この質問の意図はちょっと別のところにあったのですが、そこは保留にするとして、この回答自体は納得しました。
しかし、面というのがセンサーとして機能するとしたら、面は自己の統制をアプリオリに志向しているものなので
しょうか?
そもそも、面の座標が決定される過程自体が、自己の統制そのものなんでしょうか。
だとすれば、上述した「防衛心」というのは面とどのような関係があると思われますか?
「高知覚上の面」「知覚上の面」は遠近法的図式に窮屈に「収まりそうになる」とありましたが、
通常、自動的に遠近法的図式に収まってしまっていることすら意識もされない「面」というのを
「自由にする」というのは、自己を統制しているシステム自体が新しく組み変わる可能性があるということですか?
そこらへんを突き詰めていくとはじめて、
>「面」が生成する瞬間を果てしなく追いかけることをやったことがありますか?
という質問が意味を成してくるような気がします。
>>88 進化に包括される時間や意志について言及しだすと収拾がつかなくなるので、すみませんがなにかの機会にまた。
>進化の意思にしろその逆にしろ関係はある、ということでよろしいですか。
というのは、そのとおりで結構です。
まあ、今日の話の流れでいうと、遠近法的パースペクティブにおける主体は常に直進(前後を含む)を志向する、
といったところです。あ、あまり深く考えないでください、今は。
それにしてもこういう曖昧さをすかさずつっこまれるのでコワイですねえ・・・・
>>89 >これは高階の知覚域での「面」が身体を助けるようにして身体のサイズへ拡張された、この段階で
>緊急に本来の自由な伸び縮みが可能になった、外界と脳内との中間に生成されたものだと思います。
このへんは、上述したとおり、
>面が球体の内壁の面だと想起されてきます。
というのが体得できてないからか、感覚的にいまひとつわからないんだけど、
>地面と垂直な正面と真後ろの正面から弾きとばされる面として自分がいるような錯覚というときの「面」
>は、統御された普段の正面の感覚が解体されていったときに、最期のよすがとなるものですが、
というのはわかるかな。身体があるという感覚が消えたときでも、この最期のよすがの残像みたいなものは
残り続けるので、上下の感覚がなくなるということは(少なくとも自分には)絶対にないので。
・・・・と書いているところで急にわかったかも。
たしかに、正面のみならず、身体の感覚が解体されたときには、薄氷のごとき危い面が見え隠れしていますよ。
ただ、>外界と脳内との中間に生成されたものだと思います。
というときの「外界」にはすでに遠近法の罠が包括されている気がするんですがどうでしょう。
圧縮が近付いてまいりました。
106 :
夢見る名無しさん:2006/06/03(土) 17:13:52 0
_、 _
( ム` ) ヤレヤレ…
⌒
すこし待ってください。
時間あいたらレスします。
108 :
夢見る名無しさん:2006/06/03(土) 18:11:39 0
_、 _
( ム` ) ヤレヤレ…
⌒
109 :
夢見る名無しさん:2006/06/04(日) 02:32:27 0
人
(゚ё゚) 人
人 (゚ё゚)
(゚ё゚) 人
(゚ё゚)
人
(゚ё゚) 人
(゚ё゚)
人
(`ё') <ヤレヤレ…
110 :
夢見る名無しさん:2006/06/04(日) 10:56:38 O
_、 _
( ム` ) ヤレヤレ…
⌒
111 :
夢見る名無しさん:2006/06/04(日) 19:04:16 0
ごめんなさいちょっとまだ忙しいです。
113 :
夢見る名無しさん:2006/06/06(火) 22:01:07 0
! i |
i |
/  ̄ \
lニニニニコ .i |
\___/ | |
| ||i
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|_|i
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| | i . ∧∧ ../ ..`‐-、\
| | i. | ( ´・ω・) / ∧∧ | |
_| |_ / o〆 (・ω・ )
|___| しー-J uu_)〜
114 :
夢見る名無しさん:2006/06/10(土) 07:33:06 0
_, ._
( ゚ ω゚) ほしゅ・・
115 :
夢見る名無しさん:2006/06/10(土) 16:00:22 0
ホェ? ハェ?
__、、=--、、 __
/ ・ ゙! /・ `ヽ
| ・ __,ノ (_ ・ | < ほしゅ?
ヽ、 (三,、, _) /
/ー-=-i'’ (____,,,.ノ
|__,,/ |__ゝ
〉 ) ( )
116 :
夢見る名無しさん:2006/06/10(土) 21:45:32 0
117 :
夢見る名無しさん:2006/06/11(日) 16:49:59 0
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( ( (゚Д゚,,),:. :.、.:',.: .:: _;.;;..; :..‐'゙  ̄  ̄
遅くなりました。
忙しいのもあったのですが、時間がありながら集中の時間にならなかったみたいで。
>>94 この防衛心ですね・・これがどこから生まれてるのか。これ、上のほうから生まれてるんですよ。
方向が上でもあり、「高次の」という意味の上でもあり、今はごっちゃになってるんですが。
丹田が要、というのはわかるかな?もとの統一イメージで制御されてた身体から痛みなくパーツが剥がれてく感じなんですが自分の場合。
剥がれるというのは丹田があるから生まれる感覚だと思いますし。
前にも言っておいたことを補足しておくと、防衛心が働いたときの、「今外れようとしてる」感覚を記憶してますから、
非常に緩やかな形でその記憶を頼りに少しずつ箍を緩めるといったことは行ったりしてるので。
私はその方法を選んで今に至るわけですが。
>>95 >ところで、小丸さんの作業において、手だけに限定せずに全身に波及させてみたことがありますか?
>また、逆に、手で起こっていることを身体のある一点に移行させて集中することはできますか?
