1 :
空理空論な駄目人間:
注意)ここはスレ主が自己欺瞞な事をかってにほざくスレです、、、。
そのような文を読むのがお嫌いな方はぜったいにお止めください、、、。
2 :
空理空論な駄目人間:04/05/29 13:43
最近また、何かが溜まりつつある、、、。衝動なのか自尊なのか、それとも自分に対しての疑問なのだろうか?
俺という存在が求められなくなりつつある、消失しつつある、、、。
どこに俺は漂い、どこに俺は着くのだろうか?むしろ、永遠に着く事は無いのだろうか、、、。
まったくをもって分かりやしない、、、。俺というものがそうやって消え行くのならそれは運命だろう、、、。
俺の思考は名無しさんが言うようにおれは思考をどこぞの限界が無いただのモノに過ぎないのかもしれない、、、。
俺には俺が一番分からない一番の難問だ、、、。
n,,,,,,n
ミミミヾミ゙::::・::::::・ヽ <糞スレずざーーーー!w
ミミヾ/ゝ;;;;;;●;;) (´´
ミミヾ|::( ´ー`) (´⌒(´
゚ し―○ ゚≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
ちなみに、、、。今、ネ喫茶でレスをしているから前スレはかけないけど、、、。
今、考えているものを今なるべく書くようにしておく、、、。
それにしても、最近暑いねえ、、、。夏に殆ど近いと思う、、、。
どんどん、俺の季節感が壊れていく、、、。これはこれという付けられるものが消失する、、、。
消失していく事によって、俺の思考はどこに行くのだろうか?何が夢なのか?消えていく、、、。
昨日、古い写真を何となく深夜見ていたら、、、。俺の小学生頃の写真はほとんどが笑っているんだ、、、。
元気に、まさしく子どもの笑顔で冷たさを全く含んでいない、、、。笑顔、、、。
もしかしたら、全てはこの笑顔に帰っていくのではないだろうか?と錯角してしまうほどの笑顔、、、。
なぜ、俺はこのような笑顔がいつの間に完全にできなくなってしまったのだろう、、、。
俺の心は季節の変化も関係なく、硬化して、、、。俺の精神の動脈硬化で死んでいってしまうような気がした、、、。
俺は俺の中にいる子どもを完全に殺してしまったのかもしれない、、、。
松本清張の「鬼畜」のごとく子どもの口に毒パンを無理矢理突っこんで殺してしまったんだ、、、。
俺には情けも何も用いる必要は無い、、、。俺は「鬼畜」だ鬼畜生として生きていくのだ、、、。
それでも、俺は生き続けるのだ、、、。この刹那をこの今をだ!そうして自分自身を失望しつづけるのだ、、、。
悪名は俺にとって、力になっていくんだろう、、、。そして、悪名の中を死んでゆく、、、。
何も無い先を荒らすことによって先を創るのだ、、、。それを醜態とみても構わない、、、。
人間は醜態を晒しながら、嗚咽をはきながら狂っていくんだ、、、。子どもを殺して、、、。
自分の思考を殺して、自分の思想を殺して、何もかも喪失していくのだ、、、。
完全な死によって全てを喪失するのだ、、、。その答えが俺の思考なのかもしれない、、、。
俺の子どもは泣きながら消えて行った、、、。そして、最後には俺も嗚咽を吐きながら死んでゆく、、、。
そうさ、これは子どもの報復なのだ、、、。自業自得、責任論、、、。愉快だ、、、。
悲しいほどにな、、、。はあ、駄目だな、、、。
青く、白い雲が適当に分散しているこの空は非常に気持ち良い感じがする、、、。
何か旅がしたい、、、。元々、放浪癖がある人間だから、、、。
青い空に吸い込まれて、気づけば遠い所にいるような存在に成ってしまうきがする、、、。
この今が非常にどうでも良い感じがしてきた、、、。どうでもいいといっても俺の存在がある、、、。
どうでも良さだ、、、。いちいち何処かに置いておいて放置するような状態ではない、、、。
俺の存在は此処にある、、、。ゆえに俺は放棄できない,俺をね、、、。
でも、社会的なものは極力削る事は出来る、、、。俺らにはなんモアりゃせんのや、、、。
動物みたいに限定されたテリトリーがあるというわけではない、、、。テリトリーとしただけだ、、、。
俺らは自分自身を根無し草にすることができる、、、。そして、適当に求めていけば良い、、、。
ちなみに、この根無し草というのは綺麗な花を咲かすらしい、それでいいんだよ、、、。
俺らは何かわからない花の種だ、、、。何の花の種が入っているかは分からない、、、。
分からないから俺らはその種を土に埋め、花を咲かせようとする、、、。
いや放置してても、花を咲かす事は出来る、、、。雨が適当に降りゃ草は育っていく、、、。
育てようとするから、物事が強制化したり、霞んで行ってしまったりもする、、、。
俺はこの空に溶け込むようにこの土に溶け込むように生きていけば良い、、、。
俺らには元々何かがあるというわけではないんだ、、、。あると思い込んでいるだけ、、、。
そうやって溶け込んでいけばいいんだ、、、。消えて始末は自分でつけて消えていけば良い、、、。
おそろしく広い空や海や山、または人間に溶け込んでいけばいい、、、。俺は凡人、、、。
そうきえていく、、、。俺の夢はおじさんの農業をついで太陽の下で使い込まれて死ぬ、、、。
俺の田舎のばあちゃんがそうだったように俺もそうして生きて、死んでいきたい、、、。
農業は大変だ、、、。だから、その大変さに一生悩まされて死ぬ、、、。それで充分だ、、、。
はあ、駄目だな、、、。
長文うざい
>こんぐさん
まあ、いつもどおりでありがてえ、、、。
>真実さん
まあ、長文でしか自分の精神を表せないのですから、駄目駄目だな、、、。駄目人間を自称する人達のスレ(その3)
ああ前スレです、、、。
駄目人間を自称する人達のスレ(その3)
life4.2ch.net/test/read.cgi/yume/1067358583/150
駄目人間を自称する人のスレ(その4)
life5.2ch.net/test/read.cgi/yume/1077028019/150
まあ、色んな何かが積んでいく事によって、、、。
俺の持っている何かが表されていくのだろうか?
う〜ん、分からん、、、。
はあ、駄目だな、、、。
何か韓国の映画が特別な賞を貰ったそうで、、、。その映画が日本の漫画だったそうで、、、。
でも、その漫画って日本では有り触れた話のような漫画なきがする、、、。
その作者の漫画を俺は結構読んでいるから、何となく話の流れが分かるけど、、、。
「極道ステーキ」「女医レイカ」の作者が原作の人でしょ、確か、、、。
日本にとってみればありふれた作品が映画化する事によって賞を取るか、、、。
不思議な話だな〜、、、。それほど日本の漫画の力と言うのはすごいものだ、、、。
これが「文明力」なのかもしれないな、、、。全ての基礎なんだからねえ、、、。
俺はねえ、正直言って、、、。韓国映画も日本映画も何も変わらないような気がする、、、。
元々、韓国映画の基礎を創ったのは戦前の日本映画会社だし、、、。
韓国映画の基礎は日本だし、日本の基礎はアメリカの映画だしねえ、、、。
解釈が解釈によって変更されて、変わっていっただけであって、、、。
ただ、賞とかをとっただけで馬鹿みたいに叫ぶのはただの小心者の遠ぼえにしか聞こえない、、、。
賞が上とか下ではなく、日本の原作でしか賞を取れない事を恥じるべきではないのだろうか?
確かに解釈は違うと思うけど、、、。「韓国映画が賞を取った!日本の原作で」
と言うのは民族の誇りを逆に穢しているような気が俺にはするんだけど、、、。
俺はこういうのを「馬鹿チョン」と言って軽蔑する、日本の「ポチ保守」や「馬鹿サヨ」と同じだ、、、。
賞などの名誉と民族的な名誉なら、民族的な名誉の方が圧倒的に重いではないのか?
彼等が本当に民族の誇りを持つ立派な韓国人、朝鮮人なら日本という前提が無ければならない事を恥じるべきであり、、、。
こういう表面的な事で「真」を分かろうとしない「馬鹿チョン」は猿みたいに喜ぶ、、、。
俺は韓国人が嫌いではない、俺は何も分かっていない「馬鹿チョン」が嫌いなのだ、、、。
進歩してくれ!韓国人!君らの名誉は君らが穢している事に気付いてくれ、、、。
俺には優しさなんて持ち合わせていない、、、。
俺は俺の思考を追い込んでいく事でしか俺の思考を求める事はできない、、、。
俺は他人の理解なんてどうでもいい、、、。俺の思考は俺が求める続けるだけだ、、、。
俺は大きくはなれない、、、。小さな存在で十分なんだよ、、、。
俺は大層な人間ではない、ただの大馬鹿たれなんだからそれで十分なんだ、、、。
ツマラナイ小人それで十分だ、、、。何も持ち合わせていないただの人間、、、。
俺は何かを求めようとして優しさを求めようとする人ではない、、、。
俺は「孤人」何も求める事無く独りで佇んでいるただの生き物、、、。
俺は独りで居続ける事が幸せなんだな、、、。俺は俺を憎み続ける、、、。
このようにしてしまった俺を憎み続ける、、、。そして、どうにもならない失望を背負い続けるんだ、、、。
でも、弱いとは言い切れない、、、。俺には弱いモノなんて無い、、、。
同時に強いモノも無い、ただ隔離された存在、、、。ハンセン病者の如く、、、。
俺は俺に自由を与える事は無い、、、。常に独り拘束された状態で居続ける存在だ、、、。
俺は自分の精神の子供を殺した、俺は子供以外の何かを背負い続けて拘束される、、、。
笑い続ける俺と重い石と飼いきれない狗を飼いながら俺は背負い続けるんだよ、、、。
そうやって、死んでゆく、、、。そうアパートで腐った肉の悪臭を漂わせながら、、、。
独りで死んでゆく、、、。それで十分だ、、、。誰も俺を見届ける人間はいない、、、。
お前が見届けてくれるだと?
大嘘つきは帰れ、、、。ツマラナイ嘘を付くのは止めろ、面白くもクソも無い、、。
人はそう簡単に嘘をつくツマラナイ「優しさ」だ、見え見えの嘘ほど面白くないモノは無い、、、。
俺は孤独の中をのたまい、叫び続ける小さい存在だ、、、。それを否定してしまうほど俺は馬鹿ではない、、、。
まあ、どうでもいい事だ、、、。はあ、駄目だな、、、。
俺はなんでこの夢・独り言板に来たのだろうか?
いつの間にか、この下らない独り言をたらたら流すのが5個になってしまった、、、。
そのために5個も良スレが落ちてしまったのか、、、。まあ、過去を見ても仕方が無い、、、。
でも、なんで俺は此所に来たのだろうか?俺の独り言は昔から独り善がりだと思う、、、。
人を除去していく俺の思考が俺を創り続けてきた、、、。不思議な話だ、、、。
俺は、人を必要としているところを制限してきたように思える、、、。
俺には友達なんていやしない、小学も中学も高校も多分、大学もだ、、、。
俺は俺によって俺を隔離し続けて、自分の佞小差を確認し続けて生きていくんだろう、、、。
小ささが俺には最高に気持ちいいんだ、、、。どこにも未来なんてないし、
どこにも過去は無い、ただ記憶としてあるかないかの差に過ぎない、、、。
又、俺は途方も無く記憶力が悪い、、、。忘れ続けている、、、。
哲学も、歴史も、法も経済も、心理も何もかもをだ、、、。
悪い記憶ではない、良い記憶ではない、だけど何も出てこない事が哀しく感じる、、、。
しかし、俺らは今を生き続けている、、、。そして、何も出てこないんだよ、、、。
価値とか、意味とかもう途方も無くどうでもいいような気がしてきた、、、。
霞んで、見えなくなって消えてしまうだけだ、、、。しかし、人は同時に価値を見いだしたがる、、、。
人は途方も無く矛盾して、その矛盾性が否定でき無いところがすごいように思える、、、。
まあ、そんなことは何時も何時も言っているからどうでもいい、、、。
俺は出し尽くしたんだろう、、、。何もこの先産まれる事は無いだろう、、、。
そしたら、俺はこのスレに何をかけと言うのだろうか?この世の失望か?希望か?
そんなモノはつまらない、結局は在り来たりで終わるだけだ、、、。何も無い、、、。
まあ、どうでもいい事だ、、、。はあ、駄目だな、、、。
俺はなんでこの夢・独り言板に来たのだろうか?
いつの間にか、この下らない独り言をたらたら流すのが5個になってしまった、、、。
そのために5個も良スレが落ちてしまったのか、、、。まあ、過去を見ても仕方が無い、、、。
でも、なんで俺は此所に来たのだろうか?俺の独り言は昔から独り善がりだと思う、、、。
人を除去していく俺の思考が俺を創り続けてきた、、、。不思議な話だ、、、。
俺は、人を必要としているところを制限してきたように思える、、、。
俺には友達なんていやしない、小学も中学も高校も多分、大学もだ、、、。
俺は俺によって俺を隔離し続けて、自分の佞小差を確認し続けて生きていくんだろう、、、。
小ささが俺には最高に気持ちいいんだ、、、。どこにも未来なんてないし、
どこにも過去は無い、ただ記憶としてあるかないかの差に過ぎない、、、。
又、俺は途方も無く記憶力が悪い、、、。忘れ続けている、、、。
哲学も、歴史も、法も経済も、心理も何もかもをだ、、、。
悪い記憶ではない、良い記憶ではない、だけど何も出てこない事が哀しく感じる、、、。
しかし、俺らは今を生き続けている、、、。そして、何も出てこないんだよ、、、。
価値とか、意味とかもう途方も無くどうでもいいような気がしてきた、、、。
霞んで、見えなくなって消えてしまうだけだ、、、。しかし、人は同時に価値を見いだしたがる、、、。
人は途方も無く矛盾して、その矛盾性が否定でき無いところがすごいように思える、、、。
まあ、そんなことは何時も何時も言っているからどうでもいい、、、。
俺は出し尽くしたんだろう、、、。何もこの先産まれる事は無いだろう、、、。
そしたら、俺はこのスレに何をかけと言うのだろうか?この世の失望か?希望か?
そんなモノはつまらない、結局は在り来たりで終わるだけだ、、、。何も無い、、、。
まあ、どうでもいい事だ、、、。はあ、駄目だな、、、。
俺はなんでこの夢・独り言板に来たのだろうか?
いつの間にか、この下らない独り言をたらたら流すのが5個になってしまった、、、。
そのために5個も良スレが落ちてしまったのか、、、。まあ、過去を見ても仕方が無い、、、。
でも、なんで俺は此所に来たのだろうか?俺の独り言は昔から独り善がりだと思う、、、。
人を除去していく俺の思考が俺を創り続けてきた、、、。不思議な話だ、、、。
俺は、人を必要としているところを制限してきたように思える、、、。
俺には友達なんていやしない、小学も中学も高校も多分、大学もだ、、、。
俺は俺によって俺を隔離し続けて、自分の佞小差を確認し続けて生きていくんだろう、、、。
小ささが俺には最高に気持ちいいんだ、、、。どこにも未来なんてないし、
どこにも過去は無い、ただ記憶としてあるかないかの差に過ぎない、、、。
又、俺は途方も無く記憶力が悪い、、、。忘れ続けている、、、。
哲学も、歴史も、法も経済も、心理も何もかもをだ、、、。
悪い記憶ではない、良い記憶ではない、だけど何も出てこない事が哀しく感じる、、、。
しかし、俺らは今を生き続けている、、、。そして、何も出てこないんだよ、、、。
価値とか、意味とかもう途方も無くどうでもいいような気がしてきた、、、。
霞んで、見えなくなって消えてしまうだけだ、、、。しかし、人は同時に価値を見いだしたがる、、、。
人は途方も無く矛盾して、その矛盾性が否定でき無いところがすごいように思える、、、。
まあ、そんなことは何時も何時も言っているからどうでもいい、、、。
俺は出し尽くしたんだろう、、、。何もこの先産まれる事は無いだろう、、、。
そしたら、俺はこのスレに何をかけと言うのだろうか?この世の失望か?希望か?
