★★ ゼロから語る 機動戦士Zガンダム Part12★★

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「Z」で語られるニュータイプは、個としての自分と対決する人です
富野由悠季

『地球の重力に魂をとらわれているかぎり、ニュータイプにはなれない』
 この言葉を思いついたのは、去年の9月頃でした。
人間はどうしてニュータイプになれないのか…と考えていたら、これしか思いつかなかったんです。
その原因は、命を産み出す場所に重力があったから。
命というのは、結果的に生まれた場所に支配されてしまうのではないか。
以前「イデオン」や「ダンバイン」で因果律や輪廻の有様を考えていたときから、漠然と思いつづけてきたんですね。
「ガンダム」の場合には、それを重力という表現でとらえられる形にしていきたかった。
今後バイストン・ウェルでやろうとしていたことを出していきたいし、そのためにはひとつのテーゼとなる言葉を発見したかったわけです。
この言葉で「Z」以後の「ガンダム」の物語の全てが決まってゆくでしょう。
 前作では観念的に描くだけですんだニュータイプ。
今度はその存在そのものを描いていかなければならない。
ニュータイプがどういうかたちで存在しうるのか……その過程をおっくうがらずに描いていくしかないんです。
そうしなければ、「イデオン」や「ダンバイン」で未完に終わっているものまで永遠に未完のままにしてしまいかねない。
そこで描こうとしたことを、ニュータイプという表し方で、いかに存在しうるのか、しえないのかを、物語世界の中で見極めるような話を作っていきたいんです。
 ニュータイプを描くからといって、ニュータイプを生物学的に見る気は、全くありません。
所詮は『悟り』が開ける人ということなんです。
SFによくある描き方でいえば、「ニュータイプの能力論」みたいな展開は、回避していきたい。
もっと自分たちの生き方に密着した現実的な有様としてとらえていきたい。
そのためには「Z」が"パート2もの"であろうがなかろうが、成功させたいな……と最近思うようになりました。
昨年11月の記者会見の時は、もう少し業務レベルだったんですけどね。
以前のように押し着せで「Z」をやる……という気分ではない。
1クール分のストーリーを転がしてみて、それが読めてきましたので、当初の予定どおり4クールという時間をいただきたいんです。
ただ、今の段階だと1クール打ち切りじゃないのかな(笑)。
なぜかというと、こういうことです。
今年「Zガンダム」をやらなければいけないと思っている大人たちの事情だけで作品を作ったら、これはヒンシュクを買って終わるしかない。
そういう基本的な「Zガンダム」を作るうえでの事情がクリアされていませんからね。
僕はむしろ、大人たちの願望が強ければ強いほど、打ちきりは早いと思う。
「重力に魂を引かれた人々」というのは作品の過中の人たちに対しての言葉だけではない……というのが、ここにもある。
こういう現実が、イコール「Z」の世界じゃないのかな。
でも作品を作る環境を与えてくれているのも間違いなく大人たちだし、そのへんで内心忸怩たるものがあるんですよね。
最近、スペースシャトルの船外活動中、シャトルとの通信が途絶した宇宙飛行士が『神の存在を感じた』という談話をしていましたね。
旧作のころから「ガンダム」には似たようなシチュエーションが出ています。
でも、僕はそれを想像で描いたんじゃない。現実なんです。
つまり、圧倒的な量の時間と空間というものを現実的な感覚で知覚することができれば、それは私達が表現できる言葉のなかでは「神」というしかないでしょう。
そういう感応の仕方はあたりまえのことなんです。
アニメの世界では簡単に宇宙、宇宙と言っちゃうけど、ウソ八百でしてね。
本当に無限大の空間が持っている重さというのは、地球上では感知できないんです。
地球にいれば、ソファだの椅子だのの中に身を置いて、人は安心しちゃう。
でも宇宙の中で、自分というものを感じてしまったら、自分の中の主体性を見つめるしかない。
まさに自分と対峙しなければならない。
そのとき『ああ自分に何ができるんだろう。ひょっとしたらこのまま死んでいくかもしれない……』という思いが、浮かび上がってくる。
もうこのまま死んでいってもいい……と思ったり、いや、やはり絶対に死ねない! 生き延びてやる……と思ったり。
つまりどちらにしろ絶対的に個の問題でしか考えられないんですよ。