他の箇所は手のようには繊細になれませんでした。
できないながらおよそ予測できる、とタカをくくった上で、手根の感覚を全身に波及させるやり方で補ってます。
ですから不十分かもしれないですね。そのやり方でかなり応用が利いてるとは思ってるのですが。
>そのようにして、全身が見た目上動いていない状態になってから、観測の対象を意識の生成する瞬間そのもの
>に移行させたらどうなるでしょう。
意識の真っ白な中心を追いかけるかたちになり、追いかけるたびに観測していた世界が殻ごと剥げ落ちていく風になりませんか。
>次に、これは、手だけに限定してもよいのですが〜
>>96 これは多分、私への示唆だと思いました。
細かく言葉を当てていくと、当てられた部分が言葉にくっついて剥げ落ちていくのではないでしょうか。
心身のニュートラルとあなたが呼ぶことは理解できました。
>>97 あら、一度だけワークショップ出たことあります。
なるほどねえ。土方巽ってそんな感じだったのかも。
>>98 >素朴な疑問ですが、なぜ仰向けに横たわった状態をデフォルトと設定したんだろうと思いました。
>このへんの空間認識の原型の尺の形成過程というのは、なにかソースがあるのですか?
書いた後で、しばらく四つんばいでハイハイするときのことを想起してたんですが、仰向けをデフォのままにしました。
人間が飛ぶ夢を見るのは、赤ん坊のときに寝ていて上から聞こえてくる言語圏へ向かおうとする意思の名残だ、という文章を参照しました。
背面=地面に対して無力な時期から、地面をしっかり掴む時期へ移行し、面を捉えだす萌芽が四つんばいなのではないかなと思ったのです。
>>99 あっと・・遠近法とか超越論とかいうとイコールそれになると思ってたんですがこれはちょっと確認不足でしたね。
私はちょっと「直接」ってのはよくわからないです。
>>外界との出会い、融和へ開く手続き
>というときの小丸さんにとっての「外界」とはどこですか。
客観図式で外界とされてるときの「外界」です。
>現象学ではないですが、世界の事象の直接の経験というのはなんだと思われますか。
前述のように「直接」ってのはよくわかりませんが、遠近法的図式の解体を意識して行ったときのことを言ってるのかもしれないな
としか言えないかも。
>>99の余談
なるほど実際にそうなってしまうんですね。
>>100 うーん自分の場合は、顔として現象してくるものが飛び込んでくることはなかったです。
名前をつけたくなるような瞬間瞬間の像がぼんやり高速で流れるのを捉えきれないで、
飛び込んでくる世界がスローで変な形として自分にとって成立してしまってるのを「自分は変な形してるなあ」といった
感じで眺めてると同時に体験してる、その低速の方に同期してるかなあ。
>>101 >それはモニターの逃げ場所が地面と45度に近い
>場所へ後退しやすくなることと関係がありますかね?
クラシックバレエの立ち方は知らないんですが、上下に拮抗して〜というのはそのとおりです。
自分の場合はそれほど後ろに傾く感じではないですが、
ホムンクルスとかを考慮するとそうなるかもしれないです。
45度のことですが、モニターの逃げ場所は、軸として支えるコアのあたりだと感じてますのでそう書きました。
くっきりと斜め45度後ろ上へ引っ張る軸に思えたので。
>>102 内在する面は幾層にも重なってると思いますので、自己統御の解体作業中には、
そのうちでそれにそぐわない窮屈な面が違和を感じてるのだと思います。
面の座標の決定というのは、自己の統御そのものというより、
もともとは統御と解体いずれにも傾きうる編集場での、統御側の強い動きのことじゃないかと。
ですから、「防衛心」は統御側の面の働きだと思っています。
>通常、自動的に遠近法的図式に収まってしまっていることすら意識もされない「面」というのを
>「自由にする」というのは、自己を統制しているシステム自体が新しく組み変わる可能性があるということですか?
まずは、意識することで、「面」という言葉を当てることで剥がれやすくするといいましょうか、
そこから主客関係の転倒を促し、主客という図式自体が無化してくような形にシステム自体がシフトしていく可能性はあると思います。
可能性というか、今論じてることとかがもうシフト・編集のプログラムを書いてるようなものだと。
>>103 これは確認まで。非常に興味のあるとこではありますがまた。
>>104 >たしかに、正面のみならず、身体の感覚が解体されたときには、薄氷のごとき危い面が見え隠れしていますよ。
私もそんな感じです。そして上下はどうなんだろう・・私は今のとこはっきり無くなる感じはないですが、
バラバラに飛び込んでくる変な形を認識したときに、地面にさえもくるめられてこのまま上下感覚が無くなりそうな予兆みたいなのはありますが
あくまで予兆です。
>ただ、>外界と脳内との中間に生成されたものだと思います。
>というときの「外界」にはすでに遠近法の罠が包括されている気がするんですがどうでしょう。
これは文章が下手なのもあるんですが、途中で連続性を無意識に志向しがちな私の記述を指摘されてたので、その辺の私の問題ですかねえ。
後で整理して言葉に起こすときに、整理の仕方が遠近法的図式に知らず拠ってるのかも。
「外界『と』脳内」と書いたらプログラムにエラーが出るからデバッグすると
「面が編集ゾーンとして現前化してくることで外界/脳内という非対称の関係への分割自体が無化されるようなそういう面」と書いたらいいのかな・・
124 :
夢見る名無しさん:2006/06/12(月) 21:44:26 0
ぬるぽ
125 :
夢見る名無しさん:2006/06/13(火) 22:46:31 0
介
‥
川
126 :
夢見る名無しさん:2006/06/15(木) 03:21:53 0
あらかじめいっておきますが、かなり長文ですので気がむいたときにでも読んでみてください。
お忙しいようですので、このやりとりも適当に小休止をとるなりなんなりお任せします。
いい仕事見つかりました?
>>118 防衛心がどこから生まれるのか、というのは、身体的な感覚というよりは、存在そのもののシステム
としてそれがなぜ否応なく生じるのか、という意図で質問したのですが、それはさておき、
>上のほうからうまれてる
というお答えは興味深かったです。というのは、小丸さんのいう防衛心は、単純に肉体的な危機に
瀕したときにおこる防御反応とは違うということが確認できたからです。
これはクリヤ・ヨガ(クンダリーニの上昇を目的とする)的な好奇心からの質問なので本筋から
はずれますが、
>防衛心が働いたときの、「今外れようとしている」感覚
>上のほうから
というのは、身体の部位でいうとどの辺りの感覚が強いですか?
喉、額、頭頂のいずれかにブロック(ひっかかり)がある感じがしますか?
