たとえば人と競争するとき、初めに負けると、その後はいくらがんばってもなかなか勝てません。
反対に、初めに一等をとると、その後はいつでも一等がとれるようになるようです。
また、最近困っていることですが、昨夜原稿を書いたのですが、三時間もぶっ続けにやっていると疲れ
ます。それで、途中で「仕事の転換をしたら能率が上がるだろう」と思い、本を読みはじめたのですが、
すると本の方がおもしろくなって、なかなか原稿を書く仕事にもどることができません。絵を書いても
同様で、一度やりはじめたらもうほかの仕事ができません。このような場合、ムリにでも転換して勉強に
とりかかった方がよろしいでしょうか。
森田 その「ムリにでも」ということが、私がいつもいう「思想の矛盾」であり、強迫観念の形になる
からいけないのであります。つまり、「こうしなくてはならない」ということが心の葛藤になり抵抗に
なって、自然の心の流動をふさいでしまうことになるのです。
たとえば絵を書くとかいう仕事にあぶらが乗っておもしろくてたまらないとかいうときに、他の仕事に
転換しようとすることは当然むずかしい。だからその気持ちはそのままにして、それに対して反抗を
こころみるようなことはしないでおき、一方で気がるにウーンと身体の伸びをするとか、立って、
帯を結びかえるとか、ちょっと引出しの中を整理するとかします。それは仕事の能率には関係しない
わずかの時間のことですから、抵抗なしにできます。
この時、「ムリにでも」という心の反応がなければ、伸びをした拍子にフト額の字が目にとまるとか、
あるいは縁先にきた犬に気がつくとか、かならず何かと心が開発されて、簡単に仕事の転換ができる
ようになります。これは体験を積まなければ、理屈ではけっしてわからないことです。
とにかく仕事の転換にもっとも必要な条件は、「こうしなければならない」という心の抵抗がなくなる
ことであります。 なお、このようなことを体得するには、自力的に努力するよりは、他力的に環境を
選ぶということがかんじんです。
たとえば、布留君が私の近くにいて勉強しているとすれば、ときには私に話しかけられたり、用事を
たのまれたりしますから、他力的に仕事の転換をさせられることになります。水谷君はこのことを
知ってかどうかわかりませんが、いつも私に接近し、私のいる部屋の近くで勉強しています。その方が、
かえってよく勉強ができるのではないかと思われるのであります。
これによって考えても、家がゆたかで大事にされ、わがまま一杯で静かな部屋を占領して勉強して
きたような人は神経質になり、心の自然の活動がにぶくなるので進歩しませんが、苦学して人の世話に
なりながら勉強した人は、そんなわがままが許されないので、かえって実生活に活用できる勉強ができ、
仕事の転換なども自由にできるようになるということが想像されるのであります。
私も以前に、原稿をまったく休息なしに八時間もつづけて書いたことがあります。その時は万年筆を
持つ指がへこんで痛くなり、指もこわばって動かないほどになりました。前にもお話したことですが
神経質の人は惰性がつよくて、仕事の転換などもなかなかむずかしいものです。それは価値批判に
とらわれるために心の葛藤がつよいからであります。
私の甥に土居光知という英文学者がいますが、学生時代しばらく私の家にいたことがあります。その
勉強の仕方を見ると、一時間ぐらいやっているかと思うと、ちょっと庭に出たり、あるいは私ども
夫婦のところへきて話をし、五分か十分するとサッサと切り上げてまた勉強にとりかかるというふう
です。上手な勉強の仕方ですが、神経質の人にはこんなやり方はなかなかできないものです。
また布留君がいった勝負ごとの話ですが、兼好法師の「徒然草」に、「碁を打つとき、勝たんとす
べからず。負けじと打つべし」ということがありますが、どうもどちらもよくないのではないかと
思います。勝とうとあせれば自分の手ぬかりに少しも気がつかなくなりますし、負けまいとがんば
れば相手の手が見えなくなります。
ところで、勝ちグセがつき、調子に乗ったときには、勝とうとか負けまいとかいう勝敗の心を超越
していて心に少しも葛藤がなか、よく周囲の状況がわかりますから自分の力量を充分発揮することが
でき、したがって、よく勝つようになるのだと思います。しかしそれも、やはり自分の力量以上では
ありませんから、あまりこのことを重く考えすぎてはいけないでしょう。
水谷 私もひところ、学校の教科書を読むのがどうもイヤで、小説や文学論など自分の好きなもの
をよく読んだものです。かんじんの学校の勉強はあまりできないので、自分を意志のよわい、努力の
できないあわれな人間と思って苦にしていました。
ところが先生に、「おもしろいものは当然やめられないと覚悟すればよい」といわれ、小説なり何なり、
おもしろいものをドンドン読んでいると、何だかそれがつまらなく、物足らなく感じられるようになり、
もっと有益なものが読みたくなってきて、いまでは小説などめったに読むことがないようになりました。
布留 いまの話で、ひじょうによくわかりました。
続きまってました!