ほんとうに個の問題を、われわれが常に見つめることができるなら、みんながニュータイプになれるかもしれないんです。
残念なことに、現実の生活の中ではドベーっと寝転がったりできるから、何となく明日まで時間がたっちゃう。
自分と対決する機会がまるでないわけ。
だから、宇宙飛行士たちが宇宙に出て、黒ベタの中に自分たちのすんでいる地球の全景を見たりしたら……たまらないだろうね。
『なんだ、オレはこんな美しい……けれど虚空に頼りなく浮かんでいる玉みたいなものの上にいるのか』それは足がかりのない虚無感なんですよね。
理論的には、そこに自分が生きてきた天体があるというのはわかる。
でも生理としては絶対にわかるわけはないんです。
ノーマルスーツやMMU(船外活動用のバーニア)しか着けずに宇宙に出たら、観念として自分の存在を支えてくれる神の手のようなものを想定しないと、発狂しますよ。
発狂しないで、虚無の中でこの存在が自分の厳然たる存在とわかる人間は、かなり強靭だと思います。
そういう人間ならば、そうした精神の反応を、宇宙空間だけでなく地球に降りてからも、ずっと持続することができるメンタリティを持てる。これは一般人とは違ってくる。
 でも、この気分は地球でも体験できます。
『悟り』の境地に至ったときの気分は宇宙遊泳に近いんじゃないかと想像しているんです。
地球の中で恣意的にやるからそうなる。
虚無感や恐怖感で引き出される宇宙での体験とは微妙に異なりますが、それを同一線上に並べられる人がニュータイプなのでしょう。
今までに、われわれが地球上で得られなかった精神的な感応以上のものを、きっと手にいれることができます。今後そうしなければなりません。
 一番簡単な例を出すと『戦争』という言葉を聞いただけで無差別的に拒否反応を示す自称・反戦主義の人がいるでしょ? そういう人に僕はひとつたずねたい。
もしほんとうの闘争がない時間を一人の人間の一生に与えたとき、その人間は向上するのか!? 
向上しないで生きていけるんですよ、ドベーとしてるだけですむんだから。
そんな人間が恋愛をして結婚して子供をつくって、仕事をこなし(ひょっとすると仕事をしなくてもいい世界かもしれないけれど)、
なおかつ、子供から嫌がられない老人になって安らかに死んでいける一生を送れますか? 
それができる人間がいたら教えてほしい。
そんな人畜無害の「天国」で、人は生あるものとして十全たる形で生きていくことができるのか。
私たちは戦いがあるから、むしろ優しく生きられるんです。
 でもいつか、戦いを媒体としないで、個としての自分と対決できるニュータイプに、人は進化していかなければならないんじゃないか。
僕は絶対に人間はそれができると思っています。
そのために何をしなければいけないか。
宇宙生活者(スペースノイド)になるという環境と刺激を手に入れて、新しい生き方を選択せざるをえなくなってくるでしょう。
そこが、ニュータイプを考えていくうえで一番重要なことだと思うんです。
アムロの場合も、宇宙に放り出された感覚と似ていて、いきなり自分の周囲を過酷な状況に囲まれた、その重圧を受けとめる……という設定でした。
カミーユは自分で過酷な状況をこしらえてしまう。この差は、設定の持っている年齢差です。
アムロの場合、スポンサー用に15歳にして、18・19の気分で描こうとしました。
けれど変なもので、やはり最初の年齢に引っぱられてほんとうの18歳になってくれないんです。
今回は初期設定の段階からウソをつかないで書いている。
僕の中の青年になりかけの17歳の気分は、あのくらい傍若無人であり身勝手でかまわない。
そういう面の見えない若い人は嫌いです。最低でもカミーユ程度であってほしいな。
主人公のパターンになりすぎてウソをつきたくないので、今回のカミーユでその点は変えていきたい。普通の17歳にしたいんです。
女の名前にコンプレックスを持つなんて、非常に自分勝手なことですよ。けっしていいことだとは思わない。
けれど思春期には、そんな勝手な思いこみがありますよね。それがいい方向に化けていくなら、そういう誤解や思いこみがあっていい。あってあたりまえなんです。
むしろ、そういう感性を、上手におためごかしにチャラッと扱っちゃう若い人たちの大人ぶった感覚のほうが、僕はよほどウソだと思う。
だからカミーユの表れ方は、嫌いじゃない。でも、まだヒネて見えないんだよね。