まさに外れようとしている瞬間(防衛心が働く直前)に頭頂が開く感じはありますか?
また、
>もとの統一イメージで制御されていた身体から痛みなくパーツが剥がれていく
ときに、剥がれていく核となっているのは丹田ですか?
もしくは、自動化された意識の「面」の残像のようなものですか?
ちょっとわからなかったのが、
>緩やかな形でその記憶を頼りに少しずつ箍を緩める
という部分なのですが、その場で今まさに起こりつつあることではなく、「記憶」を頼りにするのは
なぜですか?
過去の記憶が想起された瞬間に防衛心が巧妙に隠蔽されてしまうのでは?
ところで、小丸さんの経験した、私いうところの「瞬間定」(←これはアビダルマから拝借した用語)
と類似の体験が起こったときは、それに至る過程でいつもと違う感覚がありましたか?
それとも上記のように箍を緩めていった延長で起こったのでしょうか?
また、これは個人的な興味ですが、このような作業を長期的に続けている過程で、自我の心理的な
問題(過去のトラウマ等)が浮上してくるということはありましたか?あったとしたら、それを自発的に
解決しようと試みたことはありますか?(これは無理にお答えにならなくてもけっこうです)
ちなみに私の場合はありました。で、できる範囲でそれらを片付けました。3年かかりましたよ。
(だからといって「よりよい」人間になったわけではなく、いろいろな歪みを含めて「素」に戻ったと
いう感じですかね・・・あーでも小丸さんてもともと素直そうだからなー、関係ない話かもね)
なにかそういう小さなひっかかりの部分が意識の最後の最後に何百倍にも増幅されて関わってくる
という感覚があったからです。身体の感覚でいうならば、0.1ミリ単位の軸のブレです。
それは防衛心にも関係しているかもしれない。
ニューエイジ的でクサい言い方ですが、最後のストッパーをはずすのは自己(便宜上自己と名付けるけど、
それは自我ではない。また、アートマンやブラフマンでもない、念のため。)の100%の信頼と受け渡しだと思う。
先に、防衛心が巧妙に隠蔽される、といいましたが、それは私自身の体験からそう感じるのです。
それを浮上させては解体し、という繰り返しです。
(ちなみに先日、「言葉を貼っていく」という方法をちょっと書きましたが、
言葉が自動的に飛び出すレベルになると、実は心理的な方面で隠蔽された問題を
浮上させる絶大な効果があります。)
現在のところ、いってみれば、小丸さんは動的アプローチ、私は静的アプローチをとっているわけですが、
動的アプローチはカタルシスに安住しやすいという欠点、静的アプローチは禅でいういわゆる「魔境」にはまり
込みやすいという欠点があり一長一短ですね。
私はあえて数年間、動的アプローチを遮断してきたのですが、再び分岐点に来たという感じがあります。
>>119 いろいろ勝手な意見を伸べましたが、作業を手だけに限定していても充分だと思います。
むしろ手根ならば手根の一点に限定して極度に集中したほうが、身体の意識は一気に
剥がれ落ちやすいでしょう。
私は以前、足の裏の感覚だけに集中して非常にゆっくりと歩く(というより足の裏を床から離して空中で
ちょっと進んでまた床に下ろす繰り返し)、ということを3時間ぐらいぶっつづけで(しかも1週間毎日)
やったことがありますが、歩くという行為が無化され、意識が自動化した後、ある瞬間から、身体の感覚はおろか、
足の裏の皮膚の意識もなくなって、床に接触した点だけが時系列にバラバラに感知され、その点々が生じては消えていき、
消える瞬間に意識が吸い込まれていく、という状態が訪れました。
ただ、前回もいったとおり、この時点(寸断された身体)でやっとニュートラルな状態なので、
この後の作業はまた別の段階になります。
この段階で再び、防衛心が非常に問題になってくるわけですが・・・・。
ちなみに、寸断された身体というのもある段階で放棄すべき概念でしょう。
高次の次元で繊細になればなるほど概念に付随する固定観念が命取りになる。
戦略的にやるには、ある段階で得た手柄に執着せずに、仕掛けては放棄することの
繰り返しが必要だと思う。
その意味で、先ほど「記憶」に頼るのはどうか、といったのです。
この後の仕掛けとしては、あえて哲学でいうならばベルクソン的な知覚は有効だと思いますね。
つまり、シンボリックな概念にとらわれていた身体の内部観測を、ある時点で一気に開放するわけです。
そうすると、身体が「世界」の四方八方に分散してしまう。
そこにはすでに「寸断されうる」身体もない。
さらに「見るものは見られるものである」という擬似的な体験がおこる。
簡単にいえば、身体外部の世界の対象物を知覚するときに、それらの知覚がなされる場所は、
それらが「そこ」にあるその場所そのものである、ということか。
おもしろいのは、身体内部の知覚も同時に成立していて、それこそを「感情」と呼んでいること。
まあ、あまりここでは深入りしませんが、ベルクソンという人はなにか実際に「見えて」いた人
なんじゃないですかね・・・・
>>120 >>外界との出会い、融和へ開く手続き
>>というときの小丸さんにとっての「外界」とはどこですか。
>客観図式で外界とされてるときの「外界」です
言葉の言い回しの揚げ足とりになってしまうかもしれないですが、ここはちょっと重要だと思うので
あえて突っ込ませてください。往々にして些細な言葉の転換で急に意識が開けるということもある
から。
まず、実存主義〜現象学以降のテーマとして主観/客観図式の超越論的転換があるわけです
が、マッハ的光景(これはクオリアを説明するときに茂木健一郎もひきあいに出してますが)
をベースにした世界の超越論的還元(ここではフッサールのいう意味での超越論。
カント・ハイデガー・ヴィトゲンシュタインそれぞれに意味がかなり異なるので)
においては、極論すれば外界は「ない」。
ない、というのは言いすぎかもしれませんが、諸現出がアプリオリにキュビズム的に「突破」
されて知覚されてしまうことを逃れられない人間にとって、超越論的還元(クオリアあるいは唯脳的還元といっても
いいか)とは「別に」存在するで「あろう」外界を無条件で仮定してしまうことは、よくよく考えてみれば
SF的ゴシップにすぎないでしょう。