でもこんな重労働してまでカキコしてるのは何故?
講談社新書の「森田療法」好きだな〜
アテクシはヒステリーざんす。
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私は書記恐怖症。
いろんな神経症の人がいるもんだ。
で、続ききぼんぬ。
キリ番げと強迫。なんちて。
絶対癌だ・・癌に違いない・・
>>94の続きから
森田 私も中学時代、イヤな課目は手を出すのがおっくうなのでツイツイ後まわしにし、とうとうやらずに
しまうという傾向がありました。それで、数学などはいつもひどく成績が悪くて、やっと及第するという
ありさまでした。ところが中学四年のとき、「もし数学がほんとうにできないようであれば、将来とても上級の
学校に進学できる見込みはない。ここで一奮発しなければダメだ」と決心しました。そこで、次のようなやり方
をしました。
まず数学の勉強について、五分間でもよい、イヤになったらすぐやめることにして、とにかくとり
かかるということにして、自分で自分をだますつもりでやりはじめたのです。そうすると、いつの間にかおも
しろ味ができてきて、勉強が苦しくなくなりました。それで、中学五年と旧制高校とでは、数学に「優」をとる
ようになったのです。このような体験を重ねているうち、物ごとは何でも気軽く、まず着手することが
大事だということがわかったのであります。
布留 私はちょうどそれと反対のことをやっているのですね。おもしろいことを五分間やってやめよ
うと思ってとりかかり、ツイそれに深入りしてしまうのです。
5 暴力肯定論の誤り
早川 神経質は欲望が大きくて負けぎらいで、空元気で強がろうとしますから、人から普通の“わん
ぱく”と同じように思われるのではないでしょうか。
古閑(医師) 神経質も、何かの機会に自分の欠点に気がついて劣等感を起こすまでは、内気でない
ことがあります。たとえば、学校で人に笑われたとか、試験にしくじったとかいう時に、それが機会的
原因となって、いままでかくれていた素質が外面にさらけ出されるというふうです。神経質でも子ども
のときに乱暴なのはいくらもあります。
井上 腕白の話が出ましたが、子どものときはもちろん、中学の終わりごろまでなかなか乱暴をやっ
た人が形外会員の中にもいくらもいます。また坪井さんのように、子どもの時は劣等感とは反対の優
越感にひたっていたという話もありました。私自身も子供の時には腕白坊主でありましたが、先生から
は神経質と診断されました。自分としてはヒステリーじゃないかという疑いが起こることもあります
が、先生から神経質だといわれれば仕方なしにそうかと思うだけのことであります。
ところで簡単な自己批判をやってみようと思います。私は乱暴者で、現在でも自分は硬派に属する
と考えられます。旅館の番頭になって紀州の白浜温泉に行っていたころ、例の宝塚の踊りも見ましたが、
あんなハイカラなものは、サッパリおもしろくありません。ダンスより柔道の方が興味があります。
現在熱海には柔道場がないので、弓をやっているという状態です。近ごろはかなり暴力が横行してい
ますが、私はめんどくさい議論をするより実行が好きな方で、ある場合には暴力を是認してもよいと
いう考えをもっています。
坪井 私は僧侶ですが、必要とあらば暴力をもってやった方がいいと思っています。仏教界も過渡期
でありまして、とくに私どもの宗派では正しい者が没落して、金力のある者、あるいは“悪らつ”な者
が高い地位を得てきています。選挙でもあまりおとなしくしていると、正しい者も打ち負かされること
になります。きわどいところは、議論するより暴力でやる方が、話が早くつくようです。
古庄夫人(中学教員) 楠正成はその旗に、「非理法権天」という文字を書いていました。非よりも
道理が勝ちます。しかし道理に合っていても、法にそむいた時には負けます。ところが法に定められた
規則でも、権には勝てません。暴力も権だと思います。しかし権も天の裁きには負けます。結局の
勝利は天にあるわけです。正成はこの信念で吉野朝廷のために奮闘しました。私は、一時は暴力が
勝ちを占めるようなことがありましても、やはり究極は正しい者が勝つと思います。
森田 真正面から攻撃するとかいう理想を神経質の人がもっていても、それを直接に実行することは
なかなかむずかしいものです。発揚性気質の人ならば、こうしたことがアッサリいえるし、実行もでき
ます。ところが神経質の方は直言し、直接的に実行することはできないで、遠まわしに相手をやっつ
けるのであります。現に井上君でも坪井君でも、暴力を振るうことに賛成しても、実際に直言し、暴力
を振るうことはやっていないことがそれを立証しています。
布留 私はごらんのとおり身体も細いし、力もありませんが、負けるのはやっぱり人並みにくやしい
のです。友だちと議論して、相手が暴力でおどかすようなときには、くやしくてその場でもやっつけた
いと思います。しかし手を出せば、私の方が負けることはうけあいなので、うまくごまかして逃げてし
