1 :
少年法により名無し :
2006/03/21(火) 18:08:29 0
●このスレにレスしようと考えている小犯新人住人さんへ●
まぁこんな感じですわ。このスレは自演房が元々自分でスレ立てて。存在しない住人を
作って加害者への罵詈雑言被害者への同情を一日中書き込み、作られた流れに感化された
少年犯罪板新人さんがレスし始めると今度は逆の事をして煽り、反応を面白がる。
それが病みつきになって立て続けてる真性キチガイスレッド。
住人が居ない上にID不可視をいい事に自演し放題(4年以上)
訳の分からん住所を加害者の所在だTELだと書き込みしてはイタズラ電話やらビラ貼りを
煽り、影で面白がる。
終いには加害者降臨ごっこやら探偵ごっこ。
煽りに都合のいいようにガセ情報ネット中に書きまくり。
このコンクリ自演房が架空住人を作って人気スレに見せ掛けているのが判明したのが去年の
9月。
http://makimo.to/2ch/tmp5_youth/1126/1126178367.html スルーしても何してもやめやしねぇ。
とりあえずこのスレに書かれることは何も信用するな・・・。
何か書く時は絶対にsageて書け。
自演があげまくるから少しでも自演の架空住人と見分ける目安になる。
※ ※ ※ 自演嵐の主な特徴 ※ ※ ※
(新人さんは必ず読んでね。嵐は他のスレにも出張するよ)
特徴)あちこちにコンクリスレを立てて好奇心を引こうとする
(最終的には自演しやすい少年犯罪板へ誘導)
特徴)「お前加害者か?」「お前○○(加害者の名前)か?」等のレスパターンが好き。
特徴)トリップHNが大好き
特徴)芝居がかった鼻息の荒いレスが多い
特徴)架空住人を作ってスレの95%を一人で埋める(ライフワーク)
特徴)加害者100人をやたら誇張 !
特徴)被害者に同情するレスも付けスレ住人を増やそうとする。
特徴)悪戯電話を要求するのが好き
特徴)関係者、情報通を装って妙な事を言い始める
(酷い時には日代わりで関係者を降臨させる事もある)
特徴)話にガンダムを絡めることがある。
特徴)有り得ない非常識さを晒すことがある
特徴)レスの前半の話と後半が繋がらない時がある。
特徴)面倒になるとコピペ (粘着し始めるとスレと無関係なコピペが増えてくる)
特徴)土日祭日平日関係なく一日20時間自演。
特徴)(荒らす時は)自分で自分を攻撃するレスを付け
『みんながやってる』
ように見せスルーを困難にする。
特徴)初心者を装ったレスで質問してくる。
特徴)古いアニメネタが多い(80年代後半〜90年代、集英社アニメ化作品が多い)
特徴)age房である
特徴)自身が管理人と思われるガセ情報発信サイトへ誘導する
PC向け
http://myweb.kingnet.com.tw/aoi102/no1.html ケータイ向け
http://myweb.kingnet.com.tw/aoi104/0kt12.htm ※基本的に幼稚だが時間と量にモノをいわせてガセや釣りの種まきをする。
◎このスレに頻繁に書き込まれる嘘 ◎
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
●レイプに参加した加害者は100人もいる。
(加害者があちこち自慢してた為、拉致を知っていた人が100人もいたというだけの話)
http://ppcfan.at.infoseek.co.jp/backstage/20030415.html ●被害者が『ゴキブリ』『ウンコ』を食べさせられた。
●加害者が飲み屋で「本当はもっと色々やった」と自慢してたという話
●暴走族わら人形が関わっていた(暴走族わら人形は30年近く前1976年9月9日に解散している)
https://orange.mynethost.com/~usr126795/nenpyo.html ●裁判記録の一部が残酷過ぎてスミで塗りつぶされていた。
●加害者の父もレイプに参加していた。
●スマイリー菊池や飯島愛が事件に関係している(菊池聡という加害者は存在しません)
(飯島愛は被害者の顔に落書きした女性とイニシャルが同じ事から流れたガセ)
●遺体からオロナミンCの瓶が2本発見された云々 (発見されたのは,あくまで「ドリンクビン」です)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/josikousei.htm ●被害者は処女だった(ソース無し)
●その他多数
自演の狙いは新人です。ガセを真に受けたり、煽りに乗ることのないようお願いします。
ホントはこんなレスもしたくない・・ : | スレそのものが釣り!
|
∩___∩ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ノ _, ,_ ヽ (( | プラプラ: | とにかくだなぁ
/ ● ● | (=) | 小犯コンクリスレにレスする
| ( _●_) ミ _ (⌒) J )) | こと=自演を喜ばす事だから
彡、 |∪| ノ < コンクリスレは2ch
⊂⌒ヽ / ヽノ ヽ /⌒つ | に沢山あるから
\ ヽ / ヽ / | レスしたい新人は
\_,,ノ |、_ノ | そっちに行ってくれ
/ | \________
少年犯罪を犯す少年の大多数が他人によって傷つけられた経験があるという新聞 記事を読んだことがあります。 傷つけられた怒りが内在しそれが他者に向かうともかいてありました。 別の否定的な自己イメージを扱った本に自尊心が低く自分を低く評価する親は子ど もによって自分の価値を証明しようとし、過度の期待をかけ、勉強やスポーツでの成 功をもとめるとかいてありました。こうしたことは子どもにとっておおきなストレスになり うると思います。 親が低い自己評価をもっているときそれは子どもに精神的に遺伝します。そして低い自 己評価をもつと常に不全感にとりつかれ自分はだれからも好かれていないのではない かとさえおもうようになります。そう思う人はときに、反社会的な行動に走り、「自分はこう いうことしているから人にきらわれる、これをやめさえすれば嫌われずにすむ」と、自分に 説得しさえします。おおくの少年の非行はこうしたことが根本にあるのではないか、と私は 思っています。否定的な自己イメージをもつ人は珍しくありません。多くの人はその苦しみ を紛らわせようと、アルコールやタバコなどに依存します。空腹を感じないのに、食べてしま うひとは、そのとき食べ物に依存しています。自己評価の低い夫は妻に暴力をふるうことが あります。それは暴力をふるっても自分からはなれられない妻への依存であるかもしれま せんし、そうすることで威厳をたもとうとするのかもしれません。いずれにせよその家庭で育 った子は自己評価をたかめることは難しいでしょうし、虐待、DVが連鎖するかもしれません。 うちにたまった感情が他者にむかい、重大な犯罪をおこすかもしれません。心の傷の痛みや 、ネガティブな感情はその場だけのものではありません。そうした感情がうちにたまると、とて もくるしい思いをします。 個人的な話になりますが、私の祖母は非常に低い自己イメージを持っていました。私の面倒 をみることで自分を満足させようとしていました。夜になるといつも私のところにやってきて、 私が冷えるのを心配して、服をきせようとしました。私は寒ければ自分で服を着ることもでき ました。祖母は私が寒くないといっても私の意見を無視しました。私の能力は低く評価され、 意見は無視されました。
今でも実家にかえると、私のところに服をもってきます。18歳の少年にたいしてです。 こうしたことは子どもを過保護に育てる親と大差ありません。祖母と親では親のほうが 影響力はつよいでしょう。 他にも様々な祖母のおせっかいから私は低い自己評価を受け継ぎました。小学校に はいって私はイジメをうけ、不登校になりました。親は無理矢理私を学校にいかせまし た。中学校にはいって私は万引きをくりかえすようになりました。私にもうすこし力があ ったら暴力を他人にふるって苦しみから逃れようとしたかもしれません。リンチによる殺 人事件をおこしていたかもしれません。 少年法で少年に重い刑がかせられない理由の一つに、大人より衝動をおさえる能力が 低いというものがあります。大人でさえつらいときアルコールににげたり他人にあたった りするのに、17,8あるいはそれより幼い子どもが心の痛みからくる破壊的な衝動を抑え るのは難しいとおもいます。 長崎で事件をおこした少年は、近所の人に「今、何時」とか、何回もきいていたそうです。 それはかまってもらいたいようだった、とテレビでインタビューを受けたひとがいっていま した。私はその話しを聞いて、とても胸が痛くなりました。 私も人とふれあいがほしくて、小さい頃そういうことをくりかえしていました。自己評価が低 くそういう方法でしかコミュニケーションがとれませんでした。いつも寂しい思いをしていま した。彼も不健全な環境のもとで育ったようです。 いくら彼がつらい思いをしたからといって、殺人が許されるとはおもいません。被害者の生 きる権利をうばったのです。しかし彼が悪人ともおもいません。彼にどのような刑が相応し いのかわかりません。死刑でも仕方ないのかもしれません。私は彼に罪を償うに充分な刑 があたえられるのをのぞみます。そして、できるなら彼が心の問題を克服し被害者のかた に心からの謝罪の念をもってほしいとおもいます。 加害者の親を責めるかたがいらっしゃいますが、彼らも問題をかかえています。家にか えらず、仕事ばかりしている親は、自分は親として不十分だ、と思っているかもしれません。 私たちは様々な問題をかかえています。そして言い訳をして、めおそむけます。
8 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 18:23:56 0
(A)宮野 裕史:みやのひろし S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm (B)神作 譲:かみさくじょう(旧姓は小倉) S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 埼玉県八潮市中央4 (C)湊 伸治:みなとしんじ S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は元共産党員) 埼玉県さいたま市南区南浦和3丁目から 千葉県市川市福栄2丁目に転居。現在は京都潜伏? (D)渡邊 恭史:わたなべやすし S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 神奈川県横浜市金沢区六浦町在住? (E)岩井 哲夫:いわいてつお(旧姓は中村) S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 (F)垣東 孝一:かきひがしこういち(旧姓は伊原) S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。2005年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 その後、頻繁に問題を起こすためか、浦和を追われ「所沢近辺」 あるいは「入間市周辺」「東京都日野市」に転入したと伝えられる。
9 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 18:25:15 0
女子高生コンクリ−ト詰め殺人事件で婦女暴行をした構成員を使う極東会
これが神農道精神?
http://www.geocities.jp/zenbo2005/ 下記2名は本件で懲役にも行っていない
無抵抗の女をよってたかって嬲り殺しにし、のうのうと組織であぐらをかく人非人
星 寿和 → 埼玉在住。 神作(小倉)と今も親しい。
被害者に対し、ライターで足首を炙るなど、数々の暴行、陵辱行為に及ぶ。
現在は暴力団事務所、極東会(新宿)に所属
都築 洋 → 同じく極東会所属。一時期、東とも名乗っていた。足立区綾瀬1丁目に住居。
10 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 18:26:16 0
2ちゃんねるにて犯行に関わったとのたまう怪人物たち 浅野 コウジ → 千葉県松戸市幸田1丁目に在住。被害者に暴行、強姦に参加した。 中野で目撃情報(キャバクラの呼び込み)あり。 風貌は口の下に銀のピアスが有り、前歯がほとんどない。 ゲーセン&動物虐待が好きでいつも同じ服を着ている。 西沢裕司◆g3ABDh/dQk と名乗る。 木立 龍介 → 東京都大田区蒲田8丁目在住。神作のバイク仲間。 zvp00704のIDでオークションにて俳優の偽造サインを販売していた。 2ちゃんねるで犯行自慢した過去あり。サノディン ◆SANOBidPPE と名乗る。 岩澤 寛之 → 神奈川県横須賀市林4丁目在住。○イヤルホスト逗子店勤務? ホストとの情報も。 DDTという草野球チームにいたが、宮野の知り合いということで追放。 nobody_rides_for_free99の名でオークションにてコピーソフト販売。 ◆V4T.oU6rRs ◆jvBtlIEUc6 のトリップ使用
とにもかくにも、垣東の娘に危害があっちゃイカンな。
人間の手になるもの、あるいは人間がゆがめてしまったものには、言うまでもなく 作為・不作為を問わず常に誤りや不完全さを伴います。本当に誠実な人は、そのこ とを先ず認め、そして必要な範囲の現実全体を直視する過程で確認されあるいは 予想される諸々の問題を解決しようとします。いかなる分野・立場の人であろうと、そ の姿勢を欠くことじたい既に、考えるための基本的な資格を失っています。これはき わめて大事なことです。 人間は、言葉の生き物です。それは、法律家など専門家といわれる人々にしても全 く同じです。そして自分自身で、また他者とともに人間全体の関心対象について考え るための基本の言葉はあくまで、万人に通用する普通の言葉です。専門家といわれ る人々が使う専門用語と呼ばれる特殊な言葉は、対象をより厳密に深く追求する場合 に限って有用です。その分を超えると、専門用語はむしろ危険性を生じます。普通の言 葉の定義では対応できない場合にのみ、専門用語の定義が必要なのです。専門用語や 自分たちだけに通用する虚構の論理を、人々を煙に巻き、自らをも欺くために使うことは 、傲慢さと愚かさの為せる業です。まして、そういった職業的利害や面子、付き合いなどを 、人の命や愛、正義、財産などゆるがせにできないことより優先させるようなことは、むしろ 邪悪さから来ると言ってもよいほどの許されない業です。真に専門家と呼ばれるに値する 人なら、そのことを常に深く意識しているはずです。このこともきわめて大事なことです。 さて、少年犯罪に拘わらず、現実の犯罪の細かな態様は、千差万別という表現をも超え るほどです。被害者と加害者、訴える側と訴えられる側という一つひとつの構図の裏には 、愛と憎しみ、血と涙、悲しみや苦しみ、身勝手な論理や残忍さやゆがんだ喜びや狂気(未 熟さとの区別は不可能)などの複雑な要因が関わり、最終的には、必ずしも単純ではない 善と悪との闘いという問題に戻っていきます。犯罪に関わる処罰と償いと更生の問題には、 一律的外形要因のみによるのではなく、容易に見えるとは限らない、隠れた要因にまで可 能な限り踏み込んで当たらなければなりません。そして、その解決は、被害側の救済と加 害側の処罰と償いと更生が、“正義の天秤”上で釣合いを保たない限り
少年犯罪の凶悪化に対応するため、警察庁は11日、これまで成人の容疑者に限ってきた 公開手配の対象を、19歳以下の少年にも広げることを決め、全国の警察本部に通達した。 犯行が悪質で再犯の恐れが高い場合には、似顔絵や身体的特徴を公表できるとし、 顔写真や氏名も『例外だが、全く公開しないわけではない』(警察庁少年課)としている。 同庁は、個別のケースごとに、公開捜査の必要性があるか都道府県警と協議して判断すると している。 容疑者の特徴を公表し、市民から情報提供を求める公開捜査について、同庁は、 1998年の通達で、凶悪犯罪や社会的反響の大きい事件などを対象とし、 原則として容疑者が成人のケースに限るとしたが、少年事件に関する基準は示していなかった。 このため、容疑者が明らかに少年だったり、少年の可能性が少しでもあったりした場合には、 公開捜査はほとんど行われていなかった。 しかし、今月9日に公表された政府の青少年育成施策大綱に、『人権保護と捜査上の 必要性を勘案して、少年事件の公開手配のあり方の検討を行う』との文言が盛り込まれたことを 受け、警察庁は今回の通達で、『必要かつ適切と認められる場合には、例外的に許される』との 考え方を示すことにした。 公開が許されるケースは、犯行手段が悪質なうえ、再犯の恐れが高く社会的不安を与えた事件の うち、公開以外に容疑者逮捕の方法がない場合とし、想定される犯罪としては、 連続殺人や連続婦女暴行事件などを挙げている。公開する情報の内容はケースバイケースで 判断するとしているが、氏名や顔写真の公開もあり得るとしている。 また、容疑者の身元が明らかでない少年事件の場合でも、防犯カメラなどに映った写真や似顔絵、 身体的特徴、音声など、捜査で得た資料を公開する。ただ、容疑者が14歳未満の触法少年の 可能性がある時には、防犯カメラの映像を似顔絵に変えるなどの配慮もするとしている。 2000年6月に岡山県で高校3年の少年が金属バットで高校の後輩や母親を殺傷した事件では、 県警は、逃走した少年を指名手配したものの氏名や顔写真は明らかにしなかった。 今年7月に長崎市で12歳の少年が4歳の男児を殺害した事件でも、 少年の姿をとらえた防犯カメラの映像は公開されなかった。
犯罪に走ってしまう少年の場合、心の奥深くにあるそうした内的経験に対する「怒り」 や「人間不信」の感情が非常に強くあるのですが、前述したような理由から、その感 情は何年もの間、本人の心の中でくすぶっていることが多いといえるでしょう。 そして、思春期に入り、抑えてきた怒りや人間不信がある時ささいな事をきっかけに して、爆発してしまいます。これが俗に言う「キレる」です。 幼い頃からずっとおとなしく「良い子」だった子でも、ある時突然キレ、犯罪行為にまで 至ってしまうのは、そういう心のメカニズムからです。 しかも、それが十何年貯めに貯めてきた怒りなわけですから、噴き出してくるもの は相当な勢いがあるはずです。彼らの犯罪の手口の残忍さは、このあたりにあるの かも知れません。 そして、ここで重要なのは、犯罪の「動機」に関してです。 怒りの原因ともなった「心の傷」は、して欲しかったことを、してもらえないためにでき た傷であったり、して欲しくないことをされたことによってできた傷であると書きました。 何かをされたこと(イジメや暴力など)によってできた傷は、因果関係がはっきりしてい るようですが、本人が心の奥底に封じ込めていたり、明確に自覚できていなかったり するので、必ずしも被害者がその経験と関係ない場合が少なくありません。また、 何かをされなったことによってできた傷というのは、もともとその原因が存在しないた めに、こちらは因果関係が特定できないのです。ないものは探せないというのが道理 といえそうです。 従って、犯罪の動機が特定できず、「動機無き殺人」などといわれるのもこのためで す。そして少年自身も、自分の心のそういう状態を自覚することができないので、何 故、自分が犯罪を犯したのかわからないし、聞かれても答えられないのです。 しつこく聞かれれば、何か答えるでしょうが、その答えは「人を殺してみたかった」と 言う風に真実が語られていないことが多いのです。 場合によっては、長い間の辛い経験から、心の動きが本来のように機能しなくなり、 その結果、善なる心が動かなくなり、怒りと人間不信だけが激しくうごめいている。
感情に限らず人生で体験する全て(外界)は「体験者がどんな固定観念を持っているか(内界)」を映し出す“鏡”に過ぎない。従って感情的な批判や非難は全て自己矛盾する 例えば、極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責め立てる人ほど、その罪人の立場を思いやれていないように 何かと差別問題化したがる偽善者の心の中にこそ根深い差別心があるのも同様。内部に矛盾がなければ外部に矛盾を見る事はできない 人は100%、当人が与えた定義付け通りを体験する。「人生は必ずしも思い通りにならない」と定義していれば、正にその通りの(必ずしも思い通りにならない)体験をする 従って、繰り返したくない体験に出会ったら「どんな固定観念がこの体験を見せているのか」「その固定観念は執着に値するのか」と考えてみると良い。原因となっている観念を変えれば、似たような体験をしなくなる(変えなければ似たような体験を繰り返す) 「体験が先で観念が後、という観念」も含めて、常に「観念が先で体験が後」である。常に本人の現時点の固定観念が、過去や環境を定義している 個々人のみならず集団・社会においても観念は具現化する。グループ全体が抱いている観念はそのグループ内で起こる出来事となって現れる。例えば貧困は人々の中にある「飢餓への恐怖」、犯罪は「自己存在の喪失に対する恐怖」が顕在化したものである 全ては必然であり、起こるべくして起こっている。偶然や奇跡、運不運、矛盾、不合理、理不尽、不条理などは、その現象・物事の因果や必然性を理解(説明)できない人が言い訳として用いる概念に過ぎない 同じように「闇」も存在しない。存在するのは「知覚能力の限界」である。同様に「客観」も存在しない。存在するのは「共有された主観」である 真実は「人の数だけ」ある。「真実は一つ」は、数ある真実の中の一つに過ぎない。だからいつの世も「唯一の真実」に拘る人だけが、争いを通して己の矛盾を体験する 以上は、どこかの馬の骨が短い生涯の間に知り得た狭い視野から捻り出した独断と偏見の賜物、即ち単なる個人的主観である。真か否かを判断するのは貴方自身であり、いずれにせよ貴方は貴方が信じた通りを体験する
山口で親子が殺害された裁判で、裁判官が「裁判は復讐の場であってはならない」と言ったそうですが、 私は「裁判は復讐の場でなくてはならない」と思います。法律が、裁判が復讐してくれなかったら、 被害者やその家族はどうすればいいのでしょう?自分で仇討ちしなくてはならないのでしょうか? あの裁判官は、もし自分が被害者の側に立ったら、それでも同じことが言えるのかしら? 「インチキ人権主義者」の人々は、加害者の更正の機会がどうのこうのと言うけれど、 世間に後ろ指さされることくらいで更正できないのなら、そんな人は最初から更正するなんて無理なのだと思います。 人を殺しておいて自分は生かされているのだからそれで十分ではないですか? 後ろ指さされながら生きる事に耐えられないなら死ねばいい。 彼らにはその選択の自由があります。 でも、被害者には選択の自由はなかったのです。 被害者にだって、これから未来があったのです。それらを勝手に奪っておいて、更正するために世間ぐるみで 協力してくれというのはちょっとムシがよすぎる気がします。 更正できないのなら、最初から加害者にならなければいいでありませんか!! もし私の子供たちが被害者になったら? 考えたくもないし、考えられないけれど、加害者には、単なる極刑なんかではなく、想像できるありと あらゆる苦痛を味わった跡で、「死にたくない」と叫びながら死んでいってほしいと願うでしょう。 加害者になったら? それも考えたくもないし、考えられないけど、そうなることのないように、今から、命の大切さ、 悪いことをしたら必ず罰せられる、ということを教えていきたいと思っています。 今回の事件の後で、息子にも、どこに行っても絶対に私から離れてはいけない、といい聞かせました。 いつも行っているスーパーでお隣の売り場に行ってもいけない、と。 そして今度の事件のことを話しました。気をつけない悪い人は大人だけじゃない、子供にもいる、 犯人は中学校に行っているおにいちゃんだったと言いました。そして、「そのおにいちゃんは、 とても悪いことをしたんだから、ずっとずっと牢屋に入っているんだよ。おとうさんにもおかあさんにも 会えないんだよ。大人になって、おじいさんになって、死ぬまで、ずっと牢屋に入っているんだよ。
とにもかくにも、垣東の娘に危害があっちゃイカンな。 そう思うだろテメーら。
私には今年20歳と19歳とまだ小さい子がいますが、馬鹿な親子なので、被害者の親、加害者の親の 両方になってしまいました。 被害者の親になった事は(みなさんのようにとても残酷な辛く悲しい事ではなく、暴行や恐喝や根性焼きなどなど なのですが)ありますが、自分の子供を殺された訳ではないのですが怒り、や「なんで??」と、とても複雑な思いで 今も民事の方で(刑事事件では、もう裁かれました)裁いて貰おうとしたり、弁護士と一緒に裁判をしている途中の段階です。 その他の件でも、恐喝の方は加害者の子供にも(当時18歳)その親にも会ったり電話で話したりしたのですが、 どうにもならずに私が告訴をして去年少年院に行きました。 でも、やはり謝罪(電話では母親が謝罪するとは言ってたのですが)はなくもちろん弁償もないので今やはり弁護士に 依頼して話してる最中です。 もう1つの根性焼き(煙草での故意にさせた火傷)の親も訳が分からない事を言っているので、 やはり弁護士に依頼して話してる最中です。 成人した加害者、未成年の加害者、そして加害者の親は、みんなちゃんとした謝罪がありません。 形だけの謝罪がある人もいましたが、話しにはなりませんでした。そしてやはり今だに謝罪のない人もいます。 正直、なぜなのか理解が出来ない気持ちで一杯です。 そして、複数の子供を恐喝して(子供が激しい恐喝にあってたので馬鹿だから今度は自分が恐喝を してしまいました。)加害者の親になったのです。 今は子供も中等少年院を仮退院をして1年になります。 正直被害届が出てとても感謝しました。 「何か絶対にしてる」という確信は私はありましたし、逮捕してもらったのが子供が家でシンナーを 吸ってた時に自分で警察を呼んで逮捕をしてもらったのです。 毎日回りの人に危害を加えてると思い喧嘩もしたし怒鳴りちらして生むんじゃなかった」「出ていけ」など 親では言えない言葉を毎日のようにお酒を飲んで言っていました。 そんな馬鹿な親な私ですが自分でも「どうにかしないと」とは思っていたので被害届をだしてくれた被害者の方達には 本当に感謝をしました。
とにもかくにも、垣東の娘に危害があっちゃイカンな。 そう思うだろテメーら!?
とにもかくにも、垣東の娘に危害があっちゃイカンな。 そう思うだろテメーら!?
21 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 18:51:30 O
おっ!アキバチャン元気そうだな。
22 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 18:55:28 0
sageやすんでんじゃね−
23 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 19:02:57 0
葵のサイトはやめろ! ヘドがでるわい!!
25 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 19:45:45 0
垣東の娘に危害があったら赤飯炊いて送り付ける 折り詰め入れてのし付けてな 差出人はもちろん埼玉県八潮市中央4神作 譲
やめろカス!!
27 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 19:56:41 O
17:秋葉系1号◆A0tIfw/K7U :2006/03/21(火) 18:34:16 0 [sage] とにもかくにも、垣東の娘に危害があっちゃイカンな→とにもかくにも、垣東の娘に危害を加えてほしいから定期的に話題に出すんだろヒキオタ そう思うだろテメーら→引きこもりの依存症がリーダーシップ発揮しようとすんな。コンビニぐらいは一人で行け
28 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 19:58:19 0
現在の住所、顔、その他、些細な情報でもお願いします。
ぷっ。とにもかくにも、垣東の娘に危害があっちゃイカンな。
30 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:06:00 O
図星だと常に「ぷっ」しか言えねえでやんの ヒキオタは垣東の娘が凌辱される日を夢みてオナニーするだけの毎日 チンポ握るしか能がない
ぷっ。
32 :
許せない :2006/03/21(火) 20:16:00 0
主 文 原判決中、被告人A、同C、同Dに関する部分を破棄する。 被告人Aを懲役二〇年に、同Cを懲役五年以上九年以下に、 同Dを懲役五年以上七年以下にそれぞれ処する。
33 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:16:39 O
秋葉のメガネを壊そう
ぷっ。とにもかくにも、垣東の娘に危害があっちゃイカンな。
35 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:17:39 O
秋葉のフィギアも燃やそう
36 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:19:27 0
秋葉の母親のマンコに剃刀突っ込んで遊ぼう
37 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:20:18 0
みんなで秋葉の母親の乳首引き千切ろう
38 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:26:46 O
秋葉ママのクリトリスを引きちぎろう
39 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:29:25 0
40 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:34:00 O
本題に戻ろうや 馬鹿は無視しておけばよい
41 :
死王 ◆4eq5Z7UCHM :2006/03/21(火) 20:36:37 O
秋葉ママに秋葉の精液を飲ませよう
42 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:39:36 O
秋葉を犬に犯させよう
43 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:44:46 O
>>25 ちょっと待って!副犯の家はまだそこにあるの?それって被害者の高校のそばじゃん。まさかまだ引越してなかったの!?副犯の親ってどんな神経してんの?
44 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 20:46:27 O
秋葉犬 死ね
45 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:04:14 O
>>43 小倉悦子いわく「嫌がらせ」
被害者の墓も壊したバカ女だ
ぷっ。やはりカス自演か。
47 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:10:47 O
ぷっ やはりカスニートか
48 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:11:46 0
49 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:12:29 O
>>45 えっ?!嫌がらせの為に近くに住んでるワケ!?けどそんな事してさ、本人は周囲から(コンクリ事件を憎んでる人達から)嫌がらせは受けてないのかな?そこんとこどうなの?
50 :
秋葉語録 :2006/03/21(火) 21:13:05 O
「ぷっ」「自演カス」「とにもかくにも」「垣東の娘を犯せ」
子供が逮捕されてまず1日目はショックで何も考えられなかったのですが2日目からは「やっと安心しておいと おける所にいるんだから自分をまず考えてみよう」と思い3日目にやっと「お酒をやめよう、逃げては駄目だ」と それだけしか考えられなかったのですが、この逮捕は子供がなにかを私に教えてると思い考え続けました。 そんな事がなければ分からなかったのですが、子供が非行に走ったのは絶対に親の責任です。なぜなら子供と 対等に話してないからです。 「親の気持ち」だけを話しているからなのです。 私はいつもいつも親の気持ちだけで話し、押しつけ、怒り、そして「なんでわかってくれないのだろう?? なんでこんなに悩んでるのに!!」と自分だけが悩んでると思いこんでしまい自分だけが苦しいと勘違いを してしまい目の前の事だけで精一杯になり半分以上子育てを放棄してしまいました。現実や子供の叫びから 逃げてしまいました。 ですから子供は当たり前のように坂を転がり落ちてしまい、少年院に行きました。 もちろん、自分の更正、子供の更正はありましたが、捜査が終わったと警察から電話があった時に、 家に人がいて100%の謝罪は出来なかったのですが(二,三日後に100%の謝罪ができなかった事を謝罪しました) 「とにかく謝罪をしたい」と思い電話をして謝罪をしました。 その後も連絡がとれる被害者の親の方にも連絡をし、もちろん会ってくれる人達には会って謝罪をさせて頂きました。 その中で、この事件の事は自分が知っている限りは被害者の親の方達に話しましたし、もちろん審判の日にちや 結果など「知りたい」と言う被害者の親の方達には連絡をいれ結果を言いました。 その後、弁償や慰謝料などでなかなか上手くは(被害者の方の意思に添うような)いかなかったのですが、 誠心誠意(弁護士を入れて話しては?という意見も貰いましたが子供の罪は自分の罪です。 自分の子供が勝手に恐喝をしたのですから私の出来る限り自分で謝罪を続けたかかったのです) 自分なりに考え最後までやらせて貰いました。 もちろん少年院の仮退院の日も被害者の方達に連絡をしました。 その後も「本人と謝罪をさせて頂けないか」と連絡もしました。
52 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:14:22 O
ロリコンスレに「垣東の娘には手を出していいから他の子はダメだよ」って書き込んだ
少し前になりますが、夕方のニュースでこんな意見を耳にしました。 それは弁護士のもので、兵庫県で起こった少年と少女による、「タクシー運転手 殺害事件」についてのものでした。 その弁護士は加害者達についてこんな風にコメントしていました。 「この事件はねー、2人で逃避行って感じで、私なんかちょっと胸にきました けどねぇ。若い頃ってこういう気持ちにになったことがありませんか? あ、でもやった事は悪い事には違いありませんけどねー。」 主な意見がこんな内容で、しかも笑いながら言っていました。 この発言は『だけ』ではないのでしょうか? 弁護士だからといって全国ネットのニュースでこんなことを平気な顔をして 述べる。そして被害者の家族は少年事件だからと言って、蚊帳の外にされる。 少年事件に直接関わっている人間が加害者側にしかいないのに、これ以上 被害者の何を傷つけたいのか?と思います。 『だけ』が不平等だと言う方や考える方に質問します。 では、被害者だけが、なぜ命が亡くなっているのですか? なぜ、被害者だけが、これからの人生がないのですか? 反対に生きているのは加害者だけですが、これは不平等ではないのですか? 起こっていることが元々不平等なことなのに、同じ壇上にあげる事自体が 間違っているんですよ。 被害者は殺される前は生きてても、今は亡くなっているから、終わったこと だから無しにしろというんでしょうか? 前出の弁護士は、どう見ても少年の未来を案じて弁護をしているというよりも どちらかと言うと、少年に媚びてお金を稼いでいるだけにしか見えません。 私も19歳になったばかりで子供と言われてしまう年齢です。でも、一般的に大人 の年齢の方達の意味もなく子供に媚びる行為が、何とも醜く、信用出来ないもの か知っています。 少年犯罪者も、媚びる弁護士を見てせいぜい利用することしか考えないのでは ないですか?逮捕されてすぐに「本人もよく反省しています。」なんて発表が ありますが、どう考えても胡散臭いです。 犯罪を「若気の至り」風にしか扱わない、少年事件に関わっているすべての法律 や人間に人を裁く資格などないんじゃないでしょうか。
私が生に社会と接している、とは言えないでしょうね。人と付き合う事は苦手です し、あらぬ疑いをかけられたとあれば相手が先生と言わず誰と言わず逆に怒鳴り返す くらいしますし・・・。いつも図書室にいるような感じ。もちろん、親しい人とはとて も親しく付き合っているのですが、そうでない人とのコミュニケーションは苦手、そ んな人間ですよ、私は。 しかし、不合理な感情を受け止められない、それがなぜか、ここは法の問題だからで すね。また、そうした感情も見て、心に留めるようにはしております。もちろん、た だの噴出感情・私的意見を口を極めて非難したりする事は致しません。<もっとも、 以前はやっていた事は認めます>ただ、それが被害者の人権擁護にとっていい事なの かどうかにはやはり疑問符がつきますね。 法律によって世の中を動かし、必要なら法律を改正する。これって、今の日本の鉄則 でしょう。また、法を第一義に考えなければならないからこそ、ここで、きちんとし た観点からの議論をしよう、と言っているわけです。もし私の意見に分からない事が ある、批判がある、そうなのならもっとびしびしと言ってくださって構いません。私 は気に入らぬ論客を悪魔化し・・・<前科はあるな・・・>ともかく、そうする事はしない 様努めますし、そうなっていたらまた指摘してください。 まず断っておきますが、私は別に浅野教授を「尊敬」しているわけではございませ ん。反対の部分は報道とか破防法問題に関しては見当たらないんですが、国際問題と なるとそうとは言えない部分もあるので、それだけは覚えといてください。そうそ う、今度「冤罪−日本の黒い夏」公開されますね。浅野教授と河野さんは「松本サリ ン事件報道の罪と罰」を共著するなど、結構一緒に行動する事が多いです。しかし、 こうした事を自分の事として考えると、はっきり言って最も現実味があって恐ろしい ホラー映画のようなものになるのではないか、そう恐れています。冤罪を他人事と考 える人の中には、「制裁報道は民主主義を補完するための「村の掟」として是認され る」<小林よしのり氏>等と言う事を平気で喋る人もいますね。少年問題も冤罪はよ り問題となりやすく、以前その番組を見た時の事を投稿した事もありましたね。
55 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:15:15 0
人にはそれぞれ意見があって、それは1人1人違うものです。 私にも私の意見があります。賛成されない方もいると思いますが、 私の考えを述べます。 最近の少年犯罪はニュースできいても耳を塞ぎたくなるばかりです。 なぜ、そんな残酷なことが出来るのか私にはどう考えても分かりません。 他人の痛みが分からない人たち。それは少年ばかりではありません。 想像力のなさ、なのです。お腹を蹴ったらどうなるか、頭を金属バットで 殴ったらどうなるか、ナイフで切りつけられたらどのくらい痛いのか、 そういう事を考えることはあるのでしょうか。考えても分からないのか。 他人の痛みは自分の痛みとは違うものだとでも思っているのか。 それとも考えてみようともしないのか。笑いながらリンチができる人たち。 そういうニンゲンを私はどうしても普通の人間、感情をもった人間だと 思うことが出来ないのです。笑いながら人が殺せるなんて本当に あなたは人として生きてきたのですか?と言いたい。そんな人が ほんの数年、少年院に入っただけで、普通の人間になるなんて思えません。 私はそんな人には社会に出てきてほしくない。自分の周りはおろか、 大切な家族の周りに近づいてほしくない。一度殺人を犯した者は、 一生その罪を償って、そのためだけに生き続ければいいと思うのです。 生きて自分のしたことを本当に理解してから、絶望のうちに死ねばいいと 思うのです。殺されてしまった人はもう二度と戻ってこないのに、もう二度と 笑うことも泣くこともできないのに、殺した犯人はまたいつか自由の身に なって、笑ったり泣いたりするのかと思うと、決して納得がいかないのです。許せな いことなのです。 単なる感情論かもしれません。でも被害者のとっては決して消えることのない感情 でしょう。癒えることのない痛みでしょう。 それを、想像することを。もしこれが自分の家族だったら、と考えたら、 少年法改正に反対することはできないはずです。これでもまだ手ぬるいのです。加害 者の年齢がいくつであっても殺人は殺人として処罰するべきだと私は思います。
57 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:15:50 O
コピペ加害者来た…。加害者情報が出ると荒らすんだよなぁ
家庭のしつけとか親の権威とかといった事については 色々なところで色々な人が語ってますから、重複する事は書きません。 私の見聞したこと、私の知人が見聞したことを書きます。 ・私が昨年、自宅のあるマンションのエレベーターに乗っていた時 40歳くらいの男性と10歳くらいの少年が乗ってきました。 2人の会話で親子だとわかりました。 少年は楽しそうに学校での出来事を父親に語っていました。 少年は、自分と友人達がどんなに授業中騒ぎまくり 暴れまくり、先生がどんなに困っていたかを楽しそうに 話していました。父親はそれを「ふーん、そうか」と微笑みながら聞いていました。 ・私の知人が自宅で塾をやってます。通ってくる子供達と 休憩時間に色々な話をするそうです。まだ幼い子供達 の話にはやはり「お母さん」のことがよくでてくるそうです。 しかし、何人かの子供の話には「お母さん」という単語が ほとんど出てきません。かわりにテレビに出てくるタレント の名前がひんぱんにでてくるそうです。その子達は使う言葉 まで、タレントと同じで、小学校の3,4年生の子供が 深夜のお笑い番組のような言葉で話している様子は、 薄気味悪い、とのことです。 ・前にも登場した、他県の高校教師が数年前に体験したことです。 数人の生徒が、たばこを吸っている現場を先生に発見され、停学ということになったそうです。 ところが、その停学の「申し渡し」をするため、親を学校に 呼んだ所、何人かの親は「忙しいから」「具合が悪いから」 と、来ることを拒みました。朝でも夜遅くても昼間でも そちらの都合に合わせますから、と言っても、あーだこーだ と理由をつけて拒み続けました。 学校に来た親たちも、・・・ ある親は「停学にされて子供が家にいたら仕事にも行けない。 停学にしないで学校で指導して欲しい」と言い、 ある親は「子供の教育を受ける権利の侵害だから、停学には 反対だ。授業を受けさせながら指導しろ」と言い ある親は「ほかにもたばこを吸ってる生徒はいっぱいいる のになぜうちの子だけ罰せられるんだ」と言い ある親は「先生が校内を巡視していて見つけたというのは 最初から生徒達を疑いの目で見ている証拠だ。
そういう生徒を信頼しない学校が生徒を指導する資格があるのか」と言い、・・・・。 さすがに、このときは校長先生が切れて親たちを一喝したそうです。 そして、そういう言動をとった親たちの実態は、・・・ 高校生の子供を連れてパチンコ屋に行き、一緒にパチンコしている母親、 子供の食事も作らず毎晩のように飲みに行く母親、 子供の部屋に入ることもできず、子供が部屋に友人を集めて 飲み会を始めると自分の部屋に閉じこもって布団に潜り込む父親、 口ではきびしいことを言いながら、実際には子供の言いなりになっている両親 生活保護を受けるほど暮らしに困っていながら、子供の 携帯電話の料金(1カ月に6,7万円以上)を黙って払っている親、 ・・・・そして、そういう親が年々増加しているのだそうです。 このような「家庭」の有様に共通しているのは 子供から逃げている親、の姿です。 本当に真剣に子供と向き合わず、モノや金や情報を介してしか 子供と接しようとしていない親の姿です。 子供を育てるということは、「子供」の面倒を見るだけでなく 「子供」を「大人」にする、ということです。それは、 とても根気とエネルギーのいる仕事です。 多くの場合、子供に憎まれ、罵られ、攻撃すらされるでしょう。 子供にとって親は、最初に自分の前に立ちはだかる理不尽な大人 でなければならないのです。 そこから逃げ、子供に愛されたがり、いつまでも可愛い子供で いて欲しいと願う親たちの姿は悲しいものがあります。 子供との楽しい暮らしは親が作り、 子供との苦しい戦いは学校や警察に「外注」?。 子供は定期預金のようなもので、 学校・塾に預けておけば何年後かに しつけと進学・就職という利子がついて返ってくる? もちろん、昔と今では家庭の状況も家庭を取り巻く環境も大きく変化しました。 だから、単純に「親が悪い」と言うのことはできません。 家庭の子育てをバックアップする社会環境が必要でしょう。
60 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:16:43 0
61 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:16:44 0
いまだに極東会と繋がりがあるんかね? 神作(小倉)
62 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:17:37 O
長文荒らしは秋葉の出現といつもかぶるような気がします
63 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:20:36 0
>>49 「あの事件のせいで人生を狂わされた」とか、まるで被害者みたいなこと
言ってた。さすが神作産んだだけのことある。
いまは住んではいないけど、たまにカーテンの開け閉めがあるみたいだから
家の様子にでも来ているんじゃないの?
>>48 裁判で賠償するとか言っていたのを思い出しながら見ると、憎しみが
頂点に達する。
64 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:23:12 O
>>49 どこかの掲示板に住所晒されたときに「神作の家見て来ちゃった〜」ってヤツがいた
何か「うっそうとしてた、汚いサンダルを見た」とかいってたな。近所付き合いはすこぶる悪い様子(笑
被疑者でなく、はっきりと加害者であることがわかっても、「更正」に重点を 置いている事が間違いなのだ。 だいたい感情派などというが、そもそも盗まれようと、目を潰されようと、顔 に塩酸を掛けられようと、殺されようと何も感じる事がないならば、法律なぞ 定めても意味がないだろう。まるで空気を吸って吐いているかの如きものなら ば、そんな事々で一々騒がないし、大部分の人はそれほど酔狂ではないのである。 法が盗みを禁じるならば、ひもじいが故に食べ物を盗んだとして、それを理由 に撃ち殺すのも良いのである。ただそれではあまりに「かわいそう」だから、 法律違反した場合でもある程度は、感情を加味して、しかも撃ち殺しにも秩序 を与えて法の権威を維持しようとしたのである。ほんの少し肩をこずいただけ で、生体実験にでもかけるが如き拷問をするようなことを防ぐためにある。だって、それではあまりに「ひどい」でしょう。 感情があったればこそ、かつては奴隷には「かわいそう」とも「ひどい」とも いう仕打ちをしても何も感じない冷たい人種や貴族と闘ったのである。法がな いなら、あとは力あるのみであって、強盗しようとレイプをしようと人の顔に 塩酸を掛けようとかまわないし、そういうことをする連中を逆に拷問したうえ でゆっくりと嬲り殺そうとどうでもいいわけである。 それゆえ法治において大事なのは、どういう種類の人間が、その法律の存在に よって利益を得るかなのである。ただそれがかつては特定の人種と貴族を守る 為の秩序であったが為に、その法は破壊されねばならなかった。いままた少年 や刑法39条者は、特別に守られている。たぶん大げさである、それとこれと を結び付けるなんて不謹慎だ、といわれるかもしれないが、被らないでもよい 害を多大に受けていながら、我慢を強いられた上に更にそのうえ加害者(被疑 者ではありません)の未来と権益を用意することまでも強制されているので、 私はその手の常識を憎悪せざるえない。 >人権派への「もしあなたなら・・・」の質問はずいぶん多「ですが私は既に自分が 被害者になってもその感情を自分の中に押しこむ覚悟くらいはしていますし、 ここにいる少数ながらの人権派の皆さんもそのつもりでしょう。
そのつもりでない人権派では困るのです。 本当にそう思っているなら、まず殺されてみれば。そのうえで意見が言えるも のならいえばいい。覚悟という言葉はそういうことだ。ふためと見れぬぐらい のぐちゃぐちゃの顔にされてみな、バットで。ただしこんな顔にされるなどと いう気構えなんか無いのに、こういう目にあったんだから、そのような気構え を前もって持ってもらっては本当のところとは違う事になるが。そのうえであ なたの感情は一切考慮にいれず、加害者の人権を教育を論じてみたいが、実現 はなかなか難しいところだ。 なぜなら自分一人では成立しえないから、あなたがどんな気分でいようとも、 あなたを害する意思をもった貴族がいないとどうにもならない。 貴族というのは、人に害を与えても、その身分によって手心を加えた処理を施 してもらえる存在の事です。法律が全てであるものには、少年や刑法39条者 である事は十分過ぎるほどの理由になるのであろうが、その優先ゆえに搾取を 受けるものには犯人が少年や刑法39条者だからっていうのは理由にならない。 ましてや覚悟なんかしていない犠牲者においては、理由と認める必要も義務も ない。法が彼らを保護する以上、その法を採用している国そのものが敵である。 人を殺したり、バットで顔をめちゃくちゃに出来るぐらい力があるの なら、十分過ぎるぐらいでしょう。まして、手心を加えてもらえるなら。 そして法にだけ刑罰の決定権があると考えているのならまちがっている。 とある国々の法の下では、白人が黒人を、自分の所有物であれば殺そうと拷問 しようと勝手だった。人間を所有物として扱うことを認める法だってあったの ですから。そんな法律は白人だけが利益を受けるのに、黒人もそんなもんを法 律であり、法治主義だからといって守る義務や必要があるなぞとは、わたしは 思わない。法律なんてしょせんはそんなもんです。 その法律がどんな連中のために存在しているのかが判る。殺人や傷害などを成 した人間にだけ有利にはたらく法律は、そういうことを成さないものにはナン の役にも立たないばかりか、その犠牲者になった場合には不利にはたらく事を みてみれば、特にその身分によって特別に保護を受ける者がある場合には
67 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:25:09 0
>>63 被害者と何の関係もない漏れだが
こりゃ、血圧上がるわ
私が生に社会と接している、とは言えないでしょうね。人と付き合う事は苦手です し、あらぬ疑いをかけられたとあれば相手が先生と言わず誰と言わず逆に怒鳴り返す くらいしますし・・・。いつも図書室にいるような感じ。もちろん、親しい人とはとて も親しく付き合っているのですが、そうでない人とのコミュニケーションは苦手、そ んな人間ですよ、私は。 しかし、不合理な感情を受け止められない、それがなぜか、ここは法の問題だからで すね。また、そうした感情も見て、心に留めるようにはしております。もちろん、た だの噴出感情・私的意見を口を極めて非難したりする事は致しません。<もっとも、 以前はやっていた事は認めます>ただ、それが被害者の人権擁護にとっていい事なの かどうかにはやはり疑問符がつきますね。 法律によって世の中を動かし、必要なら法律を改正する。これって、今の日本の鉄則 でしょう。また、法を第一義に考えなければならないからこそ、ここで、きちんとし た観点からの議論をしよう、と言っているわけです。もし私の意見に分からない事が ある、批判がある、そうなのならもっとびしびしと言ってくださって構いません。私 は気に入らぬ論客を悪魔化し・・・<前科はあるな・・・>ともかく、そうする事はしない 様努めますし、そうなっていたらまた指摘してください。 まず断っておきますが、私は別に浅野教授を「尊敬」しているわけではございませ ん。反対の部分は報道とか破防法問題に関しては見当たらないんですが、国際問題と なるとそうとは言えない部分もあるので、それだけは覚えといてください。そうそ う、今度「冤罪−日本の黒い夏」公開されますね。浅野教授と河野さんは「松本サリ ン事件報道の罪と罰」を共著するなど、結構一緒に行動する事が多いです。しかし、 こうした事を自分の事として考えると、はっきり言って最も現実味があって恐ろしい ホラー映画のようなものになるのではないか、そう恐れています。冤罪を他人事と考 える人の中には、「制裁報道は民主主義を補完するための「村の掟」として是認され る」<小林よしのり氏>等と言う事を平気で喋る人もいますね。少年問題も冤罪はよ り問題となりやすく、以前その番組を見た時の事を投稿した事もありましたね。
もちろん、「自分の事として考える」と言うのはこの問題に関しても例外ではありま せん。もし自分が犯人だったら?被害者だったら?遺族なら?犯人の親なら?それを 全て考える事も必要なんですね。それを考えると、やはり全て考えよう、と言う点に 行き着くと思います。いずれにしても、みんな人間として扱う限り、意見を他者が 「立場によって」差別し、聞く耳を持たない事は慎むべきでしょう。 非業の死を遂げられた人の人権、これは問題とされるべきなんですが、同時にこうも 思うわけです。「死者のためにどこまでも現在生きている人間の人権を制約してもよ いのか?」ということも。決して「死者=物に過ぎない」という考え方をしてるん じゃないんですが・・・。そうなると、やはり現在の人の人権の制約をもう少し重大 視するべきではないのか?という考え方には説得力があるか、と私は思っています。 はっきり言って、私はこうした攻めぎあいのもとの話し合いが始まると、私は全くそ の議論について行ける自信がございません。おそらく皆さんほどの知識量もない、私 なりの意見はあるにせよ、私なりの完成された理屈があるわけではない、そんな感じ なんです。そうした議論の場になったらおそらく、私は皆さんの意見を拝聴し、時と して質問や意見を述べる、それだけじゃないか、と今考えると思うんです。 ただ、それにはやっぱりそうした議論の場となる事が不可欠である、と思っていま す。皆さんにはそれを崩さないで欲しいし、私も気が短いのですぐ崩しに走ってしま うかもしれません。そうなったらびしびし指摘してください。ある時は反論し、ある 時は反省するつもりです。
70 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:25:49 O
垣東にとっちゃ娘がブスだったら色んな意味で「救い」だね
さて、あなたは「被害者の味方」なのですか?「秩序の味方」なのでキか?被害者を守 ることと誤審を恐れることなどなど、これは対決するものではないはずですけど。 「新しい公民教科書」でさえ問題にされていたことなんですけど。「秩序の味方」が 被害者を担ぎ出す構図には私はうんざりしているんです。 あなたは自分がそうした個人主義のベールに守られていることをもう少し知るべきで す。河野義行さんの文章をもっと読んできたらどうですか。別に彼のようなヒューマ ニズムをやれ、という事ではありません。しかし、被害者の皆さんだって、刑罰に関 しては「実の伴わないこと」を言っていることを忘れてはいけません。水掛け論しか 始まらないのでは困るのです。 あと、あなたはYahooでは誰なんですか?いい加減に喋ったらどうなんですか。 厳しいことを言いますが、私はこのように甘い考え方の人が多いのを危惧していま す。そのために、私は現段階では陪審制にさえも反対の論陣を張っています。 最後に一言。この件に関しては、「瞬間湯沸器的感情」で事を考えるのではいけませ ん。継続して考えるべきです。継続してここに出ている匿名者さん、しゃりほさん、 鈴木さんをはじめとする皆さんは例え私と対峙していてもより冷静なことを言ってい ます。被害者の皆さんもそうです。Yahooの法のカテゴリなんか見ても、一部のトピ が事件の後500近い投稿を集めて後は消えてしまう、という状態になり、ここがそ うなっていないのもそのせいと思います。ここで継続して議論を続けるのは是非とも 必要なことです。大衆の瞬間湯沸器的感情頼みの保護と言うのでは惨めです。そし て、それに依らなくても実現できるものでしょう。
昨年,検察庁で働いていたときにやっと被害者保護法が施行され,被害者の方々のた めに働きやすくなりましたが,少年事件についてはまだまだだというのが現場で働い ている普通の警察官や検察官の気持ちだと思います。 なぜなら,こんな凶悪・重大事件は当然逆送になるだろうと思いつつ家裁送致して 待っていても,結局逆送にならないという事例が余りにも多いからです。 こればかりは家庭裁判所の専決事項ですので,検察官も送致後はいかんともしがたい です。 その原因の一つとして,家裁の少年審判は非公開であるため,成人事件のような判例 の集積・量刑資料の平準化ができず,各家裁ごと・各審判担当裁判官ごとに全く個別 に決定され,裁判官にしても成人におけるような「量刑資料」はないため,過度に軽 い決定を出しててもそれに気付かないため,中には,軽すぎる決定を出し続けている 裁判官がいるのではないかと思われてなりません。 家裁の裁判官の中には,少年には教育が必要であり,矯正を主とした刑務所では教育 はできないから,逆送はせず,少年院で教育すべきであるという信念を持っている人 もいるようですが,刑務所は全国一律ではなく,22歳くらいまでの受刑者を主とし て受け入れる少年刑務所があり,そこでのプログラムは,学業や職業訓練や心理的な 指導などを主とした極めて教育的なものです。それでもまだ足りないというのであれ ば,もっと教育的なプログラムを取り入れることも,法務省がそのような方針を立て れば十分可能ですから,必ずしも教育だけを理由として逆送を否定する理由にはなら ないと思います。 また,最近の非行少年は,どの地域の取締りがゆるく,家裁の処遇が甘いかの情報交 換が進んでおり,近隣であれば,ちょっと遠出をしてでも取り締まりのゆるい地域に 行って犯罪をしています。電車,又は,盗難車や盗難バイクで隣の管轄に行けるので すから,何の障害も彼らにはありません。 絶対逆送しないなどと宣言する家裁の裁判官がいれば,その地域の少年担当警察官が どれほど苦労するか同情したくなります。 少年審判への検察官関与が立法化されましたが,それで問題が解決するわけではあり ません。
73 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:27:12 O
>>63 ぬっ!?今は住んでない?なぜ今そこには住んでないの(?д?)
実務上では,よほど重大な少年事件でもない限り,一般の少年事件担当の警察官の捜 査能力は平均的にみれば低いほうに属していますから,警察捜査から底上げしていく 必要があります。 少年事件の被害者の方々には腹立たしい話でしょうが,少年事件は全事件の半数を占 めています。しかし,少年事件担当の警察官は全警察官の半分ではありません。少年 事件の捜査の質を向上させるためには,警察の体制作りから必要ですが,残念ながら そのような議論が少年法改正論議で表立って行われたとは聞いたことがありません。 少年事件の捜査は,実際には,成人事件以上に難しい側面が多々あります。よく言わ れることですが,ほとんどが複数犯であること,少年の事実に対する観察・記憶・表 現能力が低いため,たとえ正直に自白している場合であってもその供述はばらばらで あることが多いこと,逮捕前に少年仲間同士で口裏合わせをしてなかなか本当の自白 に至らないことが多いこと,被害者側の供述についても,被害者側が複数であったり 子供であったりすると,被害に遭っているという恐怖感からより一層その供述の正確 性を期するのが難しいことなどの特徴があります。それだけに,少年からの供述を得 るためには十分な捜査経験及び子供との対話能力が必要になります。 私自身は,少年事件捜査を充実させ,ひいては少年審判を充実させるためには,国民の 税金負担が増えてでも,警察官を増員するのかどうかという議論が本当は必要だと思 います。 また,審判結果の公開についても検討されるべきだと思います。少年や被害者のプラ イバシーに配慮して,日時・場所・人物の固有名詞については仮称とした上で,事例の 経過と処分結果を公開していくことで,裁判官に常識を培わせるとともに国民への情 報提供ができるからです。
◎このスレに頻繁に書き込まれる嘘 ◎
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●レイプに参加した加害者は100人もいる。
(加害者があちこち自慢してた為、拉致を知っていた人が100人もいたというだけの話)
http://ppcfan.at.infoseek.co.jp/backstage/20030415.html ●被害者が『ゴキブリ』『ウンコ』を食べさせられた。
●加害者が飲み屋で「本当はもっと色々やった」と自慢してたという話
●暴走族わら人形が関わっていた(暴走族わら人形は30年近く前1976年9月9日に解散している)
https://orange.mynethost.com/~usr126795/nenpyo.html ●裁判記録の一部が残酷過ぎてスミで塗りつぶされていた。
●加害者の父もレイプに参加していた。
●スマイリー菊池や飯島愛が事件に関係している(菊池聡という加害者は存在しません)
(飯島愛は被害者の顔に落書きした女性とイニシャルが同じ事から流れたガセ)
●遺体からオロナミンCの瓶が2本発見された云々 (発見されたのは,あくまで「ドリンクビン」です)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/josikousei.htm ●被害者は処女だった(ソース無し)
●その他多数
自演の狙いは新人です。ガセを真に受けたり、煽りに乗ることのないようお願いします。
ホントはこんなレスもしたくない・・ : | スレそのものが釣り!
|
∩___∩ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ノ _, ,_ ヽ (( | プラプラ: | とにかくだなぁ
/ ● ● | (=) | 小犯コンクリスレにレスする
| ( _●_) ミ _ (⌒) J )) | こと=自演を喜ばす事だから
彡、 |∪| ノ < コンクリスレは2ch
⊂⌒ヽ / ヽノ ヽ /⌒つ | に沢山あるから
\ ヽ / ヽ / | レスしたい新人は
\_,,ノ |、_ノ | そっちに行ってくれ
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よく「人権派」という言葉が登場していますが、人権とはそもそも何なのでしょう か?憲法で保障されているとか、普遍的なモノであらゆる人に生まれながらに備わっ ている、とかいわれていますが、本当にそういう理解でいいのでしょうか? 人権を語るとき、よく『自然権』という言葉がでてきます。 天賦人権論という言い方もあります。人権は、人間に生まれたときから自然に 備わっているモノだ、という考え方で、アメリカの独立宣言やフランス人権宣言 なんかで明確に述べられています。日本国憲法も、「国民固有の権利」「永久不可侵 の権利」という表現で、この考え方を踏襲しています(と私は思います)。 しかし、もともと自然権にせよ何にせよ、権利というものは、最初からそのような 抽象的な理論としてうまれたものではありません。人権の考え方は、ヨーロッパに おいて、特に国王や皇帝、あるいはローマ教皇といった「公権力」にたいして、 相対的に弱者となった地方領主、自治都市、ギルドといった封建的な勢力が、 自分達の私権を守るために作り出した思想だったのではなかったでしょうか? 時代の変化とともに、人権思想の担い手は、封建領主やギルドから、ブルジョワジー に変わって行きましたが、人権が、公権力に対して「弱者」である人々が、自分たち の利益を守るための、有用な道具である、という点は変わらなかったのです。 そして、公権力の側がキリスト教や、「民族の伝統」といった普遍的な価値を 後ろ盾にしていたので、それに対抗するために、人権もまた、単なる慣習とか 法律でなく、普遍的なモノなのだと主張されたのです。 人権は、決して、宇宙を支配する物理学の法則のように、具体的な人間を 離れて超然と存在しているわけではないのです。 人権は、その普遍性・不可侵性もふくめて、人間が作り出した「道具」 にすぎません。素晴らしい道具ですし、その価値や重要性をいささかも 否定するつもりはありません。しかし、道具は道具です。 道具は、よい使い方をしなければ凶器になります。 では、人権という道具の正しい使い方は何なのか? 人権がヨーロッパの歴史の中で、公権力に対して弱者となった人々が 自分達の利益を守るために利用され、発展したものであることを考えれば
やはり人権は「弱者」のために用いるべき道具だと思います。 18世紀から19世紀にかけて、弱者として権力とたたかったブルジョワジー は、産業革命・市民革命とともに地位を向上させ、今度は自分達が、新たな強者とし て弱者を抑圧しました。今度の弱者は、劣悪な労働条件で酷使される労働者でした。 労働者達が、法律で労働時間や最低賃金などを保障するように政府や議会に 要求したとき、彼らの前に立ちはだかったのが「経営の自由」「契約の自由」という 人権でした。 企業を経営するブルジョワジーは「経営者と労働者がどのような雇用契約を むすぶかは、経営者と労働者の自由な話し合いによってきめるべきで、 公権力は干渉するべきでない」と主張したのです。 これを屁理屈と断ずることはできません。実際に、ヨーロッパでは市民革命以前 封建的なギルドの規制や国王と結んだ特権商人によって、経営者たちは自由に 人を雇うことが出来ずに苦しめられたのです。 彼らの言う「経営の自由」「契約の自由」という人権の主張は、20世紀の 初めまである程度の説得力をもっていたのです。 しかし、資本と労働手段をもつブルジョワジーと、自分の能力以外に持たない 労働者とが、自由で公正な話し合いを持つことが出来るでし?うか。明らかに ブルジョワジーのいう「経営の自由」「契約の自由」は、労働者という弱者を 犠牲にすることによって全うされるものになっていたのです。 弱者を犠牲にしなければ守られない人権とは一体何なのか? 労働者のもっと切実な、最低限人間らしく生きる権利は、どうなるのか? 長くきびしい道のりの末に、労働者の権利は、保障されるようになりました。 その結果、逆に経営者の権利は大幅に制限されることになりました。 それでも、それが受け容れられたのは、人権は弱者のためにこそある、という 暗黙の了解があったからではないでしょうか? 弱者には人権以外に自分を守るモノがないのです。力を保つ者は、その力で 自分を守れます。ならば、人権は、弱者のために優先的に使うべきものなのです。
78 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:30:41 O
>>73 嫌われ物だからじゃない?
今は被害者に払う慰謝料をケチって購入したマンションか?
そして、少年の事件・・・ 私は、同じように考えます。弱者を犠牲にすることで守られる人権とは何なのか、 と。 判断力が乏しく、大人の無責任な言動に傷つき、警察のきびしい取り調べに さらされる少年たちは、弱者なのでしょう。しかし、彼らが犯したかもしれない 犯罪の犠牲者とその家族よりも弱者だと言えるのでしょうか。 あるいは、犠牲者・家族は、強者だとでも言えるのでしょうか。 裁判あるいは少年審判で有罪と決まるまでは、「加害者」でないから保護されるべ きというのも正論でしょう。しかし、その裁判・少年審判のあり方そのものが 犠牲者・家族という弱者の「真実を知りたい」という人権の犠牲のうえに成り立って いるのではなでしょうか。 犯罪が起きたとき、一番の弱者は被害者とその家族であることは言うまでもありま せん。その弱者を犠牲にしなければ守られない人権があるのなら、その人権は 制限されるべきです。「弱者」と呼ばれる少年の被疑者には、弁護士がつき、少年法 でまもられます。被害者・家族には弁護士もなく、名前や顔を伏せてくれる法律もな く、立ち直るための支援もありません。どちらが弱者ですか。 人権は弱者のためにこそあるのです。弱者が人権のためにいるのではありません。 憲法に書かれているからとか、人権は絶対的なものだから、とか言って 人権のために弱者を苦しめるのは、あまりに教条的な態度でしょう。 最後に、・・・ どなたかが、「人権をきちんと保障するためにはある程度犯罪が増えるのは仕方が ない」というようなニュアンスのことを書かれていました。(間違っていたらすみま せん) 私は、そのような考えには疑問を感じます。 犯罪が増加し、治安が悪化すれば、「安全に生活する」という最低限の権利は どうなるのでしょうか。私達には、健康で文化的な最多限度の生活をする権利がある と、日本国憲法にもあります。犯罪におびえ、犯罪によって命や財産を破壊される 危険と隣り合わせの生活は、健康で文化的な最低限度の生活といえるのでしょうか? そして、そんな治安の悪化した社会では、高額なセキュリティシステムをつけた家に 住み、自費でガードマンを雇い、財産を銀行の貸金庫に預けるような人たちが、
この間新聞とテレビで栃木リンチ殺人事件の主犯格の男の控訴審が無期懲役に なりましたがまた再控訴するのではと思います。あくまでも自分は主犯格ではないと 主張してますがそんなことは通る話ではありません。あまりに軽すぎます殺人事件の 立件だけですね。はっきり言って被害者から多額のお金を取っているのだから窃盗罪 もどうしてつかなかったのか納得いきません。検察側がどうして求刑を死刑にしなかっ たのかそれから残りの3人のうちの1人は確か少年院送りになりましたが大人と同様 な刑にしてもらいたかったです。すでに1人は無期懲役そしてもう1人は5年〜10年以 下ですが須藤さんのお父様が極刑にしてほしいという気持ちには変わりはおっしゃりま したが自分もなぜ全員死刑にしなかったのか疑問に残ります。やはり少年法の壁が あったからでしょうか?少年法で片付けてほしくないです。もう少年法を廃止すべきで はないかと思います。これが海外だったらこの男は死刑は間違いありません。 もし再控訴するようでしたら今度は死刑を下してほしいですね。小学生でも犯罪に走る 時代になりました。去年少年法を改正したからそれで終りと考えないで再度廃止を検 討してもらいです。それと裁判所に陪審員制度を設けてもらいたいのと無期懲役と死刑 の差があまりにありすぎます。だから終身刑制度を再度検討してもらいたいですね。そ れから去年バスジャック犯と愛知主婦殺人事件の犯人は医療少年院送致ですが精神 鑑定にそった形になってしまいました。検察側は刑事処分相当の意見をつけても精神 鑑定がつよいのですね。5年以上収容するとなってましたが真面目に勤めていたら5年 以下で出所するのではないかと思います。そして何食わぬ顔で生活しているそう思うと 刑事処分を受けて罪をきちんと償ってもらいたいという気持ちでいっぱいです。もっと被 害者の立場に立って判決を出してほしいです。このままじゃ犯罪大国日本のレッテル をはられてしまいそうです。
81 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:34:12 O
今頑張ってんのは垣東の嫁か?
