もっともコア・ファイターの原型たるTINコッドという大気圏内専用小型
戦闘機は宇宙世紀0062に試作機が完成したものの、実用化は大幅に遅れ満
足に活躍できず、さらにこの機体よりも遥かに活躍の場が‘あった‘フライマ
ンタ(単座式戦闘爆撃機)の後継機となったTINコッドUは或るスペースノ
イド寄りの中央議員から「思いやりレプリカ」と揶揄(やゆ)され、本格的な
活躍の場面すら探すのが難しいほどであった。
「モルモット隊に所属していたという記録はすでになかったこととなっている」
ということなのだが、このEXAM(高性能OSともいうべき特殊システム)
絡みの事柄にかかわらず、軍の実験データ収集に関わっていた将校やパイロッ
トは多くの場合生存している例は極めて稀といってよい。ユウ・カジマに直接
関連する人物もこんにちでは数名を数えるだけとなってしまっている(中略)
もっとも第11機械化混成部隊(先に述べたモルモット隊というのは通称で
ある)に所属する前から、エースパイロットとしてルウム戦役へも参加してお
り、その卓絶した技量はMSという兵器に乗り換えても衰えることがなかった。
ユウ・カジマ連邦軍中佐は、一年戦争時60機を上回る戦果をあげたとされ、
その撃墜記録や上記のEXAMをめぐるモルモット隊の激闘、戦争終盤のソロ
モン、ア・バオア・クー要塞攻防でのジム・コマンド搭乗時の記録を合わせる
と100機以上(ただしこれは現在異論が出されている)の戦果を出したとも
いわれるが、EXAMシステムの存在自体が公式から抹消されてしまったため、
かれの名が広く喧伝(けんでん)されることはなかった。
グリプス戦役後、訓練将校となった同僚のサマナ・フュリスの誘いを受け宇
宙軍省に出仕した際、アデナウアーと知り合い、この参謀次官の勧めもあって
ルナツー方面軍に所属し、一MS部隊長としてこんにちに至っている。
かれがこのように現在の立場を得、さらに中佐にまで階級をすすめるきっか
けとなったのは、たまたまアデナウアーがかれのシミュレータ記録を見、実際
にその記録以上の成績を(あくまでもシミュレーション上でのことだが)叩き
出したためであった。
ユウは多弁とは程遠い‘寡黙なエース‘で、
「いつの頃からか、やたら喋り散らかすパイロットが増えてそれに便乗する者
も多くなってしまった。二ムバスの再来はもう御免だ」というおよそ饒舌(じ
ょうぜつ)、過信がつよすぎる者に対し警告を発していた言葉が現在かれの名
台詞として残っているのだが、これは芝居がかかりすぎているであろう。実際
のかれは要点を押さえるのが上手く、一言ですべてを集約できるプロフェッシ
ョナルというべき男であった。かれのみるところ、およそ生意気なエース気取
りの少年兵を優遇し過保護にすることよりも、もっと大事なこと、目の前の課
題をクリアしていくことこそがもっとも肝心であるということなのであろう。
このような現実主義的な部分がアデナウアーをしてかれをこそと思わしめ、先
の稿で述べた‘MS戦のエキスパートとして任せるべき存在‘となってゆくの
である。
ジョン・バウアーがローナンからの書簡を受け取りラサに急遽(きゅうきょ)
もどったということは、コジマやジダン、サンダースたちはよく知っていた。
が、バウアーのラサ帰還をかれらは重視しなかった。どころか、意にも介さ
なかったといってよい。
「あの男に、もはや何ができるか」
と、すでにアデナウアーの‘新部署を創設せず‘という一件が老木の了承す
るところとなっていることに気をよくし、あとは参謀府から立案、策定される
であろう宇宙艦隊再建計画がまとまり、稼動の目処がたつことしか考えていな
かった。
エインスタインの策戦は、
「バウアーとホワイトとを連合させてアデナウアーとその一派の中央議員たち
にあたらせるしかない」
というものであった(中略)
バウアーはダカール行きの際、ストアストに自らの勢力基盤である補給部門
