空理空論な駄目人間から名を改めました。
まあ、気分で元に戻す事も有りますが…。これからはこちらでお願いいたします。
誰?
元々の名前は?
駄目人間って名前だったんじゃねーの?
↑駄目人間
>>5
まあ駄目人間だが、
お前ほどじゃないw
ああ、立ちましたね
>>2,
>>3,
>>4 元は空理空論な駄目人間ですが、何となく名を改めて傍観者に変えたと言う事です。
根本的に自分への満足みたいなことしか書き込みませんから、あまりにきにせん方がいいですよ。
そういえば、コテハン名を変えたくなったのはなぜだろう?
コテハン名を変えれば自分が構築していったものを取っ払えるのかと思ったんだろうか?
空理空論の塊から、駄目人間、それを付け足して空理空論な駄目人間。
そして、今自分の固定を傍観者と変えている。何の意思がはたらいたのだろうか?
何ものかに干渉される事から逃げたがっているのだろうか?
いや、そうであるならば「夢見る名無しさん」で通し続ければいいと言う事だ。
名無しで終わらせたくないと言う、名乗って独自の継続性をどこかしらで求めている。
我ながら情けない矛盾だ。放棄的な意思は、継続性を求め続け。
刷新的な意思は、どこかで固守している。でも、それは簡単な二元論的な世界観でしかない。
俺は多元論的と二元論的なものは最終的に一元論かしていくめんがあると思う。
同時に一元論的なものは色んな考えにより変化していく、二元論的な枠組みへの変化。
その二元論と言う世界観に耐えられなくなって、多元論と言う世界観に変化していく。
しかし、どこかしらでその論理を固守していこうとする意志が存在している。
その固守したいと言う意志が多元的な世界であろうと関係なく「一元化」させるのです。
人は論理と言う枠組みでは捉えられない、もっと複雑なものを持っている。
その自分にとりえたその概念に捕われる「固定概念」というモノだ。
でも、それはすべからく否定していいものではない。その固定概念が自分自身を守る事が往々にある。
それは自分の自尊心であり、自分の体でもあり、自分の権利や思考であったりもする。
そうか、俺にとってこの空間は変化させるものなんだ、譲れる空間なんだ。
この空間は俺の信念というモノに対しては何の関係を持たない表層空間なんだ。
では、なぜこんな事を書くんだろうか?分からない、そう無理解のまま矛盾し続ける。
俺は「固定概念」の中を踊り続けるのか、自分は自分だと狂気をまき散らして叫んでね。
俺は死ぬ事が恐いが死ぬいくことのプロセスについてはそう恐くない。
顔が年老いてい事によって醜くなっていく、体はどうにもならなくなっていく。
精神は柔軟性をかけていき、生きる事がだるくなり、先が完全に見えなくなっていく。
確かに、その事象はあまりにも恐い事だが。恐怖を諦観に変えてみるとそう恐く感じなくなる。
なぜ、そう恐くなっていくか?恐くなると言うよりそれを受け入れなければならなくなる。
醜くなる事も、動かなくなる事も一つの現実、又は強制的なものとして受け入れざるおえない。
だから、人はその恐怖を取り除くため医療技術、精神医療というモノを発達させていった。
でも、それは俺らが日々見えるこの恐怖からただ逃げているだけではないだろうか?
それは老いというモノだけではない、勉強というモノや社会というモノ。
どこにも逃げたいと言う意志が寝ている。でも、逃げ切れる事無いんだ、一時的に忘れる事に過ぎない。
完全に逃げるには最終的な行動、そう「死」を待たねばならないんだ。
いや、「死」に行ってもいい。だが、俺は死にたくは無いんだ。
俺が蓄積し続けた、思考、環境、生活、財産これら全てを失しないたくは無いんだ。
だから皆、死を怖がるし、汚いものとして蔑むんだ。そして、同時に涙する。
それはその死にたいしての涙ではなく、自分が死に行く時の姿のみじめさに対しての涙だと思う。
その棺桶に寝ているものがその当の死者ではなく、自分の姿に写るから涙するんだ。
俺もこうして荼毘されて完全に喪失する。なら、俺のこの精神はこの体が無ければ存在しない。
救いも無く、望みも無い、ただ漠然として存在するこの死があまりにも恐い。
老いる事は恐くない、恐いがそれは諦観に帰られる余裕がある。でも、死にはないんだ!
その余裕が!諦観できるその余裕が存在しないんだ!だから、俺は死が恐い!余裕が存在しないのが恐い!
ああ!俺はこの死の当事者であり続け、生の当事者であり続けると言う矛盾体を抱える!
どこにもつく事ができないんだ!この中間点にうろつき続けている自分が恐い!
どっちにもよる事ができない!甘える事ができないんだ!だから、俺は恐怖を深く感じる。
なんだ、結局俺は甘えるものを探しているだけではないか。馬鹿か俺は。
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n,,,,,,n
ミミミヾミ゙::::・::::::・ヽ
ミミヾ/ゝ;;;;;;●;;)
ミミヾ|::( ´ー`) < 糞スレずざーーーー!w (´´
∪;;;;∪ ) (´⌒(´
∪∪ ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
昨日、俺は産まれて初めて女性と対面で話をした。
でも、俺は思ったんだが、思考的な事を話すと「性」と言うものが見えなくなる。
俺は「男性」であろうが「女性」であろうが関係なく思考的な話であればはなせるんだと思う。
そこに相手から「性」というモノを相手から意識させてようと言う意思がなければ。
より話しやすいんだと思う。
俺は今思ったがあのジェンダー論というのは、逆に性というモノを意識させようとしている気がする。
あの性的差別反対とかを説いているのが逆に性的な差別が見えさせようとしているんではないのだろうか。
確かに、自由、権利、義務という概念は「性」や「障害者」とかによって自由化されても。
その自由化をわざわざ叫ばなければならない事が不自由な気がするのは俺だけだろうか?
越えなければならない壁が存在しているんではなく、造っているんだと俺は思う。
なぜ造り続けねばならないか?それこそ、俺らが常に希求しているものなんだ。
より、よりより!という発展への意思こそ俺らもっとも生きていると感じられる事象なんだと思う。
その自分達が最も生きていると感じられる事象を求め続けている。それが壁の存在理由なんだ!
俺らが求めているものは自由やそのような口頭上で造られてそれらしく飾られたものではない!
その前に存在しているものにこそ原因が存在している!なぜそれを見ないのだ?
その前にあるものこそ自分の存在理由と言う一つの義務感であると俺は考えている。
義務感を満たすために俺らは思想的なもの、思考的なものを利用して自分への満足に励む。
切りがないマスターべーションだ、都合のいい権利や都合のいい義務それしか背負えない。
そして、背負っている気になっている。何という惨めさなのだろうか。
自分と言うものがそこまで堕ちうる存在なのだろうか?いや、ヒトなんぞそんなもんだ。
結局は、自分の幸せと願望が都合よく満たされる事しか望んでいない。なんだブタではないか?
ひとなんぞブタが賢くなったものと変わりがない、そういう俺も一匹のブタである。
そうだよな、ブタはブタ同士笑いあい共食いしあるんだろ?永遠に惨めだな、俺らは。
さすれば、ソクラテス問答と言うのはどこに行ってしまうのだろうか?
満たされたブタが幸せか?満たされていないソクラテスが幸せか?
大抵の人は満たされていないソクラテスの方が幸せだと叫ぶ。
しかし、そうであろうか?こうも考えてみようではないか。
満たされたソクラテスが幸せか?満たされていないブタが幸せか?
もし、満たされていないソクラテスが幸せならば。満たされたソクラテスの方がブタより幸せだよな?
でもだ、満たされたソクラテスなんか実際存在していない。だから、逆に問うんだ。
満たされたソクラテスは満たされたブタと同じでは無いか?次への意思がなくなってしまうんではないか?
