>>4 未成年という言葉で、これから未来を担う人間をひとくくりにしないで欲しい。
責任を環境や大人に押しつけてしまう未成年も多いけれど、
そんな中でも、自分を叱ることの出来る大人になりたいです。
小学校高学年という、多感な時期に私は転校しました。
もちろんいじめられた。
何度もカッターを握り、親に気づかれないように毎日泣いていました。
でも、死のうかとするたびに親の苦労や自分が耐えてきたことを思い出し、
『このまま生きていれば小さな幸せも他人の何倍も幸せに感じられる日が来るんだ。』
と思い頑張り続けました。
うちの親は何度も離婚し、家庭環境は少しも良いとは言えるような感じでは無かったと思います。
でも小さい頃からただ1人血縁関係のある家族であり、育ててくれた母を見ていたから
非行に走ろうという気は今もありません。
いじめられて、死にたくなったり相手を死に追いやりたいと考えるのは、毎日でした。
でも一瞬の行動で、まだ長い自分の一生をムダにしたり母を苦しめることはできなかった。
心のどこかで
『耐えることは美学だ。こんな辛い経験は滅多に出来るものじゃない。
強い人間になるための試練なんだ。』
と毎日言い聞かせていたような気がする。
現実を見たくなかったし、本当はすごく寂しかった。
10分という短い休み時間が、毎日訪れる地獄だった。
でも、中学で休んでばかりいたら高校への内申書で、行きたい高校にも行けなくなると思い、
どんなに辛くても”普通に学校に行ける日”を信じて6時間目からでも学校に行き続けました。
もちろん、先生はいじめは見て見ぬフリだし登校し続ける私を褒めました。
褒められてもちっとも嬉しくはなかったけれど。
今、わたしは高校へ通っています。
見た目のことで生意気だと先輩にいじめられた時もあったけれど、
小学校・中学校の時から比べれば小さなものでした。
もと居た小学校も変なところで、『教師のはき捨て場』と言われている学校でした。
だから、先生=いじめる側だと思っていたけれど優しい大人に出会って、
こんなに素晴らしい大人がいるのかと、感動したこともありました。
周りの友達が『むかつくんだよ、あいつ(教師)。うぜー!死ね!』
などと言っているのを見て、『こんな優しい先生にむかつくのは、幸せなんだな』
とも思いました。
今は、毎日が楽しくて仕方がありません。
朝起きて普通に学校へ行けることがこんなに幸せだなんて知らなかった。
休み時間が待ち遠しいなんて口にしたこともなかった。
朝、「おはよう」って友達に言われると、嬉しくて仕方がない。
”ふつう”であることの幸せを、私と同年代の少年達にも知って欲しいです。
詳しくは話せませんが、私が今まで生きてきた環境は、周りから見れば悲惨で悲しいものだったと思います。
ですが誰よりも貴重な経験をさせられたと思っています。
辛いとき、誰よりも愛してきてくれた母を思うと強くならなくてはと思いました。
父親にも愛されず、誰に死ねと言われても、たった1人私を必要としてくれている人がいたら
非行に走ったり犯罪を犯したりは出来ないと思います。
だから私は、非行に走ったり犯罪を犯してしまう少年達に親や環境のせいにして欲しくない。
貴重な経験だと思って、その分強く生きて欲しいです。
少年と呼ばれる立場から意見を述べました。
長文すみません。
今『大人』である方達も、少年であったことは間違いありませんよね。
『少年』という言葉でひとくくりにせず、1人1人の人間として見て欲しいと思います。
レス頂ければ嬉しいです。