をあずけて行った。ストアストはこの期間、宇宙軍、地球軍両省に影響のある
補給部門統括者となっていた。事実上の長官職であった。
が、バウアーはラサ帰還後も、
「やはり君があずかっておいてくれ」
と、ストアストにあずけっぱなしにして、いっさい補給部門にもゆかず、一
見、フリーランスのような姿をとっていた。
いずれにせよ、策士のエインスタインは、バウアーがいまのようにフリーの
ままぶらりとしていては事がはこばないと思い、かれみずからもバウアーに説
いたが、同時にかれは老木とローナン・マーセナスのもとにゆき、
「ぜひバウアー殿に以前の地位に‘もどって‘くれるよう、お二方から切に説
いてくださいませんか。ご存知のように、宇宙軍省はおろか地球軍省にいたる
まで軍内の影響力をもっているアデナウアー参謀次官に対抗しうるのは多くの
中央議員のなかでも軍の‘生命線‘をにぎっているジョン・バウアー殿しかお
りませぬ」
と、説いた。
現連邦政府議長である老木とローナンはこの事態に弱りきっていた。バウア
ーの力を恃(たの)む以外にないというのは、エインスタインと同感だった。
となれば、ローナンがバウアーを説得できるかどうかにかかっている。
ローナンはこの夜、車を走らせてみずからバウアーの邸宅をたずねたのであ
る。
ローナンは日ごろのかれにしてはめずらしくきちんとネクタイをしめ、全身
黒づくめというべきスーツをまとってバウアーの家の客間に入ると、二人だけ
で話がしたい、ときりだした。
「貴殿には、以前の重鎮の地位に……もどってもらいたい」
というと、現下の情勢の切迫についてローナンは言葉をつくして語り、説き
に説いた。
が、バウアーのほうが頑固だった。
「とても。――」
と、かぶりを振りつづけるのみであった。
バウアーはこの大地にしがみついてもかつての補給部門の長――連邦軍内の
多方面に影響のある重鎮的立場――になぞなるまいと肚(はら)をきめていた。
軍内部にシンパをもち、発言権を堅持したうえで中央議会の本審議決定に参画
した場合、かつての盟友と血みどろの闘争になることがわかっていたし、議論
の方向によっては思わぬ敵が出てくる可能性も考えられた。しかも勝つ見込み
はわずかしかない。たとえ勝っても、あの地球軍と密接な関係のあるコジマに
連なる者たちが天誅を決行して自分を殺し、あくまでも保守理論を貫くだろう
とおもっていた。旧世紀から幾度となく繰り返されている暗殺事件、近い例で
いえばダカールのブレックス・フォーラの二の舞ではないか。
ローナンは、
「ジョン・バウアーという‘大物たるべき‘男がしかるべき地位に就き、しか
るべき事を成さねば政府は潰れるとわたしはおもうのだが、潰してもよいと思
うのか」
と、極端なことをいった。
「軍関係のシンパや、しかるべき地位にふさわしいお人なら、ホワイト殿がお
られましょう」
バウアーは顔色も変えず、かれにとっては第一次ネオジオン抗争以前からあ
まり良好な関係でなく、愉快でもないこの日和見主義的な元軍属出身者を、言
葉をつくして推賞した。ホワイト殿はご存知のごとく多少の小事に心を動かす
ような小さな器のお人ではありませぬ、かの人ほど現在の要人たちのなかで経
験のある人はなく、かの人ほど軍・企業関係以外のシンパをもっている人もな
く、その発言や将来の見通しも正確なお方はほかにおりませぬ、といった。
(確かに軍属などといった‘様々な経験者‘という意味ではホワイトのほうが
上だ。しかしホワイトという男は非常時とあれば火中に飛び込み、身を焦がし
てことに当たるという覚悟や信念が欠けている)
ともローナンはおもっている。ローナン・マーセナスほどホワイトとバウア
ーの相違を明確にとらえていた男もすくなかった。
それにホワイトにはやや危険なところがある。かれは頑固なまでの政府主義
者、それも連邦政府の要人の一人であるという意識を強くもっている男ではな
く、ときに己のみの保身や立場を考慮しすぎて国策決定や冷静な状況把握を怠