満たされていないブタは次への意志が存在している、満たされる事を希求しているのだ。
それが、自分の力でしか満たされないと知れば。ブタは満たされるような行動を為すだろう。
ソクラテスとブタは変わりやしないのさ、求め続けると言うものはどのような動物変わりなくある。
その共通性から目を閉じてこのような事を議論すれば、切りがないループする。
でもだ、ループから逃れるためには前提を置かねばならない。
この場合、俺がおいた前提はブタとソクラテスは動物である。
満たされたか満たされていないかに差をおいたと言う。二つの前提だと思う。
俺らが持っているこの思考は常に前提を置き、その前提を傷付けないよう議論している。
だから、俺らはこの保持しあっているこの前提を穢しあうよう議論しているんだと思う。
まるで、ひとの珠玉の玉を傷つけているんだそうでしか、自分と言うものが表せないのだ。
でも、俺がこの事を言い続けると俺はひとの心を傷つけなければ何も言えない事に気付く。
人を傷つけなければ俺はひとに俺というモノを刻む事ができないんだな。
何と悲しい存在だろうか、その悲しさを相互に理解しある事でしか。
何も見えないんだな。はあ、そうやって自分への哀しさを膨らまし続けるんだ。
よう、こんぐ。色々とがんばれよ。
家の上に立つ、一本のアンテナは常に空を望み立ち続けている。
雨の日も、晴れの日もどんな日でも立ち続けている。
一本のアンテナはその立ち続ける事に何の疑問も無く立ち続けている。
住宅街のある一匹の猫は何かを監視するような目で色んなものを望み続けている。
家、人間、車、食べ物そのモノには何かの必然性があるのか、偶然性を持っているのか分からぬまま。
監視続けている。
とある高校生は集団をつくりその集団がさも必然であるかの如く振舞い続ける。
高校生でもなくてもいい、中年のおじさん、おばさん、とあるねえちゃんでもいい。
その集団や自分と言うものを必然であるかの如く振舞い続けるのだ。
偶然でもいい、その偶然性を必然性に変えて「惰性」と罵り続けてもいい。
俺も彼等も「惰性」の中を生き続けている、それは当然至極なものと信じ続けているからだ。
その当然至極性は崩壊する事無く自分達は生き続けている。変化というモノを望みながらね。
俺らは崩壊を望み続けながら、「惰性」にあんじようとする。その崩壊さえも「惰性」なのだ。
そして、その前提を信じながら俺らは日々を「惰性」と捉えていき続けている。
その生きる事についてだれも考える必要が無いからだ。必要なものなんてないんだ。
ただ自分の目の前にあるだけの現実性だけを保持し続けて「惰性」として置き続ければいいだけだ。
どこにも変化なんぞ無い、ただの生温かい安らぎ。戦う人間なんぞこの国にはいない。
俺らは戦いという誠実性を失った事をしっかり忘れきった。又、戦う必要なんてどこにもない。
日々さえを保持し続ければいい。その事を「惰性」と誰かが非難しようとも何の関係もない。
ただ、そう思い込む存在が常に自分とは関係がない空間に居続けるだけだ。
又、その非難する者は非難する事を「惰性」としそれを信じ続けている。
同時にその非難する者は非難する者の空間にいて、一方的に他人の「惰性」を侵略する。
そして、その侵略する事を正義としてしんじ。自分の「惰性」を他人の「惰性」になすり付けるのだ。
どこにいようと関係なく、俺は俺の「惰性」をしんじつづけ。自分の「惰性」の中を生きている。
空が変化しようと、街が変化しようと、ひとが変化しようとも関係なく自分を保持し続けているんだ。
それは旅行しようとも関係ない。俺は俺の「惰性」の空間に安んじいる。
外見上、何かしらの変化に狂うひとがいても、そのひとには変化する事が「惰性」なのだ。
そして、何の矛盾を起こす事無く存在し続け、消えていく。
何も難しい問題なんてありやしない。そう簡単にしたくないのだ、特別性を見たがっているのだ。
難しくして自分への満足の空間に自分を押し込み続け。無意識の内にその難しい事を「惰性」にする。
俺らは逃れようが無いのだ、変化し続けていながら。その変化を強固に信じない精神があるというだけだ。
それで、変化し続けるモノを自分の経験上のものに照らし合わせて「惰性」に変化させる。
俺らが一番変化させているものは「惰性」というものなのかもしれない。
この惰性と捉えているものは、日常をうまくこなすための一番大きな容器なのだ。
些細な変化は全てこの日常というモノに即座に入れ、何の問題が無い一事象になり下げる。
又、戦争や大きな変化でさえもある程度の時間を必要とするモノの日常にし「惰性」になり下げさせる。
そうでないと人は安定しないのだ。人は変化ではなく日常を求めている。
無意識の内にいや、この無意識を否定して。意識的に変化を望んでいる。
意識せねば変化なんぞ見えないんだ。変化の弱さ、「惰性」の強さに俺は屈服し続ける。
そして、一番の変化、死と言う事象さえも「惰性」という容器に叩き込み。
自分自身を傍観する。そうか、俺らは当事者でありながら常に傍観者なんだ。
なんだろ、この矛盾性は・・・。又、この矛盾性も「惰性」の容器に保護されるんだ
俺は広い何かを見いだそうと考えながら、同時に狭い自分を見いだそうとしている。
自分のこの体を抜け出そうとする情熱が存在しながら。
それを全否定するかの如く、冷徹にその姿を嘲笑う存在がいる。
俺の存在を嘲笑い続けるなら、笑い続けなさい。その姿に俺は哀しくなる。
その俺を嘲笑おうとするその心に俺は哀しくなる。自分の姿が見えないのが哀しくなる。
お前は俺を見続けながら、笑ったり、貶したり、陥れたりして喜んでいる。
この俺と言う当事者を嘲笑い続けているんだろ?お前もその当事者であるくせに。
お前はこの俺と言う一つの「サンプル」をみて、自分の存在自体も「サンプル」であることに気付かないのだ。
常に俺とお前との関係は一方通行なのだろうか?
お前は常に俺の背中に居続け、日々の「惰性」をこなしていく事で毎日出てくる。
この微弱な芥がお前のエネルギーとなってお前と言う存在は増幅し続けるのだ。
そして、俺と言う存在は削られていき。俺はお前と言う存在に飲み込まれてしまうだろう。
その先に見えるモノは何か?
死だよ。
何も難しい事は無い、俺は時間に消費され続け。俺というモノはだんだんと消えていく。
俺というモノも固定化され、この固定化された意識に捕われ続けて。俺の存在を消すのだ。
まるで俺の本質とされているモノを自分の心と言う闇に隠すのだ。そして、消しきる。
でも、その中で見つかるモノと言うのは寂しい自分への満足に過ぎないだろう。
そうやって俺というモノをだんだんと矮小化させ続けるんだ。
その先に望みを求めても仕方が無い事に気付かせていくんだ。
だけど、その行為が大人へと言うなら。ただの放棄だけではないか?
まあ、いいや。俺には関係ない話だ、そうやって逃げる俺は惨めだな。
傍観者さんだ!
って思ったけど、別人さんだったようでした。。
>>16 そうか、先にひとがいるなら。名前を変えた方がよさそうだな。
そのひとの名を落とさないためにね。
哲学性と言う絶望に陥るなら。俺は生き続けねばならないと言う絶望に落ちたい。
たった一つの微弱な自分とはそもそも無関係であった思想に感情を揺さぶられ。
又、相手が自分と関係していると思い込んでいる奴らによって感情を揺さぶられ続けるなら。
そいつらとは全ての関係を俺が意図的に封じて、俺の中からそいつら全てを抹殺したいと願う。
そして、ほぼ完全な孤独の中をせむしのように体を丸くしながら愉快に地獄に落ちたいと思う。
俺にとって地獄と言う概念、天国という概念は人間が勝手に創り上げた最大の嘘だと思う。
結局は「人間的」な快楽への意思か苦痛への意思との差に過ぎない。
同時にその「人間的」価値観の根底をしっかりと固守し、根底を基軸として自分達の価値を重くする。
意図的に見えすいた、単純な煽動術、人間の欲望を見据えた偶像に他ならないのである。
だが、人は偶像を崇拝し続け。偶像を崇拝し続ける事を自分達の意義とし。
それを集団の基本的な価値観に変更させ、集団が膨張していくにつれ。
もっとも価値があるものだと決め込むのである。しかし、その一連の行動は何一つ間違っている点は存在しない。
人間を中心にしているからであろうと思う。
ここで前提としておかれている人間というモノはあまりにも広い意味を持っている。
人間は信仰性を持ち、懐疑性を持ち、理性を持ち、巨大な欲望を抱え込む巨大な器である。
その器は本能に近い欲望と言う土と独特の修正能力を持つ微弱な理性という水によって造られる。
陶芸家は暴れ、抵抗する土を調節して押さえようとするこの手と水で土を従えさせる。
この手と水で造られた器はどのような形を為すか?釜で焼かれて出てくるまでは分からない。
熱いよ、釜で焼かれ続け、たたき壊される運命をしかない。この汚い自分!