つまり、それが「ある」か「ない」か、というのは仮定の議論でしかなく、科学的にいくら数値を割り出してみたところで、
実存そのものを論じるときには無意味である。
もちろん、小丸さんのいう客観図式とはそれほど単純なものではないでしょうけれど、これは論を展開するにあたって大前提
となることなのであくまでも確認と考えてください。
元はといえば私の誘導尋問がまずかったのですから。
では、なぜ上記の小丸さんのレス(言い回し)にひっかかったかといいますと、
外界(と便宜上名付けているもの)とはすでに出会いそのもの(あるいは知覚そのもの)であって、
対象物として改めて能動的に出会うものではないということがあります。
なぜ「融和」という言葉を使われたのかも感覚的にはわかります。
私だって感覚的(感傷的?)には世界との分離感がこの作業の原動力になっているわけですから。
しかし、感情を排して何度も何度も超越論的還元に立ち返っているうちに、外界と仮定して知覚しているものも
外界との分離を感じる「わたし」も、ホムンクルスのメタ認知のバリエーションにすぎないという視座が
無条件に染み付いてくる。
そうすると、実際、あるときからガラっと世界の見え方が変わってきて、それとともに身体感覚自体も組み変わるわけです。
これは私の個人的な感覚ですが、世界をあえて表現するなら「それ自体が知覚そのものであるクラインの壷」といったところでしょうか。
見えているもの、聞こえているものはすべて「わたし」のホムンクルスの投影であって、「私」は「世界=わたし」の外部であり内部である点を起点に、
身体というメタ認知を抱えながら運動が起こると同時にキネステーゼ意識が壷の表面をズルっと巻き込んでいき、それにひっぱられて新たな表面が現出してくる。
わかりやすくいえば、「私」は「わたし」の知覚そのものの中に身体をめり込ませながら「意思を持って」進んでいる(と錯覚している!)。
つまり、はじめから終わりまですべてが「わたし」であって、そもそも本来は、探求するべき主体も客体もないということです。
(といっても、独我論ではないですよ)。実際にこの視座で世界を眺めると、あらゆるものが新鮮に輝いて見えてくる。
しかし、これはまだ知的な予感の粋を完全には超えていない。
最終的には「私」のメタ認知が完全に組み変わらないかぎり、分離感に幽閉され続けるでしょう。
小丸さんがわからないといっていた、私にとっての「直接」の経験というのは、おっしゃるとおり、
遠近法的図式の解体とメタ認知の組み換えによって、知的にではなく、実際に見えてくるであろう新しい世界を意味しています。
それがどんなものかは、今は想像もつきませんが。
なぜそれを小丸さんに問うたかというと、作業を続けてきた過程で、なにか予感めいたものがあった
かどうかが気になったからです。
想像もつかないといいましたが、実は私自身の中では、物心ついた直後ぐらいに起こったある体験が
ソレを垣間見たものであったという確信があるのですが、この話は機会があればまた。
ところで「すでにして仏性である人間がわざわざ悟らなくてはならないのはなぜか」というテーゼをもって
宋に渡った道元ではないですが、現代の禅の世界で唯一見性しているであろうと噂される曹洞宗の
H老師にどうしても直接聞いてみたいと思うことがあって(私は禅の人じゃないけど)去年、独参する機会を得たところ
「あなたのやり方では最後まで分離し続ける観照者はなくならないでしょうね」と一刀両断され
「まあ、接心にきて座りなさい」で片付けられてしまいました・・・・ははは!
しかし、時間と空間について晩年のフッサールと同じようなことを何度も強調されていたのは印象的でした。
床をコツンと叩いて「この瞬間に過去・現在・未来がすべて含まれているのです」という言葉はそのまま
「把時的現出・原印象的現出・予時的現出」にあてはまる。
(だからといってそんなのべつにどうでもいいか)
>>121 >自分の場合は、顔として現象してくるものが飛び込んでくることはなかったです。
これは単純に目を開いて身体感覚を追っているのと、目をつぶって意識を追っているのの違いから
くるんじゃないですか。
前述したように、私も例えば、目を開いてゆっくりと歩くということをやってるときに、眺めていると
同時に体験してるという状態は訪れますよ。
極度に集中が高まってくる過程で、いったん、観照者と行為(客体)が分裂して2つの時間が並行して
流れているような感覚になるのは誰にでも共通する体験みたいです。
以前、理論的に瞑想をやっている人に聞いてみたら同じことを言ってましたし、舞踊家などもよくそういうことをいいますね。
しかしそれは本当は錯覚であって、客体と観照が時系列に交互にメタ認識されているのを、瞬時に2つの流れに編集しているにすぎない。
客体の認識と観照のメタ認識の座が低次と高次に分かれているわけではない。
普段の知覚では 客体−観照−客体−観照−客体・・・・・
という流れが次から次へと雪崩のように「押し被せ」られているので、大雑把に一本の時間の
感覚としてとらえているのですが、意識的に客体を切り離す作業をすると、まずはじめに
客体−客体−客体・・・・という流れに極度に集中するため、
観照−観照−観照・・・・という流れと分裂した別個の実在として感じられる。
この状態は、集中力が高まった証拠ではありますが、あくまでも意識の過程の一段階でしかない。
前にもいいましたが、私の場合は、その状態(2つの流れ)になってから、観照者自体を追っていく方法に意識的にシフトさせます。
>名前をつけたくなるような瞬間瞬間の像がぼんやり高速で流れてくるのを捉えきれないで、
>飛び込んでくる世界がスローで変な形として自分にとって成立してしまっているのを
このへんは目を開いていますか?目に飛び込んできたものを遠近法的・キュビズム的な「突破」
という編集を経ないで、映るにまかせている状態ということでしょうか。
スローで変な形、というのは、瞬間瞬間の像が流れてくるのを「捉えきれない」がゆえに、意識が緊急的に整合性を保つために、
空間を捉えるシステムを自動的に低速にギアチェンジをして、ひとまとまりの連続する流動的な塊として
世界を新たに編集してしまうということですか?
もしそうだとしたら、無意識のギアチェンジは、防衛心に関係してませんか?