この間新聞とテレビで栃木リンチ殺人事件の主犯格の男の控訴審が無期懲役に なりましたがまた再控訴するのではと思います。あくまでも自分は主犯格ではないと 主張してますがそんなことは通る話ではありません。あまりに軽すぎます殺人事件の 立件だけですね。はっきり言って被害者から多額のお金を取っているのだから窃盗罪 もどうしてつかなかったのか納得いきません。検察側がどうして求刑を死刑にしなかっ たのかそれから残りの3人のうちの1人は確か少年院送りになりましたが大人と同様 な刑にしてもらいたかったです。すでに1人は無期懲役そしてもう1人は5年〜10年以 下ですが須藤さんのお父様が極刑にしてほしいという気持ちには変わりはおっしゃりま したが自分もなぜ全員死刑にしなかったのか疑問に残ります。やはり少年法の壁が あったからでしょうか?少年法で片付けてほしくないです。もう少年法を廃止すべきで はないかと思います。これが海外だったらこの男は死刑は間違いありません。 もし再控訴するようでしたら今度は死刑を下してほしいですね。小学生でも犯罪に走る 時代になりました。去年少年法を改正したからそれで終りと考えないで再度廃止を検 討してもらいです。それと裁判所に陪審員制度を設けてもらいたいのと無期懲役と死刑 の差があまりにありすぎます。だから終身刑制度を再度検討してもらいたいですね。そ れから去年バスジャック犯と愛知主婦殺人事件の犯人は医療少年院送致ですが精神 鑑定にそった形になってしまいました。検察側は刑事処分相当の意見をつけても精神 鑑定がつよいのですね。5年以上収容するとなってましたが真面目に勤めていたら5年 以下で出所するのではないかと思います。そして何食わぬ顔で生活しているそう思うと 刑事処分を受けて罪をきちんと償ってもらいたいという気持ちでいっぱいです。もっと被 害者の立場に立って判決を出してほしいです。このままじゃ犯罪大国日本のレッテル をはられてしまいそうです。
83 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:36:34 O
>>78 そうかあ。だけどそのマンションも素性がバラされてるだろうから、毎日隣りや同じ階の住人から嫌な目で見られてるだろね。っていうか、同じマンションの人たち、迷惑だろうね。「なぜちゃんと調べもせずに入居させたんだ?」って、住人は怒ってるだろね。
厳罰化しても、犯罪の抑止力にならない、という意見がありますが、僕はそうは思 いません。 そもそも、法律は、”ものを盗んではいけない”、”人を殺してはいけない”な ど、世間の常識や社会のシステムを示すもので、犯罪においても、罪を犯せばこれだ け刑に処すと、示めしたものです。所詮、紙切れ一枚で、破ろうと思えば、誰でも破 ることができ、犯罪の抑制が本来の目的ではありません。 犯罪の抑制には、教育が重要です。つまり、教育によって、どれだけ分別のある人 間を育てられるか、それによって犯罪が減少する。反対派の人たちの意見は、こうい う具合ではないかと感じました。しかし、それだけ十分でしょうか? 例えば、”泥棒をしても、日本の法律は甘くて大した刑はならないが、泥棒は悪い ことなのでやっていけない”などという理屈が成立するでしょうか? 正しい教育をするためには、正しい法律が必要不可欠です。どんなに立派な教育を しても、その裏づけとなる正当な法律がなければ意味がない。逆に、どんなに立派な 法律を作っても、それを教える人間がいなければ役に立たない。 つまり、正しい法律を、正しく伝えてこそ、犯罪を減らすことができるのだと思い ます。 だから、”厳罰化は、犯罪の抑止力にならない”という意見も、ある意味では正し い。どんなに立派な法律があっても、それだけでは犯罪の抑止力にはならない。 しかし、彼らの主張が正しいとは思えません。厳罰化反対者たちは、教育の力だけ で犯罪の抑止しようと考えているように感じます。しかし、正当な法律なくして、教 育は成り立ちません。そして、こういう甘い考え方ができるのは、犯罪被害を経験し たことがないからだと思います。 逆に、被害者のみなさんが厳罰化を望むことを、反対派の人たちは、”法律さえ厳 しくすれば、犯罪はなくなる”という主張だと、間違って解釈しているのではないで しょうか? この辺りが、意見が食い違う原因ではないかと思います。 罪に対して、不当に重い、あるいは不当に軽い刑罰を科すことが間違いなのであっ て、重い罪に対して、重い刑罰を科すことは必然です。そして、現在の日本の法律は 少年法を含めて、明らかに甘いものが存在する以上、適当な刑罰まで厳しくすべきだ と思います。
85 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:42:13 O
カキヒガシの最新情報ってあるかい?(^o^)
私は88年から10年ほどテキサスで過ごしましたが、少年犯罪の激増により厳罰 化に移行する時期を目の当たりにしてきました。 確かに、数だけの比較をすれば「微増」といえるのでしょう。しかし、アメリカは 広いのです、州が違えば人種構成も違うし、宗教や文化でも「異国」といえるくらい 差のある国なのです。ホームレスが野垂れ死んでいても放っておかれるスラムもあれ ば、植木鉢が盗まれたくらいで新聞に載ってしまう片田舎もあります。総体数を見て 「増減」を云々するのは、いささか早計に思えます。 これらのデータを州ごとに見ると、カリフォルニア、テキサス、ニューメキシコ、 フロリダは厳罰化のプロセスを経ても、いっこうに犯罪は減ってません。人口が多い から? と思いきや、シカゴやニューヨークでは劇的に減ってるのです! 更正プロ グラムや住民ボランティアの功績も大きいでしょうが、私個人は「移民」の存在が最 大要因と感じました。カリフォルニアやテキサスは、一時期ほどではないですがヒス パニックの流入が続き、彼らが人口増加率を上げてるのが現状です。だから厳罰化の 効果を見極めようにも「総体数」では意味ないのです、人口100人あたりで見れば確実に減ってはいます。 刑期の長期化は、獄死やリンチの多発といった新たな不条理も生み出しましたが・・・ もちろん「罰則化だけでは意味がない」と大半のアメリカ人も感じていて、ヒスパ ニックへの語学教育や職業訓練にも力を入れての結果です。 だから「アメリカを見れば、厳罰化に効果がないのは明らか」などと言ってのける 人権派には、鼻白む思いがしますね。数年前まで被害者やその遺族との対面を頭から 拒否しておいて、今頃になって「リストラティブ・ジャスティスを知ってますか?」だもの・・・ 自分達の主張を通すためなら朝令暮改はおろか、手段を選ばない彼らの本質が見事に 出てるなあと感じました。 もう、いい加減「厳罰化で犯罪が減りますか?」だの「重刑で遺族が癒されますか?」 などという、すり替えた問いかけはやめてもらいたい! 「腹一杯食べたんだから、あと一週間メシ抜きでもいいでしょ?」と言われて、うなずく バカがどこにいる? 普通に食うことが始まりなわけで、それだけで充足に足りるは ずがないだろう。・・・
バトルロワイアルという映画がありますね。暴力映画だ!少年犯罪を助長する!自民党の 議員が騒ぎました。R-15指定になりましたね。このHPにも反対者がおられます。 僕も「こんな時期にこんな映画なんかつくるなよ!」と思っていました。 でも見に行きました。映画好きということもありまして、興味があったので。すると ・・・。感動しました。はっきりいって。 (ちょっとあらすじ) ごく、近未来の日本。失業者は1000万人を超え、不登校児は80万人を超える。家庭崩壊、 学校崩壊がすすみ、少年犯罪の嵐が吹き荒れる。子供を恐れた大人たちは国会である法案を 可決する。 新世紀教育基本法(通称B,R法=バトル・ロワイアル法)である。 これは、全国の中学校からランダムに一クラスだけ選び、最後のひとりになるまで「殺し合い」 をさせようという法律である。 そして、修学旅行を楽しんでいたあるクラスが不運にもB.R法の 対象クラスに選ばれた。そして・・・・。 なんか・・。少年法改正と似ていますね。これほど過激な法律ができるとは思いませんが。 さて、映画のなかでは残酷なシーン、暴力シーンがこれでもかというようにでてきます。 バタバタと中学生が死んでいきます。 でも、あまり現実感はありませんでした。なんせ、ほとんどが銃器による殺し合いですから。マシンガン でクラスメートを撃ち殺すシーンを、「子供が真似をする!」といわれてもなあ・・。マシンガン なんてどうすれば手にはいるのかな?いまの日本ならムリですね。 さて、大事なのはこれは「大人が子供たちに殺し合いを強制している」映画だと言うことです。 子供たちは好きで殺し合いをしているのではありません。(一人だけ、殺しがすきなバケモノが いましたが)3日以内に優勝(他の全員を殺す)しないと首輪が爆発して全員死亡し てしまうのです。 ゲーム(映画ではそう呼ばれています)の場所は無人島で、銃を持った自衛隊の部隊に監視され 逃げ出すこともできません。 映画のなかでも、少年の一人が「なぜこんなことをするんだ!」と叫ぶとビートたけ しが扮する進行役の 教師が「おまえらのせいだよ!」と答えています。つまり、少年犯罪に対する大人たちの報復という テーマがこの映画の大前提にあるのです。ご存知でしたか?放映反対のみなさん。
88 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:45:22 O
毎週、人が死んでます(笑)。アニメで。しかも謎解きがメインだから人殺しの理由 がおざなりです。人を殺すということは大変なことでしょう。人を殺さなければならないほどの憎しみ、悲しみ があるはずです。(もちろん、快楽や金が目的で人を殺す悪魔もいることはわかっています。そういう少年たちにはさっさ とこの世から消えてもらうべきでしょう。)そういうことを深く考えない。これは危ないと思います。 たまには、冷静になって自分と反対の意見も考えて見ましょう。けんかせずに (笑)。また、他人の意見を鵜呑み にするということも気をつけましょう。映画を見もせずにバトル・ロワイアルを反対 している人はビデオがレンタル されたら一人でみてみたらいかがでしょう? ほんと、世の中ひとつの考え(一方だけの情報)だけではわからないものですね。1 ・15のある番組でもそう思いました。 例のショートコント・加藤の乱での松波議員の水撒き事件です。松波議員が野党のや じに怒ってコップの水を 野党議員にぶち撒いた事件です。最初、おとなげないこんな男がなんで国会議員なん だ?こんなおとながいるから・・・。 と思っていましたが、そのやじの内容は・・・。下品で恐縮ですが・・・、「扇党首 と何発やったんだ!」「やってる、やってる」 だったそうです。VTRの音声解析でも聞こえています。そりゃ怒るよなぁ・・・。や じったとされる若手議員はわけの わからない言い訳してるし・・・。世の中、一方の考え(情報も)だけではわかりま せんね。まったく・・・・・・。
私自身高校生で、少年からの観点で少年犯罪について述べさせてもらいます まず、一番最初に問題にすべきなのはなぜ少年犯罪が起きるか 「キレる17歳」などと言う言葉が出回っていますが キレ「させた」のは、何歳でしょうか 大体、30代後半〜50代ぐらいだと思います まず第一に、親が親としての教育をしていない 教育とは学校に行かせることではないのです かといって、学校に行くなと言うわけじゃないです 親や教師が子供に、現実性ある論理的な勉強を施すのが教育です「現実性ある」と言った理由は 大抵の親が、現実性無い、受験用の勉強をしていると言うことです 受験用の勉強が出来る者を、社会が求めていると思いますか? 次に「論理的な」と言った理由は大抵の親、そして教師は 理由無しに「それはそれ、これはこれ」と言った風に考えを埋め込む形だからです 子供は納得しないし、それに対して疑問、嫌悪感を感じるのもムリないですなぜなら、理由がないからです この「現実性」「論理的」、これが親、または教師などの教育者が 果たしてない、あるいは勘違いしているせいで、子供にはストレスがたまっているのです 私自身、リアルタイムでそう感じているのです また「子供だから」と言うセリフを、子供は一番嫌がります それは、逃げであり、自分が子供レベルまで落ちることを避けているからです もし、そのセリフで喜ぶ子供がいるのなら、子供と言う立場にすがっているだけです また「誉める」「同情する」と言う行為も 自分が上に立ち、子供を自分より下の位置に置く行為なのです もちろん、全ての行為がそうだとは言いません しかし、たとえ悪意無いとしても、そうゆう副作用があるのは覚えておいて欲しいです まず、これがキレさせる原因の一つです次は社会です 形成されてから時間が経ち、複雑、巨大な社会になった現在の社会は 一言でどうゆう物か説明することが出来ません それが問題なのです先ほども申した通り子供は理由が無い物は嫌いなのです 「社会で生きていけないぞ」とか、そうゆうセリフには拒否反応を示します 全員がそうとは言いませんが、疑問を持たない方がおかしいです 社会とは誰が、あるいはどういった団体が、何のために作ったのか 説明できますか?
民法の冒頭である通則には、権利と義務には信義と誠実が伴わなければならないということ、 権利の乱用は許さないということが警告されています。そしてその延長として、 同19条から20条にかけて、“行為無能力者に騙された者の保護”もちゃんと規定されています。 経済利益に関して騙された者が保護されるなら、命という最大の価値を理不尽に残虐に奪われた 者に関して、最も手厚い保護が行なわれ、奪った者やその保護者には返済と処罰が科されるのは 法理からも当然のことです。また、善なる心の性向を持つ人間でさえあるなら誰でも 判ることですが、“保護”には次の意味も含まれる。つまり邪悪さと無関係な本来の子どもは、 邪悪さを実行し、擁護する勢力(未成年者を含む)から護られなければならない。 真に善良な大人も、邪悪さを実行する勢力から護られなければならない。それが義務を護る市民・ 国民としての当然の権利だということです。そうでなければ、この社会は存続することができない。 ちなみに犯罪が“命の返済”に関わらない場合でも、大人と子どもを問わず、 “価値の返済”の観点がもっと重視されるべきだと思います。続発する犯罪が被害者と社会に もたらす損失をその責任者に、損失と責任の程度に応じて支払わせる手立てが必要です。 罪を犯した者の償いが、経済循環のなかに適正に組み入れられることが望ましい。 子どもの場合は当然、責任は保護者と一体で考えられる必要があります。 失われたすべての価値が、可能な限り元どおりにされなければならない。 矯正は罪を犯した者の魂の価値を取り戻すことです。充分な償いに伴って充分な矯正が 図られなければ、更生が被害当事者と社会に認められるはずがありません。 2.については、“権利と責任とは一体”とは、先の民法通則にもあるとおり、 “権利も義務も誠実に、良心と責任をもって、行使し履行しなければならない”という意味です。 ところが、加害者擁護派は、既に見たように、“制限のない権利をくれなければ、 物を盗もうと、強奪しようと、誰をどんなやり方で殺そうと、責任は取らなくていいはずだ” という意味で、使っています。まさに、まともな大人の言うこととはどうしても思われない、 魂の邪悪さと幼稚さ、つまりそのような心の性向から来る信念なのではないでしょうか。
命の愛と血の涙を見ている人、つまり行動と発言に責任感のある人たちが、それらを無視し、 軽視する論理・論法に、一瞬とまどうのは解らないでもありません。いきなり拳骨を浴びせられ れば、まともな人なら目を白黒させるのは当たり前。まして刃物でグサリとなれば、覚めない悪夢。 どうしても解らないことがいくつかあります。なぜ人は悪を選ぶのかということ。環境は一分の理。 環境のために、例えばレ・ミゼラブルのジャン・バルジャンのように、極度の貧困により家族のため パンを盗まざるを得なくとも、彼は良心と涙を忘れてはいなかった。本質的に善なる心の性向を持 つ者は、例え不条理のために大きな罪を犯そうとも、値しない相手を選ぶはずがない。罪の瞬間で さえその心には愛への大きな飢えと悲しみ、良心の灯火が宿っていたはず。卑劣なやり方で理 不尽な罪を犯すはずもない。罪を犯した後の行動も卑怯なものであるはずがない。涙の味、涙とは 何であるか真に知っている者なら、他者の涙、まして血の涙が分からないはずがない。 不条理ゆえの罪人なら、罪悪感のなさ、図太さ、幼稚さからではなく、良心を捨てていないという 意味において“正々堂々”としているはず。奪ったものの返済も当然に理解するはずです。 また、邪悪さを擁護する勢力、身勝手な一方向からしか見ることのできない人々が、なぜこれほ ど多いのかということ。そして、命の愛と血の涙を無視し、軽視することだけで既に誤っている彼ら の論理に、なぜ法律家、教育者さえその矛盾を明らかにしようとしないのかということです。 そんなことさえできないのか?なぜ? 私事かもしれませんが、私自身は大した教育など受けていません。みなが貧しかった時代に育 ち、ある事情で、極貧とは言えないまでも惨めさも味わった。教育に関して私に影響を与えた人間 など誰もいない。少なくとも親身に私を導いてくれたという意味では、いない。私は自らを教育した 。人知れず悩み、苦しみ、数々の屈辱も味わい、心に穴が開くほどに、考えた。人は私を教えな かった。(私はいかなる宗派にも属したことがないが)目と目があった聖書(簡単なことさえ本当に 理解している人は少ない。その奥行きは世界よりも深い)が私を教えた。そして、自然から、反面 的な意味も含めて人から学んだ。
命には重さ、形と大きさがある。命は同じく尊重しあうとき同じ重さとなる。 軽んじる者は自らをも軽んじる。人が大漁を歓ぶ時、海の底では魚の弔いがあるなら、 その側ではもっと小さな命の悲しみが歓びに変わる。歩くとき蟻の命を気遣える者はい ない。人は屠殺する者を責め、その肉を愛の幻想と共に食べる。すべての命には循環の なかの位置がある。人の命を頂点に置かない者は、人の命を犬の命より軽んじる。人の 命を軽んじる者を重んじる者は、無残に殺された命を軽んじる。命の循環を乱して小さな 命を軽んじる者は、経済の循環を乱して盗む者と同じである。すべての命は、その重さと 形と大きさと位置に応じて尊重される。やさしさも裏を返せば無責任、時には歪みである。 無理やりの個性、自己表現は歪みを生む。必要な僅かの範囲で私が自らの世界を話し ただけでも、おそらく私に個性がないとは誰も言わないだろう。私は個性など求めたことは ない。個性とはむしろ普遍性のこと。人間の身体の個人差も、人種差も、人間とサルにし ても、遺伝子の違いはほんの僅かに過ぎない。命の愛に基づいて自ら考え、自然と人間の 普遍性を見出し、あるいは懸命に生きる過程だけで歪みのない個性が生まれていく。それ をしない結果の特徴を、個性がないと言っているに過ぎない。 普遍性は、充分すぎるほどの個性を生み出す。命の愛を心とする世界は多様性に満ちて いる。普遍性を歪めたものに何の意味があるだろう。命の愛を持たない妄想が生み出した ものに何の価値があろう。自他を傷つけ、妄想と妄想が共感し、共鳴しあって死を生むだけ ではないか。 自らの血を命の愛のために捧げえない者に、人を戦地に追いやることも、愛を語り平和を 語る資格もあるのか?憎しみや狂気、絶望のために命を捨てる者は多くとも、命の愛のた めに自らの命を捧げる者は少ない。至る所に血の涙がある。命の愛を軽んじる者たちがい る限り、血は河となって流れ続ける。命の愛がすべての人の心を支配するまで。
94 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:53:09 O
ウソつくな。次女はまだ小学校だぜ。
刑法というような法律は、社会の治安と秩序を維持する為にこそ必要なものなのであるから、 法を犯した者を裁くには、常に社会との関連のなかで裁かなければ成らないのであって、現状のように 違反者個人の人権とか更生とかいう面にだけ目を向けていたのでは駄目なのである。 過失や情状の酌量にあたいするような犯罪者は兎も角、故意に犯行に及んだ者に対してまで、 その人権の擁護や更生を優先するあまり、社会に悪影響を及ぼすような裁きをなす現状のごとき司法官の態度は 、明らかに間違っているのである。 よって司法にたずさわる者は、犯罪者個人の人権擁護や更生などという事よりも、裁きの結果が社会に与える影響と いう事の方に重点をおいて考えることが必要だという事を、念頭に置かなければ成らないのである。 人間という者が孤立的な存在で、社会とは全く関わりのない無人島のようなところで独り暮らしをしている存在ならば、 たとえ法を犯そうが何をしようが構わぬのであるが、我々人間はそういう存在ではなく、常に社会という場において共同の 生活を営んでいるのであるから、罪を犯した者は厳しく処罰しなければ法を定める意味がなく、社会の治安や秩序を 維持することも出来なくなってしまうのである。 今日、我が国の司法関係者は、いたずらに犯罪者に温情をかける事で、自らが「如何なる悪人をも許せる心の広い 人間」であるかのような錯覚に陥り、自己満足しているのではないかと思えるような節が見受けられるのであるが、 そういう自画自賛的な自己陶酔によってなされる「犯罪者擁護の温情的判決」が、第二、第三の犯罪者や被害者を 生み出すもとに成っている事実に対しては、まったく目を向けていないのである。 犯罪者には犯罪に見合った厳しい罰を科すことが必要で、たとえ犯罪者が悔悛の情を示したからといって、 たゞそれだけのことで刑罰を軽減するというような温情をかけては成らぬのである。 なぜなら刑罰というものは、犯罪者個人に対する罰であるということ以上に、社会という共同生活の場において 「法を犯した者が受けなければならない罰則である」という面に比重を置かなければ成らぬものであるからだ。 故に、犯罪者がどういう刑罰を受けたかという事を、世間の人々に対して周知徹底させることが必要なのである。
余談は扨措き、上述したように犯罪者の人権擁護だの更生だのと温情をかけることは、一見、慈悲深い崇高な心のように 受け取られがちであるが、そんなものは慈悲でも何でもなく、単なる甘やかしであり、社会を一層混乱におとしいれるだけの 無分別な行為であるに過ぎないのである。 この度の少年の起こした犯罪にしても、十二歳といえば、やって善い事と、悪い事の判断くらいはできる年齢なのだから、 たとえ十歳の子供といえども、犯した罪に対しては相応の責任を取らせるべきなのである。 そうしなければ少年法の温情主義を逆手にとって、ゲーム感覚そのまゝに犯行におよぶ少年が後を絶たない事に なってしまうのである。 今日、犯行に及ぶ少年たちは、自分が何を遣っているか充分に心得ており、仮に捕まっても自分が処罰されないくらいの ことは先刻、承知のうえで犯行におよんでいるのであるから、たゞちに刑法や少年法などの見直しが必要なのである。 我々はもっと現実を直視して、少年法や刑法に対する根本的な見直しを要求する声を発し、法律の改正に向けて世論を 高めていかなければ成らないように思います。 誤った人権思想や人道主義に傾倒し、現実を認識する事のできない司法官や弁護士先生などが目覚めるのを待っていた のでは、この国は安心して暮らす事のできない犯罪王国になってしまうのであるから、我々一般国民の側から声を発する 事によって、法律のことしか解らぬ司法関係者のエリート意識を打ちやぶり、法律の見直しや裁判制度の改革を迫っていく べきであろうと考えます。 また、この度の少年犯罪の場合も然うであるが、このような犯罪が生じた場合、すぐに犯人の精神状態が問題にされ、 精神鑑定が実施されることになる。 その結果、精神に異常がみとめられ、犯行当時に善悪の判断ができない状態にあった となると、途端に犯した罪を法律で裁くことが出来なくなって無罪になるという扱いも、納得のいかないところである。 精神の錯乱によって善悪の判断がつかなかったのだから仕方がないと言うのなら尚のこと、善悪の判断もできぬ精神異常 者を野放しにする事の危険性は、判りそうなものではないか… 一見、常人と区別しがたい精神異常者が、すれ違いざまにいきなり刃物を取り出して襲い掛かって来たとしたら、誰がそれを 避けられるであろうか…
少年犯罪・・・ きっと、昔からトップニュースにはのぼらなくとも少年の犯す犯罪はたくさんあったはずですよね。 でも、昔とは犯罪の質が変わった。近年の少年による犯罪の質の変化について、私なりに色々と 考えをめぐらしています。その根本的原因は何なのか。 もちろん様々な要因があるだろうと思います。そしてその要因の一つに、「映像の変化」というものが 考えられる様な気がします。 私は何年か前に少年という枠をはずれたばかりですが、4歳になる娘がいます。その娘を見ていて思います。 娘が発する言葉や娘の見るアニメやCM。その全てが私の幼少時と変わりすぎている、と。ほんの20数年前の 私が幼少の頃は、アニメで殺しあうものや血が飛び散るものはほとんど見れませんでしたし、CMで下着姿はもちろん、 キスシーンは見れませんでした。ゴールデンの時間に罵倒が飛び交う番組や、自殺をテーマにしたドラマは 全く見れませんでした。しかし今現在は・・・。当たり前の様に見ることができます。聴くことができます。 普通に生活をしているだけで、この様に親としては避けたい情報が娘の記憶として保存されていってしまっています。 インターネットや映画、ビデオにゲーム。今後、娘の周りには余りある程の情報が溢れてくるわけですが、 こういうものを皆さんはどう思われますか?映画の内容も映像も随分変わりました。視聴者が物足りないからです。 ”映像や情報が溢れてくると、物足りなくなる。だから実際に行動にうつしたくなる。”この事実が非常に 切実な要因になっているような気がしてなりません。 ゲームももちろん変わりました。映像がリアルになりすぎてしまっています。モンスターを倒して進んでいく かわいい英雄が、人間を切って、殴って進んでいく、しかもどの人間もリアルな映像なのです。 このようなものを仮に毎日見ていたら、物足りなくなるかもしれません。未熟な想像力の少年達ならば。 まあ、成人していたとしても、未発達な想像力の持ち主はたくさんいるのかもしれませんが。 このような映像を規制する法律ってないんでしょうか?R指定位ですか? 私は声を大にして、映像や情報を規制することに、もっと政府は敏感になるべきだと思うのですが。 何かが起きてからその原因をあれやこれやと考え、結局何一つ改善されない。
私自身、20年も前、専門家といわれる人たちが、実際こう言っているのを聞きました。「日本人は特別な民族であり、 現実と虚構の区別くらいちゃんとできるから、暴力番組にもビデオなどにも影響されない。 アメリカみたいな規制は考えなくていい」私は、その時、「この国はおそらくそのうち地獄を みることだろう」と思いましたが、残念ながら、そのとおりになってしまいました。精神分析や教育理論、 法律その他の専門家の意見も参考にはなるのでしょうが、それに支配されるべきではありません。 正しい場合もあるかもしれませんが、彼らほど間違いを犯し、またそれを認めなかった人種もないのですから。 オカルトじみて強欲を秘めたものは論外として、良識に叶う原因と結果の法則を無視すべきではありません。 優先すべきは、社会と個人のあり方を共に問い直し、良識に叶った予防措置を講じることです。原因は、 ひとつだけではないでしょう。大人社会自体が、情報や事件など醜い有様を呈していること、子どもを 食い物にする大人も多いこと、そんななかでも真剣にあるべき教育に努めない親が多いこと、 子どもといえど容易に悪魔になりうることを認めず、実際に犯罪を犯してもなお本人と親の責任を 問わず甘やかす仕組みを改善しなかったこと、数えればきりがありません。状況を放置しているうちに、 しつけがきちんとしている親にとってさえ悪影響を排除することが困難なほど、状況は悪化してしまった世の中で、 少年が幼稚なまま大人の醜さだけ身に付けて、犯罪に走ることが不思議なことでしょうか。犯罪の責めは、 本人と親、社会のいずれもが負わなければなりません。親と社会全体の責任とは、犯罪に応じてふさわしい罰と 自覚を本人に与えること、犯罪を生み出さない社会をつくることに渾身を傾けることです。 犯人の個人的な特徴や生い立ちに関する報道や受取り方については、注意が必要です。本質は何かを 忘れてはいけません。犯人が、学校の成績がいいとか悪いことは犯罪と関係はありません。 また見かけは大人しいとか、元気とか陰気とかいったことも。真面目に目的を持って頑張った結果、 例えば優秀な成績の子が、印象だけで犯罪予備群と思われたら、その子と日本の将来は一体どうなるのでしょう。
インチキ人権主義者」の人々は、加害者の更正の機会がどうのこうのと言うけれど、 世間に後ろ指さされることくらいで更正できないのなら、そんな人は最初から更正するなんて無理なのだと思います。 人を殺しておいて自分は生かされているのだからそれで十分ではないですか? 後ろ指さされながら生きる事に耐えられないなら死ねばいい。 彼らにはその選択の自由があります。 でも、被害者には選択の自由はなかったのです。 被害者にだって、これから未来があったのです。それらを勝手に奪っておいて、更正するために世間ぐるみで 協力してくれというのはちょっとムシがよすぎる気がします。 更正できないのなら、最初から加害者にならなければいいでありませんか!! もし私の子供たちが被害者になったら? 考えたくもないし、考えられないけれど、加害者には、単なる極刑なんかではなく、想像できるありと あらゆる苦痛を味わった跡で、「死にたくない」と叫びながら死んでいってほしいと願うでしょう。 加害者になったら? それも考えたくもないし、考えられないけど、そうなることのないように、今から、命の大切さ、 悪いことをしたら必ず罰せられる、ということを教えていきたいと思っています。 今回の事件の後で、息子にも、どこに行っても絶対に私から離れてはいけない、といい聞かせました。 いつも行っているスーパーでお隣の売り場に行ってもいけない、と。 そして今度の事件のことを話しました。気をつけない悪い人は大人だけじゃない、子供にもいる、 犯人は中学校に行っているおにいちゃんだったと言いました。そして、「そのおにいちゃんは、 とても悪いことをしたんだから、ずっとずっと牢屋に入っているんだよ。おとうさんにもおかあさんにも 会えないんだよ。大人になって、おじいさんになって、死ぬまで、ずっと牢屋に入っているんだよ。だって、 殺されちゃった4歳の子は、もう、おとうさんにもおかあさんにも会えないんだからね。」と言いました。 息子がどこまで理解できているのかはわかりません。でも、話しながら、本当に、そうであってほしいと、 犯人には死ぬまでずっと苦しんでほしいと強く願いました。
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少年法により名無し :2006/03/21(火) 21:57:56 0
宮野も小五でパンチ頭、だせぇw パンチにすりゃいじめられんと思ったんかね、プッ
犯罪を犯した少年のうち、十四歳以上二十歳未満を「犯罪少年」、 十四歳未満を「触法少年」という。「犯罪少年」は当然少年刑務所にブチ込まれるところだが、 つい最近まで、少年法に「刑事処分可能年齢は十六歳以上」という特例があったため、 たとえ犯罪少年であっても、それ未満の少年は罪を問われることはなかった。 「つまり、十六歳未満の犯罪はチャラになるんだ」 平成九年(1997)、この特例を逆手にとった凶悪犯罪が起こった。 神戸連続児童殺傷事件である。 当時十四歳だった犯人の少年は、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」なる奇怪な名を語り、 いたいけな三児童を殺傷、うち一人を小学校の前にさらし首にした。 少年は逮捕され、医療少年院に送られたが、この秋、この社会へ帰ってくる予定である。 事件後、少年法改正が論議され、平成十三年(2001)の改正少年法では、「刑事処分可能年齢は 十四歳以上」に引き下げられた。 ところがこの規定も、平成十五年(2003)七月に長崎幼児殺害事件を起こした十二歳の犯人には、 適用されることはない。 「犯人に適用できないなら、その親を市中引き回しの上打ち首にすればいい」 鴻池祥肇(こうのいけよしただ)防災担当相がそんなことを言って批判されたが、少なくとも被害者 の親は、それ以上に憤慨していることであろう。 七月には、沖縄でも少年たちによるリンチ殺人事件が起きた。 また東京では、少女四人が身勝手極まりない男の最後の晩餐(ばんさん)の犠牲になる事件も発生した。 被害少女の一人が言ったという。 「私たちが悪いんです」 とても被害者の言葉ではないが、彼女らは自分たちが「危ない橋」を渡っていたことに気付いたのであろう。 うまい話にはリスクが付きものである。 大人は信用できないものである。 初めからそう思っていたほうが無難である。 特に「信じろ」などと強制する大人ほど信じられないヤツはいない。 大人を信用してはいけない。 だからといって、無視しろと言っているわけではない。 良きにせよ悪しきにせよ、自らの手本とするのである。大人をよく観察し、分析し、習得すべきものは吸収し、いらないものは切り捨てるのである。
102 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 22:06:36 O
シンナーは いつでもやれる お手軽さ おぉ恐い恐い
今日、犯行に及ぶ少年たちは、自分が何を遣っているか充分に心得ており、仮に捕まっても自分が処罰されないくらいの ことは先刻、承知のうえで犯行におよんでいるのであるから、たゞちに刑法や少年法などの見直しが必要なのである。 我々はもっと現実を直視して、少年法や刑法に対する根本的な見直しを要求する声を発し、法律の改正に向けて世論を 高めていかなければ成らないように思います。 誤った人権思想や人道主義に傾倒し、現実を認識する事のできない司法官や弁護士先生などが目覚めるのを待っていた のでは、この国は安心して暮らす事のできない犯罪王国になってしまうのであるから、我々一般国民の側から声を発する 事によって、法律のことしか解らぬ司法関係者のエリート意識を打ちやぶり、法律の見直しや裁判制度の改革を迫っていく べきであろうと考えます。 また、この度の少年犯罪の場合も然うであるが、このような犯罪が生じた場合、すぐに犯人の精神状態が問題にされ、 精神鑑定が実施されることになる。 その結果、精神に異常がみとめられ、犯行当時に善悪の判断ができない状態にあった となると、途端に犯した罪を法律で裁くことが出来なくなって無罪になるという扱いも、納得のいかないところである。 精神の錯乱によって善悪の判断がつかなかったのだから仕方がないと言うのなら尚のこと、善悪の判断もできぬ精神異常 者を野放しにする事の危険性は、判りそうなものではないか… 一見、常人と区別しがたい精神異常者が、すれ違いざまにいきなり刃物を取り出して襲い掛かって来たとしたら、誰がそれを 避けられるであろうか… そんな危険な人物は、たとえ一生涯を費やそうとも、精神の異常が完治するまで完全に社会から隔離しなければ成らぬの である。 今の世の中は麻薬や覚醒剤によって精神が錯乱している人間や、ホラー映画や俗悪なコンピューターゲームなどの悪影響を 受けて、邪悪な心の世界に陥ってしまった精神異常者が至るところに存在するのであるから、いつ何どき危害を加えられない とも限らぬのである。 けれども、そのような精神異常者が事件を起こしたとしても、彼らの行為は犯罪とは見なされず、刑罰を科される事がない。
仮令、一時的に医療機関に送られる事にはなっても、事実上は無罪放免に等しい扱いになるのであって、以後、 医師の判断により数年を経ずして社会に復帰してくるのである。 こんなバカげたことを放置しておくのは、明らかに 国の落ち度なのであるから、国民は同志を募り、団結して此のような状況を放置している国を告訴して、責任を追及すべきだと 思うのだが… それは兎も角、本当に加害少年の更生を願うのなら、罰を免除して遣るのではなく、犯した罪の重さを認識させ、 それを償わせて、心からなる更生の道を歩んでいく人間になるよう教育してやる事こそが、正しい裁きであるように思いますが 、皆様はどうお考えでしょうか? 擁護派の方々はここに来られる人も、メディアに出てこられる人も、話を聞いてると分かるのですが、 ”痛み”を非常に忌避しています。 変革には痛みを伴うのは必死、しかしそれを受けるのも、与えるのも避けたい。 議論のパターンとしては相手の意見を封殺、もしくは有耶無耶にし聞こえの良い理想論を唱えるのが常です。 (大半の人がここで何となく納得させられてしまいます)そして絶対と言えるほど対処法を提示しません。 最後には、責任を個人から集団へ拡散させる発言で締めくくります。 結果、現状維持に陥ります。 ↑ 結構この事に気づいていない人が多いんですよ。 彼らの意見を通すと必ずと言っていいほどこの結論に陥ります。 まぁ、本人たちに聞いても否定されるでしょうが。 彼らは未成年を罰するという事に抵抗があるというより、”個人が権力によって罰せられる”事に酷くアレルギーを 感じている、そんな印象を強く受けます。 勿論未成年加害者を案ずる持ちも無いわけではないでしょうが、殆どイデオロギーからの行動が本音でしょうね。 何が言いたいのかと言いますと、彼らに未成年加害者の凶悪さや、被害者の悲惨さ、法改正云々を語っても あまり意味がないと言うことです。 何度も議論されてきた方々は、もうお気付きかもしれません。 そんなことを何度真摯に訴えようが、馬耳東風なんですね。 擁護派は何でこんな事が理解できないんだ?と首を傾げていた方々が多いでしょう。
未成年犯罪者の気持ち、私には分かるような気がします。 ただ、もちろん全ての件に関して、と言うわけではありません。 私は現在、成人している学生の身です。時代が変われば、子供達の気持ちも変わりますから、私の年代とは、違うのかもしれません。 ですが、私は小学校時代。俗に言う小学校上級生の間に虐待を受けていたと感じる時期があったのです。 それゆえに、犯罪に走ってしまう、子供の気持ちが・・・正確には気持ちではないのかもしれ ません。走ってしまった理由が分かる・・・これも言葉として適切とは思えません。言葉にするのは難しいですね。私が20数年生きてきた中での経験を元に、なんとなく感じとってしまったこと。と言う感じです。 どんなことがあったかって言うと、ある日、あの時、あの場所でーーー私の家族に不幸なことが起こったんですね、これが。(途中は省きます。身内の恥をさらすようで嫌なので) 結果、どうなったと言うと、父親は外に愛人を作り、週に2〜3回は家を留守に、母親はその怒りを私にぶつけるようになりました。父親には腕力ではかなわなかったらしいのでね。 色々あって、塾にもいかされていました。 さて、どうですかね? 小学校高学年の多感な時期、ほとんど毎日塾にいかされながら、家に帰っては暴行を受け、両親におまえの父・母とは暮らしていけない。離婚する。と愚痴をこぼされて生きていました。 リストカット。あれも、やろうと何遍も手首にカッターを当てました。まぁ、幸いにして臆病者だったので、切れませんでしたが。 塾にいかされながら、と書きましたが、これも嫌だ!と言う度に殴られるので、御話しになりません。 いつしか、私立の中学校にいくのが当たり前だと思ってました。 ですが・・・なんなんでしょうね。六年生のある日、両親が正気に戻ったのか・・・ 私に悪いと思ったのか・・・ 何があったのかは分かりません。ただ、とにかく二人に心境の変化があったのは確かなんです。 私はその日、いつものように塾にはいきたくない!私立の中学にはいきたくない!と親に泣きながら反発しました。
さて、何を言いたいかと言うと、現在の日本で親と言う立場にいる(もしくはそれに相応す る年齢)人間の精神の未熟さです。 低すぎますよ・・・はっきり言って。 読んでる方もそうは思いませんか?ここの掲示板にも書いてありますが、公式の場でそぐ わない発言をしている人が多いですよね。 今の私が、当時、父と母の年齢だったなら、絶対にどちらの立場でも譲歩していました。 もしくは、相手を納得させることができたでしょう。まぁ、私は男ですから、女性の気持ちが 100%理解できるとは言いませんけど。 ところで、過去ひどい扱いを受けた人間が他人に関して、寛容になると言う事象を知ってい ますか? 私もそれに漏れないようです。他の人に比べると、そうですね、古き良き日本人らしさ、で すか?と言うよりも人間として、できて当たり前のことをやっているつもりです。 簡単な所でいうと、電車の中での席の譲り合い、とかです。 あれは・・・なんなんでしょうね。大人と呼ばれる年齢の人が、私は立ったのを見たことが ないのですが。逆に髪を金髪に染めてる人やら、ピアス空けてるのやら、バカップルやら が譲ってるのはよく見ます。 年齢の低い人が譲るべき、ですか?そうではありませんよね? 私は、40代だろうが、50代だろうが、譲ると思いますよ。例え、疲れてようが、腰が 痛かろうがね。なんで、どうして、こんなことができないんでしょうね? 私が見ていることで判断しているだけですから、他の大人達はそうでないのかもしれ ませんが。 こんなことを見たり、経験したりで思うのですが、現在の大人達は他人に対する思い やりにかけていませんか?我が子に対しても、同じではないですか? 今日は、仕事で疲れた。なんて言って、子供のことをおろそかにしていませんか? 子供の頃、生き物を飼った経験が多くの方にあると思いますが、生き物を育てるのはとても 大変です。それをちゃんと生かしていれば、子育てをおろそかにすることなどできないはず だと思うのですが・・・。 心ない飼い主が増えた。なんて言われる昨今では、無理ないのかもしれませんね。 『そうだな、悪いことだな。じゃあ、君達が大人になった時に、偉くなってそれを直してくれ』
人間の手になるもの、あるいは人間がゆがめてしまったものには、言うまでもなく 作為・不作為を問わず常に誤りや不完全さを伴います。本当に誠実な人は、そのこ とを先ず認め、そして必要な範囲の現実全体を直視する過程で確認されあるいは 予想される諸々の問題を解決しようとします。いかなる分野・立場の人であろうと、そ の姿勢を欠くことじたい既に、考えるための基本的な資格を失っています。これはき わめて大事なことです。 人間は、言葉の生き物です。それは、法律家など専門家といわれる人々にしても全 く同じです。そして自分自身で、また他者とともに人間全体の関心対象について考え るための基本の言葉はあくまで、万人に通用する普通の言葉です。専門家といわれ る人々が使う専門用語と呼ばれる特殊な言葉は、対象をより厳密に深く追求する場合 に限って有用です。その分を超えると、専門用語はむしろ危険性を生じます。普通の言 葉の定義では対応できない場合にのみ、専門用語の定義が必要なのです。専門用語や 自分たちだけに通用する虚構の論理を、人々を煙に巻き、自らをも欺くために使うことは 、傲慢さと愚かさの為せる業です。まして、そういった職業的利害や面子、付き合いなどを 、人の命や愛、正義、財産などゆるがせにできないことより優先させるようなことは、むしろ 邪悪さから来ると言ってもよいほどの許されない業です。真に専門家と呼ばれるに値する 人なら、そのことを常に深く意識しているはずです。このこともきわめて大事なことです。 さて、少年犯罪に拘わらず、現実の犯罪の細かな態様は、千差万別という表現をも超え るほどです。被害者と加害者、訴える側と訴えられる側という一つひとつの構図の裏には 、愛と憎しみ、血と涙、悲しみや苦しみ、身勝手な論理や残忍さやゆがんだ喜びや狂気(未 熟さとの区別は不可能)などの複雑な要因が関わり、最終的には、必ずしも単純ではない 善と悪との闘いという問題に戻っていきます。犯罪に関わる処罰と償いと更生の問題には、 一律的外形要因のみによるのではなく、容易に見えるとは限らない、隠れた要因にまで可 能な限り踏み込んで当たらなければなりません。そして、その解決は、被害側の救済と加 害側の処罰と償いと更生が、“正義の天秤”上で釣合いを保たない限り
ところで、“行為と罪と罰”、またそれらの関係とは何でしょうか?ある行為は罪と みなされ、別の行為は罪とみなされないのは、なぜでしょうか?人間は、顕在意識 と潜在意識という二つの意識領域を持っています。そして、それらの領域は、知情意 などの働きを司ります。これらの働きが人間の行為を生み出します。数え切れない人間 の行為のなかには、直接・間接に他者の心と身体または財産を損傷し、あるいは命を 奪う効果を持つものもあります。ある行為が実際にそれらの結果を生んだ場合、行為者 の意識のありようによって罪の程度が分かれます:1.そのような結果に至らしめる明確な 目的意識をもって、為された場合―故意犯。犯行に至るまでの準備や犯行の経過から みて、その間に明確な目的意識は見出されないにも拘わらず、望ましくない結果を避け ようとする当然の努力も見出されない場合―未必の故意犯。行為経過において、いかな る目的意識も見出されないが、もし行為者が、自らの立場と善良さと責任に基づく可能な 限りの注意を払っていたなら、望ましくない結果を避けることができたであろうと推測され る場合―過失犯。行為経過において、社会通念上も実際の精査に基づく判断によっても、 不可抗力としかみなされない場合―原則無罪。(このような場合でも、遺族は行為者に対 して恨みを抱くのは無理からぬことであり、旧約聖書において、そのようなときのために神 は“逃れの町”を設けられたとある) ところで人間の行動を司るのは、狭い顕在意識領域より、むしろ遥かに広大な潜在意識 領域であり、両者の間には明確な境界が無いのですから、本来は双方の領域における意 思によって罪が問われなければなりません。そうでなければ、催眠術犯罪という特殊なケ ースを含め、悪の巧妙さと多様性には充分に対抗できません。それにも拘わらず、精神、 特に潜在領域については、人間は一般に認められた知識をいまだ殆ど持たないので、結 果とともに自律的な意思能力や証明を重視する近代法では、心身喪失者や心神耗弱者、 一定年齢以下の犯行者などを罪に問えないとするわけです。
ところで、“行為と罪と罰”、またそれらの関係とは何でしょうか?ある行為は罪と みなされ、別の行為は罪とみなされないのは、なぜでしょうか?人間は、顕在意識 と潜在意識という二つの意識領域を持っています。そして、それらの領域は、知情意 などの働きを司ります。これらの働きが人間の行為を生み出します。数え切れない人間 の行為のなかには、直接・間接に他者の心と身体または財産を損傷し、あるいは命を 奪う効果を持つものもあります。ある行為が実際にそれらの結果を生んだ場合、行為者 の意識のありようによって罪の程度が分かれます:1.そのような結果に至らしめる明確な 目的意識をもって、為された場合―故意犯。犯行に至るまでの準備や犯行の経過から みて、その間に明確な目的意識は見出されないにも拘わらず、望ましくない結果を避け ようとする当然の努力も見出されない場合―未必の故意犯。行為経過において、いかな る目的意識も見出されないが、もし行為者が、自らの立場と善良さと責任に基づく可能な 限りの注意を払っていたなら、望ましくない結果を避けることができたであろうと推測され る場合―過失犯。行為経過において、社会通念上も実際の精査に基づく判断によっても、 不可抗力としかみなされない場合―原則無罪。(このような場合でも、遺族は行為者に対 して恨みを抱くのは無理からぬことであり、旧約聖書において、そのようなときのために神 は“逃れの町”を設けられたとある) ところで人間の行動を司るのは、狭い顕在意識領域より、むしろ遥かに広大な潜在意識 領域であり、両者の間には明確な境界が無いのですから、本来は双方の領域における意 思によって罪が問われなければなりません。そうでなければ、催眠術犯罪という特殊なケ ースを含め、悪の巧妙さと多様性には充分に対抗できません。それにも拘わらず、精神、 特に潜在領域については、人間は一般に認められた知識をいまだ殆ど持たないので、結 果とともに自律的な意思能力や証明を重視する近代法では、心身喪失者や心神耗弱者、 一定年齢以下の犯行者などを罪に問えないとするわけです。
その措置が正しいかどうかはここでは別として、罪と罰の関係を考えるために、 盗みや略奪という罪を取り上げます。正当な理由無く何かを奪われた者は、まさ に奪われたのと同じもの、または同等の価値のものを返すように相手に要求する でしょう。そして、奪った者がその要求に応じることはまずありえないので、奪われ た側は実力に訴えることでしょう。 ところが、掛け替えのない命の愛を奪われるということが起きた場合の被害者側の 救済は、その命の愛を元どおり返すこと以外にはありえません。しかし、人間にはそ の力はないので、遺族にとっては同等ではなくても、人間全体としては同等の価値を 持つとみなされるもの、すなわち罪を犯した者自身の命でその罪を償うことになります。 現に、加害者が、殺人という罪の深さを真に自ら認めた場合、せめて私の命をもって償わ せてください、ということもまれには起きえたわけです。この考えには、法解釈における、い わゆる勿論解釈(小さな場合において当然なら、大きい場合はそれにもまして当然とする 解釈)からも理があります。それにも拘わらず、命の代わりに金銭価値による賠償が行なわ れることがあるのは、罪を犯した者が自分の命を金銭で贖っていると考えるのが正当だと思 います。 ここで注意しなければならないのは、不当に命を奪った者の命の重みじたいは、そ の時点で軽くなっているという点です。なぜなら、自分と同等であるはずの他者 の命を軽んじたことで、自らの命をも同時に軽んじたからです。それが自らの命に よる償いの際の“せめて”の意味の一つです。また、それを拒否したなら、自らの命 については、かけがえのないものだと思っていることになります。ならば、もし金銭でそ れを贖おうとするなら、地球をも買えるほどの額を提示するのが当然だということにな らないでしょうか?この部分の賠償は厳密に言えば、むしろ刑事罰的な性格を持ってい ると言えます。一方、民事罰としての賠償は、被害者が生きていれば得ることができたで あろう逸失利益に相当するはずです。とにかく、殺された者の命の愛自体が金銭価値に 換算されることなどありえません
この部分の賠償は厳密に言えば、むしろ刑事罰的な性格を持っていると言えます。 一方、民事罰としての賠償は、被害者が生きていれば得ることができたであろう逸失利 益に相当するはずです。とにかく、殺された者の命の愛自体が金銭価値に換算されるこ となどありえません。 そして、被害者と加害者が国家等の同じ集団に属する場合は、集団全体の秩序を維 持するという集団の関心事に従って、罪を犯さなかった者との差別化及び本人と社会 全体に対する犯罪抑止効果を目的として、罪の程度に応じた制裁を行なうでしょう。刑 事裁判を通して決められる刑罰というのは、そのような理由によるべきものです。近代 においては、その後でその者が生きているときは、本人の更生を万全のものとするため に、社会による矯正教育(懲役などの刑と平行して行なわれるほうが効果的)が施される かもしれません。 しかし、司法という国家権力が、罪を犯した者に対して刑罰を科さず、罪を犯した者と犯 さなかった者との差別化を行なわないということが、法治国家として許されてよいでしょう か?命の愛に限って言えば、明らかに国家の求める命の刑は、被害者側の求める命の 償いの代わりとなる措置としての性格をも有します。なぜなら、被害者側は、事実関係 の誤りがない限り当然に持つ返済請求権を奪われているからです。 いずれにせよ国家には、正義の天秤皿二つの上に正義の手によって、ケースに応 じた処罰と償いと更生を、被害者側の救済と均衡を保つように厳正に決める責務が 生じたわけです。法律家の事務所等にはよく、天秤をかかげる象徴としての正義の女 神像が飾られていますが、法律に携わるすべての人々は、その像を単なる飾りに終わ らせるのではなく、それが持つ意味を改めて熟考するべきです。正義の女神は、自分自 身着飾ることもなく、個々の事件とそれに関わるすべての人々をいつも見つめています。 その像は、世と人のすべてのゆがみに憂いの表情を浮かべ、その目はすべての痛みに 涙を、無残に殺された人々には血の涙を流してはいないでしょうか?天秤はデジタル秤 のように一瞬にしては値を指し示しません。それは、外形的要因に惑わされることなく、 血の涙の溢れる目と正義の手の先で暫し揺れ続けた後、ピタリと止まるのです。
少年問題に関する本も書いているらしい、ある女性弁護士が、「子どもの視点から少 年法を考える情報センター」というHPのなかで、一応は尤もな大人社会のゆがみの 一部を簡単に挙げた後、少年の犯罪は大人の犯罪と違って、常にこのゆがみからくる 病の結果だ “と思えてならないのです”と述べています。そして、あたかもそれが実証 済みの事実であるかのように、さりげなく“病には処罰ではなく治療が必要です”という 展開に結びつけます。そして、“罪の深さを知り、悔悟の念を持ち、被害者に心の底か ら謝罪して、再犯に陥らないことを決意するという意味での責任は、何としてもとってもら わなければならないと思います”とした後、刑罰が科されない(当人は“課されない”と書い ている。罰を課するという言い方なら、庭掃除くらいの罰もあるからニュアンスとして大きな 違和感もないが、いやしくも法律家が、刑罰を課するというのは、当人の少年犯罪を含 めた刑罰全般に対する姿勢の表れかもしれない)のはおかしいという声に対するわか りやすい反対根拠として、“もし大人と同じ形で責任をとれというのであれば、大人と同じ だけの社会的権利を認めなければおかしいということです。政治への参加についても、 経済活動についても、結婚や妊娠についても、大人と同様の社会人として、子どもを認 められますかと問いたいと思います。そうしたことになると、子どもにはまだまかせられ ない、子どもはまだ未熟だと逃げ腰になるのではないでしょうか。” これは一見尤もらしい理屈に見えます。しかし、やはりどこかおかしい。何がおかしいの でしょうか?理由は直ぐに解ります。これは、比較的簡単な言葉のトリックなのです。 しかも、当の本人もおそらく気づいていない、法律家特有の無意識のトリックと言って もいいと思います。 先ず、少年犯罪はすべて病だという認識については、病とは、本人の体質や生活 態度が大きく関わっているのが普通ではないかと思います。それに、いきなり理不尽 に残虐に他者を、個人あるいは集団で殺し始める病気など聞いたことがありません。 例えだけならいざ知らず、犯罪そのものは誰が行なおうと悪であり、病気ではありませ ん。悪という名の病気はありません。
みなさんは、「被告人は、その刑罰に服する義務がある」という言い方に違和感を覚 えないでしょうか?そうです。罪に対する罰は義務ではないのです。まして殺人に関 する罪と罰は、既に分析したとおり逃れようのないものです。これは聖書全体の記述 とも間違いなく一致します。人間という存在の根本的あり方にも関わる問題なので、そ の詳細を説明してもいいのですが、ここにはそういった論議に関心がない人も多いかも しれませんし、この紙面では済まなくなるので今のところ割愛します。 殺人という罪に対する刑罰(償いを含む)に服するのは、義務によるのではありません 。それに服さないのが、義務違反でもありません。真の遵法精神を持つ人にとって殺人 の罪は、(罪刑法定主義の求めにより)法律に書かれているから悪なのでも、また罰があ るから殺人を犯さないのでもありません。その行いが愛や良心の法、神の法に反すればこ そ、行なわないのです。法律に違反しなければ何をやってもよいという人は、法律をも護り ません。社会的権利にしても、参政権は歴史的にみても、その名のとおり権利でしょうが、 経済活動、まして結婚、妊娠(命を未来につなげるための行為)は、本来的に人間が持つ生 存権(権利以上のものだが、適切な用語がないため)の一種です。国家の関わる社会的権 利などではありません。それらの年齢制限は、生存権の制限というより生物学的、社会的 成長段階に基づく合理的調整と捉えるべきです。 以上のような理由で、犯罪に関わる少年本人の責任は、年齢に基づく権利義務の問 題ではありません。殺人を行なった少年は、生存権の合理的調整に関わる年齢に至 っていないため愛と良心の法を理解できないのではなく、大人同様、その法を捨てるか 忘れているのだと考えます。忘れているだけなら、思い出すこともあるでしょう。そして、真 にそれを思い出したときは、当人の心の性質に応じて、あるいは良心の炎に焼き尽くされ 、あるいは良心の命ずるところに従っていかなる非難にも耐え、以前より強い人間となって 、償いと苦しみの十字架を背負いながら一生を過ごすでしょう。
一言で言えば、このような事件が起きた時、被害者と家族の苦しみと悲しみを、我が事のように感じて涙を禁じえ ない人ばかりであれば、解決を阻む障害はありません。 何より事件そのものが起きないでしょう。最大の障害は、見かけはどうであれ内心では、被害者側への共感に立っ た問題解決への自分自身の関わりを痛感していない人々があまりに多いということだと思います。 このような世の中になった最も大きな要因は、家庭を始めとする大人社会が全体として、子どもたちにある べき模範を示してこなかったことにあります。人間にとって本当に大切なものは何か?命と愛。愛と命。 命を愛し慈しみ、共感によって一つの命が他の命と結びつき、人間の命全体が大きな一つの命となる。 そのような命の一つとして、自己と他者の命を愛し守り、時には、そのために自分の命をも顧みず、 愛する者の命を通して生きる。それが人間の人間たるゆえんなのだと思います。人間として本当に大切なものを 大人自身が理解し、子どもに自らの生き方とことばを通して教えることが必要なのです。人間としての 基礎を学んだ子どもは、自ら判断する力や責任感などを身につけています。もし、僅かでも命としての愛を 持っている人は、人を殺すことのいけない理由が解らないなどという邪悪な問いは発しません。人間としての 基礎を学んだ子どもは、勉学の必要なことも自覚し、ちゃんとした目的をもって努力することでしょう。その結果、 個人差があったとしても、本当に力を尽くした結果なら、みんなが等しく親と国の宝でしょう。本来の人間は、 自己と他者全体にとって価値ある何かを生み出す力を、少なくとも一つは持っていますから、花を育てるように、 それぞれの性質に応じて忍耐をもって育てるなら、いつか立派に咲き誇ることでしょう。あるべき社会とは、 各自がそれぞれの天分と役割に応じて力を尽くし、尊重しあいながら、一つの身体のように存在する形だと思います。 そうでない社会は、ゆがみと矛盾を増大させ、何時の日にか終焉を迎えることになります 「善と共感に基づいて」に続いて すべての犯罪と無縁の社会、ましてこれからの日本と世界を担わなければならない少年たちが、犯罪に関わることのない 社会を作るために、事態はもはや一刻の猶予も許されない状況に至っています。
人間社会を維持するためには、ルールが必要だということに反対する人は、そういないでしょう。では、 社会を維持するとは、一体どういうことなのでしょうか?社会全体のルールがなかった時代には、年齢に拘わらず、 心身と財産つまり個人の権利を誰かが傷つけられた時、傷つけた側への個人的報復がなされてきました。 目には目、歯には歯というバランスが、自然法として適用されてきました。宗教上の根源的な理由を別にすれば、 それが罪に対する罰の本来の理由でしょう。しかし、そのバランス自体は道理に叶っているものの、 法に基づく国家が形づくられると、個人的報復に任せることは、争いの原因などへの誤解や過剰な報復の連鎖や 社会不安を生むことへの懸念から、国家が被害者の裁く権利を奪い取る形態に変わりました。もともと権利を奪っ たのですから、国家には公平な裁判をする大きな責任が生まれました。それと共に国家の関心事、 つまり本来の報復に加え、社会秩序への影響、被害者側と社会への償い、更正と社会復帰、事案間の判決内容の バランスなども加わりました。しかし、国家といえども、実体は誤りを犯す人間の集まりです。国家が裁く権利を奪い 取ったこと自体には、このような一応の合理的理由があるものの、まだ問題は残ります。偏らない正義と社会的要請を 被害者側の苦しみと悲しみを体して実現する責務を、当事者でない国家の委任を受けた人間が充分に果たせるかと いうことです。 罪に対する罰は適正か?公正と社会の将来的安全は守られているか?罪に対する罰の必要性を理解できない人が もしいるなら、試しに「自分の命と財産を、誰も見ていない所で、どうにでもしてください。文句は一切言いませんから」と 公言してみなさい。たちまち、その必要性を実感できるでしょう。良心自体が、罪を犯さないことの抑止力になっている 人もいますが、多くの人は、法律や個人的制裁によって罪に対する罰が加えられることを恐れて、罪を犯さないだけです。 それでも犯す人は、自分の悪運の強さを信じたり、一時的に罪と罰の関係を忘れていたり、処罰は脅威でないと 感じたり、あるいは罪を犯すこと自体が快楽になっているほど悪魔に魅入られていたり、またはそれらの複合的理由です。 合理的かどうかは別として、理由のない犯罪など存在しません。
少年犯罪・・・ きっと、昔からトップニュースにはのぼらなくとも少年の犯す犯罪はたくさんあったはずですよね。 でも、昔とは犯罪の質が変わった。近年の少年による犯罪の質の変化について、私なりに色々と 考えをめぐらしています。その根本的原因は何なのか。 もちろん様々な要因があるだろうと思います。そしてその要因の一つに、「映像の変化」というものが 考えられる様な気がします。 私は何年か前に少年という枠をはずれたばかりですが、4歳になる娘がいます。その娘を見ていて思います。 娘が発する言葉や娘の見るアニメやCM。その全てが私の幼少時と変わりすぎている、と。ほんの20数年前の 私が幼少の頃は、アニメで殺しあうものや血が飛び散るものはほとんど見れませんでしたし、CMで下着姿はもちろん、 キスシーンは見れませんでした。ゴールデンの時間に罵倒が飛び交う番組や、自殺をテーマにしたドラマは 全く見れませんでした。しかし今現在は・・・。当たり前の様に見ることができます。聴くことができます。 普通に生活をしているだけで、この様に親としては避けたい情報が娘の記憶として保存されていってしまっています。 インターネットや映画、ビデオにゲーム。今後、娘の周りには余りある程の情報が溢れてくるわけですが、 こういうものを皆さんはどう思われますか?映画の内容も映像も随分変わりました。視聴者が物足りないからです。 ”映像や情報が溢れてくると、物足りなくなる。だから実際に行動にうつしたくなる。”この事実が非常に 切実な要因になっているような気がしてなりません。 ゲームももちろん変わりました。映像がリアルになりすぎてしまっています。モンスターを倒して進んでいく かわいい英雄が、人間を切って、殴って進んでいく、しかもどの人間もリアルな映像なのです。 このようなものを仮に毎日見ていたら、物足りなくなるかもしれません。未熟な想像力の少年達ならば。 まあ、成人していたとしても、未発達な想像力の持ち主はたくさんいるのかもしれませんが。 このような映像を規制する法律ってないんでしょうか?R指定位ですか? 私は声を大にして、映像や情報を規制することに、もっと政府は敏感になるべきだと思うのですが。 何かが起きてからその原因をあれやこれやと考え、結局何一つ改善されない。
罪に対する罰は適正か?公正と社会の将来的安全は守られているか?罪に対する罰の必要性を理解できない人が もしいるなら、試しに「自分の命と財産を、誰も見ていない所で、どうにでもしてください。文句は一切言いませんから」と 公言してみなさい。たちまち、その必要性を実感できるでしょう。良心自体が、罪を犯さないことの抑止力になっている 人もいますが、多くの人は、法律や個人的制裁によって罪に対する罰が加えられることを恐れて、罪を犯さないだけです。 それでも犯す人は、自分の悪運の強さを信じたり、一時的に罪と罰の関係を忘れていたり、処罰は脅威でないと 感じたり、あるいは罪を犯すこと自体が快楽になっているほど悪魔に魅入られていたり、またはそれらの複合的理由です。 合理的かどうかは別として、理由のない犯罪など存在しません。大人、子どもを問わず、言葉の解る者なら皆同じです。 このように、様々な理由があるのですから、抑止力としての死を含む罰に意味がないとするのは、犯罪を擁護している ことにさえなります。それに、罪に対する罰には、本来の意味である報復と正義の実現も含まれているのですから、 犯罪の理由や責任能力の有無に拘わらず、罪には原則としては罪と同様の罰が適用されるのが、理に叶っています。 個々の事情については、その上で考慮されるべきです。責任能力だけで罪を云々するなら、処罰年齢と法律能力の 年齢とを一致させる必要があるし、あるいは、親のきわめて大きな責任が問われなければなりません。 また年齢その他に拘わらず、原則として同じ決まりが適用されるのでなければ、社会的混乱と不信を招きます。 子どもについては、「まだ何も判らないのだから、今のうちは間違いを犯してもいいよ。ただ成人年齢を越えたら、 責任をもってやっていきなさい」というメッセージは、子どもの自立を必ず妨げます。あるいは、「自分たちは、 国家によって犯罪が免除されているのだ。さあ、今のうちに一人ででも大勢ででも、気にいらない奴を殺してしまおう」 というように、邪悪な子どもを育てることにつながります。法律は何のためにあるのですか?この社会には、 越えてはいけないルールがあり、もしそれを破れば、この社会の誰もが平等に罰せられなければならないということ を子どもたちは、もともと知っていたはずなのに、
そんなことはないんだよと、直接・間接に子どもたちを惑わせたのは、 一体誰でしょうか。そんな大人のバカさ加減と偽善と矛盾を植え付けられた多くの子どもは、大人以上のゆがんだ 価値観に加えて幼稚さだけを身につけたまま、年齢だけが大人になるという結果が生じます。それは悪循環となり、 やがてこの社会は、後戻りのできない破滅的状況を迎えるでしょう。聖なる悪魔を作ってはいけません。 すべてのことには、責任が伴います。死んだ者はもう生き返らない。罪を犯したといっても、子どもの顔をした人間に、 死や苦しみを与えることはできない、と人は言うでしょう。しかし、罰を与えることと同様、許すことにも本来、 大きな責任が伴います。加害者にも親にも罪はない、あるいは、許すべきだと言う人々は、社会など何かを憎んで いるかどうかは別として、加害者に共感を持ち、また愛しているということなのでしょう。それなら、残された 問題―被害者の遺族への償いや社会に対する責任、加害者の誰もが認める更正など―を自分の命や財産に 代えてでも解決する覚悟が必要でしょう。それさえできずに、問題を放置して、ただ許すというのは、 道理を弁えた大人の言うことやすることとは、どうしても思われません。 社会のすべてに目を覆うばかりの無責任と理性の欠如が蔓延しています。罪を罰することさえ放棄した大人の 無責任さも、少年犯罪の大きな原因の一つだと思います。子どもを罰することにためらいがあったとしても、 親や擁護する人々も含めて社会全体は、遅ればせながら、時には涙を飲んでも罰する必要があるのです。 あなたの無責任は、子どもの無責任とつながっているのです。もう一度言います。原則として、罪には罰が伴います。 その上で特に考慮すべき点があれば、責任をもって考慮すればいいでしょう。殺人が、原則として無罪などというのは、 無法社会そのものです。文明国ではありません。問題には、種々の要素がからんでいますから、 理由と責任の所在を明らかにしたバランス表のようなものが不可欠でしょう。そうでないと、 判断に当たった人間の恣意に流れるおそれが多分にあります。また確かに、加害者であるからといって、 人権をまったく失ったわけではありません。新たな便乗犯罪の被害者になっても何も言えないわけではないのです。 何事につけ
自分がどういう者であるかを正しく知るのは、極めて困難です。考えている主体そのものである心の状態をすべて 知ることは、自らの身体を解剖することよりも難しいかもしれません。そのあらましを知るには、すべてを映し出す鏡の ようなものが必要でしょう。しかし、そういうものを見出すこと自体、知恵が必要です。現実的な方法は、外界のことばと 行いから、謙虚な姿勢で学ぶことでしょう。ところが、専門家のように奢りを持ち、自分たちの狭い世界に閉じこもりがち な人たちは、知に溺れ、自らの関心の対象に引っかかり、自らの利益を優先させやすい結果、鏡を見る目自体が曇って しまいます。私は、この世で最も美しく大切なものは、澄んだ涙だと思っていますが、曇った目には、それが見えません。 見えたと思っても、それは、その場逃れの涙や単なる激情の涙や自分の運の悪さを嘆く涙であったりします。また、 そういう目には、一方向、一つのものしか見えません。物事の原因を考えるとき、人間とは、心の生き物であり、外界から 心が影響を受け、心のあり方が外界の印象を変え、外界そのものを変えるということを、あまり考慮に入れません。 それほど心とは、究極の謎であり、他者から最も触れられたくないものです。しかし、外界や行動に対して、決定的な 影響を与えるのが、心のあり方である以上、思想教育などではなく、人間として最低限の倫理観は、誰もが持って いなければ、世の中は根本的には良くなりません。ところが、基礎教育でも、世の中の表現媒体でもそれは排除され、 代わりに、知らず知らずのうちに、あるいは巧妙に、無責任な商業主義も手伝って、最低限の倫理観さえ否定する ような情報が広められています。そして、それら負の情報は、それ自体は善でも悪でもない科学技術の進歩によって、 力を与えられ、かくして犯罪社会が形づくられていきます。人間としての最低限の倫理観を基礎教育や情報媒体で 広めるのと、犯罪につながる負の情報をそれらで広めるのと、一体どちらが実質的で有害な洗脳なのでしょう? 外界の形あるものやシステムは、もちろん精神に無視できない影響を与えます。しかし、それらはひとつではありません。 心のあり方は千差万別とはいえ、心自身はひとつです。ですから、現在の悲惨な状況を変えるには、 各分野の人々が、望ましくないと思われる
神戸の事件の時は「特異な事件」と言われていましたが全然、特異なケースではないと思っていました。 どんな子供でも被害者になる可能性だけでなく加害者になる可能性、要素というのは持っているような気がします。 だから、どんなに法律が厳罰化されても、こういった犯罪が全く無くなるという事は悲しいことに有り得ないでしょう。 ただ、今の少年法はあまりにも甘すぎる。 同じ子供でも命を奪われた子供には未来が無いのに加害者である子供には未来がある。それだけでも不公平なのに 少年法はまだまだ被害者よりも加害者の未来を優先している。 そしてそのことを分かった上で犯罪を起こす性質の悪い子供もいる。 14歳という基準は何を基準にしたものなのでしょうか。 14歳未満は凶悪・残虐な犯罪は起こさないと言いたいのでしょうか。 中学生だろうが小学生だろうが犯罪の中身によっては実名公表、顔出しもさせるべきです。 犯した罪の重さを頭ではなく、心と肌で感じさせるべきです。 「報復・復讐」からは何も生み出されないのは確かですがでも殺された被害者と同じくらいの痛みを実際に感じなければ 本当の更正はできない気がします。 子供を持つ母親として、まず自分の子供が被害者になったら、、、と被害者になったときの立場で考えますが、 どんなに愛情をかけて育てても自分の子供が絶対に犯罪者にならないとは言い切れないと思います。 万一自分の子供が長崎の誘拐事件のような事件を起こしたとしたら自分の子供であってもやはり厳罰に処罰して欲しいと 私は思うと思います。 みんな自分の子供は可愛いし、まさか自分の子供は犯罪など起こさない加害者にならないと思ってる親が多いでしょうが、 そういう親に限って子供のことをよく見ていないものでしょう。 なんとか法改正されないものでしょうか。 このままでは犠牲者は減らないでしょう。 14歳未満は逮捕されないということを悪用しようとする子供もまだまだ出てくるでしょう。 そういう犯罪者予備軍である子供たちを野放しにしておかない為にも厳罰化、年齢の見直し、声を大にして訴えたいです。
神戸市須磨区児童殺傷事件を起こした少年が、年内にも医療少年院を出るという。小学生の頭部を切り取り、 小学校の校門の前に置くという残虐きわまりない事件を起こし、6年間で退院というのは、やはりどう考えてもおかしい。 本当に治療が進んでいるのでいるのか疑問である。これほどの事件を起こしているのであるから、 最低医療少年院で26歳(現罪の法律の限界の年齢)までは、退院させてはいけない。少年の心の 治療だけでなく、このような事件を起こしたことの反省をして、出てくるというのであれば、最低でも30年くらいは 社会に出してはいけないと思う。生きていれば、悩みもあるが喜びもまたやってくる可能性がある。生きていら れることの感謝を思えば当然である。最低そのくらいの期間反省してでてきてもらわなくては、社会的に認められ ないと思う。だいたい一部の弁護士や加害少年の人権を声高に言う知識人は、社会通念というものに対して無知 であるか、応報感情はよくないし野蛮であるという蔑視を持っている。被害者の苦しみなどそのような人々にはわからない。 このような少数派にかき回され、罪のない多くの人々が泣き寝入りしている世の中を正すべく行動起こすときが 来たと強く思う。 何故このような世の中になってしまっているか考えてみると、やはりその背景に死刑反対を主張する、 声の大きな少数派の存在に気がつく。朝原被告や宅間被告でさえ、死刑にしないということは、そのような残虐な人々の 命を国が守り続けることを主張している。このような主張を持つ人々は、ほとんどの人が、少年法改正にも反対であった。 これらの人々は、善悪というものを曖昧にする、高等な理論を身につけ、刑罰の持つ応報の部分を巧みに否定する。 このような人々にミスリードされてはいけない。刑罰の目的については、法律の専門家のなかでも意見の相違は多少 あるようであるが、基本的に刑罰は応報であると考えられているのである。今のように、加害者への刑罰があまりに 軽ければ、アメリカのように報復の殺人が起こらないとも限らない。 加害者の身勝手な理由で、他人の命を奪う事件が多発している現在において、死刑反対とは断じて容認できないと 思う。このような流れは必ず少年法を再び緩味なものにし、いっそう被害者の立場をつらいものに変えていくと思われる。
犯罪ではありませんが最近の10代の 連中の行動は目に余るものがあります。 @電車内でジュース等を飲み、その空き缶を電車内にわざと置いていくやつ。女性もいます。 (ただ、おじさんもいます) そして、注意するとすぐに逆ぎれする。 A祭りに集団で押し寄せ大騒ぎをする。やはり注意すると逆ぎれする。 等数えきれないくらのものがあります。私は第二点の結論としては少年法は厳罰化すべきであると思います。 それにプラスして両親に対する刑事的責任も 追求できるようにすべきです。 監督不行き届けがあると思います。具体的には殺人及び傷害致死については成人同様に扱うべきです。刑事事件 として扱える年齢も満12歳以上にすべきです。徹底的にワルガキどもは駆除すべきです。更正なんかしなくてもいいと 思います。あと親についてですが子どもを育てる資格のない親が余りにも多すぎるのではないでしょうか。まず、 親からして犯罪者だったり社会的なルールの守れない最低人間である場合です。この場合は当然ごとく子どもも 同じような人間になります。こういう親に限って、「子どもが悪さをして先生にしかられると、逆ぎれして怒鳴り込んで来ます。 自分の子どものやったことを棚に上げて他人を攻めます」。わたしはもっと先生は子どもをしかりつけるべきだし、 それでもきかないときには出席停止を含めた断固たる措置を取るべき。教育委員会もマスコミなんかに遠慮せず 学校側を擁護すべきだと思います。今の小学生はいったどうなっているのでしょうね。 髪の毛は茶色、教師に悪態をつく。弱いものしか相手にしない。おちつきがない。昨今、自由とか平等とかが叫ばれて います。しかし、子どもの学校生活に自由なんか必要でしょうか。学校は勉強するところであるとともに、集団生活の 場でもあります。つまり、自宅同様のわがままなんか通用させてはいけないのです。髪も黒で十分、なにも染める 必要性なんかないんです。それを子どもの自由を制限するのかと文句を言う馬鹿な親がいる。 そういう親は大体金髪(日本人)である。最低!長くなってすみません要は子どもが悪くなったのは両親の責任が 非常に大きいことを言いたかったのです。だからこそ、両親に対する刑事責任も追及できる制度の確立が必要で あると思うのです。
はじめまして。私は家裁調査官をめざす学生です。 私は少年は少年法によって保護されるべきだと思っていました。(今でもその考えは変わっていませんが)しかし、 最近の少年犯罪の残虐性は大変遺憾に思います。 ここにはやはり少年法を撤廃すべきとの意見や現行少年法に対する不満、意見などが多数あげられていますね。 そんな皆様に一言だけ申したいのですが、当然皆様の意見やご指摘はごもっともで少年法は私も改正が必要だとは 思います。しかし、撤廃は反対です。 確かに、少年の残虐な事件は最近目にあまるものがあります。しかしそれでも更正の余地は残されているのです。 更正の余地がある限り少年を更正させるべきだと私は思います。かれらには確かに責任もあり大人と変わらない知能も 有しているでしょう。 しかし彼らの多くは多感な時期にあり変化の激しい時期でもあります。それだけ、更正の余地があるという事です。 なんでもかんでも処罰すれば良いわけではありませんしね。被害者感情を考えると心苦しいのですがそれでも私は 少年は少年法によって守られるべき存在だと思います。審判も非公開が妥当だと思います。ただ、被害者の 身内だけは傍聴もできる様になればいいのですけど。現在の様なマスコミがいる限り公開には絶対反対です! それともう一つ、これはお願いなのですが回りに少年院に行った事のある人がいたら少年院から出てきた少年を 差別しないで下さい。せめて、挑発したり邪魔しないで下さい。 彼等の中にはしっかり反省している人間が大勢いるのです。しかも社会に復帰したばかりで社会に溶け込むのが 彼等にとって非常に難しく気持ちも高ぶっています。彼等はこれから自分の犯した犯罪と被害者の事を一生に わたり背負って生きていくのです。「あたりまえだ」とおっしゃる方もいるでしょうが彼等にとっては大変な事なのです。 考えてみて下さい15、6歳で人を殺した事を背負って生きていくのも大変な事です。被害者の方がツライのは よくわかります。しかし、せめて更正しようとしている人間の邪魔をしないで下さい。お願いします、彼等も人間なのです。
罪を罰することさえ放棄した大人の 無責任さも、少年犯罪の大きな原因の一つだと思います。子どもを罰することにためらいがあったとしても、 親や擁護する人々も含めて社会全体は、遅ればせながら、時には涙を飲んでも罰する必要があるのです。 あなたの無責任は、子どもの無責任とつながっているのです。もう一度言います。原則として、罪には罰が伴います。 その上で特に考慮すべき点があれば、責任をもって考慮すればいいでしょう。殺人が、原則として無罪などというのは、 無法社会そのものです。文明国ではありません。問題には、種々の要素がからんでいますから、 理由と責任の所在を明らかにしたバランス表のようなものが不可欠でしょう。そうでないと、 判断に当たった人間の恣意に流れるおそれが多分にあります。また確かに、加害者であるからといって、 人権をまったく失ったわけではありません。新たな便乗犯罪の被害者になっても何も言えないわけではないのです。 何事につけ、バランスと良識に欠け、分がよくなれば、したい放題をして、すべてをぶち壊すどうしようもない 人々がいますから、気をつけなければいけません。 事は少年問題だけには限らないと思います。今日の日本の閉塞感は、殆どが形なき不安から来ているの ではないでしょうか。善良な価値観の目を覆うような欠如、倫理性を欠いたままでの匿名社会の広がり、 将来を託すべき世代の広範な変質、外国人犯罪の多発、予想と理性の枠外にある犯罪の頻発、経済不安、 テロ国家と勢力の不安、巨大地震の不安…。すべての犯罪とルール違反に対して、毅然と対応すべきです。 職業としてそれを取り締まる立場にある警察等も、良識ある国民のための責任感に満ちた組織として、 無理な手械足枷を取り払い、質量ともにいっそうの犯罪抑止力にならなければならないでしょう。 人間として最低限必要な倫理性が、指導的立場にある者はもちろんとして、社会全体に行き渡るようにすることが、 道理を弁えた人々から始まる国民多数の合意事項となるようにしなければなりません。道理を弁えない人々が多 数派となれば、もう回復力はありません。まだ道理を弁えることのできる人々が、今のうちに自分の生き方を含めて真剣 に取り組まないと、巨大地震など不測の事態が起きても絶望的な無法状態となり、対処しようがありません。
真剣に考え、予防措置を講じることが必要です。 私自身、20年も前、専門家といわれる人たちが、実際こう言っているのを聞きました。「日本人は特別な民族であり、 現実と虚構の区別くらいちゃんとできるから、暴力番組にもビデオなどにも影響されない。 アメリカみたいな規制は考えなくていい」私は、その時、「この国はおそらくそのうち地獄を みることだろう」と思いましたが、残念ながら、そのとおりになってしまいました。精神分析や教育理論、 法律その他の専門家の意見も参考にはなるのでしょうが、それに支配されるべきではありません。 正しい場合もあるかもしれませんが、彼らほど間違いを犯し、またそれを認めなかった人種もないのですから。 オカルトじみて強欲を秘めたものは論外として、良識に叶う原因と結果の法則を無視すべきではありません。 優先すべきは、社会と個人のあり方を共に問い直し、良識に叶った予防措置を講じることです。原因は、 ひとつだけではないでしょう。大人社会自体が、情報や事件など醜い有様を呈していること、子どもを 食い物にする大人も多いこと、そんななかでも真剣にあるべき教育に努めない親が多いこと、 子どもといえど容易に悪魔になりうることを認めず、実際に犯罪を犯してもなお本人と親の責任を 問わず甘やかす仕組みを改善しなかったこと、数えればきりがありません。状況を放置しているうちに、 しつけがきちんとしている親にとってさえ悪影響を排除することが困難なほど、状況は悪化してしまった世の中で、 少年が幼稚なまま大人の醜さだけ身に付けて、犯罪に走ることが不思議なことでしょうか。犯罪の責めは、 本人と親、社会のいずれもが負わなければなりません。親と社会全体の責任とは、犯罪に応じてふさわしい罰と 自覚を本人に与えること、犯罪を生み出さない社会をつくることに渾身を傾けることです。 犯人の個人的な特徴や生い立ちに関する報道や受取り方については、注意が必要です。本質は何かを 忘れてはいけません。犯人が、学校の成績がいいとか悪いことは犯罪と関係はありません。 また見かけは大人しいとか、元気とか陰気とかいったことも。真面目に目的を持って頑張った結果、 例えば優秀な成績の子が、印象だけで犯罪予備群と思われたら、その子と日本の将来は一体どうなるのでしょう。
社会では処罰年齢の引き下げを望む声もあります。しかし、こればかりはどこまで引き下げればいいのか・・・ たとえ5歳の幼児でも、生まれたばかりの赤ちゃんを殺すことはできます。それなら、 5歳の幼児を裁判所に立たせるのか、刑事罰を与えるのか・・・というところまで行きます。 被害者の方々の怒りは、波紋のように広がり、社会の怒りへと発展します・・・ 感情と理論が行き違い、ひずみを生んでいきます。 ある政治家が、殺人を犯した少年の親を「市中引き回しの上、打ち首に処するべきだ」と 発言しました。処罰を厳しくし、見せしめに極刑にすれば、少年犯罪は少なくなるのか・・・ 感情を度外視して考えれば、処罰を厳しくする前にすることが沢山あるように思えます。 例えば、犯罪の元凶が社会やコミュニティにあるとして、犯罪を未然に防ぐ社会作りをするという考え方です。 今の社会は、少年を恐れる大人たちで溢れています。私も、少年が怖い。町では決して目を合わせないようにします 「叱れない大人が多いからだ」という意見もあります。しかし、今の「不良」と呼ばれる少年には叱りは逆効果です 。注意したがために、暴行を受けた・・・・という話は後を絶ちません。 では、どうするべきなのか・・・ ニューヨークはここ数年で犯罪が激減しました。これは、市を上げて「ブロークン・ウィンドウ理論」を 実践したからだと言われています。一枚の窓のガラスが割れているいだけ、壁に落書きがされているだけで、 その近辺には犯罪者が集まってきて、最終的には殺人などの重犯罪が起きてしまう・・・という理論です。 重犯罪をなくすために、まず徹底的に落書きを消していったそうです・・・ これが、少年犯罪、ひいては大人の犯罪にも当てはまるのではないかと想います。 少年の万引きや喫煙といった軽犯罪は暴走行為や暴行へと発展し、最後には殺人に行き着きます。 暴走族員は暴力団員へとエスカレートします。 ですから、まず、万引きや喫煙を「徹底的」に排除するという方法で、とにかく少年の軽犯罪をなくすのが 先決だと想います。これは、国が率先しまず学校や親の教育から始めなければならないでしょう。 少年犯罪が起こると、どうしてもその残虐性がクローズアップされますが、その根元は小さな軽犯罪なんだと想います。 いじめ、万引き....