るところがあり、この部分がホワイトをつねに動揺させている感じがあった。
そこへゆくとバウアーはホワイトのように連邦正規軍属出身ではない。
元々実業界からのし上がってきた男で、その経営者としての実績と評価をて
こに、政治家となったのである。一企業の経営を通して政治というものがいか
に魔力的なものであるかを知り、その密接な関連があれば多大な恩恵を受ける
ことも、また処し方によっては恩恵にあずかれない部分も多分にあることを知
りぬいた。
「ホワイトはなるほどいい」
と、ローナンはいった。本気では言っていなかった。ホワイトという男は要
職にいながら責任を取ることを嫌がる男で、いざとなれば第一次ネオジオン抗
争での不手際(ダブリンへのコロニー落とし)以上の失態を犯すかもしれない
ということをローナンは気づいていた。
「ともかくも、受けませぬ」
という意味のことを、バウアーは繰り返し述べて、ローナンの勧誘を拒絶し
つづけた。
一方、ローナンはローナンで、顔にあぶらを浮かせ、ときに膝をのりだし、
ときに空のコーヒーカップをつかみ、驚嘆すべき執拗さで説きに説いた。バウ
アーを事実上の補給部門の長にもどすというのは、ただのならび中央議員とい
うことではなかった。バウアーの政治的実力からみても事実上、高官(重鎮格)
の座を占めるということであった。高官、しかも旨みのありすぎる立場になる
ということをこれほどいやがった例は、地球連邦政府の政治史のなかで存在し
ない。
事態は紛糾をかさね、解決の糸口も見出せない。
「どうあっても私は出ませぬ」
と、バウアーは繰り返し補給部門の長にもどることを拒否しているし、しか
もホワイト殿を主軸にして新陣営をつくられよ、と老木とローナンに勧めたが、
ホワイトその人が動かなかった。ホワイトはラサ帰還後、「休養したい」とし、
中央議員としての職務にもどることを辞退しつづけているのである。
エインスタインはホワイトを頻繁(ひんぱん)に訪ねただけでなく、ほとん
ど毎日ホワイト宛てにEメールや書簡を送った。
ホワイトの辞意は固かったが、しかしこの神経質な男は、政治家としては後
輩格にあたるエインスタインが、自分をもってこの連邦政府内でもっとも重要
な人物であるとして水も洩らさぬ配慮をしてくれていることについては満足し
ていた。
(エインスタインはわるい男ではない)
ホワイトはよろこびとともにそう思っている。この人物の性格はむずかしか
った。立ててくれなければむずかるし、立てられて責任ある地位に推戴(すい
たい)されても不快がるのである。
ホワイトは満足であった。
かれの日記の項にも、
「エインスタインより近況を報(しら)せてきた。巨細(こさい)となくこと
ごとく了承した。エインスタインのメールの内容によれば、移民評議会議長も
しばしばエインスタインを訪ねているらしい」
という意味のくだりがある。いかにも満足感のあふれた文章である。それに
評議会議長――ローナンを指す――がエインスタインのもとにせっせと足を運
んでいるという事実はホワイトの政治感覚をよろこばせた。ホワイトは連邦政
府の本拠が南米のジャブローに置かれているころ、各連邦軍将官・提督たちと
懇意だった現連邦政府議長(老木)とはきわめて仲がよかったが、そのジャブ
ローの機能移転計画を推進していた現移民問題評議会議長(ローナン・マーセ
ナス)はその老木の勢力とはまたちがう一派で、バウアーとはそのころから仲
がいい。そのバウアー寄りの評議会議長が、ホワイトを先輩格として立ててい
るエインスタインのもとに足を運んでいるというのは、評議会議長がバウアー
にてこずっている証拠であり、同時にその救援を元正規軍属出身者に求めてき
ているという証拠でもあった。
ローナンがようやく自信を得たのは、政治的休幕を演出した日から一週間ほ
ど経った頃である。
(ホワイトもバウアーも軟化した。政府中央議会に立つ気になったらしい)