45度うんぬんの話でホムンクルスという言葉が出てきましたが、私の理解ではホムンクルスはメタ認知の
システムそのものであって空間的な座標をもつものではないので、
>ホムンクルスとかを考慮するとそうなるかもしれないです。
という意味が???
小丸さんは身体をシステマチックに認識するなんらかの訓練をされていたことがあるのかな?
身体を空間座標に還元することが無意識のうちに行われているような感じがするので。
日常の世界では、スポーツにしろアートにしろそれはむしろ推奨されるべきことだけど。
もちろん、作業においてはそのへんは超越する一種の才能をお持ちなので、問題はないです
けどね。
>>123 で、ご自分でもおっしゃってますが、言語に変換するときに無意識に志向性が付与されて
くるということでしょうね。それは私も同様です。
しかし、何度も何度もいうように、人間の後天的属性である遠近法的図式を、形而上ではなく実際に解体しようとする試みというのは、
どこにその動機があるかで作業の厳密度や行き着く先が異なってくるわけです。
この世界のシステムの中で「よりよく」生きたいと思うのならば、属性に素直に従ったほうが
明らかに生体として「得」なわけですから。
だから私は、他人と共同作業できるのは今ここで話しているレベルが限界という気がします。
ホムンクルスという言葉がでてきたので茂木のクオリア論をパラパラと見直してみたのですが、
(先日は暴言を吐きましたが、考えてみたら読んだのって何年も前の初期の頃だった)
小丸さんのいう面とか質感というのはクオリアに即してみるとすっきりとわかりやすいですね。
これも余談になりますが、意識を高速に微分していった末に形や面の質感にたどりつくのは脳のシステム
としてはセオリーどおりなんですよね。
視覚はV1野に情報が入力されると
@V1野(第一次視覚野)→V4野(色覚中枢)→IT野(形体処理中枢)
AV1野→MT野(空間・運動処理中枢)
の2経路に並列的に処理されていくのですが、@のV1野からIT野までの情報伝達までは0.1秒かかる。
以前も書きましたが、人間が時間を分割して認識できるのは0.1秒前後が限界だという実験結果があって、
理論的には、形の認識生成の場に立ち会うことは可能なわけです。
我々が作業と呼んでいるものはIT野を経て、最終的に情報が統合されて概念が形成されるのを、
いわば逆にたどっていってるようなものでしょう。
茂木のいうクオリアと前クオリアの境目あたりを感知してるのかもしれませんね。
まあ、しかし単純に要素に還元するのは危険なのでこの話はこのくらいで。
でもやっぱり大雑把という感がぬぐえないんだよなー。「伝達に要する有限の物理的時間の経過は
心理的時間の中では経過は無視されて、心理的瞬間の中につぶされてしまう」というときの、
「つぶされてしまう」という言語感覚とかがどうも鈍い感じがしてしまうんですが・・・・
139 :
夢見る名無しさん:2006/06/17(土) 03:43:42 0
[゚д゚]
/[_]ヽ
| |
140 :
ちゅー ◆chu/vNrHY2 :2006/06/17(土) 17:43:54 O
駄目だね。テストミスったよ('A`)
141 :
夢見る名無しさん:2006/06/17(土) 18:59:48 0
_,.。r'
゙てb
cソ
‡†
.
143 :
夢見る名無しさん:2006/06/19(月) 22:16:02 0
144 :
夢見る名無しさん:2006/06/19(月) 22:38:05 0
;;; :::: ... ::::: ::;;;:::.....
;;;; ,,, 、、 ,i' :;;::.,,: 丶;;:;;:
ヾヾ ゞ ```
ゞゝ;;;ヾ :::,r' ` ` i、;;;ヽ;;; ヾ;;;
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ii;;::iヽ / ` ゞ:,,,:: ヾ 〃::;:
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iiiiiii;;::;';;" `;;/i:ii iii;;;;;::::
145 :
夢見る名無しさん:2006/06/20(火) 00:37:58 0
[゚д゚]ノシ
/[_]
| |
どうも。おかげさまで仕事はどうにかなりそうです。
実は環境的に本が手元にないのでちょっと確認ができないことがあったりします。
整理をかねて自分自身の現段階の状態を書いておこうかと思いまして。
>>126 ブロックに対する回答ですが、これは頭頂です。
そして開く感じはあります。
剥がれてく核は丹田ですかね。面とは連動してるとは思うのですが、やはり丹田の方です。
>>127 これは、その場で起こりつつあることを回避したときに、意識してなるべく記憶が濁らないように感覚を覚えるつもりでいたからです。
防衛心が隠蔽されるということは思ってなかったです。
今もそうなるってことがわからないのです。鈍ってるからだと思いますが。
「瞬間定」と類似の体験のところは、箍を緩めた延長ですね。
で、自我の心理的問題なんですが、浮上してきたので片付けにかかるために環境を変えたりしました。
>>128 防衛心と関係してるんじゃないかと思います。
「このままだと間違った方向に行って後戻りできない」という意識が働いたのが防衛心かどうかはわかりませんが。
多分その信頼と受け渡しに深く関係してるでしょう。
私ははじめの方から作業、作業といってたのですが、ここ2,3年は実際は静的なアプローチというか消極的アプローチだったと思います。
>>129 ここら辺は理解できます。それをニュートラルと呼ぶことも差し支えないと思います。
>>130 私の記憶というのは、前述したようなものなんですが補足しておきますと
観念になるべく邪魔されない、というか、その記憶した意識の配置からリスタートする、みたいな感じです。
それでベルクソンなんですが・・手元にドゥルーズのベルクソン論がないのですが、
4,5年前にそれを知覚の参照にしたことがあります。
自分の知覚のなかに潜り込んでいくような感覚はそれから得ました。