「いじめはした人間が悪い」これはいつの時代も未来永劫普遍の価値観であると思っております。 加害者、また、その加害者を永きに渡って養育してきた親や学校、事実を歪曲した報道、警察、 これ全て鬼畜でありこの世の中で生きる価値、少なくとも「健康で文化的な最低限度の生活」を 保障されるに足る価値はないと率直に感じております。 少年法により軽い罪で社会復帰し、また、再び通常の社会生活を送らせることに価値は まったくないと思います。無期懲役で十分ではないでしょうか? 懲役であれば作業等で少しは役に立ちますし、社会から隔離しておくことで再犯は確実に 予防できます。そしてなによりこういった少年犯罪加害者予備軍への見せしめとして社会へ、 いうなれば「児童の健全な育成」に貢献できると思っています。法によって物事の道理が規定 できないのであれば法としての役目は全くございません。書籍の中であげられたどの事件に おきましても「落とし前がつかなくなった社会」に対しての無力感を感じさせられるばかりです。 私が卒業しました福岡県立太宰府高校におきましても在学中いじめの問題があり、 いじめ主犯格とその数人が停学処分を受けました。いじめこそしなくはなりましたが、 その後もこのときの連中の態度は一向に改まることはなく、被害者の生徒は学校の片隅で 背中を丸めた学生生活を余儀なくされておりました。書籍のような命にかかわる大きな事件に ならなかったことを考えれば、この状況はまだ許せるのかもしれませんが、悪いことをした人間が 「犯した罪と等価値の罰」に対してけじめをとったかということが常に私の胸中にささくれのように 残っております。私が卒業しすでに15年以上経過しておりますが今の世の中、ことこのいじめの 問題につきましてはなんら根本的な解決策が講じられていないものと痛感します。 大人の嫉妬社会がそのまま刷り込まれた「子供のいじめ問題」、まずは大人自身が他人に 嫉妬することなくよりよく生きることができるよう努めるべきであると思っています。
128 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 23:07:42 0
宮野 裕史:S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm 神作 譲(旧姓は小倉):S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 湊 伸治:S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は共産党員) 渡邊 恭史:S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 岩井 哲夫:S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 垣東 孝一:S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。今年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 女=石川 あかね(旧姓は萩尾) 小倉 悦子=神作(小倉)譲の母親:事件当時生活保護を口実に約50万円を賠償しただけであったが、判決直後にはマンションを購入。以降の賠償額は80万円未満である。息子が再び犯罪を犯した際、「息子は被害者のために運命を狂わされた」と言い、被害者のお墓を壊す。 自宅=埼玉県 八潮市 中央4−21−12
129 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 23:08:24 0
晒しage
130 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 23:10:47 0
風俗勤務か、どこの店? 石川 あかね → 旧姓は萩尾、事件当時、被害者の顔に落書きした通称「落書き女」 現在、松戸市馬橋に在住、風俗勤務。 ※(被害者を拷問した女はまだ数人いるらしい、コイツはその内の1人)
学校でのいじめが問題化するようになったのは1980年代以降であり、校内暴力が鎮静化した1983年ころから 注目されるようになった。1985年には発生件数がピークに達し、いじめに起因すると見られる自殺も増えていった。 特に「葬式ごっこ」でその異様さが注目された中野富士見中学校の鹿川君事件(1986年)、山形県新庄市での 児玉君マット死事件(1993年)、愛知県尾西市での「同級生にいじめられ、110万円以上の現金をとられた」と いう遺書を残して自殺した大河内君事件は衝撃的で、以来、衆議院文教委員会での「いじめ問題集中審議」、 旧文部省の「いじめ対策緊急会議」の緊急アピールと報告、首相官邸での「児童・生徒のいじめ問題に関する 関係閣僚会議」の開催など、政府・文部省をはじめ関係各省庁や各教育委員会の対応が活発化することになった。 1997年10月に埼玉県鳩山町町長が町の広報誌上で「いじめの標的になる子は意志薄弱」「いじめられっ子には 友達がいない」といった持論を展開し、いじめられる側に問題があると主張して波紋を広げた。ここでは、 「いじめの標的になる子を見ると意志薄弱で、生活に独立独歩の毅然たる態度がない」「いじめに全く反抗しないから いじめ甲斐があり、エスカレートする」「いじめられた時、直ぐ相手に飛びかかっていける子には、二度と手を出さなくなる」と 書かれてあり、保護者の間から「いじめ被害者への責任の押し付け」「町長の考え方は強者の論理。基本的な 人権意識さえ欠落している」という非難が出た。これに対して町長は、「批判は結構だ。きれいごとだけではいじめは なくならないので本音を書いた。いじめられる側に問題がないというのは建前論。必ずいじめられる原因があるのだから、 それを取り除くのが基本だ」と話している。ちなみに旧文部省の「児童生徒の問題行動等に対する調査研究協力者会議」が 1996年にまとめた、いじめ対策の報告書では、いじめられる子にもそれなりの理由があるという考え方を 「一掃しなければならない」としている。 いじめやいじめに起因する自殺が頻発した1980年代、いじめは日本特有の現象で、過激な受験競争や 管理主義教育のプレッシャー、弱者や異質性に対する不寛容さや思いやりのなさ、人権意識の未成熟などに 原因・基盤があると言われた。
1990年代になると、ノルウェーやイギリスなど他の先進諸国でも同様に見られる 現象だということが知られるようになり、1996年6月には旧文部省と国立教育研究所の主催で「いじめ国際問題シンポ ジウム」が開催された。例えば、ノルウェーでは1970年前後からいじめが深刻な問題となり、1978年には心理学者の オルウェーズの研究が公表され、旧文部省の主導で全国的ないじめ対策が講じられてきている。 また、イギリスでも1970年代後半から問題化し始め、1980年代にはいじめによる自殺が相次ぎ、シェフィールド大学の いじめ防止プロジェクトを始め、多数の調査研究が行なわれて、教育省もいじめ防止のための教育指導書を作成・ 配布するなど、種々の対策が講じられているのである。いじめは日本固有の現象ではなく、人間としての弱さ・犯罪性に 関わるものであると言える。 年間30日以上学校を休んだ不登校の小中学生が1997年度に初めて10万人を超えた。不登校が増えた背景として、 いじめや学業不振などの問題の他に、学校も家庭もそれほど登校にこだわらなくなりつつある点が指摘されている。 また、従来からの引きこもり型の不登校だけでなく、ささいな理由から学校を休み、不登校に罪悪感を持たない子供たちも 増えていると学校関係者は見ている。ちなみに旧文部省は1992年に、「問題行動の1つ」と見ていた不登校を「どの子にも 起こりうるもの」と定義し直し、「学校は児童生徒の心の居場所としての役割を果たすことが求められる」などの見解を 各都道府県に通知、さらに校外の公的機関や一定の条件を満たす民間のフリースクールに通う子供たちを出席扱いに 認めるなど、不登校に比較的「柔軟」な路線に転換している。これを機に現場の指導は、「ともかく学校に戻す」から 「無理に学校に来なくてもいい」というスタンスに徐々に変化していき、「明るい不登校」(学校を欠席しながら塾には通ったり 、友達と遊び、買い物に出かけたりする)が増えていったものと考えられている。 いくつかの教育機関では不登校の子供像をいくつかのタイプに分けて分析しているが、かつて多かった (1)まじめで過敏、緊張しやすく内向的、(2)逃避的で幼く、耐える力がない――という2つのタイプに代わり、 両者の特徴を併せ持った子供が増えているという。
教師が後の席の子を叱っただけでショックを受けるほど 傷つきやすい一方、わがままで我慢することができない子供もいる。 不登校の子供達のタイプも様々なだけに、子供達が学校の代わりに通う民間のフリースクールが、 情報交換のネットワーク化を図る動きも出ている。 旧文部省の「学校不適応対策調査研究協力者会議」は、1992年に「登校拒否(不登校)問題について−児童生徒の 『心の居場所』づくりを目指して−」と題する最終報告書をまとめ、「登校拒否はどの子にも起こりうる」という視点に立って、 学校が子供にとって自己の存在感を実感でき、精神的に安心できる場所(心の居場所)となることが重要である、と指摘した。 また、「登校拒否の子供にとって重要なことは、単に学校に復帰することではなくて、自らの努力で問題状況を克服し、 自立する力を身につけることである」として、家庭・地域社会や学校外の諸施設と連携することの重要性を強調した。 一方、保健室登校が増えてきており、ある中学校では生徒が1時限の間に保健室へ100人も押しかけるという事態も 生まれている。何らかの心的理由による場合がほとんどであるため、不登校と同根の事象として、保健室・養護教諭の 役割に対する期待が高まっている。 また、学校で児童生徒の生活上の問題や悩みの相談に応じ、指導・助言を行なう存在として、スクールカウンセラーがいる。 アメリカの学校では、進路指導と学習面の問題を担当するガイダンスカウンセラー、生活上の諸問題を担当する スクールカウンセラー、精神的問題を担当するスクールセラピストが区別されているが、近年の日本では2番目と3番目の 意味で用いられており、いじめや不登校への対応として導入されている。 増え続ける小中学生の不登校対策で、構造改革特区への対応を検討していた文部科学省は、引きこもりの子どもに 限ってインターネットを活用した自宅学習を認める方針を出した。同省は1992年から学校復帰を目指すフリースクールなどに 通う場合は、校長裁量で出席扱いにしてきたが、今回の弾力化でインターネットの学習を提供する場合も含まれることになる。 小中学校は対面授業を前提にしていたが、その枠を緩める意味もあり、これによって自治体が取り得る対応策の幅を 広げることとなる。
同省ではまた、「復帰促進」方針を緩和し、不登校児のために柔軟なカリキュラムを持った小中一貫校について、 学習指導要領の適用外として開設を認める方針も出している。同省はすでに、民間フリースクールの一部に調査研究費として 財政援助を行なっているが、この新方針は公立フリースクールの認可を意味している。 文部科学省の「不登校問題に関する調査研究協力者会議」は、2003年4月11日に最終報告をまとめ、子どもを見守る 姿勢を打ち出した前回報告(1992年)から軸足を移し、「自分の力で立ち直るのをただ待つだけでは改善にならない」と 働きかけの大切さを訴えた。この報告は今後の不登校施策の指針となる。この報告では、教育委員会が学校復帰を目指して 設けている適応指導教室の充実や、実績のある民間施設との連携を提言しており、小中学校でも「留年」を活用したり、 児童虐待が原因の不登校の場合には、保護者への「出席督促」制度を活用したりするなど、既存制度の有効活用も 強調されている。 「長年築いてきた指導方法が、今の子供達に通用しない」とベテラン担任教師達が悲鳴を上げ始め、小学校における学級 崩壊の実態が次第に明らかになり始めた。学級崩壊は児童の立ち歩きや私語などで小学校の授業が成り立たなくなる 現象で、1990年代半ばから各地で問題化してきた。旧文部省は「学校の取り組みが先決」として、正面から受け止めて こなかったが、1996年ぐらいから地方議会で取り上げられるなど、全国各地で表面化し、この問題が原因と見られる教師の 早期退職や途中休職も目立ってきた。これらのことなどから、放置しない方針に転じ、学校教育上の大きな課題と 位置付けるようになった。実際、人口約40万人、30数校の小学校がある首都圏のある市の場合、授業が成り立たない日が 続き、親が動き出したことのある学級が1つでもある学校は、全体の3分の2以上に及んだという。クラス単位で数えれば 40以上あり、1学年全部が荒れている例もある。一方、公立中学・高校では校内暴力が1万件を超えて、「荒れる学校」 「新しい荒れ」と呼ばれる状況を呈しているが、1980年代にツッパリの生徒達が集団で学校の管理に反抗したのと違い、 一人で突然「ムカつき」を爆発させる生徒が増えているという。
森昭雄日本大学文理学部教授(脳神経科学)によれば、テレビゲームを毎日2〜7時間する子供は、脳の活性を表わす 脳波のβ波が「前頭前野(ぜんとうぜんや)」からほとんど出ておらず、この状態をゲーム脳と呼んでいる。「前頭前野」は 創造性や理性、道徳心など人間らしさを生み出す部分で、注意力やコミュニケーションなどを担う部分でもあり、感情を コントロールする役割もあって、活性化すれば注意力が増し、情緒豊かになるとされる。「ゲーム脳」ではこの働きが悪く、 キレやすい性格につながる恐れがあるという。 例えば、コンピュータ・ソフトウェアの開発者はコンピュータを長時間使うために脳の働きが弱まり、β波がほとんど出てい ないという。痴ほう症のお年寄りでも、前頭前野の働きの低下が実証されている。ゲーム脳、半ゲーム脳の特徴は、 まず表情に乏しく、物忘れが激しいことであり、次に感情のコントロールがきかず、キレやすいことであるという。 ゲームの影響は脳の成長が著しい幼児・学童期が最も大きく、また、高校生のデータを取ると「携帯電話がないと生きて いけない」という異常状態も出てくるが、携帯電話の画面を見ていると前頭前野がほとんど働かず、ゲームの時よりも もっとひどい状態になるという。 授業中に教室を歩き回る、話に集中できない、友達の邪魔をする…。以前なら「行儀が悪い」「わがまま」といったレッテルを 貼られていた子供達の中に、注意欠陥多動性障害(ADHD)という脳機能の発達障害のケースがあることが知られてきた。 米国では1970年代から研究されてきたが、日本で知られるようになったのは1990年代であり、 それに伴って診断も増えてきている。 ADHDの原因は詳しく分かっておらず、行動や思考をコントロールする脳の機能の発達が未熟で、 不注意で落ち着かない行動が目立つとされる。欧米の調査では、児童の3〜5%に見られるという。 ADHDの3大特徴は、不注意、多動性、衝動性であり、米国精神医学会の診断基準の典型的な症状は、 不注意を示す「細かいことに集中できず、学業などで不注意ミスが多い」「毎日の活動を忘れる」や、多動性・ 衝動性を示す「手足を落ち着き無く動かす」「質問が終わるまでに答える」などが挙げられている。
複数が継続的に見られ、精神年齢にそぐわず、生活上で不都合を生じていれば、ADHDの可能性があるとされる。ADHDそのものには 乱暴性は無いが、怒られたり、批判されたりする状態が長く続くと、子供が反抗的になるなど、周囲に危害を加えるケースもあるとされる。 日米の教育の「懐の深さ」の差が参考になる。ある学習障害(LD)を持つ日本の女性が、読む力がひどく劣っていて 試験も苦手であったけれど、今はカリフォルニア大学で海洋生物学を勉強している。どうして入学できたのかというと、 問題を読んで分からなくても、耳で聞けば分かるので、試験も口頭で受験したのである。また、他にも単語の綴りが苦手で、 語学はひどい成績であったが、現在はスタンフォード大学に在籍している例もある。結局、綴りが苦手でも他に何か 得意な分野、好きな分野があるはずで、その個々の生徒が持つ才能を引き出す方法を考えるのが教師の使命であると 考えられているのである。詰め込んだ机上の知識の量でしか個々の持つ能力が評価されない、画一化された日本の 教育の貧しさが指摘されて久しい。 おやじ狩り、援助交際、覚醒剤使用など、非行の低年齢化・深刻化が憂慮されて久しい。この傾向は1993、94年頃から 明らかに見え始め、特に15、16歳の補導人数は1996年に急上昇し、その傾向は変わらないという。少年非行は 「戦後第4のピ−ク」を迎えており、少年非行は放置できないレベルに達したとされる。特に2000年には「17歳」の 少年による凶悪犯罪が相次ぎ、社会に衝撃を与えると共に、少年法改正問題へとつながった。西鉄高速バス乗っ取り 事件では、「13歳以下は何をしてもいいんだよ。16歳以上は控えめに。起訴されちゃうからね。18以上はもう大人。 死刑になっちゃうよ。」というメモが発見されている。 しかし、その一方で日本は殺人被害者も殺人者の出現率も主要国では最低レベルである。この現象に最も寄与した のが戦後生まれの若者達であったことが大きな特徴となっている。これは日本特有の現象とされ、戦後60年近くも戦争を せず、徴兵制度も無かった先進国は他にないという事実も作用していると思われ、若者の暴行、傷害、強姦などの犯罪も 数だけ見れば激減しているのである。
一昔前の少年非行のわかりやすい図式と今の少年犯罪の違い。普通の家庭の普通の子の犯罪。 もう既にこの時点で、私たちは思い違いをしているのではないでしょうか。 私たちは今まで人間が経験したことのない、時代に突入しました。大人でさえ耐えられないストレスに、 産まれたときからさらされている子どもたち。そう考えると、もう既に普通と思っていた家庭が社会が、 普通ではないことに気づきます。 現代の子どもたちが赤ちゃん時代からどんな世界で生きてきたかが、もっと問題にされるべき時期にきているでしょう。 ここ数年来の凶悪な少年犯罪は、単に思春期のイライラが起こした事件とは考えられません。 この世に人類が出現して以来、一度も経験したことのない刺激にさらされ、幼い時から、誰かと比べられ、 体を使った子どもらしい遊びも出来なくなった今、ごく普通にみえて、もう普通ではない状態の子ども達。 本来動物としてのあらゆる経験を積む子ども時代を奪われ、社会からの虐待を受けている子どもたちを思う時、 この凶悪な少年犯罪との関わりを分けて考えることができないと思いませんか。 社会は責任を押し付け合い、親は予防線をはり、子どもの10年後20年後を見据えた関わり方をしていない。 その日その日の行動におろおろと方向転換をしてしまう。 思春期の、心身をコントロールするということは、その後の長い人生をコントロールすることでもあり、 それは一朝一夕に出来ることではありません。生まれ出た瞬間からはじまる長い訓練のたまものなのです。 そのために子どもたちが安心して、真に子どもらしい時代(笑い、泣き、転び、ものを取り合い、けんかをしながら、 皮膚感覚を刺激し、大地の上にしっかりと立って生きているという実感を持つための時間)を過ごせる社会を私たちが 用意出来ないなら、少年の凶悪犯罪はこれからも社会問題となり続けるでしょう。 私は、この一連の少年犯罪を社会全体が変わらなければますます増えると思っています。 しかし、社会が変わるまでには、今後何年も待たなければならないでしょう。今すぐ子どもを守れるのは、 やはり親しかないと思っています。
これから親は社会のニーズにおもねるのではない、本来の子育てに立ち返らなければならないでしょう。 人間の子どもは、あまりにいろいろなことを、背負わされすぎています。うまれた時から、親の世間体を満たして あげなければなりません。 「いい子ね!」と言ってもらうために、いつも親の目を見ながら遊ばなければならない子どもたち。記憶というものが 心に存在するようになった頃には、もうお行儀良く何種類もの習い事をしている子も少なくありません。 うまれてから5・6年の子どもはまだ原始人時代なのにですよ。 もう既に我が子は思春期、今更育て直しが利かないとあせっている方も多いと思います。 それなら、少し静かに子どもを支える覚悟を決めてみたらどうでしょう。(うちの子は「静かに…なんて言っている場合ではない。 既に、親の目から見ても問題を抱えている。」と感じている方は『思春期外来』や、『心療内科』の先生に相談をお奨めします。) いくら頑張っても、自分はいずれ親のように不満だらけの社会に巣立っていくしかない。『何の楽しみも夢も希望もない 世界』のために、なんで努力してまで入っていかなければならないのか、子どもたちはこんな気持ちで大人の世界を見て いるのではないでしょうか。 そうなる前に、勉強や日常生活の管理はもう子どもの意識に任せて、親自身が自分の世界を生き生きと楽しみ、 大人になっても楽しい人生が待っていることを、子どもたちに見せる方が大切だと思うのです。 「あなたが、あなたが…」と子どもに生活や学習の注意をするのはもう止めて、時には生き生きと、 自分の夢を語ってみる。そういうことが思春期の子どもに安心感や大人になる希望を持たせるのではないでしょうか。 そして、いくら大きくなっても団欒だけは大切にして下さい。団欒をお説教の場と化すのではなく、 親も子も、ともにくつろいで自分を語れる場にしたいですね。
「平成15年版犯罪白書」によると、平成14年の少年刑法犯検挙人員は20万2417人(前年比1.7%増)。少年一般刑法犯の 罪名別構成比では、窃盗(60.1%)が最も多く、次いで横領(22.9%)であるが、横領の内容はほとんどが遺失物等横領である。 白書では犯罪傾向の変化として、 (1)少年を中心とした路上強盗の増加 深夜営業店舗等の増加に伴う市民の深夜外出機会の増加、家庭の指導力低下、就業の困難化、少年の意識の変化 (2)成人を中心とした屋内強盗の増加 不況による無職者の増加、経済的破綻者の増加、生活困窮・債務返済を動機とする犯行の増加 (3)暴力団と来日外国人強盗犯の増加 暴力団関係者等による恐喝に代わる金品獲得手段としての強盗、正規滞在者と不法滞在者の犯行の増加と強窃盗団の登場 (4)強盗の大都市圏への集中と近隣地域への拡散の兆候 (5)被害の深刻化(重傷率の上昇と女性・未成年者・高齢者等の被害者の増加) エスカレートしやすく共感性の乏しい少年や来日外国人等による荒っぽい犯行の増加 これらの対策と課題として、 (1)防犯活動面での対策と課題 街頭緊急通報装置(スーパー防犯灯)の設置、パトロール強化・犯罪に関する情報の市民への提供等の施策の充実 に加え、官民連携した防犯活動の更なる充実・発展が重要である。 (2)検挙・捜査面での対策と課題 迅速・的確な検挙と徹底した捜査による事案の真相解明が不可欠である。少年犯罪については、早期かつ的確な 対処が重要である。暴力団及び外国人による犯罪については、銃器の取締り、収益剥奪等を活用した組織の弱体化、 捜査情報の集積と共有化、不法入国者等を水際で阻止する対策が重要である。 (3)処罰面での対策と課題 悪質重大な事案に対しては、厳しい量刑で望むことが必要である。 (4)矯正及び更生保護における対策と課題 矯正施設では、被害者の視点を取り入れた教育の実施、罪の意識を覚せいさせる指導等地道な処遇の充実が、 また、更生保護では、学校や地域社会等との協力関係の維持拡大が重要である。 (5)刑事司法関係以外での対策と課題 少年犯罪に対しては、家庭、学校、地域社会が関係機関と協力すること、また、薬物、手錠、催涙スプレ ー等犯罪に悪用されがちな物品の拡散に留意する必要がある。
斎藤は中学時代は暴走族などの集団グループには属してなかった。 (その当時はM中学には暴走族はいなかった) 中学を卒業してからの間、斎藤に何があったのだろうか? どういう変化があったのだろうか? 詳しくは分からない。 進学した高校に更なるワルに囲まれ、感化されたのであろうか? 分かっているのは逮捕された斎藤は、少年院送りになりしばらく塀の中で過ごしたという 事だけだった。 事件から三年後の秋 私は地元の駅を歩いている時、突然後ろから呼び止められた。 聞き覚えのある声に振り返ると斎藤であった。階段に座って煙草をふかしていた。 私は恐る恐る彼の話を聞いたが、多くは語らなかった。 ただ「少年院は地獄だった」と 言っていた。 今はトラックの運転手をしていて、彼女(中学時代の同級生で非常に美人)と同棲している と話していた。 話し方や表情 全てがとても3年前に凶悪事件を起こした人間とは 思えないほど穏やかなもので、むしろ好青年という印象さえうけた。 人は表面上の姿 とは裏腹になにをしでかすか分からない と改めて恐怖を感じた。 同時に同級生が 善良な市民を襲い金を強奪するという陰惨な事件をしでかしたことに、大きな失望を感じた。 去年の2月にM中学校の同窓会があった。 計100人近く集まったが、なんとその 同窓会を発案した者は、他ならぬ斎藤であった。 主催者であり幹事であった斎藤 はハイテンションで騒いでいた。 まるで昔自分が起こした事件などなかったかのように。 しかし、と思う。 斎藤が事件の事を忘れても、襲われて瀕死の重傷を負った被害者は 事件の事は死ぬまで忘れないだろう。 突如、身に降りかかった圧倒的な暴力・なすすべもなく 血の海に倒れこんだ瞬間、彼は何を思っただろうか? 斎藤は少なくとも私の見た限りでは「まっとう」な人格には直っていた。少年法の 概念からすれば「更正した」 という事になるのだろう。 しかしわずかな期間で出所し 今は大手をふるって道を歩いている。 わが世を謳歌している。 そんな姿を見て私は 本当にやり切れない気分になった。
数年前から、青少年犯罪の増加、凶悪化が叫ばれています。しかし、警察当局の統計資料から浮かび上がってくるのは、 青少年ではなく「中高年層の犯罪」が急速に増加し、かつ凶悪化しているという姿です。確かに、人権的な配慮もあり、 特に青少年の具体的な犯罪に関しては、なかなかその実体を把握することができません。しかし、公表されている犯罪の 統計データを、新たな角度から分析するだけでも、かなり有益な情報をくみ取ることが可能です。 警察当局の統計とは、犯罪の実態を調査したものではなく、あくまでも警察活動の記録を纏めたものです。そのため、 それらの中には青少年や外国人といった社会的弱者に加えて、警察当局にとって不都合な分野においても、無視できな いほど偏った情報を発信している可能性があります。さらに、警察当局は自身の活動重点をコントロールすることで、 意図的に、あるいは無意識的に、警察が利益を得るようなデータを「獲得」している可能性さえ存在します。例えば、 余罪の追求を重視すれば少ない検挙人数で検挙事件数を稼ぐことが可能であり、その反対に余罪の追求よりも個別 被疑者の立件を優先して警察力を温存すれば、逮捕者はそれほど減らなくても検挙事件数は急激に減少するという 「操作」が可能なのです。 そのため、市民生活や社会的弱者に関する様々な権利を護りつつ、治安を維持するためには、司法や青少年問題の 専門家ではない、一般の人々にもわかりやすい形式で、より正しい情報を広く共有することが重要だと考えます。 その他、個々の犯罪や治安状況を報道する際にも、過去の類似した事件や治安状況の変化に関する社会的文脈も 含めて紹介し、極端な部分だけを取り出していたずらに感情を煽るような事が無いよう、関係各方面に求めていく 必要があるでしょう。 2004年4月26日に文部科学省が発表した、『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会 報告書』の『安全・安心に関する調査データ集』(参考資料・2)に記載されている資料2−2『世界経済フォーラム 「安全と経済的繁栄に関する国際世論調査」』によると、日本国民の68%が「次の世代は今よりも安全でない 世界で暮らすと思う」と回答し、なんと86%が「10年前より安全ではなくなった」と回答しています。
かっては、少年が、金を脅し取った後に 、被害者に暴行を加えたときは、窃盗および傷害の容疑で検挙されていた。しかし、警察は「悪質な非行には厳正に対処、 補導を含む強い姿勢で挑む」(1997年6月3日の全国警察少年担当課会議での関口警察庁長官の発言)という方針を 打ち出して、強硬方針をとるようになった(服部朗・佐々木光明、2000年、668頁)。それを受けて、警察庁は、 8月には「少年非行総合対策推進要綱」を制定し、少年事件に係る捜査力の強化を掲げ、悪質重大な少年犯罪に 対しては、まさに組織として取り組むことを宣言した。そこで、少年を検挙する場合でも、より重い罪名で行うようになった のである。例えば、中古のCD(Compact disk)を売っている店で、19歳の少女が、CDを万引きしたのが見つかり、 逃げるときに店員を突き飛ばした場合でも、事後強盗で被害者を負傷させたという理由で、強盗致傷で検挙するように なったのである(寺尾史子、1999年、224頁)。このような重い罪種の適用という形のrelabelingを通して、警察は、 実態以上に、統計の上で強盗の数を増やして、社会に少年犯罪の凶悪化を強く警告したのである5)。そのために、 普通の人が「凶悪な強盗」と考えないような事件も、犯罪統計の上では、強盗事件に含まれるようになっている。 日本では、強盗といっても、前述の事例のような些細な事件が、多く含まれているのである。 なお、1995年から1998年にかけて、少年警察活動のnet wideningで、主要な罪種の多くが激増しているのに、 恐喝は6.8%しか増加していないことが注目される。これは、おそらく、relabelingによって、これまで恐喝とされていた事件が、 強盗として処理されるようになったことを反映しているであろう。その典型が、「ひったくり」事件である6)。 殺人については、神戸市の14歳の中学生が、1997年の2月から5月にかけて、2件の殺人事件と3件の傷害事件を 起こし、それが社会的に大きな注目を集めた。特に被害者の小学生の首を切断し、それを校門に晒すという、 前代未聞の行為をしたので、人々に大きな衝撃を与えた。この凶悪な犯罪を犯した少年に対しては、 厳罰で対処すべきという声が、高まつた。しかし、現在の少年法の下では、16歳未満の少年の場合には、 検察官送致が出来ないことになっていた。
143 :
少年法により名無し :2006/03/21(火) 23:22:15 0
>>73 神作再犯で取材や見物人が来たからじゃないか?
事件直後は、車かどこかで寝泊まりしていたらしい。
神作は他に頼る人間がいないから、母親の動向には要注意だな。
店に行って顔を見た人間がいっぱいいるのは頼もしい。
「特に深刻な被害を受けている性犯罪等身体犯の被害者、殺人事件・死亡ひき逃げ事件の遺族及び 少年の被害者に重点を置くこと」という方針が打ち出された(『平成9年版警察白書』1997年、262頁)。 これを受けて、各都道府県の警察は、被害者や遺族を対象とする相談およびcounselingの体制を整備することになった。 特に性犯罪については、「身体的な被害にとどまらず精神的にも極めて重い被害を与える犯罪であるが、 羞恥心等から被害者が警察に対して被害申告をためらいがちになるため、被害が潜在化する傾向にある」 (前掲書、264頁)という 認識から、積極的に対策を採ることになった。被害者と同性の警察官によって、 事情聴取や鑑定を行うようにしたほか、日本にはUnited KingdomのVictim Supportというような 被害者支援組織が未整備なので、同性の警察官が病院への付き添いなどをするという、 被害者の精神的負担を緩和する施策も講じることになった8)。また、被害にあった女性が、 被害届を出したり、相談を受けやすくするために、女性の警察官が駐在する女性相談交番を、 設けることにした。さらには、適正で強力な性犯罪捜査を推進するために、 性犯罪捜査指導官及び性犯罪捜査指導係を設置した。このような体制の整備により、 従来潜在化していた強姦の被害が顕在化し、その結果、強姦によって検挙された少年の数も、 増加したものと思われる。 日本では、不況の1990年代においても、性風俗産業が繁栄を続けており、そこでの売春は、 一層巧妙となっていった。売春の蔓延と、性の自由化の意識の広がりによって、女子少年の側でも、 売春への抵抗感が薄れていった。その中で、女子少年による援助交際という形での売春(男性と断続的な 性関係を持ち、小遣いをもらうという形の売春)が、社会的に注目されるようになった。「遊ぶ金欲しさ」を 動機とする性の逸脱行為で検挙・補導された女子少年の数は、1993年の818人から増え続け、 1996年には2,517人とpeakを迎えたのである(『平成10年版警察白書』1998年、114頁)。 最近、特別刑法違反で注目されるのは、薬物事犯である。1995年と1998年の少年検挙人員を比較すると、 覚醒剤事犯は1,079人から1,069人へ、大麻事犯は189人から125人へ、thinner等の乱用は5,456人から 4,496人へと変化している(『平成8年版
最近、特別刑法違反で注目されるのは、薬物事犯である。1995年と1998年の少年検挙人員を比較すると、 覚醒剤事犯は1,079人から1,069人へ、大麻事犯は189人から125人へ、thinner等の乱用は5,456人から 4,496人へと変化している(『平成8年版警察白書』1996年、104頁、『平成11年版警察白書』1999年、77頁)。 1995年から1998年にかけては、刑法犯で検挙された少年の数が増加したのであるが、薬物事犯で検挙された 少年の数は、増加していなかったのである。薬物の乱用は、victimless crimeの一つであり、被害者からの通報を 期待できないので、その検挙数には、大きな暗数が存在していると思われる。そのために、断言は出来ないが、 おそらく、thinner等の乱用は、実態においても、1983年の非行の第3のpeak以降、減少しているのであろう。 1990年代の後半では、少年の覚醒剤事犯の動向が注目された。覚醒剤で検挙された少年の人員は、 1994年の827人から、3年連続して上昇し、1997年には1,596人に達したのである。この時の増加は、 警察活動の活発化というよりも、実態を反映していたものと思われる。薬物というような禁製品の取引は、 需要と供給の関係を考慮する必要がある(Yokoyama, 1991:2)。まず、供給の面から分析すると、 1990年からの長期の不況で、良い働き場所を失った来日外国人、特に、Iran人が、覚醒剤の密売に 携わることになった(Yokoyama, 1999b:203)。当初は、暴力団の密売末端組織で覚醒剤を売り始めたが、 その後、彼らの独自の密輸および密売の組織を持つようになった。従来覚醒剤の密売をしていた、 暴力団関係の日本人の売人は、任侠道の精神の影響のためか、少年に積極的に覚醒剤を売るようなことをしなかった。 しかし、そのような文化を共有していないIran人の売人は、覚醒剤を少量に分けて、それを比較的安い価格で、 駅前や繁華街において少年に積極的に売りつけた。他方、日本の少年は、西欧の文化へのあこがれがあるので、 好奇心から、「S」とか「speed」とか言う名前で呼ばれるようになった覚醒剤を、覚醒剤とは認識せずに 、Iran人の売人から買い求めることになった(『平成9年版警察白書』1997年、111頁)。また、女子少年の間では、 「diet効果がある」ということで、覚醒剤が乱用されるようになった。
森昭雄日本大学文理学部教授(脳神経科学)によれば、テレビゲームを毎日2〜7時間する子供は、脳の活性を表わす 脳波のβ波が「前頭前野(ぜんとうぜんや)」からほとんど出ておらず、この状態をゲーム脳と呼んでいる。「前頭前野」は 創造性や理性、道徳心など人間らしさを生み出す部分で、注意力やコミュニケーションなどを担う部分でもあり、感情を コントロールする役割もあって、活性化すれば注意力が増し、情緒豊かになるとされる。「ゲーム脳」ではこの働きが悪く、 キレやすい性格につながる恐れがあるという。 例えば、コンピュータ・ソフトウェアの開発者はコンピュータを長時間使うために脳の働きが弱まり、β波がほとんど出てい ないという。痴ほう症のお年寄りでも、前頭前野の働きの低下が実証されている。ゲーム脳、半ゲーム脳の特徴は、 まず表情に乏しく、物忘れが激しいことであり、次に感情のコントロールがきかず、キレやすいことであるという。 ゲームの影響は脳の成長が著しい幼児・学童期が最も大きく、また、高校生のデータを取ると「携帯電話がないと生きて いけない」という異常状態も出てくるが、携帯電話の画面を見ていると前頭前野がほとんど働かず、ゲームの時よりも もっとひどい状態になるという。 授業中に教室を歩き回る、話に集中できない、友達の邪魔をする…。以前なら「行儀が悪い」「わがまま」といったレッテルを 貼られていた子供達の中に、注意欠陥多動性障害(ADHD)という脳機能の発達障害のケースがあることが知られてきた。 米国では1970年代から研究されてきたが、日本で知られるようになったのは1990年代であり、 それに伴って診断も増えてきている。 ADHDの原因は詳しく分かっておらず、行動や思考をコントロールする脳の機能の発達が未熟で、 不注意で落ち着かない行動が目立つとされる。欧米の調査では、児童の3〜5%に見られるという。 ADHDの3大特徴は、不注意、多動性、衝動性であり、米国精神医学会の診断基準の典型的な症状は、 不注意を示す「細かいことに集中できず、学業などで不注意ミスが多い」「毎日の活動を忘れる」や、多動性・ 衝動性を示す「手足を落ち着き無く動かす」「質問が終わるまでに答える」などが挙げられている。
複数が継続的に見られ、精神年齢にそぐわず、生活上で不都合を生じていれば、ADHDの可能性があるとされる。ADHDそのものには 乱暴性は無いが、怒られたり、批判されたりする状態が長く続くと、子供が反抗的になるなど、周囲に危害を加えるケースもあるとされる。 日米の教育の「懐の深さ」の差が参考になる。ある学習障害(LD)を持つ日本の女性が、読む力がひどく劣っていて 試験も苦手であったけれど、今はカリフォルニア大学で海洋生物学を勉強している。どうして入学できたのかというと、 問題を読んで分からなくても、耳で聞けば分かるので、試験も口頭で受験したのである。また、他にも単語の綴りが苦手で、 語学はひどい成績であったが、現在はスタンフォード大学に在籍している例もある。結局、綴りが苦手でも他に何か 得意な分野、好きな分野があるはずで、その個々の生徒が持つ才能を引き出す方法を考えるのが教師の使命であると 考えられているのである。詰め込んだ机上の知識の量でしか個々の持つ能力が評価されない、画一化された日本の 教育の貧しさが指摘されて久しい。 おやじ狩り、援助交際、覚醒剤使用など、非行の低年齢化・深刻化が憂慮されて久しい。この傾向は1993、94年頃から 明らかに見え始め、特に15、16歳の補導人数は1996年に急上昇し、その傾向は変わらないという。少年非行は 「戦後第4のピ−ク」を迎えており、少年非行は放置できないレベルに達したとされる。特に2000年には「17歳」の 少年による凶悪犯罪が相次ぎ、社会に衝撃を与えると共に、少年法改正問題へとつながった。西鉄高速バス乗っ取り 事件では、「13歳以下は何をしてもいいんだよ。16歳以上は控えめに。起訴されちゃうからね。18以上はもう大人。 死刑になっちゃうよ。」というメモが発見されている。 しかし、その一方で日本は殺人被害者も殺人者の出現率も主要国では最低レベルである。この現象に最も寄与した のが戦後生まれの若者達であったことが大きな特徴となっている。これは日本特有の現象とされ、戦後60年近くも戦争を せず、徴兵制度も無かった先進国は他にないという事実も作用していると思われ、若者の暴行、傷害、強姦などの犯罪も 数だけ見れば激減しているのである。
1980年代半ばに米犯罪学会関係の賞を総なめにした暴力合法化モデル(デ−ン・ アーチャー教授らが110カ国70年間のデータを使って証明)によれば、「戦争に参加した国の殺人者率は上がる」とされ、 例えばベトナム戦争中、米国の殺人者率は戦前より42%も増えたという。 「非行は社会を映す鏡」と言われるが、刑事罰などの対象年齢の引き下げなどを柱とする改正少年法が、2001年4月から 施行された。現行法が施行された1949年以降、初の抜本的な改正で、少年犯罪に対する厳罰化に重点が置かれている。 改正法の主な内容は次のようである。 それまで「16歳以上」だった刑事罰対象年齢を「14歳以上」まで引き下げる 16歳以上の少年が故意の犯罪行為で被害者を死亡させた場合、原則として刑事処分手続きにかける 家裁の判断で少年審判への検察官の立ち会いを認め、3人の裁判官による合議制の導入も可能とする 18歳未満の少年の罪が成年の無期刑に相当する場合は、減刑せずに無期刑を科することもできる これにより、家庭裁判所が「逆送が相当」と判断した場合、14歳以上なら検察へ送られ、大人と同じように検察官と 弁護士が立ち会う刑事裁判を受けることになった。16歳以上が故意に人を殺害した場合も、「原則逆送」となっている。 裁判の判決が実刑ならば、成人が大半の少年刑務所で刑に服すことになり、前科がつく。ただし、義務教育年齢の 間だけは少年院で過ごすことができる。執行猶予であれば、保護司がついて保護観察をしながら、社会へ出て様子を 見ることになる。しかし、この改正によって改善されない点も指摘されている。被害者への責任を明らかにしないまま、 被害者の気持ちとは無関係に、少年の個別性にて処遇が決まることである。少年犯罪の被害者に、特に権利や 保護が叫ばれる所以である。少年の行動が大人と比べて予想しにくく、法律や権威を尊重しないことや、被害事実への 認識が薄いことがあり、自分の行為を理解しておらず、被害者がどうなるか、自分が法的にどうなるかも気にしないような 少年に、厳罰や個別的処遇がどれほどの効果を期待できるかには疑問も残るのである。むしろ、重要なのは少年が 被害事実(被害者)と向き合い、損なわれた関係回復のために何が必要なのかを考えることだとされる。
クリントン米前大統領が「グッド・ハウスキーピング」誌1995年11月号のインタビュー記事の 中で、継父がアルコール依存症であったため、自分はアダルト・チルドレンであったと述べたことで、この言葉が一躍有名になった。 日本の年間自殺者は3万人を越えており、米国やEUの平均自殺率は日本の約半分であるという。10代の自殺者の比率も 世界で最も高いとされ、また、経済難によるうつ病から中高年の自殺が多いのは、うつ病に対する適切な治療が 行われていないためと指摘されている。これはまた精神病院にかかることを恥ずかしいと感じる日本文化にも深く根ざしてい るとされ、診察を受けるより我慢することを選びがちな日本人気質があると分析されている。例えば、スウェーデンでは 1990年代に失業率が急増したにもかかわらず、自殺率が減少しているが、これは雇用や社会保障のセーフティーネットが 充実しているためと見られる。 自殺が1件あれば背後に10件の未遂があり、さらに既遂や未遂の1件について最低5人が傷を負うと言われている。 したがって、自殺者3万人ということは実に150万人以上が打撃を受ける深刻な問題ということである。とりわけ子どもから 見ると、扶養してくれている親の自殺は衝撃が大きく、こうした遺児に対して周囲では「そっとしておくのが思いやり」 「時間が経てば自然に癒されるだろう」という見方が多いが、立ち直るキーワードは「分かち合い」であるとされる。 親に見捨てられたという「怒り」、なぜ自分だけがこんな目に遭うのかという「不当惑」、なぜ止められなかったのかという 「自責感」、さらに「忌まわしい死」という観念が社会にあるので、誰にも話せず孤立してしまうからである。 そして、その「分かち合い」の場も、同じ体験を経てきた者同士なら「分かってもらえる」と語りやすいため、 ピア・サポート(仲間同士の支援)の重要性が注視されている。そして悲嘆作業を経て、苦しさに占拠されていた心に ようやく余裕が出来ると、視点が社会にも向くようになるという。 思いやりや協調性、人権の尊重とコミュニケーションの確保といった観点から、ボランティア体験の導入や道徳教育の 重視がなされていたが、ここに至って心の教育が叫ばれるようになり、ゆとり・生きる力につぐ、旧文部省の第三の看板と なった。
僕は殺人を犯した罪人に人権はいらない、極刑もやむをえないと考えます。確かにこの意見には反対を思う人も 多いと思いますが殺された人の人権についても考えて欲しいです。殺された人は誰だって死にたくなかったわけだし これからの人生をもっと楽しみたかったはずです。そんな人々の生きる権利をほんの些細な理由で奪った犯人には 当然それ相応の罰が必要です。 僕には夢があります、大きな夢です、僕はあるとき死ぬのが怖いと思いました。それは何故か? それは死ぬと言うことで自分の夢が断たれるからです。僕は一回そのせいで一種のヒステリーのようなものに 陥ったことがあります。そのとき僕は本当に悩みました死の恐怖に自分が飲み込まれそうになり溢れんばかりの 絶望感が頭を支配します。精神的にかなり参りました。今考えるとそういった経験が逆に命の大切さを僕に教えて くれることになったと思います。逆にこういう事件を聞くと本当に心が痛みます、と同時に怒りの感情が現れます。 犯人の少年たちに「お前ら殺された人の気持ち考えたことあるんか!!」と怒鳴り散らしたくなります。そういった 被害者を供養する意でも犯人の極刑はやむをえません。 マスコミ等が少年法についていろいろ騒ぐため少年たちは少年法の存在を知り悪用に走る。ということは少年法を 改正し殺人→極刑とすればそのことについて当然マスコミ等が触れる、そうなればマスコミを通じてまた人を殺したら 極刑になると言うのが少年たちに伝わる。少年犯罪は減る。この意見を聞いてこれでは暴れる少年たちをただ法律と 言う名の鎖で縛り付けているだけだと感じる人も多いだろう、しかし生まれたときから殺人→極刑と言う意識を一般常識と して埋め込めばなんら問題は無いだろう単純な考えだが的は得ていると思う。 もちろんこれはあくまで僕の考えであって反論も認めるしむしろ反論してくれるほうが嬉しい。 僕みたいな中学生がこんな偉そうなこと言うのは10年早いとか言われそうだけど最終的に言いたいのは命の 尊さを知れと言うことだ、命は尊く少なくともそんな些細な理由で奪っていけない、奪ったものにはそれ相応の償いを してもらう、何もそれは少年犯罪に限ったことじゃない。そしてできれば死について深く考え悩んで欲しい
少年犯罪がいろいろと起きています。しかし、今が飛び抜けて多いわけではないのです。少年犯罪には戦後4つの ピークがありました。第1のピークは1951年。戦争で被災し、まだ立ち直りかけている頃です。 この年の少年の刑法犯罪は16万件ありました。第2のピークは1964年で、東京オリンピックの年でした。 高度経済成長真っ只中で、少年の刑法犯罪は24万件に達しました。高度成長の負の部分といってよい。 第3のピークは1983年でした。この年、少年の刑法犯罪は31万件で、それまでの最高を記録しました。この時期、 学校や子供が大きく変化したことを反映したものと考えられます。このときの分析としては、家庭や地域社会の括りが 弱くなり、機能が低下したところに原因があるとされました。1983年を境に少年犯罪の数は減少してきましたが、 1996年から反転し、1997年は21万件、1998年は22万件となっています。危険ラインにあるともいえ、警察は第4のピークを 心配している状況です。 第4のピークというか、現在の少年犯罪の特徴は、それまで兆候が見られなかった少年がいきなり犯罪を起こす 「いきなり型」とか、「おやじ狩り」などが増えたことです。「おやじ狩り」というのは少年たちの命名です。こうした事件が センセーショナルに取り上げられるものですから、凶暴な犯罪が目立って増えているような印象を受けるかと思います。 しかし、中学生の殺人は昔からありました。昔の子供が良くて、今の子供がダメということではないのです。東大大学院の 広田照幸助教授も『日本人の躾は衰退したか?』という本の中で、昔はきちんとしていて、今はダメだと結論付けられないと 述べています。昔も躾のなっていない子供はいた。今も昔も変わらないということです。最近の事件だけを見て、 短絡的に結論付けてはいけないと考えています。 ただ、今の子供はいろいろな面で厳しい状況に置かれていることを認識する必要があります。学校でも家庭でも、 子供たちにとっては生きていくのが大変な状況なのです。子供がいろいろと大変だということを、いくつかのデータで 紹介します。 まず、体に異変が起きている。衰退しているといってもよい。文部科学省が、基礎的な体力などを測るために実施している 「体力・運動能力調査」があります。
少年犯罪がいろいろと起きています。しかし、今が飛び抜けて多いわけではないのです。少年犯罪には戦後4つの ピークがありました。第1のピークは1951年。戦争で被災し、まだ立ち直りかけている頃です。 この年の少年の刑法犯罪は16万件ありました。第2のピークは1964年で、東京オリンピックの年でした。 高度経済成長真っ只中で、少年の刑法犯罪は24万件に達しました。高度成長の負の部分といってよい。 第3のピークは1983年でした。この年、少年の刑法犯罪は31万件で、それまでの最高を記録しました。この時期、 学校や子供が大きく変化したことを反映したものと考えられます。このときの分析としては、家庭や地域社会の括りが 弱くなり、機能が低下したところに原因があるとされました。1983年を境に少年犯罪の数は減少してきましたが、 1996年から反転し、1997年は21万件、1998年は22万件となっています。危険ラインにあるともいえ、警察は第4のピークを 心配している状況です。 第4のピークというか、現在の少年犯罪の特徴は、それまで兆候が見られなかった少年がいきなり犯罪を起こす 「いきなり型」とか、「おやじ狩り」などが増えたことです。「おやじ狩り」というのは少年たちの命名です。こうした事件が センセーショナルに取り上げられるものですから、凶暴な犯罪が目立って増えているような印象を受けるかと思います。 しかし、中学生の殺人は昔からありました。昔の子供が良くて、今の子供がダメということではないのです。東大大学院の 広田照幸助教授も『日本人の躾は衰退したか?』という本の中で、昔はきちんとしていて、今はダメだと結論付けられないと 述べています。昔も躾のなっていない子供はいた。今も昔も変わらないということです。最近の事件だけを見て、 短絡的に結論付けてはいけないと考えています。 ただ、今の子供はいろいろな面で厳しい状況に置かれていることを認識する必要があります。学校でも家庭でも、 子供たちにとっては生きていくのが大変な状況なのです。子供がいろいろと大変だということを、いくつかのデータで 紹介します。 まず、体に異変が起きている。衰退しているといってもよい。文部科学省が、基礎的な体力などを測るために実施している 「体力・運動能力調査」があります。
50m走や懸垂などを行うのですが、これによると、10年前と比べて体力・運動能力が歴然と 下がっている。10歳で比較すると、10年前の70%のレベルしかなくなっている。 心にも異変が起きています。現在の子供たちは、心にストレスを抱えている。心因性の難聴、睡眠障害などの相談が増えて いるそうです。子供専用の心因性内科ができています。この他にも、過食症、拒食症、小児成人病が増えている。 こういったことの原因として、生活習慣が乱れていることがあげられます。例えば、朝食を家で食べなかったり、 独りで食事をする個食などもそのひとつです。塾や両親が共働きなど、いろいろな理由がある。週の3分の1は個食と いう調査結果もあります。かつては学校給食廃止論が声高に叫ばれたことがありますが、現在では給食ぐらいしか十分な 栄養を摂れなくなっている 。 文部科学省は毎年、教育白書を出しています。平成10年版の教育白書によると、今の子供の80%がイライラ、 ムシャクシャしている。小学生の55%、中学生の78%が不安を感じている、小学2年生の33%、中学2年生の66%が疲れて いる。これは異様な数字です。私は取材で外国に行くことが多いのですが、ときどき地元の子供たちに向かって、 疲れているかと質問すると、何て変な質問しているのだろうとポカンとする。子供が疲れているわけがないじゃないかと いう表情です。 2002年5月に(財)日本青少年研究所が、日本、アメリカ、中国の高校生を対象に意識調査を実施しました。 この結果も対照的です。いくつかの項目を見てみましょう。ちなみに、( )内の数字は10年前の調査の時のものです。 Q:自分がダメな人間だと思ったことがある。 日本73%(58%)、アメリカ48%、中国36.9% Q:自分にあまり誇れるところがない。 日本52%(33%)、アメリカ23%、中国23% Q:私は人並みの能力があると思う。 日本58%(65%)、アメリカ91.4%、中国93.9% Q:全体として今の自分に満足している。 日本38%(28%)、アメリカ84%、中国65% この結果から、今の日本の高校生は自分に誇りを持っていないことが分かります。自分をダメだと思っている者が多く、 何のために勉強するかが見出せなくなっている。
作家の村上龍さんは、「今の日本の子供たちにはすべてが用意されている。 ないのは希望だけだ」と言っています。なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。結局は大人社会の反映なのでしょう。 大人社会が時代の変化に対応できずに、苦労している。個人の利害得失を優先して、責任感はない。利便性やモノ・カネ などの物質的快楽だけを求めている。このように、大人社会のモラルの低下が問題なのだと思います。 80年代の日本はキャッチアップを成し遂げました。これとパラレルな動きとして、社会全体のモラルも低下してきたとい えるのではないでしょうか。経済大国化はプラスの面もあったけれども、同時に発生したマイナスの面も何とかしなければ ならなくなったといえるでしょう 。 今までの教育はモデル、手本を追いかけることが大切でした。あらかじめ定められた正解を暗記したりすることが求め られた。ゴールは大学です。一流大学に入れば、それで終わり。大学生の勉強時間を国際比較をすると、日本は圧倒的に 少ない。小学生より少ない。これは大学生に勉強するというインセンティブがないからです。試験をクリアするためだけの 勉強になっている。勉強する意欲を見つけ出すのが難しい状況になっています。 社会部にいた時、オウム真理教事件を取材しました。ある有名私立高校生がオウム真理教に入りたいと言い出した。 これに父親が説得するんですね。「いい会社に入れ」と。そうすると息子が「なぜいい大学、いい会社に入ればいいの」と 問い返すのです。それに対する父親の答えは「卒業してから同窓会で自慢できる」だったのです。この答えを聞いて、 息子さんは結局オウムに入ってしまった。こういうことが当時、あちこちで起きました。何のために勉強するのかという 子供たちの疑問に、親がしっかり答えられる論理を持っていなかったのです。 現在、教育の世界で一番大きな問題は、学力の低下です。考える力がない、勉強する意欲がないことが、大きな問題と なっています。理科、数学を中心に5年に1度、学力に関する国際比較が実施されています。ここでの成績を見ると、 大昔は日本は1番だったのですが、最近でもそんなに悪くない。試験を受けた各国の子供たちに、「理科や数学が好きか」と 尋ねると、成績の悪い国の子供たちのほうが「はい」と答えるのです。
日本は成績が良いのですが、「いいえ」と答えています。 これでは試験が終わると、中身を忘れてしまいます。まさに剥落する学力です。 小平邦彦さんという数学の先生がいらっしゃいました。数学のノーベル賞であるフィールズ賞を受賞した東大の先生ですが、 この先生もすでに10数年前に学生に学力がないと指摘しています。しかし、ここでいう学力とは、考える力のことです。 ある時、小平先生が中学の入試問題に挑戦したことがありました。しかし、算数の問題が解けなかった。小平さんは 「訓練して、テクニックを身につける問題であり、これは猿回が猿に芸をしこむのと同じだ。本当の学力にならない」と 嘆いていました。 子供たちに本当の意味での考える力がついてないことと関連して、いわゆる勉強ができる優等生が悪いことをしでかす 現象があります。愛知県で見知らぬおばあさんを刺殺したのは、進学校の生徒でしたし、西鉄のバスジャックを起こした 子供も成績が良かった。大学では、慶応の医学部生が集団レイプ事件を起こし、つい最近では早稲田のスーパーフリー 事件が記憶に新しい。イベントサークルに関わる女子学生に取材で話を聞いたところ、「あの人たちは頭の中が空っぽ。 偏差値は高いかもしれないけれども、中身のない男たち」と言っていました。試験のためだけの勉強は、空っぽの人間を 生み出しているのです。ある社会学者は、空虚な主体を量産することが問題なのだと指摘しています。 官僚、銀行、一流企業、マスコミに就職する人たちは、本当のエリートなのでしょうか。世界と戦えているのでしょうか。 かつて就職人気ランキングの上位にある会社の中には、東大など旧帝大しか採用しないところがありました。そうした 会社の多くはまずくなっています。成績が良い人ばかり採用したり、2世や3世を多く採用している組織は衰退します。 子供たちがなぜこうなってしまったのか考えると、社会構造の変化があげられます。都市化の進行、核家族化、情報化、 少子化などです。これに伴い、子供を取り巻く環境も変化していて、子供を育てるのに不可欠な環境が失われてきていると いえます。何が失われたのか。代表的なものとして、母親が乳幼児に語りかけることがあります。
これがなくなった。近年の脳の 研究によれば、母親が頻繁に赤ちゃんに話しかけると、赤ちゃんは反応し、4カ月ぐらいになると母親のマネし始めると いうことです。ですから語りかけることは非常に重要なのです。そんなことが分かってきました。人間の子供が社会的動物と して成長していくには、母親との相互関係がとても大切なのです。最初に意味のある言葉が出てくるのは1歳の誕生日 前後です。しかし、話しかけることが少なくなっているため、初語の時期が遅れてきています。 初語の遅れの原因として、もうひとつテレビがあげられます。テレビを子守り代わりにしている家庭が多い。NHKの 調査では、4カ月以上のゼロ歳児の5割がテレビを見ている。それも、1日に2時間20分も見ている。1歳児になると、 8割がテレビを見ていて、視聴時間は1日2時間48分にも達しています。 アメリカの話ですが、聾唖者の夫婦に子供が生まれました。両親は子供との会話は手話で行いましたが、子供が言葉を 喋ることができるようにと願い、テレビをたくさん見せました。その結果、手話は完全にマスターできたものの、 言葉は理解できないまま育ってしまった。 言葉が人間を作っているのです。しかし、おじいちゃん、おばあちゃんも近所の人もいなく、語りかけが少ない状況では、 言葉を幼児期に体感するのは難しくなっています。「人間は読み書き能力を磨いて自分を作る。本が死ぬところ、 暴力が生まれる」と言った人がいます。しかし、今はテレビが識字の道を妨害し、人から考える力を奪ってしまっている。 子供が育つには、人と人との直接の交流、つながりが一番大切な要素です。便利な道具ではあるけれども、テレビや、 携帯電話、インターネットは直接のコミュニケーションを妨げている。 経済広報センターの今回の「教育に関するアンケート」の中に、家庭での子供とのスキンシップに関する質問がありました。 親とのスキンシップ、特に父親とのスキンシップが減っているという結果が出ています。父親との接触が減っているのは問題です。 文科省の調査でも、父親が子供と過ごす時間が少ないという結果が出ています。世界一少ない。成熟国では、家族が 一緒に食事をとるのが普通ですが、日本ではできていない家庭が非常に多い。 遊びも人間形成の上では非常に重要な要素です。
年齢の違う子たちと遊ぶことで、社会性や協調性、独創性が培われます。 今の子供たちは家の中でテレビゲームをして遊びますが、これは本当の遊びではないと思います。遊びとは本来、自分たちで ルールを作って、コントロールするものです。ところが、テレビゲームの場合は、はじめからルールが決められている。 戦前の子供は4000種類の遊びを知っていたということです。しかし、今の子供はわずか20種類しか知らないということです。 昔は夕方、「ご飯だよ」というお母さんの声で、1人ずつ子供が遊びから抜ける光景がよく見られたものですが、最近は そういうことがなくなった。一方で遊びは危険でもあった。そうした中で、邪悪なものを見分ける感覚を研ぎ澄ました。 ですから、オウムなんかに誘われても、ついていきません。今の子供は無菌室で育てられている感じがします。 そういう子供には抵抗力がない。 この他にも、生活体験や家の手伝いをする機会が圧倒的に少なくなっています。昔は洗濯や買い物、あるいはリンゴむき などを手伝ったりしました。今はそんなことをする暇があったら、勉強しろと言われてしまう。 10歳から12歳の子供を持つ親を対象に行った「子供の成長についての満足度調査」というものがあります。 これもショックを受けた調査でした。「子供の成長に満足しているか」という質問に対して、満足と回答したのが日本36.3%、 アメリカ84.5%、スウェーデン82.7%、タイ74.1%、韓国52.9%で、日本は他国と比較して異様に低い結果が出ています。 子供が成長するにつれて、満足度が低下しているのです。日本の子供の出来が特に悪いわけではない。親が子供の成長に 何を期待するかなのです。日本の親が子供に期待しているのは、学校の成績です。それも他の子供との比較において。 そうなると、期待に沿えるのは全体の3分の1程度でしょう。子供は自分は親に期待されていないことが敏感に分かる ものです。それに気づいた子供は非常につらいと思います。 親の側の意識を変えないと、子供は救われない。親のほうが子供の何を評価するのか、判断軸を変えなければならない。 学校の勉強が苦手な子供もいる。スポーツが得意な子供がいれば、素直な子供もいる。子供たちの長所を認めることが 大事なのです。
少年たちは血まみれになって倒れる会社員のカバンをひったくり、ポケットから現金を奪い取った。 騒ぎをききつけ住民が110番通報する頃には少年グループは乗り付けていた車で逃走 闇へと消え去った。 事件現場はH市O町 古い農家と新興住宅が入り混じった非常に閑静な住宅地である。 夜ともなれば電灯の少ないこの地帯は非常に暗くなる。 以前から痴漢などの犯罪で この地区の危険性は指摘されていたが、周囲には交番もなく、そして ついに凶悪な路上強盗事件は起きてしまった。 襲われた会社員は頭蓋骨骨折などにより全治3ヶ月の重傷。予後どうなったかは不明だが おそらくは様々な形で後遺症に悩まされただろう。 何も罪のない一般市民を襲った あまりにも卑劣で残虐非道な事件であった。 少年グループは人の頭を叩き割り、いともたやすく金を手に入れた満足感 そして 暴力に血塗られた歪んだ快楽の余韻に浸りながら、一同満面の笑みを浮かべて逃げ切れた、 と確信した。 彼等は事後、焼肉食べ放題の店にでも入り、この凶行にビールで乾杯の音頭 でもとったのだろうか? しかし考えは甘かった。 事件直後、現場付近にいた住民が逃走した車両の車種や少年の人相 などをよく覚えていたために、事件から数ヵ月後、少年グループは一網打尽に逮捕された。 罪状は「強盗殺人未遂」であった。 逮捕された少年グループはいずれも地元のM中学校出身で、中学卒業後に「チーム」を 結成し恐喝や暴行などの悪行を重ねていた。「チーム」は先輩後輩の軸でつながっていた ため犯罪がヒートアップしたものと推測された。 そしてこの事件の主犯格 斎藤和也(当時18歳 仮名)は私の中学時代の同級生であった。 斎藤は中学時代からいわゆる不良グループに属していた。とはいっても暴力事件や恐喝 などを繰り返す「札付き」ではなかった。 授業中ウイスキーを飲んで大声をあげたり バイクを乗り回したりする姿は見受けられたが、それ以外は普通の生徒と変わったところ はなかった。 サッカー部に所属し練習は真面目にしていたし、持ち前の運動神経 の良さとスタミナで体育祭やマラソン大会では大きな活躍をしていた。性格も決して 凶暴なものではなく、むしろ素直で優しい面があったといってもよい。
まず、僕がなぜ卒業レポートのテーマに『青少年の犯罪』を選んだかについて書くことにしよう。僕が中学生の頃であろうか。 中高生のあいだで『バタフライナイフ』と呼ばれる、刃渡り10センチ程度の折り畳み式の刃物を罪の意識もなく平然と 持ち歩く者が増えていた。実際、僕の中学でも流行に乗るかのごとく学校に持ち込む友達が少ないながらもいた。 やがて、持ち歩くだけで『銃刀法違反』であるし、ナイフを持ったものが何気なく集まっただけで、『凶器準備集合罪』に 問われる、というような指導を学校側からされたこともあり、栃木県のある中学校での『女性教諭刺殺事件』が起きた後は ほとんどいなくなったように思う。 この事件というのは、授業の遅刻を注意された中学校1年生の男子生徒が最初は脅すつもりで女性教諭にナイフを 突きつけたが、先生がたじろがなかったため、少年は馬鹿にされたと思い、持っていたナイフで胸や背中など7箇所を刺し 殺害したものだ。この時男子生徒は血を流し倒れている先生を無表情で蹴り続け、職員室に連れて行かれる途中で我に 返ったかのように泣き出した、という証言がある。 これがいわゆる『キレる』というものなのだろうか。大人たちは、このころ多発した事件をきっかけにニュースや新聞などで、 現代の子供たちのキレやすさ、そして、その事件の背景となったであろう環境を犯罪心理学などの観点から理論だて、 社会に訴え始めた。事件が起こるもっと前から議論されていたのかもしれないが、この世に生まれて17年しか経っていない 僕の少ない記憶では、この頃に多くマスコミに取り上げられた一連の事件が印象強い少年事件の始まりではないかと 思われる。事件を起こした少年と同世代の僕は、心理学者と思われる大人がニュースでコメントをするたびに、 何か違和感のような息苦しさを感じていたことを今でも強く覚えている。ちょうど反抗期でもあったため、ただ単に大人の 言うことを聞きたくなかったのかもしれない。しかし、それだけではないように思う。順調にエリートコースを歩んできた教授の ような人たちが、いくら真剣に考えて子供の心理を探ろうとしても、同世代の子供以上に事件を起こした子供の考えや、 行動を理解できるはずがない!という負けず嫌いの精神にも似た感情が心の中にあったのだと思う。
僕が高校生になった今でも、いわゆる『キレる』子供の犯罪が減ることはなく、ニュースのテロップには『またもや』という フレーズが、しばしば用いられるようになった。特に『17歳の事件』があった時だ。高校生というだけで世間からは 危険人物かのように見られ、偏見のような眼差しでにらみつけられような気分になるときがある。僕の周りには、 「同じ17歳として恥ずかしい」などと言う友達もいるが、不思議と僕にはそのような感情は生まれてこなかった。 恐い話になるかもしれないが、同じ17歳として事件を起こした少年たちの気持ちが分かるような気がしたのだ。 少なくとも大人たちよりは。少年たちの精神状態は特別扱いされているようだが、現代の高校生には多く当てはまると思う。 このように感じられるのも自分が高校生であるためで、年を重ねて社会人にでもなる頃には、ニュースのコメンテイターと 同じような意見しか述べられなくなっているのだろう。そこでせっかく『高校の卒業レポート』といういい機会があるのだから、 テーマとしてはこれが最適なんではないか、この時期に一度真剣に考えてみる必要があるのではないか、と思いペンを 執ったわけである。 事件を起こした少年にインタビューしたわけではないので、これはあくまでも僕の推測に過ぎないということを前提に話を 進めさせてもらいたい。少年はこの先の人生や、自分のことなどどうでもよかったのではないだろうか。(しつこいようだが、 これは僕なりの見解だが) 『17歳』というと、高校に通っている子ならば、ちょうど真剣に具体的な進路を考え始めなければいけない時期であると思う。 もっと早い時期から考えなければいけないのかもしれないが、現実味を帯びて直面するのは(実際に僕自身や周りがそうで あったように)多くの人がこの頃であろう。僕もかなり考えたが、いざ真剣に悩んだところで、現時点でやりたいことはないし、 簡単に見付かりそうにない。幼い頃に描いた夢は、成長して現実を知ることにより儚く散っていった。やりたいことがはっきり していて、夢の実現に向けて全力疾走できる人がどれだけ羨ましかったことか。できることなら、このまま年もとらずに『17』の まま一生を終えたい、とまで思い悩んだことがある。夢も希望も持てないこの世の中で、不安にならないほうがおかしいので はないか。
東京の中野富士見中学の鹿川君が,盛岡駅で首を吊った事件.これは当時,悲惨ないじめ事件として話題になりましたが, ところが,ご両親が訴えた裁判では,一審判決で『成長過程のエピソード』として敗訴。次の東京高裁では覆されたものの, 人の命の尊さを教えるべき教師が『葬式ごっこ』の悪ふざけに荷担していたことを追及しないのが『法の番人』なのか, と思わせられる奇妙な判決です.教師は法律上の有資格者です.特別な責任を課せられているわけですから, そういった教師から教員免許を剥奪するくらいの判決をするのが,司法の任務です. それから,山形マット殺人。山形県新庄市の中学で起こった,マットに巻かれて児玉有平君が亡くなった,いや殺された 事件.容疑者として捕まった7人のうち4人が仙台高裁で無実を主張事件は驚くことに『少年の冤罪事件』として注目を 浴びることに.無論彼らを真犯人と断定することは出来ないかも知れないが,だからといって亡くなった児玉君のことを 問題にせずに捕まった少年の行為だけが世間の注目の的となるのは事件の経過としては通常とまったく異なる 扱い.事件の真相追及は本来,被害者の権利回復のために行われるものであるはず.ところが学校で起こった事件に 関してはこの点があいまいにされやすい.マットが勝手に動いて人を巻き込むなどということはありえないのだから 児玉君の死は誰かの行為による被害であるはず.その加害者が誰かということを明らかにするという当然の目的を 逸脱してまで冤罪性のみを追及するマスコミは『子どもの権利のために』平気で他の子どもの権利を犠牲にしている. 大阪梅田の阪急百貨店で山形県の食品のイベントがあったとき,たまたま新庄から来た店の人にこの事件について たずねたところ,本当に嫌な顔をして『あれは事故』と言い切っていた. 今の犯罪被害者支援活動は果たして,こういう人を救済するのでしょうか? そもそも『犯罪』とは何でしょうか.『法に触れる行為』というのが最も一般的な定義と思われます.が, 実際の日常生活では,法に触れるすべての行為が犯罪とみなされるとも限りません. (例えば,事故にかかわらない信号無視とか,18歳の学生の飲酒とか)駅に行くと『痴漢は犯罪』,人里離れた山中の 道路には『不法投棄は犯罪』と書かれてあります.
