「少年に奪われた人生」151〜152ページより
報道陣を前に怒りをぶつける本村さんを見ていたら、その日の朝、本村さんが
運転する車の中できいた彼の言葉がふいによみがえってきた。一審時と
いまとでは心情的に何かちがうことはありますか、と質問したときに
返ってきた答えだった。本村さんはハンドルを握り、まっすぐ前方を
見つめながら言った。
「無期懲役にはいつか終わりがある。いつか罰が終わる。加害者にとっては
それで赦されたというふうに考えてしまう。でも、私のような犯罪被害者に
とっては終わりが無いんです。不可逆の罪を犯した者への罰に終わりが
あるというのは、一体どういうことなんだろうか。被害者は
一生引きずっていくのに、罪を犯した人には終わりがある。
加害者が警察に捕まったら、あなたの罪はこうで罰はこうだと
言ってもらえるけど、被害者遺族は自分の大切な人がどうして殺されて
しまったのか、それを回避したり、守ることができなかったのか、
こうすれば守れたんじゃないかと、自分の落ち度を探してしまう。自分が家庭を
守れなかったことに対する罰を、自分で探しているんです。それを
怠けたりする自分を見つけると、さらに苦しくなる。だから、殺された人に
何かしなければならない強迫観念がでてきて、それをしなければ、死者に対して
罪滅ぼしにならないと思う。でも、何をどうしたらいいのかわからないのです。
暗中模索です。そういった気持ちからいつか解き放たれるのか、それも
わからない。いや、きっと解き放たれないとも思う。とにかく、どうすれば
いいかをすべて自分で考えなければならない。変な言い方ですが、加害者は
罰を与えてもらえるから楽だなと思います」
この件についての私の見解
本村洋のこれらの言動は本村洋の極端なマゾヒズムを象徴するものである。
「自分の家族を守れなかった人間に対する罰」などという概念は善意の
人間に対しては萎縮させるだけの効果しかなく生産性が全く無い。むしろ、
「自分をいじめる人間は利用しやすい」と考える悪意の人間にとって都合が
良いだけである。
人間には「罰を逃れたがる」という習性があるが、本村洋のこの発言は
人間の習性を全く理解できていないものである。
「自分の家族を守れなかった人間は過失が無くても罰されるべきである」と
言う概念は、自分の家族を守ろうとする人間を絶対的に弱い立場に
追い込むという形での悪影響を及ぼすだけである。
ましてや、「加害者は罰を与えてもらえるから楽」などという概念は
「罰という損害」を「楽」と表現したからマゾヒズムの極みである。
自らの落ち度や自らに対する罰を探すだけでも十分にマゾヒズムにあたるが、
その上に、本村洋は敢えて「自分を怠けている」と考えているから、
本村洋は「マゾヒズムにマゾヒズムを重ねるような人間」である。
このことの最も重大な問題は「自分の発言が世間に大きな影響を与えることを
望んでいる」本村洋がこのような発言を行うことによって、他の犯罪被害者が
「本村洋のマゾヒズムを真に受けて」マゾヒズムになる危険があることである。
「天国からのラブレター」94ページより
手紙を書き始めてから、1時間が過ぎた。時が過ぎるのは本当に
早いね。今日はエリザベス女王杯だ。絶対に大穴が来る。大金持
ちになってやる。……それはそうと、木曜日、酔っぱらっちゃっ
たね。Y、酔うと甘えだしたり、泣きだしたりして大忙しだ。
でも、それがとっても可愛い。「守ってあげなければ」と、い
つも思う。
門司港駅から家に帰る途中で、Yが「私の大事な人、みーんな
どっかに行く」って泣き出した時、すごくYが好きだと思った。
俺のためにY、いっぱい友達なくして、つらい思いをして、そ
れでも、俺と付き合ってくれる。だから余計に「Yを幸せにして
あげよう、大事にしよう」って思う。