もっと恥ずかしいくらいギクシャクするようなことが起こるかもしれない。
あの年代の誤解や偏見が悪い方向に転ぶかいい方向に転ぶかを、カミーユはこの数年で体験する。
これは高校・大学生の一番のテーマであるはずなんですよ。
それが「Z」で描けたらいいし、青春物語のフィーリングを手に入れたいですね。
カミーユを通して、もう1度思春期というものを自分自身の中で見直していけたら……と思います。
 カミーユは当初、アーガマの大人たちの中にポツンと置かれた状況になりますが、そう長くは続けません。わかりにくいからです。
11話でブライトをアーガマの艦長にするのをはじめ、ブリッジ要員も(かつてのホワイトベースほどではないにしろティーン・エイジャーの)集まりに近い気分まで下げます。
キャラ・デザインの安彦君も年齢を上げすぎたのに気がついて、下げる段取りを踏んでくれましたので、11話以降はアニメ的に見やすくなるでしょう。
それまではアニメを作る気が全然なかったから、マズいんだよね(笑)。
 若いクルーが参加してくるのにからめると、かつてのカツ・レツ・キッカの3人のうち、カツが2クールまでにエゥーゴに介入してきます。
カツがアムロの2番手になってくる。
なぜかというと、物語を見ていない段階では、ファンはカミーユをアムロの2番手だと思っているみたいだけど、今日のお話で出ているように本質的に違うキャラクターなんです。
かといってアムロと同じ人物を出すわけにはいかないので、アムロの明確なアンチテーゼになるように、カツを描いてみたい。
そこにシャアを先輩とするカミーユが、ニュータイプをどうとらえるか。
どちらがニュータイプとしてほんとうに飽和してゆくのか……。
物語が3クール以後の一番の興味になってゆくでしょう。
一方、ティターンズに加担するニュータイプとしてハーマン・カーンとシロッコというキャラクターが登場してきます。
ニュータイプが「重力に魂を引かれた人人」に利用されるのは不思議ですか? それは甘い。
だって現段階でのニュータイプは理想型ではないからです。ほんとうのニュータイプかどうかもわからない。
所詮は「Zガンダム」の時代で使われている言葉に過ぎませんからね。
ニュータイプが目指すべきものとは違うものが出て来る事も、ありえます。
ハーマンやシロッコがどういう登場をするかはわかりませんが、シロッコにしろ、自分がニュータイプと確信すれば、ティターンズを乗っ取ろうというアクションを起こすかもしれない。
むしろ、ニュータイプが道具になってしまっている……というかつての「ガンダム」でのララァの描かれ方が、よりグレードを上げて敵対行為者として出てくるのかもしれない。
そういう物語をやらねばならないのが「Zガンダム」の世界です。怖い事ですが、当然ですよね。
「Z」では舞台背景も複雑化しています。
例えばエゥーゴのブレックス准将は、何処から反連邦政府の資金を得ているか。
連邦政府自体から出ています。かすめ取っているんです。
今の大企業……たとえばIBMひとつとっても、小国の国家予算など比ではないほどの利潤を出している。
そういう部分で、エゥーゴに(目的は知らないけれど)加担する勢力があるのは不思議ではないんです。
むしろ地球再建にからめて国家予算が大量に動いている。
それを地球レベルでコントロールしているのは一国家の単位であるわけがない。戦艦一・二隻作る金はどこからでも動かせますしね。
もうひとつ面倒なのは、地球連邦政府というベースに、かつてのジオン軍のベースが入りこんでしまっている。
組織というよりシステムが温存されている状態です。
だから、エゥーゴにしろティターンズにしろ、われわれが想像する以上に、地球連邦のシビリアン・コントロールの枠をはずれて、軍が動き出す可能性は大きいんです。
その辺が従来のアニメのレベルでの物語に出てこなかった構造でしょう。
子供には少しわかりづらい展開もあるかもしれない。
でも、「Z」以後の「ガンダム」の世界で行なわれる社会の図式を、大人になってからわかってもらえればいいんです。
ある意味での組織論・国家論 それから、戦争の発端論みたいなことを……考えてくれとは言いませんが、漠然と感じるきっかけになるんじゃないか。なってくれればいいな……と思います。
ものを考える訓練、事態のつながりを認識する訓練をしてほしい。
さきほどの反戦運動にしろ、ほんとうに戦争をなくしたいなら(僕自身も反戦大賛成です)どういう市民運動を展開すべきか、考えてほしいんです。
(2月7日)