つまり、大人から見れば誰が犯罪者になり得るのかは、想像もつかないわけだ。これが高校生に対する大人の恐怖混じりの 視線の素なのかもしれない。数十年前までは子供たちを、いわゆる不良と他の子に、大まかではあるが、二分できたと思う。 大人たちは不良と呼ばれる子さえ注意深く監視していればよかったのである。 しかし、現代の日本ではどうであろうか?今まで安全視されていた『その他の子』の犯罪が目立ち始めたではないか。 そこで現代の子供である僕の目線から、現代の子供を大雑把ではあるが4つに分別してみた。(そもそも人間をたったの 4つにしか分別しないところに疑問を抱くかもしれないが)それを中学校での授業態度に置き換えて例えてみよう。 ・…そもそも授業を受ける気などは全くなく、学校へは来ない、もしくは友達と遊ぶために来ている。そのためか、 授業や教師への態度は反抗的で、周りからの注意を聞く耳は持たない。・…・のような子に多少憧れはあるが、 周りの目を気にして、教師の顔色を窺い、しっかり授業を聞いているような生徒を演じる。したがって授業の理解度も低い。 ・…教師の顔色を窺うという点では・と共通するが、・への憧れはなく、内申点のため、受験のために仕方なく勉強する。 授業の内容もある程度は理解する。・…・を煙たがり対極に位置する。勉強自体に嫌悪感はなく僅かながら学ぶ楽しさを 知っている。したがって成績は優れているが、現在の日本の教育制度に疑問を抱くなど他者と異なるところで悩む。 以上のように分類してみると、次のようなことが見えてくる。それは大人と子供での、真面目な子の認識の違いだ。 同じ子供からすれば、・だけが真面目と捉えられるが、大人には・以外は全て真面目な子に映るのではないだろうか。 子供である僕がいうのも変な話だが、今の子供は大人に気に入られる子供の姿というものを理解しているものが多く、 また、それを演じるのも巧い。大人が見分けられないのも無理はない。たちの悪い話だが、これが今の日本の現実では ないだろうか。 このレポートを書いて自分でも新たに気づいたことがあり、テーマ設定に誤りがなかったと改めて実感したが、 これといった主張はないし、事件を起こした17歳を肯定するわけでもない。キレずに耐える17歳だってごまんといることも よく知っている。
彼らは少年育成の更生等と綺麗事ごとで罪を清算できるような人間ではありませ ん。彼らはいかに逃げ道を作るか、そして、いかに自分のいいようにこれからを生き ていくことししか考えていません。(確信を持って)彼らは弁護士という存在を都合 のいいものとしか考えておらず、裁判官、少年院ではいかにも更生してこれから真面 目に生きていくと言っておきながらしゃばにでれば、もと通りに戻ってしまいます。 以上の事から考えても、人の生命を奪った人間及びそれに近い行為(強姦、監禁等) を犯した人間には死刑を与えてるべきです。そして実名公表を!!自分のやったこと は家族、親戚にも迷惑をかけるのだということを絶対しらしめるべき。また、民事裁 判においても彼ら自身に損害請求をおこなうべき。暴走族の行為で迷惑のかかる車 (特に運搬関係)には会社自体彼らの行為で倒産になりかねない。これほど泣き寝入 りしている被害者が多い国は資本国では日本ぐらいではないか?極端なことを言えば 彼らは人間の血が流れていない悪魔といっても過言ではない。こんな悪魔を助長させ てしまえばそう遠くない将来日本は必ず滅びる。 今の不況、治安の悪化は無責任な 人間(訳のわからない権利意識の高い、協調性のない人間)の増長がもたらしている 部分もあるのではないか?その象徴がいまの少年だと思う。学校でも昔は間違った方 向に行けば、先生が顔を殴ったものだった。いま、それをすれば、親がしゃしゃりで てきて教育委員会、最悪、マスコミに報道され教職生命がいとも簡単に奪われてしま ういまの日本。これでは、思い切った仕事ができない先生はあまりにも気の毒である し、ますます、つけあがる子供が絶対増えてくる。学校のルールを守れない奴に世間 のルールが守れるのか疑問だ。今、日本はすべて(警察、学校等)において悪化の一 途をたどっている。いまこそ、みんなが団結、助け合って日本全体を救わなければな らない。それには将来を担う少年の健全育成は不可欠である。いまこそ(特に治安の 悪化に手を貸しているとしか思えない一部の弁護士は特に)みんな目をさましてみん なが笑って生活のできる環境を築いていこう。
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少年法により名無し :2006/03/21(火) 23:44:45 0
宮野 裕史:S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm 神作 譲(旧姓は小倉):S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 湊 伸治:S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は共産党員) 渡邊 恭史:S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 岩井 哲夫:S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 垣東 孝一:S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。今年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 女=石川 あかね(旧姓は萩尾)
皆さんの意見等を拝見して賛成反対いろんな思いが脳裏に渦巻きます。 子供はいろんな環境の中学び成長しています。 家族が10あれば、10様の生活、躾、教育があることでしょう。 しかしながら、その中から不幸にも犯罪に手を染める人間が出てきてしまいます。 犯罪が一度発生すると、その行為者は法的に処罰を受け反省を求められたり、また、反省の余地がなければ極刑に処せられるのは当然の社会行為です。 その行為者が未成年だから軽くしてやるとか、許すとかはどう考えてもおかしい。 学校の中に於いて校則違反で厳しくするとか、温情で処置するとかなどと、社会の中の法律を同等に見ている人が多いことに驚きを隠せません。 悪意を持って行った身勝手な犯行が、自動車事故等の過失によって発生した加害者の受ける罰より軽いのが理解できないと言うことです。 乱暴にも交通事故と比較しましたが、まだ交通事故は保険によって賠償もなされます。 その上に、過失に応じて懲役も科せられます。 しかし、今のままでは少年犯罪は法があって無いようなものとしか言いようがない。 少年が犯ろうと、成人が犯ろうと罪は同じ、刑罰も同じが本当じゃないですか。 ただ、少年犯罪は成人犯罪と区別して行かなければならない事は罪を暴き刑を科すだけでなく、 その背景を厳密に調査し、原因を解明し、次の犯罪を防ぐべく教育のあり方、社会の中の少年のあり方を考える事が必要だと思うのですが。 みんな子供はもともと良い子ばかりと言っている人もいらっしゃいましたが、どんな悪いと言われる大人も、もともとそんな子供のうちの一人だったと思うのですが? 年齢で境をもうけ犯罪を区別するのは、正常とは思えない。 もし、低年齢の犯罪を考える時、その意志があったか無かったか、善悪の区別が付いたかつかなかったか、それを、裁判等で明らかにする方が現実的じゃないのかと思います。 長くなりましたが、これからどんどん犯罪の低年齢化が進みそうな中、生ぬるいことばかり言っていたら、混乱した怖いあれた社会になってしまうのでは。 最近の子供達を見ていると少し恐怖を覚えるのは私だけでしょうか?
つまり人は本来(ネットやTV鑑賞等に於いては絶対に)自分の感情を他人のせいにはできない。怒りの矛先を少なくとも自分以外の誰かに向けるのは、筋も間も勘も気も思いも見当も御門も違う。 これに気付いていない人同士が互いに鏡となって矛盾を見せ合う行為が「争い」である 従って貴方が誰かに嫌悪感を抱いても、その原因は常に「貴方の持つ固定観念・定義付け」であって「相手」ではない。「生意気だから」「ムカツクから」等といういじめやその報復の言い訳も、全く言い訳にならないということである そもそも何を見てどんな印象を抱きどう感じるかは個人の自由である。もし貴方がその自由に制限を与えようと(例えば相手に自分の理想を押しつけようと)するから、その瞬間に貴方も不自由(苛立ちなど)を感じる羽目になるのである(人を裁けば自らが裁かれる) これが「貴方が与えたものを貴方が受け取る」という、この宇宙の仕組み(仏教で言う因果応報、物理学で言う作用反作用)である 逆に言えば、仮に貴方が誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ない 相手が幾ら貴方に罪悪感や劣等感を感じるよう仕向けたとしても上述のように御門違いなので、何ら貴方が自己嫌悪に苛まれるべき理由にならない(これは無論、迷惑を掛けたり失敗しても反省や訂正や改善をしなくて良いという事ではない) 感情自己責任とはいえそれを表現すべきではないという事ではない。感情は自己表現の一つであり自他共に己を知らしむチャンスなので、寧ろ積極的に感じたままを間を置かずに表現すべきである 実際、感情を抑圧する者ほどそれを爆発させやすく、感情の自己責任が取れていない者ほど他者の表現の自由を制限したがる(自分が傷付かなくて済むように) 自称知識人の多くは自覚がないが、「何かを批判・非難する」ということはその対象に関して中途半端な知識しか持っていない証拠である(無知の無知)。これが、批判・非難が一時的表面的解決にしかならず、実態は益々隠蔽され問題が長期化する所以である
少年犯罪の凶悪化に対応するため、警察庁は11日、これまで成人の容疑者に限ってきた 公開手配の対象を、19歳以下の少年にも広げることを決め、全国の警察本部に通達した。 犯行が悪質で再犯の恐れが高い場合には、似顔絵や身体的特徴を公表できるとし、 顔写真や氏名も『例外だが、全く公開しないわけではない』(警察庁少年課)としている。 同庁は、個別のケースごとに、公開捜査の必要性があるか都道府県警と協議して判断すると している。 容疑者の特徴を公表し、市民から情報提供を求める公開捜査について、同庁は、 1998年の通達で、凶悪犯罪や社会的反響の大きい事件などを対象とし、 原則として容疑者が成人のケースに限るとしたが、少年事件に関する基準は示していなかった。 このため、容疑者が明らかに少年だったり、少年の可能性が少しでもあったりした場合には、 公開捜査はほとんど行われていなかった。 しかし、今月9日に公表された政府の青少年育成施策大綱に、『人権保護と捜査上の 必要性を勘案して、少年事件の公開手配のあり方の検討を行う』との文言が盛り込まれたことを 受け、警察庁は今回の通達で、『必要かつ適切と認められる場合には、例外的に許される』との 考え方を示すことにした。 公開が許されるケースは、犯行手段が悪質なうえ、再犯の恐れが高く社会的不安を与えた事件の うち、公開以外に容疑者逮捕の方法がない場合とし、想定される犯罪としては、 連続殺人や連続婦女暴行事件などを挙げている。公開する情報の内容はケースバイケースで 判断するとしているが、氏名や顔写真の公開もあり得るとしている。 また、容疑者の身元が明らかでない少年事件の場合でも、防犯カメラなどに映った写真や似顔絵、 身体的特徴、音声など、捜査で得た資料を公開する。ただ、容疑者が14歳未満の触法少年の 可能性がある時には、防犯カメラの映像を似顔絵に変えるなどの配慮もするとしている。 2000年6月に岡山県で高校3年の少年が金属バットで高校の後輩や母親を殺傷した事件では、 県警は、逃走した少年を指名手配したものの氏名や顔写真は明らかにしなかった。 今年7月に長崎市で12歳の少年が4歳の男児を殺害した事件でも、 少年の姿をとらえた防犯カメラの映像は公開されなかった。
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少年法により名無し :2006/03/21(火) 23:45:28 0
宮野 裕史:S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm 神作 譲(旧姓は小倉):S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 湊 伸治:S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は共産党員) 渡邊 恭史:S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 岩井 哲夫:S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 垣東 孝一:S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。今年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 女=石川 あかね(旧姓は萩尾)
犯罪に走ってしまう少年の場合、心の奥深くにあるそうした内的経験に対する「怒り」 や「人間不信」の感情が非常に強くあるのですが、前述したような理由から、その感 情は何年もの間、本人の心の中でくすぶっていることが多いといえるでしょう。 そして、思春期に入り、抑えてきた怒りや人間不信がある時ささいな事をきっかけに して、爆発してしまいます。これが俗に言う「キレる」です。 幼い頃からずっとおとなしく「良い子」だった子でも、ある時突然キレ、犯罪行為にまで 至ってしまうのは、そういう心のメカニズムからです。 しかも、それが十何年貯めに貯めてきた怒りなわけですから、噴き出してくるもの は相当な勢いがあるはずです。彼らの犯罪の手口の残忍さは、このあたりにあるの かも知れません。 そして、ここで重要なのは、犯罪の「動機」に関してです。 怒りの原因ともなった「心の傷」は、して欲しかったことを、してもらえないためにでき た傷であったり、して欲しくないことをされたことによってできた傷であると書きました。 何かをされたこと(イジメや暴力など)によってできた傷は、因果関係がはっきりしてい るようですが、本人が心の奥底に封じ込めていたり、明確に自覚できていなかったり するので、必ずしも被害者がその経験と関係ない場合が少なくありません。また、 何かをされなったことによってできた傷というのは、もともとその原因が存在しないた めに、こちらは因果関係が特定できないのです。ないものは探せないというのが道理 といえそうです。 従って、犯罪の動機が特定できず、「動機無き殺人」などといわれるのもこのためで す。そして少年自身も、自分の心のそういう状態を自覚することができないので、何 故、自分が犯罪を犯したのかわからないし、聞かれても答えられないのです。 しつこく聞かれれば、何か答えるでしょうが、その答えは「人を殺してみたかった」と 言う風に真実が語られていないことが多いのです。 場合によっては、長い間の辛い経験から、心の動きが本来のように機能しなくなり、 その結果、善なる心が動かなくなり、怒りと人間不信だけが激しくうごめいている。
感情に限らず人生で体験する全て(外界)は「体験者がどんな固定観念を持っているか(内界)」を映し出す“鏡”に過ぎない。従って感情的な批判や非難は全て自己矛盾する 例えば、極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責め立てる人ほど、その罪人の立場を思いやれていないように 何かと差別問題化したがる偽善者の心の中にこそ根深い差別心があるのも同様。内部に矛盾がなければ外部に矛盾を見る事はできない 人は100%、当人が与えた定義付け通りを体験する。「人生は必ずしも思い通りにならない」と定義していれば、正にその通りの(必ずしも思い通りにならない)体験をする 従って、繰り返したくない体験に出会ったら「どんな固定観念がこの体験を見せているのか」「その固定観念は執着に値するのか」と考えてみると良い。原因となっている観念を変えれば、似たような体験をしなくなる(変えなければ似たような体験を繰り返す) 「体験が先で観念が後、という観念」も含めて、常に「観念が先で体験が後」である。常に本人の現時点の固定観念が、過去や環境を定義している 個々人のみならず集団・社会においても観念は具現化する。グループ全体が抱いている観念はそのグループ内で起こる出来事となって現れる。例えば貧困は人々の中にある「飢餓への恐怖」、犯罪は「自己存在の喪失に対する恐怖」が顕在化したものである 全ては必然であり、起こるべくして起こっている。偶然や奇跡、運不運、矛盾、不合理、理不尽、不条理などは、その現象・物事の因果や必然性を理解(説明)できない人が言い訳として用いる概念に過ぎない 同じように「闇」も存在しない。存在するのは「知覚能力の限界」である。同様に「客観」も存在しない。存在するのは「共有された主観」である 真実は「人の数だけ」ある。「真実は一つ」は、数ある真実の中の一つに過ぎない。だからいつの世も「唯一の真実」に拘る人だけが、争いを通して己の矛盾を体験する 以上は、どこかの馬の骨が短い生涯の間に知り得た狭い視野から捻り出した独断と偏見の賜物、即ち単なる個人的主観である。真か否かを判断するのは貴方自身であり、いずれにせよ貴方は貴方が信じた通りを体験する
長崎幼児誘拐殺害事件は、加害者が12歳であったことから、社会は大きな衝撃を受けました。 1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件の加害者が14歳の少年であったあの日から、 大人は特別の響きで思春期という言葉を受け取るようになりました。 「透明な存在の僕」という言葉とともに、思春期の子を持つ親を不安にしました。あれから凶悪な 少年犯罪は後を絶たなくなり、今後も、子どもたちの置かれた状況が変わらなければ、 こうした少年による凶悪犯罪は増え続けるでしょう。 今回は少し少年犯罪と思春期について考えたいと思います。 思春期は、第二次性徴期といわれ、性ホルモンの分泌が盛んになり、分泌量が安定しないために情緒が不安定になります。 特に男子は思春期以降、主に性ホルモンとして、アンドロゲン(アンドロゲン以外にも数種の性ホルモンがある)を 放出し、このホルモンは骨や筋肉の成長を促進。また、性欲を高め性行動が活発になる。攻撃性(縄張り意識や闘争本能) に関わるホルモンでもあるため、自意識の目覚めと相まって、イライラすることも多く、親や教師の干渉にややもすれば 暴力的な言動が見られる時期です。男子が性欲と怒りの感情をコントロールするのに苦労する時期です。 ここまで書くと、思春期の男子は誰でも危うい存在に見えるかも知れません。 確かに、反抗期の非行が少年期を象徴していた時代もありました。しかし、非行に走った多くの少年は 少年時代の決別と同時に、大人の社会に順応して行きました。 こうした多くの非行が、放任・貧困・父親の暴力など家庭に問題があったため、思春期の犯罪はわかりやすい 図式で説明出来ていたように思います。 しかし、昨今の少年犯罪における『特別な家庭に育った子どもではない。ごく普通の家庭の子』このキーワードが 私たち思春期の子を持つ親を不安に陥れています。 ましてや、「犯罪者の親は市中引き回しの上、つるし首」など といわれると、両親、特にいつも身近にいる母親の不安は募る一方です。普通の家庭のどんな子が凶悪事件を起こすのか、 私たちは性急にそれを知りたいとここ何年も思い続けたように感じます。 凶悪少年犯罪の多くは、思春期に突然現れるけれど、ある日突然加害者になるわけではありません。
一昔前の少年非行のわかりやすい図式と今の少年犯罪の違い。普通の家庭の普通の子の犯罪。 もう既にこの時点で、私たちは思い違いをしているのではないでしょうか。 私たちは今まで人間が経験したことのない、時代に突入しました。大人でさえ耐えられないストレスに、 産まれたときからさらされている子どもたち。そう考えると、もう既に普通と思っていた家庭が社会が、 普通ではないことに気づきます。 現代の子どもたちが赤ちゃん時代からどんな世界で生きてきたかが、もっと問題にされるべき時期にきているでしょう。 ここ数年来の凶悪な少年犯罪は、単に思春期のイライラが起こした事件とは考えられません。 この世に人類が出現して以来、一度も経験したことのない刺激にさらされ、幼い時から、誰かと比べられ、 体を使った子どもらしい遊びも出来なくなった今、ごく普通にみえて、もう普通ではない状態の子ども達。 本来動物としてのあらゆる経験を積む子ども時代を奪われ、社会からの虐待を受けている子どもたちを思う時、 この凶悪な少年犯罪との関わりを分けて考えることができないと思いませんか。 社会は責任を押し付け合い、親は予防線をはり、子どもの10年後20年後を見据えた関わり方をしていない。 その日その日の行動におろおろと方向転換をしてしまう。 思春期の、心身をコントロールするということは、その後の長い人生をコントロールすることでもあり、 それは一朝一夕に出来ることではありません。生まれ出た瞬間からはじまる長い訓練のたまものなのです。 そのために子どもたちが安心して、真に子どもらしい時代(笑い、泣き、転び、ものを取り合い、けんかをしながら、 皮膚感覚を刺激し、大地の上にしっかりと立って生きているという実感を持つための時間)を過ごせる社会を私たちが 用意出来ないなら、少年の凶悪犯罪はこれからも社会問題となり続けるでしょう。 私は、この一連の少年犯罪を社会全体が変わらなければますます増えると思っています。 しかし、社会が変わるまでには、今後何年も待たなければならないでしょう。今すぐ子どもを守れるのは、 やはり親しかないと思っています。
まず、僕がなぜ卒業レポートのテーマに『青少年の犯罪』を選んだかについて書くことにしよう。僕が中学生の頃であろうか。 中高生のあいだで『バタフライナイフ』と呼ばれる、刃渡り10センチ程度の折り畳み式の刃物を罪の意識もなく平然と 持ち歩く者が増えていた。実際、僕の中学でも流行に乗るかのごとく学校に持ち込む友達が少ないながらもいた。 やがて、持ち歩くだけで『銃刀法違反』であるし、ナイフを持ったものが何気なく集まっただけで、『凶器準備集合罪』に 問われる、というような指導を学校側からされたこともあり、栃木県のある中学校での『女性教諭刺殺事件』が起きた後は ほとんどいなくなったように思う。 この事件というのは、授業の遅刻を注意された中学校1年生の男子生徒が最初は脅すつもりで女性教諭にナイフを 突きつけたが、先生がたじろがなかったため、少年は馬鹿にされたと思い、持っていたナイフで胸や背中など7箇所を刺し 殺害したものだ。この時男子生徒は血を流し倒れている先生を無表情で蹴り続け、職員室に連れて行かれる途中で我に 返ったかのように泣き出した、という証言がある。 これがいわゆる『キレる』というものなのだろうか。大人たちは、このころ多発した事件をきっかけにニュースや新聞などで、 現代の子供たちのキレやすさ、そして、その事件の背景となったであろう環境を犯罪心理学などの観点から理論だて、 社会に訴え始めた。事件が起こるもっと前から議論されていたのかもしれないが、この世に生まれて17年しか経っていない 僕の少ない記憶では、この頃に多くマスコミに取り上げられた一連の事件が印象強い少年事件の始まりではないかと 思われる。事件を起こした少年と同世代の僕は、心理学者と思われる大人がニュースでコメントをするたびに、 何か違和感のような息苦しさを感じていたことを今でも強く覚えている。ちょうど反抗期でもあったため、ただ単に大人の 言うことを聞きたくなかったのかもしれない。しかし、それだけではないように思う。順調にエリートコースを歩んできた教授の ような人たちが、いくら真剣に考えて子供の心理を探ろうとしても、同世代の子供以上に事件を起こした子供の考えや、 行動を理解できるはずがない!という負けず嫌いの精神にも似た感情が心の中にあったのだと思う。
僕が高校生になった今でも、いわゆる『キレる』子供の犯罪が減ることはなく、ニュースのテロップには『またもや』という フレーズが、しばしば用いられるようになった。特に『17歳の事件』があった時だ。高校生というだけで世間からは 危険人物かのように見られ、偏見のような眼差しでにらみつけられような気分になるときがある。僕の周りには、 「同じ17歳として恥ずかしい」などと言う友達もいるが、不思議と僕にはそのような感情は生まれてこなかった。 恐い話になるかもしれないが、同じ17歳として事件を起こした少年たちの気持ちが分かるような気がしたのだ。 少なくとも大人たちよりは。少年たちの精神状態は特別扱いされているようだが、現代の高校生には多く当てはまると思う。 このように感じられるのも自分が高校生であるためで、年を重ねて社会人にでもなる頃には、ニュースのコメンテイターと 同じような意見しか述べられなくなっているのだろう。そこでせっかく『高校の卒業レポート』といういい機会があるのだから、 テーマとしてはこれが最適なんではないか、この時期に一度真剣に考えてみる必要があるのではないか、と思いペンを 執ったわけである。 事件を起こした少年にインタビューしたわけではないので、これはあくまでも僕の推測に過ぎないということを前提に話を 進めさせてもらいたい。少年はこの先の人生や、自分のことなどどうでもよかったのではないだろうか。(しつこいようだが、 これは僕なりの見解だが) 『17歳』というと、高校に通っている子ならば、ちょうど真剣に具体的な進路を考え始めなければいけない時期であると思う。 もっと早い時期から考えなければいけないのかもしれないが、現実味を帯びて直面するのは(実際に僕自身や周りがそうで あったように)多くの人がこの頃であろう。僕もかなり考えたが、いざ真剣に悩んだところで、現時点でやりたいことはないし、 簡単に見付かりそうにない。幼い頃に描いた夢は、成長して現実を知ることにより儚く散っていった。やりたいことがはっきり していて、夢の実現に向けて全力疾走できる人がどれだけ羨ましかったことか。できることなら、このまま年もとらずに『17』の まま一生を終えたい、とまで思い悩んだことがある。夢も希望も持てないこの世の中で、不安にならないほうがおかしいので はないか。
目的地も分からぬまま、努力して大学に入れたところで何を得られるというのだろうか。先行きの見えないこの 不景気な社会の中で、就職しても倒産やリストラに怯えながら毎日を過ごすことが、果たして『幸せ』と呼べるのだろうか。 考え出すと嫌なことばかり頭に浮かんでくる。 高校2年生というのは、誰しも僕のように思い悩む時期なのかもしれない。生意気ではあるが自分なりに、人間の本質、 現代社会の性格、そして人生に至るまで考え抜いて『自分自身』というものをなんとなくでもいいから理解しなければならない、 長い人生において大変貴重な時期であるように思える。僕の場合は運動部でもなく、比較的時間に余裕があったので 深く考えることができた。暗い現実を目の当たりにして、逃げ出したくなった。人生なんてどうでもいいと悲観的にもなったが、 考えるうちに、ぼんやりとではあるが、微かに『光』のようなものが見えた。(まだ捨てたもんじゃないな)と思えたことで、 重く苦しい精神状態から抜け出せたように思う。それは、時には意見の不一致でけんかもしたが尊敬しあえる友達と共に 成長できたおかげでもあるし、反抗期でもいつもとなりで見守ってくれた家族、落ち込んでいる僕を心から心配してくれた 学校の先生方。周りの多くの人が、今の僕を作る要素を見出してくれたように思う。そんな周りの人々の考え方や、 強く感銘をうけた映画、幼馴染の影響で聞き始めたヒップホップという音楽、多くのものから様々な形で影響を受け、 今では一人前に夢のために頑張っている僕がいる。一生かかっても返しきれないほどの愛情を受け取ることができ、 進みたい道を歩くことができた。 きっと事件を起こした17歳も僕と同じように考え、悩んだのだと思う。しかし、不幸にも彼らはいつまでも『光』を見ることが できずに、苦しさから耐えることをやめ、人生から逃げ出したのではないだろうか。そして罪を犯したように思う。 最近の少年犯罪では、普通の子が突然キレて犯行に及ぶ、というケースをよく耳にする。このことを父に話したときに聞いた 話では、一昔前はこのようなことはなかったらしい。悪さや夜遊びを覚え、しだいにエスカレートしていき、大きな罪を犯して しまう者はいても、今のように真面目そうな子が突発的に犯罪者へと変わる姿は世代の違う父としては信じ難いようだ。
つまり、大人から見れば誰が犯罪者になり得るのかは、想像もつかないわけだ。これが高校生に対する大人の恐怖混じりの 視線の素なのかもしれない。数十年前までは子供たちを、いわゆる不良と他の子に、大まかではあるが、二分できたと思う。 大人たちは不良と呼ばれる子さえ注意深く監視していればよかったのである。 しかし、現代の日本ではどうであろうか?今まで安全視されていた『その他の子』の犯罪が目立ち始めたではないか。 そこで現代の子供である僕の目線から、現代の子供を大雑把ではあるが4つに分別してみた。(そもそも人間をたったの 4つにしか分別しないところに疑問を抱くかもしれないが)それを中学校での授業態度に置き換えて例えてみよう。 ・…そもそも授業を受ける気などは全くなく、学校へは来ない、もしくは友達と遊ぶために来ている。そのためか、 授業や教師への態度は反抗的で、周りからの注意を聞く耳は持たない。・…・のような子に多少憧れはあるが、 周りの目を気にして、教師の顔色を窺い、しっかり授業を聞いているような生徒を演じる。したがって授業の理解度も低い。 ・…教師の顔色を窺うという点では・と共通するが、・への憧れはなく、内申点のため、受験のために仕方なく勉強する。 授業の内容もある程度は理解する。・…・を煙たがり対極に位置する。勉強自体に嫌悪感はなく僅かながら学ぶ楽しさを 知っている。したがって成績は優れているが、現在の日本の教育制度に疑問を抱くなど他者と異なるところで悩む。 以上のように分類してみると、次のようなことが見えてくる。それは大人と子供での、真面目な子の認識の違いだ。 同じ子供からすれば、・だけが真面目と捉えられるが、大人には・以外は全て真面目な子に映るのではないだろうか。 子供である僕がいうのも変な話だが、今の子供は大人に気に入られる子供の姿というものを理解しているものが多く、 また、それを演じるのも巧い。大人が見分けられないのも無理はない。たちの悪い話だが、これが今の日本の現実では ないだろうか。 このレポートを書いて自分でも新たに気づいたことがあり、テーマ設定に誤りがなかったと改めて実感したが、 これといった主張はないし、事件を起こした17歳を肯定するわけでもない。キレずに耐える17歳だってごまんといることも よく知っている。
他方、成人刑法犯検挙人員は、1972年の814,394人から1998年の812,299人へと、横這いの状態であった (『平成11年版犯罪白書』1999年、496頁)。実際の成人犯罪が横這いの状態の中で、警察力が増強されれば 、どうなるか。おそらく、警察力は、軽微な犯罪や非行を行った少年をも、積極的に検挙や補導をすることであろう。 1999年の秋から半年の間、警察の不祥事が社会問題化した。その結果、警察は、監査体制の強化などの施策を とることになった。しかし、それらの施策の導入と共に、警察は、空き交番の解消、stalker対策、少年事件、 被害者支援などの対策要員として、2001年度は、2,775人の警察官増員の予算要求をし、それを手始めに、 数年間で、警察官を1万数千人増員する予定である(日本経済新聞、2000年11月2日)。もし、犯罪の実態が 変わらない中で、この増員が実現すれば、より多くの少年が、軽微な犯罪や非行で、検挙・補導されることになろう。 警察が、軽微な犯罪や非行を行った少年を、早期の段階で検挙・補導して、彼らに矯正教育や保護を与える 契機を与えることは、少年犯罪を減らすと言う目的から見ると合理的である。しかし、それを過度に追求すると、 それは、弊害を伴うことになる。例えば、普通の少年が疲れていたために放置自転車に乗っただけで、 警察に占有離脱物横領罪で検挙されたような場合、彼は、非行少年というlabelが押しつけられ、 自己のidentityが傷つけられる。日本の警察は、1997年には「強くやさしい」少年警察を、sloganとして掲げた。 もし「やさしい」少年警察をも標榜するならば、1990年代の前半に一度試みたように、普通の少年が 放置自転車を無断で乗るといった軽微な犯罪への検挙を、手控えるべきではないだろうか。 ところで、社会のおいて、実際に重大な犯罪や逸脱行動が、減少した場合には、どうなるか。 その時は、人々は、重大な犯罪や逸脱行動の周辺に位置する軽微なものに対する許容性を低めて、 それを積極的に統制すべき犯罪あるいは逸脱行動とみなすようになるであろう(Yokoyama, 1986:111)10)。 また、「いじめ」のように可視性が低い逸脱行動も、顕在化させて、統制の対象とするであろう。
刑罰における感情の肥大化、と言う物は公正な審理の阻害になると考えます<不公正 な裁判になど裁判としての権威も意味もないでしょう>。機械的に裁け、というつも りでは毛頭ありませんが、<もっとも、機械の方が公正に出来るんなら機械にやって もらうでしょうが>何度も言うように全ての事情をくみ、その中で軽視されがちで あった被害者の側の意識を醸成しよう、と言うのが私の考えです。 感情って、刑罰の中でそこまで重視されてさてよいものでしょうか。感情のみに基づ く刑罰など、リンチに他ならない、と言う私の考え方はさて違っているのでしょう か。資本主義とか社会主義とか、また民事裁判と違い、人が人を裁く言うなれば神 <ここでは絶対力量者としての神>の領域です。裁くに当たっては裁く者の裁かれる 者に対しての絶対的優越が必要なんですから。もっとも、そんな神は存在してはくれ ない、かと言ってやらないわけには行かないので人がやるわけですが、そこに踏み入 ろうとする人間が、裁く者、極論すれば神の代理人としての厳格さを忘れ、ただただ 感情のみに走ってその上での判決を出してよいものでしょうか? とにかく被害者の感情だけ!という人を私は感情派と呼びますし、「被害者、犯人、 社会などのもろもろの利益を複合した上でそうすべきだ」と考え、またそうした攻め ぎあいの上での意見を述べている人を私は感情派などと呼ぶ事は致しません<被害者 寄りだな、とは思いますがが>。また、逆の場合人権屋<人権「派」ではない>とも 呼びません。そこに多少の違いがあることは当然ですから。議論がまた一段進むだけ の事です。そうした攻めぎあいが一致した時こそ、私が前回投稿した理想が成立した 時である、と考えております。<なお、「感情派」の反対語を敢えて申すならば、 「人権屋」です。>あと、私が我慢するのはそうした意見を公にして、感情だけを露にして突っかかるよ うなやり方だけです。もちろん、理知的に見ておかしいと思ったらそう言うでしょう が。死刑にして欲しいとか、思わない事があるでしょうか。そんな酷な事は私には出 来ません。出来もしない事をやらなかったからと言って非難したりはしません。た だ、私は皆さん人間なのだから、前述の考え方に身を置く事が出来る、と考えている のですが違うでしょうか。
少年犯罪に対する司法の対応において、私が一番疑問に思っている事は、加害者の 人権のみが不当なほど保護されているという点で す。「少年には未来があるから守らなければ!」とでも、賢い自称・人権派の方々は 思っていらっしゃるのかな?私に言わせれば、それ こそただの自己満足としか思えない。ならば、殺されたり、傷害を受けた者には人権 はないのか。特に少年同士の事件の場合、報道機関 もニュースソースの不足に困るのか、被害者の交友関係とか私生活の部分を面白おか しく書き立てる傾向が強いですね。最近では「神戸 の酒鬼薔薇聖斗事件」の時それを強く感じました。これでは、どちらが被害者かわからない状態ですね。 「信賞必罰」この概念で少年法を改正しない限り少年犯罪の凶悪化を止める事は不 可能でしょう。極論を言えば未成年の時に10人殺し ても20才になれば犯罪記録は処分され、書類上は「前科なし」となるのですから。 戦後の「日本国憲法」施行後、未成年の時に起こし た刑事事件で死刑になったのは「連続ピストル射殺事件」で5人を殺害した永山 則 夫(死刑執行済み・犯行時19才だった。)ただ一 人なんですから。未成年者の場合、他人を2〜3人殺害しても死刑を求刑される事は ほぼ100%ないでしょう。実名を報道される事も なく、どんなに凶悪な犯罪を起こしても死刑になる事はない。これでは、「悪い事は 未成年の間にどんどんして下さい。」と奨励してる ようなものです。江戸時代に5代将軍 徳川 綱吉が発布した「生類憐れみの令」と 同じぐらいの悪法ですね。これからは、現行の少年 法は「未成年者憐れみの令」とでも呼びましょうか。 実例をひとつ、私の昔の顔見知り(あまりにも性質が悪すぎるので間違っても知り 合いなどとは呼びたくない。)「H」としておきま しょうか。彼の場合、借金癖というか寸借詐欺の常習犯だったのです。何回も警察に 検挙されてもやめない、いや一種の習性みたいにな ってしまっていたんです。親しい人間相手でも平気で寸借詐欺を繰り返していまし た。Hを見て私は思いました、「世の中には社会生活に先天的に向かない奴がいるんだなあ。」と。
結論から言いますと、私は現在の少年に対する刑法の適用のあり方が正しいとは思 いません。具体的には、より厳罰化を望んでいます。「厳罰化が犯罪の減少にはつな がらない」という意見もありますが、それはピントのずれた指摘だと思います。犯罪 が減るかどうかではなく、現在の法律が、もはや「悪法」と化しているからこそ、改 められるべきなのです。以前、マスコミ(確かに偏った報道も多い)を通じてではあ りますが、「少年法?‥‥ああ、子供だから罪にならないってやつね」と言い放つ 「少年」を目にしました。例として極端ではあっても、これが本音でしょう。実際、 罪を犯しても裁かれないという甘えた考えにあぐらをかいて、したい放題するのが 「強さ」だと錯覚している「少年」たちは、巷にいくらでも見ることができます。む ろん、いったん凶悪犯罪を犯せば、現実は決して甘くはなく、警察の厳しい取調べや 家族にまで及ぶ社会的制裁の厳しさに、世間の怖さを初めて知ることになるのでしょ う。しかしだからこそ、そこに至る前に抑止する仕組みが必要ではないでしょうか。 それこそが、被害者あるいは加害者となることを未然に防いでくれるのだと思いま す。そのためにも法律は、「なした悪事は報いをうける」ということを、明確な前提 として示さねばなりません。それが空文でないことを証明する必要があるのです。 「子供だから‥‥」とうそぶいたかの少年も、実際に責任をとらされる人間を見ては じめて――「強がって人を傷つけたりするのは割に合わないことだ」「子供だから罪 にならないってのは実はウソなんだ」――という現実を知るのです。それにしても、 よくある人権屋の無責任さは噴飯ものです。「きょういくひょーろんか」とかいう肩 書きの連中が言います、「子供たちの主体性を大切に!」。一方でこうも言います、 「まだ少年だから厳罰はいけない」。まったく、自分の行為の責任を自分でひきうけ る機会を否定しておいて、主体性も何もないだろうに‥‥。誤解のないように言いま すが、私は人権屋は否定しても人権は否定しません。「基本的人権」は、人類の偉大 なる発明の一つだと考えています。ただ、それは無条件に自然権としてあるものでは ない――
甲山事件でも、被疑者のYさんの子供は級友達が懲役何年と か言ってるのを聞かされてきたわけです。社会的抹殺は死刑と一緒である、という点 をどう考えましょうか。確かに、社会を啓発してこの点を解決するのが必要であるこ とは大賛成ですし、そのための努力を惜しむべきではないでしょう。しかし、言った ように、部落差別が何十年たってもなくなっていないことを考えると、これはあまり にも酷ではないでしょうか。人と言うのは、差別をしたい生き物だと思うんですよ。 部落が江戸時代に作られた理由や現代のいじめの構造を見るとそう思います。そし て、きちんと罪を償った本人<償いが足りないのなら刑法を改正すればいいでしょ う>はおろか家族に人生の大半を棒に振らせて、50年先か70年先かそれ以前に実 現するかさえ分からぬ啓発を待て!これはあまりに酷ではないでしょうか。せめて啓 発が成って、そういう事が起こらないようになるまで待つべきではないでしょうか。 例え報道各社や国から損害賠償や慰謝料を何十億円もらったって人生の破壊は治らな いんです。むしろもらうとその金で家を建てたとか言う誹謗中傷さえ来るのです。被 害者の皆さんだって、犯人やその家族に10億円払ってもらえれば殺人を許す気にな るとか、そういう事ではないでしょう? さらに、これだけの犠牲を家族に払わせる危険性が高いにもかかわらず、公益性に疑 問があることを指摘しなければなりません。スウェーデンで匿名報道になった前と後 で犯罪率<特に凶悪犯罪>に差異は見えません。まあ日本ぐらい徹底的に用のないプ ライバシーまで明かす報道をすれば減るのかもしれませんが…。また、社会的な制裁 を科す権限等マスコミにはありません。中にはそうやって我が制裁を科さん!なんて 思い上がった連中もいます。また、堺通り魔事件実名報道容認大阪高裁判決でも写真 掲載や実名公表が公益のためになるとは、それどころか記事の価値増大に役立つとさ え決してみとめられていないわけです。まあ認めたら判決を批判するんでしょうけど ね。旧少年法でも<現在も残っていたと思いますけど>、明らかに公益につながる、 例えば指名手配の時などでは公表が認められていたんです。
ゆえに,教育刑の考え方が強い国では、「死刑」「終身刑」は、 もはや人間性のかけらもなく、教育して社会復帰させることが100%不可能 と断定された場合しか、下されないことになります。 これは、まさに現在の日本の状態でしょう。どんなに残忍で、冷酷で、被害者や その家族を地獄の苦しみに突き落とすような犯罪をおかしても 1%でも「更正」の可能性があれば、死刑にはならないのです。 まして、少年ともなれば、裁判官はますます慎重になってしまうでしょう。 少年法に限らず、現在の日本の司法のあり方を論ずるならば、刑が重いとか軽いと か・・・でなく、刑罰の根幹にある思想を問題にするべきでしょう。 教育刑という原則に重心が置かれている限り、どんなに法改正をしても限界があり ます。というより、少年法という法律の存在自体、教育刑という思想の象徴でしょう。 法は本来あらゆる人に公平に適用されるべきものなのに、なぜ少年だけが別扱いなの か? 犯罪は社会性の教育が不十分な人間が起こす、ならばもともと社会性の教育の 途上にある少年は特別に教育して上げなければ・・・・・という考え方なのですから。 教育刑という考え方は人権の考え方特に社会権の考え方とともに広まったように 思えます。そのため、教育刑と人権は不可分のものだという誤解があるような気がし ます。 よく考えてみればわかると思いますが、教育系と人権は決して不可分のものでは ありません。 復讐刑と人権だってちゃんと両立できるのです。 近代国家は、個人や領主や部族の復讐権を奪い独占した、・・・つまり 国家が被害者にかわって復讐を行う、そういう仕組みを作ることで 無秩序で制限のない暴力と憎しみの応酬を無くし、公平な社会秩序を 維持することに成功したのです。 その際、裁判の手続きを整備し、刑を法律によって定めて恣意的な刑の執行を 防止し、そして「火あぶり」「石打ち」といった残忍な刑罰を廃止しました。 しかし、刑罰が国家による復讐代行であるという基本は変わっていませんでした。 人権と復讐刑は両立できるのです。 復讐刑イコール感情論イコール前近代的な司法・・・という考え方は 成り立ちません。
183 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:04:37 0
(A)宮野 裕史:みやのひろし S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm (B)神作 譲:かみさくじょう(旧姓は小倉) S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 埼玉県八潮市中央4 (C)湊 伸治:みなとしんじ S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は元共産党員) 埼玉県さいたま市南区南浦和3丁目から 千葉県市川市福栄2丁目に転居。現在は京都潜伏? (D)渡邊 恭史:わたなべやすし S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 神奈川県横浜市金沢区六浦東1在住? (E)岩井 哲夫:いわいてつお(旧姓は中村) S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 (F)垣東 孝一:かきひがしこういち(旧姓は伊原) S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。2005年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 その後、頻繁に問題を起こすためか、浦和を追われ「所沢近辺」 あるいは「入間市周辺」「東京都日野市」に転入したと伝えられる。
犯罪や逸脱に対する人々の意識の変化と、法執行機関の活動の変化とはどのような関係にあるのであろうか。 一つは、人々の意識が変わり、それを反映して、法執行機関の活動が変わるという関係がある。 例えば、従来は性犯罪の被害者の女性に、男性の警察官が事情聴取をして、second rapeといわれるように、 その女性を再度傷つけることがしばしばであった。しかし、最近、犯罪被害者の人権の保障という 意識が高まるにつれて、警察は、従来の男性中心のやり方を改めて、女性警察官を積極的に活用して、 被害者女性の保護や、性犯罪を犯した者の検挙活動に、当たらせるようになっている。1990年代の後半に、 強姦の容疑で検挙された少年が増えたのは、このような過程によると思われる。 他方、法執行機関が活動を変えて、それが人々の意識を変えるという関係も存在する。 日本では、少年非行については、この関係の方が強かったと思われる。つまり、実態として少年の犯罪や非行は、 質的には、例えば、動機、行為の態様あるいは侵害した法益という面では、軽微化し、量的にも減少してきたと思われる。 しかし、警察は、毎年、その人的および物的な資源を増大させたので、非行少年に対する検挙・ 補導活動をnet wideningさせてきた。その結果、「遊び型」といえるような軽微な犯罪を犯した年少少年を、 大量に検挙することにより、少年非行は量的に増大したと、情報を流すことになった。また、少年による特異な 凶悪犯が起こると、それは新しい傾向の少年犯罪であると、強調するのが常であった。警察からこれらの情報を 提供されたmass mediaは、それが客観的に見えるために鵜呑みにして、そのまま報道し、 人々に犯罪の増大と凶悪化という現状認識をさせてきた。また、繰り返して報道することにより、 その認識を増幅してきたのである。そこで、警察は、世論の支持を得たとして、さらに、 犯罪や非行を犯した少年の検挙・補導活動を強化してきたのである。そこには、予言の自己成就といえるような、 一つの循環過程が見られる。 警察が情報を提供し、mass mediaがそれを流すことにより、人々は、非行少年の凶悪化と増大と いう認識を持ち続け、非行少年対策への関心を持続させた。その背景の中で、多くの人々が、volunteerとして、 非行少年の予防活動や処遇に関与し続けてきた
司法にたずさわる者は、犯罪者個人の人権擁護や更生などという事よりも、裁きの結果が社会に与える影響と いう事の方に重点をおいて考えることが必要だという事を、念頭に置かなければ成らないのである。 人間という者が孤立的な存在で、社会とは全く関わりのない無人島のようなところで独り暮らしをしている存在ならば、 たとえ法を犯そうが何をしようが構わぬのであるが、我々人間はそういう存在ではなく、常に社会という場において共同の 生活を営んでいるのであるから、罪を犯した者は厳しく処罰しなければ法を定める意味がなく、社会の治安や秩序を 維持することも出来なくなってしまうのである。 今日、我が国の司法関係者は、いたずらに犯罪者に温情をかける事で、自らが「如何なる悪人をも許せる心の広い 人間」であるかのような錯覚に陥り、自己満足しているのではないかと思えるような節が見受けられるのであるが、 そういう自画自賛的な自己陶酔によってなされる「犯罪者擁護の温情的判決」が、第二、第三の犯罪者や被害者を 生み出すもとに成っている事実に対しては、まったく目を向けていないのである。 犯罪者には犯罪に見合った厳しい罰を科すことが必要で、たとえ犯罪者が悔悛の情を示したからといって、 たゞそれだけのことで刑罰を軽減するというような温情をかけては成らぬのである。 なぜなら刑罰というものは、犯罪者個人に対する罰であるということ以上に、社会という共同生活の場において 「法を犯した者が受けなければならない罰則である」という面に比重を置かなければ成らぬものであるからだ。 故に、犯罪者がどういう刑罰を受けたかという事を、世間の人々に対して周知徹底させることが必要なのである。 然るに、それを受刑者の人権を無視した悪事であるかのように考えて除外してしまったならば、刑罰を定める意味が 無くなってしまうのである。 言い換えるなら、犯罪者に対する処罰を軽微な形で済ますことが、社会にどれだけ悪影響を及ぼすことになるか… ということに意を注がなければ成らぬということであって、社会との関連の方が「犯罪者個人の人権の擁護」などという事よりも、 遙かに重要なことなのである。
そういう誤りを正さずにいるところから、親も子も一緒(平等)だ… 先生も生徒も一緒(平等)だ… と考えるような悪平等の思想が生まれてきて、社会の秩序が乱れてくるのである。 余談ながら申せば、親子や師弟などの関係は、人権という面からみれば共に平等の扱いを受けるべき同等の存在では あるが、その人間関係の上からみれば「人間としての平等」ということを超えた厳然たる差別があるのであるから、 幼少の頃からその差別を教えなければ成らぬのである。 それを教えず、たゞ人間としての平等という面ばかりを教えるところから、社会の秩序が乱れ、統制がとれなくなって、 学級崩壊のような社会問題が引き起こされて来ることになるのである。 余談は扨措き、上述したように犯罪者の人権擁護だの更生だのと温情をかけることは、一見、慈悲深い崇高な心のように 受け取られがちであるが、そんなものは慈悲でも何でもなく、単なる甘やかしであり、社会を一層混乱におとしいれるだけの 無分別な行為であるに過ぎないのである。 この度の少年の起こした犯罪にしても、十二歳といえば、やって善い事と、悪い事の判断くらいはできる年齢なのだから、 たとえ十歳の子供といえども、犯した罪に対しては相応の責任を取らせるべきなのである。 そうしなければ少年法の温情主義を逆手にとって、ゲーム感覚そのまゝに犯行におよぶ少年が後を絶たない事に なってしまうのである。 今日、犯行に及ぶ少年たちは、自分が何を遣っているか充分に心得ており、仮に捕まっても自分が処罰されないくらいの ことは先刻、承知のうえで犯行におよんでいるのであるから、たゞちに刑法や少年法などの見直しが必要なのである。 我々はもっと現実を直視して、少年法や刑法に対する根本的な見直しを要求する声を発し、法律の改正に向けて世論を 高めていかなければ成らないように思います。 誤った人権思想や人道主義に傾倒し、現実を認識する事のできない司法官や弁護士先生などが目覚めるのを待っていた のでは、この国は安心して暮らす事のできない犯罪王国になってしまうのであるから、我々一般国民の側から声を発する 事によって、法律のことしか解らぬ司法関係者のエリート意識を打ちやぶり、法律の見直しや裁判制度の改革を迫っていく べきであろうと考えます。
少年法に関する意見はいろいろありますが、少年法に関しては犯罪加害者少年(少女) に厳罰を望む意見は数多くありますが、反対する意見としては厳罰化は冤罪を呼ぶこ とや厳罰にすることでは本当の解決にならない。ことがあります。そもそも少年法と いうのは犯罪加害者少年の更正を計ることを第一の目的にしていることです。もちろ ん凶悪な事件についてはそれなりの処罰が必要だと思います。 山口県の母子殺害事件について加害者の少年が1審2審ともに無期懲役の判決を受けた ことについて、被害者の夫の本村さんが少年に死刑を望むことについて、彼(本村さ ん)は少年に対する恨みだけで死刑を望むわけではないでしょう。少年が死刑の判決 を受けて慟哭し反省することを願っているようです。現在の日本の法律では18才未満 の人間に対する死刑は認められておりません。この事件の加害者の少年は18才を過ぎ たばかりの時の犯行でした。だとすれば少年の更正を計るのが良いのか、極刑を求め るのが良いのか判断が分かれるところです。 しかし、僕の考えとしては死刑の判決を受けてから反省し慟哭しても、それは世の中 にとって意味のないことになってしまいます。 先日テレビの番組で、本村さんが、アメリカテキサス州の死刑囚犯行時20才未満の死 刑囚と面会し彼は死刑の判決を受けて反省しもう2度と犯罪を犯さない自信がある。 と言っていました。そしてその死刑囚に対する死刑は番組放送時もう執行されていた ということ。 確か今年テキサス州で犯行時17才の死刑囚に対する死刑が執行されたというニュース が入ってきました。このことは国際的に大きく非難を浴びていますが・・・・ 更正の期待をかけ犯罪者を生かしておくのか、死刑判決を宣告させ反省し慟哭をさせ るのか、どちらが正しいのか、僕は正しい答えなんてないと思います、数学のような ものと違って答えは一つではありません。
私自身高校生で、少年からの観点で少年犯罪について述べさせてもらいます まず、一番最初に問題にすべきなのはなぜ少年犯罪が起きるか 「キレる17歳」などと言う言葉が出回っていますが キレ「させた」のは、何歳でしょうか 大体、30代後半〜50代ぐらいだと思います まず第一に、親が親としての教育をしていない 教育とは学校に行かせることではないのです かといって、学校に行くなと言うわけじゃないです 親や教師が子供に、現実性ある論理的な勉強を施すのが教育です「現実性ある」と言った理由は 大抵の親が、現実性無い、受験用の勉強をしていると言うことです 受験用の勉強が出来る者を、社会が求めていると思いますか? 次に「論理的な」と言った理由は大抵の親、そして教師は 理由無しに「それはそれ、これはこれ」と言った風に考えを埋め込む形だからです 子供は納得しないし、それに対して疑問、嫌悪感を感じるのもムリないですなぜなら、理由がないからです この「現実性」「論理的」、これが親、または教師などの教育者が 果たしてない、あるいは勘違いしているせいで、子供にはストレスがたまっているのです 私自身、リアルタイムでそう感じているのです また「子供だから」と言うセリフを、子供は一番嫌がります それは、逃げであり、自分が子供レベルまで落ちることを避けているからです もし、そのセリフで喜ぶ子供がいるのなら、子供と言う立場にすがっているだけです また「誉める」「同情する」と言う行為も 自分が上に立ち、子供を自分より下の位置に置く行為なのです もちろん、全ての行為がそうだとは言いません しかし、たとえ悪意無いとしても、そうゆう副作用があるのは覚えておいて欲しいです まず、これがキレさせる原因の一つです次は社会です 形成されてから時間が経ち、複雑、巨大な社会になった現在の社会は 一言でどうゆう物か説明することが出来ません それが問題なのです先ほども申した通り子供は理由が無い物は嫌いなのです 「社会で生きていけないぞ」とか、そうゆうセリフには拒否反応を示します 全員がそうとは言いませんが、疑問を持たない方がおかしいです 社会とは誰が、あるいはどういった団体が、何のために作ったのか 説明できますか?