>>131-133 これすっかり忘れてました。
特に知覚がその場所で起こるうんぬんのところを。
外界、のことですが、目が外界の対象をとらえる、という意味くらいでしか使用しちゃいけないですねこれ。
>>134 これは禅の知識がないので少しピンと来ないんですが、
この文章から想起したことがあるので後述します。
>>135 ええ、編集してるというのはその通りだと思います。
>>136 気がつかなかったですが、ずーっと目は開けてます。
目を閉じるということを思いつかなかった・・
システマチックうんぬんのところですが、
身体を空間座標に還元することは訓練で染み付いちゃってますね。
ホムンクルスのとこの???は、知覚がメタと入り組んでる状態での私の乱雑さゆえかもしれません。
低速にギアチェンジというのは、防衛心とも関係してるかもしれないですね。
これは正しいかどうかわからないんですが、あるときからアッパー系の感覚を受け付けなくなったことと関係してるかもしれないです。
>>137 今の段階では、どう異なるのかはわからないんですが、違ってくるだろうな、ということではわかります。
>>138 最新のクオリア論ですか。
面や形が残るのはセオリー通だったんですねえ。
ざっと質問に答えてきましたけれども、これは時間軸でのレスが今回はキツく感じたためです。
というのは、これからまとめてっていうことなんですがね。
いま、自分の中で信頼できない自分というか制御できない自分の処理のとりあえずの最終段階にいるような気がしています。
まず、何々をしなくてはいけないという強迫観念。演技する自分が暴走したりするのを止めなきゃいけない。
世の中、人間ではなくて妖怪が7割くらい(だったかな?)だと言った美輪明宏ではないですが、
人を見ると、頭蓋をサーチするように見て、意識が凝り固まって病的な身体の在り方をしてるかどうか、みたいな見方をすることがあります。
そういう人を見ると、あ、妖怪だな、と思ってこちらが侵食されないようにする。
固定観念に縛られず、楽に居る人を見るとホッとし、ふと、「あ、神様がいる」と思いました。
見性という言葉のあたりでそんなことを思い、部屋の天井がやけに近いな、と思い、
近くにあったのに気づかないふりの自分を内省し、ロングトーンで意識を空へ向かうように歌うと、視界が一気に開けたりすることや、
生きていると日々、月に近づかれてると妙な悟り方をしたときのことを思い出し、
ドアや窓や人工のものが在るという不思議、建物は垂直に立った柱で出来ていて、ああそれはとてもよく出来てるな、と感じ、
人間の設計したものひとつひとつに感心していって、ああ、キリがないなあとふと意識を途切れさせたり・・
この歳になって生き物を見たり触れたりすると生き返るような気がし、
食だとか嗅覚だとかが敏感になり、
ふと思い返すと、かなり強く演技する自分が接した人のことはほとんど覚えておらず、
そしてまた、「膝を組みかえるだけで思考が一変する(石原吉郎)」ように、今保持している感覚の確からしさから比べると、
過去がまるで信用ならないようにも思え、まるで別人物のようにして「誰だろう?」と過去の自分を眺めているような自分が居る。
かつて「見ることは見られること」だとかいうことを友人に言ったことがあります。
そのときははっきり意識してたんですが、当時は、言語療法のように半年くらいかけて書いた文章を半年で一旦忘れようとしたくらいの時期です。
完全に忘れた後でやっと呼び戻されるようになればいいな、とこれは単純に中島敦の「名人伝」を実践してみたんですがね。
どっかで大澤真幸の「蓋然性の直知」とつながるような気もして。
あなたが書いたクラインの壷のくだりの世界観てのは「ああ、忘れてたのはそれだ」と思い起こさせてくれたものでして、
ダウナーな状態からだんだんそのレスに向かって起き上がってくように書いていっています。
ここ2,3日で思い返すうちにめぐってきたことがいろいろあって、
上に書いた神様うんぬんとか人工物、月のこととか歌のことや、電気や法や行政という予算配分システムや、音楽とか楽器というのがすごく正確に作られてることへの再発見、
好きな音楽などを思い起こすときに出てくる言葉(勇気)ですとか。
死への恐怖やら、親のことやら、死んだ友人のことなどを考えるときに、倫理という言葉を改めてあと一息考え切らなければな、と思ったり。
ここまで書いて、依存に気をつけなければ、と思い、
書くことが生きること、歌うことが生きること、踊ることが生きること、呼吸することが生きること、などとつらつら並列させていって
生きる=生きる、などと丹生谷貴志の「世界=世界の自動律」を稚拙に模した言葉に落ち着きそうになる手前でふっととどまってみるくらいがいいのかな、
という状態で次の言葉を探してる・・
自己への信頼、という言葉をどこまで理解してるか、あるいは誤解してるかを測っていただくのに、こんな風に書いてみましたけどどうでしょうか。
心理的問題にまつわることを列挙するような形で、極力ナイーブにならないようにしたつもりですが自信はありません。
151 :
夢見る名無しさん:2006/06/21(水) 21:07:05 0
あれは4歳ぐらいのときのことだったか、ベランダに干してあるふかふかの布団にもたれかかって、なんの心配ごともなく、
やらなくちゃいけないことなどなにもなく、やらなくちゃいけないことがないから時間の感覚もなく、
ちょっとシワのよってざらざらしたカバーに頬ずりしたり、生地の網目模様の隙間をじっと見つめてみたり、
じぶんが動くのといっしょにちらちらと舞いあがるホコリのゆくえを追ってみたりしていたときのこと。
すでに、わたしのからだは布団になっていた。
そのとき、隣家の屋根と屋根のあいだの青い空が、布団であるわたしの全体に、あっと声をあげる間もなく
貼り付いてしまった。
それは、体験しているという次元を超えていて、空と屋根と木々とベランダの手すりと布団とわたしの全体は、
ひとつひとつを切り離すことなどとうてい無理で、「っ?あっ!」という瞬間の「っ」の呼吸のきわにぜんぶが
永遠に貼り付いているのだった!
