かつて、人はウサギに乗って移動していた。
買い物に行くとき、誰かに会いに行くとき、毎日の通勤、通学。
ウサギは日本中の家の前につながれ、家族の数だけ庭にいた。
ウサギは大切に育てられた。
牧場でエサをたべて大きく育ったウサギは、3歳くらいになると
体長1メートルを越し、人を乗せて飛ぶ訓練を始めた。
江戸末期には品種改良も進み、交通用の飼育品種は5歳頃になると
1.5mほどにもなった。このころになると、ウサギは持ち主のもとにゆき、
実用を兼ねてより早く、より高く飛ぶように訓練された。
しかし、1872年、新橋−横浜間に鉄道が敷かれた。
この陸蒸気とよばれた鉄道は、時速70kmほどを出し、
今から見れば小さな車両だが、10数量の客車を引いて
江戸と港町を1時間ほどで結んだ。
高い運賃にもかかわらず、大人気を博した。
鉄道の開通当初、ウサギは自宅から駅前に通うためや、また
鉄道がしかれていない地域では、以前のように使われた。
駅前のウサギタクシーや駐ウサギ飼育場は繁盛し、共存が可能かと思われた。
さらに、1894年、日清戦争がおこると石炭が高騰、機関車も不足する一方で
貨物輸送の需要が増える。そこでウサギも軍隊に徴用され、
第一級の軍事資源とされるなど、第二の全盛期を迎える。
しかし、それは近代ウサギの最後の輝きであった。
明治35、38、39年に凶作が並ぶと、食糧が不足し、ウサギの維持はむずかしくなった。
比較的安定して供給できる石炭にくらべ、天候に左右される食糧をつかうウサギは、
輸送手段として不向きとされたのである。
またこの時期には人口が増加し、日清戦争の賠償金で重工業をおこして
第二次産業革命がおこると、船や機関車、台車などの輸送機器も
国産できるようになってきた。同時に経済も加速、輸送量は急増した。
ウサギの量は増え、ピーク時の1908年には5000万頭を数えた。
しかし、食料の不足で使用できないウサギや、調教不足の暴れウサギなどを
含んでおり、実働していたのは半数程度だったと云われる。
そして、都市化が進んだ大都市の中心部では、ウサギの糞が深刻な都市問題となっていた。
大正に入り、近代化はますます加速して、ウサギの脚力を持ってしても
日本を牽引することは難しくなっていた。当時、ロシア革命やその影響で
社会主義運動が盛んになり、1918年の米騒動では、ウサギがうちこわしの原動力になるなど
政府は個人のウサギの保有に危機感を抱いた。
交通では、1910年のハレー彗星大接近の際に、「窒息するから自転車のチューブ」をとして
大量に販売されだした自転車が広まってきていた。そこにきて、
1923年の関東大震災で東京が壊滅すると、多くのウサギ小屋が焼失、
倒壊した。これを再建せずに自転車の販売や駐輪場が大増設され、
東京からはウサギが消えた。他の都市でも、ウサギが信号待ちで
ニンジンを食っている光景はだんだんと減っていった。
ハァ・・・ ハァ・・・・ フゥ・・・
そして時代は暗雲垂れ込める昭和へとうつっていった。
経済レベルにおいても、ウサギの活躍は減っていった。
1927年に金融恐慌がおこると鈴木商店が倒産、
貸付をしていた台湾銀行が休業する事態になると、ウサギへの投資は激減した。
病気で死ぬ可能性のあるウサギは、鉄道や船舶に比べると危険な投資だったのである。
また、商業的にも、この時代には軍部が力を得るとともに統制色が詰まってゆき、
交通機関は国家の管理が強まったため、ウサギタクシーや牧場の運営は
軍事的理由によって縮小されていった。ウサギは戦地となるであろう満州の寒波や
南方の熱帯で、過酷な任務に耐えられないだろうと判断されたためである。
1937年に日中戦争、1938年の国家総動員法ではウサギも完全に
国家とそれに連なる下部組織として再編され、一元管理されたが
実際に1941年の太平洋戦争の勃発以降は国家管理となる。
ウサギは南方や大陸に送られ、輸送や偵察などの任務に就いたが、
疫病などで次々と倒れていった。そして1944年に敗戦の色が濃くなり
あいにくの凶作にみまわれると、薬殺されるウサギもでてきたのである。
1945年の敗戦時、日本本土のウサギの数は20万頭にまで激減していた。
戦後、パイプを咥えて厚木に降り立ったマッカーサー以下のGHQは、
ウサギを軍事資源とみなし、飼育を制限した。
しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ウサギの飼育も奨励するようになった。
それでも、時代の流れはウサギの復活を許さなかった。
鉄道はさらに整備され、速度と輸送量を増した。
時速100km、重量1000tを越えるものも珍しくなくなった。
また個人や短距離輸送においても、1945年に中島飛行機が富士重工に改称、
1946年にトヨペットSA型生産開始、日産がダットサンの戦後第1号生産開始、
本田技術研究所の開設といった萌芽が着実に幹を伸ばし、
1950年代にはクラウンやサニー、カブといった品質の安定した乗り物もあらわれた。
1960年になると、ウサギは過去のものとなった。
人一人をはこび、最高時速100km程度、走行距離も時速40kmで2時間程度と、
スタミナも少ないウサギは、いかに品種改良しようとも
モータリゼーションの波に抗えなくなっていた。
1964年の東京オリンピック開催にあわせて、名神高速道路、
東海道新幹線が開通すると、勝負にならなくなった。
ウサギの出番はなくなった。
そして鉄道は無煙化がすすみ、自動車は世界的商品となるまで進化し、
自家用車という言葉は死語になり、空にはジェット機が飛んだ。
ウサギは今、愛玩用の小さな品種だけが残り、
のどかな田舎にある子供用の牧場で、静かに草を食んでいる。