ですから、重要なのは被害者のダメージと、加害者の罪の償いの「公平さ」です実際どうやればいいのか それは事件のケースによって様々に異なるでしょう それで問題にすべきことは、少年法や裁判制度そのものです 事件によって、少年法にのっとるだけでなく 被害者側の様々なダメージ(精神的な物も含め)を 加害者側に公平な形で罪を償わせる必要があるのです最後に、根本問題として 少年法、そしてその改正をする者です 少年法は、確かに加害者に対し異常なまで保護しました それは被害者と比べ公平性が欠如し、憲法違反になります 次に問題なのは、その改正をする者です 改正をする者には、政治家だけでなく 加害者、被害者、そして全く事件に関係無い第三者の立場の一般人の意見をとり入れる必要があります 細かく言うと、第三者の立場にも、被害者側と加害者側の二つがあると望ましいです 我々が一番問題にすることは「公平性」です 決して加害者だからといって、被害者が加害者にある未来の可能性を殺すと言うのは 無益で、今度は被害者が加害者になってしまいます 激罰化には、どうこういいませんが激罰化することによって、減るのは「表面化した犯罪」のみです 犯罪にまで発展しない、ギリギリの犯罪が増えることでしょう 付け足し その1 「公平性」を保ち、そしてそれを明確にする必要が少年法に必要なのであって 加害者をいじめるのが目的ではないのです ですから、加害者側に立った意見も、重要なのではないでしょうか 加害者側に立った意見と言うのは「加害者は無実だ」と言うのではありません それは公平性が欠如していて、無意味です私が言いたいのは、被害者と加害者の公平性を保つため 両方の観点から見る必要がある・・・・・と言うことです また加害者の情報公開について加害者は殺人などを犯していますが加害者が少年なのは事実です 少年には まだ未来があるです完全に情報公開してしまいその少年の 未来を奪ったとしたらそれは殺人に等しい「生き地獄」です 何度も繰り返すようですがだからといって、加害者の情報公開をするなと言うわけではありません被害者と加害者の公平性を重視すべきだ・・・・・と言うわけです
付け足し その2 被害者に言いたいことがあります 自分を殺された人に置き換えていませんか? 貴方は殺されていないんで本当の被害者は貴方ではなく、殺された貴方の子供です それに自分をあてはめ、加害者に対して情報公開しろと言うのは公平性に欠けます 貴方は別に殺されたわけでも、ナイフで手を切られたわけでも顔がめちゃくちゃになったわけでもないのです 本当の被害者は、貴方の子供です今一度、公平性について考えて下さい 付け足し その3 また「少年犯罪に対する知識はあるのか?」 「貴方は実際、被害にあったことはあるのか?」と言われれば、その答えは「無い」です しかしこの論理で行くと、何も言えなくなってしまう同時に、言った本人にも言えることです 知識があるかどうかなんて、誰が判断するのでしょうかまた、実際に被害にあったことあるのか?と言うのなら 本当に被害にあったのは殺された、死んだ人であって家族は精神ダメージを受けた、間接的被害者です もちろん、その精神ダメージは途方もないくらい、でかい物で 1人の人生、一生を潰しても償えないでしょうそして、この少年犯罪に対しての皆さんの考え方 私は別に賛成も反対もしませんなぜなら、「これだ」と言う考え方は存在しないからです じゃあ何を持ってして少年犯罪を考えるのかそれは上に書いた通り「公平性」です 考えの違い、精神ダメージの違い、犯罪の凶悪度、法律による罪の重さ そうゆうのを全てふまえ、考え、公平な判断を出す必要があるのです では、公平な判断を出すことが出来るのか?はっきり言って、出来ません 「少年法改正案」が出てくるのですこれがネックなんですこれをみんなで考え、ありとあらゆる違う考え方を融合し 公平な案にする必要があるのです現状の政治状態では、それが難しいかもしれません しかし、被害者に対する公平性を守るには戦うしか無いのです もしかしたら、政治の構造さえ変えなくてはいけないような状況になるかもしれません しかし、公平性と言うのは、被害者、加害者両方に特に現状では被害者に必要なことなのです
少年犯罪の報道の時に、加害者少年の生い立ちなどをこと細かく伝えるのは 何なんでしょう?意図がわかんないですよ。いかにも不幸そうに報道していて でもそれがどうしたっていうんだ?って感じです。 少年がどういう気持ちだったかを理解したから何だっていうんでしょう? 少年法の改正とかいろいろ少しずつ進んでいるというのに、この報道の仕方だけ は全く変わらない。同情をかって、「こんなに不幸なんだから、殺人を犯したく もなるよなぁ。」なんて思わせる気なんでしょうか?そして、犯罪少年を不憫に 思うことが犯罪自体を抑止するような結果になるでしょうか?なりませんよね? 犯罪の抑止になるのは、被害者の方ががどれだけ生きたかったかを、遺族の方々 がどれだけ辛い思いをしているかを報道することですよね。夕方のニュースでは まずこれはありません。遺族の方々の活動が報道されるのは、大体夜中過ぎてか らで普通の人は眠っている時間です。自然にテレビをつけてニュースを見ている 時間に加害者の人柄ばかり流されては、勘違いして事件を理解してしまう人も出 てくるかも知れませんよね。 加害者に同情しても何の解決にもなりません。加害者自身の性格を変えなければ 更生はありえないと思います。それに一番の効力があるのは被害者の気持ちを教 えることではないですか?加害者がどんなに酷いことをしたかをまずわからせて 心から詫びさせるべきです。殺人が、人間として失格の行為だとわかっていない 人物に説明するんですから相当の覚悟が必要です。人権派などと言っている弁護 士やその他の少年に関わっている人々は覚悟があるようには見えません。「少年 には未来がある」なんて平気で言ってますもんね。加害者少年を手厚く保護する のは再犯にもつながると思うし更生を願うなら厳しく教育し、今までの考え方が 間違っていることを理解させることが必要だと思います。2年や3年で何が変わる と言うんでしょうか? あとこういった事もよく耳にしますが、少年が本当の意味での反省をすると、 自分の命を自分で絶ってしまう可能性があるので、人権派を謳っている人々は これが一番怖いことだと思っていると。自分が関わった人間が死ぬのが辛いのか 責任問題になるのが嫌なのかどっちなんでしょうね?
ここは日本だという方もいるでしょうが、アメリカでは凶悪犯罪者は例え少年で あろうとも禁固70年などの刑が科せられる場合があります。日本よりも人権が守 られている国アメリカでもです。そしてその理由は 「少年の未来よりも、市民 の命を守る為」 なのです。少年は少年でも犯罪者は犯罪者です。日本の犯罪者 にすべてこのことが当てはまるわけではないでしょうが、人権の意味を履き違え ている人は多いと思います。大人でも子供でも、犯罪者は決して社会的弱者では ありません。 ところで話は変わりますが、加害者少年を、「被疑者」と呼ぶとかありましたが それは適当ではないですね。確かに起訴をされなければ被疑者と呼べますが、 少年犯罪の中でも、年齢が高かったり、残虐性があったりといろんな理由を含め 『刑事事件として逆送』で起訴される場合があり、この場合の犯人は「被告人」 と呼ばれます。なので、被疑者というのは全ての少年犯罪者に当てはまることで はないのです。犯人も被告人になります。加害者という言い方は、殺人や傷害事件 の場合は危害を加えてるのは確かなんですから適当だと思います。 被疑者って字だけを見れば罪が軽そうに見えますもんね。でも少年法は、確実に 殺人を犯していても起訴されない場合がある特殊な法律なので、成人の事件と同 じ法律用語は向かないと思いますよ。 日本語って逃げ道をつくろうとすればいくらでも出来ますしね。だから事実認定 が危うくなってるんですよ。新しくなった少年法も「ただし書き」がたくさんつ いて逃げ道をつくってありますもんね。 事件でもすべて正確に伝えてるわけではないし、ニュースであっても視聴率を稼 ぐ為に過剰に報道する場合があったり、きちんと調べずに勝手に作って放送した りね、そして辛い目の遭うのはいつも被害者側ですからね。 私達はこの被害者と遺族の皆様を守りたいと思っています。守りたいがゆえに 先走ってしまう時があるかもしれないけど、本当に加害者少年に危害を加える わけではありませんので、人権派はこの点だけに着目しないでもっと人の心が わかる様になって下さい。
厳罰化しても、犯罪の抑止力にならない、という意見がありますが、僕はそうは思 いません。 そもそも、法律は、”ものを盗んではいけない”、”人を殺してはいけない”な ど、世間の常識や社会のシステムを示すもので、犯罪においても、罪を犯せばこれだ け刑に処すと、示めしたものです。所詮、紙切れ一枚で、破ろうと思えば、誰でも破 ることができ、犯罪の抑制が本来の目的ではありません。 犯罪の抑制には、教育が重要です。つまり、教育によって、どれだけ分別のある人 間を育てられるか、それによって犯罪が減少する。反対派の人たちの意見は、こうい う具合ではないかと感じました。しかし、それだけ十分でしょうか? 例えば、”泥棒をしても、日本の法律は甘くて大した刑はならないが、泥棒は悪い ことなのでやっていけない”などという理屈が成立するでしょうか? 正しい教育をするためには、正しい法律が必要不可欠です。どんなに立派な教育を しても、その裏づけとなる正当な法律がなければ意味がない。逆に、どんなに立派な 法律を作っても、それを教える人間がいなければ役に立たない。 つまり、正しい法律を、正しく伝えてこそ、犯罪を減らすことができるのだと思い ます。 だから、”厳罰化は、犯罪の抑止力にならない”という意見も、ある意味では正し い。どんなに立派な法律があっても、それだけでは犯罪の抑止力にはならない。 しかし、彼らの主張が正しいとは思えません。厳罰化反対者たちは、教育の力だけ で犯罪の抑止しようと考えているように感じます。しかし、正当な法律なくして、教 育は成り立ちません。そして、こういう甘い考え方ができるのは、犯罪被害を経験し たことがないからだと思います。 逆に、被害者のみなさんが厳罰化を望むことを、反対派の人たちは、”法律さえ厳 しくすれば、犯罪はなくなる”という主張だと、間違って解釈しているのではないで しょうか? この辺りが、意見が食い違う原因ではないかと思います。 罪に対して、不当に重い、あるいは不当に軽い刑罰を科すことが間違いなのであっ て、重い罪に対して、重い刑罰を科すことは必然です。そして、現在の日本の法律は 少年法を含めて、明らかに甘いものが存在する以上、適当な刑罰まで厳しくすべきだ と思います。
少年非行の動向をみるために、日本では、公的なdataが使われている。しかし、これらのdataは、少年非行の 実態を反映しているだけでなく、警察を初めとした法執行機関の活動をも反映している。時代におけるdataの変動が、 この二つの変数のいずれによって生じているかを見極めることは、容易ではない。 この報告では、第二次世界大戦後の日本における少年非行の動向を、3つのpeakおよび現在という4つの時期に 着目して、分析している。少年非行の実態においては、おそらく、少年非行は、戦争直後において、その質および量の 両面において、最悪の状態であったと推測される。しかし、当時は、法執行機関が効果的に機能していなかったので、 公的dataから、それを簡単には読みとれない。その後、少年に対する保護や教育の体制が整い、実態において、 重大な少年非行は、減少していったと思われる。法執行機関、特に警察も、少年に対する補導および検挙の体制を 整えていった。そのために、警察は、少年の軽微な犯罪や非行にも、積極的に介入するようになった。つまり、 警察活動のnet-wideningによって、公的dataを根拠として戦後最悪と言われる第3のpeakが、1983年に出現したのである。 第3のpeakの後、少年人口の減少をも反映して、公的dataによれば、少年非行の数は減少した。 しかし、1990年代の後半には、年少少年による数件の特異な凶悪事件の発生により、警察は、非行少年への 補導および検挙活動を強めることになった。その結果、非行問題が政治問題化し、日本社会の保守化を反映して、 厳罰化を指向した少年法改正が、2000年の11月末に国会において可決されてしまったのである。 少子時代になって、子供は大切に育てられ、かつてのように、放任された少年が、社会に反抗してanti-socialな犯罪を 犯すということは減少した。その代わり、過保護の中で目標を見失った少年が、薬物乱用といった逃避型のa-socialな 犯罪を、犯すようになってきた。東京家庭裁判所の藤川洋子主任調査官は、少年達は非常に幼くなってきており、 それだけに親や友達など周囲の環境に影響されやすいので、いまの少年達に単に「反社会的な罪を犯したから反省しろ」と いうだけでは通用しないと、述べている(朝日新聞2000年10月31日の記事)。実態としては、少年非行の質的側面も 量的側面も。
1990年代後半は、1990年代前半と大きな違いはないと思われる。しかし、警察の検挙・補導活動の積極化で、 また、少年による特異な殺人事件がいくつか生じたために、少年犯罪の増大や凶悪化が、大きな社会問題となった。 それとともに、少年法は少年に対して甘過ぎるという批判が起こり、実務での保護主義の後退が懸念されるようになった4)。 他方、犯罪被害者自身が、現状の問題点を提起するようになり、また、それをmass mediaが取り上げることにより、 被害者問題が脚光を浴びるようになった。現行の少年司法systemでは、加害者の少年の人権は保障されているが、 それに対して、知る権利や意見表明権といった被害者の権利は保障されていないと、指摘されるようになった。 そのような背景の下で、少年法の改正が、緊急の政治的課題となってしまった。 まずは、少年非行の動向を、統計に基づいて、分析してみたい。少年刑法犯検挙人員総数の推移を見ると、 1995年から毎年増大し、1998年には、221,410人となり、1995年に比べて14.5%増加したのである。 人口比も15.0(交通関係業過を除く少年刑法犯検挙人員の場合の人口比は12.5)へと高まったのである。 1997年には、警察庁少年課理事官の渡辺康弘は、これに着目し、少年非行の深刻化が急激に進行していると 社会に警告し、また、少年警察活動の強化を叫んだのである(渡辺康弘、1998年、27頁)。ところで、少年非行は、 実態において、本当に深刻化し、「戦後第4の上昇局面」(前掲書、33頁)を迎えているのであろうか。以下において、 1995年と1998年のdataを、詳細に分析しておきたい。 罪種別で分析すると、絶対数が多い窃盗は、22.4%の増加である。放置自転車の無断乗りが中心の横領は、 34.5%も増加している。それ故に、万引き、autobike盗、自転車盗、占有離脱物横領の4つの犯罪で構成する初発型非行が、 少年刑法犯検挙人員総数に占める比率は、1998年にはさらに高まり、75.6%に達したのである(『平成11年版警察白書』 1999年、74頁)。つまり、犯罪統計によれば、少年非行の数は1998年まで再び増加したが、その主たる原因は、 警察の検挙・補導活動のnet-wideningがさらに広がり、初発型非行といわれる軽微な犯罪を犯した少年が、 より多く捕らえられたからと思われる。
しかし、窃盗の増加は、実態における変化をも反映しているかもしれない。 1990年代には、日本は長期にわたる経済的な不況を経験した。それから、脱却するために、企業は合理化という名前の 下で、人減らしを行った。その中で、失業したり、安定した就職先を見いだせない少年が増えている。彼らの中には、 これまでの浪費的な生活を維持したくて、減少した収入を補うために、窃盗などの財産犯を犯す者が出ているかもしれない。 1995年から1998年までの間に、強盗が79.4%、強姦が71.6%、殺人が46.3%も増加した。 警察は、この増加率を根拠として、少年犯罪の凶悪化を指摘している。それを受けて、保守的な政治家は、 この傾向を阻止するために、一般予防効果を狙って、厳罰化を実現すべきだと、主張し始めたのである。 彼らは、少年に厳しい刑罰を科すことで、少年の規範意識を覚醒させることを狙っている。しかし、厳罰化が、 少年達の犯罪を抑制するという証拠は、今のところ見あたらない。 強盗については、確かに、「親父狩り」という新しい犯行形態が、見られるようになった (『平成9年版警察白書』1997年、120頁)。某少年院の教官の話によると、新しい犯罪態様の「親父狩り」は、 次のようなものである。中学生や高校生は、今では、携帯電話を持っている。そこで、携帯電話を掛け合って 、学校が終わった時間に、繁華街で集まる。集まった者は、電話を掛け合って集まった烏合の衆であり、 お互いに名前さえ知らないことがある。集まってから、何かおもしろいことをしようということで、遊びとして、あるいは、 遊ぶためのお金を調達するために、金を持っていそうな中年の男性を、集団で襲う。烏合の衆で、集団心理に駆られて、 特に男子少年は、女子少年にかっこよさを見せたいという心理から、メチャメチャに殴る蹴るの暴行を働くのである。 そのために、被害者は、重傷を負ったり、場合によっては、殺害されるのである。この事例で明らかなように、 ここでの集団は、番長と呼ばれるleaderが統制する従来の非行集団とは、異質である。つまり、普通の少年が、 多数犯行に参与するのである。このような「親父狩り」が現れて、強盗で検挙される少年の数が、激増したのである。 犯罪統計で強盗が増加したのは、警察の強硬姿勢の反映でもある。
かっては、少年が、金を脅し取った後に 、被害者に暴行を加えたときは、窃盗および傷害の容疑で検挙されていた。しかし、警察は「悪質な非行には厳正に対処、 補導を含む強い姿勢で挑む」(1997年6月3日の全国警察少年担当課会議での関口警察庁長官の発言)という方針を 打ち出して、強硬方針をとるようになった(服部朗・佐々木光明、2000年、668頁)。それを受けて、警察庁は、 8月には「少年非行総合対策推進要綱」を制定し、少年事件に係る捜査力の強化を掲げ、悪質重大な少年犯罪に 対しては、まさに組織として取り組むことを宣言した。そこで、少年を検挙する場合でも、より重い罪名で行うようになった のである。例えば、中古のCD(Compact disk)を売っている店で、19歳の少女が、CDを万引きしたのが見つかり、 逃げるときに店員を突き飛ばした場合でも、事後強盗で被害者を負傷させたという理由で、強盗致傷で検挙するように なったのである(寺尾史子、1999年、224頁)。このような重い罪種の適用という形のrelabelingを通して、警察は、 実態以上に、統計の上で強盗の数を増やして、社会に少年犯罪の凶悪化を強く警告したのである5)。そのために、 普通の人が「凶悪な強盗」と考えないような事件も、犯罪統計の上では、強盗事件に含まれるようになっている。 日本では、強盗といっても、前述の事例のような些細な事件が、多く含まれているのである。 なお、1995年から1998年にかけて、少年警察活動のnet wideningで、主要な罪種の多くが激増しているのに、 恐喝は6.8%しか増加していないことが注目される。これは、おそらく、relabelingによって、これまで恐喝とされていた事件が、 強盗として処理されるようになったことを反映しているであろう。その典型が、「ひったくり」事件である6)。 殺人については、神戸市の14歳の中学生が、1997年の2月から5月にかけて、2件の殺人事件と3件の傷害事件を 起こし、それが社会的に大きな注目を集めた。特に被害者の小学生の首を切断し、それを校門に晒すという、 前代未聞の行為をしたので、人々に大きな衝撃を与えた。この凶悪な犯罪を犯した少年に対しては、 厳罰で対処すべきという声が、高まつた。しかし、現在の少年法の下では、16歳未満の少年の場合には、 検察官送致が出来ないことになっていた。
そこで、この少年には、刑罰が科せられないということが報道されると、 人々は、少年法は少年を甘やかせる法だと非難するようになった。それを契機として、厳罰化への方向で少年法を 改正する機運が、高まったのである。また、少年法の下では、少年の健全育成の視点から、家庭裁判所での審判が 非公開とされており、被害者や遺族は、それを傍聴したり、そこで意見を表明することが許されていない。 さらに、審判の結果も、被害者やその遺族に知らされなかった。そこで、加害者の少年が手厚く保護されているのに 対して、知る権利とか意見陳述権とかいう被害者の権利が、充分に保障されていないという意見が出されるようになった。 以上の背景の下で、少年法の改正が、政治的な課題となっていったのである7)。 この神戸事件以降、mass mediaは、少年法改正の問題とともに、散発的に起きた少年の重大犯罪を、 大きく取り上げることになった。そこで、警察は、少年犯罪への強硬姿勢を、さらに強めていった。その結果、 例えば、2000年4月に、17歳の少年が、交際相手の15歳の女子高校生が生んだ赤子を、祠に捨てて凍死させたような 事件でも、遺棄致死罪ではなく殺人罪で、その少年を逮捕するようになったのである。mass media が報道するように 、少年による重大事件が生じることは、確かに憂慮すべきである。しかし、警察が公表する資料に基づいて mass mediaが報道するように、最近になって少年犯罪一般が凶悪化しているとは、言えないであろう。 凶悪犯の代表と見られる殺人でも、従来と同じく、育児に自信のない未成年の男女が犯す嬰児殺や、 家庭内の人間関係をめぐる殺人が、多くを占めていると思われる。 1990年代の後半には、警察は、耐性のない少年の凶悪・粗暴犯が増大したことを、強く警告している。 『平成10年版警察白書』(1998年)では、1997年に「凶悪犯で補導した少年のうち、非行歴のなかった者は1,081人で、 全体の47.8%と半分近くに上っており、それまでに非行を犯したことのない少年がいきなり重大な非行に走るcaseが 目立っている」と指摘している(115頁)。このような耐性のなさは、少子化の時代に甘やかされて育った少年によく見られる。 耐性のない少年による犯罪は、すでに、『昭和57年版警察白書』(1982年)において、注目されている。
そこでは、「年少少年による通り魔事件のような衝動的無差別的な凶悪犯、粗暴犯の増加も目立っている」と 指摘していたのである(11頁)。それが大きな社会問題になったのは、少子化がさらに進んだ1990年代の後半だったのである。 一つの事件を契機として、mass mediaが集中的に報道した結果、社会問題化した典型例は、刃物を使用した事件である。 1998年1月28日に、13歳の中学生が、女教師に、授業に遅れた理由を詰問されたので、butterfly knifeを突きつけ、 それに驚かなかった教師を、刺殺したという事件が、起こった。それを契機として、mass mediaは、次々に刃物を使った 事件を大々的に報道した。警察は、社会問題化した刃物事件について、直ぐに対応した。2月2日には、 警察庁の少年課長、銃器対策課長、地域課長の連名で、「少年による刃物の携帯に対する適切な対処について」 という通達を発して、全国の警察に対して、学校などとの連携強化による少年の規範意識の啓発、刃物の販売店に 対する指導の徹底、街頭補導活動の強化などを、指示したのである(松坂規生、1998年、55頁)。その結果、少年の 刃物による事件は、より一層顕在化し、『平成10年版警察白書』(1998年)で指摘しているように、「少年非行の凶悪化を 強く印象づけ」(112頁)ることになった。しかし、1998年の夏以降は、mass mediaが取り上げなくなり、社会問題化が 止まったので、人々は、少年が刃物を使う犯罪の危険性を、意識しなくなっている。 1995年から1998年にかけて、強姦が71.6%も増加していることが注目される。実態において、 本当に強姦が増加したかは、定かではない。強姦で検挙された少年の数が増加したのは、おそらく、 被害者支援の体制が整備されたので、被害者の警察への通報活動が活発化したことによると考えられる。 1990年代になると、被害者やその家族が、自分たちの人権が充分に保障されていないことを、積極的に訴え始めた。 それを受けて、警察庁では、1996年1月に「被害者対策に関する基本方針」をまとめ、翌月には 「被害者対策要綱」を制定した。ここで初めて、「被害者に対して敬意と同情を持って接し、 その尊厳を傷つけない対応を行うこと」「被害者の視点に立ち、被害者のneedsに対応するよう心掛けること」
そこでは、「年少少年による通り魔事件のような衝動的無差別的な凶悪犯、粗暴犯の増加も目立っている」と 指摘していたのである(11頁)。それが大きな社会問題になったのは、少子化がさらに進んだ1990年代の後半だったのである。 一つの事件を契機として、mass mediaが集中的に報道した結果、社会問題化した典型例は、刃物を使用した事件である。 1998年1月28日に、13歳の中学生が、女教師に、授業に遅れた理由を詰問されたので、butterfly knifeを突きつけ、 それに驚かなかった教師を、刺殺したという事件が、起こった。それを契機として、mass mediaは、次々に刃物を使った 事件を大々的に報道した。警察は、社会問題化した刃物事件について、直ぐに対応した。2月2日には、 警察庁の少年課長、銃器対策課長、地域課長の連名で、「少年による刃物の携帯に対する適切な対処について」 という通達を発して、全国の警察に対して、学校などとの連携強化による少年の規範意識の啓発、刃物の販売店に 対する指導の徹底、街頭補導活動の強化などを、指示したのである(松坂規生、1998年、55頁)。その結果、少年の 刃物による事件は、より一層顕在化し、『平成10年版警察白書』(1998年)で指摘しているように、「少年非行の凶悪化を 強く印象づけ」(112頁)ることになった。しかし、1998年の夏以降は、mass mediaが取り上げなくなり、社会問題化が 止まったので、人々は、少年が刃物を使う犯罪の危険性を、意識しなくなっている。 1995年から1998年にかけて、強姦が71.6%も増加していることが注目される。実態において、 本当に強姦が増加したかは、定かではない。強姦で検挙された少年の数が増加したのは、おそらく、 被害者支援の体制が整備されたので、被害者の警察への通報活動が活発化したことによると考えられる。 1990年代になると、被害者やその家族が、自分たちの人権が充分に保障されていないことを、積極的に訴え始めた。 それを受けて、警察庁では、1996年1月に「被害者対策に関する基本方針」をまとめ、翌月には 「被害者対策要綱」を制定した。ここで初めて、「被害者に対して敬意と同情を持って接し、 その尊厳を傷つけない対応を行うこと」「被害者の視点に立ち、被害者のneedsに対応するよう心掛けること」
「特に深刻な被害を受けている性犯罪等身体犯の被害者、殺人事件・死亡ひき逃げ事件の遺族及び 少年の被害者に重点を置くこと」という方針が打ち出された(『平成9年版警察白書』1997年、262頁)。 これを受けて、各都道府県の警察は、被害者や遺族を対象とする相談およびcounselingの体制を整備することになった。 特に性犯罪については、「身体的な被害にとどまらず精神的にも極めて重い被害を与える犯罪であるが、 羞恥心等から被害者が警察に対して被害申告をためらいがちになるため、被害が潜在化する傾向にある」 (前掲書、264頁)という 認識から、積極的に対策を採ることになった。被害者と同性の警察官によって、 事情聴取や鑑定を行うようにしたほか、日本にはUnited KingdomのVictim Supportというような 被害者支援組織が未整備なので、同性の警察官が病院への付き添いなどをするという、 被害者の精神的負担を緩和する施策も講じることになった8)。また、被害にあった女性が、 被害届を出したり、相談を受けやすくするために、女性の警察官が駐在する女性相談交番を、 設けることにした。さらには、適正で強力な性犯罪捜査を推進するために、 性犯罪捜査指導官及び性犯罪捜査指導係を設置した。このような体制の整備により、 従来潜在化していた強姦の被害が顕在化し、その結果、強姦によって検挙された少年の数も、 増加したものと思われる。 日本では、不況の1990年代においても、性風俗産業が繁栄を続けており、そこでの売春は、 一層巧妙となっていった。売春の蔓延と、性の自由化の意識の広がりによって、女子少年の側でも、 売春への抵抗感が薄れていった。その中で、女子少年による援助交際という形での売春(男性と断続的な 性関係を持ち、小遣いをもらうという形の売春)が、社会的に注目されるようになった。「遊ぶ金欲しさ」を 動機とする性の逸脱行為で検挙・補導された女子少年の数は、1993年の818人から増え続け、 1996年には2,517人とpeakを迎えたのである(『平成10年版警察白書』1998年、114頁)。
最近、特別刑法違反で注目されるのは、薬物事犯である。 1995年と1998年の少年検挙人員を比較すると、 覚醒剤事犯は1,079人から1,069人へ、大麻事犯は189人から125人へ、 thinner等の乱用は5,456人から 4,496人へと変化している(『平成8年版警察白書』1996年、104頁、 『平成11年版警察白書』1999年、77頁)。 1995年から1998年にかけては、刑法犯で検挙された少年の数が増加したのであるが、 薬物事犯で検挙された 少年の数は、増加していなかったのである。薬物の乱用は、victimless crimeの一つであり、 被害者からの通報を 期待できないので、その検挙数には、大きな暗数が存在していると思われる。 そのために、断言は出来ないが、 おそらく、thinner等の乱用は、実態においても、1983年の非行の第3のpeak以降、 減少しているのであろう。 1990年代の後半では、少年の覚醒剤事犯の動向が注目された。 覚醒剤で検挙された少年の人員は、 1994年の827人から、3年連続して上昇し、1997年には1,596人に達したのである。この時の増加は、 警察活動の活発化というよりも、実態を反映していたものと思われる。薬物というような禁製品の取引は、 需要と供給の関係を考慮する必要がある(Yokoyama, 1991:2)。まず、供給の面から分析すると、 1990年からの長期の不況で、良い働き場所を失った来日外国人、特に、Iran人が、覚醒剤の密売に 携わることになった(Yokoyama, 1999b:203)。当初は、暴力団の密売末端組織で覚醒剤を売り始めたが、 その後、彼らの独自の密輸および密売の組織を持つようになった。従来覚醒剤の密売をしていた、 暴力団関係の日本人の売人は、任侠道の精神の影響のためか、少年に積極的に覚醒剤を売るようなことをしなかった。 しかし、そのような文化を共有していないIran人の売人は、覚醒剤を少量に分けて、それを比較的安い価格で、 駅前や繁華街において少年に積極的に売りつけた。他方、日本の少年は、西欧の文化へのあこがれがあるので、 好奇心から、「S」とか「speed」とか言う名前で呼ばれるようになった覚醒剤を、覚醒剤とは認識せずに 、Iran人の売人から買い求めることになった(『平成9年版警察白書』1997年、111頁)。また、女子少年の間では、 「diet効果がある」ということで、覚醒剤が乱用されるようになった。
203 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:17:05 0
加害者ども、連絡取り合ってスレ潰ししてやがんのか? どうあがいても、必ず落とし前はつけてもらうからなw 184 :少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:05:05 0 185 :少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:05:29 0 186 :少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:05:40 0 187 :少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:06:34 0 188 :少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:06:57 0
しかも、従来のように静脈注射によって 覚醒剤を使用するのではなく、燃やして嗅ぐという形態で、覚醒剤を乱用するようになったので、抵抗感なく覚醒剤に 手を出すようになってしまったのである。しかし、売人への警察の取締が強化され、また、少年への覚醒剤の 乱用防止策が功を奏したためか、1999年には、覚醒剤の乱用で検挙された少年の数は、996人へと減少している (『平成12年版警察白書』2000年、122頁)。 1990年代後半の少年警察活動の強化の方針は、街頭補導の積極化を招いた。その結果、 喫煙や深夜徘徊と言った不良行為で、警察に補導される少年の数は、1995年の673,345人から、 1997年の814,202人へと急増している(『平成8年版警察白書』1996年、107頁および『平成10年版警察白書』 1998年、119頁)9)。ここにおいても、少年警察活動のnet-widening が伺われる。 日本では、犯罪被害者調査や自己申告調査をしていないので、公的な犯罪統計でしか、少年非行の 動向を判断する材料が存在しない。一般には、少年刑法犯の検挙人員の推移を見て、実際の少年犯罪も、 それと同じように推移していると判断している。しかし、少年の検挙人員の推移は、法執行機関の活動の推移の 従属変数でもある。この論文では、その視点を強調して、実態の変化と、法執行機関の活動の変化という2つの 変数を念頭に置いて、日本における少年非行の動向を分析した。 結論としては、おそらく、実態としての少年非行は、質的には軽微化し、量的には減少しているであろう。 しかし、警察白書や犯罪白書で公表されているdata及びその分析では、日本の少年非行は、戦後一貫して、 悪質化し、量的にも増大していることになる。この分析結果は、mass mediaを通して、広く一般の日本人に共有されている。 ところで、警察は、重大な犯罪事件が起きる度に、警察力の強化をcampaignしてきた。 また、長らく自由民主党を中心とした保守政権が続いたので、彼らのcampaignは、治安維持の 視点から容易に受け入れられた。そこで、警察の人的および物的な資源は、毎年、増強されることになった。 例えば、警察官の定員は、1972年度の181,768人から、1998年度の263,402人へと大幅に増加しているのである (『昭和48年版警察白書』1973年、372頁および『平成11年版警察白書』1999年、254頁)。
他方、成人刑法犯検挙人員は、1972年の814,394人から1998年の812,299人へと、横這いの状態であった (『平成11年版犯罪白書』1999年、496頁)。実際の成人犯罪が横這いの状態の中で、警察力が増強されれば 、どうなるか。おそらく、警察力は、軽微な犯罪や非行を行った少年をも、積極的に検挙や補導をすることであろう。 1999年の秋から半年の間、警察の不祥事が社会問題化した。その結果、警察は、監査体制の強化などの施策を とることになった。しかし、それらの施策の導入と共に、警察は、空き交番の解消、stalker対策、少年事件、 被害者支援などの対策要員として、2001年度は、2,775人の警察官増員の予算要求をし、それを手始めに、 数年間で、警察官を1万数千人増員する予定である(日本経済新聞、2000年11月2日)。もし、犯罪の実態が 変わらない中で、この増員が実現すれば、より多くの少年が、軽微な犯罪や非行で、検挙・補導されることになろう。 警察が、軽微な犯罪や非行を行った少年を、早期の段階で検挙・補導して、彼らに矯正教育や保護を与える 契機を与えることは、少年犯罪を減らすと言う目的から見ると合理的である。しかし、それを過度に追求すると、 それは、弊害を伴うことになる。例えば、普通の少年が疲れていたために放置自転車に乗っただけで、 警察に占有離脱物横領罪で検挙されたような場合、彼は、非行少年というlabelが押しつけられ、 自己のidentityが傷つけられる。日本の警察は、1997年には「強くやさしい」少年警察を、sloganとして掲げた。 もし「やさしい」少年警察をも標榜するならば、1990年代の前半に一度試みたように、普通の少年が 放置自転車を無断で乗るといった軽微な犯罪への検挙を、手控えるべきではないだろうか。 ところで、社会のおいて、実際に重大な犯罪や逸脱行動が、減少した場合には、どうなるか。 その時は、人々は、重大な犯罪や逸脱行動の周辺に位置する軽微なものに対する許容性を低めて、 それを積極的に統制すべき犯罪あるいは逸脱行動とみなすようになるであろう(Yokoyama, 1986:111)10)。 また、「いじめ」のように可視性が低い逸脱行動も、顕在化させて、統制の対象とするであろう。
犯罪や逸脱に対する人々の意識の変化と、法執行機関の活動の変化とはどのような関係にあるのであろうか。 一つは、人々の意識が変わり、それを反映して、法執行機関の活動が変わるという関係がある。 例えば、従来は性犯罪の被害者の女性に、男性の警察官が事情聴取をして、second rapeといわれるように、 その女性を再度傷つけることがしばしばであった。しかし、最近、犯罪被害者の人権の保障という 意識が高まるにつれて、警察は、従来の男性中心のやり方を改めて、女性警察官を積極的に活用して、 被害者女性の保護や、性犯罪を犯した者の検挙活動に、当たらせるようになっている。1990年代の後半に、 強姦の容疑で検挙された少年が増えたのは、このような過程によると思われる。 他方、法執行機関が活動を変えて、それが人々の意識を変えるという関係も存在する。 日本では、少年非行については、この関係の方が強かったと思われる。つまり、実態として少年の犯罪や非行は、 質的には、例えば、動機、行為の態様あるいは侵害した法益という面では、軽微化し、量的にも減少してきたと思われる。 しかし、警察は、毎年、その人的および物的な資源を増大させたので、非行少年に対する検挙・ 補導活動をnet wideningさせてきた。その結果、「遊び型」といえるような軽微な犯罪を犯した年少少年を、 大量に検挙することにより、少年非行は量的に増大したと、情報を流すことになった。また、少年による特異な 凶悪犯が起こると、それは新しい傾向の少年犯罪であると、強調するのが常であった。警察からこれらの情報を 提供されたmass mediaは、それが客観的に見えるために鵜呑みにして、そのまま報道し、 人々に犯罪の増大と凶悪化という現状認識をさせてきた。また、繰り返して報道することにより、 その認識を増幅してきたのである。そこで、警察は、世論の支持を得たとして、さらに、 犯罪や非行を犯した少年の検挙・補導活動を強化してきたのである。そこには、予言の自己成就といえるような、 一つの循環過程が見られる。 警察が情報を提供し、mass mediaがそれを流すことにより、人々は、非行少年の凶悪化と増大と いう認識を持ち続け、非行少年対策への関心を持続させた。その背景の中で、多くの人々が、volunteerとして、 非行少年の予防活動や処遇に関与し続けてきた
犯罪や逸脱に対する人々の意識の変化と、法執行機関の活動の変化とはどのような関係にあるのであろうか。 一つは、人々の意識が変わり、それを反映して、法執行機関の活動が変わるという関係がある。 例えば、従来は性犯罪の被害者の女性に、男性の警察官が事情聴取をして、second rapeといわれるように、 その女性を再度傷つけることがしばしばであった。しかし、最近、犯罪被害者の人権の保障という 意識が高まるにつれて、警察は、従来の男性中心のやり方を改めて、女性警察官を積極的に活用して、 被害者女性の保護や、性犯罪を犯した者の検挙活動に、当たらせるようになっている。1990年代の後半に、 強姦の容疑で検挙された少年が増えたのは、このような過程によると思われる。 他方、法執行機関が活動を変えて、それが人々の意識を変えるという関係も存在する。 日本では、少年非行については、この関係の方が強かったと思われる。つまり、実態として少年の犯罪や非行は、 質的には、例えば、動機、行為の態様あるいは侵害した法益という面では、軽微化し、量的にも減少してきたと思われる。 しかし、警察は、毎年、その人的および物的な資源を増大させたので、非行少年に対する検挙・ 補導活動をnet wideningさせてきた。その結果、「遊び型」といえるような軽微な犯罪を犯した年少少年を、 大量に検挙することにより、少年非行は量的に増大したと、情報を流すことになった。また、少年による特異な 凶悪犯が起こると、それは新しい傾向の少年犯罪であると、強調するのが常であった。警察からこれらの情報を 提供されたmass mediaは、それが客観的に見えるために鵜呑みにして、そのまま報道し、 人々に犯罪の増大と凶悪化という現状認識をさせてきた。また、繰り返して報道することにより、 その認識を増幅してきたのである。そこで、警察は、世論の支持を得たとして、さらに、 犯罪や非行を犯した少年の検挙・補導活動を強化してきたのである。そこには、予言の自己成就といえるような、 一つの循環過程が見られる。 警察が情報を提供し、mass mediaがそれを流すことにより、人々は、非行少年の凶悪化と増大と いう認識を持ち続け、非行少年対策への関心を持続させた。その背景の中で、多くの人々が、volunteerとして、 非行少年の予防活動や処遇に関与し続けてきた
結論から言いますと、私は現在の少年に対する刑法の適用のあり方が正しいとは思 いません。具体的には、より厳罰化を望んでいます。「厳罰化が犯罪の減少にはつな がらない」という意見もありますが、それはピントのずれた指摘だと思います。犯罪 が減るかどうかではなく、現在の法律が、もはや「悪法」と化しているからこそ、改 められるべきなのです。以前、マスコミ(確かに偏った報道も多い)を通じてではあ りますが、「少年法?‥‥ああ、子供だから罪にならないってやつね」と言い放つ 「少年」を目にしました。例として極端ではあっても、これが本音でしょう。実際、 罪を犯しても裁かれないという甘えた考えにあぐらをかいて、したい放題するのが 「強さ」だと錯覚している「少年」たちは、巷にいくらでも見ることができます。む ろん、いったん凶悪犯罪を犯せば、現実は決して甘くはなく、警察の厳しい取調べや 家族にまで及ぶ社会的制裁の厳しさに、世間の怖さを初めて知ることになるのでしょ う。しかしだからこそ、そこに至る前に抑止する仕組みが必要ではないでしょうか。 それこそが、被害者あるいは加害者となることを未然に防いでくれるのだと思いま す。そのためにも法律は、「なした悪事は報いをうける」ということを、明確な前提 として示さねばなりません。それが空文でないことを証明する必要があるのです。 「子供だから‥‥」とうそぶいたかの少年も、実際に責任をとらされる人間を見ては じめて――「強がって人を傷つけたりするのは割に合わないことだ」「子供だから罪 にならないってのは実はウソなんだ」――という現実を知るのです。それにしても、 よくある人権屋の無責任さは噴飯ものです。「きょういくひょーろんか」とかいう肩 書きの連中が言います、「子供たちの主体性を大切に!」。一方でこうも言います、 「まだ少年だから厳罰はいけない」。まったく、自分の行為の責任を自分でひきうけ る機会を否定しておいて、主体性も何もないだろうに‥‥。誤解のないように言いま すが、私は人権屋は否定しても人権は否定しません。「基本的人権」は、人類の偉大 なる発明の一つだと考えています。ただ、それは無条件に自然権としてあるものでは ない――
私はある授業で図書室に行き、読みたい本を選びなさいと言われ一冊の本を手にしま した。「少年に我が子を殺された親たち」という本でした。 まだ17才で無知な私が偉そうなことは言えませんが、以前から幾度も少年法の矛盾 を深く考えていました。子供から見てもきっと誰から見ても日本の少年法はおかしい のです。 いつもいつも残酷な事件の報道に怒りを覚え大切な肉親を奪われた人達の心情を思う のです。 ・・・けれどこんな言葉誰でも言えますよね、何の慰めにもならない。お気持ち分か りますなんて簡単に言ってはいけませんね。だから私に出来ることは事件を知ること 詳しく知ること、そう思い真剣に読みました。先生がその様子を見て言いました「う ちの生徒のことが載っている」ぱらぱらペ−ジをめくり私に示しました。 全身が冷たくなりました。 私の学校は此花総合高校といいます・・・ご存じですよね名前を変えた此花工業高校 です。武君が殺されるきっかけの場所。 この3年間、文化祭で事件のことをよく知らないまま黙祷を捧げていた自分を振り返 り、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。一年生の時、文化祭の始めに校庭に集まり ました。皆がワイワイ落ち着かない中、先生が声を張り上げて「静かにしろ」と言い ました。どうしてそんなに怒っているんだろう・・皆がいつも以上静かになりまし た。数年前に本校の生徒が、文化祭に来ていた他校の生徒に暴力を受け亡くなるとい う痛ましい事件が起こりました・・・。(そんなことあったんや)きっと一年生のほ とんどがその時に始めて知ったのでした。一人の人間の人生が奪われたということ は、時間と共に記憶からうすれさせてはいけないことなのにやはりそうなってしまう 実態がありました。皆、黙祷を終えた後文化祭を楽しみました。 本を読み進めるうちに他人事でない明日にでも友達が、家族が、自分が巻き込まれる かもしれない怖ろしい現実に身が震えました。自分の通う学校、教室、通学路、平和 な顔をした風景がほんの数年前に殺害現場になったことを皆知らなければいけない思 い出さないと・・。何も自分の学校の生徒だから、身近だから興味を持ったわけでは ありません。殺された人達の無念さを痛いほど感じるのです。被害者とも加害者とも 年齢の近い私です。
私は事件を知れば知るほど簡単に文化祭のシステムを変えて他校 の人をよぼうなんて口にしてはいけないんだと強く感じました。多くの生徒が「何故 他校の人を呼べないのか」と口にする。その背景を知ろうともしないで自分たちの欲 求だけ。 きっと平気で人を殺せてしまう人は人間ではなく、更正させる必要も保護される権利 もありません。数年後にのうのうと陽の光を浴び社会の中でたくさんの人生の選択が 出来、いくらでも笑い自分の足で地を踏みしめて歩けるんです。生きていることが全 てなんです命があることが全てなんです。それ以上大切なことなんてないんです。私 は生きていたいし生きていきたい。他人に命を奪われることも他人の人生を奪うこと もありません。 16才であろうと、また10才であっても人を殺すことがどういうことか判ります、 それがいけないことだなんて誰にでも判ることなんです。人は殴られれば痛い、死ぬ のは恐い、愛する人を奪われれば悲しくて苦しくて・・・そんなこと人間なら当然判 ることなんです。加害者は一生背中に罪を背負って死ぬまで償わなければいけない。 きっとそうして生きていくんだろうと思っていたのに、この本の中の話を読むと本当 にショックでした。少年法は見直しなんてこと言ってる場合じゃない。根本から作り 直すんです。 友達が言いました「難しい本読んでるね」 何がどう難しいんでしょうね、命の尊さと遺族の悲しみを伝える本のなにが難しいん だろう。 私は友達に武君の話をしました。話すことで知ってくれるならいくらでも話します同 世代の多くの人に知って貰いたいです。私はあえてたくさんの友人に、この本を見せ ました。なぜなら「女を取り合って喧嘩になったんちゃうん?」「ナイフで刺され たって聞いたけど」なんて言うからです。真実を知って欲しかった。ある子は私の手 から本を取り上げてずっと読み続けました。また別の子は「ひどい・・・」声を詰ま らせ、まスいつも陽気な友人は目を涙でいっぱいにしました。(そうだよ、皆真実を 知って、真実を伝えて、そうしてこの事を胸の中においていて−) ただの17才の考え事ですが自分の考えを誇れます。
ただ少年犯罪という問題を考えていく上で、少年犯罪だけを切り離して考えることはできないのでは ないかと近頃考えています。 私は今、仕事で障害を持った子供たちと接しています。 この仕事を始めて今年で3年目になりますが、仕事をしてつくづく感じることは「子どもはいつの時 代も変わらない」ということです。 十代半ばかそれ以降に凶悪犯罪を犯した少年だって、純粋無垢な時代は必ずあったということ です。 新聞の投稿欄などにも「最近の若者は・・・」という記事はよく目にします。 しかしそんなことを言ったら○阪市職員の厚待遇問題、社○保険庁の年金の無駄遣いなどに代 表される大人のモラルはどう説明するのでしょうか。 4月に起こったJR西○本の脱線事故では、会社の不祥事が次々と問題になり、会社は日本中 から批判を浴びています。 しかし我々はあの痛ましい事故を一つの会社の問題としてでなく、日本社会全体の縮図として 一人ひとりが当事者意識を持ち、真剣に考えていく必要があると思います。 時代の流れと共に代わったのは明らかに子どもを育てている大人であると感じています。 もちろんその大人とて昔は育てられる立場にあった訳ですから問題の根元はもっと過去にさか のぼると思いますが・・・。 要するに大人が子どもの見本にならなくなったということだとおもいます。 物事の商品化が進み、介護はおろか育児に関しても外注意識が高まってきた昨今。 河合隼雄氏は『父親の力 母親の力』(講談社+α)の中で家庭が家でやるべきことを何もせず、 その役割を学校に押しつけている親の状況を指摘しています。 「子どもの同級生が家に遊びにきたので、おやつをごちそうしたところ、おやつを期待してくるよう になり、負担でたまらない。うちの子どもも学校でおやつに関して注意を受けたことがないと言っ ているから、学校から、人の家に行ったときにはおやつを食べないように、という文書を全家庭に 対して出してもらいたい」
皆さんの意見等を拝見して賛成反対いろんな思いが脳裏に渦巻きます。 子供はいろんな環境の中学び成長しています。 家族が10あれば、10様の生活、躾、教育があることでしょう。 しかしながら、その中から不幸にも犯罪に手を染める人間が出てきてしまいます。 犯罪が一度発生すると、その行為者は法的に処罰を受け反省を求められたり、また、反省の余地がなければ極刑に処せられるのは当然の社会行為です。 その行為者が未成年だから軽くしてやるとか、許すとかはどう考えてもおかしい。 学校の中に於いて校則違反で厳しくするとか、温情で処置するとかなどと、社会の中の法律を同等に見ている人が多いことに驚きを隠せません。 悪意を持って行った身勝手な犯行が、自動車事故等の過失によって発生した加害者の受ける罰より軽いのが理解できないと言うことです。 乱暴にも交通事故と比較しましたが、まだ交通事故は保険によって賠償もなされます。 その上に、過失に応じて懲役も科せられます。 しかし、今のままでは少年犯罪は法があって無いようなものとしか言いようがない。 少年が犯ろうと、成人が犯ろうと罪は同じ、刑罰も同じが本当じゃないですか。 ただ、少年犯罪は成人犯罪と区別して行かなければならない事は罪を暴き刑を科すだけでなく、 その背景を厳密に調査し、原因を解明し、次の犯罪を防ぐべく教育のあり方、社会の中の少年のあり方を考える事が必要だと思うのですが。 みんな子供はもともと良い子ばかりと言っている人もいらっしゃいましたが、どんな悪いと言われる大人も、もともとそんな子供のうちの一人だったと思うのですが? 年齢で境をもうけ犯罪を区別するのは、正常とは思えない。 もし、低年齢の犯罪を考える時、その意志があったか無かったか、善悪の区別が付いたかつかなかったか、それを、裁判等で明らかにする方が現実的じゃないのかと思います。 長くなりましたが、これからどんどん犯罪の低年齢化が進みそうな中、生ぬるいことばかり言っていたら、混乱した怖いあれた社会になってしまうのでは。 最近の子供達を見ていると少し恐怖を覚えるのは私だけでしょうか?