ガシャン
心に溜まるこの汚濁が俺には非常に気持ちいい。
俺の激情や憎しみ、嘲り、嫉妬など全てを飲みこんだこの心が非常に気持ちいい。
ものすごく不安定でちょっとした衝動で崩れてしまいそうな心が気持ちいいんだよ。
俺は色んな憎しみや激情を隠し続けると言う事にあまりにも慣れ過ぎた。
その慣れが最後には俺の全てを破壊する水素爆弾として、破裂し、俺を崩壊させる。
同時に俺はこの情緒を不安定にさせる全要素から俺は逃げたがっている。
俺には逃げれるような空間が存在しない事があまりに危険だと言う事に最近気付いた。
俺の最近の逃げ方は俺の心に閉じ籠り続けると言う事だ。
それは、俺の心の壁を鉄壁化させ何の関係性をも消失させるものだ。
いや、俺はその関係性が消失した空間を望んでいるのかもしれない。
何にも捕われる事無く、何にも関与される事無く、何にも与えも失いもしない空間。
でも、そんな空間が存在するわけが無い。結局は俺の心の中に求めるしか手段がないのだ。
そして、じりじりと崩壊が俺の目の前にやって来て。一気に崩れ去る。
廃墟だ、廃墟には野末の花が咲くかもしれない。又、新たなモノを立てるためには必要だ。
しかし、俺の心の水素爆弾は破裂しその土地には何も立てる事無く瞬時に崩壊する。
俺の世界の地球が滅び去るのだ。滅び去った土地に何かを望む事はできるのだろうか?
俺にはできない・・・。
何の希望もなく、この一刹那しか望んでいない人間に何を新たに構築せよと問えるのだろうか?
こうして、俺の心は矛盾を保ちながら。俺の言葉全てを飲み込み続ける。
どこに俺と言う者があるのだ?器か?今か?この肉体か?それとも、精神にあるのか?
そうやって当事者を探す事に狂うのだ。全てが当事者である事に気付かないでね。
素晴らしい皮肉だ。こうして俺は俺自身を失おうとしている、馬鹿だな俺は。
俺には何か、肉の塊という刹那的な存在以上のモノを見いだす事ができるのだろうか?
できるかもしれない、できないかもしれない。どっちにしろおかまい無しだ。
俺の肉体は今んとこ、ある程度は俺の意思どおりに動いている事には間違いは無い。
でも、その分。心臓が軋んだり、胸が異様に重くなって俺を潰してしまうんではないかと思う時もある。
俺は最近、自分の感情というモノを調節できるようになって来た。
わざと激情にふりまわされてみたり、冷たく無感情のまま傍観する事にしてみたり。
相手の怒りを誘導するために軽蔑してみたり、自分自身に嘆いてみたりする事もある。
だけど、同時にその一連の行動を否定する者が俺の心には常に寝ているんだ。
激情には冷徹さが寝ており、傍観には関与しようとする意思が寝ており。
軽蔑には相手への同情が存在し、嘆きには自分を侮蔑する心が寝ている。
どこかで俺というモノを乖離させて喜んでいる存在が俺の心の中にいるんだ。
それを俺は「黒い石」といい、俺の肉体の中に閉じ込めさせ。解放はさせない。
やつを解放すれば俺はやつに乗っ取られてしまうだろう。そして、俺と「黒い石」に分裂するのだ。
「黒い石」は俺の心で十七年間も寝ていたものを赤裸々に語り。俺の存在を陥れるだろう。
俺という存在はやつの手で永遠に堕ちていくのだ。
真っ暗で光も届く事の無い深遠な世界に俺を導いていくのだ、その変わりにやつが俺の肉体を乗っ取る。
俺とは反対の意志を持っている存在、俺の中の反逆者だ。
俺が最も拒絶している存在がこの「黒い石」なのだろう、そのように思えてきた。
しかし、俺はやつであり。やつは俺なのだ。
俺の意思をやつは感じ取って知っている。俺はやつの意思を感じ取り知っている。
やつも俺には手は出す事ができない、俺もやつには手を出す事ができない。
知っているモノ同士は手を出す事ができないモノだ、手段を知っているからな。
そうやって俺はやつと毎日冷たい戦争をし続けるのだ。心の冷戦か・・・。
面白い。どっちがアメリカか?ソ連か?まあ、どっちにしろ滅びる事は見えているがな。
ツマラナイ人間ほど、短絡的な罵倒語しか持ちえないモノだ。
説得性の感じられない、感情的で短絡的だ。
いや、この罵倒語を何らかの意味で用いるのなら。その先には説得性を持ちうる言葉をつける物だ。
天意即妙と言う言葉があるが、あれは気のいいような言葉をうまく利用する事ができる事だ。
ひとに何かを伝えたいと言う意志があるのなら、罵倒語も用いる必要なく。
論じ相手に冷たい怒りを伝えるだけの能力を用いればいい、たったそれだけの話と言う事だ。
足らないんであれば、それを身に付けるためには文を読み、文と戦えばいい。
それだけの時間は誰もが持ち合わせいるし、平等的に存在しているだろ?
本当ありがたい事だよ、俺みたいな人間にも何かしらの文章の山が沢山存在している。
山を見据えて生きる事ができる、これを仕合わせ以外の何者でもないだろう。
本来なら野を耕している存在だ、あまりにも恵まれている。なぜそれを忘れてしまうのだ?
俺はこの近代、現代を科学技術の発達となり下げている面は少なからずあるが。
でも、俺はこの科学技術のおかげで存在する。膨大な余暇を楽しんでいる。
この余暇が存在する事はなんとありがたいことではないか!
暇がなく、体を動かし続け、この肉体をぼろぞうきんのように使う必要性が消失していく事。
これは過去の人間が最も望んだ事ではないのか?その中を当然のように生きている。
それをなぜ喜ばないのだ?
そうだよな、この歓喜を「惰性」に変えるのが人間のもっともな能力なのだからな。
そして、変化と言う「惰性」を繰り返し、繰り返し望む。面白い話だ。
俺らは病気に取り憑かれてしまったんだ、当然となり下げて。喜びを必然に変えきってしまう病気だ。
この病気に取り憑かれてしまったら最後、何も産む事無く自分の人生を「惰性」と罵り続けるのだ。
自問自答せず、自分の余暇の無視を時間や社会になすり付け。自分への満足で全てを満たす。
これが、人間というモノなら。哀しい存在に成り下がったモノだな・・・。
たまには上げておこう。
そういえば最近、自分の子供たちと無理心中をはかった女性がいたねえ。
ああゆうのは駄目だね、無理心中をはかる理由は何となくは分かるが。
自分のその死の願望を自分の子供たちにもなすりつけてはならんよ。
例え、どのような残酷で無惨な背景があったにもしろだ。
母親には悲しいけど未来は無くとも、子供たちには何らかの未来がある。
同時にその子供たちを背負えなくなってしまって。極端な行動に出るのは場違いだと思う。
それには子供を産み出してしまった親としての義務が歴然と存在しており。
それを自分にはその子供たちを背負えるからという無意識の内の前提があると思う。
いきなりそれを拒絶して、無理心中にはかるのはあまりにも弱すぎるし。ご都合のようにしかみえない。
だが、俺は親だけ死ねば決着がすむような問題ではないとも思う。
それには残された子供に痛烈な心的外傷(トラウマ)を産み出してしまう原因にもなりかねない。
又、親無し子という差別的な概念は死に切ってはいない。それが追撃と言う形になってしまうだろう。
極端に言えば、この家庭には「生きるか、死ぬか」という2択しかなかったともいえるかもしれない。
そこでこの母親は考えたのだろう。でも、もう生きる気力が無い。なら、死にましょう。
という形に持っていった。それが今度の事件の形になったと俺は思う。
それにしても、俺の親父の時代はざらに四人、三人兄弟というのがいたし。
親父の小学校の同級生には片親(母親)で四人兄妹の長男で、
母親とその長男のひとがちゃんと全員高校まできっちりと行かせたという。話をきいた事がある。
う〜ん、親父の頃に比べ母親というのが弱くなったのだろうか?まあ、俺にはよくは分からないけどね。
>ツマラナイ人間ほど、短絡的な罵倒語しか持ちえないモノだ。
お前の単細胞な頭で結論づけるなよ
嫌いな相手を罵倒するのに理論もくそもあるか
面倒なだけでなんだよ
お前は理論的に話してるつもりだが全くなってないぞ
お前は他人とコミュニケートする能力がゼロだ
>名無しさん
いやはや、こんなスレにわざわざレスをくれるとはありがとうごぜえますだ。
俺は何一つ、理論的に言っているとは思っていない。ただ、徒然書いているだけです。
又、俺は自分が今書いているモノが全て正しいとは思っていないし。
自分が前にかいたものとは矛盾してしまう事もある。
ただ、文としては一様の形としてまとめるために無理矢理でも結論づけなくてはならない。
そんなの常識でしょ?あなたも最後の二文で結論付けてはいるでしょうに。
そうするとあなたも単細胞な頭になってしまいますよ、まあ、俺はあなたの存在が見えているわけではないし。
あなたも俺の存在が見えているわけではない、情報を交換しあっているだけなのですから。
俺も貴方に対して、実際は何一つ言えるものではないのですがね。
嫌いな相手なら無視すればいいではないですか?