という安堵が、ローナンを勢いづけた。バウアーもホワイトもたがいに相手
の名をあげ「彼が出れば自分も出る」と言い出すところまで態度をやわらげて
くれたのである。
――なかなか本審議がひらかれませぬな。
という意味のことをテリー・サンダースjr(連邦軍少尉)はアデナウアー
に言い、その心境を打診してみたのである。
――なにか裏で行われている、なにかが進行しているのではないでしょうか。
と、サンダースがさらにきくと、アデナウアーはいかにも官僚然とした態度
で、そういうことはない、あってよいものでもない、新部署を創設せずという
一件についてはすでに認可されているのだ、と言い、話題を断ち切ってしまっ
たのである。
この時期、エインスタインは昼夜となく駆けまわっている。
創設と反創設についてローナン・マーセナスに世界観をあたえ、事態に立ち
むかうための方針と方法をあたえ、さらには覚悟まで固めさせた。また政府中
央議会に出ることを頑(がん)として厭(いと)いつづける姿勢をとるジョン・
バウアーにその姿勢をくずさせ、さらにバウアーぎらいのホワイトをなだめ、
バウアーと手を組んでこの難にあたらせるようにした。
サンダースら反創設案派は、早朝、もしくは暮夜、車の音を鳴らしてかけま
わるこのエインスタインに目をつけるべきであった。しかしサンダースを中心
としたコジマ近辺の正規軍将校たちはたとえエインスタインのうごきに目をつ
けたとしても重視しなかったかもしれない。
そのエインスタインは、
(なんといっても現議長を動かさねば)
と、おもっている。
老木という、この現連邦政府議長という‘要職‘である立場上、許認可を左
右するこの人物を反アデナウアーに踏みきらせる必要があった。
もっとも、老木は踏みきる覚悟はついているし、それについてローナンとの
あいだに十分な意思疎通もあった。
しかし現実の老木の脚には重いチェーンがついていて、身動きがとれなかっ
た。なんといっても老木はこれよりさきアデナウアーに押しきられて「新部署
は創設せず」として新規の宇宙艦隊再建策を計画・推進する一件をとりまとめ、
それを認可というかたちで処理してしまっているのである。ただ「本審議にお
ける確定においてはローナン議員が参画し了承を得てから」という条件をつけ
ておいたのが辛うじての幸いだが、しかしその救いは老木の政治的責任まで軽
減するものにはならない。
やがて廊下に、人影があらわれた。足音が規則正しくつづき、老木は付添の
従者なしで部屋に入った(中略)
老木は、頭をさげた。どうみても、許認可権限をにぎる要人とはおもえない。
目のはやいエインスタインは、老木の両眼のふちにできているくまどりがさ
らに暗くなっていることに気づいた。ひどくやつれて見えた。
(今夜は、現議長の気を励ましてから意見を言わねばなるまい)
とエインスタインはおもい、かつてグリプス戦役終盤から第一次ネオジオン
抗争にかけてのころ、黒衣の女傑(ハマーン・カーン)が無類の政治的才子と
ニュータイプ能力を発揮して連邦勢力を圧倒したとき、たれもがこの女傑を怖
れ、ホワイトでさえ「いっそのこと要求を呑んだらどうだ」といった。
そういう時期に、表向きでは黒衣の女傑と協調路線をとっていた老木が意外
にも、
――アステロイド・ベルトの小娘に、なにほどのことができるか。あやつをひ
っぺがえし、骨抜きにしてくれる。
と言ったことがある。エインスタインはそのときの老木のてこでも動かない
気力をまた聞きで聞いていたので、その話をもちだした。
「政府議長の‘真実のお姿‘をみて、我らだけでなく多くの政府要人、正規軍
の者たちも大いに心を安んじたと存じます」
というと、それまで力の失せたような老木の両眼が、すこしばかり光を回復
した。
こんどは、アデナウアーが相手である。
あのときの黒衣の女傑はまだ公国軍系の影響力、軍事力を背景にし、自身の
強力なツールとしてのニュータイプ能力と鋭利な交渉力を持っていたが、エイ