のろのろと起き上がったのはそれから10秒後ぐらいだっただろうか。
物心ついて間もないわたしは概念でそれをまとめあげることもできず、
放心状態で部屋のなかへ足を踏み入れた。
すると、絨毯の毛足をふみしめた瞬間、あたまのうしろがわのほうから、
みかんの干からびた皮のかけらみたいなものがぽろっと剥がれおちて穴があき、
そこから「あっ!」という慄きの正体が飛びだすとともに、すべてが見えてしまったのである。
世界の分かちがたい網目のすべてがなんの疑いもなく、4歳のわたしには、ひとつも欠かさずに
見ることができた。驚くべきことだが、それは文字通り「見る」ことができた。
すべてのものがそこにそうあるということが、生まれては死ぬという虚しさを超えて、一秒の時間
も過ぎることなく、あたりまえに配置されている世界。
それはまったく清廉で、ひとつの間違いもない世界なのだ。
このときわたしは、わたしのからだを離れていた。
天井に浮かんで、全体を見渡していた。
しばらくそうして突っ立っていて、世界の網目の個々の出来事に焦点をあてはじめると同時に、
わたしはじぶんのからだに戻った。
わたしはただただ「わかったわかった」と呟いていた。
胸のなかの存在の鐘がびりびりと鳴り響いてやまなかった。
そのままうろうろと部屋のなかを歩きまわっていた。
あたりが薄暗くなった頃、ふわふわとした足どりで、階下にいる家族のところへ降りていったところで、
このときの記憶は途切れている。
その後、10歳以前に同じようなことが2回ほどあった。
ひとつは、近所の男の子と喧嘩をしていて、ちょっと下を向いた瞬間に、
男の子が投げつけてきた30センチ四方はあろうかというアスファルトの塊が
脳天に直撃した直後に見えた、異様なまでにスローモーションの世界。
もうひとつは、プールで水のなかに潜っていて、限界まで息をとめていてから
水面に浮かび上がった直後に見えた世界。
浮かび上がったときに、図らずも、からだを通りこしてしまったのだった。
しかし、どちらも4歳のあのときほど強烈なものではなかった。
わたしは、自我が分裂した決定的瞬間というのをはっきりと記憶している。
それは3歳になるかならないかのときのこと。
3歳から習いごとをはじめたときの記憶ははっきりあるから、たぶんその前だろうと思う。
夜中にふと目の覚めたわたしは、隣りの部屋に寝ている母の布団のぬくもりを求めて
のそのそと起き上がった。
なぜかそのときむしょうに嬉しくて、にこにこと笑いながら部屋の引き戸を引いた記憶がある。
そして「おかあさん」と呼びかけようとしたときに、父と母が抱き合っている姿が目にとびこんできた。
その意味もわからないわたしは、わからないままに、凍りついた。
それは完全な疎外感と罪悪感であり、世界がわたしから分離した瞬間だった。
それ以来、世界とわたしの前に強固なついたてができたのである。
このときの記憶というのは、それからことあるごとにフラッシュバックとして甦ってきたのだが、
不思議なことに、3歳のそのときその瞬間、わたしはやはり、自分を後頭部上空から眺めていたのだった。
直接関係があるかどうかはわからないが、10歳以前のわたしは異常に過敏な子供で、シンボリックな
マンダラのような夢にうなされたり、エクトプラズムのようなものを見たり、学校で数字のカードを
1から100まで並べているうちに気を失いかけたり、授業中に座っている頭上に教室を覆うほどの
巨大な岩石がぽっかり浮かんでいて身動きがとれなくなったり、いつも不安でしかたがなく、
どこにいても自分のからだをさわったり掻いたりして確かめたり、つねに口の中に紙の切れ端でも
なんでも入れていたりして、じぶんがふわふわとどこかに抜けでていかないようにしていた。
私の自我の歴史というのはこの後も紆余曲折あるのですが、もとを辿ると、
5歳以前ぐらいまでにはほぼ原型が出揃っているという感じです。
私が、自分自身の信頼をとりもどす作業をはじめたときにまず着手したのが、
父母への隠蔽されたコンプレックスの部分です。
それは、前述の体験にはじまる、性的なコンプレックス(性と自己の分離感)
を克服して受け入れることが主でした。
自我の問題に着手するときには、現存在(あるいは世界に内在するものとしての実存)と、
存在するということそのもの(たとえば、ハイデガーの論考するアリストテレスのイデア論や一なるプロス・ヘン)
との次元を明確に切り離して考える必要があるんですよ。
例えば前回述べた、外界の定義についての基本的な確認ですが、主体/客体の図式を超越する作業としての
前提はマッハ的光景におく必要があったわけですが、その前に着手すべき個々の素朴な実存としての問題は、
外界をいったんもとどおり感覚的に自明なものとしてとらえていた頃にもどってやり直すべきです。
なぜならば、それらの問題は、そのときそのようにあると考えていた世界の内で生じたものだからです。
前回の外界の定義は、この作業においての実質的な基盤として有効であるということであって、
例えばアインシュタインは物理学と形而上学の際に立ちながら「自然法則はいかなる座標系においても
同一の形に書かれねばならない」という不変量論を前提に「世界が理解可能なことは一つの奇跡である」
といい、物理学を実存のレベルにひきもどそうとし、「事実の観察にとって自然事実が一般に接近可能に
なるために、いかなる仕方で『そもそも自然はあらかじめ視のうちに入れられなければならないか』」
という自然の先行的企投の次元に立っている。
また、ハイデガーは現存在の分析論は『世界内存在』に定位されるべきもの、つまり、まず世界のうちに
世界が問われるとし、現存在とは「世界内部的に出会われる存在者のもとでの存在として、自己に先立って
世界の内にすでに存在している」ものとして論じながら一方で、全体性と時間性を論じるときには自らこの
現存在の分析論の根源性の欠如を指摘している。
(と書きつつ、本当はそんなことはどうでもいいんですよ。ただ、小丸さんとの共通言語として
哲学がわかりやすいんじゃないかと思ったから今までいろいろ試みてきたわけですが、
本質はそのはるか向こうにあるのですから。でももうちょっとだけこの流れにつきあってください)
小丸さんが、非常に正直かつ純粋にも、私とのやりとりにおいて、半ばおずおずと言動に気をつかってらっしゃる
のは、このへんに関わりがあると思うのです。
つまり、その、あまりにも純粋すぎる感性がゆえに、現存在と存在そのものの次元をいっしょくたにしてしまっていることに