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少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:25:10 0
しかし、私が事故にあったときに、母は何百万という金を出してくれました。 なぜなら、私の体を元に戻すために探し出した病院の検査を受けるため、手術を受けるために、病院を受診するのに 加害者側と加害者保険会社は「転院はできない。転院するのであればお金は払えない」と言ったからです。 交通事故の保険の場合、裁判上でも「特別な治療はできない。 普通の治療を受ける権利はあるが、特別な治療の費用はみる必要が無い」ような決まりになっているというのです。 実際に、後の裁判所でもそう言われました。 だから、母はすべての病院代金を用意する必要があったのです。 父は、私がいつまでもこの事故にとらわれて歩き出せないのが心配で「自分の手で裁判をしなさい」と言いました。 お金の心配はいらない。 すべてのお金は私が出す、と言ってくれました。 裁判には、数百万のお金が必要でしたが、母が出してくれました。 贅沢をせずに貯めたお金を、数千万円・・・・母は使ったことなります。 裁判は不当なものでした。 くやしくて、また、何度も死にたくなるようなひどいものでした。 その点では、少年犯罪被害者と同じだと思います。 なぜ、日本はこのような裁判制度しかないのでしょうか? 私は、医者も「信じられない奇跡」と言うほど、死なず、後遺症も克服して、普通の生活ができる状態に戻りました。 こういう状態の人で、自分の手で裁判をできた人間というのは、稀有だと思います。 少年犯罪被害者の方も、ご本人ではなく、家族の方がされますよね・・・・。 それでも、怒りは尽きないものだと思います。 また、裁判費用、弁護士費用の膨大なこと・・・・。 理不尽で仕方ないと思います。 加害者側には、そのような出費はありえないのに。 なぜ、被害者だけが虐げられなければいけないのでしょう? 私は、あのような酷い状態だった被害者として、本人として生きている稀有な例だと思っています。 これから、何か私と同じように、もしくは、被害者が亡くなってしまって、どうしても被害者の気持ちが分からない状態の世間に、 言葉を伝えていければ・・・・と思っています。
つまり人は本来(ネットやTV鑑賞等に於いては絶対に)自分の感情を他人のせいにはできない。怒りの矛先を少なくとも自分以外の誰かに向けるのは、筋も間も勘も気も思いも見当も御門も違う。 これに気付いていない人同士が互いに鏡となって矛盾を見せ合う行為が「争い」である 従って貴方が誰かに嫌悪感を抱いても、その原因は常に「貴方の持つ固定観念・定義付け」であって「相手」ではない。「生意気だから」「ムカツクから」等といういじめやその報復の言い訳も、全く言い訳にならないということである そもそも何を見てどんな印象を抱きどう感じるかは個人の自由である。もし貴方がその自由に制限を与えようと(例えば相手に自分の理想を押しつけようと)するから、その瞬間に貴方も不自由(苛立ちなど)を感じる羽目になるのである(人を裁けば自らが裁かれる) これが「貴方が与えたものを貴方が受け取る」という、この宇宙の仕組み(仏教で言う因果応報、物理学で言う作用反作用)である 逆に言えば、仮に貴方が誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ない 相手が幾ら貴方に罪悪感や劣等感を感じるよう仕向けたとしても上述のように御門違いなので、何ら貴方が自己嫌悪に苛まれるべき理由にならない(これは無論、迷惑を掛けたり失敗しても反省や訂正や改善をしなくて良いという事ではない) 感情自己責任とはいえそれを表現すべきではないという事ではない。感情は自己表現の一つであり自他共に己を知らしむチャンスなので、寧ろ積極的に感じたままを間を置かずに表現すべきである 実際、感情を抑圧する者ほどそれを爆発させやすく、感情の自己責任が取れていない者ほど他者の表現の自由を制限したがる(自分が傷付かなくて済むように) 自称知識人の多くは自覚がないが、「何かを批判・非難する」ということはその対象に関して中途半端な知識しか持っていない証拠である(無知の無知)。これが、批判・非難が一時的表面的解決にしかならず、実態は益々隠蔽され問題が長期化する所以である
私は現在の悪いことをした人間がやったもん勝ちみたいの世の中は悲しく変更が 急務だと思います。特にこの前刑法改正法案が国会に 提出されることになったそうですが、まだ妥当性を欠いた法改正だと思います。 というのは例えば集団強姦にしても下限が2年から3年に引き上げられたのですが、 果たしてそれで国民一般の方感情を満たしていると思っているのか非常に疑問です。 長い時間議論を重ね謝金や人の労力を考えるとこの改正にかかり大きな予算が動いていると 思います。その結果が1年の差というのでは能力無い人間の集まりと言わざるを得ません。 一番感じるのは先ほども少し述べましたが、一般国民の法感情と法改正にかかる専門家との 意識の莫大な乖離です。本当に常識ある人間が改正に携わってるとは思えません。 無能力であり常識を欠いた人間の集まりではないでしょうか。刑法が作成されたのは戦前であり、 いわゆるdueprocess法律の手続きが整っていないときの話でした。フランキー堺が主役で あったドラマ「貝になりたい」のようにろくに犯罪をしたという証拠もないのに警察官がでっち上げ で捜査を行い、それが判決になったあまりに妥当性を欠いた部分がありました。ところが現在では 凶悪犯罪が激化し、警察の捜査も現在の刑事ドラマにあるような、脅しのようなやり方の捜査は 実際ほとんどなく、不祥事を起こす一部の警察官のみが違法な捜査をしているのが実情です。 つまり今の刑法は現在の実情には全く合わないものであるわけです。 凶悪犯罪がさまざまと移り変わる中で、何十年も刑法の改正が行われないのは異常としか 言い様がありません。それを一部の専門家が気づいているのかは非常に疑問ですが、 相当の能無しといえるのではないでしょうか。少し言葉が汚くなりました。現在の刑法の根本は 社会の秩序維持と加害者の応報にあります。応報であるからこそ被害者を除外した冷静な裁判を 目指しているのでしょうが、本当に被害者は全く除外すべきなのでしょうか。 民事訴訟においては当事者主義が中心に据えられ双方の意見が重要視されます。 同じようにとはいいませんが、根本は被害者の気持ちではないかと思われます。 過ちを犯した人に対して死んでしまえというのが被害者の親族の率直な願いでしょうが、
今日、犯行に及ぶ少年たちは、自分が何を遣っているか充分に心得ており、仮に捕まっても自分が処罰されないくらいの ことは先刻、承知のうえで犯行におよんでいるのであるから、たゞちに刑法や少年法などの見直しが必要なのである。 我々はもっと現実を直視して、少年法や刑法に対する根本的な見直しを要求する声を発し、法律の改正に向けて世論を 高めていかなければ成らないように思います。 誤った人権思想や人道主義に傾倒し、現実を認識する事のできない司法官や弁護士先生などが目覚めるのを待っていた のでは、この国は安心して暮らす事のできない犯罪王国になってしまうのであるから、我々一般国民の側から声を発する 事によって、法律のことしか解らぬ司法関係者のエリート意識を打ちやぶり、法律の見直しや裁判制度の改革を迫っていく べきであろうと考えます。 また、この度の少年犯罪の場合も然うであるが、このような犯罪が生じた場合、すぐに犯人の精神状態が問題にされ、 精神鑑定が実施されることになる。 その結果、精神に異常がみとめられ、犯行当時に善悪の判断ができない状態にあった となると、途端に犯した罪を法律で裁くことが出来なくなって無罪になるという扱いも、納得のいかないところである。 精神の錯乱によって善悪の判断がつかなかったのだから仕方がないと言うのなら尚のこと、善悪の判断もできぬ精神異常 者を野放しにする事の危険性は、判りそうなものではないか… 一見、常人と区別しがたい精神異常者が、すれ違いざまにいきなり刃物を取り出して襲い掛かって来たとしたら、誰がそれを 避けられるであろうか… そんな危険な人物は、たとえ一生涯を費やそうとも、精神の異常が完治するまで完全に社会から隔離しなければ成らぬの である。 今の世の中は麻薬や覚醒剤によって精神が錯乱している人間や、ホラー映画や俗悪なコンピューターゲームなどの悪影響を 受けて、邪悪な心の世界に陥ってしまった精神異常者が至るところに存在するのであるから、いつ何どき危害を加えられない とも限らぬのである。 けれども、そのような精神異常者が事件を起こしたとしても、彼らの行為は犯罪とは見なされず、刑罰を科される事がない。
未成年犯罪者の気持ち、私には分かるような気がします。 ただ、もちろん全ての件に関して、と言うわけではありません。 私は現在、成人している学生の身です。時代が変われば、子供達の気持ちも変わりますから、私の年代とは、違うのかもしれません。 ですが、私は小学校時代。俗に言う小学校上級生の間に虐待を受けていたと感じる時期があったのです。 それゆえに、犯罪に走ってしまう、子供の気持ちが・・・正確には気持ちではないのかもしれ ません。走ってしまった理由が分かる・・・これも言葉として適切とは思えません。言葉にするのは難しいですね。私が20数年生きてきた中での経験を元に、なんとなく感じとってしまったこと。と言う感じです。 どんなことがあったかって言うと、ある日、あの時、あの場所でーーー私の家族に不幸なことが起こったんですね、これが。(途中は省きます。身内の恥をさらすようで嫌なので) 結果、どうなったと言うと、父親は外に愛人を作り、週に2〜3回は家を留守に、母親はその怒りを私にぶつけるようになりました。父親には腕力ではかなわなかったらしいのでね。 色々あって、塾にもいかされていました。 さて、どうですかね? 小学校高学年の多感な時期、ほとんど毎日塾にいかされながら、家に帰っては暴行を受け、両親におまえの父・母とは暮らしていけない。離婚する。と愚痴をこぼされて生きていました。 リストカット。あれも、やろうと何遍も手首にカッターを当てました。まぁ、幸いにして臆病者だったので、切れませんでしたが。 塾にいかされながら、と書きましたが、これも嫌だ!と言う度に殴られるので、御話しになりません。 いつしか、私立の中学校にいくのが当たり前だと思ってました。 ですが・・・なんなんでしょうね。六年生のある日、両親が正気に戻ったのか・・・ 私に悪いと思ったのか・・・ 何があったのかは分かりません。ただ、とにかく二人に心境の変化があったのは確かなんです。 私はその日、いつものように塾にはいきたくない!私立の中学にはいきたくない!と親に泣きながら反発しました。
非行少年の質的分析 法務総合研究所では,最近の非行少年の質的分析を行うため,非行少年に対する意識調査 (以下「非行少年調査」という。),非行少年の保護者に対する意識調査(以下「保護者調査」という。 )及び少年院教官に対する最近の非行少年に関する認識についての調査(以下「少年院教官調査」 という。)を実施した。その結果を踏まえた最近の非行少年の処遇上の留意点は,次のとおりである。 (1) 人の痛みに対する共感性を育てる処遇 日々,非行少年と行動を共にし,その改善・更生に取り組んでいる少年院教官の60%以上が, 最近,非行少年の抱える問題の中身が変化していると感じ,教官の70%以上が,その変化によって 非行少年の処遇が困難になっていると感じていた。そして,多くの教官が処遇において最も困難にな ったと感じていたのは,「人に対する思いやりや人の痛みに対する理解力・想像力に欠ける」, 「自分の感情をうまくコントロールできない」といった非行少年の感情・情緒に関連する資質面の問題 であった。 他方,近年,被害者やその親族の心情等について一層の配慮を行うことが求められており, 加害者である少年が自らの犯罪と向き合い,犯した罪の大きさや被害者の心情等を認識し, 被害者に誠意をもって対応していくよう指導を一層充実させることが要請されている。 こうした最近の非行少年の資質面での問題や社会からの要請を考慮すると, 加害者である少年が事件を悔い,反省し,償うためには,人の痛みに対する共感性を育てる処遇 を強化する必要がある。そのためには,基本的な生活の安定や考える力を養う訓練を積み重ねた 上で,人に対する信頼感や思いやり等の暖かい心を回復させるために,自分たちの非行やこれに 関連する自らの体験,感情等を見つめ直させ,加害者として人に与えてきた痛みについて考えさせ ること等に重点を置いた系統的な処遇プログラムを展開していく必要がある。それによって,誠意を もって被害者と向き合い,謝罪等の適切な対応を行うことが可能となろう。 矯正・更生保護の処遇の現場では,被害者の視点を取り入れた教育等の充実強化が従来にも増 して強調され,非行の反省をさせるだけではなく,社会の中で様々な人たちと対話でき,共に生きて いけるように
「いじめはした人間が悪い」これはいつの時代も未来永劫普遍の価値観であると思っております。 加害者、また、その加害者を永きに渡って養育してきた親や学校、事実を歪曲した報道、警察、 これ全て鬼畜でありこの世の中で生きる価値、少なくとも「健康で文化的な最低限度の生活」を 保障されるに足る価値はないと率直に感じております。 少年法により軽い罪で社会復帰し、また、再び通常の社会生活を送らせることに価値は まったくないと思います。無期懲役で十分ではないでしょうか? 懲役であれば作業等で少しは役に立ちますし、社会から隔離しておくことで再犯は確実に 予防できます。そしてなによりこういった少年犯罪加害者予備軍への見せしめとして社会へ、 いうなれば「児童の健全な育成」に貢献できると思っています。法によって物事の道理が規定 できないのであれば法としての役目は全くございません。書籍の中であげられたどの事件に おきましても「落とし前がつかなくなった社会」に対しての無力感を感じさせられるばかりです。 私が卒業しました福岡県立太宰府高校におきましても在学中いじめの問題があり、 いじめ主犯格とその数人が停学処分を受けました。いじめこそしなくはなりましたが、 その後もこのときの連中の態度は一向に改まることはなく、被害者の生徒は学校の片隅で 背中を丸めた学生生活を余儀なくされておりました。書籍のような命にかかわる大きな事件に ならなかったことを考えれば、この状況はまだ許せるのかもしれませんが、悪いことをした人間が 「犯した罪と等価値の罰」に対してけじめをとったかということが常に私の胸中にささくれのように 残っております。私が卒業しすでに15年以上経過しておりますが今の世の中、ことこのいじめの 問題につきましてはなんら根本的な解決策が講じられていないものと痛感します。 大人の嫉妬社会がそのまま刷り込まれた「子供のいじめ問題」、まずは大人自身が他人に 嫉妬することなくよりよく生きることができるよう努めるべきであると思っています。
もちろんその考えは基本的には今も変わっていません。 ただ少年犯罪という問題を考えていく上で、少年犯罪だけを切り離して考えることはできないのでは ないかと近頃考えています。 私は今、仕事で障害を持った子供たちと接しています。 この仕事を始めて今年で3年目になりますが、仕事をしてつくづく感じることは「子どもはいつの時 代も変わらない」ということです。 十代半ばかそれ以降に凶悪犯罪を犯した少年だって、純粋無垢な時代は必ずあったということ です。 新聞の投稿欄などにも「最近の若者は・・・」という記事はよく目にします。 しかしそんなことを言ったら○阪市職員の厚待遇問題、社○保険庁の年金の無駄遣いなどに代 表される大人のモラルはどう説明するのでしょうか。 4月に起こったJR西○本の脱線事故では、会社の不祥事が次々と問題になり、会社は日本中 から批判を浴びています。 しかし我々はあの痛ましい事故を一つの会社の問題としてでなく、日本社会全体の縮図として 一人ひとりが当事者意識を持ち、真剣に考えていく必要があると思います。 時代の流れと共に代わったのは明らかに子どもを育てている大人であると感じています。 もちろんその大人とて昔は育てられる立場にあった訳ですから問題の根元はもっと過去にさか のぼると思いますが・・・。 要するに大人が子どもの見本にならなくなったということだとおもいます。 物事の商品化が進み、介護はおろか育児に関しても外注意識が高まってきた昨今。 河合隼雄氏は『父親の力 母親の力』(講談社+α)の中で家庭が家でやるべきことを何もせず、 その役割を学校に押しつけている親の状況を指摘しています。 「子どもの同級生が家に遊びにきたので、おやつをごちそうしたところ、おやつを期待してくるよう になり、負担でたまらない。うちの子どもも学校でおやつに関して注意を受けたことがないと言っ ているから、学校から、人の家に行ったときにはおやつを食べないように、という文書を全家庭に 対して出してもらいたい」
子供の私から見ても今の日本はおかしいと思います。権利は、責任を果たしている人だけに 叶えられるべき特権であって、人として失格な人には与えられるべきモノではありません。 なので、人権は被害者に与えられても、加害者に与えられるべきものではないです。 それなのに、今の日本では、被害者のプライバシーは守られていないのに、 加害者のプライバシーは異常なまでに守られています。普通、逆はあっても、 こんな変なことってありません。 それに、犯人が少年だからって、やっていい事と悪い事の区別くらいつくはずです。 それくらい、一般常識をもっている人なら誰だって分かるはずです。犯人の年齢が、 言い訳になるわけじゃないです。いくら小さい子でも…たとえば、幼稚園児でも…人を殺すこと、 人を傷つけることは悪いと知っているはずです。なのに、十二歳以上の人が、そういう事をして、 「子供だから」という理由で罰せられないのはどうかと思います。 確かに、大人ほど自分の行動や言動に責任は取れないかもしれません。 けれど、いくら子供でも、罰せられるべきことをしたら、きちんとした処罰を受けなければならないと 思います。そうじゃないと、被害者の方も家族も浮かばれないですし、犯人自身の心も育ちません。 罪を償って、自分がしてきたことを見つめなおし、何が悪かったのか、命の大切さを、 もう一回考える必要があるのです。 今の少年法だと、被害者の遺族にさえ加害者の名前などが明かされていないようです。 確かに、世間一般に知らせるのは酷かもしれません。加害者にも、未来がありますし、 将来世間に受け入れられないと、また犯罪に走る可能性があるからです。 けれど、遺族の方にくらい犯人の情報を教えるべきだと思います。遺族の方は、 大切な人を奪われたんです。理不尽な奪われかたをした命、奪った人のことくらい知るべきです。 子供ながら、少し生意気な口を利いているかもしれません。けれど、 私は本当にそう思うのです。私には遺族の方、被害者の方の痛みも苦しみも知りませんし、 第三者の私の意見など、きれいごとに聞こえるかもしれません。 けれど、やりきれない思いを持っているのは自分たちだけではないことを、 少しでも知っていただけたら幸いです。
どの少年犯罪も いや、全ての犯罪者に言える事は『反省で戻る命無し』です。 ふと、PCを持った時犯罪関連を興味本意で見ました。あれこれ目にして気分が悪くなり ました。犯罪行為の内容では無く、自分の興味本意な感情に気分が悪くなりました。 これ程までに辛く悲しく無念な人生の幕引きとなった被害者はもとより、その御家族に ひどく失礼な興味という感情を持った事、まずはお詫び致します。 私にも、二人のまだ幼い子供がおります。とても愛しいです。しかし私自身親の愛情に 恵まれぬ環境に育ち、決して順調な養育環境や精神衛生を保てぬ中生きてまいりました。 しかし今だ一度たりとも人を傷つけた事はありません。そんな私からすれば今何故これ程までに 少年犯罪が増え、また普通の家庭や普通の子と言われる人が償いきれぬ凶悪かつ残虐な 行為の果ての殺人を事も無げに容易く犯すのか理解出来ません。 昔の盗みは食うや食わずの生活の果てや、殺人も理不尽な処遇の結果が大半でした。 しかし、いかなる事情の答えであっても全ての罪に言い訳は無いと思います。 私の子供が同じ不幸にあったなら地の果てまでも追い掛けて同じやり方で加害者を殺すと 思いましたふとそんな情景を4歳の息子の寝顔に重ねて見ました。物書きである想像力が災い して余りにリアルに映像化された無惨な我が子が浮かんだ瞬間吐きそうになりました。 心臓の奥がキリで突かれた様に痛み息を吸う事さえ辛くなりました。 これが現実ならば復讐出来る気力などなく簡単に精神を病み壊れて現実逃避しか 出来ないと思いました。それを今現実に受け止めて日々をお暮らしの被害者の御家族の心情は、 何を以てしても想像もつかない程辛く厳しいものです。そして次に浮かんだのは加害者が本当に 更正してまともな感覚を取り戻し罪を悔やんだなら各施設を出た後生き続ける気持ちが有るなんて 全く理解出来ない。死にたくなるだろう。気が振れるだろう。自分の恐ろしさに気付き、 被害者の痛みや苦しをありありと感じたら謝り、反省してもどうにもならないと思い死を 自ら選ぶだろう。 誰も反省してない。加害者は反省しても命は戻らず、悲しみと苦しみは消えない。
彼らは少年育成の更生等と綺麗事ごとで罪を清算できるような人間ではありませ ん。彼らはいかに逃げ道を作るか、そして、いかに自分のいいようにこれからを生き ていくことししか考えていません。(確信を持って)彼らは弁護士という存在を都合 のいいものとしか考えておらず、裁判官、少年院ではいかにも更生してこれから真面 目に生きていくと言っておきながらしゃばにでれば、もと通りに戻ってしまいます。 以上の事から考えても、人の生命を奪った人間及びそれに近い行為(強姦、監禁等) を犯した人間には死刑を与えてるべきです。そして実名公表を!!自分のやったこと は家族、親戚にも迷惑をかけるのだということを絶対しらしめるべき。また、民事裁 判においても彼ら自身に損害請求をおこなうべき。暴走族の行為で迷惑のかかる車 (特に運搬関係)には会社自体彼らの行為で倒産になりかねない。これほど泣き寝入 りしている被害者が多い国は資本国では日本ぐらいではないか?極端なことを言えば 彼らは人間の血が流れていない悪魔といっても過言ではない。こんな悪魔を助長させ てしまえばそう遠くない将来日本は必ず滅びる。 今の不況、治安の悪化は無責任な 人間(訳のわからない権利意識の高い、協調性のない人間)の増長がもたらしている 部分もあるのではないか?その象徴がいまの少年だと思う。学校でも昔は間違った方 向に行けば、先生が顔を殴ったものだった。いま、それをすれば、親がしゃしゃりで てきて教育委員会、最悪、マスコミに報道され教職生命がいとも簡単に奪われてしま ういまの日本。これでは、思い切った仕事ができない先生はあまりにも気の毒である し、ますます、つけあがる子供が絶対増えてくる。学校のルールを守れない奴に世間 のルールが守れるのか疑問だ。今、日本はすべて(警察、学校等)において悪化の一 途をたどっている。いまこそ、みんなが団結、助け合って日本全体を救わなければな らない。それには将来を担う少年の健全育成は不可欠である。いまこそ(特に治安の 悪化に手を貸しているとしか思えない一部の弁護士は特に)みんな目をさましてみん なが笑って生活のできる環境を築いていこう。
前科持ちの少女って、所詮性根腐りきってるヤツなんです。 大人に成ったって、ちっとも良くはなりませんよ。 それどころが、大人の「ズベ公」として、一生立ち直れずに、悪女街道まっしぐらに なることがほとんどだと聞きます。 これも、日本社会が犯罪少女に対し少年のそれよりもはるかに 甘すぎる政策や世間の目があるのではないでしょうか? 女は前科持ちになることでの社会的な立場でのリスクは男のそれよりかはるかに少ない。 仮に就職できなくても、風俗業界に身をやつすことがまだ「最後の選択」として残さ れているし、「男にこびを売る」という女の武器で比較的簡単に結婚に持ちこめる し、それによって戸籍も洗える(名前を変えられる)し、それによって「過去」を抹 殺して生きていける。 (まぁ、彼女らにしたら風俗業界にいく事自体、一般企業への就職と同じ位軽いこと に思ってるんでしょうが) こんな理不尽を許していいですか? ここまで世間の男たちも、彼女らを甘やかしていいのですか? こんな女は、所詮ダニみたいに男にパラサイトして、さんざん搾り取った挙句、ボロ ボロにつぶすだけの迷惑な存在なんです。 就職はおろか、結婚なんてする資格なんてありません! 就職したって、またその職場で他の社員に同様の危害を加える可能性も高いですし、 第1そんなリスク高い女を雇えますか? 下手しなくても、「犯罪少女を雇った会社」という悪評は、あっちこっちに流れます よ。不況で大変なときだというのに。 ましてや結婚だなんて抜かすことがそもそも間違ってます。 こんな女に結婚されて、身内に入られたらそれこそ親戚一同、みんな間違いなく「村八分」にされます! それくらい、常識でわかるはずなんですけど、奴ラにはそんなことはちっとも通用し ないでしょうね。 「相手が悪い。自分は悪くない!」ってうそぶくんでしょうが。 私は、まだ子供をもってはいないですが、もし自分の息子が、こういう前科持ちの 少女と結婚したいといってきたら、彼女の前科内容すべてを話し、いかに彼女が犯罪 を平気でやる卑劣な女なのかをきちんと説明した上で、どんな手を使ってでも二人の 仲をひきさいて、徹底的につぶします。 それが、親としてなら当然の行動でしょう。
今日、私は破防法関連の本と、犯罪報道関連の本を図書館から借りてきました。私は 速読を繰り返して理解する質ですから、精読した、とは言えませんが、読んでいく中 で報道問題と被害者の中でどうしても気になった現象があるんです。 それは報道被害とか、破防法問題とか、何でもかんでも「被害者!被害者!被害者! 被害者!!」と叫ぶ方々です。いや、それが被害者保護<生活の保護、カウンセリン グなど>が小さいから、その実現をすべきだ、という主張なら大いに理解できます。 ところが、あるのは「人権の勝手な制約や差別」を中心とした「主張」を「被害者を 盾にして」正当化することです。 @報道の段階で、容疑者の名前と抱き合わせて嘆き悲しむ被害者やその遺族を報道 し、容疑者への憎悪を煽るやり方が指摘されています。<岩波ブックレット「犯罪報 道」より> A冤罪で無罪判決を受けた人が別の件で有罪、無期懲役判決を受けた際のコラムよ り。 「前の事件の遺族はさぞかし無念であったであろう。NHKラジオで桂敬一氏は本件のO 問題<Oは名字、呼び捨て>を書いたこの欄を批判的に論評していた。だが何度でも 書く。なによりも被害者の人権こそ尊重されなければいけないから「犯罪報道の犯 罪」<浅野健一氏が犯罪報道にスポットを当てた初の本の題名と同じ>などといって 加害者ばかり擁護するのはバランスが取れていない」 <産経新聞、要約> B松本サリン事件被害者のKさんの家には、「被害者が哀れだ、とっとと吐いたらど うなんだ」式の嫌がらせ電話がかかってきたと。 などなど。 こうやって、何かあるたびに、人権制約・秩序維持・果ては対被疑者差別の政治的主 張の口実として被害者を担ぎ出す連中がいると思います。将来起こる被害者の人権、 勿論これは擁護されなくてはいけない性格のものであるはずです。ただ、それのため に現在の人権を制限することはなかなか出来ないし、極論ですがこれによってあなた たちはそうした疑いからくる人権の制約から守られている、とすら言える訳です。彼 等は、これを覆い隠すために、反対しにくい「被害者」を盾にして、冤罪の無罪判決 などを検察ほどに証拠を持っている訳でさえないのに否定して人格攻撃をするんじゃ ないでしょうか。
また、例えこれが邪推である、としてもこれは被害者や遺族のためにさえなっていま せん。ある事件で、いかにも犯人であり、また凶悪であったかをマスコミによって書 かれた<勿論事実無根>容疑者の人に長期の裁判の後無罪判決が下りた後、遺族はほ とんど何もコメントしなかったと聞きます。私が思うに、今まで怒りの対象としてき たものを失い、空虚な感情に浸らされていたんではないしょうか。本を読んだ限りで は、そんな印象を受けました。鈴木さんのおっしゃる通り、拭えない悪意を植え付け られてしまった遺族達は、おそらくもう出てくることのないであろう真犯人を恨むこ とも出来ず、心の整理がつかないまま一生葛藤に悩まされるのではないのか、と思い ます。 そして、前述した似非な被害者派こそ、被害者論を反動からか一方的に切り捨てるよ うな考え方の一因になってはいないか、と感じます。「被害者・遺族」と言うのは現 実に悲しみをしょっているだけに批判しにくいものです。<それでもくるのは私のよ うな鈍感<?>な人種くらい、後は何かと言うとすぐ反発したい人、私も?>同情な らすぐ集まりますし、被害者の人権を言わば印篭のように用いると、黙りこくってし まう人は多いと思うんです。私は、人権を印篭のように使ってもいい、とは言いまし たし、それはそれで印篭としての効果を発揮しますが、それならば「加害者」、まし てや「被疑者」はては「冤罪者」の人権の印篭を叩き切る<要するに、私が言ってき た被害者以外の者の言い分を一切認めないだけの論拠となる>ような力などないはず なんです。それなのに、「被害者は泣いているぞ!」と言って「あいつは有罪だろ う」「被害者が悲しんでるから何をやっても良い」等と言うことの政治宣伝に使われ てるんです。もし、悲嘆に暮れる被害者と、「俺はやってない!」と叫び、一方で警 察側が提示した<警察・検察だけが証拠となると思っている>証拠を並べられたら… ?。普通「あいつが犯人だろう、なんて悪い奴なんだ」と思いますよ。「まだやって ないかもしれないから…」と言えるのが理想ですが、そんなのは無茶でしょうね。
学校でのいじめが問題化するようになったのは1980年代以降であり、校内暴力が鎮静化した1983年ころから 注目されるようになった。1985年には発生件数がピークに達し、いじめに起因すると見られる自殺も増えていった。 特に「葬式ごっこ」でその異様さが注目された中野富士見中学校の鹿川君事件(1986年)、山形県新庄市での 児玉君マット死事件(1993年)、愛知県尾西市での「同級生にいじめられ、110万円以上の現金をとられた」と いう遺書を残して自殺した大河内君事件は衝撃的で、以来、衆議院文教委員会での「いじめ問題集中審議」、 旧文部省の「いじめ対策緊急会議」の緊急アピールと報告、首相官邸での「児童・生徒のいじめ問題に関する 関係閣僚会議」の開催など、政府・文部省をはじめ関係各省庁や各教育委員会の対応が活発化することになった。 1997年10月に埼玉県鳩山町町長が町の広報誌上で「いじめの標的になる子は意志薄弱」「いじめられっ子には 友達がいない」といった持論を展開し、いじめられる側に問題があると主張して波紋を広げた。ここでは、 「いじめの標的になる子を見ると意志薄弱で、生活に独立独歩の毅然たる態度がない」「いじめに全く反抗しないから いじめ甲斐があり、エスカレートする」「いじめられた時、直ぐ相手に飛びかかっていける子には、二度と手を出さなくなる」と 書かれてあり、保護者の間から「いじめ被害者への責任の押し付け」「町長の考え方は強者の論理。基本的な 人権意識さえ欠落している」という非難が出た。これに対して町長は、「批判は結構だ。きれいごとだけではいじめは なくならないので本音を書いた。いじめられる側に問題がないというのは建前論。必ずいじめられる原因があるのだから、 それを取り除くのが基本だ」と話している。ちなみに旧文部省の「児童生徒の問題行動等に対する調査研究協力者会議」が 1996年にまとめた、いじめ対策の報告書では、いじめられる子にもそれなりの理由があるという考え方を 「一掃しなければならない」としている。 いじめやいじめに起因する自殺が頻発した1980年代、いじめは日本特有の現象で、過激な受験競争や 管理主義教育のプレッシャー、弱者や異質性に対する不寛容さや思いやりのなさ、人権意識の未成熟などに 原因・基盤があると言われた。
1990年代になると、ノルウェーやイギリスなど他の先進諸国でも同様に見られる 現象だということが知られるようになり、1996年6月には旧文部省と国立教育研究所の主催で「いじめ国際問題シンポ ジウム」が開催された。例えば、ノルウェーでは1970年前後からいじめが深刻な問題となり、1978年には心理学者の オルウェーズの研究が公表され、旧文部省の主導で全国的ないじめ対策が講じられてきている。 また、イギリスでも1970年代後半から問題化し始め、1980年代にはいじめによる自殺が相次ぎ、シェフィールド大学の いじめ防止プロジェクトを始め、多数の調査研究が行なわれて、教育省もいじめ防止のための教育指導書を作成・ 配布するなど、種々の対策が講じられているのである。いじめは日本固有の現象ではなく、人間としての弱さ・犯罪性に 関わるものであると言える。 年間30日以上学校を休んだ不登校の小中学生が1997年度に初めて10万人を超えた。不登校が増えた背景として、 いじめや学業不振などの問題の他に、学校も家庭もそれほど登校にこだわらなくなりつつある点が指摘されている。 また、従来からの引きこもり型の不登校だけでなく、ささいな理由から学校を休み、不登校に罪悪感を持たない子供たちも 増えていると学校関係者は見ている。ちなみに旧文部省は1992年に、「問題行動の1つ」と見ていた不登校を「どの子にも 起こりうるもの」と定義し直し、「学校は児童生徒の心の居場所としての役割を果たすことが求められる」などの見解を 各都道府県に通知、さらに校外の公的機関や一定の条件を満たす民間のフリースクールに通う子供たちを出席扱いに 認めるなど、不登校に比較的「柔軟」な路線に転換している。これを機に現場の指導は、「ともかく学校に戻す」から 「無理に学校に来なくてもいい」というスタンスに徐々に変化していき、「明るい不登校」(学校を欠席しながら塾には通ったり 、友達と遊び、買い物に出かけたりする)が増えていったものと考えられている。 いくつかの教育機関では不登校の子供像をいくつかのタイプに分けて分析しているが、かつて多かった (1)まじめで過敏、緊張しやすく内向的、(2)逃避的で幼く、耐える力がない――という2つのタイプに代わり、 両者の特徴を併せ持った子供が増えているという。
教師が後の席の子を叱っただけでショックを受けるほど 傷つきやすい一方、わがままで我慢することができない子供もいる。 不登校の子供達のタイプも様々なだけに、子供達が学校の代わりに通う民間のフリースクールが、 情報交換のネットワーク化を図る動きも出ている。 旧文部省の「学校不適応対策調査研究協力者会議」は、1992年に「登校拒否(不登校)問題について−児童生徒の 『心の居場所』づくりを目指して−」と題する最終報告書をまとめ、「登校拒否はどの子にも起こりうる」という視点に立って、 学校が子供にとって自己の存在感を実感でき、精神的に安心できる場所(心の居場所)となることが重要である、と指摘した。 また、「登校拒否の子供にとって重要なことは、単に学校に復帰することではなくて、自らの努力で問題状況を克服し、 自立する力を身につけることである」として、家庭・地域社会や学校外の諸施設と連携することの重要性を強調した。 一方、保健室登校が増えてきており、ある中学校では生徒が1時限の間に保健室へ100人も押しかけるという事態も 生まれている。何らかの心的理由による場合がほとんどであるため、不登校と同根の事象として、保健室・養護教諭の 役割に対する期待が高まっている。 また、学校で児童生徒の生活上の問題や悩みの相談に応じ、指導・助言を行なう存在として、スクールカウンセラーがいる。 アメリカの学校では、進路指導と学習面の問題を担当するガイダンスカウンセラー、生活上の諸問題を担当する スクールカウンセラー、精神的問題を担当するスクールセラピストが区別されているが、近年の日本では2番目と3番目の 意味で用いられており、いじめや不登校への対応として導入されている。 増え続ける小中学生の不登校対策で、構造改革特区への対応を検討していた文部科学省は、引きこもりの子どもに 限ってインターネットを活用した自宅学習を認める方針を出した。同省は1992年から学校復帰を目指すフリースクールなどに 通う場合は、校長裁量で出席扱いにしてきたが、今回の弾力化でインターネットの学習を提供する場合も含まれることになる。 小中学校は対面授業を前提にしていたが、その枠を緩める意味もあり、これによって自治体が取り得る対応策の幅を 広げることとなる。
スウェーデンは、確かに犯罪率が他より相当高いようですね。<ヨーロッパ連合編纂 の統計より>ここより高いのはアメリカくらいのもので、10万人中の殺人率を見て みても、スウェーデン7〜9、イギリス2〜3、ドイツ4〜5、となっています。そ の他犯罪率全体でもスウェーデンは他よりかなり高くなってますね。もっとも、犯罪 全体から見れば凶悪犯罪の率はむしろ小さいとも思いますが・・・。 しかし、高い犯罪率が報道が原因か、と言うのに疑問を呈する余地もまた出てきまし た。まず、報道が抑止力と「特に」なるであろう凶悪犯罪が増え出したのは1950 年頃<「犯罪報道の犯罪」より>です。スウェーデンの匿名報道は20世紀初頭には もう一部制度化されてました。いろんな報道改革の節目節目で増えた、と言う事はな く、ずっと少しずつながら増えてきています。1995年までの殺人率の資料なんか 見ても恐いくらい規則的な感じの増え方です。また、麻薬犯罪に関して言えば匿名報 道の原則から外されていますし、社会的な利益に関わるものであればインサイダー取 引で実名になった例もあります。公人の犯罪<特に、看守に殴られたとか>に関して 言えば日本より厳しいです。害を受ける家族がいない、自供があると言う事で報道し たケースもあります。少なくとも匿名べったりと言う事ではなく、ゆれているのも今 のスウェーデンの報道の現状のようです。現に、報道評議会で顕名報道が認められる ケースも増えているそうです。 そして、ここに注意して欲しいのですが、スウェーデンほどではないにしても匿名報 道制をしく<1年以上の拘禁の時で、報道に社会的利益が認められる場合のみ報道、 匿名率は高く、74年までのスウェーデンの報道と同じ水準>隣国フィンランドの犯 罪率は低く、殺人率は上記と同じ統計を見ても日本と大差ない10万人中1人前後。 スウェーデンだけ見れば小田教授やあなたの結論も出るでしょうが、スウェーデンに 準じた<記者はスウェーデンより上品な紙面であると胸を張っているそうだ>匿名報 道をするフィンランドは重大犯罪が多いとは言えない<麻薬なども調べましたがそう でした>、むしろ少ないくらいですから、制裁報道不在が原因で犯罪率が高い、と言 うのにはやはり賛成いたしかねます。
また、フィンランドもスウェーデンも報道する 場合は、家族に累が及ばぬよう最大限の考慮をしているそうです。 また、実名報道に関してのスウェーデンの方の考え方について、多少ここに記してお きます。 「私達も日本のマスコミの犯罪報道はひどすぎると思っている」スウェーデン大使館 の書記官 「民主社会の報道機関の使命の一つは、社会における権威や権力者を批判的に観察す る事にある。<中略>それに対して、公的活動をしていない一般市民に関しては、犯 罪の種類にかかわらず、氏名、写真、出身地が存在すると認められる事はごく稀であ る。氏名の発表をすれば、刑務所で服役してからの社会復帰を困難にする。<中略> 犯罪に対する処罰は法廷で下されるものであり、新聞が晒し者にすると言う罰はあっ てはいけない。」スウェーデンの元プレス・オンブズマンであるカーシュ氏 「実際には実名報道したからと言って効果はない。実名報道主義を取り死刑もあるア メリカの殺人発生率は、スウェーデンの何倍もある。犯罪の多少は新聞の報道スタイ ルや死刑の有無で左右されるものではない。」スウェーデン警察庁広報官ラーシュ・ イルムスタード氏 スウェーデンの人の意識は警察関係者さえもこんなにも違っているようです。フィン ランドでもそれは一緒で、「新聞による裁判に反対する」「フィンランドでも昔は、 実名報道の犯罪抑止効果が強調されていた。しかしそれが正しいなら、どの国もどん どん犯罪が減少していかなければならない。」 そう言えば、無罪率が増えたのと人権派を結び付けてアメリカが犯罪大国になったの は…と言う小田教授の文言までも見つけました。ふざけています。無実の人間の尊厳 を汚してまでの秩序なんて大嘘もいい所だと思います。<私は無罪判決が出た人間は どんなに疑わしくても無実と思うようにしていますし、そうあるべきと思います>お そらくここにいる方の大半は、そういう考え方には反対の事と思っています。 また、憲法の「公共の福祉」は必要を超えた罰を科す理由にはなっていない、と言う 点も、知って欲しいと思います。同じ憲法でも、残虐な刑罰は禁止されてましたね。
さて、焼き討ちや差別、やる奴が悪い、と言うのは簡単ですし、何よりその通りだと 思うんですが…。まあ差別はともかく、焼き討ち!なんてことは日本では起こらない でしょう。<集団で家を取り巻いて罵声を浴びせる連中はいるようですが>しかし、 外に出てくると拒絶反応を示してしまう、これが社会ですよね。匿名報道が市民的支 持を得ているスウェーデンでも、名前が知られたために家族が差別するケースは実在 しているそうですし、今実名報道が始まれば受け入れるのではないか、前回も挙げた トシュテン・カーシュ氏の言葉です。 確かに、そういう事が起こらない社会なら実名報道してもいいでしょう。しかし、そ れが実現できるでしょうか。そんな社会は私たちの生きている間には実現しないだろ う、と言ったのは例によって浅野教授でした。例えば、部落差別の問題は、戦前から 全国水平社があって、戦後は日弁連や政府が本格的に差別撤廃に乗り出しました。そ うして、「表向きは」差別がほとんどなくなりました。しかし、まだまだ根っこの問 題は深いものです。結婚差別などは今だってなくなっていません。アメリカでも、性 犯罪者の実名を公表する一部の州では焼き討ちが発生していると耳にします。 これでは、きちんと罪を償って出てきた人が差別されるのは当然でしょう。また、 「ニュース性のある犯罪だけが報道で暴きたてられ、殺人でもニュース性のない事件 は見過ごされる」と言う矛盾はどう解決するんでしょうか。例えば、麻薬を吸っただ けでワイドショーにあれやこれやと叩かれた芸能人の息子さんとか、隼君の業務上過 失致死事件とかも、被害者問題に一石を投じる結果となったにせよ、その他のより大 きな犯罪<殺人や傷害致死など>に比べれば罪と比べて騒がれすぎだと思います<遺 族の皆さんには不快感お許し願いたい>。制度を設ければその矛盾は解決するかもし れませんが…。また、何より忘れてはならないのはこんな状態ですから、家族への差別が起こるのは 自明だと思うのです。「匿名報道」学陽書房には、夫の暴力にカッとなって包丁で刺 して死なせてしまった<因みに、詳しい死因は医療ミスらしい>妻の子供が学校の校 長から学校をやめるべきだとあからさまに言われるなど、社会的に随分な制裁を受け てしまっているんです。
甲山事件でも、被疑者のYさんの子供は級友達が懲役何年と か言ってるのを聞かされてきたわけです。社会的抹殺は死刑と一緒である、という点 をどう考えましょうか。確かに、社会を啓発してこの点を解決するのが必要であるこ とは大賛成ですし、そのための努力を惜しむべきではないでしょう。しかし、言った ように、部落差別が何十年たってもなくなっていないことを考えると、これはあまり にも酷ではないでしょうか。人と言うのは、差別をしたい生き物だと思うんですよ。 部落が江戸時代に作られた理由や現代のいじめの構造を見るとそう思います。そし て、きちんと罪を償った本人<償いが足りないのなら刑法を改正すればいいでしょ う>はおろか家族に人生の大半を棒に振らせて、50年先か70年先かそれ以前に実 現するかさえ分からぬ啓発を待て!これはあまりに酷ではないでしょうか。せめて啓 発が成って、そういう事が起こらないようになるまで待つべきではないでしょうか。 例え報道各社や国から損害賠償や慰謝料を何十億円もらったって人生の破壊は治らな いんです。むしろもらうとその金で家を建てたとか言う誹謗中傷さえ来るのです。被 害者の皆さんだって、犯人やその家族に10億円払ってもらえれば殺人を許す気にな るとか、そういう事ではないでしょう? さらに、これだけの犠牲を家族に払わせる危険性が高いにもかかわらず、公益性に疑 問があることを指摘しなければなりません。スウェーデンで匿名報道になった前と後 で犯罪率<特に凶悪犯罪>に差異は見えません。まあ日本ぐらい徹底的に用のないプ ライバシーまで明かす報道をすれば減るのかもしれませんが…。また、社会的な制裁 を科す権限等マスコミにはありません。中にはそうやって我が制裁を科さん!なんて 思い上がった連中もいます。また、堺通り魔事件実名報道容認大阪高裁判決でも写真 掲載や実名公表が公益のためになるとは、それどころか記事の価値増大に役立つとさ え決してみとめられていないわけです。まあ認めたら判決を批判するんでしょうけど ね。旧少年法でも<現在も残っていたと思いますけど>、明らかに公益につながる、 例えば指名手配の時などでは公表が認められていたんです。
あと、有罪確定後の判決がひどくない、これは一応表層だけ見るとそう思いますが、 この裏がある、と私は思います。要するに、被疑者段階から言いたい放題書いてし まったために、裁判段階だと書くことがなくなってしまうだけだと思うんです。報道 各社にとってこの手の報道の目的はもはや利潤追求くらいになっています。だから、 日本の長期にわたる裁判が終わるころには事件なんか風化してしまい、書いても儲か らない。だから有罪判決後にはあまり書かないんだと思います。薬害エイズなんか も、事件発覚当時の方が裁判の時より騒がれていて、刑事裁判になったことを忘れて いた!と言うのが事実であることを告白します。私は電車で学校に通う身ですが、電 車内の吊り広告の類を見るとそう思います。今でも裁判で騒ぐのはそれこそオウム裁 判ぐらいでしょう。だから、被疑者段階での報道がなくなって有罪確定後のみの報道 になっても、公益のこの字もない不倫疑惑だの何だのが書き立てられるだけなのでは ないでしょうか。まあこんな推測は私の方が外れていればそれに越したことはないん ですが・・・。 また、価値観の問題と言うことですが、確かにキリスト教的な価値観ですよね、人権 とかも。そしてキリスト教は、十字軍、魔女狩りなど行って他宗派を徹底的に攻撃す ると言う面がありました。ただ、人が裁いてはいけないと言うのがなぜかと言うと、 もし人と人とが平等であるとするならば、裁く者は裁かれる者より優位でなければい けませんよね。でなければ裁くことは出来ません。勿論、誤審、必要以上の重罰の可 能性も人間が裁くなればこそです。誤審も容認される!なんていくら宗派を超えたっ て認めるわけにはいきません。また、平等と言う価値観は日本的ではないかもしれま せんが、今否定する人がいるでしょうか。有罪判決が出た人とは平等ではないかもし れませんが、そもそも無罪を推定されている以上自供しようが証拠があろうがやはり 普通の人であり、平等なわけです。 私は、あくまでキリスト教の価値観の中でも、平等とか、冤罪、残虐な罰防止とか、 皆さんに受け入れやすい主張で十分人が人を裁くことの本来的なおかしさを追及でき ると思うんです。勿論、それは裁くな!と言うことではなく、それに謙虚になれ、と 言うことです。
刑法と言う考え方自体が集団ヒステリーのようなものですから、それ を全部否定することは出来ません。だからといって、謙虚になれないのにそれでも裁 くのを強行して欲しくないです。裁くからにはその心構えを忘れて欲しくないし、冤 罪を生まないための努力はギリギリまで尽くすべきだし、それが出来ないなら集団ヒ ステリーの限度を超えているでしょう。 因みに、人権の定義は国によって異なるとか、東洋に人権は合わないとか言う考え方 は、今日本で台頭してきた考え方ですよね。浅野教授からしてみれば「議論する気も 起きない独裁者や社会科学に無知な学者の考え方で、今まで繰り返し批判してきた」 そうですが、私としてはそういう考え方とは本気で事を構えなければならないと思い ます。人を人として扱うとか、そういう基本的に賛同を得られる部分から出発すれば 大丈夫だと思うんですけどね。 なお、人権がキリスト教的と言いましたが、これは今の人権派にも綿々と良くない部 分も受け継がれています。他にひどく攻撃的なのです。かュ申す私が小田教授らに敬 称無しなどと言うことをやりました。自分で表してしまったわけです。人権派と言う ものがすぐに攻撃的になり、他者を攻撃するために人権侵害もいとわぬ!と言う状態 になる可能性があると言うことを覚えておいて欲しいと思います。 それから、他の掲示板に行ってという発言はよした方がいいと思います。ここには昔 の私の意味のない発言はおろかそれ以上に、私でさえ批判するような人権派だか人権 屋だか荒らしだか分からない文章も掲載されています。私の投稿が一方的に不掲載と されたことは一度もないです。管理人さんは、一応趣旨に合わない文章の編集、不掲 載を予告していますが、少年法とか被害者の問題に関する意見だったらちゃんと公平 に掲載してくれるわけです。ここは内輪だけが議論する場所ではないと思います。 思ったら私自身さっさとここから去ってしまいます。本当のことを言えば、改正反対 の声の矛盾点にも、例えば0.0027%に過ぎないとかそういう文章にはさすがに えっ?と思いました。基本方針には一応賛成でも、細部には反対意見があります。
誤解しないで頂きたいのは、「公正な裁判で、公正なやり方で有罪判決がおり、公正 なやり方で量刑が決められたならそれに従ってきちんと罪を償うことが必要である」 ということです。そのために死刑そのものに反対!と言う立場を取り切れないでいる ことも。社会のせいにして本人の責任はない!と言うのはそれこそ緊急避難とかの場 合のみであって、基本的にはやはり本人の責任でしょう。私がよく浅野教授を出すた めに?と思われる方もいらっしゃる<現に、よく批判されてますね、特に前回話した ような掲示板とかには>かもしれませんが、私は彼の人権と報道の理論に対して賛成 するので出しています。彼は死刑には反対の立場を取ってました。彼も人権屋じゃな いのか?と言われても反論を強硬に出来る立場では私はありません。 「報道被害に自分があっても同じ事が言えるのだろうか」「罪を憎んで人を憎まずと 言う言葉もあるではないか」これ、二つとも彼の言葉です。後者は分脈から見てリッ プサービス<?>の印象もあったんですが、もし両方本気なら私は前者だけとりま す。 ただ、全て犯人のせいにして社会の側の顧みるべき点は一切顧みず、罰だけ与えてお しまい!と言う風潮があるとすればそれには大反対です。社会の側の責任は誰にも問 われませんが、反省して起こらないようにするのは社会のつとめだと思います。た だ、今まではその点を追及するあまり、犯人側の責任に対してあまりにも甘い状態で あったことは認めないわけには行かないでしょうね。それでも、反動で全部!にはや はり異議アリです。ちょうど、少年犯罪の親の責任のようなものです。 同様のことは「粗暴犯のうち少年が占める割合が過去最高になった」という報道にも 当てはまる。少年の粗暴犯の発生率は、三十数年前と比べると半減している。だが、 成人(特に二十代)がそれ以上におとなしくなったため、見かけ上、少年の占める割合 が上がったにすぎない。 「死に至らしめる事件を起こした少年」がここ数年急増している、と報じられるこ ともある。だが、増加分の大半は「傷害致死」で、多人数がかかわったとされて一網 打尽になる者が増えているのである。1998年でいうと、82%が4人以上の「共 犯」である。
まず、僕がなぜ卒業レポートのテーマに『青少年の犯罪』を選んだかについて書くことにしよう。僕が中学生の頃であろうか。 中高生のあいだで『バタフライナイフ』と呼ばれる、刃渡り10センチ程度の折り畳み式の刃物を罪の意識もなく平然と 持ち歩く者が増えていた。実際、僕の中学でも流行に乗るかのごとく学校に持ち込む友達が少ないながらもいた。 やがて、持ち歩くだけで『銃刀法違反』であるし、ナイフを持ったものが何気なく集まっただけで、『凶器準備集合罪』に 問われる、というような指導を学校側からされたこともあり、栃木県のある中学校での『女性教諭刺殺事件』が起きた後は ほとんどいなくなったように思う。 この事件というのは、授業の遅刻を注意された中学校1年生の男子生徒が最初は脅すつもりで女性教諭にナイフを 突きつけたが、先生がたじろがなかったため、少年は馬鹿にされたと思い、持っていたナイフで胸や背中など7箇所を刺し 殺害したものだ。この時男子生徒は血を流し倒れている先生を無表情で蹴り続け、職員室に連れて行かれる途中で我に 返ったかのように泣き出した、という証言がある。 これがいわゆる『キレる』というものなのだろうか。大人たちは、このころ多発した事件をきっかけにニュースや新聞などで、 現代の子供たちのキレやすさ、そして、その事件の背景となったであろう環境を犯罪心理学などの観点から理論だて、 社会に訴え始めた。事件が起こるもっと前から議論されていたのかもしれないが、この世に生まれて17年しか経っていない 僕の少ない記憶では、この頃に多くマスコミに取り上げられた一連の事件が印象強い少年事件の始まりではないかと 思われる。事件を起こした少年と同世代の僕は、心理学者と思われる大人がニュースでコメントをするたびに、 何か違和感のような息苦しさを感じていたことを今でも強く覚えている。ちょうど反抗期でもあったため、ただ単に大人の 言うことを聞きたくなかったのかもしれない。しかし、それだけではないように思う。順調にエリートコースを歩んできた教授の ような人たちが、いくら真剣に考えて子供の心理を探ろうとしても、同世代の子供以上に事件を起こした子供の考えや、 行動を理解できるはずがない!という負けず嫌いの精神にも似た感情が心の中にあったのだと思う。
僕が高校生になった今でも、いわゆる『キレる』子供の犯罪が減ることはなく、ニュースのテロップには『またもや』という フレーズが、しばしば用いられるようになった。特に『17歳の事件』があった時だ。高校生というだけで世間からは 危険人物かのように見られ、偏見のような眼差しでにらみつけられような気分になるときがある。僕の周りには、 「同じ17歳として恥ずかしい」などと言う友達もいるが、不思議と僕にはそのような感情は生まれてこなかった。 恐い話になるかもしれないが、同じ17歳として事件を起こした少年たちの気持ちが分かるような気がしたのだ。 少なくとも大人たちよりは。少年たちの精神状態は特別扱いされているようだが、現代の高校生には多く当てはまると思う。 このように感じられるのも自分が高校生であるためで、年を重ねて社会人にでもなる頃には、ニュースのコメンテイターと 同じような意見しか述べられなくなっているのだろう。そこでせっかく『高校の卒業レポート』といういい機会があるのだから、 テーマとしてはこれが最適なんではないか、この時期に一度真剣に考えてみる必要があるのではないか、と思いペンを 執ったわけである。 事件を起こした少年にインタビューしたわけではないので、これはあくまでも僕の推測に過ぎないということを前提に話を 進めさせてもらいたい。少年はこの先の人生や、自分のことなどどうでもよかったのではないだろうか。(しつこいようだが、 これは僕なりの見解だが) 『17歳』というと、高校に通っている子ならば、ちょうど真剣に具体的な進路を考え始めなければいけない時期であると思う。 もっと早い時期から考えなければいけないのかもしれないが、現実味を帯びて直面するのは(実際に僕自身や周りがそうで あったように)多くの人がこの頃であろう。僕もかなり考えたが、いざ真剣に悩んだところで、現時点でやりたいことはないし、 簡単に見付かりそうにない。幼い頃に描いた夢は、成長して現実を知ることにより儚く散っていった。やりたいことがはっきり していて、夢の実現に向けて全力疾走できる人がどれだけ羨ましかったことか。できることなら、このまま年もとらずに『17』の まま一生を終えたい、とまで思い悩んだことがある。夢も希望も持てないこの世の中で、不安にならないほうがおかしいので はないか。
目的地も分からぬまま、努力して大学に入れたところで何を得られるというのだろうか。先行きの見えないこの 不景気な社会の中で、就職しても倒産やリストラに怯えながら毎日を過ごすことが、果たして『幸せ』と呼べるのだろうか。 考え出すと嫌なことばかり頭に浮かんでくる。 高校2年生というのは、誰しも僕のように思い悩む時期なのかもしれない。生意気ではあるが自分なりに、人間の本質、 現代社会の性格、そして人生に至るまで考え抜いて『自分自身』というものをなんとなくでもいいから理解しなければならない、 長い人生において大変貴重な時期であるように思える。僕の場合は運動部でもなく、比較的時間に余裕があったので 深く考えることができた。暗い現実を目の当たりにして、逃げ出したくなった。人生なんてどうでもいいと悲観的にもなったが、 考えるうちに、ぼんやりとではあるが、微かに『光』のようなものが見えた。(まだ捨てたもんじゃないな)と思えたことで、 重く苦しい精神状態から抜け出せたように思う。それは、時には意見の不一致でけんかもしたが尊敬しあえる友達と共に 成長できたおかげでもあるし、反抗期でもいつもとなりで見守ってくれた家族、落ち込んでいる僕を心から心配してくれた 学校の先生方。周りの多くの人が、今の僕を作る要素を見出してくれたように思う。そんな周りの人々の考え方や、 強く感銘をうけた映画、幼馴染の影響で聞き始めたヒップホップという音楽、多くのものから様々な形で影響を受け、 今では一人前に夢のために頑張っている僕がいる。一生かかっても返しきれないほどの愛情を受け取ることができ、 進みたい道を歩くことができた。 きっと事件を起こした17歳も僕と同じように考え、悩んだのだと思う。しかし、不幸にも彼らはいつまでも『光』を見ることが できずに、苦しさから耐えることをやめ、人生から逃げ出したのではないだろうか。そして罪を犯したように思う。 最近の少年犯罪では、普通の子が突然キレて犯行に及ぶ、というケースをよく耳にする。このことを父に話したときに聞いた 話では、一昔前はこのようなことはなかったらしい。悪さや夜遊びを覚え、しだいにエスカレートしていき、大きな罪を犯して しまう者はいても、今のように真面目そうな子が突発的に犯罪者へと変わる姿は世代の違う父としては信じ難いようだ。
つまり、大人から見れば誰が犯罪者になり得るのかは、想像もつかないわけだ。これが高校生に対する大人の恐怖混じりの 視線の素なのかもしれない。数十年前までは子供たちを、いわゆる不良と他の子に、大まかではあるが、二分できたと思う。 大人たちは不良と呼ばれる子さえ注意深く監視していればよかったのである。 しかし、現代の日本ではどうであろうか?今まで安全視されていた『その他の子』の犯罪が目立ち始めたではないか。 そこで現代の子供である僕の目線から、現代の子供を大雑把ではあるが4つに分別してみた。(そもそも人間をたったの 4つにしか分別しないところに疑問を抱くかもしれないが)それを中学校での授業態度に置き換えて例えてみよう。 ・…そもそも授業を受ける気などは全くなく、学校へは来ない、もしくは友達と遊ぶために来ている。そのためか、 授業や教師への態度は反抗的で、周りからの注意を聞く耳は持たない。・…・のような子に多少憧れはあるが、 周りの目を気にして、教師の顔色を窺い、しっかり授業を聞いているような生徒を演じる。したがって授業の理解度も低い。 ・…教師の顔色を窺うという点では・と共通するが、・への憧れはなく、内申点のため、受験のために仕方なく勉強する。 授業の内容もある程度は理解する。・…・を煙たがり対極に位置する。勉強自体に嫌悪感はなく僅かながら学ぶ楽しさを 知っている。したがって成績は優れているが、現在の日本の教育制度に疑問を抱くなど他者と異なるところで悩む。 以上のように分類してみると、次のようなことが見えてくる。それは大人と子供での、真面目な子の認識の違いだ。 同じ子供からすれば、・だけが真面目と捉えられるが、大人には・以外は全て真面目な子に映るのではないだろうか。 子供である僕がいうのも変な話だが、今の子供は大人に気に入られる子供の姿というものを理解しているものが多く、 また、それを演じるのも巧い。大人が見分けられないのも無理はない。たちの悪い話だが、これが今の日本の現実では ないだろうか。 このレポートを書いて自分でも新たに気づいたことがあり、テーマ設定に誤りがなかったと改めて実感したが、 これといった主張はないし、事件を起こした17歳を肯定するわけでもない。キレずに耐える17歳だってごまんといることも よく知っている。
数年前から、青少年犯罪の増加、凶悪化が叫ばれています。しかし、警察当局の統計資料から浮かび上がってくるのは、 青少年ではなく「中高年層の犯罪」が急速に増加し、かつ凶悪化しているという姿です。確かに、人権的な配慮もあり、 特に青少年の具体的な犯罪に関しては、なかなかその実体を把握することができません。しかし、公表されている犯罪の 統計データを、新たな角度から分析するだけでも、かなり有益な情報をくみ取ることが可能です。 警察当局の統計とは、犯罪の実態を調査したものではなく、あくまでも警察活動の記録を纏めたものです。そのため、 それらの中には青少年や外国人といった社会的弱者に加えて、警察当局にとって不都合な分野においても、無視できな いほど偏った情報を発信している可能性があります。さらに、警察当局は自身の活動重点をコントロールすることで、 意図的に、あるいは無意識的に、警察が利益を得るようなデータを「獲得」している可能性さえ存在します。例えば、 余罪の追求を重視すれば少ない検挙人数で検挙事件数を稼ぐことが可能であり、その反対に余罪の追求よりも個別 被疑者の立件を優先して警察力を温存すれば、逮捕者はそれほど減らなくても検挙事件数は急激に減少するという 「操作」が可能なのです。 そのため、市民生活や社会的弱者に関する様々な権利を護りつつ、治安を維持するためには、司法や青少年問題の 専門家ではない、一般の人々にもわかりやすい形式で、より正しい情報を広く共有することが重要だと考えます。 その他、個々の犯罪や治安状況を報道する際にも、過去の類似した事件や治安状況の変化に関する社会的文脈も 含めて紹介し、極端な部分だけを取り出していたずらに感情を煽るような事が無いよう、関係各方面に求めていく 必要があるでしょう。 2004年4月26日に文部科学省が発表した、『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会 報告書』の『安全・安心に関する調査データ集』(参考資料・2)に記載されている資料2−2『世界経済フォーラム 「安全と経済的繁栄に関する国際世論調査」』によると、日本国民の68%が「次の世代は今よりも安全でない 世界で暮らすと思う」と回答し、なんと86%が「10年前より安全ではなくなった」と回答しています。
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少年法により名無し :2006/03/22(水) 00:47:14 0
(A)宮野 裕史:みやのひろし S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm (B)神作 譲:かみさくじょう(旧姓は小倉) S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 埼玉県八潮市中央4 (C)湊 伸治:みなとしんじ S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は元共産党員) 埼玉県さいたま市南区南浦和3丁目から 千葉県市川市福栄2丁目に転居。現在は京都潜伏? (D)渡邊 恭史:わたなべやすし S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 神奈川県横浜市金沢区六浦東1在住? (E)岩井 哲夫:いわいてつお(旧姓は中村) S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 (F)垣東 孝一:かきひがしこういち(旧姓は伊原) S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。2005年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 その後、頻繁に問題を起こすためか、浦和を追われ「所沢近辺」 あるいは「入間市周辺」「東京都日野市」に転入したと伝えられる。
これは世界平均の48%、57%と比較すると20〜30%も高い数値で、少なくとも国民の多くが「日本は安全では なくなった」と実感している様子をうかがわせます。 そして、同報告書にはそれを裏付けるように、『1−4.犯罪に関する動向』という資料が掲載されており、 少年凶悪犯検挙人員と来日外国人凶悪犯検挙人員が、ここ10年間で増加したことが一目で理解できるのですが…… 何故か刑法犯の検挙人員の総数が、昭和から平成にかけて低下していることも理解できます。 この統計は明らかに不自然です。刑法犯の検挙人員が低下しているにも関わらず、少年凶悪犯と来日外国人凶悪犯の 検挙人員「のみ」が増加するような事態があり得るのでしょうか? そこで、我々は1980年以降の殺人について成人被疑者の生年別動向を調べ、その結果を戦後の少年による殺人の 生年別動向と比較する方法で、『世界経済フォーラム』の報告が、日本の実態に即しているかどうかを調査することにしました。 殺人事件を調査対象として選択したのは、(殺人事件の)認知件数が警察活動の影響を比較的受けにくいため実態に 近く、且つ検挙率が90%台を維持しているために検挙件数が認知件数の動向をよく反映していると思われるからです。 調査の対象としたのは、警察庁の犯罪統計書に掲載された「罪種別 犯行時の年齢別検挙人員」と「年次別 年齢別 人口」、及び平成13年版犯罪白書に掲載された「少年刑法犯の主要罪名別検挙人員」「少年刑法犯の主要罪名 別検挙人員」と「少年・成人別 刑法犯検挙人員 人口比及び少年比」の数値です。これらの資料に基づき、 被疑者の生年別殺人検挙人員人口比を年齢層別に求め、1980年から2002年までの成人に関する結果と、 1946年から2002年までの少年に関するそれを比較検討しました。 その結果、それぞれの世代には固有の殺人検挙人員を輩出する傾向が存在し、それは1930年から1945年までに 生まれた世代に最も顕著であることが分かりました。少年に関しては、1965年以降に生まれた世代の殺人検挙人員 人口比はピーク時の3分の1程度でしかありませんでした。
長崎幼児誘拐殺害事件は、加害者が12歳であったことから、社会は大きな衝撃を受けました。 1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件の加害者が14歳の少年であったあの日から、 大人は特別の響きで思春期という言葉を受け取るようになりました。 「透明な存在の僕」という言葉とともに、思春期の子を持つ親を不安にしました。あれから凶悪な 少年犯罪は後を絶たなくなり、今後も、子どもたちの置かれた状況が変わらなければ、 こうした少年による凶悪犯罪は増え続けるでしょう。 今回は少し少年犯罪と思春期について考えたいと思います。 思春期は、第二次性徴期といわれ、性ホルモンの分泌が盛んになり、分泌量が安定しないために情緒が不安定になります。 特に男子は思春期以降、主に性ホルモンとして、アンドロゲン(アンドロゲン以外にも数種の性ホルモンがある)を 放出し、このホルモンは骨や筋肉の成長を促進。また、性欲を高め性行動が活発になる。攻撃性(縄張り意識や闘争本能) に関わるホルモンでもあるため、自意識の目覚めと相まって、イライラすることも多く、親や教師の干渉にややもすれば 暴力的な言動が見られる時期です。男子が性欲と怒りの感情をコントロールするのに苦労する時期です。 ここまで書くと、思春期の男子は誰でも危うい存在に見えるかも知れません。 確かに、反抗期の非行が少年期を象徴していた時代もありました。しかし、非行に走った多くの少年は 少年時代の決別と同時に、大人の社会に順応して行きました。 こうした多くの非行が、放任・貧困・父親の暴力など家庭に問題があったため、思春期の犯罪はわかりやすい 図式で説明出来ていたように思います。 しかし、昨今の少年犯罪における『特別な家庭に育った子どもではない。ごく普通の家庭の子』このキーワードが 私たち思春期の子を持つ親を不安に陥れています。 ましてや、「犯罪者の親は市中引き回しの上、つるし首」など といわれると、両親、特にいつも身近にいる母親の不安は募る一方です。普通の家庭のどんな子が凶悪事件を起こすのか、 私たちは性急にそれを知りたいとここ何年も思い続けたように感じます。 凶悪少年犯罪の多くは、思春期に突然現れるけれど、ある日突然加害者になるわけではありません。
一昔前の少年非行のわかりやすい図式と今の少年犯罪の違い。普通の家庭の普通の子の犯罪。 もう既にこの時点で、私たちは思い違いをしているのではないでしょうか。 私たちは今まで人間が経験したことのない、時代に突入しました。大人でさえ耐えられないストレスに、 産まれたときからさらされている子どもたち。そう考えると、もう既に普通と思っていた家庭が社会が、 普通ではないことに気づきます。 現代の子どもたちが赤ちゃん時代からどんな世界で生きてきたかが、もっと問題にされるべき時期にきているでしょう。 ここ数年来の凶悪な少年犯罪は、単に思春期のイライラが起こした事件とは考えられません。 この世に人類が出現して以来、一度も経験したことのない刺激にさらされ、幼い時から、誰かと比べられ、 体を使った子どもらしい遊びも出来なくなった今、ごく普通にみえて、もう普通ではない状態の子ども達。 本来動物としてのあらゆる経験を積む子ども時代を奪われ、社会からの虐待を受けている子どもたちを思う時、 この凶悪な少年犯罪との関わりを分けて考えることができないと思いませんか。 社会は責任を押し付け合い、親は予防線をはり、子どもの10年後20年後を見据えた関わり方をしていない。 その日その日の行動におろおろと方向転換をしてしまう。 思春期の、心身をコントロールするということは、その後の長い人生をコントロールすることでもあり、 それは一朝一夕に出来ることではありません。生まれ出た瞬間からはじまる長い訓練のたまものなのです。 そのために子どもたちが安心して、真に子どもらしい時代(笑い、泣き、転び、ものを取り合い、けんかをしながら、 皮膚感覚を刺激し、大地の上にしっかりと立って生きているという実感を持つための時間)を過ごせる社会を私たちが 用意出来ないなら、少年の凶悪犯罪はこれからも社会問題となり続けるでしょう。 私は、この一連の少年犯罪を社会全体が変わらなければますます増えると思っています。 しかし、社会が変わるまでには、今後何年も待たなければならないでしょう。今すぐ子どもを守れるのは、 やはり親しかないと思っています。
これから親は社会のニーズにおもねるのではない、本来の子育てに立ち返らなければならないでしょう。 人間の子どもは、あまりにいろいろなことを、背負わされすぎています。うまれた時から、親の世間体を満たして あげなければなりません。 「いい子ね!」と言ってもらうために、いつも親の目を見ながら遊ばなければならない子どもたち。記憶というものが 心に存在するようになった頃には、もうお行儀良く何種類もの習い事をしている子も少なくありません。 うまれてから5・6年の子どもはまだ原始人時代なのにですよ。 もう既に我が子は思春期、今更育て直しが利かないとあせっている方も多いと思います。 それなら、少し静かに子どもを支える覚悟を決めてみたらどうでしょう。(うちの子は「静かに…なんて言っている場合ではない。 既に、親の目から見ても問題を抱えている。」と感じている方は『思春期外来』や、『心療内科』の先生に相談をお奨めします。) いくら頑張っても、自分はいずれ親のように不満だらけの社会に巣立っていくしかない。『何の楽しみも夢も希望もない 世界』のために、なんで努力してまで入っていかなければならないのか、子どもたちはこんな気持ちで大人の世界を見て いるのではないでしょうか。 そうなる前に、勉強や日常生活の管理はもう子どもの意識に任せて、親自身が自分の世界を生き生きと楽しみ、 大人になっても楽しい人生が待っていることを、子どもたちに見せる方が大切だと思うのです。 「あなたが、あなたが…」と子どもに生活や学習の注意をするのはもう止めて、時には生き生きと、 自分の夢を語ってみる。そういうことが思春期の子どもに安心感や大人になる希望を持たせるのではないでしょうか。 そして、いくら大きくなっても団欒だけは大切にして下さい。団欒をお説教の場と化すのではなく、 親も子も、ともにくつろいで自分を語れる場にしたいですね。