現実の社会のように、嫌な相手でも関係をもたねばならないという空間ではないのですからね。
その点このネット空間は便利ですよ、自分で取捨選択ができるのですからね。
そもそも、面倒なだけと分かっていらっしゃるなら。何も書き込む必要も無いのでは?
「ああ、相変わらず語っているよ」と心の中で俺を笑って、傍観し続ければいいでしょうに?
それなのに俺のスレに書き込みを入れるのは気になってしまうたちなんではないのでしょうか。
それは俺の責任ではありません、あなたの問題です。
まあ、俺はあまり人と関係を持ちたいと思って書き込んでいるわけではないのでね。
それが、許される空間が夢・独り言板なのですから。それを十分、利用させてもらっている。
たったそれだけなのですよ。
24 :
夢見る名無しさん:04/07/01 19:17
あはっ、みつけた。文章力のない人。
ひょっとして、アメリカン・スクール出身かな?
>>24 オマエの言う通りみたいだな。
地方新聞の映画評論程度のカキカキでつまんね
26 :
夢見る名無しさん:04/07/01 19:24
えっ??地方新聞になら、こんなに酷い文章でも載っちゃうの?
つーか地方新聞差別ハンターイ!!
>>26 中卒でも採用だからな。
まあ、配達専門だけど
テヘ
まあ、ここは俺が勝手に思った事を徒然書くだけですから。
道というモノはどういうものだろうか?
よくあるように一本道がはるかむこうまで続いていくものなのだろうか。
それとも、道なき道を鎌を片手に自分で造り行くものだろうか。
又は、俺みたいに楕円を書きながら歩いてゆくものなのだろうか。
いや、二また三股と分かれて、取捨選択をし続けるものなのだろうか。
分からない。どれもこれもが道と言われているものをいい当てはめていると思う。
其れ以前に俺は道という抽象的な存在を一元的に求める事ができるのだろうか?
ただ、これかもしれない、あれかもしれないという可能性に振り回されているだけで。
道という存在の本質を逃しているのかもしれない。
でもだ、その場合問われている「本質」というモノはどのようなモノだろうか。
それ前に道と言うのは「モノ」と括りあげられる事ができるのだろうか。
道の付く言葉は多い、華道、剣道、武道、柔道、茶道などなど色々とある。
このものは全てには始点は存在しているが終点なんぞ無い世界だ。
終点と言えるモノはたった一つ自分の死だけだ。
だけど、その先にも続いていく道と言う概念はどこまで拡大するのだろう。
例えば、歴史なんかいい例かもしれない。歴史は歴としてただ過ぎていく時間を刻んでいくものだ。
俺らが色々と生み出してきたこの今は、未来のひとによって色々と解釈され。
俺らが生きていたという痕跡は消しきってしまうだろう、それは彼等の今では無いからだ。
彼等には彼等の生きてきたという一般生活が前提として眠っていて、俺らにはその未来の生活を想像する以外何もできない。
俺らがよりも過去に対してもそうだ、勝手な想像で彼等の生活を自分達の想像で満たす以外何もできない。
ちゅうがくせいにっき
「はじめて親のセクース現場を見た夜」編
う〜ん、一方通行以外の何様でもなくなってしまうなあ。
俺がいっている全ての事は俺が勝手に思って自分で解釈に励んでいるだけだ。
俺は他人という存在は分かる分けないし、他のひとも俺と言う者がどのようなモノかは分からない。
ただ、解釈が存在しているだけだ。自己解釈を全てだと思い、語りきったと自分で満足に励む。
学を問うと言うのもその得た知識の一方的な肯定か否定、中間論に落ち着くよう自分に説得しようとする。
結局は自己肯定にすぎない、俺が本を読んだり、人の考えに賛同するのは自分を傷つけないためなのだろう。
そうやって、ひとから逃げ続ける事を自分を自分の手で最もらしく肯定するんだ。
自分を飾る他なにもできないんだ、もっともらしく、もっともらしく。
もっともらしくというのは強い言葉、権威や権力、歴史上の偉人の言葉を使い。
自分の論じているモノを其れらしく飾ろうとするんだ、その人の枠組みの中でね。
例え、その人の論理を否定して論破しているような形にしても。
その人の文章と言う前提が絶対不可欠であり、その前提からはどのようにしても逃れ用が無いんだ。
そのような強い存在から超越しているような、避けているような文章はどのような価値も見いだすことはできない。
俺みたいに直感で自分の文章を書こうとしている人間に何も見いだす事はできない。
そうさ、自分のマスターベーションで終わらせていしまうんだ。
その先が続く事は無く、今は今と言う枠組で終わらせてしまう先と言うのがないんだ。
独りになり続けて自分への文章を綴りこんでゆく、何も無い。
何も無いから俺は書き続けるんだ、何かかけば俺の心のいる者が多少見えるんではないかと言う。
強い願望で自分の文章を綴ってゆく、そこには他人というモノは見いだせないと思う。
独りなんだよ、愉快なほどにね。この空間に関係性を見いだす事はできなくとも。
俺の勝手な事は書く事ができる、それだけで俺は十分なのさ。
どこにいこうがどこにいようが俺が永遠に独りである事には変わらないのだから。
理屈っぽいだけで背骨がない
中学生日記そのものだなW
中学生も馬鹿にしたもじゃないぞ。それどころか
巷では「小学生日記」という本が評判になってるようだし。
>>33 背徳な香りが漂うな。
メンスやら初潮やら先生やめてやら・・・
俺に何の根幹が寝ているかは分からない。
ただ今日も、徒然と自分が勝手に思い込んだ事を書き込み続けるだけだ。
俺はまともな事を書いているとは思わない、異常で常識に外れた事しか書いていないだろう。
でも、異常性や常識に外れた事を考えてみないとそこから生じるまとも、常識と言うのは見えないだろう。
まとも、常識、正しい知識、言説、能力、どれもこれもが俺らの頭の中に前提としてあり続ける。
そこからは逃げる事はできない。だが、その反対の異常、非常識、間違った知識、言説、能力。
も同時に存在している事を目を背ける事はできないのだ。
では、この二極化構造と言うのはなぜ生じてしまうのだろうか。いや、起こさなくてはならないのだろうか。
単純だ、自分というモノを巧みに守るためにある。その差別されない側になりたいがためだ。
人は皆どのような形であれ、大多数に所属したがり、自分をその空間に固まらせたがる。
その空間が思想的に思考的に社会的にどのような形であれ、大多数のほうに所属している。
これが、まとも、常識という差別空間を最も起こさせる要因なのだと思う。
又、この差別に対抗するべく少数派の人間も大多数の属する人間を同等に差別しているんだ。
一概に言いやがって、無思考共め、愚図が集まって能がない集団のくせにとか。
陰険な差別心を交換しあっているんだ、仲良くね。
う〜ん、ずれるなあ。それにしても差別と言うのは自分がまともであるほうに属していると言う。
先入観によって起こるのかもしれない、自分が大多数、相手は少数。
少数であると言う事は最大の欠点であると言う事、弱いと言う事、醜いと言う前提を勝手においている。
その考えはどこも間違っていない。だけど、自分がまともだと信じられる心は非常に羨ましいと思う。
そのまともというのを信仰している意志がまともという領域を縮小させているのかもしれない。
なんせ、俺らが生きている事がまともかまともじゃないかは分からないからね。
分からないから生きるしか今んとこ方法が無い、たったそれだけではないのかなあ。分からんなあ。
一般論だろうが、反一般論に関係なく。
論理と言うのは存在しているし、歴然とは俺らには見えない形ではあるがね。
この場合言っている一般論と言う概念は、「自分は正義を背負い込んでいるぜ」
という嫌みにしか聞こえない。又は、相手の立場を蹴落とそうとする自分から生じさせた。
差別心以外の何様でもないだろう、其れ以前に一般と言う事はどういうことだ?
論理的に証明された事か?常識や世間というモノを前提に置かれている事か?
では、常識とは?世間とは?と聞かれるような甘い点をあまりにも残している不完全な言葉だ。
俺は常識とか世間というモノは知らずの内に受け入れて、一つの普遍法みたいなものだと考えている。
その普遍法を一々言葉上にあげなければならないと言うのは。
自分が考えているそのものが常識とか世間というモノに属しきっていないと言う不安が残っているんだと思う。
属しきって日々を淡々とこなす事ができる一般人と言われるような人は自分が一般だとは一々意識はしないだろうし。
一般だと意識するのは自分が何もできない無力な存在と自分を諦観するためにしかほとんど使われない。
普通の人はこの一般と言う言葉が嫌いなんだ、使いたくないんだ、使われたくないんだ。
一般と言う言葉で差別されるのが非常に嫌なんだ、逆差別されるのが嫌なんだ。
生きると言う重みの中で言葉上のものから逃げ続けたいんだ、そのまま放置されてた方がいいんだ。
でも、放置されたくないと言う感情も存在している。独自な存在でありたいとも思っているんだ。
そのような一般と言う概念を吐き出す事が非一般的なんだ。一般と言うのを背負いきれていない人間なんだ。
哀しさが存在し続けているんだ、自分の一般さを受け入れなければならないという哀しさがあるんだ。
それがどのような恐怖か、自分に対しての悲嘆しか出てこない言葉なんだ。
そうやって俺の言葉は消え続けるんだ、自分の特殊性を信じたいと言う心と普通だと悲嘆する心。
なぜ自分の心は自分の心同士格闘したがるのだ?殺しあった先に何があると言うのだ!
