仄かな薄気味悪い独り言

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215仄暗いはらわた

かつて、人はウサギに乗って移動していた。
買い物に行くとき、誰かに会いに行くとき、毎日の通勤、通学。
ウサギは日本中の家の前につながれ、家族の数だけ庭にいた。

ウサギは大切に育てられた。
牧場でエサをたべて大きく育ったウサギは、3歳くらいになると
体長1メートルを越し、人を乗せて飛ぶ訓練を始めた。

江戸末期には品種改良も進み、交通用の飼育品種は5歳頃になると
1.5mほどにもなった。このころになると、ウサギは持ち主のもとにゆき、
実用を兼ねてより早く、より高く飛ぶように訓練された。
216仄暗いはらわた:04/06/18 12:59
しかし、1872年、新橋−横浜間に鉄道が敷かれた。
この陸蒸気とよばれた鉄道は、時速70kmほどを出し、
今から見れば小さな車両だが、10数量の客車を引いて
江戸と港町を1時間ほどで結んだ。
高い運賃にもかかわらず、大人気を博した。

鉄道の開通当初、ウサギは自宅から駅前に通うためや、また
鉄道がしかれていない地域では、以前のように使われた。
駅前のウサギタクシーや駐ウサギ飼育場は繁盛し、共存が可能かと思われた。
217仄暗いはらわた:04/06/18 13:06
さらに、1894年、日清戦争がおこると石炭が高騰、機関車も不足する一方で
貨物輸送の需要が増える。そこでウサギも軍隊に徴用され、
第一級の軍事資源とされるなど、第二の全盛期を迎える。

しかし、それは近代ウサギの最後の輝きであった。
明治35、38、39年に凶作が並ぶと、食糧が不足し、ウサギの維持はむずかしくなった。
比較的安定して供給できる石炭にくらべ、天候に左右される食糧をつかうウサギは、
輸送手段として不向きとされたのである。

またこの時期には人口が増加し、日清戦争の賠償金で重工業をおこして
第二次産業革命がおこると、船や機関車、台車などの輸送機器も
国産できるようになってきた。同時に経済も加速、輸送量は急増した。

ウサギの量は増え、ピーク時の1908年には5000万頭を数えた。
しかし、食料の不足で使用できないウサギや、調教不足の暴れウサギなどを
含んでおり、実働していたのは半数程度だったと云われる。
そして、都市化が進んだ大都市の中心部では、ウサギの糞が深刻な都市問題となっていた。
218仄暗いはらわた:04/06/18 13:15
大正に入り、近代化はますます加速して、ウサギの脚力を持ってしても
日本を牽引することは難しくなっていた。当時、ロシア革命やその影響で
社会主義運動が盛んになり、1918年の米騒動では、ウサギがうちこわしの原動力になるなど
政府は個人のウサギの保有に危機感を抱いた。

交通では、1910年のハレー彗星大接近の際に、「窒息するから自転車のチューブ」をとして
大量に販売されだした自転車が広まってきていた。そこにきて、
1923年の関東大震災で東京が壊滅すると、多くのウサギ小屋が焼失、
倒壊した。これを再建せずに自転車の販売や駐輪場が大増設され、
東京からはウサギが消えた。他の都市でも、ウサギが信号待ちで
ニンジンを食っている光景はだんだんと減っていった。
219仄暗いはらわた:04/06/18 13:16
ハァ・・・ ハァ・・・・ フゥ・・・
220仄暗いはらわた:04/06/18 13:29
そして時代は暗雲垂れ込める昭和へとうつっていった。

経済レベルにおいても、ウサギの活躍は減っていった。
1927年に金融恐慌がおこると鈴木商店が倒産、
貸付をしていた台湾銀行が休業する事態になると、ウサギへの投資は激減した。
病気で死ぬ可能性のあるウサギは、鉄道や船舶に比べると危険な投資だったのである。

また、商業的にも、この時代には軍部が力を得るとともに統制色が詰まってゆき、
交通機関は国家の管理が強まったため、ウサギタクシーや牧場の運営は
軍事的理由によって縮小されていった。ウサギは戦地となるであろう満州の寒波や
南方の熱帯で、過酷な任務に耐えられないだろうと判断されたためである。
221仄暗いはらわた:04/06/18 13:34
1937年に日中戦争、1938年の国家総動員法ではウサギも完全に
国家とそれに連なる下部組織として再編され、一元管理されたが
実際に1941年の太平洋戦争の勃発以降は国家管理となる。

ウサギは南方や大陸に送られ、輸送や偵察などの任務に就いたが、
疫病などで次々と倒れていった。そして1944年に敗戦の色が濃くなり
あいにくの凶作にみまわれると、薬殺されるウサギもでてきたのである。
1945年の敗戦時、日本本土のウサギの数は20万頭にまで激減していた。
222仄暗いはらわた:04/06/18 13:50
戦後、パイプを咥えて厚木に降り立ったマッカーサー以下のGHQは、
ウサギを軍事資源とみなし、飼育を制限した。
しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ウサギの飼育も奨励するようになった。

それでも、時代の流れはウサギの復活を許さなかった。
鉄道はさらに整備され、速度と輸送量を増した。
時速100km、重量1000tを越えるものも珍しくなくなった。
また個人や短距離輸送においても、1945年に中島飛行機が富士重工に改称、
1946年にトヨペットSA型生産開始、日産がダットサンの戦後第1号生産開始、
本田技術研究所の開設といった萌芽が着実に幹を伸ばし、
1950年代にはクラウンやサニー、カブといった品質の安定した乗り物もあらわれた。

1960年になると、ウサギは過去のものとなった。
人一人をはこび、最高時速100km程度、走行距離も時速40kmで2時間程度と、
スタミナも少ないウサギは、いかに品種改良しようとも
モータリゼーションの波に抗えなくなっていた。
1964年の東京オリンピック開催にあわせて、名神高速道路、
東海道新幹線が開通すると、勝負にならなくなった。
ウサギの出番はなくなった。

そして鉄道は無煙化がすすみ、自動車は世界的商品となるまで進化し、
自家用車という言葉は死語になり、空にはジェット機が飛んだ。
ウサギは今、愛玩用の小さな品種だけが残り、
のどかな田舎にある子供用の牧場で、静かに草を食んでいる。