Z映画化するし富野とZZの真の関係を解き明かそうぜ
富野 〜前略)
だからアムロやシャアは、ある一方の主人公とまでは言わないまでも、
キャラクターとして存在していたわけですし、
その中でも年齢を追っかけた大河ドラマにしていくしかないんだという覚悟があったから、
『Ζ』はそれなりに頑張れた。
だけれども、ご存知の通り『機動戦士ガンダムΖΖ』の企画は何なのか。
作り手と作品との関係を見ることの出来ないプロダクションの経営サイドは、
「『Ζ』は結構行けてるじゃないか。だから来年も『ガンダム』をやるよ」と。
そういうことが『Ζ』をやってる真ん中ぐらいで決まっちゃったんですよ。
こいつらふざけてるんじゃないかと思った。
こちらはかなり疲れてきたという自覚症状がある中で、頑張って『Ζ』を作ったのに、
続けて「ガンダム」を出来るわけないだろう。
だけど、「このビジネスフィールドを維持するためには、また『ガンダム』がいるんだよ、富野ちゃん」と言ったのは山浦氏なんですよ。
「だったら『ガンダム』ならなんでもいいのか」 「いい」 「だったら『ΖΖ』でもいいか」
という話にどんどんなっていって「いいんじゃないの」と、こうですよ。
― 『ΖΖ』は、ハマーン・カーンの寿命が無理矢理延ばされたような気がしますが。
富野 全くそうです。
物語を作る上での、本当の意味でのモチベーションというのは何ひとつなくて、
パート3でもないという精神土壌で、まさにビジネスラインに乗っかったものになっていった時に、
「じゃあ、もうこんなものでやるしかないよ」ということで、
『Ζ』が終わらないうちから企画が始まったわけです。
企画でパタパタやってって、なおかつ『ΖΖ』を4クールやってしまったわけですから、
物語のどこかが薄くなっているのは当たり前じゃないですか。
だから『ΖΖ』のキャスティングを決めた瞬間、申し訳ないなと思いました。
このキャラクターでいっても、声優さんに得させることなんて何ひとつもない。
だけどどうしようもないし、かといって途中降板なんてしたくなかった。
だから『ΖΖ』の記憶というのはないんですよ。
― 『ΖΖ』がもし存在しなかったとしても、
カミーユは『Ζ』でああいう悲劇的な結末を迎える予定だったのでしょうか?
富野 もちろん。
先代の華々しいヒーローとヒロインがいて、その次を受けて立つ次世代の、
団塊の世代の物語なんだから。
そんなのは、もう一番始めに決まってます。
― 『ΖΖ』のラストでカミーユが復活したことを思い出したので、
いくら何でもそれはないんじゃないかという気が、観た当時はしたのですが。
富野 『ΖΖ』にそういう部分もあるのは、本当に無責任だったんですよ。
ビックリ箱をやるしかないよねと思って、
ここまでやればいくら何でもサンライズの経営者もわかってくれるだろうとほのかに思ったんだけれども、
僕が馬鹿だったんですね。