栄光も屈辱も無い自問自答と言う永遠の責め苦に喘ぐだけではないか・・・。
まあ、悲嘆を付き続けると言う事だけなんだな。
ここのスレ主はミミドシマだな。
家庭訪問してやりたい気分だけど、理屈っぽい性格みたい
だから懸垂下降の刑が妥当だな!
ニセモノお前よそで文句垂れるなよ
オレは他人を思い通りにしようってことは諦めてるだろ
俺が書き込んだ事があるのはゃゃさんのスレだけですよ。
後、「オレは〜」では言葉が変ですよ。「お前は〜」と言うのが正しいのでは?
失明者に絵を描かせてみたらどのようなモノを書き上げるのだろうか?
彼等にペンのようなモノを持たせ、何かを徒然と書かせたら何を書くのだろうか。
俺らには全く理解不能なものを書くだろう。
多分、子供の絵のように線がとげとげとしたり、点が続いてくようなものを書くと予想しているが。
そもそも、彼等の世界を何かしら絵などで客観的に表す事ができるものなのだろうか?
彼等は主観的な世界でしか自分の世界を保つ事ができない弱い空間だと思う。
又、その主観性が彼自身を完全に包み上げて。一つの完璧な世界なのかもしれない。
何せ、俺らが一々気にするような美醜と言う概念は目が見えないおかげで感じる事ができない。
でも、同時に目が見えなくても縦横無尽に音と言うものを感じる事ができる。
彼等は音の世界の住人なのかもしれない、音で全てを分かる事ができる世界なのかもしれない。
音に恐怖を感じ、音に怒りを感じ、音に快楽を感じる。でも、それは常人の妄想かもしれない。
俺には分からないが常人と評される人間は五体満足が前提として立脚しており。
それに除外される形で異常者(障害者)と評される人間がいる。
彼等は俺ら常人と言われる人達によって勝手に解釈され、俺らは彼等を穢している。
そこには彼等より優れていると言う思い込みがあるからだ。
まあ、間違っていると言えるような思い込みではないが、正しいとも断言するのは難しいだろう。
思い込みには自分達が正しいと言う事を叫びたがる癖があるからだ。
その思い込みで俺らは彼等を解釈するんだ。そして、常人者の法の前提で彼等は裁かれる。
もし、俺らが彼等が持っている法の概念で裁かれたらどうなるのだろうか?
まあ、そんな事はあり得ないけどね。なぜなら、法と言うのは普遍的な価値観と言う大前提があるからね。
このように世迷い事を吐き続けるのも中々面白いものだ。
俺の考えている言葉がどこから出てくるのだろうか?思いと言うやつからだろうか。
でも、俺のこの考えは多分、体も通さなければ考え付く事が無かったからだろう。
この俺の身長、体重、顔、愚息、腹、心臓、筋肉とを使わなければこうは考えなかっただろう。
又、この体の命が十七年間も持ってくれなかったら今の俺は無いだろう。
その点から、全ての考えは体からはき出されるといっても過言ではないのかもしれない。
でも、俺らは普通この頭から物事を吐き出そうとする。
考える事を求めようとする、そこの点で矛盾してしまうんではないのだろうか?
だから、体と言う前提が必要なのかもしれない。
ちなみに、俺は身長は百七十七位で体重は六十三キロで顔は不細工とも細工がいいともいわれない。
中途半端、どっちに属しているとは言い切れない位だ。
この中途半端さが俺の断定癖と矛盾に甘える立場を作っているのかもしれない。
隔絶とした差を求めようとする所があれば、どっちだと捉えられない事も考える。
それにしても、どのようにしても自分の立場と言うのは体で感じるようなものだと思う。
体で捉える事ができないものがそれなりの立場にあがったと言う事はあまりきいた事が無い。
所謂、「学校の先生と言う奴らは世間知らずが多い」とよく言われるようにだ。
学問と言う狭い空間に満足して、それを世間と言う体でも感じなければどうにもならない空間から逃げているんだ。
でも、学問と言うのには学問と言われる位だから社会的是認性が必要だ。
学問と言うものが純然化されていけば価値観が硬直され、その次と言う行動が取れなくなってしまうだろう。
その次と言われている行動と言うものが社会性、世間と言われるものなんだと俺は思う。
まあ、どうでもいいことだけどね。
全ての学問には幾つかたどり着く彼岸があると思う。
でも、その彼岸と言うのが何時もよくよく見てみれば中州に過ぎなかったと言うのがよくある。
そもそも、俺が今思いついた学問の彼岸と言うのはあるのだろうか?
多分、求めれば其れらしきものは見いだせるとは思うが完全な彼岸だと思えない。
いや、完全何ぞ本当は求めてはならないんだろう。
実際、完璧な論理だ!という保証はどこにもないし。人はその完璧性を破壊したがる。
人がなぜ今日まで発展して来れたかという一つの回答として。
人は何でも完璧なものを破壊し、新たなる何かを作りたがると言う点に俺はあると思う。
まあ、逆にその完璧性を金科玉条のように崇めたて保守しようとする意思も存在するけどね。
これは学問の世界だけではなく色んな世界にも当てはめられる。
最も単純な二極化なのだと思う。まあ、そんな簡単ではないけどね。
さすれば、人はものすごく曖昧な形である事は確かだが。
極に分けるのであれば、人は守ろうとするのと革新(破壊)しようとする意思に分かれると思う。
又、この二つの考えを人は右に左にうろちょろしながら選別している。
この二つの極にはそれなりの正当性を信じたひと達がいて、その中で踊り狂っているのである。
何故、踊り狂っているかと言うとその当事者は自分はまともだと思っているが。
第三者が端から見ればそれはただの狂奔のようにしか見えないからだ。
それは特により普通のひととは関係ないと思われる所でよく見かける。
例えば、よくわからない哲学オタクが差異やら、脱構築やらよく分からん言葉を話しているのと同じように思える。
そうするとまともと言う概念はどこにいってしまうのだろうか?
それは抽象的ないい方だが「自分の足下にあって、当たり前と信じれるもの」という概念なんだと俺は思う。
まあ、どうでもいいことだが。
整理してから書けよ、馬鹿が
44 :
夢見る名無しさん:04/07/05 23:21
nakami ga nai kara seiri ha dekinai
.. 冂
. /ニ:ハ ..。o O(うわぁ・・・♪)
|緑::|
|茶::|
( ´∀`) <なんかすごい・・・・。
( つ旦)
とLl 峠l) .. _。_
..c(__ア 旦
とりあえずお茶はいたただきますよ。つ旦
夜、散歩をしていると自分のペットに光る首輪をしているのをよく見かけるが。
動物はそもそも闇を嫌っているのではなくて、闇に溶け込もうとしているんだ。
闇に溶け込んで自分の存在が外敵から見えないようにする。そこで、危機を回避しようとする。
でも、人と言うのは非常に闇をものすごく嫌う。
人はその闇と言う空間を科学技術というので闇を消し。一つの光の世界に変えようと努力してきたんだ。
それは火を発明した最もな理由なんだと思う。その火の明るさで闇と言う世界を消し去っていこうとしてきたんだ。
だけど、其れは人間の独自の世界観であって他の動物にそう適用できるとは思えない。
例えば、猫なんかいいかもしれない。
猫は茶色や黒や灰色とかが圧倒的に多いと思う。白猫と言うのはあまり見ない。
それには夜と言う外敵があまりにも多い空間に適応するために色が闇に溶け込める色になった。
それが自然なような気がする、俺にはね。
そう、人はその自然に逆らって自分達にとって都合のいい「自然」と言うのを造って来た。
人間に都合のいい「自然」の概念から離れた自然と言うのは。
極端に言えば「そのまんま」であること。地震が起こったり、火山が噴火したりしても。
それは自然による必然な営みである事を容認して何も人間的行動を全く起こさない事だと思う。
だが、それではあまりにも人間に不都合であるが故に自然の行動をある程度予測し対応するという。
人間のエゴに基づいて自然を自分達の都合よく変革させる「自然」
これを皮肉って人間にとって「至善」である方に変えていった。これを発展とも言う。
その「至善」を人は傲慢にも全ての動物に対しても無意識の内に為すようになっていった。
まあ、悲嘆するべきか発展として喜ぶべきかの2択問題には、俺はしたくないけどね。
まあ、どうでもいいことだ。
今日も徒然、明日も徒然書いていくだけですから。
愛の反対が無関心であるなら、憎しみの反対も同じように無関心になるのだろうか。
カッとした怒りも、静かに込み上げるこの憎しみも最後には無関心、忘却によって昇華される。
最近、気が付いたんだけど。タバコを吸うと今自分がどのような精神状態がかよく分かる。
心が変に重く沈んでいる時は完全に鬱の状態で、逆に心がういている時は完全に躁の状態なのが分かる。
躁の状態に第三者からの影響を受けると大抵が深い憎悪に変わって。心の底から憎しみが込み上げるのが分かる。
逆に、鬱の状態になるとこれが軽蔑と嘲笑に変わる。
何もする気がなくなって相手に対しての一瞬の激情を殺しきって。
心の底でその存在を冷たく嘲笑いながら、ほどほどの事を言っといて。
その存在を放置しとく、ありきたりな言葉なんて面白くないし、感じたくもないからね。
そうすると大抵の場合、俺に対して強い憎悪をあらわにして対抗してくる。
ああ、そうそう。ここで「お前に呆れているんだよ」とは言わせないよ。
呆れているのなら、俺の存在を放置してそのままにしといて。俺に対して何も反応しないでしょ?
