あとがき
小生のなかで∀ガンダムは、数多くあるガンダム・サーガの最終章にあたるものであります。
それに相応しいものであったと今でも自負しておりますし、またそれゆえに続編という声を忌避しているのであります。
小生がガンダムをつくることは最早ないというのは事実です。だが、それは哀しむべきことではないということもまた事実です。
新しい監督が新しいガンダムを作るのをみるのは小生にとっては辛いですが、諸君らにとっては幸いでないかと思うからであります。
作品の解題に入ります。
まず諸君らに改めて認識していただきたいのが、ロランにとってディアナ・ソレルの存在とは単なる女性であったり、
現在のグレートブリテンに存在しているような女王ではないということです。
彼らムーンレースにとってはそれは、母性の象徴であり、あこがれる地球と同一のものであるのです。神的存在であり、アニミズム的であるのです。
黄金の秋の最後から、彼に恋愛感情はあったのかという疑問を生じるのは結構でありますが、それは安直な思考だといわざるをえません。
人はそれほど単純ではないからです。感情と言うのはもっと様々な要素をはらみ構築されているからです。
たとえ自分の感情であったとしても、理解できたと思うのは大部分、錯覚であります。それが哀しみを産むのは有史のとうりであります
ただ、もしも恋愛感情がなければロランが不幸であると考えるのであれば、その痩せた考えが不幸だと小生は言い返すでしょう。
キエルについても同様です。彼女は決して気の毒では在りませんし、ハリーもまたそうであります。
別人をディアナと思って信じているムーンレースについても彼らはあれでいいのです。彼らにとってディアナはやはり記号的なのですから。
ソシエについては小生はなんの心配もしていません。彼女は新しい恋をみつけることはターンAのなかで明示されているからです。
ただ、作品と言うものが監督だけでなくスタッフ全員のものでありますので、これらは単なる一つの意見だと考えてくださって結構です。
考える余地のないほど完結した作品というのは息が詰まるだけであると考えているからであります。
だからこそ、今回、最終回における続きとしては私的にこの作品を書きました。これは小生の個人的な見解であり、完全なファンサービスであります。
当初はターンAとターンXの過去の対決にしようと考えてたのですが、
>>295でキエルのその後が知りたいということでしたので、考えた結果、
月の繭という歌の舞台を構築して、そのなかにいれることにしました。発表媒体に雑誌という形態をとっている以上、読者は大切だからです。
最後にもう一つ。
この作品は、よく読めばわかりますが、それぞれの人物の属している季節、時間は異なっています。
一つ例をいうとディアナのシーンと、キエルのシーンでは時の差異はかなりのものがあるのです。しかし、歌は同時的なのです。
その意味を推察してくれれば小生もこの作品を書いた意味があったのだろうと思います。
また作品の性質上やや小生の普段の文体を崩しています。ゆえに、今回は作詞家である井萩の作品だと感じていただければ幸いであります。
ちなみにこの原稿を執筆の最中に、何度小生が黄金の秋を見返し、月の繭を聞いたかは想像にまかせたいと思います。
最後に、小生がもうこの雑誌に何かを書くことはありませんが、最終号まで読んでいただければ、感謝の言葉もない次第であります。
平成16年 冨野 田悠季