>>129はM.Y同様のストーカーである。
>>141はM.Y同様に
「愛の為なら何をしても許される」とか、
「愛の為なら残虐な殺人も許される」などという傲慢で
邪悪極まりない考えの持ち主である。
>>141はM.Y同様に
自分しか愛することができないにも
かかわらず、「自分は他人に対する愛情が満ちている」と
思い上がるような大悪人である。
M.Yが本村洋から別れ話を持ち出されたらを本村洋を
殺しかねないことと同様に、
>>141は
自分の恋人に別れ話を持ち出されたら
「自分がこんなに愛しているのに別れ話を持ち出すなんて許せない」と
逆上して、その恋人を残虐なやり方で殺すような人間である。
>>141はM.Y同様に自分の家族を殺しかねない。
>>28はM.Y同様のストーカーである。
>>28はM.Y同様に
「愛の為なら何をしても許される」とか、
「愛の為なら残虐な殺人も許される」などという傲慢で
邪悪極まりない考えの持ち主である。
>>28はM.Y同様に
自分しか愛することができないにも
かかわらず、「自分は他人に対する愛情が満ちている」と
思い上がるような大悪人である。
M.Yが本村洋から別れ話を持ち出されたらを本村洋を
殺しかねないことと同様に、
>>28は
自分の恋人に別れ話を持ち出されたら
「自分がこんなに愛しているのに別れ話を持ち出すなんて許せない」と
逆上して、その恋人を残虐なやり方で殺すような人間である。
>>28はM.Y同様に自分の家族を殺しかねない。
「T」39〜41ページより
私は18歳の時にYと出会いました。私の住まいも、当時通っていた
北九州高専も小倉南区内でしたが、Yが通う福岡工業短大は福岡市
郊外にありました。しかも、同じ北九州市でも門司に自宅がある彼女
は、いつも電車で小倉駅を素通りし、その先の福岡市内まで約1時間
半も掛けて通学していたのです。そんな2人は平成6年10月中旬、小
倉の居酒屋で開かれた”合コン”の席ではじめて会いました。Yが女
友達に誘われて、そのコンパに参加していたのです。男女5対5で、
男性陣は高専のクラスメイト。女性陣は代理高校の同窓生つながりです。
しかも、その合コンに来ていたYの親友(中原さん=なか)と私は、
しばらく前からの顔なじみでしたので、コンパで座った私の席は2人
の隣になりました。蓋を開けてみれば、私と中原さんは、その合コ
ンをきっかけに交際を始めてしまったのです。コンパであった時の第
一印象では、断然、Yのほうが私の好みのタイプだったのですが、
彼女にはその当時、親しく付き合っている男性がいると思いこんでし
まって、私はYを諦め、中原さんと付き合うようになったわけです。
高校時代からの親友だったYと中原さんでしたが、それ以来、Y
ともすっかり意気投合してしまった私は、何かあると2人の仲間に入
れてもらうようになり……結局は3人で酒を飲んだり、ゲームに興じ
たりすることも度々となりました。
女同士とはいえ、2人はまるで漫才コンビのように面白い友達でした。
そこに、私が新たに加わっても遠慮はありません。中原さんがボケて、
Yがツッこむといったパターンがしっかりできていました。それは
実に楽しい一時で、私達はいつも明るくキャーッ、キャーッとはしゃ
ぎあっていました。
思えば3人ともまだ18歳で、本当に他愛のない恋愛ごっこをしていた
のです。当時の私なんかいっぱしの大人ぶって、彼女達の前でカクテ
ルなど飲んでみせてはいましたが、本当は、酒の味なんか全然分か
っていなかったのです。
しかし、男女三人のこんな楽しい友人関係が崩れたのは、平成6年の
11月27日のことでした。その夜は、近くのコンビニでしこたま酒やツ
マミを買い込んで近所のYの家に押しかけ、3人で飲み会をやった
のです。ところが、しばらくすると中原さんが酔いつぶれて眠ってし
まい、いつの間にかYと私は面と向かい合って酒を飲み、話に興じ
ていたのです。そのうち、私は酒の勢いもあって、
「実は最初に会った時から、Yが好きだった」
と、自分の気持ちを正直に告白してしまいました。するとYも、
「私も、ずっと好意を持っていたんだけど……」
と応じてくれたのです。これはショックでした。Yに好きな男性が
いるものと思い込んでいた私は、勝手にYとの距離を置き、その空
白を中原さんで埋めていたことになるわけです。
しかし、Yの本心を知ったその時は、喜びで胸が一杯になりました。
高ぶる感情を抑えられなくなり、思わずYを抱き寄せて、キスをし
てしまいました。それまで私の交際相手であった中原さんは、すぐ横で
寝入っています。しかも、彼女は、Yのとっては一番の親友です。私
もYも罪の意識を感じなかったわけではありませんが、その時は夢
中で、何度も甘いキスを交わしました。今、思い返しても実にスリリ
ングな夜でした。そして私とYにとっては、それこそ運命的な一刻
だったのです。
その日から、私は中原さんと距離を置くようになりました。異
変に気づいた彼女は、私の変わりようをYに相談しました。Yは
答えようがなかったと思いますが、何とかその場を取り繕っていた
ようです。しかし、そんなアイマイな態度をとりつづけるわけに
はいきません。1週間後、私とYは勇気を奮って、中原さんに正直
な気持ちを打ち明け、謝りました。そして、私達2人はオープンな交
際を始めたのです。それは平成6年12月3日のことで、今でもよく記
憶しています。
Yの私宛の手紙は、その3日後から始まりました。