前も書いたけど、俺を静かに嘲笑っておれより上の立場に付けばいい。それで十分なはずでしょ?
それができないのは俺という存在が不安で気になっているのさ。それで、こんなクソの文章と煽りながら。
真面目に読んではそれだけのことしかかけないのだから、矛盾している自分に耐えきれなくなっているんだろ。
その矛先を俺に目指して、俺の責任に転化してその上で自分への満足陥っていく。
俺はねえ、自分への満足に走る事は何も否定しないし。実際、俺もよく使う手だ。
ただね、見てて穢いんだよ。美醜に対して何も感じないその心を俺は特に軽蔑するね。
まあ、これを痛いレスを晒すスレにでも晒して下さいな。
でも、端から見れば晒される側より。一々、晒す側のほうが痛い事に気付いて欲しいけどね。
さて、勉強するか。
>天意即妙と言う言葉があるが
無いよ。
いやはや、ご忠告ありがとうございます。
当意即妙でした。すいませんでした。
今日は七夕らしいですね。まあ、俺みたいなオタクには関係ない話だけどね。
それにしても、本当に季節感がなくなっていくなあ。ただ暑くなっては、寒くなって。又、温かくなっていく。
ただ、漠然と繰り返していくだけで何の感傷が起こる事がなくなりつつあるというのは少し哀しいような気がする。
それが、慣れと言うやつなんだろうか。生きると言う事もただの強制として受け入れてそのまま消え去る。
そうやってただただ死んでいく、何も価値も意味も見いだす事無く死んでいく。
だけど、それが一番正しいような気がする。
なぜなら、自分と言う存在に何かを見いだす事ができる人間と言うのはあまりにも少なく。
又、彼等を歴史に残るように賛同されたり、軽蔑されたりしたにはそれなりの才や力があったからだ。
結果として、英雄として名をはせ永遠に讃歌されようが。悪雄として名を貶されようが。
彼等は自分なりに生きていった、それを否定する事はでき無いと思う。
それは自分達にも言える事だと思う。ただ今は漠然とだが生き続けねばならない。
ちょっとしたことでその生きる事によって何かを見いだす事ができたのであれば。
それは天命であり、喜ぶべき事でありながら。一つの悲劇なのかもしれない。
なぜ、一つの悲劇かと言うと傍観者であった立場が当事者に変化してしまったからだ。
しかも、強烈な当事者に変化する事がどれだけ重い事だろうか?俺には想像できない。
そして、傍観者その悲劇的な当事者を嘲笑い続けて。彼等の名を落とそうと叫び続けるのだ。
彼等も同じ当事者であるのにだ。でも、彼等は気付く事は無いだろう。
歴史というモノが特殊なものだと信じている限りね。
まあ、「歴史はその当事者ではなく、その後の当事者たちによって作られる」のだから。
その言葉を金科玉条として信じ続ければ、自分の立場を常に傍観者に変化する事ができるのだから。
まあ、どうでもいいことだ。
拒絶者の母です。文章がどうのこうのと仰る方のために、私が一部手直ししたいと思います。
ヒマだなあ、とか言うのは止して下さいね。
なぜなら、自分の存在に何か意義を見出すことのできる人間はあまりも少ない。
そのような人間は、讃えられたり軽蔑されたりすることで歴史にその存在の刻印を残すが、
それは彼らにそれなりの才や力があったからだ。
しかし、結果的に英雄として名を馳せ永遠に賛美されようが、梟雄として名を穢そうが、
彼らは自分なりに一人の人間として生きていったのだ。それを否定することはできないと思う。
それは俺らにも言えることだと思う。
ただ今は漠然とだが生き続けなければならない。
(↑ここの部分は何が言いたいのか母にも分かりませんでした。)
生き続けるうちに、ふとしたことで自分の存在の意味や価値を見出すことができたのであれば、
それは天恵であり、喜ぶべきことだろう。しかし、同時にそれは一つの悲劇なのかもしれない。
なぜならそれは、歴史おける傍観者から当事者へと、その立場が変わってしまうことを意味するからだ。
しかし、強烈な存在感をもった当事者へと変わることが、どれほどの重みをその人の生に課するのだろうか?
(↑だれにとって「重い」のかよく分かりませんでしたが、このように解しておきました)
俺には想像もつかない。
(ここまでと下の行との間に飛躍があるのですが、そのまま続けます)
そして、傍観者はその悲劇的な当事者を嘲笑い続けて、彼らの名を貶めようと叫び続けるのだ。
彼らも同じ当事者であるのにだ。でも、彼らは気づくことはないだろう。
(歴史に傍観者も当事者もないという視点を、説明もなく導入してますが、あしからず。)
歴史というものが特殊な人間達のものだと信じている限りね。
まあ、「歴史はその当事者ではなく、その後の当事者たちによって作られる」のだから。
(カギカッコで括ると、普通はどこかから引用したことを表すのですが、出典は分かりません。あしからず。)
その言葉を金科玉条として信じ続ければ、(あんまり聞いたことのない言葉なのに、
金科玉条として信じる人なんているのかなあとも思うでしょうが、あしからず)
自分は常に傍観者の立場に安住し続けることが出来るのだから。
まあ、どうでもいいことだ。
知ったかぶりと言うが。知ったかぶりと言うのはその物事に浅いと言う事だった気がする。
でも、その知ったかぶりをしている人間をしったかぶっていると指摘している人間は、
それは自分の知識が間違い(しったかぶり)ではない、という前提を置いている事に気付く。
その前提は常識であり、既存した概念であったり、世間や社会と言う形であったりもする。
そこには共通されるべき意思が存在して、一つのルールを作っている。
例えば、漢字テストとかで几帳面な先生はちょっとした飛び跳ね払いの不注意で×食らうが、
そこには漢字と言う、既存した形があり。それに基づいて正しいか間違いかをつける。
まあ、当たり前の事だけどね。
基礎的なもの(ルールに沿っているもの)が俺らの周りで一つの絶対性を作っているとしても。
ひとが述べる論理と言うのには確実に唱えられるような絶対性が存在しているのだろうか?
確かに、ひとが述べる個々が持っている論理には何かしらの根幹が絶対的にある。
まず、日本人として話すためには日本語と言う前提が存在しているし。
他にも、言葉の形と言うのを間違えてはならないという前提もあれば。
自分が言った言葉が抽象的な意味しか持ちえていない言葉には自分の考えているものとしての解釈が必要となる。
では、その抽象的な言葉をしったかぶりだと非難する事は可能なのだろうか。
その抽象的な言葉としての意味は個々の解釈に完全にゆだねきっているわけだ。
そのような個人個人で独特の意味にされている言葉をを第三者が何かしら関与できるのだろうか。
確かに、本のように絶対的に第三者を説得しようとしている前提があるのなら。
それは筆者の意思が関与性を求めているのだから、説得性を持ちえねばならないが。
俺みたいに下らない独り言を綴っている人間は何かしらの説得性を持たす意味があるのかなあ。
まあ、どうでもいいことだ。
ヤバイ!悪化してるぞっ!!