そんなモノはつまらない、結局は在り来たりで終わるだけだ、、、。何も無い、、、。
まあ、どうでもいい事だ、、、。はあ、駄目だな、、、。
やべえ、まちがえた、、、。もうだめだこりゃ、、、。
あんまり長文ばっかだと500くらいで落ちるぞ
学習しろ
>ゃゃさん
いやはや、有り難うございます、、、。
>名無しさん
名無しさんもありがとうございます、、、。いや、自分は独り言をつぶやくためであって、、、。
1000とか、五〇〇とか全くを持って関係ないので、、、。
俺には全てを矛盾化させる存在がいる、、、。優しさも、憎しみも、愛も何もかも、、、。
無関心、無感情、無思考、無情緒、、、。俺には全てを停止しうる存在がいつもいる、、、。
これらが俺の中で溜まるとちょっとした暴走を産む事がある、、、。それが俺の言説だ、、、。
俺には重い石と言う存在が眠っている、、、。彼は俺の何かを常に問うように語る、、、。
彼は叫びもしない、嘆きもしない、ただ無表情で強い、弱いの口調の上げ下げはつけても、、、。
常に無表情で俺を見つめ続ける、、、。俺らはその無表情に何かしらの感情をつけたがる、、、。
笑っている、泣いている。怒っている、蔑んでいる、彼は何の感情も表す事も無い、、、。
結局は俺が勝手に彼の存在を解釈しているだけだ、、、。俺の思考がね、、、。
俺には神がいるただ「存在」だけの神が「存在」しているのだ、、、。
俺は神を「解釈」するきなんぞ全くない、解釈は形シ上学にまかせればいい、、、。
俺は神を求めてしまった、、、。自分の心の中に、だから全ての宗教が正しい、、、。
その怒りも、嘆きも、笑いも、叫びもだ!人が人足らんためにはその感情は最も正しい、、、。
その宗教で殺しあう事も、救いあう事も叫びあう事、全てを俺は諦観し続ける、、、。
殺しあいなさい、救いあいなさい、そこに「解釈」としての神が見えるならそうしなさい、、、。
俺はそれよりも根底に眠っている「存在」としての神がいる、、、。
「存在」としての神は、単純に言えば、、。自分自身なんだよ、、、。
続き
よくよく考えてみてくれ、、、。
お前と言う存在が前提としてなければ、「神」も存在しえないし、「お前」もいない、、、。
お前と言う意志は他人の意志ではない、他人の意志を解釈しても、、、。
その解釈はお前独自のモノであって、単純に第三者(他人)がえられるモノではない、、、。
俺は解釈を第三者と同一化させるモノがあまり好きではない、、、。お前はお前だ、、、。
お前がお前足るには、第三者と言う存在を求めるのは必然であり、それを嘆く必要は無い、、、。
だが、第三者に飲まれてはならないのだ、、、。ただの解釈に過ぎないのだからな、、、。
でも、現実には俺は第三者に飲まれているようにしている、、、。
ここが面白い矛盾だ、俺は「社会」というモノの上では人と言う存在が小さくなる、、、。
これを一般の人は現実といい、妄想と現実をわざわざ分けようとする、、、。
彼等の説く現実と言うのは「社会」だ、広く見えて小さい、、、。ただの「社会」だ、、、。
俺は「社会」を現実と錯覚するほど鈍感な感性は悪いが持ち合わせていない、、、。
現実はまず「我」と言う存在から求めるモノであり、、、。第三者に飲まれる事を望んではならない、、、。
この「我」には、色々なモノがある、、、。妄想も、仮想も、社会も、第三者、当然自分というモノも、、、。
現実を縮小化させているのは勝手な自分の意志だと言う事を忘れて欲しくない、、、。
自分と言う存在はもっと広く持たねばならない、、、。下らない思考がそう俺を苛む、、、。
現実を縮小化させているのは「自分の意志」だ、それは否定する事は愚か者の為す行為だ、、、。
ここで自分と言うモノが素晴らしく矛盾する、縮小の意志と拡大の意志がぶつかりあうのだ、、、。
相対論は出さないでくれよ、、、。どっちが重いかは相対化する事は不可能なのですから、、、。
それは個人の問題であって、俺が説くのは広大な矛盾論だけだ、、、。
だから、俺は俺と言うモノが見いだせないのだな、、、。はあ、駄目だな、、、。
このように暑い日が続くと逆に鬱の状態になりやすくなる、、、。
そういえば、俺らの歳で社会的に何かしら存在を誇示している人間がいて、、、。
同時に俺みたいな平々凡々な存在がいる、、、。中々面白い話だ、、、。
俺はここでアホな事を書けば満足している自分と、「社会」叫びたい!という意志が存在している、、、。
どっちが正しいかは分からない、、、。どっちもどっちのような気がする、、、。
結局は前者は自己満足であり、後者は世間的肯定の希求だ、、、。
前者は独りだけの虚しさが込み上げ、後者も大量の他者による孤独感が酷くなるだけだ、、、。
どっちもどっちなんだよ、、、。名誉も、無名誉も見えてしまえば同じなんだろう、、、。
ちなみに、俺は一度も賞というモノをもらった記憶が無い、、、。何をするにも中途半端、、、。
何かを極める事無く生きてきた存在だ、、、。それは少し哀しいような気がするが、、、。
それは俺だから仕方が無いとして開き直ると言う事にして、、、。
ちなみに、俺は祝休日になるとこのような事を考え始めると果てがない、、、。
多分、学校とかで無駄な思考力を使わないからだと思うが、、、。さすがにこれはないだろ、、、。
色々な思考が俺を苛み始める、この素晴らしい祝日は困ったほどありがたいものだ、、、。
これで俺というモノを抉り続けるのならそれはありがたく受け止めていこうではないか、、、。
俺は俺というモノをいため続ける事によって俺と言うモノがある程度みつかるのなら、、、。
それは喜ぶべき事だ!俺を殴り、俺を穢し続ける事によって俺を求められる!
故に俺はすぐに見えなくなる、、、。俺を忘れるからだ、、、。
俺を忘れて何かに集中して生きていく事で俺を簡単に消し去ってしまう事ができる、、、。
そうすることで、何かが見つかると思い込んでいるのだ、、、。何という妄想か、、、。
何もあるわけがないだろ!結局は何かやる事に陶酔しているだけだ!
陶酔が生き甲斐などと叫ぶのか!なんと羨ましい事か!その無思考が!
続き
俺は趣味がある、オタクであり、、、。陶酔の人であるとも言える、、、。
だから、その分、、、。失望や、希望、妄想、仮想、幻想などが簡単に見えてくる、、、。
俺には陶酔しうることができるものを持ちうるが故に陶酔の恐ろしさを感覚で分かる気がする、、、。
ヒットラーに陶酔したドイツ国民も、戦う事に陶酔する武人、傭兵の感覚も分かる気がする、、、。
その先に死があろうとも、その先に幻滅が待っていようとも、、、。関係ないのだ、、、。
それが陶酔の正体だからだ、、、。真実では人は生きれない、真実が人を殺す事も往々にある、、、。
だがら、俺らはその正体を探りたがる、、、。でも、その正体は自分自身なのだ、、、。
何と下らない矛盾だろうか、、、。そして、彼等が正気に戻った時、、、。
彼等はその陶酔の正体を全否定し叫ぶ、、、。その時彼等は彼等自身の存在を忘れ、、、。
その否定に「陶酔」するのだ、、、。ツマラナイ矛盾形態を持つ、ツマラナイ存在だ、、、。
悪を悪と叫ぶのは簡単だ、、、。それでその悪と言う存在に取り憑かれていた自分はどうなるんだ?
そうさ、人は容易く、、、。前の自分と言う存在を忘れる、、、。何と幸せな連中か、、、。
俺はその放棄能力があまりにも羨ましい、、、。俺は思い出す事ができるからだ、、、。
それが、俺の記憶が「痛い」という事象だ、、、。これが起きるととんでもない頭痛が起きる、、、。
ああ!!!!と叫び出したくなるほど、恥ずかしいという意志とこの痛みが同時に襲う、、、。
君らにはそのような事象を自分で起こす事ができるのだろうか?希求せよ!
自分に重い石を置き、それで俺自身を毎日、毎日殴り続けるのだ、、、。
そうでしか、俺は見えない!そうさ!君らは見ないのだ、殴らないのだ!
それが幸せだと思うのだ、、、。俺にはね、、、。
そうやって俺は、俺の殴り続けるのだな、、、。寂しい人間だ、、、。
はあ、駄目だな、、、。
なんでオタクを評価する人間がいるんだろうか?
あくまでも、オタクは自己満足以上の価値を見いだせるのだろうか?
文化とか、文明とか、、、。オタク文明と言うのは難しいんではないのだろうか?
俺にはポストモダンとかはよくは分からないが、、、。俺には信じる事ができない、、、。
俺は、もしオタクが文明化してしまったなら、、、。それは、文明が人間の満足を求めて来たと言えてしまう、、、。
と俺は前にいった記憶がある、、、。文明はたしかに人間の欲求を最大肯定するために変化し続けて来た、、、。
でも、俺はそれを一概に正しいとは思えないんだよ、、、。文明、いや歴史の方がしっくりくるだろう、、、。
歴史は新たな文化、文明を産みながら、、、。その文明の暴走を抑えるために、、、。
時代に適した道徳や常識を産んで来たんだ、、、。だが、ポストモダンはそれを嘲笑するかの如く振舞う、、、。
結局は、堕落論を説くだけで、、、。それは次に叫ぶ何かを消していくようにしか思えない、、、。
今を自己満足するだけで何か次を叫ぶものとは思えないんだよ、、、。それが文明化していいのだろうか?
オタクはアングラでなければならない、アングラの中で振舞わなければ、、、。
一つ常識を崩壊させ、それを最初として、、、。ドンドン崩していくような気がする、、、。
俺はオタクだ、鉄道オタクであり、二次元オタクでもある「萌え萌え〜」なんて言えてしまう存在だ、、、。
オタクと言うのは一つの業と言う事に気付いて欲しいんだよ、、、。
その業を背負う事によって生き続ける矛盾した存在である事に俺は気付いて欲しいのだ、、、。
故にアングラなんだ、、、。「社会」肯定性を望めば、オタクはより隔離される、、、。
俺は人それぞれなんて事が「社会上」求められるとは思わない、、、。
人それぞれと思われる社会の許容範囲が広がるだけだ、、、。
そこには訝しく思う人を忘れてはならないということだ、、、。
故に矛盾する、、、。評価や価値、意味は背反していくこの理性を背負っていく業が重い、、、。
はあ、駄目だな、、、。
俺の学校には真人間なんていないね、、、。
俺には真人間なんていないと俺は思うね、、、。なら「真」人間というけど、、、。
個性論でもなく、社会論でもなく、、、。まともな人間なんていない、、、。
どこかしらが変わっていて、人とは違う習性を持つ人間しかいないんだよ、、、。
それは「本能」で導かれていないからさ、、、。本能を捨てた時点で人は固有の行動を為すようになる、、、。
又、社会、環境、知識、経験の変化によって全く違う人間像が見えてくるモノと同じだ、、、。
例え話だ、普通(平凡でもいい)の家庭で産まれて、普通の環境に産まれて、普通の知識や常識を持ち、、、。
普通の人生送った人間と言うのはいると思うかい?いるわけがないだろ?
むしろ、普通とはなんだ?平凡とは?結局は、そういう理想を創って、妄想をしているだけだろ?
疲れている人間と言っても、、、。その疲れには個々の意味があり、価値がある事を忘れて欲しくない、、、。
忘れて欲しくない、一概に言えるモノ何ぞ、、、。てめえが信じている常識の上でしかないと、、、。
俺には知識は無い、常識は無いだろう、、、。とは言えども言える範囲と言うのがあると思う、、、。
俺は今日、床屋のおじさんと世間話をしたけど、、、。経験というモノは難しいらしいね、、、。
天才と言われているモノは、経験で何かを得る必要は無く、、、。自分の思考で求める、、、。
長く生きる事に意味があるのではなく、どのように生きたかに意味があるとおじさんは言った、、、。
真人間と言うのは、経験も知識も丁度、中間点の中途半端な人間なのだと思う、、、。
でも、中間と言うのは難しい、、、。人は絶対にどこかしらでズレル、故に「真」が存在しない、、、。
真人間という仮定は論理上必要なのかもしれない、、、。しかし、それを当然かの如く説くのはただの馬鹿だ、、、。
ちなみに、俺の学校には誰もが濃い人間だ、、、。人間らしい人間だ、、、。
真人間になる事を求める人間なんぞ、人間としての面白さを放棄したつまらない存在だと思うね、、、。
なあ、考えようや、、、。日々な、、、。はあ、駄目だな、、、。
雑草と言う草はありません、、、。が故に、全ての草は雑草だと言えてしまう、、、。
人という生き物は名前を付けると言う行為を忘れた事が無い、、、。
全ての存在には抽象的だろうが、具体的だろうが関係なく「名」が存在している、、、。
それは人の忘れる事の無い習性だ、、、。全てを断定的な存在に変え、、、。
曖昧な存在を常に具体化させる事によって、安心感を得る、、、。安心が人間が一番求める物だからな、、、。
人というモノは不思議なモノだ、、、。名が無いものもなければ、名が消えてしまう者は無い、、、。
あったという前提は忘れる事無く常にあり続けるわけだ、、、。忘られる事無いから、忘れる、、、。
残ってしまうから、忘れる事を求めても、、、。忘れられない部分がある、それが記憶だ、、、。
記憶は人を縛り続けて、人はその縛りに慣れきってしまった、、、。自由は完全に死んだのだ、、、。
いや、死んでいた、、、。全ての産まれて瞬間から死んだのだ、、、。神と同じだ、、、。
俺が求めている神は「存在」だけだとしても、、、。「存在」を求めるが故に俺は神を殺したのだろう、、、。
求める必要は無かった、、、。しかし、求める事を否定すると全ての事象が否定されてしまう、、、。
人の思想や思考はその極地にいくことはないだろう、それは虚無主義ですらない、、、。
失望によって全てを放棄する事を求めているからだ、、、。人の虚無なんぞ甘いモノだ、、、。
いや、甘くなければならない、、、。甘くなかったら人は何もしうる事無いからだ、、、。
人は人であるが故に真を捨てた、、、。全ては解釈が往々にして存在する社会になった、、、。
解釈に取り憑かれてしまった事が人にとって最大の幸福なのだろう、、、。
そうでなければ、自分らの手もとにはまだ石の斧と毛皮しかなかっただろう、、、。
又、そういう解釈が存在しているだけだ、、、。ただ名が全てを支配するだけだ、、、。
ああ、愉快だな、、、。何も無い事が無いというつまらない矛盾が支配していく、、、。
そうか、だから人はこういう時こそ「苦笑」と言う行為をとるのだな、、、。
全てが、矛盾への可能性しか持ちえていない事にね、、、。はあ、駄目だな、、、。
存在証明なんてないんだよ、、、。
俺らが求めているモノなんぞ結局は砂上の楼閣、、、。理想が理想に飲み込まれる事を希求しているだけ、、、。
俺が俺だと証明できる者はだれもいやしない、、、。証明なんてできないんだよ、、、。
俺には色んなモノが存在している、その中にいる俺が俺と言える事はできないんだよ、、、。
ゃゃさん、、、。俺はね、何でも無いただの存在なのにただの存在を許容できない人間だ、、、。
路傍の石には成れない、、、。路傍の石は旅人や老人、子供が休み、遊んだ、、、。
小さな路傍の石も子供に蹴られる事で遊び道具として用いられ、、、。
大きな路傍の石は旅人や老人を休め、同時に水を塞き止める、、、。一つの道具にもされる、、、。
俺はその路傍の石にさえなれない、、、。かくこした何かが完全に欠落している、、、。
ちなみに、俺は旅行とかにそうとういっているわけだが、、、。何も見いだせなかった、、、。
慰めとして用いられただけで何も無かった、ただ夕日が哀しい程美しかったのだけは忘れない、、、。
どこの場所でもだ、山間の駅で見た山と山の間を沈んでいく夕日、、、。
海に近い駅で見た、海の中を沈んでいく夕日、、、。街の駅で見た、ビルとビルの間を沈む夕日、、、。
どれもこれもが美しかった、、、。哀しいほどだ、独りで駅に佇みタバコを吸いながら夕日をずっと見ていた、、、。
ビールを片手に見た夕日、どれもこれもが美しかった、、、。でも、それを見るのは何時も独りだ、、、。
俺は一人になる事はほとんどないけど、何時も独りだった、、、。孤人だ、、、。
美しさと言うのは独りでなければ見えないモノなのだろうか?そしたら、俺らが求めている美とは?