ンスタインのみるところ、アデナウアーもまた(現下の情勢が多少ちがうにせ
よ)宇宙軍および地球軍といった正規軍勢力を背景にしているが、しかしあの
女傑ほどの才覚の回転力がないようにおもえる。ただ黒衣の女傑よりアデナウ
アーがまさっているのはその革新官僚としての答弁力と時勢をみる迎合力とい
う点であったが、あの当時の黒衣の女傑にはそれをはるかに上回るアクシズ・
ネオジオン副総帥(実質上の最高指導者)という、ザビ家一統に関連のあるひ
とびとや旧公国軍系列の者たちにとっては重大な影響をもたざるをえないかつ
ての栄光をせおっていた。
――議長は、女傑、いやあの小娘ですら怖れなかったお方ではありませんか。
一介の宇宙軍次官程度ごときが何でありましょう。
という意味のことをエインスタインがいったとき、エインスタインが予想し
たように老木の両眼に力がみなぎった。
ただ表情だけは、口をすぼめて、
「フフ……」
と笑ったきりである。
この夜、エインスタインが入れた智恵は、現連邦政府議長を蘇生させた。
老木は翌日、まだ暗いうちに起きると、バスルームに入りぬるま湯で身体を
清めた。
ローナン・マーセナスへEメールを送った(中略)
「ビンソン計画の発起より、宇宙軍再建、再編の序章が始まったと小生は考慮
する次第」
から、この長いEメールははじまる。一年戦争序盤の大惨禍を受け、当時の
地球連邦軍の宇宙艦隊再建計画――これが宇宙世紀始まって以来の本格的な大
再建計画であった――を最初の整備プロジェクトとして是認し、ヨハン・イブ
ラヒム・レビルが強力に推進したV作戦に触れていないところが、いかにも老
木らしい。
この本格的な宇宙艦隊大再建計画(ビンソン計画)というのは、一年戦争序
盤で失われた主力宇宙艦隊を短期間で再建しようという一大プロジェクトで、当
時レビルの信任を受けていた連邦軍中将マクファティ・ティアンムの提言によ
って推進され、結果的に一年戦争の勝利に貢献した(中略)
それがいまは戦時下でもなく、ティターンズのごとき‘軍閥‘の存在もすで
に過去のものとなっている今、現在の情勢に最も適合している‘一大プロジェ
クト‘をこそ推進するべきである、というのである。一年戦争時でこそ有効で
あった宇宙艦隊再建計画。アデナウアーはまさしくビンソン計画を過去と同じ
ようにやろうとしているのである。
ところがビンソン計画で再建された宇宙艦隊の稼動や、その進捗(しんちょ
く)状況は、他に利用された特別部隊の‘活躍‘もあったとはいえ、極めて計
画どおりに運用された。ふりかえっておもうと、
「大展開政策というが、揉み潰すべき大敵もいない大海原で大規模な艦隊が展
開しても、いたずらに経費がかさむのみで何の益もない。ましてや、いまだに
参謀府で作成中という新規計画の腹案も提出されていない」
という意味のことを老木はEメールに書く(中略)
すでにルナツーで定期的に行われているという演習や予算請求の意見書など
は、戦時にこそ有効であれ、いまは戦時下ではなく、平時に属するときである。
今こそ採られるべき真の策とは、いたずらにコストをかけず、かつての戦役で
功をあげたであろう多数の将校たちを‘再利用‘し、不安定となっている地球
圏の現状を静謐にもどすことではないのか。
それとも腹案を出さない肚(はら)は、自らをもって第二のジャミトフと任
ずる魂胆か。
あるいは、
「わが地球圏の静謐なることを目的とせず、一時の乱れを再燃させ、叛乱の誘
発を願っているのか」
と、老木は書く。第一次ネオジオン抗争は終結したとはいえ、宇宙のあちこ
ちで小規模ながらテロが横行し、反政府気分がウォーター・アイランドをはじ
めとする小コロニーでみちはじめている。その地球圏の政情不安を、むしろ旧
態依然とした軍拡で煽り、そのことによって生じた紛争で自らの地歩を固めよ
うとする魂胆か、と老木は書くのである。老木はこのことを、新興部隊案が審