自らうすうす気づきながらも、自分自身の存在意義を渾沌とした象徴的世界(それはいわば、自我の芽生えた直後の子供の不安
に満ちた世界のようなもの)に求めることを手放すのが怖くて、どうどう巡りしてしまうということです。
自己を信頼するということは、それこそ実存のレベルにおける信頼から存在そのもののレベルの信頼まであって、
実存レベルにおいては、個々の事象(積み上げてきた自我の歴史)の問題をひとつひとつ解決していこうと思ったら
気のとおくなるような時間と根気が必要になってくるのですが、前回、私がいっていた、作業における防衛心の突破口
としての自己の信頼とは、世界の渾沌の恐怖に目をつぶって眠っている状態を手放せるかどうか、というところなんです。
概念化された世界内存在としての自己の核(と思い込んでいるもの)を手放してしまうと、自分が雲散霧消してしまうと
いう恐怖が、防衛心なのではないですか。
それは、生物に備わった本能的な死への恐怖といってもいい。
つまり、自分がなくなってしまうのが怖いということです。
手放すことのできない自己の核こそが、常に実存の不安と苦痛のもとになっているのにもかかわらず。
そして、その不安から強迫観念や仮面をかぶる自分ということが派生してくるにもかかわらず。
(私の家族に1人、やはり純粋すぎるがゆえに重度の強迫神経症と鬱でどうどう巡りに苦しんでいる者がいます。
彼の場合、思春期にすでに発症していて薬づけになっており、意識と身体が蝕まれてしまっているのですが・・・
脳の神経物質の問題であるといってしまえばそれまでですが、自我が完全に成熟して高度な概念が駆使できるようになる
以前に発症してしまうことは悲劇です。自立してから発症して考えに考えつくしたあげく、存在の矛盾に悲観したのならば、
自分の責任で極端にいえば自殺を選択することもできる。しかし、親の保護下で発症した場合、自分の意思で死を選択する
ことすら不可能なのです。それは、まったくもって悲劇です。私自身も成熟しているわけではありませんが、それでもそういう
「子供」は、無条件に抱きしめてあげるしかないんじゃないかと最近思うようになった。
実際そういうセラピーもあるようですが。)
しかし、実存の矛盾に気づいたときによく考えてみると、いったいぜんたい手放せない
自分というものはなんなんだろうか、という疑問が生まれてくる。
手放せない自己を形作ってきたものは、「わたし」という個人の自我の歴史であるとするならば、
わたしの核とは、たかだか何十年かの心理的時間性にすぎないのではないか。
時間からとらえられた自己は、時間の恐怖(すなわち、死にゆくわたし)からは逃れられない。
自己への信頼というときの自己とは、手放せない自我への信頼ではなく、ひとおもいに手放して
しまっても失うものはそもそもなにもないのだ、という存在の「全体性」そのものへの信頼、
あるいは全面的な降伏とでもいうべきものです。
それは、時間や死の超越です。
しなくてはならないことなど、ひとつもない。
かといって、しなくてはならないという強迫観念が出たとしても、それはそれでかまわない。
演技する自分がいてもいい。なにも間違ったことはない。
そういう原因をつくった過去を否定することもない。
問題なのは、そういう不安や恐怖が出たときにそのよしあしを判断しようとすること。
不安が出たら不安のまま、恐怖が出たら恐怖のまま、判断せずにやり過ごせば感情と
いうのはその場かぎりで消えていくものであって、不安や恐怖の本質そのものなどと
いうものは存在しない。
感情や欲望を押し殺してはいけない。
それを出てくるがままにしておく。
不安を感じるのは誰か?
不安という感情と分離した潜在的な自己などというものがあるのでしょうか?
「あなた自身が恐怖なのです」と、クリシュナムルティはいう。
世界のあらゆる恐怖、実存の恐怖は、それらの恐怖と分離した自己があると
錯覚するところからパニックに発展する。
恐怖する感情を「恐怖してはならない」と判断している自分、その自分こそが
恐怖そのものである。
潜在意識というものはない。顕在化された意識がすべてである。
これこれこうしなくては「ならない」と、理想に近づけようとする自分、
その理想そのものが、これこれこうしなくてはならない、という強迫観念から
生まれたものである。
善悪の判断というものは、実存に恐怖する自分自身が「正しく」できるものではありえない。
では、このがんじがらめからどうやって抜け出したらよいのか。
クリシュナムルティは、ただその状態に気づいていなさい、という。
恐怖する瞬間、恐怖から逃れようとする葛藤、葛藤をバカバカしいと思う自分、
自分をみている自分、それらすべてをただ起こってくるがままに気づくのだと。
3年かかって自我の問題を片付けたと思い込んでた私が、H老師に直接聞きたかったことは、
正直にいうと
「自我の実質的な問題を片付けて、それでも残る不安がある。その不安を抱えたまま、
私は、悟れるのですか」
ということでした。
「もちろんです」
と老師は即答されて、にこっと笑った。
一瞬にして、許されて在る、という涙がどっと溢れ出し、老師の無私の微笑から清廉な世界の愛が雪崩れ込んで来た。
それほどまでに無私の微笑というものをいまだかつて見たことがなかった。
老師の微笑は、私を超えて、存在のかなたまで貫いていたのだった。
(びっくりしたのは、去年の11月、ポリーニが来日したときのこと、
ポリーニの演奏はダメになった、といわれて久しいけれど、再デビュー後に
録音された、一瞬一瞬時間が完結しているかのようなショパンの前奏曲集の衝撃は
未だに忘れがたいものであったので、サインを口実に楽屋口までのこのこ足を運んだ
ところ、サインをしたあとに、あのポリーニがにこっと私の顔をみて笑った。
その微笑が、やはりなにかを超えてしまった無私の微笑であったので私は思わず
胸に手をあわせてしまった。それはまったく思いがけないプレゼントであった。)
小丸さんのモノローグを読んでいて、
「まだ、いるからね」
という声が聞こえてきました。
だいぶ昔、新聞かなにかに寄せていたエッセイで小川洋子が
「道端の石ころや雑草がひっそりと、排気ガスにまみれたりアスファルトに
囲まれたりしながらも『まだ、いるからね』と健気に語りかけてくる」
ということを言っていました。
今の私はそれに対して、無私の微笑で答えることができるほど成熟してはいませんが、
この場を借りて、ただただ「許されて在る」という無上のカタルシスのおすそ分けぐらい
はできるといいなあと思います。