いや、美しさなんて先入観なのかもしれない、日本人の美、支那人の美、フランス人の美、、、。
どれもこれもが先入観と前提によって保護されている、哀しいなあ、、、。
そうだ、集団の美と言うのは何かで保護されているんだ、、、。保護されている事が正しいのではなく、、、。
保護からはなれる事が美ではないのだろうか?残されない美、、、。
続き
そんなものがあるのだろうか?多分ないだろう、、、。
美というモノには価値がある、、、。いや、価値があると思い込んでいる、、、。
その価値は、民族的な、国家的な、社会的な、個人的な全てを飲み込んだ価値だと思う、、、。
根本的に抽象的な価値と言われるモノの大抵が全てを飲み込む形になりやすい、、、。
でも、そんな事は今はどうでもいい話だ、、、。美意識によって美は守られているのだからね、、、。
そういえば、俺には信念が分からないと言ったけど、、、。俺には色々と複雑化させてしまう癖がある、、、。
複雑化していくとどれが俺の求めていたものなのかが全くを持って分からなくなる、、、。
そこで、俺と言う存在が自分の手で一時的に消されてしまう、、、。
俺が背負いきれるモノではなくなってしまうからだ、、、。自己を越えてしまう思考、、、。
これが大きい思考なのかは分からないが、、、。俺ので従える者ではないような気がする、、、。
俺自身でありながら俺が手に余る存在としての、俺というつまらない矛盾が起きる、、、。
おれがただの存在である事が背負いきれない一番の理由はそこなのかもしれない、、、。
ただの存在として言い切ってしまうには俺にはまだ分け分からない者が寝過ぎているんだ、、、。
多分、ゃゃさんにも沢山寝ていると思う、それが見えないだけにすぎない、、、。
そうして、俺の美や醜は増幅して止まる事なくなり、俺自身をもれ出してしまう、、、。
余裕ない思考だ、、、。いつもおれを追い込んでいる自分の手でだ、、、。
何とつまらない矛盾か、、、。どうやら、俺は書く事より語る方が得意なようだ、、、。
何が言いたいのか全くを持って分からない、、、。書く事にすると思考を与える時間が十分にあってしまう、、。
ああ、無駄な行為だな、、、。でも、無駄ではない、無駄なものなんてモナド上存在しえないからね、、、。
でも、わからない、、、。はあ、駄目だな、、、。
>>23 ごめん、今頭が動かないからちゃんと読めてないけど。。
「路傍の石」って言葉にそこまでの意味を見い出さなくてもいいと思うよ。
あの人もそんな意味で使ったんじゃないと思うし。
あとね、「美」に関してだけど
確かに作られた 観念的 な「美」もあるんだけど
往々にして、特に女性は本能的にシンメトリーなものが美しいと思って
好意を寄せるようです。
顔立ちや身体を総合的に見たり、あと、キスした時に唾液の感じで
免疫力や相性を感じるという説もあります。
あ、それは脱線しすぎかな。
無駄を無駄と呼ぶか否かは、その人の価値観に起因するものだし
無駄な物などないと言う人もいるし、まあ、その辺は柔軟に感じて生きたいものです。
ただ、突き詰めて、自分がどう感じるかのみに的を絞った時
その無駄に喜びを見い出すのか、虚しさを感じるのかだと思います。
>ゃゃさん
まあ、俺は物事悪い意味で考え過ぎてしまう人間ですから、、、。駄目なのですが、、、。
うん、、、。「美」というのは観念的な物と本能的なモノと分かれるから一概には言えませんね、、、。
まあ、それ以前に俺は恋というモノをした事が無い欠陥人間なのですがねえ、、、。
無駄というモノは難しいですよね、、、。価値観もあるけど、経験や知識もありますから、、、。
まあ、人間、、、。無駄なものと言えてしまうモノが少ない方がいいような気がするのは気のせいでしょうか?
確かに、喜びや虚無感と言うのはとんでもない差だと思いますね、、、。
でも、俺はどっちも感じ得るんだよね、、、。矛盾していく存在とも言えるのではないでしょうか?
喜びに行き過ぎてしまえば、キリスト的な教義に飛びついてしまうような気がしますし、、、。
虚無感に行き過ぎてしまえば、ニーチェ的なニヒリズムに取り憑かれてしまうような気がします、、、。
おれらはむしろそれらを一々意識しない事でしか、存在しえないのではないのでしょうか?
俺は確かに思考者ではあるけど、、、。思考しないようにしている時は常にある、、、。
その刹那、刹那を何かしら集中して生きていく事によって、あえて無視している、、、。
気にしはじめたらキリがない、地獄に堕ちていくとも言えます、、、。
何が正しいかは問う事は全くできえません、、、。見いだせない事が最も正しいのではないのでしょうか?
見いだす必要は無いし、見いだせるほど俺らには完全に近い思考なんて持ちえるわけがない、、、。
どこかしら、常に穴があり、、、。穴に嵌る事で巧みに生きている存在なのだともいえます、、、。
拡大していく論理には、同時に穴も拡大していき、、、。
それが、全ての論理を創り続けているとも言えるのかもしれません、、、。
まあ、どうでもいいことですがね、、、。
はあ、駄目だな、、、。
俺はね、特殊な権利と言うのを認めない存在で、、、。
そういう、団体が説く常に「不当」「圧力」と言うのは、、、。
時と場合には常識の「圧力」や彼等の自身の知識の「不当」差も入っている事を忘れてはならない、、、。
俺は「権利」この場合、個人の「権利」がある程度重く考えられるようになった事は非常に重要な事だ、、、。
これは「民主主義」上、「絶対的価値観」であると言えると思います、、、。
資本主義は「自由権」は持たされていても、「社会権」の概念はまだ入っていないのです、、、。
民主主義はこの二つが満たされる事によってなっているのです、、、。
だから、障害者団体が「権利」を叫ぶ事には全くを持って問題はないのですが、、、。
だが、ここでもっとも重要なのは、「世間的常識」というのが最も重きになる、、、。
例えば、ハンセン患者が宿泊所に予約しても、普通に予約を断ってしまうのは、、、。
それには「世間的常識」が重きに行くからだ、、、。それは否定できない、、、。
俺らには「穢れ思想」というものがあると言われているが、、、。それはどのような民族でも持っているだろう、、、。
〜人は野蛮、〜人は醜い、〜障害者は気持ち悪い、という先入観は誰もが持っている、、、。
それは否定できないだろ?俺らは「人道主義者」ではないし、「人権主義者」ではないからだ、、、。
違う例を出そう、、、。普通にハンセン患者でも受け入れると言うホテルがあったとしよう、、、。
なら、そのホテルに泊まりたいと普通は思いますか?思わないでしょ?いやでしょ、もし変な存在がいたならが、、、。
これは偏見と言い切ってしまうなら、構わない、、、。それこそ「常識」なしだからだ!
普通のホテルなら、うまく健常者の予約が入っていない日に入れようと当然思うでしょ?
それは主に「健常者」にたいして商売をしているからだ、、、。「異常者」にたいしては主には商売しない、、、。
ねえ、アメリカを中心に考えてはいけないよ、、、。当然でしょ?
俺らには「権利」とかいう造られた物よりも、自然にできた「世間常識」が最も正しいのだから、、、。
まあ、どうでもいいことだがね、、、。はあ、駄目だな、、、。
逆に言えば、日本と言う国は永遠に民主主義なんてできるわけがない、、、。
それは、「権利」などが一番重いと考えられてはいないからだ、、、。
彼らは、常に請求権とかを主に重く考えられている、、、。それに自由権だ、、、。
俺らは違う、「権利」という概念より、、、。常識が一番重い、それは何度も言う必要は無いな、、、。
俺はね、一番の問題はそのような日本では適用する事が無い概念を適用させようとした人に一番問題がある、、、。
と考えている、、、。逆にハンセン病者は永遠に隔離されていた方が幸せだったと思う、、、。
勘違いしないでくれよ、常に小さなたこつぼの世界で暮らしていた方が幸せだったと言う考えだ、、、。
ちなみに、この意見を否定できる日本人は自分はいないと思うね、オタクならなおさら、、、。
隔離されて、外界に接触させることなく生きていった方が平穏で無事であった、、、。
彼等はその空間で満たされていた、満たそうとしていた、、、。それを西欧気触れが破壊したのだ、、、。
何という傲慢か!自由とただの無拘束を錯覚し、外界を知らないハンセン病者を騙したのだ!
彼等は確かに自由になった、、、。だが、自由の代わりに彼等は何を得たのか?
結局は、些少の見舞金と実社会では何にも役に立たない「権利」だ、、、。彼等はそれを知ってしまった、、、。
だから、彼等は団体を悪用して自分達の「権利」が意味あるかの如く見せかけているんだ!
社会に迷惑かけて!恥も外聞も分からないクソ野郎共を西洋気触れは造ったんだよ!
なぜそれを大多数の「健常者」は怒り、逆襲しないのだ?
裏切り者の「健常者」である西洋気触れをなんで殺さないんだ?全うなしそうなんてないのになあ、、、。
俺の言説は確かにイカレテイル、それは正しい、、、。だが、お前にもその部分がいる事を忘れるな!
故に人と言う生き物は面白いから、俺はおいそれと死ねねえんだよ哀しい事になあ、、、。
まあ、どうでもいい話だ、、、。まあ、駄目だな、、、。
と言う存在もいれば、、、。やっぱり「人権主義者」としての自分もいる、、、。
どうやら、障害者と言う概念が広くなり過ぎたし、異常ではないという考え方がなくなった、、、。
逆に言えば、全ての人間は異常者であると考えが主な考えになって来たんだと思う、、、。
心理学では自分をカウンセリングするという事があるみたいだけど、、、。
どこかしら、おかしい部分が出て来てしまうんだとさ、、、。なんでだろうね?
俺が構築してきた学問は異常者というモノを造り過ぎてしまったんだと思える、、、。
なんで造ってしまったか?それは、思考するための余裕を持たせてしまった事にあるのかもしれない、、、。
例えばだ、俺らは哲学を知らない人間を馬鹿にしたり、見下げたりする事を普通になすが、、、。
それは、傲慢だ!と言えてしまう、、、。なぜなら、哲学は余裕の上で成り立っているからだ、、、。
誰もが哲学が為せる時代と言うのは非常に余裕がある時代だけだ、ギリシャ、現代しかあがらないだろう、、、。
後は時代性を裏付けた思考によってできた思想と言うのが一番多い、、、。
大抵の有名な書物と言うのは時代的に余裕が無い時代が多い、ニーチェにしろ、デカルトにしろ、、、。
複雑な情勢の変化が常に押し迫っていった、、、。考えるより行動!という考えは最も正しい、、、。
思考は行動の前を行っては本当はならなかったし、なりえなかった、、、。
又、日本人の自殺が三万とか多いのは、、、。日本人の真の意味での余裕の時代と言うのは、、、。
今!初めてきた!とも言える、、、。江戸時代と言っても、確かに平和であったといえども、、、。
食料情勢は余裕を持ちえている時代ではないし、内乱は無くとも、飢えや一揆などざらにあった、、、。
でも、今はそのような事を考えている人は0に近い(本当は最も気にせねばならない事なのだが)、、、。
そこで生じた余裕が日本人に初めて「生きているって何?」という一部の人しか考えなかった、、、。
事が、普通に考えられるようになった時代と俺は考えるのだが、、、。
逆に、日本人が楽しみを失ったとも言えるのかもしれない、、、。それまでが真剣すぎたんだな、、、。
続き
「真剣であったから、日本はここまでのし上がれたんだ!」とおっしゃる方もいるでしょう、、、。
はい!ごもっともです!ごもっともだから、俺は考えてしまうんだけどね、、、。
俺らの時代には夢とか、先とかを考える事ができない時代に入ってしまったんだと思う、、、。
所謂、満たされきってしまって、、、。全てが停滞状態に入ってしまった時代、、、。
一部の人が喜びそうな言い方をすれば、、、。「ポストバブル」の時代ナノだと思う、、、。
何と言えばいいかなあ、下品だけどマスターベーションをした後の虚しさと言えばいいかなあ、、、。
遅濡のガキが一生懸命に「アレ!」を思いっきりしごいて、そのしごいた分だけの虚しさ、、、。
うわ〜!想像したくねえ〜!今、想像してえらい寒気がしたぞい真面目に、、、。
まあ、話を戻して、、、。この場合の楽しみと言うのは上にあがる楽しみ、、、。
全てが頭打ちで、マスコミがどんな嘘を垂れ流しても「嘘だ!」と分かる世の中になった、、、。
それはいい事だとは思うが、、、。だが、煽動される人間が少なくなってしまったんだと思う、、、。
まあ、一部のクソつまらない存在すら意味があるか分からん「馬鹿」「気違い」が日本の名を汚しているけど、、、。
まあ、彼等はまだ上に上がる目的を持っている生き物だから許す寛容性をと言っといて、、、。
彼等以外の、今のまともな人達は疑問詞に囲まれているだろう、、、。
なぜ?何?どれ?どこ?誰?と自分を自分の手で追い込んでいる、、、。そこから逃げるために、、、。
思想が用いられたんだ「人権主義」「似非民主主義」「平和主義」等だ、、、。
でも、彼等は真剣に叫んでいる、、、。その存在を疑わずにな!
だが、故に正しい、、、。彼等はそれを「信奉」して突き進めば為せると信じているからね、、、。
彼等は一生懸命理想を求めて生きているんだよ、故に彼等はおかしくはないんだよ、、、。
だけど、思想で求めればそのような「形」になる、、、。俺は思考を求めている、、、。
そうさ、そうやってわざわざ矛盾を起こそうとする、、、。まあ、どうでもいい話だ、、、。
はあ、駄目だな、、、。
ゃゃさんとあって話してみたいねえ、、、。といっても俺は醜男だからなあ、、、。
人と合わせるような面ではないからなあ、、、。
そういえば、俺の住んでいるところは深沢あたりといっておこうかな、、、。
チャリ機で246をかっ飛ばせばあっという間に池尻さ!って、、、。
アホな事を言って寝るかな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
昼でよければおーけーだよ。
お茶でもしましょうか?
私のアドは何度か晒してあるから、誰からのメールでも大歓迎です。
レス番325にありますので
本気ならメールください。
書けるかな、、、。
>ゃゃさん
送りましたが、どうでせうか、、、。
http://www.haken.co.jp/haken/profiling.html というので、適正診断をしてみたんだけどさ、、、。
『他人を助ける』『夢見る』『考える』 気質なそうな、、、。
良い精神状態の時
情愛深い・適応できる・心が広い・面倒を見る・心温かい・思いやりがある・表現力が豊か
独創的・分析的・賢明・客観的・洞察力がある
悪い精神状態
遠回し・独占したがる・ヒステリック・感情的・意気消沈する・自意識過剰・片意地・気まぐれ・意固地
よそよそしい・あら探し好き・内気・消極的
性格
困っている人をほっとけない世話やきタイプ。常に周囲に気配り、豊かな愛情を注ぐ温かい人柄は、
多くの人から愛される。
豊かな感性を持つ芸術家タイプ。音楽や芸術を愛し、エスプリに富んでいる。深い情愛で他人と接し、
心温まる関係をつくることができる。
コツコツと調べるのが好きな研究者タイプ。鋭い洞察力と深い理解力がある。富や地位に執着せず、
人生の意義深さもよく理解している。
注意
自分が注いだ愛情に対して、無意識のうちに相手に代償を求める傾向があり、相手がそれを組み入れてくれないと、
逆に怒りとなって激しく攻撃する場合がある。
自分が周囲に理解されないと、自分を悲劇の主人公に仕立てて無気力で退廃的にになり、
殻に閉じこもってしまう場合もある。
物事を頭の中でのみ考え、行動力がない。人と協調することが苦手で、他人に対して挑発的、敵対的になることもある。
仕事の部分は省くけど、、、。
そうとう矛盾しているなあ、、、。俺さこういう適正テストとかをするとすぐに矛盾を起こす、、、。
何というか、全ての基準を自分の手もとにあると考えているからなのかもしれんが、、、。
簡略化すれば、、、。世話焼きで芸術家で研究者、怒りやすく引きこもりでオタク、、、。
後者は俺の全てを非常にうまく当てはめ手いるからいいんだけど、、、。
前者はありえないだろ〜、、、。これが解釈の大いなる違いと言うやつですかねえ、、、。
人はどうやら自分と言うモノを自分で見ようとすると、、、。大抵二つに分かれ、、、。
肯定的か否定的の二つに分かれる、、、。俺は否定的にみるからだけどね、、、。
否定的に見ると自分の中にいる「負」の存在しか見えなくなる、、、。これが単純に厭世家を作るのだが、、、。
それはいいとしても、、、。
俺らは俺自身と言うモノが見いだせる事はできない、、、。
といっても、客観的事実と言うのが全てを表すとは断言しうるとは俺には言えません、、、。
客観性と言うのはどこかしらの主観性によって守られている、、、。
主観性と言っても、それは悪い意味ではないですが、、、。
又、同じようにその主観性はどこかしらで客観性によって守られている、、、。
ここで簡単に矛盾していく、、、。そうか、俺は矛盾体なのだな、、、。
でも、矛盾しないそれが人間だからだ、、、。
ああ、複雑だ、、、。恐ろしいなあ、その行為は死ぬまで終わらないんだな、、、。
まあ、どうでもいいや、、、。はあ、駄目だな、、、。
生きると言う事は先が無い矛盾体であるなら自分はどこに行くのだろうか?
