●コンクリート抱かせて千葉の海沈めたろか 6●

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166名無しさん(新規)
事態は重要な局面を迎えた。8月18日(月)離婚届受理。
ついに法律上も別れてしまった。 ことの発端は2001年の忘れもしない4月13日(金)の翌日、
オーバードースしてしまったことだ。 息絶えようとしている私を妻は唖然としてながめていたのだろう。
そのまま救急病院へ。 3日間意識不明でICU泊まりだ。意識レベル3の300、挿管反射もない、
助かっても障害が残るかもしれない、悪性症候群のおそれも控えていた。  
当時子どもは6才、4才ともに男児だ。6才の子はいつかぽつりとこぼした。
「父ちゃんが薬をたくさん飲んじゃうからだ。」返す言葉はない。それまで平穏とまでは言えぬが
何とか夫婦と子ども二人の生活を送っていたのだ。それを一瞬で失ってしまった。
肺炎と腎機能障害のために1か月ほど入院した。
その間妻は子育てと、自分の学校生活の合間を さいて面会に来てくれた。
残された最大限の愛情だったのだろう。

(。´Д⊂) ウワァァァン!!
167名無しさん(新規):05/01/29 15:53:09 ID:Kg9bFVSa0
しかし、退院すると帰る家はない。
空間がないわけではない。住んでいたアパートの部屋に妻も子どもの姿もない。
必要な家財道具をまとめて、出て行ってしまったのだ。

 それから2年半あまり、別居生活が続いた。最初は住所さえ教えてくれなかった。
アパートを教え、電話番号を教え、アパートに上げてくれ、公園で会ってくれて、
次第に二重生活のようなものが始まった。しかし妻は一向に同居の許可を与えてくれない。
このまま平行線をたどるのか。

 今夏、面会を条件に離婚を決意した。妻子を養えない夫に用はない。書類上離婚することで
妻子は種種の経済的支援が受けられるのだ。来春、卒業と就職を控えた妻への、
せめてもの謝罪かもしれない。経済的余裕ができ就職先の選択に幅が持てればいいなと考えた。
僅かではあるが、私が再度家族を養える力を取り戻せれば、元のような四人家族生活が帰ってくる。