神戸事件の謎に迫る(2)

このエントリーをはてなブックマークに追加
192須磨厚久
(そして具体論)
 ここで、このスレの議論における、基本的対立点をまとめておきたいと思う。

 論点は、いうまでもなく「家裁決定が間違っていた可能性」すなわち「冤罪の可能性」が“高いのか否か”である。なぜ、ストレートに「家裁決定が間違いであるか否か」じゃないのかと言うと、犯人特定に至る証拠か開示されていないからである。つまり、両方の立場共に「確かな事実は解明のしようがない」という前提に立っているのだ。
 結局、証拠や審判の中身が分からない以上、冤罪であることを証明するのは無理である。と同時に、冤罪の可能性を否定することも無理なのである。まずは、この二点を押さえておいて欲しい。
 ここで、第一の立場は「確かなことが分からないのであれば、一応は信任されている機関が認定し、手続き的にも処分が確定した(係争がなかった)事実を以て、我々は家裁決定を信用する以外にない」という考え方である。
 そして、第二の立場は「確かなことが分からなくても、我々の知る範囲の情報を駆使して事件を推理することで、冤罪の可能性が高いか否かを探っていくことはできる」という考え方である。
 もう、おわかりのことと思うが、第一の立場は「可能性の議論」ではない。機関や制度に対する「信用の議論」である。平たく言えば「分からないから疑うのか、分からないから信じるしかないのか」と言うことだ。
 どうも私には、鏡氏の論調が「分からないから信じるしかない」とおっしゃっているように聞こえたので、何度か確認のつもりで次のような質問してみた。それは「機関、制度に一応の信頼を置く帰結として、冤罪の可能性が低いと言うのか? すなわち、家裁決定が『不処分』であれば、君はそれでも納得できたのか?」というものだ。返ってきた答えは「家裁決定を支持する根拠は、我々が知る範囲の情報である」であった。つまり、ご自身の推理が「犯人=A少年」であり、家裁はその推理に合致する決定を下したから支持するという立場を表明されたのだ。そうであれば「分からないから信じるしかない」という立場ではない。
 ところが、ところがである。鏡氏はいままで一貫して「冤罪説の疑惑は、家裁決定(の信用度)を覆すだけの根拠を持たない」と主張してこられている。そして、ご自身の推理の根拠を「信用できる機関(家裁)が認定し、当事者の誰もが異議を唱えなかったこと」に置かれているのである。となれば、やはり「分からないから信じるしかない」という立場に逆戻りと言うしかあるまい。事件に対するご自身の推理が「犯人=A少年」だったのではなく、「A少年の非行事実が家裁によって認定され、異議が出なかった」から、それを信用するとおっしゃっているにすぎないのだ。 これでは、いくら第二の立場で、推理を戦わせようとしてもすれ違いである。さらに鏡氏は、冤罪説の根拠が弱いと言うのも「確かなことが分からないから」としておられる。これは、まさに「分からないから信用するしかない」いや「信用するべきだ」と言うのと同じではなかろうか?
 家裁の決定に間違いがあった可能性を議論している時に「家裁は信用のおける機関だから」という前提を持ち出せば、答えはひとつしか出てこない。いや、その前に議論にならないだろう。家裁(や捜査機関、弁護団)の信用度は、もとより議論の外なのであると思うが、皆さんはいかが思われるだろうか?