死も結局一つの通過点に過ぎないのであれば、生と言うのはどういうモノなんだろうか?
結局はただのスタートラインか?もしそうならただのスタートラインの上で俺らは何、愚痴ってるんだ?
辛いとか、悲しいとか、楽しいとか、怒りとか、何もかもが無意味ではないか?
そもそも、俺らが求めている生きる意味だとか、証明だとか、、、。んなもん見つからんだろ?
先にいこうがあるわけでもない、今見つけようとしてもあるわけではない、、、。
結局は全て失った時にしか分からないんだろう、自分の存在と言う物がな、、、。
喪失しなければ俺らは何でも見いだす事はできえないんだ、、、。自分の心を空白にしなくては、、、。
何もでて来る事なんてないんだよ、、、。フッとした喪失感が俺の救いなんだよ、、、。
証明の有無なんて全くを持ってどうでもいい事なんだよ、、、。ただ俺らは生きる、、、。
又は生きていくだろう、、、。その先には答えなんてあるわけがない、、、。
なんで俺らは何かを見いだそうとする意志に侵され続けているんだ?科学なんてない、、、。
生きる事を科学的にしようとしても、限界を見いだす事ができると言うわけではない、、、。
限界を求め続けるのが人の業なら、その限界なんて存在しないんだよ、、、。
大きい物へ、より!より!!小さい物へ、より!より!!と言うのを繰り返していくだけなのさ、、、。
そのような意志だけが一方的に肯定されるのなら、どこにも生なんて存在しないね、、、。
否定し、肯定し、背負い続けるのが生への意志なのだ、よって同時に俺らは死んでいる、、、。
意志を求め続ける人間は、その「意志」に精神を独占され自分で自分を殺しちまうのさ、、、。
自分をその「意志」で全てを見たして、他の自分の存在を消しちまうのさ、、、。
独りの「意志」に取り憑かれてしまった瞬間、人は死ぬ、、、。その先には、何があると思う?
孤独で寂しい空虚なんだよ、、、。だが、俺らはそれを求めて奔走しているんだ、、、。
寂しいよな、、、。人と言う存在はさ、、、。
まあ、どうでもいいことだ、、、。はあ、駄目だな、、、。
俺の言葉はなんの意味を為す事無く綴られていく、、、。
言葉と言うのはそもそも意味をなさないモノだったんだろうか?
いいや、そんな事はあるわけがないだろう、、、。作り出されたモノには意味があるはずだろう、、、。
結局は貶めているんだよ、価値も意味も全てをだ、、、。全くを持って無価値なモノと叩き込んでいるだけだ、、、。
でも、このような議論はどこにも答えは存在するわけが無い、、、。
ただ時代の変化と言う網によって言葉は消えていってしまうんだ、、、。
そうやって、俺らは古典を消し、候言葉を消していき、訛りを軽蔑して来た、、、。
時代とはなんだ?歴史と言ってしまえば、歴史になるんだろうが、、、。なら人はどこに行き着くんだ?
時代によって歴史を語る事はできる、だが人を語りきれるのだろうか?
まだ、経験者がいる時代の語り方なら人を語りきれるかもしれない、、、。しかし、それは主観だ、、、。
結局は人を語る事はできえないんだ、、、。歴史からみた人と言う主観ならありえるかもしれないが、、、。
なら歴史は人か?人の結集とは言えるが、その存在自体が人と括れるのだろうか?
血脈があって、肉があって、骨がある存在なのか、歴史自体がだよ、、、。
今の俺には若々しい肉があって、強固な骨に守られて、生暖かい血が流れ続けている、、、。
五十、六十経てば、老いた汚い肉と弱々しい骨と冷たい血が流れる存在になる、、、。
歴史はそうなるか?歴史は常に刷新され、解釈に埋もれている存在ではないか?
人間の思考の結晶とは言える、、、。肉自身ではない、肉のように解釈しあっているだけだ、、、。
そうさ、俺らは歴史と言う肉のようなものを喰って、人それぞれに味が違うと殴り合っているだけさ、、、。
歴史は肉じゃねえのにな、薄っぺらい思考には味なんか付いているわけがねえ、、、。
そう思い込みで喰っているんだよ、、、。うまいだろ?思い込みと言う自分自身の肉がな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
空間を歪めようとして意識して見ると中々曲って見える物だ、、、。
俺の存在が見える、、、。歪めて歪めていけば俺と言う物がまっすぐに見える、、、。
しかし、それは「気のせいだ」俺の視点が何かに歪めて見えるただの「錯覚」だ、、、。
ちなみに、俺はよくぼーっとして何も考えない事をよくするんだが、、、。
その後には色んなモノが驚くほど気付く、電車、車、家、人、だけが続いていく、、、。
人?そうか俺も人だ、、、。ここにまぎれて普通に通学して、普通に生きている存在だ、、、。
地球と言うベクトル上をXやYの方向に一つ、二つの律を持って動き続けている存在さ、、、。
適当と言う当、当と言う適当を所持して、、、。当に生き続けている普通の存在だ、、、。
どこも変わった事は無い、季節が変わったように見えるだけで人の行動は死ぬまで律をとっていく、、、。
これを無力、没個性というならそれは当たっているだろう、、、。逆に全てが有力で個性的だ、、、。
日々が違う天気、違う温度、違う空間、違う空気、違う自分というのが存在し続けている、、、。
なんだこの人間の無闇矢鱈な矛盾への意志は?どこにも当が存在しない、、、。
事が同時に全てに置いて当を所持していると言うその考えはどこから産まれて来たんだろうか?
矢張り、女性の膣からか?メスの膣からか?卵からか?それとも太陽エネルギーか?
どこにも、これと言うモノが無いではないか?それともコウノトリが運んで来たのか?
思考は脳から産まれて来ているのか?なら、脳と言うのが全てを持ち合わせているのか?
生物学的には今んとこそんな感じだろう、、、。学問が正しいのか?
ただ、客観的事実という真理のように見える、モノに俺らは頭を下げているだけではないか?
頭を垂れて、奴隷の如く科学、技術を信奉し自分の目を潰す、、、。素晴らしいギャグだ、、、。
そうさ、生きる事全てを笑って生きていかなくちゃ見いだせる物はないんだろう、、、。
真摯に生きたら、何も無いような気がする、、、。俺の勝手なもうそうだがな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
こうやって無駄に文章を徒然と書き上げていくと何も無い事に気付く、、、。
おれが何かあると言う存在ではなく、何も無いから仕方なくあると言う存在に過ぎない事に気付く、、、。
仕方なくある、、、。結局は俺らは第三者による認証のうえで存在し続けているような物だ、、、。
俺の文章も、この空間も、何もかもが第三者による監視の仕合によってなりえている物だ、、、。
ちなみに、仕合わせというのは天運などを差すらしい、、、。運命は強いと言う事か、、、。
なら、運命と言うのは何だ?全ては偶然性の上で守られている孤独な存在ではないのか?
共通化できるような運命なんて存在しやしない、、、。一秒一秒違う時間に生きている、、、。
一秒一秒、流れ同時に刻む、、、。刻むと言うのは時計が刻む事なんだろう、、、。
結局、今と言う存在を分かりやすくするために俺らは時計というモノを開発したが、、、。
俺らは時間というモノ自体に恨む事を止め、それを刻む事を強制する時計を恨むようになった、、、。
俺らが憎んでいる時間と言うのは流れとしての時間でなく、刻みとしての「時計」を恨んでいるんだ、、、。
何という愚かさだろうか?時間ではなく、時計と言う存在に全ての罪をなすり付けたのだ!
科学や技術というモノの上でね、、、。時間はただ流れて塞き止める事ができない物だ、、、。
しかし、時計はできる、、、。止めたり、刻ませたり、早くしたり、遅くしたり自由自在だ、、、。
だが、俺らは完全にそれを忘れきった、、、。時計を戻すには時計を用い、、、。
それ以前の時間と言う存在を忘れきったんだ、、、。何とおめでたい事か!
時計を時間と考え、時間と時計との差を完全に忘れきった存在それが人か!なんというギャグだ!
この世はお笑いで満ちている、、、。ギャグと現実を忘れ、妄想を恐れる人が増え過ぎた、、、。
妄想を見続けろ!仕合わせは無くとも幸せはある!そして、全てを消しちまうんだ、、、。
なぜなら、俺らが求めている物は仕合わせではなく、幸せだろ?なんで妄想を否定するんだ?
それが、お前らが求め続けた幸せなんだろ?違うのか?違う分けねえだろ!!!
そうやって、何もかも忘れ続けて何が仕合わせだ?お前らはお前ら自身で思考を捨てたんだ!
思考を捨て続けて生きろ!豚の如くな!はあ、駄目だな、、、。
精神異常者の壁はどこかの心理学者のおかげであまりにも低くなり過ぎた、、、。
簡単に飛び越える事ができる、、、。
俺の精神異常は普通の中に溶け込める部分と溶け込めないところがある、、、。
所謂、その異常差がネタとしてギャグになれる所だ、、、。使いどころを弁えないと引かれるがな、、、。
もう一つは溶け込めない、溶け込ませたら絶対に人を襲うような鋭利な刃物みたいな物だ、、、。
人の精神にはそのような溶け込んで奥底で沈澱して、煮詰まっているんだ、、、。
美味しくね、、、。元々、異常性を簡単に肯定できるような空間になってしまった気がする、、、。
俺らはメクラとかツンボではなく、障害者とちゃんと言いなさいという空間で育った、、、。
障害者、異常者が肯定的にとらえるような社会になって来たと言うが、、、。
それは嘘だろう、、、。肯定的ではなく煽てで自尊心を膨らませているだけだろう、、、。
奴らには奴らなりの独特の社会が存在しており、その独特な社会を保護しあっていた、、、。
だが、それを完全に崩壊させたのは民主主義とも言える、、、。西洋気触れがな、、、。
差別を否定する事が最も大きな差別を産み、差別を社会に溶かす事によってなれんできた空間を、、、。
思いっきり打ち壊したんだ、、、。差別を産ませたのは「民主主義」だという事を忘れるな、、、。
民主主義は俺らを守る事なんてしないぜ、、、。俺らを守り続けたのは常識と習慣さ、、、。
思想なんて結局はご都合主義者による、まやかしに過ぎない、、、。
民主主義が正しいと信奉して実際は村社会を形成して、マスターベーションにふけっているだけだ、、、。
どこにも「自由」「個人」なんてモノが見えない、、、。常に俺らは社会のまないたにいるんだ、、、。
社会は俺らを狂気の空間に叩き込めるようによういされているんだ、、、。
それが、民主主義と言う狂気の空間さ、、、。笑えるよなあ、何信じて来たんだか、、、。
弱々しくて、哀しいな、、、。集団が創り挙げた思想と言うのは、、、。
まあ、駄目だな、、、。
愛とはなんだろう、、、。漠然とした生の上で踊っているモノなのだろうか?
それにしても、なんで俺はそんな事を思い付いたのだ?なぜだ?不思議だ、、、。
考えが思い付くと言うのは不思議な行為だ、、、。思い付く必要なんて全くないのにな、、、。
考え付く事によって人は孤独と言うのを深化させていったのではないのだろうか?
肯定への意志と否定への意志が対立しあう事によって、俺らは考え、思考というのを日々生み出して来た、、、。
だが、その限界は今もなお止まる事無く続いていき、、、。形を捨てていくような気がする、、、。
なら、形と言うのはあったのだろうか?俺らのこの目の前にあったのだろうか?
人は進歩と思考の深化を続けてきた、、、。この二つには今んとこ限界はなく続いてく、、、。
俺らはこのニヒリズムの先に俺らは何かを見いだせるのだろうか?むしろ、そんな物があるのだろうか?
このニヒリズムの先には何億本もの道が無闇に続いていく、、、。一秒先が常に未来だ、、、。
この一秒、一秒の間に俺らは何億本の道を取捨選択を毎日毎日繰り返しているんだ、、、。
無闇に続いてくこの未来と積まれていく過去との中間点で踊り続ける自分の生、、、。
どこへ行くのだろうか?その先には?絶対的な死か?分からない、分からない、、、。
どれもこれもが言葉として表すには適切すぎる、、、。適切すぎるのだよ、、、。
どれもこれもが言葉として表すには間違っている、、、。間違っているのだよ、、、。
どれもこれもが言葉として表すには言葉の力が弱すぎる、、、。弱すぎるのだよ、、、。
言葉は一瞬でありながら、その言葉が価値を積んだ際、、、。言葉は残り続ける、、、。
語られ、彎曲され、間違いと潰され、正しいと崇められ、、、。どこへ行くのだ?俺らは?
俺らには文とこの生きている間しか見えない、、、。何と狭い存在だろうか?
この一時を全時と考え生き続けている、、、。一時にしては短すぎるんだ、全時では長すぎる、、、。
どこに行くのだろう?俺らは時間の放浪者、行く当ても無ければ行く先も無い、、、。
ただ、死ぬまで歩くただの奴隷、、、。愉快だな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
結局、俺が追い求めているのは自分を神経的な世界に追い込んでいるだけではないか、、、。
神経的な世界に自分を追い込んで自分自身を潰す事に走っている、、、。
俺は馬鹿か?いや、俺は馬鹿だ、、、。自分の崩壊を自分が最も求めているのだからな、、、。
俺らは俺というモノをいつの間にか追いこんで追い込んで追い込み続けているんだ、、、。
ビルの谷間の端に俺の精神を追い込んで、まるで強制的に戦わせているんだ、、、。
何も戦うモノなんてねえのにな、、、。戦いを望む方がイカレテイルのかもしれない、、、。
そのイカレタ精神が気持ちいいと前に言ったが、俺は俺を追い込んで俺自身を殺すよう強要している、、、。
でも、俺は殺された事はあるか?俺は殺されてはいない、殺した方だ、、、。
そうか、、、。俺が追い込んだものは俺より弱い者だけなんだ、、、。
子供、偽善者、障害者、、、。俺は、こいつらに毒を飲ませたり、撲殺した、、、。
こいつらの腐臭が俺の精神に満ちているんだ、、、。ちなみに、ガキは当然犯してからな!
俺の心の奥底に寝ている矛盾とはこいつらの腐臭なんだ、、、。一生消える事無いな!
生き返す事はできなくはないだろう、その記憶をわざわざ消えさせて、、、。
元の状態になおす事はできるだろう、、、。だが、そしたらその記憶がきえない俺の精神はどうなるんだ?