議にのぼったとき、アデナウアーの目の前で堂々と問いただすべきであった。
「以上のことは、アデナウアー参謀次官より文書のかたちで意見を提出させる
べきである」
と、強い調子で述べるあたり、老木は日ごろのオポチュニズムの権化とは別
人のようであった。
ローナンは午前中にとどいたEメールを奥の部屋でひらいた。
読みすすむにつれて表情があかるくなり、鼓動の鳴るのをおぼえた。
(議長、でかした)
と、おもわざるをえない。老木は、アデナウアーによってその脚に取りつけ
られた重いチェーンを、どうやら断ち切る工夫を思いついたらしいのである。
(エインスタインが、議長にうまく取りついたな)
とおもった。老木の智恵ではないだろう。エインスタインが老木の背後にま
わってその手足を動かしはじめたようである。
老木は、ローナン宛のEメールにおいて、
「新規案は」
と、書く。参謀府から立案されるであろう新宇宙艦隊再建策のことである。
もっと具体的にいえばアデナウアー自身をさしていた。アデナウアー・パラヤ
参謀次官は宇宙軍省のみならず地球軍省その他多くの部署から公認された新規
案策定の総責任者として予算、ひいては連邦軍内の一翼を掌握する。しかしな
がらアデナウアーの新規案の内容は腹案すら出されていないほどまとまりを欠
く状態で、
「新規案は緊縮を目的とするものか。または緊縮ではなく積極展開を目的とす
るものか。或いはまた、宇宙の不穏分子どもを燻(いぶ)りだす紛争を誘発す
る手段として用いることを意図しているのか」
と、老木はそこを衝いている。内実はエインスタインの智恵であるにせよ、
アデナウアーの新宇宙艦隊再建策における政策案としての弱点をこれほどする
どく指摘したものはない。
ただ滑稽なことは、老木は政府中央議会の議長としてすでにアデナウアーの
案をぜんぶ呑んで認可してしまっている。あとになって急に居丈高になり、そ
れも当時ラサから離れていたローナンをつかまえて掻きくどいていることであ
り、愚直なまでの正直者といわれながらもこの現連邦政府議長には若い頃から
の悪しき‘オポチュニスト‘としての側面がいまだ強くでているのである。
さらに老木はいう。
――ひるがえって、現情勢下の地球圏において紛争が実際に大がかりになった
場合についての利害はどうか。
ジオニズムを奉じる者たちを一網打尽にできる、ダイクンの思想を破砕し、
さらなる管理運営強化が期待できるという意見もあるが、他に、被害ばかりで
汚染がすすみ、多くの資源(ここでは財政面だけでなく人的資源も含まれる)
を無駄に費消するだけだ、という意見もある、と老木はいう。さらに、
「双方を照らして、論議を尽くすことがなによりも肝心である。いまの状況は
すでに確定されている事項にあらず、と考慮するものである」
と、堂々の文章である。もし老木が、政府中央議会の議長として、第一回の
新興部隊案・審議のときにこれを開陳してアデナウアーの要請を蹴っていれば
事態はこうも紛糾しなかったにちがいない。
Eメールにおける老木の態度は、いじめられっ子に似ていた。強いローナン
にもたれかかろうとし、さらにそのローナンの背後にひかえているジョン・バ
ウアーに甘えようとしていた。
老木はいう。
「以上の議論は、くわしく論議するべきである。これほど大きな議題であると
いうのに、いまのようなあいまいな決定の仕方ではよくない。本審議への参画
メンバーは大いに議論を重ね、決議の上は一同がサインをなし、しかるのちに
安保会議(連邦安全保障会議を指す)にて決を得、さらには事は軍事上の重要
案件であるゆえ最高幕僚会議の決済も頂戴して不抜の政策とすべきである」
さらに、
「新規案では第二のティターンズにつながることのない、打開の可能性のある
案という話だが、それがただ単に過去の模倣にすぎないというようでは、これ
は政治家一個の政略で、連邦政府の政略ではない」
ローナンは奥の部屋で三たび内容を確認し、三度目に読みおわったとき小さ
くひざをたたき、
