神戸事件の謎に迫る(2)

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197やま
これは別の場所で読んだのですが、まだ犯人が逮捕されていない6月9日の時点で、淳君の兄敬君が登校を開始しています。それについて著者は「家にずっと閉じこもっているよりも、やはり外に出て友達と話したり、遊んでいる方が、敬の精神衛生上にはプラスになりますし、だいいち、本人もずっと気が紛れるはずです」(p103)と述べています。しかし、自分の子供があんな殺され方をした後、まだ犯人も捕まっていない状況で、いくら警察の捜査の中とはいえ、もう一人の子供を弟の殺された学校に通わせる気になるでしょうか。もちろん付き添いはついていたのかもしれませんが、少なくとも著者はそのことには触れていません。

最後に全体を通して感じたことですが、大変失礼な言い方ですが、事件に関する著者の記述を読みながら「何か不自然なほど平板な記述」に違和感を感じざるを得ませんでした。読んでいて、息子を残虐無比なやり方で殺された親の「なまの」感情がなかなか伝わってこないのです。

これは、加害者の両親としてのもう一方の当事者である「少年Aの父母」による手記と読み比べてみればいっそうはっきりします。普通、自分の子供がこれだけの事件に巻き込まれたら、「A」の父親による次の言葉の方がリアリティがあるような気がします。

「あまりのことに、記憶も途切れ途切れにしか残っていません」(『「少年A」この子を生んで…』p60)

被害者の父親という『淳』の著者の立場を考えれば、これらの感想はあまりに非常識で残酷であるとは思います。しかし、おそらくこの本の読者の中には、脳裏にかすかに浮かんだこのような疑問や違和感を押し殺してきた人もいたのではないでしょうか。それはこの事件の最大のタブーといっていいのかもしれません。私自身、こう書きながらも一抹の罪悪感のようなものを感じるのは事実です。しかし、もしかしたら、このタブーを乗り越えたところに「真実」があるのかもしれないという予感すら覚えたのです。