まうのですが、あまり愉快なものではありません。それで、負けて勝つということを、いろいろと工夫
したものであります。
宇野浩次さんがひところ無抵抗主義をとなえていました。相手からタンをはき
かけられても、だまっていたそうです。ここまでくると、負けるのも張り合いがあって、かえって痛快
です。またある坊さんは、「自分は暴力は振るわないが、どんな乱暴な狂人でも自分に対しては抵抗し
ない。それは自分に邪気がないからだ。狂人でも、子どもには乱暴しないものだ」といっています。
こんなことから、一時は無抵抗主義を大いに賛美しました。しかしいまでは、腕力もなかなか必要なも
のだと考えています。陰険な奴や、“わからずや”はなぐるにかぎります。
森田 暴力の話がしきりに出ましたから、それについて話してみましょう。私は中学と高校時代に
柔術、撃剣、居合をやりました。これでも、柔術と居合は初伝の免許をもています。柔術では、ぶっつ
づけに十四名にケイコをつけてやったことがあります。しかし私は、この年になるまで、暴力を振るっ
たことは一度もありません。おそらく、井上君もそうであろうと思います。私どもがむかし、武道を
やったのは、もし自分に対して暴力を振るう者があればいつでも相手ができる、というイバリと安心を
得ることが目的でありました。
じつは血気さかんのころには、暴力者に出会ってみたいという気分も大いにありました。またある時
には、暴力なしに相手に勝ったこともあります。暴力を加えたことはありませんけれども、酔狂者を
とりおさえたことは二度ばかりあります。
さて井上君の話を批評してみますと、私どもが理屈をいったり、主義を立てたりするのは,ある目的
に対する希望をあらわすものであります。その目的は、多くの場合、自分にとってなかなか得がたい
こと、あるいは自分にはできないことであります。ふだん自分に平気でできることには、なにも理屈を
いったり、主義を立てたりする必要はありません。だから、金持ちの息子が倹約主義をとなえたり身体
の頑健な人が衛生の理屈をいったりはしないものであります。
それと同じ関係で、学者や知識のある人は知識欲がつよいために、つねに自分を愚者のように思い、
柔順な人はいつも自分を不真面目で不徳義ではないかと反省するというように、その人の実際の事実と
理想とはちょうど反対になることが多いのであります。ところで私どもは、あまり自分の理屈や主義
主張にとらわれると、その間の矛盾に気づかずに、理想や主義を自分に実際にできることと思い込む
ようになるものであります。それが、普通の人の思いちがいやすいところであります。
井上君が暴力を肯定するというのも、ほんとうはなるべく暴力なしに勝ちたいからであろうと思われ
ます。また布留君の暴力の無抵抗主義も、結局は人に勝つのが目的でありましょう。ところでこの暴力
肯定論が一歩脱線すると、自分は気づかないで、なるべく他人に暴力を振るわせて、自分はその危険か
ら遠ざかるということになって、「ケンカのわきでモチを拾う」というようなずるい態度になります。
左翼あるいは右翼の扇動者には、とこどきこの種の人がいるように思われます。私自身もひそかに自分
を反省してみると、多分にそれと同じような考えがあることを自覚するのであります。自分は暴力を
振るう危険は避けたいけれども、他人がやってくれればいい、と思うことはたびたびあります。
暴力は、一口にいえば世の中の事実であり、現象であります。正邪はあとからくっつけた理屈です。
事実でありますから、よくともわるくとも仕方がありません。ここの修養で大事なことは、こうした世
の中の事実をありのままに認めるということであります。それは、わかりきったことのようで案外むず
かしいものです。事実をありのままに認めようとしないで、理屈にあてはめようとすると、矛盾におち
いります。
井上君が、自分ではまだ一度も暴力を振るったこともないのに、思想をもって暴力を肯定しようとする
のも、事実と違う点であります。
世の中には、デモクラシーとかヒューマニズムとかを論じ、宣伝する学者、道徳家、宗教家などがい
ますが、しかしその宣伝するその人がみずから民衆のために進んで犠牲になる人であるかといいますと、
なかなかそうではないのです。強調し、宣伝するのは人びとをはやし立て、けしかけることでありま
して、世間の人びとに正しいことをさせるのが目的であることが多いのです。こんな都合のよいことは
ありません。理屈の便利さはそこにあります。理屈ばかり知りすぎると、人の欠点ばかりとがめて、
自己内省はお留守になることが多いものであります。
著作権法の遵守
>>124 これからが本当は面白いんだけどなあ・・・。
君がそう言うならやめた。
いやああああ
やめないで・・・
127 :
引用について:03/06/07 11:57
著作権法
(引用)
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
129 :
ニュー強迫:
2chが生む新たな強迫神経症は?