「これで陣容は整った」
と、あるいは一年戦争におけるオデッサ作戦の前にレビルが胸中ひそかに持
ったかもしれない勝利の予感を感じた。
「バウアーを重鎮格に」
という案以外に、創設案派がアデナウアーと対抗しうる方法はない。エイン
スタインはこのために奔走し、老木もローナンもホワイトもそれを切望した。
バウアーはダカール行きの前には連邦軍補給部門の長の地位にいた。もっと
も第一次ネオジオン抗争以前から事実上の長官職というべき影響力を行使して
いた部門でもあり、連邦軍全体の大動脈というべき要を押さえていることは、
あらゆる場面でかれに有利に働いた。その後、補給部門をストアストにあずけ
てダカールへ赴いた。ラサ帰還後もあずけっぱなしで、省庁にも出ていない。
「自分は決してもとの地位にはもどりません」
と、こんどのことでエインスタインが奔走しはじめた当初も、かれは動かな
かった。
しかし結局はバウアーは決断した。
(本審議に出よう)
と、決めた。ここ数日にかけてのことで、頭脳がエインスタインのように高
速で回転しないバウアーは、この足掛け3日間ゆるゆるとあらゆることを考え、
ほとんど夜もねむっていない。
バウアーにとって、次に考えられる方法はかれが抱く恐怖感情と無縁ではな
い。
――オポチュニストはおそろしい。
という、毒牙を眺めるような恐怖がある。オポチュニストには、一般的な政
治家(もっとも政治屋と揶揄される連中も多分にこれに該当するが)仲間で通
用している節義というものが通用しない(中略)
油断ならぬことは、あの現連邦政府議長――通称・老木――がすでにアデナ
ウアーを平然と裏切っている一事をみてもわかる。
もし、である。
ジョン・バウアーが、エインスタインの筋書きのとおりに老木・ローナンの
要請に乗っても、いざとなってアデナウアーのほうが強ければ老木・ローナン
はなだれを打って参謀次官方に付き、バウアーを置き捨てるかもしれない。
(老木・ローナンは、いざ本審議ともなればアデナウアーの威に圧せられて意
見を変えるかもしれない)
と、バウアーはおもっていた。とくに老木が、たったいま変貌した男だけに、
バウアーには不安であった。
そこでバウアーは証書をとろうと考えた。
「自分は補給部門長として、政府中央議会・本審議に出る。についてはお二方
とも、ご意見はどうあっても変わらないという一文を書いて、自分のもとに送
ってもらいたい」
と、バウアーは要求しようとおもった。
この3人会議の席上、バウアーは要求した。
この要求に対し、老木もローナン・マーセナスも、べつに顔を赤らめること
なく、「もっともなことだ」といって承知した。
3人会議が終わったあと、老木は自邸で草稿を書き、ローナンのもとに送っ
て添削を請うた。それらの往来があったのち、二人で同文のものをジョン・バ
ウアーに対して送りとどけた。
バウアーはそこまで入念に準備をした。
政治は平衡感覚であるということをエインスタインほど知っていた男はない。
かげの周旋役であるかれは、
(バウアー殿だけが重鎮格として高官の地位につかれるというのは、いかにも
細工めかしてよくない)
と思い、この同じような高官職にランク・キプロードンをくわえることにし
た。
ランクならば、かれ自身はスペースノイドとはいえ、たれも異存はない。
サイド6の首班(事実上の宰相といっていい)格として、ときの連邦政府お
よびジオン公国と外交面で渡り合い、安全保障条約の締結やキシリアを仲介と
した戦時中立を公国側に認めさせるなど、卓抜した政治手腕をもっているこの
男は現在連邦安全保障会議にも名を連ねている中央議員であり、さきごろは各
サイドの中でもサイド2と並んで不穏の動きが多くみられるサイド1に赴いて
各政庁間を調整し、政府がすすめる引き締め策を強力に推し進めた。その経歴
と現在の職位上、本審議に参画できるメンバーの一員になる資格を充分に有し
ており、さらにアデナウアーはこのサイド6に‘核の傘‘のもとでの平和を実