そうさ、最高の矛盾した構造を持つイカレタ存在として、、、。
黄色い救急車に運ばれるだけさ!そうやって俺の精神は隔離されるんだ、、、。
わざわざ、俺を俺の手で隔離し、見えなくするんだ、、、。でも、みじみ出るんだよ、、、。
その狂気がな、、、。面白いだろ?人と言うのはそのような衝動を持って生きている、、、。
永遠に続く矛盾構造を望んでんだ、、、。そうやって自分自身を背負う事を俺は望んでいる、、、。
俺は馬鹿だ、、、。一々俺というモノを背負わせるように自分にかしているんだ、、、。
嘲っちまうよな、、、。俺の意志、意図が見えない事が俺の幸せか、、、。
はあ、駄目だな、、、。
今日、図書委員で図書館に行って返却の仕事をしていたら、、、。
返却されるはこの中にイラク戦争の時の写真集があって、何となく見ていたら、、、。
愉快なほど、死体が沢山出ててな、、、。にやっと笑ってしまった、、、。
そうか、人は死ぬとただの肉片になるんだな、、、。赤いただの肉片、、、。
形あるのはまだいい方だ、ただ赤い液体と肉片に変わってしまうのが写っていた、、、。
肉片には意志はない、俺もただの肉片だ、、、。意志が死んだ瞬間俺は肉片に瞬間的に変化する、、、。
だが、俺と言う存在はこの肉の何処かにある、それは否定できない、、、。面白いな、、、。
俺らはこの肉片に愛や正義や常識を叩き込んでいるんだ、不思議だな、、、。
俺らはこの肉片にも人間と言う価値を与えようと意識している不思議だな、、、。
俺らはこの肉片に一々、悲しんだり、喜んでいるんだ不思議だな、、、。
安心な肉を得る方法はそこらへんに歩いている人間を殺して肉に変化させればいい、、、。
俺らが怖がっているのはその肉の中にある意志だけだろ、その意志に一々恐怖してるんだ、、、。
不思議な物しかないんだな、机を机としていつの間にかそう意識する事を自分に強要している、、、。
人間は人間として、猫は猫として、車は車として、無意識の中に意識を叩き込んでいる、、、。
例えば、オタクというモノは無意識な物を意識的にして快感と興奮に変えているんだ、、、。
俺らの空間には無意識の内に承認を得た物がそこら中に存在している、、、。
俺らはその存在に一々懐疑性を持ちえない、無意識の承認をしているからだ、、、。
安心して、過剰に信用しているんだ、、、。全ての存在を決めつける事でな、、、。
当然に、人間と言う肉片にも、、、。そのような承認を与え、意識的にそれを喰う事さえもある、、、。
それが人だ、、、。恨みの相手の肉を喰う事で復讐を完了させる支那風にはな、、、。
解釈によって、その存在は守られ承認されている、不思議な話だ、、、。
どこにもその解釈が正しいとしていないのにな、、、。
まあ、どうでもいい事だ、、、。はあ、駄目だな、、、。
俺は俺の手で孤独に縛って生きて来た、、、。
自分の手で涙も無くし、自分の手で怒りを殺して来た、、、。
その先に何があったか?結局は俺の手による孤独を構築してきただけだ、、、。
人との何かを消し続ける事で俺を創り続けてきたんだな、、、。
そういえば、小学六年生が同級生をコロスケしたと言う話しがあったけど、、、。
これの原因をネットになすり付ける馬鹿な話を相変わらず聞かせてもらったけど、、、。
結局、ガキにやらしていいもんではないと言う事だ、、、。
全てがアングラに隠され、表は穢されないような空間を俺らは求めて来ているんだろ?
世の中ってそんなに不純な塊だったか?全てを裏にして消しちまえばいいという妄想でできてたか?
殴り合って、泣きわめくような喧嘩を小学生の頃、俺はよくやったもんだ、、、。
俺には殺してしまいたいと言う欲求は分かる、、、。だが、なんでそれをストレートにやる必要があったんだ?
結局は何も分かっていなかったからでしょ?
嘘を嘘だと分からない人には掲示板を使えないようなもんだ、、、。
だから、子供は真摯に受け止めてしまう、、、。なぜ?単純だ、分からないからだよ、、、。
本気と冗談とその場の怒りと続く怒りと分かんなくなっているからだよ、、、。
特に俺みたいな下手な文章を書く人間の感情なんてよく分からないのと同じ差、、、。
顔と顔を見て、喧嘩しなきゃ分かんねえんだよ、感情なんて、、、。まあ、結局は少しは親の責任だが、、、。
ほとんどはそのガキの責任だろう、コロスケしてしまったのはそのガキだ、、、。
社会の責任とかさ、一々なすり付けるなよ、、、。結局は本人の気違いのせいなのだからな、、、。
少しは社会とか、親とか関与してもそれは全てではない、、、。特異な例を全てと思うな、、、、。
それが、常識というモノではないのか?そうだよな、てめえらはそうやって捨てて来たのだからな、、、。
まあ、どうでもいい話だ、、、。はあ、駄目だな、、、。
以下、メールへの返信・・・
あはw
私のISPもイッツコム。
夢板にイッツユーザー発見したの3人目だ。( ´艸`)ムププ
・・えーっとじゃあどうしよっか。土日のどちらかというのは決定として。
場所やなんかを決めるのってなんだか苦手で・・
なにかいい案ある?
時間としては、1〜2時あたりキボン。
>宮台先生はね、若者にしか言葉を傾けていないの「自由」なね、、、。
ふむふむ。。なんとなく言わんとしてることは解るよ。
知識は豊富だし、頭脳明晰なのだけど、たまに幼稚さが顔を覗かすのは
狙っているのかしら。まあ、完璧な人なんかいないから、そこ突付いちゃダメだね。
具体的な日時なんかはこれから決めて行きましょう。
私に任せるといつまでも決まらないので、プランがあれば是非。
んじゃ! ノシ
>ゃゃさん
日時は2時位なら、明日や明後日でも可です、、、。
場所か、、、。駅で待ち合わせて、、、。
池尻、三茶のマックで話すとか、ちなみに俺の行動範囲は、、、。
自由が丘、中目黒、渋谷、二子玉川、三軒茶屋、駒沢大学あたりかな、、、。
ちなみに、土曜日だと学校が終わって直で行く形になるから制服のまんまになりますね、、、。
日々、普通に生きていると色んな物が見えるような気がする、、、。
特殊な思想なんて用いなくても、俺が生きていると言う行動は何も変わらない、、、。
なんで俺らは何かを一々、特殊化したがるんだ?普通の日々さえもだ、、、。
一般性を俺らは拒否して生きていくんだ?俺らが平凡な存在に過ぎないと言う、、、。
特殊性によって守られていると言うのに、、、。なんであからさま特殊を望むのだ?
俺らは特別な存在であり、同時に平凡な存在と言う矛盾しながら、矛盾しない、、、。
という驚くべき事象を自分の中に取り入れている、不思議な話だ、、、。
しかし、この不思議性も人間と言うモノの中に取り入れられたら、、、。
「一般」「普通」という言葉に直されると言う、矛盾を持っている、、、。
人を殺す事で、自分の特殊性を出そうとするモノ、、、。
新たなる思考で持って自分の特殊性を出そうとするモノ、、、。どこに差があるんだ?
自分を特殊な存在にしようとする意志だけが共通的な物としてあるんだ、、、。
俺らには希望、欲望、欲求という、強い意志によって守られているんだ、、、。
俺らの生と言うのはこの強い意志によって俺らは生と言うのを満たしているんだ、、、。
だが、同時に俺らは無意識の内に死というモノに導かれているんだ、、、。
この矛盾によって俺らは守られているんだ、、、。
断定されない事で俺らは生と言うのを保持しているんだ、、、。
哀しい生き様、、、。何も分からず、何も理解する事無く死んでいく存在、、、。
まあ、どうでもいいや、、、。
はあ、駄目だな、、、。
>>46 こんなに晒してるとヲチられそうでこわひ・・キャー
今月末の土曜2時、三茶マックでどうでしょ?
>ゃゃさん
一様、問題はないです、、、。ではその日にと言う事で、、、。
いやいや、そんな事で落ち合おうと言う、興味が強い人なんてめったにいないと思いますよ、、、。
零とは言えませんがね、、、。
酒を飲んで色んな事を考えると、少しういたような感じをしているから、、、。
文章になっていない、文章を書き続けてしまうと言う状態になってしまう、、、。
おかしな話だ、文章になっていない文章と言う下らない、文脈ができるんだ、、、。
言葉と言うのは非常に矛盾していくモノだ、思想も思考も全てがだ、、、。
でも、俺と言う存在は自体は矛盾しない、、、。俺と言う存在は社会空間と言う上で保持されているからだ、、、。
権利や義務や戸籍謄本上で、俺の名前はしっかりと刻まれ、残されている、、、。
この名は死ぬまで、俺と言う肉が火葬によって燃え尽きて骨になるまで残されている、、、。
戒名、所謂このよとあのよとの差を克明に表そうとしている物だ、、、。
現世の名とあの世の名は違う、あの世と現世の俺と言う存在は違ってしまうんだ、、、。
いや、現世でも相当違う、生きている間分け分からない人によって解釈され続ける、、、。
優しい、偽善者、怒りっぽい、冷たい人、皮肉屋、分け分からない人と解釈される、、、。
どこにも俺と言う存在をしっかと表している言葉なんてどこにもありやしない、、、。
真とは?嘘とは?幻とは?結局は、相手を否定したり、肯定するために用いられる言葉群、、、。
どこにも無いではないか?俺と言うモノは、結局は信じる事しか無いのだな、、、。
結局は神への議論に言ってしまうのか?人と言う存在も、、、。
そうか、、、。どこにも無いのだな、俺と言う存在はどこにも、、、。哀しいな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
う〜ん、最近マンネリ気味だなあ、、、。
何を述べればいいのか全くを持って見つからない、、、。いや、まじで、、、。
議論のネタとかも、何も見つからないなあ、、、。本で得た知識を話しても仕方が無いし、、、。
といっても、どうせ話のネタとして何かをさがしても何もないんだよなあ、、、。
議論の相手が無い事が最近非常に辛い、、、。よく議論する先生とは最近合わないしねえ、、、。
テレビをつけても、年金とか、小六事件とか、どうでもいい話ししか出てこない、、、。
よくあるようなコメンテーターが相変わらずつまらない事を吐いて、それが全てと思い込んでいる、、、。
議論をしていってもつまらない人間がつまらない事しかほざかない人、、、。
最高にツマラナイ、刺激的ではないとかではなくて、、、。
あった刺激が消失した感じと言った方が正しいかもしれん、、。
何か、俺が求めていたものが全て諦観化して、傍観者として生きている気分だ、、、。
いや、俺の思考が最初に生み出したのはこの傍観者と諦観者の存在だ、、、。
そうか、俺と言う存在は輪廻していくような気分だ、、、。どこにもない、、、。
元々、求めてきたその最初に作り出したものに消えていく、不思議だな、、、。
人は心の故郷みたいなモノを求めて来ているのかもしれない、、、。
そうか、俺の心の故郷は傍観者としての俺なのか、、、。哀しい存在だな、、、。
色即是空、空即是色、無ではなく永遠に有としての存在、寂しいなあ、、、。
永遠に俺は有であり続ける、相手の存在を傍観していく事ができても、、、。
俺の生には傍観できないと言うこの重い業が俺には辛い、、、。死ぬまで続くんだ、、、。
いや、輪廻と言う概念が正しいのなら、死んだその先にも続いてくんだ、、、。
辛いな、いやだな、でも、消えてしまうのは寂しい気がする、、、。
はあ、駄目だな、、、。
革命は起きない、俺の精神は変わる事無く安定していく、、、。
歳をとる事によって俺の精神に寝ている何かが解けていく気がする、、、。
ただ、分け分からなくしていく気がしていく、、、。分析していくのだろうか?
分析されるのだろうか?俺のこの精神は歳をとるとともに解析されるのだろうか?
分からない、その際に第三者の哲学が使われるのだろうか?されていくだろう、、、。
でも、それは全てではない、、、。いや、全てであるわけが無いだろう、、、。
結局は、全てにおいて分からずじまいで何もかも分からなくなり喪失していくのだろう、、、。
俺はそれが恐い、ただ刹那的に生きていくだけで何も無い、、、。
生き甲斐も、人生の意味も価値も見つかるわけがない、この夕日の下では、、、。
俺は夕日のおかげで感慨を得ても、生き甲斐は寝てはいない、、、。
俺には見つからないのだ、、、。生き甲斐と言う指標が俺にはもうねえんだ、、、。
夢を見るのはその一時で、その一時が全てではない事に俺らは気付いてしまったんだ、、、。
俺にはどこにもいき場所が無い、消えてしまうのだ、、、。愚衆で根無し草だ、、、。
何という幸せなのだろうか?俺には道がないのだ、この先にもこの後ろにも、、、。
道なんて続いてねえんだ、俺は消失者だこの先にもこの後にもどこにも消失したのだ、、、。
背中にはもう雑草しか存在しない、俺の道は完全に消された、、、。残されてはいない、、、。
同時に前にも道は存在しない、雑草を刈っていく事でしか生きられないのだ!
でも、刈る意味が無い!俺の背中は瞬時に雑草で蒸されて消されてしまうのだ!俺の痕跡が!
俺は雑草の中を挟まれているだけなのだ、、、。この暑苦しい、緑の中をな!
そして、俺は雑草の中で俺の存在は収縮していってきえてしまうんだ、、、。
ハハハッッ、俺の存在なんてそんな物だ、愉快だな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
綺麗な満月が出ているなあ、、、。俺のベランダから隣の家の屋根まで五十?�、、、。
乗ろうと思えば乗れる、、、。だけど、この五十?�が恐いんだ、、、。
俺のアパートは丁度三階、たった三階が恐いんだよ、落ちたら、墜ちたら、、、。
俺の親父は何の問題なく、隣の屋根へ渡り堂々と空を望む事ができるのに、、、。
俺にはそれができない、ベランダで親父がこの空を堂々と見ている横で傍観しかできない、、、。
この違いが世代、時代、考えの違いなんだ、、、。俺らは安全を前提として生きてきた、、、。
俺の親父は何もない時代を生きて来た、俺の親父にはもしかしてというのを考える必要なく、、、。
生きてきた、俺らは常に何かしら安全という前提の上で生きて来たんだ、、、。
何という差なのだろう?このたった五十?�の差が重く感じた、、、。
この五十?�の間には時代、世代、考えを隔てとんでもなく長い感じがした、、、。
たった五十?�がだ、、、。俺はこの五十?�を超える事ができないんだ、、、。
この五十?�が恐怖であり、俺の生への安全欲求、全てを含んで生きているんだ、、、。
俺の親父は完全な「根無し草」だ、家族に期待される事無かった「長男」、、、。
アメリカへ渡っても、常に根無し草のように大学に通い、そして根無し草の如く休学して、、、。
日本に帰って来た、、、。結婚し今に至った、それでも根無し草の精神を保持している、、、。
何と強いのだろうか?この恐怖を取り除ききったこの経験の重さが親父の全てを表しているんだ、、、。
故に俺の親父は根無し草のまんま生きているんだ、この終戦後の真の重さが俺の親父が持っているんだ、、、。
俺のばあちゃんは真の凡人として、生と死の間の重さを教えてくれた、、、。
俺の親父は「根無し草」としての生きる事の重さを教えてくれた、、、。
俺の母親は立派な常識人、道徳者、として生きるために精神病にかかってしまった、、、。
俺の母親も道徳者として生きる事の重さを教えてくれた、、、。俺は、この存在に囲まれている、、、。
俺には真の凡人として、根無し草として、道徳者としての存在に囲まれて、、、。
常に生きる事を保証され、安全という仮定の上で横たわって堂々と生きている、、、。
俺には安全への意志というモノしか持っていないのだ、、、。全てに置いて中途半端なのだ、、、。
どこにも俺というモノは無いのだ、現代人の先、、、。消失人として生きていくのだ、、、。
俺は価値も、未来も、過去も、現在も、今も、意味も、意志も、消失した人間なのだ、、、。
だから、恐ろしいほど強い、、、。同時に、恐ろしいほど弱い、、、。
強さとしては何もかも虚無として、ニヒリズムの下で全てをさらけ出せてしまう強さだ、、、。
弱さとしては実は何も持っていないと言う事についての弱さだ、、、。
俺は道徳も、常識も、思考も、思想も、生も、死も全てを抱え込んだただの存在だ、、、。
その「ただ」というのが一番重要なのだ、、、。「ただ」これという存在、、、。
何も無い、、、。親父や、母親、おばあちゃん、おじいちゃんの如く何かあるわけではないのだ、、、。
最も弱いのだ、、、。俺には何かと断定できうる何かを所持していないのだ、、、。
親父たちを現代人としたら、俺はただの現代からも、未来からもかけ離れた存在、、、。
消失人なのだ、全ての意志をほとんど失ったモノ、、、。ただ安全の意志だけ、、、。
そう、まるで動物なのだ、、、。安全への意志はただの本能に過ぎないのだ、、、。
何と!俺らの心の中にはまだ本能と言う存在が完全な状態で残されていたのだ、、、。
誰も彼もが持っている人間としての意志がドンドン格下げされていってしまったのだ、、、。
俺らは動物からかけ離れるように、類人猿、猿人、旧人、新人、と進化をして来たのに、、、。
俺らはその全てをわざわざ放棄するように生きようとしているのだ、、、。
不思議な話だ、、、。なんで根本回帰していって、戻り過ぎてしまうのだ、、、。
万物は流転する、しかし、その言葉は流転することなく保持されていかないのだ、、、。
結局は歴史さえも、無意味にしてしまうような意志を持っているのか、、、。
無意味にするその意志は正しく、消失人にしか持っていない物だ、、、。
俺らは意味を持つよう、意味を穢さないように慎重に生きて生きた、、、。多分これからもだ、、、。
だが、俺はその意味さえも背負う事無く、無闇に生きていく事に気付いてしまったのだ、、、。
確かに俺の背後には重く俺をすぐ罵る、歴史、習慣と言う複雑な存在がいる、、、。
だが、俺らは民主主義、共産主義、大衆主義によって完全にそれを瓦解させてしまったのだ、、、。
完全に共同体が破壊され、何も持たない「個人」だけが増え過ぎ、俺の目の前を通過する、、、。
携帯を持ち、社員証を首にぶら下げ、郊外から都心へ向かう定期を所持して、、、。
過去と言う駅を当然のように通過し、今と言う駅に停車して一斉に降りていくのだ、、、。
彼等の目は完全に死んでいる、この死んだ目の奥底に「個人」としてのエゴがゴミのように寝ている、、、。
彼等の背中には彼等の魂が彼等のその体から1?�ほど離れて存在する、、、。
彼等は彼等の意志で生きているのではない、「個人」という歯車に挟まれて生きているのだ、、、。
彼等は反乱する事無く、いつもを何時も通り生きてその歯車と言う生業をこなしている存在だ、、、。
俺が彼等になりたくないとは言わない、俺も彼等のごとく精神を1?�浮かしてい生きているからだ、、、。
俺も彼等なのだ、同時に彼等は俺なのだ、、、。
通常時は精神を体から一?�離して生き、酒を飲んだり、思考する時には自分の肉体に精神を返している、、、。
なんて、わざわざ浮かしているのだろうか?それには自分の自尊心を守るための処世法なんだろう、、、。
どこもその間違っていない、彼等(自分)は精神を離す事でしか生きられないのだ、、、。
自分が歯車であると言う現実を受け入れられないのだ!彼等の自尊が邪魔をしてな、、、。
でも、彼等は逃げないでその一日を毎日、毎日こなして生きていっているのだ、、、。
俺もその中の一人だ、俺の親父は違う、、、。俺の親父は逃げれるんだ!
