>>894 ほら全文
ファティマを嫌悪する
富野由悠季
永野護の事についていえば、まだ基本的な記憶がボケていないと思えるので、
自分の作品資料の反古帳をひっくりかえすようなことはしない。
作品とか作者についての勘所を考えることに役に立つものではないからだ。
そんなことは、評論家と卒業論文を書く学生に任せればいいのだし、
事実関係は、本文で著作者が書いている事で、まちがいがない。むしろ、
小生が忘れている事を書いてくれていて、改めて納得している。
小生が、ファティマを嫌悪する理由については、
本文中のスノビズム的なネクロフィリア、フェテイシズム、
ナルシズム的フリークスな感覚を凝縮したものである、とも書かれているから、補足する必要もない。
そのフィロソフィ(あえてこう表現しておく)で、武装しなければならない永野護の問題は、
彼個人のものなのか、世代の問題なのかわからないのだが、基本的には、そのような武装は、
世間に見せるものではなく、個の問題として封じ込めておかなければならないものだ、
という小生の信念を逆撫でするものだから、彼の表現を嫌悪するのである。
その種のフィーリングが、アートの中に封じ込められているのは許すし、
アートとはそのような要素をト分に内在させたものであって然るべきものだから、
そのようなものを見たり触ったりする事は、嫌いではない。
しかし、アニメという世界とイラストに代表される媒体にあっては(殊にTV というマスメディアにおいては)、
そのような香りは気ほども出してはならないというタブーを自己に課しているのが、小生である。
それでも、『エルガイム』の企画が始まった時に、周囲のかなり根強い反対を押し切ってまで、
彼のキャラクターとメカニック・デザインを採用したのは、アニメのスタッフたちが、怠惰だからで、
同じ穴のムジナ同士の仕事はわかっていても、
それ以外の仕事のレべルを洞察することができないクリエーターではないからなのだ。
そんな連中の判断などは無視すると覚悟して、それが押し通せるとうぬぼれられた立場でもあったから、
永野採用ができたのである。
新しい才能を採用しないと危険なのだというのが、ソフトを提供する側の感覚なのであるが、
小生について言えば、すでに、ダンバインまでで自分のクリエイティブなものは出し切ってしまっていると感じたので、
永野護という新しい才能を採用させることを決定させたという要素もあった。
結論を先に言えば、そのような感覚を持った製作者がいなくなれば、現今のように似たような
アニメの乱立になってしまった現状が証明しているし、永野以後の新しい才能は、アニメからは出ていない。
小生のクリエイトな感覚の発露は、『 ダンバイン]で終了していたと直感しながらも、それでも、
現場の仕事に組み込んできた永野護には、態惣無礼な奴だと感じた。
彼は、小生の『 エルガイム]のペンタゴナ・ワールドという設定にない
ファティマの原形であるキャラクターをへビーメタルのキャラクター・シートに執拗に書き込んできたからだ。
こちらは、自分の設定にとっては余分な彼の設定を、永野の初稿に否定却下する指令を出しては、
第二稿なり最終稿を描かせていった、という記憶がある。
それは、当初から続いていたことで、このことは、永野の創作のスタンスが、
ぼく(感情的になっていくので、小生という表現はやめる)のものとは根木的に違い、
彼は、一個のクリエイターであると判読もできた。
しかし、彼が提示するものは、本来、アンダーグラウンドに封じ込めておくべきもので、
マスメディアに露出させてはならないものなのである。
そこに、ソフト提供者側の倫理とでもいうべきものがあるのだ、
ということを永野にわかってもらいたかったために、
ファティマの原形が書き込まれたキャラクター・シートを否定し続けてきた。