昔の自分に戻りたい
そうやって、現実から逃避したいと言う意思を曲げて解釈していくんだ。
でも、現実と言う大きな鍋からは人は逃げ出す事は不可能なんだ。
なぜなら、俺らは生まれつきその大きな鍋に入って。適当にかき混ぜられ、煮られたり焼かれたりしている。
ただの野菜の一片にすぎない者が何を叫ぼうとも料理人には何も聞こえないだろう。
料理人にとって野菜や肉なんぞただあるもの、食い物以上の存在には絶対的になりえないからだ。
だけど、この野菜や肉には料理人から見れば下らない自我がある。
自尊があり、欲求があり、満たされたい叫び。時たま、料理人に対して油を跳ねさせたりして反抗する。
そしたら、料理人はどうするか。
何、料理人はそれが無駄な抵抗である事を知っている。そのまま無視して料理し続けるだけだ。
まあ、その無駄な抵抗が思わぬ方向に飛んでいって料理人を浅くとも深くとも傷つける事があろうとも。
何も問題は無い、怪我を医務室に行ってその部分を少し治療すればいいと言う事だけだ。
そして、その中断した調理を生ゴミにストレートに入れるか。又は、他の調理人が続けるという事だけだ。
そうして、何も滞る事無く料理は完成してお皿に綺麗にもられ客の口の中に自動的に入っていく。
その際に使われた鍋は軽く洗われて、新たなる料理のために使われるのを待ち続けるのだ。
だが、その使われた鍋もいずれは壊れるし。料理人も歳を喰うか、事故かでいずれ死ぬ。
それが遅いか早いかの違いに過ぎない。
このような正当的な惰性が日々こなされて、当然のように見られ続けるんだ。
一つの枠組みの中に俺らが溶け込んで一つ一つを適当に処理されていって。
そのまま、消えていく。いや、その枠組みが自分自身になるかもしれない。
という哀しい希望を見いだしても仕方が無い、俺らは鍋に炒められるもの。
客にもなれんし、調理人にも、鍋にも、残飯回収業者にも成れない。
現在と言う枠組みの中ではね。まあ、どうでもいいことだ。
このような抽象的な事を書くと絶対に誤解する人間がいるのはもうどうでもいいことだが。
俺がここに世迷い事を書くのは自分の記憶力に全く自信がないからであって。
俺のスレは根本的に妄想を書き溜めていくだけであって。何かしらの関与を求めているわけではない。
まあ、公開日記みたいな場所だから少しは望んでいるのかもしれないが。
その矛盾性を一々解いていったら果てしなく切りがないので止める。
この矛盾点と言うのは人の感情というモノ、行動というモノは一概に問えないからかもしれない。
1と言う考え方があるのは、その1とは反逆する形としての−1があるからであり。
−1の考え方に対応して考え結んだ絶対値的な関係のような気がする。
例えば、「愛」というと瞬時に嘲笑うものと無闇な期待感に溺れるものとで分かれたりする。
同時にその中には宗教的なモノの「愛」、感情的な「愛」、自分が満たされたいが故の「愛」など。
多元的に分かれていく、この場合の多元的と言うのは基本形の1というモノの上に乗ったモノ。
それは近似値と言う関係ではなく。何というか、1というモノを個々に解釈した1。
近似値と言うのは別の値なのだがよりその値に近いものであって。この場合はそのような関係ではない気がする。
1と言う前提上の別界と考えた方がいいのだろうか
56 :
夢見る名無しさん:04/07/10 08:03
「文章力がないと、考え方も精密さを欠くようになります。
大ざっぱになったり、センチメンタルになったり、論理が乱暴になったり。
文章力と思考力とはペアになるわけですね。」
本当にその通りですね。
○自分の脳内でもわからないことを説明しようとしても他人には当然わからない。
○見よう見まねな語彙や文体で書かないで、自分の言葉で言いたいことを書いてみよう。
○本を読むときは、語彙や文体にばかり心を向けるのをやめ、内容や論理の筋道を読み取るようにしよう。
>俺のスレは根本的に妄想を書き溜めていくだけであって。何かしらの関与を求めているわけではない。
ではメモ帳に書き続ければよいではないか。
反応が欲しくてnetに書いているのだから、批判があってもしょうがない。
批判的な書き込みをする人に対して見なければいいじゃないかと貴方が言う以前に、
批判的な書き込みがいやであればnetに書かなければいいじゃないかということが言える。
ここは、誰でも見れる公然のスペースである。
貴方の書くことにそれなりの内容があれば、貴方に賛同する理解者からの書き込みは増えるだろう。
いやいや、彼の場合は語彙の用法や文体が独りよがりに過ぎて論理があやふやになってるのだから、
論旨の明確な文章の見よう見まねからやり直す必要があるのじゃないかな。
そうやって、あなた方は俺に対して自分のセンチメンタルをなすりつけるわけですね。
何かの文章で俺を否定しようとしても、肯定しようとしても俺には全くを持って関係ない。
俺の思考に何を与えると言うわけではないですし、俺はただこの場で徒然と書き込むだけなんですよ。
正直言って、何も書き込んで欲しくないんです。
そもそも、この板で書き込んでいる理由は夢・独り言板だからです。
何か関与性をもとめているのなら、なれ合い、自己紹介板の方にいくと思います。
確かに、メモ帳に書き込んでいった方がいいかもしれません。
でも、自分は字を書くスピードが非常に遅く。又、手で書いていくとより文章が変な方向に行ってしまうのです。
といっても、自分のホームページを作るのはめんどくさいですしね。
だから、めんどくさくなく都合のいい場所。
それが、俺にとって2ちゃんねるの夢・独り言板だったということなんですよ。
内容があろうがなかろうがそれはあなた方の考えであって自分の考えではありません。
自分の頭が浮かんだものを自分で好き勝手に書き込んで自己満足していく。
だけど、それはあなた方にも当てはまるんですよ。俺を批判したくてしょうがない、肯定したくてしょうがない。
批判しては自己満足して、肯定しては自己満足して、そこには俺と言う存在が入る所なんてないでしょ。
結局は自己満足のなすり付けあいになって人を思い込みで裁きあっては。
公然のスペースで貴方も俺も自己満足でオナニーしあっている。
人のオナニーを否定する、肯定するオナニー。
さすがオナニー大国日本だな。自分のオナニーが当たり前になっているとはな。
そして、はあ駄目だなと自分に対して言う。貴方の考えも俺の考えも他者が入る余地を入れない。
はあ、駄目だな。
このように独り善がりな事を吐ける場所。
正しく、夢・独り言。
ねっ、このように世の中ってうまくできてるでしょ。
まあ、俺の言う事は自己満足にすぎないから。批判しようが肯定しようが全くの無意味。
だから、別スレで感じた事を書くスレや晒すスレに言って、自己満足して下さいと言う事です。
まあ、駄目だな。
>でも、自分は字を書くスピードが非常に遅く。又、手で書いていくとより文章が変な方向に行ってしまうのです。
ここがよかった。
>正直言って、何も書き込んで欲しくないんです。
>確かに、メモ帳に書き込んでいった方がいいかもしれません。
>でも、自分は字を書くスピードが非常に遅く。又、手で書いていくとより文章が変な方向に行ってしまうのです。
アクセサリの中に入っているメモ帳とかワードにつれづれと書けば、あなたにとって非常に合理的です。
これをしないでわざわざnetで公開するのも何かあなたにとっての利益があるのですよね?
>といっても、自分のホームページを作るのはめんどくさいですしね。
>だから、めんどくさくなく都合のいい場所。
>それが、俺にとって2ちゃんねるの夢・独り言板だったということなんですよ。
どういったことにおいて都合が良いかわかりませんが、
この板は自分以外書き込めない板ではないしそのようなルールもありません。
現実に、スレ主とそれ以外のコミュニケーションはいくらでも発生しています。
>まあ、俺の言う事は自己満足にすぎないから。批判しようが肯定しようが全くの無意味。
>だから、別スレで感じた事を書くスレや晒すスレに言って、自己満足して下さいと言う事です。
結局何が言いたいのか分かりませんが、今回もおっしゃるとおり批判させていただきます。
利益といっても自己満足だけですよ。
何となく、自分がこれだけ考えたんだと確認して満足するそれだけですよ。
いいかい、君みたいな事を一々言いはじめたら。
夢・独り言板の地下スレなんてだいたいが自己満足ですよ。何の利益でやっているのか分からないようなね。
もっと拡大解釈すれば、2ちゃんねるという空間自体が自己満足ですよ。
情報が右から左には動いて、情報が情報を飲み込んで自分の正当性を叫びあっては。
相手の気にくわない意見を論破して潰しあったり、馬鹿だと軽蔑しあったり。
端から見ればこれに何の意味があるかは分からない、利益があるかは分からないでしょ。
同時にその中(2ちゃんねるという空間)にあなたもいる事に気付いていない。自己矛盾しているんですよ。
よくよく、考えてみればこの空間ほど非合理的な空間ですけど。
あなたもこの非合理的な空間にいると言う事は全くを持って矛盾しているではないですか。
でしょ?貴方みたいにわざわざ合理的ですと俺に説ける人間なのでしょうからね。
独り言という立場で語っている人間だから、何かと関係性と言う前提でやっていないの。
だから、地下スレの如く誰にも無視された形で徒然と書きたいと言うわけなんだよ。
俺は、前置きからコミュニケーションをするという前提をまず断っているんだ。
全体としてルールというのは無くとも、スレ主さんがそういうのだからこのスレではこういうルールなの、分かる?