逃げれる事がこんなに強いのだ!恐ろしいほど、羨ましく感じる、、、。
俺は親父には成れない、なぜなら、俺の親父は巧みに逃げてきた人間だからだ、、、。
巧く逃げていく事で、自分と言う存在を保持し、自分の肉体に常に帰属させて来た人だからだ、、、。
俺の親父は正しく人間だ、個人と社会との距離を丁度よいように調節できるのだ、、、。
俺の親父は天才なのだ、、、。永遠に讃えられないにせよ、天才なのだ、、、。
自分というモノを確実に得ている、評価されえない天才なのだ、、、。故に強い、、、。
俺は母親のようにはなれない、俺の母親は重い道徳者、常識者だ、、、。
俺の母が説く全ての論説は全てにおいて、間違いと言うのが全くを持ってない、、、。
その道徳、常識を自分自身の中に取り込み、それを重りとして自分の精神を肉体につけてきた人だ、、、。
故に狂ってしまった、一?�あけない事で人は容易く狂気に飲まれてしまうのだ、、、。
でも、それは人間として生きるためには必要な狂気なのだ、、、。故に強い、、、。
俺のばあちゃんは前スレで書いたから省くが、凡人としての生を全うした人だ、、、。
良き妻、良き農婦、良きばあちゃん、良き人、良き子供であった人だ、、、。
彼女には習慣としての全てが彼女の体につまっている人だった、、、。
つまっているから、彼女は自分自身を浮かすすべさえも知らない人であった、、、。
故に強い、、、。
それにしても、俺と言うのはどれだけ弱い存在なのだろうか?
こんな強い人達に囲まれて俺はどう生きろととえるのだろうか?
結局は俺は弱さを叫ぶことしかできないのだ、、、。叫びの中で狂い続けるのだ、、、。
俺の母親より、下らない狂気と、、、。俺の親父より、だらしない根無し草で、、、。
俺のばあちゃん何かでは比較できないほど穢れきってしまった人だ、、、。
そうか、これがただの人の量産化なのか、、、。
このただの人が増え過ぎてしまって社会は大丈夫なのだろうか?
だから、大丈夫なのだろう、、、。歯車が多いのはいい事なのだ、、、。
俺らは自分自身を否定するために自分の非凡人性を叫ばなければならないのだ、、、。
其れこそ、自分達が歯車に過ぎない事を叫んでいるのだ、、、。哀しいほどにな、、、。
だが、歯車である事は分かった、、、。では、その動力源は何でできているのだろうか?
動力源は人の夢なのだ、、、。その歯車が持っているその夢を吸収して回転しているのだ、、、。
俺らは精神の全てを搾取され、社会を動かすエネルギーに勝手にされているのだ、、、。
なぜその事に対して反乱を起こさないのだ?革命ではない、人間革命なんてないからな、、、。
ただ、懐古させるだけだ、、、。あのがむしゃらであった時代はもう来やしない、、、。
この刹那を歯車として生きることしかできない人になぜが「むしゃらになれ」と説けるのだ?
そうさ、彼等は懐古し過ぎてしまっているのだ、、、。懐古し過ぎてしまい、、、。
今の空間が何かがもう見れていないのだ、懐古する事で自分自身の目を完全に潰したの、、、。
俺らは「個人」になっていく途中で俺らの体は歯車になってしまったのだ、、、。
楽をするため、背負う事から逃げるため、そのために最も都合のいい体、、、。
それが、歯車なのだと言う事を忘れてはならない、というか知らないのだろう、、、。
なんと、ツマラナイ人だろうか?今の何たるかを見えなくなってしまった完全な失明者にほろびを!
と与えるわけではない、、、。彼等自身気付いているはずだ自分がもう歯車になっている事を、、、。
その先にほろびが寝ている事を彼等は経験上もう知りえないのだ、彼はもう考えられない、、、。
がむしゃらにうごいた時代に使い込み過ぎてしまったのだ、使えなくなった歯車は捨てる、、、。
俺もそうやって捨てられていくのだ、俺の母親、親父、おばあちゃんに嘲笑われてな、、、。
俺は消失人、俺は親父みたいな存在、思考は持ちえない、、、。だから、消失人、、、。
ただこの空間を歯車として生きて、滅びて、自分自身を嘲笑するものさ、、、。
ああ消えていく、夢の中へ、、、。消えていk
タバコ1本で人は忘我の域に達する事ができる、、、。
全ての存在に憎悪を垂れ流すのは簡単だ、、、。ただ、憎めばいい、、、。
全ての存在に善意を垂れ流すのは簡単だ、、、。ただ、善と思い込めばいい、、、。
全ての存在に慈愛を垂れ流すのは簡単だ、、、。ただ、愛を信じてればいい、、、。
全ての存在に悪意を垂れ流すのは簡単だ、、、。ただ、悪と信じてればいい、、、。
全ての存在に慰めを垂れ流すのは簡単だ、、、。ただ、相手をいたわってればいい、、、。
俺らの下にある全ての思考、宗教、思想はこのどれかを根底として悪用している、、、。
そもそもだ、俺らは何かによって断定される事が一番気持ちいいのではないのか?
お前は〜だ、君は〜だ、貴公は〜だ、とな、、、。だが、俺らはその中に自分を見いだせたか?
どこにもないではないか、、、。ただ、決めつけられる快感に酔っているだけ、、、。
いや、決めつけられる空間の中を永遠の住処として生きていれば良かったんだ、、、。
楽で、快感で、、、。その中に永遠に寝ていれば良かったんだ、可愛い子供のように、、、。
可愛い寝顔だ、、、。穢れが無く、無垢で美しい、、、。
だが、俺はその存在を穢す喜びというモノを感じてしまったのだ、、、。
少し脱線するが、俺は悪い意味で幼い者が好きだ、、、。ロリコンと言える、、、。
しかし、それは精神上の話だ、、、。実行するだけの俺は非常識性を持ち合わせていない、、、。
さて、戻して、、、。だが、俺らはこの永遠に老いる事無い小さな世界が瓦解したのだ、、、。
ニヒリズムと言うでかいハンマーによってだ、俺らは急激に老いてしまった、、、。
汚い老婆、老父になってしまったのだ、俺は完全に穢れた!俺の精神は完全に穢れきっている!
それが、時の意志なのであれば俺はこの汚い肉体をさらけ出して生きよう!この汚い肉が重い、、、。
子供の軽やかさはもう持ちえていない、破壊してしまった物を修復する事はできない、、、。
風化して完全に形を消失するのだ、、、。それが、消失人の始まりなのだ、、、。
戻れない哀しさを背負って生きていくこの業!重い、果てしなく重い、、、。
はあ、駄目だな、、、。
俺は変わった人間なのかなあ、、、。どこにもいるような人間なのんだがなあ、、、。
そうだよな、考え方が違うと言うだけで人間は人間同士省きあう、、、。
そういえば、世界の中心で愛を叫ぶなんてあるけど、、、。
世界の中心で愛何ぞ叫んだら、真面目に殺されてしまいます、、、。
これは皮肉っているんじゃなくて、本当の話なんだ、、、。
例えば、キリスト教と言うのは「愛」を説く宗教(大まかだが)と言われてる、、、。
故に、彼等は他民族にも普及させるために色んな各地に散らばっていったのは有名な話だ、、、。
そして、彼等は殉教した、、、。それは「愛」を説いていったからだ、、、。
これは絵にも沢山ある「聖〜の殉教」という形で色々にあるんだ、、、。
彼等は宗教というモノを真っ向に信じていた人達だからだ、其れを否定してはならない、、、。
だが、俺らみたいな人間(俗人)が純粋な愛何ぞ問えるのだろうか?
宗教的な強い意志が存在しない限り、俺らは愛何ぞ信じられるのだろうか?
いや、無理だろう、、、。結局は情報として俺らは愛と言う存在を美化しているだけにすぎない、、、。
あの甘くて下らない愛への妄信が日本人を包んでしまったような気がする、、、。
「愛」というのは教義的で同時に狭義的なものであると言える、、、。
普遍的な愛と言うのは存在しないのだ、普遍的な愛は即実死を意味するからだ、、、。
狭義的な「愛」でさえ死が振舞われると言うのに、、、。何を妄信しているんだか、、、。
俺は常識や論理を簡単に殺してしまう、情報というモノに俺は恐怖を感じる、、、。
世界の中心には暴力と略奪と殺人しか存在しない、世界で共通できる物はそれしかないからだ、、、。
よく考えてくれ、俺らが持ちうる常識や宗教観は全てに置いて違うと言う事だ、、、。
ただ、共通なモノは暴力だけなのだ、、、。何かを損失すると言う意識だけは共通だろ?
愛を説く者は死を意味する、、、。それでも、死を覚悟しているのなら、、、。
その精神は絶対的に正しいモノだ、、、。ただ、甘い精神は世界には無い事だけは理解してもらいたい、、、。
続き
俺は慈愛や慰めの論理を用いる事はできえないんだ、、、。
俺が信じれるモノは怒りと憎しみだけのような気がする、、、。
いや、俺が文章を徒然と書いていく理由はそれなのかもしれない、、、。
憎しみと怒りだけで俺は文章を書き、諦めと嘲笑で俺を包み込む人、、、。
俺の言葉は俺に対してしか使われる事は無いだろう、、、。
俺の言葉には何も重みも価値もない、、、。だから、書き続けるのだ、、、。
俺の言葉は死ねるからだ、、、。何も価値も意味も見いだせる事がないからだ、、、。
俺は幸せだ!俺の言葉は死ねる!完全な安楽を得る事ができるからだ!素晴らしい!
キリストは復活した理由を君は知っているかい?それは残されて、、、。死ねないからだ!
新約聖書と言う、本に精神として永遠に残り続けるからだ、、、。故に死ねない、、、。
悲劇だ!死ねる事が最も尊い価値である事に我々は何故気付かないのだ?
肉体的な死は悲劇であろう、全ての富、全ての生、全ての意味が完全に消えるからだ、、、。
だが、精神的な死は彼らの存在を消しきる事ができる、、、。消失できるのだ!
しかし、残してしまった人間は残り続けてしまう精神上な、、、。
仏陀、キリスト、ムハンマド、彼等は死ねない、、、。残してしまった、、、。
俺らは幸せだ、残した物はいずれ消えきってしまうモノだ、、、。彼等は死ねない、、、。
人間が完全に滅びさるまで消えない、、、。俺らは本当に幸せだ、、、。
でも、残らない事も悲劇であると言う、矛盾性が存在すると言う、、、。
人って哀しい存在だな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
窪塚が自殺したときいたが、、、。まあ、薬でもやっていたんだろう、、、。
空を飛べるような気がしたんだろう、そして墜ちたらという話な訳でやんすね、、、。
自殺と言うとねこじるという漫画家を思い出すなあ、、、。首吊りしたと言う話だな、、、。
彼女の死も未だ何が理由か分かっていないんだよなあ、、、。まあ、どうでもいい話だが、、、。
俺は死ねると言う事が幸せのような気がする、俺は自分を軽く扱えないからだ、、、。
俺は確かに虚無主義的な思考が酷いと思う、、、。だが、それは同時に生への意志とも言える、、、。
俺と言う存在は矛盾し続けるんだ、重い、自分の思考が重くのしかって、、、。
自分の体からはなれないんだ、、、。だから、俺は自分の体を軽く扱えないんだ、、、。
生き続けなければならないんだ、、、。そして、自動的に体が21グラム軽くなるのを待たねばならない、、、。
醜く老いる事を待たねばならないんだ、、、。まあ、短くてもいいんだがな、、、。
俺の目の前には自分より高い草しか生えていない、刈り取っていかねばならないのだ、、、。
でも、刈り取っても刈り取っても刈り取った後は残る事は無い、、、。結局はそのまま放置だ、、、。
俺の道は刻まれない、四面楚歌、、、。草に囲まれて狂って死ぬ下らない物、、、。
だから、俺は草を刈り取り続けるんだ、、、。何もないからだ、、、。
何も無いから創ろうとする、草がそのままきえないで少しは残る事を望んでいるからだ、、、。
俺は死ねない、雨の日も厳しい夏の日も激しい雪の日も草を刈り取り続けるんだ、、、。
それが俺の罪だからだ、罪を背負いきれない人間は勝手に死ぬ、、、。それが罪と知らずにな、、、。
まあ、エネルギー換算すれば先進国の人間一人死んだだけでもその分エネルギーが使われなく済むわけだ、、、。
だから、年間三万人日本人が死んでいる事は中々意味があると言う事ではないのかな?
というブラックジョークを言うのもたまには悪くない物だ、、、。
まあ、駄目だな、、、。
あれ?何度確認しても、ゃゃさんからのメールが来ていない、、、。なぜだ?
俺のパソが壊れているのかなあ、、、。
分け分からねえなあ、、、。
はあ、駄目だな、、、。
>>62 もしかすると、こっちがホトメだからかも。
ヤフーのアカウントとか取れない?
そっちもこっちもヤフー同士でならおそらく上手く行くと思う。
>ゃゃさん
ヤフーで送ってみましたがどうでせうか?
久しぶりに墨田の方にすんでいる、おじいさんの家に止まったんだけどさ、、、。
六階建てなんだけど屋上があって、、、。
又、その屋上のその上があって、、、。その上で独りタバコをすってたらさ、、、。
何となく叫びたい気分がしたんだ、深夜一時にだよ、、、。
何もかもから隔離されているような気がしたんだ、、。なんで、だろうかなあ、、、。
ふと下を少し見れば、タクシーや乗用車、トラックから途絶える事無く走り続けている、、、。
若い人達が数人で集まって思いっきり笑っている、、、。暗い方を見れば、、、。
若い男と女らしき人が何かいちゃいちゃしあっている、、、。孤独だ、、、。
孤独なのは俺だけで十分だ、、、。いや、俺は孤独で満たされている、、、。
ふと上を見上げれば、雲が適当に散らばって星が綺麗に散らばっている、、、。
上にはほとんど永遠としか言う事ができない時間が流れている、、、。
俺はこの六階建てのビルの屋上のその上で呆然とこの二つを望んでいる、、、。
挟まれているんだ、俺はこの二つの存在に板挟みにされあぜんとしている、、、。
面白い、、、。中途半端な存在に自分自身の手でしているんだ、、、。
不思議な話だ、、、。俺はこの二つの存在に属しながら、拒絶している、、、。
まるで蝙蝠みたいだ、鳥と獣の間で中間にいる事が当然かの如く振舞っている存在、、、。
全てを飲み込める存在、いや、飲み込む事を拒絶している存在が人、、、。
それが、人間の理性だからだ、、、。動物との差を作るためにね、、、。
はあ、駄目だな、、、。
ヤフーで返信しました。
慰みを求めて気を狂うように生きる事、、、。
俺らの生が重い事は非常に辛い事だと思う、、、。
辛いから軽いように解釈して、自殺したりするように自分は感じられる、、、。
難しい事なんて全くないんだ、難しいと言う解釈だけに侵されているだけだ、、、。
でも、その解釈は正しいんだ、、、。だから、矛盾への意志に向いてしまう、、、。
矛盾への意志は既存概念の破壊なのかもしれない、、、。
崩壊だ、俺らは自動的に崩壊と構築を何度も繰り返して生きて来ている、、、。
煽動家、天才、秀才によって破壊された既存概念を同時にこうちくするのは、、、。
大多数の凡人な人達の手による物だと思える、、、。
俺はまあただの凡人なのだが、何か自分は創りえるのだろうかな?