少年非行の動向をみるために、日本では、公的なdataが使われている。しかし、これらのdataは、少年非行の 実態を反映しているだけでなく、警察を初めとした法執行機関の活動をも反映している。時代におけるdataの変動が、 この二つの変数のいずれによって生じているかを見極めることは、容易ではない。 この報告では、第二次世界大戦後の日本における少年非行の動向を、3つのpeakおよび現在という4つの時期に 着目して、分析している。少年非行の実態においては、おそらく、少年非行は、戦争直後において、その質および量の 両面において、最悪の状態であったと推測される。しかし、当時は、法執行機関が効果的に機能していなかったので、 公的dataから、それを簡単には読みとれない。その後、少年に対する保護や教育の体制が整い、実態において、 重大な少年非行は、減少していったと思われる。法執行機関、特に警察も、少年に対する補導および検挙の体制を 整えていった。そのために、警察は、少年の軽微な犯罪や非行にも、積極的に介入するようになった。つまり、 警察活動のnet-wideningによって、公的dataを根拠として戦後最悪と言われる第3のpeakが、1983年に出現したのである。 第3のpeakの後、少年人口の減少をも反映して、公的dataによれば、少年非行の数は減少した。 しかし、1990年代の後半には、年少少年による数件の特異な凶悪事件の発生により、警察は、非行少年への 補導および検挙活動を強めることになった。その結果、非行問題が政治問題化し、日本社会の保守化を反映して、 厳罰化を指向した少年法改正が、2000年の11月末に国会において可決されてしまったのである。 少子時代になって、子供は大切に育てられ、かつてのように、放任された少年が、社会に反抗してanti-socialな犯罪を 犯すということは減少した。その代わり、過保護の中で目標を見失った少年が、薬物乱用といった逃避型のa-socialな 犯罪を、犯すようになってきた。東京家庭裁判所の藤川洋子主任調査官は、少年達は非常に幼くなってきており、 それだけに親や友達など周囲の環境に影響されやすいので、いまの少年達に単に「反社会的な罪を犯したから反省しろ」と いうだけでは通用しないと、述べている(朝日新聞2000年10月31日の記事)。実態としては、少年非行の質的側面も 量的側面も。
1990年代後半は、1990年代前半と大きな違いはないと思われる。しかし、警察の検挙・補導活動の積極化で、 また、少年による特異な殺人事件がいくつか生じたために、少年犯罪の増大や凶悪化が、大きな社会問題となった。 それとともに、少年法は少年に対して甘過ぎるという批判が起こり、実務での保護主義の後退が懸念されるようになった4)。 他方、犯罪被害者自身が、現状の問題点を提起するようになり、また、それをmass mediaが取り上げることにより、 被害者問題が脚光を浴びるようになった。現行の少年司法systemでは、加害者の少年の人権は保障されているが、 それに対して、知る権利や意見表明権といった被害者の権利は保障されていないと、指摘されるようになった。 そのような背景の下で、少年法の改正が、緊急の政治的課題となってしまった。 まずは、少年非行の動向を、統計に基づいて、分析してみたい。少年刑法犯検挙人員総数の推移を見ると、 1995年から毎年増大し、1998年には、221,410人となり、1995年に比べて14.5%増加したのである。 人口比も15.0(交通関係業過を除く少年刑法犯検挙人員の場合の人口比は12.5)へと高まったのである。 1997年には、警察庁少年課理事官の渡辺康弘は、これに着目し、少年非行の深刻化が急激に進行していると 社会に警告し、また、少年警察活動の強化を叫んだのである(渡辺康弘、1998年、27頁)。ところで、少年非行は、 実態において、本当に深刻化し、「戦後第4の上昇局面」(前掲書、33頁)を迎えているのであろうか。以下において、 1995年と1998年のdataを、詳細に分析しておきたい。 罪種別で分析すると、絶対数が多い窃盗は、22.4%の増加である。放置自転車の無断乗りが中心の横領は、 34.5%も増加している。それ故に、万引き、autobike盗、自転車盗、占有離脱物横領の4つの犯罪で構成する初発型非行が、 少年刑法犯検挙人員総数に占める比率は、1998年にはさらに高まり、75.6%に達したのである(『平成11年版警察白書』 1999年、74頁)。つまり、犯罪統計によれば、少年非行の数は1998年まで再び増加したが、その主たる原因は、 警察の検挙・補導活動のnet-wideningがさらに広がり、初発型非行といわれる軽微な犯罪を犯した少年が、 より多く捕らえられたからと思われる。
しかし、窃盗の増加は、実態における変化をも反映しているかもしれない。 1990年代には、日本は長期にわたる経済的な不況を経験した。それから、脱却するために、企業は合理化という名前の 下で、人減らしを行った。その中で、失業したり、安定した就職先を見いだせない少年が増えている。彼らの中には、 これまでの浪費的な生活を維持したくて、減少した収入を補うために、窃盗などの財産犯を犯す者が出ているかもしれない。 1995年から1998年までの間に、強盗が79.4%、強姦が71.6%、殺人が46.3%も増加した。 警察は、この増加率を根拠として、少年犯罪の凶悪化を指摘している。それを受けて、保守的な政治家は、 この傾向を阻止するために、一般予防効果を狙って、厳罰化を実現すべきだと、主張し始めたのである。 彼らは、少年に厳しい刑罰を科すことで、少年の規範意識を覚醒させることを狙っている。しかし、厳罰化が、 少年達の犯罪を抑制するという証拠は、今のところ見あたらない。 強盗については、確かに、「親父狩り」という新しい犯行形態が、見られるようになった (『平成9年版警察白書』1997年、120頁)。某少年院の教官の話によると、新しい犯罪態様の「親父狩り」は、 次のようなものである。中学生や高校生は、今では、携帯電話を持っている。そこで、携帯電話を掛け合って 、学校が終わった時間に、繁華街で集まる。集まった者は、電話を掛け合って集まった烏合の衆であり、 お互いに名前さえ知らないことがある。集まってから、何かおもしろいことをしようということで、遊びとして、あるいは、 遊ぶためのお金を調達するために、金を持っていそうな中年の男性を、集団で襲う。烏合の衆で、集団心理に駆られて、 特に男子少年は、女子少年にかっこよさを見せたいという心理から、メチャメチャに殴る蹴るの暴行を働くのである。 そのために、被害者は、重傷を負ったり、場合によっては、殺害されるのである。この事例で明らかなように、 ここでの集団は、番長と呼ばれるleaderが統制する従来の非行集団とは、異質である。つまり、普通の少年が、 多数犯行に参与するのである。このような「親父狩り」が現れて、強盗で検挙される少年の数が、激増したのである。 犯罪統計で強盗が増加したのは、警察の強硬姿勢の反映でもある。
かっては、少年が、金を脅し取った後に 、被害者に暴行を加えたときは、窃盗および傷害の容疑で検挙されていた。しかし、警察は「悪質な非行には厳正に対処、 補導を含む強い姿勢で挑む」(1997年6月3日の全国警察少年担当課会議での関口警察庁長官の発言)という方針を 打ち出して、強硬方針をとるようになった(服部朗・佐々木光明、2000年、668頁)。それを受けて、警察庁は、 8月には「少年非行総合対策推進要綱」を制定し、少年事件に係る捜査力の強化を掲げ、悪質重大な少年犯罪に 対しては、まさに組織として取り組むことを宣言した。そこで、少年を検挙する場合でも、より重い罪名で行うようになった のである。例えば、中古のCD(Compact disk)を売っている店で、19歳の少女が、CDを万引きしたのが見つかり、 逃げるときに店員を突き飛ばした場合でも、事後強盗で被害者を負傷させたという理由で、強盗致傷で検挙するように なったのである(寺尾史子、1999年、224頁)。このような重い罪種の適用という形のrelabelingを通して、警察は、 実態以上に、統計の上で強盗の数を増やして、社会に少年犯罪の凶悪化を強く警告したのである5)。そのために、 普通の人が「凶悪な強盗」と考えないような事件も、犯罪統計の上では、強盗事件に含まれるようになっている。 日本では、強盗といっても、前述の事例のような些細な事件が、多く含まれているのである。 なお、1995年から1998年にかけて、少年警察活動のnet wideningで、主要な罪種の多くが激増しているのに、 恐喝は6.8%しか増加していないことが注目される。これは、おそらく、relabelingによって、これまで恐喝とされていた事件が、 強盗として処理されるようになったことを反映しているであろう。その典型が、「ひったくり」事件である6)。 殺人については、神戸市の14歳の中学生が、1997年の2月から5月にかけて、2件の殺人事件と3件の傷害事件を 起こし、それが社会的に大きな注目を集めた。特に被害者の小学生の首を切断し、それを校門に晒すという、 前代未聞の行為をしたので、人々に大きな衝撃を与えた。この凶悪な犯罪を犯した少年に対しては、 厳罰で対処すべきという声が、高まつた。しかし、現在の少年法の下では、16歳未満の少年の場合には、 検察官送致が出来ないことになっていた。
そこで、この少年には、刑罰が科せられないということが報道されると、 人々は、少年法は少年を甘やかせる法だと非難するようになった。それを契機として、厳罰化への方向で少年法を 改正する機運が、高まったのである。また、少年法の下では、少年の健全育成の視点から、家庭裁判所での審判が 非公開とされており、被害者や遺族は、それを傍聴したり、そこで意見を表明することが許されていない。 さらに、審判の結果も、被害者やその遺族に知らされなかった。そこで、加害者の少年が手厚く保護されているのに 対して、知る権利とか意見陳述権とかいう被害者の権利が、充分に保障されていないという意見が出されるようになった。 以上の背景の下で、少年法の改正が、政治的な課題となっていったのである7)。 この神戸事件以降、mass mediaは、少年法改正の問題とともに、散発的に起きた少年の重大犯罪を、 大きく取り上げることになった。そこで、警察は、少年犯罪への強硬姿勢を、さらに強めていった。その結果、 例えば、2000年4月に、17歳の少年が、交際相手の15歳の女子高校生が生んだ赤子を、祠に捨てて凍死させたような 事件でも、遺棄致死罪ではなく殺人罪で、その少年を逮捕するようになったのである。mass media が報道するように 、少年による重大事件が生じることは、確かに憂慮すべきである。しかし、警察が公表する資料に基づいて mass mediaが報道するように、最近になって少年犯罪一般が凶悪化しているとは、言えないであろう。 凶悪犯の代表と見られる殺人でも、従来と同じく、育児に自信のない未成年の男女が犯す嬰児殺や、 家庭内の人間関係をめぐる殺人が、多くを占めていると思われる。 1990年代の後半には、警察は、耐性のない少年の凶悪・粗暴犯が増大したことを、強く警告している。 『平成10年版警察白書』(1998年)では、1997年に「凶悪犯で補導した少年のうち、非行歴のなかった者は1,081人で、 全体の47.8%と半分近くに上っており、それまでに非行を犯したことのない少年がいきなり重大な非行に走るcaseが 目立っている」と指摘している(115頁)。このような耐性のなさは、少子化の時代に甘やかされて育った少年によく見られる。 耐性のない少年による犯罪は、すでに、『昭和57年版警察白書』(1982年)において、注目されている。
そこでは、「年少少年による通り魔事件のような衝動的無差別的な凶悪犯、粗暴犯の増加も目立っている」と 指摘していたのである(11頁)。それが大きな社会問題になったのは、少子化がさらに進んだ1990年代の後半だったのである。 一つの事件を契機として、mass mediaが集中的に報道した結果、社会問題化した典型例は、刃物を使用した事件である。 1998年1月28日に、13歳の中学生が、女教師に、授業に遅れた理由を詰問されたので、butterfly knifeを突きつけ、 それに驚かなかった教師を、刺殺したという事件が、起こった。それを契機として、mass mediaは、次々に刃物を使った 事件を大々的に報道した。警察は、社会問題化した刃物事件について、直ぐに対応した。2月2日には、 警察庁の少年課長、銃器対策課長、地域課長の連名で、「少年による刃物の携帯に対する適切な対処について」 という通達を発して、全国の警察に対して、学校などとの連携強化による少年の規範意識の啓発、刃物の販売店に 対する指導の徹底、街頭補導活動の強化などを、指示したのである(松坂規生、1998年、55頁)。その結果、少年の 刃物による事件は、より一層顕在化し、『平成10年版警察白書』(1998年)で指摘しているように、「少年非行の凶悪化を 強く印象づけ」(112頁)ることになった。しかし、1998年の夏以降は、mass mediaが取り上げなくなり、社会問題化が 止まったので、人々は、少年が刃物を使う犯罪の危険性を、意識しなくなっている。 1995年から1998年にかけて、強姦が71.6%も増加していることが注目される。実態において、 本当に強姦が増加したかは、定かではない。強姦で検挙された少年の数が増加したのは、おそらく、 被害者支援の体制が整備されたので、被害者の警察への通報活動が活発化したことによると考えられる。 1990年代になると、被害者やその家族が、自分たちの人権が充分に保障されていないことを、積極的に訴え始めた。 それを受けて、警察庁では、1996年1月に「被害者対策に関する基本方針」をまとめ、翌月には 「被害者対策要綱」を制定した。ここで初めて、「被害者に対して敬意と同情を持って接し、 その尊厳を傷つけない対応を行うこと」「被害者の視点に立ち、被害者のneedsに対応するよう心掛けること」
「特に深刻な被害を受けている性犯罪等身体犯の被害者、殺人事件・死亡ひき逃げ事件の遺族及び 少年の被害者に重点を置くこと」という方針が打ち出された(『平成9年版警察白書』1997年、262頁)。 これを受けて、各都道府県の警察は、被害者や遺族を対象とする相談およびcounselingの体制を整備することになった。 特に性犯罪については、「身体的な被害にとどまらず精神的にも極めて重い被害を与える犯罪であるが、 羞恥心等から被害者が警察に対して被害申告をためらいがちになるため、被害が潜在化する傾向にある」 (前掲書、264頁)という 認識から、積極的に対策を採ることになった。被害者と同性の警察官によって、 事情聴取や鑑定を行うようにしたほか、日本にはUnited KingdomのVictim Supportというような 被害者支援組織が未整備なので、同性の警察官が病院への付き添いなどをするという、 被害者の精神的負担を緩和する施策も講じることになった8)。また、被害にあった女性が、 被害届を出したり、相談を受けやすくするために、女性の警察官が駐在する女性相談交番を、 設けることにした。さらには、適正で強力な性犯罪捜査を推進するために、 性犯罪捜査指導官及び性犯罪捜査指導係を設置した。このような体制の整備により、 従来潜在化していた強姦の被害が顕在化し、その結果、強姦によって検挙された少年の数も、 増加したものと思われる。 日本では、不況の1990年代においても、性風俗産業が繁栄を続けており、そこでの売春は、 一層巧妙となっていった。売春の蔓延と、性の自由化の意識の広がりによって、女子少年の側でも、 売春への抵抗感が薄れていった。その中で、女子少年による援助交際という形での売春(男性と断続的な 性関係を持ち、小遣いをもらうという形の売春)が、社会的に注目されるようになった。「遊ぶ金欲しさ」を 動機とする性の逸脱行為で検挙・補導された女子少年の数は、1993年の818人から増え続け、 1996年には2,517人とpeakを迎えたのである(『平成10年版警察白書』1998年、114頁)
最近、特別刑法違反で注目されるのは、薬物事犯である。 1995年と1998年の少年検挙人員を比較すると、 覚醒剤事犯は1,079人から1,069人へ、大麻事犯は189人から125人へ、 thinner等の乱用は5,456人から 4,496人へと変化している(『平成8年版警察白書』1996年、104頁、 『平成11年版警察白書』1999年、77頁)。 1995年から1998年にかけては、刑法犯で検挙された少年の数が増加したのであるが、 薬物事犯で検挙された 少年の数は、増加していなかったのである。薬物の乱用は、victimless crimeの一つであり、 被害者からの通報を 期待できないので、その検挙数には、大きな暗数が存在していると思われる。 そのために、断言は出来ないが、 おそらく、thinner等の乱用は、実態においても、1983年の非行の第3のpeak以降、 減少しているのであろう。 1990年代の後半では、少年の覚醒剤事犯の動向が注目された。 覚醒剤で検挙された少年の人員は、 1994年の827人から、3年連続して上昇し、1997年には1,596人に達したのである。この時の増加は、 警察活動の活発化というよりも、実態を反映していたものと思われる。薬物というような禁製品の取引は、 需要と供給の関係を考慮する必要がある(Yokoyama, 1991:2)。まず、供給の面から分析すると、 1990年からの長期の不況で、良い働き場所を失った来日外国人、特に、Iran人が、覚醒剤の密売に 携わることになった(Yokoyama, 1999b:203)。当初は、暴力団の密売末端組織で覚醒剤を売り始めたが、 その後、彼らの独自の密輸および密売の組織を持つようになった。従来覚醒剤の密売をしていた、 暴力団関係の日本人の売人は、任侠道の精神の影響のためか、少年に積極的に覚醒剤を売るようなことをしなかった。 しかし、そのような文化を共有していないIran人の売人は、覚醒剤を少量に分けて、それを比較的安い価格で、 駅前や繁華街において少年に積極的に売りつけた。他方、日本の少年は、西欧の文化へのあこがれがあるので、 好奇心から、「S」とか「speed」とか言う名前で呼ばれるようになった覚醒剤を、覚醒剤とは認識せずに 、Iran人の売人から買い求めることになった(『平成9年版警察白書』1997年、111頁)。また、女子少年の間では、 「diet効果がある」ということで、覚醒剤が乱用されるようになった。
しかも、従来のように静脈注射によって 覚醒剤を使用するのではなく、燃やして嗅ぐという形態で、覚醒剤を乱用するようになったので、抵抗感なく覚醒剤に 手を出すようになってしまったのである。しかし、売人への警察の取締が強化され、また、少年への覚醒剤の 乱用防止策が功を奏したためか、1999年には、覚醒剤の乱用で検挙された少年の数は、996人へと減少している (『平成12年版警察白書』2000年、122頁)。 1990年代後半の少年警察活動の強化の方針は、街頭補導の積極化を招いた。その結果、 喫煙や深夜徘徊と言った不良行為で、警察に補導される少年の数は、1995年の673,345人から、 1997年の814,202人へと急増している(『平成8年版警察白書』1996年、107頁および『平成10年版警察白書』 1998年、119頁)9)。ここにおいても、少年警察活動のnet-widening が伺われる。 日本では、犯罪被害者調査や自己申告調査をしていないので、公的な犯罪統計でしか、少年非行の 動向を判断する材料が存在しない。一般には、少年刑法犯の検挙人員の推移を見て、実際の少年犯罪も、 それと同じように推移していると判断している。しかし、少年の検挙人員の推移は、法執行機関の活動の推移の 従属変数でもある。この論文では、その視点を強調して、実態の変化と、法執行機関の活動の変化という2つの 変数を念頭に置いて、日本における少年非行の動向を分析した。 結論としては、おそらく、実態としての少年非行は、質的には軽微化し、量的には減少しているであろう。 しかし、警察白書や犯罪白書で公表されているdata及びその分析では、日本の少年非行は、戦後一貫して、 悪質化し、量的にも増大していることになる。この分析結果は、mass mediaを通して、広く一般の日本人に共有されている。 ところで、警察は、重大な犯罪事件が起きる度に、警察力の強化をcampaignしてきた。 また、長らく自由民主党を中心とした保守政権が続いたので、彼らのcampaignは、治安維持の 視点から容易に受け入れられた。そこで、警察の人的および物的な資源は、毎年、増強されることになった。 例えば、警察官の定員は、1972年度の181,768人から、1998年度の263,402人へと大幅に増加しているのである (『昭和48年版警察白書』1973年、372頁および『平成11年版警察白書』1999年、254頁)。
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少年法により名無し :2006/03/22(水) 01:12:06 0
休むな
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少年法により名無し :2006/03/22(水) 01:14:03 0
他方、成人刑法犯検挙人員は、1972年の814,394人から1998年の812,299人へと、横這いの状態であった (『平成11年版犯罪白書』1999年、496頁)。実際の成人犯罪が横這いの状態の中で、警察力が増強されれば 、どうなるか。おそらく、警察力は、軽微な犯罪や非行を行った少年をも、積極的に検挙や補導をすることであろう。 1999年の秋から半年の間、警察の不祥事が社会問題化した。その結果、警察は、監査体制の強化などの施策を とることになった。しかし、それらの施策の導入と共に、警察は、空き交番の解消、stalker対策、少年事件、 被害者支援などの対策要員として、2001年度は、2,775人の警察官増員の予算要求をし、それを手始めに、 数年間で、警察官を1万数千人増員する予定である(日本経済新聞、2000年11月2日)。もし、犯罪の実態が 変わらない中で、この増員が実現すれば、より多くの少年が、軽微な犯罪や非行で、検挙・補導されることになろう。 警察が、軽微な犯罪や非行を行った少年を、早期の段階で検挙・補導して、彼らに矯正教育や保護を与える 契機を与えることは、少年犯罪を減らすと言う目的から見ると合理的である。しかし、それを過度に追求すると、 それは、弊害を伴うことになる。例えば、普通の少年が疲れていたために放置自転車に乗っただけで、 警察に占有離脱物横領罪で検挙されたような場合、彼は、非行少年というlabelが押しつけられ、 自己のidentityが傷つけられる。日本の警察は、1997年には「強くやさしい」少年警察を、sloganとして掲げた。 もし「やさしい」少年警察をも標榜するならば、1990年代の前半に一度試みたように、普通の少年が 放置自転車を無断で乗るといった軽微な犯罪への検挙を、手控えるべきではないだろうか。 ところで、社会のおいて、実際に重大な犯罪や逸脱行動が、減少した場合には、どうなるか。 その時は、人々は、重大な犯罪や逸脱行動の周辺に位置する軽微なものに対する許容性を低めて、 それを積極的に統制すべき犯罪あるいは逸脱行動とみなすようになるであろう(Yokoyama, 1986:111)10)。 また、「いじめ」のように可視性が低い逸脱行動も、顕在化させて、統制の対象とするであろう。
犯罪や逸脱に対する人々の意識の変化と、法執行機関の活動の変化とはどのような関係にあるのであろうか。 一つは、人々の意識が変わり、それを反映して、法執行機関の活動が変わるという関係がある。 例えば、従来は性犯罪の被害者の女性に、男性の警察官が事情聴取をして、second rapeといわれるように、 その女性を再度傷つけることがしばしばであった。しかし、最近、犯罪被害者の人権の保障という 意識が高まるにつれて、警察は、従来の男性中心のやり方を改めて、女性警察官を積極的に活用して、 被害者女性の保護や、性犯罪を犯した者の検挙活動に、当たらせるようになっている。1990年代の後半に、 強姦の容疑で検挙された少年が増えたのは、このような過程によると思われる。 他方、法執行機関が活動を変えて、それが人々の意識を変えるという関係も存在する。 日本では、少年非行については、この関係の方が強かったと思われる。つまり、実態として少年の犯罪や非行は、 質的には、例えば、動機、行為の態様あるいは侵害した法益という面では、軽微化し、量的にも減少してきたと思われる。 しかし、警察は、毎年、その人的および物的な資源を増大させたので、非行少年に対する検挙・ 補導活動をnet wideningさせてきた。その結果、「遊び型」といえるような軽微な犯罪を犯した年少少年を、 大量に検挙することにより、少年非行は量的に増大したと、情報を流すことになった。また、少年による特異な 凶悪犯が起こると、それは新しい傾向の少年犯罪であると、強調するのが常であった。警察からこれらの情報を 提供されたmass mediaは、それが客観的に見えるために鵜呑みにして、そのまま報道し、 人々に犯罪の増大と凶悪化という現状認識をさせてきた。また、繰り返して報道することにより、 その認識を増幅してきたのである。そこで、警察は、世論の支持を得たとして、さらに、 犯罪や非行を犯した少年の検挙・補導活動を強化してきたのである。そこには、予言の自己成就といえるような、 一つの循環過程が見られる。 警察が情報を提供し、mass mediaがそれを流すことにより、人々は、非行少年の凶悪化と増大と いう認識を持ち続け、非行少年対策への関心を持続させた。その背景の中で、多くの人々が、volunteerとして、 非行少年の予防活動や処遇に関与し続けてきた
誤解しないで頂きたいのは、「公正な裁判で、公正なやり方で有罪判決がおり、公正 なやり方で量刑が決められたならそれに従ってきちんと罪を償うことが必要である」 ということです。そのために死刑そのものに反対!と言う立場を取り切れないでいる ことも。社会のせいにして本人の責任はない!と言うのはそれこそ緊急避難とかの場 合のみであって、基本的にはやはり本人の責任でしょう。私がよく浅野教授を出すた めに?と思われる方もいらっしゃる<現に、よく批判されてますね、特に前回話した ような掲示板とかには>かもしれませんが、私は彼の人権と報道の理論に対して賛成 するので出しています。彼は死刑には反対の立場を取ってました。彼も人権屋じゃな いのか?と言われても反論を強硬に出来る立場では私はありません。 「報道被害に自分があっても同じ事が言えるのだろうか」「罪を憎んで人を憎まずと 言う言葉もあるではないか」これ、二つとも彼の言葉です。後者は分脈から見てリッ プサービス<?>の印象もあったんですが、もし両方本気なら私は前者だけとりま す。 ただ、全て犯人のせいにして社会の側の顧みるべき点は一切顧みず、罰だけ与えてお しまい!と言う風潮があるとすればそれには大反対です。社会の側の責任は誰にも問 われませんが、反省して起こらないようにするのは社会のつとめだと思います。た だ、今まではその点を追及するあまり、犯人側の責任に対してあまりにも甘い状態で あったことは認めないわけには行かないでしょうね。それでも、反動で全部!にはや はり異議アリです。ちょうど、少年犯罪の親の責任のようなものです。 同様のことは「粗暴犯のうち少年が占める割合が過去最高になった」という報道にも 当てはまる。少年の粗暴犯の発生率は、三十数年前と比べると半減している。だが、 成人(特に二十代)がそれ以上におとなしくなったため、見かけ上、少年の占める割合 が上がったにすぎない。 「死に至らしめる事件を起こした少年」がここ数年急増している、と報じられるこ ともある。だが、増加分の大半は「傷害致死」で、多人数がかかわったとされて一網 打尽になる者が増えているのである。1998年でいうと、82%が4人以上の「共 犯」である。
それゆえ、被害者数が激増しているわけではない。私の推計では、被害 死者数は依然として、60年代半ばの4分の1から5分の1にとどまっている。 さらに、警察庁発表などの報道は、減少・沈静化しつつある罪種よりも、増加傾向 にある罪種を強調しがちである。また、「昨年に比べて激増」「過去5年間で最悪」 などと発表されるものは、その直前の時期までさかのぼってみると、やはり現在の方 がはるかに減少していることがよくある。先日、警察庁が今年上半期の非行状況をま とめ、各紙とも、「凶悪化」という見出しでそれを伝えた(4日付朝刊)。だが、そこ でも、たまたま殺人が極端に少なかった昨年の数字と比較されているなど、強引な解 釈が目立った。 要は、統計数値や解釈の妥当性に関するチェックが必要なのである。 第2に、ごく例外的に起きる重大事件に対して、不必要なまでに微細に報道し、解 釈しようとする、メディアのあり方が問題である。 かつての報道は、事件の経緯をたどることに重きが置かれ、その背景や動機は簡潔 な紋切り型の表現で片づけられていた。佐賀のバスジャック事件がもし数十年前に起 きていたら、「内向的」で「学校嫌い」で「世間を怨んでいた」というふうに、簡単 に片づけられたはずである。 ところが近年は、ごくまれにしか起きない例外的な事件に対しても、青少年全体の 病理を代表しているのでは、という視点から、細かな詮索や解釈がなされるように なった。その結果、「いつでも、どこでも、誰にでも」起きてしまうかのような錯覚 が生まれている。しかも、他者には簡単にはわからない「心」の部分を「事件発生の カギ」とみなすようになったから、どんなに周辺情報を集めてみても、「解決」する わけがない。不安を募らせるだけである。また個々の事件がもらさず報道されること で、少年事件が格別増えたような印象をもたらしてもいる。 稀有な事件の報道では安易な一般化は慎むべきだし、事件と関連の薄い情報の氾濫 は、単なる「覗き趣味」にこたえるものでしかない。 最後に、現状の病理面にばかり注目する傾向が強いメディアが見落としがちな、重 要なもう一つの点を指摘しておきたい。
私は2児の父親ですが、今の少年殺人は明らかにゲームです。それは思春期に入ってくる情報自体が狂っているのです。 昔はやくざ映画を見てなりきっている人がいましたが、やくざ映画は完全に人を殺すシーンで善悪の判断が可能です。 しかし今の漫画(特にヤンキー系)はバットや角材で殴られても死なずに根性を見せて起き上がって戦います。 こんなありえない漫画でインプットされた子供が喧嘩やいじめをし始めたときに手加減ができるのでしょうか? 抑圧された子供も『こうなりたい!自分を表現したい!』と思っていると思います。昔と違い情報が倫理観や影響性も 考えず氾濫している状態で子供だけでなく大人も警察も政治かも毒されて正常な判断ができなくなっていると思います。 確かに少年法は更生を願うもので背景には貧しくってやむにやまれぬ状況や未熟な状態で感情的に犯してしまった 場合に検討されるもので、このようなケースで適応するのは法悪用のなにものでもありません。色々な内容を見ましたが 発生した因子を追求している内容が少ないことに正直驚きです。発生の原因はやはり社会と大人だと思います。 子供に本来教えなければいけないことを学校も親も教えていません。親は自分の子供に有利な事だけしか考えずに 悪いことを自覚できない子に育てています。これはある意味子供が社会的に出世してもその子は年老いた 親を邪魔者扱いにし、自分に有利なことしか考えられない子供になります。そう育てたのは当の親です。 それぐらいのことは親はわかっているべきです。あるケースで小学生高学年ぐらいの子が私にぶつかるふりをして 蹴りを入れてきました。そしてうす笑うを浮かべ自分の父親の腕をしっかり抱いていました。これは強い父親を見方に 付け手を出されないように計算して取った行動です。もし私が中高生であればその子が1人になったときに集団で 暴行を加えているかもしれません。これは中高生レベルであれば相手が卑怯者で正義はこちらですから徹底的に やるでしょう。しかしやられた子供がもし親の躾で『謝れない子供』あったならどうでしょう。
学校でのいじめが問題化するようになったのは1980年代以降であり、校内暴力が鎮静化した1983年ころから 注目されるようになった。1985年には発生件数がピークに達し、いじめに起因すると見られる自殺も増えていった。 特に「葬式ごっこ」でその異様さが注目された中野富士見中学校の鹿川君事件(1986年)、山形県新庄市での 児玉君マット死事件(1993年)、愛知県尾西市での「同級生にいじめられ、110万円以上の現金をとられた」と いう遺書を残して自殺した大河内君事件は衝撃的で、以来、衆議院文教委員会での「いじめ問題集中審議」、 旧文部省の「いじめ対策緊急会議」の緊急アピールと報告、首相官邸での「児童・生徒のいじめ問題に関する 関係閣僚会議」の開催など、政府・文部省をはじめ関係各省庁や各教育委員会の対応が活発化することになった。 1997年10月に埼玉県鳩山町町長が町の広報誌上で「いじめの標的になる子は意志薄弱」「いじめられっ子には 友達がいない」といった持論を展開し、いじめられる側に問題があると主張して波紋を広げた。ここでは、 「いじめの標的になる子を見ると意志薄弱で、生活に独立独歩の毅然たる態度がない」「いじめに全く反抗しないから いじめ甲斐があり、エスカレートする」「いじめられた時、直ぐ相手に飛びかかっていける子には、二度と手を出さなくなる」と 書かれてあり、保護者の間から「いじめ被害者への責任の押し付け」「町長の考え方は強者の論理。基本的な 人権意識さえ欠落している」という非難が出た。これに対して町長は、「批判は結構だ。きれいごとだけではいじめは なくならないので本音を書いた。いじめられる側に問題がないというのは建前論。必ずいじめられる原因があるのだから、 それを取り除くのが基本だ」と話している。ちなみに旧文部省の「児童生徒の問題行動等に対する調査研究協力者会議」が 1996年にまとめた、いじめ対策の報告書では、いじめられる子にもそれなりの理由があるという考え方を 「一掃しなければならない」としている。 いじめやいじめに起因する自殺が頻発した1980年代、いじめは日本特有の現象で、過激な受験競争や 管理主義教育のプレッシャー、弱者や異質性に対する不寛容さや思いやりのなさ、人権意識の未成熟などに 原因・基盤があると言われた。
265 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 01:22:42 0
1990年代になると、ノルウェーやイギリスなど他の先進諸国でも同様に見られる 現象だということが知られるようになり、1996年6月には旧文部省と国立教育研究所の主催で「いじめ国際問題シンポ ジウム」が開催された。例えば、ノルウェーでは1970年前後からいじめが深刻な問題となり、1978年には心理学者の オルウェーズの研究が公表され、旧文部省の主導で全国的ないじめ対策が講じられてきている。 また、イギリスでも1970年代後半から問題化し始め、1980年代にはいじめによる自殺が相次ぎ、シェフィールド大学の いじめ防止プロジェクトを始め、多数の調査研究が行なわれて、教育省もいじめ防止のための教育指導書を作成・ 配布するなど、種々の対策が講じられているのである。いじめは日本固有の現象ではなく、人間としての弱さ・犯罪性に 関わるものであると言える。 年間30日以上学校を休んだ不登校の小中学生が1997年度に初めて10万人を超えた。不登校が増えた背景として、 いじめや学業不振などの問題の他に、学校も家庭もそれほど登校にこだわらなくなりつつある点が指摘されている。 また、従来からの引きこもり型の不登校だけでなく、ささいな理由から学校を休み、不登校に罪悪感を持たない子供たちも 増えていると学校関係者は見ている。ちなみに旧文部省は1992年に、「問題行動の1つ」と見ていた不登校を「どの子にも 起こりうるもの」と定義し直し、「学校は児童生徒の心の居場所としての役割を果たすことが求められる」などの見解を 各都道府県に通知、さらに校外の公的機関や一定の条件を満たす民間のフリースクールに通う子供たちを出席扱いに 認めるなど、不登校に比較的「柔軟」な路線に転換している。これを機に現場の指導は、「ともかく学校に戻す」から 「無理に学校に来なくてもいい」というスタンスに徐々に変化していき、「明るい不登校」(学校を欠席しながら塾には通ったり 、友達と遊び、買い物に出かけたりする)が増えていったものと考えられている。 いくつかの教育機関では不登校の子供像をいくつかのタイプに分けて分析しているが、かつて多かった (1)まじめで過敏、緊張しやすく内向的、(2)逃避的で幼く、耐える力がない――という2つのタイプに代わり、 両者の特徴を併せ持った子供が増えているという。
教師が後の席の子を叱っただけでショックを受けるほど 傷つきやすい一方、わがままで我慢することができない子供もいる。 不登校の子供達のタイプも様々なだけに、子供達が学校の代わりに通う民間のフリースクールが、 情報交換のネットワーク化を図る動きも出ている。 旧文部省の「学校不適応対策調査研究協力者会議」は、1992年に「登校拒否(不登校)問題について−児童生徒の 『心の居場所』づくりを目指して−」と題する最終報告書をまとめ、「登校拒否はどの子にも起こりうる」という視点に立って、 学校が子供にとって自己の存在感を実感でき、精神的に安心できる場所(心の居場所)となることが重要である、と指摘した。 また、「登校拒否の子供にとって重要なことは、単に学校に復帰することではなくて、自らの努力で問題状況を克服し、 自立する力を身につけることである」として、家庭・地域社会や学校外の諸施設と連携することの重要性を強調した。 一方、保健室登校が増えてきており、ある中学校では生徒が1時限の間に保健室へ100人も押しかけるという事態も 生まれている。何らかの心的理由による場合がほとんどであるため、不登校と同根の事象として、保健室・養護教諭の 役割に対する期待が高まっている。 また、学校で児童生徒の生活上の問題や悩みの相談に応じ、指導・助言を行なう存在として、スクールカウンセラーがいる。 アメリカの学校では、進路指導と学習面の問題を担当するガイダンスカウンセラー、生活上の諸問題を担当する スクールカウンセラー、精神的問題を担当するスクールセラピストが区別されているが、近年の日本では2番目と3番目の 意味で用いられており、いじめや不登校への対応として導入されている。 増え続ける小中学生の不登校対策で、構造改革特区への対応を検討していた文部科学省は、引きこもりの子どもに 限ってインターネットを活用した自宅学習を認める方針を出した。同省は1992年から学校復帰を目指すフリースクールなどに 通う場合は、校長裁量で出席扱いにしてきたが、今回の弾力化でインターネットの学習を提供する場合も含まれることになる。 小中学校は対面授業を前提にしていたが、その枠を緩める意味もあり、これによって自治体が取り得る対応策の幅を 広げることとなる。
同省ではまた、「復帰促進」方針を緩和し、不登校児のために柔軟なカリキュラムを持った小中一貫校について、 学習指導要領の適用外として開設を認める方針も出している。同省はすでに、民間フリースクールの一部に調査研究費として 財政援助を行なっているが、この新方針は公立フリースクールの認可を意味している。 文部科学省の「不登校問題に関する調査研究協力者会議」は、2003年4月11日に最終報告をまとめ、子どもを見守る 姿勢を打ち出した前回報告(1992年)から軸足を移し、「自分の力で立ち直るのをただ待つだけでは改善にならない」と 働きかけの大切さを訴えた。この報告は今後の不登校施策の指針となる。この報告では、教育委員会が学校復帰を目指して 設けている適応指導教室の充実や、実績のある民間施設との連携を提言しており、小中学校でも「留年」を活用したり、 児童虐待が原因の不登校の場合には、保護者への「出席督促」制度を活用したりするなど、既存制度の有効活用も 強調されている。 「長年築いてきた指導方法が、今の子供達に通用しない」とベテラン担任教師達が悲鳴を上げ始め、小学校における学級 崩壊の実態が次第に明らかになり始めた。学級崩壊は児童の立ち歩きや私語などで小学校の授業が成り立たなくなる 現象で、1990年代半ばから各地で問題化してきた。旧文部省は「学校の取り組みが先決」として、正面から受け止めて こなかったが、1996年ぐらいから地方議会で取り上げられるなど、全国各地で表面化し、この問題が原因と見られる教師の 早期退職や途中休職も目立ってきた。これらのことなどから、放置しない方針に転じ、学校教育上の大きな課題と 位置付けるようになった。実際、人口約40万人、30数校の小学校がある首都圏のある市の場合、授業が成り立たない日が 続き、親が動き出したことのある学級が1つでもある学校は、全体の3分の2以上に及んだという。クラス単位で数えれば 40以上あり、1学年全部が荒れている例もある。一方、公立中学・高校では校内暴力が1万件を超えて、「荒れる学校」 「新しい荒れ」と呼ばれる状況を呈しているが、1980年代にツッパリの生徒達が集団で学校の管理に反抗したのと違い、 一人で突然「ムカつき」を爆発させる生徒が増えているという。
269 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 01:33:32 O
>>243 糞加害者情報のレスアンカーを定期的に付けてレスれば、書き込みできなくなってもその情報が見易いはず。
270 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 01:50:53 O
269の続き
だと思ったので、レスる時に常に加害者情報のアンカーを付けたいと思いました。
>>243 ←加害者情報
271 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 02:10:39 0
そうだね、漏れもそうしよう
>>243 ←加害者情報
同省ではまた、「復帰促進」方針を緩和し、不登校児のために柔軟なカリキュラムを持った小中一貫校について、 学習指導要領の適用外として開設を認める方針も出している。同省はすでに、民間フリースクールの一部に調査研究費として 財政援助を行なっているが、この新方針は公立フリースクールの認可を意味している。 文部科学省の「不登校問題に関する調査研究協力者会議」は、2003年4月11日に最終報告をまとめ、子どもを見守る 姿勢を打ち出した前回報告(1992年)から軸足を移し、「自分の力で立ち直るのをただ待つだけでは改善にならない」と 働きかけの大切さを訴えた。この報告は今後の不登校施策の指針となる。この報告では、教育委員会が学校復帰を目指して 設けている適応指導教室の充実や、実績のある民間施設との連携を提言しており、小中学校でも「留年」を活用したり、 児童虐待が原因の不登校の場合には、保護者への「出席督促」制度を活用したりするなど、既存制度の有効活用も 強調されている。 「長年築いてきた指導方法が、今の子供達に通用しない」とベテラン担任教師達が悲鳴を上げ始め、小学校における学級 崩壊の実態が次第に明らかになり始めた。学級崩壊は児童の立ち歩きや私語などで小学校の授業が成り立たなくなる 現象で、1990年代半ばから各地で問題化してきた。旧文部省は「学校の取り組みが先決」として、正面から受け止めて こなかったが、1996年ぐらいから地方議会で取り上げられるなど、全国各地で表面化し、この問題が原因と見られる教師の 早期退職や途中休職も目立ってきた。これらのことなどから、放置しない方針に転じ、学校教育上の大きな課題と 位置付けるようになった。実際、人口約40万人、30数校の小学校がある首都圏のある市の場合、授業が成り立たない日が 続き、親が動き出したことのある学級が1つでもある学校は、全体の3分の2以上に及んだという。クラス単位で数えれば 40以上あり、1学年全部が荒れている例もある。一方、公立中学・高校では校内暴力が1万件を超えて、「荒れる学校」 「新しい荒れ」と呼ばれる状況を呈しているが、1980年代にツッパリの生徒達が集団で学校の管理に反抗したのと違い、 一人で突然「ムカつき」を爆発させる生徒が増えているという。
森昭雄日本大学文理学部教授(脳神経科学)によれば、テレビゲームを毎日2〜7時間する子供は、脳の活性を表わす 脳波のβ波が「前頭前野(ぜんとうぜんや)」からほとんど出ておらず、この状態をゲーム脳と呼んでいる。「前頭前野」は 創造性や理性、道徳心など人間らしさを生み出す部分で、注意力やコミュニケーションなどを担う部分でもあり、感情を コントロールする役割もあって、活性化すれば注意力が増し、情緒豊かになるとされる。「ゲーム脳」ではこの働きが悪く、 キレやすい性格につながる恐れがあるという。 例えば、コンピュータ・ソフトウェアの開発者はコンピュータを長時間使うために脳の働きが弱まり、β波がほとんど出てい ないという。痴ほう症のお年寄りでも、前頭前野の働きの低下が実証されている。ゲーム脳、半ゲーム脳の特徴は、 まず表情に乏しく、物忘れが激しいことであり、次に感情のコントロールがきかず、キレやすいことであるという。 ゲームの影響は脳の成長が著しい幼児・学童期が最も大きく、また、高校生のデータを取ると「携帯電話がないと生きて いけない」という異常状態も出てくるが、携帯電話の画面を見ていると前頭前野がほとんど働かず、ゲームの時よりも もっとひどい状態になるという。 授業中に教室を歩き回る、話に集中できない、友達の邪魔をする…。以前なら「行儀が悪い」「わがまま」といったレッテルを 貼られていた子供達の中に、注意欠陥多動性障害(ADHD)という脳機能の発達障害のケースがあることが知られてきた。 米国では1970年代から研究されてきたが、日本で知られるようになったのは1990年代であり、 それに伴って診断も増えてきている。 ADHDの原因は詳しく分かっておらず、行動や思考をコントロールする脳の機能の発達が未熟で、 不注意で落ち着かない行動が目立つとされる。欧米の調査では、児童の3〜5%に見られるという。 ADHDの3大特徴は、不注意、多動性、衝動性であり、米国精神医学会の診断基準の典型的な症状は、 不注意を示す「細かいことに集中できず、学業などで不注意ミスが多い」「毎日の活動を忘れる」や、多動性・ 衝動性を示す「手足を落ち着き無く動かす」「質問が終わるまでに答える」などが挙げられている。
複数が継続的に見られ、精神年齢にそぐわず、生活上で不都合を生じていれば、ADHDの可能性があるとされる。ADHDそのものには 乱暴性は無いが、怒られたり、批判されたりする状態が長く続くと、子供が反抗的になるなど、周囲に危害を加えるケースもあるとされる。 日米の教育の「懐の深さ」の差が参考になる。ある学習障害(LD)を持つ日本の女性が、読む力がひどく劣っていて 試験も苦手であったけれど、今はカリフォルニア大学で海洋生物学を勉強している。どうして入学できたのかというと、 問題を読んで分からなくても、耳で聞けば分かるので、試験も口頭で受験したのである。また、他にも単語の綴りが苦手で、 語学はひどい成績であったが、現在はスタンフォード大学に在籍している例もある。結局、綴りが苦手でも他に何か 得意な分野、好きな分野があるはずで、その個々の生徒が持つ才能を引き出す方法を考えるのが教師の使命であると 考えられているのである。詰め込んだ机上の知識の量でしか個々の持つ能力が評価されない、画一化された日本の 教育の貧しさが指摘されて久しい。 おやじ狩り、援助交際、覚醒剤使用など、非行の低年齢化・深刻化が憂慮されて久しい。この傾向は1993、94年頃から 明らかに見え始め、特に15、16歳の補導人数は1996年に急上昇し、その傾向は変わらないという。少年非行は 「戦後第4のピ−ク」を迎えており、少年非行は放置できないレベルに達したとされる。特に2000年には「17歳」の 少年による凶悪犯罪が相次ぎ、社会に衝撃を与えると共に、少年法改正問題へとつながった。西鉄高速バス乗っ取り 事件では、「13歳以下は何をしてもいいんだよ。16歳以上は控えめに。起訴されちゃうからね。18以上はもう大人。 死刑になっちゃうよ。」というメモが発見されている。 しかし、その一方で日本は殺人被害者も殺人者の出現率も主要国では最低レベルである。この現象に最も寄与した のが戦後生まれの若者達であったことが大きな特徴となっている。これは日本特有の現象とされ、戦後60年近くも戦争を せず、徴兵制度も無かった先進国は他にないという事実も作用していると思われ、若者の暴行、傷害、強姦などの犯罪も 数だけ見れば激減しているのである。
初スレより通しで拝見。 こいつら追い詰められないのか?スレ住人がニートだろうがプーだろうが 地元情報ぐらいあるだろうが。順子さんの無念を思うとこいつらの人生 むちゃくちゃにしないといけないと思うよ。
276 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 05:16:43 0
277 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 05:17:26 0
278 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 05:31:16 0
1980年代半ばに米犯罪学会関係の賞を総なめにした暴力合法化モデル(デ−ン・ アーチャー教授らが110カ国70年間のデータを使って証明)によれば、「戦争に参加した国の殺人者率は上がる」とされ、 例えばベトナム戦争中、米国の殺人者率は戦前より42%も増えたという。 「非行は社会を映す鏡」と言われるが、刑事罰などの対象年齢の引き下げなどを柱とする改正少年法が、2001年4月から 施行された。現行法が施行された1949年以降、初の抜本的な改正で、少年犯罪に対する厳罰化に重点が置かれている。 改正法の主な内容は次のようである。 それまで「16歳以上」だった刑事罰対象年齢を「14歳以上」まで引き下げる 16歳以上の少年が故意の犯罪行為で被害者を死亡させた場合、原則として刑事処分手続きにかける 家裁の判断で少年審判への検察官の立ち会いを認め、3人の裁判官による合議制の導入も可能とする 18歳未満の少年の罪が成年の無期刑に相当する場合は、減刑せずに無期刑を科することもできる これにより、家庭裁判所が「逆送が相当」と判断した場合、14歳以上なら検察へ送られ、大人と同じように検察官と 弁護士が立ち会う刑事裁判を受けることになった。16歳以上が故意に人を殺害した場合も、「原則逆送」となっている。 裁判の判決が実刑ならば、成人が大半の少年刑務所で刑に服すことになり、前科がつく。ただし、義務教育年齢の 間だけは少年院で過ごすことができる。執行猶予であれば、保護司がついて保護観察をしながら、社会へ出て様子を 見ることになる。しかし、この改正によって改善されない点も指摘されている。被害者への責任を明らかにしないまま、 被害者の気持ちとは無関係に、少年の個別性にて処遇が決まることである。少年犯罪の被害者に、特に権利や 保護が叫ばれる所以である。少年の行動が大人と比べて予想しにくく、法律や権威を尊重しないことや、被害事実への 認識が薄いことがあり、自分の行為を理解しておらず、被害者がどうなるか、自分が法的にどうなるかも気にしないような 少年に、厳罰や個別的処遇がどれほどの効果を期待できるかには疑問も残るのである。むしろ、重要なのは少年が 被害事実(被害者)と向き合い、損なわれた関係回復のために何が必要なのかを考えることだとされる。
少年法第61条は「本人と推測できるような記事や写真を新聞や出版物に掲載してはならない」と定めており、「報道の 自由に制限を加える唯一の法規定」とされる。しかし、罰則が無い上、どのような報道が「本人と推測できる」か、従来、 司法判断が確立していなかったのであるが、2003年3月14日に最高裁は「不特定多数の一般人が本人と推測できるか どうかを基準とすべき」との初の基準を示した。これまでにも例えば1998年に起きた通り魔事件の男性被告(犯行時19歳、 懲役18年が確定)について、月刊誌が実名や顔写真入りで報道したことについては、二審・大阪高裁が「61条は罪を犯した 少年に実名報道されない権利を与えたものではない」と判断し、「表現行為が社会の正当な関心事であり、かつ内容が 不当でなければ、(実名報道も)違法にならない」として、出版社勝訴の判決が確定している。しかし、「少年の健全育成を 図る」という少年法の趣旨をふまえ、加害者を匿名にするという原則は広く定着しているという。 厚生労働省などが行った初の実態調査から、「分裂病(統合失調症)などの精神病以外で、6ヵ月以上自宅に引きこ もって学校や仕事に行かない状態」と定義できる。新潟の女性監禁事件をきっかけに、引きこもる若者に対して社会的関心が 高まっているが、インターネットの専用サイトも接続数が急増しているという。「引きこもり」は不登校から長期化した20歳代、 30歳代の人に多く、小、中学校の不登校数から推定すると、約100万人に上ると見られている。「引きこもり」は思春期に 人格が発達していく過程で、ある種の未熟さのために起きると見られており、このため、年齢にかかわらず、視野の狭さや 自己愛的な性格など思春期特有の思考や心の矛盾を持ち続けることが多いという。いじめや学業不振、受験の失敗など、 何らかの挫折体験がきっかけとなり、対人関係が最大の問題となって、「引きこもり」を脱したいと欲しながらも、自尊心や 世間体、家族関係の悪化などからこじれて長期化していくとされる。 子供の発達に重要な、自己に対する価値・信頼・尊重の感覚や、自分の行動に対する制御の能力を養い高める働きを 欠いた家族(機能不全家族)の中で育てられたため、生きる意味、責任感、物事をやり遂げる集中力、他人との親密な 関係などが持てない成人のこと。
クリントン米前大統領が「グッド・ハウスキーピング」誌1995年11月号のインタビュー記事の 中で、継父がアルコール依存症であったため、自分はアダルト・チルドレンであったと述べたことで、この言葉が一躍有名になった。 日本の年間自殺者は3万人を越えており、米国やEUの平均自殺率は日本の約半分であるという。10代の自殺者の比率も 世界で最も高いとされ、また、経済難によるうつ病から中高年の自殺が多いのは、うつ病に対する適切な治療が 行われていないためと指摘されている。これはまた精神病院にかかることを恥ずかしいと感じる日本文化にも深く根ざしてい るとされ、診察を受けるより我慢することを選びがちな日本人気質があると分析されている。例えば、スウェーデンでは 1990年代に失業率が急増したにもかかわらず、自殺率が減少しているが、これは雇用や社会保障のセーフティーネットが 充実しているためと見られる。 自殺が1件あれば背後に10件の未遂があり、さらに既遂や未遂の1件について最低5人が傷を負うと言われている。 したがって、自殺者3万人ということは実に150万人以上が打撃を受ける深刻な問題ということである。とりわけ子どもから 見ると、扶養してくれている親の自殺は衝撃が大きく、こうした遺児に対して周囲では「そっとしておくのが思いやり」 「時間が経てば自然に癒されるだろう」という見方が多いが、立ち直るキーワードは「分かち合い」であるとされる。 親に見捨てられたという「怒り」、なぜ自分だけがこんな目に遭うのかという「不当惑」、なぜ止められなかったのかという 「自責感」、さらに「忌まわしい死」という観念が社会にあるので、誰にも話せず孤立してしまうからである。 そして、その「分かち合い」の場も、同じ体験を経てきた者同士なら「分かってもらえる」と語りやすいため、 ピア・サポート(仲間同士の支援)の重要性が注視されている。そして悲嘆作業を経て、苦しさに占拠されていた心に ようやく余裕が出来ると、視点が社会にも向くようになるという。 思いやりや協調性、人権の尊重とコミュニケーションの確保といった観点から、ボランティア体験の導入や道徳教育の 重視がなされていたが、ここに至って心の教育が叫ばれるようになり、ゆとり・生きる力につぐ、旧文部省の第三の看板と なった。
282 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 09:23:38 0
>>243 ←加害者情報
今日、夢を見た。私が被害者を助け出し、母にも協力してもらって
知り会いの女医さんのところに連れていった。
「20箇所ほど大手術が必要になる」と言われショックで覚めた。
現実は悪夢より残酷だった。
助けてあげられなくてごめんなさい。
やはり人権は「弱者」のために用いるべき道具だと思います。 18世紀から19世紀にかけて、弱者として権力とたたかったブルジョワジー は、産業革命・市民革命とともに地位を向上させ、今度は自分達が、新たな強者とし て弱者を抑圧しました。今度の弱者は、劣悪な労働条件で酷使される労働者でした。 労働者達が、法律で労働時間や最低賃金などを保障するように政府や議会に 要求したとき、彼らの前に立ちはだかったのが「経営の自由」「契約の自由」という 人権でした。 企業を経営するブルジョワジーは「経営者と労働者がどのような雇用契約を むすぶかは、経営者と労働者の自由な話し合いによってきめるべきで、 公権力は干渉するべきでない」と主張したのです。 これを屁理屈と断ずることはできません。実際に、ヨーロッパでは市民革命以前 封建的なギルドの規制や国王と結んだ特権商人によって、経営者たちは自由に 人を雇うことが出来ずに苦しめられたのです。 彼らの言う「経営の自由」「契約の自由」という人権の主張は、20世紀の 初めまである程度の説得力をもっていたのです。 しかし、資本と労働手段をもつブルジョワジーと、自分の能力以外に持たない 労働者とが、自由で公正な話し合いを持つことが出来るでし?うか。明らかに ブルジョワジーのいう「経営の自由」「契約の自由」は、労働者という弱者を 犠牲にすることによって全うされるものになっていたのです。 弱者を犠牲にしなければ守られない人権とは一体何なのか? 労働者のもっと切実な、最低限人間らしく生きる権利は、どうなるのか? 長くきびしい道のりの末に、労働者の権利は、保障されるようになりました。 その結果、逆に経営者の権利は大幅に制限されることになりました。 それでも、それが受け容れられたのは、人権は弱者のためにこそある、という 暗黙の了解があったからではないでしょうか? 弱者には人権以外に自分を守るモノがないのです。力を保つ者は、その力で 自分を守れます。ならば、人権は、弱者のために優先的に使うべきものなのです。
284 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 09:55:52 0
(A)宮野 裕史:みやのひろし S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm (B)神作 譲:かみさくじょう(旧姓は小倉) S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 埼玉県八潮市中央4 (C)湊 伸治:みなとしんじ S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は元共産党員) 埼玉県さいたま市南区南浦和3丁目から 千葉県市川市福栄2丁目に転居。現在は京都潜伏? (D)渡邊 恭史:わたなべやすし S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 神奈川県横浜市金沢区六浦町在住? (E)岩井 哲夫:いわいてつお(旧姓は中村) S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 (F)垣東 孝一:かきひがしこういち(旧姓は伊原) S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。2005年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 その後、頻繁に問題を起こすためか、浦和を追われ「所沢近辺」 あるいは「入間市周辺」「東京都日野市」に転入したと伝えられる。
そして、少年の事件・・・ 私は、同じように考えます。弱者を犠牲にすることで守られる人権とは何なのか、 と。 判断力が乏しく、大人の無責任な言動に傷つき、警察のきびしい取り調べに さらされる少年たちは、弱者なのでしょう。しかし、彼らが犯したかもしれない 犯罪の犠牲者とその家族よりも弱者だと言えるのでしょうか。 あるいは、犠牲者・家族は、強者だとでも言えるのでしょうか。 裁判あるいは少年審判で有罪と決まるまでは、「加害者」でないから保護されるべ きというのも正論でしょう。しかし、その裁判・少年審判のあり方そのものが 犠牲者・家族という弱者の「真実を知りたい」という人権の犠牲のうえに成り立って いるのではなでしょうか。 犯罪が起きたとき、一番の弱者は被害者とその家族であることは言うまでもありま せん。その弱者を犠牲にしなければ守られない人権があるのなら、その人権は 制限されるべきです。「弱者」と呼ばれる少年の被疑者には、弁護士がつき、少年法 でまもられます。被害者・家族には弁護士もなく、名前や顔を伏せてくれる法律もな く、立ち直るための支援もありません。どちらが弱者ですか。 人権は弱者のためにこそあるのです。弱者が人権のためにいるのではありません。 憲法に書かれているからとか、人権は絶対的なものだから、とか言って 人権のために弱者を苦しめるのは、あまりに教条的な態度でしょう。 最後に、・・・ どなたかが、「人権をきちんと保障するためにはある程度犯罪が増えるのは仕方が ない」というようなニュアンスのことを書かれていました。(間違っていたらすみま せん) 私は、そのような考えには疑問を感じます。 犯罪が増加し、治安が悪化すれば、「安全に生活する」という最低限の権利は どうなるのでしょうか。私達には、健康で文化的な最多限度の生活をする権利がある と、日本国憲法にもあります。犯罪におびえ、犯罪によって命や財産を破壊される 危険と隣り合わせの生活は、健康で文化的な最低限度の生活といえるのでしょうか? そして、そんな治安の悪化した社会では、高額なセキュリティシステムをつけた家に 住み、自費でガードマンを雇い、財産を銀行の貸金庫に預けるような人たちが、
この間新聞とテレビで栃木リンチ殺人事件の主犯格の男の控訴審が無期懲役に なりましたがまた再控訴するのではと思います。あくまでも自分は主犯格ではないと 主張してますがそんなことは通る話ではありません。あまりに軽すぎます殺人事件の 立件だけですね。はっきり言って被害者から多額のお金を取っているのだから窃盗罪 もどうしてつかなかったのか納得いきません。検察側がどうして求刑を死刑にしなかっ たのかそれから残りの3人のうちの1人は確か少年院送りになりましたが大人と同様 な刑にしてもらいたかったです。すでに1人は無期懲役そしてもう1人は5年〜10年以 下ですが須藤さんのお父様が極刑にしてほしいという気持ちには変わりはおっしゃりま したが自分もなぜ全員死刑にしなかったのか疑問に残ります。やはり少年法の壁が あったからでしょうか?少年法で片付けてほしくないです。もう少年法を廃止すべきで はないかと思います。これが海外だったらこの男は死刑は間違いありません。 もし再控訴するようでしたら今度は死刑を下してほしいですね。小学生でも犯罪に走る 時代になりました。去年少年法を改正したからそれで終りと考えないで再度廃止を検 討してもらいです。それと裁判所に陪審員制度を設けてもらいたいのと無期懲役と死刑 の差があまりにありすぎます。だから終身刑制度を再度検討してもらいたいですね。そ れから去年バスジャック犯と愛知主婦殺人事件の犯人は医療少年院送致ですが精神 鑑定にそった形になってしまいました。検察側は刑事処分相当の意見をつけても精神 鑑定がつよいのですね。5年以上収容するとなってましたが真面目に勤めていたら5年 以下で出所するのではないかと思います。そして何食わぬ顔で生活しているそう思うと 刑事処分を受けて罪をきちんと償ってもらいたいという気持ちでいっぱいです。もっと被 害者の立場に立って判決を出してほしいです。このままじゃ犯罪大国日本のレッテル をはられてしまいそうです。
287 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 10:49:56 O
(A)宮野 裕史:みやのひろし S45.4.30生/この事件で唯一服役中だが法務省は 刑期満了前に保釈を検討中。出所に備え養子縁組して改姓予定 東海大附属高輪台高の柔道特待生。身長160cm (B)神作 譲:かみさくじょう(旧姓は小倉) S46.5.11生/出所後、再び暴行・監禁 事件を犯し裁判中。「1人殺すのも2人殺すのも同じ」と発言。 埼玉県八潮市中央4 (C)湊 伸治:みなとしんじ S47.12.16生/自宅に被害者を監禁 渋谷区に潜伏? 父=靖人、 母=ます子、 兄=恒治 (両親は元共産党員) 埼玉県さいたま市南区南浦和3丁目から 千葉県市川市福栄2丁目に転居。現在は京都潜伏? (D)渡邊 恭史:わたなべやすし S46.12.18生/事件当時 姉は宮野の女 神奈川県横浜市金沢区六浦町在住? (E)岩井 哲夫:いわいてつお(旧姓は中村) S47生/酒場でこの事件をおもしろく語る。無反省 (F)垣東 孝一:かきひがしこういち(旧姓は伊原) S48生/短い刑期のみ、出所後結婚して子供2人、 長女は小学校高学年。2005年2月さいたま市浦和区木崎に転居。 その後、頻繁に問題を起こすためか、浦和を追われ「所沢近辺」 あるいは「入間市周辺」「東京都日野市」に転入したと伝えられる。 石川あかね 被害者の顔にマジックで落書きした。
バトルロワイアルという映画がありますね。暴力映画だ!少年犯罪を助長する!自民党の 議員が騒ぎました。R-15指定になりましたね。このHPにも反対者がおられます。 僕も「こんな時期にこんな映画なんかつくるなよ!」と思っていました。 でも見に行きました。映画好きということもありまして、興味があったので。すると ・・・。感動しました。はっきりいって。 (ちょっとあらすじ) ごく、近未来の日本。失業者は1000万人を超え、不登校児は80万人を超える。家庭崩壊、 学校崩壊がすすみ、少年犯罪の嵐が吹き荒れる。子供を恐れた大人たちは国会である法案を 可決する。 新世紀教育基本法(通称B,R法=バトル・ロワイアル法)である。 これは、全国の中学校からランダムに一クラスだけ選び、最後のひとりになるまで「殺し合い」 をさせようという法律である。 そして、修学旅行を楽しんでいたあるクラスが不運にもB.R法の 対象クラスに選ばれた。そして・・・・。 なんか・・。少年法改正と似ていますね。これほど過激な法律ができるとは思いませんが。 さて、映画のなかでは残酷なシーン、暴力シーンがこれでもかというようにでてきます。 バタバタと中学生が死んでいきます。 でも、あまり現実感はありませんでした。なんせ、ほとんどが銃器による殺し合いですから。マシンガン でクラスメートを撃ち殺すシーンを、「子供が真似をする!」といわれてもなあ・・。マシンガン なんてどうすれば手にはいるのかな?いまの日本ならムリですね。 さて、大事なのはこれは「大人が子供たちに殺し合いを強制している」映画だと言うことです。 子供たちは好きで殺し合いをしているのではありません。(一人だけ、殺しがすきなバケモノが いましたが)3日以内に優勝(他の全員を殺す)しないと首輪が爆発して全員死亡し てしまうのです。 ゲーム(映画ではそう呼ばれています)の場所は無人島で、銃を持った自衛隊の部隊に監視され 逃げ出すこともできません。 映画のなかでも、少年の一人が「なぜこんなことをするんだ!」と叫ぶとビートたけ しが扮する進行役の 教師が「おまえらのせいだよ!」と答えています。つまり、少年犯罪に対する大人たちの報復という テーマがこの映画の大前提にあるのです。ご存知でしたか?放映反対のみなさん。
で、ゲームに参加するはめになった少年たち(もちろん半分は女の子です)は悩み、 さまざまな行動 を起こします。極限状態におかれ、自殺するもの、他人が信じられずやけになって殺 し合いに参加するもの などです。しかし、なかには友達を信じて団結する者、友達を守って命を落とす者、 死の危険を覚悟で好きな子に 会いに行く者など、美しい(?)ストーリーもあります。主人公たちの行動にも感動しました。 話がそれたかな?僕は東映の関係者ではありません。深作監督やビートたけしが好き なわけでもありません。 映画が大ヒットしているからといって放映期間を延長した東映の商業主義も嫌いです。 ただ、映画をみて自分の考えが変わったことに少し驚いているのです。「なんでこん な映画を作るんだ!」と 思っていた自分がです。つまりこのバトル・ロワイアルという映画に関しては単純に「暴力映画だ!少年犯罪を 助長する!」というのはどうかと思うのです。少年犯罪に対する大人たちの報復がテーマのひとつなの ですから・・。そして映画に出てくる少年たちのほとんどがいわゆる「不良少年」ではないのですから・・・。 たまには自分の意見とは逆の事を考えるのは大切だな・・・。と、思ってしまいまし た。もいましたちろん、超凶悪少年、 たとえば山口県光市の親子殺害者の少年などは生きる資格はないと思っています。こんな少年に食べさせる 3度の食事も資源、税金の無駄です。はやく死刑になり、次の日にでも執行されればいい。 ただ、どんな犯罪に対しても厳罰!厳罰!少年犯罪者はぶちころすべし!というのはどんなもんでしょう・・。 感情にまかせて書きなぐっているカキコがおおすぎる・・・。(被害者の感情に少し でも共感したいというのであればまだわかりますが・・。) たまには冷静になって自分の反対意見もじっくりかんがえてみましょう。お互いに。 それにバトル・ロワイアルに代表されるメディアに対する攻撃です。暴力シーンがあるだけで「少年犯罪助長!」 はあまりに短絡的・・・。かえって夕食事のゴールデンタイムに放送されている「名 探偵コナン」のほうが問題では?
毎週、人が死んでます(笑)。アニメで。しかも謎解きがメインだから人殺しの理由 がおざなりです。人を殺すということは大変なことでしょう。人を殺さなければならないほどの憎しみ、悲しみ があるはずです。(もちろん、快楽や金が目的で人を殺す悪魔もいることはわかっています。そういう少年たちにはさっさ とこの世から消えてもらうべきでしょう。)そういうことを深く考えない。これは危ないと思います。 たまには、冷静になって自分と反対の意見も考えて見ましょう。けんかせずに (笑)。また、他人の意見を鵜呑み にするということも気をつけましょう。映画を見もせずにバトル・ロワイアルを反対 している人はビデオがレンタル されたら一人でみてみたらいかがでしょう? ほんと、世の中ひとつの考え(一方だけの情報)だけではわからないものですね。1 ・15のある番組でもそう思いました。 例のショートコント・加藤の乱での松波議員の水撒き事件です。松波議員が野党のや じに怒ってコップの水を 野党議員にぶち撒いた事件です。最初、おとなげないこんな男がなんで国会議員なん だ?こんなおとながいるから・・・。 と思っていましたが、そのやじの内容は・・・。下品で恐縮ですが・・・、「扇党首 と何発やったんだ!」「やってる、やってる」 だったそうです。VTRの音声解析でも聞こえています。そりゃ怒るよなぁ・・・。や じったとされる若手議員はわけの わからない言い訳してるし・・・。世の中、一方の考え(情報も)だけではわかりま せんね。まったく・・・・・・。
私自身高校生で、少年からの観点で少年犯罪について述べさせてもらいます まず、一番最初に問題にすべきなのはなぜ少年犯罪が起きるか 「キレる17歳」などと言う言葉が出回っていますが キレ「させた」のは、何歳でしょうか 大体、30代後半〜50代ぐらいだと思います まず第一に、親が親としての教育をしていない 教育とは学校に行かせることではないのです かといって、学校に行くなと言うわけじゃないです 親や教師が子供に、現実性ある論理的な勉強を施すのが教育です「現実性ある」と言った理由は 大抵の親が、現実性無い、受験用の勉強をしていると言うことです 受験用の勉強が出来る者を、社会が求めていると思いますか? 次に「論理的な」と言った理由は大抵の親、そして教師は 理由無しに「それはそれ、これはこれ」と言った風に考えを埋め込む形だからです 子供は納得しないし、それに対して疑問、嫌悪感を感じるのもムリないですなぜなら、理由がないからです この「現実性」「論理的」、これが親、または教師などの教育者が 果たしてない、あるいは勘違いしているせいで、子供にはストレスがたまっているのです 私自身、リアルタイムでそう感じているのです また「子供だから」と言うセリフを、子供は一番嫌がります それは、逃げであり、自分が子供レベルまで落ちることを避けているからです もし、そのセリフで喜ぶ子供がいるのなら、子供と言う立場にすがっているだけです また「誉める」「同情する」と言う行為も 自分が上に立ち、子供を自分より下の位置に置く行為なのです もちろん、全ての行為がそうだとは言いません しかし、たとえ悪意無いとしても、そうゆう副作用があるのは覚えておいて欲しいです まず、これがキレさせる原因の一つです次は社会です 形成されてから時間が経ち、複雑、巨大な社会になった現在の社会は 一言でどうゆう物か説明することが出来ません それが問題なのです先ほども申した通り子供は理由が無い物は嫌いなのです 「社会で生きていけないぞ」とか、そうゆうセリフには拒否反応を示します 全員がそうとは言いませんが、疑問を持たない方がおかしいです 社会とは誰が、あるいはどういった団体が、何のために作ったのか 説明できますか?