ルールと言う概念は千差万別で存在しているわけ、とくにこの板では暗黙的なルールと言うのが多いのよ。
君が持っているルールという概念が当てはまらなくても、そのようなルールって言うのは世の中にはあるんだよ。
君、そんな事も分からないの?俺がこう語っているのは結局は自己満足。
その語っている事に口出ししたいのも貴方の自己満足と言う事。
このような相関関係が起こってしまうから、貴方が俺に何いおうが無意味と言う事。
64 :
夢見る名無しさん:04/07/12 18:46
自己満足は自己満足でも、根拠なき自己満足は煽られて当然だぞ。
65 :
夢見る名無しさん:04/07/12 18:50
オナニーはオナニーでも、公園でのオナニーは糾弾されて当然だぞ。
>でしょ?貴方みたいにわざわざ合理的ですと俺に説ける人間なのでしょうからね。
>独り言という立場で語っている人間だから、何かと関係性と言う前提でやっていないの。
小学生でも他人に見られたら恥ずかしくなるような文だな。
本人はどこが可笑しいのか分からないんだろうけど。
>>63 全く独りよがりのレス。
あなたの2chの解釈をみんなのそれと同じであると考えている前提が間違い。
あなたの脳内解釈=他人の価値観では無いという事実をまず知るべき。
よって、
>同時にその中(2ちゃんねるという空間)にあなたもいる事に気付いていない。自己矛盾しているんですよ
これは論理的に成立しない。
>でしょ?貴方みたいにわざわざ合理的ですと俺に説ける人間なのでしょうからね
これはあなたの願望でしかない。
>君が持っているルールという概念が当てはまらなくても、そのようなルールって言うのは世の中にはあるんだよ。
揚げ足だが、そのようなルールはない。それはマナーという。
>独り言という立場で語っている人間だから、何かと関係性と言う前提でやっていないの。
>だから、地下スレの如く誰にも無視された形で徒然と書きたいと言うわけなんだよ。
>俺は、前置きからコミュニケーションをするという前提をまず断っているんだ。
上を読んでみても
結局、
>>正直言って、何も書き込んで欲しくないんです。
>>確かに、メモ帳に書き込んでいった方がいいかもしれません。
>>でも、自分は字を書くスピードが非常に遅く。又、手で書いていくとより文章が変な方向に行ってしまうのです。
>アクセサリの中に入っているメモ帳とかワードにつれづれと書けば、あなたにとって非常に合理的です。
>これをしないでわざわざnetで公開するのも何かあなたにとっての利益があるのですよね?
この質問には何一つ答えていないから、こちらとしてはループするレスを返すしかない。
つうか関りたくないのであれば、無視しろよ(w
あはははーーー
必死で「関係ない関係ない」とか言い張ることで構築される関係性。
貴方はそうやって俺の言っている事を完全に無視するんですね。
いいですか、俺の脳内価値観≠貴方が問う客観性であって。
この場合、貴方がとっている他人の価値観は貴方の自身の価値観を主にとっているんですよ。
そもそも、他人の価値観なんて問い出したらキリがありません。
貴方に近い価値観もあれば、俺に近い価値観もある、他にも色々と2ちゃんねるに対しての価値観があるわけです。
>よって
なんて、数学の証明ではないのですから。そう単純に出せる言葉ではないのですよ。
貴方は論理なんて説いているけど、貴方は自分の言っている事を正当化させるために具体例を出しましたか?
>あなたの2chの解釈をみんなのそれと同じであると考えている前提が間違い
なんておっしゃってますが、俺は自分の考えている事をかいただけで。
自分の論理に普遍性があるなんて一言も言ってません。過大解釈しているのは貴方の方ではないのでしょうか?
>そのようなルールはない。それをマナーという。
ルールは規律であり、マナーは行儀作法です。
ルールは普遍的なものであり皆に強制的にかされます、マナーは個人に課せられる美徳と言うべきでしょうか。
例えば、2ちゃんねるでは荒らしをするとレスの書き込みができなくなる。
これは2ちゃんねるのルールです、ルールを違反すると其れ相応の罰則が科せられる訳です。
でも、2ちゃんねるのように文字世界の場合。ルールとマナーが一緒になっていると言う場合があります。
例えば、人のスレでレスする時。荒らさないと言うルール、話の流れを潰さないとルールが暗黙裏に存在します。
又、人を無闇に罵倒しないとか、否定しないと言うのもあります。これはマナーと言えるでしょう。
そうしないと最終的には誰も相手してくれなくなる。無視と言う状況が起きます。
それはそのスレのひと達が持っていたルール、自分にかしているマナーを破ったからとも言えましょう。
どっちかは分かりませんが。でも、あらした本人はルールを破り、マナーも穢した訳なのです。
このようにルールとマナーと言うのはこの空間では別々には見えにくいのですよ。
最後に、書いたと言うのが自己満足させるわけですから。
この空間に書いてみられると言うので自分の満足が満たされるんだと思います。
だから、見られたくないのに見られたいと言う矛盾が生じてしまう訳です。
まあ、そうやってあなた方も俺に対して関係性を求めるこの矛盾。
人の心と言うのは不思議ですね。
はあ、駄目だな。
もうちょっと冷静に。
>貴方がとっている他人の価値観
意味不明。こちらは一度も他人の価値観(?)は述べていない。
言いたいことは、他の人が、
>夢・独り言板の地下スレなんてだいたいが自己満足ですよ。何の利益でやっているのか分からないようなね。
>もっと拡大解釈すれば、2ちゃんねるという空間自体が自己満足ですよ。
>情報が右から左には動いて、情報が情報を飲み込んで自分の正当性を叫びあっては。
>相手の気にくわない意見を論破して潰しあったり、馬鹿だと軽蔑しあったり。
であるといい、(十把一絡げに想像で決め付け)
>端から見ればこれに何の意味があるかは分からない、利益があるかは分からないでしょ。
と言い(他人にとっての利益があるかどうかはあなたが決めることではない)
>自己矛盾しているんですよ。
と断言するのはおかしいと。
>貴方に近い価値観もあれば、俺に近い価値観もある、他にも色々と2ちゃんねるに対しての価値観があるわけです。
まさにあなたに向けられる言葉。
そして、
>>正直言って、何も書き込んで欲しくないんです。
>>確かに、メモ帳に書き込んでいった方がいいかもしれません。
>>でも、自分は字を書くスピードが非常に遅く。又、手で書いていくとより文章が変な方向に行ってしまうのです。
>アクセサリの中に入っているメモ帳とかワードにつれづれと書けば、あなたにとって非常に合理的です。
>これをしないでわざわざnetで公開するのも何かあなたにとっての利益があるのですよね?
この質問には何一つ答えていないから、こちらとしてはループするレスを返すしかない。
自己満足では質問の答えではないことくらいわかるでしょう。
>貴方はそうやって俺の言っている事を完全に無視するんですね。
>ルールは普遍的なものであり皆に強制的にかされます、マナーは個人に課せられる美徳と言うべきでしょうか。
>例えば、2ちゃんねるでは荒らしをするとレスの書き込みができなくなる。
>これは2ちゃんねるのルールです、ルールを違反すると其れ相応の罰則が科せられる訳です。
>でも、2ちゃんねるのように文字世界の場合。ルールとマナーが一緒になっていると言う場合があります。
>例えば、人のスレでレスする時。荒らさないと言うルール、話の流れを潰さないとルールが暗黙裏に存在します。
言葉の定義云々無しに考えてもつじつまがあわない文章。
>ルールは普遍的なものであり皆に強制的にかされます、
>ルールとマナーが一緒になっていると言う場合があります。
>例えば、人のスレでレスする時。荒らさないと言うルール、話の流れを潰さないとルールが暗黙裏に存在します。
75 :
夢見る名無しさん:04/07/13 21:43
高校生でこれだけの長文を書けるのは、結構スゴイと思った。
支離滅裂な内容、語法・文法メチャクチャではあるけど。
これからもうチョット勉強すればスゴイ文章を書けるのかなと思った。
でも、、、
思い込みが激しく自分の非が分からないようなので、
見込みは全く無いなって最終的に思った。
放置しておいてあげようよ・・・
阿呆を見つけたら、消えない程度にいじり倒せ!
これが2ちゃんにおけるルールだ!