分かんないねえ、そもそも、俺らには構築とか崩壊とか見えるのだろうか?
見えるとしても俺らはそれを叫べるようなものとは俺には感じえない、、、。
いや、叫びに変化させ俺らは見えるような物に即座にへんこうさせようとする、、、。
より分かりやすい物へと「大衆」はさせようとするのです、、、。
凡人と大衆は意味がそもそも違います、凡人は常識、慣習など歴史的前提から行動をする者であり、、、。
大衆は情報から物事の変化を捉えようとするから、意味としては全く違う意味になる、、、。
大衆の存在を〜才とつけるなら、愚才、、、。愚か者の才能となるだろう、、、。
愚才の増加によって、人は何も見えなくなってしまった、、、。自分の目を潰したのだ、、、。
そのまま、のたうち回って死んでゆく愚か者のままでな、、、。
故に幸せだ、、、。何も求められず何も見つからない事が最も生きている理由である事をな、、、。
まあ、どうでもいいことだ、、、。
はあ、駄目だな、、、。
俺らが何かを言う時にはなぜか断定句を用いてしまう、、、。
それはなぜか?多分、そうでなければ物事を表せないからだと思う、、、。
断定句を使わないで自分の意志は表せるのだろうか?
無理に近いと思う、俺らは常に強い意志を表しながら生きている、、、。
俺が持っているモノは全くを持ってどうでもいい事だ、、、。
ただの直感に過ぎない、ただの直感にすぎないから、、、。
どうも、断定句をあまりにも用い過ぎてしまうらしい、、、。まあ、仕方が無いのだが、、、。
俺はまだ高校生だ、、、。もし、年齢を一々何か言葉で簡単に表すのなら、、、。
知識の時代だ、沢山の知識をかき集めて、色々と見ようとする野心の強い時代と思う、、、。
孔子で言う「十有五にして学を志す」時だと言える、、、。
でも、俺には志すような学問と言うのはあるのだろうか?無いだろう、、、。
俺らを囲んでいる物に学問と言う物が常に離れる事無く存在している、、、。
パソコン、時計、アイロン、植物、人間、、、。どれもこれも学問対象であり、、、。
又、現実にある物だ、、、。まあ、この意志が現実だと信じているだけかもしれんが、、、。
そんな事はどうでもいい事だ、、、。俺には魅力あるような学問が無い、、、。
どれもこれもが在り来たりな存在になってしまったような気がする、、、。
なぜだろう、、、。もしかしたら、俺らが在り来たりな存在になり下げてしまったんだろうか?
本というモノの価値が下がっていく事によって、当たり前のような存在になった、、、。
全ての人に平等に知識と言う物が入るようになったからだろうか?
それは悪い事なのだろうか?良い事なのだろうか?う〜ん、分からん、、、。
続き
確かに、全ての物事は灰色だろう、、、。
灰色だから、俺らはわざわざ白黒を着けたがる、、、。そして、満足するんだ、、、。
灰色こそ正しいと考えている人があまりにも多いが、、、。しかし、そうではない、、、。
まあ、灰色は一つの色であり、、、。その色は単色として価値があるように見えるだろう、、、。
だが、それでは足らないんだ、、、。俺らにはハッキリとしたものではなければ分からないんだ、、、。
例えばだ、人は時代で物事を分けたがるのと同時に、時代で分けて欲しくないと叫ぶ、、、。
時代で分けて欲しくない理由は最もだ、、、。人と時代は違うとその回答は正しい、、、。
しかし、人はそうやって「個人」というモノを見る事ができるのだろうか?
まあ、長い時間付き合っていけば、、、。「個人」と言うものが見えてくるだろう、、、。
でもだ、現実ではその時間が無駄になってしまう、しかも、この情報化社会上ではだ、、、。
一秒、一秒違う情報が流れてはきえ、流れてはきえを繰り返し、判断が付かなくなる、、、。
そしたら、人は何に頼るか?分かりやすくて表面的なものだ、矛盾するんだ、、、。
この社会、現実と言う単語はあまりにも重いものだ、この言葉を出されては大抵は黙ってしまう、、、。
いや、黙らざるおえない、、、。俺らは「個人」はこの言葉の前では脆弱だからだ、、、。
無意識の内に俺らは強いものと弱いものを区別して生きている、、、。
当たり前の事だ、でも、、、。舌先三寸の弁法によって強さ、弱さを反対に返る事もできる、、、。
結局は、俺らが持ちうる思考と思想、観念によって世界は動かされているわけだ、、、。
しかも、一番強いとされている思考と思想にだ、、、。ここの思考はその力の前にはぜい弱だ、、、。
そうさ、そうやって潰れていくんだ、、、。俺の全てもな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
意味がある、意味が無いなんていう2択はもうどうでもいい、、、。
そもそも、意味なんて先入観の一部にすぎないではないか?
勝ち組やら負け組やら、セレブやら、どうでもいい横文字の量、、、。
結局は全部、誤魔化しではないか?正しい事は正しいだろう、、、。
今、叫ばれている事は間違いは無いだろう、、、。でも、正しいと言い切れるのだろうか?
そこで俺は実感的なモノを感じる事ができないんだ、、、。弁上のご都合、、、。
にしか聞こえないんだ、、、。勝ちや負けなんぞ考えている事が「負け」ているんではないか?
俺らの親父、またはジッチャンの歳が俺ら位の時代は今の言葉なら完全に負けの時代だったろう、、、。
それでも、負けは負けとして前を向いて生きて来たんではないのだろうか?
その前を向いて走っていったら、いつの間にかここまできてくれたのではないのだろうか?
そもそも、人から名声を取り除いたら誰もが凡人だろう、、、。ただの発明者、ただの科学者、、、。
ただのサラリーマン、ただの、、、。とずっと続いてくだろう、故に人は特殊性を見いだしたがる、、、。
それが、意味ではないのだろうか?皆、凡人でありながら、特別な存在で、、、。
その特別さは社会的評価の上でしか見る事ができない、、、。たったそれだけではないだろうか?
俺は凡人だ、凡才で無駄な思考を垂れ流すただの存在にすぎない、、、。
でもだ、どこかしら有意義なモノが少しは見える、いやそう見ようとしているんだ、、、。
意味なんて無くもなければ、あるわけでもない、、、。その間を漂い続けているのさ、、、。
漂っているから、なにかしら特別なもので人を浮かせたり、沈ませようとする、、、。
名誉と言う重り、悪名と言う浮き輪によって俺らは常に何かを独断で判断している、、、。
だから、独りなんだよ、、、。他人が見えないで、他人に動かされるままに生き続けるのだから、、、。
はあ、駄目だな、、、。
人に嫌われ続けるのが嬉しいなあ、、、。
俺の事を見る人間がいる事は非常にありがたい事だ、、、。
見られないで消滅していくのが俺の存在だと、流れていた自分ですが、、、。
人を好き嫌いで解釈するのは簡単だ、その感情を信じて暮らしていけばいいのだから、、、。
何かな、最近人に対して好き嫌いと言う感情がなくなって来たような感じがするなあ、、、。
彼はそういう性格だから仕方が無い、彼にはそういういい点があるけど誰も見ない、、、。
う〜ん、それって俺と言うものがその集団から離れつつあると言う事なのだろうか?
ゃゃさんのおっしゃる通りだな、、、。集団に群れる事をきよしとしない、、、。
群れても、その集団からは変わったやつで切り捨てられ問題なく暮らしていく、、、。
昔からそうだった、集団の中を色々と自由気ままにうろついてはギャグにされたり、、、。
仲間として扱われたり、悪く扱われたのは小学1、2年の時しか思い出さない、、、。
どの集団とも関係を持ちながら、自動的に距離をとってしまう自分、、、。
不思議だ、、、。俺と言う個人は何もかもから断絶されている、関係があるのにだ、、、。
昔の知り合いに時々あうけど、、、。皆、俺については悪い想い出を思っていない、、、。
不思議なやつ、真面目なやつ、面白いやつ、どれをとっても俺というモノが表されている、、、。
図書の先生にも変わったやつ、時々暴走する機関車位にしか思われていないだろう、、、。
このネット空間なら、馬鹿とか、気違い位にしか思われてはいないだろう、、、。
どれもこれも俺を表す言葉としては正しく、同時に表しきっていない、、、。
なぜだ?俺というモノはそんなに見えないものなのか?ああ、見えないものだ、、、。
他人なんか俺の事を分かる事も無ければ、自分も他人の事が分かる分けない、、、。
それなりの応酬としての断定句が用いられるだけか、俺の固定か、、、。
まあ、どうでもいい事だ、、、。はあ、駄目だな、、、。
人が死んでも俺は生き続ける、、、。
そういえば、葬式と言うのは死者のためではなく生者のためのものだと言う言葉があるけど、、、。
其れ以前に死者の事なんて俺らは何も分かってはいないのではないのだろうか、、、。
分かろうとする事を求めようとしていけば、どうしても矛盾点が生じてしまう、、、。
彼と言う存在が俺からは見えると思い込んでいるだけだし、俺は彼に見られていただけだ、、、。
どこにも、視点が合一しやしない、、、。
独特な視点に侵されているだけだ、侵されているから人がより見えなくなるんだ、、、。
俺は人の事なんぞ見えやしない、人は俺の事なんぞ見えやしない、、、。
見えない同士で勝手にいがみ合ったり、ないたり、笑ったりしあっている、、、。
でも、その笑いと言うのは共通されるのか?泣きも、怒りも、嘆きもだ、、、。
俺には神がいる、、、。そう精神という名の神だ、、、。
俺らはその精神と言う名の神を解釈し続けて来たんだ、、、。そして、色々な神を生み出した、、、。
嘆きの神、怒りの神、愛の神、正義の神、悪の神、嫉妬の神、挙げていけば切りがない、、、。
その存在が特別なものと強制的になし得る事で解釈上の神を生み出して来たんだ、、、。
又、俺らはその神々に囲まれて生きている、、、。存在論的なものにしてな、、、。
だが、解釈上の神は解釈というモノを超越しうる事は無い、、、。
結局は信じているだけだ、、、。その解釈を俺らはただ信じているだけに過ぎない、、、。
正しいものとか、間違ったものとか俺にはもうどうでもいい、、、。
間違いも正しいも個々の解釈を超える事は無いからだ、俺の存在もそうだ、、、。
常に解釈というモノを超える事なく俺は此所にいる、、、。
たったそれだけなんだよ、本当はね、、、。だから、解釈したがる、、、。
存在しているだけでは人は満足しないんだよ、満たされないんだよ、、、。
存在しているだけでは見えないんだ、何が?生きている事がだよ、、、。
続き
生きている事さえも意味や価値、そう解釈だ、、、。解釈に汚染されているんだ、、、。
怒りと言う解釈、嘆きと言う解釈、、、。どれもこれも解釈だ、、、。
俺らは俺らの周りにある存在を認めているだけでは駄目なんだ、、、。
死ぬまで駄目なんだ、俺らは解釈され続けて、死んでも解釈される、、、。
あの人は〜、あの人は〜、死者は〜、といって皆の解釈が死ぬ事で吐かれるだけだ、、、。
死んでも俺は生き続ける、解釈され続けてだ、俺らは守られるんだ、解釈にだ、、、。
俺らは実際守られ続けている、産まれる前は母親の胎内の中で羊水に浸かりながら守られていた、、、。
産まれたら産まれたで、家族、環境、社会、国家これら全てに守られ続けているんだ、、、。
死んだら死んだで、俺らは火に荼毘されて骨つぼに骨を入れられ、、、。
墓石の中で永遠に眠り、この丈夫でしっかりとしたこの石に守られ続けるんだ、、、。
石でなくてもいい、水、草、土、空これら全てに守られ続けていくんだ、、、。
どこに俺、独自の意志が存在しているんだって言うんだろうか?
どこにもないではないか?俺と言うものが見つからないではないか、、、。
見つからないものだらけで俺はどう救われればいいのだろうか?
いや、救われないんだよ、、、。救われる事が無いから俺は生き続けるんだ、、、。
俺らは死なないんだ、、、。完全にも、不完全でもなく中途半端の死、、、。
そうか、俺らは最後まで中途半端な存在なんだ、どこにも満たされる事無く生き続ける、、、。
消えない、消えたいこの生きた、生きていると言う痕跡が俺、いや、、、。
他の人にも残され続けるんだ、、、。他の人も俺によって残され続ける、、、。
まあ、どうでもいいことだ、、、。
はあ、駄目だな、、、。
相当俺も丸くなって来たものだな、、、。
最初のスレのあのイカレ具合と今のイカレ具合では昔の方がすごかったような気がする、、、。
まあ、全くを持ってどうでもいい事だが、、、。
俺と言う存在は常に変化する、体の体調も特徴も性格も全て変化していく、、、。
自分の周りも変化していく、学校、人間、建物、車、動物全部が変化していく、、、。
この変化のさまを全て時間になすり付けて満足するのも悪くはないが、、、。
俺らってそこまで時間と言うものを意識して生きているものなんだろうか?
俺らが常に意識しているものは時間ではなくて、時刻ではないだろうか?
時間は時の間とかいて時間だ、当たり前だが、、、。この時の間は俺らが意識しようとしてない間で、、、。
意識する事で時間が見えるようになる、、、。俺らが支配されているのは時刻だ、、、。
学校に行く時刻、会社に行く時刻、俺らは時間というモノを社会的に刻んだものしか見えていない、、、。
何時もはだ、、、。だが、何となく刻みではなく全てを見ようとする意志が生じる、、、。
その時に人は時間を見るんだと思う、、、。時刻を忘れてね、、、。
まあ結局、俺がいいたいことは物事の差別化か、、、。
俺は差別者だ、細分化して、細分化していくと言う馬鹿な存在だと言える、、、。
細かくすればいいというモノではないのだが、細かくしていってしまう、、、。
なんでだろうな、、、。俺自身も全く分かんねえや、、、。
はあ、駄目だな、、、。
俺は差別をし続ける人間だ、、、。
差別と言っても人種差別と言うより、人間差別主義者と言えるかもしれない、、、。
俺はよく韓国とかアメリカとか支那とか嫌いだと言っているが、、、。
嫌いと言ってもその人種が嫌いと言う意味ではない、、、。
俺が嫌いなのはその中で馬鹿で有害な気違い共に過ぎない、、、。
そういえば、韓国は日本にゴミ餃子を流したと言う話しがあるが、、、。
それは人種の問題と言うより、人間の問題だと思われる、、、。
所謂、宇都宮餃子といいながら宇都宮では造られていないような話だと思う、、、。
だが、そのような偽りならまだ人間として許せると言うか、可愛いとまだ思えると思う、、、。
しかし、ゴミを喰わせるのは人間として終わっていると言えるだろう、、、。
結局、被差別者と言うのは自分が差別される理由をしっかりと分かっていない人間といえよう、、、。
韓国人が勝手にイルボンと侮辱するのはどうでもいい、それはただの差別語にすぎない、、、。
日本人がチョンというのと同類だと考えていいだろう、、、。
でもだ、この場合は軽蔑して人間として最悪なのはどのくにでも変わりはしない、、、。
だから、韓国企業はこの事を日本にたいして「謝罪」しなければならないはずなのだ、、、。
なぜ?人間として最悪だからだ、、、。人種の問題ではなく、全ては人間の問題だ、、、。
日本は確かに韓国を保護国として、植民地としたかもしれないが、、、。
今の韓国は日本が作り出したもののおかげで成り立っている、その事を感謝しなくてはならないのでは?