神戸市須磨区児童殺傷事件を起こした少年が、年内にも医療少年院を出るという。小学生の頭部を切り取り、 小学校の校門の前に置くという残虐きわまりない事件を起こし、6年間で退院というのは、やはりどう考えてもおかしい。 本当に治療が進んでいるのでいるのか疑問である。これほどの事件を起こしているのであるから、 最低医療少年院で26歳(現罪の法律の限界の年齢)までは、退院させてはいけない。少年の心の 治療だけでなく、このような事件を起こしたことの反省をして、出てくるというのであれば、最低でも30年くらいは 社会に出してはいけないと思う。生きていれば、悩みもあるが喜びもまたやってくる可能性がある。生きていら れることの感謝を思えば当然である。最低そのくらいの期間反省してでてきてもらわなくては、社会的に認められ ないと思う。だいたい一部の弁護士や加害少年の人権を声高に言う知識人は、社会通念というものに対して無知 であるか、応報感情はよくないし野蛮であるという蔑視を持っている。被害者の苦しみなどそのような人々にはわからない。 このような少数派にかき回され、罪のない多くの人々が泣き寝入りしている世の中を正すべく行動起こすときが 来たと強く思う。 何故このような世の中になってしまっているか考えてみると、やはりその背景に死刑反対を主張する、 声の大きな少数派の存在に気がつく。朝原被告や宅間被告でさえ、死刑にしないということは、そのような残虐な人々の 命を国が守り続けることを主張している。このような主張を持つ人々は、ほとんどの人が、少年法改正にも反対であった。 これらの人々は、善悪というものを曖昧にする、高等な理論を身につけ、刑罰の持つ応報の部分を巧みに否定する。 このような人々にミスリードされてはいけない。刑罰の目的については、法律の専門家のなかでも意見の相違は多少 あるようであるが、基本的に刑罰は応報であると考えられているのである。今のように、加害者への刑罰があまりに 軽ければ、アメリカのように報復の殺人が起こらないとも限らない。
未成年犯罪者の気持ち、私には分かるような気がします。 ただ、もちろん全ての件に関して、と言うわけではありません。 私は現在、成人している学生の身です。時代が変われば、子供達の気持ちも変わりますから、私の年代とは、違うのかもしれません。 ですが、私は小学校時代。俗に言う小学校上級生の間に虐待を受けていたと感じる時期があったのです。 それゆえに、犯罪に走ってしまう、子供の気持ちが・・・正確には気持ちではないのかもしれ ません。走ってしまった理由が分かる・・・これも言葉として適切とは思えません。言葉にするのは難しいですね。私が20数年生きてきた中での経験を元に、なんとなく感じとってしまったこと。と言う感じです。 どんなことがあったかって言うと、ある日、あの時、あの場所でーーー私の家族に不幸なことが起こったんですね、これが。(途中は省きます。身内の恥をさらすようで嫌なので) 結果、どうなったと言うと、父親は外に愛人を作り、週に2〜3回は家を留守に、母親はその怒りを私にぶつけるようになりました。父親には腕力ではかなわなかったらしいのでね。 色々あって、塾にもいかされていました。 さて、どうですかね? 小学校高学年の多感な時期、ほとんど毎日塾にいかされながら、家に帰っては暴行を受け、両親におまえの父・母とは暮らしていけない。離婚する。と愚痴をこぼされて生きていました。 リストカット。あれも、やろうと何遍も手首にカッターを当てました。まぁ、幸いにして臆病者だったので、切れませんでしたが。 塾にいかされながら、と書きましたが、これも嫌だ!と言う度に殴られるので、御話しになりません。 いつしか、私立の中学校にいくのが当たり前だと思ってました。 ですが・・・なんなんでしょうね。六年生のある日、両親が正気に戻ったのか・・・ 私に悪いと思ったのか・・・ 何があったのかは分かりません。ただ、とにかく二人に心境の変化があったのは確かなんです。 私はその日、いつものように塾にはいきたくない!私立の中学にはいきたくない!と親に泣きながら反発しました。
294 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 13:26:43 0
これがなくなった。近年の脳の 研究によれば、母親が頻繁に赤ちゃんに話しかけると、赤ちゃんは反応し、4カ月ぐらいになると母親のマネし始めると いうことです。ですから語りかけることは非常に重要なのです。そんなことが分かってきました。人間の子供が社会的動物と して成長していくには、母親との相互関係がとても大切なのです。最初に意味のある言葉が出てくるのは1歳の誕生日 前後です。しかし、話しかけることが少なくなっているため、初語の時期が遅れてきています。 初語の遅れの原因として、もうひとつテレビがあげられます。テレビを子守り代わりにしている家庭が多い。NHKの 調査では、4カ月以上のゼロ歳児の5割がテレビを見ている。それも、1日に2時間20分も見ている。1歳児になると、 8割がテレビを見ていて、視聴時間は1日2時間48分にも達しています。 アメリカの話ですが、聾唖者の夫婦に子供が生まれました。両親は子供との会話は手話で行いましたが、子供が言葉を 喋ることができるようにと願い、テレビをたくさん見せました。その結果、手話は完全にマスターできたものの、 言葉は理解できないまま育ってしまった。 言葉が人間を作っているのです。しかし、おじいちゃん、おばあちゃんも近所の人もいなく、語りかけが少ない状況では、 言葉を幼児期に体感するのは難しくなっています。「人間は読み書き能力を磨いて自分を作る。本が死ぬところ、 暴力が生まれる」と言った人がいます。しかし、今はテレビが識字の道を妨害し、人から考える力を奪ってしまっている。 子供が育つには、人と人との直接の交流、つながりが一番大切な要素です。便利な道具ではあるけれども、テレビや、 携帯電話、インターネットは直接のコミュニケーションを妨げている。 経済広報センターの今回の「教育に関するアンケート」の中に、家庭での子供とのスキンシップに関する質問がありました。 親とのスキンシップ、特に父親とのスキンシップが減っているという結果が出ています。父親との接触が減っているのは問題です。 文科省の調査でも、父親が子供と過ごす時間が少ないという結果が出ています。世界一少ない。成熟国では、家族が 一緒に食事をとるのが普通ですが、日本ではできていない家庭が非常に多い。 遊びも人間形成の上では非常に重要な要素です。
年齢の違う子たちと遊ぶことで、社会性や協調性、独創性が培われます。 今の子供たちは家の中でテレビゲームをして遊びますが、これは本当の遊びではないと思います。遊びとは本来、自分たちで ルールを作って、コントロールするものです。ところが、テレビゲームの場合は、はじめからルールが決められている。 戦前の子供は4000種類の遊びを知っていたということです。しかし、今の子供はわずか20種類しか知らないということです。 昔は夕方、「ご飯だよ」というお母さんの声で、1人ずつ子供が遊びから抜ける光景がよく見られたものですが、最近は そういうことがなくなった。一方で遊びは危険でもあった。そうした中で、邪悪なものを見分ける感覚を研ぎ澄ました。 ですから、オウムなんかに誘われても、ついていきません。今の子供は無菌室で育てられている感じがします。 そういう子供には抵抗力がない。 この他にも、生活体験や家の手伝いをする機会が圧倒的に少なくなっています。昔は洗濯や買い物、あるいはリンゴむき などを手伝ったりしました。今はそんなことをする暇があったら、勉強しろと言われてしまう。 10歳から12歳の子供を持つ親を対象に行った「子供の成長についての満足度調査」というものがあります。 これもショックを受けた調査でした。「子供の成長に満足しているか」という質問に対して、満足と回答したのが日本36.3%、 アメリカ84.5%、スウェーデン82.7%、タイ74.1%、韓国52.9%で、日本は他国と比較して異様に低い結果が出ています。 子供が成長するにつれて、満足度が低下しているのです。日本の子供の出来が特に悪いわけではない。親が子供の成長に 何を期待するかなのです。日本の親が子供に期待しているのは、学校の成績です。それも他の子供との比較において。 そうなると、期待に沿えるのは全体の3分の1程度でしょう。子供は自分は親に期待されていないことが敏感に分かる ものです。それに気づいた子供は非常につらいと思います。 親の側の意識を変えないと、子供は救われない。親のほうが子供の何を評価するのか、判断軸を変えなければならない。 学校の勉強が苦手な子供もいる。スポーツが得意な子供がいれば、素直な子供もいる。子供たちの長所を認めることが 大事なのです。
被害者のご家族にも、「もっと子供とコミュニケーションをとっておくべきだった」というご意見をよく耳にしますし、 加害者側であればなおさらでしょう。ところが、その様に思えるのは被害者側だけで、殺人を犯す様な子供など知らない等と、 自分達の育て方を棚に上げて逃げてしまう親御さん達が多いからこその事件ではないでしょうか。この事は、 親の自己啓発に関わるもので、「他力本願、他人のせい」から脱却できずに親になってしまう事は誰にも抑止は 不可能です。 しかも、親とは殆ど話をせず、自分の意見を聞いて賛同してくれる様な仲間達だけと話をし、だから間違ってないと 勝手に判断し、しかもそれなりの年月を過ぎれば少年院から出られる事も知ったうえでの犯行だとしたらどうでしょう。 少年たちは、少年法が甘い事は充分以上に知っていると思います。しかも、少年と少年達とで傷の舐めあいの様な話を しているという事は、例えるならば、馬鹿と馬鹿が話をして結論が出ないか、もしくは、間違った結論を出してしまうという 事だと思えてなりません。さらに、「育てなおし、ドメスティックバイオレンス、ストーカーetc.」の原因も同様と思われますし、 自己中心的な思考から脱却すべく指導できない親は、親自身が出来ていないからではないでしょうか?今、問題なのは 統計的に少年犯罪が増加、減少という話ではなく、どんな凶悪な犯罪を犯した人間も少年であるがゆえに社会に戻って きてしまう事だと思うのです。現状の、被害者側の泣き寝入りに近い、しかも一生心につきまとう様な無念さは厳罰を科す 事で抑止していく以外に方法があるとは思えません。成人と同様に刑を与えてる事ではなくても、本当に改心し反省したと 判断できうる論理的な方法により社会復帰の是非を決断する事が望ましいのではないでしょうか。それは、法律というものが あまりにも画一的に枠に当てはめようとしている弊害だと思いますし、臨機応変さに欠けた穴だらけの法律を改正しようと しない意図が私には理解できません。神戸の悲惨極まりない事件と族の抗争とが、同じ扱いなのはおかしいでしょう。 社会も学校も家庭も全てが甘く生ぬるく少年少女に都合よくなって来ている事は事実でしょうし、駄目なものは駄目だと 毅然とした部分が我々日本人に欠けてきているように思えてなりません。
被害者のご家族にも、「もっと子供とコミュニケーションをとっておくべきだった」というご意見をよく耳にしますし、 加害者側であればなおさらでしょう。ところが、その様に思えるのは被害者側だけで、殺人を犯す様な子供など知らない等と、 自分達の育て方を棚に上げて逃げてしまう親御さん達が多いからこその事件ではないでしょうか。この事は、 親の自己啓発に関わるもので、「他力本願、他人のせい」から脱却できずに親になってしまう事は誰にも抑止は 不可能です。 しかも、親とは殆ど話をせず、自分の意見を聞いて賛同してくれる様な仲間達だけと話をし、だから間違ってないと 勝手に判断し、しかもそれなりの年月を過ぎれば少年院から出られる事も知ったうえでの犯行だとしたらどうでしょう。 少年たちは、少年法が甘い事は充分以上に知っていると思います。しかも、少年と少年達とで傷の舐めあいの様な話を しているという事は、例えるならば、馬鹿と馬鹿が話をして結論が出ないか、もしくは、間違った結論を出してしまうという 事だと思えてなりません。さらに、「育てなおし、ドメスティックバイオレンス、ストーカーetc.」の原因も同様と思われますし、 自己中心的な思考から脱却すべく指導できない親は、親自身が出来ていないからではないでしょうか?今、問題なのは 統計的に少年犯罪が増加、減少という話ではなく、どんな凶悪な犯罪を犯した人間も少年であるがゆえに社会に戻って きてしまう事だと思うのです。現状の、被害者側の泣き寝入りに近い、しかも一生心につきまとう様な無念さは厳罰を科す 事で抑止していく以外に方法があるとは思えません。成人と同様に刑を与えてる事ではなくても、本当に改心し反省したと 判断できうる論理的な方法により社会復帰の是非を決断する事が望ましいのではないでしょうか。それは、法律というものが あまりにも画一的に枠に当てはめようとしている弊害だと思いますし、臨機応変さに欠けた穴だらけの法律を改正しようと しない意図が私には理解できません。神戸の悲惨極まりない事件と族の抗争とが、同じ扱いなのはおかしいでしょう。 社会も学校も家庭も全てが甘く生ぬるく少年少女に都合よくなって来ている事は事実でしょうし、駄目なものは駄目だと 毅然とした部分が我々日本人に欠けてきているように思えてなりません。
私しが感じる日本の法律は本当に時代遅れとしかいうしかありません。近年、日本の犯罪も欧米化して来て、 今までの日本のアマチョロイ法律で何が裁けるのでしょうか?少年法も何が少年法なのでしょうか?少年、少女が 犯罪を起こしても軽く、少年院でも行っておいでぇーみたいな刑で本当に罪を犯した者が反省するのでしょうか? 私しはアメリカに住んでいて本当に感じるのが、少年でも大人でも罪は罪!!私の知り合いの彼氏は16歳で覚醒剤を やって捕まりました。それも初犯です。友達と遊び半分でやったのがバレて。そんな彼は1年半の実刑を受けました。 何処の州か忘れたけど、警官に銃を1発発した少年(弾は警官に当りませんでした)は実刑7年で今、その刑を受けてる 最中でしょう。日本の刑って本当に軽いと思いませんか?それに罪を犯した者の更正を先に考え過ぎてませんか? 人を殴って殺して、1.2年で社会復帰してもいいのですか?あと、日本は元々刑が軽すぎるから、みんな平気、 平気って思っていませんか?私しも若い時は悪かったですよ。バイクを盗んだり、万引きもしたり、でも、頭の中で大丈夫、 大丈夫っていつも思っていました。だって日本の刑って甘いから。友達の旦那さんも覚醒剤で捕まった時、初犯だったので 実刑は免れたし。悪いことをしたら罰する。それ相当の罪をしたらそれ相当の刑を受けるのは当たり前のことですよ。 若い若い、更正の余地があるって言っていたら、みんな罪を犯しても罰することなんて出来ないですよ。アメリカに来て、 私は本当に御利口になったと思いますよ。この国は自由な国だけど、自分の責任の重さを本当に感じますよ。 車で人をひいて殺してしまった人なんて、次の日には囚人の洋服を着て、TVに映っていたし、責任能力っていうのは少年、 少女にもあるはずでしょう?15,16歳で何が悪いとか悪くないってわからないものなのかな?私の旦那はアメリカ人で、 小さい時から、悪いことをしたら刑務所に行くんだよと親に教えられてきたし、学校でも悪いことをしたら罪になると 教えてこられたし、もっと日本の親も罪に対する教育をした方がいいし、学校でも犯罪についてもっと教えていいと思うな。 少年法は罪を犯した者に甘すぎるよ。死んだ人間やその家族のことなんて全然考えていないよ。
少年犯罪・・・・我が家の場合死に至る事もなかったし被害に遭ったのも主人と大人です。 が、ものすごく警察にも腹が立ったし・法に対しても。。。。 残業して自転車で帰宅途中の主人をお酒を買うお金が欲しい・・・という理由から少年7人が 自転車で追いかけてきて主人を殴りました。 主人は自力では帰ってこれたものの顔面骨折で手術となりました。 が、殴った相手の事は皆目わからない。 警察に連絡を入れても教えられないが補導はしましたというのみ。 れからしばらくして、一通のFAX。 3人の加害者のうちの一人の弁護士でした。 こちらは加害者の年齢・名前・住所もわからないのに・・・・ 主人は入院中にて話し合うことはできないとの旨を弁護士の留守番電話に入れましたが、 それ以降1度も連絡はありませんでした。 もう一人の加害者の親も来ていたようですが私の留守中で手紙が入っていました。 息子は反省し今大学受験にむけて頑張ってます。と・・・・余計に腹が立って・ 腹が立って3人目・・・・・いまだに誰だか不明のまんまです。 その時警察に電話を入れ、どうしてこちらは加害者のことは何も教えてもらえないのに向こうは 我が家のこと、名前・電話・住所・職業・家族構成を知っているのか?? おかしい!!と言いました。 その時の返答は、相手はあなた達に謝りたいと言ってきたし弁護士さんだったから教えましたよ。 何かそれがいけませんでしたか??でした。 謝りたい??弁護士が??? 何かおかしくないですか??と尋ねると、その警察の方・・・・・怒っていいました。じゃぁ、教えませんよ!!ガシャン もちろん、弁護士さんにも相談にいきました。 本にも書いてあったのですが、用意で仕事ができません。が、入院でかなりの間仕事を 休んでいたのでこれ以上は無理だと判断し、裁判はあきらめました。 今、思うと本当に熱心になってくれる弁護士さんに出会っていたら・・・・・ 持っていないものの勝ちですものね〜 やったら必ず勝つよ。でも、賠償金を取りたてるのはあなた達だよ。それでもする? 相手は未成年でしょう〜?? 親は保護責任には問えないよ。 と・・・・・お願いしに行くほど悲しくなるばかり 絶対におかしい!
こんな意見は言い古されているのかも知れませんが常々思っていることを書きます。 日本の法律・裁判は「人を裁いて罪を裁」いていないと思います。 特に殺人などの重大犯罪であるほどその傾向があります。 曰く「被告の犯した罪は誠に許しがたいが、その後は深く反省しており更正の余地もある。 よって極刑が妥当とまでは言えない。」神でも無い裁判官が如何にしてその反省が心から のものか見せかけかを見抜くのかも疑問だが、それより何より反省とか更正とかは犯行後 のことであって例え心底悔いたところで過去は絶対に変えられません。 被害者が生き返るわけでもないのに反省すれば刑が軽くなるというのは全く甘過ぎます。 それから情状を酌量しすぎるのも問題だと思います。 もちろん被害者にも非があるようなケースは十分吟味しなければなりません。 しかし被害者に何ら落ち度の無い通り魔事件などで加害者の「責任能力」が争点になるとい うのがよく分かりません。数年前19歳のシンナー常習者によって女生徒や母娘が次々と殺 傷された事件の裁判で、弁護側が薬物による心身喪失状態を理由に無罪を主張したのには驚き呆れました。 こんな弁護士にこそ精神鑑定が必要です。私に言わせれば明らかな精神障害者でも健常者 と同様に裁くべきです。責任能力の有無は犯罪者の都合であって被害者には関係ないからです。 「キレちゃってる奴にやられた場合は天災だと思って締めろ」では浮かばれなさ過ぎます。 もっと「人」では無く「罪=起こしてしまった現実」を客観的に裁くべきではないでしょうか。 専門家ではないので間違っている点もあるでしょうが、裁判のニュースを聞いて無力感に襲わ れることがあまりに多いので私見を述べさせてもらいました。 しかし、実際には少年法により人を殺した少年が保護されています。これって、最初に書きましたが、 暴走族が20歳になったら引退するのと同じで犯罪を助長させていませんか? 言い方が悪いですが実際に「今なら顔も名前も出ないから適当な女をさらってまわしちまうか」と 18の時に言っていた連れがいました。ま〜結局彼は飲酒運転で母親と5歳の子供の乗った軽自動車に 突っ込んで殺してしまい、獄中にいます。それを聞いたときはおめ〜なんか一人で事故って死ねば良かったんだよ と思いました。
少年犯罪・・・ きっと、昔からトップニュースにはのぼらなくとも少年の犯す犯罪はたくさんあったはずですよね。 でも、昔とは犯罪の質が変わった。近年の少年による犯罪の質の変化について、私なりに色々と 考えをめぐらしています。その根本的原因は何なのか。 もちろん様々な要因があるだろうと思います。そしてその要因の一つに、「映像の変化」というものが 考えられる様な気がします。 私は何年か前に少年という枠をはずれたばかりですが、4歳になる娘がいます。その娘を見ていて思います。 娘が発する言葉や娘の見るアニメやCM。その全てが私の幼少時と変わりすぎている、と。ほんの20数年前の 私が幼少の頃は、アニメで殺しあうものや血が飛び散るものはほとんど見れませんでしたし、CMで下着姿はもちろん、 キスシーンは見れませんでした。ゴールデンの時間に罵倒が飛び交う番組や、自殺をテーマにしたドラマは 全く見れませんでした。しかし今現在は・・・。当たり前の様に見ることができます。聴くことができます。 普通に生活をしているだけで、この様に親としては避けたい情報が娘の記憶として保存されていってしまっています。 インターネットや映画、ビデオにゲーム。今後、娘の周りには余りある程の情報が溢れてくるわけですが、 こういうものを皆さんはどう思われますか?映画の内容も映像も随分変わりました。視聴者が物足りないからです。 ”映像や情報が溢れてくると、物足りなくなる。だから実際に行動にうつしたくなる。”この事実が非常に 切実な要因になっているような気がしてなりません。 ゲームももちろん変わりました。映像がリアルになりすぎてしまっています。モンスターを倒して進んでいく かわいい英雄が、人間を切って、殴って進んでいく、しかもどの人間もリアルな映像なのです。 このようなものを仮に毎日見ていたら、物足りなくなるかもしれません。未熟な想像力の少年達ならば。 まあ、成人していたとしても、未発達な想像力の持ち主はたくさんいるのかもしれませんが。 このような映像を規制する法律ってないんでしょうか?R指定位ですか? 私は声を大にして、映像や情報を規制することに、もっと政府は敏感になるべきだと思うのですが。 何かが起きてからその原因をあれやこれやと考え、結局何一つ改善されない。
小学生による銃撃事件や、幼児(!)による幼児殺害事件の発生に至っているアメリカは、 いたずらに豊かさのみを追求してきた人類への警鐘と思えてなりません。 治安の悪化から小学生以下の子供だけで留守番をさせたり、買い物で子供の目を離した親は 逮捕される等々、日本の新聞記事でも紹介されたりしていますよね。 そんなアメリカで5〜6年前に、犬の散歩綱のようなものに子供をつないでスーパーで買い物をしている 親子連れを複数目撃した時は、ただ単に違和感を感じたのですが、先日の長崎の事件を耳にして 日本もじわじわとアメリカの後を追いつつあるような、いやな予感にとらわれました。 6歳が友達を暴行死させた事件は、刑事罰を問える年齢に下限がないフロリダ州で起きました。 犯人は現在、終身刑で服役中だそうです。 記事内容から推察するに、明確な殺意は認められないという理由で、死刑を免れた様です。 当時の年齢では、殺意があったかなかったか、本人も判らなかったのではと思えてなりません。 いづれにせよこの事例は、厳罰化しても少年犯罪は減らないだろうという悲しい示唆を含んでいます。 ただし、フロリダのように、刑事責任を問う年齢を法律で一律に定めるのを廃止するのは大賛成です。 代替として、複数の専門家がケースバイケースで総合的に判断する法制度を望みます。 年齢が低ければ低いほど本人の判断能力の欠如が前提となるため、関連の審議を慎重にやるでしょうし、 判断のための詳細な情報分析のプロセスを通じ、同様な犯罪の再発を防ぐ新たな施策が生まれてくる 可能性は大きいと思います。 情報化、社会での孤立、競争社会の激化、家庭での教育機能の低下、学校教育の荒廃、。。。 これらの因子が複雑にからみあっているのが、先進国の今日です。 物質的に豊かになることを選んで心をどこかにおいてきた代償と、真剣に向き合う時期だと思います。 また、今やらないと手遅れの時期に差しかかってきているようでなりません。 私は2年前、医療事故で夫をなくしました。 結婚12年、夫の病が癒えたなら今度こそ子供をと、思っていた矢先でした。 少年事件のような理不尽な出来事でかけがえのないご家族をなくされた方、お気持ちご察しいたします。
304 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 15:09:12 0
19歳以下を保護する少年法… 14歳以下は刑事処分なし… 前々から思っていたのですが、犯罪者を保護してどうするのでしょうと思います。 なぜ、暴走族は20歳になると暴走行為をやめるのでしょう?それは、未成年者なら、 名前を公表される事も無く保護されるからです。今回の長崎の事件もそうですが、14歳以下なら人を 殺しても刑事処分されないんだと思って事件を起こす少年が出ないと言い切れるでしょうか? 確かに犯罪者の人権はある程度守らなければならないでしょう。警察官の暴行や復讐などあるかもしれません。 しかし、殺人と言うものは被害者にとってはこれから生きることを強制的に奪われた、最強の人権侵害ではないでしょうか? こんな殺人を犯した人間が生きていて、更に、何年かして社会に復帰しているかと思うと街も歩きたくありません。 良く考えてください、隣を歩いている人間が人殺しかもしれないのですよ… しかも、彼らは人間を殺すと言う一線を 超えているのです。 いつも思うのですが、少年法改正反対やら死刑反対している人たちが居ますが、彼らの愛する人が未成年者に暴行、 強姦され無残にばらばらにされ海や川、さらにはダンボールに詰められ自宅や学校・会社に送られてきても、 その人たちは「少年だから、死刑は反対だから」と言えるのでしょうか? 掲示板にもハムラビ法典の引用が間違っていると書かれていましたが、私は過失致死以外の”人殺し”は 全て死刑でいいと思っています。人を殺したら自分の命で償えと思います。 仮に、道路交通法が改正されて10Km/h異常のスピード違反は死刑となったらどうなるでしょうか? 恐らく、スピード違反はいなくなるでしょう。死刑は犯罪の抑止力とは必ずしもならないとの意見もありますが、 逆に100km/h以上のスピード違反までは取り締まらないとなったらどうですか? 恐ろしいことになるでしょう。 私は刑の重い軽いに関わらずスピードは必ず守ると反論するあなた、それでは実際に40km/hの道を40km/hで 走っていますか?コンビニや駐車場に入る為に歩道を横切る時に一時停止していますか? 警笛鳴らせの区間で警笛を鳴らしますか? 住所が変わったら更新前に免許証の住所訂正に警察署に出向きますか? もし、これらの行為の罰則が死刑だったら… みんな守るでしょうね…
神戸の事件の時は「特異な事件」と言われていましたが全然、特異なケースではないと思っていました。 どんな子供でも被害者になる可能性だけでなく加害者になる可能性、要素というのは持っているような気がします。 だから、どんなに法律が厳罰化されても、こういった犯罪が全く無くなるという事は悲しいことに有り得ないでしょう。 ただ、今の少年法はあまりにも甘すぎる。 同じ子供でも命を奪われた子供には未来が無いのに加害者である子供には未来がある。それだけでも不公平なのに 少年法はまだまだ被害者よりも加害者の未来を優先している。 そしてそのことを分かった上で犯罪を起こす性質の悪い子供もいる。 14歳という基準は何を基準にしたものなのでしょうか。 14歳未満は凶悪・残虐な犯罪は起こさないと言いたいのでしょうか。 中学生だろうが小学生だろうが犯罪の中身によっては実名公表、顔出しもさせるべきです。 犯した罪の重さを頭ではなく、心と肌で感じさせるべきです。 「報復・復讐」からは何も生み出されないのは確かですがでも殺された被害者と同じくらいの痛みを実際に感じなければ 本当の更正はできない気がします。 子供を持つ母親として、まず自分の子供が被害者になったら、、、と被害者になったときの立場で考えますが、 どんなに愛情をかけて育てても自分の子供が絶対に犯罪者にならないとは言い切れないと思います。 万一自分の子供が長崎の誘拐事件のような事件を起こしたとしたら自分の子供であってもやはり厳罰に処罰して欲しいと 私は思うと思います。 みんな自分の子供は可愛いし、まさか自分の子供は犯罪など起こさない加害者にならないと思ってる親が多いでしょうが、 そういう親に限って子供のことをよく見ていないものでしょう。 なんとか法改正されないものでしょうか。 このままでは犠牲者は減らないでしょう。 14歳未満は逮捕されないということを悪用しようとする子供もまだまだ出てくるでしょう。 そういう犯罪者予備軍である子供たちを野放しにしておかない為にも厳罰化、年齢の見直し、声を大にして訴えたいです。
釈迦の弟子にアングリマーラという人がいた(麻原の弟子にも同名の人がいたが)。 彼は、釈迦の弟子になる前には、殺した人の指を切り取り、首飾りにしていたほどの 殺人鬼であったという。彼が托鉢にでると、村の人は石を投げつけたという。彼の前 身を知っていたからである。しかし、深く仏道に帰依する彼の姿をみて、長い時間の 後には村人も石を投げるのをやめ、釈迦の弟子の一人として受け入れるようになった という。 「更生」という言葉をきくと、このアングリマーラの説話を思い出す。口をぬぐっ て、過去の犯罪を誰にも知られないまま、幸せになるのが「更生」なのだろうか。そ んな疑問がいつもあるからである。 少年法にある犯罪少年の名前や身元特定についての報道を禁じる規定の背景には、ど うも犯罪少年が、犯罪を周囲に知られないまま平穏に社会に復帰すればいい、という 考えがあるようである。昭和44年、進学校サレジオ高校で同級生の首を切った少年 は、現在は弁護士として幸せに暮らしているという。少年法の考えからいけば、こん なのは200%の更生かもしれない。また、「殺したS君の分も長生きして幸せにな ります」といった栃木リンチ殺人の被告H・Kの発言、これも少年法でいう更生の理 念をふまえたと考えれば、案外まっとうな発言なのかもしれない。 単純な財産犯などでは、こんな考え方でもよいのかもしれない。「何年も前に万引 きが見つかり目をまっかにして泣きはらしていた少年が、今はよいパパになってい る。よかったね。」というように。 しかし、殺人や後遺症の残る障害事件などでは、犯人はその後、過去の犯罪行為に は口をぬぐって幸せに暮らしています、よかったねですむのだろうか。少なくとも遺 族や被害者にとってはやりきれないところだろう。 更生とは、単に人生をやり直し二度と犯罪行為を犯さないということだけではなく、 取り返しのつかない被害を与えたという重荷を背負いながら、長い時間をかけて被害 者や社会につぐないをつづけていくことではないか。
彼らは少年育成の更生等と綺麗事ごとで罪を清算できるような人間ではありませ ん。彼らはいかに逃げ道を作るか、そして、いかに自分のいいようにこれからを生き ていくことししか考えていません。(確信を持って)彼らは弁護士という存在を都合 のいいものとしか考えておらず、裁判官、少年院ではいかにも更生してこれから真面 目に生きていくと言っておきながらしゃばにでれば、もと通りに戻ってしまいます。 以上の事から考えても、人の生命を奪った人間及びそれに近い行為(強姦、監禁等) を犯した人間には死刑を与えてるべきです。そして実名公表を!!自分のやったこと は家族、親戚にも迷惑をかけるのだということを絶対しらしめるべき。また、民事裁 判においても彼ら自身に損害請求をおこなうべき。暴走族の行為で迷惑のかかる車 (特に運搬関係)には会社自体彼らの行為で倒産になりかねない。これほど泣き寝入 りしている被害者が多い国は資本国では日本ぐらいではないか?極端なことを言えば 彼らは人間の血が流れていない悪魔といっても過言ではない。こんな悪魔を助長させ てしまえばそう遠くない将来日本は必ず滅びる。 今の不況、治安の悪化は無責任な 人間(訳のわからない権利意識の高い、協調性のない人間)の増長がもたらしている 部分もあるのではないか?その象徴がいまの少年だと思う。学校でも昔は間違った方 向に行けば、先生が顔を殴ったものだった。いま、それをすれば、親がしゃしゃりで てきて教育委員会、最悪、マスコミに報道され教職生命がいとも簡単に奪われてしま ういまの日本。これでは、思い切った仕事ができない先生はあまりにも気の毒である し、ますます、つけあがる子供が絶対増えてくる。学校のルールを守れない奴に世間 のルールが守れるのか疑問だ。今、日本はすべて(警察、学校等)において悪化の一 途をたどっている。いまこそ、みんなが団結、助け合って日本全体を救わなければな らない。それには将来を担う少年の健全育成は不可欠である。いまこそ(特に治安の 悪化に手を貸しているとしか思えない一部の弁護士は特に)みんな目をさましてみん なが笑って生活のできる環境を築いていこう。
少年犯罪はヤリ得を生んでいます。 このヤリ得は、次の犯罪を誘発します。 これを防ぐには、刑法を厳しくすることも大切ですが、なかなか法律を変えることは 大変で、法律家も保守的なものらしいです。 そこで、少年犯罪の刑事裁判としての甘さを、民事事件の損害賠償請求で補うことを 徹底化することも一策ではないでしょうか。 もちろん、お金で悲しさ、悔しさを補いきれないことも事実でしょう。 しかし、少年が少年であるが故に罰が甘いなら、その責任は親、あるいは将来のその 少年自身にあるのではないでしょうか。 親や少年自身に損害賠償請求をしてください。 そうすればヤリ得を考え、法を厳しくしたがらない人も法を厳しくすることを考える と思います。ここが重要です。 刑事裁判の欠陥を民事裁判で補った判例は、沼津のイジメ恐喝自殺事件や、先日も、 女性の殺人放火事件でもあります。 多くの少年犯罪被害者が、一斉に少年の親や少年自身に損害賠償請求をすれば、他人 に無関心な人達に衝撃を与え、世論が動きます。 賠償請求の目的をはっきり明言して、請求すれば、少年法改正に一役割します。 それが次の少年犯罪被害者の賠償請求や闘う気迫につながり、ヤリ得は減り、少年犯 罪減少にもつながると思います。それが目的です。 人を殺した子供は、やがて大人になり、結婚して子供をつくります。 人殺しの親は孫の顔を見ます。 殺された親は、子を失い、孫も失うのです。こんな理不尽が当たり前に通してはいけません。 加害者は一生を犠牲にして、被害者に償うのです。 自動車事故でさえ、一生を捧げて償っているではありませんか(保険に入っていない場合) あくまで、甘すぎる少年法に抗議するためです。 ヤリ得させてはいけません。泣き寝入りもいけません。 また、ただ刑罰を重くしろと叫んでいるだけでも物足りません。 加害者の一生は、被害者に捧げられるべきなのです。この辺りの法律は整っていると思います。
少年犯罪を犯す少年の大多数が他人によって傷つけられた経験があるという新聞 記事を読んだことがあります。 傷つけられた怒りが内在しそれが他者に向かうともかいてありました。 別の否定的な自己イメージを扱った本に自尊心が低く自分を低く評価する親は子ど もによって自分の価値を証明しようとし、過度の期待をかけ、勉強やスポーツでの成 功をもとめるとかいてありました。こうしたことは子どもにとっておおきなストレスになり うると思います。 親が低い自己評価をもっているときそれは子どもに精神的に遺伝します。そして低い自 己評価をもつと常に不全感にとりつかれ自分はだれからも好かれていないのではない かとさえおもうようになります。そう思う人はときに、反社会的な行動に走り、「自分はこう いうことしているから人にきらわれる、これをやめさえすれば嫌われずにすむ」と、自分に 説得しさえします。おおくの少年の非行はこうしたことが根本にあるのではないか、と私は 思っています。否定的な自己イメージをもつ人は珍しくありません。多くの人はその苦しみ を紛らわせようと、アルコールやタバコなどに依存します。空腹を感じないのに、食べてしま うひとは、そのとき食べ物に依存しています。自己評価の低い夫は妻に暴力をふるうことが あります。それは暴力をふるっても自分からはなれられない妻への依存であるかもしれま せんし、そうすることで威厳をたもとうとするのかもしれません。いずれにせよその家庭で育 った子は自己評価をたかめることは難しいでしょうし、虐待、DVが連鎖するかもしれません。 うちにたまった感情が他者にむかい、重大な犯罪をおこすかもしれません。心の傷の痛みや 、ネガティブな感情はその場だけのものではありません。そうした感情がうちにたまると、とて もくるしい思いをします。 個人的な話になりますが、私の祖母は非常に低い自己イメージを持っていました。私の面倒 をみることで自分を満足させようとしていました。夜になるといつも私のところにやってきて、 私が冷えるのを心配して、服をきせようとしました。私は寒ければ自分で服を着ることもでき ました。祖母は私が寒くないといっても私の意見を無視しました。私の能力は低く評価され、 意見は無視されました。
311 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 16:29:17 O
商いの基本は飽きないことでつ
しかしながら、垣東の娘たちに危害があっちゃイカンなw
今でも実家にかえると、私のところに服をもってきます。18歳の少年にたいしてです。 こうしたことは子どもを過保護に育てる親と大差ありません。祖母と親では親のほうが 影響力はつよいでしょう。 他にも様々な祖母のおせっかいから私は低い自己評価を受け継ぎました。小学校に はいって私はイジメをうけ、不登校になりました。親は無理矢理私を学校にいかせまし た。中学校にはいって私は万引きをくりかえすようになりました。私にもうすこし力があ ったら暴力を他人にふるって苦しみから逃れようとしたかもしれません。リンチによる殺 人事件をおこしていたかもしれません。 少年法で少年に重い刑がかせられない理由の一つに、大人より衝動をおさえる能力が 低いというものがあります。大人でさえつらいときアルコールににげたり他人にあたった りするのに、17,8あるいはそれより幼い子どもが心の痛みからくる破壊的な衝動を抑え るのは難しいとおもいます。 長崎で事件をおこした少年は、近所の人に「今、何時」とか、何回もきいていたそうです。 それはかまってもらいたいようだった、とテレビでインタビューを受けたひとがいっていま した。私はその話しを聞いて、とても胸が痛くなりました。 私も人とふれあいがほしくて、小さい頃そういうことをくりかえしていました。自己評価が低 くそういう方法でしかコミュニケーションがとれませんでした。いつも寂しい思いをしていま した。彼も不健全な環境のもとで育ったようです。 いくら彼がつらい思いをしたからといって、殺人が許されるとはおもいません。被害者の生 きる権利をうばったのです。しかし彼が悪人ともおもいません。彼にどのような刑が相応し いのかわかりません。死刑でも仕方ないのかもしれません。私は彼に罪を償うに充分な刑 があたえられるのをのぞみます。そして、できるなら彼が心の問題を克服し被害者のかた に心からの謝罪の念をもってほしいとおもいます。 加害者の親を責めるかたがいらっしゃいますが、彼らも問題をかかえています。家にか えらず、仕事ばかりしている親は、自分は親として不十分だ、と思っているかもしれません。 私たちは様々な問題をかかえています。そして言い訳をして、めおそむけます。
人間の手になるもの、あるいは人間がゆがめてしまったものには、言うまでもなく 作為・不作為を問わず常に誤りや不完全さを伴います。本当に誠実な人は、そのこ とを先ず認め、そして必要な範囲の現実全体を直視する過程で確認されあるいは 予想される諸々の問題を解決しようとします。いかなる分野・立場の人であろうと、そ の姿勢を欠くことじたい既に、考えるための基本的な資格を失っています。これはき わめて大事なことです。 人間は、言葉の生き物です。それは、法律家など専門家といわれる人々にしても全 く同じです。そして自分自身で、また他者とともに人間全体の関心対象について考え るための基本の言葉はあくまで、万人に通用する普通の言葉です。専門家といわれ る人々が使う専門用語と呼ばれる特殊な言葉は、対象をより厳密に深く追求する場合 に限って有用です。その分を超えると、専門用語はむしろ危険性を生じます。普通の言 葉の定義では対応できない場合にのみ、専門用語の定義が必要なのです。専門用語や 自分たちだけに通用する虚構の論理を、人々を煙に巻き、自らをも欺くために使うことは 、傲慢さと愚かさの為せる業です。まして、そういった職業的利害や面子、付き合いなどを 、人の命や愛、正義、財産などゆるがせにできないことより優先させるようなことは、むしろ 邪悪さから来ると言ってもよいほどの許されない業です。真に専門家と呼ばれるに値する 人なら、そのことを常に深く意識しているはずです。このこともきわめて大事なことです。 さて、少年犯罪に拘わらず、現実の犯罪の細かな態様は、千差万別という表現をも超え るほどです。被害者と加害者、訴える側と訴えられる側という一つひとつの構図の裏には 、愛と憎しみ、血と涙、悲しみや苦しみ、身勝手な論理や残忍さやゆがんだ喜びや狂気(未 熟さとの区別は不可能)などの複雑な要因が関わり、最終的には、必ずしも単純ではない 善と悪との闘いという問題に戻っていきます。犯罪に関わる処罰と償いと更生の問題には、 一律的外形要因のみによるのではなく、容易に見えるとは限らない、隠れた要因にまで可 能な限り踏み込んで当たらなければなりません。そして、その解決は、被害側の救済と加 害側の処罰と償いと更生が、“正義の天秤”上で釣合いを保たない限り
少年犯罪の凶悪化に対応するため、警察庁は11日、これまで成人の容疑者に限ってきた 公開手配の対象を、19歳以下の少年にも広げることを決め、全国の警察本部に通達した。 犯行が悪質で再犯の恐れが高い場合には、似顔絵や身体的特徴を公表できるとし、 顔写真や氏名も『例外だが、全く公開しないわけではない』(警察庁少年課)としている。 同庁は、個別のケースごとに、公開捜査の必要性があるか都道府県警と協議して判断すると している。 容疑者の特徴を公表し、市民から情報提供を求める公開捜査について、同庁は、 1998年の通達で、凶悪犯罪や社会的反響の大きい事件などを対象とし、 原則として容疑者が成人のケースに限るとしたが、少年事件に関する基準は示していなかった。 このため、容疑者が明らかに少年だったり、少年の可能性が少しでもあったりした場合には、 公開捜査はほとんど行われていなかった。 しかし、今月9日に公表された政府の青少年育成施策大綱に、『人権保護と捜査上の 必要性を勘案して、少年事件の公開手配のあり方の検討を行う』との文言が盛り込まれたことを 受け、警察庁は今回の通達で、『必要かつ適切と認められる場合には、例外的に許される』との 考え方を示すことにした。 公開が許されるケースは、犯行手段が悪質なうえ、再犯の恐れが高く社会的不安を与えた事件の うち、公開以外に容疑者逮捕の方法がない場合とし、想定される犯罪としては、 連続殺人や連続婦女暴行事件などを挙げている。公開する情報の内容はケースバイケースで 判断するとしているが、氏名や顔写真の公開もあり得るとしている。 また、容疑者の身元が明らかでない少年事件の場合でも、防犯カメラなどに映った写真や似顔絵、 身体的特徴、音声など、捜査で得た資料を公開する。ただ、容疑者が14歳未満の触法少年の 可能性がある時には、防犯カメラの映像を似顔絵に変えるなどの配慮もするとしている。 2000年6月に岡山県で高校3年の少年が金属バットで高校の後輩や母親を殺傷した事件では、 県警は、逃走した少年を指名手配したものの氏名や顔写真は明らかにしなかった。 今年7月に長崎市で12歳の少年が4歳の男児を殺害した事件でも、 少年の姿をとらえた防犯カメラの映像は公開されなかった。
しかしながら、垣東の娘たちに危害があっちゃイカンなw
317 :
秋葉系ママ ◆4eq5Z7UCHM :2006/03/22(水) 17:53:14 O
ぷっ クソ息子は死ね
犯罪に走ってしまう少年の場合、心の奥深くにあるそうした内的経験に対する「怒り」 や「人間不信」の感情が非常に強くあるのですが、前述したような理由から、その感 情は何年もの間、本人の心の中でくすぶっていることが多いといえるでしょう。 そして、思春期に入り、抑えてきた怒りや人間不信がある時ささいな事をきっかけに して、爆発してしまいます。これが俗に言う「キレる」です。 幼い頃からずっとおとなしく「良い子」だった子でも、ある時突然キレ、犯罪行為にまで 至ってしまうのは、そういう心のメカニズムからです。 しかも、それが十何年貯めに貯めてきた怒りなわけですから、噴き出してくるもの は相当な勢いがあるはずです。彼らの犯罪の手口の残忍さは、このあたりにあるの かも知れません。 そして、ここで重要なのは、犯罪の「動機」に関してです。 怒りの原因ともなった「心の傷」は、して欲しかったことを、してもらえないためにでき た傷であったり、して欲しくないことをされたことによってできた傷であると書きました。 何かをされたこと(イジメや暴力など)によってできた傷は、因果関係がはっきりしてい るようですが、本人が心の奥底に封じ込めていたり、明確に自覚できていなかったり するので、必ずしも被害者がその経験と関係ない場合が少なくありません。また、 何かをされなったことによってできた傷というのは、もともとその原因が存在しないた めに、こちらは因果関係が特定できないのです。ないものは探せないというのが道理 といえそうです。 従って、犯罪の動機が特定できず、「動機無き殺人」などといわれるのもこのためで す。そして少年自身も、自分の心のそういう状態を自覚することができないので、何 故、自分が犯罪を犯したのかわからないし、聞かれても答えられないのです。 しつこく聞かれれば、何か答えるでしょうが、その答えは「人を殺してみたかった」と 言う風に真実が語られていないことが多いのです。 場合によっては、長い間の辛い経験から、心の動きが本来のように機能しなくなり、 その結果、善なる心が動かなくなり、怒りと人間不信だけが激しくうごめいている。
目的地も分からぬまま、努力して大学に入れたところで何を得られるというのだろうか。先行きの見えないこの 不景気な社会の中で、就職しても倒産やリストラに怯えながら毎日を過ごすことが、果たして『幸せ』と呼べるのだろうか。 考え出すと嫌なことばかり頭に浮かんでくる。 高校2年生というのは、誰しも僕のように思い悩む時期なのかもしれない。生意気ではあるが自分なりに、人間の本質、 現代社会の性格、そして人生に至るまで考え抜いて『自分自身』というものをなんとなくでもいいから理解しなければならない、 長い人生において大変貴重な時期であるように思える。僕の場合は運動部でもなく、比較的時間に余裕があったので 深く考えることができた。暗い現実を目の当たりにして、逃げ出したくなった。人生なんてどうでもいいと悲観的にもなったが、 考えるうちに、ぼんやりとではあるが、微かに『光』のようなものが見えた。(まだ捨てたもんじゃないな)と思えたことで、 重く苦しい精神状態から抜け出せたように思う。それは、時には意見の不一致でけんかもしたが尊敬しあえる友達と共に 成長できたおかげでもあるし、反抗期でもいつもとなりで見守ってくれた家族、落ち込んでいる僕を心から心配してくれた 学校の先生方。周りの多くの人が、今の僕を作る要素を見出してくれたように思う。そんな周りの人々の考え方や、 強く感銘をうけた映画、幼馴染の影響で聞き始めたヒップホップという音楽、多くのものから様々な形で影響を受け、 今では一人前に夢のために頑張っている僕がいる。一生かかっても返しきれないほどの愛情を受け取ることができ、 進みたい道を歩くことができた。 きっと事件を起こした17歳も僕と同じように考え、悩んだのだと思う。しかし、不幸にも彼らはいつまでも『光』を見ることが できずに、苦しさから耐えることをやめ、人生から逃げ出したのではないだろうか。そして罪を犯したように思う。 最近の少年犯罪では、普通の子が突然キレて犯行に及ぶ、というケースをよく耳にする。このことを父に話したときに聞いた 話では、一昔前はこのようなことはなかったらしい。悪さや夜遊びを覚え、しだいにエスカレートしていき、大きな罪を犯して しまう者はいても、今のように真面目そうな子が突発的に犯罪者へと変わる姿は世代の違う父としては信じ難いようだ。
山口で親子が殺害された裁判で、裁判官が「裁判は復讐の場であってはならない」と言ったそうですが、 私は「裁判は復讐の場でなくてはならない」と思います。法律が、裁判が復讐してくれなかったら、 被害者やその家族はどうすればいいのでしょう?自分で仇討ちしなくてはならないのでしょうか? あの裁判官は、もし自分が被害者の側に立ったら、それでも同じことが言えるのかしら? 「インチキ人権主義者」の人々は、加害者の更正の機会がどうのこうのと言うけれど、 世間に後ろ指さされることくらいで更正できないのなら、そんな人は最初から更正するなんて無理なのだと思います。 人を殺しておいて自分は生かされているのだからそれで十分ではないですか? 後ろ指さされながら生きる事に耐えられないなら死ねばいい。 彼らにはその選択の自由があります。 でも、被害者には選択の自由はなかったのです。 被害者にだって、これから未来があったのです。それらを勝手に奪っておいて、更正するために世間ぐるみで 協力してくれというのはちょっとムシがよすぎる気がします。 更正できないのなら、最初から加害者にならなければいいでありませんか!! もし私の子供たちが被害者になったら? 考えたくもないし、考えられないけれど、加害者には、単なる極刑なんかではなく、想像できるありと あらゆる苦痛を味わった跡で、「死にたくない」と叫びながら死んでいってほしいと願うでしょう。 加害者になったら? それも考えたくもないし、考えられないけど、そうなることのないように、今から、命の大切さ、 悪いことをしたら必ず罰せられる、ということを教えていきたいと思っています。 今回の事件の後で、息子にも、どこに行っても絶対に私から離れてはいけない、といい聞かせました。 いつも行っているスーパーでお隣の売り場に行ってもいけない、と。 そして今度の事件のことを話しました。気をつけない悪い人は大人だけじゃない、子供にもいる、 犯人は中学校に行っているおにいちゃんだったと言いました。そして、「そのおにいちゃんは、 とても悪いことをしたんだから、ずっとずっと牢屋に入っているんだよ。おとうさんにもおかあさんにも 会えないんだよ。大人になって、おじいさんになって、死ぬまで、ずっと牢屋に入っているんだよ。
321 :
少年法により名無し :2006/03/22(水) 19:13:01 0
↑ 超キモス こんな香具師がやヴぁいんだよな…まじキモイ
子供が逮捕されてまず1日目はショックで何も考えられなかったのですが2日目からは「やっと安心しておいと おける所にいるんだから自分をまず考えてみよう」と思い3日目にやっと「お酒をやめよう、逃げては駄目だ」と それだけしか考えられなかったのですが、この逮捕は子供がなにかを私に教えてると思い考え続けました。 そんな事がなければ分からなかったのですが、子供が非行に走ったのは絶対に親の責任です。なぜなら子供と 対等に話してないからです。 「親の気持ち」だけを話しているからなのです。 私はいつもいつも親の気持ちだけで話し、押しつけ、怒り、そして「なんでわかってくれないのだろう?? なんでこんなに悩んでるのに!!」と自分だけが悩んでると思いこんでしまい自分だけが苦しいと勘違いを してしまい目の前の事だけで精一杯になり半分以上子育てを放棄してしまいました。現実や子供の叫びから 逃げてしまいました。 ですから子供は当たり前のように坂を転がり落ちてしまい、少年院に行きました。 もちろん、自分の更正、子供の更正はありましたが、捜査が終わったと警察から電話があった時に、 家に人がいて100%の謝罪は出来なかったのですが(二,三日後に100%の謝罪ができなかった事を謝罪しました) 「とにかく謝罪をしたい」と思い電話をして謝罪をしました。 その後も連絡がとれる被害者の親の方にも連絡をし、もちろん会ってくれる人達には会って謝罪をさせて頂きました。 その中で、この事件の事は自分が知っている限りは被害者の親の方達に話しましたし、もちろん審判の日にちや 結果など「知りたい」と言う被害者の親の方達には連絡をいれ結果を言いました。 その後、弁償や慰謝料などでなかなか上手くは(被害者の方の意思に添うような)いかなかったのですが、 誠心誠意(弁護士を入れて話しては?という意見も貰いましたが子供の罪は自分の罪です。 自分の子供が勝手に恐喝をしたのですから私の出来る限り自分で謝罪を続けたかかったのです) 自分なりに考え最後までやらせて貰いました。 もちろん少年院の仮退院の日も被害者の方達に連絡をしました。 その後も「本人と謝罪をさせて頂けないか」と連絡もしました。
少し前になりますが、夕方のニュースでこんな意見を耳にしました。 それは弁護士のもので、兵庫県で起こった少年と少女による、「タクシー運転手 殺害事件」についてのものでした。 その弁護士は加害者達についてこんな風にコメントしていました。 「この事件はねー、2人で逃避行って感じで、私なんかちょっと胸にきました けどねぇ。若い頃ってこういう気持ちにになったことがありませんか? あ、でもやった事は悪い事には違いありませんけどねー。」 主な意見がこんな内容で、しかも笑いながら言っていました。 この発言は『だけ』ではないのでしょうか? 弁護士だからといって全国ネットのニュースでこんなことを平気な顔をして 述べる。そして被害者の家族は少年事件だからと言って、蚊帳の外にされる。 少年事件に直接関わっている人間が加害者側にしかいないのに、これ以上 被害者の何を傷つけたいのか?と思います。 『だけ』が不平等だと言う方や考える方に質問します。 では、被害者だけが、なぜ命が亡くなっているのですか? なぜ、被害者だけが、これからの人生がないのですか? 反対に生きているのは加害者だけですが、これは不平等ではないのですか? 起こっていることが元々不平等なことなのに、同じ壇上にあげる事自体が 間違っているんですよ。 被害者は殺される前は生きてても、今は亡くなっているから、終わったこと だから無しにしろというんでしょうか? 前出の弁護士は、どう見ても少年の未来を案じて弁護をしているというよりも どちらかと言うと、少年に媚びてお金を稼いでいるだけにしか見えません。 私も19歳になったばかりで子供と言われてしまう年齢です。でも、一般的に大人 の年齢の方達の意味もなく子供に媚びる行為が、何とも醜く、信用出来ないもの か知っています。 少年犯罪者も、媚びる弁護士を見てせいぜい利用することしか考えないのでは ないですか?逮捕されてすぐに「本人もよく反省しています。」なんて発表が ありますが、どう考えても胡散臭いです。 犯罪を「若気の至り」風にしか扱わない、少年事件に関わっているすべての法律 や人間に人を裁く資格などないんじゃないでしょうか。
私が生に社会と接している、とは言えないでしょうね。人と付き合う事は苦手です し、あらぬ疑いをかけられたとあれば相手が先生と言わず誰と言わず逆に怒鳴り返す くらいしますし・・・。いつも図書室にいるような感じ。もちろん、親しい人とはとて も親しく付き合っているのですが、そうでない人とのコミュニケーションは苦手、そ んな人間ですよ、私は。 しかし、不合理な感情を受け止められない、それがなぜか、ここは法の問題だからで すね。また、そうした感情も見て、心に留めるようにはしております。もちろん、た だの噴出感情・私的意見を口を極めて非難したりする事は致しません。<もっとも、 以前はやっていた事は認めます>ただ、それが被害者の人権擁護にとっていい事なの かどうかにはやはり疑問符がつきますね。 法律によって世の中を動かし、必要なら法律を改正する。これって、今の日本の鉄則 でしょう。また、法を第一義に考えなければならないからこそ、ここで、きちんとし た観点からの議論をしよう、と言っているわけです。もし私の意見に分からない事が ある、批判がある、そうなのならもっとびしびしと言ってくださって構いません。私 は気に入らぬ論客を悪魔化し・・・<前科はあるな・・・>ともかく、そうする事はしない 様努めますし、そうなっていたらまた指摘してください。 まず断っておきますが、私は別に浅野教授を「尊敬」しているわけではございませ ん。反対の部分は報道とか破防法問題に関しては見当たらないんですが、国際問題と なるとそうとは言えない部分もあるので、それだけは覚えといてください。そうそ う、今度「冤罪−日本の黒い夏」公開されますね。浅野教授と河野さんは「松本サリ ン事件報道の罪と罰」を共著するなど、結構一緒に行動する事が多いです。しかし、 こうした事を自分の事として考えると、はっきり言って最も現実味があって恐ろしい ホラー映画のようなものになるのではないか、そう恐れています。冤罪を他人事と考 える人の中には、「制裁報道は民主主義を補完するための「村の掟」として是認され る」<小林よしのり氏>等と言う事を平気で喋る人もいますね。少年問題も冤罪はよ り問題となりやすく、以前その番組を見た時の事を投稿した事もありましたね。
今日も昨日と同じだった おそらく明日も今日と同じだろう そして月日は流れてゆき 気がつけば四十半ば ふと我が人生を振り返れば 流れ作業と博打と風俗 田舎の親も年老いた 「天涯孤独」まさに目の前
今日も昨日と同じだった おそらく明日も今日と同じだろう そして月日は流れてゆき 気がつけば四十半ば ふと我が人生を振り返れば 流れ作業と博打と風俗 田舎の親も年老いた 「天涯孤独」まさに目の前
人にはそれぞれ意見があって、それは1人1人違うものです。 私にも私の意見があります。賛成されない方もいると思いますが、 私の考えを述べます。 最近の少年犯罪はニュースできいても耳を塞ぎたくなるばかりです。 なぜ、そんな残酷なことが出来るのか私にはどう考えても分かりません。 他人の痛みが分からない人たち。それは少年ばかりではありません。 想像力のなさ、なのです。お腹を蹴ったらどうなるか、頭を金属バットで 殴ったらどうなるか、ナイフで切りつけられたらどのくらい痛いのか、 そういう事を考えることはあるのでしょうか。考えても分からないのか。 他人の痛みは自分の痛みとは違うものだとでも思っているのか。 それとも考えてみようともしないのか。笑いながらリンチができる人たち。 そういうニンゲンを私はどうしても普通の人間、感情をもった人間だと 思うことが出来ないのです。笑いながら人が殺せるなんて本当に あなたは人として生きてきたのですか?と言いたい。そんな人が ほんの数年、少年院に入っただけで、普通の人間になるなんて思えません。 私はそんな人には社会に出てきてほしくない。自分の周りはおろか、 大切な家族の周りに近づいてほしくない。一度殺人を犯した者は、 一生その罪を償って、そのためだけに生き続ければいいと思うのです。 生きて自分のしたことを本当に理解してから、絶望のうちに死ねばいいと 思うのです。殺されてしまった人はもう二度と戻ってこないのに、もう二度と 笑うことも泣くこともできないのに、殺した犯人はまたいつか自由の身に なって、笑ったり泣いたりするのかと思うと、決して納得がいかないのです。許せな いことなのです。 単なる感情論かもしれません。でも被害者のとっては決して消えることのない感情 でしょう。癒えることのない痛みでしょう。 それを、想像することを。もしこれが自分の家族だったら、と考えたら、 少年法改正に反対することはできないはずです。これでもまだ手ぬるいのです。加害 者の年齢がいくつであっても殺人は殺人として処罰するべきだと私は思います。
家庭のしつけとか親の権威とかといった事については 色々なところで色々な人が語ってますから、重複する事は書きません。 私の見聞したこと、私の知人が見聞したことを書きます。 ・私が昨年、自宅のあるマンションのエレベーターに乗っていた時 40歳くらいの男性と10歳くらいの少年が乗ってきました。 2人の会話で親子だとわかりました。 少年は楽しそうに学校での出来事を父親に語っていました。 少年は、自分と友人達がどんなに授業中騒ぎまくり 暴れまくり、先生がどんなに困っていたかを楽しそうに 話していました。父親はそれを「ふーん、そうか」と微笑みながら聞いていました。 ・私の知人が自宅で塾をやってます。通ってくる子供達と 休憩時間に色々な話をするそうです。まだ幼い子供達 の話にはやはり「お母さん」のことがよくでてくるそうです。 しかし、何人かの子供の話には「お母さん」という単語が ほとんど出てきません。かわりにテレビに出てくるタレント の名前がひんぱんにでてくるそうです。その子達は使う言葉 まで、タレントと同じで、小学校の3,4年生の子供が 深夜のお笑い番組のような言葉で話している様子は、 薄気味悪い、とのことです。 ・前にも登場した、他県の高校教師が数年前に体験したことです。 数人の生徒が、たばこを吸っている現場を先生に発見され、停学ということになったそうです。 ところが、その停学の「申し渡し」をするため、親を学校に 呼んだ所、何人かの親は「忙しいから」「具合が悪いから」 と、来ることを拒みました。朝でも夜遅くても昼間でも そちらの都合に合わせますから、と言っても、あーだこーだ と理由をつけて拒み続けました。 学校に来た親たちも、・・・ ある親は「停学にされて子供が家にいたら仕事にも行けない。 停学にしないで学校で指導して欲しい」と言い、 ある親は「子供の教育を受ける権利の侵害だから、停学には 反対だ。授業を受けさせながら指導しろ」と言い ある親は「ほかにもたばこを吸ってる生徒はいっぱいいる のになぜうちの子だけ罰せられるんだ」と言い ある親は「先生が校内を巡視していて見つけたというのは 最初から生徒達を疑いの目で見ている証拠だ。
死刑については廃止するべきか存続するべきかいくつかの意見があります。 人の貴重な生命を奪ったものを死刑にしてやむを得ない、死刑は凶悪犯罪の防止に役 立っている。被害者や遺族の感情を考えると死刑は実行するべきである。 反対意見としては死刑は人の貴重な生命を奪うことなので、どのような場合でもさけ るべきである。 死刑は凶悪犯罪の抑止力となっていない。 死刑は間違いが判明しても取り返しがつかない(冤罪) 死刑にするよりも、更正させて社会に奉仕させるべきである。 この冤罪については日本では死刑確定後再審によって無罪になった事件は4件あります。 免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件、この事件で無罪になった人たちは30年 以上にわたる獄中生活を強いられました。 彼らのこの間の時間はどうしてくれるんでしょう。 それ以外にも再審請求中の名張ぶどう酒事件や1審で死刑判決を受け先日(7月15日)控 訴審が結審した冤罪事件の鶴見事件 (控訴審判決は10月30日)があります。それ以外にも今まで何人の人が無実の罪で死刑 判決を受けたでしょう。(執行されてしまった人も何人いるのか) 冤罪の現因として見込み捜査、不当な別件逮捕、代用監獄(国際的に批判を受けてい る)自白強要の取り調べ、取り調べ期間の長さ 自白中心型裁判などがあります。この日本の刑事司法の現状を何とかしてほしいです。 死刑は冤罪の可能性が絶対になければ必要だと思いますが、今の日本の刑事司法の現 状では冤罪を生む可能性は十分あります。 少年事件としては先日(7月16日)被害者の遺族が起こした民事訴訟の差し戻し審が結 審した「そうか事件」があります。 この事件は1985年埼玉県草加市で女子中学生の遺体が発見された事件です。 この事件で犯人とされ逮捕された少年達は警察の脅迫的な取り調べを受けその中の一 人が嘘の自白をしてしまいました。 この自白が証拠とされ少年達は少年法上の有罪にあたる保護処分を受け彼らは高裁、 最高裁にも抗告しましたが棄却され有罪が確定しました。(少年法上の再審は認めら れていない)保護処分は刑事上の刑罰ではないため。 その後被害者の遺族が少年達に起こした民事訴訟で、1審の浦和地裁(現さいたま地 裁)では少年達の無実を認め原告の請求を棄却しました。
今日も昨日と同じだった おそらく明日も今日と同じだろう そして月日は流れてゆき 気がつけば四十半ば ふと我が人生を振り返れば 流れ作業と博打と風俗 田舎の親も年老いた 「天涯孤独」まさに目の前
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少年法により名無し :2006/03/22(水) 20:25:09 0
今日も昨日と同じだった おそらく明日も今日と同じだろう そして月日は流れてゆき 気がつけば四十半ば ふと我が人生を振り返れば 流れ作業と博打と風俗 田舎の親も年老いた 「天涯孤独」まさに目の前
●このスレにレスしようと考えている小犯新人住人さんへ●
まぁこんな感じですわ。このスレは自演房が元々自分でスレ立てて。存在しない住人を
作って加害者への罵詈雑言被害者への同情を一日中書き込み、作られた流れに感化された
少年犯罪板新人さんがレスし始めると今度は逆の事をして煽り、反応を面白がる。
それが病みつきになって立て続けてる真性キチガイスレッド。
住人が居ない上にID不可視をいい事に自演し放題(4年以上)
訳の分からん住所を加害者の所在だTELだと書き込みしてはイタズラ電話やらビラ貼りを
煽り、影で面白がる。
終いには加害者降臨ごっこやら探偵ごっこ。
煽りに都合のいいようにガセ情報ネット中に書きまくり。
このコンクリ自演房が架空住人を作って人気スレに見せ掛けているのが判明したのが去年の
9月。
http://makimo.to/2ch/tmp5_youth/1126/1126178367.html スルーしても何してもやめやしねぇ。
とりあえずこのスレに書かれることは何も信用するな・・・。
何か書く時は絶対にsageて書け。
自演があげまくるから少しでも自演の架空住人と見分ける目安になる。
※ ※ ※ 自演嵐の主な特徴 ※ ※ ※
(新人さんは必ず読んでね。嵐は他のスレにも出張するよ)
特徴)あちこちにコンクリスレを立てて好奇心を引こうとする
(最終的には自演しやすい少年犯罪板へ誘導)
特徴)「お前加害者か?」「お前○○(加害者の名前)か?」等のレスパターンが好き。
特徴)トリップHNが大好き
特徴)芝居がかった鼻息の荒いレスが多い
特徴)架空住人を作ってスレの95%を一人で埋める(ライフワーク)
特徴)加害者100人をやたら誇張 !
特徴)被害者に同情するレスも付けスレ住人を増やそうとする。
特徴)悪戯電話を要求するのが好き
特徴)関係者、情報通を装って妙な事を言い始める
(酷い時には日代わりで関係者を降臨させる事もある)
特徴)話にガンダムを絡めることがある。
特徴)有り得ない非常識さを晒すことがある
特徴)レスの前半の話と後半が繋がらない時がある。
特徴)面倒になるとコピペ (粘着し始めるとスレと無関係なコピペが増えてくる)
特徴)土日祭日平日関係なく一日20時間自演。
特徴)(荒らす時は)自分で自分を攻撃するレスを付け
『みんながやってる』
ように見せスルーを困難にする。
特徴)初心者を装ったレスで質問してくる。
特徴)古いアニメネタが多い(80年代後半〜90年代、集英社アニメ化作品が多い)
特徴)age房である
特徴)自身が管理人と思われるガセ情報発信サイトへ誘導する
PC向け
http://myweb.kingnet.com.tw/aoi102/no1.html ケータイ向け
http://myweb.kingnet.com.tw/aoi104/0kt12.htm ※基本的に幼稚だが時間と量にモノをいわせてガセや釣りの種まきをする
◎このスレに頻繁に書き込まれる嘘 ◎
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
●レイプに参加した加害者は100人もいる。
(加害者があちこち自慢してた為、拉致を知っていた人が100人もいたというだけの話)
http://ppcfan.at.infoseek.co.jp/backstage/20030415.html ●被害者が『ゴキブリ』『ウンコ』を食べさせられた。
●加害者が飲み屋で「本当はもっと色々やった」と自慢してたという話
●暴走族わら人形が関わっていた(暴走族わら人形は30年近く前1976年9月9日に解散している)
https://orange.mynethost.com/~usr126795/nenpyo.html ●裁判記録の一部が残酷過ぎてスミで塗りつぶされていた。
●加害者の父もレイプに参加していた。
●スマイリー菊池や飯島愛が事件に関係している(菊池聡という加害者は存在しません)
(飯島愛は被害者の顔に落書きした女性とイニシャルが同じ事から流れたガセ)
●遺体からオロナミンCの瓶が2本発見された云々 (発見されたのは,あくまで「ドリンクビン」です)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/josikousei.htm ●被害者は処女だった(ソース無し)
●その他多数
自演の狙いは新人です。ガセを真に受けたり、煽りに乗ることのないようお願いします。
ホントはこんなレスもしたくない・・ : | スレそのものが釣り!
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∩___∩ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ノ _, ,_ ヽ (( | プラプラ: | とにかくだなぁ
/ ● ● | (=) | 小犯コンクリスレにレスする
| ( _●_) ミ _ (⌒) J )) | こと=自演を喜ばす事だから
彡、 |∪| ノ < コンクリスレは2ch
⊂⌒ヽ / ヽノ ヽ /⌒つ | に沢山あるから
\ ヽ / ヽ / | レスしたい新人は
\_,,ノ |、_ノ | そっちに行ってくれ
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