現したこのランク・キプロードンを畏敬していて、
「最高のリスクマネージャー」
と、よんでいる。
ランクはこの宇宙世紀の混沌期でもっともすぐれた政治家であり、アデナウ
アーはランクのその政務能力と‘政府要人らしさ‘に敬服していた。
(アデナウアーもよろこぶだろう)
という計算がエインスタインにあっただけでなく、ランク・キプロードンは
アデナウアーよりも早くから反創設案派(正確には‘第二のティターンズのご
とき‘組織をつくりだすことに大きな危惧を抱いていた)であった。かれは多
くのスペースノイド(アースノイドのなかにも多分にそういう存在はいるが)
がもっている反体制の気分や極端な急進主義者ではなかったが‘持てる側‘に
よる軍事的な解決や決着という手段をことさらに嫌う人物で、宇宙における現
状の小康状態に過敏に反応し、いたずらに事を過熱させて‘利を吸い上げる‘
どころか逆に負担を増大させる結果になってしまっては、政府の存続すらもあ
やうくなるという考えであった。このためにアデナウアーの「新部署は創設せ
ず。現状において推し進めるべきは新規案である」ということについては双手
(もろて)をあげて賛成していたのである。
要するに、ランクは反創設案派である。
ランクを本審議に参画させることはむしろ反創設案派の陣容を強化するに似
ているが、
(ランク程度ならば大したことはない)
という政治的計算がエインスタインにある。ランク・キプロードンは政府中
央議員となって以来、連邦側‘正義‘というのを自らの本義とし、政府に直接
関わる者としての公明正大さと透明性をもって政治的表現法としている。現在
のランクの政治力というのはそれのみで、サイド6時代のいわゆる寝わざを用
いたり、根まわしをしたり、徒党を組むといった行動はいやしくも政府中央議
会に立つ中央議員のなすべきことではないと思っている。エインスタインの、
――ランクは大したことはない。
というのは、そういうことであった。
一方、バウアーは、ランク・キプロードンの昇格をエインスタインからきい
てむしろよろこんだ。バウアーにとってもランクは畏友(いゆう)で、ランク
への尊敬心の深さはアデナウアーにおとらない。
さらにこの件については、老木からアデナウアーに対し内意をうかがうEメ
ールがとどけられている。
「何の異存もございません」
と、アデナウアーはややそっけない返信をかえしている。
アデナウアーにとってはランクが本審議の参画メンバーになろうがなるまい
が、どっちでもよかった。すでに確定している自分の新規案の具現化とそれに
関わる予算承認のみが、かれの関心事であった。
ところが老木は、
――いっそエインスタインも本審議に参画できるようにしてはどうか。
と、思い立ったのである(中略)
老木にすれば、肝心の本審議が心配であった。老木は現状の創設案派の内情
に暗く、バウアーの凄みをよく知らなかった。バウアーが単独でアデナウアー
ら反創設案派の高官たちをむこうにまわしてそれをしりぞけることができるか、
となると、きわめて不安であった。それよりもエインスタインを頼りにした。
エインスタインがアデナウアーを制すべく数々の対策をした手腕のみごとさを、
老木はまざまざと知った。エインスタインがメンバーの一員となって本審議の
席に出ればアデナウアーの封じこめなどは苦もなくやってくれるだろうと老木
はおもったのである。
これについては、ローナンも賛成した。
しかしバウアーは賛成しなかった(中略)
戦略的にいっても、エインスタインをメンバーの一員に正式に加えることは
敵をして警戒せしめるのみで、奇襲をかけるときにわざわざ音をたてて敵に有
力な情報を送ってやるようなものだった。バウアーは戦う以上、雑音を欲しな
かった。エインスタインの参画は雑音にすぎない。バウアーはすでに死を決し
ており、本審議において単独で戦い、しかも単独で勝つという工夫も重ねてい
た。