そもそも、朝鮮は931回も他国から侵略されている、、、。日本はそのうち手で数える位だ、、、。
朝鮮が謝罪要求しなければならないのは、支那ではないのかね?歴史認識より事実だ、、、。
何も知らないものは軽蔑される、そう韓国は自分達の手で自分達を陥れている、、、。
本当は韓国が謝罪しなければならないのは未来の子孫ではないのかな?まあ、気が付くとは思えないけどね、、。
まあ、駄目だな、、、。
まあ、痛いレスについて独り言するスレでしっかりさらされているけど、、、。
実際いたいことしか言わない人間だから、さらされてどうってことではないが、、、。
痛いと言う事はまず分かると言う前提からもとめられるんだろうな、、、。
腐女子の痛い詩なんか読んだら確かにいたいけど、それには詩について分かると言う認識が生じる、、、。
だから、いたいと言うのは自分自身の中にそれを理解する存在を全否定する行動、、、。
なのかもしれないな、まあ俺は心理学者ではないからどうでもいい事だが、、、。
どうも、全ての学問形態というのは矛盾するようにできているみたいだな、、、。
俺の思考も結局は学問と言う領域の中にしっかりと入っていると思うが、、、。
全ての物事が学問の中に閉じ込められると言えるかもしれない、、、。
結局、知識というモノを求めようとすれば学問領域に入ってしまう、、、。
〜学、〜学、〜学と、、、。
でも、俺らはその学問の中では生きていない、同時に学問領域外でも生きている、、、。
人は永続的に矛盾してその矛盾に飲み込まれるように生きているようなもんだ、、、。
俺は羨ましいんだよな、この領域と求められる事がさ、、、。
俺らが学問を志すのは結局は自分の言葉の重みを求めているだけだろ?
何か有名な先駆者の言葉や思考を巧く利用して自分の価値を重くしようと試みているだけだ、、、。
でも、実際はそうではない、、、。それではただの知識のコレクションになってしまう、、、。
コレクションになってしまえば、本当は自分の言葉がどれだけ死んでいるかを気が付けるはずなのだ、、、。
だが、ひとはその事には気付きやしない、俺も気付いてはいないだろう、、、。
そうさ、説得すると言う事象は死んだ言葉を垂れ流し続けると言う立派な行為なのさ、、、。
まあ、そうでなければ人を説得できないと言うのは哀しい事なんだけどね、、、。
まあ、駄目だな、、、。
昨年の自殺者が三万二千八十二人、二千人増えたんだな、、、。
縁起のいい話だ、その分エネルギーを無駄使いできるというわけだ、、、。
というブラックジョークは止めて、なんで死ぬ事を求めるかねえ、、、。
死んでも生きてもどうにもならんなら死ぬ事を求めるのか、下らないねえ、、、。
そんな事したら俺らが生きている理由なんて簡単に消え去ってしまうではないか、、、。
結局は楽を求めているんだよ、生きる事も死ぬ事も、、、。苦しみの先にと言う仮定を置いているだけだ、、、。
自分の充足を求めるために俺らは死ぬと言う事もある、不満を消すために死ぬ事もある、、、。
だが、死んでしまったらおしまいなんだよ、そこでハイ終了!なんだよな、、、。
生きていれば辛い事の方が多いけど、死んだらその先がなくなっちまうんだ、、、。
しかも、自殺者は来世ではろくでもない存在にしかなれないしね、、、。輪廻という考えでもさ、、、。
死んだら満たされる事も、辛い事も無い、、、。それが一番辛い事ではないのかな?
無と言うのは有という存在の前提で成りえているんだが、その観念さえも消失する世界なんだ、、、。
口でもいえないような空間、言葉で表す事ができない空間に俺らは入滅するんだ、、、。
それが救いか?それが幸せか?結局はあると言う前提上で成りえているものに過ぎねえだろ?
俺らはあると言う事を無意識の内に俺らの頭の中に入れてしまっている、、、。
死とはその反対の事なんだ、無意識も何もかも消滅してしまうという言葉でも表す事ができない、、、。
あると言う事は言い表せるのだが、ないというのは言い表すにはあまりにも難しい、、、。
しかも、完全に消滅しきった世界?なんて俺らが見えるようなものではないだろう、、、。
なぜ死を求める?救いも何も無い世界?を何故希求するんだ?
そうさ、実は彼等は何も考えていないのさ、、、。死というモノを適当に解釈しているだけなんだ、、、。
自分に都合がいいようにね、、、。
まあ、駄目だな、、、。
人生は短いものだが、タバコをゆっくり吸うにはまだたっぷり時間がある、、、。
楽しみを求めて生きていけば、人生は長くもなれば短くもなる、、、。
たったそれだけなんだが、ひとは人生というモノを短く考えたがるようだ、、、。
確かに、俺も朝から夕方までは時が短く感じられる、、、。あっというまだ、、、。
でも、思考する空白の時間を作るとあまりにも長く感じられる、、、。
タバコをゆっくりすいながら本を読んだり、何かを考えていると時間が長いんだ、、、。
まあ、小学生の頃の方が時間が長く感じられたと思う、、、。日々生きる事が楽しかった、、、。
なきながら家に帰った日もあれば、笑って家に帰っていった日もあった、、、。
どれが、どれと固定される事無く、日々一日一日を大半を笑って過ごした記憶がある、、、。
俺はあの純然性には戻れない、あの楽しかった日々に帰る事はもう許されないんだ、、、。
まあ、過去というモノは美化されやすいものだからそうでない記憶もあるんだが、、、。
そこは省かせてもらおう、、、。そう変化していくものだ、、、。
人は今を刹那的に生きている、ちなみに未来を見ているなんて妄言は俺には通用しないよ、、、。
なぜかって?未来なんてない、、、。結局生きていれば今、未来と考えていたものが、、、。
自動的に今になる、未来なんて俺らが死んだその先の事さ、、、。だから、俺らには未来は無い、、、。
空想を思い描いて満足しているだけなんだよ、、、。でも、それが最も正しい、、、。
満足し続けると言うのが一番に幸せな生き方だからさ、満足していき続ける事が重要なのさ、、、。
ちなみに、俺の場合野良猫を一匹でも見かけたら幸せだと自分に言い聞かせているから、、、。
簡単に幸せと言うのがえられるのかもしれない、でも猫と出会うって結構難しい、、、。
奴らはすぐどっかいって消えちまうから、、、。出会うだけでも珍しいものだ、、、。
まあ、愛猫家の妄言と言う事で丸にしちゃってくださいな、、、。
はあ、駄目だな、、、。
78 :
夢見る名無しさん:04/06/11 16:06
>>76 ほんとに都合のいいテキトーで安易な解釈だな、、お前の他者解釈がな。
>名無しさん
まあ、そうだねえ、、、。結局、俺の主観でモノを見ているから、、、。
だけど、そんな感じになってしまうんではないかな?
人と人とが分かりあえる事なんて、どこかしら限界が存在しているわけだし、、、。
解釈なんて塵芥みたいに山のようにあるわけだしさ、、、。
名無しさんがテキトーって感じられたなら、それはそれで俺は文句は言わんし、、、。
俺も結局は解釈されていくただの存在に過ぎないわけだからね、、、。
まあ、俺はどうでもいいことしか言わないから、俺の事なんぞ気にしない方がいいと思いますよ、、、。
この夢・独り言板にはもっといいスレがありますしね、、、。
俺の下らない思考なんて気にしない方がいいと思われます、、、。
そうでないと貴方も其れ位の人間と思われてしまいますからね、、、。
それにしても雨が続いていくなあ、梅雨と言う事をさっぱり忘れていた今日このゴロですが、、、。
う〜ん、季節感がドンドン壊れていくなあ、、、。アジサイが咲いてて感慨にいたったのも、、、。
相当前の話だしなあ、駄目人間街道をしっかり歩き続けているなあ、、、。
まあ、どうでもいいことだけどね、、、。
はあ、駄目だな、、、。
80 :
夢見る名無しさん:04/06/11 20:25
どれ位の人間と思われようが全然構わないし、俺の心配は無用だよ。
てか、これほど下らない思考を晒しといて、気にするなってのが無理。
>名無しさん
さいですか、、、。まあ、気付いた事があったら書き込んで下さいな、、、。
ただ、sageでお願いしますだ、、、。
何かもう最近言うような事がなくなってきつつあるなあ、、、。
書く事が無いと言うか、思考はするんだが、、、。それは繰り返してしまうきがする、、、。
一様、毎日本を読んでいる事には全く変わりがないのだけど、、、。
本での感想なんてかくきがせんし、脱線していくだけだからね、、、。
色々と時が経つのが早いなあ、、、。本棚には相変わらずゴミのように漫画が積んでいくし、、、。
本もずいぶん溜まったものだな、、、。俺は本からどのようなものを得られたのだろう?
得られたものなんてあるんだろうか?確かに、無駄な知識は溜まって来たかもしれんが、、、。
それを、生かしたような事なんてないし、これから先もある分けないと思える、、、。
本なんて読んでも切りがないのに見つかる事なんて何もないんだけどね、、、。
結局はツマラナイ知識を溜めていくだけで何もならないような気がする、、、。
ためになる知識なんてその知識がよく使われるような立場にいる人でなければ全くの無意味だ、、、。
だから、俺みたいな中途半端な存在の人間にはどの知識も役にはたたないと言う事だ、、、。
でも、役に立つ役に立たない関係なく知識と言うものがどこにでも存在しているような、、、。
今と言う時代はいい時代では無いだろうか?知識は特殊階級の人間のためだけであった、、、。
それが、広くどこでも知識と称されるものがどこにでも存在している、、、。
それが当たり前と感じられるならそれでいい、俺には何も関係ない事だ、、、。
まあ、どうでもいいことだ、、。
はあ、駄目だな、、、。
何か、解釈し続けて生きていると考えて生きてきたら、、、。
何も考える気がなくなってきた、、、。俺は色んな思考上の産物を造って来たと思う、、、。
だけど、それが何かの意味や価値を創って来たと俺は全くを持って思えない、、、。
結局は自分に対する満足に過ぎない、、、。でも、論理と言うのはそうやって創られて来た、、、。
満足を他人に流布してそれが否定されるか肯定されるか、肯定されて強く賛同されるかの違いだ、、、。
俺らの周りにはそれしか存在していない、〜主義、〜理論、〜的、〜性なんて、、、。
他人の満足の塊に過ぎないんだ、俺の思考もそうやって満足して来たとも言える、、、。
だが、この満足性を隠すために覆っているベールみたいなモノが存在している、、、。
それが「客観性」だ、客観的な事実を与えるとその論理が他人に流布されやすい形に変化する、、、。
全ての基礎だが、主張したいモノがあってそれを分かりやすく説明するには、、、。
具体例と比喩、エピソード、統計などを与えるとより鮮明になると教えられたと思う、、、。
全ての論理はその基礎から成り立っている、その基礎から外れた文は何も意味をなさない、、、。
とも言えるだろう、、、。でもだ、その客観性が間違っていたらどうなるんだろうか?
俺らが信じてきた「客観性」自体が全てのものを偽っているとしたら、俺らはどうなるんだ?
そこで、崩壊が起こるんだと思う、、、。既存の価値観の崩壊、そう考えると色んなものを破壊したものだ、、、。
「家」という概念、「クニ」という概念、「正義」という概念、「罪」という概念、、、。
これも挙げていけば切りがないから放置しとくけど、今俺らの社会にたどりつくには、、、。
既存したものを破壊し続けて来た、この破壊の反動としてそれを再起させようという運動があるが、、、。
その運動は絶対的に「客観化」されえないだろう、あくまでも集団の独特の主観にすぎない、、、。
いや、全てが主観と考えるとしたらどうなるだろうか?俺らは客観性を信じているだけで、、、。
その前には集団としての、個人としての主観性しかないとしたなら、、、。
俺らが作り上げて来た客観性と言うのさえ、自己への満足に成り下がってしまうきがする、、、。
客観的なものでさえ、主観的なものへ成り下がれるわけなのか、、、。
続き
そしたら、俺らは主観の中でしか生きていないと言う事なってしまうだろう、、、。
だが、そうとは誰も言いたくないだろうそれでは全ての事が哀しすぎる、、、。
俺も俺というモノが考え出した解釈上でのたうち回っているツマラナイ存在になる、、、。
実際はそうなのだが、誰もそうとは思いたがらないし、どこかしらで客観性を保持したがっている、、、。
醜いあがきとしてでもだ、、、。しかし、その客観性がどこで保持されているかが問題だ、、、。
自分の中だけであったら、それは主観以上のものにはなりえないだろうし、、、。
結局、客観性と言うのはその主観性の集合体としか言えないのだろうか?
法と言う概念も成文法ではなく慣習法という領域ないで考えてみようとすれば、、、。
殺されたくない、財産を失いたくない、蓄積されて来たものを消されたくはないと言う、、、。
ここの主観の上で成り立ち、その主観の集合体で客観化されえたものであろう、、、。
俺はさっき集団独特の主観とといたが、その集団独特の主観が、、、。
集団として規模を拡大したり、大多数の肯定により認可される事によって、客観化されるんだ、、、。
でも、俺の言葉は永続的に主観の領域を超える事は確実に無い、、、。
個人の腐れた妄言と言う領域で楽しがっていればいいのだ、俺は小人なのさ、、、。
だが、俺の腐れた妄言もどこかで基礎的なものを否定する能力は存在しない、、、。
人は超越することはできないんだ、何もかもから超越したと思い込んでいるだけで、、、。
何も超える事は無い、人の周りには壁しか無いんだ、、。でかつ超える事は無い、、、。
そう人が馬鹿にしあう事で満足し続ける世界なんだ、馬鹿の壁も死の壁も実は存在しない、、、。
あると思い込んでいるだけなんだ、壁なんて人が作り出したものに過ぎないんだ、、、。
それは自分の主観が客観化されえないという事実を憎んでいるだけにすぎないんだ、、、。
それを壁だと思い込んでいる、、、。幸せだな、、、。
続き
俺はあれは間違っているとか正しいとか言いたくなくなる気分によく陥る、、、。
ちなみに、自分が痛い事を書くのはその気分に完全に除外されている時が多いけど、、、。
俺の中にはそういう存在が沢山いるから全くを持って気にしちゃあいないけどね、、、。
そう考える俺も俺だし、その考えをきらう俺も俺だ、自分を越ええないのに、、、。
なぜ、人を超える事を望むんだろうか?等身大の自分なんて嘲笑える程小さいものだ、、、。
誰も彼もがその等身大の自分を抱えて生きている、それは当たり前な話だ、、、。
でも、人はそう分かりながらも自分や自分の周りの存在を誇張したがる、、、。
自分と言う存在に諦めを抱きながら、その反対の意志として力を求めたがるのだ、、、。
人の周りには壁があるんではなくて、俺らは飼い犬の如く首輪がつけられそれ以上動けないだけだ、、、。
しかし、俺らはその首輪の縄を憎むんではなくてその先にある壁のようなモノを憎んでいるんだ、、、。
又はその壁を憎めと俺らはしっかり教育され続けて来たんだと思う、、、。
首輪をつけさせられている事を忘れきって、目の前にある壁を憎み続けている、、、。
面白いほど滑稽な話だ、、、。又、自分がどのような狗であるかも忘れているだろう、、、。
俺らは無意識の内にその前提を引っくり返す事を完全に忘れきってしまったのだ、、、。
だが、その前提を引っくり返す事はできない、、、。それは自分の自尊に関わってくる、、、。
ではその自尊とは、、、。そう、それこそ俺らが信じ続けた主観なのだ、、、。
どのようなあがきを為しても人はその自分の主観性からは逃れない、、、。
まあ、その主観だの客観だのと考えられる思考が自分の主観性を表しているとも言えるかもしれんな、、、。
まあ、完全にどうでもいい話だ、、、。
はあ、駄目だな、、、。
もうどうでもいいや、、、。
もう何も意味を為さないし、もう意味をなすにしても文上の空理空論だ、、、。
結局は行動論の上に行かなくては何も意味が無く、空理空論で死にたえるだけだ、、、。
どんなに高等な論理を見せびらかせても、実際見える事が何か変化すると言うわけではない、、、。
情報の中をのたまっているだけなんだ、、、。意味も無くだ、、、。
ちなみに、自分には関係ないよう考えているものがいるかもしれないけど、、、。
それは下らない傲慢だ、俺は常に傍観者でありたいと言ったけど、、、。
現実上無理だ、、、。俺は矛盾していく塊だ、空理空論の塊である、、、。
そうやって何も意味をなさない事を吐いていく、、、。
もう疲れたよ、、、。やめだ、止め、めんどくさいから、、、。
もう何も必要としない、、、。
俺にはこの場もめんどくさくなった、、、。
もう書き込む事は尽きた、、、。
この先には同じような言葉を繰り返して満足にふけるだけだ、、、。
何も無い、、、。
俺はもう止める、そんじゃ、、、。
気付くの遅すぎw
元々、無駄な事だったのに。
お前の存在なんて意味ないし、何言っても何やっても無意味だと思う。
空転する似非論理の陰に文学的含蓄が有ったわけでもなし。まさに駄文だった。
気が向いたら戻っておいで。